05.蟻さんは別人
僕が蟻たちの巣にお世話になってから五日目。ついに杖を突きながらも、一人で歩くこ
とが出来るようになった。明日にはほぼ治るだろう。本当に魔法の薬様々だ。
しかし、今日は朝からどうも騒がしい。朝の食事を持ってきてくれたトーコは毎回して
いる僕への誘惑をせずにさっさと部屋を出て行ってしまうし、外では蟻の走る音がひっき
りなしに聞こえてくる。何かあったのだろうか。
根性で芋を胃袋へ収め、外へ出て誰かに事情を聞いてみようと半分立ち上がりかけたそ
の時。一人の蟻が、部屋へと滑り込むようにして入ってきた。
横一直線にカットされた、長めのおかっぱ髪の蟻だ。前髪は特に長く、目を半分ほど覆
い隠している。僕に背を向けて扉を閉めると、へたり込むように甲殻の足を畳んでその場
に座り込んだ。見たことがない子だ。
「君は……誰? 初めて見る顔だね」
なるべく気さくな雰囲気を心がけたつもりだったが、僕の声を聞くと彼女は文字通り飛び
上がってこちらを振り向いた。目元はよく見えないが、焦りと怯えの雰囲気が感じ取れる。
彼女は頭だけを前に伸ばして僕を凝視し、それから右手で前髪を少し上げて改めて僕を
見た。少しの間を置いて、安堵のため息を洩らす。
「わ、わた、私は、ありす、です。あ、あなた、レイ、君?」
彼女の言葉は辿々しく間を空けながらのものだったが、それでも聞き取れないほどではな
い。
「うん、そうだよ。僕がレイ。所で僕は数日前からここにいるんだけど……えっと、アリ
スとは初めてだよね」
そう言って自己紹介ついでに彼女のことを観察するが、どうにも違和感を感じる。しかし
それを上手く形に出来ず、ただもやもやするだけだ。
「あ、あの、私、ちょっと、出張、してました。今朝、やっと、戻った、のです」
「へー、そうなんだ」
アリスは言うやいなや、トコトコとこちらへ歩み寄って僕の横へ座り込んだ。定位置に座
っている僕に上半身を寄せると、ただにこにこと笑っている。
「うふふ、レイ君……かわいい」
「あ、そ、そう。それはどうも」
なんか違う! 具体的な言葉には出来ないけど、何かが他の蟻たちと違う!
表情は平静を装いつつも内心違和感に戸惑っていると、アリスが右手を僕の太股へと這
わせた。つつーっと指を滑らせ、僕の股間を撫でる。
「ね、レイ君……」
「え、いや、ア、アリス? 君は仕事しなくていいの……? 他の皆は朝から仕事してる
けど」
「私は、さ、昨晩も、歩き詰め、でした、から……疲れて、むらむら、コッツンコ?」
あ、なんかここはそれっぽい。
意外にも積極的なアリスに流されるままそれっぽいムードになりかけていたが、それも
突然鳴り響くドアのノック音でかき消された。ノックの直後、息も荒く飛び込んでくる一
人の蟻。いつも眠そうな半眼とセミロングの、ココノだ。
「レイ君、大丈夫?」
「えっ、大丈夫って、何が?」
飛び込んでくるなりのココノの一言に、戸惑いを隠せない。しかし、ココノは僕より先に
アリスのことが気になったようだった。
「お前、誰?」
えっ?
僕の疑問が口に出るより先に、アリスが勢いよく返事をした。
「私のこと忘れちゃったの? ちょっと、ひどいです」
「……えっと、ナナ?」
「ああよかった、ちゃんと分かってくれた」
「なんだナナか。雰囲気変わったから気づかなかった。レイ君の監視をしてるんだね。こ
のまま続けてて」
うん?
「えっと、その、ココノ?」
「ごめんレイ君。今巣の中にアントアラクネが入ってきたみたいで、巣中大騒ぎなんだ。
あれにばれたら困るから、暫くこの部屋でじっとしていてね。それじゃ私はこれで」
僕の言葉もろくに聞く余裕が無いようで、あっという間にココノは部屋を出て行った。
ばっ。勢いよく横のアリスへ顔を向ける。全く同じタイミングで、彼女も僕から顔をそ
らした。
「……」
「……」
部屋の中に、気まずい沈黙が漂う。僕はアリスの頭から視線を下へずらして、彼女の服、
彼女の他の蟻たちとは違う意外なほどに豊かな胸の膨らみ、それから彼女の甲殻の足に目
を向けた。
そこには、縮こまるようにして畳まれた短い四対目の足。ジャイアントアントには無く
て、アラクネにはあるもの。違和感の正体。
「えーっと……アリス?」
恐る恐るアリスに呼びかけると、彼女は素早くこちらへ振り向いて僕の首に両手を絡めた。
至近距離で見た彼女の顔。前髪の向こう、彼女の額に、アラクネ特有とおぼしき複眼が見
え隠れしている。そして彼女の唇が眼前に迫り……激しいノックの音ですぐに手を離した。
「レイ君! 大丈夫?」
やって来たのはナナだ。やはり彼女も息が荒く、そして僕より先にアリスに目が行ったよ
うだった。
「あのさ、ナナ……」
「あなた、誰ですか?」
「ココノだよ、妹の顔を忘れたの……?」
「あの……」
「あっ、ココノちゃん! ごめんね、私慌ててたから……」
「いや……いいよ」
「じゃあココノちゃん、レイ君のこと見ててあげてください。私はこのまま巣に入ってき
たアントアラクネを探しますから、それではレイ君、また!」
……。
「続き……しよ?」
ばたん。
「レイ君! あれ? 君は」
「ナナです」
「そっかナナか。じゃあよろしくね」
ばたん。
「続き……」
ばたん、レイ君、君は、そっか、よろしく、ばたん。
「……」
僕は無言で眉間に指を当て、歯を食いしばって俯いた。
あほなのか。
ジャイアントアントたちはみんなあほなのか。
アリスは最早自身が蟻の仲間ではないということを僕に隠す気は無いようで、扉を糸で
がっちりと固め始めている。僕はそれを、呆れ顔で眺めるだけだ。
それでも扉はひっきりなしにノックされ、その度に扉ごしにアリスは蟻の誰かの名を騙
っては追い返していく。扉が開かなくなってからも、誰一人疑おうとしない。
「あのさ……アリスはどうしてここの巣に?」
僕が問いかけると、アリスは扉を固める作業を続けながらつらつらと語り始めた。
「アラクネットワーク……シンシアお姉さまから……ここの巣に……男が来たって……聞
いた。だから……あっ! アイだよ! 今レイ君を守る為に扉に鍵かけてるの! レイ君
は無事だから安心して! それじゃ! ……だから、ちょっとつまみ食いして……具合が
よければ……お嫁さんに……なりに……来た」
「あ……そ、そう」
アラクネットワーク。アラクネットワークって何だ。シンシアお姉さまというのは昨日の
アラクネだろうか。
あまりにも突っ込み所が多過ぎて、何から言えばいいのか分からない。頭が痛くなって
きた。僕が頭を抱えている横で、再び扉越しにアリスと蟻の問答が始まる。
「おーい、扉の向こうー、大丈夫かー」
「あ、私私、ココノだよ。今レイ君守る為に扉に鍵閉めてるだけで大丈夫だから、心配し
ないで」
「えっ、ココノは私だけど」
「……間違えた! ナナナナ、私、ナナだよ! だから任せてココノ!」
「そっかナナか、じゃあ任せたよナナ」
「……けよっ……」
「うん? レイ君?」
「気付けよおおおおっっ!」
「えっ、なにが」
「ココノさあ君これで四回目だよねぇ! その度監視役の名前変わってて変だと思わなか
ったのっ! しかも扉が糸で固定されてから最初はフィー、今度はナナで中の人変わって
るのに全く違和感抱いてないし! なんなの? ジャイアントアントはアントアラクネの
言葉を疑えない魔法でもかかってるの? 巣全体で僕を巻き込んで壮大なコントでもして
るの? 僕に一体どうしろっていうんだよーっ!」
アリスが慌てて止めようとするも、時すでに遅し。僕の全力の突っ込みを聞いたココノが、
扉の向こうで叫ぶ。
「そーいーん! アントアラクネがいたぞーっ! レイ君の部屋だーっ!」
半泣きのアリスに襟を掴まれ揺さぶられながら、僕は晴れやかな開放感と共に蟻たちが集
結する足音を聞いていた。
: :
僕の部屋。そこにいつものように蟻たち全員が集まり、離れた場所にはしょぼくれた顔
で俯いて座っているアリス。虫の下半身では正座とはいかないものの、雰囲気的にはそん
な感じの縮こまり方だ。前髪はヘアピンのようなもので強引に持ち上げられ、隠されてい
た複眼が完全に露出している。
僕はその隣で、同じように座って俯いている。僕も足の具合を鑑みて正座は許されたが、
蟻たちの糾弾を受ける立場なのはアリスと変わらない。
「いやあ、やってくれたね? アリスちゃん?」
「す、すいませ、ほんの、出来心、で……」
トーコが先頭に立ち、精一杯偉そうな顔を装い腕を組んでアリスのことを見下ろしている。
アリスはトーコに名前を呼ばれると、ごく小さな悲鳴をあげて更に縮こまった。
「まさか我々ジャイアントアントを出し抜こうとするとは、大きく出たものですね」
トーコの脇でそう言ったのはナナ。かけてもいない眼鏡をくいっと上げる素振りをして、
同じように冷たい表情でアリスを見下ろしている。
「ちょ、ちょっと皆。そんな責めなくても」
「レイ君はちょっと黙っていてください。あなたも今回罰される立場なんですよ?」
やはり真剣な顔をしているフィーに静かな威圧感で圧され、僕も言葉半ばで黙ってしまう。
小さくため息をついて俯き、自分の身体をじっと見つめた。服がはだけられ、あられもな
い姿の僕の胸元。
あの後扉の前に集合した蟻たちが糸で固められた扉を蹴破るまでの間、半狂乱になった
アリスは最後の抵抗として僕に「そういうこと」をしようとし始めたのだ。扉を破ったそ
の時、蟻たちの目前にあったのは上半身裸の僕と、その僕を押し倒して胸にキスをしてい
るアリスの姿。
そしてアリスは蟻たちに囲まれ、僕も横で同じように座らされている。僕の罪状は、ア
ントアラクネの存在に気付いていながらも報告を怠った罪。
「さて、この泥棒猫……いえ、泥棒蜘蛛はどうしましょうか」
ナナがそう言った瞬間、後ろの蟻たちが大声で叫んだ。
「吊るせ!」
「いつもクモには吊るされているんだ! こいつも吊るそう!」
「吊るしていい感じに乾燥させよう! そしてうま味を凝縮させよう!」
「吊るしてあのクモに見せつけてやるんだ!」
「吊るせ! 吊るせ! 吊るせ!」
蟻たちの叫び声はやがてシュプレヒコールに変わり、大声で「吊るせ」と連呼している。
アリスはすっかり怯えきってしまい、泣きながらぷるぷる震えている。涙の雫が、頬を伝
って地面へと垂れ落ちた。
「いやいや待ってよ、君たち過激過ぎるよ。どんだけあのアラクネに鬱憤抱えてるの」
吊るせコールが終わったのを見計らって僕が口を挟むと、蟻たちは一斉にこちらを睨んだ。
「レイ君、君はやけにこのアントアラクネを庇うね。そんなにこの泥棒蜘蛛にちゅっちゅ
されたのが良かったのかな? ん?」
「……浮気者」
アイが横目で睨んで皮肉を言い、ココノがじと目で僕を責める。彼女たちに責められるの
は辛いが、矛先が僕に向かったことでアリスへの追求がいくらか収まった。
「そもそもレイ君がすぐにこの蜘蛛のことを報告しなかったからいけないんですよ? ど
うして気付いていながら土壇場まで黙ってたんです?」
フィーに冷静に問い質され、僕は黙って目をそらした。
言える訳ないじゃないか。全く気付かない皆に呆れて言葉をなくしていたなんて。
「と、とにかく、僕は別に浮気とかそういうつもりがあった訳じゃないし、この子も結局
最後までした訳じゃないんだから、許してあげてよ。あんまり過激なことする皆の姿は見
たくない、皆にはいつも笑顔で、真面目で、優しいジャイアントアントでいて欲しいよ」
前半部分はあまり聞き入れて貰えなかったものの、後半の言葉はそれなりに皆の心に響い
たようだった。不服そうにしながらも蟻たちは各々顔を見合わせ、怒りを収めていく。
「ま、まあレイ君がそこまで言うなら? 許してあげなくも? ないけど?」
「……そ、そうですね。私たちは笑顔で真面目で優しいジャイアントアントですからね」
「仇敵にも情けをかけるのが、デキる魔物娘スタイル……」
口々にそう言って、緊張を解いていく蟻たち。隣では、アリスが僕のことをまるで救世主
か何かのように尊敬の眼差しで見つめていた。
そうしてアントアラクネのアリスは皆に見送られて、ぺこぺこお辞儀をしながら巣を後
にした。
しかしぎりぎりまで報告をせずにしっぽりお楽しみになろうとしていた僕に対しての蟻
たちの憤りには何の変化も無く、僕は陽の高い昼間からたっぷりねっとりと「マーキング」
させられたのだけど。
とが出来るようになった。明日にはほぼ治るだろう。本当に魔法の薬様々だ。
しかし、今日は朝からどうも騒がしい。朝の食事を持ってきてくれたトーコは毎回して
いる僕への誘惑をせずにさっさと部屋を出て行ってしまうし、外では蟻の走る音がひっき
りなしに聞こえてくる。何かあったのだろうか。
根性で芋を胃袋へ収め、外へ出て誰かに事情を聞いてみようと半分立ち上がりかけたそ
の時。一人の蟻が、部屋へと滑り込むようにして入ってきた。
横一直線にカットされた、長めのおかっぱ髪の蟻だ。前髪は特に長く、目を半分ほど覆
い隠している。僕に背を向けて扉を閉めると、へたり込むように甲殻の足を畳んでその場
に座り込んだ。見たことがない子だ。
「君は……誰? 初めて見る顔だね」
なるべく気さくな雰囲気を心がけたつもりだったが、僕の声を聞くと彼女は文字通り飛び
上がってこちらを振り向いた。目元はよく見えないが、焦りと怯えの雰囲気が感じ取れる。
彼女は頭だけを前に伸ばして僕を凝視し、それから右手で前髪を少し上げて改めて僕を
見た。少しの間を置いて、安堵のため息を洩らす。
「わ、わた、私は、ありす、です。あ、あなた、レイ、君?」
彼女の言葉は辿々しく間を空けながらのものだったが、それでも聞き取れないほどではな
い。
「うん、そうだよ。僕がレイ。所で僕は数日前からここにいるんだけど……えっと、アリ
スとは初めてだよね」
そう言って自己紹介ついでに彼女のことを観察するが、どうにも違和感を感じる。しかし
それを上手く形に出来ず、ただもやもやするだけだ。
「あ、あの、私、ちょっと、出張、してました。今朝、やっと、戻った、のです」
「へー、そうなんだ」
アリスは言うやいなや、トコトコとこちらへ歩み寄って僕の横へ座り込んだ。定位置に座
っている僕に上半身を寄せると、ただにこにこと笑っている。
「うふふ、レイ君……かわいい」
「あ、そ、そう。それはどうも」
なんか違う! 具体的な言葉には出来ないけど、何かが他の蟻たちと違う!
表情は平静を装いつつも内心違和感に戸惑っていると、アリスが右手を僕の太股へと這
わせた。つつーっと指を滑らせ、僕の股間を撫でる。
「ね、レイ君……」
「え、いや、ア、アリス? 君は仕事しなくていいの……? 他の皆は朝から仕事してる
けど」
「私は、さ、昨晩も、歩き詰め、でした、から……疲れて、むらむら、コッツンコ?」
あ、なんかここはそれっぽい。
意外にも積極的なアリスに流されるままそれっぽいムードになりかけていたが、それも
突然鳴り響くドアのノック音でかき消された。ノックの直後、息も荒く飛び込んでくる一
人の蟻。いつも眠そうな半眼とセミロングの、ココノだ。
「レイ君、大丈夫?」
「えっ、大丈夫って、何が?」
飛び込んでくるなりのココノの一言に、戸惑いを隠せない。しかし、ココノは僕より先に
アリスのことが気になったようだった。
「お前、誰?」
えっ?
僕の疑問が口に出るより先に、アリスが勢いよく返事をした。
「私のこと忘れちゃったの? ちょっと、ひどいです」
「……えっと、ナナ?」
「ああよかった、ちゃんと分かってくれた」
「なんだナナか。雰囲気変わったから気づかなかった。レイ君の監視をしてるんだね。こ
のまま続けてて」
うん?
「えっと、その、ココノ?」
「ごめんレイ君。今巣の中にアントアラクネが入ってきたみたいで、巣中大騒ぎなんだ。
あれにばれたら困るから、暫くこの部屋でじっとしていてね。それじゃ私はこれで」
僕の言葉もろくに聞く余裕が無いようで、あっという間にココノは部屋を出て行った。
ばっ。勢いよく横のアリスへ顔を向ける。全く同じタイミングで、彼女も僕から顔をそ
らした。
「……」
「……」
部屋の中に、気まずい沈黙が漂う。僕はアリスの頭から視線を下へずらして、彼女の服、
彼女の他の蟻たちとは違う意外なほどに豊かな胸の膨らみ、それから彼女の甲殻の足に目
を向けた。
そこには、縮こまるようにして畳まれた短い四対目の足。ジャイアントアントには無く
て、アラクネにはあるもの。違和感の正体。
「えーっと……アリス?」
恐る恐るアリスに呼びかけると、彼女は素早くこちらへ振り向いて僕の首に両手を絡めた。
至近距離で見た彼女の顔。前髪の向こう、彼女の額に、アラクネ特有とおぼしき複眼が見
え隠れしている。そして彼女の唇が眼前に迫り……激しいノックの音ですぐに手を離した。
「レイ君! 大丈夫?」
やって来たのはナナだ。やはり彼女も息が荒く、そして僕より先にアリスに目が行ったよ
うだった。
「あのさ、ナナ……」
「あなた、誰ですか?」
「ココノだよ、妹の顔を忘れたの……?」
「あの……」
「あっ、ココノちゃん! ごめんね、私慌ててたから……」
「いや……いいよ」
「じゃあココノちゃん、レイ君のこと見ててあげてください。私はこのまま巣に入ってき
たアントアラクネを探しますから、それではレイ君、また!」
……。
「続き……しよ?」
ばたん。
「レイ君! あれ? 君は」
「ナナです」
「そっかナナか。じゃあよろしくね」
ばたん。
「続き……」
ばたん、レイ君、君は、そっか、よろしく、ばたん。
「……」
僕は無言で眉間に指を当て、歯を食いしばって俯いた。
あほなのか。
ジャイアントアントたちはみんなあほなのか。
アリスは最早自身が蟻の仲間ではないということを僕に隠す気は無いようで、扉を糸で
がっちりと固め始めている。僕はそれを、呆れ顔で眺めるだけだ。
それでも扉はひっきりなしにノックされ、その度に扉ごしにアリスは蟻の誰かの名を騙
っては追い返していく。扉が開かなくなってからも、誰一人疑おうとしない。
「あのさ……アリスはどうしてここの巣に?」
僕が問いかけると、アリスは扉を固める作業を続けながらつらつらと語り始めた。
「アラクネットワーク……シンシアお姉さまから……ここの巣に……男が来たって……聞
いた。だから……あっ! アイだよ! 今レイ君を守る為に扉に鍵かけてるの! レイ君
は無事だから安心して! それじゃ! ……だから、ちょっとつまみ食いして……具合が
よければ……お嫁さんに……なりに……来た」
「あ……そ、そう」
アラクネットワーク。アラクネットワークって何だ。シンシアお姉さまというのは昨日の
アラクネだろうか。
あまりにも突っ込み所が多過ぎて、何から言えばいいのか分からない。頭が痛くなって
きた。僕が頭を抱えている横で、再び扉越しにアリスと蟻の問答が始まる。
「おーい、扉の向こうー、大丈夫かー」
「あ、私私、ココノだよ。今レイ君守る為に扉に鍵閉めてるだけで大丈夫だから、心配し
ないで」
「えっ、ココノは私だけど」
「……間違えた! ナナナナ、私、ナナだよ! だから任せてココノ!」
「そっかナナか、じゃあ任せたよナナ」
「……けよっ……」
「うん? レイ君?」
「気付けよおおおおっっ!」
「えっ、なにが」
「ココノさあ君これで四回目だよねぇ! その度監視役の名前変わってて変だと思わなか
ったのっ! しかも扉が糸で固定されてから最初はフィー、今度はナナで中の人変わって
るのに全く違和感抱いてないし! なんなの? ジャイアントアントはアントアラクネの
言葉を疑えない魔法でもかかってるの? 巣全体で僕を巻き込んで壮大なコントでもして
るの? 僕に一体どうしろっていうんだよーっ!」
アリスが慌てて止めようとするも、時すでに遅し。僕の全力の突っ込みを聞いたココノが、
扉の向こうで叫ぶ。
「そーいーん! アントアラクネがいたぞーっ! レイ君の部屋だーっ!」
半泣きのアリスに襟を掴まれ揺さぶられながら、僕は晴れやかな開放感と共に蟻たちが集
結する足音を聞いていた。
: :
僕の部屋。そこにいつものように蟻たち全員が集まり、離れた場所にはしょぼくれた顔
で俯いて座っているアリス。虫の下半身では正座とはいかないものの、雰囲気的にはそん
な感じの縮こまり方だ。前髪はヘアピンのようなもので強引に持ち上げられ、隠されてい
た複眼が完全に露出している。
僕はその隣で、同じように座って俯いている。僕も足の具合を鑑みて正座は許されたが、
蟻たちの糾弾を受ける立場なのはアリスと変わらない。
「いやあ、やってくれたね? アリスちゃん?」
「す、すいませ、ほんの、出来心、で……」
トーコが先頭に立ち、精一杯偉そうな顔を装い腕を組んでアリスのことを見下ろしている。
アリスはトーコに名前を呼ばれると、ごく小さな悲鳴をあげて更に縮こまった。
「まさか我々ジャイアントアントを出し抜こうとするとは、大きく出たものですね」
トーコの脇でそう言ったのはナナ。かけてもいない眼鏡をくいっと上げる素振りをして、
同じように冷たい表情でアリスを見下ろしている。
「ちょ、ちょっと皆。そんな責めなくても」
「レイ君はちょっと黙っていてください。あなたも今回罰される立場なんですよ?」
やはり真剣な顔をしているフィーに静かな威圧感で圧され、僕も言葉半ばで黙ってしまう。
小さくため息をついて俯き、自分の身体をじっと見つめた。服がはだけられ、あられもな
い姿の僕の胸元。
あの後扉の前に集合した蟻たちが糸で固められた扉を蹴破るまでの間、半狂乱になった
アリスは最後の抵抗として僕に「そういうこと」をしようとし始めたのだ。扉を破ったそ
の時、蟻たちの目前にあったのは上半身裸の僕と、その僕を押し倒して胸にキスをしてい
るアリスの姿。
そしてアリスは蟻たちに囲まれ、僕も横で同じように座らされている。僕の罪状は、ア
ントアラクネの存在に気付いていながらも報告を怠った罪。
「さて、この泥棒猫……いえ、泥棒蜘蛛はどうしましょうか」
ナナがそう言った瞬間、後ろの蟻たちが大声で叫んだ。
「吊るせ!」
「いつもクモには吊るされているんだ! こいつも吊るそう!」
「吊るしていい感じに乾燥させよう! そしてうま味を凝縮させよう!」
「吊るしてあのクモに見せつけてやるんだ!」
「吊るせ! 吊るせ! 吊るせ!」
蟻たちの叫び声はやがてシュプレヒコールに変わり、大声で「吊るせ」と連呼している。
アリスはすっかり怯えきってしまい、泣きながらぷるぷる震えている。涙の雫が、頬を伝
って地面へと垂れ落ちた。
「いやいや待ってよ、君たち過激過ぎるよ。どんだけあのアラクネに鬱憤抱えてるの」
吊るせコールが終わったのを見計らって僕が口を挟むと、蟻たちは一斉にこちらを睨んだ。
「レイ君、君はやけにこのアントアラクネを庇うね。そんなにこの泥棒蜘蛛にちゅっちゅ
されたのが良かったのかな? ん?」
「……浮気者」
アイが横目で睨んで皮肉を言い、ココノがじと目で僕を責める。彼女たちに責められるの
は辛いが、矛先が僕に向かったことでアリスへの追求がいくらか収まった。
「そもそもレイ君がすぐにこの蜘蛛のことを報告しなかったからいけないんですよ? ど
うして気付いていながら土壇場まで黙ってたんです?」
フィーに冷静に問い質され、僕は黙って目をそらした。
言える訳ないじゃないか。全く気付かない皆に呆れて言葉をなくしていたなんて。
「と、とにかく、僕は別に浮気とかそういうつもりがあった訳じゃないし、この子も結局
最後までした訳じゃないんだから、許してあげてよ。あんまり過激なことする皆の姿は見
たくない、皆にはいつも笑顔で、真面目で、優しいジャイアントアントでいて欲しいよ」
前半部分はあまり聞き入れて貰えなかったものの、後半の言葉はそれなりに皆の心に響い
たようだった。不服そうにしながらも蟻たちは各々顔を見合わせ、怒りを収めていく。
「ま、まあレイ君がそこまで言うなら? 許してあげなくも? ないけど?」
「……そ、そうですね。私たちは笑顔で真面目で優しいジャイアントアントですからね」
「仇敵にも情けをかけるのが、デキる魔物娘スタイル……」
口々にそう言って、緊張を解いていく蟻たち。隣では、アリスが僕のことをまるで救世主
か何かのように尊敬の眼差しで見つめていた。
そうしてアントアラクネのアリスは皆に見送られて、ぺこぺこお辞儀をしながら巣を後
にした。
しかしぎりぎりまで報告をせずにしっぽりお楽しみになろうとしていた僕に対しての蟻
たちの憤りには何の変化も無く、僕は陽の高い昼間からたっぷりねっとりと「マーキング」
させられたのだけど。
14/01/19 22:15更新 / nmn
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