第四話 世界は広がる
以前の手漕ぎ船とは違う、帆と外輪を同時に用いる小型船で北へ向かうこと三十分ほどだろうか、簡素な桟橋と小屋が断崖に張り付いているだけにしか見えない港と言うには余りに簡素な船着き場にたどり着いた。
断崖には明らかに人間が昇るには難儀する箇所にしか内陸部へ入れそうな穴はなく、そこに至るために取り付けられているのは
「昇降機……か? だが動力は……」
「魔動機関だ、質の良いマジックアイテムを使って動力も確保してある、見た目は悪いが結構良い出来だぞ。」
桟橋と穴を繋いでいるのは資材搬入用も兼ねるのであろう巨大な昇降機、確かに少々見た目は悪い。
船着き場にボートを繋ぎ、桟橋に上がって昇降機に向かう、改めてみるとかなり高いところまで移動することがわかる。
ランスが懐から取り出したのは小さな木簡、クルツの紋章が刻印されているそれを昇降機の壁に空いていた窪みにはめ込むと、木簡が光を放つ。
「魔動昇降機、起動。上昇を開始。」
ランスがそう指令を出すと、それに応えるように昇降機が作動し私たちの体を運んでいく。
「そういや、その子……イヴだよな? もしかして親とはぐれたりしてるんじゃないか?」
「なんでわかるんですか?」
「……俺が船でメルのところに向かう少し前に、ブラックハーピーの集団がクルツを通ったんだ、娘とはぐれたって言ってたんだよ。」
ランスがそう言いながら、申し訳なさそうな顔でイヴを見ていた。
「気にしなくて良いですよ? 私たち渡り烏の一族は『もしも仲間とはぐれたらその土地で幸せになりなさい』という掟があるんです。イヴはいまとても幸せなので、大丈夫です。」
「そう……なのか? 確かに彼女たちも娘とはぐれた割にあっけらかんとしてたというか……」
海と言えばほぼ完全な魔物たちの領域だ、旧世界では陸や空で暮らす者たちが海に落ちることは死を意味したが、現在の世界では海に落ちることは死に繋がらず、海で死ぬ者はほぼいないとされている。
だからこそ、はぐれてもその生命を心配することはあまりないのだろう。だが再会することも困難と予想されるためにそういった掟によってせめてもの幸福を祈る。
しかしあの島の海辺に誰かが彼女を抱え上げたのだとすれば、一体どうしてあそこを選んだのだろうか。
そうでなければ私はイヴには逢えなかったとは言え、その辺りは疑問に思ってしまう、あの島は魔物にとって安全とは言い辛いのだから。
私が物思いに耽っていると昇降機がガコンと音を立ててひときわ大きく揺れる。
「ついたぞ、とりあえず二人とも領主館まで来てくれ。領主に紹介する。」
そう言われて、ランスについてトンネルに入っていく。
木材と金属で崩れないように支えられたトンネルは意外にも広く、金属製のレールのようなものも敷設されている。恐らく資材運搬用のトロッコが通るものだろう。
私があの島に送られたときはローディアナから直接船に乗せられて移動したのでクルツを通ることはなかった、なので私にとってはこれが初のクルツ入域ということになる。
トンネルを抜けるとそこに広がっていたのは思った以上に栄えた、都市とまでは行かなくとも少し大きな街程度の規模はしている集落だった。
中心街であろう石造りの建物が並ぶ町並みが遠くに見える、そこから少し離れたところには煉瓦造りの教会と、その反対側に明らかに他の家よりも大きく頑丈そうな造りの建造物が目に入る。
ここからだと、中心街をまっすぐ横切ることになる位置関係だ。恐らくあれが領主館と呼ばれている建物だろう。
恐ろしく緊張してきた、ランスは実力と働きで認めさせろと言ってくれたが実際のところ領主に出会った時点で切られてしまったらどうすることも出来ないのではないだろうか。
そんな風に後ろ向きに考えているのを察知したのだろう、イヴが私に寄り添い、
「大丈夫です、ここが駄目だったら、イヴがメルを連れて誰も居ないところに行きます。」
と励ましてくれた。
「ランスから、あと姫からも話は聞いてる。」
「そ、そうなの……ですか?」
私より十歳ほどは年上であろうクルツの「人間の領主」クロードは、険しい表情を崩さずに私に声をかけてくる。
「丁寧な口調は良い。楽にしろ」
「はぁ……しかし……」
私が内容を記入した書類を上から順に見ながら、クロードは一応恐らく彼なりに気を遣った態度で私に接してくれる。
ランスに曰く彼が険しい顔をしているのはいつものことだそうだが、初対面の人間にこの表情で接せられるとどうしても身構えてしまう。
「治安維持活動の経験あり、剣術、下級補助魔術、集団指揮に適性あり……」
記入した書類には前歴や特技、趣味などを出来る限り細かく記載した記憶がある、入植の希望者が必ず書く書類だと言っていた。
「クルツには、これまでツィリアを除き治安活動を職業として従事している者が居なかった、事件自体軽微なものだったから、必要が無かったんだ。」
「………?」
「だが、それを改めなくてはいけない時期が来てしまった。領主館と別の、治安維持組織の発足を予定している。ひいてはお前を、その指揮官に任命したい。」
「………は?」
さすがに話が飛躍しすぎていて驚かざるを得なかった。
確かに私は治安維持活動も王国軍の一員として行っていた経験はある、治安維持組織に私を参加させること自体は間違いでは無いと思う。
しかしいきなり余所から来た人間、しかもかつて敵対組織に所属していたような男を治安組織の指揮官に任命するというのは流石におかしいだろう。
「少々お待ちいただきたい、さすがにそれは」
「不満があるのは重々承知だが、お前に対してそれ以上に良い仕事は提供してやれないぞ。」
「いえその……」
クロード氏はまともに話を取り合おうという気配も見せない、ランスが比較的気さくだったのに比べ、厳格で重重しい雰囲気を漂わせている。
しかし今はその方が良いのかも知れないと思うことにする。何よりもイヴが私のことを支えてくれると言ったのだ。彼女を、彼女だけは裏切るわけにはいかない。
「わかりました、クルツの治安を守れるように、最大限勤めさせていただきます。」
ランスにも、働きで認めさせろと言われたのだ、これは恐らく、彼らなりに私に激励をくれているのだろう。そう考えることにする。
話を聞いて貰えないと思ったからではない、ないはずだ。
「助かる。これで面接は終わりだ、晴れてお前もクルツの住民になる。家は今夜には共同住宅の一室を用意出来るはずだ。」
「何から何まで済みません。」
「これも仕事のうちだ、礼を言われることはしてない。これを、クルツ住民の認証をする住民証だ、なくしたり壊したりはするなよ。」
そう言って手渡されたのはランスが昇降機を動かすときに使っていたものとよく似た木簡だった、手渡された瞬間に青白く光り、すぐに光が消える。
何らかの魔術もしくは魔法による個人識別機能が搭載されているのだろうか、私は魔術についてはほぼ門外漢だが、その魔術系統が極めて高等なものであることはわかる。
椅子から立ち上がり、もう一度クロード氏に一礼してから部屋を出ると、イヴと天使の少女が並んで立っていた。
「あ、メル!」
迷わず抱きついてくるイヴを抱き留めながら、一緒に居る天使の少女に目をやる。
幼いながらも凜々しい顔立ちをした天使はまっすぐに私を睨んでいる。
「ランスの言っていたメルだな? 私はツィリア、このクルツの法務官でこれから君の上司になる。」
「これを読んでおくようにってご本をくれました……でもイヴは字が読めないので、一緒に読んでください。」
そう言ってイヴが私に差し出したのは黒い装釘のそこそこ分厚い本、書いてある文字を読む限りでは、どうやらクルツの法律書のようだ。
「一緒に読んでおけ、必ずだ。特に性行為原則法第三条、これは非常に重要だ、今すぐ目を通して絶対に守れ。」
「かしこまりました……クルツ性行為原則法第三条……『野外での性行為及びそれに類する行為を堅く禁ずる』……ぷっ」
イヴにも内容が分かるように音読して、その内容に思わず笑いそうになってしまった。
性行為原則法などというふざけた名前の法律がある時点でもう笑いかねない事態だったのだが、大まじめにこんな条文が綴られているなど笑うなと言う方が無理だ。
(少々漏れたとは言え)笑いを必死にこらえている私を何が面白いのだという顔でツィリアが睨んでいる。
「す、すみません……」
念のために謝っておくとツィリアは大きく一度ため息をつき、イヴはよく分からないと言いたげな顔をしている。
「なにがいけないんですか? イヴのお父さんとお母さんはいつもお外でしてましたけど……」
「魔物の溢れるクルツでは、野外の…人目につきかねない場所での性行為は危険なんだ、漏れ出した魔力や淫らな空気に当てられて、他の魔物にまで興奮が伝播して取り返しのつかない事態になりかねない。」
平然と親の性事情を暴露しながら質問するイヴに、少々困ったようだが真面目な態度でツィリアが説明する。
「よくわからないですけど…いけないんですね?」
「ああ、守ってくれ。必ず。」
懇切丁寧な説明は完全に空振りに終わり、しかしとりあえず「禁止している」ことだけは理解されたことでツィリアもそれで良いと諦めたらしい。
「今後の職場について説明する、窓からでも見えるあそこだ。」
そう言ってツィリアが指さしたのは、教会、というか少なくとも教会のものに見える尖塔のついた煉瓦造りの建物だった。
この距離から大まかな外観を見るに主神を最高神として崇める一般的な聖教の教会だ、到底クルツに在りそうな物には見えない。
「教会に見えるが外側だけだ、厳格な趣のある建造物の方が、法執行を司る所には向いていると考えてあえてそうしている。」
「なるほど。」
確かに普通の建物よりは遙かに存在感があるし、一目で厳格な意味を持つ場所ともわかる。妥当な判断だろう。
「イヴはしばらく学校に通うことになりました、だからお昼はメルと一緒に居られません……」
とてつもなく残念そうな表情でイヴが言う、クルツに学校があるとはランスから以前聞かされていたが、外から来たものも入学対象なのか。
「最低限字の読み書きくらい出来なくては困る。」
ツィリアが呆れて言い放つ、イヴの家族はあちこちを旅していたと言っていたので恐らく勉強など大して必要のない生活を送っていたのだろう。
「同じ家で暮らすのだから、朝と夜はきちんとイヴと一緒に居る、約束する。」
私はそう励ましたつもりだったのだが、それでもイヴは納得してくれなかったようで暗い顔のまま私から目をそらす。
四六時中一緒に居たい、その気持ちは私も同じだがどこかで折り合いをつけていかないといけない、そういうものなのだ。
それをどう説明すれば良いのか分からず、とにかく何かを伝えようと行動に出た結果、イヴを抱きしめていた。
「家族なら、ずっと一緒に居たいです……」
彼女もそれに応えるように体を預けてくる、いっそまたここから、彼女と一緒にどこかに行ってしまおうかとも考える。
「少し良いか?」
二人だけの世界に入りかけていたところをツィリアに引き戻される、イヴも少し不満そうな表情だ。
「イヴにはさっき説明したが、クルツの魔物は必ず行っておくべきことがまだ一つある。丁度良いから二人ともついてこい。」
ツィリアに先導されて領主館を出ると、すぐに彼女は翼を広げて空に舞い上がる、それを見たイヴも、私を足で掴むとツィリアのあとを追う。
空を飛ぶ、その速さが実感出来るほどの速度で移動した先は町の中心部を少し外れたところにある建物だった。
ウィンドウに並ぶ、綺麗な服を纏ったトルソー、間違いなくここは服屋だろう。そういえば私はともかくイヴの服は今着ている一着しかない。
しかもその服もおおよそ服と言ってしまって良いのか疑問に感じられる襤褸切れだ、本当に体の一部しか隠せていないし、
「ここで何を?」
「クルツの魔物はみんなしてるおまじないだそうです。」
「お呪い?」
健康祈願や子孫繁栄のために貴族たちが行っていた一種の風習と同様のものだろうか、大抵のものは迷信で効果のないものばかりだったが。
「迷信じみた風習ではなく、ちゃんと意味のある行動だ、魔物の強すぎる本能を多少抑え、社会秩序を乱す危険を減らす目的がある。」
「それを、服屋で?」
根拠のある魔術的な儀式行為に基づくものならば、もう少しちゃんとした施設で行うものではないだろうか、素人考えではあるが。
そんな疑問を抱いている私に目もくれず、ツィリアが服屋に入っていく、私たちもそのあとを追って店に入るとそこに居たのは明るい茶髪に右が青で左が緑のオッドアイが特徴的な少女だった。
「いらっしゃい、あれ、ツィリアさんその人たちは?」
「新しくクルツに来た魔物と、その夫だ。呪いのために装飾を作ってやって欲しい。」
「へぇー……随分年の差があるのね。初めまして、チェルシー・ウッドです。」
「メルフィダだ、メルでいい。妻はイヴという。」
ツィリア相手のときと違い、なぜかイヴは私の後ろに隠れるように引っ込んでしまう。なので代わりにイヴを紹介した。
威圧感ならツィリアの方が遙かに重々しかったのに、なぜイヴがこのように反応するのかはわからない。
「ブラックハーピーなんですね…ちょっと翼を見せて貰えます?」
迷いのない態度のチェルシーに気圧されたのか、イヴはそのまま後ろに下がろうとして、私がそれを止める。
そのときに何枚かの羽が床に落ち、チェルシーはそれを拾う。
「これくらいあれば十分かな? ちゃちゃっと仕立ててきますのでちょっとそこで服でも買っててくださいねー。」
そう言ったチェルシーはそのまま店の奥に引っ込んでしまう、その姿が曲がり角に入り見えなくなるのを待ってから少し震えているイヴの肩を抱き、私の手元に引き寄せる。
他の誰か、例えばランスやツィリアや、それに領主館に居た人間たちに対しては見せることのなかった反応だった。
それらの人々と彼女で何が違うのかを考えてみて、一つだけ思い当たる要素があった。
「イヴ、オッドアイの人間を見るのは初めてか?」
「オッド……? 知らないです…あの人のお目々なんか怖いです。色が違って……」
確かにあまりよく見る個性ではない、地域によってはそれで不吉がられることもあるらしい、イヴもそう言った感覚なのだろうか。
しかし初対面の相手にあの態度は良くないことを彼女に伝えると、渋々ながら納得してくれたようだった。
「はいできましたよー、あとはこれをもって魔術研究所のルミネさんに呪いをかけて貰えば完成です。研究所の場所はわかりますかー?」
「いや……」
そもそも私もイヴもクルツに来たばかりで、そしてその話はしたと思うのだが、チェルシーはもしや忘れやすいのだろうか。
そんなことを考えていると、店の裏から年配の女性が姿を見せる、ここの店長だろうか、私ではなくイヴのことをじっと見ている。
「北西の方角に小高い丘があるでしょう? その上の紫色の屋根の建物よ。あと、ちょっと何着か服買ってきなさい。お代はツケで良いから。」
「別にイヴはこのままでも……すぐにメルと『できます』から…」
「クルツ公共服装法第一条、公序を乱す服装を禁ずる。さっきは特例で許したがその格好のまま外に出たらその場で逮捕だぞ。」
女性の言葉にイヴが抵抗しようとしてすぐに、ツィリアがそう言いながらイヴの肩を掴む、不満げに私に向かい助け船を求める目を向ける妻を、私は年配の女性に引き渡した。
「メルはうらぎりものです」
彼女の恨み言がやたらはっきりと聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
断崖には明らかに人間が昇るには難儀する箇所にしか内陸部へ入れそうな穴はなく、そこに至るために取り付けられているのは
「昇降機……か? だが動力は……」
「魔動機関だ、質の良いマジックアイテムを使って動力も確保してある、見た目は悪いが結構良い出来だぞ。」
桟橋と穴を繋いでいるのは資材搬入用も兼ねるのであろう巨大な昇降機、確かに少々見た目は悪い。
船着き場にボートを繋ぎ、桟橋に上がって昇降機に向かう、改めてみるとかなり高いところまで移動することがわかる。
ランスが懐から取り出したのは小さな木簡、クルツの紋章が刻印されているそれを昇降機の壁に空いていた窪みにはめ込むと、木簡が光を放つ。
「魔動昇降機、起動。上昇を開始。」
ランスがそう指令を出すと、それに応えるように昇降機が作動し私たちの体を運んでいく。
「そういや、その子……イヴだよな? もしかして親とはぐれたりしてるんじゃないか?」
「なんでわかるんですか?」
「……俺が船でメルのところに向かう少し前に、ブラックハーピーの集団がクルツを通ったんだ、娘とはぐれたって言ってたんだよ。」
ランスがそう言いながら、申し訳なさそうな顔でイヴを見ていた。
「気にしなくて良いですよ? 私たち渡り烏の一族は『もしも仲間とはぐれたらその土地で幸せになりなさい』という掟があるんです。イヴはいまとても幸せなので、大丈夫です。」
「そう……なのか? 確かに彼女たちも娘とはぐれた割にあっけらかんとしてたというか……」
海と言えばほぼ完全な魔物たちの領域だ、旧世界では陸や空で暮らす者たちが海に落ちることは死を意味したが、現在の世界では海に落ちることは死に繋がらず、海で死ぬ者はほぼいないとされている。
だからこそ、はぐれてもその生命を心配することはあまりないのだろう。だが再会することも困難と予想されるためにそういった掟によってせめてもの幸福を祈る。
しかしあの島の海辺に誰かが彼女を抱え上げたのだとすれば、一体どうしてあそこを選んだのだろうか。
そうでなければ私はイヴには逢えなかったとは言え、その辺りは疑問に思ってしまう、あの島は魔物にとって安全とは言い辛いのだから。
私が物思いに耽っていると昇降機がガコンと音を立ててひときわ大きく揺れる。
「ついたぞ、とりあえず二人とも領主館まで来てくれ。領主に紹介する。」
そう言われて、ランスについてトンネルに入っていく。
木材と金属で崩れないように支えられたトンネルは意外にも広く、金属製のレールのようなものも敷設されている。恐らく資材運搬用のトロッコが通るものだろう。
私があの島に送られたときはローディアナから直接船に乗せられて移動したのでクルツを通ることはなかった、なので私にとってはこれが初のクルツ入域ということになる。
トンネルを抜けるとそこに広がっていたのは思った以上に栄えた、都市とまでは行かなくとも少し大きな街程度の規模はしている集落だった。
中心街であろう石造りの建物が並ぶ町並みが遠くに見える、そこから少し離れたところには煉瓦造りの教会と、その反対側に明らかに他の家よりも大きく頑丈そうな造りの建造物が目に入る。
ここからだと、中心街をまっすぐ横切ることになる位置関係だ。恐らくあれが領主館と呼ばれている建物だろう。
恐ろしく緊張してきた、ランスは実力と働きで認めさせろと言ってくれたが実際のところ領主に出会った時点で切られてしまったらどうすることも出来ないのではないだろうか。
そんな風に後ろ向きに考えているのを察知したのだろう、イヴが私に寄り添い、
「大丈夫です、ここが駄目だったら、イヴがメルを連れて誰も居ないところに行きます。」
と励ましてくれた。
「ランスから、あと姫からも話は聞いてる。」
「そ、そうなの……ですか?」
私より十歳ほどは年上であろうクルツの「人間の領主」クロードは、険しい表情を崩さずに私に声をかけてくる。
「丁寧な口調は良い。楽にしろ」
「はぁ……しかし……」
私が内容を記入した書類を上から順に見ながら、クロードは一応恐らく彼なりに気を遣った態度で私に接してくれる。
ランスに曰く彼が険しい顔をしているのはいつものことだそうだが、初対面の人間にこの表情で接せられるとどうしても身構えてしまう。
「治安維持活動の経験あり、剣術、下級補助魔術、集団指揮に適性あり……」
記入した書類には前歴や特技、趣味などを出来る限り細かく記載した記憶がある、入植の希望者が必ず書く書類だと言っていた。
「クルツには、これまでツィリアを除き治安活動を職業として従事している者が居なかった、事件自体軽微なものだったから、必要が無かったんだ。」
「………?」
「だが、それを改めなくてはいけない時期が来てしまった。領主館と別の、治安維持組織の発足を予定している。ひいてはお前を、その指揮官に任命したい。」
「………は?」
さすがに話が飛躍しすぎていて驚かざるを得なかった。
確かに私は治安維持活動も王国軍の一員として行っていた経験はある、治安維持組織に私を参加させること自体は間違いでは無いと思う。
しかしいきなり余所から来た人間、しかもかつて敵対組織に所属していたような男を治安組織の指揮官に任命するというのは流石におかしいだろう。
「少々お待ちいただきたい、さすがにそれは」
「不満があるのは重々承知だが、お前に対してそれ以上に良い仕事は提供してやれないぞ。」
「いえその……」
クロード氏はまともに話を取り合おうという気配も見せない、ランスが比較的気さくだったのに比べ、厳格で重重しい雰囲気を漂わせている。
しかし今はその方が良いのかも知れないと思うことにする。何よりもイヴが私のことを支えてくれると言ったのだ。彼女を、彼女だけは裏切るわけにはいかない。
「わかりました、クルツの治安を守れるように、最大限勤めさせていただきます。」
ランスにも、働きで認めさせろと言われたのだ、これは恐らく、彼らなりに私に激励をくれているのだろう。そう考えることにする。
話を聞いて貰えないと思ったからではない、ないはずだ。
「助かる。これで面接は終わりだ、晴れてお前もクルツの住民になる。家は今夜には共同住宅の一室を用意出来るはずだ。」
「何から何まで済みません。」
「これも仕事のうちだ、礼を言われることはしてない。これを、クルツ住民の認証をする住民証だ、なくしたり壊したりはするなよ。」
そう言って手渡されたのはランスが昇降機を動かすときに使っていたものとよく似た木簡だった、手渡された瞬間に青白く光り、すぐに光が消える。
何らかの魔術もしくは魔法による個人識別機能が搭載されているのだろうか、私は魔術についてはほぼ門外漢だが、その魔術系統が極めて高等なものであることはわかる。
椅子から立ち上がり、もう一度クロード氏に一礼してから部屋を出ると、イヴと天使の少女が並んで立っていた。
「あ、メル!」
迷わず抱きついてくるイヴを抱き留めながら、一緒に居る天使の少女に目をやる。
幼いながらも凜々しい顔立ちをした天使はまっすぐに私を睨んでいる。
「ランスの言っていたメルだな? 私はツィリア、このクルツの法務官でこれから君の上司になる。」
「これを読んでおくようにってご本をくれました……でもイヴは字が読めないので、一緒に読んでください。」
そう言ってイヴが私に差し出したのは黒い装釘のそこそこ分厚い本、書いてある文字を読む限りでは、どうやらクルツの法律書のようだ。
「一緒に読んでおけ、必ずだ。特に性行為原則法第三条、これは非常に重要だ、今すぐ目を通して絶対に守れ。」
「かしこまりました……クルツ性行為原則法第三条……『野外での性行為及びそれに類する行為を堅く禁ずる』……ぷっ」
イヴにも内容が分かるように音読して、その内容に思わず笑いそうになってしまった。
性行為原則法などというふざけた名前の法律がある時点でもう笑いかねない事態だったのだが、大まじめにこんな条文が綴られているなど笑うなと言う方が無理だ。
(少々漏れたとは言え)笑いを必死にこらえている私を何が面白いのだという顔でツィリアが睨んでいる。
「す、すみません……」
念のために謝っておくとツィリアは大きく一度ため息をつき、イヴはよく分からないと言いたげな顔をしている。
「なにがいけないんですか? イヴのお父さんとお母さんはいつもお外でしてましたけど……」
「魔物の溢れるクルツでは、野外の…人目につきかねない場所での性行為は危険なんだ、漏れ出した魔力や淫らな空気に当てられて、他の魔物にまで興奮が伝播して取り返しのつかない事態になりかねない。」
平然と親の性事情を暴露しながら質問するイヴに、少々困ったようだが真面目な態度でツィリアが説明する。
「よくわからないですけど…いけないんですね?」
「ああ、守ってくれ。必ず。」
懇切丁寧な説明は完全に空振りに終わり、しかしとりあえず「禁止している」ことだけは理解されたことでツィリアもそれで良いと諦めたらしい。
「今後の職場について説明する、窓からでも見えるあそこだ。」
そう言ってツィリアが指さしたのは、教会、というか少なくとも教会のものに見える尖塔のついた煉瓦造りの建物だった。
この距離から大まかな外観を見るに主神を最高神として崇める一般的な聖教の教会だ、到底クルツに在りそうな物には見えない。
「教会に見えるが外側だけだ、厳格な趣のある建造物の方が、法執行を司る所には向いていると考えてあえてそうしている。」
「なるほど。」
確かに普通の建物よりは遙かに存在感があるし、一目で厳格な意味を持つ場所ともわかる。妥当な判断だろう。
「イヴはしばらく学校に通うことになりました、だからお昼はメルと一緒に居られません……」
とてつもなく残念そうな表情でイヴが言う、クルツに学校があるとはランスから以前聞かされていたが、外から来たものも入学対象なのか。
「最低限字の読み書きくらい出来なくては困る。」
ツィリアが呆れて言い放つ、イヴの家族はあちこちを旅していたと言っていたので恐らく勉強など大して必要のない生活を送っていたのだろう。
「同じ家で暮らすのだから、朝と夜はきちんとイヴと一緒に居る、約束する。」
私はそう励ましたつもりだったのだが、それでもイヴは納得してくれなかったようで暗い顔のまま私から目をそらす。
四六時中一緒に居たい、その気持ちは私も同じだがどこかで折り合いをつけていかないといけない、そういうものなのだ。
それをどう説明すれば良いのか分からず、とにかく何かを伝えようと行動に出た結果、イヴを抱きしめていた。
「家族なら、ずっと一緒に居たいです……」
彼女もそれに応えるように体を預けてくる、いっそまたここから、彼女と一緒にどこかに行ってしまおうかとも考える。
「少し良いか?」
二人だけの世界に入りかけていたところをツィリアに引き戻される、イヴも少し不満そうな表情だ。
「イヴにはさっき説明したが、クルツの魔物は必ず行っておくべきことがまだ一つある。丁度良いから二人ともついてこい。」
ツィリアに先導されて領主館を出ると、すぐに彼女は翼を広げて空に舞い上がる、それを見たイヴも、私を足で掴むとツィリアのあとを追う。
空を飛ぶ、その速さが実感出来るほどの速度で移動した先は町の中心部を少し外れたところにある建物だった。
ウィンドウに並ぶ、綺麗な服を纏ったトルソー、間違いなくここは服屋だろう。そういえば私はともかくイヴの服は今着ている一着しかない。
しかもその服もおおよそ服と言ってしまって良いのか疑問に感じられる襤褸切れだ、本当に体の一部しか隠せていないし、
「ここで何を?」
「クルツの魔物はみんなしてるおまじないだそうです。」
「お呪い?」
健康祈願や子孫繁栄のために貴族たちが行っていた一種の風習と同様のものだろうか、大抵のものは迷信で効果のないものばかりだったが。
「迷信じみた風習ではなく、ちゃんと意味のある行動だ、魔物の強すぎる本能を多少抑え、社会秩序を乱す危険を減らす目的がある。」
「それを、服屋で?」
根拠のある魔術的な儀式行為に基づくものならば、もう少しちゃんとした施設で行うものではないだろうか、素人考えではあるが。
そんな疑問を抱いている私に目もくれず、ツィリアが服屋に入っていく、私たちもそのあとを追って店に入るとそこに居たのは明るい茶髪に右が青で左が緑のオッドアイが特徴的な少女だった。
「いらっしゃい、あれ、ツィリアさんその人たちは?」
「新しくクルツに来た魔物と、その夫だ。呪いのために装飾を作ってやって欲しい。」
「へぇー……随分年の差があるのね。初めまして、チェルシー・ウッドです。」
「メルフィダだ、メルでいい。妻はイヴという。」
ツィリア相手のときと違い、なぜかイヴは私の後ろに隠れるように引っ込んでしまう。なので代わりにイヴを紹介した。
威圧感ならツィリアの方が遙かに重々しかったのに、なぜイヴがこのように反応するのかはわからない。
「ブラックハーピーなんですね…ちょっと翼を見せて貰えます?」
迷いのない態度のチェルシーに気圧されたのか、イヴはそのまま後ろに下がろうとして、私がそれを止める。
そのときに何枚かの羽が床に落ち、チェルシーはそれを拾う。
「これくらいあれば十分かな? ちゃちゃっと仕立ててきますのでちょっとそこで服でも買っててくださいねー。」
そう言ったチェルシーはそのまま店の奥に引っ込んでしまう、その姿が曲がり角に入り見えなくなるのを待ってから少し震えているイヴの肩を抱き、私の手元に引き寄せる。
他の誰か、例えばランスやツィリアや、それに領主館に居た人間たちに対しては見せることのなかった反応だった。
それらの人々と彼女で何が違うのかを考えてみて、一つだけ思い当たる要素があった。
「イヴ、オッドアイの人間を見るのは初めてか?」
「オッド……? 知らないです…あの人のお目々なんか怖いです。色が違って……」
確かにあまりよく見る個性ではない、地域によってはそれで不吉がられることもあるらしい、イヴもそう言った感覚なのだろうか。
しかし初対面の相手にあの態度は良くないことを彼女に伝えると、渋々ながら納得してくれたようだった。
「はいできましたよー、あとはこれをもって魔術研究所のルミネさんに呪いをかけて貰えば完成です。研究所の場所はわかりますかー?」
「いや……」
そもそも私もイヴもクルツに来たばかりで、そしてその話はしたと思うのだが、チェルシーはもしや忘れやすいのだろうか。
そんなことを考えていると、店の裏から年配の女性が姿を見せる、ここの店長だろうか、私ではなくイヴのことをじっと見ている。
「北西の方角に小高い丘があるでしょう? その上の紫色の屋根の建物よ。あと、ちょっと何着か服買ってきなさい。お代はツケで良いから。」
「別にイヴはこのままでも……すぐにメルと『できます』から…」
「クルツ公共服装法第一条、公序を乱す服装を禁ずる。さっきは特例で許したがその格好のまま外に出たらその場で逮捕だぞ。」
女性の言葉にイヴが抵抗しようとしてすぐに、ツィリアがそう言いながらイヴの肩を掴む、不満げに私に向かい助け船を求める目を向ける妻を、私は年配の女性に引き渡した。
「メルはうらぎりものです」
彼女の恨み言がやたらはっきりと聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
17/12/25 20:59更新 / なるつき
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