征服
夜。街道分岐点。首都と、次の街への股であった。一行は街道を挟む叢の中に隠れて、旅人を待ち受けていた。取り引きを持ちかけ、現金と変装用の装備を借り受けようという寸法である。与えるものは、旅人の命。要は追いはぎである。最早まともな手段で準備を整えることは不可能であろう。首都にはすでに三人の手配が回っているはずであった。夜は良いが、昼になると人通りが多く、行為には向かない。故に明るいうちは街道から大きく外れたところに穴を掘り、そこで順番に仮眠を取りつつ教団の動向を探った。
しかし、旅の配分を間違えた間抜けは中々現れなかった。もう、三日目になる。追手は今のところ見られないが、それがかえって不気味だった。
「厭きたわ。案外静かなものね」
柔らかい草の上に寝転がりながら、ミラベルが言う。その目は遠く、星を見ていた。街道を見張る気はすでに無いらしい。
「白昼堂々に強盗が勤まるかよ」
と、ヨハン。
「力技よ」
ぬけぬけと言う。それきり、また静寂が訪れた。人や獣の気配はなく、虫たちの声がある。さらに耳を澄ますと、遠くで風の音がした。深い、耳鳴りのような音だった。
不意に、耳鳴りが止んだ。黙々と見張っていた岩男が、居なおし、二人のほうを向いた。その五感が何かを察知したらしい。
「どうした?」
声を潜めて、ヨハンは問うた。
「鈍いわね。馬車よ」
振り向くと、ミラベルは起き上がっていた。獰猛な笑みを浮かべている。二人の耳は車輪の土を踏む音を捉えたようだが、ヨハンにはそれを感ずることは出来なかった。
三人は微動だにせず、馬車を待ち受けた。そのうちに、ヨハンにも固い土の擦れる音と、荷物の揺れる音が聞こえてきた。
作戦は単純であった。旅人が射程範囲に来たとき、三人一挙に飛び掛る。徒歩の場合はまず一撃をくれて動きを止めてやり、それから落とす。馬車の場合は、御者を同様の方法で気絶させておき、それから車の中身を見る。間抜けな旅人は何も分からぬうちに朝を迎え、そして追い剥ぎに遭った事を知るだろう。
何も知らぬ馬車は、ゆっくりとした速度で進んでくる。月明かりだけを頼りに走るには、狭すぎる道であった。跳びかかれる距離に入るまで、いくらもない。夜の闇に、重い音がせわしなく響いた。三人は頷き合った。
ところが、馬車はその歩みを止めた。馬車にこちらを探る動きは無い。馬車は、ただ止まったようにみえた。気付かれたのか、それともただ気まぐれで止めたのかはわからなかった。
三人は動かなかった。馬車も動かない。やがて御者が口を開いた。
「やあ、あのときのお三方。三日ぶりですね」
気付かれていた。ミラベルは口に手を当て、地面に向かって返した。
「誰だ」
地面や草の反響を利用した声である。御者には、四方八方から声が聞こえているはずだ。これで、どこに隠れているか分かるまい。先手を取る必要があった。
「憶えておりませんか。馬車でご一緒した者ですよ。それにしても、何をなさったのですか? あなた方に懸賞金がかかってますよ」
憶えていたが、どうでもよいことだった。懸賞金も、言われるまでも無い。こちらとしては、金と衣服をいただければそれでいいのである。
「そうか。では金と命、どっちが惜しい?」
「あなた方が欲しいですね」
とぼけた男だと思った。流れは一定しない。あまり時間をかけるのも愚である。力に頼ろう。
「そうか。死ね」
ミラベルがそう言ったときにはすでに、ヨハンと岩男は跳んでいた。ヨハンは一直線に。岩男は地を這うように。常軌を逸した瞬発力であった。
ところが、そのまま男に直撃するかに見えたヨハンの体当たりと岩男のかち上げは、空を切っていた。岩男とヨハンは互いの体を衝突させ、大きくバランスを崩した。男の姿が、消えていた。
「これはひどい。突然襲い掛かってくるなんて。私があなた方に何かしましたか」
声は、ミラベルの頭上から降ってきた。伏せたミラベルの目の前に、男の革靴があった。動けなかった。
「私は闘技場の者です。あなた方を捕縛するつもりは、私にはありません。生憎教団とは仲が悪くてね」
「連れて行ってくれ」
言ったのは、岩男である。突拍子も無い発言に、ヨハンとミラベルは目を白黒させた。
「ちょっと、どういうつもり?」
「闘技場には、魔物が居るのだろう」
「信用できるものかな」
ヨハンとミラベルは警戒をあらわにする。お尋ね者の身としては、神経質にならざるを得ない。
「申しましたように、闘技場と教団は敵対しております。同様に教団に追われているあなた方は味方というわけだ」
「どちらにしても、情報が少なすぎる。付いてゆこう」
岩男は二人を諭した。うますぎる話だが、他にやりようが無いのも事実であった。
男の名はヴィンセントと言った。ヴィンセントは馬車を置くと、三人についてくるよう指示した。ヴィンセントは街道を首都の方面へしばらく歩くと、突然街道の外の草むらに入っていった。次第に背を高くしてゆく草むらは、やがて視界を完全に遮った。それからの道程は殆ど手探りであった。戻ることは出来ず、三人はヴィンセントについてゆくほか無かった。
「ねえ、まだ?」
不信感が首をもたげてきた頃、ヴィンセントは立ち止まった。その口が、小さく動いている。今度は警戒では済まなかった。三人は同時に跳んでいた。
と、不意に景色が開けていた。見ればヴィンセントを中心として、半径にして10メートルばかり、背の高い草が消えている。突然のことに、ヨハンとミラベルは着地に失敗してしりもちをついていた。
「な、なんだ!?」
草むらが消えているばかりではなかった。突如石造りの床と、階段が現れていた。
「この下になります」
なんということはない、とでも言うように、ヴィンセントは階段を指した。三人はすぐには動けなかった。
その様子に気がつくと、ヴィンセントは申し訳なさそうに言った。
「いえ、驚かせてすみません。教団に見つけられては何かと面倒ですので、こうして結界を張っているのですよ。さ、行きましょう」
「それならそうといってくれよ」
「全くだわ」
ヨハンとミラベルは無様な格好を見せた事を恥じているようであった。照れ隠しに、何事も無かったかのように、階段に向かって歩みだす。岩男だけが、突っ立ったままだった。視線は突然現れた階段に向けられている。
「どうかなさいましたか?」
気遣った風を見せ、ヴィンセントは岩男に声をかける。
「あんなことが出来るのは、勇者だけだと聞いたが」
ぽつりと、岩男は呟いた。疑問というよりは、興味の発言であった。あっと気がついたように、ヨハンとミラベルも顔を見合せた。
「いや、信用しないわけではない。お前なら、おれ達を捕まえるのに、こんなことはしないだろう」
岩男は街道での一件を思い出していた。虎ですら避ける事を能わない、高速で放った不意のぶちかましを、この男は余裕を以って避けて見せたのだ。ヴィンセントにその気があれば、体勢を崩したところへ寸分違わず必殺の一撃を打ち込まれていただろうと思う。
「ただ、気になった」
そこまで言うと、岩男も二人に倣って階段に向かった。ヴィンセントは、そのまま、佇んでいた。
「詳しいことは、言えません。私にはまだ、あなた方が、こちらの事情を言うに値する人格者であるか、判別がつかないのです。ですが、これだけは言っておきましょう。私も昔、教団の勇者でした」
「どうして、それが、今は闘技場で?」
ミラベルが問うた。同類を見つけたことの喜びがかすかにうかがえた。ヨハンも同じだった。
「魔物――人を殺すのが、嫌になったのです」
その目は、悲しげだった。岩男だけが、それを見ていなかった。
*
掘り下げられた暗い階段を下りてゆくと、空気が湿ったものになっているのに気がついた。壁に触れると、冷たく湿り、滑らかであった。見れば路は溶け出した岩で囲まれており、天井には岩のつららがぶら下がっている。硬い蝋で出来た洞窟に見えた。
「どうなってるの、これ」
壁に触れながらミラベルは問うた。ヨハンも岩男もヴィンセントに注目した。初めて見る景色だった。
「詳しくは、わかりません。ここに階段を作る以前は、丁度天井のつらら岩のように、地面からも岩が突き出ていました。それから考えると、原理は不明ですが、岩が溶けてこの空間を形作ったようです。夏場、蝋燭をぶら下げておくと、このようになるのはご存知でしょう」
「今も溶けてるの?」
「さて、どうでしょうか。少なくとも私が知る限り、天井のつららの伸びてゆく様は確認できていません。恐らくは、幾百年、あるいは幾千年をかけて少しずつ溶けていったのでしょう」
「気の遠くなる話だなあ。それだけに階段を作っちまったのはなんだかもったいねえや」
「よく言われます」
ヴィンセントは自嘲気味に笑った。
「岩男、こういうのはお前も初めて見るか」
壁を弄んでいた岩男に、話を振る。
「山にも、横穴はあった。だが、こんな穴は初めて見る。山の横穴は、土や沢山の石で出来ていた。ここの穴は一つの大きな岩だけで出来ている。こんなに大きな岩があるのか」
岩男は饒舌になっていた。いつも表情の少ない顔が、好奇心で輝いているように見える。その様子に、誰ともなくくすりと笑いを漏らした。
「お気に召されましたか?」
ヴィンセントは柔和に言った。
「面白いな」
岩男は滑らかな岩の表面に手を当てながら、それだけ言った。
一行は歩き続ける。気温が下がっていた。天井から下がるのは水滴と岩だけでなく、氷までもが含まれていた。ミラベルとヨハンは防寒着をまとっている。岩男も熊の毛皮を深く被りなおしていた。ヴィンセントだけが、そのままの姿であった。
「もう少しです」
直後、岩男が視線を前方に向ける。しばらくしてミラベルも怪訝な顔をした。
「何か聴こえるわ」
低い、風の音のようなものが、下から響いてくる。その音は、次第に近くなっていった。
一行は金属で出来た扉の前で足を止めていた。湿った空気に晒されているというのに、錆び一つ浮いていない。その冷たい金属の扉が、不思議な熱気を放っている。
今ではもう、先に聞こえた音が、かなり近くなっていた。扉の向こうから聞こえてくるようであった。歓声であった。それは、どこか人間の奥深くを鼓舞させるような響きを持っていた。誰かが音を立てて唾を飲んだ。
「ようこそ――」
不意に、熱い温度を持った何かが三人の体を叩きつけた。質量を持たないそれは下腹部に膨れ上がり、背骨を伝い脳髄まで一気に駆け上った。
「うお……」
ヨハンとミラベルは以前これに似たものと接したのを思い出していた。岩男の小屋だ。理性を狂わせる魔性の気――だが、何かがあのときとは違っていた。筋肉が躍動し、呼吸が荒くなる。沸騰した。
「すげえ」
ドーム状の空間。掘り下げられたその中心に形作られた六角形の牢獄。それを囲んで見下ろす群衆。牢獄の中の、二匹の獣。
二匹の獣は睨み合っていた。一方は体長を優に5メートルを超すかと思われる巨大な虎。もう一方は、人間の形をした、紛れも無い獣――魔物であった。虎は片目を潰され、鼻の一部を欠損していた。けれどもその戦意を少しも萎えさせること無く、険しさを全身に溜め、今にも襲い掛からんと構えている。しかし血に塗れた虎に対し、もう一方の獣は傷一つ負っていない。そして、魔物は素手であった。
魔物は身を低く構え、じりじりと虎に詰めている。虎は動かない。両者の緊張の弛むことなく、距離は縮まっていった。やがてその距離が、魔物が手を伸ばせば虎に触れることの出来る範囲まで狭まった。
一瞬の硬直。
先に動いたのは、虎であった。虎にしては短すぎる距離で、魔物に覆いかぶさるように飛びついた。一寸の隙も無い、素晴らしい動きであった。とても避けられまい、魔物は成すすべなく虎に捕まる。誰もが思ったに違いない。刹那、魔物の姿が、一瞬ぶれたように見えた。
虎の体が、魔物から大きく外れ、空を切っていた。魔物は、横切る虎を悠々と見ている。虎が着地する。
会場がどよめいた。そして、静寂。
突如、虎が、無茶苦茶に暴れだした。牢獄の端から端へ跳び回り、何度もその頭を打ち付けた。戦意喪失ではなかった。明らかに攻撃していた。魔物は、時々通りかかる虎をひょいひょいと避けるだけである。そのたびに虎は牢獄に激突する。何が起こったのか、虎は目標物を失っているようであった。
やがて虎は疲れたのか、その身を小さく伏せった。よく見れば、虎の、初め有ったはずのもう一方の目から、新しい血が流れていた。虎は両目を潰されていたのだ。伏せった虎を確認すると、魔物は静かに虎に歩み寄った。何の警戒も無い、ただの歩行であった。
虎の耳が、ピクリと反応する。魔物の足音を聞きつけたようだった。しかし、虎は立ち上がることは無かった。そればかりでなく、全身から険しいものを失くし、安らかに呼吸をしている。静かな虎の傍らに、魔物が立った。
魔物は屈むと、虎の喉を優しく撫でた。虎もそれに呼応し、気持ちよさそうに仰いだ。とてもそれまで殺しあっていた仲には見えず、まるで慣れ親しんだ者同士のやりとりであった。
どれくらいの間、そうしていただろう。長いようにも思えたが、それはただの一瞬にも感じられた。虎は喉を撫でる魔物の手を、ぺろりと舐めた。それが合図となったかのように、魔物が立ち上がった。
会場全体がため息を漏らす。涙さえ流すものもいた。ミラベルもいつしか、その眸に熱いものを湛えていた。殺し合いの果てに、友情が芽生えたのだ。両目を失った虎は、魔物と共に新たな生を歩むだろう。皆、そう確信した。但し、観戦者の一人を除いては。
「良いな、こういうのも。なあ、岩男」
岩男は無表情に牢獄を見ていた。ヨハンはその様子を見、少し訝しんだ。
「まだ、終わりじゃない」
岩男が小さく言った瞬間であった。重く、湿った音が、鳴り響いた。
恐怖と驚きに引きつらせた声が、どこからか聞こえた。ヨハンは牢獄を振り返った。
魔物の拳が、虎の頭に深くめり込んでいた。虎の体が、不規則なリズムで不気味に跳ねた。魔物の拳が、虎の頭から引き抜かれる。それに一泊遅れて、虎の耳、鼻、目、口から夥しく血が流れ出した。虎は死んでいた。
「なんで……?」
ミラベルが誰にとも無く、問うた。
「喰う為だろう」
それに答えたのは岩男であった。ただし、その視線はヴィンセントに向けられている。
「ええ、そうです」
「だからって、こんな……」
普段飄々としているミラベルが悲しそうな表情を見せている。余程応えたようだった。
「この世は弱肉強食です。強者たる人間は、他の生き物を自由にする能力があり、それは権利と直結するものです。ただ、コロシアムの毎回がこうした終わり方をするわけではありません。魔物、あるいは人間が獣に殺されることもあります。ですが、それもまた、弱肉強食です。もちろん勝者たる獣には自由が与えられます。しかし、時には野に帰らず、ここで戦いを続けようとする獣も居ります。今しがた鉢を割られ死んだ虎も、そういった類の個体でありました。我々は強者であり、支配者でありますが、あくまでそれは個々の自由と平等に基づくものであって、教団の目指す、人間のだけを中心とした驕った意識にはありません」
「魔物は自らここに?」
「無論。先に言った通り、我々の目指すところは教団とは相反しております。我々は魔物と人間の共存、つまり真の平等を求めております。そうした意志に同調したのが、ここに居る魔物達です」
「何故、見世物にまでして戦う必要がある。喰うだけなら、こんなものは要らんだろう」
「理想だけを追い求めていては、どんなことも成しえないのですよ。あなたにはまだ、理解していただけるとは思いませんが、人間の社会は金で回っています。賭博場というところは、時には信じられない金額が動く。その金に釣られて、様々な人間がここに集まるのです。執政者、軍人、ときには教団の幹部まで。我々はそれらを伝い、あるいは使い、活動しているのです」
「危険だな」
「信じてもらうほか、ありません。このような事をあなた方に申し上げたのが、何よりの証拠で御座います」
二人は見詰め合った。請う目と、何物も映さぬ眸。
「食事にしましょう。振舞いますよ」
気がつくと、会場の人間はまばらになっていた。一行はヴィンセントに案内されるがまま付き従った。
*
案内されたのは、存外に小さな質素な食卓であった。テーブルクロスが敷かれている他、飾りは無いに等しい。とはいえ大量の料理を載せるためか、狭くは無い。
岩男は戸惑わずには居られなかった。テーブル、椅子、ナイフ、フォーク、いずれも初めて見るものだった。ナイフはその形状と刃から、切り、あるいは刺すものであると察したものの、フォークは何に使うのか、全く分からなかった。刺すことは出来るかもしれないが、あまりにも短く、串焼きには不向きである。手にとって握ってみると脆いもので、少しも力をかけていないのに曲がってしまった。ヨハンとミラベルがそれを見てにやにや笑っている。
「なんだ、これは?」
「フォークと、ナイフよ」
「知らねえのか」
「知らん。が、使い方くらいは分かる」
「へえ。どうやるのよ」
「こっちは、切る。そして食う」
「フォークは?」
「使わん」
二人揃って、噴出した。腹が捩れんばかりに笑っている。岩男は少し、ムッときた。
「笑うな」
ナイフは切るものである。武器にもなるものである。脅しと怒りの表現で、岩男はナイフを掴んだ。但し、逆手であった。それが一層二人の笑いを誘った。岩男は俯いた。
そこへ、若い女の給仕が来た。手には盆を持っており、そこにはワイングラスと、瓶が載っている。各々の前にグラスを置くと、コルクを抜き、ワインを注いだ。堂に入った手際であった。
ワインを見て、岩男がまた目を瞠った。なんだこれは? そういう目であった。
「安心しろよ。毒じゃないから」
ヨハンが言う。毒じゃないというのだから、飲むものらしい。だが、この血の色をした水を飲んだところで喉が潤うのか、甚だ疑問であった。ただ、匂いはすえた果物であった。しかも、かなり強い。岩男は意を決して一息に飲み干した。
「あッ。馬鹿!」
初めて見るということは、初めて飲む酒である。所詮ワインであるが、慣れないうちに一気飲みするものではない。
「ごっぶ!」
案の定、岩男は吐き出した。苦しそうに咳き込んでいる。その際鼻腔にも侵入したのか、強く鼻を啜り、また激しく咳き込んだ。その目が、恨めしそうにヨハンを睨んでいる。
「いや、悪い。言うべきだったな。酒ってなそういうもんなんだ。だが味は良いだろ」
味など、殆ど分からなかった。喉が熱く、口と鼻から何かが抜けてゆくような感覚がある。この奇妙な水を、岩男は好きになれそうになかった。
「彼に葡萄水を」
すかさず、ヴィンセントが給仕に言った。給仕は、何時載せたのか、ワインではない瓶と新しいグラスを携えて立っていた。また、先ほどと同じように注いだ。今度は、少し緑がかった色の水であった。
「もう、いい」
酒はもういいと言わんばかりの岩男に、それでも給仕は差し出した。仕方なく岩男は受け取る。
「これは先ほどのとは違いますよ」
岩男は匂いを嗅いだ。確かに、さっきとは違った匂いだ。同じ果物を使っているのだろうが、先のものが刺激するように強い匂いだったのに対し、こちらは随分爽やかだ。やはり岩男は一息に飲み干した。
今度は、吐かなかった。ただ、目にはこれまでとは違ったものがあった。
「果物の汁か、これは。こんな美味い果物があるのか」
「お気に召しましたか」
ヴィンセントは笑った。
「美味い。もっとくれ」
岩男は無邪気に言い、給仕にグラスを差し出した。その目は真っ直ぐ、給仕を見ている。ヨハンとミラベルは、給仕の顔がほんのりと赤くなっているのを見逃さなかった。
「変わってるだろ、そいつ。でも駄目だぜおねえさん。そいつは居なくなっちまった魔物の嫁さんを探して旅してるんだ」
給仕の顔が、目に見えて赤くなってゆく。ついには葡萄水の入った瓶をテーブルに置き去りにして、下がってしまった。
「初心ねえ」
助平根性丸出しの笑いを隠さぬ二人に、岩男は怪訝に思うほか無かった。岩男のそれは、最早そういったものとは別の次元にあった。
そのとき、突然部屋の扉が勢い良く開け放たれた。
「ヴィンセント! 旨そうな匂いがするぞ!」
現れたのは、豚の尾と耳を生やした女、否、魔物であった。肉付きよく、脂肪の内に筋肉のうねりが見え隠れする。あの、虎と戦っていた魔物であった。
「お、オークか……」
教団の人間であっただけに、ヨハンとミラベルは未だ警戒を隠せない。
「なんだ、オークで悪いか! モヤシ小僧!」
「も、もやし……」
「メアリー。客人に失礼ですよ。ところでもうじきさっきの虎が出てきますよ。あなたもどうですか」
ヴィンセントはメアリーと呼ばれた魔物を静かにたしなめると、座るよう勧めた。
「要らん! あたしが欲しいのはこいつだ! 食わせろ!」
そう喚いて指差した先に居たのは、葡萄水をしきりに飲み続ける岩男であった。
「さっきからもてすぎだろ、こいつ……」
*
岩男は、指名されたにもかかわらず、それを無視して葡萄水を飲んでいた。最初に比べ、匂いを嗅いだり、舌で転がしたりと随分味わっている。旨いかどうか分からぬ魔物を殺して食うよりは、この世のものとは思えぬほどの美味を出す葡萄水を飲んで方が良い。そう思ってのことだった。
岩男以外の人間は、メアリーの言った事を理解していた。オークという種族は好色で知られている。メアリーの言った"食う"とは、食にあらず、性のことであった。恐らくは魔物の本能で岩男の尋常ならざる精力を嗅ぎつけ、やってきたのだろう。比較されたヨハンがモヤシと言われたのも頷ける。
「おい、無視すんな! 表ェ出ろ!」
メアリーはなおも喚き散らす。岩男が無視する。
「メアリー。岩男さんが困っていますよ」
「知るか! こうなったら力ずくでも……」
岩男に向かって、一歩踏み出す。そのとき、岩男が静かに立ち上がった。
「おれはお前を食いたいとは思わない。が、食われるつもりも無い。お前がその気なら、おれもやってやる」
「おォ! いいじゃねえか! 食ってやるぞ!」
そういうことになった。止めようにも、本人たちはやる気である。ヴィンセントは困ったように頭をかいた。
「しょうがないですね。ただしここではやめてください。岩男さん、コロシアムに案内します」
一行は六角形の牢獄を見上げていた。遠目では分からなかったが、鉄格子に数え切れぬほど刻まれた傷や、血で錆びた跡などから、今まで行われてきた戦いの激しさがうかがえた。
「いいですか、メアリー、岩男さん。危険だと分かればすぐに止めますよ。くれぐれも無理はなさらぬように」
ヴィンセントが二人に言い聞かせる。
「開けてくれ」
ヴィンセントの心労を知らず、岩男が急かした。その様子に諦めたように、大人しく牢獄を開く。
まず、岩男が先に入った。そして、その後にメアリーが続く。血走った目だった。腿の内側が、不自然に濡れている。すでに発情しているようであった。
「すげえ……」
「なにがよ」
「がっ」
ヨハンが、ミラベルに金的を喰らっていた。
「それでは、閉めますので、閉めたら始めてください」
幾分投げやりな言葉と共に、重い音を立てて格子が閉められた。その音と、ほぼ同時であった。
メアリーの体が、格子に激しく叩きつけられていた。メアリーは悶絶して倒れた。血の泡を吹いている。その頭部を、岩男が無造作に蹴っ飛ばした。それきり、メアリーは気絶したようだった。
「おい、出せ」
気絶したメアリーを小脇に抱えた岩男が言った。しかし、三人が三人とも、呆気に取られ動けないでいた。余りにも一方的な、勝負とはとてもいえぬ戦い。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません。今開けます」
ようやく我に返ったヴィンセントが、格子を開いた。のそりと外に出た岩男がメアリーをヴィンセントに差し出す。
「殺してはいない。起きたときに言ってやれ。"勝てない戦いはするな"。それよりも、ヴィンセント」
「なんでしょう」
「腹が減った」
ヨハンが、渇いた笑いを漏らした。ミラベルもそれに釣られて笑った。
医務室に気絶したメアリーを寝かせに行った後、再び一行は食卓に着いた。三人は食事を大いに楽しんだ。ヨハンとミラベルには、久方ぶりの料理。岩男に関しては、生まれて初めての料理であった。今まで食べていたのは、調理であって料理ではなく、また人間の食べ物ではないと実感させられた。葡萄水を初めとして、新たな文化を見出した岩男の喜びは、旨い料理にありつけただけのそれとは比較にならなかった。下界、人間界の素晴らしさ。ワーラビットの言っていたことに、偽りは無かった。いつかこの料理をあいつにも食べさせてやりたい。心底、そう思った。
岩男はナイフも、フォークも使わなかった。肉汁の滲むステーキを鷲づかみにし、齧り付く。手は膏で汚れたが、気にしなかった。食卓は激しく汚れたものの、料理者からすれば、これほど喜んでもらえたことに感謝以外の気持ちは無い。汚い食べっぷりではあるが、凄まじい。
そこへ、首に包帯を巻いたメアリーが現れた。それを見て、ヨハンとミラベルは腰を浮かせる。先の一戦は、殆ど不意打ちの一撃で終わってしまった。それで納得するはずが無い。もう一戦、あるいはお礼参りに来たのかもしれなかった。ヴィンセントはメアリーを横目で見、岩男に至ってはまたも、無視した。
メアリーは岩男に向かって、一直線に歩いていった。だが、どこか様子がおかしい。殺気、怒気、そういった負感情が、表情に全く表れていないのだ。そればかりか、明らかな親愛の情が浮かんでいる。ヨハンとミラベルはタイミングを逸した。メアリーは、既に岩男の傍らにいた。腿をすり合わせながら、岩男に熱い視線を送っている。発情していた。
それを知りながらにして、岩男は無視を決めている。何となくだが、碌な事ではなかろうと思っていた。
岩男の読みは全く正確であった。何を思ったのかメアリーが、岩男の腕に、豊満な乳房が変形するほど押し付けてしなだれかかったのである。ヨハンは口に含んでいたものを盛大に噴出した。
「あ、な、た」
今度はミラベルが噴出した。これは笑いによるものである。
「愛しております。お慕い申し上げます。わたくし、あなたに一生、いえ、死んでも、ついてゆきます」
岩男は無視を通そうとする。だが、その顔が未だ嘗て無いほどに、歪んでいた。あからさまに嫌な表情だった。
「おい、ヴィンセント。あたしはここを辞めるぞ」
言ったのは、岩男に縋り付いたメアリーである。岩男に対するものと、打って変わった口調である。岩男が、ヴィンセントをただならぬ目で見ていた。縋るような目つきであった。勘弁してくれ。そう言っている。
ヴィンセントは頭を掻いた。オークの特性は知っていた。言っても聞くまい。仕方が無かった。
「迷惑をかけないようにするんですよ」
岩男は見るからに落胆した。視線をテーブルに落としている。食指も止まっていた。
「どうしたの。あ、な、た。もしかして、食べさせてもらいたいの?」
「どうすんだ。置いて行っても着いてくるぜあれじゃ」
「面白いじゃない。少なくとも敵じゃないし」
あくまでも、遠くから見る分には。そう言っている。ヨハンには嫌そうな顔の岩男が気の毒だった。
今も、メアリーは岩男に口移しで肉を食べさせようとしている。岩男は必死に顔を背けようとしていた。
「ヒュウ、熱いわね」
「怖えよ」
*
食事を終えるとヴィンセントは、岩男たちを闘技場に勧誘した。闘技場には、ヨハンとミラベル同様に教団を抜け出してきた者が数多く居るようだった。身分をなくした二人にはうれしい申し出であったが、悩んだ末に結局断った。しかし、ただ断るというものではない。代わりに、闘技場と協力関係を結び、教団に関する情報を交換し合おうと約束したのである。
ヴィンセントは岩男に協力的であった。魔物である妻に執着し、教団と敵対してまで捜し求める岩男の存在は闘技場の理念を象徴していたのだ。加えて理由は不明であるが教団の欲しがろうとする岩男である、教団と敵対する闘技場としては保護すべき対象であった。闘技場と協定を結ぶ集落と連絡しあい、それと思しきワーラビットを見かけたら報告するとのことであった。岩男は迷うことなくそれを受け入れた。
闘技場を後にする際、一行は必要な装備品を与えられた。ヨハンとミラベルには田舎の農夫が身に着けるような質素な衣装を、体が大きくどうしても目立ってしまう岩男には手甲とサンダルを。岩男はこれまでずっと、裸足であったのだ。二人の長剣は目を引くという理由で置いてゆくことにした。どちらにせよ、勇者の力を持つ二人には短剣があればそれで事足りるのだ。
そして、やはりと言うべきか、オークのメアリーは岩男について行くと言い張った。ヨハンとミラベルは了承したが、岩男はあまり乗り気でないようだった。元々他人と接することの無かった岩男であるから、あのように纏わり付かれるのは苦手である。メアリーはそれに気がついているのか、いないのか、どちらにしても勝手に着いてくるつもりであるらしい。甲斐甲斐しく岩男に付き従い、身の回りのことは何でもやろうとした。ミラベルが言うに、それがオークの習性のようだった。普段は高慢だが、自分を打ち負かした者には惚れこみ、隷従するという。それにしては図々しいところがあったが。
かくして、闘技場に立ち寄ったことは無益ではなかった。これより向かうは岩男の山を抜けた先の、東方である。東方には魔物の集落が数多く存在し、闘技場の息のかかったところもあるという。ヴィンセントも、岩男の向かう先をそこに勧めた。
洞窟を抜けると、高く生い茂る草の隙間から光が見えた。朝焼けであった。高が夜の間、入っていた地下ではあったが、太陽が随分久しく感じられた。太陽の昇ると共に、一行は東へと向かった。
*
「行ってしまったな」
薄暗い部屋の中、男女がテーブルを挟み、茶を飲んでいた。
「良いのかね、一緒に行きたかったのだろう」
男の声が聞こえているか居ないか、女は俯いていた。
「しかし、足手まといになるかね、やはり」
女が、ぴくりと反応した。薄暗闇の中、唇を噛むのがわかる。
「恋というのは、どうもやっかいだね。人は、思いもよらず、異性のふとした仕草に心を奪われる。そしてそれは、永久に、死ぬまで消えることは無い。このことは、これからも、君の心を苛んで、後悔させることだろう」
女は黙っている。その肩がかすかに震えていた。
「中々吹っ切れるものではない。そうだろう。あのとき、意思を伝えていれば。あるいは、自分に能力があれば、連れて行ってもらえたかもしれない。そうすれば、あんな豚に先を越されることも、なかったじゃあないか、とね」
「何が、言いたいのですか?」
女は羞恥に震える声を絞り出した。目の前の男は、明らかに自分を言葉の刃でなぶっている。しかも、いかにも楽しげに、面白そうにだ。
「彼に追いつき、振り向いてもらうだけの、力が欲しいかね」
女はハッとした。いつの間にか、男が傍らに立っていたのだ。
「どうだい?」
「……ぃ」
「聴こえないな」
女は、唇をぎゅっと結んだ。そして大きく息を吸うと、言った。
「ほしい」
「良いだろう。よくぞ言った。君は、我らの中から初めて生まれた"目覚めし者"。アナスタシア。それが君の新しい名だ」
アナスタシア――女は心の中で反芻した。深淵で、重く、暗いものが煮立っていた。
しかし、旅の配分を間違えた間抜けは中々現れなかった。もう、三日目になる。追手は今のところ見られないが、それがかえって不気味だった。
「厭きたわ。案外静かなものね」
柔らかい草の上に寝転がりながら、ミラベルが言う。その目は遠く、星を見ていた。街道を見張る気はすでに無いらしい。
「白昼堂々に強盗が勤まるかよ」
と、ヨハン。
「力技よ」
ぬけぬけと言う。それきり、また静寂が訪れた。人や獣の気配はなく、虫たちの声がある。さらに耳を澄ますと、遠くで風の音がした。深い、耳鳴りのような音だった。
不意に、耳鳴りが止んだ。黙々と見張っていた岩男が、居なおし、二人のほうを向いた。その五感が何かを察知したらしい。
「どうした?」
声を潜めて、ヨハンは問うた。
「鈍いわね。馬車よ」
振り向くと、ミラベルは起き上がっていた。獰猛な笑みを浮かべている。二人の耳は車輪の土を踏む音を捉えたようだが、ヨハンにはそれを感ずることは出来なかった。
三人は微動だにせず、馬車を待ち受けた。そのうちに、ヨハンにも固い土の擦れる音と、荷物の揺れる音が聞こえてきた。
作戦は単純であった。旅人が射程範囲に来たとき、三人一挙に飛び掛る。徒歩の場合はまず一撃をくれて動きを止めてやり、それから落とす。馬車の場合は、御者を同様の方法で気絶させておき、それから車の中身を見る。間抜けな旅人は何も分からぬうちに朝を迎え、そして追い剥ぎに遭った事を知るだろう。
何も知らぬ馬車は、ゆっくりとした速度で進んでくる。月明かりだけを頼りに走るには、狭すぎる道であった。跳びかかれる距離に入るまで、いくらもない。夜の闇に、重い音がせわしなく響いた。三人は頷き合った。
ところが、馬車はその歩みを止めた。馬車にこちらを探る動きは無い。馬車は、ただ止まったようにみえた。気付かれたのか、それともただ気まぐれで止めたのかはわからなかった。
三人は動かなかった。馬車も動かない。やがて御者が口を開いた。
「やあ、あのときのお三方。三日ぶりですね」
気付かれていた。ミラベルは口に手を当て、地面に向かって返した。
「誰だ」
地面や草の反響を利用した声である。御者には、四方八方から声が聞こえているはずだ。これで、どこに隠れているか分かるまい。先手を取る必要があった。
「憶えておりませんか。馬車でご一緒した者ですよ。それにしても、何をなさったのですか? あなた方に懸賞金がかかってますよ」
憶えていたが、どうでもよいことだった。懸賞金も、言われるまでも無い。こちらとしては、金と衣服をいただければそれでいいのである。
「そうか。では金と命、どっちが惜しい?」
「あなた方が欲しいですね」
とぼけた男だと思った。流れは一定しない。あまり時間をかけるのも愚である。力に頼ろう。
「そうか。死ね」
ミラベルがそう言ったときにはすでに、ヨハンと岩男は跳んでいた。ヨハンは一直線に。岩男は地を這うように。常軌を逸した瞬発力であった。
ところが、そのまま男に直撃するかに見えたヨハンの体当たりと岩男のかち上げは、空を切っていた。岩男とヨハンは互いの体を衝突させ、大きくバランスを崩した。男の姿が、消えていた。
「これはひどい。突然襲い掛かってくるなんて。私があなた方に何かしましたか」
声は、ミラベルの頭上から降ってきた。伏せたミラベルの目の前に、男の革靴があった。動けなかった。
「私は闘技場の者です。あなた方を捕縛するつもりは、私にはありません。生憎教団とは仲が悪くてね」
「連れて行ってくれ」
言ったのは、岩男である。突拍子も無い発言に、ヨハンとミラベルは目を白黒させた。
「ちょっと、どういうつもり?」
「闘技場には、魔物が居るのだろう」
「信用できるものかな」
ヨハンとミラベルは警戒をあらわにする。お尋ね者の身としては、神経質にならざるを得ない。
「申しましたように、闘技場と教団は敵対しております。同様に教団に追われているあなた方は味方というわけだ」
「どちらにしても、情報が少なすぎる。付いてゆこう」
岩男は二人を諭した。うますぎる話だが、他にやりようが無いのも事実であった。
男の名はヴィンセントと言った。ヴィンセントは馬車を置くと、三人についてくるよう指示した。ヴィンセントは街道を首都の方面へしばらく歩くと、突然街道の外の草むらに入っていった。次第に背を高くしてゆく草むらは、やがて視界を完全に遮った。それからの道程は殆ど手探りであった。戻ることは出来ず、三人はヴィンセントについてゆくほか無かった。
「ねえ、まだ?」
不信感が首をもたげてきた頃、ヴィンセントは立ち止まった。その口が、小さく動いている。今度は警戒では済まなかった。三人は同時に跳んでいた。
と、不意に景色が開けていた。見ればヴィンセントを中心として、半径にして10メートルばかり、背の高い草が消えている。突然のことに、ヨハンとミラベルは着地に失敗してしりもちをついていた。
「な、なんだ!?」
草むらが消えているばかりではなかった。突如石造りの床と、階段が現れていた。
「この下になります」
なんということはない、とでも言うように、ヴィンセントは階段を指した。三人はすぐには動けなかった。
その様子に気がつくと、ヴィンセントは申し訳なさそうに言った。
「いえ、驚かせてすみません。教団に見つけられては何かと面倒ですので、こうして結界を張っているのですよ。さ、行きましょう」
「それならそうといってくれよ」
「全くだわ」
ヨハンとミラベルは無様な格好を見せた事を恥じているようであった。照れ隠しに、何事も無かったかのように、階段に向かって歩みだす。岩男だけが、突っ立ったままだった。視線は突然現れた階段に向けられている。
「どうかなさいましたか?」
気遣った風を見せ、ヴィンセントは岩男に声をかける。
「あんなことが出来るのは、勇者だけだと聞いたが」
ぽつりと、岩男は呟いた。疑問というよりは、興味の発言であった。あっと気がついたように、ヨハンとミラベルも顔を見合せた。
「いや、信用しないわけではない。お前なら、おれ達を捕まえるのに、こんなことはしないだろう」
岩男は街道での一件を思い出していた。虎ですら避ける事を能わない、高速で放った不意のぶちかましを、この男は余裕を以って避けて見せたのだ。ヴィンセントにその気があれば、体勢を崩したところへ寸分違わず必殺の一撃を打ち込まれていただろうと思う。
「ただ、気になった」
そこまで言うと、岩男も二人に倣って階段に向かった。ヴィンセントは、そのまま、佇んでいた。
「詳しいことは、言えません。私にはまだ、あなた方が、こちらの事情を言うに値する人格者であるか、判別がつかないのです。ですが、これだけは言っておきましょう。私も昔、教団の勇者でした」
「どうして、それが、今は闘技場で?」
ミラベルが問うた。同類を見つけたことの喜びがかすかにうかがえた。ヨハンも同じだった。
「魔物――人を殺すのが、嫌になったのです」
その目は、悲しげだった。岩男だけが、それを見ていなかった。
*
掘り下げられた暗い階段を下りてゆくと、空気が湿ったものになっているのに気がついた。壁に触れると、冷たく湿り、滑らかであった。見れば路は溶け出した岩で囲まれており、天井には岩のつららがぶら下がっている。硬い蝋で出来た洞窟に見えた。
「どうなってるの、これ」
壁に触れながらミラベルは問うた。ヨハンも岩男もヴィンセントに注目した。初めて見る景色だった。
「詳しくは、わかりません。ここに階段を作る以前は、丁度天井のつらら岩のように、地面からも岩が突き出ていました。それから考えると、原理は不明ですが、岩が溶けてこの空間を形作ったようです。夏場、蝋燭をぶら下げておくと、このようになるのはご存知でしょう」
「今も溶けてるの?」
「さて、どうでしょうか。少なくとも私が知る限り、天井のつららの伸びてゆく様は確認できていません。恐らくは、幾百年、あるいは幾千年をかけて少しずつ溶けていったのでしょう」
「気の遠くなる話だなあ。それだけに階段を作っちまったのはなんだかもったいねえや」
「よく言われます」
ヴィンセントは自嘲気味に笑った。
「岩男、こういうのはお前も初めて見るか」
壁を弄んでいた岩男に、話を振る。
「山にも、横穴はあった。だが、こんな穴は初めて見る。山の横穴は、土や沢山の石で出来ていた。ここの穴は一つの大きな岩だけで出来ている。こんなに大きな岩があるのか」
岩男は饒舌になっていた。いつも表情の少ない顔が、好奇心で輝いているように見える。その様子に、誰ともなくくすりと笑いを漏らした。
「お気に召されましたか?」
ヴィンセントは柔和に言った。
「面白いな」
岩男は滑らかな岩の表面に手を当てながら、それだけ言った。
一行は歩き続ける。気温が下がっていた。天井から下がるのは水滴と岩だけでなく、氷までもが含まれていた。ミラベルとヨハンは防寒着をまとっている。岩男も熊の毛皮を深く被りなおしていた。ヴィンセントだけが、そのままの姿であった。
「もう少しです」
直後、岩男が視線を前方に向ける。しばらくしてミラベルも怪訝な顔をした。
「何か聴こえるわ」
低い、風の音のようなものが、下から響いてくる。その音は、次第に近くなっていった。
一行は金属で出来た扉の前で足を止めていた。湿った空気に晒されているというのに、錆び一つ浮いていない。その冷たい金属の扉が、不思議な熱気を放っている。
今ではもう、先に聞こえた音が、かなり近くなっていた。扉の向こうから聞こえてくるようであった。歓声であった。それは、どこか人間の奥深くを鼓舞させるような響きを持っていた。誰かが音を立てて唾を飲んだ。
「ようこそ――」
不意に、熱い温度を持った何かが三人の体を叩きつけた。質量を持たないそれは下腹部に膨れ上がり、背骨を伝い脳髄まで一気に駆け上った。
「うお……」
ヨハンとミラベルは以前これに似たものと接したのを思い出していた。岩男の小屋だ。理性を狂わせる魔性の気――だが、何かがあのときとは違っていた。筋肉が躍動し、呼吸が荒くなる。沸騰した。
「すげえ」
ドーム状の空間。掘り下げられたその中心に形作られた六角形の牢獄。それを囲んで見下ろす群衆。牢獄の中の、二匹の獣。
二匹の獣は睨み合っていた。一方は体長を優に5メートルを超すかと思われる巨大な虎。もう一方は、人間の形をした、紛れも無い獣――魔物であった。虎は片目を潰され、鼻の一部を欠損していた。けれどもその戦意を少しも萎えさせること無く、険しさを全身に溜め、今にも襲い掛からんと構えている。しかし血に塗れた虎に対し、もう一方の獣は傷一つ負っていない。そして、魔物は素手であった。
魔物は身を低く構え、じりじりと虎に詰めている。虎は動かない。両者の緊張の弛むことなく、距離は縮まっていった。やがてその距離が、魔物が手を伸ばせば虎に触れることの出来る範囲まで狭まった。
一瞬の硬直。
先に動いたのは、虎であった。虎にしては短すぎる距離で、魔物に覆いかぶさるように飛びついた。一寸の隙も無い、素晴らしい動きであった。とても避けられまい、魔物は成すすべなく虎に捕まる。誰もが思ったに違いない。刹那、魔物の姿が、一瞬ぶれたように見えた。
虎の体が、魔物から大きく外れ、空を切っていた。魔物は、横切る虎を悠々と見ている。虎が着地する。
会場がどよめいた。そして、静寂。
突如、虎が、無茶苦茶に暴れだした。牢獄の端から端へ跳び回り、何度もその頭を打ち付けた。戦意喪失ではなかった。明らかに攻撃していた。魔物は、時々通りかかる虎をひょいひょいと避けるだけである。そのたびに虎は牢獄に激突する。何が起こったのか、虎は目標物を失っているようであった。
やがて虎は疲れたのか、その身を小さく伏せった。よく見れば、虎の、初め有ったはずのもう一方の目から、新しい血が流れていた。虎は両目を潰されていたのだ。伏せった虎を確認すると、魔物は静かに虎に歩み寄った。何の警戒も無い、ただの歩行であった。
虎の耳が、ピクリと反応する。魔物の足音を聞きつけたようだった。しかし、虎は立ち上がることは無かった。そればかりでなく、全身から険しいものを失くし、安らかに呼吸をしている。静かな虎の傍らに、魔物が立った。
魔物は屈むと、虎の喉を優しく撫でた。虎もそれに呼応し、気持ちよさそうに仰いだ。とてもそれまで殺しあっていた仲には見えず、まるで慣れ親しんだ者同士のやりとりであった。
どれくらいの間、そうしていただろう。長いようにも思えたが、それはただの一瞬にも感じられた。虎は喉を撫でる魔物の手を、ぺろりと舐めた。それが合図となったかのように、魔物が立ち上がった。
会場全体がため息を漏らす。涙さえ流すものもいた。ミラベルもいつしか、その眸に熱いものを湛えていた。殺し合いの果てに、友情が芽生えたのだ。両目を失った虎は、魔物と共に新たな生を歩むだろう。皆、そう確信した。但し、観戦者の一人を除いては。
「良いな、こういうのも。なあ、岩男」
岩男は無表情に牢獄を見ていた。ヨハンはその様子を見、少し訝しんだ。
「まだ、終わりじゃない」
岩男が小さく言った瞬間であった。重く、湿った音が、鳴り響いた。
恐怖と驚きに引きつらせた声が、どこからか聞こえた。ヨハンは牢獄を振り返った。
魔物の拳が、虎の頭に深くめり込んでいた。虎の体が、不規則なリズムで不気味に跳ねた。魔物の拳が、虎の頭から引き抜かれる。それに一泊遅れて、虎の耳、鼻、目、口から夥しく血が流れ出した。虎は死んでいた。
「なんで……?」
ミラベルが誰にとも無く、問うた。
「喰う為だろう」
それに答えたのは岩男であった。ただし、その視線はヴィンセントに向けられている。
「ええ、そうです」
「だからって、こんな……」
普段飄々としているミラベルが悲しそうな表情を見せている。余程応えたようだった。
「この世は弱肉強食です。強者たる人間は、他の生き物を自由にする能力があり、それは権利と直結するものです。ただ、コロシアムの毎回がこうした終わり方をするわけではありません。魔物、あるいは人間が獣に殺されることもあります。ですが、それもまた、弱肉強食です。もちろん勝者たる獣には自由が与えられます。しかし、時には野に帰らず、ここで戦いを続けようとする獣も居ります。今しがた鉢を割られ死んだ虎も、そういった類の個体でありました。我々は強者であり、支配者でありますが、あくまでそれは個々の自由と平等に基づくものであって、教団の目指す、人間のだけを中心とした驕った意識にはありません」
「魔物は自らここに?」
「無論。先に言った通り、我々の目指すところは教団とは相反しております。我々は魔物と人間の共存、つまり真の平等を求めております。そうした意志に同調したのが、ここに居る魔物達です」
「何故、見世物にまでして戦う必要がある。喰うだけなら、こんなものは要らんだろう」
「理想だけを追い求めていては、どんなことも成しえないのですよ。あなたにはまだ、理解していただけるとは思いませんが、人間の社会は金で回っています。賭博場というところは、時には信じられない金額が動く。その金に釣られて、様々な人間がここに集まるのです。執政者、軍人、ときには教団の幹部まで。我々はそれらを伝い、あるいは使い、活動しているのです」
「危険だな」
「信じてもらうほか、ありません。このような事をあなた方に申し上げたのが、何よりの証拠で御座います」
二人は見詰め合った。請う目と、何物も映さぬ眸。
「食事にしましょう。振舞いますよ」
気がつくと、会場の人間はまばらになっていた。一行はヴィンセントに案内されるがまま付き従った。
*
案内されたのは、存外に小さな質素な食卓であった。テーブルクロスが敷かれている他、飾りは無いに等しい。とはいえ大量の料理を載せるためか、狭くは無い。
岩男は戸惑わずには居られなかった。テーブル、椅子、ナイフ、フォーク、いずれも初めて見るものだった。ナイフはその形状と刃から、切り、あるいは刺すものであると察したものの、フォークは何に使うのか、全く分からなかった。刺すことは出来るかもしれないが、あまりにも短く、串焼きには不向きである。手にとって握ってみると脆いもので、少しも力をかけていないのに曲がってしまった。ヨハンとミラベルがそれを見てにやにや笑っている。
「なんだ、これは?」
「フォークと、ナイフよ」
「知らねえのか」
「知らん。が、使い方くらいは分かる」
「へえ。どうやるのよ」
「こっちは、切る。そして食う」
「フォークは?」
「使わん」
二人揃って、噴出した。腹が捩れんばかりに笑っている。岩男は少し、ムッときた。
「笑うな」
ナイフは切るものである。武器にもなるものである。脅しと怒りの表現で、岩男はナイフを掴んだ。但し、逆手であった。それが一層二人の笑いを誘った。岩男は俯いた。
そこへ、若い女の給仕が来た。手には盆を持っており、そこにはワイングラスと、瓶が載っている。各々の前にグラスを置くと、コルクを抜き、ワインを注いだ。堂に入った手際であった。
ワインを見て、岩男がまた目を瞠った。なんだこれは? そういう目であった。
「安心しろよ。毒じゃないから」
ヨハンが言う。毒じゃないというのだから、飲むものらしい。だが、この血の色をした水を飲んだところで喉が潤うのか、甚だ疑問であった。ただ、匂いはすえた果物であった。しかも、かなり強い。岩男は意を決して一息に飲み干した。
「あッ。馬鹿!」
初めて見るということは、初めて飲む酒である。所詮ワインであるが、慣れないうちに一気飲みするものではない。
「ごっぶ!」
案の定、岩男は吐き出した。苦しそうに咳き込んでいる。その際鼻腔にも侵入したのか、強く鼻を啜り、また激しく咳き込んだ。その目が、恨めしそうにヨハンを睨んでいる。
「いや、悪い。言うべきだったな。酒ってなそういうもんなんだ。だが味は良いだろ」
味など、殆ど分からなかった。喉が熱く、口と鼻から何かが抜けてゆくような感覚がある。この奇妙な水を、岩男は好きになれそうになかった。
「彼に葡萄水を」
すかさず、ヴィンセントが給仕に言った。給仕は、何時載せたのか、ワインではない瓶と新しいグラスを携えて立っていた。また、先ほどと同じように注いだ。今度は、少し緑がかった色の水であった。
「もう、いい」
酒はもういいと言わんばかりの岩男に、それでも給仕は差し出した。仕方なく岩男は受け取る。
「これは先ほどのとは違いますよ」
岩男は匂いを嗅いだ。確かに、さっきとは違った匂いだ。同じ果物を使っているのだろうが、先のものが刺激するように強い匂いだったのに対し、こちらは随分爽やかだ。やはり岩男は一息に飲み干した。
今度は、吐かなかった。ただ、目にはこれまでとは違ったものがあった。
「果物の汁か、これは。こんな美味い果物があるのか」
「お気に召しましたか」
ヴィンセントは笑った。
「美味い。もっとくれ」
岩男は無邪気に言い、給仕にグラスを差し出した。その目は真っ直ぐ、給仕を見ている。ヨハンとミラベルは、給仕の顔がほんのりと赤くなっているのを見逃さなかった。
「変わってるだろ、そいつ。でも駄目だぜおねえさん。そいつは居なくなっちまった魔物の嫁さんを探して旅してるんだ」
給仕の顔が、目に見えて赤くなってゆく。ついには葡萄水の入った瓶をテーブルに置き去りにして、下がってしまった。
「初心ねえ」
助平根性丸出しの笑いを隠さぬ二人に、岩男は怪訝に思うほか無かった。岩男のそれは、最早そういったものとは別の次元にあった。
そのとき、突然部屋の扉が勢い良く開け放たれた。
「ヴィンセント! 旨そうな匂いがするぞ!」
現れたのは、豚の尾と耳を生やした女、否、魔物であった。肉付きよく、脂肪の内に筋肉のうねりが見え隠れする。あの、虎と戦っていた魔物であった。
「お、オークか……」
教団の人間であっただけに、ヨハンとミラベルは未だ警戒を隠せない。
「なんだ、オークで悪いか! モヤシ小僧!」
「も、もやし……」
「メアリー。客人に失礼ですよ。ところでもうじきさっきの虎が出てきますよ。あなたもどうですか」
ヴィンセントはメアリーと呼ばれた魔物を静かにたしなめると、座るよう勧めた。
「要らん! あたしが欲しいのはこいつだ! 食わせろ!」
そう喚いて指差した先に居たのは、葡萄水をしきりに飲み続ける岩男であった。
「さっきからもてすぎだろ、こいつ……」
*
岩男は、指名されたにもかかわらず、それを無視して葡萄水を飲んでいた。最初に比べ、匂いを嗅いだり、舌で転がしたりと随分味わっている。旨いかどうか分からぬ魔物を殺して食うよりは、この世のものとは思えぬほどの美味を出す葡萄水を飲んで方が良い。そう思ってのことだった。
岩男以外の人間は、メアリーの言った事を理解していた。オークという種族は好色で知られている。メアリーの言った"食う"とは、食にあらず、性のことであった。恐らくは魔物の本能で岩男の尋常ならざる精力を嗅ぎつけ、やってきたのだろう。比較されたヨハンがモヤシと言われたのも頷ける。
「おい、無視すんな! 表ェ出ろ!」
メアリーはなおも喚き散らす。岩男が無視する。
「メアリー。岩男さんが困っていますよ」
「知るか! こうなったら力ずくでも……」
岩男に向かって、一歩踏み出す。そのとき、岩男が静かに立ち上がった。
「おれはお前を食いたいとは思わない。が、食われるつもりも無い。お前がその気なら、おれもやってやる」
「おォ! いいじゃねえか! 食ってやるぞ!」
そういうことになった。止めようにも、本人たちはやる気である。ヴィンセントは困ったように頭をかいた。
「しょうがないですね。ただしここではやめてください。岩男さん、コロシアムに案内します」
一行は六角形の牢獄を見上げていた。遠目では分からなかったが、鉄格子に数え切れぬほど刻まれた傷や、血で錆びた跡などから、今まで行われてきた戦いの激しさがうかがえた。
「いいですか、メアリー、岩男さん。危険だと分かればすぐに止めますよ。くれぐれも無理はなさらぬように」
ヴィンセントが二人に言い聞かせる。
「開けてくれ」
ヴィンセントの心労を知らず、岩男が急かした。その様子に諦めたように、大人しく牢獄を開く。
まず、岩男が先に入った。そして、その後にメアリーが続く。血走った目だった。腿の内側が、不自然に濡れている。すでに発情しているようであった。
「すげえ……」
「なにがよ」
「がっ」
ヨハンが、ミラベルに金的を喰らっていた。
「それでは、閉めますので、閉めたら始めてください」
幾分投げやりな言葉と共に、重い音を立てて格子が閉められた。その音と、ほぼ同時であった。
メアリーの体が、格子に激しく叩きつけられていた。メアリーは悶絶して倒れた。血の泡を吹いている。その頭部を、岩男が無造作に蹴っ飛ばした。それきり、メアリーは気絶したようだった。
「おい、出せ」
気絶したメアリーを小脇に抱えた岩男が言った。しかし、三人が三人とも、呆気に取られ動けないでいた。余りにも一方的な、勝負とはとてもいえぬ戦い。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません。今開けます」
ようやく我に返ったヴィンセントが、格子を開いた。のそりと外に出た岩男がメアリーをヴィンセントに差し出す。
「殺してはいない。起きたときに言ってやれ。"勝てない戦いはするな"。それよりも、ヴィンセント」
「なんでしょう」
「腹が減った」
ヨハンが、渇いた笑いを漏らした。ミラベルもそれに釣られて笑った。
医務室に気絶したメアリーを寝かせに行った後、再び一行は食卓に着いた。三人は食事を大いに楽しんだ。ヨハンとミラベルには、久方ぶりの料理。岩男に関しては、生まれて初めての料理であった。今まで食べていたのは、調理であって料理ではなく、また人間の食べ物ではないと実感させられた。葡萄水を初めとして、新たな文化を見出した岩男の喜びは、旨い料理にありつけただけのそれとは比較にならなかった。下界、人間界の素晴らしさ。ワーラビットの言っていたことに、偽りは無かった。いつかこの料理をあいつにも食べさせてやりたい。心底、そう思った。
岩男はナイフも、フォークも使わなかった。肉汁の滲むステーキを鷲づかみにし、齧り付く。手は膏で汚れたが、気にしなかった。食卓は激しく汚れたものの、料理者からすれば、これほど喜んでもらえたことに感謝以外の気持ちは無い。汚い食べっぷりではあるが、凄まじい。
そこへ、首に包帯を巻いたメアリーが現れた。それを見て、ヨハンとミラベルは腰を浮かせる。先の一戦は、殆ど不意打ちの一撃で終わってしまった。それで納得するはずが無い。もう一戦、あるいはお礼参りに来たのかもしれなかった。ヴィンセントはメアリーを横目で見、岩男に至ってはまたも、無視した。
メアリーは岩男に向かって、一直線に歩いていった。だが、どこか様子がおかしい。殺気、怒気、そういった負感情が、表情に全く表れていないのだ。そればかりか、明らかな親愛の情が浮かんでいる。ヨハンとミラベルはタイミングを逸した。メアリーは、既に岩男の傍らにいた。腿をすり合わせながら、岩男に熱い視線を送っている。発情していた。
それを知りながらにして、岩男は無視を決めている。何となくだが、碌な事ではなかろうと思っていた。
岩男の読みは全く正確であった。何を思ったのかメアリーが、岩男の腕に、豊満な乳房が変形するほど押し付けてしなだれかかったのである。ヨハンは口に含んでいたものを盛大に噴出した。
「あ、な、た」
今度はミラベルが噴出した。これは笑いによるものである。
「愛しております。お慕い申し上げます。わたくし、あなたに一生、いえ、死んでも、ついてゆきます」
岩男は無視を通そうとする。だが、その顔が未だ嘗て無いほどに、歪んでいた。あからさまに嫌な表情だった。
「おい、ヴィンセント。あたしはここを辞めるぞ」
言ったのは、岩男に縋り付いたメアリーである。岩男に対するものと、打って変わった口調である。岩男が、ヴィンセントをただならぬ目で見ていた。縋るような目つきであった。勘弁してくれ。そう言っている。
ヴィンセントは頭を掻いた。オークの特性は知っていた。言っても聞くまい。仕方が無かった。
「迷惑をかけないようにするんですよ」
岩男は見るからに落胆した。視線をテーブルに落としている。食指も止まっていた。
「どうしたの。あ、な、た。もしかして、食べさせてもらいたいの?」
「どうすんだ。置いて行っても着いてくるぜあれじゃ」
「面白いじゃない。少なくとも敵じゃないし」
あくまでも、遠くから見る分には。そう言っている。ヨハンには嫌そうな顔の岩男が気の毒だった。
今も、メアリーは岩男に口移しで肉を食べさせようとしている。岩男は必死に顔を背けようとしていた。
「ヒュウ、熱いわね」
「怖えよ」
*
食事を終えるとヴィンセントは、岩男たちを闘技場に勧誘した。闘技場には、ヨハンとミラベル同様に教団を抜け出してきた者が数多く居るようだった。身分をなくした二人にはうれしい申し出であったが、悩んだ末に結局断った。しかし、ただ断るというものではない。代わりに、闘技場と協力関係を結び、教団に関する情報を交換し合おうと約束したのである。
ヴィンセントは岩男に協力的であった。魔物である妻に執着し、教団と敵対してまで捜し求める岩男の存在は闘技場の理念を象徴していたのだ。加えて理由は不明であるが教団の欲しがろうとする岩男である、教団と敵対する闘技場としては保護すべき対象であった。闘技場と協定を結ぶ集落と連絡しあい、それと思しきワーラビットを見かけたら報告するとのことであった。岩男は迷うことなくそれを受け入れた。
闘技場を後にする際、一行は必要な装備品を与えられた。ヨハンとミラベルには田舎の農夫が身に着けるような質素な衣装を、体が大きくどうしても目立ってしまう岩男には手甲とサンダルを。岩男はこれまでずっと、裸足であったのだ。二人の長剣は目を引くという理由で置いてゆくことにした。どちらにせよ、勇者の力を持つ二人には短剣があればそれで事足りるのだ。
そして、やはりと言うべきか、オークのメアリーは岩男について行くと言い張った。ヨハンとミラベルは了承したが、岩男はあまり乗り気でないようだった。元々他人と接することの無かった岩男であるから、あのように纏わり付かれるのは苦手である。メアリーはそれに気がついているのか、いないのか、どちらにしても勝手に着いてくるつもりであるらしい。甲斐甲斐しく岩男に付き従い、身の回りのことは何でもやろうとした。ミラベルが言うに、それがオークの習性のようだった。普段は高慢だが、自分を打ち負かした者には惚れこみ、隷従するという。それにしては図々しいところがあったが。
かくして、闘技場に立ち寄ったことは無益ではなかった。これより向かうは岩男の山を抜けた先の、東方である。東方には魔物の集落が数多く存在し、闘技場の息のかかったところもあるという。ヴィンセントも、岩男の向かう先をそこに勧めた。
洞窟を抜けると、高く生い茂る草の隙間から光が見えた。朝焼けであった。高が夜の間、入っていた地下ではあったが、太陽が随分久しく感じられた。太陽の昇ると共に、一行は東へと向かった。
*
「行ってしまったな」
薄暗い部屋の中、男女がテーブルを挟み、茶を飲んでいた。
「良いのかね、一緒に行きたかったのだろう」
男の声が聞こえているか居ないか、女は俯いていた。
「しかし、足手まといになるかね、やはり」
女が、ぴくりと反応した。薄暗闇の中、唇を噛むのがわかる。
「恋というのは、どうもやっかいだね。人は、思いもよらず、異性のふとした仕草に心を奪われる。そしてそれは、永久に、死ぬまで消えることは無い。このことは、これからも、君の心を苛んで、後悔させることだろう」
女は黙っている。その肩がかすかに震えていた。
「中々吹っ切れるものではない。そうだろう。あのとき、意思を伝えていれば。あるいは、自分に能力があれば、連れて行ってもらえたかもしれない。そうすれば、あんな豚に先を越されることも、なかったじゃあないか、とね」
「何が、言いたいのですか?」
女は羞恥に震える声を絞り出した。目の前の男は、明らかに自分を言葉の刃でなぶっている。しかも、いかにも楽しげに、面白そうにだ。
「彼に追いつき、振り向いてもらうだけの、力が欲しいかね」
女はハッとした。いつの間にか、男が傍らに立っていたのだ。
「どうだい?」
「……ぃ」
「聴こえないな」
女は、唇をぎゅっと結んだ。そして大きく息を吸うと、言った。
「ほしい」
「良いだろう。よくぞ言った。君は、我らの中から初めて生まれた"目覚めし者"。アナスタシア。それが君の新しい名だ」
アナスタシア――女は心の中で反芻した。深淵で、重く、暗いものが煮立っていた。
10/05/05 01:17更新 / ロリコン
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