連載小説
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山中岩男
 暗い森であった。
 巨木に巻きついたヤドリギや、異様なまでに成長したシダが空を覆い、それらに及ばぬ苔や藻が地面に広がっていた。我こそ多くの陽光を得んと、天に向かっているかのようなその光景は、森全体に精気をかもし出すとともに、原生林のある意味動物的な面を表現していた。
 そうした生物の幾年月にも亘り行われてきた生存競争結果出来上がった豊饒の上を、ひとりの少女が歩いている。
 少女は沈鬱に背を縮めていた。獣道に沿って生えた巨大なシダがそれを覆い隠している。その様子は侵入者を威嚇しているようにも見えた。
 憔悴を身に纏った少女の姿は、長い旅を思わせた。正しく少女はこの森の者ではなかった。
 どれほどの距離を歩いてきたのだろうか。若草色の髪は埃にまみれ、肌理細やかな肌に刻まれた幾つもの小さな傷が痛々しい。
 少女は正しい人間の姿をしていなかった。頭に兎のような耳を生やし、下半身は兎のそれであった。そのどちらも、獣毛に覆われている。少女は魔物ワーラビットであった。
 人間をはるかに超越する体力を携えた魔物である彼女は、それでも危なげに獣道を歩く。人外とはいえ人間に劣らぬ頭脳を持つ彼女らも、儚い生き物の内の一種であった。
 彼女は自己を犠牲としてまで、ある人間の男に尽くそうとした魔物であった。彼女は男の幸福を願い、男の下を去った。
 人間界において一般的に囁かれている、魔物が自己愛のみに生きる動物であると言う認識は、ある意味間違いではない。魔物はたとえ人と娚になろうとも、その根幹、本能にあるのは性欲である。夫との間に、その営みさえあれば他はどうでも良いのだ。
 彼女にとって、夫とともに生活する事がなによりの幸福であることは間違いない。だが、彼女はそれにあえて背を向けた。共に生きるうちに、果たしてそれが夫にとっても幸福であろうかと疑問を抱くようになったのである。
 夫も、尋常の人間ではなかった。人間と触れることなく、獣のように生きていた男であった。一切の社会を持たず、殺し、喰い、寝るだけに完結していた男であった。それが、どこからともなく現われた唯一の他人である少女の存在によって、人間となったのだ。
 初めは、よかった。彼女は本能のままに男と交わり、同じものを見、同じものを食べて生活した。ところが次第に人間と成ってゆく男は、人間を求めるようになった。
 彼女は人間を恐れていた。嫌悪していたといってもいい。夫を愛せたのは、夫があまりに人間離れしており、本来の姿の片鱗も見せなかったからだった。その夫が、人間に近づこうとしていた。
 しかし彼女は夫を、嫌悪の対象として見ることが出来なかった。情が移っていた。人間であろうとも、夫は夫である。確たる最愛の者だった。最愛の者を、どうして憎めよう。
 夫の、人間を求める気持ちは日に日に増して行くようだった。それに、山での生活も、乱獲により限界に来ていた。彼女は、夫が幸福を得るためには人里に下りるほか無いことを悟った。彼女は男の下を去った。
 ワーラビットは、己の選択は正しいものだと、本心から思う。本心から思いながら、歩みを進める。しかし、その足元は、甚だ心もとないものであった。己の内臓を引っ掻き回す思いで男の下を走り去ってから、ずっとこの調子だった。
 ワーラビットはとうとう、蹲った。寒いわけでもないのに体が震えた。自分の体を抱きしめても、震えはとまらなかった。
 嗚咽が漏れていた。嗚咽は暗い森に木霊することなく、生い茂った草木に吸収された。

*

 岩上の男がヨハンに同行の希望を伝えた翌朝、一向は山を下りることとなった。伝えたそのときに準備を終えていた男はすぐにでも下りようとしたのだが、疲労を隠せないヨハンとミラベルがそれを制した。意外な事に男は何の反意も持たなかった。
 ヨハンとミラベルは、岩上で無視を頑なに決め込んでいた男の心変わりに疑念を抱かずには居られなかった。しかし男の本意がはっきりしない以上、それを問うのは得策では無いように思われた。男が自ずから話し出すか、あるいは引き返せない場面に直面するまでは、男に任せるほか無かった。男は必要最低限以外のことはなにも口にしなかった。
 男を交えた帰りの山行は、行きよりも遥かに楽だった。男に進むべき方角を伝えればそれは決して曲がらず、確実な経路を選んだ。方位磁針のひとつも用いないその能力は、卓越した登山技術とか山岳知識というよりも、野生動物のそれを思わせた。ヨハンとミラベルはここでも舌を巻いた。
 ミラベルは山行中、ずっと会話の種を捜していた。ヨハンもそれに則った。長い道のりにコミュニケーションは欠かせないものである。男が如何に超人的な能力を有し、旅に不自由が無くとも、所詮二人は尋常の人間に過ぎぬ。ストレスは様々な影響を与えるものである。もっともこれは必要最低限のものではない。男を単なる登山ガイドとして見るのならば、男に気を使ってわざわざ話し掛ける必要は無い。それが出来ないのは二人の人柄に因るものであった。有体に言えば、二人は男と仲良くなりたかった。
 男との会話は続かなかった。話しかけても、応ずる事は殆ど無い。岩上に座っていたときとあまり変わらぬ風情にヨハンはすぐに諦めたが、ミラベルはしつこかった。
 とはいえ全くの無反応というほどでもない。冗談にこそ応じないが、命令や希望には黙って応えた。腹が減ったといえば適当な植物を摘み、疲れたといえば歩みを休止してくれた。ミラベルにはそのうち、男が冗談を無視しているのではなく、どう返して良いのか分からず戸惑っているだけのように思えてきた。
 考えて見れば男は、ワーラビットと二人だけで暮らしてきたのである。他者が口を挟む余地の無い、全閉鎖された生活に必要な冗談は無いのだ。だが、山を下りれば人の世界である。男も、人として、人との関わり方をしなければならない。必要なことだった。ミラベルは男にそれを学ばせたくなった。
<母性本能ってやつかしらね>
 この男の動物的能力に関しては二人は遠く及ばないが、人として持つべき能力に関しては幼児以下のものである。すでに、ミラベルには男が超人ではなく、人見知りの子供に見えていた。
 歩きに歩いて二週間という頃だった。相変わらず無口な男と、釣られてすっかり無口に不機嫌を顕わにするヨハンに、ミラベルは何か話題をと頭を悩ませていたところ、澱みない足取りで歩く男の逞しい肉体に目が行った。
 筋張ったもののない筋肉であった。それで居て力強く、大きい。左右上下に満遍なくつけられた筋肉。無駄な脂肪など、殆どないように思われた。だが俗に言う、キレのある美しい肉体ではない。あくまでも自然な肉体であった。如何に強力な動物であっても、その肉体に意図的な美しさはない。鍛錬によって培われたものではなく、生活によって培われたものであった。
 人としての文化を忘れた肉体――その生活の、どんなに過酷なことであろうか。たった二人の生活の難儀を想像するのは容易い。衣、食、住、言ってしまえば簡単だが、それら全てを己の力のみで手配するのである。生まれた頃よりあらゆる職の人間に囲まれてきた文化的な人間には、とても出来ない。それに、変わらない毎日に、そうした人間が耐えられるだろうか。恐らくは半年も持つまいと思う。退屈過ぎて頭がおかしくなるに違いなかった。
 この男は、どのように毎日を過ごしたのだろうか。やはり魔物と一緒なだけに、性に満ちた日々であろうか。だが、それにしては男に性欲の甚だしい様子は見られない。これまで魔物と共に生活して来たにしては、この二週間の禁欲に顔色ひとつ変えないのは不自然だった。ミラベルは、ヨハンが深夜隠れて手淫するのを何度か目撃していたが、この男にはそうした動きが全く見られないのだ。この男にそうした意志のないところを見れば、いよいよ解らない。
 と、考えていた時であった。転倒した。ミラベルの左大腿に、鋭い熱が走った。
「っ痛!」
 熱の元を見ると、水平に肉が割れていた。桃色の肉が一瞬覗き、忽ち鮮やかな赤が噴出した。深かった。転んだ拍子に、短剣が傷つけたようだった。
「おい、大丈夫か」
 ヨハンが駆け戻ってくる。先頭を歩く男は気づいていないのか、歩みを止めなかった。
「ちょっと、待て。ミラベルが怪我をした。おい……」
 ヨハンは男を呼ぼうとした。ところが、それ以上の言葉を口に出来なかった。なんと呼び止めれば良いのか分からなかったのだ。そこでようやく、男が振り返った。
「少しは人の話を聞いたらどうだ」
 ヨハンは男に軽い苛立ちを覚え、悪態をついた。
「おれのことだと、思わなかった」
「それくらいわかれよ。だいたい――」
「いや、いいのよ。大した傷じゃないわ。それよりも……」
 ヨハンが男を呼び止めようとしたときのことを考えていた。どうしてヨハンは正確に男を呼び止められなかったのか。その理由が、男がいまいち馴染めなかった理由と同様な気がした。
「ねえ」
 ミラベルは誰にともなく、問うた。それにすこし遅れて、ヨハンが目を合わせてくる。
「ヨハンにだって、わからないものね」
「なにがだ?」
「名前よ」
「あん?」
「だから、名前。こいつの名前よ」
 ヨハンは、あっ、という風に男を見た。そういえば、男の名をまだ聞いていなかった。
「いまさらだが、お前、名前なんて言うんだ?」
 男は怪訝な顔をした。
 男は名前と言うものを気にしたことがなかった。一人で暮らしていた頃はもちろん、ワーラビットと生活するにも、たった二人であるのだから、名前に大した意味はない。お互いを呼ぶまでもなく寄り添っていたのだ。男は姓名を持たなかった。
「それは、なんだ?」
 純粋な質問であった。ワーラビットとの生活には無かったものである。言葉を覚えても、それを知る事は無かった。名前という単語は知らない。そういう問いであった。
 二人は顔を見合わせた。ふざけている風には見えなかった。男は、本当に名前というものを知らないのだ。
「傷は、いいのか?」
 真っ赤に染まった脚を指差して、男は言う。言われて思い出したのかミラベルは脚を拭った。浅い傷ではなかったにも関わらず、ふさがっていた。男は目を見開いた。
「私たちは治るのが早いのよ。心配してくれてありがと。それでも深かったから今日一日は使えないけどね」
「そうだな。まだ昼時だが、今日はこれまでにしよう」
 と、ヨハン。
「名前は、なんだ?」
 男は問うた。ヨハンとミラベルはその問いに噴出さずには居られなかった。ヨハンの顔から険が抜けていた。
「岩男というのはどうだ?」
 笑いながら、ヨハンが言う。
「姓が要るわね。山中岩男。ジパング風」
 何の事は無い、思いつきの姓名であった。
 とうとう男も笑い出した。男としては不可解な笑いであったが、温かい気持ちだった。
 男と、二人の間にひとつの繋がりが生まれた。二人の脳裏には、任務のことなど無かった。

*

 ヨハンの一行は深山から里山を越え、街道まで入っていた。人通りのそれなりにある街道だった。熊の毛皮と教団の銀鎧に身を包んだ一行を、道行く人が奇異の視線でちらりと見てくる。
 整備された人工的な道。獣の気配の無い空間。どこからとも無く漂う食欲をそそる奇妙な香り。初めて見る轍。男にとっては初めての人界であった。
「あ〜、漸く着いたわ。シャワーが恋しい!」
「まだまだ、後四半日は歩かなきゃならんぜ!」
 ヨハンとミラベルは解放の歓声を上げた。対して男は初めて入る人界に感興を隠さず、きょろきょろと、さまざまな人工物を見ている。その中で一等興味を示したのは、立て札であった。
「これは、何だ?」
 岩男は立て札を指し、問うた。
「これは立て札だ。人が迷わないように、道を示しているんだ」
 ふうん、と頷く。便利と言えば確かにそうだが、下の人間はこのようなものが無ければ家にも帰れないのか。地面に突き刺さってはいるが、生えてきたものではあるまい。三叉に分かれる矢で道を示す様だ。この矢も人によるものだろう。
「文字はわかる?」
「わからない」
「この立て札に書いてあるものよ。矢印で方角を指して、その方角にあるものを説明しているのね。この場合東が山、北が首都、南西が街道ね。私たちはこれから首都に向かうわけだから、北に進めばいいのよ」
 立て札、文字、書く、首都、街道。いずれも初めて触れるものだった。
「岩男はとんでもない田舎モンだな。ま、仕方ないが、これくらいで驚いていたら、街に入ったら腰抜かすぜ」
「街の人が驚くのが先かもね。裸足に褌、その上に熊の皮だもん。まるで原始人よ」
「原始人?」
「お前みたいな奴のことだ。間違われないためにも、街に入ったらまず服を買わなきゃな」
「合った服があればいいんだけどね」
 果たして岩男に着られる服があるかどうか。何しろ大熊の毛皮をすっぽりと被ってしまうほどの巨漢である。腕の太さが女の腰ほどもある。
「見れば見るほどいい体だ」
「ホモっぽいわよ」
「うるせえ。男は腕の太さに憧れるんだよ」
 一行は歩き出した。歩きづらい山道より街道に入った三人は自然と他の歩行者よりも速くなった。
 さらに、途中馬車を見つけ、ヨハンの交渉により、乗せてもらうこととなった。御者は急行だと言ったが、ヨハンは無理を通した。飼いならした馬に人を引かせるということを、岩男は知った。同乗者が一人、居た。身なりの良い紳士であった。紳士は興味深げに岩男を見た。
 街道を進んで行くにつれて、道幅が広くなり、人の通りも多くなっていた。岩男はずっと車窓から変わり行く風景を見ていた。同乗者の紳士が岩男に声を掛けた。ヨハンは紳士に田舎からスカウトしてきたのだと説明した。ヨハンとミラベルは一目見て教団の人間ということがわかった。それがわかると紳士は岩男に対する興味を失ったようだった。ヨハンらと同様に岩男をスカウトしようとしたのかもしれなかった。その紳士は街に着く前に、途中下車した。御者はそのときに多額の現金を受け取ったようだった。
「闘技場の者かね」
 ヨハンが言った。先の紳士のことであった。
「闘技場とは、何だ?」
「ある種の賭場よ。賭場っていうのはお金を賭ける場所ね。人や動物、時には魔物を戦わせて、その勝敗を競うの。あらかじめお金を預けておいて、闘技者の勝敗を予想する。その予想が当たれば預けたお金にいくらか額を上乗せされて返してもらえるわ。外れれば賭けたお金もパァよ」
 岩男は大まかな内容を理解した。ワーラビットの言っていた格闘家のことだろうか。人界には面白いものがあるのだと思った。
「自分に賭けて、戦うことも出来るのか」
 戦うのには自信があった。戦ったことがあるのは動物くらいのものだが、それでも負けた事は一度も無かった。だから、今こうして生きている。敗北即ち喰われることである。
「やめておいたほうがいいな」
「なぜだ?」
「岩男、お前金持ってねえだろ」
 金、通貨のことである。そういえば、人界には物の代価として金なるものを使う慣わしがあるという。確かに代価となるものは持って居なかった。
「毛皮じゃ駄目なのか」
 岩男は毛皮が品物として売られていることも知っている。代価が無ければ物々交換である。
「んなでかい毛皮、誰が着るんだよ」
 それもそうだった。
「そろそろー着きますよー」
 御者が間延びした声で喚いた。前方をみると、遠くに城壁が見えた。
 進むに連れて城壁は大きく広がってきた。岩男は前に乗り出した。感動があった。これほど大きな物を、人間が建てられるのか。
 城壁は堀で囲まれていた。堀には水が流れ、川のようになっている。川の向こうに城門がある。川は容易には越えられぬ幅だった。そのために橋がある。その橋のこちら側の先端から、城門の上方に向かって鎖が伸びていた。開閉可能の跳ね橋であった。見るもの全てが珍しかった。
 ほどなくして、馬車は止まった。橋の手前であった。一行は下車することとなった。
 間近に見ると、なるほど大きかった。人間の文化の叡智の集うところであった。
 検問であった。すこし離れたところで、門番が四人、立っている。それら門番と御者が何かを話している。話はすぐについたようだった。御者は馬車を落ち着けると煙草をうまそうにふかし始めた。門番が一行に向かってくる。
「格好見りゃわかんだろ。面倒くさいな」
 ヨハンが物臭な態度で門番にいった。
「規則なんでね。頼むよ」
 ヨハンは腰に差した長剣を門番に見せた。門番がそれをちらりとみて頷く。長剣が通行証代わりのようだった。ミラベルにも同様にそれを行う。
「教団のヨハン・ラントに、同じくミラベル・ジュディ・ソマーズね。そちらの、ええっと、なんというか、野人さんは?」
「違う。おれは原始人だ」
 ミラベルが噴出した。腹を抱えて笑っている。ヨハンは苦笑して頭を掻いた。門番は目を点にしている。
「あー、もういいだろ。何か問題があれば上の者に言ってくれ。そんじゃな」
 ヨハンは歩き出した。岩男とミラベルもそれに追従する。門番も、それ以上引き止める気はないようだった。
 三人が橋を渡った頃、それを見つめていた門番の一人が言った。
「どういう意味でしょうか」
「知らん。まあ原始人には違いないな」
 どうでもよかった。
 さておいて、城門を潜り、首都に入った三人であるが、実の所、岩男が二人に同行の旨を伝えたのは先に述べたところだが、二人は岩男に対してそもそも山に入った目的すら告げていなかった。つまり岩男としては、ただ二人に着いてきただけである。二人の目的とは、教団による任務の遂行である。まずは、二人の受けた任務について差し障りの無い程度に説明せねばなるまい。
 ヨハンとミラベルの二人は、教団に洗礼を受け、常人よりも遥かに強い力を持った、所謂勇者である。教団は二人の勇者に、ある任務を与えた。"東の山脈の、魔物ワーラビットに魅せられた哀れな勇者を連れて来い。勇者は人外の孤独にあり" たったこれだけである。恐らくはエンジェルの託宣であろうが、そんな無茶苦茶な任務に二人は閉口した。だがそれでも任務は任務であり、背いてはならぬものである。諦め半分に山に入った二人だが、ひと月を掛けての捜索により、ついに任務の目標を発見した。ところがそれも危ういものであった。見つけたのは勇者ではなかった。しかもワーラビットは居ない。無論居ないなら居ないほうが良いのだが、勇者ではない野人のほうは、逸脱した力を携えていた。勇者ではないが、ただの人間でも無い。言い訳は出来ると思った。これ以上捜す気になれなかった二人は、仕方なくその野人を連れ帰る事にした。幸い野人もその気であった。教団に受けた任務の言うところの勇者とは、"勇者に並ぶ実力を持つ野人"のことであると、二人は勝手に解釈した。そうでもしなければ山を下りられなかったのである。
 かくいう事由があった。任務としては教団に岩男を連れて行けば良いのである。だが、名前まで与え、すっかり情が移ってしまった岩男に嘘をつき通す事は出来なかった。せめて教団本部に着く前に真意を伝えねばならなかった。
「なあ、岩男よ」
「なんだ」
 岩男はすぐに返事をした。名前を与える以前は考えられなかったことだった。それだけ距離は短くなっていた。紛れも無い友人であった。真実を知った岩男は軽蔑するだろうか。ひと月の付き合いとはいえ、その可能性を考えれば心苦しかった。二人は任務に私情を挟みすぎた。
「……なんでもない」
 街中だった。大通りの端に、所狭しと露店が並んでいる。呼び込みが激しかった。人で溢れ返る首都に、岩男の興味を引かぬものがあるはずは無かった。だが、岩男は黙って二人に付いて来ていた。
 喧騒が別世界の出来事のようだった。
 大きな建物があった。一行は足を停めた。教団の本部であった。沈黙があった。伝えるなら、最後の機会であった。
「岩男――」
 言いかけたところに、建物の門が開いた。中から数人の男女が出てきて、一行を取り巻いた。数人の男女は、銀の鎧に身を包んでいた。ヨハンやミラベルと同じ、勇者のようであった。それらに遅れて、胸の部分に十字の描かれた白いポンチョに身を包んだ中年男が出てきた。神父であった。神父は柔和な笑顔を浮かべていた。
「やあ、ヨハン・ラント、ミラベル・ジュディ・ソマーズ。おかえりなさい」
 神父は辞儀をした。ヨハンとミラベルもそれに合わせる。
「君が託宣の――」
「神父様、彼は……」
 ミラベルは神父の言に口を挟んだ。機会はとうに過ぎていた。だが、あまりにも身勝手すぎた。岩男は何も知らぬのだ。しかし、本当に言うべきだろうか。ミラベルは逡巡した。
「おれは、山中岩男という」
 ヨハンとミラベルははっとして岩男を見た。
「名前を……?」
 神父はじろりと二人を見た。
「まあ、良いでしょう。岩男くん、付いて来なさい。二人はそこで待っているように」
 神父と勇者の一行は岩男を連れて建物に入って行った。二人はそれを見送った。
 
 岩男が本部の建物に入ってから、三時間が経過していた。もう、陽が赤くなりつつあった。
「なあ」
 と、ヨハン。独り言のようであった。
「魔物ってさ、魅了するらしいじゃないか」
「……うん」
 聞こえるか、聞こえないかくらいの声で、ミラベルが頷く。
「岩男、そう見えたかな」
「見えなかった」
「案外、魔物と岩男、普通の夫婦だったのかもな」
「かもね」
「おれら、勇者だよな。教団の」
「……うん」
「殺さなきゃいけないんだよな。岩男のさ、奥さんを」
 二人は教団の勇者であった。勇者とは教団の、特別に編成された部隊である。その役目とは魔王の討伐、即ち、魔物の抹殺である。
「友達の奥さんを殺すことが正しい道なのかな」
 ミラベルは答えられなかった。
 そのときだった。扉の開く音がした。
 岩男ひとりだった。岩男は二人に向かって歩いてくる。
「どうだった?」
 ミラベルが問うた。
「社会の仕組みを聞いてきた。魔物と人間の関係についても。お前たちの任務のことも聞いた」
 ヨハンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 当然だった。教団がそれを教えないわけが無い。しかし、岩男は曲がりなりにも魔物と娚だった男である。それを聞いて、どうして平然としていられるのか。
「それで?」
「洗礼とかで、新しい名前を遣ると言うので、要らんと言った。そうしたら、つまらん名前は捨てろと言われたので、腹が立った。腹が立ったから、おれは岩男だと言って、殴った。殴ったら囲まれた。なので全員殴って出て来た」
 呆然とした。そして、少し嬉しくなった。岩男はヨハンが真実を告げずに連れてきたことを咎めなかった。それどころか、適当に決めた名前を己が唯一の名だと言ったのだ。勇者としては異教徒を斃さなければならないが、もちろん、そんな気にはなれなかった。
「そいつらは異教徒だ! 捕縛しろ!」
 顔を真っ赤にした神父が喚いた。忽ち本部付けの勇者たちが沸いて出て来た。
「そいつ"ら"ってなんだよ! おれもかよ!」
 飛来ざま斬りつけてきた勇者を叩き落としながらヨハンが怒鳴る。そして、しまった、と思った。反射的にやった行為とはいえ、これでもう、言い訳は出来ない。晴れて反逆者だった。教団には疑問を抱いていたところだが、そう簡単に決断は出来ないものだ。ヨハンは顔色を青くした。
 ミラベルはどうしているのだろう。仕方ない、お前だけでも教団に残れ。そう言おうとして振り返った。
「オラオラオラァ! クソ共、かかってきやがれェ!」
 ミラベルは金切り声を上げていた。ヒステリーである。すでに血に塗れた勇者が三人、足元に転がっている。
 腹は決まった。すでに拠り所は無い。身分は無い。今すべきは、生きるために"敵"を斃す事だった。
 岩男を見た。襲い来る洗礼を受けた特殊部隊を片端から殴り潰している。技も何も無い、腕力のみの戦闘である。獅子奮迅の働きであった。
「逃げるぞ!」
 ヨハンは勇者を一人斬り捨てると、背を向けて全速力で走った。ミラベルと岩男もそれに続く。追ってくるものは、無かった。

 三人は城壁の外側の堀の中に居た。脱出に下水道を使ったのである。
 明日までには街中に三人の異教徒の存在が公表されるだろう。こうなると、首都には入れなかった。
「さて、どうするかな」
 誰にともなくヨハンは呟いた。当ては無かった。
「どうしようもないわね。追いはぎでもやる?」
 ため息混じりに笑ってミラベルが答えた。冗談半分であったが、実際のところ、身分を無くした二人にまともな道は無い。
「岩男、お前はどうするんだ?」
「あいつを、捜す」
「嫁さんか」
 そうだろうなと、思う。岩男が気にしているかどうかは不明だが、岩男には悪いことをした。出来ることならば同行したいが、それは余りにも厚かましい申し出だった。
「私も行っていい?」
「おまっ」
「いいよ」
「いいのかよ……いや、すまん、おれも連れて行ってくれ」
「うん」
 ヨハンは泣きそうになった。他ならぬ人生を乱した者に対してここまで寛容になれるものなのか。ヨハンは堀の水を掬って顔を洗った。涙を見せるのは恥ずかしいものだ。
「それにしても、山中岩男っての、そんなに気に入った? 洗礼でどんなかっこわるい名前つけられそうになったのよ」
 ミラベルはいつでも冗談半分である。もう半分は気遣いだ。ヨハンはそんなミラベルの振る舞いに何度助けられたかと思う。また泣きそうになった。
「ピーター」
 結局岩男だった。
10/03/29 18:32更新 / ロリコン
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■作者メッセージ
ピーターという名前には「岩」の意味があるそうです。洗礼名とか言っちゃってますが、聖書や偉人から取ったわけではありません。

当初は岩男に洗礼を受けさせ、教団の手先にするつもりでしたが、どうしてかこうなっちまいました。こんなことってあるんですね。キャラが勝手に動くってのですか? 漫画家とかにあるそうです。もちろんそんな偉いもんじゃないでしょうが。

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