慟哭
人里離れた深い山の庵に、一人の男が住んでいた。たった一人で、である。男は猟師でも木こりでもなかったので里に降りることは無かったし、また人界に男のことを知るものは居らず、男を訪ねる者も皆無であった。男が誰を母とし、何処を故郷としたのか、そんな問いは初めから存在する必要が無かった。男は忘れられているのでもなく、禁忌でもなかった。まさしく人界に男は存在していなかったのだ。
深い山で男は日の出と共に目を覚ますと、昼を木の実や若い芽の採取、野生動物などの狩猟に出かけ、日の沈むのを待たず茅葺の小屋へ帰り眠りに就いた。それが男の日常であった。男は山に息し、山を摂りこみ山に還元した。男の世界は山に完結していた。春夏秋冬、そのきまりの上に成り立つ山が彼の全てであった。そこに人としての温度は無く、無情なる自然の科学のみがあった。だが彼は辛いとも楽しいとも感じたことは無かった。彼は孤独であった。
山は広く、深い。狩猟がうまく行かず、何日も食事をしないことが時としてあった。男は動物を効率的に仕留める、あるいは捕まえる罠の数々を熟知していたが、その技術を狩りに用いることは殆どなかった。彼にとって狩猟とは己の手で直接縊り殺して食べることであり、安易な道具によって間接的にその殺生を左右することではなかった。決して多くない隣人は、彼の手の中で死んでいった。しかし彼はその手の中で苦労をかけた獲物が死に往くとき、決まって涙を流した。彼の獲物は同じ山に住む家族であったのだ。男は自然を食べて生活したが、同時に自然を愛していた。自然に閉塞する彼の定めた唯一のルールは、皮肉にも人間としての能力を封印することであったのだ。だがそんな生死を分かつ問題にすら例外を認めぬ絶対的なルールにも、設けた特例があった。
それは罠というには余りにも条件を満たさなかった。それは人間界においてトラバサミと呼ばれる、紐とバネを利用した単純かつ実用的な罠であった。トラバサミは森林限界を越え山頂に佇む大岩の尖塔の頂点に仕掛けられた。その尖塔に訪れる動物は恐らく居ないだろう。のみならずその罠には、おとりが無ければ罠への導もなかった。獲物のかかるはずの無い罠であった。しかし男は三日に一回、その周期を一日でも乱さずこの罠を点検した。男はこの無意味な罠に特別な情を抱いただろうか。この自然に生きる現実的な男が、何の情も抱かずにこの無意味な罠を仕掛けただろうか。されど、かつてその罠に獲物がかかったことは、一度たりとて無かった。
*
決して乾かない、かすかに湿った土に、木漏れ日がうつっている。陽光は熱く、土を乾かすばかりか汗を滲ませるようであった。
蒸し暑い昼であった。薄暗い森の中に動物の気配は無く、物言わぬ植物がその暑さにじっと耐えるようにあった。彼らの出した緑の汗はむせ返るような大気に溶け込み、さらに空間を濃厚にした。
その中に、ひとつ、異質なものがある。濃厚な緑の臭いを掻き分けるように、その獣は二本足で立ち、前傾し斜面を這うように進んでいた。
獣の進む速度は、速いとも遅いともつかなかった。獣は一定の速度を保ったまま、深い呼吸と共に斜面を登っている。獣の足には迷いが無かった。獣はどこかを目指して進んでいるようであった。
やがて森林限界を越え、地層が変わっても、獣は同様の動きを保っていた。大小様々な岩を乗り越えてゆく。
と、一際大きな岩を乗り越えようと大きく一歩踏み出した拍子に、獣の頭部がぽとりと落ちた。
獣は落ちた頭部を手に取り一瞥すると、何事も無かったかのようにそれを懐に仕舞い、動きを再開した。人間の頭部だった。獣――男は、熊の毛皮を被っていたのだ。裸になった頭部が、明らかになる。
それは先の熊の頭部よりは、幾分小さかった。伸び放題の髭に、出鱈目な長さの頭髪があった。その茫々とした黒い体毛の中に、深い暗闇が一対、鈍く光っている。時折毛皮の裏に、木の根を幾重にも束ねたような筋肉が見えて隠れる。
男は確かに人間であったが、熊の毛皮に包まれた肉体は少しも不自然に見えなかった。岩のような太い肉体は毛皮と同化しているよう見えた。まさしく熊といえた。
男は裸になった頭部で眩しそうに空を仰ぐと、再び上に向かって歩き出した。見上げる頂上には200メートルという巨大な尖塔がはっきりと確認できた。
男に表情は無い。素足で、ごつごつした花崗岩を、まるで平地をゆくような一定のペースで、息も乱さず歩いてゆく。
間もなく尖塔の下に立つと、男の鼻が小さく膨らみ、ついで耳が何かを捉えたようにひくついた。次の瞬間男は岩に飛びつくと、恐ろしい速度で頂上に向かって登りだした。段状の岩を一足飛びにし、指先ほどの手がかりを蹴って飛び上がる。男が尖塔の頂点につくのに、そう時間はかからなかった。
果たして頂点の空間には、一人の少女が、毛皮に包まれた右足首に頑丈に編んだ植物の蔦を絡ませ、ぐったりと伏せっていた。
少女はしかし、奇妙な姿をして居た。上半身と顔面こそ人間であるものの、下半身は在るべき姿に非ず、犬や猫、兎などの四足歩行動物の足に獣毛が肌を隠すように生え、そして頭部上方には毛に覆われた耳が一対、萎れたように長く伸びていた。人間の足を刈り取り兎の足を付け、兎の耳を人間の頭に縫いつければこのようになるだろうか。しかしこの不調和な肉体は不思議と少女に馴染んでいた。柔らかそうな白い獣毛と引き締まった褐色の肌が、いかにも快活そうだ。しかしその肌は埃に塗れ、色を失っていた。泥のようであった。
魔物、ワーラビットであった。
この兎と人間の混合種を、男はじっと見詰めると、静かに頬に触れた。褐色の肌は自然の弾力をもって男の指を軽く押し返した。少女の顔が僅かに歪む。生きているようだ。
男は壊れ物に触るように少女を診た。触診であった。男の太い指が、肌理の細かい肌に沈む。
男は少女の足に絡んだ蔦を解いてやった。男は一度毛皮を脱ぐと、蔦で少女を背負った。一寸の迷いもない動きは、獲物を背負うのに似ていた。男は背負った少女ごと、脱いだ毛皮を再び羽織ると、登りに劣らぬ速度で尖塔を下りはじめた。
*
獣臭に満ちた茅葺小屋で、獣のような人間の男と人間のような獣の少女が呼吸している。熊の毛皮の男と、魔物ワーラビットである。
男はワーラビットを、擦り傷などの外傷を初めとし、脈拍呼吸に至るまで丁寧に診た。ワーラビットは足首に出来た環状の痣に触れると軽く顔をしかめたが、それより外は正常のように見えた。衰弱しているだけのようであった。
男はワーラビットの口に強壮効果のある葉を押し込んだ。女は何度か吐き出したが、磨り潰してやると、ゆるやかにそれを飲み下した。
一通り介抱されたワーラビットは細い呼吸を繰り返しつつも、落ち着いてきたようであった。初めはうなされたりしていたものの、次第にその呼吸も一定になってゆく。泥のようだった褐色の肌はかすかに紅潮し、萎れていた兎耳が元気を取り戻すように伸びてゆく。ワーラビットは見る見るうちに生気を取り戻していった。
男はワーラビットの傍らに座り込み、そこを動かなかった。時間がゆるやかに流れてゆく。暖気は少しずつ失われていった。陽が落ちようとしていた。
小屋の中はすでに薄暗くなっていた。大人の頭ほどの大きさの窓から赤い陽光が差し込むほかに、光源は無い。ワーラビットは安らかな寝息を立てていた。
「う……ん……」
男はワーラビットのうめくのを聴いた。ワーラビットのぴんと張った耳が小さく動く。寝返りをうち、目をこする。
程なくしてワーラビットは目覚めた。薄く開けた目を瞬かせる。確認するように手を目前で開いたり閉じたりしている。自分の状況をはかりかねているようだ。
「ここは……」
すぐに起き上がることは出来ないようであった。覚醒すぐの目に映るものはぼやけ、男を捉えることはない。ただ、自分が藁に寝かされていることだけは分かった。
男はワーラビットの覚醒したことに、どういう反応をすればいいのか分からなかった。なにしろ人に接するのは初めてのことである。少なくとも、男の記憶に自然以外のものはなかった。それに、ワーラビットを罠に嵌めたのは己であった。微かな罪悪感がある。
やがてワーラビットはきつい獣臭と、僅かな人臭を嗅いだ。かすんだ目がそれを見る。
初めは熊だと思った。しかし、その熊は襲うばかりか、横で胡坐をかいている。喰らうであろう熊の本能が見られない。熊の目にある僅かな知性を、ワーラビットは確かに見た。
視覚が回復してくると、熊ではなく、人間の男であることが分かった。良かった、人間ならば言葉が通じる。
「ここは……?」
ワーラビットは再度呟いた。今度は問いであった。記憶が錯綜していた。巨岩の尖塔の事と、それに登った記憶がある。しかし、それからがなかった。広い眺望を最後に、ぶっつりと途切れていた。
「うぁ……お……い……い」
男が呻いた。否、呻きではない。それが、発音なのであった。男は言葉を忘れていた。知らないのかもしれなかった。発音を以って気持ちを伝えることだけは知っていた。しかし、そのやりかたがわからない。
「喋れないの?」
男は肯定も否定もしなかった。男にとって言語とははじめて触れるものであったからだ。
替わりに男はワーラビットに植物の根を差し出した。
「これは?」
ワーラビットは首をかしげた。その意味が伝わるか、伝わらないか。
男はなおも植物の根を押し付けようとした。口元に向けるが、ワーラビットは依然首をかしげるばかりだ。男にはそれすらも意味を持たない。もどかしかった。男は言葉ばかりでなく、表情をも失っていた。"困った"あるいは"食べろ"の意思を伝える方法を知らないのだ。このようなとき、どうすればいいのか分からなかった。
男は必死に考えた。無理やり食べさせるのだけはしたくなかった。男はワーラビットに嫌われたくなかった。初めて出会った他人だった。
「食べろってこと?」
ワーラビットは言った後、パクパク口を動かし、食べる素振りをした。
男もそれに倣ってパクパク口を動かした。パクパクした後、モグモグに変わった。そして男は空気を飲み込んだ。この間、男の表情に変化はない。妙に滑稽なその動作に、ワーラビットはかすかに微笑んだ。男にはその意味がわからなかったが、その動作を再び繰り返した。そのたびにワーラビットは微笑った。それは次第に声を立てる笑いとなっていった。男には"笑い"がわからない。けれども、それは尊いものに思えた。男は尊いもののために、繰り返した。それは間違いなく喜びの表現であった。
「あっはっはっは! きみ、面白いね!」
男は腹を抱えて笑うワーラビットの様子を見て不思議に思った。何ゆえそのように顔をゆがめ、肺から空気を噴出させ、大声を出すのか。ただ、ひたすらにそれは尊かった。
「あ゛」
「うん?」
突然濁った音を出す男に、目じりに涙を浮かべたワーラビットは疑問符を浮かべる。男は次第に顔を奇妙に歪めていった。酷くぎこちなく、捉えづらい表情だった。
「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛」
男は連続して濁った音を出した。それは少しずつ声に近づいていった。ワーラビットは男の表情が笑顔に近づきつつあるのを悟った。男は笑おうとしているのだった。
「あ゛、あ゛ふ、はあ゛。あ゛っはふ。あ゛はっはっはっはっは」
「なにそれ! あっはっはっはっはっは!」
「あ゛っはっはっはっは!」
この行為の意味を男は知らない。ただ、幸福があった。
二人は植物の根の事も忘れ、笑いあった。
*
「食べ物、取った」
「おかえり! わ、大きな熊だね。これでしばらくは保ちそう」
男とワーラビットは出会い、笑いあった日から、何となしに一緒に生活するようになった。
二人の間に、初めから警戒は無かった。出会ったその日の晩に二人は交わった。求めたのはワーラビットであった。その日から男の生活は一変した。初めて他人と接した男は見る間に人に近づき、男の大部分をワーラビットが占めるようになっていった。
いつからか、男は獲物を"食べ物"と認識するようになっていた。罠を使うようになり、農耕をするようになった。それまで自然を生活の全てにおいていた男が、文明をその内に取り入れて行った。男にとっての最上位が、ワーラビットと己になっていた。そのことについて男は何も思うことがなかった。
「明日までの分は刺身にして、他は塩漬けにするね」
男は肯いた。男は言語を砂に水が染み込むが如く吸収していった。今では簡単な意思を伝えられるまでにその言語力は進歩していた。言語には郷愁の響きがあった。獣のような生活をしていた男がこれほど容易に文明を開花させてゆく理由を、二人は問わなかった。人と獣、そして魔物との、絶大なまでの差を認めるわけにはゆかなかった。男とワーラビットは現在に幸福を得られる。それで良いと思っていた。
男が狩猟し、その間にワーラビットが家のことを済ませる。獲物はワーラビットが調理した。獲物が多く、それ以上狩猟する必要の無いときは二人で農耕した。全てがうまく回っているかのようにみえた。
「今、食べ物、減った。罠しても、とれない」
このごろ、獣の数が明らかに減ってきていた。二人が生活し始めた当初、罠に余るほどいた獣が、今では殆どいなくなっている。追い込んで縊り殺すことはもちろん、罠にさえもあまりかからない。熊のように、大物が獲れたのは本当に久々のことであった。
罠、あるいは備蓄がそれを引き起こしたのかもしれなかった。以前の自然にまかせたその日暮しを思えば、これは起こらなかったかもしれなかった。人が生まれたことにより、山の環境が変わってきていたのかも知れなかった。
これからさらに動植物は減るだろう。しかし、男はそれに思い至る事は無かった。食料が減ることを単なる不便として捉えるところがあった。食べ物が減る――男はそれを、乱獲のせいだとは認識しなかった。
「家、変えないか。人、居るところ、いいと思う」
たびたび持ち掛けていることだった。自然に生きた男は文明の利便性を知ってしまった。楽な生活から、人はなかなか抜け出せないものである。しかし、その話をするたびに、ワーラビットは寂しそうな顔をするのだった。
人と魔物の違い。そしてその分類。男はワーラビット以外の者を知らない。その兎の特徴を、ただの個性としてしか見て居なかった。男が強靭な肉体を持つように、ワーラビットは兎の下半身と耳を持つ、その程度の認識であった。男にとってワーラビットとは唯一の自分以外の人間であった。
男は知らない。ワーラビットは人間ではなく、魔物であることを。本来人と魔は共存できない。魔物が人里に降りれば疎んじられ、人間が魔界に行けば食い物にされる。
対してワーラビットはそのことを身にしみて理解していた。かつて彼女は魔物の里に居た。その中で時折攫われてくる人間を目にしていた。魔物からすれば人間は搾取すべき対象でしかない。人間は魔物を恐れ、敬うべきものと当然のように考えていた。
ところがある日、その人間が里を攻めてきた。大軍に魔物たちはなすすべも無く蹂躙された。淫魔たちは大量の人間の男どもに嫌というほど犯しつくされ、その存在意義を失い、最後は虐殺された。彼女はその里から逃れ得た唯一魔物であった。それ以来、人間は恐れるべきものであった。
彼女は男を愛している。初めて会ったときから、この人間味のない、けれども魔物でもない男は、特別であった。肌を重ねると、それが良く分かった。この男の、他者に対する愛情に偽りは無かった。涙を流しながら虎の頚骨を捻り折る優しさと強さを、人間が持つだろうか。
だが、この男も変わりつつあった。言語を有し、文明を得、不便を感じ、利便性を求めた男は少しずつ人間に近づいて行った。いつからだろうか、この男が罠を用い始めたのは。いつからだろうか、この男が虎や熊を"食べ物"と呼ぶようになったのは。
それでも彼女は彼を愛した。その愛があるからこそ、寂しかった。彼は人を求めている。忌まわしい人を求め、人に近づきつつある。優しい彼が人を見たとき、どうなってしまうだろうか。人に愛想を尽かし、山に帰るだろうか。それとも人を感じ、人を愛し、人にまぎれるだろうか。そして人間と同じように、魔物を憎むようになるだろうか。
おそらくはどれでもあるまい。彼は人でありながら、人ではない。変わりつつあるとはいえ、彼の深い慈愛は魂に深く根付いたものである。彼は人に疎んじられながら、人を愛するだろう。人を愛しながら、人のために尽くすであろう。しかしその愛は報われる事は無い。死ぬまで変人、あるいは獣人と差別され、孤独に死を迎えるであろう。
愛する人にそんな人生は送らせたくなかった。たとえ嫌われても、ここに残って生活せねばならなかった。
男は、寂しい表情を浮かべるワーラビットを見て疑問以上を思う事は無かった。
生活が厳しくなってきているのは彼女も分かっているはずだ。罠を増やし、農耕し、それでも足りないからこそ、人間の里に降りる必要がある。
人の里に降りれば仕事がある。獣の毛皮を剥いで幾らでも売ることが出来る。下界にはさまざまな仕事があると聞いた。熊を素手で倒す実力を持ってすれば格闘家の道もあるだろう。それらを教えてくれたのは他でもない彼女である。飢えが無い。寒さがない。暑さが無い。煌びやかな生活が、下界にはあるのだ。そんなすばらしい世界があるのに、どうして彼女はそこに行こうとしないのか。
男の、下界に行きたいと思う望みは日に日に強くなっていった。
ワーラビットと人間。その種族の差が、越えようのない壁として二人の間にあった。
*
とうとう男は、山に獣を見つけることが出来なくなった。文明に頼りすぎて獣のにおいを察知できなくなったのか、はたまた本格的に獣が山を去ってしまったのか。植物だけを食べる日が何ヶ月も続いていた。
さらにその植物も、尽きようとしている。土は精気を失いつつあり、ところどころ枯れる植物が目立ってきていた。農耕も芳しくなかった。原因は分からなかったが、男の乱獲がその一端を担っているであろうことは、男も、ワーラビットもなんとなくわかっていた。気づいたときには、すでに遅かった。
このままでは飢え死にしてしまう。男は死にたくなかったし、ワーラビットにも死んで欲しくなかった。さりとてどこか他の山に移り住み、その土地を同じように食いつぶすのも嫌だった。残った唯一の獣がそれであった。
<下界に下りよう。人は人と暮らすのが一番幸せなのだ>
男は決意した。かくなる上はワーラビットを引きずってでも山を降りるしかなかった。それが一番の平和であり、幸福であると信じた。
ワーラビットは不作に次ぐ不作よりも、男の決意を危ぶんだ。降りた里の人間が男のように魔物に対して偏見を持たぬとは限らない。
彼女は怒り狂った人間の恐ろしさを知っている。魔物が本能に忠実に生きているのに対し、人間は非常に理的だ。理屈で本能を抑えているとも言える。だが理屈で抑えきれぬ本能を宿したとき、人間は凄まじい力を発揮するのだ。魔物や獣が持つような本能に対するある種の達観を持たぬが故の、爆発力だった。
男の、人里に下りたいという気持ちも十分に分かる。出来ればそれに従い、安らかな生活を求めたい。しかしそれを人間たちが許すだろうか。いや、許さないだろう。人間は彼女を、純粋な男をたぶらかした淫魔として磔にし、処刑するだろう。死にたくはない。だが男には幸せに暮らして欲しい。
嗚呼。ワーラビットは静かに泣いた。所詮魔物と人は共存できぬ。愛がゆえに維持して来た生活もこれまでだ。愛する男の幸せのために去ろう。人は人と生きるのが幸せなのだ。
――さようなら。
その夜男は、妙な胸騒ぎの中で目を覚ました。胸に虚空を抱いたかのような不安感。あって当然のものが無くなってしまったかのような喪失感。
頬を冷たいものが伝っていた。男は己が泣いているのを悟った。何故だろう。
小屋の中が妙に寒かった。隙間風はいつものことだが、そんな寒さではなかった。雰囲気がいつもと違っていた。一定の律動から何かが欠落しているような感じがあった。
男は番いの一方が居ないことに、気がついた。小用に出たのだとは思わなかった。
気づいたときには、走っていた。草むらを駆け抜け、崖を飛び越えた。
――居ない!
居なくなってしまった!
おれがあんなことを思うばかりに居なくなってしまった!
男は山中を駆け回った。草を蹴散らし、気をなぎ倒し、岩を砕いた。黒い颶風の通った後には終生雑草すら生えぬであろう荒地が出来た。
踏み潰し、引き抜き、破壊した。
行けども行けども彼女は見付からなかった。
懊!!!
怨!!!
叫んだ。
咽で叫んだ。
胸で叫んだ。
腹で叫んだ。
手足で叫んだ。
体で叫んだ。
魂で叫んだ。
その言葉も、感情も、彼女からもらったものであった。彼女はいろいろなかけがえのないものを授けてくれた。
だが、そんなものはいらなかった。叫ぶ声がいらなければ、彼女を想う気持ちもいらなかった。ただひとつ、彼女という存在が欲しかった。
咽から散って行くものがある。
――いいだろう、散ってしまえ。
気の遠くなるほどの痛みがある。
――いいだろう、砕けてしまえ。
山が、震えていた。
ひとりの獣が、啼いていた。
それはひとりの人間の男の証明であった。
深い山で男は日の出と共に目を覚ますと、昼を木の実や若い芽の採取、野生動物などの狩猟に出かけ、日の沈むのを待たず茅葺の小屋へ帰り眠りに就いた。それが男の日常であった。男は山に息し、山を摂りこみ山に還元した。男の世界は山に完結していた。春夏秋冬、そのきまりの上に成り立つ山が彼の全てであった。そこに人としての温度は無く、無情なる自然の科学のみがあった。だが彼は辛いとも楽しいとも感じたことは無かった。彼は孤独であった。
山は広く、深い。狩猟がうまく行かず、何日も食事をしないことが時としてあった。男は動物を効率的に仕留める、あるいは捕まえる罠の数々を熟知していたが、その技術を狩りに用いることは殆どなかった。彼にとって狩猟とは己の手で直接縊り殺して食べることであり、安易な道具によって間接的にその殺生を左右することではなかった。決して多くない隣人は、彼の手の中で死んでいった。しかし彼はその手の中で苦労をかけた獲物が死に往くとき、決まって涙を流した。彼の獲物は同じ山に住む家族であったのだ。男は自然を食べて生活したが、同時に自然を愛していた。自然に閉塞する彼の定めた唯一のルールは、皮肉にも人間としての能力を封印することであったのだ。だがそんな生死を分かつ問題にすら例外を認めぬ絶対的なルールにも、設けた特例があった。
それは罠というには余りにも条件を満たさなかった。それは人間界においてトラバサミと呼ばれる、紐とバネを利用した単純かつ実用的な罠であった。トラバサミは森林限界を越え山頂に佇む大岩の尖塔の頂点に仕掛けられた。その尖塔に訪れる動物は恐らく居ないだろう。のみならずその罠には、おとりが無ければ罠への導もなかった。獲物のかかるはずの無い罠であった。しかし男は三日に一回、その周期を一日でも乱さずこの罠を点検した。男はこの無意味な罠に特別な情を抱いただろうか。この自然に生きる現実的な男が、何の情も抱かずにこの無意味な罠を仕掛けただろうか。されど、かつてその罠に獲物がかかったことは、一度たりとて無かった。
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決して乾かない、かすかに湿った土に、木漏れ日がうつっている。陽光は熱く、土を乾かすばかりか汗を滲ませるようであった。
蒸し暑い昼であった。薄暗い森の中に動物の気配は無く、物言わぬ植物がその暑さにじっと耐えるようにあった。彼らの出した緑の汗はむせ返るような大気に溶け込み、さらに空間を濃厚にした。
その中に、ひとつ、異質なものがある。濃厚な緑の臭いを掻き分けるように、その獣は二本足で立ち、前傾し斜面を這うように進んでいた。
獣の進む速度は、速いとも遅いともつかなかった。獣は一定の速度を保ったまま、深い呼吸と共に斜面を登っている。獣の足には迷いが無かった。獣はどこかを目指して進んでいるようであった。
やがて森林限界を越え、地層が変わっても、獣は同様の動きを保っていた。大小様々な岩を乗り越えてゆく。
と、一際大きな岩を乗り越えようと大きく一歩踏み出した拍子に、獣の頭部がぽとりと落ちた。
獣は落ちた頭部を手に取り一瞥すると、何事も無かったかのようにそれを懐に仕舞い、動きを再開した。人間の頭部だった。獣――男は、熊の毛皮を被っていたのだ。裸になった頭部が、明らかになる。
それは先の熊の頭部よりは、幾分小さかった。伸び放題の髭に、出鱈目な長さの頭髪があった。その茫々とした黒い体毛の中に、深い暗闇が一対、鈍く光っている。時折毛皮の裏に、木の根を幾重にも束ねたような筋肉が見えて隠れる。
男は確かに人間であったが、熊の毛皮に包まれた肉体は少しも不自然に見えなかった。岩のような太い肉体は毛皮と同化しているよう見えた。まさしく熊といえた。
男は裸になった頭部で眩しそうに空を仰ぐと、再び上に向かって歩き出した。見上げる頂上には200メートルという巨大な尖塔がはっきりと確認できた。
男に表情は無い。素足で、ごつごつした花崗岩を、まるで平地をゆくような一定のペースで、息も乱さず歩いてゆく。
間もなく尖塔の下に立つと、男の鼻が小さく膨らみ、ついで耳が何かを捉えたようにひくついた。次の瞬間男は岩に飛びつくと、恐ろしい速度で頂上に向かって登りだした。段状の岩を一足飛びにし、指先ほどの手がかりを蹴って飛び上がる。男が尖塔の頂点につくのに、そう時間はかからなかった。
果たして頂点の空間には、一人の少女が、毛皮に包まれた右足首に頑丈に編んだ植物の蔦を絡ませ、ぐったりと伏せっていた。
少女はしかし、奇妙な姿をして居た。上半身と顔面こそ人間であるものの、下半身は在るべき姿に非ず、犬や猫、兎などの四足歩行動物の足に獣毛が肌を隠すように生え、そして頭部上方には毛に覆われた耳が一対、萎れたように長く伸びていた。人間の足を刈り取り兎の足を付け、兎の耳を人間の頭に縫いつければこのようになるだろうか。しかしこの不調和な肉体は不思議と少女に馴染んでいた。柔らかそうな白い獣毛と引き締まった褐色の肌が、いかにも快活そうだ。しかしその肌は埃に塗れ、色を失っていた。泥のようであった。
魔物、ワーラビットであった。
この兎と人間の混合種を、男はじっと見詰めると、静かに頬に触れた。褐色の肌は自然の弾力をもって男の指を軽く押し返した。少女の顔が僅かに歪む。生きているようだ。
男は壊れ物に触るように少女を診た。触診であった。男の太い指が、肌理の細かい肌に沈む。
男は少女の足に絡んだ蔦を解いてやった。男は一度毛皮を脱ぐと、蔦で少女を背負った。一寸の迷いもない動きは、獲物を背負うのに似ていた。男は背負った少女ごと、脱いだ毛皮を再び羽織ると、登りに劣らぬ速度で尖塔を下りはじめた。
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獣臭に満ちた茅葺小屋で、獣のような人間の男と人間のような獣の少女が呼吸している。熊の毛皮の男と、魔物ワーラビットである。
男はワーラビットを、擦り傷などの外傷を初めとし、脈拍呼吸に至るまで丁寧に診た。ワーラビットは足首に出来た環状の痣に触れると軽く顔をしかめたが、それより外は正常のように見えた。衰弱しているだけのようであった。
男はワーラビットの口に強壮効果のある葉を押し込んだ。女は何度か吐き出したが、磨り潰してやると、ゆるやかにそれを飲み下した。
一通り介抱されたワーラビットは細い呼吸を繰り返しつつも、落ち着いてきたようであった。初めはうなされたりしていたものの、次第にその呼吸も一定になってゆく。泥のようだった褐色の肌はかすかに紅潮し、萎れていた兎耳が元気を取り戻すように伸びてゆく。ワーラビットは見る見るうちに生気を取り戻していった。
男はワーラビットの傍らに座り込み、そこを動かなかった。時間がゆるやかに流れてゆく。暖気は少しずつ失われていった。陽が落ちようとしていた。
小屋の中はすでに薄暗くなっていた。大人の頭ほどの大きさの窓から赤い陽光が差し込むほかに、光源は無い。ワーラビットは安らかな寝息を立てていた。
「う……ん……」
男はワーラビットのうめくのを聴いた。ワーラビットのぴんと張った耳が小さく動く。寝返りをうち、目をこする。
程なくしてワーラビットは目覚めた。薄く開けた目を瞬かせる。確認するように手を目前で開いたり閉じたりしている。自分の状況をはかりかねているようだ。
「ここは……」
すぐに起き上がることは出来ないようであった。覚醒すぐの目に映るものはぼやけ、男を捉えることはない。ただ、自分が藁に寝かされていることだけは分かった。
男はワーラビットの覚醒したことに、どういう反応をすればいいのか分からなかった。なにしろ人に接するのは初めてのことである。少なくとも、男の記憶に自然以外のものはなかった。それに、ワーラビットを罠に嵌めたのは己であった。微かな罪悪感がある。
やがてワーラビットはきつい獣臭と、僅かな人臭を嗅いだ。かすんだ目がそれを見る。
初めは熊だと思った。しかし、その熊は襲うばかりか、横で胡坐をかいている。喰らうであろう熊の本能が見られない。熊の目にある僅かな知性を、ワーラビットは確かに見た。
視覚が回復してくると、熊ではなく、人間の男であることが分かった。良かった、人間ならば言葉が通じる。
「ここは……?」
ワーラビットは再度呟いた。今度は問いであった。記憶が錯綜していた。巨岩の尖塔の事と、それに登った記憶がある。しかし、それからがなかった。広い眺望を最後に、ぶっつりと途切れていた。
「うぁ……お……い……い」
男が呻いた。否、呻きではない。それが、発音なのであった。男は言葉を忘れていた。知らないのかもしれなかった。発音を以って気持ちを伝えることだけは知っていた。しかし、そのやりかたがわからない。
「喋れないの?」
男は肯定も否定もしなかった。男にとって言語とははじめて触れるものであったからだ。
替わりに男はワーラビットに植物の根を差し出した。
「これは?」
ワーラビットは首をかしげた。その意味が伝わるか、伝わらないか。
男はなおも植物の根を押し付けようとした。口元に向けるが、ワーラビットは依然首をかしげるばかりだ。男にはそれすらも意味を持たない。もどかしかった。男は言葉ばかりでなく、表情をも失っていた。"困った"あるいは"食べろ"の意思を伝える方法を知らないのだ。このようなとき、どうすればいいのか分からなかった。
男は必死に考えた。無理やり食べさせるのだけはしたくなかった。男はワーラビットに嫌われたくなかった。初めて出会った他人だった。
「食べろってこと?」
ワーラビットは言った後、パクパク口を動かし、食べる素振りをした。
男もそれに倣ってパクパク口を動かした。パクパクした後、モグモグに変わった。そして男は空気を飲み込んだ。この間、男の表情に変化はない。妙に滑稽なその動作に、ワーラビットはかすかに微笑んだ。男にはその意味がわからなかったが、その動作を再び繰り返した。そのたびにワーラビットは微笑った。それは次第に声を立てる笑いとなっていった。男には"笑い"がわからない。けれども、それは尊いものに思えた。男は尊いもののために、繰り返した。それは間違いなく喜びの表現であった。
「あっはっはっは! きみ、面白いね!」
男は腹を抱えて笑うワーラビットの様子を見て不思議に思った。何ゆえそのように顔をゆがめ、肺から空気を噴出させ、大声を出すのか。ただ、ひたすらにそれは尊かった。
「あ゛」
「うん?」
突然濁った音を出す男に、目じりに涙を浮かべたワーラビットは疑問符を浮かべる。男は次第に顔を奇妙に歪めていった。酷くぎこちなく、捉えづらい表情だった。
「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛」
男は連続して濁った音を出した。それは少しずつ声に近づいていった。ワーラビットは男の表情が笑顔に近づきつつあるのを悟った。男は笑おうとしているのだった。
「あ゛、あ゛ふ、はあ゛。あ゛っはふ。あ゛はっはっはっはっは」
「なにそれ! あっはっはっはっはっは!」
「あ゛っはっはっはっは!」
この行為の意味を男は知らない。ただ、幸福があった。
二人は植物の根の事も忘れ、笑いあった。
*
「食べ物、取った」
「おかえり! わ、大きな熊だね。これでしばらくは保ちそう」
男とワーラビットは出会い、笑いあった日から、何となしに一緒に生活するようになった。
二人の間に、初めから警戒は無かった。出会ったその日の晩に二人は交わった。求めたのはワーラビットであった。その日から男の生活は一変した。初めて他人と接した男は見る間に人に近づき、男の大部分をワーラビットが占めるようになっていった。
いつからか、男は獲物を"食べ物"と認識するようになっていた。罠を使うようになり、農耕をするようになった。それまで自然を生活の全てにおいていた男が、文明をその内に取り入れて行った。男にとっての最上位が、ワーラビットと己になっていた。そのことについて男は何も思うことがなかった。
「明日までの分は刺身にして、他は塩漬けにするね」
男は肯いた。男は言語を砂に水が染み込むが如く吸収していった。今では簡単な意思を伝えられるまでにその言語力は進歩していた。言語には郷愁の響きがあった。獣のような生活をしていた男がこれほど容易に文明を開花させてゆく理由を、二人は問わなかった。人と獣、そして魔物との、絶大なまでの差を認めるわけにはゆかなかった。男とワーラビットは現在に幸福を得られる。それで良いと思っていた。
男が狩猟し、その間にワーラビットが家のことを済ませる。獲物はワーラビットが調理した。獲物が多く、それ以上狩猟する必要の無いときは二人で農耕した。全てがうまく回っているかのようにみえた。
「今、食べ物、減った。罠しても、とれない」
このごろ、獣の数が明らかに減ってきていた。二人が生活し始めた当初、罠に余るほどいた獣が、今では殆どいなくなっている。追い込んで縊り殺すことはもちろん、罠にさえもあまりかからない。熊のように、大物が獲れたのは本当に久々のことであった。
罠、あるいは備蓄がそれを引き起こしたのかもしれなかった。以前の自然にまかせたその日暮しを思えば、これは起こらなかったかもしれなかった。人が生まれたことにより、山の環境が変わってきていたのかも知れなかった。
これからさらに動植物は減るだろう。しかし、男はそれに思い至る事は無かった。食料が減ることを単なる不便として捉えるところがあった。食べ物が減る――男はそれを、乱獲のせいだとは認識しなかった。
「家、変えないか。人、居るところ、いいと思う」
たびたび持ち掛けていることだった。自然に生きた男は文明の利便性を知ってしまった。楽な生活から、人はなかなか抜け出せないものである。しかし、その話をするたびに、ワーラビットは寂しそうな顔をするのだった。
人と魔物の違い。そしてその分類。男はワーラビット以外の者を知らない。その兎の特徴を、ただの個性としてしか見て居なかった。男が強靭な肉体を持つように、ワーラビットは兎の下半身と耳を持つ、その程度の認識であった。男にとってワーラビットとは唯一の自分以外の人間であった。
男は知らない。ワーラビットは人間ではなく、魔物であることを。本来人と魔は共存できない。魔物が人里に降りれば疎んじられ、人間が魔界に行けば食い物にされる。
対してワーラビットはそのことを身にしみて理解していた。かつて彼女は魔物の里に居た。その中で時折攫われてくる人間を目にしていた。魔物からすれば人間は搾取すべき対象でしかない。人間は魔物を恐れ、敬うべきものと当然のように考えていた。
ところがある日、その人間が里を攻めてきた。大軍に魔物たちはなすすべも無く蹂躙された。淫魔たちは大量の人間の男どもに嫌というほど犯しつくされ、その存在意義を失い、最後は虐殺された。彼女はその里から逃れ得た唯一魔物であった。それ以来、人間は恐れるべきものであった。
彼女は男を愛している。初めて会ったときから、この人間味のない、けれども魔物でもない男は、特別であった。肌を重ねると、それが良く分かった。この男の、他者に対する愛情に偽りは無かった。涙を流しながら虎の頚骨を捻り折る優しさと強さを、人間が持つだろうか。
だが、この男も変わりつつあった。言語を有し、文明を得、不便を感じ、利便性を求めた男は少しずつ人間に近づいて行った。いつからだろうか、この男が罠を用い始めたのは。いつからだろうか、この男が虎や熊を"食べ物"と呼ぶようになったのは。
それでも彼女は彼を愛した。その愛があるからこそ、寂しかった。彼は人を求めている。忌まわしい人を求め、人に近づきつつある。優しい彼が人を見たとき、どうなってしまうだろうか。人に愛想を尽かし、山に帰るだろうか。それとも人を感じ、人を愛し、人にまぎれるだろうか。そして人間と同じように、魔物を憎むようになるだろうか。
おそらくはどれでもあるまい。彼は人でありながら、人ではない。変わりつつあるとはいえ、彼の深い慈愛は魂に深く根付いたものである。彼は人に疎んじられながら、人を愛するだろう。人を愛しながら、人のために尽くすであろう。しかしその愛は報われる事は無い。死ぬまで変人、あるいは獣人と差別され、孤独に死を迎えるであろう。
愛する人にそんな人生は送らせたくなかった。たとえ嫌われても、ここに残って生活せねばならなかった。
男は、寂しい表情を浮かべるワーラビットを見て疑問以上を思う事は無かった。
生活が厳しくなってきているのは彼女も分かっているはずだ。罠を増やし、農耕し、それでも足りないからこそ、人間の里に降りる必要がある。
人の里に降りれば仕事がある。獣の毛皮を剥いで幾らでも売ることが出来る。下界にはさまざまな仕事があると聞いた。熊を素手で倒す実力を持ってすれば格闘家の道もあるだろう。それらを教えてくれたのは他でもない彼女である。飢えが無い。寒さがない。暑さが無い。煌びやかな生活が、下界にはあるのだ。そんなすばらしい世界があるのに、どうして彼女はそこに行こうとしないのか。
男の、下界に行きたいと思う望みは日に日に強くなっていった。
ワーラビットと人間。その種族の差が、越えようのない壁として二人の間にあった。
*
とうとう男は、山に獣を見つけることが出来なくなった。文明に頼りすぎて獣のにおいを察知できなくなったのか、はたまた本格的に獣が山を去ってしまったのか。植物だけを食べる日が何ヶ月も続いていた。
さらにその植物も、尽きようとしている。土は精気を失いつつあり、ところどころ枯れる植物が目立ってきていた。農耕も芳しくなかった。原因は分からなかったが、男の乱獲がその一端を担っているであろうことは、男も、ワーラビットもなんとなくわかっていた。気づいたときには、すでに遅かった。
このままでは飢え死にしてしまう。男は死にたくなかったし、ワーラビットにも死んで欲しくなかった。さりとてどこか他の山に移り住み、その土地を同じように食いつぶすのも嫌だった。残った唯一の獣がそれであった。
<下界に下りよう。人は人と暮らすのが一番幸せなのだ>
男は決意した。かくなる上はワーラビットを引きずってでも山を降りるしかなかった。それが一番の平和であり、幸福であると信じた。
ワーラビットは不作に次ぐ不作よりも、男の決意を危ぶんだ。降りた里の人間が男のように魔物に対して偏見を持たぬとは限らない。
彼女は怒り狂った人間の恐ろしさを知っている。魔物が本能に忠実に生きているのに対し、人間は非常に理的だ。理屈で本能を抑えているとも言える。だが理屈で抑えきれぬ本能を宿したとき、人間は凄まじい力を発揮するのだ。魔物や獣が持つような本能に対するある種の達観を持たぬが故の、爆発力だった。
男の、人里に下りたいという気持ちも十分に分かる。出来ればそれに従い、安らかな生活を求めたい。しかしそれを人間たちが許すだろうか。いや、許さないだろう。人間は彼女を、純粋な男をたぶらかした淫魔として磔にし、処刑するだろう。死にたくはない。だが男には幸せに暮らして欲しい。
嗚呼。ワーラビットは静かに泣いた。所詮魔物と人は共存できぬ。愛がゆえに維持して来た生活もこれまでだ。愛する男の幸せのために去ろう。人は人と生きるのが幸せなのだ。
――さようなら。
その夜男は、妙な胸騒ぎの中で目を覚ました。胸に虚空を抱いたかのような不安感。あって当然のものが無くなってしまったかのような喪失感。
頬を冷たいものが伝っていた。男は己が泣いているのを悟った。何故だろう。
小屋の中が妙に寒かった。隙間風はいつものことだが、そんな寒さではなかった。雰囲気がいつもと違っていた。一定の律動から何かが欠落しているような感じがあった。
男は番いの一方が居ないことに、気がついた。小用に出たのだとは思わなかった。
気づいたときには、走っていた。草むらを駆け抜け、崖を飛び越えた。
――居ない!
居なくなってしまった!
おれがあんなことを思うばかりに居なくなってしまった!
男は山中を駆け回った。草を蹴散らし、気をなぎ倒し、岩を砕いた。黒い颶風の通った後には終生雑草すら生えぬであろう荒地が出来た。
踏み潰し、引き抜き、破壊した。
行けども行けども彼女は見付からなかった。
懊!!!
怨!!!
叫んだ。
咽で叫んだ。
胸で叫んだ。
腹で叫んだ。
手足で叫んだ。
体で叫んだ。
魂で叫んだ。
その言葉も、感情も、彼女からもらったものであった。彼女はいろいろなかけがえのないものを授けてくれた。
だが、そんなものはいらなかった。叫ぶ声がいらなければ、彼女を想う気持ちもいらなかった。ただひとつ、彼女という存在が欲しかった。
咽から散って行くものがある。
――いいだろう、散ってしまえ。
気の遠くなるほどの痛みがある。
――いいだろう、砕けてしまえ。
山が、震えていた。
ひとりの獣が、啼いていた。
それはひとりの人間の男の証明であった。
10/03/10 15:01更新 / ロリコン
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