連載小説
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岩上の男
 地平線の淵が明るみ、霧がたつ。
 霧が濃くなり、雫となる。
 雫は、岩を濡らし草に汗を掻かせた。
 やがて景色が開ける。
 山々が遠く幾重にも連なり、霞んで融けてゆく。
 夕焼けに影が長く引いた。夜になるとそれも、景色に融けていった。
 澄んだ空気があった。
 尻に岩の冷たい感触があった。少女と出会った、岩の上であった。
 長い間、そうしていた。少女を求めるうちに、ここに居た。
 空腹に腹が鳴り、寒気に体が震えても、じっと、座っていた。
 座っているだけであった。脳裏にあるのは少女のことであったが、自分が何を求めているのか、分からなかった。
 少女は戻るだろうか。戻らないだろうか。そんなことは考えなかった。
 少女の声。少女の軆。ぬくもり。優しさ。時折見せる寂しげな表情。少女と暮らした、長いようで短い、短いようで長かった日々。二人で過ごした季節。土の味。木の実の味。獣の味。少女の味。
 浮かんでは消え、消えては浮かんだ記憶を、ただ、眺めていた。
 眼前に広がる景色があった。脳裏に広がる記憶があった。
 それらを、ただ眺めている。
 どれくらいの時間を、こうして居ただろうか。体を、心をありのままに座し、自然に吹かれるがままにしていた。心と体は様々なものを見せたが、男は何も観ていなかった。暖かな日差しも、夜の刺すような寒気も、男には感ずることが出来ない。体の震え、心の震え、そのどちらも、男には別の世界の出来事であった。
 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、何もかもが、男から去っていた。
 どうして去った?
 その問いをも、男は持たない。
 何も、無かった。

*

「こんなところに人が居るのかよ」
「知らないわよ、そんなことは。私たちの任務はそれを捜して連れ帰ることでしょ。見つかるまで帰らない。それだけよ」
 森の中の獣道を、銀を基調とした武装を携えた一組の若い男女が歩いている。
 先頭を歩く女の歩調に対して、男のそれは遅かった。男の歩くのが遅いのは手持ち無沙汰に山刀を振り回し、周囲の植物を傷つけながら歩いているためだった。また、それに構わず女は歩くので、さらに距離は開いていった。
「おい、もうちょっとゆっくり行こうぜ。せっかくのハイキングじゃねえか」
 おどけた口調で男が言う。これもまた、退屈しのぎであった。
 それに女が振り返る。余裕の無い表情であった。こめかみに青筋が浮いている。
「ハイキング? 何がハイキングよ! もうひと月になるってのに手がかりひとつ無いじゃない! 帰ってお風呂に入りたいわ! おまけに食べ物は少ない! バイキングしたいわチクショオオオ!!!」
「いやだからしてるだろハイキング」
 女は突然金切り声をあげた。ヒステリーである。退屈な男は、それでも女を冷静に煽った。
「それはバイキング! わたしのやりたいのはハイキングよクソッタレ!」
 そこまで言うと女は腰に提げた銀細工の長剣を力任せに木に叩きつけた。直径30センチ程のダケカンバである。女はこれまでのストレスを発散させるかのごとく、そのダケカンバに何度も斬り付けた。やがて、十も斬らぬ内に、哀れな樹は生の音を立ててへし折れた。
「あーあー。勿体ねえ。この樹液は栄養あるのによお」
 男は、いつものことなのか、その態度を崩さずに、荒い息を立てる女をたしなめた。
「木こりにでもなったほうがいいんじゃねえか。……ん?」
 男は折られた木に向けた視線をやや上方に傾け、怪訝な顔をした。女もそれに釣られて上を見る。
 木の向こう、100メートルほどの先に見えたのは、茅葺屋根の小さな小屋であった。ふたりはこれまでまとわりつかせていた雰囲気を一変させ、真剣な顔つきになった。
「見えるか」
「ええ。それにこの匂い……」
 女の頬が俄かに紅潮した。ついで太ももを擦り合わせると熱の篭った息を吐き出した。
「魔物だな」
 女の表情が甘いものになっていた。魔物の残した魔力の残滓を肌で感じ取ったのだ。人間は魔物の生命エネルギーに当てられると、ほぼ例外なくその本能を掻き立てられるという。本能、即ち三大欲求の一、性欲であった。
 女は男にあからさまな視線を送った。ところが男はそれに気づいてないかのように、何の反応も与えずに歩を進めた。
「調べにいくぞ」
 女の立ち止まっている獣道は決して広くない。道の端に寄らなければ、女の横を通り抜けるときに、どうしても互いの体のどこかが触れ合ってしまう。だが女は迫り寄る男をよけるつもりは無いらしかった。
 男は、女の期待に満ちた視線を知っていた。欲情した雌の視線であった。
 一瞬だけ、互いの視線が交わる。男はすぐに視線を下に落とした。落とした先は女の下半身であった。それを感じてか、女の腰が誘うように小さな円を描いた。
 女には、男が自分に向かって歩み寄るまでの時間の距離が永遠にも感じられた。一歩一歩、着実に男は近寄ってくる。距離が縮むに連れ、下腹部に熾った小さな熱のが膨らんでゆく。その下腹部に向かって、男が道を歩いてくる。
<ああ、もう少しよ>
 もう、すぐ近くまで男が来ていた。距離にして一歩も無い。雄の芳香が鼻をくすぐる。その薫りは脳を経ずに、直接下腹部に響いてきた。すでに熱は全身にまで回っていた。
 女は想った。逞しい肉体を。荒々しい獣の強張りを。
 と、突然女の視界から男が消えていた。それと同時に、体の先端から電流が走るのを感じた。
「あっ」
 性感。女は己の口から甘い声が漏れたのを聴いた。男はいなくなっていた。体を僅かに痺れさせる程度の快感を残して、男は消えてしまっていた。
「おい、早く行くぞ」
 男の声は頭上から降ってきた。女を飛び越えたらしかった。発情した雌はそのときに起きた小さな風にすら、性感を覚えたのだ。男の完全に女を無視した振る舞いに、しかし彼女の性欲は萎えるどころか奮い立っていた。
 女は、男の着地して振り向きざまに見せた、体のある一点を、確かに見た。雄の象徴が、怒張していた。

 女は腿を伝うものを感じながら、息も絶え絶えになって小屋を目指した。小屋に近づくごとに、魔物の残した匂いは強くなって行く。そして女は男よりやや遅れて小屋に到着した。そのときには、女の下半身は失禁したように、濡れていた。強烈な匂いを放つ雌の汁が、武具の奥で鈍く光っていた。
 女は半ば這うようにして小屋の中に入った。
 小屋の中は、外と比べ物にならなかった。肌に粘りつく空気。催淫の香りに満ちていた。そして女は、薄暗い空間に目が慣れぬうちに、別の匂いを嗅ぎとった。固形物のような、強烈な雄臭であった。
 女は夢中でそれにしがみつくと、むしゃぶりついた。久々に味わう匂いであった。女はそれを咽で受けると、途端に絶頂を迎えた。己の陰部から、噴水のように吹き出ているものを感じる。
 節くれ立った堅い肉。
 女は、雄の先端から止め処無く滲み出る淫らな汁を、音を立てて飲み込んだ。絶頂時の如き量で流れる媚薬は雌を奮わせた。その汁は雌を急き立てるかのようであった。雌もそれに応えた。先端を咽で扱き、長く伸ばした赤い舌で嚢の筋を舐め上げた。雄は叩きつけるように、雌の咽に抽送を繰り返した。
 激しく前後に揺れ動く尻を、雌は逃すまいと抱え込んだ。その指先が雄の汚れた部分に潜り込んだ。雌は雄の体の硬直するのを感じた。怒張が膨れ上がった。雌は雄の塊を抽出すべく、咽に突きこまれた先端をより深く飲み込んだ。巨大な雄の象徴が、陰嚢ごと雌の口内に潜り込む。一層激しく吸い上げた。
 そして、搏動。雌は咽の奥に熱い温度を感じた。固形のような温度は食道を逆流し、口の中に溢れた。大量の精であった。一時は逆流したそれを飲み干すべく、雌は熱い塊を嚥下した。嚥下に合わせ、さらに大量の精液が送り込まれて来る。雌はこれまでにない絶頂を感じた。体を波立たせ、飛沫を上げながらそれを飲んだ。しかしそれでも収まり切らぬ量が、夥しい流れとなって雌の口からあふれ出た。蕩けきった顔を、汚して行く。
 雄の怒張は大量の精液を雌の体内に流し込んでも、萎える事は無かった。それどころか、一度精を放って箍が外れたように、先ほどよりも雄々しく奮い立っていた。雄は、陶酔した雌の口に、再び怒張を送り込んだ。雌はそれを受け、激しく嘔吐いた。一度は収められた大量の精液が、再び吐瀉される。大量の精液が、雌の胸元に注がれる。胸元から入り込んだ精液はそのまま臍を下り、下腹部に流れた。狂ったように抽送を始める雄を、雌は拒まなかった。己と雄の体液が触れ合い混ざり合ったことを感じた雌は、一層上の高まりに至った。雌は一層激しく扱きたてた。
 雌壷から白濁した液体が飛んでいた。白濁液は雌の足元に水溜りを作っていた。未だ直接的な刺激を受けていない蜜壷が激しく伸縮を繰り返していた。そのたびに、液体が飛び散った。継続的に迎えていた。絶頂であった。
 雌は、己の股間から飛沫を撒き散らしながら雄を吸いたてた。雌は抱え込んだ雄を押し倒した。その拍子に雄の象徴が雌の口から糸を引いて離れる。反動で肉根が主人の臍を激しく叩いた。巨大な雄が天をついていた。雄は今一度突き入れんと、雌の頭を抱え込むようにと手を伸ばした。その手が空を切る。もどかしそうに腰ばかりが跳ね上がった。
 雌はそれを膝で抑えると、雄を跨いだ。雌の象徴があらわになる。繁りを、白濁した粘液が滴っていた。翳りの奥が、触れてもいないのに赤く充血している。長い間放って置かれた雌の鬱屈した欲望がそこにあった。雄を招き入れるように、そこだけ別の生き物が如く伸縮を繰り返した。雄の鼻腔がその匂いを嗅いだ。
 雌は、雄の嘗て無い程の怒張に蜜壷を近づけた。精液の残滓と溢れ出る先走の液体で光るそれに、蜜壷から白濁色の汁が滴った。限り無く二つの距離は近づく。近づき、触れ合うかと言うところでまた離れる。一寸にも満たぬ距離を行き来するうちに、雄は更なる怒張を果たした。その膨張の差が、僅かに肉壷に触れると、雌の腰が砕けた。
 絶叫があがった。雄を、潤んだ熱い何かが包み込んでいた。弛みきった、しかし深い圧力のあるものであった。膣であった。その瞬間に雄は放出していた。常軌を逸した量の精液は、雌壷を一瞬にして満たした。溶岩のような蕩肉は放出され続ける精液を受け止めながらも、断続的に雄を搾り上げた。雌は殆ど錯乱の内にあった。衝撃的なまでの性感が雌を貫いていた。雌壷を精液で満たされつつも、尚不足を搾り取るが如き蠕動運動を繰り返す。膣から溢れ出た尋常で無い量の精液が、結合部で粘性の高い糸を引き、泡立っていた。
 陶酔の内に絶叫しながら獣は腰を振り続ける。
 ふたつの獣は狂気にあった。際限ない絶頂の中で、沸騰した脳内が少しずつ白く濁っていった。

 白濁する意識を掻き分けて、男は目覚めた。
 薄暗闇の中に、梁が見えていた。隣には呼吸がある。
「おい」
「……なに?」
「まだ人間か?」
「たぶん、ね……」
 淫夢の始まりから、どれほどの時間が経っただろうか。未だ惚けた意識の中で、男は狂気の宴を思い起こしていた。
 あの匂いを嗅いだ瞬間から、正気でなかった。相棒の女を如何に犯すかばかりを考えていた。底を見せぬ性欲。力という力が体の奥深くから沸き出てくるような感覚。あのときの自分はまごうこと無きインキュバスであった。女もそれは同じだっただろう。交合がこの世の全てであると、本心から思っていた。
「ターゲットに寄り添う魔物がいると聴いたが」
「ワーラビットね。ラビット種獣人型」
「上位魔族だったかな」
「ただの魔物よ」
 サキュバスは多大な魔力を持ち、住み着いたその場を己が魔力の影響で魔界と化す特性を持つ。魔界の空気に触れた人間は少しずつ魔物化し、男ならば魔に魅せられ、女はサキュバスへと変化するという。
 二人が小屋を訪れたとき、内部はまさに魔界の気を孕んでいた。しかし、情報によれば、ここに居たのは単なる魔物ワーラビットであるという。下位魔族であるワーラビットに、そんな能力は無論無い。事実と情報の相違であろうか。さもなくば――
「魔物は男の精で能力を進化させるらしいな」
「サキュバス級の能力を持ったワーラビットなんて聞いたことも無いけどね」
「それもただの一匹で擬似魔界を形成するほどの、だ」
「と言ってもすでにここは魔界じゃ無いわ。いえ、もともと魔界というよりは、魔力に満ちた空間ということね。魔界並みの影響力を持った魔力の残滓。恐ろしいわね」
 如何に強力な魔力を持ったワーラビットとはいえ、所詮はただの獣人に過ぎない。魔界を形作る能力を持ち合わせてはいないのだ。それだけに、畏怖となり得る。技を持たず、単なる腕力のみでそれに至ったということだった。
「恐いのは男だな。たったひとりで魔物をそこまで進化させたんだ。教団が欲しがるわけだぜ」
 男はそこまで言うと、大きく伸びをして武具を着け始めた。女もそれに倣う。気持ちの切り替えと、手馴れた装着は歴戦の勇者を思わせた。二人の顔は、引き締まっていた。
「強い匂いを感じるわ。山頂に向かったようね」
「魔物も一緒かな」
「わからないわ。男の匂いが強烈過ぎる。獣みたい」
 小屋の外は湿った空気に覆われていた。霧が煙っている。
 ふたりは歩き出した。その歩みは速く、あっというまに茅葺小屋から遠ざかっていった。
 登るに連れて、霧は濃くなっていった。
 高山植物が足元で湿っぽい音を立てていた。
 女は鼻が利くようだった。一寸先も見えぬ濃霧の中を迷わず歩いて行く。男もそれに遅れず、無造作について行った。
 次第に高山植物もその数を減らして行った。風の吹く音と、花崗岩を踏む硬い音だけが支配する世界。視界は無いに等しい。
 銀の武具が汗を掻いていた。武具の下はさらに湿っていた。しかし二人は付きまとう不快感をものともせず、歩みを進めて行く。
「この上ね」
 濃霧の中に、突如として現れたのは、巨大な岩の尖塔だった。女が言うに、この上にターゲットが居るようであった。ターゲットは如何にしてこれを登っただろうか。濃霧も加わり、下方からでは上方の突起が分かりづらい。そうでなくともこれを登るのは至難であろう。見える範囲だけでも手がかりは殆ど無く、あっても指先ほどのものであった。
「登るだけか?」
「ええ」
「おれが先導しよう」
 二人は銀装飾の背嚢から登攀具を引き出すと、武装をはずしてからそれを身に着けた。銀の短剣だけを腰に差し、武具と背嚢は手頃な岩の陰に隠しておく。この尖塔を登れば山頂である。岩の表面は濡れている。高レベルの登攀術を要すだろう。装備は必要最小限に収めたかった。
 お互いを命綱で結ぶと、最初の手がかりに指を掛けた。
 岩のところどころに安全確保の釘を打ち込み、命綱を通してゆく。遅い進度であったが、確実であった。両者ともに息の乱れは無い。打ち込む岩と、手掛かりに迷いは無かった。洗練された登攀技術であった。
 上に登るに連れて、掴む表面は滑らかになっていった。安全確保の釘だけでは登れなくなっていった。これ以上は岩に穴を開けながら、人為的に手掛かりを創って行くしかない。
 極端に手掛かりの少ない岩であった。幾つかの岩の重なりがひとつの尖塔として成るこの岩壁の、一つ一つの岩は大きい。しかも表面は平均的に風化し滑らかであり、手掛かりといえば重なった岩の溝や、ときどき見られる亀裂くらいのものである。その亀裂も、狭い。女の小指の先が入るかどうかといった程度のものである。加えて霧に濡れた岩肌。釘を打ち込む人工的登攀方法で無ければ登れぬ岩であった。
「気づいたか」
 下を見ず、男が問う。
「ええ。化け物ね」
「全くだ」
 その岩は滑らかであった。形のない風といえども、気の遠くなるほどの年月を掛ければその力は鋼をも削る。風は先端部の弱いところから物質を削ってゆき、次第にその表面を滑らかにする。それが、自然の岩であった。
 この尖塔も例に漏れず自然に身をまかせた岩であった。凡そ非力な人間がその腕力のみで登ることを許さない、大自然の驚異。そのとおり、この尖塔は手掛かりに極端に乏しい、表面の滑らかな、自然の岩なのであった。
「釘の痕が、他にあったか?」
「わたしは見つけられなかったわ」
 見落としなどではなかった。二人はこれでも特別な訓練を受けている。沢を上り、岩を登り、山に生きる為の能力を、常人をはるかに超える水準で携えている。その二人にそんな見落としのあるはずが無かった。
 この尖塔の上にいる人物は、徒手空拳で、何の装備も持たず、二本の腕と二本の足のみでこれを登った事になる。人間技ではなかった。まるで猿である。いや、猿であってもこれを登れるだろうか。
 二人は嫌な汗を掻いていた。"何か"が、上で待っている。上の者は二人に気づいている可能性があった。その上で登らせている。正体不明の圧力を感じていた。
「恐いな」
「ええ」
「生きてるって感じがするよ」
「わたしもよ」
 濃霧に、釘を打つ音だけが、不気味に響いていた。

 二人は長い時間を掛けて頂上に至った。その頂点は、二畳ほどのテラスの端に小さく立った錐状の岩だった。
 その頂点に、"何か"が座している。ふたりには、"何か"が何であるか、すぐには認識出来なかった。緩やかなリズムで、その姿がわずかに膨縮しているのを見て、それが呼吸しているのだと気がついた。
 よく見るとそれは、人間の男であった。岩上の男は腰布を引っ掛けただけの、粗末な格好をしていた。
 岩上の男は二人が登ってきたことに、なんの反応もよこさなかった。惚けたように、ただ座っている。
 ここで引いてはまずいと思った。取引に来たのである。目的はこの男の身柄を確保し、連れ帰ること。実力が計り知れないならば、会話で以ってゆくしかない。女は腹を決めた。
「こんにちは。捜したわ」
 女は岩上の男に気さくに話しかけた。反応は見られなかった。女は構わず続けた。
「わたしはミラベル・ジュディ・ソマーズ。彼はヨハン・ラント。彼とは生まれは違うけど仲良くやっているわ。あなたは?」
 岩上の男は完全に無視している。自然体で話しかけたミラベルは内心冷や汗を掻いていた。只者ではないと思った。岩上の男は話しかけられているにも関わらず、その気配にどのような動きも見せなかった。通常は、話しかけられることにより、水面に広がる波紋の如く、心に何かしらの影響を及ぼすものなのだ。そして心は体に流れ、動きを作る。如何様な痴呆にも、それはある。岩上の男には、それが、ない。その極端な無反応はものを思わぬ石や木の所業であった。並みの精神鍛錬で身につくものではない。
 それでも反応を求め口を開こうとするミラベル。それを、ヨハンが制し、前に出た。
 ヨハンは短剣を抜いた。そして何かを呟き、短剣に念じた。するとその長さが長剣ほどになった。ヨハンは無言で男の側に立つと、長剣を片手上段に振り上げた。その切っ先が頂点に達したときのことであった。
「ちょっと、それは……」
「黙ってろ」
 賢いやり方ではなかった。しかしそれをいさめようとしたミラベルの言葉を、ヨハンは遮った。
 客観的に見て、ミラベルの制止は間違っていない。ここで男を屈服させるのは簡単だが、それからが困る。男を拘束して歩かねばならない。危険な山道をそれで進むのは避けたかった。男の実力も気になった。
 ところがミラベルは、いとも簡単に封じられた。ミラベルは、長剣の切っ先が微かに震えているのを見た。
 ヨハンから、ただならぬ気配が漂っていた。構えて一瞬、その動作は岩上の男の動きを誘発するためだけのものであったのが、今ではそれが変わっていた。
 時が止まった。
 上段に構えたヨハンの胸が、忙しなく上下していた。鼻息荒く、鬱血したように顔が赤くなっている。
 鍔本が震えで、小さくカタカタ鳴る。つばを飲み込む音が響く。鼓動が早鐘に打つ。
 静寂の中に、どのような音でも聞き取れた。凝り固まった濃霧に捕われたかのように、あらゆるものが動きを止めていた。
 風が、吹いた。
 霧が晴れていた。岩上の男の表情が明らかになった。ミラベルはそれを見た。
 無――
 がくり、とヨハンが膝を突いた。短剣が元の長さに戻っている。ヨハンは荒い息を何度も吐き出すと、顔を俯けて、言った。
「駄目だ。おれでは到底手に負えない」
 ミラベルは安堵を覚えていた。男の死亡による任務遂行不可の難を逃れたからではなかった。ミラベルはヨハンの実力を知っている。そのヨハンが恐れおののくほどの力を持つ男を怒らせずに済んだからであった。全身にびっしょり汗を掻いていた。
 額をぬぐう。関節に油が切れたかのように、その動作で腕が軋んだ。
「こいつは腑抜けだよ。間違いない。ただの腑抜けだ。ただの腑抜けに、おれは剣を振り下ろせなかった」
 ヨハンは老人のようになった目で言った。憔悴があった。ミラベルは何も言えなかった。
「帰ろう」
 呟くと、相棒に視線を合わすこともせず、ヨハンは岩壁を下り始めた。

 霧の晴れた世界を見ていた。
 先の来訪者を想う。
 心に想う一人の少女以外に見た、初めての人間であった。ろくに視線も合わせなかったので、その姿形はわからなかった。彼らは自分を捜し、ここまで登ってきたのだと言う。
 彼らは自分のことを知っているようだった。しかし、あれほど渇望した人間が、向こうからやって来たにも関わらず、心は揺れなかった。
 その人間のひとりが帰り際に言った、腑抜けであると。その通りだった。今の自分は何もかもが抜けている。あらゆる意志の抜けきった者の心に何が生じよう。何も生じるはずは無いのだ。死人に等しかった。
 今の自分には何も無い。彼女が居なくなってから、何も無くなってしまった。今はもう、寂しいとすら思わない。
 座っている場所を見る。少女と出会った場所。彼女との記憶の始まり。他人を認識した。そして己を認識した。それは今の自分の始まりであった。紛れも無く、今の自分はここで生まれたのだ。
 彼女と出会わなければ、今の自分は無かっただろう。以前のように獣として生活し、そして緩やかに、生を全うしたのだろう。あるいはそれが幸福であったのかも知れなかった。しかし今では考えられないことだった。獣の生き方は、面白くない生き方であると、思っている。自分は変わったのだ。
 どう変わったのか。獲って、喰らって、寝る。昔は、それだけの生活であった。だが、獲って、喰らって、寝るのは、今も昔も変わったことではない。ところが、今の自分、あるいは人間となってからの自分は明らかに昔と違っている。昔はこうしてものを考えることなど、全くと言って良いほど無かった。
 解っている事は、人間になった、つまり、自分は熊や虎のような動物ではなく、人間という存在である、という漠然とした認識の所有のみであった。
<なぜおれはこんなにも苦しいのだ>
 ふと、思い当たる。人間とは何だ。動物に対して、狩猟と食事と睡眠に加わる、何かを持つものではないのか。昔の自分が今の自分となった原因があの少女にあることは間違いない。すると人間とは――
 脳裏を過ぎったその思考に、重要な何かがあるような気がした。
 無意識の内に、男は立ち上がっていた。自然な動作であった。

*

 消沈したヨハンに山を降りる気力は殆ど無かった。先頭こそ歩いているものの、その後姿は小さく頼り無さ気だ。
 小屋に戻るべく、来た道を引き返す。何度も浮き石や苔を踏んでは躓くヨハンをミラベルは心配そうに見つめた。
「あそこまで無視を決め込まれるとねえ。どうしようもないわ」
 空気に耐え切れず発したミラベルの言葉も、所詮気休めに過ぎない。
 底の厚い登山靴がごつごつと重い音を立てる。霧が晴れて、明瞭となった森は、半分が枯れかかっていた。不自然に折れ曲がった木や、そこだけ広く伐採されている所、更には深く掘られた穴など、人間の手が加わっている部分が特に目立った。恐らくは岩上の男の仕業であろう。人間が原生林に住むという現実があった。
「教団の洗礼か……」
 虚空を仰いで、ヨハンは呟いた。
「強くなったと思ったんだがな」
 岩上の男に剣を振りかぶった時のことを想う。最初から最後まで、男はどんな心の動きも見せなかった。気づいていないのか、あえて無視していたのか。そんなことはどうでも良かった。振りぬけば、斬れたかもしれないとまで思う。もちろん斬り殺す気はないが、男が何かしら反応してくれれば、それで良かったのだ。だが、ヨハンには出来なかった。誤って殺してしまうことを恐れたのではない。
 構えてみて、直感で分かった。本気で振りぬかなければ、こちらがやられる、と。その根拠はない。男は何の気配も持たなかった。にもかかわらず、そんな心境になった。いや、させられたと言うべきか。ヨハンにはまるで、無防備のところを、自分が剣を振りかぶられているように感じられたのだった。
 ヨハンは思う。教団の洗礼を受け、腕力をつけたのは確かだが、実戦経験はそれほど多いわけではない。恐れをなしたのは岩上の男の腕力にではない。その全く空虚な心にであった。要は、心の鍛錬が足りなかったのだ。
<ビビっただけじゃねえか>
 情報によれば、岩上の男は一度も里に下りず、山で暮らしていたという。想像に難い生活だが、その環境があの心の持ち様を生んだのだろうか。山に籠もってみるのもいいかもしれない――所詮今の身分ではかなわぬことであったが、漠然とそんなことを考えた。
 物思いに耽るうちに、ずいぶん下まで降りてきていた。小屋までもう少しといったところか。
 程なくして、茅葺屋根が見えてきた。そこで、ヨハンの後方を歩いていたミラベルが歩みを止めた。
「あれ。この匂い……」
「どうした?」
 訝しげに鼻をひくつかせるミラベルに、ヨハンが問う。
「あの男、小屋にいるみたいよ」
「そんな馬鹿な。幾らなんでも早すぎるだろう」
 二人は驚愕を隠せない。意気の下がった状態だったとは言え、その山行速度は常識よりもずっと早かったはずだ。後に出発した男が、これを抜いたとは到底信じられなかった。
「勘違いかもしれないわ。とりあえず向かいましょう」
 半信半疑のまま、ふたりは小屋を目指し、歩調を速めた。

 小屋までには距離があった。小さく見えていた茅葺屋根が、少しずつ大きくなって行く。ふたりの足ならば、三分は掛かるだろうが、五分は掛かるまい。
 軒先が見えた。そこに、ちょうど小屋から出てきた、のそりと動く黒い影がある。それは二本足で立ち上がった熊のように見えた。
 黒い影はふたりを見ているようであった。影はゆるりとした速度でふたりに歩み寄ってきた。人間の歩法であった。黒い巨熊の姿をしていた。
 巨熊の上顎の下に、一対の光がある。目であった。熊の毛皮で身を包んだ人間の男であった。
 いつの間にか、男は二人の眼前に立っていた。その姿が人間の男であると認識したときには、すでに距離が詰まっていた。男は毛皮の頭部を脱いだ。
 岩上の男であった。
「よ、よう……」
 ヨハンは狼狽を隠せなかった。岩上の男はその姿を認められいてなお、気づかれぬうちに側に立っていたのだ。見事に虚をつかれた。
「お前らは下の人間か」
 男は初めて、口を開いた。重い岩と岩を擦り合わせたような、聞き取り難い声だった。
「おれを、下まで連れて行ってくれ」
10/03/28 17:10更新 / ロリコン
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■作者メッセージ
なんかエロ入りました。なんでだろう。しかも魔物娘のエロじゃないです。童貞の上に初めて書いたのでキモいし臭いと思います。
ていうか今回魔物娘出てきません。ワーラビットも当分出てこないんじゃないかな。
あと熊男なのか岩男なのかはっきりしません。
ヨハンとミラベルの名前は適当に考えました。ドイツ人とイギリス人の名前だったと思います。適当に考えたので姓も憶えてません。ガン・ジョーの名前は決めてません。後で決めます。
つまんないとか童貞臭いとかの感想お待ちしております。感想ないとヘコみます。愛の反対は無関心なのです。

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