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司教と骨

「う…………」

 微かな呻き声を上げて、ジラルダンは微睡みの中からゆっくりと浮き上がった。
 ぼんやりと霞がかった意識の中、ジラルダンは今まで臥せっていた執務机から面を上げた。ふと目線を下にやると、開かれた白いページには最初こそ定規で測ったような規則正しい文字が続いていたが、その内にまるでミミズがのたうち回るような文字になり、最後にはただの線となってページ上を無意味に横断している。
 どうやら、収支報告を書いている途中にウトウトと居眠りをしてしまったらしい。
 ジラルダンは万年筆をペン立てに戻すと、無理な態勢で寝たために少し筋の痛んだ首をぐるりと回す。
 小さく欠伸をしてから目元をこすり、眠気覚ましにハッカ水を一口飲んだ。
 そうして立ち上がってふと壁際の振り子時計に目をやると、既に時刻は深夜の三時。当直の番兵以外はぐっすりと眠りに落ちている時間帯である。
 あまり睡眠を必要としない体質ではあったが、夜通しの作業は身体に悪影響を及ぼす。ジラルダンはぐいと一つ大きく背伸びをしてから、湯浴みの準備を手早く纏めて自室を出た。
 この砦の地下にはどこからともなく引いてきた冷泉の貯水庫が存在しており、それをあとからやって来たポンティア王国の技術官が湯浴みのための施設を併設したのだ。ただでさえ切り詰めてカツカツの時に、と渋い顔をする者も中にはいたが、最終的にはエドモンとジラルダン、そして同盟相手である吸血鬼たちの同意が得られたために実行された。
 エドモンは、凍えるように冷たい冷泉で沐浴をするのが限界だという理由で。
 ジラルダンは兵士たちを常に清潔に保ち、それによって疫病の蔓延を未然に防ぐために。
 ヴァンパイア達は、敬愛する伯爵様がくしゃみをしながら木桶の中で沐浴するという状況に耐えかね…………ついでに、女性特有の美に対する欲求も少し。
 そうして魔物達の力まで借りて突貫工事で作られたそれは、たったの一週間で完成したとは思えないほど素晴らしい出来栄えで、感動したエドモンは施工した工兵一人一人に直接御礼の言葉を送ったあと、臨時報奨まで渡した。
 応援として駆けつけた魔物……ジャイアントアントやゴブリンにもエドモンは感謝の言葉を惜しまず、無病息災の祝福儀礼を手づから行うほどであった。
 特に下心もなくそういった行為が自然にできる、その事実こそ彼が指導者として類稀無い資質を持っていることが伺えた。
 ちなみにその時に祝福を授けられた魔物達が軒並みエドモンのファンになってしまい、事あるごとに用もないのに城砦へ顔を見せるようになっている。
 曲がりなりにも同盟相手であるからして、あまり強いことは言えない。しかも下級兵士達は定期的にやってくるそういった魔物達で色々と溜まったものを放出しているから、福利厚生や同盟間の利益補填と言った意味でもなおさらジラルダンは強く出られないのであった。
 他の勢力では故国から娼婦たちを定期的に連れてくるようなところもあるようだが、残念ながらポンティア王国にはそのような余裕はない。言い方は悪いが、魔物達が勝手に兵士たちと色々致すのは、黙認するだけで手間がかからないので渡りに舟でもある。
 そんな事を考えながら歩いていると、通路の途中でドアがガチャリと開いた。
 普段は使われない、封鎖された部屋のはず、そう訝しみながら開いたドアに近づくと、ヒソヒソ声が耳に入ってくる。

「なあ、もっとしようよ、まだ時間あるんだろ?」
「だ、駄目だって……今だって先輩に無理言って交代してもらったんだから。これ以上遅れたら俺殺されちまうよ」
「えー……でもさ、次いつ会えるかもわかんないし……な、な、口でもいいから、もう一回だけ、いいだろ?」
「だから、駄目だって。……そりゃ、俺だってもっと一緒にいたいけど、こんなのバレたら懲罰どころじゃなく俺の首が飛んじまうよ」
「え……首になっちゃうのか」
「そうだよ、だから駄目だってさっきから…………ん」
「んぅ……」

 ジラルダンの目の前で、ゆっくりと扉が閉まると、その場所には抱き合って互いに口付けを交わす兵士と、人目を避けるためかローブ姿のゴブリンがあった。
 二人は別れの口づけに夢中で、すぐ傍に佇むジラルダンには気付いていない。
 そのまま後ろ手に手を組んで佇み、二人の睦事が終わるのを待つが、十秒経っても三十秒経っても終わる気配がない。仕方無しにジラルダンは小さく呆れのため息を付いたあと、ややわざとらしく咳払いをしてみせた。

「ひゃっ」
「うぁ!」

 驚き飛び上がった二人の人影は、ジラルダンの姿を見るなり顔色をあっと言う間に蒼白に染め、ゴブリンの少女など今にもチビリそうなほど恐怖に引き攣った顔でカタカタと震えだした。そんな彼女を守るようにして、こちらも小刻みに震えながら青年兵士がなけなしの勇気を振り絞って二人の間に立ち塞がった。まるで、そうせねば今にもジラルダンがゴブリンを八つ裂きにするとでも言いたげな顔である。
 失礼な。
 心のなかで軽く憤慨するジラルダンであったが、その顔はやはりピクリとも動かない。

「クリステンソン……クリステンソン一等兵だな」
「ジラルダン様……どうか、どうかお許しをっ」
「質問に答えたまえ、貴官はクリステンソン一等兵だな」
「は、はい」
「クリステンソン一等兵、貴官は本来全うすべき任務を他者に任せ、その遂行を怠った。また、先に布告したよう、同盟との関係を拗らせぬ為にも私的な関係はこの一切を自粛すべしとあるはず、貴官はこれにも違反した」
「はい……」
「ま、待って、待って! わ、私が悪いんだ、だからクリスには……」
「リアナス工作兵、これは我が国の問題である。口出しの一切は無用」
「え、な、名前を……」

 ジラルダンは自勢力と同盟相手の知りうる限りの名前と経歴を暗記していた。
 まさか自分の事まで把握されているとは思っていなかったゴブリンは、絶句して気勢を削がれる。

「クリステンソン一等兵、この場で処分を伝える」
「はい……」

 悲壮なその両目には、これから起きることを予想した物特有の諦めにも似た色があった。そんな彼を引き止めるように、背後のゴブリンは彼に抱きつく。
 ジラルダンはそんな二人をちらりと眺めみたあと、ややわざとらしく鼻を顰めると、ポケットから取り出したハンカチーフで鼻を抑えて見せた。

「たっぷりと臭いが染み付いているぞ、そのまま行けば何かあったと宣伝して回るようなものだ。クリステンソン及びリアナス工作兵、両名共に地下浴場に同行し、体の臭いを落としてから任務に復帰せよ」
「…………」
「…………」
「どうした、復唱せよ」
「は、はっ! クリステンソン一等兵、これよりリアナス工作兵を伴って地下浴場へ向かいます」
「よろしい、ではついてこい」

 それきり一瞥も寄越さずに先を歩くジラルダンに追いすがるように、二人は慌てて後に続いた。



――――――――――――――――



 向かう途中で何度か哨戒中の番兵と出くわすも、ジラルダンを見て直立不動に敬礼をする以外になかった。後ろに続くクリステンソンとリアナスには、まるで眼に見えないかのようにスルーされる。
 ジラルダン執政官が決めた事には、基本的に逆らわない。それがここでのルールだった。

「よし、入れ」

 背後の二人を先に中に入れると、ジラルダンは使用中止の立て札を表に立てて自身も中に入る。
 そうして中に入ると、リアナスはゴブリン特有の楽天的な性格を早くも発揮して、さっきまでガタガタ震えていたとは思えない溌剌さで服を脱ぎ捨てると、そのまま走って湯船に飛び込もうとしたが、危うい所で踏みとどまると桶で湯船のお湯をなんども浴びた。
 このかけ湯の習慣は東方出身の者が考案したのだが、なるほど確かにこの行為を義務付けてからは湯船のお湯が汚れる速度が大幅に低下した。衛生上も非常に意味のある行為だとして、人魔物問わず義務付けられていた。リアナスも直前でそれに思い至ったらしい。
 しかし、その後に思い切り湯船に飛び込んだのはいささか頂けない。

「あ、こら! 飛び込んじゃ駄目だろ!」
「へへーん、他に誰もいないじゃん、別にいいだろー!」
「全くあいつ……あ、ジラルダン様、申し訳ございません」
「いや、ゴブリンに余り規則を押し付けすぎても苦痛だろう」

 そう言って、クリステンソンも服を脱ぎ始めると、やはり下級とは言え兵士特有の鍛えられた肉体をしていた。
 ジラルダンは踵を返し、出口へと進んだ。

「あ、ジラルダン様は……」
「私は表で待ってる。すぐに終わらすように」
「は、はい!」

 まさかナンバー2自らが見張りをするなどと予想だにしていなかったクリステンソンは、大慌てで浴室に直行した。
 表に出てむっつりと押し黙ったまま、十数分ほどジラルダンが待つと、やや髪の毛が湿った二人が恐る恐るといった風情で外に出てくる。
 ジラルダンはそんな二人を横目でちらりと見た後、まるでその場に誰もいないかのようにスルーして中に入った。

「二度目はないぞ」
「は、はい!」
「はひ!」

 すれ違いざまにボソリと投げつけられた脅しの言葉に、二人は背筋を伸ばして返事をするなり脱兎の如く走り去っていた。
 そうしてようやく、当初の予定であった自らの湯浴みにジラルダンは取り掛かる。
 首元までをぴったりと覆った禁欲的な詰襟の制服は、教団の教務理院に奉職する教務執政官を現すものであるが、その職自体書類上だけのインチキな代物である。15年前にエドモンがまだまだ教団内に強いコネを持っていた頃に、ほとんど無理矢理に捩じ込んだ書類が通ったため、こんなあり得ない人事が通ったのだ。
 制服を脱ぐと、その下にはまるでビスクドールのように血の気の無い肌と…………そして、剥き出しの白骨が覗いていた。
 ジラルダン・カロネーゼは、人間ではない。
 その正体は魔力によって現世に繋ぎ止められた骸の魔物、スケルトンでる。
 両腕は肩口から、両足は骨盤から下が人ならぬ剥き出しの人骨で構成されたその四肢は、一目で人外の者だとわかる異形であったが、普段からして頭部以外は一切露出しない服装で過ごしていることも有り、その正体を知っているのは今のところエドモンだけであった。
 まさか、反魔物派閥の急先鋒を担っていたエドモン・ダヴィヌスの右腕たる副官が、汚らわしきアンデッドなどと一体誰が想像できようか? いや、出来まい、現に今まで誰にも気付かれてこなかった。
 その服も、手袋も、革靴に到るまで、全てが魔術的欺瞞のエンチャントがなされた逸品であり、当然ながら全てエドモンの手配したものだ。その効果は凄まじく、今まで誰も彼女が魔物だと気づかなかったばかりか女性であると言うことすら気づかなかった。
 ジラルダンは全ての衣服を脱ぎ捨てると、剥き出しの骨がこすれ合うカチャカチャと言う足音を立てて浴室の扉に向かって歩く。その途中、新米錬金術師が苦心して作った等身大の大鏡にふと全身を写した。
 青白い相貌と、くすんだプラチナブロンド、そして切れ長の両目からは凍原を思わせるアイスブルーの両目がじっと彼女自身を眺めている。浅ましき魔物の性を否応なしに見せつける、白骨の四肢、そしてそれを除けばまるで人間そのものの艶めかしい胴体。胸は大きくはないが小さくもない、しかしその整った左右対称の乳房とくびれた腰は、はまるで美術館に飾られる裸婦像を思わせる。
 胴体と四肢、その対比はまるで狂った陶芸家が狂気の果てに彫り上げた不気味なトルソーを想像させた。

「…………」

 しばし、彼女はじっと自らの身体を眺め見て、やがて何の感慨も浮かばないような仕草で浴室へと入った。
 浴室の中心には赤熱する石の柱が屹立し、その周囲を厳重に石の格子が封鎖している。その石の柱はポンティア王国の探検隊が最も初期に見つけたアーティファクトだったが、巨大すぎて上に持っていけないために放置されていた。しかも使い方がつい最近になるまで不明であったのも、無理に持って上がらないだけの理由になっていた。
 そしてその効果はこのとおり、「一度熱せられた温度を維持する」という反則じみた効果であった。色々な物理法則に喧嘩を売っている。
 これをもし量産できれば北の国々では喉から手が出るほど欲しくなる特産品になるだろうが、如何せんその解析は遅々として進まない。古代人の優れた魔法技術は、今の人類にとって手に余る代物だ。
 ジラルダンは柄杓を使って浴室の周囲を巡る水道から一杯水を掬うと、おもむろにその焼けた石柱にかけた。
 すると一瞬の内に蒸発した水が新たな蒸気となって浴室内に満ちる。
 更に何回かそれを繰り返したあと、彼女は備え付けられた石のベンチに腰を下ろして汗をかく。スチームサウナを使うその入浴方法は、市井の人間に取ってありふれた入浴方法であったが、殆どの者は体の全部を湯船に入れる方法を好んでいた。
 なぜなら、そんな風呂は王侯貴族の特権であり、まさしく夢の中の光景であったから。
 しかしジラルダンはあえて庶民的なサウナ風呂を好んだ。
 こればかりは好みと言うしか無い。

「ふぅ…………」

 ダラダラと、俯いた彼女の全身から汗が流れ出ていく。
 時々手ぬぐいで身体をこする以外、彼女はまるでよく出来た彫像のようにその場に腰を下ろし続けた。
 そうやって時を過ごして、果たしてどれだけの時間が経ったか、ふと彼女は物音に気がつくと脱衣所に続く扉を見やる。
 その磨りガラスの向こうでは、彼女が見紛うはずもない偉丈夫が服を脱いでいるのが分かった。
 それを見て、ほんの少し――――本当に、殆どの人間には見分けがつかぬほど少しだけ、彼女は嬉しそうに笑う。
 ガラリと戸を開けて入って来たのは、想像通り、今年で30代も半ばを超えようかという人間にはそぐわぬ筋骨逞しい偉丈夫が現れた。手拭いを肩にかけたまま、少しも隠そうとしない自分の分身をぶらぶらさせて、エドモンはさっき彼女がやったように柄杓の水を石柱にかけてから、どっしりと隣に腰を下ろした。

「ぐぁぁあ、疲れたぁぁ」
「お疲れ様です、エドモン閣下」
「おうよ、全くお疲れ様だぜ。こんな時間まで引っ張りやがって、俺はてめぇらと違って夜は寝る種族なんだっつうの。ホントこのまんまじゃ過労死しそうだ」
「ご安心を、その前に栄養を補給できます」
「お? 何々? それまさか、まさか?」

 お気に入りの宝物を見つけた子供のように、目をキラキラさせるエドモンに、ジラルダンは今まで着替えと一緒に部屋から持ってきていた一本の銀製のポットを掲げ持ってみせた。
 これも、この砦に最初からあったアーティファクトで、中に注いだ飲み物が絶対に劣化せず、最初に注いだままの温度を保つという魔法のポットである。それと一緒に石のベンチに並べた二つのシルバーゴブレットは、こちらは何の変哲もない銀の杯だ。

「先日本国より届きました、北高原地方の一級ブランディです」
「うひょー、さすが! へっへっへ、これを待ってたんだこれを!」
「向こうで酒精は供されなかったのですか?」

 嬉々として酒盃を空にするエドモンにそう問いかけると、ちっとも僧侶らしくない男は銀のポットから新たに酒を注ぎながらそれに答えた。

「何いってんだ、「茶会」だぞ「茶会」。カップに垂らすくらいだ。しかも……ぷはっ、アイツらの出すワインなんて、不吉すぎるもんが喉を通る訳ないだろうが」
「血のように真っ赤な……比喩で終わればいいのですが」
「比喩も何も、そのものズバリに決まってるだろう。嗚呼いやだいやだ、ヴァンパイアはこれだから。全く、時間指定も滅茶苦茶だわ、こっちの都合なんてお構いなしだわ、いいことなしだな」
「収穫は何もなしですか」
「いや、ひとつだけあった」
「ほう」

 エドモンは石のベンチに胡座をかくと、もう一度豪快に酒盃を空にしてから、ずいとゴブレットを持ったままの右手の人差指で彼女の方を指さした。

「やっこさん、近くにいた別の魔王勢力を見つけたらしい。明日にでも交渉に行くそうだ」
「ほう、ちなみにどういった勢力で? 私としてはそろそろ予備戦力が欲しいと思っていたところです。城の維持も楽ではない。守備兵が欲しいですね」
「さあてな、「交渉が纏まったら追って連絡いたします」だとよ。舐め腐りやがって、テメェらの子飼いにするつもりだぜ、ありゃ」
「厄介ですね」
「へ、そうそう好き勝手やらせるか」

 そう言ってこれからの展望に思いを馳せたのか、エドモンはニヤニヤと不敵な笑いを浮かべる。
 その顔を正面から直視して、ジラルダンは自分の顔が笑みの形に崩れていくのを感じた。エドモン以外には容易にそうと知れない、淡い……まるで真水の中に一滴たらした墨の雫が広がるような、朧気な変化。
 だがしかし、そんな変化をこの男は容易く見抜いてみせるのだ。

「うん? どうした、なんかイイコトでもあったか?」
「…………はい、とても。素晴らしいことが有りました」
「ほう、お前がそこまで言うんだ、よっぽどだな。で、そりゃなんだ」
「秘密……です」
「あ?」

 ぽかんとマヌケ面を晒すエドモンに、こんどこそそれと分かる微笑を浮かべ、ジラルダンは立ち上がって浴槽へ向かった。

「続きは湯船の中で飲みませんか。久しぶりに、肩まで湯に浸かりたくなりました」
「な……おいおい、なぁ、ホントに何があったんだよ、おい。なぁ、俺だけにコソッと教えろって、な?」
「ダメです、特に、閣下には教えません」
「なぁにぃ? こんにゃろめ、反抗的になりやがってぇ。犯しちまうぞコラァ!」

 湯船に浸かって一息つくと、突き出した岩棚にポットと酒盃を置いて尚もエドモンは彼女に絡んだ。おい、教えろって、何がそんなに嬉しい? なあおい、隠すなって。いいえ、いいえ、教えません、閣下には特に教えません…………。
 この男は変わった。ジラルダンはそう考えて、すぐにその考えを打ち消した。
 変わったのではない、元に戻りつつあるのだ。15年前、初めて彼女が彼と出会ったあの時代に……。
 彼女が初めて見知ったエドモン・ダヴィヌスと言う男は、挫折の中に野心を燻らせ、絶望の果てに希望を見出そうとする、そんな男だった。それがいつしか慢性化した挫折に野心という名の牙は埋もれ、いつ終わるとも知れぬ絶望に、希望を探る気力を失った。
 枯れ果てた、あとのない、これからただただ死んでいないだけの人生を送るような、世界に何の期待もしない破戒僧。
 そんな、そんな男が、かつての自分を取り戻そうとしていた。若々しく覇気に満ちて、世の障害を笑いながら踏み倒すような、彼女が憧れ恋焦がれた、英雄エドモン・ダヴィヌスが、蘇ろうとしているのだ。
 嬉しい。
 涙が流れそうなくらい、それが嬉しかった。
 体の力を抜き、身体を湯の中にたゆたわせる。ゆらゆらと身体の寄る辺の無い浮遊感、それこそ彼女が湯のはった浴槽を嫌う理由だった。何も無い空間に、ただ自分自身が漂い流れる感覚、それはまだ彼女が広大無辺の闇の中に、浮かばれぬ魂としてさ迷っていた記憶を思い起こさせる。故に、彼女はこの感覚が嫌いだった。
 だが、その嫌悪感も今だけは薄れている。
 理由は簡単だ、だってほら、この世で一番信頼する、この世で唯一信頼する相手が、彼女の身体を支えているんだから。

「おい、ジラルダン? 寝ちまったのか?」
「…………」
「まったく……弱いのに俺のペースに付き合うからだ」

 そう呟いて、エドモンが彼女の身体を背後から抱きすくめた感覚が、慣れぬ酒精でぼんやりとした彼女の感覚を刺激した。
 まるで恋人同士が情事の果てに睦言を囁くように、エドモンの優しい囁きが耳朶をくすぐる。

「ありがとよ……ジェラルディン……俺なんかには勿体無い、最高の――――」

 そこから先の言葉は、後日どれだけ頭を捻っても彼女の脳内から出てこなかった……。

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道ならぬ恋って、興奮しますよね?

10/05/18 22:46 spooky

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