勇者の資質
そこからは、もう凄まじいものであった。
ドラゴンの爪は鋼鉄を裂く。
反射で盾で防いだが、その盾が一撃で粉砕された。爪の切れ味だけではこうならない。その爪を振るう腕の重量と速度が、凶器を超えて、天災にまで昇華されるのである。
危うく、盾を持つヘルゲの腕も折れそうになった。
両手で槍を持ち、繰り出すが、鱗に当たって弾かれる。その一撃を放つまでに、また爪が振るわれた。
「ぐっ・・・・・・!」
爪の先端が鎧を掠める。それだけで、鎧には三つの爪痕が深く刻まれてしまった。
ヘルゲは、もう夢中だ。恐れが精神に入り込む隙間がないほど、集中している。でなければ、竜の攻撃を二発も受けられない。
鎧を傷つけながら、ヘルゲは夢中で槍を繰り出す。
また、鱗に当たって弾かれた。
(これは、どうにもならん)
とまで、明確には思わなかったが、似たような考えが頭を過ぎる。
当然だ。防御は最早紙と同義で、攻撃は通じない。これでそう思わない方がおかしい。
竜が爪を振りかぶる。
もう受けられないと見て、攻撃を諦めて逃げに回る。振りかぶった腕の直下、脇に向かって飛び込み、転がった。
勇敢な逃げである。
普通は危機から逃げようと反対に逃げるが、それだと爪が届く。
古来より、武術に於いては最も危険と思われる至近距離が、最も安全な距離なのである。ヘルゲはそれを、フリストに仕込まれた。それぐらいの仕込みがなければ、ファーヴニルに立ち向かえなどと、いくらフリストでも言うまい。
が、逃げられるだけである。洞窟の奥に向かって転がってしまったから、退路はない。もう一度脇をすり抜けられれば脱出の機会も窺えようが、果たしてそうか。
(今まで爪しか使っていないではないか)
尾は、腕の何倍も長い。爪で届かぬ距離まで逃げれば、すぐさま尾が襲うだろう。いや、それ以前に、
(あの咆哮だけで、人は死ぬ)
竜の肺は人間のものとは格が違う。弾力性に於いても耐久力にしても、である。ならばそこから吐き出される呼気は衝撃波となり、充分な攻撃力と化して襲うだろう。
音波と空気の振動である。避ける術も防ぐ術もない。
これまでファーヴニルがその呼気を攻撃として使わないのは、洞窟が崩れる恐れがあるからだろう。竜の体は無事だろうが、瓦礫から、隠した指輪を探すのは億劫に違いない。
しかし、裏を返せばその億劫さも気にならなくなるほどヘルゲを鬱陶しいと感ずれば、ファーヴニルは躊躇いなく呼気で攻撃するだろう。
ここは密閉されていないから、超音波が共鳴して返ってくることはない。
ヘルゲが死に至る要因は、異常なほど多い。
(これが勇者か。このざまが、果たして本当に勇者か)
泣きだしたくなるほど、ヘルゲは思った。
だが、ヘルゲは知らぬ。
勇者とは、こういう苦境を知恵と勇気と、鍛えた体で切り抜ける者を言う。元より勇者の挑む難行は、十に九は死ぬものだ。勇者と凡人を分かつのは、その一を生むか否かなのである。
だから、たとえ歴戦の勇者であろうと、ファーヴニルを相手ならこの劣勢は当然。寧ろ一度爪の射程範囲に逃れられた分、ヘルゲは優秀な部類である。
だが。
「逃れたか。よく仕込まれている。臆病に見えて、勇気と知恵もあるようだ。
これは侮っては怪我をするかもしれんな」
ファーヴニルは冷静である。
盾を砕いた時のように一足で踏み込まず、ゆったりと歩を進め、双眸は常にヘルゲを凝視している。
こうとなった以上、先程のようには逃げられない。
(もう、いくしかない)
ヘルゲは覚悟を決めた。
槍を構える。狙いは喉だ。
そのままじっと待つ。ドラゴンがゆっくりと射程に入るのを。
息が詰まる。緩慢な足取りのため、その時がひどく遠い。この重圧に耐えられるかどうかが、勇者と凡人を分ける。
まだ、まだ。
あと三歩。
(か、考えるな。考えれば、死ぬ)
余計な思考が入り込めば、そこに恐れの侵入を許す。一度恐れたら、もう抗し切れない。
二歩。
「まだ槍を構えられる気概は、寧ろ買おう。忌々しいが、高慢ちきな下僕共の見る目は、やはり確からしいな」
もう、あと一歩。
槍を握る手に力が籠もる。あと一歩、ファーヴニルがヘルゲに近寄れば、一足で踏み込んで突ける間合いである。
が、そこでふと、
「―――――とすれば、動かぬまま構えているのは不審よな?」
ファーヴニルが、歩みを止めた。
(な、何故!?)
槍は、踏み込んだところでまだ届かない。当然ながら、竜の爪も届きようがない。
しかし、ファーヴニルは歩みを止めたまま、じっとヘルゲを見ている。
「ふむ。どう取ったものかな。鼠が追い詰められて惑うているのか。それとも獅子が叢に伏して馬を狙っているのか。
私の鱗が、よもや槍などを通す筈がないが、手傷を負うのも癪だ。
なあ、勇者よ。どうするのが良いと思う? このまま近寄って爪で薙ぎ払うか」
(そ、そうしてくれ)
願ったのは、少々間抜けだ。
「それとも、羽ばたいて壁にぶつけて圧死させるか」
ぞっと、ヘルゲの背が凍った。
もしそうなれば、空気の壁からは逃れられず、踏み込んだところで届かないのだから無意味である。正に、詰んでいる。
「ははは、まあ言えぬわな。それとも舌の根が乾いてしまって、もう声も出せぬのか?
これ以上長引かせるのも酷だな。どれ、哀れ故、次で終わらせてやろう」
尾が動いた。
と見るや、ヘルゲが踏み込んだ。
これは、ヘルゲが予期してのことではない。体が、ヘルゲの意思を離れて動いた。
ヘルゲの頭脳はこのことに対し、混乱している。
(何故俺は―――――)
ヘルゲの体は、ファーヴニルが尾で攻撃することを読んだ。
尾は、当然ながら線の攻撃である。槍は、点だ。
この軌道の差が、攻撃速度の差である。爪なら突くことが考えられるため、中途な踏み込みでは串刺しになる。だが尾ならば、今まで洞窟を二回叩いた挙動を鑑みれば、刺すことがたとえ出来たとしても工夫の居る作業なのだろう。
二足の踏み込みと槍を突き出す暇。これらが、尾を振るう軌道に勝ると、ヘルゲの体は判断した。
「なに!?」
と、驚いたのは邪竜である。
慌てて尾を振るうが、もうヘルゲは一足を終えて、二足目を踏み出している。
足が地に着くや、ヘルゲは自身の渾身を以て槍を突き出した。
おそらくは、ヘルゲの半生で最も速く、最も鋭く、そして最も強い一撃であったろう。
喉に、迫る。
「ぬぐっ・・・・・・」
がきん、と硬質な音が洞窟内に反響した。
と、同時に、ヘルゲの槍が折れた。
圧し折れて宙を舞う穂先。よく研がれた鋼は形を留めているが、持ち柄がその衝撃に耐えられなかったのだろう。
だがヘルゲはそれを見届ける前に、
「くっ、貴様・・・・・・っ!」
喉を抑えて後退する邪竜を見た。
鱗に傷がついた。貫通し、柔らかな肉を貫くまではいかなかったが、これまでどんな鋼鉄も跳ね返してきた鱗が、穂先のひし形に傷を残している。
が、後退したのも、つかの間のことである。
穂先が洞窟内に転がり、意外な高い音を立てた時、既にファーヴニルは踏み込んで、ヘルゲの首にその掌を届かせていた。
「うぐ・・・・・」
首を掴まれ、体を持ち上げられて宙に浮いた。
「よくやった。私の鱗を、喉元とはいえ傷つけたことは栄誉に値する。
このファーヴニルが認めよう。お前は正真の勇者だ。
故に許さん。最早叫ぶのも許さぬ。このまま五体を引き裂いてやろう」
竜のもう片方の腕が上がり、爪がきらめく。
他の指を畳み、一本だけ伸ばす。
その爪で、ヘルゲの鎧を内部の衣服ごと一直線に裂いた。
「怖かろう。もう少し私が指を進ませれば、お前の内臓を引きずり出したのだ。
しかしそれにしても臭う。これは汗か? それともお前の体臭か?
ああ、臭い。鼻が曲がる。こういう時は人が羨ましい。嗅覚が鈍いから、お前は自分の体臭に気づかずに平気な顔をしているのだ」
呼吸の出来ぬ苦しさに悶えながら、ヘルゲは、止めの痛みが来ないことを不思議に感じていた。
最早、勝敗は決した。
あとはファーヴニルが爪で引き裂くなり刺すなりすれば、ヘルゲの命は終えるのだが、なかなかそうはしない。
「体がこれほど臭いのだ。きっと臓腑はもっと臭いに違いない。
そうだ、きっとそうだな。
ここは私の巣だ。寝床だ。寝床にそんなものをぶちまけては、毎夜私は戻してしまう。掃除するのも億劫だ。
よし、少しだけ緩めてやる。よく聞け。
この場の勝者はどちらか、その唇で囁け。無様に勇者としての自分を捨てるなら、許してやらんでもない。
暴れるなよ。暴れたらもう構わぬ。このまま引き裂いてやる」
僅か、喉を圧迫していた掌が緩む。
(た、助かった)
ヘルゲはそう思った。敗北を認めるなど造作もない。なんの斟酌もない。フリストの叱責など知ったことではない。まずはこの場を取り繕うのが先だ。
そう思ったのだが、肺で留まっていた空気が、気道が緩んだことで逆流し、激しく咳き込んだ。
その苦しみで、思わず体を動かしてしまった。
「あ、暴れたな!
命を諦めてまで、勇者でいたいか!」
(ああ、なんと馬鹿なことをしてしまったのか。せっかく、助かっていたのに)
激しい後悔が、ヘルゲを襲う。
こうなれば、ファーヴニルは宣言通りヘルゲを殺すだろう。むざむざ自身を救い得た好機を逃してしまったヘルゲの絶望は大きい。
しかし。
「い、いや、今のは苦しさのためか。そうだな、そうに違いない。
最後のチャンスをやろう。本当にこれが最後だ。ここでまだ躊躇いを見せるようなら今度は容赦せん」
この不思議な言い様にヘルゲが不審を覚えるより早く、異変が来た。
どっと、肉を裂く嫌な音が聞こえた。
「え?」
呼吸がようやく整い、目線を上げる余裕が出来た時、ヘルゲは地に投げ出されていた。
視線の先には、フリスト。
フリストが、自慢の槍をファーヴニルの肩に突き立てていたのである。
血が、ヘルゲの顔に飛んだ。
ドラゴンの爪は鋼鉄を裂く。
反射で盾で防いだが、その盾が一撃で粉砕された。爪の切れ味だけではこうならない。その爪を振るう腕の重量と速度が、凶器を超えて、天災にまで昇華されるのである。
危うく、盾を持つヘルゲの腕も折れそうになった。
両手で槍を持ち、繰り出すが、鱗に当たって弾かれる。その一撃を放つまでに、また爪が振るわれた。
「ぐっ・・・・・・!」
爪の先端が鎧を掠める。それだけで、鎧には三つの爪痕が深く刻まれてしまった。
ヘルゲは、もう夢中だ。恐れが精神に入り込む隙間がないほど、集中している。でなければ、竜の攻撃を二発も受けられない。
鎧を傷つけながら、ヘルゲは夢中で槍を繰り出す。
また、鱗に当たって弾かれた。
(これは、どうにもならん)
とまで、明確には思わなかったが、似たような考えが頭を過ぎる。
当然だ。防御は最早紙と同義で、攻撃は通じない。これでそう思わない方がおかしい。
竜が爪を振りかぶる。
もう受けられないと見て、攻撃を諦めて逃げに回る。振りかぶった腕の直下、脇に向かって飛び込み、転がった。
勇敢な逃げである。
普通は危機から逃げようと反対に逃げるが、それだと爪が届く。
古来より、武術に於いては最も危険と思われる至近距離が、最も安全な距離なのである。ヘルゲはそれを、フリストに仕込まれた。それぐらいの仕込みがなければ、ファーヴニルに立ち向かえなどと、いくらフリストでも言うまい。
が、逃げられるだけである。洞窟の奥に向かって転がってしまったから、退路はない。もう一度脇をすり抜けられれば脱出の機会も窺えようが、果たしてそうか。
(今まで爪しか使っていないではないか)
尾は、腕の何倍も長い。爪で届かぬ距離まで逃げれば、すぐさま尾が襲うだろう。いや、それ以前に、
(あの咆哮だけで、人は死ぬ)
竜の肺は人間のものとは格が違う。弾力性に於いても耐久力にしても、である。ならばそこから吐き出される呼気は衝撃波となり、充分な攻撃力と化して襲うだろう。
音波と空気の振動である。避ける術も防ぐ術もない。
これまでファーヴニルがその呼気を攻撃として使わないのは、洞窟が崩れる恐れがあるからだろう。竜の体は無事だろうが、瓦礫から、隠した指輪を探すのは億劫に違いない。
しかし、裏を返せばその億劫さも気にならなくなるほどヘルゲを鬱陶しいと感ずれば、ファーヴニルは躊躇いなく呼気で攻撃するだろう。
ここは密閉されていないから、超音波が共鳴して返ってくることはない。
ヘルゲが死に至る要因は、異常なほど多い。
(これが勇者か。このざまが、果たして本当に勇者か)
泣きだしたくなるほど、ヘルゲは思った。
だが、ヘルゲは知らぬ。
勇者とは、こういう苦境を知恵と勇気と、鍛えた体で切り抜ける者を言う。元より勇者の挑む難行は、十に九は死ぬものだ。勇者と凡人を分かつのは、その一を生むか否かなのである。
だから、たとえ歴戦の勇者であろうと、ファーヴニルを相手ならこの劣勢は当然。寧ろ一度爪の射程範囲に逃れられた分、ヘルゲは優秀な部類である。
だが。
「逃れたか。よく仕込まれている。臆病に見えて、勇気と知恵もあるようだ。
これは侮っては怪我をするかもしれんな」
ファーヴニルは冷静である。
盾を砕いた時のように一足で踏み込まず、ゆったりと歩を進め、双眸は常にヘルゲを凝視している。
こうとなった以上、先程のようには逃げられない。
(もう、いくしかない)
ヘルゲは覚悟を決めた。
槍を構える。狙いは喉だ。
そのままじっと待つ。ドラゴンがゆっくりと射程に入るのを。
息が詰まる。緩慢な足取りのため、その時がひどく遠い。この重圧に耐えられるかどうかが、勇者と凡人を分ける。
まだ、まだ。
あと三歩。
(か、考えるな。考えれば、死ぬ)
余計な思考が入り込めば、そこに恐れの侵入を許す。一度恐れたら、もう抗し切れない。
二歩。
「まだ槍を構えられる気概は、寧ろ買おう。忌々しいが、高慢ちきな下僕共の見る目は、やはり確からしいな」
もう、あと一歩。
槍を握る手に力が籠もる。あと一歩、ファーヴニルがヘルゲに近寄れば、一足で踏み込んで突ける間合いである。
が、そこでふと、
「―――――とすれば、動かぬまま構えているのは不審よな?」
ファーヴニルが、歩みを止めた。
(な、何故!?)
槍は、踏み込んだところでまだ届かない。当然ながら、竜の爪も届きようがない。
しかし、ファーヴニルは歩みを止めたまま、じっとヘルゲを見ている。
「ふむ。どう取ったものかな。鼠が追い詰められて惑うているのか。それとも獅子が叢に伏して馬を狙っているのか。
私の鱗が、よもや槍などを通す筈がないが、手傷を負うのも癪だ。
なあ、勇者よ。どうするのが良いと思う? このまま近寄って爪で薙ぎ払うか」
(そ、そうしてくれ)
願ったのは、少々間抜けだ。
「それとも、羽ばたいて壁にぶつけて圧死させるか」
ぞっと、ヘルゲの背が凍った。
もしそうなれば、空気の壁からは逃れられず、踏み込んだところで届かないのだから無意味である。正に、詰んでいる。
「ははは、まあ言えぬわな。それとも舌の根が乾いてしまって、もう声も出せぬのか?
これ以上長引かせるのも酷だな。どれ、哀れ故、次で終わらせてやろう」
尾が動いた。
と見るや、ヘルゲが踏み込んだ。
これは、ヘルゲが予期してのことではない。体が、ヘルゲの意思を離れて動いた。
ヘルゲの頭脳はこのことに対し、混乱している。
(何故俺は―――――)
ヘルゲの体は、ファーヴニルが尾で攻撃することを読んだ。
尾は、当然ながら線の攻撃である。槍は、点だ。
この軌道の差が、攻撃速度の差である。爪なら突くことが考えられるため、中途な踏み込みでは串刺しになる。だが尾ならば、今まで洞窟を二回叩いた挙動を鑑みれば、刺すことがたとえ出来たとしても工夫の居る作業なのだろう。
二足の踏み込みと槍を突き出す暇。これらが、尾を振るう軌道に勝ると、ヘルゲの体は判断した。
「なに!?」
と、驚いたのは邪竜である。
慌てて尾を振るうが、もうヘルゲは一足を終えて、二足目を踏み出している。
足が地に着くや、ヘルゲは自身の渾身を以て槍を突き出した。
おそらくは、ヘルゲの半生で最も速く、最も鋭く、そして最も強い一撃であったろう。
喉に、迫る。
「ぬぐっ・・・・・・」
がきん、と硬質な音が洞窟内に反響した。
と、同時に、ヘルゲの槍が折れた。
圧し折れて宙を舞う穂先。よく研がれた鋼は形を留めているが、持ち柄がその衝撃に耐えられなかったのだろう。
だがヘルゲはそれを見届ける前に、
「くっ、貴様・・・・・・っ!」
喉を抑えて後退する邪竜を見た。
鱗に傷がついた。貫通し、柔らかな肉を貫くまではいかなかったが、これまでどんな鋼鉄も跳ね返してきた鱗が、穂先のひし形に傷を残している。
が、後退したのも、つかの間のことである。
穂先が洞窟内に転がり、意外な高い音を立てた時、既にファーヴニルは踏み込んで、ヘルゲの首にその掌を届かせていた。
「うぐ・・・・・」
首を掴まれ、体を持ち上げられて宙に浮いた。
「よくやった。私の鱗を、喉元とはいえ傷つけたことは栄誉に値する。
このファーヴニルが認めよう。お前は正真の勇者だ。
故に許さん。最早叫ぶのも許さぬ。このまま五体を引き裂いてやろう」
竜のもう片方の腕が上がり、爪がきらめく。
他の指を畳み、一本だけ伸ばす。
その爪で、ヘルゲの鎧を内部の衣服ごと一直線に裂いた。
「怖かろう。もう少し私が指を進ませれば、お前の内臓を引きずり出したのだ。
しかしそれにしても臭う。これは汗か? それともお前の体臭か?
ああ、臭い。鼻が曲がる。こういう時は人が羨ましい。嗅覚が鈍いから、お前は自分の体臭に気づかずに平気な顔をしているのだ」
呼吸の出来ぬ苦しさに悶えながら、ヘルゲは、止めの痛みが来ないことを不思議に感じていた。
最早、勝敗は決した。
あとはファーヴニルが爪で引き裂くなり刺すなりすれば、ヘルゲの命は終えるのだが、なかなかそうはしない。
「体がこれほど臭いのだ。きっと臓腑はもっと臭いに違いない。
そうだ、きっとそうだな。
ここは私の巣だ。寝床だ。寝床にそんなものをぶちまけては、毎夜私は戻してしまう。掃除するのも億劫だ。
よし、少しだけ緩めてやる。よく聞け。
この場の勝者はどちらか、その唇で囁け。無様に勇者としての自分を捨てるなら、許してやらんでもない。
暴れるなよ。暴れたらもう構わぬ。このまま引き裂いてやる」
僅か、喉を圧迫していた掌が緩む。
(た、助かった)
ヘルゲはそう思った。敗北を認めるなど造作もない。なんの斟酌もない。フリストの叱責など知ったことではない。まずはこの場を取り繕うのが先だ。
そう思ったのだが、肺で留まっていた空気が、気道が緩んだことで逆流し、激しく咳き込んだ。
その苦しみで、思わず体を動かしてしまった。
「あ、暴れたな!
命を諦めてまで、勇者でいたいか!」
(ああ、なんと馬鹿なことをしてしまったのか。せっかく、助かっていたのに)
激しい後悔が、ヘルゲを襲う。
こうなれば、ファーヴニルは宣言通りヘルゲを殺すだろう。むざむざ自身を救い得た好機を逃してしまったヘルゲの絶望は大きい。
しかし。
「い、いや、今のは苦しさのためか。そうだな、そうに違いない。
最後のチャンスをやろう。本当にこれが最後だ。ここでまだ躊躇いを見せるようなら今度は容赦せん」
この不思議な言い様にヘルゲが不審を覚えるより早く、異変が来た。
どっと、肉を裂く嫌な音が聞こえた。
「え?」
呼吸がようやく整い、目線を上げる余裕が出来た時、ヘルゲは地に投げ出されていた。
視線の先には、フリスト。
フリストが、自慢の槍をファーヴニルの肩に突き立てていたのである。
血が、ヘルゲの顔に飛んだ。
16/08/18 20:58更新 / 一
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