その名は、ファーヴニル
そんなことがあってから、フリストが目に見えて冷たくなった。
ヘルゲも、フリストに対して昏い怒りを抱えるようになった。
自然、師弟の関係は以前に比べるとひどく冷めきってしまい、雑談の一つもしなくなった。フリストはヘルゲの怒りを感じ取ってはいるが、いちいち取り上げるのも不快だった。
そうして一年が経ったから、二人ともこの一年は辛かったに違いない。
その日、フリストは、
「ヘルゲ、ドラゴンを討ちなさい」
と言った。
ヘルゲは、耳を疑った。
(ドラゴンとは天災ではないか)
ヘルゲの国ではリンドヴルムという。判りづらいので、表記は一切ドラゴンとする。
討伐の対象はファーヴニルと聞き、ヘルゲはいよいよ我が耳を疑った。
元々、ドラゴンなる生き物は人に関われる類の生き物ではない。
それはハリケーンや地震、飢饉や日照りと同じ。人の力では如何ともし難いものの代名詞である。
多くは、山に住む。
そこから時折、数キロ先にも轟く咆哮は雷鳴に似て、翼をはためかせて天空を駆ければ暴風そのものになる。無謀にも挑めば鉱物さえバターの如く切り刻む三指の爪が襲う。引き換え、鱗はどれほど練磨した鋼鉄を以てしても傷つけることは叶わない。
人間におけるドラゴンの対処法は、ただ一つ。
関わらないこと。向こうから関わってきたなら、災厄として諦めるしかない。
なんの前触れもない地割れに飲まれた時と同じように、ただ不幸を嘆くだけなのだ。
それを、フリストは狩れという。
狂人の妄言ならまだ救いがある。だが、フリストは至って正気であった。
「ファーヴニルはグニタヘイズに住みます。彼の強欲な邪竜を、貴方が倒すのです」
フリストは正気である。ヘルゲへの嫌がらせでもなんでもなく、勇者として倒せと命じている。
ファーヴニル。
その昔は人であった。神々がファーヴニルの兄を殺し、その賠償金として、ファーヴニルは父と共に黄金を求めた。
神は求めに応じて黄金を生み出すアンドヴァリナウトという指輪を渡すが、それに目が眩んだファーヴニルは父を殺してグニタヘイズという山に逃げた。その後、黄金を守るためにドラゴンに変じたという。
(勝てよう筈がない)
ヘルゲはそう思うが、相変わらずフリストの勘気を恐れて言い出せない。
そうこうしている間に、フリストが装備を整えてしまった。
「彼の邪竜は毒を吐きます。まずはその瘴気に肺腑を焼かれぬよう、魔法を掛けます。あとはこの鎧と盾で防ぎなさい。といって、頼ってはいけません。鎧は防げてせいぜい一撃、盾も三撃食らえば砕けます。
その間に隙を見つけて、貴方の槍で仕留めなさい。出来ない筈がありません。貴方はわたくしが見出して育てた勇者なのですから」
淡々と、ヘルゲにとっては死刑宣告をして、フリストはヘルゲを送り出した。
(このまま逃げようか)
とも思うが、逃げたところでフリストは追いかけてけしかけるだろう。いや、けしかけるだけならいい。臆病者と断じられて殺される可能性の方が高い。
どちらにしろ、前途には死しかない。よしんば逃げ遂せたとしても、寄る辺はない。八方は塞がれているのだ。
根が臆病なヘルゲである。フリストに出会って四年で随分体も心も鍛えられたが、人間の芯の部分は変わっていない。
だが、ここぞという時に開き直って大胆になれるのが、ヘルゲの長所である。
最寄りの街で情報を集め、ドラゴンの咆哮が絶えた時を見計らって地形を探る。挑む前に十全の準備を整えるのが、臆病者の良いところである。
が、知識も足りず、知恵もない。結局調べたところで、それを有効活用する頭脳がないので、出来るのは逃げ道の確保くらいである。
そして、遂にヘルゲはファーヴニルに挑んだ。
グニタヘイズは、枯れ山であった。
原生林は、地に水分がないのか枯れている。或いは、ファーヴニルの放つ毒によるものかもしれない。
奇妙なことに、グニタヘイズの周りだけ、どれほど経っても天候が変わらず、常に厚い雲に覆われている。昼なお暗い。
ファーヴニルは山頂の洞窟に潜むという。
重い鎧を引き摺るようにして山頂までの岩肌を登り、洞窟へと足を踏み入れた。
洞窟は、奇妙なほど明るい。それも夜光苔の類の明るさではなく、昼の明るさであった。後で知ったことだが、洞窟の天頂は穴が開いており、そこから雲間を縫ってか細い陽光が降り注ぎ、黄金に反射して明るかったのである。
明るいため、目標はすぐに見つかった。
「誰(た)ぞ?」
眩い黄金の傍に座り込んだ人影が、ゆったりとした動作で半身を向けた。
「な、名はヘルゲ。邪竜ファーヴニルは、いずこに居るか?」
声が震えた。
それほど声には威圧感があった。
「震えているな。人の子か?」
「い、如何にも」
「ファーヴニルを見つけてなんとする」
「う、討ち果たす」
「何のために?」
これには、ヘルゲも困った。目的などはない。ただあの高慢な戦乙女に倒せと命じられただけなのである。
窮して、正直に言った。
「ヴァ、ヴァルキリーの命で、あ、ある」
「なるほど。性悪な天の下僕にそそのかされた口か。いや、様子を見るに脅されているようにも見える。
いずれか知らんが、哀れなことよ」
人影が立ち上がった。
その拍子に、女の腰から尾の陰が見えた。
「ま、まさか貴様が・・・・・」
「ファーヴニルか、というのなら、是であるとも言えるし、非であるとも言う。
ものの道理も弁えん阿呆と立ち合うのも不快だ。少し物語りなどしてやろう」
女は、語った。
「ファーヴニルは男だ。アンドヴァリナウトを奪ってこのグニタヘイズに逃れた後、ファーヴニルは先客に出くわした。
ドラゴンだ。
ドラゴンは早速、己の寝床に踏み入った男を追い出そうとしたが、やたらに指輪に執着する男に興を持って、虫の歌を聞く心地で話を聞いてやったという。
浅慮で浅ましい話であった。親を黄金欲しさに殺したなどと、悪人の域すら越して最早愚人だ。さっそく噛み砕こうかと思ったが、何故かどうにもその気にならぬ。
それが悪かった。男にもドラゴンが男を害そうという気がないことが知れて、これ以上の隠れ場はないとそのまま居着いてしまった。
結果、ドラゴンはファーヴニルを鬱陶しがりつつ、庇護してやった。なにせ霊長の覇者だ。抗し得るどころか、挑む者さえ稀だ。
随分時間が経って、気の迷いかそれともなにか憑いたのか。おそらくは退屈を余しての余興だったに違いない。ドラゴンは男と睦んだ。
そうして、子が出来た。
魔物の子をその手に抱いた時、ファーヴニルは初めて命というものを知ったという。同時に、自分がその手に掛けた親が、自分を抱いた時の気持ちも知った。そして、その子に殺された親の気持ちというものも、知ってしまった。
男は悔いた。後悔の涙を毎日流し続け、何度も許しの言葉を呟いた。
さすがにドラゴンも哀れになって、慰めてやるうちに情が移ったが、慰みの甲斐なく、悔恨の果て、男は身を病んで死んだ。
ドラゴンはその後、男の形見になってしまったアンドヴァリナウトを守り、娘が成長すると遺骨を持って飛び立った。娘は、悔恨に暮れる父と、それを慰める母を見て育ち、形見を狙う欲深な者を追い払った。
一つには、母の言葉にある。
ファーヴニルが血迷うたのも、黄金を生み出す指輪があってのこと。もう後悔で死ぬ者を見たくない。この指輪は、決して人に渡してはならん。
娘は、罪深く、しかし最期は己の罪業を悔いて死んだ男の名を、自ら名乗った。
聞け、人の子よ。
私の名はファーヴニル。親殺しの男の名を、宝を守る箱の名として昇華する竜である」
ヘルゲには、この竜と討伐を命じたヴァルキリーの、どちらが悪であるかを測る頭脳はない。
欲こそが人類の発展の源であるという者も居る。問題は欲に我を見失う心弱い人々だ。それを一緒くたにして、欲そのものに蓋をするこの竜が悪なのか、事情も知らずそれを討とうとする自分が悪なのか、ヘルゲには判らない。
ただ、もうこの邪竜を討とうという気は、その五体から消え去ってしまっていた。
それを察して、ファーヴニルは尾を不快そうに振って、地を叩いた。
「善悪を語ろうとは思わん。お前が勇者として私を討とうとした経緯も興味がない。
お前は哀れだ。天の下僕なぞに身の自由を奪われ、無謀にも霊長の覇者に槍を向けようという不遇は、充分に同情に値する。
だが心せよ。ここに踏み入った時点で、私は加減をしてやるつもりなど毛頭ない」
もう一度、尾が地を叩き、洞窟が揺れた。
それは、ドラゴンの怒りで山が震えているように思えた。
「私に人を害する意思がなくとも、人は安心して夜を迎えられぬのだろう。私の勘気で命が危ういという状況を、どうしても許容出来んのだろう。
当然だ。誰しも自身を苛む脅威からは距離を取りたい。出来るなら排除してしまいたい。人々の願いを受けて、か弱い体に鋼鉄を纏い、私に立ち向かおうという勇者は健気とさえ思う。
だが」
ファーヴニルが、赤い瞳を細めてヘルゲを睥睨する。
殺意の炎が、その目にありありと見て取れた。
「決して許さん。脅威に震え、地に這いつくばって哀訴するなら可愛いが、私を討伐し得る生命として見たこと。私を殺せると、一時の気の迷いでも思ってしまったこと。
許しがたい。五体を引き裂いて、私の毒で臓腑を溶かし、大地の養分にしてもこの怒りは晴れぬだろう。
ヘルゲ、といったか。感じるか、私の怒りの焔が。貴様が私の眼前に立った時、身を焦がさんばかりに猛った。
せいぜい泣き叫べ。天にも届くように。さすれば、次の勇者は現れんかもしれん。
貴様の命は、もうそういう程度にしか使えぬものに成り果てたのだ。私の眼前に、武装して立った時点でな」
吼えた。
洞窟が、あまりの衝撃波に揺れている。眼前に立っているヘルゲは、鋼鉄を纏った体がバラバラになる予感さえ持った。
(こ、これは・・・・・・)
死ぬ、と思った。いや、そうとしか思えない。
迫りくるハリケーンの前に、裸一貫で立ったようなものだ。一瞬先の無残な自身の姿が、ありありと見て取れた。
僅かに、洞窟に差し込む光が暗くなった気さえした。
(俺は、ここで死ぬのか)
そう諦めるほど、前途は暗い。
ヘルゲも、フリストに対して昏い怒りを抱えるようになった。
自然、師弟の関係は以前に比べるとひどく冷めきってしまい、雑談の一つもしなくなった。フリストはヘルゲの怒りを感じ取ってはいるが、いちいち取り上げるのも不快だった。
そうして一年が経ったから、二人ともこの一年は辛かったに違いない。
その日、フリストは、
「ヘルゲ、ドラゴンを討ちなさい」
と言った。
ヘルゲは、耳を疑った。
(ドラゴンとは天災ではないか)
ヘルゲの国ではリンドヴルムという。判りづらいので、表記は一切ドラゴンとする。
討伐の対象はファーヴニルと聞き、ヘルゲはいよいよ我が耳を疑った。
元々、ドラゴンなる生き物は人に関われる類の生き物ではない。
それはハリケーンや地震、飢饉や日照りと同じ。人の力では如何ともし難いものの代名詞である。
多くは、山に住む。
そこから時折、数キロ先にも轟く咆哮は雷鳴に似て、翼をはためかせて天空を駆ければ暴風そのものになる。無謀にも挑めば鉱物さえバターの如く切り刻む三指の爪が襲う。引き換え、鱗はどれほど練磨した鋼鉄を以てしても傷つけることは叶わない。
人間におけるドラゴンの対処法は、ただ一つ。
関わらないこと。向こうから関わってきたなら、災厄として諦めるしかない。
なんの前触れもない地割れに飲まれた時と同じように、ただ不幸を嘆くだけなのだ。
それを、フリストは狩れという。
狂人の妄言ならまだ救いがある。だが、フリストは至って正気であった。
「ファーヴニルはグニタヘイズに住みます。彼の強欲な邪竜を、貴方が倒すのです」
フリストは正気である。ヘルゲへの嫌がらせでもなんでもなく、勇者として倒せと命じている。
ファーヴニル。
その昔は人であった。神々がファーヴニルの兄を殺し、その賠償金として、ファーヴニルは父と共に黄金を求めた。
神は求めに応じて黄金を生み出すアンドヴァリナウトという指輪を渡すが、それに目が眩んだファーヴニルは父を殺してグニタヘイズという山に逃げた。その後、黄金を守るためにドラゴンに変じたという。
(勝てよう筈がない)
ヘルゲはそう思うが、相変わらずフリストの勘気を恐れて言い出せない。
そうこうしている間に、フリストが装備を整えてしまった。
「彼の邪竜は毒を吐きます。まずはその瘴気に肺腑を焼かれぬよう、魔法を掛けます。あとはこの鎧と盾で防ぎなさい。といって、頼ってはいけません。鎧は防げてせいぜい一撃、盾も三撃食らえば砕けます。
その間に隙を見つけて、貴方の槍で仕留めなさい。出来ない筈がありません。貴方はわたくしが見出して育てた勇者なのですから」
淡々と、ヘルゲにとっては死刑宣告をして、フリストはヘルゲを送り出した。
(このまま逃げようか)
とも思うが、逃げたところでフリストは追いかけてけしかけるだろう。いや、けしかけるだけならいい。臆病者と断じられて殺される可能性の方が高い。
どちらにしろ、前途には死しかない。よしんば逃げ遂せたとしても、寄る辺はない。八方は塞がれているのだ。
根が臆病なヘルゲである。フリストに出会って四年で随分体も心も鍛えられたが、人間の芯の部分は変わっていない。
だが、ここぞという時に開き直って大胆になれるのが、ヘルゲの長所である。
最寄りの街で情報を集め、ドラゴンの咆哮が絶えた時を見計らって地形を探る。挑む前に十全の準備を整えるのが、臆病者の良いところである。
が、知識も足りず、知恵もない。結局調べたところで、それを有効活用する頭脳がないので、出来るのは逃げ道の確保くらいである。
そして、遂にヘルゲはファーヴニルに挑んだ。
グニタヘイズは、枯れ山であった。
原生林は、地に水分がないのか枯れている。或いは、ファーヴニルの放つ毒によるものかもしれない。
奇妙なことに、グニタヘイズの周りだけ、どれほど経っても天候が変わらず、常に厚い雲に覆われている。昼なお暗い。
ファーヴニルは山頂の洞窟に潜むという。
重い鎧を引き摺るようにして山頂までの岩肌を登り、洞窟へと足を踏み入れた。
洞窟は、奇妙なほど明るい。それも夜光苔の類の明るさではなく、昼の明るさであった。後で知ったことだが、洞窟の天頂は穴が開いており、そこから雲間を縫ってか細い陽光が降り注ぎ、黄金に反射して明るかったのである。
明るいため、目標はすぐに見つかった。
「誰(た)ぞ?」
眩い黄金の傍に座り込んだ人影が、ゆったりとした動作で半身を向けた。
「な、名はヘルゲ。邪竜ファーヴニルは、いずこに居るか?」
声が震えた。
それほど声には威圧感があった。
「震えているな。人の子か?」
「い、如何にも」
「ファーヴニルを見つけてなんとする」
「う、討ち果たす」
「何のために?」
これには、ヘルゲも困った。目的などはない。ただあの高慢な戦乙女に倒せと命じられただけなのである。
窮して、正直に言った。
「ヴァ、ヴァルキリーの命で、あ、ある」
「なるほど。性悪な天の下僕にそそのかされた口か。いや、様子を見るに脅されているようにも見える。
いずれか知らんが、哀れなことよ」
人影が立ち上がった。
その拍子に、女の腰から尾の陰が見えた。
「ま、まさか貴様が・・・・・」
「ファーヴニルか、というのなら、是であるとも言えるし、非であるとも言う。
ものの道理も弁えん阿呆と立ち合うのも不快だ。少し物語りなどしてやろう」
女は、語った。
「ファーヴニルは男だ。アンドヴァリナウトを奪ってこのグニタヘイズに逃れた後、ファーヴニルは先客に出くわした。
ドラゴンだ。
ドラゴンは早速、己の寝床に踏み入った男を追い出そうとしたが、やたらに指輪に執着する男に興を持って、虫の歌を聞く心地で話を聞いてやったという。
浅慮で浅ましい話であった。親を黄金欲しさに殺したなどと、悪人の域すら越して最早愚人だ。さっそく噛み砕こうかと思ったが、何故かどうにもその気にならぬ。
それが悪かった。男にもドラゴンが男を害そうという気がないことが知れて、これ以上の隠れ場はないとそのまま居着いてしまった。
結果、ドラゴンはファーヴニルを鬱陶しがりつつ、庇護してやった。なにせ霊長の覇者だ。抗し得るどころか、挑む者さえ稀だ。
随分時間が経って、気の迷いかそれともなにか憑いたのか。おそらくは退屈を余しての余興だったに違いない。ドラゴンは男と睦んだ。
そうして、子が出来た。
魔物の子をその手に抱いた時、ファーヴニルは初めて命というものを知ったという。同時に、自分がその手に掛けた親が、自分を抱いた時の気持ちも知った。そして、その子に殺された親の気持ちというものも、知ってしまった。
男は悔いた。後悔の涙を毎日流し続け、何度も許しの言葉を呟いた。
さすがにドラゴンも哀れになって、慰めてやるうちに情が移ったが、慰みの甲斐なく、悔恨の果て、男は身を病んで死んだ。
ドラゴンはその後、男の形見になってしまったアンドヴァリナウトを守り、娘が成長すると遺骨を持って飛び立った。娘は、悔恨に暮れる父と、それを慰める母を見て育ち、形見を狙う欲深な者を追い払った。
一つには、母の言葉にある。
ファーヴニルが血迷うたのも、黄金を生み出す指輪があってのこと。もう後悔で死ぬ者を見たくない。この指輪は、決して人に渡してはならん。
娘は、罪深く、しかし最期は己の罪業を悔いて死んだ男の名を、自ら名乗った。
聞け、人の子よ。
私の名はファーヴニル。親殺しの男の名を、宝を守る箱の名として昇華する竜である」
ヘルゲには、この竜と討伐を命じたヴァルキリーの、どちらが悪であるかを測る頭脳はない。
欲こそが人類の発展の源であるという者も居る。問題は欲に我を見失う心弱い人々だ。それを一緒くたにして、欲そのものに蓋をするこの竜が悪なのか、事情も知らずそれを討とうとする自分が悪なのか、ヘルゲには判らない。
ただ、もうこの邪竜を討とうという気は、その五体から消え去ってしまっていた。
それを察して、ファーヴニルは尾を不快そうに振って、地を叩いた。
「善悪を語ろうとは思わん。お前が勇者として私を討とうとした経緯も興味がない。
お前は哀れだ。天の下僕なぞに身の自由を奪われ、無謀にも霊長の覇者に槍を向けようという不遇は、充分に同情に値する。
だが心せよ。ここに踏み入った時点で、私は加減をしてやるつもりなど毛頭ない」
もう一度、尾が地を叩き、洞窟が揺れた。
それは、ドラゴンの怒りで山が震えているように思えた。
「私に人を害する意思がなくとも、人は安心して夜を迎えられぬのだろう。私の勘気で命が危ういという状況を、どうしても許容出来んのだろう。
当然だ。誰しも自身を苛む脅威からは距離を取りたい。出来るなら排除してしまいたい。人々の願いを受けて、か弱い体に鋼鉄を纏い、私に立ち向かおうという勇者は健気とさえ思う。
だが」
ファーヴニルが、赤い瞳を細めてヘルゲを睥睨する。
殺意の炎が、その目にありありと見て取れた。
「決して許さん。脅威に震え、地に這いつくばって哀訴するなら可愛いが、私を討伐し得る生命として見たこと。私を殺せると、一時の気の迷いでも思ってしまったこと。
許しがたい。五体を引き裂いて、私の毒で臓腑を溶かし、大地の養分にしてもこの怒りは晴れぬだろう。
ヘルゲ、といったか。感じるか、私の怒りの焔が。貴様が私の眼前に立った時、身を焦がさんばかりに猛った。
せいぜい泣き叫べ。天にも届くように。さすれば、次の勇者は現れんかもしれん。
貴様の命は、もうそういう程度にしか使えぬものに成り果てたのだ。私の眼前に、武装して立った時点でな」
吼えた。
洞窟が、あまりの衝撃波に揺れている。眼前に立っているヘルゲは、鋼鉄を纏った体がバラバラになる予感さえ持った。
(こ、これは・・・・・・)
死ぬ、と思った。いや、そうとしか思えない。
迫りくるハリケーンの前に、裸一貫で立ったようなものだ。一瞬先の無残な自身の姿が、ありありと見て取れた。
僅かに、洞窟に差し込む光が暗くなった気さえした。
(俺は、ここで死ぬのか)
そう諦めるほど、前途は暗い。
16/08/16 12:41更新 / 一
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