亀裂
ある日、ヘルゲの国に戦争が起きた。
きっかけは、ヘルゲの国が水を掘り当てたことだ。
水は資源だ。人は食料がなくとも七日生きられるが、水がなくては三日で枯れ死ぬ。生命維持に関しては勿論、軍隊を維持するためにも、必要な資源なのだ。
水を掘り当てて、喜色一辺倒となった国であったが、隣国に難癖をつけられたのが、不幸の始まりである。
隣国の言い分は、
「水脈を辿るに、水源は我が国にある。ならばそこから派生された水の権利は我が国に帰属するのが当然である。
しかしながら、掘り当てたのはそちらである。折角の貯水施設を無駄にするのも心苦しい。
そこで、水の借用の代わりとして、掘削機を貸してもらいたい」
ということであった。
言い分は通っているようにも見えるし、そうでないとも見える。
これに、ヘルゲの国は激怒した。
ヘルゲの国の人々は、元来排他的で、外部に援助を求めるということが苦手だ。自然と、自分たちでなんとかしようとなり、そのおかげで器用さが他国の比ではない。
とりわけ、物を作らせれば驚くほど精密で効果的な道具を作る。先に、水を掘り当てた掘削機が良い例だろう。周辺の国々のいずれも、この国の作った道具には一歩及ばない。微差だが、絶対的な差である。
隣国が水脈を見つけておきながら水を掘り当てられなかったのは、掘削機が作れなかったためだ。硬い岩盤を貫く算段がどうしても立てられず、指を銜えていた矢先のことだ。
掘削機を貸せば、水脈の途上を掘り当てられ、水が全てそちらに流れてしまう。恩に着せる言い方をしているが、実際のところは水を横取りしようとしているに他ならない。
結局、水の利権を巡って戦争になった。
「ヘルゲ、参戦なさい」
フリストはいつものように、冷たく無感情に言った。
「勇者にはなれませんが、それでも良いんですか?」
ヘルゲはこう返した。
三年の付き合いである。フリストがなにを考えてものを言っているのか、ある程度は判るようになってきた。
ヘルゲが故郷の戦争に参加しても、身分は雑兵だろう。雑兵が一番駆けを決めたところで、人の口の端には登らない。最低でも兵を束ねる立場、欲を言えば騎乗の身分が欲しい。
が、騎乗の身分といえば高級将校である。門地も家柄も後ろ盾さえもないヘルゲには、仰ぎ見ることすら叶わぬ夢だ。
勇者は、名を知られてこそ勇者である。無名であれば、遂に難事に巡り合うことさえなく、生涯を終えてしまうことになる。
ヘルゲのそういう考えを見透かして、フリストは無知を嘲うように、
「ただの徴兵や志願ならそうでしょう。わたくしが口添えします。これで少なくとも、貴方の名は覚えられる。
あとは貴方次第です。くれぐれもわたくしの三年間を無駄にしないように」
なるほど、名高いヴァルキリーの口添えがあれば、然るべき高級将校の麾下になれるかもしれない。そこで武功を樹てれば、人の覚えもよく、勇者への道のりも拓けるか。
「貴方には勇者を目指してもらいます。軍人になどさせませんし、諸侯の列に加わることも許しません。貴方の人生に栄達はない。ひたすら、世の難事を解決する滅私の徒となるのです。それが、勇者です」
冷たい言葉である。
ヘルゲは、学はないが、その勇者の前途なら、想像はつく。
だから、
「でも」
と言いたかった。勇者の末路は難事に挑みながら遂に踏破出来ず砕け散るか、人々に疎まれて殺されるか、死後も神の手先となるか、ではないか。何れにせよ非業の最期である。
だが、ヘルゲはフリストの勘気を恐れてついにそれを言い出せなかった。
結局、フリストに伴われて故郷に向かう。
フリストは、自らの使命と目的を王に話し、ヘルゲを高級将校に付けることを約束し、辞去した。
ヘルゲは、推薦で将校の下に付いただけに、居心地が悪い。
周囲の妬みと軽侮が、やるせない。
(これは堪らん)
と、ヘルゲは思った。思った分だけ、戦場の武功の数が、自分をこの不遇から救うだろうと考えた。
やがて、駆り出された。
ヘルゲの臆病は生来のものだ。治る時があるとすれば、それは墓石をその体の上に頂く時だけだろう。
だが、臆病は知性の陰である。知性があるから想像力を働かせ、その想像力の巧みさが恐れを生む。事実、ヘルゲは将校付きとはいえ、ただの士卒でありながら戦場の様子を事細かに調べ上げ、戦場となる平野がどれほど草を伸ばしているかまで知っていた。
最悪を避けようという怯えが、知恵を生む。
おまけに、フリストから三年間仕込まれている。といっても、一対一などという限定的な条件では、とても他の戦に慣れた古豪共に叶う筈はない。
フリストの教えは、
「混乱の中を膂力で突き殺す。これを戦が終わるまで繰り返すのです。夢中になりなさい。冷静になれば、それは暗愚の証。平凡の証左です。
ただ敵の来るままに槍を動かし、突き殺しては抜く。抜いては突く。それを繰り返しなさい」
という単純なものだ。ヘルゲが三年の間に磨かれたのは天性の膂力と、体力だけだ。
これが、実に役に立った。
ヘルゲは戦場に出ると、臆病さを夢中で消した。敵が来るために、臆病に構っている暇がなかったとも言える。
ただ目の前に敵が居れば突き、抜き、また突く。この作業にひたすら没頭して、凌いだ。
戦争とは、嵐に似ている。
先陣を切る者は、戦況など判らない。鬨の声と人波、剣戟の音が夥しいため、時には味方さえ見失う。死なぬには、自分を襲う者を夢中になって殺すしかない。それを続けていれば、何れ死ぬか、戦況が変わる。死なぬには、凌ぐしかない。ひたすらに。
ヘルゲは凌ぎ切った。昼に始まった戦いは夕方に終わり、敵の退却を討つために、今度は走りながら戦った。
やがて夜になり、その日の全ての戦闘行動が終わった。
ヘルゲは、疲れ切っている。
「見たぞ、ヘルゲ。さすがはヴァルキリーの推挙である。その働きは神も見たるところかな」
と、上役は褒めてくれ、朋輩も見事と称えてくれたが、本人はそれどころではない。
寧ろ、夢中になり過ぎたために何人を仕留めたか覚えていない。体の動くままに任せていたに過ぎない。現実感がない。
自らの武功を誇るでもなく、ヘルゲは褒められる度に不得要領な顔で「へえ」と頷くだけであった。
その夜、宿陣の土の上で、泥のように眠った。
ふと起きた時、まだ月が高く、真夜中であった。
尿意を覚えて、便所に向かう。
全て出し切って便所を出たところで、誰かに襟を掴まれた。
「わたくしです、ヘルゲ。騒いでは兵の迷惑になります」
フリストであった。
「付いてきなさい。会戦で勝った以上、次は夜明けを待って城攻めでしょう。貴方にはそこまでさせられない」
逃げるのである。
ヘルゲはよく判らぬまま、フリストに従った。
やがて、森に出た。
そこでようやく、フリストはヘルゲを振り返り、
「見ていましたよ。たかが人間同士の戦いで手傷を負うとは、情けない」
呆れたように言った。
ヘルゲは、むっとした。
(なんて言い様だろう)
死んでいてもおかしくなかった。確かに敵の槍傷が無数にある。掠り傷は数えるのも億劫になるし、大きな傷は足にある。それほど深くはないが、荒く巻いた包帯に血が滲んでいた。
大過なく凌ぎ切り、味方からも褒められる戦果を挙げたのに、この師は感心するどころか呆れている。
「教えを守っていたのは、まあ良しとしましょう。しかし将校に挑みかかって傷を負うならまだしも、雑兵同士の小競り合いで傷を負うとは。貴方を選んだのは間違いだったかと後悔していました」
この瞬間、ヘルゲに殺意が湧いた。
怒りが目の前を真っ赤にした。反射的に腰の剣に手を掛けなかったのは、憎悪に囚われながらも、フリストに対して敬意があったからだろう。
が、フリストは察した。
「ヘルゲ、妙な気を起こしましたね」
フリストにも、ヘルゲへの憎悪が生まれた。
(たかが農夫の子からここまで鍛え上げたのは、いったい誰だと思っているのか)
フリストは自尊心が強い。下位の生き物が上位の自分を敬わないということは、フリストにとっては、殺すに値する罪なのだ。
我も忘れて槍を取り出した。
「直りなさい、ヘルゲ。出来損ないならまだしも、師に殺意を抱くなど忘恩の極み。わたくしの眼鏡違いでした。
それを清算します。
貴方も男なら、ここで潔く成敗されなさい」
ヘルゲも、これには焦った。
二人の実力には、大きな隔たりがある。膂力ならかろうじて勝っているだろうが、他の部分で大きく劣っている。フリストが本気なら、ヘルゲなど一合も保たずに殺されるだろう。
慌てて腰の剣を鞘ぐるみ外して放り投げ、その場に平服した。
「いや、違うのです、フリスト。わ、私めはただ・・・・・・」
「ただ、わたくしを害そうと思ったというのですか。なんと見苦しい。言い訳などあの三年を侮辱するだけだと知りなさい。
最早愛想が尽きました。この期に及んで言い訳をするなど勇者になどなれる器ではない」
「し、しかしあんまりじゃありませんか。あんなにも恐ろしいところは初めてで、なんとか生き残ったのに、あの言いようはあまりにも」
ヘルゲは、恥も外聞もなく、顔を涙と洟でくしゃくしゃにして哀訴している。
そこに、勇者への可能性の片鱗はおろか、男としての矜持すら見られない。ヘルゲは本気で誅殺してやろうかと思ったが、こうして這いつくばられて哀訴されるのは、正直悪い気分ではない。
「・・・・・・いいでしょう、貴方の無様な泣き顔に免じて不問にしてあげます」
と、フリストが槍を収めたのは、まんざらそのことだけではない。
槍を構えた時から、頭の奥で、
「止めよ、ヴァルキリー」
という、底冷えのする、威厳に満ちた声が響いている。神の声だ。
フリストを含め、ヴァルキリーにとって、その声に従うのは当然だ。上位下位の区別がはっきりしている分、上位と判断した者の命に逆らうことは絶対にない。
槍を収めても、フリストの気は晴れない。
思わぬ反抗が、彼女の自尊心を大きく傷つけている。感情に任せて、蹲るヘルゲを足蹴にしたいところだが、それはただの鬱憤晴らしである。
さすがに自重した。
憤りを抑えかねた、荒い息を吐きながら、フリストはぷいと、背を向けた。
(何故、俺はこんな目に遭わねばならん・・・・・・)
と、その後ろでヘルゲは這いつくばったまま思う。
あのまま、貧しいながらも平凡な家庭でつつがなく暮らしていれば、一体どれほどよかったか。師の機嫌を取り、死地に向かい、難行に挑む。
何故そんな人生を歩まねばならないのか。それも、自分の意志を無視されて。
(惨めな)
泣かずにはいられない。
まるで罪人か囚人である。刑に服する謂われもないのに、このありようはどうか。
(ヴァルキリーなぞに見初められたがために、なんという不幸を背負ったのか)
ヘルゲは嘆いた。同時に、自分の人生を諦めもした。
人並みな幸せなど望んだことはないが、せめて平穏な日常を願ったヘルゲの祈りは、この日とうとう折れてしまった。
きっかけは、ヘルゲの国が水を掘り当てたことだ。
水は資源だ。人は食料がなくとも七日生きられるが、水がなくては三日で枯れ死ぬ。生命維持に関しては勿論、軍隊を維持するためにも、必要な資源なのだ。
水を掘り当てて、喜色一辺倒となった国であったが、隣国に難癖をつけられたのが、不幸の始まりである。
隣国の言い分は、
「水脈を辿るに、水源は我が国にある。ならばそこから派生された水の権利は我が国に帰属するのが当然である。
しかしながら、掘り当てたのはそちらである。折角の貯水施設を無駄にするのも心苦しい。
そこで、水の借用の代わりとして、掘削機を貸してもらいたい」
ということであった。
言い分は通っているようにも見えるし、そうでないとも見える。
これに、ヘルゲの国は激怒した。
ヘルゲの国の人々は、元来排他的で、外部に援助を求めるということが苦手だ。自然と、自分たちでなんとかしようとなり、そのおかげで器用さが他国の比ではない。
とりわけ、物を作らせれば驚くほど精密で効果的な道具を作る。先に、水を掘り当てた掘削機が良い例だろう。周辺の国々のいずれも、この国の作った道具には一歩及ばない。微差だが、絶対的な差である。
隣国が水脈を見つけておきながら水を掘り当てられなかったのは、掘削機が作れなかったためだ。硬い岩盤を貫く算段がどうしても立てられず、指を銜えていた矢先のことだ。
掘削機を貸せば、水脈の途上を掘り当てられ、水が全てそちらに流れてしまう。恩に着せる言い方をしているが、実際のところは水を横取りしようとしているに他ならない。
結局、水の利権を巡って戦争になった。
「ヘルゲ、参戦なさい」
フリストはいつものように、冷たく無感情に言った。
「勇者にはなれませんが、それでも良いんですか?」
ヘルゲはこう返した。
三年の付き合いである。フリストがなにを考えてものを言っているのか、ある程度は判るようになってきた。
ヘルゲが故郷の戦争に参加しても、身分は雑兵だろう。雑兵が一番駆けを決めたところで、人の口の端には登らない。最低でも兵を束ねる立場、欲を言えば騎乗の身分が欲しい。
が、騎乗の身分といえば高級将校である。門地も家柄も後ろ盾さえもないヘルゲには、仰ぎ見ることすら叶わぬ夢だ。
勇者は、名を知られてこそ勇者である。無名であれば、遂に難事に巡り合うことさえなく、生涯を終えてしまうことになる。
ヘルゲのそういう考えを見透かして、フリストは無知を嘲うように、
「ただの徴兵や志願ならそうでしょう。わたくしが口添えします。これで少なくとも、貴方の名は覚えられる。
あとは貴方次第です。くれぐれもわたくしの三年間を無駄にしないように」
なるほど、名高いヴァルキリーの口添えがあれば、然るべき高級将校の麾下になれるかもしれない。そこで武功を樹てれば、人の覚えもよく、勇者への道のりも拓けるか。
「貴方には勇者を目指してもらいます。軍人になどさせませんし、諸侯の列に加わることも許しません。貴方の人生に栄達はない。ひたすら、世の難事を解決する滅私の徒となるのです。それが、勇者です」
冷たい言葉である。
ヘルゲは、学はないが、その勇者の前途なら、想像はつく。
だから、
「でも」
と言いたかった。勇者の末路は難事に挑みながら遂に踏破出来ず砕け散るか、人々に疎まれて殺されるか、死後も神の手先となるか、ではないか。何れにせよ非業の最期である。
だが、ヘルゲはフリストの勘気を恐れてついにそれを言い出せなかった。
結局、フリストに伴われて故郷に向かう。
フリストは、自らの使命と目的を王に話し、ヘルゲを高級将校に付けることを約束し、辞去した。
ヘルゲは、推薦で将校の下に付いただけに、居心地が悪い。
周囲の妬みと軽侮が、やるせない。
(これは堪らん)
と、ヘルゲは思った。思った分だけ、戦場の武功の数が、自分をこの不遇から救うだろうと考えた。
やがて、駆り出された。
ヘルゲの臆病は生来のものだ。治る時があるとすれば、それは墓石をその体の上に頂く時だけだろう。
だが、臆病は知性の陰である。知性があるから想像力を働かせ、その想像力の巧みさが恐れを生む。事実、ヘルゲは将校付きとはいえ、ただの士卒でありながら戦場の様子を事細かに調べ上げ、戦場となる平野がどれほど草を伸ばしているかまで知っていた。
最悪を避けようという怯えが、知恵を生む。
おまけに、フリストから三年間仕込まれている。といっても、一対一などという限定的な条件では、とても他の戦に慣れた古豪共に叶う筈はない。
フリストの教えは、
「混乱の中を膂力で突き殺す。これを戦が終わるまで繰り返すのです。夢中になりなさい。冷静になれば、それは暗愚の証。平凡の証左です。
ただ敵の来るままに槍を動かし、突き殺しては抜く。抜いては突く。それを繰り返しなさい」
という単純なものだ。ヘルゲが三年の間に磨かれたのは天性の膂力と、体力だけだ。
これが、実に役に立った。
ヘルゲは戦場に出ると、臆病さを夢中で消した。敵が来るために、臆病に構っている暇がなかったとも言える。
ただ目の前に敵が居れば突き、抜き、また突く。この作業にひたすら没頭して、凌いだ。
戦争とは、嵐に似ている。
先陣を切る者は、戦況など判らない。鬨の声と人波、剣戟の音が夥しいため、時には味方さえ見失う。死なぬには、自分を襲う者を夢中になって殺すしかない。それを続けていれば、何れ死ぬか、戦況が変わる。死なぬには、凌ぐしかない。ひたすらに。
ヘルゲは凌ぎ切った。昼に始まった戦いは夕方に終わり、敵の退却を討つために、今度は走りながら戦った。
やがて夜になり、その日の全ての戦闘行動が終わった。
ヘルゲは、疲れ切っている。
「見たぞ、ヘルゲ。さすがはヴァルキリーの推挙である。その働きは神も見たるところかな」
と、上役は褒めてくれ、朋輩も見事と称えてくれたが、本人はそれどころではない。
寧ろ、夢中になり過ぎたために何人を仕留めたか覚えていない。体の動くままに任せていたに過ぎない。現実感がない。
自らの武功を誇るでもなく、ヘルゲは褒められる度に不得要領な顔で「へえ」と頷くだけであった。
その夜、宿陣の土の上で、泥のように眠った。
ふと起きた時、まだ月が高く、真夜中であった。
尿意を覚えて、便所に向かう。
全て出し切って便所を出たところで、誰かに襟を掴まれた。
「わたくしです、ヘルゲ。騒いでは兵の迷惑になります」
フリストであった。
「付いてきなさい。会戦で勝った以上、次は夜明けを待って城攻めでしょう。貴方にはそこまでさせられない」
逃げるのである。
ヘルゲはよく判らぬまま、フリストに従った。
やがて、森に出た。
そこでようやく、フリストはヘルゲを振り返り、
「見ていましたよ。たかが人間同士の戦いで手傷を負うとは、情けない」
呆れたように言った。
ヘルゲは、むっとした。
(なんて言い様だろう)
死んでいてもおかしくなかった。確かに敵の槍傷が無数にある。掠り傷は数えるのも億劫になるし、大きな傷は足にある。それほど深くはないが、荒く巻いた包帯に血が滲んでいた。
大過なく凌ぎ切り、味方からも褒められる戦果を挙げたのに、この師は感心するどころか呆れている。
「教えを守っていたのは、まあ良しとしましょう。しかし将校に挑みかかって傷を負うならまだしも、雑兵同士の小競り合いで傷を負うとは。貴方を選んだのは間違いだったかと後悔していました」
この瞬間、ヘルゲに殺意が湧いた。
怒りが目の前を真っ赤にした。反射的に腰の剣に手を掛けなかったのは、憎悪に囚われながらも、フリストに対して敬意があったからだろう。
が、フリストは察した。
「ヘルゲ、妙な気を起こしましたね」
フリストにも、ヘルゲへの憎悪が生まれた。
(たかが農夫の子からここまで鍛え上げたのは、いったい誰だと思っているのか)
フリストは自尊心が強い。下位の生き物が上位の自分を敬わないということは、フリストにとっては、殺すに値する罪なのだ。
我も忘れて槍を取り出した。
「直りなさい、ヘルゲ。出来損ないならまだしも、師に殺意を抱くなど忘恩の極み。わたくしの眼鏡違いでした。
それを清算します。
貴方も男なら、ここで潔く成敗されなさい」
ヘルゲも、これには焦った。
二人の実力には、大きな隔たりがある。膂力ならかろうじて勝っているだろうが、他の部分で大きく劣っている。フリストが本気なら、ヘルゲなど一合も保たずに殺されるだろう。
慌てて腰の剣を鞘ぐるみ外して放り投げ、その場に平服した。
「いや、違うのです、フリスト。わ、私めはただ・・・・・・」
「ただ、わたくしを害そうと思ったというのですか。なんと見苦しい。言い訳などあの三年を侮辱するだけだと知りなさい。
最早愛想が尽きました。この期に及んで言い訳をするなど勇者になどなれる器ではない」
「し、しかしあんまりじゃありませんか。あんなにも恐ろしいところは初めてで、なんとか生き残ったのに、あの言いようはあまりにも」
ヘルゲは、恥も外聞もなく、顔を涙と洟でくしゃくしゃにして哀訴している。
そこに、勇者への可能性の片鱗はおろか、男としての矜持すら見られない。ヘルゲは本気で誅殺してやろうかと思ったが、こうして這いつくばられて哀訴されるのは、正直悪い気分ではない。
「・・・・・・いいでしょう、貴方の無様な泣き顔に免じて不問にしてあげます」
と、フリストが槍を収めたのは、まんざらそのことだけではない。
槍を構えた時から、頭の奥で、
「止めよ、ヴァルキリー」
という、底冷えのする、威厳に満ちた声が響いている。神の声だ。
フリストを含め、ヴァルキリーにとって、その声に従うのは当然だ。上位下位の区別がはっきりしている分、上位と判断した者の命に逆らうことは絶対にない。
槍を収めても、フリストの気は晴れない。
思わぬ反抗が、彼女の自尊心を大きく傷つけている。感情に任せて、蹲るヘルゲを足蹴にしたいところだが、それはただの鬱憤晴らしである。
さすがに自重した。
憤りを抑えかねた、荒い息を吐きながら、フリストはぷいと、背を向けた。
(何故、俺はこんな目に遭わねばならん・・・・・・)
と、その後ろでヘルゲは這いつくばったまま思う。
あのまま、貧しいながらも平凡な家庭でつつがなく暮らしていれば、一体どれほどよかったか。師の機嫌を取り、死地に向かい、難行に挑む。
何故そんな人生を歩まねばならないのか。それも、自分の意志を無視されて。
(惨めな)
泣かずにはいられない。
まるで罪人か囚人である。刑に服する謂われもないのに、このありようはどうか。
(ヴァルキリーなぞに見初められたがために、なんという不幸を背負ったのか)
ヘルゲは嘆いた。同時に、自分の人生を諦めもした。
人並みな幸せなど望んだことはないが、せめて平穏な日常を願ったヘルゲの祈りは、この日とうとう折れてしまった。
16/08/22 12:15更新 / 一
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