気位の高い女
こういうイメージが、ヴァルキリーという言葉の中にある。
男の見た夢は単なる夢に過ぎない。戦場に向かうという緊張感が、男にそういう自虐的な悪夢を見せたのだろう。男の中にあったヴァルキリーという言葉のイメージが膨らみ、夢の構造を作り上げたに過ぎない。
ヴァルキリーは死の使いだ。
神は人間の中に勇者を認めると、大きな戦争を起こし、勇者の武勇を期待する。同時に、その勇者の死も。
勇者が死ねば、神の命でヴァルキリーは勇者を迎え、ヴァルハラへ連れていく。エインヘリアルという、神の兵になるのである。
伝説に曰く、エインヘリアルは館内で歓待を受け、有事があるまでは絢爛な生活を約束される。
謂わば、勇者の華々しい死後の世界の話だが、生きている者に死後の世界などより明日の命の方が大切なのは言うまでもない。
だから、死者を迎えに来るヴァルキリーは、その言葉に美しさと勇壮さを漂わせながら、死神というおぞましいイメージを付随させている。
美麗でおぞましい。
それが、人々に於けるヴァルキリーのイメージである。
ヘルゲという男も、その一人だった。
ヘルゲは農夫の子で、十九になる。
生まれつき体が大きく、なかなかの健啖家で、それが貧しい家庭を悩ませていた。
これといって能があるわけでもなく、勇気があるわけでもなかった。寧ろ野原で昼寝をする飼い犬にさえ怯えるような臆病さを持っていた。
ただ、体つきに見合って膂力が強く、鍬を以て畑を作る分には僅かなりとも役に立った。
そのヘルゲが、十六の頃、一人の女が家を訪ねた。
女は、戦時のように蒼い鎧兜で武装し、腰の辺りからコハクチョウを思わせる白い羽を二対、生やしていた。
無論、人ではない。
女は物腰は柔らかく、しかし冷淡で事務的に、
「貴方の次男をもらいたい」
と言った。
次男とはヘルゲである。父親の農夫は神の御使いであると確信し、敬ってヘルゲを差し出した。
純朴なことである。
その素直さに、女は満足した様子でヘルゲを連れて行った。
それから、ヴァルキリーの教育が始まった。
「用のある時に、ヴァルキリーと偉そうに呼ばわれては堪りませんから、名を教えておきましょう」
高圧的であった。
女はフリストと名乗った。古ノルドの言葉で、振動を表すという。転じて、「震える者」という名であった。
ヘルゲは学がないが、臆病な自分に「震える者」という組み合わせが、あまりにもぴったりだったのでつい笑ってしまった。
それが、フリストの怒りを買った。
「人の身で、わたくしを笑おうと言うのですか」
初日に、足腰の立たぬまで打擲された。
地に這いつくばり、太い木の枝で叩かれながら、ヘルゲは何度も、
「ゆ、許してくだせ」
と、謝った。
惨めな、とは思わなかった。そう思うほど自尊心を育める環境に生まれなかったし、相手は自分より上位の生き物だと、父親の態度で知ってしまった。
打たれるのは、自分が悪いからだと思った。
そういう素直さがなければ、フリストは神の命といえどもヘルゲを育てはしなかっただろう。
三年の付き合いで思ったが、フリストは気位が高い。
少しでも無礼な態度を取れば、顔を真っ赤にして怒り、初日と同じように折檻をする。加えて、口が悪い。
覚えが悪い時など、
「気にする必要はありません。貴方などに学習能力という高次元な能力は求めていませんから。反復で体に染み込ませなさい」
けんもほろろな言い様である。
だが、ヘルゲは一度もフリストを、
「嫌な女だ」
とは思わなかった。
自分より上位の生物の言葉だから、そう言わせている自分が悪いのだという思いもあったが、言葉遣いや態度と違い、行動は優しげだったからだ。
野盗に宿営を襲われた時などは、
「ヘルゲ、火から離れて屈んでいなさい。貴方程度では無駄死にが関の山です」
と、自ら剣を取って戦い、しかも敵の命を奪わなかった。
なにかでヘルゲが怪我をすると、
「愚図な貴方のことです。繰り返すなとは言いませんが、危険を学ぶ勘くらいは養いなさい」
口は悪いが、手ずから介抱してくれる。
尤も、フリストは頭から人間という生き物を軽侮している。それが言動の端々に滲み出ていて、時折ヘルゲも閉口する。
単純でないのは、そのフリストが人間を殺めることを嫌っているところで、厭な女だ、とはならないのはそういうところが原因らしい。
男の見た夢は単なる夢に過ぎない。戦場に向かうという緊張感が、男にそういう自虐的な悪夢を見せたのだろう。男の中にあったヴァルキリーという言葉のイメージが膨らみ、夢の構造を作り上げたに過ぎない。
ヴァルキリーは死の使いだ。
神は人間の中に勇者を認めると、大きな戦争を起こし、勇者の武勇を期待する。同時に、その勇者の死も。
勇者が死ねば、神の命でヴァルキリーは勇者を迎え、ヴァルハラへ連れていく。エインヘリアルという、神の兵になるのである。
伝説に曰く、エインヘリアルは館内で歓待を受け、有事があるまでは絢爛な生活を約束される。
謂わば、勇者の華々しい死後の世界の話だが、生きている者に死後の世界などより明日の命の方が大切なのは言うまでもない。
だから、死者を迎えに来るヴァルキリーは、その言葉に美しさと勇壮さを漂わせながら、死神というおぞましいイメージを付随させている。
美麗でおぞましい。
それが、人々に於けるヴァルキリーのイメージである。
ヘルゲという男も、その一人だった。
ヘルゲは農夫の子で、十九になる。
生まれつき体が大きく、なかなかの健啖家で、それが貧しい家庭を悩ませていた。
これといって能があるわけでもなく、勇気があるわけでもなかった。寧ろ野原で昼寝をする飼い犬にさえ怯えるような臆病さを持っていた。
ただ、体つきに見合って膂力が強く、鍬を以て畑を作る分には僅かなりとも役に立った。
そのヘルゲが、十六の頃、一人の女が家を訪ねた。
女は、戦時のように蒼い鎧兜で武装し、腰の辺りからコハクチョウを思わせる白い羽を二対、生やしていた。
無論、人ではない。
女は物腰は柔らかく、しかし冷淡で事務的に、
「貴方の次男をもらいたい」
と言った。
次男とはヘルゲである。父親の農夫は神の御使いであると確信し、敬ってヘルゲを差し出した。
純朴なことである。
その素直さに、女は満足した様子でヘルゲを連れて行った。
それから、ヴァルキリーの教育が始まった。
「用のある時に、ヴァルキリーと偉そうに呼ばわれては堪りませんから、名を教えておきましょう」
高圧的であった。
女はフリストと名乗った。古ノルドの言葉で、振動を表すという。転じて、「震える者」という名であった。
ヘルゲは学がないが、臆病な自分に「震える者」という組み合わせが、あまりにもぴったりだったのでつい笑ってしまった。
それが、フリストの怒りを買った。
「人の身で、わたくしを笑おうと言うのですか」
初日に、足腰の立たぬまで打擲された。
地に這いつくばり、太い木の枝で叩かれながら、ヘルゲは何度も、
「ゆ、許してくだせ」
と、謝った。
惨めな、とは思わなかった。そう思うほど自尊心を育める環境に生まれなかったし、相手は自分より上位の生き物だと、父親の態度で知ってしまった。
打たれるのは、自分が悪いからだと思った。
そういう素直さがなければ、フリストは神の命といえどもヘルゲを育てはしなかっただろう。
三年の付き合いで思ったが、フリストは気位が高い。
少しでも無礼な態度を取れば、顔を真っ赤にして怒り、初日と同じように折檻をする。加えて、口が悪い。
覚えが悪い時など、
「気にする必要はありません。貴方などに学習能力という高次元な能力は求めていませんから。反復で体に染み込ませなさい」
けんもほろろな言い様である。
だが、ヘルゲは一度もフリストを、
「嫌な女だ」
とは思わなかった。
自分より上位の生物の言葉だから、そう言わせている自分が悪いのだという思いもあったが、言葉遣いや態度と違い、行動は優しげだったからだ。
野盗に宿営を襲われた時などは、
「ヘルゲ、火から離れて屈んでいなさい。貴方程度では無駄死にが関の山です」
と、自ら剣を取って戦い、しかも敵の命を奪わなかった。
なにかでヘルゲが怪我をすると、
「愚図な貴方のことです。繰り返すなとは言いませんが、危険を学ぶ勘くらいは養いなさい」
口は悪いが、手ずから介抱してくれる。
尤も、フリストは頭から人間という生き物を軽侮している。それが言動の端々に滲み出ていて、時折ヘルゲも閉口する。
単純でないのは、そのフリストが人間を殺めることを嫌っているところで、厭な女だ、とはならないのはそういうところが原因らしい。
16/08/22 12:14更新 / 一
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