決着
ヴァルキリーの空中戦は、騎馬による戦いに似ている。
互いに突進力というものを推進力に依存し、本人はその推進力の中で体勢を逸らすくらいしか回避行動を取れない。
攻撃力も、膂力を僅かに、突進力にそのほとんどを依存している。
互いにすれ違いざまに一撃を浴びせるのが精々で、どちらも決定打に欠ける。
が、度重なる攻撃を受けて、フリストの鎧は残骸になりかけている。
胸当てはとうに砕けて、汗ばんだアンダースーツが露わになっており、それもところどころが裂けて肌色を覗かせている。肩も同じく崩れ果て、透けるような白い肌が、打撲によって充血しているのが痛々しい。
盾は、上半分を削がれてしまっている。
対して、ロスヴァイセに大きな傷と言えば、一か所、羽を飾った兜が跡形もなくなっているだけである。
この両者の対比を見るだけで、戦況は判る。
だがフリストは落ち着いている。
(ファーヴニルの援護がないということは、ヘルゲを助けに行ってくれたようですね。
ならばあとは倒すのみ。憂いはなにもない。渾身を槍にすれば、なに、ヴァルキリー一人貫けないことはない)
小細工も、いろいろと講じてみた。
受けに回り、相手の突進をぎりぎりで避けるか盾でいなし、突きを入れる。しかしそれでは防御力を貫通出来なかった。
ならばと突進に合わせて突進すると、兜を砕いたが胸当てを砕かれた。
統合して考えると、フリストの渾身の突きを、ロスヴァイセがフリストを貫く前に入れなければならない。
おそらく、それでも相討ちになる公算が高い。
だがフリストはそれでもいい。ヘルゲが助かったのなら、自身を捨てるのに躊躇いはない。
この時、ヘルゲの到着がもう少し遅れていたら、フリストは自身を擲って突きを放ち、高い確率で死んでいただろう。道連れにロスヴァイセを連れて。
「フリスト!」
正にその突きを放とうと構えた瞬間、ヘルゲの声が響いた。
一体人間のどこからこんな声が出るのか。生まれつき肺腑の強靭な体だからか、それともフリストの教導の賜物か。枯れ山の赤土を踏みしめ、天空の二人を睨むヘルゲが、喉の割れんばかりに発した叫びである。
「勇士とは声が大きくなくてはいけない。大きな声で名乗らないと、武功勲功の主が誰なのか、人は知りようがないからです」
といって教導したものだが、それは余談。
フリストはヘルゲの姿を眼下に認めると、すぐさま方向を変えて突進するように向かった。
「ご無事で、ヘルゲ」
まず、フリストの胸に去来したのは、怪我を負いながらも生還してくれた喜びであった。
ヘルゲは、表情を変えない。無理もないことである。これから二人がかりとはいえ、人の身でヴァルキリーに挑むのである。
「フリスト、二人で戦いましょう」
そう言われて、フリストは驚いたが、すぐに、
「我が王のお言葉なれば、フリストは従います」
今こそあの言葉を、この日の朝の誓いを果たす時だと思った。
ロスヴァイセが、少し離れた地点に着地した。
「まさか、エインヘリアル八人を退けて、私の眼前に立つ人間が、居るなんて・・・・・・」
茫然としている。
自身が選び抜いた精鋭の八人である。その悉くが敗れようなどと夢にも思ったことはない。
(単に性技だけでフリストを篭絡したのではない)
ロスヴァイセは、得体の知れない生き物を見るように、ヘルゲを見た。
目に、脅威への警戒の色が乗っていた。
ヘルゲは、剣を構えた。
「・・・・・・」
目顔だけで、フリストと段取りを決めた。こういうことが出来るまでに、この二人は仲を成熟させている。
先手は、なんとヘルゲである。
勇敢にも、槍の間合いに自ら投身するように踏み込み、予期していなかったロスヴァイセはそれに反撃を加える機を失った。
これが、決め手になった。
(何故、私は避ける・・・・・・?)
反射的に身を逸らしながら、ロスヴァイセは思った。
八人の勇士を倒して立ったという、現実とは少し違った妄想による警戒が、ロスヴァイセを要らざる回避に走らせてしまった。
ロスヴァイセの加護による守備力、なによりヴァルキリーとしての戦闘力から見れば、ヘルゲの一撃など蚊の一刺しに等しい。にも拘わらず、ロスヴァイセが自ら育てた疑念と言う毒が、大袈裟な回避に繋げてしまった。
結局、その毒が致命傷。
三撃必要な二撃を、ヘルゲが埋めた。残りの一撃をフリストが決める。
ちゃんと地面を蹴って突進するフリスト。回避中のロスヴァイセは、それを目で捉えようとも最早どうすることも出来ない。
「ふっ―――――!」
突進の勢い、渾身の膂力、槍の重量制御、フリストの持てる力と技術が集約された、最速にして最強の突きが、そこにあった。
ロスヴァイセはそれを胸に受けた。
紺碧の胸当ては、砕けない。ただ、丸い穴が穿たれた。フリストの槍は、力の全てを集約していたために、余計なものを一切傷つけず貫いた。
ロスヴァイセの胸から、鮮血が溢れた。
が、それでも尚、浅い。命を奪う必滅の一撃には届かない。それほど主神の加護を受けたヴァルキリーの防御力は高く、加護を失ったフリストの攻撃力は落ちていた。
胸から血を噴きながら、ゆっくりと背を地に落とすロスヴァイセ。突進の勢いを殺し、すかさず馬乗りになって止めを刺そうとするフリストを、
「いけない―――――!」
ヘルゲが必死に押し留めた。
フリストは、ヘルゲが止めるなら従うのみだ。制止の声が響くや、寸でのところで槍を引いた。
決着は、意外にもあっけない。だがこれが命を懸けた勝負なのだと、ヘルゲは知っている。
(なにかの読み違い、ほんの少しなにかが食い違うだけで生死は分かたれる。それほど戦局とは危うく、命とは儚い。
俺はそれをあの戦争とファーヴニルとの戦いで知った。そんな儚い命を、たって奪うことはない)
圧倒的な強さを持たない、その日の空の機嫌で命を左右される人間だから、辿り着ける心境であったろう。永遠に強者たるヴァルキリーやドラゴンには、一生辿り着けないに違いない。
だから、この結末に最も不快で不審なのは、ロスヴァイセである。
「な、何故殺さない・・・・・・」
声には、怒気が籠もっていた。
勝敗の行く末を歪められるのは心外で、敗者の自分には侮辱だと、ロスヴァイセはその一言に込めた。
ヘルゲも察している。が、静かに首を振って、
「まだ愛情のなんたるかもしれない貴女を、むやみに手に掛けたくはない。
私は、両親の愛し合う様をとうとう見られないまま育った友人を知っている。その友人が、憎からず思った人から遠ざかろうとする悲しい姿を見た。
愛情とは甘いが酸くもある。そのかみ分けさえ出来ない未通娘(おぼこ)を、強いて殺したいとは思わない」
その言葉を受けて、ロスヴァイセは激高した。
槍を失ったロスヴァイセは、倒れた姿勢のまま腰に手を伸ばして剣を抜き、喉に突き立てようとした。
が、それをフリストはロスヴァイセの手を蹴って止めた。
「古き同輩、わたくしの後輩よ、ヘルゲの言う通り、貴女の心はまだ熟れていない。貴女を教導したあの日、わたくしは貴女の行く末を楽しみに思ったものです。
行く末がこんな中途半端な様では、教導したわたくしも不憫というものです。
生きなさい、ロスヴァイセ。わたくしが許せなければ、もう一度立てば良いだけ。安直な死など逃避以外の何物でもないと知りなさい」
「それを、私を殺すと言った貴女が言うのですか」
ロスヴァイセは歯噛みしている。
これ以上の屈辱はないであろう。どんな奇術を使ったか、万全を期して連れてきたエインヘリアルは悉く撃退され、自身は傷を負って立てず、挙句に止めを刺されない。
それはつまり、再起しようとももう一度下してみせるという、ヘルゲ側の大胆不敵な宣言に他ならない。
「ロスヴァイセ、フリストの苦悩も察してやってください。貴女に自身の苦悩を鑑みる頭があるのなら、同輩の苦悩を察する心も持つべきだ」
その言葉で、ロスヴァイセが一気にしゅんとなってしまった。
ヘルゲは、うまい。
昔から臆病で自尊心がないから、他人の顔色を探るのが得手だった。心に必要な言葉を投げかけることで、他人と他人の緩衝材になることが出来る。
ロスヴァイセも、フリストの苦悩にまで巡らせる余裕はなかったが、言われて振り返ればフリストこそ最大の被害者ともいえるではないか。
ヴァルキリーの本分を全うするため、教導に優れたフリストが野のヘルゲを拾って仕込めば、以前に堕落神に植えられた種が芽吹いて変質し、愛に生きようとすれば同輩に狙われる。これほど哀れな人生も他にない。
ヘルゲもそのことは判っているから、元とはいえ、仲間の血をその人生に上塗りしたくはない。
「わ、私は・・・・・・」
「ロスヴァイセ。私は主神など最早正義とは思えない。
貴女やフリストにこんな運命を背負わせる神のために働こうとはとても思えない。私は私の大切なものを取りこぼさないよう、努めるだけで精いっぱい。
ロスヴァイセ、初めて貴女が私たちを襲ったあの時の、貴女の支離滅裂な言動が悲しみからくるのなら、これ以上神に加担するのはお止めなさい。
天地は視界に限りなく広がり、住まう生き物にくびきや縛りなどはない。それらを作るのは自分と自分に関わるものだけです。辛いなら捨ててしまえばいい。
自分が幸せになろうとするのを阻む者。それこそが悪です」
ヴァルキリーは主神の使い。女神に使える戦乙女。勇士を選定し、歓待し、指揮する乙女たちだ。彼女らを顧みるものは、おそらくこの世に誰も居ない。
天の側からは使い捨てられるように酷使され、人からは死の使いだと、敬われながら恐れられる。
だから彼女たちは自身の行いに対して見返りを求めない高潔な精神を持つに至った。
だからこそ、ヘルゲの、純粋にロスヴァイセ自身を案じる心に、素直に打たれた。
「・・・・・・」
それから、ロスヴァイセは傷の介抱が終わるまで一言も発しなかった。
ヘルゲも体力が限界に達しているので、たいしたことは出来なかったが、フリストには少し余裕がある。
「フリスト、エインヘリアルたちも死んではいない筈です。掘り返してください」
結局、終わってみれば一人の死者も出さない戦いであった。ヘルゲはフリストに八人の救助を命じて、自分はそのまま横になった。
籠手の傷が痛む。が、出血が大袈裟だっただけで、傷としてはそれほど大きいものではないようだった。
(ロスヴァイセは、わたくしより若い。ヘルゲの言葉に素直に感じ入るところがあったのでしょう)
フリストは、すっかり大人しくなってしまったロスヴァイセを置いてエインヘリアルの救助に向かった。
二人きりにする不安は、ないではない。
が、あれほど消沈してしまって、更に深手まで負っているロスヴァイセが、今更ヘルゲになにかしようとは思えなかった。
終えて戻ってくると、やはり、ロスヴァイセはヘルゲと二人きりになっても危害を加えていなかった。
「どうでした、フリスト?」
「ええ。死んではいません。全員天に戻しました。もうそろそろ動けますか、ロスヴァイセ?」
目をやると、ロスヴァイセは寝転んだまま星空を見ていた。
表情から窺えるものはなにもなく、空虚ともいえるほどに茫然と見ている。
「天に、帰ります」
一言だけそう言って、あとはなにも言わない。
ヘルゲとフリストは、このまま置いていくわけにもいかないので、その場で眠った。
互いに突進力というものを推進力に依存し、本人はその推進力の中で体勢を逸らすくらいしか回避行動を取れない。
攻撃力も、膂力を僅かに、突進力にそのほとんどを依存している。
互いにすれ違いざまに一撃を浴びせるのが精々で、どちらも決定打に欠ける。
が、度重なる攻撃を受けて、フリストの鎧は残骸になりかけている。
胸当てはとうに砕けて、汗ばんだアンダースーツが露わになっており、それもところどころが裂けて肌色を覗かせている。肩も同じく崩れ果て、透けるような白い肌が、打撲によって充血しているのが痛々しい。
盾は、上半分を削がれてしまっている。
対して、ロスヴァイセに大きな傷と言えば、一か所、羽を飾った兜が跡形もなくなっているだけである。
この両者の対比を見るだけで、戦況は判る。
だがフリストは落ち着いている。
(ファーヴニルの援護がないということは、ヘルゲを助けに行ってくれたようですね。
ならばあとは倒すのみ。憂いはなにもない。渾身を槍にすれば、なに、ヴァルキリー一人貫けないことはない)
小細工も、いろいろと講じてみた。
受けに回り、相手の突進をぎりぎりで避けるか盾でいなし、突きを入れる。しかしそれでは防御力を貫通出来なかった。
ならばと突進に合わせて突進すると、兜を砕いたが胸当てを砕かれた。
統合して考えると、フリストの渾身の突きを、ロスヴァイセがフリストを貫く前に入れなければならない。
おそらく、それでも相討ちになる公算が高い。
だがフリストはそれでもいい。ヘルゲが助かったのなら、自身を捨てるのに躊躇いはない。
この時、ヘルゲの到着がもう少し遅れていたら、フリストは自身を擲って突きを放ち、高い確率で死んでいただろう。道連れにロスヴァイセを連れて。
「フリスト!」
正にその突きを放とうと構えた瞬間、ヘルゲの声が響いた。
一体人間のどこからこんな声が出るのか。生まれつき肺腑の強靭な体だからか、それともフリストの教導の賜物か。枯れ山の赤土を踏みしめ、天空の二人を睨むヘルゲが、喉の割れんばかりに発した叫びである。
「勇士とは声が大きくなくてはいけない。大きな声で名乗らないと、武功勲功の主が誰なのか、人は知りようがないからです」
といって教導したものだが、それは余談。
フリストはヘルゲの姿を眼下に認めると、すぐさま方向を変えて突進するように向かった。
「ご無事で、ヘルゲ」
まず、フリストの胸に去来したのは、怪我を負いながらも生還してくれた喜びであった。
ヘルゲは、表情を変えない。無理もないことである。これから二人がかりとはいえ、人の身でヴァルキリーに挑むのである。
「フリスト、二人で戦いましょう」
そう言われて、フリストは驚いたが、すぐに、
「我が王のお言葉なれば、フリストは従います」
今こそあの言葉を、この日の朝の誓いを果たす時だと思った。
ロスヴァイセが、少し離れた地点に着地した。
「まさか、エインヘリアル八人を退けて、私の眼前に立つ人間が、居るなんて・・・・・・」
茫然としている。
自身が選び抜いた精鋭の八人である。その悉くが敗れようなどと夢にも思ったことはない。
(単に性技だけでフリストを篭絡したのではない)
ロスヴァイセは、得体の知れない生き物を見るように、ヘルゲを見た。
目に、脅威への警戒の色が乗っていた。
ヘルゲは、剣を構えた。
「・・・・・・」
目顔だけで、フリストと段取りを決めた。こういうことが出来るまでに、この二人は仲を成熟させている。
先手は、なんとヘルゲである。
勇敢にも、槍の間合いに自ら投身するように踏み込み、予期していなかったロスヴァイセはそれに反撃を加える機を失った。
これが、決め手になった。
(何故、私は避ける・・・・・・?)
反射的に身を逸らしながら、ロスヴァイセは思った。
八人の勇士を倒して立ったという、現実とは少し違った妄想による警戒が、ロスヴァイセを要らざる回避に走らせてしまった。
ロスヴァイセの加護による守備力、なによりヴァルキリーとしての戦闘力から見れば、ヘルゲの一撃など蚊の一刺しに等しい。にも拘わらず、ロスヴァイセが自ら育てた疑念と言う毒が、大袈裟な回避に繋げてしまった。
結局、その毒が致命傷。
三撃必要な二撃を、ヘルゲが埋めた。残りの一撃をフリストが決める。
ちゃんと地面を蹴って突進するフリスト。回避中のロスヴァイセは、それを目で捉えようとも最早どうすることも出来ない。
「ふっ―――――!」
突進の勢い、渾身の膂力、槍の重量制御、フリストの持てる力と技術が集約された、最速にして最強の突きが、そこにあった。
ロスヴァイセはそれを胸に受けた。
紺碧の胸当ては、砕けない。ただ、丸い穴が穿たれた。フリストの槍は、力の全てを集約していたために、余計なものを一切傷つけず貫いた。
ロスヴァイセの胸から、鮮血が溢れた。
が、それでも尚、浅い。命を奪う必滅の一撃には届かない。それほど主神の加護を受けたヴァルキリーの防御力は高く、加護を失ったフリストの攻撃力は落ちていた。
胸から血を噴きながら、ゆっくりと背を地に落とすロスヴァイセ。突進の勢いを殺し、すかさず馬乗りになって止めを刺そうとするフリストを、
「いけない―――――!」
ヘルゲが必死に押し留めた。
フリストは、ヘルゲが止めるなら従うのみだ。制止の声が響くや、寸でのところで槍を引いた。
決着は、意外にもあっけない。だがこれが命を懸けた勝負なのだと、ヘルゲは知っている。
(なにかの読み違い、ほんの少しなにかが食い違うだけで生死は分かたれる。それほど戦局とは危うく、命とは儚い。
俺はそれをあの戦争とファーヴニルとの戦いで知った。そんな儚い命を、たって奪うことはない)
圧倒的な強さを持たない、その日の空の機嫌で命を左右される人間だから、辿り着ける心境であったろう。永遠に強者たるヴァルキリーやドラゴンには、一生辿り着けないに違いない。
だから、この結末に最も不快で不審なのは、ロスヴァイセである。
「な、何故殺さない・・・・・・」
声には、怒気が籠もっていた。
勝敗の行く末を歪められるのは心外で、敗者の自分には侮辱だと、ロスヴァイセはその一言に込めた。
ヘルゲも察している。が、静かに首を振って、
「まだ愛情のなんたるかもしれない貴女を、むやみに手に掛けたくはない。
私は、両親の愛し合う様をとうとう見られないまま育った友人を知っている。その友人が、憎からず思った人から遠ざかろうとする悲しい姿を見た。
愛情とは甘いが酸くもある。そのかみ分けさえ出来ない未通娘(おぼこ)を、強いて殺したいとは思わない」
その言葉を受けて、ロスヴァイセは激高した。
槍を失ったロスヴァイセは、倒れた姿勢のまま腰に手を伸ばして剣を抜き、喉に突き立てようとした。
が、それをフリストはロスヴァイセの手を蹴って止めた。
「古き同輩、わたくしの後輩よ、ヘルゲの言う通り、貴女の心はまだ熟れていない。貴女を教導したあの日、わたくしは貴女の行く末を楽しみに思ったものです。
行く末がこんな中途半端な様では、教導したわたくしも不憫というものです。
生きなさい、ロスヴァイセ。わたくしが許せなければ、もう一度立てば良いだけ。安直な死など逃避以外の何物でもないと知りなさい」
「それを、私を殺すと言った貴女が言うのですか」
ロスヴァイセは歯噛みしている。
これ以上の屈辱はないであろう。どんな奇術を使ったか、万全を期して連れてきたエインヘリアルは悉く撃退され、自身は傷を負って立てず、挙句に止めを刺されない。
それはつまり、再起しようとももう一度下してみせるという、ヘルゲ側の大胆不敵な宣言に他ならない。
「ロスヴァイセ、フリストの苦悩も察してやってください。貴女に自身の苦悩を鑑みる頭があるのなら、同輩の苦悩を察する心も持つべきだ」
その言葉で、ロスヴァイセが一気にしゅんとなってしまった。
ヘルゲは、うまい。
昔から臆病で自尊心がないから、他人の顔色を探るのが得手だった。心に必要な言葉を投げかけることで、他人と他人の緩衝材になることが出来る。
ロスヴァイセも、フリストの苦悩にまで巡らせる余裕はなかったが、言われて振り返ればフリストこそ最大の被害者ともいえるではないか。
ヴァルキリーの本分を全うするため、教導に優れたフリストが野のヘルゲを拾って仕込めば、以前に堕落神に植えられた種が芽吹いて変質し、愛に生きようとすれば同輩に狙われる。これほど哀れな人生も他にない。
ヘルゲもそのことは判っているから、元とはいえ、仲間の血をその人生に上塗りしたくはない。
「わ、私は・・・・・・」
「ロスヴァイセ。私は主神など最早正義とは思えない。
貴女やフリストにこんな運命を背負わせる神のために働こうとはとても思えない。私は私の大切なものを取りこぼさないよう、努めるだけで精いっぱい。
ロスヴァイセ、初めて貴女が私たちを襲ったあの時の、貴女の支離滅裂な言動が悲しみからくるのなら、これ以上神に加担するのはお止めなさい。
天地は視界に限りなく広がり、住まう生き物にくびきや縛りなどはない。それらを作るのは自分と自分に関わるものだけです。辛いなら捨ててしまえばいい。
自分が幸せになろうとするのを阻む者。それこそが悪です」
ヴァルキリーは主神の使い。女神に使える戦乙女。勇士を選定し、歓待し、指揮する乙女たちだ。彼女らを顧みるものは、おそらくこの世に誰も居ない。
天の側からは使い捨てられるように酷使され、人からは死の使いだと、敬われながら恐れられる。
だから彼女たちは自身の行いに対して見返りを求めない高潔な精神を持つに至った。
だからこそ、ヘルゲの、純粋にロスヴァイセ自身を案じる心に、素直に打たれた。
「・・・・・・」
それから、ロスヴァイセは傷の介抱が終わるまで一言も発しなかった。
ヘルゲも体力が限界に達しているので、たいしたことは出来なかったが、フリストには少し余裕がある。
「フリスト、エインヘリアルたちも死んではいない筈です。掘り返してください」
結局、終わってみれば一人の死者も出さない戦いであった。ヘルゲはフリストに八人の救助を命じて、自分はそのまま横になった。
籠手の傷が痛む。が、出血が大袈裟だっただけで、傷としてはそれほど大きいものではないようだった。
(ロスヴァイセは、わたくしより若い。ヘルゲの言葉に素直に感じ入るところがあったのでしょう)
フリストは、すっかり大人しくなってしまったロスヴァイセを置いてエインヘリアルの救助に向かった。
二人きりにする不安は、ないではない。
が、あれほど消沈してしまって、更に深手まで負っているロスヴァイセが、今更ヘルゲになにかしようとは思えなかった。
終えて戻ってくると、やはり、ロスヴァイセはヘルゲと二人きりになっても危害を加えていなかった。
「どうでした、フリスト?」
「ええ。死んではいません。全員天に戻しました。もうそろそろ動けますか、ロスヴァイセ?」
目をやると、ロスヴァイセは寝転んだまま星空を見ていた。
表情から窺えるものはなにもなく、空虚ともいえるほどに茫然と見ている。
「天に、帰ります」
一言だけそう言って、あとはなにも言わない。
ヘルゲとフリストは、このまま置いていくわけにもいかないので、その場で眠った。
16/09/19 13:08更新 / 一
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