彼女たちの語らい
その日と次の日、フリストとヘルゲはファーヴニルの洞窟の一角を借りて過ごした。
ファーヴニルは、
「交わるなよ。寝床を欲望に湿らせては私が今後寝れなくなる」
と言ったが、二人ともそこまで見境がないわけではない。
が、一昼夜交わらないと互いに落ち着かないようで、二人で示し合わせて山を下り、かつてヘルゲがフリストを犯した森の泉まで行って交わった。
もう情事は、二人にとって重要なコミュニケーションの一部になっている。そのありようは、正に新婚夫婦のそれであった。
そして、夜。
「おそらくロスヴァイセがエインヘリアルを連れて、明日の夕方か明後日の朝、ここに来ます」
フリストが言った。
ヴァルキリーは、人類は元より魔物と比較しても強力である。互いに気配らしきものを感知出来るらしい。加えて、行軍速度からの予想である。まず、間違いない。
「兵は到着するのですか?」
ヘルゲが問う。フリストが確約した援兵約十人の到着がまだである。
「輜重隊という最も荷厄介な部隊を多く連れていませんから、到着は早い筈です。明日には着くでしょう。健脚を選びなさいとも言ってあることです」
良い兵とは、戦場で活躍する兵でなく戦場まで最短で歩き切る兵のことを言う。
これは戦史に於いて人類史上五指に入るアレキサンドロス三世の言葉であるが、フリストはそのことをよく判っている。
兵に求めたのは技量より健脚と体力である。
その夜から、戦術が決まった。
と言って、大層なことはない。
「ここから北に向かえば山がある。山は幾つか重なっていて、隘路になった場所がいくつかある。そこをエインヘリアルとの予定戦場にするがいい」
ヘルゲが、エインヘリアル八人と狭い場所で戦い、出来るだけ一対一、出来なくては逃げながら戦うといった格好になり、その間、フリストはロスヴァイセと戦い、頃を見てファーヴニルがフリストを援護する。
ロスヴァイセを仕留めたフリストが、ヘルゲと共に八人のエインヘリアルを相手取る。そういう次第になった。
「厳しいな」
そう言ったのはファーヴニルである。
この邪竜は、助力を咆哮一発分だと限定させておきながら、周辺の情報提供や戦術の提案など、実に精力的であった。だから、勝ち目の薄い戦術に対し、苦言も呈す。
「ヴァルキリー一人倒すまで、ヘルゲが持ち堪えられるわけがない。十に九は、ヘルゲが死ぬ」
聞いて、フリストが表情を歪めた。
フリスト自身が、そのことをよく判っている。しかし、これしかもう方法がない。
戦力を比較した場合、明らかに劣っているのはヘルゲである。どうにかして補綴しなければ勝利に結びつかないが、それがもうこれしかない。
「隘路に誘い込めば、崖から十人が矢を射かけます。それで何人かやれる筈。それでなくとも足が止まりますから、ヘルゲが逃げる分は稼げます」
「・・・・・・そうだな。そこが鍵か」
そんな筈はない、とファーヴニルは思ったが言葉にしない。士気を殺ぐからだ。
相手は矢雨と槍林の中を駆け抜けて武功を立てた勇士が八人である。十人程度の矢など物の数にはなるまい。確かに数名は矢に倒れるだろう。が、八人中六人を倒しても、ヘルゲが一人なら充分な戦力である。
厳しい。苦しい現状である。
「そもそも、果たして隘路にまでついてくるでしょうか?」
「その辺りは心配ありません。彼らは勇士であっても指揮官ではない。冷静な戦術眼や考察が出来る頭脳を持っていません。それはヴァルキリーの役目。分断してしまえば、彼らに判断能力はおそらくない。
それに、来なければ来ないで、隘路から貴方が逃げられる。時間を稼げば後はわたくしがやります」
元々、勝機とは修羅場の中で風船のように漂っている。紐を掴めば手繰り寄せられる。戦略を度外視した場合、そういうやり方でしか勝利とは掴めない。
戦術を煮詰めた時、外はもう空が白んでいた。
「お休みを、ヘルゲ。必要な準備はわたくしとファーヴニルでやっておきます」
異論のあるヘルゲを目顔で制して横にさせ、無理矢理に眠らせて、二人は外に出る。
幾つかある隘路のどれを予定戦場に定めるのか実地検分と、仕込みが必要だ。二人は共に空を舞い、上空と地上からゆっくりと見定めて、一つの隘路を決めた。
「ファーヴニル、話があります」
隘路に罠を仕掛けながら、フリストが言った。
「もしヘルゲの方が形勢不利となれば、つまりわたくしがロスヴァイセに手こずるようなら、助力の咆哮はヘルゲの敵にお願いします」
悲痛な表情である。が、ファーヴニルは即座に言った。
「断る。私の助力はヘルゲとの約だ。従僕の意見を差し挟む必要はない」
そう言われても、フリストは顔色も変えない。
「頼みましたよ、ファーヴニル」
これは交渉ではない、とその背中が言っていた。
フリストにすれば、勝ったところでヘルゲが死んでは意味がない。どうせフリストも後を追うのだから、二人死ぬことはなにも変わらないのだ。
逆に、ヘルゲさえ生き残ればフリストは構わない。自身の死など、ヘルゲの命を論ずる場に対等ではない。
「・・・・・・変わったな、フリスト」
抑揚のない声で、ファーヴニルが言った。フリストは手を止めず、
「いいえ、わたくしはなにも変わっていません。ただ優先するものが違うだけです。ヴァルキリーは神の尖兵。走狗に過ぎません。
それがヘルゲの走狗になった。これはそれだけの話なのです」
「ならば何故、堕落神の加護を得ない」
ファーヴニルは言った。
身の現状が変わり、その者に価値があるとなれば別な庇護者がつく。それは人も神も変わらぬらしい。
魔に堕ちたヴァルキリーはダークヴァルキリーとなり、神の座から自ら降りた堕落神の庇護を得る。万魔殿に無数の淫魔を飼い、魔に堕ちた者と魔に生きる者を庇護する役目と意思を持つ、堕落神に。
なるほど、ダークヴァルキリーという明確な姿に堕ちたわけではないが、フリストは最早真正のヴァルキリーではあるまい。会えば必ず庇護してくれる。加護も授けてくれるに違いない。
が、フリストは首を振った。
「ファーヴニル、信仰とは代価を求めないものなのです。信ずるから加護をくれるのではなく、奉仕するから加護を授けてくれるのです。その心に一片の私心も持ってはならない。
我々は損得勘定で奉じるのではない。そのものが尊いから奉じ、守る役目として加護を備わるのです。堕落したから鞍替えなどという欲心で、何故加護など得られましょう」
「それは天に祀られる堅物の方だろう。私も会ったことはないが、堕落神は純真で無邪気だ。くれと言えばほいほいくれる。或いはそれが、愛情というものかもしれん」
「ええ、きっとそうでしょう。彼女ならきっとそうするでしょう」
ファーヴニルは首を捻った。
このフリストの言いよう、堕落神そのものを等身大の一柱として知っているようだ。そのことを聞くと、フリストは無表情に、
「勿論知っています。なにせわたくしを魔に堕としたのは堕落神なのですから」
聞けば、フリストは地上に降りる以前、万魔殿(パンデモニウム)に赴き、堕落神と交渉したという。
神からの使者であった。内容は、
「全て不問に付す。生命と豊穣を愛する貴女の痛みを理解しなかったこちらにも非があることだ。しかし真なる賢者である貴女は知っている筈だ。
生命は輪になって繰り返すことに意義がある。枯れる作物は実る作物の礎になる。皆等価なのだ。だから、人と魔物が間引かれるのは真理である。
しかし、真理を盾に貴女の心情を傷つけたのはこちらである。非を認め、貴女の堕天後の全てをなかったことにする。どうか戻っていただきたい」
というもので、鄭重であった。フリストも使者として、礼を尽くして拝謁した。
(注釈・この世界観、魔物と人との殺し合いについては健康クロス様の世界観にあるため、説明を省略させてもらいます。詳細は魔物娘図鑑Tの211頁から212頁を参照されますよう)
が、この口上を全て聞き終えた後、堕落神は穏やかに微笑んで、
「お断りいたします」
と言った。
その後、使者への礼として、フリストに対してもてなしをしたが、食べ物や飲み物は全て魔界原産のものであるため、フリストは一かけら、一滴たりとも口にしなかった。
その時、堕落神は随分悲しんだ様子で、
「貴女の嫌悪、判ります。天に座す以上は当然の反応でしょう。お気に召さねば召し上がらずとも構いません。
古き同輩よ、ただこれだけは忘れないで。生とは自由でなければならない。何者もそこに束縛やくびきを持ち出してはならない。私はそのことだけを考え、こうして魔に立っています。いずれ貴女と敵対しようとも、この志は変わらない。
ああ、ヴァルキリー、せめて私の友愛を示させて。天に背を向けようと、天に牙を剥いたわけではないという、私の真心を信じて頂けるなら」
そう言って、堕落神はフリストの頬に口づけた。
今にして思えば、このことが魔物への汚染の切っ掛けだったのだろう。ヴァルキリーの魔への抵抗力を削いだのはヘルゲでも、種を植え付けたのは堕落神に違いない。
それが意図していたかどうかは、最早どうでもいい。フリストは堕落神に対して、なんの感情も抱いていない。
ならば、とファーヴニルは言った。
「加護を得れば良い。それでロスヴァイセとも対等だ」
「時間がないのです」
そうフリストは言った。
確かに、今から万魔殿まで駆けては間に合わないだろう。が、フリストには別な理由もあるらしい。
「わたくしがヘルゲを主と仰ぐのは、これまでヘルゲにしてきたことへの償いもありますが、ヘルゲの心遣いにわたくしの心が頭を垂れたからです。
一度下げたこの頭、ヘルゲ以外の誰にも下げるつもりはありません」
「いや、それでは食言というものだ。貴様はヘルゲのためならなんでもすると言った。そこに何故、堕落神への信仰が含まれない」
難しい話である。フリストにも、自分がこれほど堕落神を奉じることへ抵抗があるのか判らない。
(そう、なんでもする。腹を裂けと仰せなら謹んで斬ろう。なのに、何故わたくしは・・・・・・)
ヘルゲに必要とされない人生など、最早考えられない。そこまで思っているのに、どうにも気が進まない。
おそらくそれは、フリストの内面が変化していないからであろう。
信仰の徒は、神の一柱を全てと仰ぐ。無論、それに連なる神たちも崇めることになろうが、そこには位階がある。上位を奉ずるから下位も奉ずる。そういう仕組みだ。
が、堕落神と関連性のないヘルゲを同時に奉ずるのは不可能である。例を求めるなら、熱心な基督教徒に改宗せず仏教を奉じろと言うのと同じである。
そのことを、フリストは嫌っている。ヘルゲがこの世で最も尊いという思想を変じなければならないのだから、抵抗があるのは当然であった。
フリストは、優先する序列を変えはしたものの、その人間性は些かも変化していない。堅物で矯激で、信仰に真摯である。
そういう無意識下での葛藤がある。ファーヴニルは諦めるように嘆息して、
「良い、忘れろ。ここまできては妄言だった」
と言った。
フリストも、そのことはもう考えないようにした。それよりも、隘路で罠を作る方が先決である。
これの出来で、ヘルゲの生死が決まるのだ。
夜が明けるまで、二人はその作業に没頭した。
ファーヴニルは、
「交わるなよ。寝床を欲望に湿らせては私が今後寝れなくなる」
と言ったが、二人ともそこまで見境がないわけではない。
が、一昼夜交わらないと互いに落ち着かないようで、二人で示し合わせて山を下り、かつてヘルゲがフリストを犯した森の泉まで行って交わった。
もう情事は、二人にとって重要なコミュニケーションの一部になっている。そのありようは、正に新婚夫婦のそれであった。
そして、夜。
「おそらくロスヴァイセがエインヘリアルを連れて、明日の夕方か明後日の朝、ここに来ます」
フリストが言った。
ヴァルキリーは、人類は元より魔物と比較しても強力である。互いに気配らしきものを感知出来るらしい。加えて、行軍速度からの予想である。まず、間違いない。
「兵は到着するのですか?」
ヘルゲが問う。フリストが確約した援兵約十人の到着がまだである。
「輜重隊という最も荷厄介な部隊を多く連れていませんから、到着は早い筈です。明日には着くでしょう。健脚を選びなさいとも言ってあることです」
良い兵とは、戦場で活躍する兵でなく戦場まで最短で歩き切る兵のことを言う。
これは戦史に於いて人類史上五指に入るアレキサンドロス三世の言葉であるが、フリストはそのことをよく判っている。
兵に求めたのは技量より健脚と体力である。
その夜から、戦術が決まった。
と言って、大層なことはない。
「ここから北に向かえば山がある。山は幾つか重なっていて、隘路になった場所がいくつかある。そこをエインヘリアルとの予定戦場にするがいい」
ヘルゲが、エインヘリアル八人と狭い場所で戦い、出来るだけ一対一、出来なくては逃げながら戦うといった格好になり、その間、フリストはロスヴァイセと戦い、頃を見てファーヴニルがフリストを援護する。
ロスヴァイセを仕留めたフリストが、ヘルゲと共に八人のエインヘリアルを相手取る。そういう次第になった。
「厳しいな」
そう言ったのはファーヴニルである。
この邪竜は、助力を咆哮一発分だと限定させておきながら、周辺の情報提供や戦術の提案など、実に精力的であった。だから、勝ち目の薄い戦術に対し、苦言も呈す。
「ヴァルキリー一人倒すまで、ヘルゲが持ち堪えられるわけがない。十に九は、ヘルゲが死ぬ」
聞いて、フリストが表情を歪めた。
フリスト自身が、そのことをよく判っている。しかし、これしかもう方法がない。
戦力を比較した場合、明らかに劣っているのはヘルゲである。どうにかして補綴しなければ勝利に結びつかないが、それがもうこれしかない。
「隘路に誘い込めば、崖から十人が矢を射かけます。それで何人かやれる筈。それでなくとも足が止まりますから、ヘルゲが逃げる分は稼げます」
「・・・・・・そうだな。そこが鍵か」
そんな筈はない、とファーヴニルは思ったが言葉にしない。士気を殺ぐからだ。
相手は矢雨と槍林の中を駆け抜けて武功を立てた勇士が八人である。十人程度の矢など物の数にはなるまい。確かに数名は矢に倒れるだろう。が、八人中六人を倒しても、ヘルゲが一人なら充分な戦力である。
厳しい。苦しい現状である。
「そもそも、果たして隘路にまでついてくるでしょうか?」
「その辺りは心配ありません。彼らは勇士であっても指揮官ではない。冷静な戦術眼や考察が出来る頭脳を持っていません。それはヴァルキリーの役目。分断してしまえば、彼らに判断能力はおそらくない。
それに、来なければ来ないで、隘路から貴方が逃げられる。時間を稼げば後はわたくしがやります」
元々、勝機とは修羅場の中で風船のように漂っている。紐を掴めば手繰り寄せられる。戦略を度外視した場合、そういうやり方でしか勝利とは掴めない。
戦術を煮詰めた時、外はもう空が白んでいた。
「お休みを、ヘルゲ。必要な準備はわたくしとファーヴニルでやっておきます」
異論のあるヘルゲを目顔で制して横にさせ、無理矢理に眠らせて、二人は外に出る。
幾つかある隘路のどれを予定戦場に定めるのか実地検分と、仕込みが必要だ。二人は共に空を舞い、上空と地上からゆっくりと見定めて、一つの隘路を決めた。
「ファーヴニル、話があります」
隘路に罠を仕掛けながら、フリストが言った。
「もしヘルゲの方が形勢不利となれば、つまりわたくしがロスヴァイセに手こずるようなら、助力の咆哮はヘルゲの敵にお願いします」
悲痛な表情である。が、ファーヴニルは即座に言った。
「断る。私の助力はヘルゲとの約だ。従僕の意見を差し挟む必要はない」
そう言われても、フリストは顔色も変えない。
「頼みましたよ、ファーヴニル」
これは交渉ではない、とその背中が言っていた。
フリストにすれば、勝ったところでヘルゲが死んでは意味がない。どうせフリストも後を追うのだから、二人死ぬことはなにも変わらないのだ。
逆に、ヘルゲさえ生き残ればフリストは構わない。自身の死など、ヘルゲの命を論ずる場に対等ではない。
「・・・・・・変わったな、フリスト」
抑揚のない声で、ファーヴニルが言った。フリストは手を止めず、
「いいえ、わたくしはなにも変わっていません。ただ優先するものが違うだけです。ヴァルキリーは神の尖兵。走狗に過ぎません。
それがヘルゲの走狗になった。これはそれだけの話なのです」
「ならば何故、堕落神の加護を得ない」
ファーヴニルは言った。
身の現状が変わり、その者に価値があるとなれば別な庇護者がつく。それは人も神も変わらぬらしい。
魔に堕ちたヴァルキリーはダークヴァルキリーとなり、神の座から自ら降りた堕落神の庇護を得る。万魔殿に無数の淫魔を飼い、魔に堕ちた者と魔に生きる者を庇護する役目と意思を持つ、堕落神に。
なるほど、ダークヴァルキリーという明確な姿に堕ちたわけではないが、フリストは最早真正のヴァルキリーではあるまい。会えば必ず庇護してくれる。加護も授けてくれるに違いない。
が、フリストは首を振った。
「ファーヴニル、信仰とは代価を求めないものなのです。信ずるから加護をくれるのではなく、奉仕するから加護を授けてくれるのです。その心に一片の私心も持ってはならない。
我々は損得勘定で奉じるのではない。そのものが尊いから奉じ、守る役目として加護を備わるのです。堕落したから鞍替えなどという欲心で、何故加護など得られましょう」
「それは天に祀られる堅物の方だろう。私も会ったことはないが、堕落神は純真で無邪気だ。くれと言えばほいほいくれる。或いはそれが、愛情というものかもしれん」
「ええ、きっとそうでしょう。彼女ならきっとそうするでしょう」
ファーヴニルは首を捻った。
このフリストの言いよう、堕落神そのものを等身大の一柱として知っているようだ。そのことを聞くと、フリストは無表情に、
「勿論知っています。なにせわたくしを魔に堕としたのは堕落神なのですから」
聞けば、フリストは地上に降りる以前、万魔殿(パンデモニウム)に赴き、堕落神と交渉したという。
神からの使者であった。内容は、
「全て不問に付す。生命と豊穣を愛する貴女の痛みを理解しなかったこちらにも非があることだ。しかし真なる賢者である貴女は知っている筈だ。
生命は輪になって繰り返すことに意義がある。枯れる作物は実る作物の礎になる。皆等価なのだ。だから、人と魔物が間引かれるのは真理である。
しかし、真理を盾に貴女の心情を傷つけたのはこちらである。非を認め、貴女の堕天後の全てをなかったことにする。どうか戻っていただきたい」
というもので、鄭重であった。フリストも使者として、礼を尽くして拝謁した。
(注釈・この世界観、魔物と人との殺し合いについては健康クロス様の世界観にあるため、説明を省略させてもらいます。詳細は魔物娘図鑑Tの211頁から212頁を参照されますよう)
が、この口上を全て聞き終えた後、堕落神は穏やかに微笑んで、
「お断りいたします」
と言った。
その後、使者への礼として、フリストに対してもてなしをしたが、食べ物や飲み物は全て魔界原産のものであるため、フリストは一かけら、一滴たりとも口にしなかった。
その時、堕落神は随分悲しんだ様子で、
「貴女の嫌悪、判ります。天に座す以上は当然の反応でしょう。お気に召さねば召し上がらずとも構いません。
古き同輩よ、ただこれだけは忘れないで。生とは自由でなければならない。何者もそこに束縛やくびきを持ち出してはならない。私はそのことだけを考え、こうして魔に立っています。いずれ貴女と敵対しようとも、この志は変わらない。
ああ、ヴァルキリー、せめて私の友愛を示させて。天に背を向けようと、天に牙を剥いたわけではないという、私の真心を信じて頂けるなら」
そう言って、堕落神はフリストの頬に口づけた。
今にして思えば、このことが魔物への汚染の切っ掛けだったのだろう。ヴァルキリーの魔への抵抗力を削いだのはヘルゲでも、種を植え付けたのは堕落神に違いない。
それが意図していたかどうかは、最早どうでもいい。フリストは堕落神に対して、なんの感情も抱いていない。
ならば、とファーヴニルは言った。
「加護を得れば良い。それでロスヴァイセとも対等だ」
「時間がないのです」
そうフリストは言った。
確かに、今から万魔殿まで駆けては間に合わないだろう。が、フリストには別な理由もあるらしい。
「わたくしがヘルゲを主と仰ぐのは、これまでヘルゲにしてきたことへの償いもありますが、ヘルゲの心遣いにわたくしの心が頭を垂れたからです。
一度下げたこの頭、ヘルゲ以外の誰にも下げるつもりはありません」
「いや、それでは食言というものだ。貴様はヘルゲのためならなんでもすると言った。そこに何故、堕落神への信仰が含まれない」
難しい話である。フリストにも、自分がこれほど堕落神を奉じることへ抵抗があるのか判らない。
(そう、なんでもする。腹を裂けと仰せなら謹んで斬ろう。なのに、何故わたくしは・・・・・・)
ヘルゲに必要とされない人生など、最早考えられない。そこまで思っているのに、どうにも気が進まない。
おそらくそれは、フリストの内面が変化していないからであろう。
信仰の徒は、神の一柱を全てと仰ぐ。無論、それに連なる神たちも崇めることになろうが、そこには位階がある。上位を奉ずるから下位も奉ずる。そういう仕組みだ。
が、堕落神と関連性のないヘルゲを同時に奉ずるのは不可能である。例を求めるなら、熱心な基督教徒に改宗せず仏教を奉じろと言うのと同じである。
そのことを、フリストは嫌っている。ヘルゲがこの世で最も尊いという思想を変じなければならないのだから、抵抗があるのは当然であった。
フリストは、優先する序列を変えはしたものの、その人間性は些かも変化していない。堅物で矯激で、信仰に真摯である。
そういう無意識下での葛藤がある。ファーヴニルは諦めるように嘆息して、
「良い、忘れろ。ここまできては妄言だった」
と言った。
フリストも、そのことはもう考えないようにした。それよりも、隘路で罠を作る方が先決である。
これの出来で、ヘルゲの生死が決まるのだ。
夜が明けるまで、二人はその作業に没頭した。
16/09/08 14:56更新 / 一
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