前編
ふと、あたし――ジョディ・ウァトソンの日記を見ると、いくつもの不思議な縁結びが記録されています。それら縁結びを通じて友人、シャーリー・フォームズの驚嘆の手際を見てきました。
その中には、多くの喜劇と少しの悲劇がありますが、大半は変わった縁結びばかりで、普通の縁結びというもは一つとしてありませんでした。というのも、どちらかというと、シャーリーは好きだから仕事するのであって、キューピッドとして愛の女神様への信仰のため仕事をするのではないのです。何の変哲も無い縁結びは関わりたくないと、布団を被ってベッドにあたしを引っ張り込んで篭ってしまうのです。
数々の縁結びの中で、一番変わったものというと、やはり、これだと思います。
ハリー州スモーク・トランに住む、かの有名なロリロット家の話です。
この縁結びはシャーリーとあたしが同棲し始めた頃の縁結びで、この頃のあたしたちはパン通りのバルチック夫人宅に下宿していました。
もっと早くに公表してもよかったのだけど、当時、当人たちの事情が色々とあって、口外しないようにお願いされたので秘密にしていました。だけど、グリフィン・ロリロット博士の失踪が随分と変な風に尾ひれがついて、ちょっとした騒ぎになっているのを知ってしまいました。
だから、当人たちに許可を得て、真実を公表することにしました。そうすることがこの騒ぎを収める方法だと、あたしは思ったのでした。
あれは四月の初めのことでした。もう春というのに、その日は前の夜から寒くて、あたしの周りにあるミルクも凍るんじゃないかというぐらい冷えた朝でした。
あたしは人の気配がして目を覚ますと、シャーリー・フォームズが着替えを済ませてベッドの縁であたしのほっぺをつついていました。
普段はあたしがシャーリーのほっぺをつついて、昼過ぎまで寝ている彼女を起こすのに、寝過ごしたとはとんだ失態だとあたしは思いました。でも、寝ぼけ眼で暖炉の上の時計を見ると午前七時を少し回ったばかりでした。
あたしはなんでとばかりに、少しふくれてしまった。シャーリーのほっぺをつんつんできない朝は決まってこうなのです。
「寝ているところ悪いけど起きてよ、ウァトソンちゃん」
シャーリーは、あたしがふくれているのを困った顔で見ていました。
「今朝は予定をまるまま変更になりそうよ。バルチック夫人が扉の音で叩き起こされたおかげでね」
「火事じゃないわよね?」
あたしはアプサラスなので、自分の周りにミルクがあります。でも、これは消火にも使えなくもないけど、焼け石にミルク程度の手助けしかできないと顔に出てしまっていました。
「違うわよ。火事なら有無も言わせず、あなたを抱えて窓の外に飛び出してるわ。依頼人らしいわ。年若い男性が興奮してやってきたみたい。私に会いたいって」
「夜這い……じゃない、朝駆け?」
「まさか! でも、少年が一人でこんな朝早く、都会を駆けてきて、眠っている他人を叩き起こしたのよ。よほどのことがあるんじゃないかと思わない?」
シャーリーがあたしに悪戯っぽく微笑んで見せました。
シャーリーは、愛の女神様に仕える中級天使のキューピッドです。
少し褐色の肌はまだしも、ボブカットにしている淡いピンクプラチナの髪の毛などは人にはありえない色合いでした。澄ました目には、髪の毛の色を少し濃くした薄紅梅色の瞳が好奇心できらめいています。
クールな印象を受ける顔立ちなのに、その瞳のおかげで、少し少年のようにも見えると、あたしは思っています。けど、本人は冷静沈着な大人の女性のイメージだから、それを言ったらむくれてしまうのです。だから、かわいらしいむくれた顔が見たくて、ついつい言っちゃうんですけどね。
スタイルはさすがに愛の女神の天使様。丸く大きなオッパイといい、腰のくびれといい、つんと上を向いたお尻といい、まさにパーフェクト・ボディ。女のあたしでも惚れ惚れしちゃうぐらいなのです。
「一緒に話を聞きたいんじゃないかって思ったけど、それよりもお布団の方が好きかしら?」
シャーリーがあたしの回答など推理済みとばかりに訊いてきました。あたしは少し癪だけど、少年の事情を聞く誘惑には勝てませんでした。
「もちろん。話を聞くに決まってるじゃない。起こしてくれてありがとう、シャーリー。愛してる」
あたしは投げキッスをして起き上がると、すぐに身支度を整えました。
依頼人の少年を待たせてある居間に入りました。彼は火のついた暖炉のそばでなく、窓際の席に座っていました。あたしたちが入ってくるのを見つけると立ち上がり、こちらに頭を下げました。
少年は十代の後半でしょうか、身体も小柄な方で、まだ顔にはあどけなさが残っていました。
でも、そのそばかすの残る顔は青ざめていて、それは今朝の寒さだけが原因でないと直感できるものでした。
ちょっとくすんだ金髪がカールしていて、顔立ちはかわいらしく、青ざめているから余計に保護欲を刺激するようなオーラがにじみ出ています。
身なりは悪くないのですが、どことなくうらぶれたものがあり、着ている紺の背広も悪いものではないのですが、少し年季の入った感じがするものでした。
「おはようございます」
シャーリーは、早朝という時間を感じさせない爽やかさで、少年に挨拶しました。
「私が、シャーリー・フォームズ。こっちは、私の助手をしてくれている、ジョディ・ウァトソン。彼女は、あなたがお話になったことを口外する人物ではないことを、私が保証します」
自己紹介のついでにあたしの紹介もしてくれたので、あたしは彼に「ウァトソンです、よろしく」と軽く挨拶をしました。
「どうぞ、そんな寒いところでなくて、こちらへいらして。今朝は冷えるから熱いコーヒーでもいかがですか? 凍えて震えているじゃないの」
「寒さで震えているなら、どんなにいいか」
彼は自分の身体を抱きしめるようにして呟いていました。そして、言われるままに暖炉のそばへと移動してきました。
あたしはコーヒーを淹れる用意をしました。話を聞くのはシャーリーに任せました。何しろ、彼はシャーリーの依頼人ですから。
「どうか、僕を助けてください」
少年は手を組んでシャーリーに祈るようにしました。
その手の組み方から彼が愛の女神の信者ではなく、敬虔な主神教の信者ということはわかりました。もちろん、シャーリーもそれに気付いていました。
主神教といっても、このあたりの教団は積極的に魔物を討伐しない派閥が主流です。あたしたちの今いるブルダニアは海洋国家なので、親魔物派閥の勢力が強いのです。そんなところで魔物討伐なんて言い出せば、国を二分しての内乱になっちゃいます。
とはいえ、完全に親魔物勢力というわけでもありません。おかげで、少しばかりややこしい国内情勢なのですが、表面上はお互いに干渉しないようにして、平和に問題を先送りにしている現状なのです。
「安心して。きっと、力になってあげるから」
シャーリーは優しく少年を力づけました。その声とまなざしは、さすがは愛の天使と今更ながらにあたしは感心します。彼の顔色も少しは良くなったように見えました。
「フォームズさんに相談するといいと、僕の数少ない友人がアドバイスしてくれました。友人が言うには、フォームズさんはどんなに絡み合った糸もいとも簡単に解いて、然るべきところに結んでくれると。
旅の執事ハンスの紹介と言えば、彼女ならすぐに思い出してくれるはずだといっていました」
少年はシャーリーにすがるような視線を向けていました。ああ、こういう力ないものが何かにすがる視線というのは、周囲のミルクをホットミルクにします。
「ああ、彼の紹介なのね。ウァトソンちゃん。あなたと知り合う前の話よ。大丈夫。私に任せて。きっと、あなたの不安を取り除いてあげましょう」
シャーリーは、彼が誰から自分のことを聞いたのかがわかり、得心していました。
「それで、あの、報酬の方なのですが……今は僕の自由にできるお金はほとんどないんです。ごめんなさい」
少年は椅子から立ち上がり、申し訳なさそうな表情で頭を深々と下げました。
「でも、もう少しすれば、僕にも自由になるお金ができるので、そうなれば、きっと報酬はお支払いいたします」
必死に少年は訴えました。シャーリーは、そんな彼を優しく抱きしめた。
「報酬などを求めて仕事をしているわけではないのですよ。だから、報酬はあなたの思うだけで結構ですし、いつでも構わないのですよ」
甘い香りに包まれて、彼の身体から力が抜けていくのがわかりました。
暖炉の暖かさよりも人肌の方がずっと温度は低いはずなのに、抱きしめられると暖炉よりもずっと暖かいのです。不思議ですよね。
「だけど、あなたの知っていることを全てお話してくださいね。それが他愛ないことと思っても、それが結び目を解くヒントとなることもあるのです」
シャーリーは少年から身体を離しました。彼は少し残念そうでしたが、気持ちと身体が暖まったおかげか、落ち着いて椅子に腰掛けました。
あたしはシャーリーと少年に熱いコーヒーを出しました。もちろん、あたしのミルクもちゃんとたっぷり入れておきました。でも、あまり興奮するといけないので、成分の薄い部分を、ですけど。
「僕はヘンリー・ストーナーといいます。今は義理の父、ロリロット博士と一緒に住んでいます。ロリロット家はハリー州の西にあるスモーク・トランにあります」
「ええ、その名前は記憶にあります」
「ロリロット家は、昔は随分と裕福だったらしいです。でも、四代にわたって散財をして、挙句に最後は賭博で一旗あげようとしたおかげで、広かった領地は数エーカーの土地が残るだけになってしまいました。築二百年のお屋敷も借金の抵当に入っています」
少年――ヘンリー君は自分の家の恥を話すので、随分と暗い顔をしていました。
「先代は清貧に甘んじていたそうですが、義父はそこから抜け出すために医師となりました。そして、医師が不足しているという親魔物国のマダガに赴いて、そこで開業をしたそうです」
親魔物国の多くは魔物との交流があるので、彼女らから効能の高い薬が比較的安価に供給されています。それでも良くならない場合は、魔界へ療養に行くのが一般的になっています。
そんな状況なので、好き好んで医師を目指そうという人間が少ないことがよくありました。
でも、魔界のものに頼りきるのは是としない人も少なからずいて、人間の医師は需要があるようです。
「しかし、義父には日常的に魔物のいる世界は肌に合わなかったのでしょう。何年か開業していましたが、祖国である、ブルダニアに帰ってきました」
「よくあることですね」
ブルダニアは親魔物派閥が一大勢力としてありますが、都会ならまだしも、田舎の方に行けば、魔物を見たことがない人も大勢いましたし、主神教の勢力が強くもありました。
「僕たちの母と義父が出会って結婚したのは、義父がマダガで開業していた頃です。僕たちの母は、教団のハルヲ兵団砲兵部隊の長をしていたストーナー将軍の未亡人でした。母は若く美しかったようで、幼い僕たちがいましたが、再婚するのに支障はなかったようです」
「僕たち?」
「はい。僕にはジュリアンという、二つ上の兄がいました。母が再婚したとき、僕は一歳で、兄は三歳でした。だから、僕たちは本当の父親というものを知りません」
シャーリーは立ち上がって、本棚から紳士録を取り出して調べました。ヘンリー君はそれに続きを話すべきか迷っていました。
「どうぞ、お続けになってください。何をしていようと、彼女はあなたの言葉を聞き逃すようなことはありませんよ」
あたしがそう言って話を促しました。
ちなみに、ハルヲ兵団というのは、親魔物国家の中で、魔物討伐を積極的にするという教団本来の教義に忠実な過激派集団です。親魔物国家でも、やっぱり、魔物が嫌いな人がいるので、それなりに支援されているみたいです。みんな愛し合えばいいと思うのだけど、人間たちは難しいみたいです。
「母は僕たちの父親、ストーナー将軍の遺産があると言っていました。義父はそれを信じて、帰国してから、ここ――カールルッドで開業するつもりだったみたいです。でも、帰国してすぐに母は鉄道事故で亡くなってしまいました」
「すると、遺産はあなたたちに?」
シャーリーは調べ物が終わったようで、椅子に戻ってきました。
「はい。ですが、母が亡くなってからわかったのですが、母は将軍の遺産をとうの昔に使い尽くしていたようです。それどころか、帰国すれば遺産が手に入るというようなことまで言って、ずいぶんとあちこちに借金をしていたのです」
うなだれるようにしてヘンリー君は、自分たちの母親の恥を話してくれました。
「それらの借金は義父が全て肩代わりしてくれました。屋敷が抵当に入っているのも、本当はそのせいです。でも、それらは本当は義父が払う必要のない借金なのです」
「なるほど。ロリロット博士は随分と人格者のようね」
「はい。僕たちは、義父にどのようにお礼を言えばいいかわからないぐらいです。借金返済のために、義父のカールルッドで開業するときのための資金は借金で消し飛んでしまったと思います」
カールルッドは都会だから、医院を開業するとなれば、それなりのお金が要ります。でも、それでも返済できないほどというのだから、随分な借金だったのでしょう。
「義父は、地元のスモーク・トランへと戻ってくるしかありませんでした。そして、そこで往診専門の医師として仕事を始めました。村の人たちは、義父が屋敷に帰って来たころは、スモーク・トランにロリロットが戻ってきたと、大変喜んでいたそうです」
「過去形だね? 今は違うのかい?」
「はい、その通りです。義父は村の人たちと距離をとりたがっています。なぜだかはわかりません」
理由は全くわからないとばかりに、ヘンリー君は力なく首を振りました。
「例えば? 具体的な出来事を教えてくれる?」
「そうですね……村の人たちが義父の借金のことを知ったとき、みんなはお金や人手で義父を援助するという申し出をしたそうです。その時、義父はひどく怒り、村の人たちを随分と罵ったようです。僕はまだ幼くてよく憶えていませんでしたが、兄がその様子を見ていて憶えていました」
「なるほど。他にもある?」
「えーと……村の人間で家に入れることはありません。通いの家政婦をしているおばあさんも、村の人じゃないようです。余程、どうしようもない時――命に関わる急病人とかをのぞいては家に入れたことはありません。なにしろ、収穫祭はもちろん、降臨祭でも家に人を呼ぼうとしないぐらいですから」
降臨祭では、土地の名士が村人に料理やお酒をふるまうのが慣例になっています。これをしない家は、ケチだと言われても文句が言えないので、大抵の家はしています。
「貧乏で振舞うことができなかったから。というわけではないのだね?」
「はい。借金はあるので、それほど裕福ではありませんが、降臨祭に村の人に料理を振舞う程度の収入はあると思います」
「医師として往診をしているということだけど、そんなことで依頼が来るのですか?」
あたしはつい、不思議に思って口をはさんでしまいました。
「それなんですが、義父は放浪の旅芸人たちとは随分と仲が良いのです。彼らと一緒に馬車に乗り、彼らと一緒に村々を回っているようです。そして、旅芸人たちが病人を見つけて、義父を紹介するそうです。そうやって患者を見つけているのです」
「なかなか変わった患者の見つけ方ね」
「僕もそう思います。なので、旅芸人たちが村にやってくると、義父は自分の土地に彼らの野宿する場所を提供しています」
「村人は排除して余所者を引き入れているというのも、義父の評価を下げている原因だということだね?」
「はい。村の人たちは、義父が親魔物国に行ったせいで、気難しい性格になったと噂していました。もしくは、僕たちの母が悪い影響を与えたのだと」
ヘンリー君は寂しそうに語りました。おそらくは、後者の理由が大きく噂されているのでしょう。彼の村での扱いは、想像するに容易なことでした。
「そんなわけで、義父は家に住み込みで使用人を雇うことはありませんでした。とはいっても、さっき話した通いの家政婦は、ずいぶんと年を取られていますが、かなり有能な人のようです。通いでほとんどの家事をしてしまいます。残った家の事は僕たち兄弟で十分でした」
ヘンリー君の手を見ると、お坊ちゃんという感じはないけど、あかぎれなどはありませんでした。辛い水仕事などは最小限なのでしょう。
「二年前のことです。僕たちは村の人たちにあまり歓迎されていないこともあり、家を出ることを考えました。兄は今の僕と同じ年で、十分に働き手として雇ってもらえますから。
しかし、それを義父に言えば、反対される気がしましたし、それが原因で義父がますます村の人と溝を作ってしまうのではないかと思いました」
「可能性は大いにあるね」
溝を作る意味がわかりませんでしたが、村人に彼ら兄弟がいじめられていたことを知り、博士が村人たちを糾弾するかもしれないと、後でシャーリーに教えてもらいました。
「僕たちの母には姉がいました。ほとんど会った事はありませんでしたが、住所などは知っていました。そこで、その伯母に仕事を紹介してもらおうと考えたのです。仕事を先に決めてしまえば、反対されないと思っていました」
少年たちの浅はかな知恵ですが、彼らなりに必死だったのでしょうから笑うことはできません。
「義父には、伯母のところへ挨拶に行きたいと嘘を言いました。
久々に会う伯母は、随分とお金持ちになっていて、顔も広いようでした。そして、伯母は兄を見て、仕事するよりもいい方法があると言ってきました」
「縁談。だね?」
シャーリーの言葉にヘンリー君は少し驚いた様子でしたが、シャーリーがフォームズであることを思い出して、驚きは納得に変わりました。
「はい。お金持ちの未亡人に婿入りすれば、支度金をたんまりともらえる。その上、毎月、小遣いというには大きすぎるお金をもらえることになる。そう、兄にささやいたのです」
「そして、それを受けたというわけだね?」
「仕方ないのです。僕たちは読み書き程度はできますが、特に学があるわけでもありません。体力に自信があるわけでもありませんし、ましてや真似できない技術もないのです。
普通に働いて稼げるお金は、僕たちが生活するだけで精一杯でしょう。義父に借金を返すには、これしかないのです」
少年の声は半ば涙声でした。力のない、弱い立場から抜け出ることのできない苛立ちをぶつけるような声でした。
「それで、お兄さんは婿入りしたというわけではないのでしょう?」
ヘンリー君の悲痛な声にもシャーリーは動じることなく、冷静な、落ち着いた声で質問を続けました。少し冷たく、萌えるかもしれませんが、冷静で理性的で客観的であることが、絡まった赤い糸を解きほぐすのに必要なのです。
「……はい。結婚を控えたある日、失踪してしまいました」
ヘンリー君がうなだれるように、お兄さんの失踪の事実を認めて頷きました。
「その失踪が、今朝早く私たちの元へ急いでやってきたことに繋がっているのですね?」
「その通りです。もう、僕はどうすればいいか……」
ヘンリー君は再び不安な表情を浮かべ、今時珍しい、年配の教団信徒がする魔除けの印を切り、手を組んで主神に祈りを捧げました。
「では、お兄さんが失踪するときの様子を詳しくお教えくださいますか? 包み隠さず、そして、どんな些細な、つまらないと思ったことも全て」
「はい。わかりました」
ヘンリー君は当時のことを詳細に思い出すためか、少し目を閉じて沈黙していましたが、それは数秒もなく、目を開けて話し始めました。
「伯母のところから家に帰って、兄は伯母のすすめで婚約をすることを義父に言いました。
僕はてっきり義父が激怒すると思っていましたが、意外にも、好きにすればいいと、あっさりと婚約を認めてくれました。
兄は義父や伯母の気が変わらない内にと、すぐに電報で伯母に了承の返事をして、相手を決めてもらいました。
兄の結婚相手はすぐに決まりました。資産家の未亡人で、二十ほど年上の人でした。名前は……たしか、グレントンと言ったと思います。
僕たちは兄の結婚準備であわただしくしていましたが、義父はいつもは旅芸人たちと旅に行くのに、そのころは珍しく家で静かにしていました」
あたしはグレントンという未亡人に記憶にありませんでしたが、シャーリーは知っているようでした。役職柄、シャーリーは紳士淑女をよく知っています。ちょっとした、生きた紳士淑女録なんです。
でも、なんともいえない表情を浮かべたので、グレントンという未亡人は問題ある人のようです。
「そして、兄が失踪した前の晩のことです。その日は外はひどい風で、窓を激しく揺らしていました。そのころは、兄はもうすぐ婿入りするので、不安になっていたのかもしれません。連日のように、寝る直前まで僕の部屋にいて、一緒に話しをしていました」
「お兄さんの部屋ではなくて?」
「はい。兄の部屋は、隣の義父の部屋からお香の匂いが入ってきて、落ち着かないと兄はぼやいていましたから。義父は親魔物国のお香だけは気に入っていたのか、よく購入していたようです」
「ちなみに、部屋の並びは、義父、お兄さん、君の順で間違いない?」
「ええ、そうです。それから、兄は夜中に低い笛の音が聞こえて不気味だとも言っていました。それは外から聞こえるのか、どこから聞こえるのかはわからないと言ってましたが」
「なるほど。続けてくれるかしら?」
「その日は、兄はなかなか部屋に戻ろうとせず、夜遅くまで話していました。でも、僕も連日の忙しさで眠くなり、兄も仕方なく話をやめて、部屋に戻って寝ることにしました。僕たちは、いつも寝るときに部屋の内側から鍵をかけています。窓もしっかりとかんぬきを掛けています」
「ずいぶん用心するのね。寝ている間に何か心配事があるの?」
「先ほど言った義父が懇意にしている旅芸人が、屋敷の中にいることもあるのです。義父が僕たちの知らない間に、彼らを屋敷の中に招き入れていることもよくありました。
それに、義父も親魔物国にいたせいか、魔物に夜這いされないよう鍵をかけて寝る習慣でしたし、我が家では鍵をかけるのはごく普通のことでした」
親魔物国の魔物たちは無闇に人を(性的な意味で)襲わないけど、発情したり、運命を感じたりすると、そういうわけでもありません。だから、貞操を守るために鍵をかけるのは、男のマナーの一つという人もいるんです。
「僕は疲れて、すごく眠かったのですが、妙に目が冴えて、なかなか寝付けませんでした。風が強くて、窓を揺らす音が大きかったせいか、兄弟の間にある何か不思議な力なのか? 夢と現の間を行ったり来たりしていました。そして、兄の悲鳴が聞こえて、目が覚めました」
「確かに悲鳴が?」
「はい。かなり大きな声でしたから、はっきりと。僕は慌てて部屋を出て、兄の部屋に向かいました。でも、鍵がかかっていますから入れません。扉を打ち破るにも、扉は頑丈なので、斧か何かを持ってこないと無理でした。とにかく、僕は義父の部屋に行き、扉を叩いて、兄が大変なことになっていると伝えました。はっきりとはわかりませんが、義父の部屋から明かりがもれていましたから、多分、起きていたのでしょう」
「お兄さんの部屋から、他に何か聞こえていた?」
「ええ、かすかですが、苦しそうに悶えるような声が何度も。僕はいよいよと思い、手斧を取りに行こうとしたら、低い笛の音がしました。風の音なのかもしれませんが、それとは違う、何か異質な音に聞こえました。そして、しばらく後に大きな、金属同士のぶつかる音がしました。いつの間にか兄のうめき声も止んでいて、兄の部屋の扉が開きました」
「笛の音から大きな音がするまでは長かった?」
「それほどは。おそらく、一分もなかったと思います」
「ありがとう。それで、部屋を出てきたお兄さんはどんな様子だった?」
「部屋を出てきた兄はひどく疲労困憊しているようで、おぼつかない足取りでした。廊下に出てくると、僕の方に倒れこんできました。そして、僕にだけ聞こえるぐらい小さな声で“まだらなひもが……”とだけ言うと、そのまま気を失ってしまいました」
「お兄さんの部屋には誰かいたの?」
「いいえ。そのころになって、やっと義父が僕たちのところにやってきました。兄をお願いして、部屋に入りましたが、窓も閉められたままですし、しっかりとかんぬきがかかっていました。そういえば、兄の部屋に入った時に、義父のお香の匂いに混じって、青臭い、栗の花のような匂いがしました」
「お兄さんは意識を取り戻して、何か言ってませんでしたか?」
「それが……、気を失った兄は僕の部屋で休ませて、その側にいたのですが、僕も寝ていなかったので、つい、うとうとと寝てしてしまって。気がついたら、兄はすでにどこかへと消え去っていました」
「警察には?」
「もちろん、通報しました。夜の不審な出来事もあったので、朝になって警察に連絡して調べてもらいました。でも、兄の部屋には中から鍵を開けない限り、入ることはできないと言われました。意に添わない結婚をすることも調べられ、それが嫌になっての失踪だろうと片づけられてしまいました」
「妥当な結論だね」
「だけど、兄は覚悟を決めていました! 義父にお金を返すために結婚すると」
ヘンリー君がシャーリーを睨みつけました。でも、シャーリーはそれを平然と受け止めて、すっかり冷たくなったコーヒーをすすっていました。
「落ち着いて。あたしたちもあなたの言葉を疑ったりはしていないから」
あたしが代わりにヘンリー君に言って、落ち着かせました。
「はい……すいません。それで、兄が失踪してしまって、伯母は顔を潰されたとひどく怒っていました。だけど、それ以上は何も言ってきませんでした。二年経った先日、僕のところに手紙を送ってくるまでは」
「手紙にはなんと?」
「僕の結婚相手が決まったと」
「随分と急で強引な話ね」
「でも、仕方ないのです。兄のこともありますし。それに、結婚相手は兄の時よりも条件がいいらしいですから」
ヘンリー君は寂しそうに微笑みました。あたしはちょっとキュンとしちゃいました。
「そのことは、ロリロット博士には?」
シャーリーはあたしの頭に手を置いて、あたしの頭を冷やしつつ、彼に質問しました。
「ええ、話しました。それで、今回も反対されませんでしたが……」
ヘンリー君はそこまで言ってから軽く身震いしました。
「何かあったのですね?」
「はい。義父は急にお屋敷の改装をすると言い出して、業者を連れてきました。その工事をしている時に、誤って僕の部屋の壁が壊されてしまったんです。仕方なく僕は兄が使っていた部屋で寝ることになりました」
「とんだ災難ね」
「兄の部屋だったからなのか、寝ていると、ふと、兄のことを思い出して目を覚ましたのです。すると、頭がくらくらするような甘い香りがして、兄がいなくなる前の晩に聞いた、あの笛の音が聞こえたんです。僕は恐ろしくなり、そのまま一睡もせずに起きていました。そして、朝一番に汽車に乗って、こちらにやってきたのです」
ヘンリー君はこれで全て話し終わったと、口を閉ざしました。シャーリーは、しばらく黙って考え込んでから、おもむろに口を開きました。
「賢明な判断ね。あなたが思っているよりも事態は切迫しているわ。あまりのんびりはしていられない。だけど、その前に確証と証拠を掴むために、色々と調べないといけないわね。ロリロット博士に見咎められずに屋敷を調べることはできるかしら?」
「はい。それなら、今日でしたら大丈夫かと。今日はこっち、カールルッドに用事があると言っていました。カールルッドに行くと、帰ってくるのはいつも夕飯が終わった頃になります」
「なら、今日の昼過ぎにそちらにお伺いします。よろしいですか?」
「はい。僕もこちらの大神殿にお参りして、そのまま帰りますので、昼には帰れると思いますから大丈夫です」
一応は名目上、こちらに来ている理由が必要なので、大神殿にお参りに行くのでしょう。
「わかりました。では、後ほどお屋敷で落ち合いましょう」
話は終わったとシャーリーは立ち上がった。
「ありがとうございます。フォームズさん。どうすればいいか、ただ困っているだけの僕の話を聞いてくれて。それだけでも、ずいぶんと心が軽くなりました」
ヘンリー君も立ち上がり、感謝の意味で握手を求めてきました。シャーリーはその手を握って、彼を勇気づけました。
「それはなによりだわ。でも、本当に心を軽くするのは、全てが終わってからですよ」
「はい。それじゃあ、僕はそろそろ失礼します」
ヘンリー君は最初に会ったときとは段違いに、晴れやかな表情で、あたしたちの下宿を出ていきました。
「どう思う?」
ヘンリー君が通りに出て、角を曲がるのを見届けてからシャーリーがあたしに言いました。
「不思議な話よね」
「本当に。これだから、人間界は飽きないわね」
シャーリーがにんまりとしているのを見逃すほど、あたしはぼんやりしていません。
「あら? もう、予想をつけているんじゃない?」
「まだ推論の域を出ていない。口から出すには、証拠が必要よ」
「もったいぶっちゃって。でも、いいわ。その証拠を見つけたときに聞けば」
「一緒に来てくれるの?」
シャーリーが意外そうな顔をした。あたしは存外な顔をしていたと思う。
「こんなところで途中下車させられたら、私のミルクが消化不良で腐ってしまうわよ」
「ありがとう、ウァトソンちゃん」
「お礼はこっちの台詞よ」
あたしたちの話がまとまったところで、下宿屋の一階が随分と騒がしいのに気がつきました。
「それはそうと、なんだか騒がしいけど?」
あたしが扉を開けると、バルチック夫人が不機嫌そうに、壮年の紳士と罵りあいをしているのが見えました。どうも、話からすると、ロリロット博士のようでした。
「バルチック夫人。かまわないですよ。お通ししてください」
シャーリーがそういうと、バルチック夫人が道を開け、ロリロット博士は階段を踏み抜く勢いで二階に上がってきました。
人間にしては結構大柄で、髭を蓄えた顔はいかついですし、医師とかインテリには見えない感じの男性でした。こういう野性味あふれる男性が好みでなければ、女性は怖がってしまうでしょうね。
「お前か! ヘンリーをたぶらかす売女は!」
部屋に入るなり、開口一番がこれなのは、紳士というよりも蛮族ですよね? ますます、女性にもてません。
「残念ながら、彼には指一本……触れてはいますが、誘惑は……私自身はそのつもりありませんでしたよ」
シャーリーは済ました顔で、沸かす前の水と同じぐらい冷えたコーヒーをすすっていました。
「うるさい! 貴様らのようなやつらが近くにいるだけで十分だ」
「ずいぶんないい様ですね。これでも神の使いなんですよ?」
シャーリーが、ゆでだこのようになっている博士に向かって苦笑を浮かべました。
「貴様ら、愛の女神の眷属は、魔物と区別がつかんだろうが」
「愛の女神信仰は、主神教団でも公式に認められているのですよ? 滅多なことを口にされると、色々と困るのではないですか?」
主教教団の名前を出されて、博士は少しばかり勢いを落としました。
「ふんっ! 口だけは達者だな。売女を売女と言って、何が困る。まあいい。いいか、二度は言わん。ヘンリーに近づくな。もし近づいたら、こうしてくれる」
暖炉の火掻き棒を引き抜くと、それを掴みました。
「あちち……」
暖炉の火で熱くなっていたので、熱いのは当たり前です。博士は小声で悲鳴を漏らしつつ、顔を真っ赤にしながら棒をへの字に曲げました。
「わかったか! こんな風になりたくなければ、近づくんじゃないぞ」
肩で息をしつつ大声で怒鳴り、ロリロット博士は火掻き棒を床に投げ捨て帰っていきました。
「嵐みたいな人ね。でも、火掻き棒を曲げて、何をしたかったのかしら?」
あたしは曲がった棒を拾い上げて首をひねりました。
「人の力ではその細い鉄の棒でも、それだけ曲げるのは、結構な力持ちの部類に入るのよ」
シャーリーは苦笑を浮かべながらあたしに教えてくれました。今はわかりますが、この頃のあたしは、人間に対する知識が少しばかり拙かったのです。
「そうだったの? じゃあ、もう少しゆっくりしてくれれば、よかったのに」
あたしは曲がった火掻き棒を指先で摘まんで、大した力も入れずに真っ直ぐに戻しました。あたしたちは人間よりも力が強いのですから、この程度は朝飯前です。本当に朝食前ですけど。
「早く帰ったのは、彼にとっては幸運だったわね」
シャーリーは笑って火掻き棒を暖炉の中に戻しました。
「さあ、こっちも彼に会えたことは幸運よ。でも、ゆっくりしていられないのも確実になったわ。早く用事を済ませて、ヘンリー君のところに向かいましょう」
「ええ。それじゃあ、まずは朝食ね」
あたしたちは、バルチック夫人の用意する朝ごはんの匂いに釣られるように、階下の食堂に降りていきました。
その中には、多くの喜劇と少しの悲劇がありますが、大半は変わった縁結びばかりで、普通の縁結びというもは一つとしてありませんでした。というのも、どちらかというと、シャーリーは好きだから仕事するのであって、キューピッドとして愛の女神様への信仰のため仕事をするのではないのです。何の変哲も無い縁結びは関わりたくないと、布団を被ってベッドにあたしを引っ張り込んで篭ってしまうのです。
数々の縁結びの中で、一番変わったものというと、やはり、これだと思います。
ハリー州スモーク・トランに住む、かの有名なロリロット家の話です。
この縁結びはシャーリーとあたしが同棲し始めた頃の縁結びで、この頃のあたしたちはパン通りのバルチック夫人宅に下宿していました。
もっと早くに公表してもよかったのだけど、当時、当人たちの事情が色々とあって、口外しないようにお願いされたので秘密にしていました。だけど、グリフィン・ロリロット博士の失踪が随分と変な風に尾ひれがついて、ちょっとした騒ぎになっているのを知ってしまいました。
だから、当人たちに許可を得て、真実を公表することにしました。そうすることがこの騒ぎを収める方法だと、あたしは思ったのでした。
あれは四月の初めのことでした。もう春というのに、その日は前の夜から寒くて、あたしの周りにあるミルクも凍るんじゃないかというぐらい冷えた朝でした。
あたしは人の気配がして目を覚ますと、シャーリー・フォームズが着替えを済ませてベッドの縁であたしのほっぺをつついていました。
普段はあたしがシャーリーのほっぺをつついて、昼過ぎまで寝ている彼女を起こすのに、寝過ごしたとはとんだ失態だとあたしは思いました。でも、寝ぼけ眼で暖炉の上の時計を見ると午前七時を少し回ったばかりでした。
あたしはなんでとばかりに、少しふくれてしまった。シャーリーのほっぺをつんつんできない朝は決まってこうなのです。
「寝ているところ悪いけど起きてよ、ウァトソンちゃん」
シャーリーは、あたしがふくれているのを困った顔で見ていました。
「今朝は予定をまるまま変更になりそうよ。バルチック夫人が扉の音で叩き起こされたおかげでね」
「火事じゃないわよね?」
あたしはアプサラスなので、自分の周りにミルクがあります。でも、これは消火にも使えなくもないけど、焼け石にミルク程度の手助けしかできないと顔に出てしまっていました。
「違うわよ。火事なら有無も言わせず、あなたを抱えて窓の外に飛び出してるわ。依頼人らしいわ。年若い男性が興奮してやってきたみたい。私に会いたいって」
「夜這い……じゃない、朝駆け?」
「まさか! でも、少年が一人でこんな朝早く、都会を駆けてきて、眠っている他人を叩き起こしたのよ。よほどのことがあるんじゃないかと思わない?」
シャーリーがあたしに悪戯っぽく微笑んで見せました。
シャーリーは、愛の女神様に仕える中級天使のキューピッドです。
少し褐色の肌はまだしも、ボブカットにしている淡いピンクプラチナの髪の毛などは人にはありえない色合いでした。澄ました目には、髪の毛の色を少し濃くした薄紅梅色の瞳が好奇心できらめいています。
クールな印象を受ける顔立ちなのに、その瞳のおかげで、少し少年のようにも見えると、あたしは思っています。けど、本人は冷静沈着な大人の女性のイメージだから、それを言ったらむくれてしまうのです。だから、かわいらしいむくれた顔が見たくて、ついつい言っちゃうんですけどね。
スタイルはさすがに愛の女神の天使様。丸く大きなオッパイといい、腰のくびれといい、つんと上を向いたお尻といい、まさにパーフェクト・ボディ。女のあたしでも惚れ惚れしちゃうぐらいなのです。
「一緒に話を聞きたいんじゃないかって思ったけど、それよりもお布団の方が好きかしら?」
シャーリーがあたしの回答など推理済みとばかりに訊いてきました。あたしは少し癪だけど、少年の事情を聞く誘惑には勝てませんでした。
「もちろん。話を聞くに決まってるじゃない。起こしてくれてありがとう、シャーリー。愛してる」
あたしは投げキッスをして起き上がると、すぐに身支度を整えました。
依頼人の少年を待たせてある居間に入りました。彼は火のついた暖炉のそばでなく、窓際の席に座っていました。あたしたちが入ってくるのを見つけると立ち上がり、こちらに頭を下げました。
少年は十代の後半でしょうか、身体も小柄な方で、まだ顔にはあどけなさが残っていました。
でも、そのそばかすの残る顔は青ざめていて、それは今朝の寒さだけが原因でないと直感できるものでした。
ちょっとくすんだ金髪がカールしていて、顔立ちはかわいらしく、青ざめているから余計に保護欲を刺激するようなオーラがにじみ出ています。
身なりは悪くないのですが、どことなくうらぶれたものがあり、着ている紺の背広も悪いものではないのですが、少し年季の入った感じがするものでした。
「おはようございます」
シャーリーは、早朝という時間を感じさせない爽やかさで、少年に挨拶しました。
「私が、シャーリー・フォームズ。こっちは、私の助手をしてくれている、ジョディ・ウァトソン。彼女は、あなたがお話になったことを口外する人物ではないことを、私が保証します」
自己紹介のついでにあたしの紹介もしてくれたので、あたしは彼に「ウァトソンです、よろしく」と軽く挨拶をしました。
「どうぞ、そんな寒いところでなくて、こちらへいらして。今朝は冷えるから熱いコーヒーでもいかがですか? 凍えて震えているじゃないの」
「寒さで震えているなら、どんなにいいか」
彼は自分の身体を抱きしめるようにして呟いていました。そして、言われるままに暖炉のそばへと移動してきました。
あたしはコーヒーを淹れる用意をしました。話を聞くのはシャーリーに任せました。何しろ、彼はシャーリーの依頼人ですから。
「どうか、僕を助けてください」
少年は手を組んでシャーリーに祈るようにしました。
その手の組み方から彼が愛の女神の信者ではなく、敬虔な主神教の信者ということはわかりました。もちろん、シャーリーもそれに気付いていました。
主神教といっても、このあたりの教団は積極的に魔物を討伐しない派閥が主流です。あたしたちの今いるブルダニアは海洋国家なので、親魔物派閥の勢力が強いのです。そんなところで魔物討伐なんて言い出せば、国を二分しての内乱になっちゃいます。
とはいえ、完全に親魔物勢力というわけでもありません。おかげで、少しばかりややこしい国内情勢なのですが、表面上はお互いに干渉しないようにして、平和に問題を先送りにしている現状なのです。
「安心して。きっと、力になってあげるから」
シャーリーは優しく少年を力づけました。その声とまなざしは、さすがは愛の天使と今更ながらにあたしは感心します。彼の顔色も少しは良くなったように見えました。
「フォームズさんに相談するといいと、僕の数少ない友人がアドバイスしてくれました。友人が言うには、フォームズさんはどんなに絡み合った糸もいとも簡単に解いて、然るべきところに結んでくれると。
旅の執事ハンスの紹介と言えば、彼女ならすぐに思い出してくれるはずだといっていました」
少年はシャーリーにすがるような視線を向けていました。ああ、こういう力ないものが何かにすがる視線というのは、周囲のミルクをホットミルクにします。
「ああ、彼の紹介なのね。ウァトソンちゃん。あなたと知り合う前の話よ。大丈夫。私に任せて。きっと、あなたの不安を取り除いてあげましょう」
シャーリーは、彼が誰から自分のことを聞いたのかがわかり、得心していました。
「それで、あの、報酬の方なのですが……今は僕の自由にできるお金はほとんどないんです。ごめんなさい」
少年は椅子から立ち上がり、申し訳なさそうな表情で頭を深々と下げました。
「でも、もう少しすれば、僕にも自由になるお金ができるので、そうなれば、きっと報酬はお支払いいたします」
必死に少年は訴えました。シャーリーは、そんな彼を優しく抱きしめた。
「報酬などを求めて仕事をしているわけではないのですよ。だから、報酬はあなたの思うだけで結構ですし、いつでも構わないのですよ」
甘い香りに包まれて、彼の身体から力が抜けていくのがわかりました。
暖炉の暖かさよりも人肌の方がずっと温度は低いはずなのに、抱きしめられると暖炉よりもずっと暖かいのです。不思議ですよね。
「だけど、あなたの知っていることを全てお話してくださいね。それが他愛ないことと思っても、それが結び目を解くヒントとなることもあるのです」
シャーリーは少年から身体を離しました。彼は少し残念そうでしたが、気持ちと身体が暖まったおかげか、落ち着いて椅子に腰掛けました。
あたしはシャーリーと少年に熱いコーヒーを出しました。もちろん、あたしのミルクもちゃんとたっぷり入れておきました。でも、あまり興奮するといけないので、成分の薄い部分を、ですけど。
「僕はヘンリー・ストーナーといいます。今は義理の父、ロリロット博士と一緒に住んでいます。ロリロット家はハリー州の西にあるスモーク・トランにあります」
「ええ、その名前は記憶にあります」
「ロリロット家は、昔は随分と裕福だったらしいです。でも、四代にわたって散財をして、挙句に最後は賭博で一旗あげようとしたおかげで、広かった領地は数エーカーの土地が残るだけになってしまいました。築二百年のお屋敷も借金の抵当に入っています」
少年――ヘンリー君は自分の家の恥を話すので、随分と暗い顔をしていました。
「先代は清貧に甘んじていたそうですが、義父はそこから抜け出すために医師となりました。そして、医師が不足しているという親魔物国のマダガに赴いて、そこで開業をしたそうです」
親魔物国の多くは魔物との交流があるので、彼女らから効能の高い薬が比較的安価に供給されています。それでも良くならない場合は、魔界へ療養に行くのが一般的になっています。
そんな状況なので、好き好んで医師を目指そうという人間が少ないことがよくありました。
でも、魔界のものに頼りきるのは是としない人も少なからずいて、人間の医師は需要があるようです。
「しかし、義父には日常的に魔物のいる世界は肌に合わなかったのでしょう。何年か開業していましたが、祖国である、ブルダニアに帰ってきました」
「よくあることですね」
ブルダニアは親魔物派閥が一大勢力としてありますが、都会ならまだしも、田舎の方に行けば、魔物を見たことがない人も大勢いましたし、主神教の勢力が強くもありました。
「僕たちの母と義父が出会って結婚したのは、義父がマダガで開業していた頃です。僕たちの母は、教団のハルヲ兵団砲兵部隊の長をしていたストーナー将軍の未亡人でした。母は若く美しかったようで、幼い僕たちがいましたが、再婚するのに支障はなかったようです」
「僕たち?」
「はい。僕にはジュリアンという、二つ上の兄がいました。母が再婚したとき、僕は一歳で、兄は三歳でした。だから、僕たちは本当の父親というものを知りません」
シャーリーは立ち上がって、本棚から紳士録を取り出して調べました。ヘンリー君はそれに続きを話すべきか迷っていました。
「どうぞ、お続けになってください。何をしていようと、彼女はあなたの言葉を聞き逃すようなことはありませんよ」
あたしがそう言って話を促しました。
ちなみに、ハルヲ兵団というのは、親魔物国家の中で、魔物討伐を積極的にするという教団本来の教義に忠実な過激派集団です。親魔物国家でも、やっぱり、魔物が嫌いな人がいるので、それなりに支援されているみたいです。みんな愛し合えばいいと思うのだけど、人間たちは難しいみたいです。
「母は僕たちの父親、ストーナー将軍の遺産があると言っていました。義父はそれを信じて、帰国してから、ここ――カールルッドで開業するつもりだったみたいです。でも、帰国してすぐに母は鉄道事故で亡くなってしまいました」
「すると、遺産はあなたたちに?」
シャーリーは調べ物が終わったようで、椅子に戻ってきました。
「はい。ですが、母が亡くなってからわかったのですが、母は将軍の遺産をとうの昔に使い尽くしていたようです。それどころか、帰国すれば遺産が手に入るというようなことまで言って、ずいぶんとあちこちに借金をしていたのです」
うなだれるようにしてヘンリー君は、自分たちの母親の恥を話してくれました。
「それらの借金は義父が全て肩代わりしてくれました。屋敷が抵当に入っているのも、本当はそのせいです。でも、それらは本当は義父が払う必要のない借金なのです」
「なるほど。ロリロット博士は随分と人格者のようね」
「はい。僕たちは、義父にどのようにお礼を言えばいいかわからないぐらいです。借金返済のために、義父のカールルッドで開業するときのための資金は借金で消し飛んでしまったと思います」
カールルッドは都会だから、医院を開業するとなれば、それなりのお金が要ります。でも、それでも返済できないほどというのだから、随分な借金だったのでしょう。
「義父は、地元のスモーク・トランへと戻ってくるしかありませんでした。そして、そこで往診専門の医師として仕事を始めました。村の人たちは、義父が屋敷に帰って来たころは、スモーク・トランにロリロットが戻ってきたと、大変喜んでいたそうです」
「過去形だね? 今は違うのかい?」
「はい、その通りです。義父は村の人たちと距離をとりたがっています。なぜだかはわかりません」
理由は全くわからないとばかりに、ヘンリー君は力なく首を振りました。
「例えば? 具体的な出来事を教えてくれる?」
「そうですね……村の人たちが義父の借金のことを知ったとき、みんなはお金や人手で義父を援助するという申し出をしたそうです。その時、義父はひどく怒り、村の人たちを随分と罵ったようです。僕はまだ幼くてよく憶えていませんでしたが、兄がその様子を見ていて憶えていました」
「なるほど。他にもある?」
「えーと……村の人間で家に入れることはありません。通いの家政婦をしているおばあさんも、村の人じゃないようです。余程、どうしようもない時――命に関わる急病人とかをのぞいては家に入れたことはありません。なにしろ、収穫祭はもちろん、降臨祭でも家に人を呼ぼうとしないぐらいですから」
降臨祭では、土地の名士が村人に料理やお酒をふるまうのが慣例になっています。これをしない家は、ケチだと言われても文句が言えないので、大抵の家はしています。
「貧乏で振舞うことができなかったから。というわけではないのだね?」
「はい。借金はあるので、それほど裕福ではありませんが、降臨祭に村の人に料理を振舞う程度の収入はあると思います」
「医師として往診をしているということだけど、そんなことで依頼が来るのですか?」
あたしはつい、不思議に思って口をはさんでしまいました。
「それなんですが、義父は放浪の旅芸人たちとは随分と仲が良いのです。彼らと一緒に馬車に乗り、彼らと一緒に村々を回っているようです。そして、旅芸人たちが病人を見つけて、義父を紹介するそうです。そうやって患者を見つけているのです」
「なかなか変わった患者の見つけ方ね」
「僕もそう思います。なので、旅芸人たちが村にやってくると、義父は自分の土地に彼らの野宿する場所を提供しています」
「村人は排除して余所者を引き入れているというのも、義父の評価を下げている原因だということだね?」
「はい。村の人たちは、義父が親魔物国に行ったせいで、気難しい性格になったと噂していました。もしくは、僕たちの母が悪い影響を与えたのだと」
ヘンリー君は寂しそうに語りました。おそらくは、後者の理由が大きく噂されているのでしょう。彼の村での扱いは、想像するに容易なことでした。
「そんなわけで、義父は家に住み込みで使用人を雇うことはありませんでした。とはいっても、さっき話した通いの家政婦は、ずいぶんと年を取られていますが、かなり有能な人のようです。通いでほとんどの家事をしてしまいます。残った家の事は僕たち兄弟で十分でした」
ヘンリー君の手を見ると、お坊ちゃんという感じはないけど、あかぎれなどはありませんでした。辛い水仕事などは最小限なのでしょう。
「二年前のことです。僕たちは村の人たちにあまり歓迎されていないこともあり、家を出ることを考えました。兄は今の僕と同じ年で、十分に働き手として雇ってもらえますから。
しかし、それを義父に言えば、反対される気がしましたし、それが原因で義父がますます村の人と溝を作ってしまうのではないかと思いました」
「可能性は大いにあるね」
溝を作る意味がわかりませんでしたが、村人に彼ら兄弟がいじめられていたことを知り、博士が村人たちを糾弾するかもしれないと、後でシャーリーに教えてもらいました。
「僕たちの母には姉がいました。ほとんど会った事はありませんでしたが、住所などは知っていました。そこで、その伯母に仕事を紹介してもらおうと考えたのです。仕事を先に決めてしまえば、反対されないと思っていました」
少年たちの浅はかな知恵ですが、彼らなりに必死だったのでしょうから笑うことはできません。
「義父には、伯母のところへ挨拶に行きたいと嘘を言いました。
久々に会う伯母は、随分とお金持ちになっていて、顔も広いようでした。そして、伯母は兄を見て、仕事するよりもいい方法があると言ってきました」
「縁談。だね?」
シャーリーの言葉にヘンリー君は少し驚いた様子でしたが、シャーリーがフォームズであることを思い出して、驚きは納得に変わりました。
「はい。お金持ちの未亡人に婿入りすれば、支度金をたんまりともらえる。その上、毎月、小遣いというには大きすぎるお金をもらえることになる。そう、兄にささやいたのです」
「そして、それを受けたというわけだね?」
「仕方ないのです。僕たちは読み書き程度はできますが、特に学があるわけでもありません。体力に自信があるわけでもありませんし、ましてや真似できない技術もないのです。
普通に働いて稼げるお金は、僕たちが生活するだけで精一杯でしょう。義父に借金を返すには、これしかないのです」
少年の声は半ば涙声でした。力のない、弱い立場から抜け出ることのできない苛立ちをぶつけるような声でした。
「それで、お兄さんは婿入りしたというわけではないのでしょう?」
ヘンリー君の悲痛な声にもシャーリーは動じることなく、冷静な、落ち着いた声で質問を続けました。少し冷たく、萌えるかもしれませんが、冷静で理性的で客観的であることが、絡まった赤い糸を解きほぐすのに必要なのです。
「……はい。結婚を控えたある日、失踪してしまいました」
ヘンリー君がうなだれるように、お兄さんの失踪の事実を認めて頷きました。
「その失踪が、今朝早く私たちの元へ急いでやってきたことに繋がっているのですね?」
「その通りです。もう、僕はどうすればいいか……」
ヘンリー君は再び不安な表情を浮かべ、今時珍しい、年配の教団信徒がする魔除けの印を切り、手を組んで主神に祈りを捧げました。
「では、お兄さんが失踪するときの様子を詳しくお教えくださいますか? 包み隠さず、そして、どんな些細な、つまらないと思ったことも全て」
「はい。わかりました」
ヘンリー君は当時のことを詳細に思い出すためか、少し目を閉じて沈黙していましたが、それは数秒もなく、目を開けて話し始めました。
「伯母のところから家に帰って、兄は伯母のすすめで婚約をすることを義父に言いました。
僕はてっきり義父が激怒すると思っていましたが、意外にも、好きにすればいいと、あっさりと婚約を認めてくれました。
兄は義父や伯母の気が変わらない内にと、すぐに電報で伯母に了承の返事をして、相手を決めてもらいました。
兄の結婚相手はすぐに決まりました。資産家の未亡人で、二十ほど年上の人でした。名前は……たしか、グレントンと言ったと思います。
僕たちは兄の結婚準備であわただしくしていましたが、義父はいつもは旅芸人たちと旅に行くのに、そのころは珍しく家で静かにしていました」
あたしはグレントンという未亡人に記憶にありませんでしたが、シャーリーは知っているようでした。役職柄、シャーリーは紳士淑女をよく知っています。ちょっとした、生きた紳士淑女録なんです。
でも、なんともいえない表情を浮かべたので、グレントンという未亡人は問題ある人のようです。
「そして、兄が失踪した前の晩のことです。その日は外はひどい風で、窓を激しく揺らしていました。そのころは、兄はもうすぐ婿入りするので、不安になっていたのかもしれません。連日のように、寝る直前まで僕の部屋にいて、一緒に話しをしていました」
「お兄さんの部屋ではなくて?」
「はい。兄の部屋は、隣の義父の部屋からお香の匂いが入ってきて、落ち着かないと兄はぼやいていましたから。義父は親魔物国のお香だけは気に入っていたのか、よく購入していたようです」
「ちなみに、部屋の並びは、義父、お兄さん、君の順で間違いない?」
「ええ、そうです。それから、兄は夜中に低い笛の音が聞こえて不気味だとも言っていました。それは外から聞こえるのか、どこから聞こえるのかはわからないと言ってましたが」
「なるほど。続けてくれるかしら?」
「その日は、兄はなかなか部屋に戻ろうとせず、夜遅くまで話していました。でも、僕も連日の忙しさで眠くなり、兄も仕方なく話をやめて、部屋に戻って寝ることにしました。僕たちは、いつも寝るときに部屋の内側から鍵をかけています。窓もしっかりとかんぬきを掛けています」
「ずいぶん用心するのね。寝ている間に何か心配事があるの?」
「先ほど言った義父が懇意にしている旅芸人が、屋敷の中にいることもあるのです。義父が僕たちの知らない間に、彼らを屋敷の中に招き入れていることもよくありました。
それに、義父も親魔物国にいたせいか、魔物に夜這いされないよう鍵をかけて寝る習慣でしたし、我が家では鍵をかけるのはごく普通のことでした」
親魔物国の魔物たちは無闇に人を(性的な意味で)襲わないけど、発情したり、運命を感じたりすると、そういうわけでもありません。だから、貞操を守るために鍵をかけるのは、男のマナーの一つという人もいるんです。
「僕は疲れて、すごく眠かったのですが、妙に目が冴えて、なかなか寝付けませんでした。風が強くて、窓を揺らす音が大きかったせいか、兄弟の間にある何か不思議な力なのか? 夢と現の間を行ったり来たりしていました。そして、兄の悲鳴が聞こえて、目が覚めました」
「確かに悲鳴が?」
「はい。かなり大きな声でしたから、はっきりと。僕は慌てて部屋を出て、兄の部屋に向かいました。でも、鍵がかかっていますから入れません。扉を打ち破るにも、扉は頑丈なので、斧か何かを持ってこないと無理でした。とにかく、僕は義父の部屋に行き、扉を叩いて、兄が大変なことになっていると伝えました。はっきりとはわかりませんが、義父の部屋から明かりがもれていましたから、多分、起きていたのでしょう」
「お兄さんの部屋から、他に何か聞こえていた?」
「ええ、かすかですが、苦しそうに悶えるような声が何度も。僕はいよいよと思い、手斧を取りに行こうとしたら、低い笛の音がしました。風の音なのかもしれませんが、それとは違う、何か異質な音に聞こえました。そして、しばらく後に大きな、金属同士のぶつかる音がしました。いつの間にか兄のうめき声も止んでいて、兄の部屋の扉が開きました」
「笛の音から大きな音がするまでは長かった?」
「それほどは。おそらく、一分もなかったと思います」
「ありがとう。それで、部屋を出てきたお兄さんはどんな様子だった?」
「部屋を出てきた兄はひどく疲労困憊しているようで、おぼつかない足取りでした。廊下に出てくると、僕の方に倒れこんできました。そして、僕にだけ聞こえるぐらい小さな声で“まだらなひもが……”とだけ言うと、そのまま気を失ってしまいました」
「お兄さんの部屋には誰かいたの?」
「いいえ。そのころになって、やっと義父が僕たちのところにやってきました。兄をお願いして、部屋に入りましたが、窓も閉められたままですし、しっかりとかんぬきがかかっていました。そういえば、兄の部屋に入った時に、義父のお香の匂いに混じって、青臭い、栗の花のような匂いがしました」
「お兄さんは意識を取り戻して、何か言ってませんでしたか?」
「それが……、気を失った兄は僕の部屋で休ませて、その側にいたのですが、僕も寝ていなかったので、つい、うとうとと寝てしてしまって。気がついたら、兄はすでにどこかへと消え去っていました」
「警察には?」
「もちろん、通報しました。夜の不審な出来事もあったので、朝になって警察に連絡して調べてもらいました。でも、兄の部屋には中から鍵を開けない限り、入ることはできないと言われました。意に添わない結婚をすることも調べられ、それが嫌になっての失踪だろうと片づけられてしまいました」
「妥当な結論だね」
「だけど、兄は覚悟を決めていました! 義父にお金を返すために結婚すると」
ヘンリー君がシャーリーを睨みつけました。でも、シャーリーはそれを平然と受け止めて、すっかり冷たくなったコーヒーをすすっていました。
「落ち着いて。あたしたちもあなたの言葉を疑ったりはしていないから」
あたしが代わりにヘンリー君に言って、落ち着かせました。
「はい……すいません。それで、兄が失踪してしまって、伯母は顔を潰されたとひどく怒っていました。だけど、それ以上は何も言ってきませんでした。二年経った先日、僕のところに手紙を送ってくるまでは」
「手紙にはなんと?」
「僕の結婚相手が決まったと」
「随分と急で強引な話ね」
「でも、仕方ないのです。兄のこともありますし。それに、結婚相手は兄の時よりも条件がいいらしいですから」
ヘンリー君は寂しそうに微笑みました。あたしはちょっとキュンとしちゃいました。
「そのことは、ロリロット博士には?」
シャーリーはあたしの頭に手を置いて、あたしの頭を冷やしつつ、彼に質問しました。
「ええ、話しました。それで、今回も反対されませんでしたが……」
ヘンリー君はそこまで言ってから軽く身震いしました。
「何かあったのですね?」
「はい。義父は急にお屋敷の改装をすると言い出して、業者を連れてきました。その工事をしている時に、誤って僕の部屋の壁が壊されてしまったんです。仕方なく僕は兄が使っていた部屋で寝ることになりました」
「とんだ災難ね」
「兄の部屋だったからなのか、寝ていると、ふと、兄のことを思い出して目を覚ましたのです。すると、頭がくらくらするような甘い香りがして、兄がいなくなる前の晩に聞いた、あの笛の音が聞こえたんです。僕は恐ろしくなり、そのまま一睡もせずに起きていました。そして、朝一番に汽車に乗って、こちらにやってきたのです」
ヘンリー君はこれで全て話し終わったと、口を閉ざしました。シャーリーは、しばらく黙って考え込んでから、おもむろに口を開きました。
「賢明な判断ね。あなたが思っているよりも事態は切迫しているわ。あまりのんびりはしていられない。だけど、その前に確証と証拠を掴むために、色々と調べないといけないわね。ロリロット博士に見咎められずに屋敷を調べることはできるかしら?」
「はい。それなら、今日でしたら大丈夫かと。今日はこっち、カールルッドに用事があると言っていました。カールルッドに行くと、帰ってくるのはいつも夕飯が終わった頃になります」
「なら、今日の昼過ぎにそちらにお伺いします。よろしいですか?」
「はい。僕もこちらの大神殿にお参りして、そのまま帰りますので、昼には帰れると思いますから大丈夫です」
一応は名目上、こちらに来ている理由が必要なので、大神殿にお参りに行くのでしょう。
「わかりました。では、後ほどお屋敷で落ち合いましょう」
話は終わったとシャーリーは立ち上がった。
「ありがとうございます。フォームズさん。どうすればいいか、ただ困っているだけの僕の話を聞いてくれて。それだけでも、ずいぶんと心が軽くなりました」
ヘンリー君も立ち上がり、感謝の意味で握手を求めてきました。シャーリーはその手を握って、彼を勇気づけました。
「それはなによりだわ。でも、本当に心を軽くするのは、全てが終わってからですよ」
「はい。それじゃあ、僕はそろそろ失礼します」
ヘンリー君は最初に会ったときとは段違いに、晴れやかな表情で、あたしたちの下宿を出ていきました。
「どう思う?」
ヘンリー君が通りに出て、角を曲がるのを見届けてからシャーリーがあたしに言いました。
「不思議な話よね」
「本当に。これだから、人間界は飽きないわね」
シャーリーがにんまりとしているのを見逃すほど、あたしはぼんやりしていません。
「あら? もう、予想をつけているんじゃない?」
「まだ推論の域を出ていない。口から出すには、証拠が必要よ」
「もったいぶっちゃって。でも、いいわ。その証拠を見つけたときに聞けば」
「一緒に来てくれるの?」
シャーリーが意外そうな顔をした。あたしは存外な顔をしていたと思う。
「こんなところで途中下車させられたら、私のミルクが消化不良で腐ってしまうわよ」
「ありがとう、ウァトソンちゃん」
「お礼はこっちの台詞よ」
あたしたちの話がまとまったところで、下宿屋の一階が随分と騒がしいのに気がつきました。
「それはそうと、なんだか騒がしいけど?」
あたしが扉を開けると、バルチック夫人が不機嫌そうに、壮年の紳士と罵りあいをしているのが見えました。どうも、話からすると、ロリロット博士のようでした。
「バルチック夫人。かまわないですよ。お通ししてください」
シャーリーがそういうと、バルチック夫人が道を開け、ロリロット博士は階段を踏み抜く勢いで二階に上がってきました。
人間にしては結構大柄で、髭を蓄えた顔はいかついですし、医師とかインテリには見えない感じの男性でした。こういう野性味あふれる男性が好みでなければ、女性は怖がってしまうでしょうね。
「お前か! ヘンリーをたぶらかす売女は!」
部屋に入るなり、開口一番がこれなのは、紳士というよりも蛮族ですよね? ますます、女性にもてません。
「残念ながら、彼には指一本……触れてはいますが、誘惑は……私自身はそのつもりありませんでしたよ」
シャーリーは済ました顔で、沸かす前の水と同じぐらい冷えたコーヒーをすすっていました。
「うるさい! 貴様らのようなやつらが近くにいるだけで十分だ」
「ずいぶんないい様ですね。これでも神の使いなんですよ?」
シャーリーが、ゆでだこのようになっている博士に向かって苦笑を浮かべました。
「貴様ら、愛の女神の眷属は、魔物と区別がつかんだろうが」
「愛の女神信仰は、主神教団でも公式に認められているのですよ? 滅多なことを口にされると、色々と困るのではないですか?」
主教教団の名前を出されて、博士は少しばかり勢いを落としました。
「ふんっ! 口だけは達者だな。売女を売女と言って、何が困る。まあいい。いいか、二度は言わん。ヘンリーに近づくな。もし近づいたら、こうしてくれる」
暖炉の火掻き棒を引き抜くと、それを掴みました。
「あちち……」
暖炉の火で熱くなっていたので、熱いのは当たり前です。博士は小声で悲鳴を漏らしつつ、顔を真っ赤にしながら棒をへの字に曲げました。
「わかったか! こんな風になりたくなければ、近づくんじゃないぞ」
肩で息をしつつ大声で怒鳴り、ロリロット博士は火掻き棒を床に投げ捨て帰っていきました。
「嵐みたいな人ね。でも、火掻き棒を曲げて、何をしたかったのかしら?」
あたしは曲がった棒を拾い上げて首をひねりました。
「人の力ではその細い鉄の棒でも、それだけ曲げるのは、結構な力持ちの部類に入るのよ」
シャーリーは苦笑を浮かべながらあたしに教えてくれました。今はわかりますが、この頃のあたしは、人間に対する知識が少しばかり拙かったのです。
「そうだったの? じゃあ、もう少しゆっくりしてくれれば、よかったのに」
あたしは曲がった火掻き棒を指先で摘まんで、大した力も入れずに真っ直ぐに戻しました。あたしたちは人間よりも力が強いのですから、この程度は朝飯前です。本当に朝食前ですけど。
「早く帰ったのは、彼にとっては幸運だったわね」
シャーリーは笑って火掻き棒を暖炉の中に戻しました。
「さあ、こっちも彼に会えたことは幸運よ。でも、ゆっくりしていられないのも確実になったわ。早く用事を済ませて、ヘンリー君のところに向かいましょう」
「ええ。それじゃあ、まずは朝食ね」
あたしたちは、バルチック夫人の用意する朝ごはんの匂いに釣られるように、階下の食堂に降りていきました。
17/03/24 18:05更新 / 南文堂
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