連載小説
[TOP][目次]
その6

 深い眠りから目覚めようとしていた。

 目が覚める間近の、水中から浮上するような感覚が全身を包む。心地よい浮遊感から、じんわりと重力に圧されていく感じ。「これは夢だ」と夢の中で認識できるのと同じで、眠りながらでも目覚める感覚というものはよく分かった。
 泥をすすぐように気だるさが流れ落ち、血の巡る感覚が次第に色濃くなっていく。
 その中に、自分ではないモノが混じるのを感じた。熱いようで冷たいようで、何とも奇妙な存在感を放つそれは、五感のどれにも当てはまらない。しいて言うなら気配とでも呼べそうな、ぞわぞわと肌をひりつかせるものだ。身体の内側に、自分以外の何かがいる。気味が悪いはずなのに、不思議と嫌悪感はなかった。
 その何かはやがて心臓にたどり着く。しかしそこで終わらず、へばりつく様に心臓を覆ってみせると、少しずつ身を削り取って全身へ行き渡らせ始めた。脈動が起きるごとに頭の先から足の爪先まで、ソレは粉を溶かすように、血を媒介にして満遍なく浸透していく。
 始めは、消化だと思った。食物を摂取したときと同じ、砕き、溶かして、栄養として身体の一部にする。
 しかし、その得体の知れない何かが削れていくたび。自分という存在も一緒に溶けていく感覚が膨れ上がる。纏わりついたソレが心臓をも蕩けさせていると気づくのに、そう時間は掛からなかった。
 これは消化などではない。淘汰だ。その事実に思い至ったとき、自分は悲観するしかなかった。未だ眠りの中にいる身体ではろくな抵抗も出来ず、叫ぶことも許されない。圧倒的絶望が脳を埋め尽くした。

 そのとき、声が聞こえた。

 囁くようで、叫ぶようで、声音は大きくも小さくも、高くも低くもあり、ひどく聞き取りづらい。ただ、何と呼んでいるかは分かる。

 これは名前だ。他ならぬ自分の。

 眠りながら死にゆく自分にとって、それは救いの声に他ならなかった。無我夢中で応える。ここにいる、ここにいると、腹の底から叫ぶように、必死に呻いた。たとえ声は出なくとも、やれることはまだある。絶望がなんだというのだ。そんなものに自分は囚われない。今までもそうだったじゃないか。
 声は次第に近づいてくる。バラバラだった声音も安定してきた。心臓にある異物などもはやどうでもいい。声、声を拾うのだ。自分の名を呼ぶ、その声を。
 やがて声は間近にやってくる。眠る身体では目を開けられないけれど、確かに、自分の傍に来てくれた。
 歓喜に胸が震え、絶望が塗り替えられていく。異物もどこかに消えてしまった。その後には、自分の鼓動が変わらずにあることを感じ取れた。

『もう、だいじょうぶ』

 声の主は自分を優しく包み込んでくれる。ああ、幸せで胸がいっぱいだ。

『わたしが、ここにいてあげる』

 なんと優しく、心地よい声だろう。あなたになら全てを委ねられる。

 そうして自分は、再び意識を水の中に沈めていった。

 還るように。深く。ふかく。



 ○  平日の目覚め。  ○



「最悪だ」

 俺は携帯を握りしめて呻いた。
 圧倒的多幸感をもたらす二度寝は、ある意味で麻薬である。しでかす度に「二度とやらんぞ」と固く誓いを立てた筈なのに、気がつくとまたしでかしているような。ひとたび身体が味を占めてしまったが最後、俺は一生外せない鎖をつけられてしまったのだろうか。
 今日も例によって朝の戦場コースが確定してしまった。寝ぼけ頭に、携帯のアラームを止めたという記憶があるのが恨めしい。無理をすれば間に合う時間というのも絶妙にいやらしかった。

「くそぅ」

 悪態をつく暇すら惜しい。とにかくシャワーとハミガキだ。
 洗面所に駆け込むと、ひと息に服を脱ぎ、歯ブラシを口に突っ込んで風呂場に飛び込んだ。蒸し暑いこの頃でも冷水シャワーは堪えるが、身体を叱咤するには丁度良い。辛いくらいの方が下手に長引かないし。
 全身を洗い流しながら休日の記憶を振り返る。驚くほどつまらない、平平凡凡とした休日だった。土曜日はショッピングモールを冷やかして家事をこなし、日曜日はゲーム三昧。特に日曜日が酷い有様だ、朝飯すらろくに食ってない。雨だから仕方ないって訳でもあるまいに、我ながら無気力過ぎる。
 身体と一緒に心も冷えてきたところで切り上げた。バスタオルで手早く身体を拭い、下着とシャツを引っ張り出す。こういう時、クールビズのありがたみが沁みる。
 髭を剃りながら鏡越しに自分と対面する。限りなく無為な休日を過ごしたくせに血色は悪くなく、ろくな飯も食ってない割に体調も絶好調だ。やはり、デカいプロジェクトを乗り切ったことで気分が軽くなったおかげだろう。

「よしッ!」

 気合いを頬にかまし、居間に戻って鞄を手に取った。荷物を整理しておいた記憶はあるので確認は必要ない。昨日の自分に感謝しよう。
 玄関に駆け寄る。靴を引っ掛けながらドアノブを押し開けた。

 本日は晴天なり。

 ひとっ走りするには、いささか厳しい日照り具合である。



 ○  性の目覚め。  ○



 俺の自宅は最寄り駅まで約10分のところにある。道のりは単純で信号も2つだけ、走れば十分なアドバンテージが作れる距離だ。
 しかし今、俺は駅までの道をせこせこと歩いていた。狙っている電車の時間まではギリギリのペース、出発前に少しでももたついていたら確実に間に合わなかったことだろう。改めて、昨日の自分に感謝しなければなるまい。
 どうして走らずに歩いているのか。理由は至極単純で、しょうもないものだった。

「でさ、聞いてよもう! 裕美子ってばひどいの! わざわざ『お先〜♪』とか言ってきてさー」
「あれれ。企画したの花穂じゃんねえ。また先越されちゃったんだぁ」
「そうなの! もうほんっとサイアク。今日もあっついしさー」

 ちらほらと学生たちの姿が見える。
 正面を歩く女子高生2人も仲良く登校しているところのようだ。正直、会話の中身などまったく入ってこない。盗み聞きは趣味じゃないし、今はもっと夢中になるものがあった。

(半袖シャツって防御低すぎだよな……ブラ線見えてるし)

 うっすらと透けて覗く横筋に視線は釘付けである。体調が良いおかげか視力もバッチリで、肩甲骨が形作る背中の皺までじっくり観察できた。太股にかいた汗すらも視認できる。2人ともくるぶしソックスで、健康的な素足が朝日にきらめいていた。10代ならではのピチピチお肌である。

(右の子、胸デカいな。キャミ着てるしブラ透けが恥ずかしい清楚系。隣の子は下着見せても気にしないって感じでちょいビッチ寄り。スレンダーだけど日焼けした脚が中々……うわ、袖まくっちゃったよ。脇見せるとかダメでしょ)

 むわりと、甘酸っぱいJKの香りが道筋に残っているような気がして、俺は知らず深く息を吸い込んだ。お、ちょっと匂った。制汗剤の香りかな。
 いつまでも後ろをついて歩きたくなっていたが、彼女たちは駅に向かっているわけではないようで、途中で曲がって行ってしまった。名残惜しいが仕方ない。
 駅前までやってきたとき、信号はちょうど赤だった。車道を挟んだ向こうに自転車通学らしき女子高生がいる。なんと、片脚をペダルにかけたまま、身体を傾かせてスマホを弄っているではないか。持ちあげられた脚の隙間からは小麦色のおみ足とピンクの布切れがバッチリ見えている。俺の位置はちょうど良い角度になっていたようだ。

(油断してんなぁ。スマホに夢中だとこうなるんだよ。俺がガン見してるのに気づいてないし)

 どこにでもいそうな女子高生が、人通りの多い駅前で、太腿から三角地帯まで大胆に晒している構図。背景と合わさって実にエロい。許されるなら写真に収めたいくらいだ。
 信号が青に変わり、女子高生はスマホをしまって自転車を漕ぎ出す。風にスカートが煽られるが、ギリギリ見えないくらいの捲れ具合だった。流石にそこは意識しているのだろう。

(丸見えだったけどね)

 すれ違い様に勝ち誇る。何にかは分からないが。
 そうしてようやく駅にたどり着いた。腕時計を見ると本当にギリギリだが、とりあえずセーフ。
 改札をくぐり、駅構内を突っ切って階段を上る。肩にかけた鞄は、不自然にも身体の正面に固定していた。膝が当たって歩きにくいが仕方ない。

 俺が駅まで走らなかった理由。それは、隠さざるを得ないほどに起き上がった逸物のせいだった。

(朝立ちってレベルじゃねえ……)

 ギンギンに張り詰めたこいつのせいでひどく歩きにくい。
 さっき家を出てすぐ、薄着で犬の散歩をしていた女の子とすれ違ってから、ずっとこの調子だ。どうあっても治まらないので鞄で隠しつつ、小刻みに脚を運ぶしかなかった。何食わぬ顔を意識しているが、同性にじっくり観察されたら気づかれてしまいそうだ。肩ひもを引っかけるタイプの鞄なのでそこまで違和感はないだろうけど……。

(それに何か、すっげえ色々拾ってるしな……こんなこと初めてだ)

 先の女子高生の艶姿にしても、これまでだって似たような状況はあった筈。しかし、今ほど鮮明に捉えきれていたことはない。最高潮に怒張した息子に釣られて、身体が"そういうもの"を漁っているのかも知れなかった。浅ましいことこの上ない。

(土曜も日曜もしこたま出した気がするんだけど)

 安易に自家発電のことを思い出し、後悔した。情けない気分になることもあるが、この状態でのそれはまさしく炉に薪をくべる様なものだ。ますます猛り始めた息子が鞄をも押し退け出す。俺は慌てて鞄の位置を正した。
 とにかく気を紛らわそうと辺りを見回すが、視線を散らすたび、OLのパッツンスカートや生足JKを目ざとくロックオンしてしまう。遂には看板の女優にすら反応するのだからもうどうしようもない。

(何でこんな、思春期みたいな性欲出してんだよ……)

 いや。中学時代だってもっと慎みがあった。こんな、箸が転んでも勃つみたいな節操のなさ加減は初めてである。女という概念そのものに欲情しているかのようだ。自分の現状を客観的に捉えるとかなり切ない。
 ピリリと警笛がなり、間もなく電車が来る旨のアナウンスが流れた。

(やべえ。マジでどうしよう)
 
 このまま満員電車に揺られたらマズイ気がするが、この電車を逃したら後がないし、見送ったところで治まってくれる保証もない。どうしたものかとげんなりしていた、そのとき。
 目の端にチラリと人影が映った。

 引き寄せられるように顔が向く。

 階段から幾人かが上ってきていた中で、その顔は鮮明に見えた。

 髪の長い女。

「ッ!?」

 認識した途端、雷が落ちてきたような衝撃に脚が震えた。堪らず手すりに寄りかかり、片手を支えにして何とか立つ。じんわりとかいていた汗は瞬く間に冷や汗へ変わり、あまりの興奮に視界が歪む。それでも瞳はかっと見開かれ、その女を必死に追い掛けていた。
 まるで自分の身体じゃないみたいだ。
 顎を引き締め、ごくりと唾を飲み込む。

(なんだ、あの女……っ!)

 腰まで届くかという長い黒髪。背丈は俺より少し低いくらいで女性としては高めだ。臙脂色の、胸元にレースフリルの付いたホルターネックキャミソールに、黒のタイトなミニスカートを穿いている。素肌はまるで磨き抜かれた陶器のようで、汗の1つもかいていなかった。
 胸は大きく、腰はほっそりと引き締まり、尻がデカイ。例えるなら安産型モデル体型だ。およそ反対の言葉が同居する矛盾にエロチシズムを感じていただきたい。
 顔つきは大人びていて、手荷物的におそらく女子大生だろう。平日休みな勤め人の可能性もあるが、わざわざ満員電車の時間帯に出掛けるとは思えない。
 いや。ほっそりした肩やむっちりした太ももを見せつけるような恰好な時点で、前提を間違っている可能性もある。
 女は適当な列に並ぶと、バッグから携帯を取り出してかこかこといじり出した。今どき珍しいガラケーである。夏ということもあってか、これほどエロい身体つきの美女が来ても周囲は特に気にしていない。むしろ俺が見過ぎなくらいだ。
 その、ともすれば無防備な背中に、俺は吸い寄せられるように脚を動かしていた。

(おい。やめとけよ)

 脳のどこかで冷静な自分が声を上げる。だが、その声すらもどこか切羽詰まっていた。身体中があの女に夢中になっているのだ。
 これほどの興奮がこの世にあるとは知らなかった。ひと目惚れ、なんて生易しいものではない。恋心より先に生殖本能が勢いづく様な、生々しいまでの性欲が雄叫びをあげていた。今朝からずっと昂っていたこれは、すべて彼女の為にあったのだと確信するまである。

(……こんな格好じゃ痴漢されそうだし)

 俺が。その背中を見守っておくべきだ。もしかしたら電車の揺れで、その身体に触れてしまうかも知れないけれど、それはあれだ。不可抗力というやつだ。
 何より。俺以外の男が間違っても彼女に触れてしまった場合、どうなってしまうか分からない。そんな身勝手な理屈さえ、今は納得できてしまった。

 電車がホームに入ってくる。扉が開かれ、人の群れがぞろぞろと動き出した。その中を彼女の背中にぴったり張り付くようにして前進する。
 扉をくぐると、冷房の効いた空気で汗が引っ込んでいった。しかし、肩甲骨まで惜しげもなく晒された彼女の背中を見ていると、否応なしに体温は上昇する。
 彼女は車両を真っすぐ横切り、反対側の扉の脇に陣取った。この駅についた時点ではまだ車内は混み合っていないが、座る席に余裕はない。次の駅で一気に人が乗り込んでくるため、今のうちに自分の場所を確保する必要があった。普段は車両の真ん中辺りの吊り革を捕まえるのだが、今は彼女について扉脇の手すりを掴んだ。彼女は扉に向き合うようにして、窓から景色を眺めている。
 髪の両サイドから覗く白い肩を見ながら、俺はそれとなく車内に目を配った。俺と同じようなサラリーマンは大勢いるが、みんな彼女には目もくれない。通勤ラッシュの中にこんな格好の美女がいたら注目しそうなものだが、俺が意識し過ぎなのだろうか。
 実際、意識しすぎている自覚はあるが。
 自分では止めようもなかった。

(っつーか俺、駅着いたらどうするつもりだ?)

 仕事場の最寄り駅は、この電車で30分ほど揺られた先だ。そこまでに彼女が降りればいいがそんな保証はどこにもない。このためだけに会社を休むだなんて、それこそあり得ない話だ。

(……いいや。考えても仕方ないし。なるようになるだろ)

 今更、この熱を引っ込めることはできない。流れに身を任せよう。
 電車が動き出し、彼女の流れるような髪もさらさらと揺れた。そこからほのかに、柑橘系を思わせる爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。その程度の刺激でも股間のいきり立つ気配があった。右手は手すりを掴んだまま、左手で鞄をそれとなく調整する。

(これじゃ、両手ふさがっちまうな)

 あわよくば、彼女に触れて見たかったけれど。流石に手すりと鞄からは手を離せそうになかった。
 そうこうしている内に、次の駅に到着する。いよいよだ。
 俺と彼女のいる反対側の扉が開き、ぞろぞろと大勢の客が乗り込んでくる。たちまちの内に車内はいっぱいになり、吊り革を掴むことも難しくなる人が出始めた。俺の背にもぐいぐいと人が寄ってきて、実に仕方のないことに、彼女の背中に俺の身体が接近してしまう。ああ、やべえ、幸せすぎる。
 かろうじて鞄を間に挟むことでセーフ感を装っているが、俺の顔はもはや喜色満面。痴漢と言われても誤魔化しようが無いものだったろう。

(髪、良い匂いだな。埋もれて思いっきり嗅ぎたい)

 眼前には彼女の黒髪。シャンプーのCMのようにさらっさらだ。例えが稚拙で申し訳ないが、これほど美しく隙のない髪を俺は知らない。
 無論、そのほそっこい肩もすべすべだろうけど。鞄ごしに接触している下半身の柔らかささえ、知覚できてしまう気がした。というか、膝でちょっと押してみて確認してしまう。

(く、食い込むぞ! すげえ、人間ってこんなに柔らかいのか!?)

 鞄が幸せすぎた。もう鞄になりたい。なろう鞄に。この発想で俺がどれだけヤバいテンションなのかが伝わるだろうか。
 ともあれ、悪戯はほどほどにしないと本当に痴漢と思われかねない。俺は右手の手すりをしっかり掴むと、下手に彼女に触れないよう姿勢を正した。

(ん?)

 その時。彼女の顔が、わずかにこちらを窺うように動いた。彼女の右手は俺と同じように手すりを掴んでいて、左手は肩掛けバッグにかかっている。その左手が、すっと下げられた。
 次の瞬間。彼女との間に挟まっていた俺の鞄が、ぐいっと横に引っ張られた。

(……え? ちょ、まッ!)

 唐突なことで理解が遅れる。左手を鞄に添えてはいたものの、まさか動かされるとは思わず油断していた。
 俺の過去最大級に膨張しきった股間が、電車内に晒される。彼女との境界線が取っ払われた先には、生意気にぷりんと上向く尻があった。俺は、鞄を戻すことも忘れ、その光景に見入る。

(ち、けぇ)

 ちょっと腰を動かせば。そこに触れることができるだろう。だが、膨れ上がった欲望は、触れるだけで済むとは到底思えなかった。
 コスるかも知れない。スりつけるかも知れない。いわんや、痴漢のそしりは免れないだろう。

(ダメだ、それだけは、ぜったい、)

 ルールとモラルは守るためにある。破ったが最後、先に待つのは後悔と絶望だ。欲望に目の眩んだ奴の末路なんて、子供だって知っている。
 親を悲しませてはいけない。友人にだって、同僚にだって顔向けできなくなる。
 何より。目の前の女性を、泣かせるような真似などしたくない。

 俺は右手にありったけの力を込めた。左手で鞄を戻そうとするが、隣の人との間に挟まってしまったのか、思うように動かせない。

(くそッ! いそげ、はやく、)

「……いいね。やっぱ君、最高」

「え?」

 ぎゅむ

 擬音はそれだった。
 圧倒的質量の物体を押しつけられたら自然と鳴る音である。物体は柔らかくもハリがあり、かつ凹みもあったので、俺の棒はちょうどフィットした。

(……え?)

 視線を落とす。俺の革靴は見えなくて、代わりに黒のミニスカートが見えた。凸型に出っ張った俺のスラックスの形にぴっちり合わせて歪んでいる。

(え?)

 驚愕の声が、理解の過程を通り過ぎて、またも驚愕に変わる。何が起こっているか分かるのに、何故起こったのかが分からなかったからだ。俺、何をしちまったんだ?
 咄嗟に腰を引こうとして、引けなかった。すぐ後ろにも人がいるからだ。動かせる余地などどこにもない。いや、本気で引こうとはしていなかった。引かなくてはいけない、と思っただけで。
 なぜ引かなくてはいけないのだ。こんなにも気持ちがいいのに。

(ば、か、やろおぉお……ッ!)

 逃げたいのに。逃げたくない。脳内で矛盾が生まれる。欲望に従おうという肯定に、なけなしの理性が否定している構図だ。どちらが本心なのかは言うまでもなかった。

「……♥」

 ジィー

 にっちもさっちもいかなくなっていた中で、その音はいやに耳に響いた。何の音、と思ったわけではない。感触が、実に生々しく届いたからだ。

 俺のスラックスのチャックを下ろす音だった。

 彼女は上半身を少し倒して、自分のまたぐらに左腕を通していた。そうして自分の尻に押し当てた俺の股間に手を伸ばし、器用にもチャックを引き下ろしたのである。
 もはや訳が分からなかった。訳が分からないまま、彼女の指は下着の前開きをくぐり抜け、俺の怒張に絡みつき、そのまま引っ張り出してくる。
 ぞるりと、まだ硬化しきれてない柔さをもった物体が、しかしその質量を存分に意識させる勢いで、飛び出た。

(んなぁッ!?)

 欲望と理性とで分離していた精神が、目の前の非常事態に結託する。よもや、我が愚息を公衆の場で披露する羽目になるとは。
欲望肯定派もこれにはドン引きであった。

(しゃ、洒落になんねえッ!!)

 慌てて左手を鞄から離し、自分の股に伸ばそうとするも、彼女の尻に阻まれる。密着していて触れずにいける隙間がない。だが、考えるより先に身体は動いていた。
 ぐいっと身体を前のめりにして、彼女の太ももから回りこむように左腕を伸ばす。そうして自分の股間まで届かせようとした。後々振り返ってみると、これはもうどうしようもなく、女性の股間に左手を這わす痴漢の構図そのままである。しかしこの時の俺はとにかく必死だった。
 しかし。
 そんな必死の抵抗も、彼女の指がぴとりと触れてきて、止まってしまった。

(な、んで)

 掴んできたわけではない。凄まじい力なわけでもない。ただ指が、手首に触れただけだった。それだけで、振り払おうとする意思が削がれていく。すりすりと、ねだるように擦ってくる指を跳ね退けることができなかった。何故か、それを許さない自分がいるのである。

「……優しいね。ほんとに」

 だから壊したくなる。

 それが彼女の言葉だったのかは分からなかった。次の瞬間には、俺の理性は吹き飛んでいたからだ。

 ぎゅぅう

「うぁっ!」

 露出した肉棒に襲ってきた甘美な圧迫感に思わず息が漏れる。
 今思えば、この時に理解するべきだった。電車内で情けなく声を上げた俺に対し、周囲の人間は一瞥もしなかったのである。その異常な状況に、さらに異常な状況に晒されていた俺は気づくことができなかった。

(こ、れ)

 体を前のめりにしていた俺は彼女の左肩から首を出している。それほど密着していたにも関わらず、俺はもう、自分の股間がどういう状況かを確かめようとしかしていなかった。それがここで最も興奮できることだと、頭で理解していたからだ。
 俺の肉竿はいま、彼女の股座から顔を出そうとして、スカートに阻まれていた。しかし亀頭の位置が分かるくらいに盛り上がっていて、今なおその膨らみを伸ばしている。そして竿は、ぴっちりと閉じた太腿に圧迫されていた。

(素股、だ)

 彼女のすべすべとした肌は肩だけではないのだとよく分かる。こんなにも心地よい感触があるのかと、俺は彼女のわずかにめくれ上がったスカートに手を這わせ、肉棒だけでなくその太ももを味わった。

「……んっ♥」

 思うさま擦り付けていると、彼女の腰がもどかし気に震える。ああ、悪い。君も楽しみたいよな。
 俺は右手の手すりを掴みなおすと、左腕を彼女の胴に回し、抱きつくようにして腰を前後させた。ぎゅっぎゅと俺の股に彼女の尻が食い込むのが楽しく、いつまででも続けていたくなる。彼女も俺の動きに合わせ、くいくいっと腰を捻っては肉竿の具合を変えてくれた。むっちりとした太腿の隙間は十分な締め付けがあるうえ、彼女の股座から俺の分身が飛び出してくる様は視覚的な刺激も十二分に備わっている。その興奮でさらに怒張が張り詰める気配があった。
 すると角度が上向いたのか、亀頭の手前側に、柔らかな布地が擦りつく感触が出てくる。竿の感触でも分かっていたが、彼女の下着だろう。俺は少し考え、腰の動きを変えた。

「んぁッ♥」

 彼女の艶声を聞き、ほくそ笑む。亀頭の傘が捲りあがるほど強く押し込み引き込み、彼女の陰唇を擦り上げるようにしたのだ。左腕にますます力を込め、彼女が自由に動く余地をなくしていく。
 やがて、俺の先走り以外に、ぬめるような湿り気が亀頭を濡らしてきた。見ずとも分かり、聞いてもわかった。電車のガタンガタンと動く音の中に、ぴちゅぴちゅと舐めるしゃぶるような音が混じってきたからだ。
 いい具合だ。このまま、彼女のスカートの中にぶち撒けるのも面白い。傍から見れば黒いスカートなのに、内側がべったりと白いのだ。堪らないじゃないか。
 夢中になって腰を振っていると、彼女の顔がこちらを向いた。泣くような、笑うような表情で、なんと言えばいいか分からない複雑な表情だった。ただ確実に言えるのは、彼女もまた俺と同じ、淫蕩に酔っているということ。それだけ分かれば十分だった。
 彼女の左手が俺の首に回される。そのままゆっくりと引き寄せ、俺の唇をぺろりと舐めた。

(いいよね?)

 伺うような目に、返事はしなかった。こちらから首を伸ばし、彼女の唇ごと頬張るように口を開ける。しかし彼女も同じことを考えていたのか、お互いの開いた口がぶつかり、密着した。

「はむっ、はむぢゅっ、れろっ、ちゅるっ、ちゅっ、れろぉおおおおっ」

 エロゲなんかでキスシーンを読んでいるとき、なんか嘘くさい音だしてんなぁと思うことがある。台詞なのか擬音なのかはっきりしろよ、みたいな。だいたい抜くシーンの前後に入るから、心情的に余裕がなくてそんなことを考えてしまうのだけれど。
 だが今、貪るようなキスをしていて分かる。
 台詞っぽく声に出していた方が、エロい。新たな性癖に目覚めそうだ。
 俺の目の前で、ハッとするような美人が、下品な擬音を交えて熱烈なディープキスをかましている。その事実だけであらゆるものが許容できた。

(くっ、うぅううう)

 もう腰は、周囲への遠慮など何もなしに、夢中になって彼女の尻を叩いている。動かすたびに亀頭はぞるりとぬめった彼女の股を滑った。
 彼女はぐらぐらと身体が揺れるのも構わずに、いっそう腕に力を込めて、逃さんとばかりに舌を蠢かした。肉厚な舌が俺の舌に絡みつき、ちうちうと吸われるまま彼女の口内へ連れていかれる。すると彼女は唇を閉じて、しゃぶるように俺の舌を味わい始めた。
 目尻はだらしなく下がり、けれど瞳はかっと見開かれていて、俺の顔をじっと見つめている。

「ちゅぷっ ちるるるッ ぢゅぅうううう」

 見て。もっと、私を。

 彼女の目が俺に訴えかけていた。俺は応えることも出来ず、ただただ快楽の津波に意識が浚われないよう踏ん張る。
 びりびりと舌先から痺れがやってきて、それはぞくぞくと背筋を下っていき、やがて股間にまで繋がった。するとますます息子は猛り、彼女の女性器により深く食い込む。
 疑似的なものだというのに、これはセックスだと納得していた。互いの昂ぶりが作用しあって、より高くより激しく。気遣いや遠慮をかなぐり捨てて、あらゆる欲望をさらけ出す行為。

(俺、行きずりの女とセックスしてる)

 電車の中だということも、通勤途中ということも、理解していた。それでも尚、この願望は止まらない。
 そう。紛れもなく、これは俺の望んでいたことだ。

(ああ、くそ、全部どうでもいい)

 彼女がいる。俺を見て、俺が見ることを欲する、彼女がいる。
 それだけでもう。俺は満たされていた。

「じゅるろぉっ、じゅろ、じゅろぉろろろ」

 下着ごしに陰唇を磨き上げられ、絡み合い舌根まで絡め合わせた口の端からはプツプツと泡立った唾液が垂れる。瞳はもはや焦点が合わず、ただただ身体の求めるままに動いていた。
 彼女の艶姿をいつまでも見ていたかったが、この身に余る快楽には終わりがやって来る。ぎゅるぎゅると下腹が唸るような感触に、俺は自分の限界が近いことを察した。

(せめて、彼女にも、)

 感じて、達してもらいたい。
 だから俺は両足で踏ん張って右手の支えをなくすと、その右手を胸の谷間に突っ込んだ。

「んむぅっ!?」

 彼女の驚く仕草に、してやったりの気分。さっき目をやったとき、ブラの上からでもありありと分かるほどに勃ち上がっているのが分かっていた。
 乳首を。摘まみ上げてやる。

「きゅふぅぅううううンっ!?」

 CRITICAL HIT !!

 セックスバトルゲームだったらこんなメッセージが出たんだろうなぁという具合で、彼女はあれほど吸い付いていた俺の舌をあっさり離すと、びくびくと肩を震わせて鳴いた。だが、今更その程度に怯む俺ではない。
 さらに硬く尖り勃っていくのを感じながら、指先でぴんぴんと小刻みに弾き上げ、先端をすりすりと撫で回し、乳肉に深々と押し込んでぐりぐりと圧迫する。

「あぁあアアっら、めへぇえええッ!!」

 ついには逃げ出そうとばかりに身を捩じらせてきた彼女に、ぞくぞくするほど興奮した。さらに股間が滾り、限界と思っていた上限をさらに越えていく。
 彼女の白い首筋に舌を這わせ、見かけたときにはかいてなかった汗を味わった。左腕はしっかり彼女を抱き寄せて、右手は人差し指と中指でしこしこと乳首を擦ってやる。
 彼女はふらふらと扉に寄りかかり、されるがままびくびくと腰を震わせていた。応えようと動く力すらも抜けてしまったようだ。そこまで追い込んでいるという事実が堪らない。
 しかし彼女は、だらんと下げた腕を股間に寄せると、俺の亀頭を包み込むように両手を重ねて見せた。受け皿のような形だと認識した途端、彼女の意図を理解する。
 彼女の太ももと両手が作って見せたオナホールを、俺は思うさま味わった。そうして、ついにその時がやってくる。

「うっくぅうう!」

 下腹に力を込め、肉の幹にも全力を投入していた。自慰によってそれなりに鍛えていたつもりの我慢方法だったが、実戦の前には時間稼ぎにもならない。何せ、自分で制御できない欲望など、これが初めてのことだったからだ。
 俺は自らの腹底から沸き上がる衝動のまま、一気に腰を突き出した。睾丸が収縮し、あまたの実弾が管を急速に駆け昇っていく感覚。送りだされた欲望は全て、彼女の掌に放たれるのだ。

 どゅくどゅくびゅくぶびゅぅうううっ ずびゅるぅうううッ

 煮えたぎったマグマが内側を焼いていた。塊状の粘液が管を押し広げ、少しでも前に前にと押し出されていった先、彼女の白魚のような指へびちびちと貼りついていく。彼女はがくがくと腰を震わせながらも、ぴっちりと両手を合わせて一滴残らずそれを受け止めていった。やがてすべてが絞り出ると、彼女はそれを口元へ寄せていく。唇が吸い込むように窄まり、舌が迎え入れるように垂れ下がる

「はぁああ……♥」

 陶然と溜息を零し、彼女は、それを、

 瞬間。

 世界が照らし出された。



 ○  夢の目覚め。  ○



 突然の逆光に明滅した視界が、ゆっくりと晴れていく。

 何のことはない。電車の扉が開かれたのだ。

 ドンっと背中を押され、支えのない俺の身体は呆気なく外に放り出される。扉の脇に陣取っていたのだからこうなっても文句は言えない。
 だが今の俺はそれどころではなくて、大慌てで自分の身なりを確かめた。股間を露出させたままでは非常にまずい。まずいどころじゃなくかなりマズイ。
 しかし、チャックは閉じられていたばかりか、息子も通常営業だった。

「あ、れ?」

 慌ただしく動く人の波に流され、否応なしに足を動かす。駅の看板は見慣れたもので、仕事場の最寄り駅だった。
 突然のことに頭が切り替わらない。だが、身体のどこにも不調はなくて、勃起なんて、ましてや射精なんてした感覚は欠片もない。現実感がないのだ。

(夢、なのか? あれが?)

 そんな筈はない。ない筈なのに。
 先ほどまでの体験が、圧倒的な日常に押し流されていく。実態の伴わない記憶はこうも不確かなものなのだと思い知らされた。
 いや、せめて、彼女の顔を……。

(マジかっ!?)

 思い出せない。

 髪が長くて、美人で、エロくて。初キスまで捧げたのに。

 肝心の顔が思い出せない。なんでだ。

(……夢だから)

 それだけでもう、すべて片付いてしまう。もう認めるしかなかった。

(あり得ないだろ。童貞かよ……)

 通勤電車で立ちながら居眠りして。鉢合わせた美女と素股を交わした夢をみたわけだ。もういろいろ拗らせすぎてて何も言えない。

(童貞だったわ……)

 夢の中ですらも貞操を守っていたことに凹む。だが、こんなテンションで仕事などできよう筈もない。
 俺はふらふらと人の波から外れ、自販機に立ち寄って栄養ドリンクを買った。一息に飲み干し、気分を仕事モードに無理やり上書きしていく。
 目の前には、俺と同じように仕事で降りてきた人々がぞろぞろと前進していた。俺はなんとも情けない夢を見て、こうして立ち止まっている。こんな調子で大丈夫なのだろうか。

(プロジェクト終わって、気が緩んでたのかもな)

 休日の過ごし方にしても散々だった。ここらで舵を切っておかないと、後々後悔するのは自分だろう。

(春宵一刻値千金、だったか。今夏だけど)

 充実した仕事の日々が落ち着いてきた今こそ、やっておかなければならないことは沢山ある。それらすべてと言わずとも、為しておいたことは必ず自分の力になる筈だ。
 それっぽいやる気の文言を考えたところで、空き瓶を捨てた。ひとまず仕事のテンションに戻せる手ごたえはある。

 そうして、改札に向かおうとした俺の目が。

 引き寄せられるように動く。

 改札から幾人かが入ってきていた中で、その顔は鮮明に見えた。

 髪の長い女。

「ッ!?」

 認識した途端、ぞくりと背筋が震えた。
 興奮はしていない。
 見覚えだってない。
 その筈なのに。
 身体が芯から揺らいでいた。
 どうしてか、彼女から目を離せない。恰好は夢で見たのと同じな気がする、臙脂色のキャミソールに黒のスカート。

(いや。当てになんねえだろ、そんなの)

 なにせ夢なのだ。自分に都合のいいように、いくらでも改変できる。

(どれだけ仕事に行きたくねえのって話だよ。もう止めろ)

 そうだ。だいたいおかしいだろ、会ったばっかの女と素股とか、バカげてる。それに彼女は俺と逆方向から来てるじゃないか。それは理屈に合ってない。

 その筈なのに。

 彼女はこっちを見て、やんわりとほほ笑んで見せた。自販機の傍には俺しかいない。
 それは確かに、俺に向けられたものだった。

(……だめだ、止せって)

 ざりざりと、足の向きを変えてしまう。彼女の後ろについて、歩こうとしてしまう。そっちの電車は逆方向だ、仕事に間に合わなくなっちまうぞ。本当にやめとけ。洒落にならん。
 なけなしの理性を振り絞って。脚に両手をついて踏みとどまる。そうだ、大丈夫。そのまま改札を出て、それで、

 彼女がこちらへ振り返り。ちらりと窺った。

 不安そうに眉をひそめたその顔が、はっきり言って、めっちゃ可愛い。ヤバい。

 俺は同僚へ電話を掛けると、午前半休の旨を伝えて一方的に切った。

 ああもう。

 男ってほんとバカ。



 ○  そして目を覚ます。  ○



 名も知らぬ彼女について行って、電車に乗り込んだ。
 今の時間、下りの電車は少し空いている。それでも席に座るような余裕はなく、俺は吊り革に掴まり立っていた。
 視線を、隣の彼女に向ける。俺が電車に乗ったのを見るや、彼女は俺のすぐ隣に寄ってきた。言葉も交わさず、時折ちらりとこっちを見てははにかんで見せる。俺の方も気恥ずかしくなってきた。
 どこまで行くのかと考えていたが、彼女は電車が止まる度、開く扉と俺を交互に眺めてくる。どうやら、俺の判断に任せるつもりらしい。

(何か妙なことになってるな)

 そうして、俺の自宅の最寄り駅まで戻ってくる。試しに降りるそぶりをしてみると、彼女もついて来ようとしたので、そのまま降りた。俺の後ろをつかず離れず、まるでアイガモの散歩をしている気分だ。
 駅構内から出て、まだ朝飯を食ってないことに気づいた。とりあえず、適当なところに入って食事をとることにする。
 とにかく、この意味不明な状況の理由を見つけなくてはいけなかった。何が何やら分からないままでは、俺は彼女との接し方が分からないままだ。
 なので朝食の場というのはちょうどいい。とりあえず間は持つし、夢で見たんですみたいなうっかりヤバい話をカミングアウトしなくても済むだろう。今の俺の精神状態は普通じゃない。周囲の目をそれなりに意識させる場所なのがミソである。
 大通りを渡った先、十字路に見えた適当な喫茶店に入る。彼女はフレンチトーストと紅茶のセット、俺はBLTサンドとコーヒーを頼んだ。ついでにツナサラダも頼み、それをつつきながら話を切り出すことにした。
 店内の奥まった席。店員の視界から隠れるようにして座る。

「あの、さ。俺はまず状況を把握したいんだけど。……質問いいかな?」
「うん。いいよ♥」

 にっこりとほほ笑む彼女にドキリとしたが、ここで仕留められてはいけない。努めて冷静に。

「俺たち、どっかで会ってるかな?」
「うん。先週の金曜から、一昨日と、昨日も会ってるよ」
「えっ?」

 思わず声が漏れた。大抵のことには驚くまいと思っていたのに、呆気なく敗れてしまう。

「ちょ、ちょっと待って。冗談はやめてくれ」
「冗談じゃないよ。私たちは3日前に会ってる」
「……そう、なのか?」

 俺の記憶はだいぶ違う。金曜は飲み会のあとべろんべろんになって帰って、そのまま土日は自堕落に過ごしていた。土曜は一応出掛けはしたが、誰かに会ったなんてことは無かった筈だ。
 ただ。
 記憶とはかくも曖昧なものなのだと、さっきの電車内の夢のことで、思い知らされてしまっている。だが、だからと言ってこんな話をおいそれと信じるわけにはいかない。

「信じられない?」
「……悪いけど、あんまり」
「そう。じゃあ、キスしたことは?」
「ッ!?」

 はっとして彼女を見る。フォークにだらしなく舌を這わせた彼女が、楽しそうに目を細めていた。

「さっきもさ。すっごいチュー、しちゃったよねぇ……?」

 ねろんねろんと舌を蠢かし、ちゅうちゅうとしゃぶる仕草。紛れもなく、先ほど味わった動きだ。

「な、ん、」
「あれれぇ? これも覚えてないかなぁ」

 フォークを置き、両手を重ねて器の形にする。そうして、そこに見えない液体が注がれているかのように、ずるずると啜って見せた。

「私は覚えてるけどねぇ。すっごく美味しかったよ♥」

 覚えているとも。鮮明に。
 だが、それを口に出すことは憚られた。そんなこと、認めていいはずがない。だったらどうして、俺の身体は普通だったのだ。服も戻っていたし、射精感だって何も、何も残っていなかったじゃないか。

「いいんだよ、覚えてなくっても」

 ぐるぐると自問する俺の頭に、彼女の声が響く。

「私がぜんぶ上書きしてあげるから。
 土曜のことも、日曜のことも、今日のことだって、ぜぇんぶ、ね♥」

 にんまりとほほ笑む彼女は、先ほどとは別人にしか見えない。だが、これが紛れもなく彼女の本性なのだということは理解できた。

「とりあえず、私に教えてよ。君の名前は?」
「……北上、厚志」
「キタガミアツシ、ね。うん、覚えた」

 なんだか奇妙なイントネーションだった。顔立ちからして少し日本人離れしているし、もしかして外国人なのだろうか。聞いたところでなんだという話だが。

「私はカオル。これからよろしくね」

 その時。俺の口は勝手に動いていた。


「――君も。カオルなのか」


「えっ?」

 カオルがきょとんと目を見開く。年相応な幼さを感じさせる表情だった。いや、女子大生っぽい外見のギャップと相まって、余計にそう感じるだけかも知れない。
 思わぬリアクションに、俺は自分が何を口走ったのかを反芻する。

「あれ? 何言ってんだ、俺」

 カオルなんて名前の知り合いは、1人もいない筈なのに。
 首をひねる俺に、カオルは、こちんと固まってしまっていた。予想外過ぎて思考がキャパを越えてしまったかのようだ。不用意なことを言ってしまったかとは思うものの、何が悪いのかもわからないので黙っているしかない。
 やがて店員が料理を運び終えたところで、カオルはフォークを手に取るも、トーストには向けずにぷらぷらと遊ばせ始めた。

「……なんか、白けちゃった」

「えっ?」

 今度は俺が固まる番だった。マジで? そんな地雷を踏み抜いたの俺?
 愕然と停止する俺に構わず、カオルは続ける。

「あー、もうサイアク。せっかく横取りできるかと思ったのに」
「なに? 何の話?」
「あなたのチンポの話」
「「ぶふぅッ!?」」

 盛大にむせた。ついでに衝立向こうの店員もむせていた。オイコラ、盗み聞きしてるんじゃないよ。

「まあ、いいかな。いつかは話そうと思ってたし。予定とはだいぶ違うけど」
「ごっほッ! ごっほッ!」

 何を言ってるか聞きたいが、妙なところに入って咳が止まらない。
 カオルは至極どうでもよさそうに、俺を指差した。

「キタガミの分かる言葉で説明してあげる。私はカオルの母親みたいなもの。OK?」
「ごっほぁッ!?」

 返事は、出来るはずもなかった。
16/08/01 10:04更新 / カイワレ大根
戻る 次へ

■作者メッセージ
次回か、次々回で完結です。
完結したらサブタイに記載しますので、よろしくお願いいたします。


拍手、感想、五体投地で受け止めさせていただいてます。
ありがとうございます。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33