連載小説
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第四話 「女」
「全くわけが分からない…」
白いミルクの様に溶け込む濃い霧が辺りをしつこく私の視界を遮る様に立ち込める。異系の世界と化した静丘町のある街道の歩道を私は彷徨い歩いていた。何時までも晴れることも無く辺りを包む白い霧に私の心は陰鬱として仕方がなかった。
さきほどワーキャットの少女芹沢亜里抄と再び遭遇した、前に彼女は母親を探していると言っていた。しかし質問を投げかけるたびに浮かび上がる不可解な彼女の反応、何かに怯え私が近づこうとすると彼女はいきなり手に持った包丁を突き出して私に殺意の籠った視線を向ける。極めつけは「静丘町に呼ばれた」という常人が聞けば頭のおかしい人間の発言と捉えられる言動。
 (あのまま彼女を止めなくてよかったのだろうか?この想像もできないような非現実が起きるこの町の中に彼女一人彷徨わせるはめにさせて?)
 私は手に握っている彼女がその場に落としたあの血のついた包丁をまじまじと見つめる。
 血で汚れ濁った色をした刃は若干欠けている、彼女が落してしまった時に刃が少し折れたのだろう。それにしてもこの包丁についた血はすでに乾ききっているのがいささか気になる、町の至る所に化け物どもが徘徊し私のズボンポケットに入っている小型ラジオのノイズ音は一向に静かにならない。
 常に私は危険と隣り合わせの状態だった。
 しかし彼女はその中でのらりくらりと化け物の海を掻い潜っている。見た所彼女はワーキャットだ。猫は非常に柔軟性が高く瞬発力や運動能力は人間と比べると並大抵なものではない、きっとその生まれ持った能力でこの悪夢の中で生きていられるのだろう。
 「ん…これは?」
 寂れた民家の塀に何か子供の落書きの様な稚拙な字が書かれていたのが私の目に止まった。ただの子供の落書きならば別に「親は一体何を教育しているんだ」と一応遺憾の意を顕わにするに留まる。
 しかしその塀に落書きされた内容は、子供が描くようなとてもメルヘンチックでほのぼのとした内容ではなかった。
 『綾香に会いたいのなら、死ねばいい。あなたがいくのは綾香と違って別の場所へいくかもしれないけれど…』
 とても子供の字にしては殴り書きされた悪意の籠った乱暴な字と、明らかに私に向けて書かれた文の内容は非常に私の心の奥底を抉るように入っていく。一体誰が書いたのだろうか?綾香と書いてはあるが同姓同名のただの別人なのか?それなのに何故私はこんなにも達観したように落ち付いているのだろうか?
 別の場所…確かにそうかもしれない。
 私は芹沢亜里抄が落したあの包丁をぼんやりと見つめる。
 (もし、これで私を刺せば彼女の元に…)
 「フンフンフフ〜ン♪…」
 どこからともなく幼い子供の楽しげな鼻歌が聞こえる。どうやらそれはこの民家の塀の上からであった。
 見上げると塀の上に小学生くらいの女の子だろうか、黒髪の長く頭に狐の様な耳をはやしてそれが慌ただしくピクピクと生きているように動いている。ふさふさとした気持ちのよさそうな二つの尻尾もまた落ち着きなくパタパタと埃を払うかのように動く、長い黒のロングスカートの下から伸びる細い枝の様な足もまたブラブラとさせて。
 あきらかにワーキャットの芹沢亜里抄の時と同じく普通の人間の容姿ではない。
 (妖狐?それとも稲荷?)
 彼女はこの町を覆う陰鬱とした雰囲気に似合わない笑顔を浮かべ、鼻歌交じりで自身の世界に入り何やら楽しく時折頭を左右に振りながら鼻歌のリズムに乗っているようだった。
 まるで彼女だけ別世界の次元にでもいるようだった、彼女の周囲だけ妙に濃く霞む鬱陶しい霧は少し薄くなっているような気がする。私の気のせいだろうか?
 「君は一体誰だい?ここで何をしているんだ?」
 私は彼女に問いかける。彼女はピタリと鼻歌を歌うのをやめ、視線を私の方に向け下の私の姿を確認すると片方の大きな目を小さく歪ませて、明らかに歌の邪魔をされて不機嫌な態度を取っている。
 何とも子供らしい素直な反応だった。
 「あなた誰?」
 狐耳の少女の声は声が沈むように落ちていた。そして私の姿をまじまじと視線を上下に動かし片眉を吊り上げ何かを何やら思案しているようだった。
 「私は岩瀬隆だ、子供がこんな辺鄙なところで一体何をしているんだ?」
 少女は急に眼を大きく見開き私を見て何かを思い出したかのように表情を驚愕とさせるのだった、その様子で私は彼女は全く人の話を聞いていないことを悟る。
 「見て分かんないの?馬鹿なんだね。今私が鼻歌を歌っているのさっきからずっと見てたんでしょ?」
 狐耳の少女は私を小馬鹿にしたように片方の口元を吊り上げ鼻を鳴らしてめいいっぱいの悪意を込めてせせ笑う、その反応に幼い子供の可愛らしさは微塵も感じられない。ただの生意気な子供だった。
 「私の質問が聞こえなかったのか?お嬢ちゃん?そういえば君の名前は?」
 少女の生意気な口振りに私は少し頭を熱くさせ語尾が若干荒くなる。相手はただの右も左も知らない大人の苦労なんて分からないただの生意気な子供。子供の戯言に頭を熱くさせてどうする?と私は胸に手を当て心の中でそう自制をして冷静になるように促す。
 私の反応に気を悪くしたのかどうか知らないが、「ヘッ」と薄汚く鼻を鳴らしその場から立ち上がりスカートについた埃をウンザリとした感じで払うような仕草をする。
「お前なんて関係ない、綾香お姉ちゃんのこと嫌いだったんでしょ?」
 彼女の口から放たれる人を突き放すような言葉のある一部分に、私は大きく敏感に反応し水をかけられたような衝撃を受ける。
 「待て!?何故綾香のことを君は知っているんだ?」
 「フン、知らない!知っていてもあんたなんかに教えてやるもんか!!」
 彼女は荒々しげに塀の向こうの民家の庭に下りて見えなくなる。
 「なっ…何なんだあの子供は!?」
 彼女の姿が消えて私は、さっきまで我慢していた鬱憤を晴らすように声を怒鳴る様に荒げ暫くその場に立ちつくす。傍から見れば何とも情けない姿であろうか、子供の戯言に激しく憤慨するその姿は。
 (生意気な…しかし、あの女の子はどうして綾香の名前を?それに私のことまで…)
 それがどうも引っかかる。
 私は自分の記憶をたどってみる、しかしあの少女と私は面識なんて一度も無い。全く知らない赤の他人、綾香は体が弱いため普段食料品を買いに行く以外に外出することもない、アパート内での近所付き合いに関しては綾香の口からその話題はほとんど聞いたことがない。アパートへ住居を移した時、その当日アパートの住民たちに私と綾香は二人で挨拶回りに行ったが、住民たちの中に夫婦はいたものの子供まではいなかった様な気がする。
 それにあの少女は魔物の種族だ、あのアパートに魔物夫婦が住んでいて尚且つ子供までいるならかなり印象が深い。静丘町に魔物の比率はあまり高くなかったような気がする、静丘町の交差点や街道にてよく仕事先の都合上車を走らせていた、しかし魔物の女性はあまり見掛けなかった。
 (だったらどこで綾香と彼女は出会っていたんだ?)
 分からない、考えるだけ無駄な気がする。
 あんな子供のことよりも私には綾香に会うという目的がある、寄り道ばかりして私は一体何をしているんだ?
 私はまた止めた足を進め少女のことは無視し公園を目指した。時折またあの少女のことで様々な疑問ばかり浮かんでくるため私は頭を振って振り払う仕草をする。
 舗装された歩道を走っていくうちに道路の真ん中にまたあの例の化け物達が徘徊している姿が私の目に留まる。その中にはアパートの自宅で例の『三角頭』に犯されていた、あの下半身を二つに合わせたのっぺりした青白い肌が不気味なマネキンの化け物がいた、上半身の黒い扇情的な下着をつけた下半身の足が虫の触覚の様に歪な音を立て動いている。どれもこれも皆何故か苦しんでいるように時折体を震わせながら揺れながら移動している。動けば動くたびにさらに苦しんでいるようにも見える、一体あの化け物達はどこから来たのであろうか?あの化け物の姿を見ていると何故か私の心は激しく苦痛に締め付けられてしまう。
 (まだなのか…まだ?)
 いつまでたっても同じ住宅の軒並がずらりと壁を造る様に私の横に並んでいる、民家には一つも明かりが付いておらず人の温もりを毛頭に感じさせない、屋根は少し積もった雪を化粧し民家の景観は白の濃い霧に溶け込んで白一色となっている。
 道路脇に雪を被った車が幾つも打ち捨てられている、その車の中には人はおろか車の中は新品の様に物が一つも無い。
 歩道の上に整備された街頭に明かりがまばらにつき始めてきた、その様子に微かだがまともな人間がまだ町にいるという淡い希望を持たせてしまう。ただ単純に電力の自家発電に切り替わっているだけかもしれない、暫くすれば一瞬でこの静丘町の街並みは一気に漆黒の闇に包まれ化け物達の活動が活発化し始める。
 またあの夜を過ごさなければならないのかと思うと命が幾つあっても足りない。すでに二度も命の危機に晒されている、二度あることは三度もあると言われているが三度目の時こそ私は死ぬだろう。
 そうして思案しているうちに目的地である静丘公園にいつの間にかたどり着いていた。
 
 
 それは蜃気楼のようにはっきりとせず、視界は燃え盛る火の海が映っているだけ。静丘町の街並みは、燃え盛る火の海の中だと言うのに変わらず建物に火がつくことはない。
 火の海の中で芹沢亜里抄はそのことに驚くことなく、当然とした反応で火の海の中をひたすら彷徨い続けた。
 彼女の視線は常に周囲を気にし、特に背後を挙動不審に振り替えることを繰り返す、熱く息苦しい炎の中から逃げることなく、炎は不思議と彼女を優しく包み込むように彼女に侵食していった。
 どこかの戦場の中を歩いているかのように、炎はゴウゴウと荒々しい音を立て燃え続き、尊い生命を奪いさりそれは連鎖を続け広がっていく。その中で彼女は死ぬことを望みながらもまだ心のどこかでは気の迷いが生じている。
 炎は意思を持つように彼女の歩く所だけ火はない。
 途中で彼女は同じように炎の中を彷徨う一人の男と出会った、しかしその男は自身が火の海にのまれていることも分からず、平然とした面持ちで彼女に話しかけてきたのだ。
 最初のうち、彼女はその様子に驚きつつ男の話に耳を傾けていくと、男もまた自分と同じようにおかしかった。どうやら男は死んだ妻を探してこの静丘町に訪れたそうだが、彼女には幾つか腑に落ちない所があり、男を信用できずつい先ほど男の前から去った。
 「いない…ここにもいない…」
 彼女はしきりにその言葉を繰り返し、ある人物を探しひたすら彷徨い歩く。
 彼女の口から発せられる言葉に抑揚はなく、ブリザードの様に凍りつき白い吐息が漏れる。炎の中を歩いているのに何故か空気は冷たく、耳は凍える寒さに耐えられずに赤くなり煩わしい痛みを生じせる。
 それは彼女の胸中も同じように、まだあの時の長い悪夢から解放されず、執拗に彼女の中に残り続けている煩わしく決して消えることのない痛み。
 その痛みに長く永遠とした時間縛られ続け、体だけでなく心も、降り積もる小さな憎しみにより腐り果て、黒々と鈍い色を放ち不気味に輝いている。
 悪夢の元凶を消してもなお残り続けている。決して元に戻ることのできない所まで、彼女はしてしまったのだから当然と言うべきか。
 しかし彼女は不思議と後悔はしていなかった。最初の内は流れに身を任せ、あの男を死へと誘惑し男はそれにのってしまった。体を押し倒され嫌で仕方なく唇を求められる、あの行為は彼女にとっていつも死にたくなるほど苦痛でどうしようもなかった。
 あの時この苦痛から解放されるため、彼女は台所から調達し隠し持った包丁であの男を殺そうとした。
 その時の男の顔色は、青白い月光に照らされその色と一体化していた。全身を大粒の汗が流れ落ち、必死に彼女に対し包丁を下すよう懇願する。一回り親子ほど年の離れているにもかかわらずなんとも滑稽だった。
 彼女も包丁の握る手はブルブルと震え、目は大きく見開かれその瞳は泳ぎ動揺を隠せずにいた。その内揉み合いとなり、手が縺れて偶然にも包丁は男の脇腹に深々と刺さり、そこから赤く鈍い光放つ血が滴り落ちていく。
 男は脇腹の苦痛に顔を歪め、額に冷たい汗を流しそのまま体は冷たくなっていった。
 そこから彼女は何も覚えていない、ただひたすら遠くへと逃げただけだった。
 芹沢亜里抄がある人物を探しに探していきついた先は、「この世の終わり」を思わせるほど極寒で、寂しく誰もいない小さな町静丘町だった。
 一体あの人はどこへ行ったのだろうか…この北の先か?いや東?それとも西?
 分からない。
 あの男の話では静丘町の入口の道は引き裂かれその先は真っ白い濃い霧が広がっているだけだったそうだ。
 だとしたら逃げ場なんてない。どこに隠れても、どこに閉じこもり籠城をしようが私は探してこの手で…。
 そうなれば私もこの町から出て行くことはできない、そんな必要はあるのかどうかは知らない。
 「…ない、あれがない!?」
 つい先ほど彼女の手に握られていた例の包丁は手から無くなっていた。そのことに彼女は気づくと、すぐさまあの男との会話で包丁を地面に落したことに気付く。
 (あれがないと…あれがなければ私は…)
 乱れやつれきった青白い肌にはじめて熱が籠るのを感じる。濁りきり燃え盛る炎しか映らない瞳には生気の宿った光が灯る。
 その瞳は激しく震え動揺の色を隠すことはできない。
 「探さなきゃ…探さなきゃ…」
 芹沢亜里抄は踵を返し元来た道を戻っていくのだった。
 
 
 『静丘公園シーサイドパーク』
 霞みゆく霧の中で読み取れた入口の壁に掛けられたプレート。プレートの角は所々欠けて錆びつき公園に植えられた草木も少し荒れている、もう長いことこの地に人が入っていないことを如実に示している。
 昔妻の綾香と、この公園から臨む浜野湖を一望した記憶が今そこで会ったかのように鮮明に頭のフィルムに再生されていく。昔のことだと言うのに、これほどまで現実らしく映るのが不思議だ。
 今私は夢と現実、どこを歩いているのだろうか?
 気の進むままに先を走る。地面は赤いレンガによって舗装された道を辿りに辿る、色とりどりの花が咲く庭園の迷路を抜け、その先の複雑に絡み合う蔦のトンネルを造る道を進んでいく。
 (ザッ…ザァー…)
 公園の中にも化け物が徘徊しているようだった。私は公園の建造物に身を隠しながら、化け物の魔手を振り払う。人々が体を休める憩いの地でも、決して今の私の精神は安らぐことは無い。
 「……ついた」
 やっと妻との思い出の場所、浜野湖を一望できる海岸沿いに。左右に広々とした舗装された回廊が続き、その要所に浜野湖の景色を拝むための望遠鏡が整備されている。
 やはりこの地にも人がいない、設置された街灯の明かりが寂しく灯っているだけ。吹き荒れる湖の風に髪の毛や服が乱暴になびく。
 私は手で頭を押さえながら辺りを見渡すように妻の人影を探す。
 「いない…いない」
 やっぱり綾香は待っていない。私はガックリと肩を落とす、晴れた心は再び沈んだ空気によって淀み面持ちもそれとなく暗くなり視線は下に落ちる。
 「綾香!?」
 重くなった頭を上げると、その先には黒髪の女性の後ろ姿が映った。
 背格好は鏡にでも映しているかのように綾香とそっくりだった。ただ違うのはサキュバスである証、悪魔の尻尾と漆黒の翼が背中に生えていた。服装は綾香と違い肌を晒し非常に開放的な服装、長袖ではあるが今の季節にかなり薄着な赤い服に、中々きわどいスカートで下着が見え隠れして自然と視線がそちらの方へと向いてしまう。
 彼女と同じ柔らかで綺麗な肌をしている、そして彼女と同じ香水の匂い。
 普段は何時も柔らかく綺麗な肌を晒すことのない綾香、今いる後ろ姿の女性は全く正反対の扇情的な服装。
 やはり綾香とは違うのか。
 「綾香…じゃないのか?」
 不意に喉に出かかり抑えていた物が外に漏れる。
 その声に反応しその女性は振り返り私を見る。
 肩まで伸びるストレートの黒い髪が冬の極寒の風に乱暴になびく、頭には禍々しい人ならざる者の象徴である角が生えている。血色の好い健康的な肌で、目や口など顔のパーツはよくはっきりとしている。私から見るとちょっと濃い化粧で見た目は良いのにも関わらず、無理して綺麗に見せようとしているのだろうと思う、しかしそれは逆に彼女の持つ容貌に合わずかえって老けて見える気もする。
 年齢はおそらくほぼ私と同じくらい、言うなれば綾香が生きていればほぼ同年齢ということになる。
 「貴方の彼女に私は似ているの?」
 その声に私は水を掛けられたかのような衝撃を感じる。そしてその後に、言葉では言い表すことのできない懐かしさに心が包まれ温かい気持ちになる。
 間違いなく綾香の声だった。
 黒髪のサキュバスの女性はおどけた感じで肢体をくねらせる。唇にさしたルージュ色の口紅が少し淫靡につり上がる。
 「いや…死んだ妻にだ」
 「似ている…本当に似ているんだ、声も容姿もどこからともなくほとんどが…ただ服装や話し方は全く違う…それに」
 言葉ひとつひとつがプツリと途切れる。それほどまでに私の姿は、目の前の光景に酷く狼狽していることが誰の目にも分かった。
 なんだかんだで、目の前の綾香そっくりのサキュバスの女性は、綾香と同じくらい美しい。いや綾香と違った一面を持ち、本来の綾香のサキュバスとしての本性があんな感じなのだろうと思う、いやそれがサキュバスとして正しいのだろう。
 もしもあの姿が普段の綾香ならばどうなっているのだろうか。
どうしてか心臓の高鳴りが止まらない。いつも露出の高い服を控え清楚なイメージしかない私の知っている綾香の姿。それがこんな風に男を誘う非常に扇情的な姿で、サキュバスの正しいお手本な姿勢の綾香。
 「私はね、麻里亜っていうの。綾香さんの幽霊か何かだと思っているの?」
 私の困惑する様子にどう思っているか知らず、彼女は黒いブーツの踵をカツカツと鳴らし私に近づいてくる。
 「えっ!?」
 「どぅお、暖かいでしょ?私の体にはちゃんと暖かい血が通っているの。これで私が幽霊じゃないって証明になるでしょ?」
 麻里亜は私の手を掴み自分の胸へとその手を当てさせる。大きく胸を開かせる服に、健康的で艶のある肌を顕わにし、男の誰しもがその中に蹲ることを望むであろう、マシュマロの様に柔らかく壮大で、揉みだしたら止まらなくなる一種の麻薬を思わせるそれ。
 それが今私の手にこれでもかというほど押し付けられる。
 そこから感じる彼女の内に秘めた熱く脈打つ鼓動の音と、今私の中で激しく絶頂に高まりそうになる鼓動の音が複雑に絡み合い、次第に自分の体温が沸点の上をいきそうになる。
 彼女の大胆かつおかしな行動に、私の頭に煮えたぎる血が上り、私の思考回路が瞬く間にエンストを起こしていく。
 わけが分からなくなる。もう何も考えれそうにない。
 その様子に彼女は目を細め口元を吊り上げ笑うだけ。こんな意味不明な色仕掛けをして彼女は一体何が目的なのか?
 (からかっているのか?)
 ただ彼女は微笑を浮かべるだけで何を考えているのかなど全く見当もつかない。
 とにかく何か言わないと…。
 「でも…死んだ妻に似ているんだ…」
 「くどいわね、私は麻里亜って言ったでしょ!!」
 彼女は私の手を乱暴に突き放し、私の様子に麻里亜は口を尖らせる。
 「すまない、間違いだった」
 「……」
 お互いの間に非常に気まずい空気が流れ込む。彼女は無言となり私が何か言うのを待っている。しかし私はそこまで機転の効くような頭の良い人間ではない、それでも言葉を探さなければいけなかった。
 そしてやっと重く閉ざされた口が開く。
 「…その、死んだ妻から手紙がきて…その内容には『思い出の場所静丘町で待っている』と書かれていたんだ。それでその手紙の内容を鵜呑みにしてしまって、この静丘町に訪れてその…死んだはずの妻の影を探しているんだ…。
死んだ人間からそんな手紙がくるはずないのに、と考えたが私にそんな手紙を送るような人物に心当たりもないし、悪戯にしてはかなり手の込んだ内容で…。何を言っているんだろうか?言っていることが支離滅裂で…」
もう頭を抱えたくなる。
私のふざけた発言に、彼女は訝しげになることも無く真剣に耳を傾けていた。耳を傾ける彼女の目はどこか憂い帯び悲しんでいるように見える。
(何だろうか、あの目は一体?)
少し気になった。
 「ふーん…そう」
 彼女は眼を伏せて少し間を取って
「その思い出の場所って、ここだけなの?」
と私に問いかけた。
「いや…それと…」
いきなりの彼女の問いに私は言葉を詰まらせながらも「この湖の近くにあるホテルとか…かな」と答えを返す。
「…ホテル?あぁ、この浜野湖の周辺にある『レイクビュー・ホテル』のことね。でも…ホテルでの思い出ってなにかしらねぇ〜?」
彼女は少しニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべ、私に再び茶化すように問いかける。ホテルと聞いて彼女は、卑猥なことでも考えたのだろうか。ホテルと言えば大概そんなことを連想する人間はよくいることだろう、だが今の話の流れからして彼女の反応はとても空気を読んでいるとは思えない。
綾香なら絶対こんなことを言わない。
確実に彼女はふざけている。茶化すような状況ではないにもかかわらずだ。
私は少し仏頂面になり溜息を漏らすと踵を返してその場を立ち去ろうとする。
「あっ、待ってよ冗談よ冗談!!あなたはこんなか弱い女性を独りで置き去りにする気なの?そんなの最低だわ」
「だったらどうしろと?」
か弱いって、本気で言っているのだろうか?私にはそんな風には見えない、格好や物言いからしてそうとう肉食系でかなり強い印象が。
「だったら私もあなたについていくわ、だって私には行くあてがないの。ずっとこんな寂しい所で、独りぼっちのまま過ごしたくないもの…」
そう彼女は早口で捲し立てると、縋るような目で私の腕に手を絡め自身の胸を強く押し当てる。そしてか細い声猫なで声で
「ねぇ…お願い、独りにしないで…」
と私に上目づかいで目を潤ませながら懇願し始めた。
「えっ…」
その様子に私は戸惑いを隠せない。
麻里亜の表情を見ると演技なのか本気なのか分からなくなった、ただ分かるのはその表情はあの時の綾香と同じであることだ。
最初の彼女はどこか快活な印象を抱かせたが、本質は綾香と同じで弱い人間なのかもしれない。時折チラつく彼女の仕草に私は今はいない綾香の姿を投影してしまう。
(私は…また、彼女に綾香と同じことをしてしまうのか?彼女を見捨てることはできない…もう誰かが居なくなるのを見たくない)
「分かった…行こう」
私は麻里亜と共に再び妻を探しに行くのだった。
11/02/17 21:41更新 / 墓守の末裔
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■作者メッセージ
麻里亜(マリア)
公園で出会った死んだ綾香とそっくりなサキュバスの女性。
どこの何者なのか一切不明。

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