二、
私は愕然とした。
ただいま、と云う兄ちゃんに安心したのもつかの間、その隣には知らない、そして別嬪過ぎる女の人がいた。
腰元まで届く艶やかな黒髪に、小さく造りの良い顔。胸も大きく膨らんで、痩せた私とは大違い。その仕草の一つ一つに惚れ惚れするような色気があって、上等な着物であることも妬ましかった。
それは何よりも、兄ちゃんの隣に、ぴったりと寄り添っていたから。その距離感は、男と女の距離に思えた。
兄ちゃんは、こう云う人が好きなのだろうか……。
「兄ちゃん……、それ、誰?」
「んふふ、うちはお稲、お妙ちゃんのお世話をしに来たんよ」
恐らく睨みつけるくらいの目つきになってしまったと思うが、彼女は軽くそう言った。
「私の……お世話?」
兄ちゃんに視線を向けるけれども、彼は目を泳がせるだけ。代わりに女の人が答える。
「そうや、お兄はんには、さっき助けてもろてなぁ、お礼をしたいんやけど、聞けば病気の妹さんがおりはる云うやないか。それなら、と引き受けたんよ。ウチ、薬師の心得もあるんでなぁ」
「それ、本当?」
「やよなぁ」
「お、おう……本当だ……」
嘘だ、と思った。
そうやって視線を泳がせたり、ちょっと鼻の穴が膨らむのは、彼が嘘をつくときのクセだった。ずっと見てきた私にわからないはずはない。
だから、彼女が彼にとって、何か特別な人だということも……。
「…………兄ちゃん、騙されてない?」
「騙してへんよ」
「あなたには聞いてません」
代わりに答えた女の人に、思わず声を大きくして、それで咳込んでしまった。
「大丈夫か、お妙」
兄ちゃんは駆け寄って来てくれたけれども、いっしょに、しずしず歩いてきた彼女は気にくわなかった。
「大丈夫じゃない」
私は蒲団を被って顔を隠す。
「あらあら、ウチ、嫌われてしもたんかぁ。残念やわぁ……」
「普段はこんな風じゃないんですが……」
「ええよ、ええよ。お年頃やもん、仕方ないわぁ、でも、これから、よろしゅうなぁ、お妙はん」
二人の声が布越しに聞こえてきて、泣きそうになった。
彼女は兄にとって何なのだ。彼が家に女の人を招くなんてなかったこと。私がこんな調子になってからはもちろん一度もない。だと云うのに、今さらになって家にやって来た彼女は……。
しかも、その口ぶりは、私の世話をすると云って、この家で暮らすらしい。
冗談じゃなかった。
彼は騙されているに違いない。
でも、彼を騙したところで、この家を見れば、得なことなど何もないことはわかるはずだ。だと云うのにこの家で暮らすということは――。
歯を噛みしめた。
一家の主で、今は一人で働いている兄に、連れてきた女の人を追い出せなどと云えるはずもない。それに、彼女の名目は私のお世話。彼女は私も含めて面倒を見るために、ここに訪れたと云う。
……その先を考えることは止めた。
兄ちゃんの幸せは願っていた。でも、それは――私が彼を幸せにすることだった。
だけどやっぱり、お兄ちゃんは私を妹としてしか見ていないらしかった。
私の頬を次から次へと涙が零れていた。声を押し殺すことに必死だった。そうして自分の気持ちに気がついて、ゾッとする。
私は、兄が死んでしまうことよりも、誰かにとられてしまうことの方が恐ろしかった……。
「ふむふむ、お兄はんは、こんなところに住んどったんやねぇ」
「汚くて狭いところですが、お座りください」
「別にそないなこと、思うとらへんよ。ここは愛の巣なんやからねぇ」
ギリッと歯噛みした。もしも元気だったらなら、彼女に対して抗議の声をあげて、兄を詰ったかもしれない。でも、私はこうしてただ、蒲団の中で声を噛み殺し、涙を流すことしか出来なかった。
――惨めだった。
このまま死んでしまうのだとしたら、神さまも仏さまも、ずいぶん残酷な仕打ちをする。でも、すぐに死んでやるわけにはいかなかった。
涙を拭って、蒲団から顔を見せてやった。
「あ、出てけはった」
その女は隣に座って、穏やかな微笑みで私を見ていた。
見れば見るほど憎たらしくなるほどの美人だった。
私は決意した。彼女が本当に兄ちゃんを騙していないかどうかを確かめてやろうと思った。もしも騙していないのなら、私から兄ちゃんを奪っていく……、私が死んだ後に兄ちゃんを託すことになるこの女を、見極めてやろうと思った。
「…………」私は女を睨みつける。「よろしく」
「よろしゅう」
私の気持ちを知ってか知らずか、ニコリと微笑む彼女に、私は宣戦布告をしたのだった。
正直言って、お稲と名乗った彼女には、非の打ちどころはなかった。
私が元気だったとしても、勝てないと思ってしまった。
彼女はどこから持ってきたか、箒やはたきと云った掃除道具で、
「綺麗にしといた方が、悪いもんはいなくなる」
と、ボロはボロのままでも、別の家なのではないか、と思えるほどに掃除してしまった。
それから私にふかふかの蒲団を持ってきた。
「こんな上等な蒲団……」
私だけではなく、もちろん兄ちゃんも呆気にとられていた。
「何を企んでるの?」
「嫌やわぁ、ウチはちゃあんとお妙はんに元気になってもらいたいだけやわぁ」
「…………こんなのお金払えません」
「大丈夫、中身はただの残りもんなんやから、もしも気にするんやったら、その蒲団と交換でええわぁ。外側の布は使えるもんな」
意味の分からないことを云っていたが、
「残り物って……鳥の食べ残しとかですか……」
「答えた方がええのん?」
「……いえ、いいです」
「んふふ」
二人のやり取りに、もらえるものはもらっといてやろうと思った。
食事だって、
「白米なんて、初めて食べた……」
「たぁんとお食べ。ご飯を用意出来ないなんて云うたら、五穀豊穣の名が泣きはるわぁ」
「意味がわからないけれど、盗んで来たんじゃないでしょうね……」
「盗むなんて人聞きの悪い、貢いでもろたんよ」
「…………兄ちゃん、この女ロクでもないよ?」
「こら、こんな食事を用意してくれたのに」
「まともに手に入れたものじゃないよ」
「まともやわぁ、ウチが云わんでも持って来てくれはるの」
「ほらー」
「いや、しかし……せっかく用意してくれたし……」
ごもごもと口ごもる兄だったが、その理由は確かに考えて良いものだった。
「じゃあ、もらっといてあげる」
「お妙はん、可愛ええわぁ」
ムカついたので、兄に向かって口を開けてやるる。
「え、お妙……」
彼は狼狽えてお稲を見たが、頷かれて、しぶしぶ私にご飯を食べさせてくれた。今のやり取りは気に入らなかったが、彼女に私たちの仲の良さを見せつけてやれたと思って、少し得意になる。
「仲ええなァ。仲ええことはええことや、ほなウチも」
と、口をパクッと開ける彼女は艶めかしく、真っ赤な舌は、いやらしく見えた。え、え、と狼狽える兄にもムカついたし、冗談や、と笑う彼女にもムカついた。そうして、お姉ちゃんがいたらこんな風だっただろうか、と思った自分も嫌だった。
「ほら、これが薬や。いややわぁ、そんな嫌わんといてぇな。毒なんて入っとらんよ」
コロコロと笑う彼女から薬を受け取って、私はそれを飲んでやる。もしも毒だったら、見せつけるようにして死んでやろうと考えていた。
でも、それを飲んでも私の身体に悪い変化はでなくて、だんだんと、私の身体は快方に向かって行っているようだった。
私はお稲が嫌いだ。
兄を奪っていってしまうお稲が嫌いだ。
それなのに、私を治してくれるお稲が嫌いだ。
そして何よりも、その彼女が来てくれたおかげで、自分と、兄が元気になっていくことが、一番嫌だった。
これでは、妹でしかない私は、お稲が姉になることを、認めないといけないではないか。
私はまだまだ床に就いたままだったけれども、以前と比べてずいぶんと元気になって来ていた。日に日にやつれていっていた兄も、だんだんと男前になって来ていて……。
私があげられなかった幸せを、お稲がこうも容易くあげられてしまったことに、私は複雑な気持ちを抱いていた。
だと云うのに、私には一つ不思議なことがあった。
もちろん私がいるからと云うことはあるだろうけれども、年頃の男女であるはずの彼らは、子供を作るような夜の営みと云うものをしてはいないようだった。
兄はやはり朝から晩までせっせと働いているし、お稲は朝から晩まで私の世話を焼いている。彼らがいっしょにいるのは夜だけで、一晩中見張っていたことも何度かあるけれど、彼らは家の中で致したり、連れだって外に抜け出していく様子もなかった。
悔しいけれども、女の私でも、その色気に眩々(くらくら)としてしまいそうになるお稲なのだ。日に日に逞しくなっていく男性の彼が、彼女に情欲を持たないはずがない。それだと云うのに、彼らにそんな様子はなかった。
私が流行病に倒れる前は、彼はちゃんと健康な男性の生理現象を始末していた。あんな匂いがするのに、私が気づかないはずがない。それでも気がつかないと信じている彼というものは、可愛いものだった。
だから私はある日、覚悟を決めて聞いてみることにした。
「お稲は、兄ちゃんの恋人なの?」
「あらあら、直接やねぇ」彼女はんふふと笑い、「どうやと思う?」
「…………わからないから聞いているの。恋人だったら――一緒に寝たりするんじゃないの?」
自分で云っていて、顔から火が出そうだった。
「あらあら、お妙はんはおませさんやねぇ」
「からかわないで答えてよ」
憤る私にも、お稲は穏やかに微笑んで来た。
「お妙はんは、お兄はんのことが好きなん?」
「好き」
「あらぁ、即答やねぇ。正直でええわぁ。兄妹やけどええのん?」
「血はつながってないから大丈夫」
言い放っても、お稲はあれあれ、と愉快そうな顔を浮かべる。
「私が答えたんだから、答えなさいよ」
「好きやよ」
「…………」
「可愛い顔しとるわぁ」
「うるさい……」私は顔を背けた。
「んふふ、でも、ウチとお妙はんの好きの意味は違うと思うわぁ」
「それって、私のは男と女のものじゃないって云うの?」
その言葉は、聞き捨てならないものだった。
「私のものは兄への憧れで、男女の恋心じゃないって云うの?」
憤る私にも、彼女はやっぱり穏やかな微笑を浮かべるだけでしかない。
「ちゃうわぁ、それはちゃあんと男女の恋心や」
「…………それなら何で」
んふふ、と彼女は笑った。
「今は言えへんけどなぁ、お妙はんがもう少し元気になったら教えたるわぁ」
結局私は彼女から、彼女が兄の恋人かどうなのかを聞き出すことは出来なかった。だからと云って、兄に聞くことも出来ない。なぜなら、それを兄に聞いてしまったら、お稲に本気で負けを認めることになると思ったから。
ただいま、と云う兄ちゃんに安心したのもつかの間、その隣には知らない、そして別嬪過ぎる女の人がいた。
腰元まで届く艶やかな黒髪に、小さく造りの良い顔。胸も大きく膨らんで、痩せた私とは大違い。その仕草の一つ一つに惚れ惚れするような色気があって、上等な着物であることも妬ましかった。
それは何よりも、兄ちゃんの隣に、ぴったりと寄り添っていたから。その距離感は、男と女の距離に思えた。
兄ちゃんは、こう云う人が好きなのだろうか……。
「兄ちゃん……、それ、誰?」
「んふふ、うちはお稲、お妙ちゃんのお世話をしに来たんよ」
恐らく睨みつけるくらいの目つきになってしまったと思うが、彼女は軽くそう言った。
「私の……お世話?」
兄ちゃんに視線を向けるけれども、彼は目を泳がせるだけ。代わりに女の人が答える。
「そうや、お兄はんには、さっき助けてもろてなぁ、お礼をしたいんやけど、聞けば病気の妹さんがおりはる云うやないか。それなら、と引き受けたんよ。ウチ、薬師の心得もあるんでなぁ」
「それ、本当?」
「やよなぁ」
「お、おう……本当だ……」
嘘だ、と思った。
そうやって視線を泳がせたり、ちょっと鼻の穴が膨らむのは、彼が嘘をつくときのクセだった。ずっと見てきた私にわからないはずはない。
だから、彼女が彼にとって、何か特別な人だということも……。
「…………兄ちゃん、騙されてない?」
「騙してへんよ」
「あなたには聞いてません」
代わりに答えた女の人に、思わず声を大きくして、それで咳込んでしまった。
「大丈夫か、お妙」
兄ちゃんは駆け寄って来てくれたけれども、いっしょに、しずしず歩いてきた彼女は気にくわなかった。
「大丈夫じゃない」
私は蒲団を被って顔を隠す。
「あらあら、ウチ、嫌われてしもたんかぁ。残念やわぁ……」
「普段はこんな風じゃないんですが……」
「ええよ、ええよ。お年頃やもん、仕方ないわぁ、でも、これから、よろしゅうなぁ、お妙はん」
二人の声が布越しに聞こえてきて、泣きそうになった。
彼女は兄にとって何なのだ。彼が家に女の人を招くなんてなかったこと。私がこんな調子になってからはもちろん一度もない。だと云うのに、今さらになって家にやって来た彼女は……。
しかも、その口ぶりは、私の世話をすると云って、この家で暮らすらしい。
冗談じゃなかった。
彼は騙されているに違いない。
でも、彼を騙したところで、この家を見れば、得なことなど何もないことはわかるはずだ。だと云うのにこの家で暮らすということは――。
歯を噛みしめた。
一家の主で、今は一人で働いている兄に、連れてきた女の人を追い出せなどと云えるはずもない。それに、彼女の名目は私のお世話。彼女は私も含めて面倒を見るために、ここに訪れたと云う。
……その先を考えることは止めた。
兄ちゃんの幸せは願っていた。でも、それは――私が彼を幸せにすることだった。
だけどやっぱり、お兄ちゃんは私を妹としてしか見ていないらしかった。
私の頬を次から次へと涙が零れていた。声を押し殺すことに必死だった。そうして自分の気持ちに気がついて、ゾッとする。
私は、兄が死んでしまうことよりも、誰かにとられてしまうことの方が恐ろしかった……。
「ふむふむ、お兄はんは、こんなところに住んどったんやねぇ」
「汚くて狭いところですが、お座りください」
「別にそないなこと、思うとらへんよ。ここは愛の巣なんやからねぇ」
ギリッと歯噛みした。もしも元気だったらなら、彼女に対して抗議の声をあげて、兄を詰ったかもしれない。でも、私はこうしてただ、蒲団の中で声を噛み殺し、涙を流すことしか出来なかった。
――惨めだった。
このまま死んでしまうのだとしたら、神さまも仏さまも、ずいぶん残酷な仕打ちをする。でも、すぐに死んでやるわけにはいかなかった。
涙を拭って、蒲団から顔を見せてやった。
「あ、出てけはった」
その女は隣に座って、穏やかな微笑みで私を見ていた。
見れば見るほど憎たらしくなるほどの美人だった。
私は決意した。彼女が本当に兄ちゃんを騙していないかどうかを確かめてやろうと思った。もしも騙していないのなら、私から兄ちゃんを奪っていく……、私が死んだ後に兄ちゃんを託すことになるこの女を、見極めてやろうと思った。
「…………」私は女を睨みつける。「よろしく」
「よろしゅう」
私の気持ちを知ってか知らずか、ニコリと微笑む彼女に、私は宣戦布告をしたのだった。
正直言って、お稲と名乗った彼女には、非の打ちどころはなかった。
私が元気だったとしても、勝てないと思ってしまった。
彼女はどこから持ってきたか、箒やはたきと云った掃除道具で、
「綺麗にしといた方が、悪いもんはいなくなる」
と、ボロはボロのままでも、別の家なのではないか、と思えるほどに掃除してしまった。
それから私にふかふかの蒲団を持ってきた。
「こんな上等な蒲団……」
私だけではなく、もちろん兄ちゃんも呆気にとられていた。
「何を企んでるの?」
「嫌やわぁ、ウチはちゃあんとお妙はんに元気になってもらいたいだけやわぁ」
「…………こんなのお金払えません」
「大丈夫、中身はただの残りもんなんやから、もしも気にするんやったら、その蒲団と交換でええわぁ。外側の布は使えるもんな」
意味の分からないことを云っていたが、
「残り物って……鳥の食べ残しとかですか……」
「答えた方がええのん?」
「……いえ、いいです」
「んふふ」
二人のやり取りに、もらえるものはもらっといてやろうと思った。
食事だって、
「白米なんて、初めて食べた……」
「たぁんとお食べ。ご飯を用意出来ないなんて云うたら、五穀豊穣の名が泣きはるわぁ」
「意味がわからないけれど、盗んで来たんじゃないでしょうね……」
「盗むなんて人聞きの悪い、貢いでもろたんよ」
「…………兄ちゃん、この女ロクでもないよ?」
「こら、こんな食事を用意してくれたのに」
「まともに手に入れたものじゃないよ」
「まともやわぁ、ウチが云わんでも持って来てくれはるの」
「ほらー」
「いや、しかし……せっかく用意してくれたし……」
ごもごもと口ごもる兄だったが、その理由は確かに考えて良いものだった。
「じゃあ、もらっといてあげる」
「お妙はん、可愛ええわぁ」
ムカついたので、兄に向かって口を開けてやるる。
「え、お妙……」
彼は狼狽えてお稲を見たが、頷かれて、しぶしぶ私にご飯を食べさせてくれた。今のやり取りは気に入らなかったが、彼女に私たちの仲の良さを見せつけてやれたと思って、少し得意になる。
「仲ええなァ。仲ええことはええことや、ほなウチも」
と、口をパクッと開ける彼女は艶めかしく、真っ赤な舌は、いやらしく見えた。え、え、と狼狽える兄にもムカついたし、冗談や、と笑う彼女にもムカついた。そうして、お姉ちゃんがいたらこんな風だっただろうか、と思った自分も嫌だった。
「ほら、これが薬や。いややわぁ、そんな嫌わんといてぇな。毒なんて入っとらんよ」
コロコロと笑う彼女から薬を受け取って、私はそれを飲んでやる。もしも毒だったら、見せつけるようにして死んでやろうと考えていた。
でも、それを飲んでも私の身体に悪い変化はでなくて、だんだんと、私の身体は快方に向かって行っているようだった。
私はお稲が嫌いだ。
兄を奪っていってしまうお稲が嫌いだ。
それなのに、私を治してくれるお稲が嫌いだ。
そして何よりも、その彼女が来てくれたおかげで、自分と、兄が元気になっていくことが、一番嫌だった。
これでは、妹でしかない私は、お稲が姉になることを、認めないといけないではないか。
私はまだまだ床に就いたままだったけれども、以前と比べてずいぶんと元気になって来ていた。日に日にやつれていっていた兄も、だんだんと男前になって来ていて……。
私があげられなかった幸せを、お稲がこうも容易くあげられてしまったことに、私は複雑な気持ちを抱いていた。
だと云うのに、私には一つ不思議なことがあった。
もちろん私がいるからと云うことはあるだろうけれども、年頃の男女であるはずの彼らは、子供を作るような夜の営みと云うものをしてはいないようだった。
兄はやはり朝から晩までせっせと働いているし、お稲は朝から晩まで私の世話を焼いている。彼らがいっしょにいるのは夜だけで、一晩中見張っていたことも何度かあるけれど、彼らは家の中で致したり、連れだって外に抜け出していく様子もなかった。
悔しいけれども、女の私でも、その色気に眩々(くらくら)としてしまいそうになるお稲なのだ。日に日に逞しくなっていく男性の彼が、彼女に情欲を持たないはずがない。それだと云うのに、彼らにそんな様子はなかった。
私が流行病に倒れる前は、彼はちゃんと健康な男性の生理現象を始末していた。あんな匂いがするのに、私が気づかないはずがない。それでも気がつかないと信じている彼というものは、可愛いものだった。
だから私はある日、覚悟を決めて聞いてみることにした。
「お稲は、兄ちゃんの恋人なの?」
「あらあら、直接やねぇ」彼女はんふふと笑い、「どうやと思う?」
「…………わからないから聞いているの。恋人だったら――一緒に寝たりするんじゃないの?」
自分で云っていて、顔から火が出そうだった。
「あらあら、お妙はんはおませさんやねぇ」
「からかわないで答えてよ」
憤る私にも、お稲は穏やかに微笑んで来た。
「お妙はんは、お兄はんのことが好きなん?」
「好き」
「あらぁ、即答やねぇ。正直でええわぁ。兄妹やけどええのん?」
「血はつながってないから大丈夫」
言い放っても、お稲はあれあれ、と愉快そうな顔を浮かべる。
「私が答えたんだから、答えなさいよ」
「好きやよ」
「…………」
「可愛い顔しとるわぁ」
「うるさい……」私は顔を背けた。
「んふふ、でも、ウチとお妙はんの好きの意味は違うと思うわぁ」
「それって、私のは男と女のものじゃないって云うの?」
その言葉は、聞き捨てならないものだった。
「私のものは兄への憧れで、男女の恋心じゃないって云うの?」
憤る私にも、彼女はやっぱり穏やかな微笑を浮かべるだけでしかない。
「ちゃうわぁ、それはちゃあんと男女の恋心や」
「…………それなら何で」
んふふ、と彼女は笑った。
「今は言えへんけどなぁ、お妙はんがもう少し元気になったら教えたるわぁ」
結局私は彼女から、彼女が兄の恋人かどうなのかを聞き出すことは出来なかった。だからと云って、兄に聞くことも出来ない。なぜなら、それを兄に聞いてしまったら、お稲に本気で負けを認めることになると思ったから。
18/03/09 08:15更新 / ルピナス
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