連載小説
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一、
 コンコン――と、咳が聞こえた。

「大丈夫か、お妙」
「うん、大丈夫だよ、兄ちゃん」

 ボロ長屋の一部屋で、粗末な着物の青年が、薄っぺらい煎餅布団で寝る少女を心配そうに見つめていた。部屋に火の気はない。囲炉裏なんてものはもちろん、火鉢のようなものもない。寒さを防ぐものと云ったら、使い古して擦り切れた古着くらい。その古着だって、今も使っているものだ。
 兵衛は最低限の着物だけで、他は全部妹の蒲団に入れてやっていた。彼女が断っても、兵衛は押しつけた。まだ、春は遠い。

 兵衛の妹が流行病に倒れたのは去年の暮れだった。

 仲睦まじい兄妹だった彼らは、貧乏にも負けずに懸命に働いていた。二人で頑張ればいつかきっと暮らしは良くなる。両親がいなくともお互いさえいれば何とかなる。そう思って頑張ってきた。
 だと言うのに、日頃の疲れが溜まっていたお妙は、軽い流行病で倒れてしまった。それは十分な栄養と休養を取っていればすぐに治るものだったのだが、病を隠して働いた彼女はこじらせてしまった。それ以来、もう一月(ひとつき)は床に臥せっている。

「ごめんよぉ、兄ちゃん、全然よくならなくって……」
「お前が悪いんじゃねぇよ、俺の稼ぎが悪いから……」
「そんなことない」
「そんなことある」
「…………」

 コンコンと、再び乾いた咳。

 お妙は開こうとした口を開くことが出来なかった。兵衛は自分を責めていた。お妙がどれだけ彼のせいではないと云い聞かせても、聞いてはくれなかった。
普段だったら勝気に兄を云いくるめられる彼女だったが、身体の方も口の方も云うことを聞いてくれない。
 そんな彼女を見て、兵衛はやはり自分を責めるのであった。

「じゃあ、ちょっと稼いでくる。お前はちゃんと寝てろよ」
「あ……、うん、いってらっしゃい。  気をつけて」
「おう」
 くたびれた笑顔を見せる彼を、お妙はいつも祈るような気持ちで見送る。

 彼はお妙の分も働いていた。それどころか、お妙に栄養のあるものを食べさせようと、三人分くらいは働いていた。しかし、日雇いの賃金はたかが知れていて、働けば働くほど疲労が溜まっていくだけで、金の方はとんと溜まらなかった。
 横になっていれば、良くなることはなくとも悪化することだけはないお妙は、日ごとにやつれていく兵衛に、自分よりも先に彼が死んでしまうのではないかと、いつも気が気ではない。彼が帰って来ると、今日が今生の別れとならなかったことを知って、いつも胸をなでおろす。

 ……私が死んじまえば、兄ちゃんは無理をやめるだろうか。

 そんなことを考えてしまう。
 しかし、粗末な煎餅布団の中で、ゆるゆると首を振る。

 そんなことをすれば、兄ちゃんはきっと私の後を追って死んでしまう。それじゃあ意味がない。私が死んでも、兄ちゃんには私の分まで生きて幸せになって欲しい。

 彼女はそう願うが、もしもお妙が死んでしまえば、兵衛が死を選んでしまうことを知っていた。だって、それは自分もいっしょなのだから。

 お妙は兄である兵衛を好いていた。

 ――彼らは血のつながらない兄妹だった。

 お妙は兵衛がそれを隠していることを知っていた。
 きっと彼も自分を好いているだろう。お妙はそう思うが、それを聞くことは出来なかった。何せ、自分たちの血がつながっていないことを、彼は隠している。と云うことは、彼はお妙と男女の一線を越えるつもりはないと云うことだ。

 それでも彼は嫁を持ってはいなかった。

 ――きっと、自分がいるからだ。

 嫁が出来れば、お妙の肩身が狭くなる。
 それならお妙も嫁に出ればいいのだが、お妙は兵衛から離れたくなかったし、彼に嫁が出来ることも嫌だった。自分が彼の妻になりたかった。お妙は自分から嫁に出るとは云えず、彼の方からも、お妙に嫁入りの話を持ち出してくることもなかった。
 兵衛の気持ちを知るのが怖かった。拒絶されて、仲の良い兄妹と云う関係を壊したくはなかった。
 しかし、こうして彼に迷惑をかけ、このままずるずると病んで死んでしまうのだったら、告白して、拒絶されていれば良かった、とも思ってしまう。

 お妙の目じりに泪が溜まる。

「いかんなぁ、もう、私は気が弱くなってる……」

 その言葉とともに、再び乾いた咳が、咽喉から出てくるのであった。

 ――コン、コンと。

  ◆

 日雇いの仕事を終えた兵衛は、トボトボ道を歩く。

 夕暮れの道。空はだんだんに染まって、仄青い空には一番星が輝いている。赤い道に、寒さに身を竦める、独りぼっちの影法師が、物悲しく長く伸びていた。

 やはりあまり賃金を貰えはしなかった。
 兵衛はため息を吐いてしまう。

 せめて卵を買えるくらいの金を溜めたかった。しかし、日々の食事もあって、金は一向に溜まらず、卵など一向に買えそうもない。
 いっそ盗んでみようか、とも思うけれど、そんなことをして手に入れた卵を、妹が口にはしないことを知っていた。きっと問い詰められれば、白状してしまうに決まっている。そうでなくとも、鋭い彼女は、兵衛の嘘をキチンと見抜くに違いない。
 それに――、兵衛は自分の食事も彼女にやりたかったのだが、それでも目ざとい彼女は、兵衛が自分の飯を寄越してこないように、目の前で飯を食べさせた。兵衛が飯を口にするまでは、決して口をつけない。

 強情者め……。

 兵衛はやきもきとしてしまうが、それだけは元気な時と変わらない妹に、ホッとする部分もある。元気な時の彼女には、尻に敷かれっぱなしだった。それを思い出して、苦笑してしまいそうになると同時に、今の彼女をひどく不憫に思う。

 早く元気になって欲しい。

 しかし、それでも、このままでは何も変わらないのも事実だった。

 そうして兵衛が夕暮れの道を歩いていると、

「あれ、こんなところに神社なんてあったのか……」

 今日は隣町までの荷運びだった。この道は何度か通ったことのある道だったし、行きにももちろん通っている。しかし、――気がつかなかった。

 兵衛は何とはなしに、詣でてみようと思った。

 いくら働いても貧乏のままで、お妙が病気にもなった。この世には神も仏もいない。そう思っていたし、今さらすがることも出来ないと思っていた。
 だと云うのにこの神社は、何故か詣でてみようと云う気になった。
 これを縁と云うのか、それともご利益がある不思議な引力が存在していたのか。或いは、魔力と云うべきか――。

 兵衛は夕日で真っ赤に染まった鳥居をくぐった。それは光の加減で古びた血の色にも見えたが、兵衛はそんなことも気にしないようで、ひょいとくぐる。

 途端(トタン)、

 彼はピクンと身を竦ませた。
 何か、肌がムズムズしたのだ。一寸(ちょっと)ためらいがちになりながらも、お社の前に立った。お社自体は何の変哲もないようだった。何が祀られているのかはわからない。もしかすると、鬼封じの神社であったりするのかもしれない。

 それでも兵衛は、柏手を打って拝んだ。

「お妙の病気が治りますように」

 三度唱えて、目を開けた。

「ひゃあ!」

 思わず声をあげた。

「どないしはったん? そないな声あげてぇ」

 クスクスと笑う見目麗しい女性が、社の段に立っていた。

 肌は見たことがないほどに白く、悪戯っぽい色を浮かべるくりくりと丸い瞳には、何とも言えない婀娜っぽさがある。巫女服のような着物だが、兵衛にもわかるくらいに上等なもの。その胸は大きく盛り上がっている。
 男であれば――否(いや)、女であっても――目を奪われて当然の女性だったが、彼女には人間ではない部分が存在していた。

「き、狐……」
「そうや、うちは狐。狐の神さんや。よろしゅうな、コンコーン」

 両手の指を狐の形にして、朗らかに笑う女性の頭には、狐の耳、お尻のあたりからは何本もの狐の尻尾が見えていた。その髪は、まるで金を引き延ばしたかのように、夕日にきらきらと輝いていた。

「お、おた、おた、お助け……」
 初めて目の辺りにした稲荷に、彼は尻もちをついて、あたふたと後ずさる。

「イヤやわぁ、そないに無碍にせんでもよろしぃに」
 形のよい眉をまげて、彼女はテクテクと兵衛に近づいてきた。ふさふさとした狐の尻尾が揺れる。兵衛の前で、彼女はしゃがんで、その美しい顔を鼻先に近づけてきた。得も言われぬ、良い香りがした。

「せっかく久しぶりに来てくれはったお客さんやから、お願いごと叶えたろ思たんよ。お兄はん、エエ男のようやしい?」
「え……?」
 ニヤリと笑う艶やかな彼女に、動揺しないでもないが、兵衛にはその言葉の方が重要だった。慌てふためいていた彼は、ピタッと止まった。

「妹さん、病気なんやろ?」
 コクコクと頷く。
「な、治せるの……、治せるんでございましょうか」
 恐怖も忘れて目を見開く兵衛に、彼女は屈託なくあははと笑う。
「そないにかしこまらんでええて。たぶん治せる思うわぁ」
「お、お願いいたします!」
 兵衛はモノスゴイ勢いで、地面に頭を擦りつけていた。

「わぁ、お兄はん情熱的やねぇ。ええよ。ウチに任しとき」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、ホンマやホンマ。おキツネさまは嘘云わへんでぇ」
「ありがとうございます」
 兵衛は喜び勇んで顔をあげた。狐の神さまだという彼女に、手を合わせて拝んでいた。

「そないに拝まれたら敵わんわぁ」
 と、照れ臭そうに笑う彼女だったが、

「でもなぁ、ウチがお願い叶えたる代わりになァ、ちこーっと聞いて欲しい、ウチのお願いもあるんや」

 ニィ、と彼女は妖しく笑った。

 兵衛はその顔に、今になって後悔した。いくら神さまだと言っても、相手は狐だ。もしかしたら、自分を騙そうとしているのかもしれない。

「あらあら、ウチは別にお兄はんを騙そうなんて思てへんよ」

 相変わらず顔を近づけて覗き込んでくる彼女に、兵衛は心を読まれているのではないかと思った。尻尾の数が多い狐は力が強く、読心術を使えてもおかしくないと云う。
 兵衛は彼女の尻尾を見て、目で数えはじめていた。

「いややわぁ、お兄はんの助平ェ」

 手で尻尾を隠す美女にそんなことを言われて、兵衛は黙ってしまう。妖しくとも狐でも、そんな仕草を取られては、彼女のような美女に対して、兵衛でも何も思わないでいるのは難しい。
 そんな彼の様子に、狐はむふと笑う。

「安心しぃ、ウチのお願い云うんはな、簡単なもんや。簡単なもんやし、お兄はんにとって悪いもんやあらへんでぇ」
 兵衛は美女を見たまま固まっていた。

「ウチなぁ、お兄はんに、精をもらいたいんや」

「え……」
 まさか、と兵衛は思う。

「命を寄越せと」

「ちゃうちゃう。そないなもんはいらへん。そのふぐりに溜まっとるもんや」
 彼女は笑いながら顔の前で手を振り、兵衛の股間を示してきた。美女の妖しく濡れた瞳に、兵衛はぞくりとした。

「そいでなぁ、夫になってくれへんか?」

 兵衛はビックリして、目を剥いてしまう。
「そ、それは誰が誰の……」

「それはなぁ、もちろんお兄はんと、ウチ――」

 彼女は兵衛の耳元に口を寄せて、ポショリと言った。女の吐息の感触に、耳が蕩けてしまうのではないかと思った。兵衛の反応を愉しみながら、美女は続けて吐息を吐く。

「妹はんを治すのにも必要なんよ。お兄はんにはめんこい嫁が出来る。ウチはエエ夫を見つけられた。妹はんも元気になる。ええことづくめやないのぉ」
「…………」

 兵衛は少し考えたが、確かにそれは悪くない申し出だった。もしかしたら彼女が自分を騙そうとしてそんなことを云っているという可能性は捨てきれなかったが、この場合、騙されて損をするのは自分だけだ。最悪自分が魂を取られてしまおうとも、お妙に危害が及ぶことはない。
 兵衛はそう考えて、その申し出を了承することにした。

「んふ、お兄はん、エエ子やねぇ、頭撫でたろか?」

 勿体ない気もしたが、兵衛はそれを断った。初心やねぇ、と云われたが、彼女に手を引かれて立ち上がる。女の柔らかく華奢な指だと云うのに、それはたいそう力強かった。

「ほな、行こか」
「どこへ?」
 彼女に手を引かれた彼は思わず問いかけていた。

「そりゃあ、もちろん、あんたはんの家や。嫁に行くんやから当然やろ?」彼女はクスリと笑う。

 兵衛は彼女に引かれるがままに着いて行く。もしかすると、彼女は自分の家を知っているのかもしれない、そう思う。

 鳥居に向かって手を引く狐の女性。否、今はもう耳も尻尾も跡形もなく消えていた。そこにいるのは、艶やかな黒髪の嫋やかな人間の女性だった。

 あまりの見事な化けっぷりに、兵衛は感心してしまう。
 そして、ちょっとだけ安心を深める。こうして最初っから人間の姿に化けて出てきて騙すことも出来たと云うのに、わざわざ狐の姿で出て来たと云うことは、きっと彼女には自分を騙すつもりはないのだ、と。

 しかし、

「ああ、そうそう」

 と、彼女はふと立ち止まる。

 夕日を浴びて、鳥居の手前で振りかえった彼女を、兵衛はマジマジと見た。柔和な微笑を浮かべている彼女は美しく、惚れ惚れとしてしまうほど。しかし、彼女は狐だ。人に化けているだけで狐だ。と、兵衛は思うし、それに――。

 兵衛は彼女の言葉を待っていた。

 夕日に鳥居の影が長く伸びていた。女の影も、鳥居に囲まれてニュッと伸びている。それは人間の女性の影だった。

 彼女は云う。
「妹はんを治せるんは本当やけど、別に治るんやったら、」

 ヒュウウ、と彼誰刻の風が吹いた。
 真っ赤な、夕暮れに燃える世界は、半分がすでに夜だった。群青色と橙が混じり合う、曖昧な、間の時間……。

 ――人間(ヒト)やのうなっても、構へんな?

 鳥居に囲まれた女の影には、狐の耳と、九本の尻尾が生えていた。
18/03/08 15:03更新 / ルピナス
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■作者メッセージ
はんなりお稲荷さまになら騙されてもいいと思ってしまう人は、私だけではないはずだッ!

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