ウロボロス
「ねえ」という彼女の声。
「何だよ」
それはいつか何処かの帰り道。茜色に二つの影法師が浮かぶ。それは小さくて、とても昔の事だったと思う。彼女は誰だっただろうか? 俺には思い出せない。
「もしも私が人間じゃなかったら、君はこうして一緒に歩いてくれた?」
「何だよそれ」
唐突な彼女の問い。彼女の白い髪が、夕日に染まって輝いている。それは美しくて、その瞳は真剣そのもので……。俺は一瞬面食らってしまった。
「ねえ、答えてよ」
「あ、ああ……」
俺は間抜けな声を出して、それでもそこで思い出したのはーー好きだったヒーローものの一場面(ワンシーン)。今まで信じてきたヒロインが、実は悪の親玉の娘で、彼女はその正体をヒーローに知られてしまう。でも、逃げ出した彼女を追いかけたヒーローは、
「お前が何だって関係ない。お前がお前なら、俺はその手を放しはしない」
俺はそう言って彼女の手を握っていた。俺は夕闇の影絵の世界で、酔っていたのだろう。
「クサ〜。そこまで言ってくれるとは思っていなかったわ……」
そう言って笑う彼女の頬は赤くて嬉しそうで……、
「でも、約束だからね。私だってキミの手を離しはしない」
そうして、俺たちは指切りを交わしたのだった。
「「ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん嘘ついたら針千本飲〜ます。指切った」」
それはいつかの夕暮れの話。
俺は、彼女とはそれ以来ーー。
どうして俺は今、その映像を見ているのだろう。
俺は今、夢の中だけで生きているような心持ち。
起きているときは誰かと交わって、眠っている時は、夢の中で別の誰かと交わっている。何が夢で、何が現実か分からない生活を、俺は送っていた。
だけど、この風景は、とても穏やかで、暖かくて、忘れそうになる何かのようで……。
ーー場面が変わった。
「オッス、ゆう。あれ、ゆうが消えたぞ」
俺は例のごとく、殺女(あやめ)の胸部鈍器に後頭部を強打された。
「お前のせいだよ。この凶悪牛乳女……」
「違う! あたしはうしおにだ!」
「うしおに? 何言ってるんだよお前……」
俺が訝しげな表情を浮かべると、彼女は
「あ、ははは。何でもない。忘れてくれ」
と、あからさまにごまかしてきた。
しかし、うしおに……、それはどこかで……。
「お、おい。忘れてくれよ」
「……お前の乳圧を受ければ忘れるかもしれないな」
「ま、マジかよ……。じゃ、じゃあしょうがねぇな……」
こっちこそマジか!? そのおっぱいで……。
という俺の期待は文字通り押しつぶされる事になる。
文字通り、その乳圧で。
「私の胸でイっちまいなァ!」
ゴキリ、という、鳴ってはいけない音が、俺の耳元すぐから聞こえた。
それが、彼女に勉強を教える、という名目で呼び出された図書館で行われた、俺の高校時代の惨劇であった。その時、俺の記憶は本当にイっちまったみたいで、次の日のテストは散々だった。
何ぞコレ……とは思うが、この記憶ーー俺は忘れていたものだ。
そうして俺たちは同じ大学へと受かり、同じサークルに所属してペロリという後輩が出来た。
「先輩って、舐めごたえがありそうですよね?」
「はい?」
それが出会ったばかりのペロリストの第一声だった。
彼女はことあるたびに俺を舐めようとしてきて……。
俺が酔って彼女にお持ち帰りされそうになった時なんて……。殺女と彼女のキャットファイトは見ものだった。
ーーこんな風に?
俺の前では彼女たちが裸で絡み合っていた。再び場面が変わった。
「ああ、こんな風に……いや、服はちゃんと着ていたぞ」
冷静に俺は返したが、この状況は何なのだ?
時系列と俺自身が一致しない。幾つも重なった、奇怪な万華鏡(プリズム)を覗き込んでいるよう。やはり、俺は夢を見ているようだ。
ーー百鬼の主には多々あることサア。
そうか、多々あることなのか……。
それなら俺が交わるのも、普通のことなんだよな……。
ーーアハは。そうサねェ。だけど、ちゃんとアタシも抱いて欲しいねェ。生身で、サ。
「どういう事だ……?」
ーーどうもこうもないのサ。あんたは黙って女を抱いていればいい。そうすればーー。
ザザザ、とノイズが走るように、
ボボボ、と燃やされるように、
彼女の声が混濁して消えていく。
「お、おい。待て。待てってば……、お前は……、誰だ?」
気がつけば、俺は誰か分からない、女たちを次々に抱いていた。
それは猫耳の生えた女性だったり、角を生やした赤い女だったり、傘と一体化した女性だったり……。分かっている。彼女たちはたまさん、のんべえさん、蛇の目ちゃんだ。
みんな妖怪と呼ばれるこの国の魔物娘で、俺が率いる予定の百鬼の子たちで……。
俺は彼女たちを抱いていた。
濡れ女子の玲さんも、クノイチのあの子も、落武者のさなえちゃんも、毛娼妓の母さんも、俺は彼女たちと何度も何度も混じり合い、睦みあい、そして、その夢が覚めれば結局ーー座敷牢で目を覚ます。……そうして夢を忘れる。
だけど、彼女たちの肉の感触は俺の体に刻まれて、その心の揺らぎと捻れはそのまま、妻を憤らせるウネリとなって現実に帰ってくる。
妻はーー白蛇のつらみは、俺をその蛇体で縛り付けながら、嫉妬の炎に身を焦がし、慚愧の念に涙を零す。
目覚めた俺が感じるのは……、ただ、彼女の昏い情熱と、硝子のような蛇体の冷たさ。
何度も何度も嫉妬の炎に炙られて、
何度も何度も焼き切られてしまった俺には、彼女しか認識できるものがない。
俺のイチモツをその女陰(ほと)に収め、彼女はその冷たい蛇体を俺に巻きつけている。肌に絡む、ひたりとした蛇体の感触。それは滑らかで冷たくて、湿りを帯びて張り付くような心地がする。
心地がする。
ああーー心地がいい。
俺は気持ちの良さのままに、彼女の中に何度目になるのか分からない精を吐き出す。
彼女は俺の耳元で、悩ましげな吐息を吐いて、懺悔する。
「酷い女と言われてもいい。でも、私はあなたが好きなのです。愛しています。百鬼の主となるはずだったあなた。ぬらりひょんに見初められたあなた。私があなたを独り占めしてはいけないことはわかっています。それでも、それでも私は」
ーーあなたを愛しているのです。
女は耳元でそう言った。
彼女が何に苛まれているのか、それは俺には分からない。だが、きっと彼女が苦しんでいるのは俺のせいなのだろう。だから、俺は、彼女に大丈夫だよ、と伝えるため、彼女をキツくキツく抱きしめる。それに、彼女の体がおこりのように戦慄く。
「私はそんな事をしていただけるような女ではありません」
そんな事を言いつつも、俺を包み込んでいる彼女の膣肉は貪欲に俺を求めて強く締まる。
俺は吐き出す。彼女のナカへと何度でも。
鋭敏な俺の肌に、蛇体の鱗が生々しく擦れる。彼女の蛇の下半身に巻きつかれ締め付けられた俺たちは、まるで一本の蛇から枝分かれした男女のようだった。
彼女と俺の境界(さかい)がわからなくなる。
俺を縛り付けているのが彼女なのか、彼女を縛り付けているのが彼女なのか。そのどちらもが真であり偽であり逆であって裏で対偶なのだ。
俺は、俺たちは……。
尾を食い合う一本の蛇となって、時の閉ざされた座敷牢の中で、永遠に快楽を貪り合う。白きウロボロスの円環に閉ざされた愛欲の檻。
昼もなく、夜もなく、朝も夕もない。あるのは互いの体だけ。肉欲だけ。だが、そこに。
黒い影が入り込んでくる。
ーーようやく、辿りついたヨ。
"彼女”の声がした。
◆
アタシはいくつもの世界の隙間に這(はい)り込んだ。
進んでは巻き戻り、巻き戻っては進む、旦那を真っ当な百鬼の主にしようと奮闘する。
あの日、粒あんに負けてアタシはつらみに旦那を強奪された。でも、その後アタシは彼を簡単に取り戻せると思っていた。相手はたかが白蛇一匹。此方(こちら)は何匹もの妖怪たち。
しかし、それは簡単には行かなかった。アタシも、あのリリムですらそこまでは考えつかなかった。
アタシたちが踏み込んだのはも抜けの空の座敷牢だった。
アタシたちは彼らを探した。探して探して、人間なら世代が交代しているくらいの時間が経った。そうしてようやく、アタシは手がかりを見つけたンだ。
龍神の髭紐。
それが白峰の一族に伝わっている、というかアイツの先祖が仕えていた龍神から盗み出した代物だったらしい。そんな一族の出だったなら、アタシももうちょっと気をつけていたかも知れない。でも、過ぎた事は仕方がないヨ。
それが何だって言うかと、それは離れた男女でも再び出会えることが出来る、という代物。そんな由緒正しいだけのお呪(まじな)いみたいな道具なンだけど、それは、それだけで終わらなかった。別の使い方を見つけてしまった奴がいた。だからそれを作り上げた龍神は外に出さないようにしていたんだ。
男女の手首を通して紐の端と端を結ぶ。
閉じた輪を作り上げて白蛇の嫉妬の炎をお互いに使う。
そうすれば、お互いはその炎で燃え尽きて、閉じた輪の世界に二人で永遠に閉ざされる事になる
そんな道具だったのサ。
つらみはそれを旦那に使って、アタシたちとは違う世界にイっちまった。
ようやく気が付いた時には後の祭り。
あのリリムも幾分悪い事をしたと思ってくれたようで、アタシの隙間に入り込む力と、あいつの世界を渡る力を合わせて、そこから連れ出そうとした。
でも残念。
それは閉じた世界で、入り込む事すら出来なかった。
怖いのは女の情念と蛇の執念、といったところカイ。
でも、それで諦めるアタシたちじゃあない。
アタシたちは旦那との繋がりを元に、旦那の心の隙間を通じて旦那との接触を持った。それを何度も何度も繰り返した。それはアタシが繋げられた場所場所で違うもんだから、旦那が出逢う相手も時系列もメチャクチャさ。
旦那は夢を見ている心地だっただろうけどねエ。
アタシらも夢は見させてもらったサ。起きているときは旦那がいないという現実(あくむ)に咽び泣き、寝ているときは旦那と出逢える喜びに咽び泣く。
そうしてようやく旦那の心の隙間に、アタシたち全員が沁みこむ事が出来た。
だから、アタシは今、閉ざされたこの世界(おり)へ、
ーー旦那の心を通ってここに来る事が出来たのサ。
◆
彼女はそう言った。
睦み合う俺たちの前に、真っ黒い影を纏った女が立っている。
その艶かしい肌の胸元には艶やかな墨の華が咲いている。
ああ、思い出した。彼女は、
「おどろ……」
「そうさ、旦那、アタシは旦那の妻、ぬらりひょんのオドロ姐さんサ」
「いけません」
「ぐぅっ……」
俺は彼女(つらみ)に肉棒を締め上げられて、ナカに精を吐き出す。
「うらやましいネェ。そろそろアタシ達にも譲ってはくれないカイ?」
オドロが艶やかな仕草で言う。
「嫌です。帰って……くださいませ」
俺に巻きつく蛇体の締め付けが強くなり、彼女の肌の燃えるような体温が伝わって来る。いや、事実燃えていた。俺たちを中心として、青白い炎が溢れ出し、オドロが近づく事を拒んでいる。
俺たちはひとところで燃立つ恒星だった。近づく者を、俺たち以外を燃やし尽くす。
俺たちは燃え尽きるまで情欲に耽る一つなぎの星。だがそこに、オドロの真っ黒な影が這い寄って来る。
「残念ながら、その言葉は聞けないネエ。そいつはアタシらの旦那だ」
青白い炎と真っ黒な影がせめぎ合う。
「ここは閉ざされた世界。あんたの世界だ。残念ながら、ぬらりひょんのアタシでも押し切る事は難しいかねェ」
「それならばお帰りください」
つらみの凍った口調に、青白い嫉妬の炎が大きく揺らめき、その形を変えていく。それは嫉妬の炎で出来た青白いつらみだった。
形作られたのは八つ。
古の八岐大蛇(やまたのおろち)を彷彿とさせる、彼女の有様。
「オヤ、こいつは烈しいネェ。そんな事が出来るまで旦那の精を蓄えた。羨ましい限りだが、借りたものはキッチリ耳を揃えて返さなくちゃあ、イケナイ」
オドロはそう言って笑うと、その豊かな胸の前で腕を組み、足を開いて仁王立ちになる。その姿は何処かで見た事がある。もしやーーガイナ立ち。
「何を……するつもりなのです……」
その威風堂々、意気軒昂の姿に、つらみが警戒する。
そして彼女は背を向けて、肩越しにこちらを見ようとする。
まさか……、シャフ角。
「やめなさい! そんな事をすれば、世界線が混ざります……!」
つらみの焦った声に、オドロは不敵に笑う。
「それが目的サ」
彼女は髪をなびかせ、肩越しに流し見、顎を上げて、彼女はドヤ顔でそう言った。
別の世界に存在する決めポーズの概念。それを複合させて世界線を混線させ、龍の髭紐で閉ざされていたこの円環の世界を、解体する。そんな馬鹿げた方法で世界に介入できるのは、きっと彼女くらいだろう。
「あ、ぁあああ……」
つらみは俺を抱きつつ、怨みの声を上げる。
閉ざされていた彼女の世界が、音を立てて軋み、囲っていた紐が、ブツリと千切れる。
結界が解けたのだ。
オドロの向こうに真っ黒な影が大きく広がる。
彼女達がやって来る。
夜闇の隙間から、這い出でる影が彼女達だ。
俺の心の隙間に、沁みいってくる影こそが彼女達だ。
妖怪。今は魔物娘。彼女に呼ばれて彼らがやってくる。
オドロは何処からともなく取り出した唐傘を広げて肩に抱く。
百錬の遊女よりも練磨され、一鬼にして当千の百鬼の主。その傘から枝垂れ藤が咲いているような幻視を抱く。呪(ず)ズズ、とそれは黒く染まっていく。
彼女こそ、妖を統べる女ぬらりひょん。
彼女の事を、隙間女などと取り間違えたかつての俺が恥ずかしい。
影に佇むのではなく、百鬼とともに夜を堂々と闊歩する。
彼女が俺の妻か……。
つらみに巻きつかれて、オドロに助け出されるだけの俺は、百鬼の主と持ち上げられ、ただ女を抱いていただけの馬鹿な男に過ぎない。
彼女こそ、正真にして正銘、百鬼の頭目ーー
ポカンとする俺に、彼女はニィ、と頬を吊り上げる。
「さあて、そんなにウチらの旦那を一人で借りてたら、ご破算だぁネ」
彼女は軍配のように傘を振り上げ、八岐大蛇の体をなすつらみの炎に向かって振り下ろす。
ーー百鬼夜行のお時間サ。
百鬼の主はこれ以上ない艶(え)み顔で、そう言った。
「何だよ」
それはいつか何処かの帰り道。茜色に二つの影法師が浮かぶ。それは小さくて、とても昔の事だったと思う。彼女は誰だっただろうか? 俺には思い出せない。
「もしも私が人間じゃなかったら、君はこうして一緒に歩いてくれた?」
「何だよそれ」
唐突な彼女の問い。彼女の白い髪が、夕日に染まって輝いている。それは美しくて、その瞳は真剣そのもので……。俺は一瞬面食らってしまった。
「ねえ、答えてよ」
「あ、ああ……」
俺は間抜けな声を出して、それでもそこで思い出したのはーー好きだったヒーローものの一場面(ワンシーン)。今まで信じてきたヒロインが、実は悪の親玉の娘で、彼女はその正体をヒーローに知られてしまう。でも、逃げ出した彼女を追いかけたヒーローは、
「お前が何だって関係ない。お前がお前なら、俺はその手を放しはしない」
俺はそう言って彼女の手を握っていた。俺は夕闇の影絵の世界で、酔っていたのだろう。
「クサ〜。そこまで言ってくれるとは思っていなかったわ……」
そう言って笑う彼女の頬は赤くて嬉しそうで……、
「でも、約束だからね。私だってキミの手を離しはしない」
そうして、俺たちは指切りを交わしたのだった。
「「ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん嘘ついたら針千本飲〜ます。指切った」」
それはいつかの夕暮れの話。
俺は、彼女とはそれ以来ーー。
どうして俺は今、その映像を見ているのだろう。
俺は今、夢の中だけで生きているような心持ち。
起きているときは誰かと交わって、眠っている時は、夢の中で別の誰かと交わっている。何が夢で、何が現実か分からない生活を、俺は送っていた。
だけど、この風景は、とても穏やかで、暖かくて、忘れそうになる何かのようで……。
ーー場面が変わった。
「オッス、ゆう。あれ、ゆうが消えたぞ」
俺は例のごとく、殺女(あやめ)の胸部鈍器に後頭部を強打された。
「お前のせいだよ。この凶悪牛乳女……」
「違う! あたしはうしおにだ!」
「うしおに? 何言ってるんだよお前……」
俺が訝しげな表情を浮かべると、彼女は
「あ、ははは。何でもない。忘れてくれ」
と、あからさまにごまかしてきた。
しかし、うしおに……、それはどこかで……。
「お、おい。忘れてくれよ」
「……お前の乳圧を受ければ忘れるかもしれないな」
「ま、マジかよ……。じゃ、じゃあしょうがねぇな……」
こっちこそマジか!? そのおっぱいで……。
という俺の期待は文字通り押しつぶされる事になる。
文字通り、その乳圧で。
「私の胸でイっちまいなァ!」
ゴキリ、という、鳴ってはいけない音が、俺の耳元すぐから聞こえた。
それが、彼女に勉強を教える、という名目で呼び出された図書館で行われた、俺の高校時代の惨劇であった。その時、俺の記憶は本当にイっちまったみたいで、次の日のテストは散々だった。
何ぞコレ……とは思うが、この記憶ーー俺は忘れていたものだ。
そうして俺たちは同じ大学へと受かり、同じサークルに所属してペロリという後輩が出来た。
「先輩って、舐めごたえがありそうですよね?」
「はい?」
それが出会ったばかりのペロリストの第一声だった。
彼女はことあるたびに俺を舐めようとしてきて……。
俺が酔って彼女にお持ち帰りされそうになった時なんて……。殺女と彼女のキャットファイトは見ものだった。
ーーこんな風に?
俺の前では彼女たちが裸で絡み合っていた。再び場面が変わった。
「ああ、こんな風に……いや、服はちゃんと着ていたぞ」
冷静に俺は返したが、この状況は何なのだ?
時系列と俺自身が一致しない。幾つも重なった、奇怪な万華鏡(プリズム)を覗き込んでいるよう。やはり、俺は夢を見ているようだ。
ーー百鬼の主には多々あることサア。
そうか、多々あることなのか……。
それなら俺が交わるのも、普通のことなんだよな……。
ーーアハは。そうサねェ。だけど、ちゃんとアタシも抱いて欲しいねェ。生身で、サ。
「どういう事だ……?」
ーーどうもこうもないのサ。あんたは黙って女を抱いていればいい。そうすればーー。
ザザザ、とノイズが走るように、
ボボボ、と燃やされるように、
彼女の声が混濁して消えていく。
「お、おい。待て。待てってば……、お前は……、誰だ?」
気がつけば、俺は誰か分からない、女たちを次々に抱いていた。
それは猫耳の生えた女性だったり、角を生やした赤い女だったり、傘と一体化した女性だったり……。分かっている。彼女たちはたまさん、のんべえさん、蛇の目ちゃんだ。
みんな妖怪と呼ばれるこの国の魔物娘で、俺が率いる予定の百鬼の子たちで……。
俺は彼女たちを抱いていた。
濡れ女子の玲さんも、クノイチのあの子も、落武者のさなえちゃんも、毛娼妓の母さんも、俺は彼女たちと何度も何度も混じり合い、睦みあい、そして、その夢が覚めれば結局ーー座敷牢で目を覚ます。……そうして夢を忘れる。
だけど、彼女たちの肉の感触は俺の体に刻まれて、その心の揺らぎと捻れはそのまま、妻を憤らせるウネリとなって現実に帰ってくる。
妻はーー白蛇のつらみは、俺をその蛇体で縛り付けながら、嫉妬の炎に身を焦がし、慚愧の念に涙を零す。
目覚めた俺が感じるのは……、ただ、彼女の昏い情熱と、硝子のような蛇体の冷たさ。
何度も何度も嫉妬の炎に炙られて、
何度も何度も焼き切られてしまった俺には、彼女しか認識できるものがない。
俺のイチモツをその女陰(ほと)に収め、彼女はその冷たい蛇体を俺に巻きつけている。肌に絡む、ひたりとした蛇体の感触。それは滑らかで冷たくて、湿りを帯びて張り付くような心地がする。
心地がする。
ああーー心地がいい。
俺は気持ちの良さのままに、彼女の中に何度目になるのか分からない精を吐き出す。
彼女は俺の耳元で、悩ましげな吐息を吐いて、懺悔する。
「酷い女と言われてもいい。でも、私はあなたが好きなのです。愛しています。百鬼の主となるはずだったあなた。ぬらりひょんに見初められたあなた。私があなたを独り占めしてはいけないことはわかっています。それでも、それでも私は」
ーーあなたを愛しているのです。
女は耳元でそう言った。
彼女が何に苛まれているのか、それは俺には分からない。だが、きっと彼女が苦しんでいるのは俺のせいなのだろう。だから、俺は、彼女に大丈夫だよ、と伝えるため、彼女をキツくキツく抱きしめる。それに、彼女の体がおこりのように戦慄く。
「私はそんな事をしていただけるような女ではありません」
そんな事を言いつつも、俺を包み込んでいる彼女の膣肉は貪欲に俺を求めて強く締まる。
俺は吐き出す。彼女のナカへと何度でも。
鋭敏な俺の肌に、蛇体の鱗が生々しく擦れる。彼女の蛇の下半身に巻きつかれ締め付けられた俺たちは、まるで一本の蛇から枝分かれした男女のようだった。
彼女と俺の境界(さかい)がわからなくなる。
俺を縛り付けているのが彼女なのか、彼女を縛り付けているのが彼女なのか。そのどちらもが真であり偽であり逆であって裏で対偶なのだ。
俺は、俺たちは……。
尾を食い合う一本の蛇となって、時の閉ざされた座敷牢の中で、永遠に快楽を貪り合う。白きウロボロスの円環に閉ざされた愛欲の檻。
昼もなく、夜もなく、朝も夕もない。あるのは互いの体だけ。肉欲だけ。だが、そこに。
黒い影が入り込んでくる。
ーーようやく、辿りついたヨ。
"彼女”の声がした。
◆
アタシはいくつもの世界の隙間に這(はい)り込んだ。
進んでは巻き戻り、巻き戻っては進む、旦那を真っ当な百鬼の主にしようと奮闘する。
あの日、粒あんに負けてアタシはつらみに旦那を強奪された。でも、その後アタシは彼を簡単に取り戻せると思っていた。相手はたかが白蛇一匹。此方(こちら)は何匹もの妖怪たち。
しかし、それは簡単には行かなかった。アタシも、あのリリムですらそこまでは考えつかなかった。
アタシたちが踏み込んだのはも抜けの空の座敷牢だった。
アタシたちは彼らを探した。探して探して、人間なら世代が交代しているくらいの時間が経った。そうしてようやく、アタシは手がかりを見つけたンだ。
龍神の髭紐。
それが白峰の一族に伝わっている、というかアイツの先祖が仕えていた龍神から盗み出した代物だったらしい。そんな一族の出だったなら、アタシももうちょっと気をつけていたかも知れない。でも、過ぎた事は仕方がないヨ。
それが何だって言うかと、それは離れた男女でも再び出会えることが出来る、という代物。そんな由緒正しいだけのお呪(まじな)いみたいな道具なンだけど、それは、それだけで終わらなかった。別の使い方を見つけてしまった奴がいた。だからそれを作り上げた龍神は外に出さないようにしていたんだ。
男女の手首を通して紐の端と端を結ぶ。
閉じた輪を作り上げて白蛇の嫉妬の炎をお互いに使う。
そうすれば、お互いはその炎で燃え尽きて、閉じた輪の世界に二人で永遠に閉ざされる事になる
そんな道具だったのサ。
つらみはそれを旦那に使って、アタシたちとは違う世界にイっちまった。
ようやく気が付いた時には後の祭り。
あのリリムも幾分悪い事をしたと思ってくれたようで、アタシの隙間に入り込む力と、あいつの世界を渡る力を合わせて、そこから連れ出そうとした。
でも残念。
それは閉じた世界で、入り込む事すら出来なかった。
怖いのは女の情念と蛇の執念、といったところカイ。
でも、それで諦めるアタシたちじゃあない。
アタシたちは旦那との繋がりを元に、旦那の心の隙間を通じて旦那との接触を持った。それを何度も何度も繰り返した。それはアタシが繋げられた場所場所で違うもんだから、旦那が出逢う相手も時系列もメチャクチャさ。
旦那は夢を見ている心地だっただろうけどねエ。
アタシらも夢は見させてもらったサ。起きているときは旦那がいないという現実(あくむ)に咽び泣き、寝ているときは旦那と出逢える喜びに咽び泣く。
そうしてようやく旦那の心の隙間に、アタシたち全員が沁みこむ事が出来た。
だから、アタシは今、閉ざされたこの世界(おり)へ、
ーー旦那の心を通ってここに来る事が出来たのサ。
◆
彼女はそう言った。
睦み合う俺たちの前に、真っ黒い影を纏った女が立っている。
その艶かしい肌の胸元には艶やかな墨の華が咲いている。
ああ、思い出した。彼女は、
「おどろ……」
「そうさ、旦那、アタシは旦那の妻、ぬらりひょんのオドロ姐さんサ」
「いけません」
「ぐぅっ……」
俺は彼女(つらみ)に肉棒を締め上げられて、ナカに精を吐き出す。
「うらやましいネェ。そろそろアタシ達にも譲ってはくれないカイ?」
オドロが艶やかな仕草で言う。
「嫌です。帰って……くださいませ」
俺に巻きつく蛇体の締め付けが強くなり、彼女の肌の燃えるような体温が伝わって来る。いや、事実燃えていた。俺たちを中心として、青白い炎が溢れ出し、オドロが近づく事を拒んでいる。
俺たちはひとところで燃立つ恒星だった。近づく者を、俺たち以外を燃やし尽くす。
俺たちは燃え尽きるまで情欲に耽る一つなぎの星。だがそこに、オドロの真っ黒な影が這い寄って来る。
「残念ながら、その言葉は聞けないネエ。そいつはアタシらの旦那だ」
青白い炎と真っ黒な影がせめぎ合う。
「ここは閉ざされた世界。あんたの世界だ。残念ながら、ぬらりひょんのアタシでも押し切る事は難しいかねェ」
「それならばお帰りください」
つらみの凍った口調に、青白い嫉妬の炎が大きく揺らめき、その形を変えていく。それは嫉妬の炎で出来た青白いつらみだった。
形作られたのは八つ。
古の八岐大蛇(やまたのおろち)を彷彿とさせる、彼女の有様。
「オヤ、こいつは烈しいネェ。そんな事が出来るまで旦那の精を蓄えた。羨ましい限りだが、借りたものはキッチリ耳を揃えて返さなくちゃあ、イケナイ」
オドロはそう言って笑うと、その豊かな胸の前で腕を組み、足を開いて仁王立ちになる。その姿は何処かで見た事がある。もしやーーガイナ立ち。
「何を……するつもりなのです……」
その威風堂々、意気軒昂の姿に、つらみが警戒する。
そして彼女は背を向けて、肩越しにこちらを見ようとする。
まさか……、シャフ角。
「やめなさい! そんな事をすれば、世界線が混ざります……!」
つらみの焦った声に、オドロは不敵に笑う。
「それが目的サ」
彼女は髪をなびかせ、肩越しに流し見、顎を上げて、彼女はドヤ顔でそう言った。
別の世界に存在する決めポーズの概念。それを複合させて世界線を混線させ、龍の髭紐で閉ざされていたこの円環の世界を、解体する。そんな馬鹿げた方法で世界に介入できるのは、きっと彼女くらいだろう。
「あ、ぁあああ……」
つらみは俺を抱きつつ、怨みの声を上げる。
閉ざされていた彼女の世界が、音を立てて軋み、囲っていた紐が、ブツリと千切れる。
結界が解けたのだ。
オドロの向こうに真っ黒な影が大きく広がる。
彼女達がやって来る。
夜闇の隙間から、這い出でる影が彼女達だ。
俺の心の隙間に、沁みいってくる影こそが彼女達だ。
妖怪。今は魔物娘。彼女に呼ばれて彼らがやってくる。
オドロは何処からともなく取り出した唐傘を広げて肩に抱く。
百錬の遊女よりも練磨され、一鬼にして当千の百鬼の主。その傘から枝垂れ藤が咲いているような幻視を抱く。呪(ず)ズズ、とそれは黒く染まっていく。
彼女こそ、妖を統べる女ぬらりひょん。
彼女の事を、隙間女などと取り間違えたかつての俺が恥ずかしい。
影に佇むのではなく、百鬼とともに夜を堂々と闊歩する。
彼女が俺の妻か……。
つらみに巻きつかれて、オドロに助け出されるだけの俺は、百鬼の主と持ち上げられ、ただ女を抱いていただけの馬鹿な男に過ぎない。
彼女こそ、正真にして正銘、百鬼の頭目ーー
ポカンとする俺に、彼女はニィ、と頬を吊り上げる。
「さあて、そんなにウチらの旦那を一人で借りてたら、ご破算だぁネ」
彼女は軍配のように傘を振り上げ、八岐大蛇の体をなすつらみの炎に向かって振り下ろす。
ーー百鬼夜行のお時間サ。
百鬼の主はこれ以上ない艶(え)み顔で、そう言った。
17/08/06 08:51更新 / ルピナス
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