連載小説
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その5
 「…で、一体…どういう事なんだ?」
 「どういう事なんでしょうかね…」
 
 私の右――ふかふかとしたソファに座るラウルとそう言葉を返しました。それは返答にもなっていないようなものでしょう。私とてこんな状況で不誠実な答えを返すほど馬鹿ではありません。出来るだけ正確に、そして確実に情報を打ち返してあげたいのです。しかし、私にだってない袖は触れません。分からないものは分からないとしか答えられないのです。
 
 ― 実際…分からないことだらけですしね…。
 
 ネイティス家での一件の後、勿論、私の公文書偽造の件は明るみになりました。アレだけ派手に大暴れしたのです。証言者も山ほどいる以上、明るみに出ない訳がないでしょう。それは私にとっては予想通りであり、覚悟していた代償であったのです。
 
 ― けれど…私が偽造した書類は領主が『直々に与えたものだ』と言って…。
 
 正式な手順を踏まれて発行されたものではないとは言え、この街における最高権力者である領主にそう言われて食い下がれる者はいません。結局、私の行った公文書偽造はあくまでも『限りなくブラックに近いグレー』として処理され、私は同じ立場に就いているままでした。処刑すら覚悟した私にとって減給一つもない穏やかな日々は、肩透かしも同然であったのです。
 
 ― それを領主に問いただそうとしても私ごときが領主にそうそう会えるはずもなく…。
 
 そもそも戦争前の緊張が高まる今、領主と直接顔を合わせられるのは極一部の人間だけでしょう。暗殺の可能性もある以上、不用意に誰かを接触させる訳にもいきません。管理職であるとは言え、領主の直接面会できるほど偉くはない私は悶々とした物を抱えながら、日々を過ごすしか無いのでした。
 
 ― 勿論、その間も忙しくて…。
 
 ラウルの誘拐事件の後も仕事が途切れることはありません。特に私の使った偽造書が『本物』であるというお墨付きが出てからは遠慮なく仕事が舞い込むようになったのです。その全てを定時の間に捌くのは私にとっても難しいことでした。自然、泊まりこむ事も増えた私はこうしてラウルと会話する時間も殆ど取れないままであったのです。
 
 ― そして、そんな彼…いえ、彼女の問いは今の状況に向けられたものなのでしょう。
 
 私たちが居るのは我が家の客間でした。一切、飾り気のないまま放置されているそこにはニコニコと独特の笑顔を浮かべる15、16程度の少年が座っているのです。太陽を背負うようにして座る少年の紺碧の髪はキラキラと輝き、すっと引き締まった顔は気品を感じさせるものでした。身に着けているものもそれなりに高価なもので、少年がかなり良い所の出であるとすぐさま理解できるでしょう。しかし、その正体を知る私にとっては良い所どころではなく…。
 
 「あぁ、あんまり畏まらないで下さい。これはあくまでプライベートですから」
 「は…はぁ…」
 
 ― …いや、畏まらないで…って言われましても…ねぇ。
 
 こうして対面するのは初めてですが、その顔を見るのは決して初めてではない相手――つまりこの街の最高権力者であるルッド・L・セイラン・スティアートに言われてもそう簡単にはいきません。流石にこれみよがしに下手に出るつもりはありませんが、いきなり尋ねてきた相手の真意が分からないだけに畏まらない訳にもいかないのです。
 
 ― …ホント、どうしてこうなったんでしょう…。
 
 昨日も明け方近くに帰ってきて、ラウルの作ってくれた食事をもそもそと口へと運んだ後、すぐにベッドへ飛び込んだのです。その後、血相を変えたラウルが飛び込んできたのがつい先ほど。そのまま顔を洗う暇もなく、応接室へと連れてこられたのでした。最近、続く激務と寝不足で頭はまったく回っていませんし、状況自体も飲み込めません。正直、現実感が伴わず、夢としか思えないのです。
 
 「と、とりあえずどうぞ…」
 「あぁ、ありがとうございます」
 
 いきなり尋ねてきた相手がこの街の領主であることを既に知っているのでしょう。ラウルはおずおずと紅茶を出しました。それに目の前の領主はその外見年齢そのままの笑顔を浮かべます。それにラウルがほっとしたのが分かりましたが、私は一向に安心できません。何せ相手は私が物心つく前からこの街の頂点に立ち、海千山千の猛者と渡り合ってきた実力者なのです。表面と内面を使い分ける事くらい容易に出来るでしょう。
 
 「まぁ、あんまり長居をするとお二人の時間を取ってしまいますしね。手短に用件を言いますと…今日は釘を刺しに来たのですよ」
 「釘を…?」
 
 ― それは心当たりがありすぎる事でした。
 
 公文書偽造の件についてもそうですし、以前から隠蔽していた様々な事件についてもそうです。私なりの価値観と正義に基づいて行われたそれはいい加減、上層部の目にも余るものになっているのかもしれません。私とてしたくてした訳ではないにせよ、結果として保安機関としての警備隊に歪を生んでいるのは事実です。
 
 ― それに…私だけではなくて…。
 
 ラウルもまたネイティス家での一件で結構な被害をもたらしているのでした。黒幕面をして登場したあの魔術士以外には怪我人はいませんでしたが、屋敷の屋台骨は衝撃で歪み、二階は物が転げ落ちるレベルに傾斜してしまったのです。幸いにしてそれらは『人質の安全確保の為に必要不可欠な損害』であったと請求は来ませんでしたが、人一人を再起不能にまで追い込んだのは過剰防衛と言われかねないでしょう。
 
 「多分、色々心当たりがあると思いますが…今回に限っては公文書偽造の事だけですよ」
 
 そこまで考えた私を安心させるようにそっと領主は微笑みました。見ているだけで何処かほっとする暖かな笑みはやはりこの街を何十年と教団の手から守り続けたカリスマと言うべきものでしょう。流石にそれだけで心酔するほど愚かではありませんが、相手と私の決して及ばない実力差をその笑み一つで思い知らされてしまったのでした。
 
 「他の色々は目溢し出来ても、アレは重罪ですからね。本来であれば即処刑でもおかしくなかった事ですし」
 「で、でも…あ、アレは私を助けるためにやったんだ…!こ、こいつは悪くない!」
 
 そんな領主の言葉に反抗を示したのはラウルでした。しかし、それは擁護になっているようで、まったくなっていないのです。そもそも今回の件に至っては私は領主の名を騙ったも同然なのですから。幾らそれが必要であると考えたとは言え、それを見過ごしていては明日には街中が領主の名を騙る連中でごった返すでしょう。結果に関わらず、厳罰を処さなければ他に示しがつきません。
 
 「勿論、僕だって理解していますよ。けれど、法治国家である以上、罪には罰で答えなければいけません。何せそれこそがこの街をギリギリの所で秩序だった生産活動を成り立たせているものなのですから」
 「それは……」
 
 この街よりもよっぽど閉鎖的で厳格な社会で育ったラウルには領主の言っている言葉が正しいと分かるのでしょう。それでも私を庇おうとしてくれている彼女につい暖かなものを感じてしまうのでした。まだまだ言葉に出来ないそれに突き動かされるようにして私は隣に座るラウルの肩をそっと押さえるのです。
 
 「…ニンゲン」
 「構いませんよ。この方の言っていることは間違いなく正論ですから。それにこの方は『釘』を刺しに来た…と言っただけで、実刑を言い渡しに来たとは一言も口には出されていません」
 「その通りです」
 
 ― そこで領主は言葉を区切り、溜め息を吐きました。
 
 それは同情を引く為の物か、或いは素の仕草であったのか。私には判別がつきません。この領主と同じく化物染みたエイハムであれば話は別かもしれませんが、私ではまだまだ経験が足りないのでしょう。どちらとも取れるタイミングの溜め息を私はどう受け取って良いのか分からないままでした。
 
 「この街は今、未曽有の危機に瀕しています。教団との戦争はもう不可避な所にまで来てしまいました。…まずはその事を貴方たちに謝罪したい」
 「あ…いや…わ、私は…別に…」
 
 そっと頭を下げる最高権力者の姿に慣れていないのでしょう。ラウルはあたふたと焦りを浮かばせながら、言葉を幾つも区切らせました。明らかに気圧されているその様子は私も分からないでもないのです。私だってわざわざこうして対面して頭を下げられるとは思っていませんでした。明らかに予想の斜め上を行かれた事に心の中が強く乱れるのを感じるのです。
 
 「…ありがとうございます。そして…これからが本題なのですが…この未曽有の危機に対する勝率を少しでも上げるために今は優秀な人材を無駄にする訳にはいかないのです。例え…それが私の名を騙る大罪人であったとしても」
 「…それが私を庇った理由ですか」
 
 下げた時と同じくそっと顔を上げた領主の表情はまた真剣そのものでした。きっとこの街の命運を本気に憂いているのでしょう。また、その表情には憂いと共に疲れの色が目に見えていました。中隊長という中間管理職の私でさえ最近はマトモに眠れない日々が続いているのです。その遥か上にいるこの街の最高権力者は各所からの書類を処理するだけでも大変な労力を要すのでしょう。
 
 ― それに…この街の命運が尽きた時は領主の命運もまた尽きる時なのです。
 
 雪崩込んでくる教団兵は略奪と虐殺を繰り返しながら『主神に逆らった大罪人』である領主の命を第一に狙うでしょう。それから運良く逃れられたとしてももう『領主』としてこの街に戻ってくるのはまず不可能になってしまうのですから。仮に戻ってこられたとしてもそれは他の国の傀儡としてであって、既に主権はこのルッド・L・セイラン・スティアートからは離れてしまっているでしょう。
 
 「わざわざ領主様に優秀な人材として名前を覚えてもらえているなんて光栄ですよ」
 「これから教団と一戦交える予定ですからね。そりゃあ各所の優秀そうな人々の名前くらいは覚えますよ」
 
 そう疲れた笑みを浮かべながら、領主は肩を落としました。簡単そうに言いますが、十数万もの人々が住むこの街の『各所』がどれくらいになるのかは私にだって分かりません。恐らく100は下らない、と推測をつけるのが精一杯です。それだけの場所から優秀な人材の名前をピックアップして覚えるだけでも大変な作業になったのでしょう。
 
 「しかし、それも今回限りです。あくまで今回は状況が許しただけであって、次はありません。それは…分かりますね」
 「…えぇ」
 
 領主の真意を知った今、私は幸運に恵まれすぎていることを自覚しました。もう少しタイミングが遅ければ、或いは早ければ、私の首と胴体はこの世から永遠におさらばしていた事でしょう。私の罪は見逃されたのは決戦が近いというだけで、其れ以外の要因に何の関係もしていなかったのですから。
 
 「まぁ、安心して下さい。終わった後に罪を押し付けるなんて卑怯な真似はしませんから」
 「…それは有り難い話ではありますね」
 
 口ではそう言いつつも、私は今一、この領主のことが信用しきれません。実力差が開きすぎて彼のどれが嘘でどれが本当か分からないからでしょうか。今回の言葉だって油断を誘う為の言葉でないと言い切れない以上、信用しすぎるのはあまりにも危険です。
 
 ― 実際…私を擁護し続けるメリットは無いわけですしね。
 
 戦争に勝てた後には私は用済みとなってしまうのです。私を処罰すれば公文書偽造という重罪を起こした見せしめになる反面、遡って罪を希求するという不信感が民衆に植えつけられるでしょう。そのメリットとデメリットをこの領主が許容するかどうかは会ったばかりの私には分かりません。しかし、必要であればこの領主は躊躇なく成し遂げる。どうにもそんな予感が胸の中に根付いて、警告を発していたのでした。
 
 「…それにしてもそれだけを言いにわざわざここまで?」
 
 確かに真正面切っての釘刺しは効果は抜群であったでしょう。元々、二度とやるつもりがなかったとは言え、今の領主の発言を聞いて完全にやる気が消滅したのですから。しかし、それらは書面でも十二分に可能であったはずです。この忙しい時期に領主がわざわざ足労するほどの用件だとは思えません。
 
 「一応、他にも理由はありますよ。データや報告で人となりは知っていますが、実際、どんな人物かは分からなかったですからね。見逃す価値があるかの品定めという理由もありました」
 「…わざわざそれを口に出すということは私はお眼鏡に叶った訳ですかね?」
 「さぁ、どうでしょう?とりあえずこれから次第と言わせて頂きますね」
 
 ― …やれやれ。完全に手玉に取られていますね。
 
 厳罰を盾にこれまでの行いを省みろと暗に言われているのです。しかも、それに逆らえる材料が私にはありません。完全に良いように弄ばれている状況に私は肩を落としました。自覚はしていたとは言え、札の切り方から情報の引き出しから全てが格上です。今のままでは領主に勝つことは難しいでしょう。
 そんな私の前で領主はそっとラウルの出した紅茶を持ち上げました。未だ湯気を立ち昇らせるそれを領主は口にして、そっと顔を綻ばせます。
 
 「美味しいですね…。淹れたのは貴女ですか?」
 「え…は、はい」
 
 唐突に話を振られてラウルは驚きを顔に浮かべながらもそう答えました。そんなラウルに微笑みを向ける領主の姿はとても子どもっぽく歳相応――勿論、外見年齢であり実年齢ではありません――に見えるのです。外見が精神に影響を与えるとはあまり思えませんが、領主が子どもっぽさを残しているのはきっと事実でしょう。
 
 「とても愛情が篭った暖かな紅茶でしたよ。ありがとうございます」
 「い、いえ…光栄です」
 
 そう言って紅茶を飲みきった領主にラウルは身体をガチガチに固めて、ぎこちなく言葉を返しました。やはりまだまだ他人に慣れてはいないのでしょう。それに相手はこの街の最高権力者であるのです。厳格な社会制度の中で育ったラウルにとって、相手は雲の上の天上人も同然なのですから緊張しないはずがありません。
 
 「さて…それじゃあ用件も済みましたし、そろそろお暇させていただきますよ」
 
 紅茶をソーサーに戻してから立ち上がった領主に釣られるように私たちも立ち上がりました。そのまま私は応接室の扉を開き、リビングへ領主を先導するように歩いて行きます。その後ろに領主が着いてくるのを感じながら私は玄関の扉を開けば、外に立派な馬車が止まっているのが目に入りました。
 
 ― …なんで、わざわざこんな物で乗り付けるんですか…。
 
 獅子を模した装飾は太陽の光を受けてキラキラと輝いており、それが純金であるのを私に教えます。その金の装飾の周りを深紅を基調とした壁が取り囲み、より輝きを強調していました。恐らく一般的な家庭では一生かかってでも手が出ないような立派な馬車を漆黒の毛並みを持つ馬が引いているのです。そのインパクトたるや誰だって数日は忘れられないようなものでしょう。
 
 「さて…っと」
 
 そんなインパクト満点な馬車に気圧される事無く、するすると領主は登っていくのです。そのまま扉をバタンと閉じて、窓からこちらを見る顔は何処か悪戯っぽいものでした。一体、この期に及んで何を企んでいるのか。そう首を傾げる私の前で領主はゆっくりと口を開くのです。
 
 「…こうやってあからさまに僕が訪問すれば『仕返し』も、し辛いでしょう?」
 
 ― …なるほど。
 
 わざわざこんな大仰な馬車でどうして乗り付けたのかと思いましたが、あの事件で私と深い因縁が出来たネイティス家への牽制の為だったようです。あのウジ虫の親がどう考えるかは分かりませんが、男色趣味の息子を放置していた以上、それなりに可愛がっていたのでしょう。それをブタ箱へと放り込んだ私や屋敷をボロボロにしたラウルを逆恨みしていないとは限りません。
 しかし、領主が私をわざわざ尋ねたと言う噂があればそう易々と手出しは出来ないでしょう。それはきっと私の為ではなく、もう二度と前回のような騒動を起こさない為であろうとは思いますが、有り難いのは確かです。
 
 「…ありがとうございます」
 「いえいえ。それじゃあ…お二人とも幸せに…ね」
 
 深々と頭を下げた私の耳に何やら聞きなれない言葉が届きました。それに首を傾げるよりも先にピシリと鞭が弾ける音が鳴って馬車がゆっくりと動き出すのです。パカラパカラとリズミカルな音を立てて去っていくその馬車を頭を上げて見送った後、私は改めて首を傾げました。
 
 ― 幸せにって…まるで結婚でもしてるみたいじゃないですか。
 
 確かに異性との共同生活――これも何時の間にかなし崩しにですが――を送っていますが、私たちは決してそんな関係ではありません。そもそもラウルは姿形こそ女性ではありますが、私の中ではまだ同性というイメージが強いのです。そんな彼女と幸せに…なんて――
 
 「…おや?」
 「ん?」
 
 そこまで考えた瞬間、私は視界の端にヒラヒラと風に揺らぐものがあるのに気づきました。透き通るような美しい水色のそれは彼女の足元で揺れているのです。それが一体、何なのかと数秒考えた後、私はそれがスカートであると気づいたのでした。
 
 「…スカートなんて穿いてたんですね」
 「凄い今更だぞそれ」
 
 何処かじっとりとした目で私を見るの視線も尤もでしょう。ついさっき叩き起きてから今までずっと横にいたのですから。その間、まったく彼女がスカートを穿いている事にさえ気づかなかったなんて鈍感にも程があるでしょう。しかし、正直、領主の事だけで頭の中が一杯だったのです。ラウルに気を割いている余裕なんて寝起きの私には残されていなかったのでした。
 
 「…すみません」
 
 とは言え、それを仕方がないなんて言い切れるほど物事は単純ではありません。そもそも誘拐事件から今日までマトモに話す時間さえ取れなかったのです。仕事に追われて仕方なかったとは言え、事件後の不安になるであろう時間を私は放置していたも同然でしょう。それを含めて謝ろうと私は頭を下げるのでした。
 
 「あ、いや…別にニンゲンを責めてる訳じゃ…まぁ…気づいて欲しかったけれど…余裕なかったのは私にだって分かるし…」
 「ありがとうございます」
 
 ― …やっぱり何だかんだ言ってちょろいさんですね。
 
 ヘアバンドで纏めて、小さな尻尾のようにした髪をくるくると右手の人差指で弄りながらぽつぽつとラウルはそう言いました。そこには気にしているような色が見えません。彼女は決して演技の上手いタイプではありませんし、本当に気にしていないのでしょう。それが私の内心を見抜いての言葉なのかは分かりませんが…念の為にももう一度はっきりと口に出して謝る必要があります。
 
 「それで…どうだ?」
 「…どうだって…?」
 
 それを口に上らせる前に先手を取られた私は目の前でくるりと舞うラウルに視線を向けました。元々、ユニセックスを飛び越えて女性的な魅力を宿しつつあったラウルにそれはとても似合っています。いえ、今のラウルは女性なのですから当然と言えば当然でしょう。しかし、彼女が元々、『彼』である事を知る私にはそれが何処か倒錯的な魅力に見えてしまうのです。
 
 「…だから、このスカートだよ」
 「…あぁ。なるほど」
 
 ようやくラウルの言いたいことに思い至った私はにっこりと微笑みました。何処か安心させるような私の笑みにラウルから期待の混じった視線が向けられます。それに応えてあげようと私は言葉を唇に上らせるのでした。
 
 「中々、センスの良いものですね。生地もそれなりに上等なものが使われているようですし、一体、何処で買ったんですか?」
 「…ニンゲン、わざと言ってるだろう?」
 「さぁ?何のことです?」
 
 再びジト目をくれるラウルに私はそう惚けましたが、勿論、わざとに決まっています。流石にここまであからさまにアプローチされて気づかないほど私だって鈍感ではありません。今まで決して着ようとしなかったスカートに足を通している辺り、何かしらの心境の変化があったのでしょう。それを肯定して貰う為にも「似合っている」と言う言葉を彼女は欲しているのです。
 
 ― まぁ、素直にあげても良いんですけれど…ね。
 
 実際、今のラウルに清楚な雰囲気を持つそのスカートはとても似合っていました。膝下に届くほど丈の長さも彼女の潔癖そうな雰囲気にマッチしています。フリルのたくさんついた真っ白なリボンブラウスと真紅のカーディガンも色の強調となってより彼女を魅力的に見せていました。お世辞など言わなくても今のラウルにそのスカートは似合っている。だからこそ、私はそれをそのまま口に出すのは妙に気恥ずかしいのです。
 
 ― それに…私はそんなキャラじゃないですし。
 
 そんな優しかったり、暖かかったりする言葉を容易くくれてやるほど私は優しくはありません。それとはもっと対局の意地悪で冷たい人間なのです。ちゃんとはっきり口に出したのであればまだしも察してくれと言わんばかりの態度に乗ってやる義理はありません。それをもう半年近く一緒に暮らしているラウルには分かるのでしょう。恥ずかしそうに視線を俯かせながら、たどたどしく口を開くのです。
 
 「…だ、だから…折角こうしてスカートを引っ張り出してきた訳だけれども…な」
 「えぇ」
 「…こう…何というか私の容姿に合っているかと言うか…寧ろ気持ち悪くないかとか…そ、そういうのが聞きたい訳だ」
 
 ― 素直に「似合ってるか?」って聞けば良いのに…。
 
 照れ隠しなのか凄い迂遠に、それも堅苦しく聞いてくる彼女に私は思わず笑みを浮かべてしまいました。しかし、それは決して馬鹿にするようなものではありません。今の可愛らしい姿を好ましく思っているが故のストレートな笑みなのです。それを見た馬鹿にされているとでも思ったのかさらに羞恥の色を濃くして、もじもじと居心地悪そうにするのでした。
 
 「…そうですね…うーん…強いて言うならば…」
 「い、言うならば…?」
 
 そんな彼女が可愛らしくてついつい焦らしてしまいます。俯いた顔を少し上向きにしながらチラチラと私の言葉を待つラウルは何処か小動物のようでした。不安と期待。その二つをはっきりと瞳に浮かばせる彼女の前で、私は貯めに貯めてからゆっくりと口を開くのです。
 
 「…とても可愛いですよ」
 「え…?あ…」
 
 ― そう言った瞬間、ラウルの顔が林檎もかくやと言わんばかりに真っ赤になって…。
 
 ぼっと音を立てるようにして赤く染め上がったその顔は熟した林檎にも負けないほどでした。風邪をひいてもそこまで赤くはならないであろうという域は見ていて不安になるくらいです。このまま熱か何かで倒れるのではないか。そんな不安さえ見ている私に浮かばせるその赤さはまるで引く気配がありません。
 
 ― …まったく…そんな顔をされたらこっちだって恥ずかしいじゃありませんか。
 
 正直、恥ずかしすぎてとっととこの話題から逃げ出してしまいたいのです。しかし、顔を赤くして俯いたラウルにマトモな返答なんて期待出来ません。幾らか言葉を投げかけても首を振るだけで言葉一つ漏らしてくれないのです。まるで感動して言葉も出せないような状態にも見えますが、きっと恥ずかしすぎるが故なのでしょう。私だって仕方がなかったとは言え、同性――あくまで私の心の中ではですが――に可愛いなんて言って転げまわりたくなるほど恥ずかしいのです。言われた側のラウルはもっと恥ずかしいはずでしょう。
 
 ― それからたっぷり五分ほど経って…。
 
 顔を真っ赤にして言葉を返さなくなったラウルの前でずっと手持ち無沙汰だった私はその間、ずっとご近所さんの視線と戦っていました。既に昼に近い時間とは言え、辺りにはそこそこ人通りが出来始めているのです。そんな中、玄関先で青春真っ只中の恋人同士のような二人がいれば誰だって興味深い視線を送るでしょう。その一つ一つからラウルを守るように立ち位置を変えながら、私は内心、溜め息を吐いたのでした。
 
 「そ、それじゃあ…もし…だぞ…もし…」
 「ん?」
 
 そんな私の前で何時の間にかラウルが復活し始めていました。それに視線を向ければラウルはそっと私を見上げています。その顔はさっきに比べれば大分、朱色が引いていました。興奮の残滓かその瞳がまだ潤んでいるように見えるのが気になりますが、とりあえず話が出来ない状態は終わったようです。
 
 「…私が…その…こういう格好をしたら襲いたくなる…か?」
 
 ― いや、どうしていきなりそこまで飛躍するんですか…。
 
 そう言いたくなる気持ちをぐっと堪えたのはラウルの表情が真剣そのものであったからです。茶化すのを許さないその潤んだ瞳に嘘や誤魔化しは通用しない。そう思ったが故に私は口を噤み、ぐるぐると思考を回り始めるのです。
 
 ― …まぁ、確かに今の彼女は魅力的ですけれどね。
 
 女性であると私が知ってからはもう我慢しなくなったと言わんばかりに女性的な魅力を振りまいているのです。元々はサラシでも巻いていたのでしょうか。こうして前に立つだけでも小さな胸の膨らみが見て取れるのでした。反応そのものも可愛らしく、弄りたいと思うことは多々あります。
 
 ― けれど、襲いたいとまで思うかと言えば…。
 
 確かに私は自分に正直で決して理知的とは言えないタイプではありますが、コレから先に起こるであろうリスクを計算できない程、馬鹿でもないのです。彼女を襲ってこのそれなりに楽しい生活が終わる事を考えれば、早々手が出せるものではありません。少なくともそれなりに満足している今の生活を打ち壊すほど、ラウルが魅惑的とは思えないのです。
 
 「いえ、私にとっては貴女は男性ですしね。可愛いとは思っても食指を伸ばそうとは思いませんよ」
 「そう…か…。やっぱり…足りない…のかな…」
 「??」
 
 正直に自分の内心を吐露する私の前で不満そうにラウルが呟きました。一体、何が足りないのか私には分かりませんが、彼女にとっては何かが足りないみたいです。一体、何が足りないのか。どうしても気になった私がそれを聞こうと口を開いた瞬間、ひそひそとした囁き声が私の耳に届いたのです。
 
 「まぁ、奥様聞きました?襲いたくなるか?ですって」
 「あらあら、とっても情熱的かつ奥ゆかしいですわね。私も主人にあんな風に言ってみたいものですわ」
 「あら、奥様は毎日、そんな事言う前に夫の上に乗っているのではなくて?」
 「それは貴女も同じではないですか?ウフフフフ」
 
 ― …そう言えば、ここ玄関先でしたね。
 
 いきなり右斜にぶっ飛んだ事をラウルから聞かれたので意識の外側に置かれていましたが、ここはあくまで天下の往来なのです。そこでこんな恥ずかしい話をしていれば噂話に的になってしまうでしょう。ここは下手なことを言われる前に逃げるべきです。そう考えた私はぶつぶつと呟き続ける彼女の手をそっと取りました。
 
 「え?きゃあっ!」
 
 そのまま可愛らしい悲鳴をあげるラウルを家の中へと引きずり込むのです。そしてバタンと乱暴に扉を閉め、鍵を掛けてから私はそっと溜め息を吐きました。とりあえずはこれで安心です。とは言え、人の口には戸を立てられません。数日の内に近所に今の話が誇張されて広がるのは確実でしょう。
 
 ― まぁ…デメリットなんてないんですけれどね。
 
 高級住宅街でもあるこの周辺に住むのはこの街でもかなりの地位にある人々です。そしてその殆どに魔物娘が家族として入り込んでいるのでした。今の話も普通の人間社会ではもみ消し難いスキャンダルになりますが、この街では青春の一ページとして簡単に受け止められてしまうでしょう。多少、外を歩く時にその視線が痛くなるか、からかわれる程度で特にデメリットらしいデメリットは存在しません。
 
 「あ、あの…は、ハワード…?」
 
 そこまで考えた私の耳におずおずと口を開くようなラウルの声が届きました。それに視線を彼女へと向ければ、再び真っ赤になった顔が目に入ります。羞恥と興奮の彩られたそれは私の前でさらに強くなっていっていました。噂話が恥ずかしかったのであれば寧ろその色は収まっていくはずです。ならば、何がラウルにそんな顔をさせているのか。そこまで考えた瞬間、私は手の中にとても滑らかな感触があるのに気づきました。
 
 「あ、す、すみませんっ!」
 
 慌ててそれを――握ったままであったラウルの手を手放せば、彼女の顔に失望の色が浮かびました。しかし、それはきっと私の気のせいでしょう。私たちは共同生活を送っているとは言え、艶っぽい関係ではありませんし、そもそも彼は少し前まで男性であったのです。そんな彼が男性に手を握られて喜んでいたなんて考えられません。それよりは私の気のせいであると考えたほうがよっぽど建設的です。
 
 ― …あれ?と言うことは私は『そうあってほしい』と思っているって事です…か?
 
 ラウルが失望して欲しいと思っている。それは私にとって認め難いものでした。何せそれは私がラウルに…ついこの間まで同性であったエルフの青年に心惹かれているという事なのですから。勿論、今の生活を楽しんでいる以上、私は彼が大事です。しかし、それはそういう意味ではなく、もっとこうプラトニックな友情に近いもので――
 
 「…ま、まったく…急に手を繋ぐとかマナー違反だぞ」
 「…返す言葉もありません…」
 
 あの状況では他に手の打ちようがなかったとは言え、前置きなしに引っ張るというのは確かにマナー違反でしょう。少なくともそれを正当化する方法は混乱した思考を打ち切れないままの私には思いつかないのです。文字通り返す言葉もない状態の私は自分を落ち着かせる為に大きく深呼吸を繰り返すのでした。
 
 ― まずは肺の中全部を吐き出すように深くゆっくり息を吐いて…。
 
 「し、心臓に悪いから次からはちゃんと前置きしてからだな…」
 
 ― その言葉に吸い込む寸前の私の呼吸が止まってしまいました。
 
 吸い込まれなかった酸素を求めて咽喉が収縮し、必要以上に唾液を飲み込んでしまいます。それが痙攣した咽喉に絡んで、思わず強く咳き込んでしまいました。酸素を求める身体と思いも寄らない異物を排斥しようとする生理現象。その2つが私の中でぶつかり合い、荒れ狂うような苦しさを私に巻き起こすのです。
 
 「だ、大丈夫か?」
 「え、えぇ…そ、それで…さっきの事ですが」
 「…な、なんでもない!!気にするな馬鹿!!」
 
 咳き込む私の背中を慰めるように撫でさすりながらラウルが優しく気遣ってくれました。お陰で少し落ち着いた呼吸が弱々しいながらも言葉を漏らさせるのです。しかし、彼女はそれが気に入らなかったのでしょう。撫でさする手はそのままに強い拒絶の言葉をくれるのでした。
 
 ― ま、まぁ…あんまり気にしても仕方がない事ですしね。
 
 と言うよりもここであまり気にし過ぎるとなにか大変なことになりかねない気がするのです。具体的にどんな事が起こるかをはっきりと感じ取っている訳ではありませんが、あまり突っ込み過ぎると今の生活が終わってしまう。漠然とそう感じた私は呼吸を落ち着かせながら、今では綺麗に直っている廊下を歩き出すのです。
 
 ― その私の後ろにラウルが着いてきて…。
 
 それを感じ取りながら私はリビングへと抜けました。そのまま椅子へと座り、そっと溜め息を吐くのです。そんな私の脇を抜けてキッチンへと立ったラウルが手際良くお湯を沸かし始めるのが見えるのでした。きっと朝の――時間的にはもう昼前ですが――コーヒーを淹れてくれようとしているのでしょう。何も言わずに私の欲するものを出そうとしてくれるラウルに心のなかで感謝をしながら、私は重い身体を椅子へと預けるのでした。
 
 ― そんな私の脳裏に浮かぶのは様々な事。
 
 今までずっと忙しくて放置してきた色々な疑問。それが今、私の中で解放を求め、好奇心を疼かせているのです。しかし、それを唇に載せようにもあまりにも多すぎてどの順番から切り出して良いのか分かりません。突然の襲来の所為で叩き起こされた脳はカフェインを摂取していないのも相まって鈍く、上手く働いてはくれないのです。
 
 ― とりあえずはラウルの淹れたコーヒーを飲んでから…にしますか。
 
 そう思考を打ち切った私はキッチンの中で手際よく動くラウルの背中を見つめました。小柄な身体をせっせと動かすその姿は女性的を超えて、何処か主婦のような雰囲気さえ感じさせるものです。もう半年近くもこの家のキッチンを預っているからでしょうか。私よりも何処に何があるのかを良く理解している彼女の姿はキッチンの主と言うに相応しいものでした。
 
 ― まぁ…それもそうですよね…。
 
 ここ最近、私はラウルに料理を任せっきりなのです。忙しいのもありますが、既に私を超えたラウルの料理は私の味覚にぴったりと一致しているのでした。下手な店に足を運ぶよりも美味しい料理はそれだけ彼女が努力をしたという証でしょう。キッチンを明け渡すに足る実力と努力が彼女にあるのを知っているだけに、私はそれを容易く受け入れられるのでした。
 
 「ほら、コーヒーだぞ。いい加減、目を覚ませ」
 「どうも」
 
 そんな下らないことを考えている内にラウルが私の元へとコーヒーを運んでくれました。湯気と共に香りを広がらせるそれを私は鈍い咽喉へと流し込んでいくのです。勿論、咽喉が焼けるような熱さが通り抜けていきますが、それも身体を覚醒させるのに一役買っていました。そして私の身体に補充されたカフェインが血液に乗って身体中に駆け巡り、ゆっくりと意識をクリアにさせていくのです。
 
 「ふぅ…」
 
 カップの中の半分ほどを身体に取り込んだ頃にはもう私の意識ははっきりと覚醒していました。そして、眠気という重い鎖から解放された意識を使い、私はぐるぐるとラウルと話さなければいけないことを頭の中で組み上げていくのです。
 
 ― そうですね…まずは…。
 
 「凄い今更な話なんですけれど…貴女は何時から女性に?」
 「本当に今更だな…まぁ、仕方ないんだろうけど」
 
 遅いにもほどがある私の疑問にラウルはそう唇を尖らせました。何処か拗ねるような表情はもっと早く聞いて欲しかったと主張するように見えるのです。とは言え、あんまりグチグチ言わない辺り、私にだって都合があったことを彼女も理解してくれているのでしょう。実際、事件の後から今日まで二人で腰を据えて話をする機会なんて一度だって無かったのですから。
 
 「…兆候があったのは…お前と出会ってからだ。胸の膨らみが出来始めたり、身長が下がったりしているのを自覚し始めたのはお前と暮らし始めた頃。共同生活を始めて二ヶ月後には私から…そ、その…アレも…消えていた」
 「…アレ?」
 「だ、だから…その……もぅ…察してくれよ馬鹿…」
 「いや、選択肢が多すぎて分かるはずないでしょうが」
 
 別に私はラウルの裸体をまじまじを見つめた事はありません。彼女――いや、彼がのぼせた時に湯船から引き上げた時くらいなものでそれ以降は裸体なんて一切見てはいないのです。記憶に残るほどはっきりとラウルの身体を見ていない以上、推察は幾らでもつきますが、確信が持てるような材料なんて何一つとしてありません。別に顔を羞恥で真っ赤にする彼女が可愛らしいから意地悪をしているだけではないのです。
 
 「だから…だ、だ…男性器…だ」
 「あぁ、なるほど…」
 
 ― まぁ、ここで話題にあがるのなんてそれしかありませんよね。
 
 まさかこの文脈で胸毛が消えたなんて言うはずはありません。そもそも一度だけ見たラウルの身体には胸毛一つない美しいものであったのです。他に男性らしさの象徴とも言える物を持っていなかった彼女がこの文脈で口にするなんてそれくらいしかないでしょう。
 
 ― しかし、まぁ…随分と堅苦しい言い方をするものですね。
 
 ここでオチンポなんて言われたら色々な意味で困りますが、男性器なんて言い回しを使って今にも死にそうなくらいに顔を赤くするのです。そんな彼女の姿に嗜虐性が疼いてしまうのも仕方のない事でしょう。
 
 「じゃあ、今は代わりにオマンコがあるんですか?」
 「おまっ!?」
 
 わざと卑猥な言い方をした私にラウルが口をパクパクと開閉しました。まるで陸の上にあげられた魚のような動きに私の笑みは深くなっていきます。それを見る彼女の顔には羞恥と怒り――恐らくからかわれているのが分かったのでしょう――が浮かびますが、反論らしい反論は飛んできませんでした。
 
 「ほらほら、どうしたんです?ちゃんと答えてくださいよ」
 「うぅ…そ、そんな淫猥な言葉なんて私は知らん!!」
 「おや?それじゃあどうして『オマンコ』が淫猥な言葉なんて知っているんですか?」
 「う…」
 
 凄い勢いで墓穴を掘り抜くラウルの表情が苦しそうなものに変わりました。基本的に頭の回転が速い彼女ですが、こうした自爆癖は未だに治ってはいません。こういう性的な方面にはわざとやっているのではないかと思うほどに墓穴を掘るのもそのままなのです。
 
 「うぅ…お前は意地悪で淫猥で卑怯で酷い奴だ…」
 「最高の褒め言葉ですよ」
 
 切り返す手段のなくなったラウルは何時も通り悔しそうに私を罵りました。しかし、顔を真っ赤に染めて俯いたままでは負け惜しみにしか聞こえません。少なくともラウルに負け惜しみを口にさせた事である程度、満足した私は次の話題に移ろうと口を開くのです。
 
 「まぁ、具体的なアレコレは聞きませんよ。それより…どうして私に相談しなかったんですか?」
 「そ、それは…」
 
 ― 言い淀むラウルの表情に満足感を得たはずの私の胸は強く痛みました。
 
 これまで一緒に暮らしている中で私はそれなりにラウルとの信頼関係を築けていると思っていたのです。しかし、それは今回の件でまったくの幻想であったと思い知らされたのでした。勿論…それは全て私の不徳の成す所でしょう。しかし…そう理解する私と同時に、どうしても納得しきれない私が胸の中に潜んでいるのでした。
 
 「…だって…気持ち悪いだろう?男から…女になるだなんて…まるで…化物みたいじゃないか…。…お前にそう思われたら…嫌われたら…私はもう生きてはいけない…。だから…」
 「だから…自分一人で抱え込んだと?」
 
 ― 私の問いにラウルがゆっくりと頷きました。
 
 確かにそれは筋が通っているように聞こえます。しかし…結局の所、私が性別が変わった程度で追い出すと思われていた事に変わりはありません。確かに私は大らかな人間とは遠い存在ですが、流石にその程度で追い出すと思われるのは心外です。
 
 「…馬鹿ですね、貴女。そんなのエルフを匿ってる時点で気にするはずないじゃないですか」
 「でも…」
 「でも、じゃありませんよ。まったく…。それに…私が貴女を匿ったのは貴女が男性だからなんて理由じゃありませんよ。貴女が…ラウルだからに決まっているじゃありませんか」
 
 ― そこまで言い切って私は肩を落としました。
 
 それは正直、私の我侭でしょう。ここでどれだけラウルの判断を正しても、私が彼女との信頼関係を築けていなかった事の贖罪にはなりません。しかし、それでも私はそれを口にしなければ気が済まなかったのです。ラウルの為ではなく、他でもない自分自身の自己満足の為にもラウルの誤解を解きたい。その意思を言葉に乗せようと私はもう一度、口を開きました。
 
 「それにですね。実際、貴女の性別が変わった所で私たちの生活が変わったんですか?」
 「…いや…」
 「でしょう?なら、それこそが結果じゃないですか。私を卑怯だ意地悪だなんて言うのは勝手ですけどね。見くびるのは大概にしてくださいよ」
 
 少しずつ刺が浮かびつつある言葉を自覚した私は大きく息を吐きました。そして、肺の中の空気全てを吐き出したのを感じてから、私は今度は大きく息を吸い込むのです。たっぷり数秒掛けた深呼吸のお陰で頭の中は少しは冷え込み、心も冷静に戻りました。
 
 「…なぁ、ニンゲン」
 「なんです?」
 「…もしかして怒ってるのか?」
 「…んぐっ…」
 
 ― おずおずと確かめるようなラウルの言葉に私は思わず舌を噛んでしまいました。
 
 それを認めるのは簡単です。何せそれは紛れも無い事実なのですから。ただ、首を縦に振るだけで事足りるでしょう。しかし、それを認めるのはあまりにも多くの憶測を呼ぶものなのです。例えば…私が彼女の事が好きだとか、大事だとか勘違いされて変に調子に乗られるのも癪なので認めたくはありません。
 
 「そんな訳ないじゃないですか」
 「…それにしては随分とムキになってたように思えるんだが…?もしかしてお前…相談されなくて寂しかったのか?」
 「どうしてそんな結論に至ったのか甚だ疑問に思いますよ」
 
 そう返しつつも少しずつラウルの顔に浮かぶニヤニヤとした表情は収まってはくれません。あくまで素っ気無く語気も強めないで否定しているつもりでしたが、彼女は確信を強めているのでしょう。少なくともこのままこの話題を引っ張り続けるのはあまりにも不利です。ならば、ここは手っ取り早く別の話題に切り替えるのが吉でしょう。
 
 「そんな下らないことよりもですね……今日は食料の買い出し前にエイハムの所に行きますよ」
 「え…?なんでだ?」
 「なんでって…その身体を検査してもらわないといけないじゃないですか。性別が変わるほどの変化に何かしらの不具合が出てないとも限らないですし、何より戻る方法だって見つかるかもしれないですよ」
 「戻る……」
 
 その言葉に反応するようにラウルはぎゅっとカーディガンの胸元を押さえました。微かに盛り上がる膨らみを打ち消そうとするようなその動きに一体、どれほどの感情が込められているのか私には分かりません。しかし、自分の身体を確認するように目を伏せたラウルには何処か悲しそうなものが混じっているようなきがするのです。
 
 「…嫌だ」
 「え?」
 「だから…あの男の所に行くのは嫌だと言ったんだ」
 
 明確な拒絶を言葉に乗せるラウルの姿に私は軽い混乱を覚えました。確かにこの家にやってきてから彼女は安定し続け、エイハムの世話になる事はなくなっていました。私が知らない間に二人が接触していない限り、別れ際に感謝の言葉を述べた時が最後の邂逅であったはずです。その時には少なくとも、エイハムへの恐怖心はあっても、これほどまでの拒絶を口にするような敵愾心はありませんでした。
 
 「…エイハムと何かあったんですか?」
 「何もない。…何もないけれど…あの男の所に行くのは嫌だ」
 「…じゃあ、他の医者に…」
 「他の医者はもっと嫌だ」
 
 ― …じゃあ、どうしろって言うんですか…。
 
 ただ、医者に身体の様子を見てもらって安心させて欲しい。ただ、それだけの私の願いをラウルは嫌だと拒絶し続けていました。我侭としか言えないその姿に私は思わず溜め息を漏らします。一瞬、脳裏に家主権限を使う事もちらつきましたが、これほどまでの拒絶を顕にする姿は共同生活を始めてから見たことがありません。下手に刺激すれば暴れかねないほどの危うささえ感じられる今のラウルに、強権を使うのは悪手でしょう。
 
 ― しかし…どうしてそこまで医者に行くのを拒絶するんでしょう…?
 
 勿論、ラウルは未だに私以外に懐いてはおらず、外出は私抜きでは出来ない状態です。しかし、そんな彼女だって自分の状態が異常である事は分かるでしょう。医者に行くのを拒めるような状況ではないことが聡明なラウルに分からないはずがありません。にも関わらず、こうして我侭を口にするということは――。
 
 「…何か理由でもあるんですか?」
 「……ある。けれど、それはニンゲンには言えない」
 
 たっぷり数秒ほど迷ってからラウルの口から出た言葉に私は頭を抱えたくなりました。あると口にするのであればはっきりとその内容まで言って欲しい。そう思うのは彼女を心配する者としては当然の事でしょう。しかし、根が頑固なラウルからはこれ以上の情報はきっと引き出せません。ここは諦めて他の手を探すしかないのです。
 
 「…とりあえず正直に答えて欲しいんですが…今現在、貴女に異常はないんですね?細かい異常も込みでですよ?」
 「無い。身体は健康そのものだし、体調も万全だ」
 
 ― そう答えるラウルの顔には嘘っぽいものは見当たりませんでした。
 
 どうやら本当に異常は――いや、性別が変わるという大きな異常があるのですが――ないようです。とりあえずどうにか彼女を医者へと連れて行く方法が思いつくまではそれで満足しておくべきでしょう。そう心の中で自分に言い聞かせながら私は再び口を開きました。
 
 「…なら、とりあえずは納得しておきますよ。しかし、何かしらの異常を感じたらすぐに医者へと連れていきますからね?」
 「…うん。…すまないな…」
 
 念を押す私の言葉にそっと彼女が目を伏せました。殊勝なその様子に「ならば、最初から我侭なんて言わないでください」と言いたくなりましたが、基本的に素直な彼女がこれだけ拒むには理由があるのです。それを口に出来ないほど信頼出来ない私の方にこそ問題があるのでしょう。
 
 ― やれやれ…まぁ…予想して然るべきだったのかも知れませんがね…。
 
 半年の共同生活に置いてまったく信頼関係が育ってきていない。その結果をまざまざと見せつけられるようで私はそっと溜め息を吐きました。そんな私にラウルが心配そうな視線を向けてくるのです。それに応える余裕もなく、辺りには気まずい雰囲気が流れました。それから逃げるように視線を背ける私がカップから湯気が消えているのに気づいた時、もう一つ聞かなければいけない事を思い出したのです。
 
 「そう言えばその服はどうしたんですか?」
 「あぁ、これか?」
 
 私の記憶が正しければひぃひぃ言いながら運んだ衣服の山の中にそんなスカートなんてなかったはずです。…まぁ、途中でファッションショーのような様相を呈してきた現実から軽く逃避していたので完全に言い切れる訳ではありませんが、あの当時のラウルはまだ男性であったのです。そもそも、女物の服を押し付けられるはずもありません。
 
 「初日に押し付けられた中に紛れ込んでいたんだ。多分、間違って突っ込んだんだろう」
 「まぁ…アレだけ店中ひっかき回せば…ねぇ」
 
 私とラウルが唖然とするほど店主は店中の衣服をひっくるめて私たちに押し付けたのです。その光景は最早、ハリケーンか何かが通り過ぎた後のような酷いものでした。少なくともその日中は店の中を掃除するので追われるであろうほどの勢いは私の記憶の中にもしっかりと残っています。
 
 「それをわざわざ着ているって事は…結構気に入っているんですね」
 「ま、まぁ…折角、女になったのだし色々と前向きになった結果だ」
 
 ― 結果…ね。
 
 その過程に一切、関わらせては貰えなかった私としては何となくその言葉尻一つにも疎外感を感じてしまうのです。しかし、それをグチグチと口に出す訳にはいきません。そう思う私の前でおずおずとラウルが口を開くのでした。
 
 「そ、それに…ついで…あくまでついでなんだが…お前だってこの格好は気に入ってくれているだろう?」
 
 ― ぽそぽそと恥ずかしそうに口にする彼女の表情はとても可愛らしいものでした。
 
 ついでだと言いながら、結構、私の評価を気にしているのでしょう。流石にそれだけで彼女が私を好いてくれているとはこれまでの事を顧みても思えませんが、それなりに気にしてくれているのは確かです。そう思うだけで沈んだ心が少しだけ浮き上がってくるのでした。
 
 ― 普段であればここでからかいの言葉の一つでも送るんですが…。
 
 しかし、その対応がラウルの信頼感のなさへと直結しているとも考えられるだけに中々、出来ません。難しいかも知れませんが、これからはちゃんと相談してもらえるような関係を築き直していきたいのです。そう考える私にとって必要な言葉は揶揄するものではなく――
 
 「それじゃあ、買い出しついでに貴女の服を買いにいきましょうか」
 「え…?いや…でも…」
 「実際、受け取った衣服の中にはサイズの問題で着れないものも多いのではありませんか?最近は同じ服を着回していたみたいですしね」
 
 ― 思い返すのは最近のこと。
 
 冬の寒さが深刻化してきた今、人々が着ている主な服装は長袖ばかりです。しかし、ラウルが着る衣服は大抵、似たようなものでその袖も少しダボついていました。鈍感な私は洗濯の関係で伸びたのか程度にしか思っていませんでしたが、実際はサイズが合うものが少なかったのでしょう。元々、ラウルはそう大柄な訳ではありませんが、女性の身体とは比べるべくもありません。
 
 「今の季節は冬ですし、洗濯物も乾きにくいですからね。今のままじゃ着回すのも難しいでしょう?」
 「まぁ…そうなんだが…良い…のか?」
 「良いも悪いもありませんよ。必要なものだから買うだけです」
 
 ― …まぁ、実際は邪念が結構、篭っている訳ですけれど。
 
 時間が合わなくて構ってやれない娘との関係をお金で修復しようとする父親のようで情けないですが、ラウルとの信頼関係を築くという目的があるのです。ラウルが実際に困っているのも事実でしょうし、それを解消する為に払うお金は必要経費に当たるでしょう。
 
 「…ありがとうな」
 「お礼なんて要りませんってば。それより出かける準備をしましょう。今からなら昼食も食べられますしね」
 
 私には私の目的があるだけにラウルの素直な御礼の言葉を受け取れません。後暗さが打ち勝った私はそう話題を打ち切り、カップを再び口元へと運びました。大分、冷めた苦い液体が咽喉を通り抜け、なんとも言えない後味の悪さに変わります。まるで自分の浅ましい選択を後悔するような苦苦しさを振り払うように立ち上がり、カップをシンクへと運びました。
 
 「あぁ…もう…それくらい私がやるのに…」
 「たまにはいいじゃありませんか。それに応接室にあの方の飲んだカップがあるでしょう?それを持って来るのは任せますよ」
 「…分かった」
 
 ― その声は何処か拗ねた色が強いように感じました。
 
 しかし、それはきっと気の所為でしょう。面倒な後片付けを自分からしたいなんて思う人なんてほとんどいないのですから。それに、洗い物を私がする代わりに別の仕事を申し付けているのです。ここまでお膳立てしているのですから、仕事を取られたなんて子どもっぽい嫉妬を浮かばせるほどラウルは衝動的な人間――いえ、エルフではないでしょう
 
 ― そう思いながら久し振りにやる後片付けはやっぱり面倒でした。
 
 カップに入っていたのは放置すると跡が残るコーヒーなのです。普段よりもさらに念入りに、しっかりと洗わなければいけません。折角コーヒーの漆黒に見栄えがするような白亜のカップを買ったのですから、色移りは避けたい事態なのです。しかし、そう思う反面、やはり後片付けが面倒なのは否定出来ません。
 
 「…はい」
 「ありがとうございますね」
 
 そんな私の横から新しくもたらされたカップを受け取り、それも温水に潜らせていきます。軽く水洗いした後、スポンジでゆっくりと陶器を傷つけないように洗いあげていくのでした。
 
 「…なぁ、やっぱり私がやろうか?」
 「…ん?そんなに洗い方気に入らないですかね?」
 「いや…そういう訳じゃなくて…なんていうか…落ち着かない」
 
 ― そんな私の横から口を出すラウルの表情は晴れないものでした。
 
 居心地が悪そうに見える彼女の様子はやっぱり私がキッチンに立っているからでしょうか。しかし、別に今までも彼女の手伝いとして洗い物なんかを手伝っていたのです。別に今日初めてここに立った訳ではない以上、それは少し的外れな気がするのでした。
 
 「落ち着かない…ですか?」
 「…何て言うか…上手い事口に出来ないんだが…それに…間違ってたら恥ずかしいし」
 「しかし、そう言われましても…ね」
 
 そうこうしている間に洗い物は進んでしまい、水切り網の中へと放り込まれてしまいました。元々、大規模な料理をしていた訳ではなく、ティーカップ三組だけなのです。どれだけ丁寧に洗う必要があったとしても数分もかかりません。
 
 「むぅ…」
 「い、いや…わざとじゃないんですよ?落ち着かないのであればお任せしようとは思っていましたし…」
 
 あからさまに頬を膨らませて拗ねるラウルに私は言い訳の言葉を口にしました。しかし、往々にして拗ねた相手にそれは聞き入れられないものなのです。実際、私の言葉を聞いてもラウルの表情は晴れません。寧ろ納得出来ないような色を強めていったのでした。
 
 「…ニンゲンがそれで良いのであれば私は何か言える立場にはないんだが…な」
 「うぅ…」
 
 ぽつりと呟かれたラウルの声は何処か苦々しい色が含まれていました。しかし、私は別にラウルにそんな表情をさせたかった訳ではありません。何時もの弄りも彼女を辱めたいだけであって、苦しめたい訳では決して無いのです。自分の行為が大きく空回りしていっている。それを強く感じて私はそっと呻き声を漏らすのでした。
 
 「と、とりあえず…買い物に出かけましょうか!」
 「…そうだな。買い貯めしていた食材も危なくなっているし」
 
 どんどんとドツボに嵌りそうになる雰囲気を払拭するために私は努めて明るい声でラウルを誘いました。その意味を彼女も正確に理解してくれたのでしょう。同意を示すラウルの表情はさっきよりも比較的明るいものになっていました。それに内心で安堵を漏らしながら、私はそっと周囲を見渡すのです。
 
 「戸締りは?」
 「大丈夫だ。今日は洗濯物を干しにベランダを開けただけだからな。それも施錠されているのを何度も確認した」
 「なら、大丈夫ですね」
 
 誘拐事件以来、セキュリティに気を配るようになったラウルがそう言うのであればきっと間違いはないでしょう。そう心の中で呟いた私はキッチンから出て、リビングへと入ります。そのまま投げ捨てられた鞄から財布を取り出し、懐へとそっと忍ばせるのでした。
 
 「そっちの準備はどうです?」
 「…幾ら私でも流石に化粧をするつもりはないぞ?」
 「い、いや…別にそういうつもりでは…」
 
 何となく聞いただけでしたが、既に着替えているラウルに準備など殆ど必要ありません。そんな彼女にわざわざそんな事を聞くなんて嫌味に捉えれても仕方ないでしょう。普段であればまだしも今日の私にはそのつもりはありません。当分は紳士的に振舞って、ラウルとの信頼関係を再構築するのが目的なのですから。
 
 「…やっぱりおかしい…」
 「え?」
 
 しかし、そんな私に向けられた言葉は文脈から遠く離れたものでした。一体、何がおかしいのかと私は反射的に振り返りましたが、物憂げに俯くラウルが一体、何を考えているのかは分かりません。その顔に浮かんでいるのは困惑と思案だけでその内容までは伺い知れないのです。
 
 「…ラウル?」
 「…いや、なんでもない。それよりも…早く行こうかっ♪」
 「うわっ」
 
 普段のクールな声を何処かへと置き去りにしたようなキャピキャピした声と共にラウルが私の腕に抱きついてきました。瞬間、私の腕に慎ましやかな胸の感触が伝わってくるのです。下着などは着けていないからでしょうか。ブラウス越しに伝わるそれは私の中へとストレートに入り込み、じわじわと身体の中を熱くするのです。
 
 ― お、おおおおお、落ち着くんですよ…!こ、こんなの脂肪も一緒じゃないですか…!
 
 そう自分に言い聞かせてみますが冷静にはなりません。無論、私だって初心なティーンズではないのです。高級娼館とあんな事やそんな事だって経験済みでした。しかし、あからさまに『メスとしての魅力』を振りまく娼婦と比べて、ラウルはまったくの対極にいるからでしょうか。薄い布地一枚から伝わる微かな膨らみにどうしても『女性』を意識してしまい、ドギマギとしてしまうのでした。
 
 ― だ、駄目だ…こ、こんなの耐えられない…!
 
 普段は勿論、こんな事はありません。娼婦との付き合いも契約として割り切っている私は押し付けられる柔らかな胸に興奮はしても、ここまで混乱を起こす事はありませんでした。しかし、まるでラウルの姿に原初の欲望を引き出されたかのように私の胸は落ち着かないのです。五月蝿いくらいに高鳴る鼓動に我慢出来なくなった私はラウルに離れて貰おうと口を開くのでした。
 
 「あ、あの…」
 「…嫌…か?」」
 「う…」
 
 ― その瞬間、ラウルが切なそうに私を見上げてきて…。
 
 そっと目を伏せた顔には涙が浮かんではいません。しかし、今にも涙を浮かばせそうな表情に私の言葉は途切れてしまうのです。泣いた子どもには勝てないとジパングでは言うそうですが、泣きそうな女性にだって勝てる気はしません。それでも何度か口を開いて抵抗の言葉を口にしようとはしましたが、結局、それは出てこないままでした。
 
 「…いえ、決してそんな事は…」
 「ふふ…♪なら、良いじゃないか。あんまり細かい事、気にし過ぎるとハゲるぞ」
 「は、ハゲ!?」
 
 それは三十代に入った男性にとっては禁句も同然でしょう。一定以上の年齢になった男性は皆、その恐怖と戦っているのです。しかし、それはきっとあくまで人間だけのものなのでしょう。実際、彼の姿は私よりも遥かに年上であろうと推察出来るにもかかわらず、ハゲる様子が一切ありません。老化という言葉を何処かに取り残したエルフにとってはハゲるという恐怖は分からないのかも知れません。
 
 「それよりも早く行こう。私もお腹が空いてきたしな」
 「そ、そうですね…そうしましょうか」
 
 そう言って私の腕を引っ張るように動く度に、ラウルの微かな双丘が私の腕とこすれ合いぐにぐにと形を変えるのです。やはり小さくても胸なのでしょう。柔らかいその感触が形を変える様が手に取るように分かり、私の中の興奮がさらに高まるのでした。
 
 ― このままじゃ…おかしくなってしまいそうで…。
 
 私の腕を嬉しげに抱き抱えているのは元男性のエルフなのです。しかも、ついこの前に誘拐され、レイプされそうになったばかりの。それが分かっているにもかかわらず、私の身体は彼女を押し倒し、その隅々まで味わってみたいという汚れた欲望と興奮を抱いてしまうのです。様々な意味でありえないその欲望を私は何度も振り払おうとしましたが、心の中からは消えてはくれません。
 
 ― ラウルは男ラウルは男ラウルは男ラウルは男…っ!!
 
 自分に言い聞かせるようにそう心の中で何度も呟きますが、腕に押し付けられている女性独特の柔らかさやふっと鼻の奥へと飛び込んでくる彼女の体臭が逃避を許しません。普段、私と同じ石鹸を使っているとは思えないくらいに柔らかいその香りはすっきりとした甘さを含んでいて、何処かミルクティーにも似ています。男性からは決して立ち上らないであろうその匂いを間近に嗅がせられて冷静でいられるはずがありません。
 
 「…?どうした?」
 「い、いえ…なんでも…」
 
 そんな葛藤を胸に抱き、ギクシャクする私をラウルがそっと振り返りました。きっと彼女には私の心境を察する事は出来ないのでしょう。それも当然です。ついこの間まで男性であったラウルがいきなり性転換して女性としてのアイデンティティを確立出来るはずなどないのですから。自分が女性として意識されているかもしれないなどと思うはずがありません。だからこそ、これほど無防備に男性の腕を手に取れるのでしょう。
 
 「そ、それより早く行きましょう。時間は有限ですし、有効に活用しなければいけません」
 
 しかし、「女性として貴女を意識しているんです」などとは口が裂けても言えない私は話を誤魔化すためにそっと歩き出しました。それは普段――いえ、彼女が彼であった時には何の問題もなかったスピードだったでしょう。しかし、今のラウルは出会った頃よりも二回りほど身長が縮んでいるのです。その歩幅の差をまったく考慮せず、焦りのままに足を進めた私と彼女の身体は自然と離れようとしました。
 
 「わわっ…!」
 
 ― ぬああああああぁぁっ!!
 
 しかし、それを阻んだのがラウルの細い腕なのです。甘えるように私に抱きついた彼女の身体にどうしても意識がそっちへと行ってしまうのでした。どれだけ追い詰められたとしても今のような狼狽を浮かべた事は人生で一度もありません。一体、どうしてこんなに自分が狼狽えているのか。それさえ自覚出来ないまま、私は速度を彼女がついてこれるような速度に落とすのでした。
 
 「だ、大丈夫ですか?」
 「…大丈夫じゃない。まったく…転ぶ所だったじゃないか。少しは気配りというものを覚えろ馬鹿者」
 
 ― ぬぐぐ…!!
 
 拗ねるように唇を尖らせるラウルに言い返したい言葉は幾らだってあるのです。そもそも腕を組むなんてやりだしたのはラウルの方なのですから。多少、お互いのリズムが合わなかった所で私には何の非はないでしょう。不満ならば途中で腕を離せば良かったのです。自称高等種であるエルフ様にそれだけの判断能力がないとは言わせません。
 
 ― けれど…ここで不興を買う訳には…。
 
 少し下心のある今日の目的はラウルからの信頼を勝ち取る事なのです。ここで嫌味の一つでも言ってしまえば何時ものような関係に戻ってしまうでしょう。そして、残念ではありますが、それでは何の解決にもならないのです。今までのような関係では彼女の信頼を得られなかった以上、これまでとは違う関係を構築しなければいけないのですから。
 
 「申し訳ありません。今度からはちゃんと気をつけますので…お許し頂けますか?」
 「む…むぅ…ま、まぁ、お前も反省しているようであれば私は許してやっても構わないのだが…」
 
 きっと私の変化に気づいているのでしょう。ラウルの返事はここ最近では聞いたことがないくらいに横柄なものでした。それに思わずコメカミがひくついてしまいそうになるのです。既に私の中で自分よりも下へと位置づけられた相手の言葉だからでしょうか。その心身に再び『ご自分の立場』というものを叩きこんでやりたくなるのです。
 
 「き、今日一日のニンゲンの態度次第だな。反省しているのであれば私をもっと敬え」
 「はい。分かりました。そうさせていただきますね」
 
 怒りと屈辱に声を震わせながら私はそっと返しながら玄関を出ました。そのまま鍵を掛け、街中へと繰り出していくのです。もう既に真冬とも言っても良い季節ですが、空には青々とした空が広がっていました。比較的温暖なこの地域に雪が降るのはもう少し先になることでしょう。そう心の中で呟きながら、私はレンガで舗装された道を歩いて行くのです。勿論、その歩幅はラウルに合わせたゆっくりとしたものでした。
 
 ― そんな私達を多くの人々の視線が貫いて…。
 
 魔物娘が多く入り込んでいるこの街でも――いえ、だからこそと言うべきかも知れませんが――エルフと言うのは珍しい種族なのです。これから先、魔界化が進めば話は別でしょうが、今、この街にエルフはラウルくらいしかいません。その物珍しさもあるのでしょう。以前からこうして視線を向けられる事は少なくはありませんでした。
 
 ― けれど、今の私達に向けられるのは以前とは少し違うもので…。
 
 以前はただ物珍しさが先立った視線が殆どだったのです。たまに本能的な危険を感じるものもありましたが、それは殆どないと言っていいほどの少数派でした。しかし、今は何処か羨ましそうな、それでいて対抗するような視線が殆どなのです。前者は一人の男女であり、後者が二人組の男女であることを顧みれば、一体、私達が彼らにどう思われているかは自明の理でしょう。
 
 「ふふ…っ♪」
 「…そんなに嬉しそうにしてどうしたんです?」
 「だって…周りの羨ましそうな視線や対抗するような視線が…な。私達のことを恋人だと思っているんだぞ?」
 
 ― 何処か悪戯っぽい笑みを浮かべるラウルの気持ちは私にも少し分かります。
 
 それがまったく事実無根の誤解であると知っているだけに優越感を感じるのでしょう。自分だけが正解を知っているという優越感は下衆ではありながらも、人間のちっぽけなプライドを充足させるには十分なものです。そんな感情がエルフにもあるとは意外でしたが、彼女だって別に霞を食べて生きている訳ではありません。人間よりも少ないとは言え、そういった感情が入り込む余地はあるのでしょう。
 
 「ニンゲンはどうだ?お前も…私も恋人に見られて嬉しいか?」
 「む…」
 
 それはある種の究極の二択であると言えるでしょう。ここで嬉しいと答えるのはラウルを意識していると言っているも同然なのです。今のラウルにとって、それが受け入れられるものであるかという問題もありますが、それ以上に私の気恥ずかしさがマッハになってしまうでしょう。だからと言って、嬉しくないと答えれば彼女の不興を買う結果に繋がりかねません。正直に言えば、どちらに転んでも私にとって悪い結果が待ち受けているのが見えているだけにどちらも選びたくはないのです。しかし、私の腕を抱きしめながら期待を瞳に浮かばせる彼女を見るにここでどちらも選ばない事ほどの悪手はないでしょう。
 
 ― となれば……覚悟を決めるしかありませんか。
 
 「えぇ。勿論、嬉しいですよ。貴女はとても綺麗ですからね」
 「ふふふふふ…♪」
 
 ― 私の返事にラウルの顔が蕩けました。
 
 喜色を顔一杯に浮かばせて幸せそうな表情を浮かべるラウルを見るかぎり、私の選択はそれほど間違いではなかったのでしょう。女性として見られる事を厭う可能性も考慮していた私はひとまず胸を撫で下ろしました。しかし、私の発言がラウルにからかう種を与えたのは事実なのです。それに気付かれないようにと普段は毛嫌いしている神様とやらに祈りながら私は足を進めるのでした。
 
 ― その祈りが届いたのかは分かりませんが、それからラウルは特に何も言わず…。
 
 時折、「えへ…えへへへ♪」と思い出し笑いをするラウルに気味が悪いものを感じますが、その足はしっかりと私に合わせて前へと進んでいるのです。ここで下手に声を掛けてさっきの言葉の意味に気づかれたくはありませんし、ここで下手に彼女を刺激する必要はありません。そう心の中で呟く私の目に以前、ラウルの服を山ほど譲って貰った服屋が飛び込んでくるのでした。
 
 ― やれやれ…やっとですか…。
 
 何時、ラウルにからかわれるのか気が気ではなかったからでしょうか。それほど離れていなかったはずなのにもう何時間も歩き続けた気がするのです。緊張の所為かガチガチに固まった身体は微かな疲労を訴えていました。それを精神力ではじき飛ばしながら、私はそっとショーウィンドウ前を横切って、店の中へと入っていくのです。
 
 ― そこは決して広い店内ではありません。
 
 元々、個人経営の店だからでしょうか。天井も横幅もメインストリートに並ぶブティックとは比べ物にはなりません。しかし、こじんまりとしたその店に並ぶ衣服は素人目に見ても素晴らしいものでした。少なくとも品質そのものはブティックに劣らない。そんな商品が窮屈さを感じさせない程度に並ぶ商店の奥から漆黒の髪を角刈りにした大柄な男性がぬっと顔を出したのです。
 
 ― その顔には大きな裂傷が傷として残っていて…。
 
 鼻の頭を通るように右頬から左頬へと走る大きな傷跡は戦場帰りと言っても納得できるものでした。それはやはりその男性の顔そのものがかなりの強面であるのにも起因するのでしょう。こんな服屋から出てくるのではなく、大剣を担いで酒場に屯している方がよっぽど似合う男らしさをその男性は身体中から吹き上がらせていました。
 
 ― けれど、その身体に纏っているのは純白のフリルがたっぷりとついたドレスで…。
 
 大柄な男性の身体が少し動く度にミチミチと張り裂けそうになっているドレスは見ているだけでも様々な意味で不安になるものでした。元々、身体を鍛えていたのでしょう。その厚い胸板や立派な上腕二頭筋までドレス越しでもはっきりと分かるだけに出来れば中身を見たくないと切に思わせられる姿をしているのでした。
 
 「あっらぁ♪ハワードちゃんとラウルちゃんじゃないのぉっ♪」
 「ど、どうも。お久しぶりです」
 
 ― そしてその唇から漏れるのは完全無欠なオネエ言葉で…。
 
 男らしい声を必死に甲高いものにしようとしているのでしょう。何処か違和感が拭い切れないその声に載るのは男らしさを立ち上らせるような大男が紡いだとは思えない言葉でした。格好だけでも現実逃避したくなる相手が漏らすそれらは、出会うのが二度目であるはずの私に声をどもらせるほどのインパクトがあるのです。
 
 「んもぅ!アレからまったく顔を見せてくれないから心配したのよぉっ!」
 「ははは。申し訳ありません。アレだけ沢山の衣服を譲って頂いたので服そのものの必要性が少なくて」
 「もぅ…冷やかしでも良いのよ。私と貴方達の仲じゃないのぉ♪」
 
 ― どんな仲だって言うんですか…。
 
 出来れば私もそれはただのセールストークだと思いたいのです。しかし、何処か熱っぽい流し目がそれを許しません。以前、足を運んだ時にも「同性愛趣味はない」と聞きましたが、細かい仕草一つ一つのカマっぽさの所為でどうにも信じられないのです。正直、アレだけの衣服を譲ってもらった義理がなければ、あまりここに足を運びたくはありませんでした。
 
 「それで…冬服もたっぷり残ってるであろうハワードちゃん達が来たって事は…」
 「まぁ…少しばかり事情がありまして。…ラウル」
 「…はっ」
 
 何処か気遣うような視線をくれる店主に応えるようにして、私はラウルの名前をそっと呼びました。それにようやくここが何処だか気づいたのでしょう。私の腕を抱いて日向で眠る猫のような多幸感を浮かばせていたラウルの視線がはっきりとしたものになり、現実へと戻ってきます。そんな彼女の視線が店主を捉えた瞬間、ラウルはそっと私の背中へと隠れたのでした。
 
 「あらら…まだ慣れて貰ってないのかしらねぇ」
 「い、いや…そ、そういう…訳じゃあ…」
 「そう言うんだったら私の腕を離すか背中から出るかのどっちかにして欲しいんですけどね」
 
 私の腕を抱き抱えたままのラウルが後ろへと隠れた所為で、完全に極まっているのです。偶然から生まれただけあって抜けだすのは容易ですが、それほど広くないこの店内で大立ち回りを行う訳にはいきません。しかし、今の間にも積み重なっていく私の不快感も軽視出来ません。それをそっと口に出した私の後ろでラウルがふるふると頭を振るうのが分かりました。
 
 「まぁ、仕方ないわよね。でも…事情っていうのは聞かせて貰って良いのかしら?」
 「えぇ。まぁ、その実はですね…」
 
 後ろに隠れたラウルに腕を極められながら、私は軽く事情を説明しました。とは言え、私だって多くのことを語れる訳ではありません。自然、私の口から出てくるのは「ラウルが女性になった」という一点だけ。
 
 「…そう。それで女物の冬服を買いに来たって事なのね?」
 
 勿論、そこには色々な事情が含まれているのは店主も理解する所なのでしょう。事情を説明し終わった私の前で彼は小さく頷いた後も質問を口にはしませんでした。その趣味は決して理解できるものではありませんが、やはりこの男性は察しの良いようです。
 
 ― これで格好さえ奇抜でなければモテるでしょうに。
 
 元々、この街には男性に飢えた魔物娘が数多く住んでいるのです。隙あらば男性を手に入れようと虎視眈々と狙っている魔物娘たちにこの察しの良さを発揮すれば幾らでもモテるでしょう。人間の女性相手でも強面ではあるものの悪くはない顔の作りと相まって、モテない理由がありません。
 
 ― まぁ、そんな事を考えても意味なんてありませんね。
 
 「えぇ。後は女物の下着も」
 「了解よぉ♪でも、サイズは分からない訳よね?」
 「あー…そうなりますね」
 
 完全に失念していましたが、女性の下着にはサイズがあるのです。男性は穿ければそれでいいと思いがちですが、女性はそうではありません。特に胸は正しいサイズを身につけなければ形が崩れたり、成長が遅れたりするのです。ラウルが後者を気にするとは思いませんが、正しいサイズを身につけるに越した事はありません。
 
 ― しかし…そうなるとこの男性がラウルのサイズを…?
 
 そう考えただけで私の胸にドロドロとしたものが溢れ出しました。まるで自分の大事なものを汚されたようなドス黒い感情は今まで感じたもののないタイプです。しかし、ラウルが自分一人でサイズを正しく測定出来るはずがありません。そこには必ず何かしらの補助が必要になるのです。それにこの店主がこの中ではもっとも相応しいのは事実でしょう。そう言い聞かせて尚、私の心に生まれたヘドロのような感情は収まってはくれません。
 
 「じゃあ、貴方が測るしかないわね」
 「…は?」
 
 そんなドス黒い感情を吹き飛ばしたのは店主の予想外の言葉でした。それも当然でしょう。だって、私はこの場では完全に素人同然なのです。正しくサイズを測る方法など知らない私が出来るはずがありません。そもそも今のラウルは女性であり、私は男性なのです。その裸を見ることは公共良俗的に宜しいとは決して言えません。
 
 ― だからこそ、私の頭の中は真っ白になって…。
 
 それだけのことを理解しているが故に理解できなかった言葉に私の思考が止まります。そんな私の前で店主がニヤリといやらしい笑みを浮かべながら、その唇を動かしていくのでした。
 
 「だって、私はラウルちゃんに怯えられている訳だしねぇ…。それなら貴方しかしてあげられない訳じゃない?」
 「そ、それなら他の店に行けば…」
 「他のお店なんて大抵、魔物娘が店員やってるわよぅ。ラウルちゃんが魔物娘が近づくのを我慢できると思うの?」
 「それは…」
 
 ― そこまで言った瞬間、ラウルの胸が私に強く押し当てられました。
 
 すがるようなそれにそっと視線を向ければ彼女の瞳が懇願に揺れています。やはり多少、外交的になったとは言え、そのトラウマを克服することは出来なかったのでしょう。未だ一人だけでは怖くて外を出歩けない彼女がトラウマの塊である魔物娘の前で裸になるだなんて無理に決まっています。
 
 ― …それを言った記憶はないんですけれどね。
 
 客商売をしているとやはり観察眼というものが磨かれるのでしょうか。ラウルが魔物娘に怯えているということを以前の邂逅で見抜いていた店主に私は溜め息を吐きました。確かに彼の言う通りです。この店でサイズを測れるのは私しかおらず、他の店ではもっと難しいのですから。消去法であるとは言え、一番の適任は私であると言えるでしょう。
 
 ― しかし…問題はラウルがそれを許容してくれるかと言う事で…。
 
 「…しかし、それ以上にラウルの意思が問題でしょう?彼…いや、彼女が私の前で裸になるなんて抵抗ないはずが…」
 「わ、私は良い…ぞ」
 「は?」
 「わぁお♪」
 
 ぽそりと、しかし、はっきりと告げられたラウルの言葉に私と店主はまったく正反対の反応を示しました。勿論、呆然としたのが私で面白そうな声をあげたのが店主の方です。きっと店主にはラウルがこう応えるというのは予想通りだったのでしょう。面白そうな声の中には確信を得たようなものさえ含まれていたのですから。
 
 ― だけど、私にはそれは予想外もいいところで…。
 
 ついこの間、同性であった頃であれば百歩譲ってあり得たかもしれません。しかし、私たちは今や性を違えてしまっているのです。ただでさえ恥ずかしがり屋で潔癖症なラウルが、同性の時でさえ許さなかったそれを今更、許すとは到底、思えません。店主に始めて出会った時とは別の意味でこれが夢か何かとさえ思えるのでした。
 
 「だ、だって…下着を買うのには必要なことなんだろう?だったら…」
 「い、いやいやいやいや…!!も、もうちょっと良く考えてくださいよ!」
 「わ、私だって考えてる!だけど…他に方法がないんだから…仕方ないだろう?き、緊急避難って奴だ。人工呼吸とかと同じと考えれば問題はない!!」
 「いや、大有りですよ!?」
 
 そもそも命の危機と衣服の購入を同列に語っている時点で論理破綻を起こしているのです。確かに下着は必要ではありますが、生命活動に必須という訳ではありません。それに正確なサイズが測れずともカップさえ合っていればそれほど重大な問題には発展しないでしょう。カップ数だけであれば目分安でも十二分に可能なのです。
 
 「わ、私はもう覚悟を決めたんだ!お前も覚悟を決めろ!!」
 「それすっごい無茶な事を言ってるって自覚あります!?」
 「まぁまぁ。痴話喧嘩はそこまでにして頂戴」
 「ち、痴話…っ!?」
 
 主張の違いからヒートアップしていく私たちの間に割りこむようにして店主が口を挟みました。その言葉は私にとっては見過ごせないものです。痴話喧嘩と言う単語を聞いて、顔を赤くして俯くラウルに倣おうとする身体を制御し、反論を口にしようとした私よりも先に店主がさらに言葉を続けるのでした。
 
 「ハワードちゃんは小難しく考え過ぎなのよ。別に肌着の上から測っても問題はないんだから。誤差はこっちで修正するし…ね」
 「むぅ…」
 
 確かにサイズを図るという言葉に騙された感がありますが、店主の言う通りです。…と言うか、元々、店主はそのつもりだったのでしょう。にやつくその顔には勝ち誇ったものさえ浮かんでいました。きっとこうやってミスリードを誘ったのも彼の作戦の内だったのでしょう。そう思うとその顔を思いっきりぶん殴ってやりたいですが、ただでさえ騒動を起こしている身の上なだけにそれは出来ません。
 
 「さぁさぁ、それじゃあお互いに了解が取れた所で試着室に行って頂戴。あ、これメジャーねぇ♪」
 「…ありがとうございます」
 
 ついさっきのやり取りでさらに精神的に疲れた私はぐったりとしながらメジャーを受け取りました。やはり本職はデザイナーというべきでしょうか。使い込まれて年季の入った青いメジャーは彼の熟練さを感じさせます。奇抜過ぎるにもほどがある格好からは想像も出来ませんが、それなりに有名なデザイナーというのは嘘ではないのでしょう。
 
 ― まぁ、それはさておき…と。
 
 私にメジャーを手渡してからノリノリで下着を物色し始める店主から視線を外せば、顔を真っ赤にするラウルが視界の中へと入って来ました。お互いにヒートアップしていた時でさえ私の腕を手放さなかった彼女はぶつぶつと何かを呟きながら俯いたままです。流石に足を動かす気配もないラウルを抱き抱えて試着室へと突撃する勇気はありません。まずはラウルの意識を現実へと引き戻すのが必要でしょう。
 
 「…ラウル」
 「はっ!!」
 
 さっきとは違い、今回はそれなりに浅い所に飛んでいたのでしょう。名前を飛べばすぐにラウルの意識が戻って来ました。その顔はまだ赤いですが瞳もはっきりとしています。とりあえずまたすぐに明後日の方向へと意識を飛ばす事はないでしょう。それに微かな安堵を感じながら、私は試着室をそっと指さしました。
 
 「とりあえず…さっさと終わらせますから試着室へと行きますよ」
 「う、うん…や、優しくしてくれよ…?」
 
 バストサイズを測るだけで優しくとか何かを勘違いしているんじゃないかと言いたくもなりましたが、こうしてサイズを測るのは初めてなのです。やはり何処か不安なのは否定出来ないでしょう。バストサイズの測り方に優しくも厳しくもないとは思いますが、ここは緊張を解す為にも優しく答えてあげるべきなのかもしれません。
 
 「安心して下さい。私はバストを測る達人ですから」
 「…何かそれすっごい変態っぽいぞ…」
 「…自分でも自覚してるんであんまり言わないでください」
 
 ラウルに言われる前から自分でも後悔しているのです。言わなければ良かったと心の中でどれだけ呟いた事か。しかし、それでもラウルの緊張を解すのには成功したのでしょう。ガチガチになって私の腕を捕まえていたラウルの腕からそっと力が抜けたのです。
 
 「…ありがとうな」
 「…何の話かわかりませんね」
 「ふふ…♪本当にお前は素直じゃないな」
 
 ― 素直じゃないのはお互い様でしょうに。
 
 そう心の中で呟きながら私たちは試着室の前へとたどり着きました。人一人が着替えられるだけの小さなスペースに人が二人も入らなければいけないのですが窮屈にも程があるでしょう。しかし、肌着姿とは言え、あの店主の前で測るのは何か気に入りません。それを防ぐためにもここは我慢が必要です。
 
 「じゃあ…とりあえず貴女が先に入って下さいますか?流石に二人で入ってから脱ぐようなスペースはありませんし」
 「あ、あぁ。分かった。終わったらニンゲンを呼べば良いんだな?」
 「えぇ。すぐ脇に待機していますから」
 
 そう言った私に頷いたラウルの表情は少し硬くなっていました。多少、緊張が解れたとは言っても、『脱ぐ』と言う言葉に実感と緊張感が生まれたのでしょう。自分の浅慮な言葉に私は内心、舌打ちをしながら試着室の脇へと移動しました。そのままそっと視界を遮るベージュ色のカーテンを閉じて彼女の準備が整うのを待つのです。
 
 ― そんな私の耳に布切れの音が届いて…。
 
 厚手のカーディガンがリボンブラウスと擦れ合って立てるシュルシュルとした音はどうしても男として想像を掻き立てられるものでした。勿論、実際にラウルは服を脱いでいるとは言え、それは肌着までの段階です。決して裸になっている訳ではありません。しかし、私の中にも宿る男の本能がプツプツとブラウスのボタンを外している音を聞くだけで中のラウルが今にも裸になろうとしているような妄想を創りだすのです。
 
 ― そんな私の妄想を裏打ちするようにまた布切れの音が聞こえてくるのです。
 
 聞き耳を立てるつもりはありませんが既にラウルがブラウスを脱ぎ去った音は聞こえたはずなのです。しかし、彼女の呼びかけは聞こえないまま、布切れの音は続いていました。それに微かな違和感を感じましたが、多分、まだブラウズを脱いでいる途中なのでしょう。ただでさえ今は冷静ではありませんし、何処かで認識がズレてしまったに決まっています。そう思考を打ち切りながら、私はラウルの言葉をそっと待ち続けました。
 
 「い、良いぞ…」
 
 きっと逡巡もあったのでしょう。そんなラウルの声が聞こえたのはたっぷりと数分ほど経ってからでした。しかし、私にはそれを責めるつもりはありません。元々、異性に胸のサイズを測らせるという事自体が無茶なのですから。その上、ラウルはついこの間まで男性であり、プライド高いエルフであったのです。ここまで要素が重なってすんなりいくはずがありません。
 
 ― 寧ろ思ってたよりも早かったくらいですしね。
 
 「じゃあ、開けますよ」
 
 そう簡単に思い切れないと思っていただけに寧ろ数分程度で済んで良かった。そう思考を打ち切って、私はそっとカーテンに手を掛けるのです。そのまま私自身が入れるだけのスペースを作った瞬間、私の視界に艶かしい白色が飛び込んでくるのでした。それに思考が停止した瞬間、私の腕を何かが掴み、試着室の中へと引きずり込むのです。
 
 「ば、馬鹿!早く入れ!!」
 
 微かに聞こえたその声と共にシャッとカーテンが閉じる音が聞こえました。恐らくラウルがカーテンを閉じたのでしょう。それを頭の何処かで認識する私に何か白いものが密着するのでした。何処か見覚えのあるその色は触れ合った場所からじんわりと熱を伝えてくるのです。それと同時にふっと鼻の奥を擽る甘い香りもまた覚えのあるものであり、ただでさえ鈍くなった私の思考をさらに滞らせるのでした。
 
 「と、とにかくだな…。は、恥ずかしいからもうちょっと離れて…」
 「な…なななななっ!!」
 
 ― ぼそぼそと呟くようなラウルの声は殆ど私の耳には入って来ませんでした。
 
 それ以上にはっきりと認識されつつある現状に私の思考は占領されてしまったのです。艶かしい白色が彼女の肌であり、狭い試着室の中で抱きあうように密着しているとようやく理解できたのですから当然でしょう。一体、何がどうしてこうなったのか。それさえも理解出来ない私は混乱する思考で必死に唇を動かして、言葉を紡ごうとするのでした。
 
 「なななな…なんで上半身裸なんですかあああああっ」
 「ば、馬鹿!声が大きい!!」
 
 その声の大きさを彼女に咎められましたが、今はそんな場合ではありません。少なくとも悠長に声のトーンを落として、優しく囁いてやる余裕なんて私にはないのです。今だってラウルの体温と共にトクントクンと凄い速度で脈打つ鼓動まで伝わっているのですから。その上、甘い体臭を直接、嗅がされるのですから冷静でいられるはずがないでしょう。
 
 「さ、サイズを測るのは裸の方が良いんだろう…?わ、私は完璧主義者だからな!1ミリのズレも許したくなどないからだ!決してお前にもうちょっと意識して欲しいと思ったからとかじゃないぞ!!」
 「聞いてませんよそんなの!?ていうか、別に1ミリくらい誤差で修正しますし、裸になる必要なんて…」
 「うるさいうるさいうるさい!お前は私のスタイルが崩れて責任が取れるのか!?」
 「それすっごい無茶言ってるって自覚あります!?」
 
 確かにスタイルが崩れるというのは女性にとって大きなデメリットであります。しかし、1ミリのズレでそこまで深刻な変化は起こらないでしょう。もし、そうであれば成長期の女性は毎日、ブラのサイズを調整しなければいけません。現実、そうはなっていない以上、彼女の主張は無茶というレベルを遥かに超えているのです。
 
 「うるさい!そんなもの羞恥心と一緒に投げ捨てたわ!!お前は文句を言わずにサイズを測れば良いだけだっ!!」
 
 しかし、私の主張をラウルはまるで聞き入れる気がないようです。私の胸の中にすっぽりと収まっている顔には羞恥が強く浮かんでいるだけに恥ずかしくない訳ではないのでしょう。それでも後に引くつもりがない辺り、ここで問答をしてもきっと決着は出ません。それならばとっととサイズを測ったほうが幾らか効率的でしょう。
 
 ― それに…直接触れるラウルの身体は本当に柔らかくて…。
 
 今、私とラウルの身体を遮っているのは私が着る藍色のシャツとセーターくらいなものです。それ以外のもの全てが取っ払われた今、さっきとは比べものにならないほどはっきりとその柔らかさを意識してしまうのでした。その上に視覚的興奮や嗅覚的興奮が乗っかるのですからおかしな気分になりそうなのです。
 
 「…分かりました。それなら、離れて頂けますか?」
 「さ、最初からそう言えば良いんだニンゲンめ…」
 
 ― 言える訳ないでしょうが。
 
 ここで「はい。そうですか」と流せるほど悟っていれば、私はもっとマシな人生を送ってこれたでしょう。良くも悪くも『少し変わった人間』に過ぎない私にとって異性の裸と言うのはどうしても興奮を掻き立てられるものなのです。まして相手は曲がりなりにも『特別』と位置づけられているラウルであればさらにそのインパクトは増すでしょう。
 
 「とりあえず鏡の方へと向いて下さい。流石にこっちを向かれると私も困りますし」
 「…ん。まぁ、それは勘弁してやろう」
 
 その言葉と同時にラウルがそっと私に背を向け、鏡の方へと向き直ります。そのままそっと測りやすいように腕をあげる彼女の前にメジャーを通して、そっと微かな膨らみに巻きつけるのでした。そのまま鏡に移る桃色の乳輪から目を背けながらもトップバストへとメジャーを移動させ、水平になるように角度を調整します。
 
 ― しかし…これはまた随分と艶めかしい姿ですね…。
 
 ラウルは細身といっても肉付きが悪い訳ではありません。特に胸周りはまだ発展途上なのか少なからず肉が載っているのです。そんな部分を隠すように巻きつくメジャーは微かに食い込み、何処か鎖のようにも見えるのでした。明らかに被虐的性質を持っているであろう彼女のそんな姿に私の嗜虐性は興奮の波を湧き上がらせ、身体中へと波及させるのです。
 
 ― いけない…集中しないと…!
 
 ただでさえ、狭い密室の中にラウルの体臭が溢れて理性を失いそうなのです。その上、お互いに興奮している所為か、ハァハァと短い呼吸音が交差しているのでした。何時、崩れ落ちてもおかしくはない吊り橋のような空間は集中を切らすと何かとんでもない事になるような錯覚さえ私に与えるのです。
 
 「あ…ん…っ」
 「……」
 「…ん…っ…ふぅ…っ♪」
 
 ― だから、なんでそんな艶かしい声を出すんですかあああああっ!!
 
 きっとメジャーがトップバスト――つまり乳輪に擦れてむず痒いのでしょう。そうです。そうに決まってます。決して乳首に擦れて感じているなんて事はありません。しかし、どれだけ自分にそう言い聞かせても私の中のオスは納得してはくれないのです。最近、忙しくて構ってやれないムスコが厚手のズボンを押し上げる程に彼女の声に私もまた興奮をそそられてしまうのでした。
 
 ― そのお陰で上手く手が動かなくて…。
 
 細かい微調整を何度繰り返しても上手くメジャーの線が一直線にはなりません。どうしても微かに歪んだ直線になってしまうのです。その度に微調整を繰り返していますが、興奮を滾らせる手はどうしても力が入りすぎ、そしてその度にラウルに甘い声を漏らさせてしまうのでした。
 
 「で、出来ました…よ」
 
 そんな地獄とも天国とも言える時間が十分ほど経った頃、私はようやくトップバストの測定に完了しました。その間に何度、足を踏み外して奈落へ転落すると思ったか分かりません。しかし、私はそれを乗り切り、生還する事に成功したのです。それに溢れんばかりの喜悦を感じて、気を緩めた瞬間、鏡越しにラウルが口を開くのが見えるのでした。
 
 「そ、そうか。じ、じゃあ次は…ま、前から…だな」
 「…は?」
 
 それは私にとって信じられない言葉でした。だって、私はついさっきその地獄から生還したばかりなのです。それ以上の場所へと突き落とそうとするラウルの言葉を認められるはずがありません。思わず間抜けな顔で聞き返してしまうのも仕方のない事なのです。
 
 「そ、そももも素人が一度で正確なサイズが出せるはずないんですわ?お?右見て左見てもっかい右を見るっていう名台詞を知らないのかよ!!」
 「知りませんよ!!」
 
 確かにラウルの言葉には一理あるでしょう。一応、問題はないとは思いますが、私は誰かのバストサイズを測ったことがないのです。一度だけの確認では不安なのでもう一度、測り直そうというラウルの言葉は納得が出来るものでしょう。しかし、だからといってそれを許容出来るかといえば間違いなく「NO」なのです。これ以上、さっきのような妙な雰囲気が続こうものなら、本当におかしくなってしまいそうなのですから。
 
 「い、良いからさっさと前から測れと言っているニンゲン!!」
 「う、うわっ!!ちょ…いきなり前向かないでくださいってば!」
 
 不意打ち気味に私の側へと振り向いたラウルの乳首がメジャーのラインからずれてポロリと見えてしまったのです。鮮やかなその桃色は微かに、しかしはっきりと立ち上がっていて彼女の興奮を私に伝えるのでした。その一瞬の光景が私の意識の中へと刷り込まれるように入っていき、今も頭の中で反響するのです。
 それだけでもその場から逃げ出したいくらいなのに、ラウルはその微かな胸を隠すこと無く、私に晒しているのでした。勿論、元々はバストサイズを測るためなので当然と言えば当然なのでしょう。しかし、ついこの間まで男性と思っていた彼女のそんな無防備な姿に私の中の穢れた欲望がその鎌首をもたげ始めるのです。
 
 ― 駄目だ…このままじゃ…!!
 
 逃げ出したい。けれど、逃げ出せない。そんな状況の中、私に選べる選択肢なんて出来るだけ早くこの地獄のような時間を終わらせる事だけです。そう心の中で決め込んだ私は溜め息を一つ吐きながら、再びラウルの身体にメジャーを巻きつけていくのでした。
 
 「くぅんっ…♪」
 
 その度にまたラウルが艶めかしい声をあげ、私の興奮を高めようとしてくるのです。それを聞くまいとしても、どうしても頭の中へと入り込んでくるのでした。その上、腕をあげて無防備な姿を晒されているのですからたまったものではありません。後頭部の辺りが興奮で熱くなっていくのを感じながら、私は必死に微調整を繰り返していくのです。
 
 ― しかし、さっき上手くいかなかったのにすぐ上手くいくはずもなく…。
 
 一度、成功した事である程度のコツを掴んだとは言え、前からと後ろからではどうしても勝手が違います。それに戸惑っている間にまた一分二分と時間が経ち、ムスコが痛いほどに勃起し始めました。厚手のズボンを穿いているのでそれは微かな膨らみにしか認識出来ませんが、元が男性であるラウルには見抜かれてしまうでしょう。少なくとも、向かい合った状態では決して安心は出来ません。
 
 ― くそ…っ!こうなったら…っ!!
 
 「きゃっ…♪」
 
 心の中で悪態を吐きながら、私はそっと膝を折り、膝立ちの姿勢になりました。それに悲鳴とも喜悦とも取れる声をラウルはあげましたが、特に抵抗する様子は見えません。それに安堵しながら、私は目線と同じ高さにある彼女の乳房に目を向けました。紅潮を見せる微かな膨らみは間近で見るとそれなりに迫力があるのです。それが舌を伸ばせば届きそうな距離にあるのであればな尚更でしょう。視界一杯に広がるその乳房に圧倒されるのを感じながら、私はメジャーのラインを一直線へと近づけていきました。
 
 「…んふ…♪」
 
 そんな私の頭をラウルの手がそっと撫でました。正直、それはかなり気恥ずかしい行為であるのです。普段であればすぐにでもその手を払っていた事でしょう。しかし、今はそれよりも遥かに優先しなければいけない事案が残っているのです。まずはそれを片付けようと私は彼女に文句ひとつ言わないまま放置し続けていました。
 
 「ひゅ…ん…♪…ふふ…♪」
 
 特に何も言わない私に調子に乗ったのでしょう。ラウルは甘い声と笑い声を浮かべながら、何度も何度も私の髪を撫でていくのです。暖かくも優しいそれは気を抜けば、身を委ねたくなるほどの魔性の魅力を持っていました。ただ、頭を撫でられるだけでこんなにも心安らぐのか。そんな驚きと抵抗を胸に私は細かい微調整を繰り返していくのです。
 
 「…測れましたよ。さっきと同じ数字です」
 「そうか。ご苦労だったな」
 「…ご苦労だと思うのであればその手をとっとと手放してもらいたいんですけどね」
 「私なりの労いだ。気にするな」
 
 ― それが邪魔なんだと言ってやるのは簡単でしょう。
 
 しかし、今回のお出かけが彼女のご機嫌取りも兼ねているだけにあまり強気には出れません。ラウルが自発的に手を離すつもりがないのであれば、私には何も言えず、口を紡ぐしかないのです。
 
 ― ホント…不平等ですよね…。
 
 本来であれば私が上の立場であるはずなのに、どうしてラウルにこんなにも気を使わなければいけないのか。私はそれに微かなストレスさえ感じ始めていました。しかし、そのストレスを天秤にかけて尚、私はラウルからの信頼を得たいと考えているのも確かなのです。そんな自分の変化に驚きと落胆を感じながら、私はそっと肩を落としました。
 
 「…じゃあ、次はアンダーを測りますから。大人しくしててくださいね」
 「子ども扱いするんじゃない!私はニンゲンなんかよりもずっと長生きしているんだからな」
 
 ― そういう所が子どもだって言ってるんですよ。
 
 幾ら肉体年齢だけ重ねたとしても精神年齢が伴わなければ何の意味もありません。ましてやラウルは人と時間の流れが全く違うエルフなのです。幾ら人間の寿命を超えた所でその精神が子どもであればガキ同然でしょう。
 
 「あ、すみません。子ども扱いしたつもりはなかったんですよ」
 「…まぁ、それなら良いんだがな。ただ、侘びとしてニンゲンの頭を撫でさせろ」
 「…そんなに良いもんですかねぇ」
 
 上機嫌に私の頭を撫でるラウルからそっと目を背けて、私はメジャーをそっと下へとずり下ろしました。瞬間、私の目に立ち上がった乳首が目に入りますが、それを意図的に思考の外へと放り出していきます。その代わりに私の思考へと引きずり込むのはラウルとのくだらない雑談以外にありません。幸いにして今は話題が穏やかなものですし、ここは会話に気を裂いたほうが幾らか精神の安定が図れるでしょう。
 
 「んー…良いか悪いかと言われれば…まぁ、ギリギリ前者だな」
 「…それだったら別に撫でなくても良くありません?」
 「お前が私の前に跪いて頭が撫でられる位置にあるというのがそもそも新鮮だからな。なんというか…保護欲を擽られる」
 
 ― 保護されてるのは貴女の方でしょうに。
 
 そう口にして言ってやりたくもありましたが、上機嫌なラウルの機嫌を悪くするのは悪手です。それに前から測るのは二度目な所為か今もそれなりに並行へと近づいていっているのでした。目の前でふるふると誘うように揺れる乳首にさえ意識を掬われなければ、後少しでサイズは測り終わるはずです。
 
 「じゃあ、これからもこうして撫でたいですか?」
 「ん…これから…という括りならば、撫でるよりも撫でられたい…かな」
 「つまり?」
 「…大人しく測られてたご褒美をくれって事だよ言わせるな恥ずかしい」
 「…いや、それ色々と論理破綻起こしてませんか?」
 
 そもそも別に私は無理矢理、ラウルのバストサイズを測ろうとしている訳ではないのです。ただ、彼女の我侭を考慮に入れただけであり、寧ろご褒美云々は私が貰えるべきではないでしょうか。自分だけの物を殆ど一つも持たないラウルから貰えるものなんてない訳でまず期待してはいませんが、苦労度から言って私があげる側だけではなく貰う側なのは明白です。
 
 「お、女の裸を見せているんだぞ。も、もう十分過ぎるくらいお前には報いているじゃないか」
 「別に見たいと言った記憶はないんですけどねぇ…」
 「む」
 
 思わず呟いてしまった本心にラウルの顔に不機嫌そうな色が浮かびました。それはまだ怒りというほどの激しいものではないとは言え、今まで上機嫌に私を撫でていたラウルの顔を拗ねた表情に変えていくのです。唇を尖らせる子どもっぽい表情を見上げながら、私は最終調整へと入っていきました。
 
 「…じゃあ、何か?ニンゲンは私の裸に撫でるほどの価値はないと言うのか?」
 「い、いや…そういう訳では…」
 「そもそもお前の性格からして撫でられるよりも撫でる方が気が楽だろう?それを顧みてわざわざ譲歩してやっているというのに…」
 「いや、それは絶対、嘘でしょう」
 
 撫でられたいと言った時の無防備な姿はそんな事を考えているようには決して見えませんでした。寧ろ逆に自分の欲望をそのまま垂れ流しにしていると言った方がよっぽど適切に思えるくらいなのです。
 
 「うるさい!ともかく…恥ずかしいのを我慢したご褒美は絶対に、ぜぇぇぇぇぇったいに貰うからな。もし、それが駄目だって言うんなら…」
 「言うのなら?」
 「…こ、このままお前の頭を…だ、抱きしめてやる」
 「う…」
 
 ― それは玉砕覚悟の突撃も同然の言葉でしょう。
 
 それは私よりも遥かにラウルの方がダメージが大きいのでしょう。ラウルが目も当てられない様なレベルの醜女であるならまだしも、彼女は絶世と言っても過言ではないほどの美人で、私の『特別』でもあるのです。その上、私が男性であり、ラウルが女性であるという時点でどちらの方がメリットが大きいかは自明の理でしょう。
 しかし、そう判断する私には羞恥心や自尊心と言ったものが備わっているのです。一見、無駄なように見えて人を人足らしめているそれらの感情がそのシチュエーションを真っ向から拒絶していました。そこにそんな事になったらもう完全にタガが外れてしまうという本能的な恐怖が加わり、私は思わず肯定の言葉を口にしてしまうのです。
 
 「…分かりましたよ。幾らでも撫でてあげますからそれだけは勘弁して下さい」
 「…このヘタレめ」
 
 ぽつりと呟かれたラウルの言葉は私の耳にはっきりと届いていました。しかし、それに反論する気力も論拠も私にはありません。ジパングの方では「据え膳食わぬは男の恥」と言うらしいですが、相手が相手だけにそう簡単に喰らう訳にはいかないのです。
 
 「まぁ、否定はしませんよ。それで…アンダーも測り終えましたよ。次は後ろを向いて…」
 「…いや、アンダーは良い。それよりとっとと出て行け。もう服を着るから」
 
 さっきとは比べものにならないふくれっ面を見せながら、ラウルはさっと後ろを向きました。瞬間、肩甲骨からの美しいラインが私の前へと晒されます。胸とはまた違った意味でオスの欲望をそそるそのラインは思わず指を這わせたくなる程でした。しかし、そんな事をやってしまえば完全に変態です。そう自分に言い聞かせながら、私はカーテンを開けずにそのまま後ろへと下がって、店内へと戻るのでした。
 
 「…ふぅ」
 
 私とラウルの熱気が篭っていた試着室から出ると私に新鮮な空気が飛び込んでくるのです。何時の間にかあの狭い試着室で酸素の奪い合いをする事にも慣れていたのでしょう。肺一杯に広がる新鮮な空気は普段、吸っているはずなのにとても美味しい気がするのです。その空気を思う存分、吸い込む私に店主がゆっくりと近づいてくるのでした。
 
 「お疲れ様。大変だったみたいね」
 
 さっきまでのやり取り全てを聞き取られていたのでしょう。最初から最後までお互いに声を抑えるつもりが殆ど無かったので当然と言えば当然です。しかし、その店主の顔に浮かぶ満面の笑みは彼の掌の上で踊っていたのだと言われているようであまり快くはありません。ここで八つ当たりするほど子どもではありませんが、何かしらの仕返しをしたくはありました。
 
 「えぇ。『お陰様』で」
 「それは何よりよぉ♪」
 
 嫌味を含ませた私の言葉を店主は軽く受け流しました。その手に持つカゴに幾つかの下着が入っているので、大騒ぎをしている間に下着を見繕ってくれたのでしょう。そのどれもが見たことのないデザインなだけに店主のオリジナルなのかもしれません。そんな事を考えている間に店主は再び口を開いて、言葉を紡いでいくのです。
 
 「きっとあぁいう子は淡い青とか白とかが一番、映えるのよねぇ。となるとこの辺りが一番良いと思うんだけど、ハワードちゃんの見解はどう?」
 「どうって私に聞かれましても…」
 
 正直、女性の下着の事は門外漢ですし、こうして専門家に意見を求められても困るのです。似合っているかいないかと言えば、実際にラウルが着た所を見なければ分かりません。しかし、私がそれを見る機会は永遠にないはずです。少なくとも、あってもらっては困るのです。
 
 ― しかし、まぁ…随分と…可愛らしいものばかりを選びますね。
 
 勿論、可愛らしいものと言ってもキャラもののバックプリントの入った下着などではありません。店主のカゴの中に入っているのはフリルの沢山ついた清楚なデザインばかりです。確かにラウルの雰囲気を考えれば下手に派手な下着よりもこうした大人しめの下着の方が映えるでしょう。
 
 ― そこまで考えた瞬間、私の脳裏に純白の下着をみにつけたラウルがそっと浮かび上がってきて…。
 
 顔を紅潮させながら甘えるようにしなだれかかってくる姿はまるで私を誘っているようです。顔を蕩けさせた姿は普段のお固い雰囲気とのギャップに胸を打たれるほどでした。未だ半勃起したままのムスコが微かな疼きを走らせるほどにその姿は魅力的です。しかし、だからこそ私はそれを振り払う必要があるのでした。
 
 「まぁ、実際に見てみないと何とも言えないわよねぇ…。って事であの子のサイズは幾つだったのかしら?」
 
 勝手に話を進めて勝手に納得する店主に私は測ったサイズを伝えました。それに小さく頷いている辺り、どうやらそれほど大きな間違いはなかったようです。それに厄介な事件を何とか解決に導いたような達成感を感じた私はそっと肩を落とすのでした。そんな私の目の前で店主が鼻歌を歌いながら、私の伝えたサイズをするするとカゴの中へと集めています。
 
 「……ただいま」
 「あぁらぁ♪おかえりなさぁいっ」
 
 そんな店主を見ている間に衣服を身に付け直したのでしょう。シャッとカーテンの開く音と共に彼女が私の横に立ったのが分かりました。その顔をそっと覗き込めば、上機嫌な店主とは裏腹にとても不機嫌そうです。
 
 ― その割にチラチラとこっちを覗き見るんですから…ねぇ。
 
 顔そのものは不機嫌そうなのに、その視線に浮かんでいるのは間違いなく期待でした。どうしてそこまで不機嫌なのか私には分かりませんが、彼女が期待しているものなんて一つしかありません。それをするのはとても恥ずかしいですが、これ以上、不機嫌になられると計画に支障が出かねないでしょう。それを防ぐためだと自分に言い聞かせながら、私はそっとラウルの頭に手を伸ばすのです。
 
 「あ…♪」
 
 私が今から何をしようとしているのかが分かったのでしょう。ラウルはさっきまでの不機嫌さを一瞬で喜色へと塗り替えて、そっと目を閉じるのでした。あまりにも無防備なその姿にむくむくと悪戯心が沸き上がってきてしまいます。しかし、ここで下手に弄ってしまえばさっき以上に拗ねられてしまうのは必至。今日の目的を考えれば、選べるはずがありません。
 
 ― …まったく…そんな主人に撫でられるのを待つ子犬みたいに…。
 
 そう心の中で呟きながら、私の手はそっとラウルの髪へと触れました。そのまま軽く左右に振るえば、滑らかな髪の感覚が私の指へと絡み付いてくるのです。まるでシルクのような通り拔ける肌さわりは私の髪と同じ成分で出来ているとは到底、思えません。一本一本も私とは比べものにならないほど細い彼女の髪はその一つ一つが最高級の銀糸のようにも感じるのです。
 
 「ん…んん…♪」
 
 ― その上、今にも涎を垂らしそうなくらい幸せな顔をして…。
 
 私が撫でやすいように俯き加減になり、目を閉じたラウルの表情は本当に幸せそうなものでした。特に口元など目も当てられないくらいに蕩けて半開きになっているのです。何処か主人に撫でられる小型犬を彷彿とさせるラウルの姿に嗜虐心がどうしても顔を出そうとするのでした。
 
 「あらあら、お熱いわねぇ♪」
 「っ!あ、あぅ…」
 
 何時の間にかサイズの合った下着を集め終わったのでしょう。店主がにこやかな笑顔を浮かべながら私達に近づいて来ました。さっき私に向けていたニヤニヤとしていたものとは違い、それは純粋に微笑ましいものを見ているようなものです。今までそんな視線を向けられた経験が殆ど無いだけにその視線は妙にこそばゆく不快と言っても良いくらいでした。しかし、それを表に出す訳にもいかず、私は私の背に再び隠れたラウルの前でまたそっと肩を落とすのです。
 
 「とりあえずサイズに一致するものを持ってきたわよぉ♪って事で試着してくれないかしらぁ?」
 「いや…だけど…私…着け方分からない…し」
 
 私の背中から微かに自己主張するラウルの声は尤もでしょう。元が男性であり、女性用下着を持っていないからこそ、彼女は私と共にここへと足を運んだのです。そんなラウルが色々ややこしいと噂に聞く女性用下着の着用方法を知っているとは到底、思えません。
 
 ― 勿論、私だって知らなくて…。
 
 これだけ「そっち系」のオーラをまき散らしている店主であればもしかしたら女性用下着の着け方も知っているのかも知れません。しかし、子猫並に警戒心の強いラウルが店主が傍に近寄る事を受け入れるはずがないでしょう。事此処に至ってようやく発覚した落とし穴に私は溜め息の一つでも漏らしたくなってしまうのでした。
 
 「大丈夫よぉ♪メメちゃぁーん」
 「はぁーい」
 
 店主の呼びかけに店の奥から一人の女性が顔を出しました。年の頃は15.6ほどでしょうか。少女から女性への過渡期にあるあどけなさがその顔に浮かんでいます。微かにそばかすを浮かべた顔は決して絶世の美女とは言えませんが、健康的な魅力に溢れていました。冬だと言うのにショートパンツを纏う姿はまったく季節感がありませんが、そこから覗くスラリとした足は思わず目を惹かれるほど健康的です。
 
 「…む」
 「い、痛っ!!」
 
 そんな事を考えているといきなり後ろからラウルに脇腹を抓られました。驚いて後ろを振り返れば私の背中で彼女が思いっきり顔を膨らませています。今時、小さな子どもでも滅多に見せないようなラウルの表情に私は強い困惑を感じるのでした。
 
 「あらあらぁ。デートだって言うのに他の女の子に見とれちゃ駄目よぉ♪」
 「…いや、そもそもデートでも見とれてた訳でもないんですが」
 「女の子と二人で出かけるのを世間様一般ではデートと呼ぶのよハワードちゃん♪」
 
 ― ラウルを世間様一般で定義する女性と一緒にするのは少し難しいと思いますけどね。
 
 しっかりと確かめた訳ではありませんがラウルの言葉が正しければ、肉体的には殆ど女性化しているのでしょう。しかし、だからと言って『彼女』が女性に定義出来るとは限りません。勿論、肉体的には女性であっても、彼女の精神的な問題もあるのです。前向きになったと言っていましたが、彼女が自分のことをちゃんと女性と捉えられているかは怪しい所でしょう。少なくとも、上半身だけとは言え裸になった試着室に男性を連れ込む程度には女性という自覚がないのです。
 
 ― その上、彼女と接する側の問題も。
 
 私がラウルを『彼女』と言うのは『彼』と表現するのが不適切という理由だけです。正直、彼女を男性と見ているか女性と見ているかのどちらかであれば、まだ前者の割合が高いでしょう。これまで半年近くずっとそう思って過ごしてきたのです。それを一日二日で切り替えられるほど私は器用な人間ではありません。
 
 「あはは♪まぁ、悪い気はしないけどね。でも、アタシはもう売約済みだから後ろの彼女さんといちゃついて欲しいな」
 
 そっとウィンクする女性――店主の言葉が正しければメメと言うのでしょう――が小さく前かがみになるだけでその胸に大きく実った膨らみがふるふると揺れました。全体的に健康的な魅力を振りまく女性でありながら、彼女はとてつもなく大きなものをその胸に実らせているのでした。そのギャップがまた彼女の魅力を引き上げているのが、審美眼も何もない私にも分かります。
 
 ― 色んな意味でラウルとは対照的な女性ですね。
 
 ラウルは健康的と言うよりも儚げなイメージが先行する女性しているのです。顔の作りは気の強さを感じさせるものの、細身の身体や不安げなオーラが彼女を庇護欲――或いは嗜虐心を――をそそる女性に仕立て上げていました。露出度の高さも対照的で、メメが大きく胸元を開いた白シャツとその上にそっと羽織った黒ベストとなっているのです。特に差が激しいのはその中身であり――。
 
 ― ゴスッ!!!
 
 「ぬぉ…!!」
 「…今、何か失礼な事を考えただろう?」
 「ご、誤解…ですよ…」
 
 いきなり脇腹に走った痛みに小さく呻きながら、私はそう返しました。しかし、その小さな拳で私の脇腹を打ったラウルはそれに納得してはいないようです。頬を膨らませたまま、ぷいっと明後日へと顔を背けるのが肩越しに見えました。
 
 「あははっ。まぁ、安心してよ。アタシはもう身も心も店長のものなんだからね」
 「ちょ、ちょっとメメちゃん!?」
 
 ジンジンと骨に響く痛みに身体が未だ震えていましたが、その言葉を聞き逃す事は出来ません。そっと店主に視線を向ければ、飄々としていた彼の顔に焦りの表情が浮かんでいるのが見えました。まったくの嘘を告げられた、と言うよりは図星を突かれたに近いその表情に私は面白くなりそうな予感と微かな安堵を感じるのです。
 
 「と、とりあえずラウルちゃん、メメちゃんは人間の女の子だから大丈夫よ。メメちゃんはあそこの後ろにいる子にブラの着け方を教えてあげて頂戴。」
 「はーい。了解ですよダーリン♪」
 「だ、ダーリン…」
 
 甘えきった表情でこそばゆくなるような台詞を吐きながらメメはこっちへと近づいて来ました。その台詞に反応したのは店主ではなくラウルです。しかし、彼女はぶつぶつと呟くだけでそれ以上の反応は見せません。また変な企みでもしているのかもしれませんが、私にはその内容までは窺い知れないのです。
 
 「それでは彼女さんをお借りしますねー」
 「えぇ。もうなんでも良いんでとっとと行って下さい」
 
 このまま傍にいられるとまた地雷を落とされるかもしれない。その不安と予感を胸に私は手をパタパタと振りました。それにラウルは特に反応を見せず、ブツブツと呟いたままです。それでもメメに手を引かれて試着室へと足を運んでいる辺り、意識を沈みこませるほど考え込んでいる訳ではないのでしょう。しかし、それでも私は安心する事は出来ません。
 そんな私の目の前でメメの手がそっとカーテンを閉じ、視界を遮ります。そこまで確認してからようやく溜め息を一つ吐いた私は目の前で同じように肩を落とす店主に向き直るのでした。
 
 「…で、人間の女性が居ることに何か釈明は?」
 「あぁら♪私は貴方が適任だって言っただけで、スタッフに人間の女性がいないとは言っていないわよぉ♪」
 
 その言葉に当時を思い返せば、店主は確かにそう言っていました。当時は軽い混乱状態にあったので特に違和感を抱きませんでしたが、そもそも『適任』という言葉遣いからしておかしいと思うべきだったのでしょう。ニヤニヤとしていた店主の表情も『メメ』という隠し玉を持っていたが故だったのかもしれません。そう思うと妙に悔しくて、私は仕返しの一つでもしてやりたくなってしまうのです。
 
 「へぇ。ただのスタッフには見えませんでしたけど。ねぇ、『ダーリン』さん?」
 「うぐっ…」
 
 アクセントを『ダーリン』の部分に置いた私の言葉に店主の表情に焦りが浮かびました。やはりさっきの反応を見る限り、メメとの関係を突っ込まれるのは彼としても辛いのでしょう。ならば、これはチャンスです。さっきまで弄られてた仕返しをするべく私は次の言葉を放ちました。
 
 「で、実際、どんな関係なんです?丁度、待ち時間になって暇なんで教えて下さいよ」
 「う…いや…その…残念だけど私も仕事が…ね?」
 「へぇ。客商売でお客を放置するよりも大事な仕事があるなんて凄いですね。興味あるんでそっちも教えて下さいません?」
 「そ、それは…」
 
 客という立場を傘に着た口撃で店主の表情に焦りの色が強く浮かび始めます。彼とてこのままでは旗色が悪いことは分かっているのでしょう。元々、お互いの立場が友人同士のような同一ではないだけにこうしたチクチクとしたやり取りは、とても効果的なのですから。少なくとも、私が客という立場を利用した時点で、今の店主に残された道は時間切れ――つまりメメとラウルが試着室から出てくるまで時間を稼ぐしかないでしょう。
 
 ― 勿論、あくまでこれは『冗談』なのですが。
 
 しかし、さっきも私は店主の『冗談』で少なからず不快に思ったのです。その分くらいは返してもバチは当たらないでしょう。そう心の中で呟いて、私はまた最後の逃げ道すら塞いでやろうと口を開くのです。
 
 「しかし、このまま教えて貰えないと私とっても気になってしまいますからねー。あぁ、そうだ。メメさんが出てきた後に聞けば良いんですね。いやぁ、うっかり。あ、邪魔してすみません。お仕事頑張って下さいね」
 「うぅぅぅ…」
 
 ― 今までのやり取りから見て、メメが店主にベタ惚れなのは確実でしょう。
 
 そして、店主はそんなメメが自分に惚れている事を知られるのが嫌がっているのです。少なくとも、その関係をあまり口外されるのはイイ気分ではないのでしょう。さらに言えば、相手は店主のことを『ダーリン♪』と呼ぶほどの女性です。口を開けばその関係が脚色される事だってあり得るでしょう。
 
 ― 勿論、ここまでは私の推察で成り立っているものなのですが。
 
 私はメメの事も店主のこともよく知りません。そんな私がほんの数分程度の二人のやり取りで感じた事から推理しただけに過ぎないのです。しかし、それでも店主が逃げ場のない事を悟ったような表情をしている辺り、そう的外れなものではないのでしょう。
 
 「い、いきなり転がり込んできた居候とその保護者ってだけよぉ。何もしてないわぁ」
 「その割には随分と慕われているようですが。ねぇ、『ダーリン』さん?」
 
 観念したように口を開く店主に私は追撃の言葉を放ちます。勿論、私だって人のことは言えません。転がり込んできた居候と保護者なんてラウルと私も同じなのですから。そんな相手と腕を組んで歩いていた辺り――勿論、そこにはのっぴきならない事情があったのですが――私だって似たような言葉を向けられるかもしれません。しかし、だからと言って容赦してやるほど私は優しい人間ではないのです。
 
 「それは…あの子は身寄りがないから…色々と私に親とか重ねてるのよぉ」
 「それは貴方の思い込みじゃありません?実際、親を重ねるのであれば『ダーリン』なんて呼ばないでしょう?」
 「自分の保護者から捨てられないように必死なのよぉ。だから、あんな露出度の高い格好して…目に毒だわ…」
 
 ― …『思い込み』…じゃなくて、そう『思い込みたい』…みたいですね。
 
 それは特に根拠のあるものではありません。しかし、反論になっているようでいない発言をしている辺り、私にはそうとしか思えませんでした。確かにあのメメと言う女性が抱いているのは愛情よりも依存なのかもしれません。しかし、だからと言って『ダーリン』と呼ぶ必要など何処にもないのです。聞いている側がこっ恥ずかしくなるような台詞を日常的に言われるほど慕われている…と言うのはきっと――
 
 「はーい。出来たよー」
 
 そこまで考えた瞬間、メメの言葉が店内に響き、シャッとカーテンが動く音が聞こえました。その音にそっと後ろを振り向けば顔を赤くしたラウルが目に入ります。その隣に立つメメの顔色は少しばかり落ち込んでいるように見えるのでした。試着室と言ってもカーテンで遮られただけの狭い空間です。きっと先ほどの店主の話が二人にも聞こえていたのでしょう。
 
 「ちゃんと自分でもブラを着けられたからもう大丈夫なはずだよ。とは言ってもブラ道は一日にしてならず…だからね!またサイズが変わったり、着け方が分からなくなったら来て欲しいな」
 「あ…う、うむ。あ、りがとう…な」
 
 何処かぎこちない笑みを浮かべるメメにラウルはそっと御礼の言葉を述べました。それにメメはパタパタと手を振りながら店の中へと足を踏み出します。そのまま私の脇を通り抜け、店主の横へと立った瞬間、彼女はいきなり彼に飛びかかったのでした。何処か女豹を彷彿とさせる瞬発力にその場にいる誰もが反応できず、店主の唇はあっという間に奪われてしまったのです。
 
 「んんっ!!」
 「うわぁ…」
 「…いいなぁ…」
 
 三者三様の反応を見せる中、一瞬で店主へと飛びついたメメはそっと唇を離します。そのまま妖しい微笑を浮かべ、自分が口づけていた店主の唇にそっと指を這わすのでした。健康的な魅力あふれる美女がメスの魅力を振りまく姿に店主もまた興奮しているのでしょう。紅潮した頬が浅い呼吸の度に細かく動くのが見て取れました。
 
 「め、メメちゃん…?」
 「…依存してるのは否定しませんよ。でも…アタシ、それ以上にダーリンの事愛してますから。…言いたいことはそれだけです」
 
 文字通り言いたいことだけ言ったのでしょう。そのままメメはそっと店主から離れて店の中へと入って行きます。キスから別離までは時間にして一分もなかったでしょう。しかし、目まぐるしく変わる状況についていけなかった店主はメメの背中が消えた方向を見つめたまま、棒立ちになっているのでした。
 
 ― まぁ、今のままでは使い物になりませんし…ね。
 
 下着も揃ったことですし、今の間にラウルの冬服を物色しよう。そう思って振り返った瞬間、ラウルと視線が合いました。きっとさっきからずっと私の方を見つめていたのでしょう。潤みを見せるその瞳は私が振り返っても尚、逸らされる事がありません。迷いと――私の勘違いでなければ興奮。その二つを浮かばせた瞳で彼女は私を真正面から捉えているのです。
 
 「…だ」
 「だ?」
 「…だー…りん」
 「…へ?」
 
 ― 唐突に聞こえたラウルの言葉に私は思わず間抜けな言葉を返してしまいました。
 
 しかし、それも仕方ないでしょう。何せ彼女の口から呟かれたのは私とラウルとの関係には決して相応しいとは言えない言葉であったのですから。店主とメメと言うコンビ――いえ、カップル以上に似合わないその言葉を向けられた私はどう反応して良いのか分からないのです。
 
 「だ、ダーリンっていうのはニンゲン的には慕っている呼び方なんだろう?だ、だから、そう呼んだだけで他意はなくてだな…で、でも、お前がそう呼んで欲しいなら…呼び方を変えるのも吝かではない…ぞ。ま、まぁ、私は居候だしな!立場は圧倒的に弱い訳で…襲われても文句言えない立場…だし…」
 
 ― その上、追撃するようなラウルの言葉が聞こえてくるのです。
 
 やはりさっきの店主との会話が聞こえていたのでしょう。その言葉には聞こえていないと決して出てこない要素がありました。しかし、私の脳はまださっきの『ダーリン』の衝撃から立ち直る事が出来ず、その一つ一つを丁寧に咀嚼することが出来ないのです。唯一、分かったのはまたラウルが変な気を使ったと言う事だけで、決して本気で言っているのではないという事だけでした。
 
 ― し、しかし、これはどう返すべきでしょう…?
 
 ラウルの真意を探るのを諦めた私は思考を次の反応へとシフトさせました。本気ではないと分かっているとは言え、安易にそれを却下するのはやはり傷つくでしょう。少なくとも顔を赤く染めながらも、ボソボソと呟くラウルの表情に真剣な色が見て取れました。ここで下手に弄るのはまた彼女の信頼を損ないかねません。
 
 ― すぐさま否定せず、それでいて冗談で済ませられる方法…一つだけ覚えがありますが…。
 
 しかし、それを行うにはかなりのプライドを捨てなければいけないのです。正直、あまり選択したくはありません。しかし、何処か期待が現れる視線で私を見つめるラウルの視線が私の背中を押すのです。結局、プライドを捨てる事を選び取らされた私はぎこちなく口の端を吊り上げ、言葉を紡ぐのでした。
 
 「は、ハニー。そんな恥ずかしい台詞は言わなくても良いんですよ?」
 「は、はにー!?」
 
 何時もより1オクターブは跳ね上がったその声が私の胸に突き刺さりました。私だってキャラじゃないのは自覚しているのです。そんな風に聞き返されると傷つきはしないにしても、自分の滑稽さに死にたくなるのですから。しかし、私が選んだのは所謂『ノリツッコミ』と言われる手法です。ここでノラなければ、ツッコミへといけません。
 
 「な、なーんて言うはず」
 「…も、もっかい!」
 「…え?」
 「もう一度、言ってくれ!」
 
 ― …あれ?
 
 その言葉を翻し、ツッコミへと入ろうとした私の言葉を遮って、ラウルが私へと詰め寄って来ました。その瞳がキラキラと輝いているように見えるのは、きっと潤みをさらに強くしているからでしょう。その期待を瞳一杯に浮かばせる姿に私の足が思わず後退りました。しかし、ラウルはそんな私に密着するように詰め寄り続け、私を壁際へと追い込むのです。
 
 「も、もう一度…!もう一度だけで良いんだ…っ!」
 「い、いや…あの…」
 
 ブラによって多少は形が整えられたからでしょうか。装着前よりも大きくなった胸を私へと押し付けながら、ラウルは「もう一度」と繰り返すのです。どうしてそこまでの剣幕を顕にするのかまるで分かりませんが、彼女にとってそう言われるのはかなり大事な事なのでしょう。滅多に見ない必死さから、それだけはしっかりと伝わってくるのです。
 
 「いや、アレはただの冗談で…」
 「そんな物知ってる!!だけど、今はそんな事はどうでもいいんだ!重要じゃない!!」
 
 その必死さから逃げようと言葉を紡いでもラウルはまったく聞く耳を持ってはくれません。寧ろそれを聞いて余計、逃したくないと思ったのでしょうか。鼻息荒くこっちへと歩み寄ってくる姿には冷静さがまるで見えません。
 
 ― どの道…実力的には離れている訳ですし…ね。
 
 立場は私のほうが上とは言え、今のラウルは聞く耳を持たないでしょうし、何より私がそれを行使出来ません。かと言って、実力で引き離そうなどとすれば彼女の魔術が飛んでくるかもしれないのです。結局、今の私に出来る事と言えば、状況に流される事しかありません。そんな情けない自分に心の中で溜め息を吐きながら、そっと口を開くのです。
 
 「…ハニー」
 「はぅぅ…♪」
 
 小さく呟いたそれはラウルの耳に届いたのでしょう。ぶるぶると背筋を震わせて、幸せそうな表情を浮かべました。頭を撫でている時を彷彿とさせるその顔はまた私の胸に悪戯心を湧き上がらせるのです。それを表に出す訳にもいかない私の目の前でふっとラウルの身体が下へと下がっていくのでした。
 
 「おっと…」
 
 思わず伸びた私の腕はラウルの身体を抱きかかえます。自然、密着した部位から彼女の興奮が熱となって伝わって来ました。さっき迫られていた時よりも鮮烈な暖かさと彼女自身の柔らかさが私の中をオスをじくじくと刺激してくるのです。思わず抱きしめた腕に力は入り、彼女の柔らかさを求めてしまうのでした。
 
 「ご、ごめん…腰が…」
 「い、いや…構いませんよ」
 
 短く答える私の身体にじわじわと彼女の体臭や柔らかさが染みこんできました。それらは試着室の時よりも遥かに迅速に、そして激しく私の理性を蝕んでいくのです。試着室の時とは違い、私が能動的に――勿論、止むに止まれぬ事情があっての事ですが――抱きしめているからでしょうか。どうしても彼女の事を意識してしまい、萎えかけていた男根がゆっくりと硬さを取り戻しつつあるのです。
 
 「そ、それより立てますか?」
 「ちょ、ちょっとまだ無理…かも…」
 
 一体、どれだけ力が抜けたのかは分かりませんが、ラウルの身体にはまだ力が入っていません。さっきの言葉がよっぽど間抜けだったのでしょう。そう思うと恥ずかしさで死ねそうになりますが、悶えている暇はありません。別に店内が汚いというつもりはありませんが、それでも土足で歩きまわる床です。そこに倒れこまれると折角の衣服が汚れてしまうでしょう。
 
 ― 店主は…あ、駄目ですね。
 
 何処かにラウルを座らせる場所でもあれば、と思ったのですが、店主は未だ棒立ちになったままでした。よっぽどさっきの出来事が彼に衝撃を与えたのでしょう。すぐ傍でこれだけ私が困っているというのに棒立ちになって助ける気配も見せない店主に嫌味の一つでも言ってやりたくなりましたが、じわじわと染みこんでくるようなラウルの感触がそれを許しません。正直、彼女にムスコの勃起を悟られないようにするのが精一杯なのです。
 
 「と、とりあえず…だな…。時間がもったいないし、服を見ないか?」
 「こ、このままですか!?」
 
 そんな私の胸元で告げられた言葉は無茶というレベルではないでしょう。そもそもラウルはまだ腰が抜けている状態なのです。歩くのには私の助けが必須ですし、到底、動けるような状態ではありません。少なくともじっくり服を物色なんて出来る状態じゃないのだけはたしかでしょう。
 
 「だ、だって…このままだとドキドキしっぱなしで…おかしくなりそうなんだ…気を紛らわせろ…」
 「…いや…それは…」
 
 ― それは私も同感です。
 
 確かに今のままでは私もおかしくなってしまいそうなのです。今だって心臓がうるさいくらいに脈打ってるのですから。ムスコも抑えようとはしていますが着実に硬くなり、私の興奮を顕にし始めていました。今までおかしくなりそうだなんて何度も言って来ましたが、本気で間違いをおかしてしまいそうなのです。
 
 「…分かりましたよ。でも…あんまり期待しないでくださいね」
 「よ、よっぽど変じゃない限り文句なんて言わん。…でも、あんまり恥ずかしいのは選ぶなよ」
 「了解です」
 
 ― まぁ、この状態でそんな風にからかえるほど私にも余裕はありませんしね。
 
 正直、今でさえ竜の顎に片足突っ込んでるようなものなのです。これ以上、下手に刺激すれば竜の顎の中でタップダンスを踊るようなものでしょう。私にだってダメージが跳ね返りかねないリスクを考えれば、ここで彼女を刺激する選択肢を選び取れるはずがないのです。
 
 ― まぁ…とりあえずは…と。
 
 ラウルが崩れ落ちないように抱き抱えているので機敏に動く事など不可能です。自然、私の視線は一番近い棚の方へと注がれました。幸いにしてこの辺りは女性用の衣服が並んでいるようです。綺麗に折りたたまれた衣服はフリルの多いもので、展示のマネキンも女性を意識したものになっていました。
 
 ― んー…この中ならば…。
 
 そう心の中で呟いた私に一着のロングスリーブシャツが視界に入りました。藍色に染まった生地はあまりゴテゴテした装飾が似合いそうにないラウルに似合う気がします。かと言って飾り気がないわけではなく、右胸辺りに桃色のバラが小さく刺繍されていました。Yシャツを模しているのでしょうか。胸元に並ぶ3つのボタンも花を模した美しいものになっており、飾り気の少ないポロシャツに目を惹かせます。
 
 ― 勿論、これだけだとインパクトが弱いですが…。
 
 そっと視線を外せばすぐ隣の区画にジャケット類が並んでいるのです。その中から少し明るめの色を選べば、中に着込んだ藍色とのコントラストとなってそこそこ映えるでしょう。全体的に清楚で儚げな雰囲気を持つラウルとも明るめの色と暗めの色とのコントラストはよく似合うはずです。
 
 「とりあえずこれ何かどうです?」
 「ん?…むぅ」
 
 そこまで考えた私が片手でラウルの身体を抱きかかえながら、そっと件のロングスリーブシャツを指さしました。その後を追うように彼女の視線がそちらへと向けられ、小さな呻き声をあげるのです。私はそう悪くないと思いましたが、気に入らなかったのでしょうか。そう身構える私の胸の中でぽつりとラウルが口を開きました。
 
 「…普通だ」
 「当然でしょう?っていうか変なの勧めるなって言ってたの貴女の方じゃないですか」
 「いや…それは…そうなんだけど…」
 
 私の言葉にそう返しつつもラウルは納得の出来ないような表情を浮かべました。しかし、一体、どうしてそこまで納得のできない顔をされるのか正直、不思議でなりません。言われた通り無難な選択肢を示した訳ですし、ここでそんな顔をされるのは私の方こそ納得出来ない気がするのです。
 
 「…まぁ…その…センスは良いと思うぞ」
 「そりゃどうも」
 
 私の不機嫌さが伝わったのでしょうか。フォローするようにラウルがそんな言葉を紡ぎました。しかし、それでも釈然としない気持ちは収まりません。普段の行いの影響もあるのでしょうが、私としては一応、真面目に考えて服を選んだつもりだったのです。それをセンス云々以前の問題で納得出来ない顔をされれば拗ねたくもなるでしょう。
 
 「…すまん。特に他意はなかったんだが…」
 「別に気にしてませんってば」
 「…その顔でそんな事言っても説得力が無いぞ」
 
 ― 恐らく私は今、よっぽど不機嫌そうな顔をしているのでしょう。
 
 ラウルがここまで食い下がるなんてよっぽどの事です。今までは私の機嫌を察して、ここまで露骨に踏み込んで来る事はなかったのですから。今日は比較的、私が大人しい所為なのか。それとも、彼女にも何か思う所があるのか。どちらにせよ鬱陶しいのは変わりありません。
 
 「私が気にしてないって言ってるんですよ。少しは察したらどうですか?」
 
 ― その言葉には今まで抑えていた刺が含まれていました。
 
 今まで抑圧されていた分がふつふつと表に出てくるのを自覚しました。それを必死で抑えつけて底へと押し戻そうとしますが、中々、上手くはいきません。元々、私は我慢強い方では決して無いとは言え、あまりにも子ども過ぎる。そんな自嘲すら胸に浮かぶ中で彼女は何故かそっと微笑みを浮かべたのでした。
 
 「…うん。お前はやっぱりそっちの方が良い」
 「…は?」
 
 その言葉に一体、どのような意図が含まれているのか私には分かりません。しかし、彼女の顔に浮かぶ笑みは決して悪いものではないのです。まるで大事な宝物をようやく見つけ出せたような笑顔を浮かべているのですから。
 しかし、一体、今のシチュエーションにそんな笑顔になる要素があるとは到底、思えません。何せ私は今まで抑圧させていた刺を思わず吹き上がらせたばかりなのですから。八つ当たりにも近い言葉を向けられた彼女が笑顔になる理由など私には思いつきません。
 
 「ニンゲンが何を考えていたのかは分からん。…だけど、今日のお前は無理に優しくしようとしていただろう?」
 「…それは…」
 
 ― それを肯定するのは色々と難しい物がありました。
 
 確かに私はラウルに優しくなろうとはしたのです。しかし、それは私自身の欲望から生まれた理由に過ぎません。ラウルの事を思って、優しくしようとは殆ど考えてはいませんでした。それを見抜かれてしまえば、信頼関係も何もなくなってしまうでしょう。しかし、確信を持って私の顔を射抜く彼女の視線の前で下手な否定は出来ず、私は口籠るしか出来なかったのでした。
 
 「何時ものお前であれば今までで両手で足りない数の嫌味を言っていただろう?けれど…今日はそれが殆どない。それどころか、何だかんだで腕を組むのも許してくれたし…今だって私を手放さず、こうして抱きしめてくれている…」
 「む…ぅ」
 
 そっと目を細めて嬉しそうに言われると背中にこそばゆいものを感じました。理由は不純であったとは言え、結果としては確かにその通りなのです。ですが、それをこうして微笑みながら言われると目を背けていた羞恥心を掻き立てられるようでどうしても居心地が悪く感じるのでした。
 
 「でも…な。私は…何時ものニンゲンが…その…えっと…まぁ…なんていうか…そ、そんなに嫌いじゃないんだぞ」
 「…え?」
 
 ― その上、さらに居心地が悪い言葉が向けられて…。
 
 それはもう気恥ずかしいとかそんなレベルではありません。正直、床を転がりまわって悶えたくなるレベルのものなのです。今までそんな言葉を向けられた事は一度だってないのですから当然と言えば当然でしょう。しかし、身体の奥底から沸き上がってくる羞恥を発散しようにも私の身体はあまりのショックに固まってしまい動く気配がないのです。
 
 「意地悪で卑怯で汚くて助平で…そして…たまに少しだけ優しい…そんなニンゲンが…私は結構、気に入っているんだ」
 「…ラウル…」
 
 ― そう言う彼女の頬が紅潮して…。
 
 笑顔を崩して優しく言い聞かせるような表情を見せるラウルの瞳がさらに潤みを強くしていきます。何処か引きずり込まれるようなその瞳の輝きに私は抗うことが出来ません。身体も心も彼女へと傾倒し、その言葉がストレートに心の中へと入ってくるのです。
 
 「だから…お前はお前のままで良いんだ。そんなお前が……私は一番…す……好き…なんだから…な」
 「……」
 
 ― その言葉が告白だと誤解出来ればどれだけ楽だったでしょう。
 
 私だって30過ぎとは言え、まだまだ性欲の健在な男性です。恋愛に興味が薄いとは言え、美人にまったく興味がないとは言いません。そして、ラウルは非の打ち所のない美人であり、私よりも遥かに弱い立場にあるのです。
 
 ― 思うように弄ぶことを許された自分だけの恋人…それは私の理想の形でもありました。
 
 執着すること自体は少ないとは言え、人並みよりも支配欲や独占欲の強い私にとってラウルはこれ以上ないほどの相手と言えるでしょう。そんな彼女から向けられた告白とも取れる言葉に誤解したい感情もまた私の中には生まれていたのです。
 
 ― けれど…それは出来ません。
 
 「…ホント、貴女は馬鹿ですね」
 
 そもそも彼女はついこの間まで男性だったのです。そんなラウルがそう簡単に同性であった私に恋心を抱くとは思えません。それに私は誰かに好まれるような性格はしてはいないのです。言葉そのもののインパクトから誤解してしまいそうですが、文脈的に「彼女と優しくしようとしていた私と比べて」という補足が入るのでしょう。
 
 ― まぁ…それでも嬉しいのは否定出来ません…ね。
 
 これほど真剣に好意を示されたのは初めてです。『彼』に友人扱いはされても、当たり前ですが好きだなんて言われた事はありません。親兄弟にすら距離を置いて生きてきた私にとって、冗談以外にその言葉を受け取るのは初めてで…だからこそ、それは強く胸に響くものであったのです。
 
 「そんな事言わなかったら出来るだけ優しくしたっていうのに、やっぱり貴女、マゾなんですね…」
 「その淫猥なレッテルを人に貼るなと何度、言えば分かるんだこのニンゲン!」
 「その割には嬉しそうですけれどね」
 「嬉しい訳あるか!!そんなのニンゲンの願望入りまくりの憶測だとあれほど…!」
 
 ― 実際、ラウルの顔は嬉しそうなものでした。
 
 唇を尖らせて拗ねるようなポーズを作っていても、そこに瞳に浮かんでいるのは喜色です。何だかんだ言ってラウルもこのくだらないやり取りに飢えていたのでしょう。最近はマゾと言ってもこれほどの反応は示さなかったのです。マゾ云々はさておいても、こうしてくだらないやり取りを行うのをラウルが嬉しがっているのが確かでしょう。
 
 ― それならば…もう遠慮は要りませんよね。
 
 今まで我慢していた分、思いっきり彼女を弄ってやるのが私なりの恩返しにもなるのです。私とラウルのお互いにメリットがあるのですから我慢などする必要がありません。そう心の中で呟いた私はマゾという言葉を橋頭堡にする為に再び口を開くのです。
 
 「でも、実際、貴女が苛めて欲しいってリクエストしたのは事実ですしねぇ」
 「oi misu おい!事実をねじ曲げるのは間接的に犯罪だぞ!おい!聞いてるのか!!」
 
 私の胸の中で悔しそうにラウルが暴れますが、それほど事実をねじ曲げている訳ではありません。少なくとも彼女が意地悪な私の方が好きだといったのは確実なのです。その言質を取っている以上、それほど強く否定出来ないでしょう。実際、彼女も暴れるだけで論拠を用いた反論をしてきません。エルフである彼女にも否定できる論拠が見つからないのか。或いは否定したくないのか。どちらが正しいのかは分かりませんが、どちらでも彼女の立場が不利なのは変わりません。
 
 「じゃあ、本当どういう意図だったんです?それ次第では私も意見の撤回を考えますよ」
 「そ、それは…その…お、お前を励ます為に…だな…」
 「それに関しては感謝してますよ。まぁ、誤魔化された感がない訳ではありませんけど」
 
 その事についてラウルなりに私を心配してくれていたのは分かります。しかし、私が大人しいのを良い事に彼女がからかってきた事実は変わりません。実際、さっきだって人がせっかく選んだ衣服を「普通」扱いしてくれたのです。今更、それを掘り返してぐちぐちとは言いませんが、決して忘れた訳ではありません。
 
 「で、励ます為にわざわざ苛めて欲しいと言ってくれたのは分かりましたが、それがマゾではない証明にはならないと思うんですけどね」
 「お、お前は本当に可愛げがないな…!」
 「久しぶりに言わせて頂きますが…素敵な褒め言葉をありがとうございます」
 
 そもそも30過ぎのおっさんに可愛げなんてあったら逆に気持ち悪いでしょう。魔物娘にはモテるかもしれませんが、今更、その為だけに性格を矯正しようとは思えません。それに…ラウルはこの性格が良いと言ってくれたのです。余り調子に乗りすぎるといけませんが、下手に優しくしようとしてまた変な気を遣われかねません。
 
 「…ふぅ…ホント…ニンゲンは救いようがないな…」
 「根っからのマゾである貴女には言われたくありませんね」
 
 お互いにそう言いつつもその表情自体はそんなに悪いものではありませんでした。少なくとも抱きしめたラウルの表情には曇り一つ見えません。口では憎まれ口を叩きつつもそこには一つの問題が解決した事を純粋に喜ぶ色が浮かんでいたのですから。
 
 ― そして…それはきっと私もなのでしょう。
 
 スルスルと口から出てくる憎まれ口は私の精神安定剤でもあったのでしょう。こうしてラウルを抱いている今も多少の気晴らしになっているのです。流石に完全な平静を取り戻せるほどではありませんが、硬くなったムスコがこれ以上、大きくなる気配はありません。
 
 「マゾじゃないって…いや、それはもう良い…か」
 「認める気になりましたか?」
 「話が進まないから諦めただけだ。それより…トップスだけじゃこの時期は寒いだろう…?ちゃんと上やジャケットまで考えろ。センスがいいと思えば試着してやらん事もないぞ」
 「ホント、貴女はどれだけ凹んでもその尊大な態度だけは止めませんね。だからこそ、いじめがいがあるんですけど」
 
 とは言え、このままでは話が進まないのは私も同感です。それに自宅の中であればまだしも、店の中でマゾだなんだと延々、話し合うのは流石に恥ずかし過ぎるでしょう。そういう意味ではお互いにあまりにもメリットがありません。それなりにラウルを弄って満足した訳ですし、ここは彼女の申し出を受け取るべきです。
 
 「まぁ、中に暗めの色ですしね。素直に明るいベージュのコートとかで良いんじゃないんですか?」
 「…言葉自体は投げやりの割に随分と的確だな…もしかして結構、真面目に考えてくれていた…のか?」
 「…その格好で隣に立たれるかもしれない訳ですしね」
 「ふふ…っ♪」
 
 そこまで言った瞬間、私の耳に嬉しそうな声が届きました。しかし、そんな風に喜ばれるような台詞を口にしたつもりは私にはありません。少なくとも今回の台詞だって憎まれ口の延長なのです。ですが、ラウルはまるで楽しくて仕方ないと言ったような表情を浮かべていました。
 
 「…なんです?」
 「いや、お前がそういう素直じゃない言い方をしている時は単純に照れてるだけだから…な」
 「…誤解でしょう」
 「でも、真面目に考えてくれてるのは否定しなかっただろう?」
 「む…」
 「沈黙は肯定とみなすぞニンゲン♪まぁ、何を言っても言い訳にしかならんだろうがな」
 
 ついさっきまでマゾ呼ばわりされていた癖に勝ち誇った笑みを浮かべるラウルにむくむくと悪戯心が沸き上がってくるのです。決して言い返す論拠が私の中で見つからなかったからではありません。このまま同じネタを引っ張っても泥仕合になりかねない。そう思ったからこその戦略的方向転換という奴なのです。
 
 「じゃあ、アクセントとしてアレなんかどうですか?」
 「アレ?」
 
 右手でラウルを抱きしめたままそっと私を指さしたのはここから少し離れたアクセサリーの棚でした。そこに並ぶ一つの物を見て、彼女の顔が見る見るうちに赤く変わっていくのが分かります。それも当然でしょう。そこにあったのは明らかに店の雰囲気とは合わない黒革レザーの首輪だったのですから。
 
 ― 勿論、銀色の鎖もそこから伸びていて…。
 
 素人目ではありますが、作りもしっかりしていてかなり本格的です。寧ろしっかりし過ぎて『お洒落のアクセント』と言うよりは人間サイズにした犬の首輪と言うイメージが強いほどでした。そんな首輪を見て、ラウルが何を連想したのかは知りませんが…羞恥だけではない顔の赤さを見るに「それを一般的にどうやって使う事が多いのか」は知っていると思っても良いでしょう。
 
 「な、なななななぁっ!!」
 「ラウルさんにはあぁ言うのが似合うと思うんですよね。いえ、他意はないですよ。他意は」
 
 自分でも説得力のないであろうと思う言葉を並べ立てながら、私はにっこりと微笑みました。しかし、ラウルはそれを見てはくれません。私の指さした首輪を見据えてパクパクと口を開閉するだけなのです。その口から一体、どんな言葉が飛び出してくるのか。それを楽しみにしながら私はずっと待ち続けるのでした。
 
 「なんだってあ、あんな物を…!!!」
 「いや、貴女に似合うと思ったからですよ。ほら、あの鎖を私が持って、街中を練り歩くんです。中々に素敵だと思いません?」
 
 ― さて、どう返してきますかね。
 
 数分ほど待ってようやく言葉を紡ぎ始めたラウルを私は挑発します。今までのラウルでしたら、ここでまた下らないやり取りへと繋げるでしょう。勿論、そうなった場合の返しも私の中にしっかりと考えられていました。逆にさっきまでのように私に反撃しようとしても、これだけ困惑しているラウルを相手にイニシアチブを手放すほどのネタなど今の私にはないのです。どう転んでも結果的に私の勝ちは動かない。そう確信した私はニヤリとラウルの前で笑みを浮かべるのです。
 
 「ニンゲンが…私を…繋いで…街…を……?」
 
 ― ゴクリと咽喉が鳴る音が聞こえました。
 
 瞬間、私の本能が不味いと囁いてくるのです。しかし、何が不味いのか私にも分かりません。追い詰めているのは私で追い詰められているのはラウルの方なのですから。誰がどう見たって有利なのは私の方です。しかし、私の本能はどれだけそう言い聞かせてもおかしくなってはくれません。寧ろ時間が経てば経つほど、危険が間近に迫ってきていると警鐘を強く響かせるのです。
 
 「…て…くれる…のか?私を…ずっと…お前の…」
 「あらぁ♪」
 「「っ!!!!!」」
 
 そこまでラウルが言った瞬間、私達の耳元に特徴的なオネエ言葉が届きました。それに弾かれたように私たちは離れ、聞こえた方に視線を向けるのです。そこには何時の間にか茫然自失から回復した店主がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて立っていました。
 
 ― 何という失態を…!!
 
 さっきの警鐘はきっとこの事だったのでしょう。何時からこの店主が回復したのかは分かりませんが、ついさっきのやり取りは全て見られていたと思っていた方が良いでしょう。肝心な時に手が借りられない癖に、どうしてこんなトラブルを持ち込むのか。そんな八つ当たりにも近い感情を店主に抱きながら、私は自分の顔に体温が集まっていくのを自覚するのです。
 
 「ちょっと見ない間に随分とハワードちゃんは積極的になったのねぇ♪私も嬉しいわぁ♪」
 「い、色々、誤解があると思うんですけどね…」
 「誤解?女の子を抱きしめて、首輪を勧めた上に、自分の物宣言しておいて誤解も何もあったものじゃないわよぅ♪」
 「い、いや、結果だけ見ればそうなのかもしれませんが…色々と事情がありまして…」
 
 しかし、実際の所は色々と違うのです。少なくとも私にとっては天と地ほどの違いがあるのです。ですが、店主はついさっきの仕返しのつもりなのでしょうか。ニヤニヤとした顔を引っ込める気配もなく、俯いた姿勢で固まったラウルと私を交互に見ていくのです。
 
 「そ、そもそも私がラウルを抱きしめていたのは彼女が腰を抜かしたからで…」
 「あら?でも、ラウルちゃんは今、普通に立ってるじゃないのぉ♪」
 「…あ」
 
 言われて始めて気付きましたが、ラウルは今、自分の両足でしっかりと立っています。危なげのないその様子はついさっき腰を抜かしたものとは到底、思えません。少なくとも私の補助が必要には決して見えないのです。
 
 「…ラウル?」
 「あ、いや…その…」
 
 私と店主の視線が集まっているのに気づいたのでしょう。今まで固まっていたラウルはぼそぼそと口を動かし始めました。しかし、まだ気恥ずかしさが残っているのか、その動作はどうしても緩慢で要領を得ません。
 
 「べ、別に立ちくらみを腰が抜けたと言って誤魔化して抱きしめてもらいたかった訳じゃ…っ!」
 
 柘榴もかくやと言う勢いで真っ赤になった顔を恥ずかしそうに俯かせたラウルの言葉はどう受け取れば良いのか分からないものでした。ツンデレのテンプレのような台詞ですが、実際に言われると受け取り方にどうしても困ってしまうのです。ラウルの性格を考えれば、そのままの意味でも、ツンデレとしての言葉でも有り得そうなのですから。
 
 ― ま、まぁ、受け取り方はさておくとして…。
 
 どちらの意味で受け取ってもきっと面倒なことになる。それを本能的に悟った私は話題を変えようと店主に向かって口を開くのです。
 
 「そ、そういう事です。分かったでしょう?私は決して邪な気持ちで彼女を抱いていた訳では…」
 「じゃあ、首輪の件はどう説明するのかしら?」
 「うぐっ…」
 
 ― 確かにそっちの一件は私の邪な気持ちが多分に入り込んでいるのです。
 
 勿論、邪と言っても性的な意味では決して有りません。とは言え、「からかわれたのが悔しいから仕返ししてやろうと思った」なんて子どもっぽい理由を説明するのは流石に抵抗があります。別に今更、プライドなんて気にするような立派な人間ではないのですが、それでもやっぱり彼女の前では――
 
 「…店主。あまりからかってやるな。どうせニンゲンの事だから、私をからかおうとしていたに過ぎないんだし…な」
 
 ― そう助け舟を出したのは意外なことにラウルでした。
 
 私が答えに窮している間に少しは冷静さを取り戻したのでしょう。ぽつりと呟いたその言葉はどもってもいませんでした。驚いてラウルへと視線を向ければ、彼女はじと目で私を見返していたのです。一体、どうしてそんな目を向けられるのかは分かりませんが、彼女が拗ねているのだけは確実でしょう。
 
 「あらぁ…じゃあ、ラウルちゃんは仕返しをしたいとは思わないの?」
 「それは私の勝手だ。店主が口を出すべき問題じゃない」
 
 ― 遠回しに私を弄る同盟を結ぼうと言っている店主にラウルは刺のある言葉を向けるのです。
 
 これまたどうしてかは分かりませんが、ラウルは店主に対してかなり怒っているようです。確かに今まで苦手な相手ではありましたが、ここまで明確に怒りを向けていた事はありません。以前も怯えや困惑混じりで距離を置いてはいたものの、別れる時はちゃんと挨拶だって出来たのです。今日だって今まで明白に嫌っている様子は見えませんでしたし、店主が復活してから今までの間に何か彼女の怒りに触れるような事をしたのでしょう。
 
 「まったく…もう少しだったのに邪魔して…っ」
 
 ぶつぶつと呟かれたその言葉の後半は私には届きませんでした。しかし、それでもラウルが強い怒りを抱いているのがその語気から感じ取れるのです。ここ最近では見たことのないほど――勿論、誘拐事件当時を除けば、ですが――の怒りを立ち上らせる姿はかなりの迫力に満ちていました。実力だけで言えばこの街でもトップクラスのエルフが本気で怒っている状態でからかう度胸は私にはありません。
 
 「と、とりあえずインナーとアウター決めて試着して来ればどうですか?折角、動けるようになった訳ですし」
 「…じゃあ、インナーはさっきお前が選んだので。アウターとボトムスも任せる」
 
 あからさまに話題を変えた私に爆発すること無く、ラウルはついっと視線を背けました。とりあえず今はその怒りが私に向くことはないようです。それに少なくない安堵を感じながら私はすぐ横にあるジャケットへと視線を向けました。ハンガーに掛けられて立ち並ぶその中から私は宣言通りにベージュ色のロングコートを取り出し、藍色のロングスリーブシャツと一緒に彼女に手渡すのです。
 
 「…ボトムスは?」
 「今ので構いませんよ。と言うか、それが一番、貴女に似合うと思いますし」
 
 何処かの深窓の令嬢を彷彿とさせる純白のロングスカートはラウルに似合いすぎるほど似合っていました。運命論者などでは決してありませんが、このロングスカートが衣類の山の中に紛れ込んだのは単純に偶然とは思えないほどです。勿論、これからの為に予備のボトムスを買わなければいけませんが、今のロングスカート以上に似合うのはそうないでしょう。
 
 「…世辞は要らんぞ」
 「残念ですが今回ばかりは正直な感想ですよ。私が褒めるなんて滅多に無いんですから自信を持ちなさい」
 「……ん」
 
 ― …よかった。少しだけ機嫌が治ったみたいですね。
 
 そう思うのはラウルの顔が少し穏やかなものに変わったからです。まだまだ不機嫌そうな色は消えてはいませんが、今すぐ爆発しそうなほどではありません。それに安堵を感じながら、私は試着室へと向かうラウルの背中を見送りました。
 
 「…ふぅ。ありがとねハワードちゃん」
 
 そんな私の背中から店主の言葉が届きます。振り返って店主の顔を見れば、その額にはじっとりと脂汗が浮かんでいました。その怒りを直接向けられた訳ではない私でさえ、思わずへたれてしまうほどの迫力がさっきの彼女にはあったのです。それを直接向けられた店主にとっては生きた心地のしなかった時間だったでしょう。
 
 「構いませんよ。私としても彼女に暴れてもらっては困る訳ですしね」
 
 最近はかなり大人しくなったとは言え、ラウルが未だに要注意人物扱いされているのに変わりはありません。今は未だ私が庇うことの出来るレベルではありますが、これ以上の余罪を重ねられるのを許容出来る訳ではないのです。つい先ほど領主に釘をさされたばかりですし、当分は大人しくしておくべきでしょう。
 
 「それより貴方はこんな所で油売ってる暇はないと思いますよ。さっきの子、追いかけなくても良いんですか?」
 「…でも……私は…」
 
 ー私の言葉に店主はそっと俯きました。
 
 私には分かりませんが、やはり彼にも色々あるのでしょう。そもそもその格好からして奇抜な事この上ない男性なのです。性的マイノリティであるかどうかはさておき、その格好から奇異の目線を向けられたことは少なからずあるでしょう。彼の過去を詳しく知っている訳ではありませんが、色々とコンプレックスに思っていてもおかしくはありません。
 
 ― まぁ、そんなもの私の知った事じゃないんですが。
 
 目の前でうじうじと悩まれているのが鬱陶しいだけで別に結果としてどうなろうと知った事じゃありません。私と店主はまったくの他人であり、友人でもなんでもないのですから。だからこそ、私は――
 
 「まぁ、うじうじするのは貴方の勝手ですけどね。でも、せめて彼女の言葉に何らかの答えを出すのが貴方の義務じゃないんですか?」
 「…それは……」
 「それさえも無理だと思う程度の関係ならば彼女を追い出しなさい。ズルズルと関係を続けていくよりソッチの方がよっぽど健全です」
 
 ― とは言え、流石にその選択は取らないでしょうけれど…ね。
 
 傍目で見るだけでもはっきりと分かる程度には店主はメメを可愛がっているのです。今だって足踏みをしているのは自分可愛さではなく、メメの事を想っているからなのでしょう。だからこそ、私は無責任に――彼の背中を押し、煽ることが出来るのです。
 
 「もし、少しでも貴方に彼女のことが大事だと思う気持ちがあるのであれば今すぐ向き合って謝って…貴方の気持ちを告げてきなさい。まぁ、怒られるかもしれませんけど…案外…謝れば何とかなるものですよ」
 
 ― それは勿論、実体験での話です。
 
 私はあの時――一度は決別したラウルと再会した日、絶対に関係修復は不可能であると思っていたのです。しかし…実際はあの日から私たちの関係が始まったような気さえするのでした。一度は終わった関係もちゃんと向き合おうとすれば修復出来るのです。ならば…まだ終わっていない彼らがどんな形であれ新しい関係を作れないはずがないでしょう。
 
 「…ハワードちゃん…」
 「ほら、さっさと行きなさい。遅れれば遅れるほど機嫌を取るのに追われますよ」
 「…ごめんね。すぐ戻るから…!」
 
 そう言ってようやく駈け出していった店主の背中を見ながら、私はそっと溜め息を吐きました。とりあえずこれで最悪の結果は避けられたと思っても良いでしょう。多少、お節介ではありましたが、そう考えると悪い気分ではありません。
 
 ― そんな私の後ろでカーテンの開く音が聞こえて…。
 
 その音にそっと振り返れば、まず気まずそうな顔をしているラウルの顔が目に入りました。多分、私達の会話が終わるまで出るのを我慢してくれていたのでしょう。元々、インナーとアウターを着替える程度の作業量なのです。数分も待つ必要など何処にもありません。それに微かな感謝を抱きながら、私は彼女の姿を真正面から見据えました。
 
 「…どう…だ?」
 「まぁ…悪く無いですね」
 
 思わず、憎まれ口を叩いてしまうのは思った以上にラウルに似合っていたからです。勿論、似合うと思って選んだものですが、ここまでとは思っていませんでした。微かな動きを伝わせる純白のスカートは言うに及ばず、ラウルの細いラインを際立たせる藍色のシャツも彼女の可憐さを引き立てています。ベージュ色のロングコートも、決して安物ではないと一目で分かるからでしょうか。お嬢様然とした彼女のイメージを後押ししているのでした。
 
 「後は黒革のブーツでも買えば、何処に出しても恥ずかしくないとは思いますよ」
 「…ふ、ふん。当然だな」
 
 私の言葉に胸を張って答える彼女の頬は赤く染まっていました。普段、こうして似合う似合わないなんて口にしないからでしょうか。ラウルの顔には羞恥だけではなく、興奮の色も強く含まれていました。勿論、その中でも特に大きいのは喜色の色合いです。何だかんだ言ってラウルも色々、着回しを考えているようでしたし、似合うと言われるのが単純に嬉しいのでしょう。
 
 「ま、まぁ、とりあえずこれは欲しい…かな。勿論…ニンゲン次第だけど…似合っているのであれば…」
 「わざわざそんな遠回しな言い方をしなくても買いますよ」
 
 元々、ラウルの冬服はこれからの為に買うつもりでした。そして、買うのであれば目の保養としても彼女に似合っているものを贈ってあげたいのです。その基準から言えば、今のラウルの格好は文句の付けようがありません。ラウルへ手渡す前にさらっと確認した値段もそれほど高くありませんし、最有力候補に数えても良いでしょう。
 
 「そ、そう…か。えへへ」
 「…そんなに嬉しいんですか?」
 「べ、別に…そういう訳じゃないぞ!ただ…まぁ、こうして誰かに物を贈ってもらうと言うのは…悪い気分じゃない…しな」
 
 ― そっと微笑みながら喜色を浮かばせるラウルの表情はあまりにも眩しいものでした。
 
 ひねくれた私には決して直視できないほど眩しいその笑顔に私は思わずそっと目を背けてしまいました。明後日の方向へと向いた頬には微かな熱を感じます。心臓も鼓動を早くし、耳の奥を震えさせていました。
 
 ― まったく…らしくないですね。
 
 ドクドクという鼓動の音を聞きながら、私はそう自嘲を吐き出しました。ただの笑顔一つ見ただけでこんなにも狼狽するなんて自分でさえ考えられなかったことです。何時だって斜に構えていたハワードという男は何処に行ったのか。そんな事さえ思うほどに私は何時の間にか変わり始めていたのです。
 
 「…なぁ」
 「なんです?」
 
 そんな私にラウルの声が掛かりました。しかし、私はまだ彼女の顔を真正面から見ることが出来ません。傍目で彼女に視線を向けるのが精一杯で、顔を真正面から見据えるとまた狼狽してしまいそうだったのです。ラウルの前では色んな意味で「強者」でありたいだけに、動揺しすぎる姿をあまり見せたくはないのでした。
 
 「あの二人、上手くいくと思うか?」
 
 ― あの二人とはきっと店主とメメの事なのでしょう。
 
 先の話を聞いていた間に何かしら思う所があったのでしょうか。ぽつりと呟かれたそれには様々な感情が入り交じっていました。聞いている私が把握しきれないほどの感情のうねりは、もしかしたら本人にだって把握しきれないものなのかもしれません。少なくとも傍目で見るラウルの顔は不安を含めた様々な感情が入り交じっていました。
 
 「さぁ、どうでしょう?私は神様じゃないんで分かりませんよ」
 
 別に私と店主は付き合いが深い友人でもなんでもないのです。こうして店を尋ねたのも二度目で面識が薄い相手なのですから。上手くいくいかないを断言できるほどの判断材料が私にはまったく足りていないのです。
 
 ― ですが…――
 
 「ただ、悪いようには転ばないとは思いますよ」
 「…根拠は?」
 「何だかんだで店主がメメという子を大事に想っているのが一つ。もう一つは…秘密です」
 
 この街には野外での過度な性行為が罰せられるとは言え、同族を増やす事を禁じられている訳ではありません。そして、魔物娘たちは一部の例外を除いて、女性に同情的で、私以上にお節介な性格をしているのです。失恋をしたとなれば、嬉々として魔物娘へと引き込むでしょう。そして、魔物娘へとなったメメが自分の想いを我慢するはずがなく、自分を求めてもらえるまで店主を犯し尽くすのは目に見えています。
 
 ― しかし、それをラウルに言える訳がありません。
 
 未だにラウルは魔物娘に大きな苦手意識を持っているのです。こうして私と一緒であれば問題を起こしはしませんが、魔物娘に近づかれるだけで怯えを走らせる事も少なくはありません。そんな彼女の前で、トラウマを抉るであろう『魔物化』を口にするほど私はデリカシーのない男ではないのです。
 
 「それよりそんなにあの二人のことが気になりますか?」
 
 今までラウルはそれほど強く私以外の誰かに興味を示したことはありません。道行く魔物娘のファッションを話題にした事はあってもその中身にまで踏み込もうとする事は決してなかったのです。そんな彼女にとって、あの二人が一体、どのように映ったのかが私には分かりませんが、何時もと違う反応だったのは確かでしょう。
 
 「いや…彼らそのものが気になっている…と言うと多分、嘘になってしまうんだが…」
 「…?」
 
 彼女の言葉は少し要領を得ません。わざわざ『彼らそのもの』と前置きした彼女が一体、あの二人に何を見たのかまるで見えては来ないのです。しかし、彼女は口を噤んだまま次の言葉を漏らしません。少なくともこれ以上、内心を吐露するつもりはなさそうです。
 
 ― まぁ…わざわざ突っ込むほどではないでしょう。
 
 「それよりまだ時間は掛かるみたいですしね。もうちょっと色々、服を試してみましょう」
 「…そうだな。ニンゲンにまた私の衣服を選ぶ栄誉をやろう」
 「じゃあ、馬鹿には見えないこの服で」
 「とりあえずお前が馬鹿にしているというのはよく分かったぞニンゲン」
 
 両手で服を掴む動作をしながらの、下らないやり取り。それを繰り返しながら私たちはラウルの服を吟味していくのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…流石に冷え込んできたな」
 「まぁ、もうすぐ夜ですしね」
 
 そんな風に言葉を交わしながら、私たちは日暮れの街を歩いて行きます。既に街中には魔力灯がその独特の光を放ち、昼とは違う街の姿を演出していました。太陽の光とは違う薄ぼんやりとした光はムードを感じさせるのでしょう。大通りを歩くカップルは皆、その光に誘われるように腕を組んで幸せそうな表情を浮かべていました。
 
 「…重いか?」
 「この程度であれば問題ありませんよ」
 
 そんな中にいる唯一の例外――勿論、腕を組んでいないという意味で――である私たちの手には彼女の衣服がぶら下がっていました。アレから二時間後ようやく復帰した店主――その頬は少しばかり痩せこけていました――によってタダ同然にまで値引きされたそれらは4つの紙袋の中に収まっていました。とは言え、どうしても厚着になってしまう冬服は紙袋の中にそれほど入っている訳ではありません。
 
 ― まぁ、これ以上、買うと以前の轍を踏みかねませんしね。
 
 感謝の気持ちを示そうとしてくれたのでしょう。まだまだ店主は私たちの衣服を押し付けようとしていました。しかし、山ほどの衣服をひぃひぃ言いながら家まで運んだ経験がある私達にとってそれは一種のトラウマでもあったのです。必死でそれを辞退しながら、両手で持てるだけの量に納めてもらったのでした。
 
 ― その紙袋を私が三つ、ラウルが一つ持っていて…。
 
 片手に二つ持つのは面倒ですが、それなりに鍛えている私の腕にはそれほどの負担ではありません。少なくとも、以前に比べれば雲泥の差と言っても良いくらいでしょう。
 
 「そっちこそ大丈夫ですか?」
 「馬鹿にするなよ。こんな身体になっても紙袋一つくらいは持てる」
 
 私の言葉に頬を膨らませるラウルの衣装は私が最初に選んだものでした。きっと本人もそれなりに気に入っているのでしょう。その場で値札やタグを外してもらい、意気揚々と袖を通していました。まるで買ってもらった新品の雨具で雨の中を嬉しそうに歩く子どものような姿に私の顔も思わず綻んでしまうのです。
 
 「…それにしても…随分と人が減ったな」
 
 ― しかし、その顔も彼女の言葉によってすぐ硬くなってしまいます。
 
 日暮れから夜に入ろうとしている街中にはそれなりのカップルが歩いていました。しかし、ここは街の中心部――つまりメインストリートなのです。本来であればそれなりではない数の人々が仲睦まじく歩いていてもおかしくはないでしょう。実際、ほんの数ヶ月前であれば人ごみに近い数の人々が歩いていたのです。
 
 「まぁ…そろそろ危ない感じですからね」
 
 こんな風にラウルと過ごしている時間があまりにも穏やかで…そして何より楽しくて忘れてしまいそうですが、この街はもうすぐ戦争を始めるのです。しかも、その相手は圧倒的戦力差を誇る教団の手先。勝ち目の薄いその戦いを前にしてこの街から疎開していった人々は決して少なくはありません。
 
 「…私が言える台詞でもないかもしれないが…普通、故郷を捨てるくらいなら戦うべきじゃないのか?」
 「まぁ、その辺りは価値観の違いという奴ですね」
 
 狭いコミュニティを閉鎖しているエルフは確かにそう思うかもしれません。彼らにとっては故郷はそのまま自分たちの社会でもあるのですから。しかし、人間と言う奴は良くも悪くも図太い生き物なのです。他に人間の生息できる場所が山ほどある以上、命を投げ捨てる覚悟をしてまで故郷に執着する必要性がありません。
 
 「それでも結構残ってると思いますよ。正直、ゴーストタウン一歩手前になってもおかしくないと思っていましたから」
 
 この街には名のある豪商が住居を構えているのです。命すら損得勘定の中へ平然と組み込める彼らにとって、今回の戦争は命を賭ける価値すらないものでしょう。しかし、それでも殆どの豪商がこの街に残っていました。自然、彼らを相手にする商人たちも街中へと残り、街の機能を維持していたのです。
 
 「…もし、そうなっていたらどうするつもりだったんだ?」
 「どうもしませんよ。戦って、死ぬだけです」
 「…意外だな。お前はあっさりと故郷を捨てる側のニンゲンだと思っていたんだが…」
 「まぁ、否定はしませんよ。実際、考えなかったといえば嘘になりますし」
 
 ― 実際、生き残る価値が見い出せればそれも悪くはないのでしょう。
 
 しかし、私は特に生きる上での目標を持っている訳ではありません。ただ、死にたくないから流されるように生きているだけに過ぎないのです。例えこの街から逃げた所でそんな無意味な生活が続くのであれば、街を守るために戦ったというちっぽけな満足感を胸に死ぬのも悪くはないでしょう。
 
 「…だけど、今は違うんだろう?」
 「家主相手に護れって言い放った居候のエルフ様を放っておけませんしね」
 
 ― …そう。今の私にはちっぽけながら護る理由があるのです。
 
 例えどんな形であっても、何を犠牲にしても、私はこの街を、ひいてはラウルを護る理由があるのです。こんな私を信用…いえ、信頼してくれた彼女のためにも私は自分の命すらベットする覚悟がありました。それは諦観にも近い自己満足とは違い、私の正の活力とも言うべき力を与えてくれるのです。
 
 「…つまり…私の為…と言う事か?」
 「まぁ、一割弱くらいはそうなんじゃないですかね多分」
 
 ― しかし、それを正直に口にするのはあまりにも恥ずかしすぎるのです。
 
 そもそも貴女の為に戦いますなんて気障な告白を出来るようなキャラではないのです。そんな言葉を口に出来る性格であれば、私の人生はもっと気楽で順風満帆なものになっていたでしょう。魔物娘も数多く入り込んでいるこの街で30過ぎまで独身でいられるほどには天邪鬼な私が素直な言葉を口に出来るはずがありません。
 
 ― そんな私の視界の端でラウルがそっと立ち止まって…。
 
 ついさっきまで私の横に並び立っている彼女がいきなり歩みを止めたのです。いつもの憎まれ口であったはずなのに、どうして立ち止まるのかと不審に思った私の足も止まります。そのままそっと後ろを向いて彼女を見れば、両手で紙袋を持ちながら俯いている姿が目に入るのでした。
 
 「もし…もし…で良いんだ。もし…お前が私の為に少しでも戦おうという気になっているのであれば…」
 
 ― その言葉は苦渋と苦悩に満ちていました。
 
 ぽつりぽつりと一語ずつ呟く姿は本当に苦しそうです。正直に言えば、そんな彼女の顔は見たくありません。今すぐくだらない冗談を言ってその顔を和ませてあげたいと思うほどなのですから。しかし、彼女の真剣そうな雰囲気が口を挟むのを許しません。
 
 「……死ぬな。必ず生きて帰ってきてくれ」
 「…約束は出来かねますね」
 
 ― だからこそ、私も真剣に答えるしかありません。
 
 別に今更、誠実になろうと思っている訳ではありません。しかし、出来ない約束を許さない雰囲気が今のラウルにはありました。そしてもうすぐ始まるであろう教団との戦争はこちら側が圧倒的に不利な状況なのです。例え運良く勝てたとしても、その時に私が無事でいられる保証など何処にもありません。
 
 「そう…か。そうだよな…」
 「……」
 
 ― 私の返事にラウルがそっと顔を曇らせました。
 
 もしかしたら、彼女は『自分を護れ』と言わなければ、私が危険に晒されなかったかもしれない、と考えているのかも知れません。勿論、それは私の憶測でしかないでしょう。ですが、会話の文脈や彼女の辛そうな表情を見るにそれほど的外れな憶測とは思えないのです。
 
 ― まったく…面倒臭い人ですね本当に。
 
 そう心の中で呟きながら、私はそっと紙袋を舗装されたタイルへと下ろしました。そのまま胸元からそっと懐中時計を取り出すのです。それを数秒ほど見つめてから私はラウルにそれを向けました。
 
 「…それは?」
 「月並な言い方で申し訳ないんですけどね。私の宝物って奴ですよ。まぁ、商業的価値はまったくないんですけど」
 
 ― 見習い時代に『彼』に贈って貰ったので当然と言えば当然なんですけれどね。
 
 『彼』から誕生日のプレゼントに贈って貰ったそれは今も尚、正しい時間を指し示していました。しかし、流石に経年劣化の波には逆らえないのでしょう。ところどころ、メッキが剥がれて鈍色の肌を晒していました。ですが、それでもその懐中時計は『彼』が消えた今、その残滓を感じさせる数少ない一品なのです。商業的価値は殆ど無くても私にとって唯一無二の宝物でした。
 
 「これを貴女に貸しますよ。戦争が終わって無事に帰ってきたら、絶対に返して貰いますから大事に持ってて下さい」
 「良い…のか?」
 
 ― そう言うラウルの瞳は涙で潤んでいました。
 
 勿論、良い訳がありません。何せこの懐中時計は私にとって思い出の塊も同義なのですから。しかし、今のラウルの表情を少しでも和らげられるのであれば…その胸に渦巻いているであろう不安を少しでも解消してあげられるのであればそう悪い対価ではないと思えるのです。
 
 「泣き虫には勝てませんからね」
 「んなっ!だ、誰が泣き虫だ!私は泣いてなんかいない!」
 「さぁ、誰でしょうねぇ。私は貴女だなんて言ってないつもりですけれど」
 「んぐ…っ!」
 
 そんな下らないやり取りを出来る程度にはラウルの感情が上向いている。それを感じた私は内心、安堵の息を吐きました。しかし、まだまだ油断は出来ません。結局のところ、私が提示しているのは根本的な解決にはなっていないのですから。この戦争が終わって無事に帰ってくるまで彼女の不安は決して消えないでしょう。
 
 「…まぁ…折角、お前が貸すって言ってくれているんだ。遠慮無く受け取る事にしよう」
 
 そう言ってラウルはおずおずと私の手から懐中時計を受け取りました。それを彼女はそのまま大事そうにコートの内側へと入れるのです。その表情はお世辞にも安堵に満ちているとは言えません。しかし、懐中時計が一種の拠り所になってくれたのでしょう。先のような苦悩と不安が渦巻く悲しい表情はしていません。それに安堵の溜め息を吐きそうになる私の目の前でラウルの顔が少しずつ紅潮していくのでした。
 
 「そ…それで…だな。流石にモノを受け取ってばかりというのはエルフの流儀に反する。そこで…ニンゲン、お前に…わ、私の名前を変える権利をやろうと思うんだが…」
 「…は?」
 
 彼女の言葉を私は最初、理解出来ませんでした。モノを受け取る代わりに名前を名付けることが出来るなんて同じ文脈に並べるものでは到底、ありません。少なくとも代替として差し出されるには私に対するメリットが欠片もないのです。
 
 ― まぁ…彼女なりの誠意の形なのかもしれませんけれど…。
 
 彼女は殆ど身のみ着のままで私が与えたもの以外に自分のものと言えるようなものは持ってはいません。『名付ける権利』と一口に言ってしまうと馬鹿馬鹿しいですが、今の彼女が私に差し出せる数少ないものなのでしょう。そう思えば子どもがお菓子を分けようとしてくれる可愛らしさを感じないでもないのです。
 
 ― しかし…。
 
 「…でも、その名前は貴女と家族を繋ぐ数少ないものでしょう?」
 
 今の彼女には元いたエルフの集落との繋がりが殆どありません。どんな状態でエルフの集落を追い出されたのか私は知りませんが、今や繋がりは最初に着ていた衣服と名前くらいなものでしょう。その一つを自分から捨てるというのはあまりにも自暴自棄になっていないだろうか。そんな事さえ思い浮かぶのです。
 
 「だが、もうこんな身体だし…な。何時までも男性名である『ラウル』と呼ばれている訳にはいくまい」
 「確かにそうかもしれませんが…まだ男性に戻れる可能性だって…」
 「ど、どちらにせよ何時、戻れるか分からんのだ。その間の仮の名前と言う意味でも…お前に名付けて欲しい。…駄目か?」
 
 ― そう言ってラウルはそっと目を伏せました。
 
 正直、その表情は反則としか言えません。何せ今のラウルは何度も言うようにお嬢様然としているのです。見目麗しい女性にそんな表情をされれば、中々、否とは言えないでしょう。特に相手は私が少なからず特別に思っている相手なのです。断れる理由など最初からありません。
 
 「…分かりましたよ。でも、センスは気にしないでくださいね」
 「…巫山戯て変な名前にされないのであれば文句は言わん」
 「…チッ」
 「やっぱり妙な名前を着けるつもりだったんだな!!」
 
 ― まぁ…流石にここで遊ぶほど空気が読めない訳ではありません。
 
 彼女にとってきっとかけがえのない故郷や家族との繋がりを私に委ねてくれているのです。その気持ち全てを察することが出来るとは口が裂けても言えませんが、彼女の覚悟の程は伝わって来ました。そこまで気合を入れて名前を考える必要はなくとも、『ポチ』や『ワン子』と言った名前は本気で怒らせるだけでしょう。
 
 ― とは言え…名前…ねぇ。
 
 いきなりそんな事言われてもぱっと思いつくはずがありません。今の『ラウル』と言う名前一つだって彼女の両親からの様々な思いが込められているはずなのです。その上から新しく名付けられるほどの名前なんて一朝一夕で出てくるはずがありません。
 
 ― ですが…問題の先送り…は無理でしょうね、きっと。
 
 今もこうして立ち止まっている私をラウルが期待の眼差しで見つめているのです。キラキラと輝く純真な子どものような視線の前で「思いつかないから後で」とは中々、言い辛いでしょう。とりあえず腹案の一つでも出さなければ、肩透かしを喰らわせる事になってしまうのです。
 
 ― なら…。
 
 「…じゃあ、『ラウラ』なんてどうです?」
 「…ラウラ…ラウルの女性名…か」
 「えぇ。別に昔の名前を完全に捨てる必要なんて無いんですから」
 
 ― それが今の私に選び取れる唯一の選択肢でした。
 
 彼女の両親が必死になって名付けたであろう名前を完全に否定することは私には出来ません。私とラウルはそんな関係ではありませんし、彼女の両親の想いを思いつきの名前で無駄にはしたくないのです。しかし、現実はそれを許さず、ラウルは期待混じりの視線を止めません。その二つの間で私は私は既存の名前を弄って、女性名に変えるという妥協点を見出したのです。
 
 「…安直だな」
 「よし。じゃあ、貴女の名前は今日から『ポチ』ですよー。良かったですねーポチ。犬っぽい名前がついて。とっても奴隷っぽいですよポチ」
 「わ、わわわっ!じょ、冗談だ!!本気にするな!!」
 
 慌てた様子でラウル――いえ、ポチが言いますが、私の耳には入りません。何せ私はさっきかなり真面目に悩んだのです。ポチの要望と現実をどう擦り合わせするか悩んだ挙句に出した選択肢を「安直」と切り捨てられたのですから。本気で怒っても無理ないでしょう。
 
 「なんですポチ。て言うか、人語話さないでくれますかポチ。結構、不愉快なんですけれど」
 「あぅ…」
 
 私の言葉にラウルの目尻に涙が浮かびました。私が本気で怒っていると気づいたのでしょう。その顔には涙と一緒に気まずさが浮かび上がってきていました。しかし、私はそう簡単に許してやる気にはなれません。さっきの服飾店でも、私の選んだ衣服を安直だと切って捨てたのも私は勿論、忘れてはいないのです。ここらでもう一度、躾直さなければいけません。
 
 「…なんだ。大通りで痴話喧嘩して」
 
 ― 聞き覚えのある声に視線をそちらに向ければ、見覚えのある顔と白衣が目に入りました。この寒い冬空の下でも白シャツと白衣のままの男は何本か頭のネジがぶっ飛んでいるのかも知れません。不機嫌な私は心の中でそう呟きながら、そっと彼へと向かって口を開くのです。
 
 「相変わらず語弊のある言葉を選んで使いますねエイハム」
 「お前には敵わんさ」
 
 刺のある私の言葉をあっさりと切り返す男性――エイハムに私は肩を落としました。しかし、ここで何を言ってもこの男性はへこたれないでしょう。嫌味を言う無駄な時間を使うよりはいきなり話しかけてきた用件を聞くほうが幾らか建設的です。
 
 「それで何のようです?」
 「大通りで痴話喧嘩している二人が見えたから話しかけただけだ。他意はない。まぁ…それにしても…だ」
 
 ― そう言ってエイハムは言葉を区切りました。
 
 そのまま彼はラウルもといポチの方へと視線を向けるのです。何処か楽しそうな、それでいて嬉しそうな視線に私は内心、首を傾げました。ポチを引きとって以降、彼女と関わり合いのないエイハムはポチが女装しているようにしか見えないはずです。しかし、そんな悪戯に喜ぶような表情を見せるほど彼は隙のある人物ではありません。内心、どう思っていても人好きのする笑顔を浮かべるのがエイハムという男性なのですから。
 
 「秘密を打ち明けられたようだな。おめでとう」
 「あ…あり…がとう。ま、まぁ…当初の予定とは少し違ったけれど…相談に…乗ってくれたお、お前のお陰…だ」
 「私は何もしていない。結果をもぎ取ったのは君の強さで君の勇気だ」
 
 ― そんな事を考えている内に私を置いてどんどんと話が進んでいくのです。
 
 その内容に私は着いていけませんでした。いえ、着いて行きたくなかったと言った方が正確でしょう。だって私の前で繰り広げられているその会話はポチがエイハムへと相談をしていたということに他ならないのですから。一緒に暮らしていた私ではなく、エイハムの方へと相談していた彼女の判断はきっと正しいのでしょう。
 
 ― …なんだ。結局、私は道化だったという事ですか。
 
 しかし、それでも私の穴にぽっかりと空いた穴は塞がってはくれません。とても空虚で底の見えないその穴からはじわじわとドス黒いものが湧き出してくるのです。「嫉妬」と呼ばれるその黒い感情は私の胸の内をあっさりと埋め尽くし、心の中を冷めさせていくのでした。
 
 ― そんな私の目の前でポチとエイハムが会話を続けていくのです。
 
 元々、エイハムは人と接する機会が多いだけに物怖じする性格ではありません。寧ろ人の心を惹きつける話術に長けていると言っても良いでしょう。そんな彼と会話するポチの顔も硬いながらも嬉しそうに見えました。少なくとも私の後ろに隠れなければ会話一つ出来なかった最初の頃よりも大分、打ち解けているのが見て取れます。きっと私の知らない間に二人で逢引でもしていたのでしょう。基本的に私は日中、家には居ませんし、エイハムは比較的時間の自由が効く自営業なのです。私の知らない間に会うのなんて容易でしょう。
 
 ― 僅かに残る硬さすらも惚れているが故の緊張なのかもしれませんね。
 
 勿論、それは私の推察であり、推論でしかありません。しかし、今の私にはそれが限りなく正解に近く見えるのです。少なくとも相談も何もされなかった私よりもエイハムの方が心理的距離が近いのは確かでしょう。そう思うと今までの私たちの半年間は一体、何だったのかと思うのです。
 
 「っと、あんまり二人の邪魔をしては悪いな」
 「邪魔だなんて…そんな…」
 「気にしませんよ。それより二人で積もる話もあるでしょうし、何処か喫茶店にでも行けばどうです?」
 
 ― その言葉は思ったより明るいものになりました。
 
 意識的に明るい声を出すのは苦手でした。けれど、今は深く落ち込んだ心と丁度、相殺してくれたようです。普段とそれほど変わりがない声音に誰よりも私が安心しました。何せここで二人に嫉妬していることを悟られるほど格好悪い事はないのです。最早、自分を取り繕う必要なんて無いとは言え、自分から弱さを露呈するほど屈折した趣味はしていません。
 
 「…ニンゲン?」
 「ハワード?」
 
 そんな私に二人の視線が集中しました。何処か訝しげなそれは向けられるだけでも鬱陶しく感じるのです。思わず振り払いたい気持ちが心の底から沸き上がって来ましたが、今はそれを顕にする訳にはいきません。努めて笑顔を維持しながら私は彼女らに向けて口を開くのです。
 
 「貴女が持ってる分は私が引き継ぎますよ。あ、これは飲み代です。これだけあれば、ここらの店であれば大丈夫でしょう」
 「え?あの…に、ニンゲンは一体、何を…」
 
 ポチの言葉には答えないまま、私はひったくるようにして紙袋を奪い、代わりに幾つかの硬貨を手渡しました。金色に輝くそれがあればホテルにだって行けるでしょう。
 
 「あ、今日は遅くなっても構いませんよ。食料の買い出しは私がやっておきますから」
 「ま、待て…!は、話がまったく分からないぞ…!!」
 「じゃあ、ゆっくりしてきてくださいね」
 
 彼女の言葉をスルーしながら私は四つの紙袋を持って歩き出します。しかし、一歩二歩と歩いた瞬間、私の肩を何かが掴んだのでした。それにゆっくりと振り向けば、困惑を顔に浮かべたエイハムが視界に入ります。
 
 「待て、ハワード。お前は何か誤解を…」
 「…っ!」
 
 ― 誤解?誤解と言いましたか…?
 
 私を差し置いて彼女に相談されておいて、それが誤解だと言うエイハムの言葉に鳩尾の辺りで何かが爆発するのを感じました。胸の内でどうにか留められていたドス黒い感情の波はその爆発に乗って一気に身体中へと四散していきます。頭の頂上まで染まりきった嫉妬に従って、私はそっと口を開くのでした。
 
 「<<黙れ>>」
 「っ!!」
 
 その短い一言をキーワードにして発現した魔術がエイハムの身体を硬直させました。とは言え、別に命に危害を加えるほどの魔術を使った訳ではありません。触れた部分から走らせた電流が彼の身体を一時的に痺れさせているに過ぎないのです。ほんの数分もしない間に彼の身体は元通りに動く事になるでしょう。
 
 「ニンゲン…何を…っ!?」
 
 いきなり想い人が硬直したポチが声をあげます。街中でいきなり魔術を使ったので当然と言えば当然でしょう。辺りを行き交う人々も何事かと私に視線を向けていました。そんな中、せめて命の危険が無い事だけは伝えようと答えようと私は口を開きますが、そこから恨み言が出てきそうになるのです。
 
 ― …この期に及んで格好つけても意味ありませんけれどね。
 
 しかし、エイハムはともかく彼女に嫉妬の感情を振りかざして八つ当たりだけはしたくはありません。そう心の中で呟いて私は再び足を進めました。その後ろから様々な声が聞こえますが、今の私には雑音にしか思えません。そこに何かの意味が含まれているとは到底、思えず、また心の中にも響かないのです。
 
 ― 勿論、そんな私にポチが追ってくるはずがありません。
 
 雑踏を通り越して、ベッドタウンに入り込んでから私は一度だけ後ろを振り向きました。しかし、そこには内心、微かに期待した彼女の姿はなかったのです。今の彼女は想い人の看病に手一杯なのですから、当然と言えば当然でしょう。しかし、それでも追いかけてきてくれなかったという事実が私の心の中にズンと重くのしかかるのです。
 
 ― その重い心を引きずるようにして私は家の扉を開けました。
 
 そのまま中に入ってみても家の中は暗いままで何の気配もありません。それに溜め息を吐きながら私はリビングへと足を進めます。ガチャリとリビングへの扉を開いた私を出迎えてくれたのは、味気のない暗闇だけでした。
 
 ― …今日、出かける時はあんなに張り切っていたんですけれどね。
 
 太陽の日差しが入り込んだ昼間と夜の帳が支配する現在。それがまるで私の心象風景をそのまま描き出しているようにも感じるのです。確かに昼間は相談されなかったことに悩んではいましたが、それでも信頼関係を再構築しようと前向きに考えることが出来ていました。しかし、今はそれすらも夢であった空虚な胸の内で思うのです。
 
 「…あれ?」
 
 そこまで考えた瞬間、私は自分の目からこぼれ落ちる水に気付きました。そっと頬を拭って見れば、やっぱり手のひらが濡れています。覚えのないそれに数秒ほど思考を動かした後、私はようやくそれが涙であると気づいたのでした。
 
 「はは…なんで泣いてるんでしょうね…まったく…馬鹿らしいじゃありませんか」
 
 そう情けない自分を笑いましたが、ボロボロと溢れる涙は止まってはくれません。寧ろ笑えば笑うほど後から溢れ出してくるようでした。そして今まで泣いた事なんてない私の情けない姿にどうしても笑いが込み上げて来てしまうのです。どんどんとエスカレートしていく馬鹿らしさに私は虚しい声をあげながらずっと笑い続けていました。しかし、笑っても笑っても胸の内は少しも晴れず、胸の痛みは加速していくばかりなのです。
 
 ― …あぁ、そうなんですね。私は…。
 
 そのまま一頻り笑って涙が途切れた後、私はようやく「それ」を受け入れる準備が出来ました。今までだって「それ」は私の視界の中には入っていたのです。しかし、私は「それ」を認めることが出来ませんでした。勿論、そこには性別という高い壁が存在していたのもありますが、それ以上に初めてと言う気恥ずかしさもあったのでしょう。しかし、皮肉にも「それ」が完全に敗れた今、私はようやく素直に受け止める余地が生まれたのです。
 
 「…私は彼女の事が好きだったんですね」
 
 ― 勿論、それは何時からと厳密に定義することは出来ません。
 
 しかし、彼女と共同生活を営んでいる間に、彼女の反応を楽しんでいる間に、私は何時の間にかポチ――いえ、ラウルに惹かれていたのでしょう。性別という壁を意識していた間はそれを「大事」という言葉に置き換えて満足していました。ですが、ラウルをエイハムに奪われて、その嫉妬で気が狂いそうになっている今であれば、それが純粋で、ある意味、不純な好意であったと言い切る事が出来るのです。
 
 「始まる前から脱落ですか…まぁ、私らしいと言えば、私らしいんですけどね」
 
 ようやく今までの関係の不備に気づいて、関係の再構築に走ろうとした矢先の失恋です。正直、何かの喜劇かとさえ思う展開でしょう。しかし、これは夢や劇などではなく紛れも無い現実です。それも胸の痛みが無理矢理、現実へと引き戻すほど苦い。
 
 ― …そうですね。これは現実なんです。
 
 だから、次の事――どうやってあの朴念仁であるエイハムにラウルの好意を気づかせるかという事を考えなければいけません。確かに失恋は悲しいですが…歩みを止めていて良い訳ではないのです。私の失恋は確定したも同然ですが、まだラウルはそうと決まった訳ではありません。せめて惚れた人が幸せになれるように、私に出来る最大限の助力をするべきでしょう。
 
 ― とは言え…私に出来る事と言えば本当に限られているのです。
 
 既にエイハムには嫁としてレッドスライムがいますが、魔物娘は一夫多妻でも気にしない個体が多いのです。特にスライム種は分裂後の娘――男性側の遺伝子を継いでいる訳ではないので厳密には娘ではないのですが――と男性が交わることを母親が推奨すると聞きます。恐らくエイハムの奥方も彼女の好意に気づけば無碍にはしないでしょう。後は、エイハムが彼女の好意に気付き、ラウルもまたプライドさえ捨てればハッピーエンドに近づけることは出来るでしょう。
 
 ― その為には…。
 
 ラウルをこの家から追い出さなければいけません。既にエイハムには受け入れの言質は取っているのです。元々、他に頼る場所のないラウルはここを追い出されれば自然と彼の下へと向かうしかありません。理不尽な仕打ちに傷ついたラウルとそれを慰めるエイハムという構図になればもうチェックメイトも同然でしょう。
 
 「また憎まれ役ですか…まぁ、何時もの事ですよね」
 
 そう呟きながら、私はこれからするべき事を頭の中で整理していきます。常日頃から人の嫌がらせの事や嫌味の事ばかりを考えているからでしょうか。ラウルをどれだけギリギリの所まで傷つけて、追い出すかが頭の中ですぐ組み上がっていくのです。ラウルが最後の最後まで信頼してくれなかった私のこの性格が、私に出来る最後の助力を後押ししてくれるとは皮肉以外の何者でもないでしょう。思わず込み上げてくる笑いを昏い胸の内で響かせながら、私はそれを完成させていくのです。
 
 ― そんな私の耳に扉が開く音が聞こえました。
 
 その音に導かれるようにしてそっと時計を見れば、私がラウルに懐中時計を渡した時間よりも一時間近くが過ぎていました。とりあえずラウルはエイハムとそれなりに会話出来たのでしょう。それに内心、安堵する私の耳にコツコツと控えめな足音が近づいてくるのでした。
 
 「…た、ただいま。…なんだ。灯りもつけないで」
 「……」
 
 リビングの扉を開け、魔力灯をつけたラウルに私はそっと振り返りました。その視線に彼女が肩を小さく震わせます。きっと今の彼女は私が怖いのでしょう。街中で知人相手に命の危険はないとは言え、魔術をぶっぱなした相手なのです。怖がっても仕方のない事でしょう。
 
 ― まぁ、今がそれが私にとって有利に働きますが。
 
 「ただいまってなんです?」
 「…え?」
 「…ここは貴女の家でも何でもないでしょう?」
 
 ― それは彼女にとってトラウマを強く抉る言葉でしょう。
 
 同族…いえ、家族から追放という形で追い出された彼女が「追い出される」というシチュエーションに深い傷を持っていることは私にだって察することが出来るのです。だからこそ、私は普段、それを感じさせないように努めてきました。私相手に心を開くほど、彼女が内心で求めている「父親像」を自分なりに演じてきたのです。
 ですが、前提条件が完全に崩れ去った今、それを維持する必要はありません。いえ、それどころか積極的にそれを崩し、彼女を追い詰める材料に使うべきでしょう。
 
 「え…?な、何の冗談だ?そ、それは流石に笑えないぞ…?」
 「何の冗談?それは私の台詞ですよ。どうしてノコノコ私の前に顔を出せるんです?…あぁ、そう言えばこの家には貴女の服がありましたね。良いですよ。それを運び出す間の滞在くらいは許しましょう。ですが、それが終わったらとっとと出て行ってくださいね」
 「え…?え……?」
 
 ― 私の鋭い言葉にラウルは茫然自失にも近い表情を浮かべて立ち止まりました。
 
 一体、私が何を言っているのか彼女には咀嚼出来ていないのでしょう。しかし、だからと言って、ここで容赦をしてやる訳にはいかないのです。ここで一気に畳み掛けなければ私の方がどうにかなってしまいそうなのですから。
 
 「そして、この家から出ればもう二度と私の前に顔を見せないで下さい。不愉快です」
 「え…?…あ……う、嘘…だよな…?だって…お前…」
 「嘘?……あぁ、そうですね。嘘ですよ。貴女とこれまで生活してきた全てが嘘ですとも」
 「っ!!」
 「ほんの半年とも言える時間でしたが、楽しかったですか?それとも心安らぎました?幸せだと思ってくれていれば最高なんですけれどね。その感情が大きければ大きいほど…今の貴女の顔がとても良いモノになるんですから」
 
 ― 意識して浮かべた笑みにラウルの身体がまた震えました。
 
 きっと今の私は決して見られたものではない顔をしているのでしょう。何せ言葉の一つ一つに胸の内を覆い尽くす嫉妬の感情を込めているのですから。あまり表情筋が活発な方ではありませんが、これほど黒い感情を込めて働かないほど無表情ではありません。実際、ラウルには怯えの色が強く走っていますし、きっと私は今、とてつもない醜さを露呈しているのでしょう。
 
 「しかし、思ったより面白い顔をしてくれませんね。…まぁ、所詮、エルフごときでは、その程度って事ですか。…まったく…最後の最後まで使えないなんてね。もう良いですよ。貴女…要りません」
 「ま、待って…!!」
 
 彼女の心の中を抉るだけ抉って、私はそっと踵を返しました。しかし、その手に縋るようにラウルが腕を掴んでくるのです。正直に言えば、それは不快でした。少し一般的とは違う性的嗜好を持つとは言え、大事な人の心を踏み躙って喜ぶほど倒錯している訳ではありません。今だって良心の呵責で胸が押し潰されそうなのです。それでも演技し続けなければいけない状況に引き止められるのですから苛立っても仕方ないでしょう。
 
 「…な、なぁ、嘘なんだろう?だ、だって、お前、私に宝物を貸すって…」
 「宝物…?…あぁ、アレも嘘ですよ」
 「…え?」
 「あんな安物でゴミのような懐中時計が宝物だって本気で信じてたんですか?もし、そうだとしたらエルフと言うのは随分と頭の中が緩い生き物のようですね」
 「う…え……?」
 
 ― 最後の希望を打ち砕かれた無色の表情がそこにはありました。
 
 まるで唯一の出口が目の前で閉ざされてしまった瞬間のような透明な表情は見ているだけで胸の内が張り裂けそうになってしまうのです。私は…本当はこんな表情を彼女にさせたかった訳ではありません。もっと朗らかで優しい笑顔を浮かべさせてやりたかったのです。
 
 ― ですが…それはもう…いえ、最初から私の役目ではないのです。
 
 私に出来るのはもう倒されるべき悪役としてハッピーエンドに華を添える事くらいしかありません。少なくとも既に彼女のトラウマを抉った今、私にラウルを庇護する役目は担えなくなってしまっているのですから。
 
 「話はそれだけですか?それなら早くその汚い手を離して欲しいんですが」
 「ご、ごめん…なさい…っ!も、もう私、我侭言わないから…っ!口答えもしない…っ!気に入らない所があるなら全部治す…から…っ!だから…っ……」
 
 ― その表情はもう形容しがたいものになっていました。
 
 必死になって私の腕を掴みながら、彼女の目尻から大粒の涙が幾つもこぼれ落ちていっているのです。きっとその心の中には家族から見捨てられた瞬間が繰り返されているのでしょう。潤んだ瞳は私を見てはおらず、その向こうにある遠い何かを見据えているのが分かるのでした。
 
 「だから……捨てないで……」
 「……手を離せと言っているんだ。そんな事も分からないのか?」
 「あっ…」
 
 ― 普段とは違う語気の言葉に気圧されたようにラウルが手を離しました。
 
 しかし、その後の彼女が一体、どのような顔をしていたのかは私には分かりません。何せ私はラウルから解放されてから振り返らずに、応接室へと逃げ込んだのですから。
 
 ― やれやれ…ようやく…終わりましたかね…。
 
 そう心の中で呟きながら、私は扉に鍵を掛け、ソファへと身体を飛び込ませるのです。ぼふんという音と共に受け止められた身体からはじくじくと疲労が染み出していくのでした。それを癒すために身体がカロリーを求めますが、指一本動かす気力すら沸かないのです。
 
 ― まぁ…一食抜いた所で餓死しないでしょうし…それに…。
 
 ここで死んでも別に悔いはありません。私に出来る事はもう全て終わったのです。後はラウルが来る前と同じ空虚で乾燥した日々が私の寿命が尽きるまで続いていくのでしょう。そんな日々をこれから何十年と生き続けるのとここで死ぬのとはそう大差がないように思えるのです。
 
 ― あぁ…でも、どうせ死ぬのであれば…。
 
 この街を護ったという自己満足を胸に死にたい。そう心の中で呟きながら、私はそっと瞳を閉じました。その瞬間、空腹を上回った疲労が私を取り込んでいくのです。それに抗う気力も見つからないまま、私は眠りの中へとそっと引き摺りこまれていくのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:25更新 / デュラハンの婿
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■作者メッセージ
デート中の描写はいらなかった気がする!!!
でも、女の子として振る舞えるようになったラウルきゅんを書きたかったんだ!!
後悔はしていない!!!

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