臆病な女の場合
―きっと誰だって自分の世界観を変えるキッカケになった言葉と言うのはあるんじゃないかな。
それは私にとって、ほんの短い言葉だった。文字にしてたった二十文字。ただ、それだけ。
けれど、それだけの言葉はまるで魔法のように私の全てを変えてくれた。そのキッカケになってくれた。
「ふーんふんふんふーん♪」
そんな風に鼻歌を歌いながら、私はベッドの上に寝転んで一冊の雑誌を見ていた。私の手の中にあるのは『月刊・魔界のデートコース 初級編』とタイトルがデカデカと描かれている旅行雑誌である。付き合い始めのカップルを対象に毎月、刊行されているこの本は、製本技術を手に入れた魔界の初期から根強い人気を誇っている一冊だ。口コミが少ない反面、確かな知識に裏打ちされた情報の多いこの本は今の私にとってはまさにバイブルと言える。
―ま、まぁ…参考にしてるだけで、デートなんかじゃないんだけどね。
脳裏で言い訳しながら、私はぺらぺらと頁を読み進めていく。既に何十回も読み直したその本は、私にとって既に目新しい情報は無い。しかし、『明日』の事を思い浮かべるだけで、何処か浮かれて準備出来ない私を落ち着かせるのには十分すぎる効果があった。
「えへへー…♪やっぱりこのお店も外せないなぁ……」
赤丸でチェックしているお店――この部屋の戸棚にも山ほど並ぶ、ぬいぐるみなどの可愛らしい小物を売る雑貨屋だ――を指でなぞりながら、ごろんと私は寝返りを打った。勿論、普段はこんなにはしたない真似はしない。何処か浮かれる気持ちを抑えることが出来ない今日だけの特別だ。
「なぁにを買わせてやろうかなー♪」
『アイツ』の顔を脳裏に浮かべるだけで、私の顔は自然とにやけそうになってしまう。明日、『一緒に出かける』相手であり、私の『知り合い』であるその色男は、私の脳裏で何処か困ったような、諦めたような顔をしていた。しかし、まるっきり拒んでいるわけではない。そう思うだけで私の心は何処か暖かくなった。
「まぁ…私は優しいからちょっとした小物くらいで勘弁してあげるけどね」
聞く相手もいない自分一人の部屋でそう独り言を呟く行為は、正直、自分でも痛いと思う。しかし、まるで遠足前の子供のような浮かれきった気持ちはそうでもしなければ抑えることが出来ない。今にも走り出してしまいそうな気持ちがふつふつと湧き上がっているのだから。
―コンコン
―…ん?あれ……?
そんな私の部屋をノックする音が聞こえた。独り言が五月蝿かったのかな、とも一瞬、思ったが喘ぎ声を完全にシャットアウトする魔王城の防音効果は普通の話し声程度では突破できない。しかし、悲しい事に『友人』と呼ばれる類の関係をまったく築いてこなかった私には、この部屋を知る人はおらず…自然、その相手はほぼ家族に限られることになる。
―でも…誰だろう?
ふと時計を見るが、もう夜中と言っても良い時間である。まだまだ日付が変わる程では無いにせよ、人の部屋を訪ねるような時間ではない。何か急用でもあるのか…それともまったく知らない人か…。そんな事を思いながら、私は本に栞を挟んでベッドから立ち上がった。瞬間、真正面の衣装棚に並ぶクマやウサギを模したふわもこのぬいぐるみと目が合う。私の数少ない『話し相手』であった彼らは、そのつぶらな瞳で知らない人だったらどうしようと尻込みしそうになっている私を励ましてくれているような気がする。
―うん。私、頑張るからね!
そうガッツポーズで応えながら、私はするすると扉の方へと向かっていく。人二人が十二分に暮らせるような大きな寝室、そしてリビングとキッチンを抜けて玄関へ。2LDKは優にある広々とした部屋を後ろに鍵を開けて、来訪者を迎えた。
「やっほー♪チョコちゃん元気ぃ?」
「お、お姉ちゃん……」
今が夜中だと言う事も知らないかのように明るく挨拶する来訪者――私の一つ上であり、エキドナであるお姉ちゃんに私の身体は固まった。しかし、彼女はそんな私を見越しているように、ニコニコと笑って反応を待っている。頭は私よりも遥かに良い筈なのに、何処か天然気味のお姉ちゃんのそんな様子を見ているうちに、私の頭も少しずつ冷えてきた。
「上がらせてもらって良いかしら〜?」
「う、うん。良いけど……って言うかチョコちゃんって呼ばないで」
私が反応できるようになったのを見計らってから投げかけられたお姉ちゃんの言葉に私は逆らうことが出来ない。何だかんだで押しの強い彼女の言葉を私が拒絶できたことなんて片手で数えるほどしかないのだ。それに今回は時間が時間であるので、外でお話と言う訳にもいかないし……それに私はお姉ちゃんに一つ『借り』がある。
「お邪魔しまぁす〜♪…って、相変わらずファンシーな部屋ねぇ」
そんな私の横を抜けて、部屋へと入ってきたおねえちゃんの第一声がそれだった。確かに部屋の壁紙から、テーブルなどの家具、戸棚に入る食器などの小物までデフォルメされた動物などの可愛らしい絵柄で統一された部屋はファンシーと言えるのかもしれない。けれど、これが私の趣味なのだ。尊敬するお姉ちゃんとは言え、趣味を否定されたくは無い。私の訴えもあっさりとスルーする姉に拗ねるような気持ちも込めて、私はそっと口を尖らせた。
「似合わないのは自覚してるわよ…」
「ううん〜。似合わないなんて〜チョコちゃんらしくて素敵だと思うわぁ。ただぁ…ちょっとこれは……男の子には見せられないわねぇ」
「うっ……」
確かに大人のレディとはお世辞にも言えないような部屋の状況は到底、男性を呼べるような代物ではないだろう。正直、ドン引きされてもおかしくはない。まぁ…『アイツ』は笑ってからかうネタにするだけだろうから、別の意味で見せられないんだけど……って言うか…なんでここで『アイツ』が出てくるのかな!?わ、私は別にな、何とも思ってないんだけど!!明日の買い物も荷物持ちに選んだだけだし…!
「ふふ…♪黙り込んだチョコちゃんは誰の事を考えてるのかなぁ?」
「べ、別に…!そ、それよりお姉ちゃん、こんな時間に何しに来たの?」
「酷いわぁ…チョコちゃんがお姉ちゃんを露骨に追い出そうとしてる〜……。これが反抗期って奴なのかしら〜……」
思わず脳裏に浮かんだ男の事を頭を振って振り払いながら、私は彼女にそう尋ねた。しかし、それがお姉ちゃんには不服だったらしい。ほっそりとした大人の女性の頬に手を当てながら、全身で困っていると表現していた。妹である私にとって、お姉ちゃんと中々、思ったように会話をするのは難しいと身をもって知ってはいても、やはり何処か疲れる相手なのは否めない。
―お姉ちゃんと付き合う旦那さんって本当に大変よね……。
マイペースを突っ走るお姉ちゃんに捕まり、現在は食堂に勤める気弱そうな義兄の姿を思い浮かべた。何処か幸薄そうな雰囲気の彼は頼り無い印象が強いものの、意思表示はしっかりと行う。以前も私と『アイツ』が一触即発状態に陥った仲裁に入ってもらった事があるのだ。その時は苛立っていたので、八つ当たりめいた視線を送ったものの、後できちんと謝罪すると笑って許してくれた。曰く「お姉さんと会話するよりは簡単だったから大丈夫」と疲れた笑みを浮かべた義兄にどれだけの負担が掛かっているのか…家族として長い間、一緒に暮らしていた私にはその一端だけでも分かる。
―まぁ、それはさておき。
「違うわよ。ただ、この時間でしょ?子供達の寝かしつけとかあるんじゃないの?」
細いその身体からはまったく察することは出来ないけれど、既に二児の母親でもあるお姉ちゃんが、この時間に出歩くことは珍しい。話は通じなくても、基本的には常識が無い訳ではないのだ。……いや、もしかしたら無いかもしれないけれど……その、普段はとっても言動以外はマトモに見える人である。うん。多分。
「んーそれは彼に任せてきたから大丈夫〜」
「そう…」
天然気味の姿からは想像もできないが、お姉ちゃんは強い母性を持つのだ。エキドナとしての本能なのだろうか。子供の世話に一切、手を抜かず、夫に向けるものと変わらない愛情を注ぐ姿は同じ女として尊敬さえしていた。そんな彼女が子供を夫に預けて、単身ここへと乗り込んできたなんてそうあるものではない。やはり何か重要な話だったのだと身構えながら、私はそっと椅子を引いた。
「とにかく座って。今、お茶を出すから」
「お構いなく〜」
そんな風に軽く言いながらお姉ちゃんはそっとクマさん柄に切り抜かれた椅子へちょこんと座った。そんな彼女を背に、私はするするとキッチンへと進む。普段からそれなりの料理をするので、綺麗に整頓されている脇の戸棚から茶葉を取り出しながら、刻まれたルーンに触れて火を点けた。一瞬で青く光る炎が燃え上がり、その上に置かれた薬缶を急速に沸騰へと近づけていく。
―これでよし…と。後は……。
沸騰するまでにティーセットを整えるだけだ。幸い、普段から紅茶を良く飲む方なので、それはすぐ脇に準備されている。その中のティーポットに茶葉を入れれば殆ど完了だ。
「ふーん……『月刊・魔界のデートコース 初級編』かぁ」
―そんな私の耳に決して聞こえてはならない本のタイトルが耳に入った。
だって、それは私の寝室に置いてあった代物である。少なくともリビングからは決して見えない場所にあるはずだ。しかし、確かに姉の言葉に乗って私の耳に届いている。と言う事は…考えられる事は余り少なくない。そんな風に何処か冷静に考える反面、気恥ずかしさで真っ赤に染まった頭が暴走を始める。湧き上がる衝動を抑えると言う事を考えられないまま、私はキッチンからリビングへと踏み込み、姉が手に持つ『月刊・魔界のデートコース 初級編』を見つけた。
「お、おおおおおおおおおおお姉ちゃん!!!」
「あら…チョコちゃん、もうお茶は出来たのぉ?」
「ま、まだだけど…そうじゃなくって…!幾ら姉妹でも勝手に寝室に入らないでよね!!」
―そう。考えられるなんてそれくらいだ。
無論、お姉ちゃんにだってそれくらいの良識はあると信じたい。信じたいが…現実問題、私の耳に届いた情報はそうとしか考えられなかった。それに一見、穏和そうな雰囲気の彼女は目的の為ならば手段をまるで選ばないのを私は身をもって知っている。その目的までは分からないが、彼女は必要あればそれくらい躊躇い無くやるであろう。
「え…寝室〜?何の事〜…?」
「と、とぼけないでよ!私の寝室からそ、そそそそその…『月刊・魔界のデートコース 初級編』を持ってきたんでしょう!?」
「…え〜…これ…私のよぉ」
「………え…?」
―そこでヒートアップした私の思考はピタリと止まった。
不思議そうに小首を傾げるお姉ちゃんの顔は何処か嬉しそうな色に染まっていた。恐らく今の一言を引き出すのが目的だったのだろう。冷え込んだ私の思考はおくばせながらにそう理解した。しかし、理解しても、さっき言った言葉を飲み込める訳ではない。寧ろ、嵌められた事とそれの意味する所に気づいた私の顔は真っ赤に染まってしまった。
「私はあの人とのデート用だけどぉ…どうしてチョコちゃんは『月刊・魔界のデートコース 初級編』なんて持ってるのかなぁ?」
「そ、そそそそ、それは……!!」
何とかこの場を切り抜けようと私の頭が回転を始めるが、中々、上手くはいってくれない。そもそも頭の回転と言う面で私は姉に勝てたことが無い。どんな言い訳だってすぐさま見破られてしまうだろう。しかし、ここで何も言わずに認めてしまうのが癪で、私は必死に言葉を捜し続けた。
「た、たまたま!そう!たまたま拾ったのよ!!」
「あら…あんなに一杯、印をつけてるのにかしら〜?」
「な、なんでそれを…!って言うかやっぱり寝室に入ったんじゃないの!!」
「うふふ〜やっぱり着けてるのねぇ。チョコちゃんって几帳面だからそうだと思ったわぁ」
―はっ…!の、乗せられた……!?
にやにやと見ているお姉ちゃんからは逃げられない。頭の回転の速度が私とは比べ物にならない彼女は、ここまで全て計画立てて事を運んでいる。歳もそれなりに近く、一緒に過ごした期間の長いお姉ちゃんの予想を私が超えることなんて出来ないのだ。どんな反攻も先読みされて、潰されてしまうのがオチだろう。
―ど、どうすれば…!?
逃げ場の無い袋小路に追い詰められたような感覚にそっと視線をそらした瞬間、「シュー!」と蒸気が抜ける音が聞こえた。何処か甲高く耳障りなその音はお湯が沸いた音だろう。普段は余り好きにはなれないその音は、お姉ちゃんに追い詰められてしまった今の私にはまるで天の助けのように聞こえた。
「あ、お、お湯沸いちゃったから、紅茶入れてくるね!」
そう言いながら私はお姉ちゃんへと背を向けて、キッチンへと進みだす。その背に困ったようなお姉ちゃんの視線を感じるけれど、今更、振り向いてはいられない。逃げ込むようにキッチンへと駆け込んで、炎を止めて、ポットへとゆっくりお湯を注いでいく。白い陶器の中でお湯と茶葉が手を取り合って踊り、透き通った燈色へと染まっていく様は、私の混乱した心を落ち着かせてくれた。
―ふぅ…と、とりあえずはリカバリー成功……。
追い詰められている状況には代わりはないけれど、少しずつ動き始めた思考に私は安堵の溜め息をついた。そして、四方八方が手詰まりである状態ではあるものの、何とかそこから誤魔化す方法を考えようと思考を張り巡らせ始める。その間も私の指はするすると動き、紅茶の準備を進めていった。
―でも…まったく思いつかない……。
幾ら冷静になっても、お姉ちゃんの包囲網を突破できる手段が思いつかない。結局、姉より優れた妹など存在しないのか、と溜め息一つ吐きながら、私は蒸らし終わったポットを持ってリビングへと戻っていった。その足取りが何処か重かったのは、きっと私の気のせいではないだろう。
「はい。お待たせ」
「ありがと〜。チョコちゃんの紅茶は美味しいから好きよぉ」
「お、お世辞は良いってば…」
そんな風に会話のキャッチボールを繰り返しながら、私はそっとカップの中へと紅茶を注ぐ。中でしっかりと蒸らされた紅茶が白亜のカップの中で周り、揺れていった。瞬間、その身から立ち上らせる独特の香りが、リビングの中にふわりと広がる。目の前で花が咲いたような広がりを感じながら、私は彼女の前にソーサーを送りながら、自分も対面の椅子に座った。
「そ、それで結局、なんの用事で来たの?」
「んーお姉ちゃんとしてはもうちょっとチョコちゃんをからかいたかったんだけどぉ」
「お願いだから、勘弁して……」
これ以上、からかわれるのは正直、心臓に悪いにも程がある。そもそもチョコちゃんと呼ばれること自体、あんまり好きじゃないのだから。そりゃ…チョコラータよりも、チョコの方が可愛らしいと言う彼女の主張も分からないでもないけれど…そんな私は可愛らしい子じゃない。『アイツ』が良く言うようにとっても面倒な女なのだから。
「まぁ、御節介…が一番、大きな理由かなぁ」
「御節介って…私は別に困ってなんか無いけど…」
『アイツ』に相談した友達作り自体はあんまり進んではいないけど、性格の矯正自体はそこそこ進んでいる……と思う。あんまり実感は無いけれど、最近、良く笑うようになったと言われることもあるのだ。お店に働くこと自体にも大分慣れて、もうミスは殆ど無い。給与面が充実しているお陰で、金銭的にも恵まれていて、多少、遊んでも貯金が出来るくらいだ。そんな私が困っている事なんて自分でも見当たらない。
「いいえ…! チョコちゃんは困っているはず〜! お姉ちゃんには分かるものぉ!」
しかし、私の前でぎゅっと握り拳を作る彼女はそうは思っていないらしい。自信満々にそんな事を言ってくれる。助けてくれようとする心遣いこそ有難いものの、困っている事自体が思いつかないので正直、困惑を隠せない。それよりも寝室に投げっぱなしになっている本を見られたくなくて、出来れば早く帰って欲しいくらいだった。
「チョコちゃん…! 貴女は…貴女は今、恋をしているのよ〜!」
「……は?」
唐突に告げられた言葉に私の困惑に倍率がかかっていく。それも当然だろう。いきなり夜中に訪ねてきた家族が、お前は恋をしているだなんて、誰だって困惑するに違いない。これが自覚でもあれば話は別だが、相変わらず私はそう言った色気のある物事に縁が無く、知り合った男性なんて『アイツ』くらいである。
「明日だってあの人とデートするんでしょぉ」
「いや…まぁ、遊びに行くけど…デートとはちょっと違うような……」
―そもそも、お姉ちゃんの連絡先で釣り上げただけだし…。
何だかんだで付き合いの良い『アイツ』は暇だったら荷物持ちでも何でも来てくれるだろう。店が終わった後なんかでも、私の買い物に付き合ってくれるし、その程度の関係は築けているはずだ。しかし、それは何となくプライドが許さなくて、今回は適当に理由をつけて誘ったのである。対価として連絡先を使うので、お姉ちゃんにも許可を取ったから、彼女も知っていて当然だが…最初から『アイツ』に連絡先を教えるつもりなんて更々、無い。適当にお店を連れまわした後は、晩御飯の奢り程度で手を打たせるつもりだ。
「いいえ…! そう言うのは世間様一般ではデートって表現するのよぉ!」
「そ、そうなの……? で、でも、買い物だけよ…?」
「何をやるのかなんて問題ないの! デートって言うのはねぇ…気になる異性と一緒にいる時点で該当するのよ〜!」
「そ、そういうものなんだ……」
力強い人妻の言葉に思わず納得してしまう。でも、確かに思ってみれば、恋人の部屋の中で適当にじゃれあったりするのが『デート』にならないのはおかしい。街中で恋人繋ぎをして遊ぶのと同じくらい、お互いの部屋で他愛無い会話を繰り返す関係に憧れるだけに、お姉ちゃんの主張はとても納得できる気がする。そんな私の脳裏にこの部屋を訪ねる『アイツ』の姿が浮かび上がって…ベッドの上に腰掛けながら私の身体をぎゅっと……。
―って違う。そうじゃなくって……!
「べ、べべべべべ、別に私は『アイツ』の事なんか何とも思ってないわよ!!」
「あら、テンプレ」
「だから、私はツンデレなんかじゃ……!」
「はいはい。お姉ちゃんは分かってるわよぉ。ちょっぴり意地っ張りなだけだものねぇ」
「だ、だから……違…!!!」
しかし、どれだけ否定してもおねえちゃんは聞き入れるつもりは無いらしい。ニコニコとした柔らかい笑みを浮かべて、私の事をじっと見つめてくる。まるで微笑ましいものを見ているような視線に、どうにも居心地が悪くなるのを感じながら、私はついっと彼女から視線を逸らした。
―ま、まぁ…『アイツ』は確かにそんなに悪くないけどさ。
第一印象が最悪であるだけに、あまり強くは感じないけれど、『アイツ』はとても優しくて目敏い。こっちが悩んでいるとすぐにそれを見抜いてくるし、落ち込んだときにはそれを見越してからかってくる。普段からお互いに軽口や悪態を吐き合う仲の所為か、変に気を置かず話せるのもポイントが高いだろう。まぁ、その…時折、意識してしまうことがあるけれど、それだけだ。顔も悪くないし、声も甘くてたまに聞いているだけで切なくなっちゃうけれど、全然、なんとも思ってない。時々、『アイツ』を脳裏に浮かべて、一人で…その、アレしちゃったりするけれど、他に身近な相手がいないのが主な原因だ。べ、別に私はあいつの事を気にしてなんかいない。
「じゃあ、嫌いなの?」
「い、いや…そう言う訳でも…無いけど……」
出会った頃の印象は最低だったけれど、何だかんだで真摯に悩みを聞いてくれて解決しようとしてくれている。それはまだ解決には至っていないけれど、今も気にして店に顔を出してくれているのだから。出会うたびに軽口や悪態を吐くけれど、『アイツ』の顔を見るたびにちょっと嬉しくなってしまうのは、多分、それほど嫌ってはいない証拠だろう。
「じゃあ、好きなんじゃない」
「ど、どうしてそうなるのよ…!もっとこう…い、色々あるでしょ!!」
「だってぇ…わざわざデートの為に『月刊・魔界のデートコース 初級編』まで買っちゃう時点で…その…ね〜」
「あ、アレは…!お店のチェックの為よ!!別にデートするつもりで買ってる訳じゃ…!!」
「じゃあ、デート系雑誌じゃなくても良かったんじゃない〜?」
「うっ………」
確かにお姉ちゃんの言う通り、他にも雑誌は色々あった。それこそデートコースとして纏められたあの本よりも、より色々な店が載っているモノは幾らでもある。やっぱり衣服や小物に限定するならば、アパレル関係の雑誌の方が詳しいのだから。けれど、私の手はそっちには伸びなかった。
「それにねぇ…最近、あの人の近くにも色々と他の女の子がうろうろし始めたくらいだし…」
「う、嘘!?」
思わず椅子から立ち上がって、私は困ったような表情を見せるお姉ちゃんのほうを見据えた。確かに『アイツ』は顔も良いし、性格だって文句をつけるくらい悪くは無い。ちょっと軽いのが難点だけれど、それをキッカケに仲良くなる女の子と言うのは数多くいるのだ。寧ろ、虎視眈々と相手を求める魔物娘がいる中で、そんな『アイツ』が今までフリーと言う事自体、わざと逃げているのか、それとも奇跡のようなものだろう。それは私にだって、分かっている。分かっているけれど……どうしても胸の中に嫌な気持ちが沸きあがってくるのだ。
―うぅ…やだ…この感覚……!
元々、女の子に声を掛けるのを躊躇しない性格だけあって、『アイツ』は割と知り合いが多い。相談なんかも良く聞いている所為だろうか。街中を一緒に歩いていても、声を掛けられるのだ。それらは殆どが『旦那』がいる魔物娘であったものの、私が横に居るのに他の相手と仲良く話す『アイツ』にやきもきしたのなんて両手でもまだ足りない。そして、そんな嫌な気持ちが今、私の胸の中で沸き起こっていた。
―嘘よ…だって…今までそんな気配、まるで無かったじゃないの……。
そうは思うものの、今までとこれからが必ずしも一致するとは限らない。そもそも『アイツ』は何時、魔物娘に狙われてもおかしくないような性格をしているのだ。それが今、起こったとしても決して不思議じゃない。そう思ってはいても、鉛にでもなったような私の心は浮き上がりはしない。寧ろ、どんどんと暗い感情に引きずられて落ちていっていくようだ。
―そんな私の目の前でゆっくりとお姉ちゃんが口を開いて―
「ところで…あの人って何なのかなぁ?」
「…え?」
「だからぁ…誰を思い浮かべたのかな〜?」
―え?え?……どう言う事?
「私は決して『固有名詞』を出してないつもりなんだけれど〜『あの人』が指すのは私の愛しい旦那様かも知れない訳だけれどぉ……チョコちゃんは誰を想像したのかしらぁ?」
―まっ……またやられたあああああああああああああああああ!!!!!
ネタ晴らしされた事実に私は堪えきれず、椅子へと座り込んでから頭を抱えた。余りにも恥ずかしくて顔を上げることが出来ない。寧ろ、そのままテーブルに頭をぶつけたくなるなるくらいだ。今すぐお姉ちゃんを追い出して部屋の中に閉じこもりたい気持ちさえある。けれど、私なんかよりもよっぽど優秀な彼女をどうにかする術は私にあるはずも無く、私に出来る事と言えば、自分の失態を反省するくらいだ。
―うーぁぁぁぁ…もう…恥ずかしい……恥ずかしいぃぃぃぃ!!!
「ふふ…ごめんなさいねぇ。そんなに苛めるつもりは無かったんだけど」
「だったら、こんな引っ掛けとかカマかけとかは止めてよぉ…」
「チョコちゃんが面白いのが悪いのよぉ♪」
―うぅぅ…ドSだ…やっぱりこの人の本質はドSだ……!!
穏やかそうな雰囲気で、口調自体も穏やかではあるものの、お姉ちゃんはこうして人を弄って喜ぶ性癖がある。その対象として良く選ばれたのが妹である私だ。仲の良い姉妹ではあったものの、そういう面だけは苦手だった事を唐突に思い出しながら、私はそっと溜め息を吐く。しかし、万感の思いを込めた溜め息の後……悔しいかな、少しだけ心は固まってはいた。
「…えぇ。好きよ! 好きだもん! 何が悪いのよ!! て言うか『アイツ』が悪いのよ! 優しいし! 気遣いも上手いし! 話題も豊富だし! 私の意地っ張りな部分とか受け入れてくれる程度には大人だし! でも、私の軽口に載ってくれる程度にはノリが良いし! その上、顔も良いとかどうすれば良い訳!? そりゃ惚れるわよ!! 惚れちゃいますわよ!!!」
「お、落ち着いて、チョコちゃん……!」
若干、引いたようなお姉ちゃんが落ち着かせようと手を上下させるけれど、ずっと心の内側に閉じ込めていた感情は留まらない。今まで誰にも言えなかった言葉が土石流のように飛び出してくるのだから。
「この前もさ! 常連さんの下ネタに引いた私の変わりにその常連さんに構ってさ! まったく疲れた顔を見せずに何回も何回も続けられる惚気に頷いてさ! そのお客さんが帰った辺りでカウンターに突っ伏してたからコーヒーあげたら「有り難う」とか……! そう言いたいのはこっちの方なのよ…! 何よ…! 人の台詞取って…! 馬鹿馬鹿! そんなのばっかりされたら気になっちゃうでしょう!?」
「だ、大分、溜まってたのねぇ………」
「ぜぇ…はぁぁ……」
一息にそこまで言い放ってから、私は大きく深呼吸した。それだけで思考が何処か鮮明なものへと変わる。ずっと内心、恥ずかしくて目を背け続けていた事を認めたからだろうか。すっきりした胸の中は、案外、素直にその感情を受け入れることが出来た。
―そうか……私…『アイツ』の事…好きなんだ……。
そう胸中で呟きながら、胸に手を当てると火照った身体と強い鼓動を感じる。熱に浮かされたようにも感じる感覚は、普通であれば不快であるのかもしれない。しかし、血液と共に尻尾の先まで広がる感覚は、何処か暖かく、決して不快ではなかった。
「ふふ…ようやくチョコちゃんも大人になったのねぇ…お姉ちゃんも感無量よ〜」
「その言い方…なんかエロいけど…でも…そ、そういう事……なのかな?」
―あぁ…もう…恥ずかしい……!!
言い回しも含めてだけど、ここに至る経緯そのものがもう恥ずかしくて仕方が無い。今年一年分くらいの醜態は今日で晒してしまった様な気がする。しかし、一歩進んだ…と言うより進ませてもらった代償だと思えば、悪くは無い。寧ろ、今の暖かい気持ちだけでお釣りが来る様な気がする。
「チョコちゃんが大人になった所でぇここでお姉ちゃんの出番よ〜」
「え…?ただ、からかいに来ただけじゃなかったの…?」
「……チョコちゃんは後でお姉ちゃんから『お話』があります」
「ごめんなさい」
本気で怒ると本当に洒落にならない彼女にテーブルに突っ伏して謝罪の念を示しつつ、私はそっとお姉ちゃんを見上げた。クスクスと嬉しそうに笑っている様子は特に怒っている様には見えない。そんな彼女に安堵しながら身体を起こし、私はそっと自分のカップを手に取った。
「まぁ、冗談はさておき…チョコちゃんに任せてたら何時まで経っても関係が進展しなさそうだからお姉ちゃんは梃子入れしに来たのよぉ」
「梃入れって…ま、まぁ…進展しない自信はあるけれど……」
お姉ちゃんが来るまで予定として思い描いていたデートコースは雑貨屋や衣服がメインだった。前者は私の趣味で、後者はそろそろ暖かくなる時期に備えてのものだったが、それでは関係は前進しないだろう。そもそも、こういう雑貨屋やブティックを巡るデートは何度もしているし、ここはもうちょっとデートコースを捻る必要がある。しかし、元々の名目が荷物持ちであるので、プールや遊園地などの名目から離れすぎたデートは難しい。使える札はかなり制限されている中で、関係を進展させるデートと言うと少なくとも私には思いつかないのだ。そう考えると、既婚者であり、経験豊富なお姉ちゃんに手伝ってもらうのが一番な気がする。
「ふっふっふ…! これから徹夜でデートコースを詰めていくわよぉ…」
「う、うん。有り難う」
「そうじゃないわぁ。そこは「おー!」よ。はい。おー!」
「お、おぉー!」
天井に拳を突き上げるような仕草をした後、お互いに堪えきれないように笑みを漏らした。まるで打ち合わせたようなお互いの笑顔は、きっと…この部屋で二人で暮らしていた時を思い出したからだ。今の旦那さんと結婚してからお姉ちゃんはここを出て行ってしまったけれど、それまではこんな風に姉妹で仲良く暮らしていたのだから。
「さぁ。時間が無いわ〜。さっさとやっちゃいましょう〜」
「うん」
そう言って、お姉ちゃんは『月刊・魔界のデートコース 初級編』を捲っていく。そんな彼女を見ながら、私もまた寝室から本を持ってきて、意見を交わし始めたのだった。
「ふぅ…まったく…相変わらず遅いんだから」
そんな風に悪態を吐きながら、私はオープンカフェの一席でカフェオレをソーサーに預ける。『デート』の待ち人は待ち合わせ場所であるここに、まだ来ず、私はさっきからそわそわとしながらこうして待ちぼうけを続けていた。余りにも時間が余りすぎて、何時もよりさらに気合の入った格好をしているのに何度も何度も鏡でチェックしてしまう。ついこの間までは、そんなに気にならなかった筈なのに恋心を自覚しただけでここまで変わるなんて思っても見なかったけれど…それもそんなに悪い気分じゃなかった。
―恋をすると世界の色が変わるって本当なのね…。
何時もより様々な色に輝いて見える世界の中で私はそっと再びカフェオレを手にとって、口へと運ぶ。『アイツ』の前でカフェオレを飲んだら、また「お子チャマ」なんてからかわれそうだから飲めないけれど、『アイツ』を待っているこの時間くらいは構わないだろう。そもそも、『アイツ』の前だと何時もコーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んでいるんだから、これくらいは許されるべきだ。
―まぁ、変に意地を張る私は悪いんだけどさ。
『魔法の言葉』をキッカケに私は大きく変わったけれど、それでもしっかりと根付いた性格を矯正するのは難しい。最近は良く常連の人にも「丸くなったね」なんて言われるけれど、根本的な所は変わっていないのだ。
―だって…昨日まで恋心自体認めなかった訳だし……。
それどころか『アイツ』を前にすると、変にからかってしまう。いや、ソレは良い。『アイツ』は私違って大人だから、そのからかいあう付き合い方を楽しんでくれている。それは…私も同じだ。お互いに悪態を付き合うような関係はとても居心地が良い。けれど、それはどう頑張っても『友人』止まりである。そして、それでは私の乙女は納得しない。昨夜、自覚してしまった恋心はもっと甘く、蕩けるような関係を求めている。
―とは言っても……中々、上手い事いかない訳で…。
「おーい!」
思わず溜め息が漏れ出そうになった私の耳に待ち人の声が届く。小さく手を上げてのんびりと歩くその様子は、待たせているという自覚がまったく足りない。私をこれだけ思い悩ませている原因のその暢気な姿に、私の中の悪戯心がむくむくと鎌首を擡げた。
「おそーい! 待たせすぎよ!!」
「いや…待ち合わせの三十分前だろ?」
―うん。その通り。予定の三十分前に到着とか中々、分かってるじゃない。色男さん。
そんな甘い言葉は私には似合わない。いや、正確には『私達』には似合わない。本当は恋人同士のような甘い台詞の応酬も好きだけれど、それよりももっと軽快で、簡単なやり取りこそが私達には相応しい。例えばそう…こんな風に――
「いいえ。三十分の遅刻よ」
「げ!? マジか…。すまん。完全に勘違いしてた」
―まぁ、嘘なんだけど。
焦ったように頭を掻きながら、待ち人――ハンスは私の前に座った。その顔は本当に申し訳無さそうな色に染まっている。自他共に色男であると認め、女の子を口説いてきた彼にとって遅刻なんて論外なのだろう。珍しく悪態も吐かず、両手を顔の前で合わせていた。てっきり一瞬で嘘だと見破られ、何時もの軽快なやり取りが始まると思っていただけに、こんな風に彼の謝罪する姿を見せられるとどうしても申し訳なくなる。
「……ごめん。嘘」
「は?」
「…いや、だから、待ち合わせの三十分前で合ってるのよ」
流石にその嘘を突き通すほど恥知らずではなく、私はこっそりネタ晴らしをしてみる。そんな私に唖然としたような顔を向けながら、ハンスは困ったように頭を掻いた。困っているようなその姿は、決して私の下らない嘘に怒っているわけじゃない。そもそも、彼は最初の頃の印象とはまったく違い、適度な包容力を持っている男性なのだから。
「なんで、またそんな嘘を…」
「私が待ってるのに暢気に歩いてくる姿がムカついた。反省はしている」
「おっけー。後でコーヒー奢れよお前」
そんな風に軽口を叩き合いながら、ハンスはテーブルに肘を突いた。行儀の悪いその仕草も、コイツがやるとやけに『様』に見える。屋外のカフェテラスと言う『背景』もあるのだろうけれど、まるでそこだけ絵画の中の世界から切り取ってきたように感じられるのだ。
「つか、どれだけ待ってたんだよ?」
「……三十分」
「……それだったら最初から待ち合わせを一時間前にしておけよ」
呆れたように言うコイツは乙女心と言う奴をまったく分かっていない。どうせコイツは昨日の夜、頑張ってデートコースの修正を続けた私の気持ちなんぞ分からないだろう。完成したのは深夜でうきうきした様子の姉を見送った後、ベッドに入っても寝られないままで、朝を迎えてしまい、開き直って一時間前からここにきてしまった寂しさだって分からないに違いない。この色男は他の感情には結構、敏感なのに、私の乙女心には中々、気づいてくれないのだ。
「べ、別に良いでしょ! 私の勝手なんだし!」
「まぁ、そうだが……待ってる間、寂しかっただろ?」
―ついつい意地を張ってしまう私の言葉に一瞬、ハンスは優しい視線をくれる。
コイツのこう言う所が私は大嫌いだ。普段は私と軽口や悪態の応酬をするくらい意地が悪いのに、一瞬だけ優しい顔になるんだから。きっと本人も意図していないその表情の動きに、正直、かなりドキッとさせられる。私だって一応、女の子なのだ。好きな相手のそんな姿を見せられたら…何もかも許してやりたくなってしまう。どれだけ喧嘩をしても一瞬でひっくり返されてしまうその表情は、私にとって反則級の威力を持つから嫌いだ。大好きだけど、嫌いなのだ。
「別に…そんな事無いけど……」
―そして、そんな風に目を背けてしまう自分が嫌いだ。
ここで「寂しかった」と言えれば、どれだけ楽だろう。「アナタに会えなくて寂しかった」と言えば、少しは可愛げのある女になれるだろうか。けれど、どうしてもそんな可愛らしい一言が言えない。本当はハンスもそう言うタイプが好きだと知っているのに、どうしても羞恥心が先立って意地を張ってしまうのだ。それは昨晩、恋心を指摘された私でも変わらない。
「ホント、お前、素直じゃないな」
そんな私に向かってそう微笑んでくれるのは多分、ハンスくらいなものだろう。私だって…自分の面倒臭さくらいは知っている。この性格のお陰で孤立して、友達一人作ることが出来なかったのだから。勿論、ハンスの様々な『協力』によって、自分でも大分、丸くなったのは確かだけれど…。でも、やっぱり根本的なところではまだまだ私は『チョコラータ』のままだ。
「それよりまた随分とお洒落してきたもんだな」
「う………」
にやにやとからかう様なハンスの視線が私へと突き刺さった。確かに今回の私の装備は久しぶりにデート――まぁ、確実にコイツはそうは思っていないんだろうけれど――だけあってかなり気合の入っている。服も何時もの鱗のような装飾の入ったアラクネ製の布とは違い、私の上半身をすっぽり覆う純白のセーターだ。その下ではシャツと一緒に普段は着けないブラを装備している。ちょっぴり見栄を張って、パッドを入れてみたそれは普段よりも一回りほど大きく見えて、思わず胸を張りたい気持ちになった。その下には白黒のチェック柄に染まったストールが何時ものように巻かれていて、私のとても大事な部分を隠している。首や二の腕に着けるルーンを刻んだ純金のアクセも新品同然に磨き上げてきたし、腰つきを際出させるストールを結ぶ装飾具もこの前、奮発して買った新品。髪はデートが決まってからカットしてもらって、昨夜も念入りに手入れしておいたから最高のコンディションのはず。
―で、でも、コイツにそれを見抜かれるのは何か…その…ムカつく…!
何も言われないともっと怒るだろう。そんな面倒臭い性格をしているのは自分自身でよく分かっている。けれど、そうは分かっていても、私の感情は止まってはくれない。見抜いてくれた嬉しさと羞恥心により想起された怒りの感情が、顔に血液を集めて、真っ赤に染める。そのまま激情に任せて憎まれ口の一つでも叩こうと口を開いた瞬間、ハンスがさらに言葉を発した。
「似合ってるよ」
「え……?」
「だから、露出度の高い格好も良いけど、そういうのも女の子らしくて似合ってるって言ってんだよ」
「あんまり言わせんなよ、恥ずかしい」と小声で呟きながら、そっと視線を外へと向けた。白亜に染まる野外カフェテラスから人々が歩く道路側へ。赤銅色と白亜の煉瓦を敷き詰められたモダンなその道は昼前の時間とは言え、多くの人が歩いていた。ついこの間、戦局が落ち着いた所為だろうか。そこにはカップルの姿が多く見える。そして…そちらへと顔を向けるハンスの顔が珍しく真っ赤に染まっているようにも。
―…まったく…こう言う所が卑怯なのよ……。
普段は聞いているこっちが恥ずかしくなるくらい白々しい美辞麗句を並べてナンパをしているくせに私相手には少し褒めるだけでも顔を染めて目を逸らす。滅多に見ないその様子に、私の乙女心が勘違いしそうになっても仕方ないだろう。勿論…出会いが最悪だったから、ハンスが私の事を気にしてるなんてことは無いんだろうけれど…それでも他の人には決して見せないその様子に「特別」であれば良いとどうしても期待してしまう。
「あ…アンタも…その…似合ってるわよ」
「…おう。有り難う」
―実際、私の目の前に座る男の格好は似合いすぎるほど似合っていた。
私が身につける装飾具のような染み一つない金色は自然の光の届かない地下でも光り輝いているような気がする。何処か太陽を思い出す暖かなその光は、それだけで見る私の目を惹きつける卑怯な代物だ。どんな手入れの仕方をしているのか枝毛一つ無いその髪は三つ編みにされて背に垂らされている。普通の男には決して似合わない髪型だが、何処か中性的な雰囲気を持つ甘いマスクのこの男にはそれが反則なまでに良く似合う。その甘さを際立たせる青い瞳は、透き通った美しい色だ。色合いとしてはスライムに近いけれど、それよりも光り輝く瞳は宝石にも似て、この男の彫像めいた美しさを強調している。さらに目筋や鼻筋はしっかり通っていて、キリッとした印象が強い。それこそ貴族や王族と言ったような形容詞が良く似合いそうな甘さの中にも気品溢れる顔をしている。
―そして、本人もソレを分かっていて……。
上半身は胸に小さなワンポイントを着けた純白のYシャツで、その上に光沢のある暗い青のジャケットをボタンを開けた状態で羽織っている。下は細身な彼が注文したオーダーメイドのスラックスだ。彼の持つ線の細さを殺さない独特の形も、夜の色をそのまま使ったような奥行きのある黒も、彼に良く似合っている。そして、この色男が足元をお留守にする訳が無く、白染めのカジュアルなスニーカーがハンスの雰囲気をさらに引き立てていた。そのどれもがシンプルながら、かなりの高級品である事が一目で分かる。
―まったく…反則よね……。
自分の魅力を分かっている上に、それを引き出すコーディネートをするのだから堪ったものじゃない。見ている私の胸が強く脈打って苦しいくらいだ。激しい動悸にこれ以上、好きになったら何時か死んでしまうんじゃないかとさえ思う。そんな私に向かって、多少の配慮くらいはしてもらえないものか。
「そ、それより、今日は買い物に付き合えばいいんだよな」
「え、えぇ。そうよ」
―唐突に話を逸らしたのは彼もまた恥ずかしかったのかも知れない。
確かに私達はそんなに色の多い会話をするような仲じゃない。そもそも、関係としてはただの『知り合い』の域を出ていないのだから。私は…出来ればもうちょっと進展したいと考えているけれど、ハンスがそうは思っていないのは何となく分かる。けれど……やっぱり女の子としてはもう少し恋人同士のような甘い雰囲気を味わいたかったのも事実。
―まぁ……コイツに期待するのはそれこそ酷って奴なのかもしれないけどさ…。
今までその甘いマスクでどれだけの女性を食い物にしてきたのか分からないような『女の敵』は、割とこういう甘い雰囲気が苦手だと言う事を最近、知った。時折、こうやって初々しい恋人同士のような雰囲気に堕ちる事があるけれど、すぐにこうやって茶化したり話を逸らそうとするんだから。気恥ずかしさもあるんだろうけれど…多分、その理由は――。
「小物でも見に行くのか?」
「んー…特に決めてないわ。適当にぶらぶらと出歩いて、欲しいものを探すだけだし」
落ち込みそうになった思考を中断しながら、私はそっとカフェオレの中をスプーンでかき混ぜた。冷めた所為で乳白色を表に出したカフェオレをかき混ぜて、浮き出たミルクを落とし込む。それは私自身の暗い思考を、この楽しい時間に混ぜ込む作業にも似ていた。
「それって俺は必要なのかよ」
「欲しい物が増えたら困るでしょ? だから荷物持ちよ、荷物持ち」
―まぁ…実際はそうじゃないんだけど。
折角のデートなのだ。ウィンドゥショッピングでダラダラと時間を過ごすんじゃなくて、もっと色々、イベントを起こしたい。そんな私の脳裏には幾つかのお店がピックアップされていた。無論、ハンスを誘う言い訳でもある『荷物持ち』を忘れては居ない。適度に店を回りながら、目的の店でイベントを起こすつもりだ。
―勿論、ダラダラ時間も決めずにのんびり過ごすのは嫌いじゃないんだけど…ね。
しかし、そんなデートではハンスをこちらへと振り向かせることなんて夢のまた夢である。折角、魔王城の天辺から飛び降りるくらいの勇気を振り絞って、この機会を手に入れたのだ。それを最大限活かしたいと思うのが乙女心と言う奴である。
「荷物持ち…ね。まぁ、良いさ。俺もどうせ暇だったしな」
そんな風に言いながら、大きく伸びをして欠伸をするのは昨日眠れなかったからだろうか。もしかしたら珍しくナンパでも成功していたのかもしれない。元々の顔は良い上に、私限定で口が悪いものの、割りと面倒見も良く、優しいのだ。男に興味のある独り身の魔物娘に話しかけたら、そのままベッドインしていてもおかしくはない。そんな風に思うと若干、心の中が不安になる。
「な、何よ? アンタも今日が楽しみで眠れなかったの?」
そんな風に鎌をかけながら、私は震えそうになる手でそっとティーカップを持ち上げた。待ち時間の間に既に冷めてしまったそれを口に含むと、やはり何処か冷たい。この城の中はそこらじゅうに刻まれたルーンで快適な温度に――それこそ冬に裸になっても問題の無いくらい――保たれているとは言え、飲み物の温度まで保てるような代物ではないのだ。しかし、コーヒーとは違い、冷めてもそこそこ美味しいカフェオレを飲むのはそんなに苦ではなかった。
「そうだって言ったら?」
「っ〜〜〜! ……ちょ…な、何よ……!!」
思わず噴出しそうになるのを堪えながら、口の中のカフェオレを必死に嚥下して私はそう応えた。しかし、そんな私に帰ってくるのは決して艶っぽい表情ではなく、にやにやとからかうような様子だけ。ただの冗談と教えるようなその様子に、私の顔は再び赤く染まった。
「何時かの仕返しだよ」
「何時かって……何かあったっけ…?」
そんな風に言いながら、記憶を探るが、思い出す事が出来ない。それこそ悪態や軽口の応酬なんて私達にとっては何時もの事だからだ。それらは一つ一つが私の大事な思い出ではあるものの、数が多すぎて特定は出来ない。しかし、彼にとってはきっとそうではないのだろう。嬉しそうなその様子は、ようやく出来た『仕返し』に子供のように喜んでいるのが分かった。
「人がコーヒー飲んでるときにツンデレ扱いしてくれただろうが」
「あぁ…あれね…」
言われてすぐ脳裏に浮かぶのは私が『ミルク・ハーグ』と言う店で働き始めた日の事。確かにあの日は逆のパターンで、コーヒーを噴出しそうになってたような気がする。しかし、それはもう二ヶ月近くも前の話だ。そんな昔の事をずっと根に持っているなんて、誰だって分からないだろう。
「根に持ちすぎよアンタ」
「メドゥーサのお前には言われたくねぇよ」
軽く応酬を繰り返しながら、私は再びティーカップの縁へと口を着けた。そのまま一気にカップを傾けて、冷たくも暖かくも無い液体を嚥下する。舌の上に流れ込んでくる液体から独特の甘さを感じる事、数秒。カップの中身は空になり、白亜の底が露出していた。そのカップをティーソーサーの上に戻し、顔をあげるとまた悪戯を思いついた悪ガキのような表情を見せるハンスと目が合った。
「で、ツンデレなチョコラータちゃんはさっき『アンタも』って言った訳だけど、やっぱり楽しみで眠れなかった訳?」
―し、しまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
ついつい言葉の端に浮き出た本心を捉えられ、私の顔に再び熱が灯った。そんな表情をしては、バレバレだと分かってはいつつも、変なところで正直な私の体は止まってはくれない。そして、それを何とか誤魔化そうと、私の口は何時ものように悪態を吐き出そうとしていた。
「は、はん! そんな訳無いでしょう!? 自惚れないでよね! ちょっとコースの再調整に忙しかっただけなんだから!」
「いや、ものすごく楽しみにしてるじゃねぇか」
―あうあうあうあうあうあうあうあう……!!
悪態にもなっていない言葉の隙を突かれて、私の頭は本格的にパニックになってしまった。接客をする中で、考えてから話す癖が少しだけ着いたものの、こうしてパニックになってしまったら、意味は無い。自然、私の口からは強い語気の篭った命令口調のような言葉が飛び出るようになってしまう。
「わ、忘れなさい…!」
「嫌だっての。一生、これでからかってやる」
―その言葉に私の思考は完全に停止した。
目の前でケラケラ笑う男はきっとその言葉の意味を理解していないんだろう。何だかんだで私と同じくらい恥ずかしがり屋なコイツが自分の言った意味をキチンと理解していれば、そんな風に笑っている筈が無い。多分、絶対に言わないだろうし、言ったとしても、少なくとも、顔を赤くして、背けているだろうから。けれど、その意味を理解してしまった私にとって、彼が理解しているかいないかは余り関係が無く……羞恥の色に思考を染めた。
―だって…一生……なんて………。
数瞬ほど固まった思考がようやく動き出し、さっきの言葉を反芻するように私の胸へとストンと落とす。それだけで私の胸は羞恥とは違う感情で熱く、高鳴っていく。本人が意味を理解していない言葉一つでこんなにも変わってしまう自分に、何処か苦笑のような感情を向けながら、私はそれを噛み砕くように胸へと手を当てた。
―ねぇ…気づいてる……?
私達は『友達』じゃない。『恋人』でもない。ただの『知り合い』だ。ちょっと助けを求めて、それに応えてくれただけの関係である。けれど…そんな相手を好きになってしまった私に向かってその『一生』と言う言葉がどれだけ大きなものか…彼にはきっと分からないだろう。だって、一生…ずっと一緒に…こうしてからかいあいながら、過ごしてくれるなんて普通はただの『知り合い』に向けるものではないのだから。
―…期待……しても良いの…?
本人が理解していなくとも無意識に漏れ出たその言葉は、彼の本心なのか…それとも言葉の綾なのか。出来れば前者であって欲しいと…そう思ってしまう。彼もまた…私と同じように…今日のデートに応えてくれたように、なんだかんだで同じ気持ちを持ってくれているんじゃないか、と…そう期待してしまう。
「な、何だよ…急に殊勝になって……」
―やっぱり…気づいてなかった。
私の表情を変わったことを察したのだろう。分からないなりに、何か恥ずかしい事を言ったと今更ながらに気づいた彼は呟くようにそう言った。けれど、それに応えてあげる余裕は私には無く、顔を赤くしたまま目線を逸らして俯き加減になってしまう。それでも時折、チラチラと様子を見るように彼を見てしまうのはきっと私自身の期待の表れなんだろう。
「特に何も…って…あ………」
その私の視線に自分の言った意味を思い出したのかその顔を赤く染めた。ボォッと言う音と共に一気に茹蛸のように赤くなったその顔は何か言いたそうにパクパクと口を開閉している。恐らく何か言おうとしているけれど、上手く身体が動いてはくれないのだろう。私自身、同じ立場に立つことは――まぁ、そんな風に私を追い詰めるのは大抵、この色男なのだけれど――多いので良く分かる。しかし、それに助け舟を出してやる余裕は勿論、私には無く、期待するような視線でチラチラを彼を見るだけだ。
―な、なんか…こそばゆい……。
さっきとはまた違う雰囲気が二人の間に満ちる。お互いに気まずそうにしながらも、顔を赤くして気にし合う仕草はまるで恋人同士のようだ。その証拠に辺りから興味深そうな視線を感じる。野外に突き出たこのカフェテラスは開放感がある反面、外からの視線に晒される事にもなるのだ。今更ながらにそれを意識して、私の顔はさらに一段階、赤くなってしまう。
「じじじじじじ、じゃあ、行きましょうか」
「あ、あぁ、そうだな!!!!」
結局、好奇心に満ちた視線に耐え切ることは出来ず、赤くなりながら切り出した言葉に彼は頷いてくれる。何処かギクシャクとした雰囲気の中で意識しあうのは『知り合い』からの脱却を望む私にとって良い発奮になったが、衆人環視の状態では恥ずかしすぎるのは否めない。今すぐここから逃げ出そうとする気持ちを込めて、私の手はそっと傍らの伝票へと延びた。
「あぁ、ここは俺が払うわ」
その言葉と共にまだ頬を赤く染めるハンスの手がさっと伝票を取り去ってしまった。余りにも早い業に私は反応できないまま、ハンスは席を立って出口へと向かっている。数瞬ほどその背中を見つめた後、冷静になった私は同じように席を立って、彼の後を追った。
「ちょ…! い、良いわよ。それくらい!」
「気にするなって。待たせた侘びだよ」
―…わ、私が勝手に待ってただけなんだから…そんな気にしないでも…!
しかし、そう言う前にハンスは手馴れた様子で会計を済ましていく。慣れた手際はそれだけ多くの相手にこうして奢ってきた証左なのだろう。そう思うと酷く悔しい気がする。しかし、あっという間に会計を済ませてしまった彼に何かを言う事も出来ないまま、ハンスはさっさとカフェテラスから出て行ってしまった。その後を追いかけて身体を進めるが、上手い事、言葉が出てきてはくれない。言うべき事は分かっているのに、どうしても彼相手だと素直になれないのだ。
―あぁぁ…!もう…!どうして私ってこうなんだろ……。
浮かんだ自己嫌悪の感情を頭を振って振り払いつつ、私はそっとハンスの隣に並んだ。丁度、彼の肩が私の目線辺りになる位置関係は、私が小柄で、彼が比較的長身なのが原因であろう。筋肉が着いているとは思えないくらい細身な癖に――とは言っても傭兵をやってるくらいだから鍛えられているのは確かだけど――しっかり身長は『男』をしている彼の隣に並ぶと無性にドキドキしてしまうのだ。
―あぁ…ホント…コイツってば…反則……。
久しぶりのデート――とはいえ、数回は私もデートとは思ってなかったのだけれど――だからだろうか。今日はもう出会った時からドキドキしっぱなしである。今も私の身体がすっぽり包み込まれそうな――無論、下半身は除かないと私の方が遥かに高い訳だけど――身長さに胸が高鳴る上に、微かに着けている爽やかな柑橘系の香水が届くのだ。近づいた時に一瞬だけ香るような絶妙な量は、それだけ接近していると言う事を私の心に教えてくれる。何気ないその香りにもどうしても意識するのを止められなくて、私の顔にまた熱が灯った。
「ん…? どうしたよ?」
そんな私の顔を無遠慮にハンスが覗き込む。首筋にも微量につけているんだろう。それだけで私の鼻にふっと香水の匂いが飛び込んでくる。どうしても意識してしまうその匂いを感じながら、私は小さく頭を振った。
「な、なんでもないわよ…」
「…そうか? まぁ、体調が悪かったら言えよ」
―この鈍感男め……!!
顔色を見ればなんでもないのは分かるだろうに、どうしてそこで引いてしまうのよ!!もう少し突っ込んでくれれば、素直になれたかもしれないのに!と胸中で八つ当たり気味に叫ぶ。けれど、それを表に出すほど子供ではなく――或いはまだそこまで素直になる事が出来ず――私はそっと俯いた。
―恋心以外にはそこそこ敏感なのに…なんで気づいてくれないんだろ…。
悩んでいる時や落ち込んでいる時はアレだけ敏くちゃんとしたアドバイスをくれると言うのに、この色男はどうしても変なところで引いていく。自称恋愛における百戦錬磨の癖に、すぐ真横で相談に乗ってくれただけで好きになっちゃう女の子がいるのに決して気付いてくれないのだ。そんなハンスに向かって悪態めいた気持ちが浮かぶのは仕方ない事だろう。
―だから…これは正当な復讐よ…!そう…!報復しなければ気が済まないわ…!!
そんな風に自分を鼓舞しながら、そっと傍らに立つハンスの顔を見上げる。落ち込んで速度が落ちる私に合わせて、何も言わずそっと歩幅を合わせてくれる程度の優しさと敏さを持っているのに、肝心の部分には鈍感な憎い色男は時折、此方に気遣うような視線を送っていた。普段、私に向ける悪ガキのようなものではない優しい目を真正面から見てしまい、また強く心臓が高鳴るのを感じながら、私はそっと口を開く。
「そ、それより…わざわざ奢ってくれたって言うのは下心アリって事なのかしら?」
「そんな台詞はもうちょっと丸くなってから言えっての」
かつて私が勘違いした言葉を引用に出しながら、彼はそっと笑う。恐らくは私の体調が悪い訳ではないと気付いたのだろう。気遣うような目から何時もの悪ガキの様な目へと代える。普段は中々見れない優しい視線が消えたことに、何処か勿体無い気持ちを感じながら、私は反論しようと口を開いた。
「あ、ちなみに胸の事じゃねぇからな」
「わ、分かってるわよ!!」
―こ、この男はぁぁぁぁ…!!
ここぞとばかりにからかってくるこの男に怒りにも似た感情を浮かべながら、私はきっと相手を睨みつけた。しかし、相手はそれをひょうひょうと受け流して気にも留めていない。そんな様子が悔しくて、私はぎゅっとハンスの腕へとしがみ付いた。
「ちょ…! おい…!」
「ふ…ふっふーん!! ど、どう? 多少は胸も大きくなってるんだからね!」
―それは半分真実であり、半分くらいは嘘だ。
ハンスに出会ってから、その…一人でする事が増えた所為か、私の胸は以前より確かに成長している。けど、それはどれだけ贔屓目に見ても一回り程度だ。当たり前ではあるが、パッドをつけた今の状態には敵わない。しかし、決して嘘を言っている訳ではないと自分を納得させながら、私はそっと彼の腕へと胸を預けた。
―あぁ…ハンスの体温が……!!
珍しくセーターなんて厚着をしている所為だろうか。セーターとシャツとブラとパッド越しに感じる彼の暖かさは何処か鈍い。寧ろ、まるで恋人のような甘え方をしていると言うシチュエーションに熱くなる私の体の方がよっぽど体温が高く感じる。しかし、それが横に立つハンスの体温だと思うだけでどうしてもそれを強く意識してしまうのは当然の事だろう。
―あぁぁ…! こんな事ならもうちょっと薄着をしてくるべきだったわ……!
とは言え、直接感じられない彼の暖かさはどうしても不満を感じてしまう。普段は殆ど下着のような格好だから尚更だ。少しでも意識してもらおうと女の子らしい格好を選んだのが今は愚策に思える。しかし、本当に普段と同じ格好ならきっと抱きつく勇気も無かっただろうと思い直し、私はもう一度、彼を見上げた。
「はっ…! パッドで増量してる癖に偉そうな事、言うなっての」
「なぁぁっ!!」
その顔は私を意識してくれているんだろう。まるで熟れたトマトのように真っ赤に染まっていた。しかし、それでもまだ憎まれ口を叩く余裕くらいはあるようだ。こっちは精一杯の勇気を振り絞って抱きついているというのに、何でも無さそうに振舞おうとする姿がどうにも悔しい。
―と、言うか…なんでパッドって分かるのよ…!?
こう言ったら何だが、この城の技術の粋を集めたパッドは感触は本物と変わりが無い。自分のと比べてみてもそうだし、巨乳のお姉ちゃんと比較しても同じだろう。そんなパッドをブラとシャツとセーター越しに感じ取れるなんて普通じゃ中々、考えられない。ならば…これは鎌かけだと考えるべき!!
「失礼な事、言わないでよ!! これは自前よ! 自前!!」
「普段、下乳晒してる奴がそんな事言っても説得力ねぇよ!! 何時もより二割り増しくらいデカイじゃねぇか!!」
―しまったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
本日、二度目の失態に内心、頭を抱えた。けれど、そこで「御免なさい」と言えるようなら、私はもうとっくに彼に告白出来ている。またも失態を見抜かれてしまった恥ずかしさに私の顔は再び真っ赤に染まり、思考が停止してしまう。
「な、何!? 何時も私の胸をそんなにしっかり見てる訳!? この変態! スケベ! そんなに見たいならはっきり言いなさいよ!!」
「普段、痴女めいた格好してるそっちが悪いんだろうが! つか、そんな事、言えるか!! 社会的に抹殺されるわ!!」
「はん…! 公衆の面前で女を口説く度胸はあっても胸が見たいの一言も言えないのね! そんなんだからアンタのナンパは失敗するのよ!!」
「前後の繋がりがまったくねぇ!! だが、そこまで言うなら幾らでも言ってやるよ!! つーか、それだけ啖呵切ったんだから、当然、言えば見せてくれるんだろうな!」
「甘く見ないでよね!! それくらいやってやるわよ! アンタの前でなら幾らでも脱いでやるわよ!!!」
「おーし!! 言ったな!! てめぇ! 後悔させてやるよ!! 良いか! 俺はお前の胸が――」
―そこでピタリと彼の動きが止まった。
後、たった三文字で脱がなければいけないとパニックになった頭で覚悟を決めていた私は、凍ってしまったように動かない彼を見上げながら、小さく首を傾げる。そのまま数秒ほど思考を固めて、ようやく動き出した思考が、ここが人通りも多い『往来』である事を思い出した。勿論、さっきから大声で痴話喧嘩のようなやり取りを繰り返していた私達に好奇心に満ちた視線が注がれてる。『ニヨニヨ』とそんな擬音が聞こえてきそうな視線に、私の頭は一気に興奮から冷め切り、羞恥で一杯に染めた。
―あわわわわわわわ…わ、私…何てことを……!?
正直、ここまでやるつもりはなかったのだ。ただ、ちょっとハンスをからかってやれれば満足だった筈なのに…それがこの往来で脱ぐ話になっていたのはどう言う訳なのか。ついさっきの出来事なのに、どうしてそうなったのか自分自身でも分からず、そっと顔を項垂れさせた。
そして、そんな私の真正面に立つ彼も同じように顔を赤くしていた。それも当然だろう。往来で脱ぐ寸前だった私と同じく、彼もまたセクハラめいた発言をする寸前だったのだから。それに何処か親近感を抱きながら、私はそっと口を開いた。
「い、いいいいいいいいいいいい加減『冗談』は止めましょう…」
「だ、だな」
『冗談』の部分にアクセントを置いた私の言葉に頷く彼を見ながら私達は再び歩き出した。そんな私達の耳に、「ヒュー♪」と口笛を鳴らす音や「頑張ってー」と煽るような声が聞こえる。その音一つ一つに怒鳴り返したい気持ちになりながら、私達は足早にそこを離れた。流石にそれを追ってくるつもりは無いのか数分もすればそんな音も消えたが…正直、からかわれている間は生きた心地がしなかった。しかし、そこから離れて、冷静になったら、今度はまた色々と自己嫌悪の感情が浮かんでくる。
「うぅ…公衆の面前でパッドだってバラされるなんて……」
「いや、今回のは本当、すまん…」
―そう…自業自得とは言え、私はこれが偽物だと公衆の面前でバラされてしまったのである。
正直、今だってお外を歩きたくは無い。結局、離すタイミングが無く捕まったままの腕が無ければ、今すぐ部屋へと逃げ帰っていた事だろう。時折、こっちへ送られる他の人の視線が、「はっ偽乳女め!」と責めているようにさえ感じるのだから。今の私がどれだけ居心地が悪いかきっと男である彼には分かるまい。
―とは言え、彼に非がある訳じゃないんだよね……。
寧ろどちらかと言えば私の自業自得感が強い。何せキッカケは私の悪ふざけだったのだから。その対価として今も手を振りほどかれる事無く、ずっとくっついていられるからまるっきり後悔だけをしている訳じゃないけれど。それでもやっぱり恥ずかしいのは否めない。
「いいよ。…その、私も調子に乗りすぎたし…こっちこそごめん」
「…すまん」
そんな風に謝りあいながら、私達は歩く。その間に漂うのはお互いに気を使いあうような微妙な雰囲気だ。お互いに普段、黙ろうとしていても口から出てくる憎まれ口は無く、気まずい沈黙と共に歩く。その雰囲気は…やっぱり私達には似合わない。恋人同士の甘い雰囲気は無理でも…こんな風にお互いに遠慮しあうなんてナンセンスにも程があるのだから。
「じゃあ…さ。欲しい物があるんだけど…」
「欲しいもの?」
「ん。それを買ってくれたら許してあげる」
―尊大な口調は意図して繰り出しているものだ。
お互いに遠慮しあう今の雰囲気をぶち壊すには、何時もの二人に戻るのであれば、それくらいが丁度、良い。そう思った私の意図に気付いたのだろう。私の視界の端で小さく彼が微笑むのが見えた。
「仕方ねぇな…安いのにしろよ」
「ヤダ」
「ちょ…そこは多少、遠慮する所だろうがよ!」
「乙女の面子は安くないって事よ。覚悟なさい。その財布を空っぽにしてやるんだから」
―そんな風に何時ものように軽口を叩き合いながら、私は最初の店へと足を進めていくのだった。
「ふぅ……御腹一杯…♪」
「食べすぎだっての。腹壊すぞ」
「別に良いじゃない。あんな大騒ぎの後でお店を幾つか回ったんだから。御腹減って当然よ」
「そりゃまぁ、そうなんだろうが……もうちょっとお前はデリカシーって奴をだな」
「アンタに言われたくない」
そんな会話をする私達はちょっとこじゃれたレストランでランチを取っていた。そこは私が勤めるお店と同じく味のある木造建築の中で、白亜のテーブルクロスが幾つも踊っている。まるで舞踏会の会場のような広く大きい空間は、ここらではそこそこ有名な高級レストランだ。初めてここに来たものの、料理人も食材も一流のものを使っているだけあって、文句のつけようもない。料理もサービスも有名なるだけはあると強く感じる出来栄えだった。
―やっぱり凄いなぁ……。
そんな風に思うのは、キビキビと働くウェイターの事。勿論、そのブランドさえ売りにする事が出来る人気と格式を持つ高級レストランと、こじんまりとしたお店の中で和気藹々とするのが魅力の個人経営店は同じ物指で図る事は出来ない。まったく別のモノをお客様に求められているのだから当然だろう。勿論、そこで働くウェイターに求められて居る事はまったく違うのだ。しかし、それでも背筋をピッと伸ばして、美しく働く彼女達に羨望の念を感じてしまう。
「ふぅ……」
「どうした? やっぱり食べ過ぎたか?」
「アンタは別の意味でもうちょっと空気を読みなさい」
そんな風に言いながらも、私の視線はそっとウェイターの背を追ってしまう。決して遅くない筈なのに、いや、寧ろその動きは早い筈なのに、まるで焦っているように見えない。寧ろ、優雅ささえ感じさせるその動きは文句無しに美しいと言える。そして、接客業に携わって二ヶ月程度の私にとって、それがどれだけ難しいか察する事さえ出来ないのだ。そんな優雅さなんて求められてはいないとは言え、似た業種に勤める私にとってそれは何処か悔しい。
―あんな風に動けたらなぁ………。
ここ二ヶ月の間で必死に着いていこうと努力していたお陰か最近はようやく仕事に慣れる事が出来た。最初の頃は頻発していたミスも殆ど無くなり、常連さんも私との会話を楽しんでくれている……と思う。しかし、だからこそ、出てきた欲が、私にそう思わせていた。
「はぁ……」
「お前、折角の奢りだってのに溜め息吐かれたら流石の俺も泣くぞ」
「あぁ…御免なさい」
目の前で軽口を叩く彼にそう謝りながらも、私の気分は中々、晴れない。今まで食べられれば良いくらいの気持ちだったから、こうした高級レストランに足を向けることは無かったのだけれど、こうして見ると格が違うと感じさせられてしまう。初めての高級レストラン――しかも、彼の奢りと言うオマケ付き――にも関わらず、私の気持ちは上向いてはくれない。
「ったく……何を考えてるのか大体、分かるけどよ」
「な、何よ…」
未だ落ち込む私の顔をじっと見ながら、ハンスは呆れたようにそう言った。この色男が安易に「分かる」なんて言葉を使うなんて思えないから、本当に私の心を見通していたのかもしれない。自称恋愛上級者だけあって、コイツはちょっとした仕草で私の気持ちに気付いてくれる。それが甘えだと分かっていても、私は彼に期待する気持ちを抑えることが出来なかった。
「店員さんが細いのが羨ましいのは分かるけど、ダイエットは程ほどにしとけよ」
「おっけー。石にされてから砕かれるのは何処が良い?私としては頭なんかがオススメだけど」
割と本気でそう言ってやると彼は小さく肩を竦めた。その顔は何時も通り、からかうような色が強い。ちょっと…と言うか、かなり期待したのに、こんなタイミングでもからかう彼に怒りを感じるのは仕方ないだろう。まぁ…本気で怒っているわけではないにせよ、やはり多少、拗ねるの位は許されるはずだ。
「まぁ……アレだよ。変に気張りすぎるな。お前はそのままで十分なんだから」
―まったく…これだからコイツは卑怯なのよ……。
からかいつつも、彼は私の欲しい言葉をくれる。なんだかんだでこの色男は敏い上に優しいのだ。そして、その口から出る優しい言葉は反則な位、胸を暖かくしてくれる。普段は嫌って言う程、私と悪態や軽口の応酬を繰り返す舌は、こういう時だけ気遣うような言葉を躍らせるのだから。それに意識するな、と言う方が無理だろう。
―まぁ…私の一番欲しい言葉は決してくれない訳だけど。
そんな気持ちを込めて、そっと私は彼を見つめた。手に持つコーヒーに舌鼓を打つ彼の姿は一見すると既に私から興味を離しているように見える。しかし、それはただのポーズであり、興味なさそうに振舞っているだけだと知っていた。多分、本人は認めないだろうけれど、この色男は責任感が強く、優しい奴なのだから。
「…ん…有り難う」
「…おう」
自分でも現金だとは思うけれど、彼の優しい言葉一つで私の心は上向いてしまう。良くも悪くも乙女な私の心は単純な構造になっているのだろう。何気ない言葉一つでいくらでも変われてしまう。
―例えば…そう。この男が私に向けた『魔法の言葉』みたいに。
今でこそこうして一緒にデートに出かける程度の関係を築けているけれど、第一印象は最低だった。言動は頭が軽いとしか思えないくらい馬鹿なものだったし、ヘラヘラと表面上は笑っているくせに、その実、決して笑ってない瞳なんかは不信感の源でしか無いだろう。その上、初めて会った時は人妻のお姉ちゃんを口説いている真っ最中だったのだ。顔つきこそ美形と分類されるけれど、その何処か嘘っぽい態度なんかにどうしても信用できない・信頼できないと言う印象が拭えなかったのを覚えている。
―まぁ……それはお姉ちゃんの前だけだったんだけどさ。
私はよっぽどコイツの御眼鏡に適わなかったようで、最初から険悪な言葉の応酬が始まった。…まぁ、それは私自身、大人気なかった事もあるんだろうけれど……それはさておき。今のような軽口のようなものではなく、思いっきり罵倒交じりのそれらはお互いに敵対者に向けるようなものだった。少なくとも…私も彼もその時点では、お互いの事を『嫌な奴』くらいな印象しか抱いていなかったのだろう。けれど…お姉ちゃんに乗せられた私はそんな『嫌な奴』に友達になってくれるんじゃないか、と何処か期待していて……そんな自分がとてもみっともなく感じて、その場から耐え切れなくなって逃げ出した。
―覚えば…アレが良かったのかもしれないけれど。
そんな風に思いっきり幻滅した男と再び出会ったのはそれから数日経ったある日の事。初めて出会った同じ食堂で、いきなり話しかけられた。最初はまた何か嫌味でも言うつもりなのかと敵対心を持って接していた私も、何処か申し訳なさそうな様子に肩透かしを喰らってしまう。そして、何だかんだで彼は私の長年抱き続けたコンプレックスを引き出して、それを『肯定』して、『否定』してくれた。
―まぁ……この色男は覚えてないよね……。
『友達欲しがっても別におかしくないだろう』たったこれだけ。本当に短い…たったニ十文字の言葉。けれど、それは本当は…ずっと友達が欲しくて…一人は嫌で…でも、嫌われるのはもっと怖くて、ずっと求められなかった気持ちを、一言で整理してくれたのだ。それがどれだけ私の中で大きいかは…多分、この色男本人にさえ分かるまい。それこそ魔法のようにすっと私の中で解けたその言葉は、私を少しずつ素直にするキッカケになってくれた。
―それから…この男の紹介で今のお店に勤めることになって……。
最初は不安で仕方なかった接客も多くの人の支えで少しずつこなせるようになってきた。そんな私の様子を見に――これは『ママ』の勘らしいんだけど――彼もまた何度も顔を出してくれる。そんなハンスと軽口や悪態を吐きあっている内に、何だかんだ意識してしまうようになって…最初の悪い印象も殆ど消えて…今ではご覧の有様である。二ヶ月前まではいがみ合ってた相手に、今は熱を上げるとか惚れっぽ過ぎるとは思うものの……何だかんだで頼りになるこの色男が悪いのだ。
「…何だ? 人の顔をじっと見て」
「いや、アンタって優しいねって思って」
「なっ!!! ば、ばっか。違うっての。折角、奢って暗い顔されてたら面倒だってだけだよ」
―ふふ…嘘ばっかり。
本人は否定するけど、コイツはやっぱりツンデレだ。少なくとも赤くなってそう言う姿は、ツンデレにしか見えない。何処か意地を張って、好きな相手にもキツイ言葉を投げかけてしまうその属性は主にメドゥーサやヴァンパイアなんかに向けられる代物だけど、彼も負けてはいないだろう。少なくとも、私の目にはそう見える。
―まぁ…コイツの場合、私が好きって訳じゃないんだろうけど。
彼は自分を良く見せようとする気はあまり無い。無論、こうやってしっかりとコーディネートしてデートに来てくれたり、気付いたら魔物娘をナンパしてたりはする。しかし、その反面、『優しい』なんかの褒め言葉には強く反応するのだ。まるで自分から進んで悪人になろうとしているように、『善人』としての部分を否定しようとしている。
―それは…多分、彼の過去に大きな要因があるのよね……。
普段、一緒に並んでいる時や、軽口を叩き合うときにはあまり気にはならないけれど…彼は時折、とても寂しそうな目をするのだ。ずっと遠くを見ているような、手の届かないものを見ているような、その視線は何かを諦めているようでぎゅっと私の胸を締め付ける。見ているだけの私さえ思わず切なくしてしまうほどのその目は最近、過去を見つめているのだと気付いた。しかし…気付いた所で私は何も出来ない。
―だって…私はただの『知り合い』だ。
今日、こうしてデートに彼を引き出せたのもお姉ちゃんの連絡先を盾に取っての事である。決して彼が自発的に誘ってくれたわけではない。軽口や悪態を叩き合う程度の仲であるとは言え、私達は所詮、その程度なのだから。そんな私が彼の過去に踏み込もうとしてもきっと拒絶されるだけだ。何となく…そんな予感がある。
「それより、次、行くんだろ?」
「えぇ。そうね」
話題を強引に変えるハンスに小さく笑いながら、私はそっと立ち上がった。無論、その手には伝票は無い。既に彼の手によって確保された伝票は、私より先に立った彼によってカウンターへと送られている。物価が外界より安い――と彼は言うが、ずっとこの城の中で暮らしていた私には正直、分からない――この城の中でも高級レストランに分類されるこの店はそう簡単に払える額ではあるまい。しかし、彼はあっさりと『最近、頑張っているご褒美に奢ってやるよ』と言ってくれた。
―私の事なんか…何とも思ってない癖に…。
彼が他の女の子と私とで接する態度はかなり違う。だからこそ…期待したい気持ちは勿論、私にはあるのだ。けれど、多分、彼は私の事なんか何とも思っていない。ただ、何時も通り、女の子とのデートをする癖であっさり『奢る』なんて言葉を口にするだけなんだろう。それは私にだって分かっている。期待しちゃいけないなんて…それくらい分かってるのだ。
―…でも…流石に胸が痛い…。
ズキリと走った胸の痛みは他の女の子への嫉妬なのか、それとも、期待させる彼への怒りなのか。それさえも今の私には分からない。分からない…けれど、それを口に出すのは躊躇われた。それを口に出してしまえば、ずっと溜め込んだ様々な鬱憤を丸ごと吐き出してしまいそうだったから。それで私達の関係が進むのならば良いけれど…多分、彼は逃げ出してしまうだろう。そんな予感が私にはあった。
「うし。会計終了っと。…どうした?」
「…ううん。なんでもない」
暗い予感や胸の痛みを心の底へと押し込んで鍵をかけながら、私は彼へ向かって進みだす。だって、今日は折角の『デート』なのだ。そんな気持ちを表に出して、台無しにはしたくない。勿論…それは所詮、誤魔化しであって、根本的な解決ではじゃないけれど……しかし、そう思うのが女の子ってモノだろう。
「…そっか。そう言えば、次、何を見に行くんだっけ?」
「えっと…」
そんな会話をしながら私は彼の傍らに立ち、店を出た。この高級レストランが面する大通りは昼過ぎだけあって、既に多くのカップルや魔物娘でごった返している。店へと入った時と比べて五割り増しくらいになった人の量に一瞬、気圧されながら、私達はそっとその人ごみの中へと紛れていく。うねる様な人の波に流されながら、私は立てた予定を頭の中に広げた。
「次は水着」
「水着ってお前…」
「な、何よ…! わ、私が水着着ちゃ悪いって言うの!?」
―まぁ…今の状態だとマトモに着れる水着なんて無いのは確かだけど……。
下半身が蛇そのものだけあって、私達ラミア属に合う水着と言うのは無い。いや…もしかしたら変に研究熱心なサバト辺りが開発しているかもしれないけれど、少なくとも私の知る店には影も形も無い代物だ。けれど、魔術にも長ける私達は人間へとその形態を似せる術を持っている。この魔王城に居る限り、殆ど用途がない術式ではあるものの、こうして水着を着るときにも使える筈だ。…まぁ、私も殆ど使ったこと無いから分かんないけれど……。
「そうじゃないけどさ。お前、今、冬だぞ」
「うっ………」
バレンタインにも程よく近い今の季節は雪風が逆巻く冬。そんなものは私にだって分かっている。少なくとも水着を求めるような時期では無いという事も。けれど…その、やっぱり無理矢理にであっても、意識して欲しい。その為の今日のこの衣装であるし、お姉ちゃんが授けてくれた必勝のデートコースであるのだ。強引であっても、今更それを譲るわけにはいかない。
「さ、最近、この辺りに温水プールが新しく出来たのよ! そこに今度行こうかなって……」
「温水プール…あぁ、アソコか」
―そう言って頷く彼の情報は一体何処から来ているのか。
女性関係には目敏いこの色男は、私と同じ雑誌を講読していてもおかしくはない。寧ろ、それが一番、可能性が高いだろう。少なくとも、ナンパが成功して他の魔物娘とそこへデートしにいったって事は無い筈だ。…多分。そのはず……。いや…でも、もしかしたら………。
―うー…こ、この色男め…! こんなに私をやきもきさせて…!!
「しかし、意外だな。お前にも温水プールに行く相手が居たなんて」
「い、いや…その……」
「恋人が出来たなら紹介しろよ。無い事無い事、吹き込んでやるから」
「あ…うぅ……」
―そんなのアナタしかいませんとここで言えたら、どれだけ楽な事か。
しかし、それだけ素直であれば私はこうして悩んでなんか居ないだろう。結局は無いもの強請りなのだ。そんな事は私自身、分かっている。しかし、それでもやっぱり素直になれない自分自身に自己嫌悪が浮かび上がるのは抑えきれない。そして、その自己嫌悪が私の口を閉ざして、否定の言葉さえ言葉を発させなかった。
「……? ……いや、分かってるって。お前に彼氏なんか出来る筈無いから、お姉さん辺りと行くんだろ?」
「う、うん。そうよ! そうなのよね!! お姉ちゃんと行くから水着の一つでも欲しくって!!」
「…?」
ぎゅっと握り拳を作りながら主張する私の方を見て、彼は不思議そうにそっと首を傾げた。疑うような、気遣うような視線が私へと突き刺さる。けれど、それに応える術は私には無く、それから逃げようとしているかのようにそっと首を背けた。
「…お前、やっぱ体調悪いんじゃないか?」
「そ、そんな事無いわよ!」
確かに昨日は徹夜だったけれど、体調は跳ね回っても問題が無いくらい良好だ。眠気もデートの興奮の所為か殆ど無い。寧ろ、ギンギンに冴えきった目は眠ろうとしても中々、難しいだろう。風邪なんかの初期症状もないし、体調的には何の問題は無い。…体調的には。
―…馬鹿。意識してるのを少しくらい気付きなさいよね…。
「そうか? ……いや、問題無いなら良いんだけれどな」
そんな風に気遣うような視線を送りながら、そっと彼は足を進めて行く。それでも時折、此方をチラリと横目で見るのは気遣ってくれている証拠なのだろう。それが何処か嬉しい反面、「一緒に行きましょう」の一言も言えない私に小さく溜め息が漏れた。
―っと、そうやって落ち込んでも居られないんだけどさ。
人ごみの向こうからそっと白亜の看板が見え始める。『良質』な水着を置いていると『月刊・魔界のデートコース 初級編』にて紹介されていたそこは、人ごみの中からも何人か足を向けているのが見えた。やはりこうやって本で宣伝されるという効果は大きいのだろう。正面に回ると大きい店舗の中で、何組ものカップルや魔物娘が水着を物色しているのが見えた。
「「う…うわぁ………」」
―思わず漏れ出た声がハンスと重なったのも無理ないだろう。
冬らしく雪模様で飾られた店内には様々なタイプの水着が所狭しと並んでいる。世界中のどんなタイプでもあるんじゃないかと思うくらいの多さには圧倒されそうになるくらいだ。しかし、その中でも特に目立つのが掌で収まるような布地を紐で結んだような派手なタイプである。少し動けば乳首が見えてしまいそうなそれらは水着と言うよりは、下着によっぽど近いと思う。
―雑誌で『良質』…なんて紹介されてたから、ある程度は覚悟してたけど……。
魔物娘にとっての基準は男の目を引いて誘惑できるかどうかが大きく関わっている。そして、そんな魔物娘向けに『良質』と銘打たれて書かれていたのだから…そりゃあ当然、こんな水着がメインになるだろう。それは何となく分かる。けれど、まさか裸よりも恥ずかしいような水着を堂々と売っているとは思わなかったのだ。
「お、お前…本当にここで水着を買うのか……?」
流石の色男も目の前の光景に圧倒されているんだろう。赤くなった顔を店内から背け、声もまた震えている。私もまた似たような顔をしているんだろう。血液が顔に集まる感覚をはっきり感じるのだから。しかし、ここに来ると言った以上、今更、後に引くわけにはいかず、私は頷きながら口を開いた。
「そ、そうよ。それで…あ、アンタが選んでよね」
「お、俺が!?」
―それもお姉ちゃんの作戦だ。
お姉ちゃん曰く、男は自分の選んだ衣服を着てもらうというのが割りと好きらしい。視覚的に自分の物だと安心できるからだろうか。下着なんかも自分の選んだモノを身に着けてあげると、とても悦んで…いや、喜んでくれるらしい。何処か子供っぽいとも思うその反応を利用すれば、意識させる事も容易いわぁ!と言うのはお姉ちゃんの弁だ。実際、それがどうなのか分からないけれど、珍しく恥ずかしそうにしている彼の様子を見るにそう的外れなものではないらしい。
「そうよ。ど、『どんなの』でも試着してあげるから、アンタの感性で好きなのを選んで」
「と言ってもお前……」
そう言って店内を見渡す彼の視界にはどれも男の目を引き付けるための水着ばかりが映っている筈だ。ギリギリまでローライズされたビキニタイプや超マイクロビキニが殆どなのだから。無論、普通のワンピースタイプのものも存在するが、背中が大きく開いていたり、バックが際どいモノばかりだ。一見、大人しそうなモノも様々な趣向を凝らしているのが一目で分かる。
「ここより別の所で選んだ方が良くないか…? 多分、探せばもっと大人しいデザインを置いてる店も…」
「だ、駄目よ! ここで選ぶって決めたんだから…!!」
彼の言葉に強い口調で返すとハンスは諦めたように肩を落とした。その姿に何処か哀愁が漂っているように思えるのは…きっと私の気のせいではあるまい。お姉ちゃん曰く、「男性は下着売り場は敵地のように感じるのよ〜」らしいので…今の彼もそれに近い感覚を感じているのだろう。周りが女性とカップルばかりで下着よりも際どいデザインが揃うこのお店は正直、私自身、逃げ出してしまいそうなくらいなんだから。今、ここで逃げ出さないのは諦めて私の前を歩いて水着を眺めて行く彼と関係を発展させたいから以外の何者でもない。
「しかし……俺の感性で選べって言ってもなぁ……」
「アンタの感性は結構、信頼してるのよ。感性だけはね」
「はいはい。まぁ…確かにお前に任せるとマイクロヒキニ一直線になりそうだしな」
「べ、別に私は好きで露出度の高い格好をしてるわけじゃ…!!」
確かに今日こそセーターなんて露出面が少ない格好をしているものの、普段はマイクロビキニとそんなに変わらない姿だ。それは正直、自覚している。けれど、私の肌は敏感肌であり、下手な衣服を着てしまうとどうにも痒くなってしまうのだ。自然、変に痒くならないように、と布地の少ない衣服を選んでいった結果がアレと言うだけで…本当は好きで露出狂の様な格好をしているわけじゃない。このセーターのようにアラクネの糸で作られた最高の一品で無いと長時間、着る事が出来ず、仕方なく身に着けているだけなのだから。私だって…こんな体質じゃなければ、もっと色々お洒落したい。けれど、アラクネの糸を使った一品は高価でこのセーターのように広く覆う代物は中々、手が出せないのだ。
「はいはい。んじゃ……この辺りなんかどうだ?」
「ん? どれどれ…?」
ビキニのスペースからそっと取り出したそれは胸元を広く見せる純白の三角ビキニとバックを紐で隠すだけのTバックの水着だ。露出度が高いってレベルじゃないその水着は少し動いてしまえば色々見えてしまいそう。少なくとも背中なんて他人には見せられる気がしない。着る所を想像するだけで顔が真っ赤になってしまいそうなその水着は、下手な下着なんかよりもよっぽどエロチックだ。
「まぁ、お前の胸じゃこれだけ胸元が開いてたら着られないか」
「んなっ!!」
からかうようにそういうと言う事は特に私に着せるつもりは無かったのだろう。確かに正直、恥ずかしくて着ていられない。まだ下着の方が恥ずかしくないというデザインなのだから。けれど、流石に乙女として、胸を馬鹿にされると引き下がってはいられない。寧ろ最近、少しは成長している胸を見せ付けてやろうと、私は戻そうとする彼の手から水着を奪い取った。
「き、着るわよ! 着ればいいんでしょ!!」
「え? あ、いや……えぇ!?」
後ろで困惑する声を上げる彼に背を向けて、私はするすると試着室へと向かう。大きなお店だけあって数多く作られている簡易室は殆どが使用中だった。雑誌にも紹介されたくらいだし、それだけこの店が繁盛していると言う事なのだろう。…まぁ、カーテンで区切られている下から足が四本見えたり、クチュクチュと言う水音や熱の篭った吐息が漏れ出ているのはきっと気のせいだ。うん。そのはず。
―と…それより空いてる試着室は…と。
さっと見渡した中は殆どが使用中であったが、何個か空いているものを見つけた。その中の一つへと進み、そっとカーテンを閉じる。何とか試着室を確保できた事に安堵の溜め息をついて、ゆっくりと衣服を脱いで行く。普段は決して身に着けられない余所行き様のセーターやシャツに万が一でも傷一つ残らないよう細心の注意を払って。無論、高級なストールも皺にならないように綺麗に折りたたみ、ハンガーへと掛けるのを忘れない。
―そして…裸になった姿見に映るのは勿論、私自身の姿だ。
アンデッドに属する子たちほどではないとは言え、血色の良い肌は悪くは無い…と思う。胸は…その決して大きいとは言えないけれど、ウェストラインは細く纏まっている。自画自賛するのは余り好きではないけれど、そう悪くは無い。少なくとも……交わればアイツだって好きにさせるくらいの事は出来る筈だ。
―な、何を考えてるんだろ……。
自分の思考に顔が赤くなるのを見ながら、私はそっと水着のハンガーを手に取った。一目で如何わしいと分かるそのデザインにゴクリと咽喉が鳴るのを聞きながら、私は意を決して魔術を紡いで行く。人間に化ける魔術を使うお姉ちゃんから教わった術式は、今まで一度も使ったことが無かったものの問題なく発動し、私の下半身を蛇から人間の足へと変えた。
―へぇ……これが人間の足なんだ……。
自分本来のモノとはまったく違うすらりとした二本の脚で立つ感覚は何となく慣れない。何時も身体を進ませる感覚とは及びもつかない動きは慣れるまで時間が掛かりそうだ。けれど、今の私はゆっくり慣れてやる時間は無く、その不自由な足でゆっくりと水着に身体を通して行く。途中、鏡に映る自分の姿がやけに卑猥で下腹部がキュンと熱を持ちそうになったのでそっと背を向き、後ろ手に水着の紐を結ぼうとした。しかし、ボトムはまだしもトップは肩の稼動域が足りずにどうしても上手くいかない。数分間、格闘していたものの結局、私は諦めてそっとカーテンの向こうを伺った。
「ね、ねぇ…ハンス…居る?」
「あ、あぁ。どうした?」
「あ、あのさ…。上の紐がね。結べないから…手伝って欲しいんだけど……」
「あ…あぁ…まぁ、そうだよなぁ…。分かった。結んでやるから後ろ向け」
「うん…」
この水着の所為か或いは初めて使う人間の脚で何処か不安定な所為か。自分でも殊勝だと思うような声が漏れ出る。全身から感じる普段とはまったく違う感覚が私を不安にさせているのだろう。何時もの軽口を叩く気にもなれず、私はズリ落ちない様に胸元を押さえ、素直に鏡へと向き合った。
「ど、どうぞ」
「んじゃ…お邪魔しま…」
そんな声と共にカーテンを開けたハンスの動きが固まった。真っ赤になった顔で口をパクパクと開閉するのは、まるで陸に上がった魚のようだ。しかし、彼がそんな風になる理由が私には分からない。今、着ている水着はこの色男が選んだものだし、これくらい予想通りのものだろうに………って…あぁぁ!!
―後ろ…う、後ろ見られてる…ぅ…!!
ひも状のバックで結ばれる後ろは殆ど臀部を隠す場所が無い。それはつまり……私のお尻が全部、彼に見られていると言う事だ。勿論、秘所の方はしっかりと布がカバーしているけれど、そんなのは殆ど気休めに過ぎない。恥ずかしいのはまるで変わらず、私のお尻にキュッと力がはいった。
―ど、どどどどどどどどうしよう…!?
このままお尻を見られるのは恥ずかしい。けれど、前を向くわけにはいかない。そんな八方塞のまま私の頭はパニックに固まった。脳裏から溢れ出るのは無意味な言葉の羅列だけで、一向に前へと進まない。そんな自分を自覚していても、恥ずかしさと自分の体に確かに宿る『熱』に私は動くことが出来なかった。
「は…早くしてよ…馬鹿……」
「わ、悪い」
辛うじてそう言うと、彼もまた動き出してくれる。しかし、予想外のハプニングであったとは言え、高い効果はあったのだろう。その動きはこの色男にしてはぎこちない。まるで強い興奮を覚えているような様子を鏡越しに見て、私の中の自尊心が少しだけ満足し、混乱も収まってくる。
「出来たぞ」
「あ、ありがとう…」
ぎこちない言葉と共に私は胸元から手を外し、そっとハンスへと向き合った。その動きはさっきの彼に勝るとも劣らないくらいぎこちないものであったに違いない。しかし、それでもこの私が転ぶようなドジをするはずもなく、少しだけ胸を張って彼へと言い放つ。
「ふふん…どうかしら?感想を聞いてあげるわ」
「胸が小さい」
「まだ言うか!? まだ言うのか!?」
恥ずかしさを誤魔化すように尊大に言い放った言葉は彼の一言で打ち返されてしまう。けれど…それも事実であるだけに何とも反論しがたい。胸の大きな女性が着るとその谷間を強調し、控えめな女性が着ると可愛らしく見える工夫のされた三角ヒキニは逆に言えば両者に大きな亀裂を走らせていると言う事でもある。誤魔化す術も無く、胸の大きさを曝け出すこの水着の前ではどんな言い訳も無力だ。
「つーか…お前にそういうタイプは似合わねぇよ」
「何…? 胸が小さいからって言うのかしら?」
「いや…そうじゃなくて。そういうお色気むんむんってキャラじゃねぇだろ」
―まぁ…それもそうなんだけどさ。
悔しいかな彼の言葉は正論だ。自分自身、こういったお色気全開のビキニタイプは似合わないのは自覚している。こういったのは私のようなタイプではなく、お姉ちゃんのような大人の色気が溢れるタイプが着るべきだろう。元々、小柄で小顔に見えてしまう私が着ても、正直、『必死に背伸びをする子供』にしか見えない。しかし……それでも…好きな人からそれだけしか感想を貰えないと言うのはやっぱり寂しいものだ。
―もうちょっと…何か無いのかなぁ……。
そりゃ…確かに私はそういうキャラじゃないのだろう。でも…そういう正論だけじゃなくて、もうちょっと彼の感想を聞いてみたい。そう思うのは…多分、私が彼に恋しているからだ。
―何か…何か無いかな…ここで会話を繋げられるような…彼の感想を引き出せるような言葉……。
「ふん。さっきお尻を食い入るように見てた男の台詞とは思えないわね」
「なっ!!!」
―って、そこでこうやって憎まれ口を叩くから駄目なんだってば私ぃぃぃ!!
しかし、一度、出た言葉は飲み込めない。そして、私の性格上、それをリカバリーする方向ではなく、悪化させる方向へと口が動くのだ。それを自覚していても、私の口は止まらない。まるで出会った頃のように彼へ棘のある言葉を向けてしまう。
「あんなにギラギラな目で見られて…何時襲われるかビクビクしてたんだから」
「だ、誰がお前なんか襲うか!! そもそもお前みたいなお子チャマ相手に勃たねぇよ!!」
「あら…? そう言う割りに震える手で水着の紐を結んでいたのは何処の誰かしら?」
「ぐぅ……!!」
流石に図星だったのか彼は悔しそうに歯噛みして何も言わない。そんな彼の姿に私の中のちっぽけな自尊心が満足するけれど、それに比例するようにドンドン状況は悪化している。それを何とかしようとしても私の口はどんどんと深みへと嵌っていくのだ。自分のそんな性格に強い自己嫌悪を抱きながらも、エスカレートしていく私の憎まれ口は止まってはくれない。
「それとも…もしかして…アナタ童貞だったの…? 普段アレだけ大口を叩いている癖に…?」
「そんな訳あるかよ! 経験豊富も豊富だっての!!」
「お子チャマ相手に興奮しちゃってるのに? あ、もしかしてロリコンだったとか…? お子チャマ相手だけ経験豊富なのね。ごめんなさい。言いづらい事を言わせてしまって!!」
「て…てめぇ……!!」
―あ、拙い…これは本気で怒ってる…。
外聞も無く目を見開いた彼の顔には流石に怒りが満ちていた。当然だろう。ここまで言われれば誰だって怒る。普段は適当に軽口に乗ってくれる彼は大人とは言え、何をやっても許してくれるわけではないのだ。大衆の面前でここまで侮辱されれば、男としてのプライドとしても引き下がれないだろう。その程度の事は私にだって理解出来る。出来るのに……私の憎まれ口は止まらない。ついさっきまでは悪くない雰囲気だったのに、どうしてこうなってしまうんだろうと泣き出しそうになりながら、私の口は再び開いていく。
「何? 反論があるなら聞いてあげるわよ。ロリコンさん」
「…………付き合ってらんねぇ」
そう一言だけ残して彼はさっと後ろを向いた。その背にははっきりとした苛立ちが見て取れる。エスカレートしていく私の憎まれ口で何度か喧嘩のような事はしたものの、それらと比べても強い怒りが彼の身体に満ちていた。
―ま、待って……!!
その背に向かって呼びかけようとした私の言葉は形にならない。延ばした手も届かない。何時もの感覚で進めようとした脚も縺れて、私の身体は床へと思いっきりダイブした。
「ふぎゅっっ………!!!」
そんな声と共に私の顔と床が熱烈なキスをする。滅多に無い光景と声に私に向かって視線が集まるのを露出しまくった肌は感じた。あまりの醜態と自分の情けなさ、そして痛みに堰を切ったように涙が溢れ出す。本当に泣きたいのは私じゃなくて、彼の方だと分かっているのに、その涙はどうしても止まってはくれなかった。
「ひっく…ぐす……」
―どうして私はこうなんだろう……。
本当は可愛らしい言葉の掛けてあげたい。エリーのような大人しい子になりたい。ディーナやお姉ちゃんのような大人の女性になりたい。けれど、私はどうしても彼に憎まれ口を叩いてしまう。彼の事が好きなのに、そう認めたはずなのに、寧ろエスカレートするように悪態が飛び出てしまう。そんな自分が嫌で、彼にも手を貸してもらっているはずなのに、その恩返し一つ出来ない自分がどうにも情けなく感じる。
―ごめんね…ハンス……ごめんなさい……。
けれど、その言葉さえ泣き声にかき消されて形にならない。そもそも彼はもうとっくに人ごみに紛れて帰ってしまっているだろう。アレだけ怒らせてしまって、恥までかかせたのだから、彼にとってもここは居辛いに違いない。しかし、私は自分勝手に彼を突き放しておいて、彼が言葉を掛けてくれるんじゃないかと期待していた。そんな事あるはずないのに、私が期待できる身分なんかじゃないのに、私の心はまだ彼に甘えようとしている。
「あぁ…もう…。ホント、面倒臭いなぁ…お前は……」
―ふぇ……?
「ほら……ハンカチ。涙拭けっての。お前が泣いてると俺が泣かしたみたいで視線が痛いんだよマジで」
そんなぶっきらぼうな言葉と共に座り込んだハンスは突っ伏した私に向かってハンカチを差し出してくれる。その顔にはさっきまでの怒りは浮かんではいない。呆れたような、諦めたような、そして何処か優しい表情だけだ。怒らずに私のところに戻ってきてくれただけでなく、ハンカチまで差し出してくれる彼に私はまた涙を溢れさせながら、彼の身体へと抱きつく。
「うぉ…!!」
「ハンスぅハンスハンスハンスハンスハンスぅぅ…!」
制御出来ない衝動のまま抱きついた私を彼の身体は受け止めて、支えてくれる。身勝手に突き放そうとした私を拒まず受け入れてくれる。それだけで私の胸は色んな物で一杯になってしまった。自分でも分からない感情の波はさっきの憎まれ口以上に制御できず、涙と言う形となって流れて行く。
「あぁ…もう。涙で服が汚れるだろうが。後でクリーニング代出せよ」
そんな風に言いながら彼は私を引き離そうとはしない。寧ろ泣き止まそうとするように私の背中を抱きとめ、そっと撫でてくれる。暖かくて大きな掌がそっと触れるたびに、ぴりぴりとした感覚が全身に走り、胸からは暖かいものが溢れ続けた。まだ名前の無いそれらに身を委ねながら、私は必死に彼の名前を呼び続ける。
「ハンスぅ…!!」
「はいはい。ここにいますよ。…ったく、何処の子供なんだか」
口調は困っているようでも、その態度は私を拒んではいない。勿論、彼の胸に顔を埋める私には彼の様子は分からないけれど、それでも怒っていないのは何となく分かる。どうして私を怒りを治めてくれたのは私には分からないけれど、しかし、私の言いたい言葉は今ならばするすると飛び出てきた。
「ごめんね…ごめんねごめんねぇ…!」
「はいはい。分かってるから。俺も何時もの事だってのに過剰に反応しすぎた。悪い」
さっきまでは決して言えなかった謝罪の言葉をさらりと受け止めながら、何度も何度も彼は私の背中を撫でてくれる。その暖かさと優しさを身体中で感じながら、私は泣き止むまでずっとずっと彼の胸に顔を埋め続けたのだった。
「…ごめんなさい」
「いや、良いっての」
本日、何十度目かになるやり取りを繰り返しながら、私達は地上部分にある公園のベンチの上に座っていた。公衆の面前でずっと泣き続けていた私が泣き止んだ瞬間、様子を伺っていた店員さんに追い出されてしまったのである。空気を読んで横槍を入れなかった店の人々に感謝の気持ちを抱きながらも、あまりの醜態を晒してしまったあの店は当分利用出来ない。
「それより…どうする? 動けそうなら近くにもう一個水着売ってる所があるが……」
「ん…もうちょっとこのままで居たいかも……」
ベンチに並んで、肩を寄せ合うシチュエーションは正直、抗いがたい魅力を持っていた。勿論、昨晩、お姉ちゃんと一緒に考え込んだデートコースは大事だけれど、此処まで来ると、もはやそれを律儀に守る方が齟齬が出てしまう。元々、水着を買うのは私の横の色男を意識させる為だし、水着そのものが欲しかったわけではない。そう考えれば、下手に次の店へ行くよりもこうしてのんびりとした時間を過ごしている方が良い様な気がする。
「あぁ…まぁ…俺もさっきのはちょっと疲れたしな」
「わ、悪かったって言ってるじゃないの…」
「冗談だよ。つか、これくらい許せ」
「まぁ……これくらいなら許すべきなんだろうけど…」
結局、店から追い出されても、ハンスは一度も私に怒ることは無かった。アレだけ酷い事を言ったのにも関わらず、変わらす私に優しくしてくれる。こうやってからかうように私に言うのもその一環だろう。この色男は、こうしてさっきの話を笑い話に変えて、チャラにしようとしてくれている。私には決して出来ないこういった心遣いがコイツの数多い魅力の一つなんだろう。少なくともそれを間近で感じる私は強くそう思う。
―でも…思いっきり泣き顔を見られたのよね……。
自業自得だったとは言え、あれは流石に恥ずかしい。余りにも恥ずかしすぎて穴を掘って埋まりたいレベルだ。別に面子なんて今更、それほど気にしているわけじゃないけれど…自爆して泣いている姿とか黒歴史にも程がある。正直、今すぐ忘れたいし抹消したい。けれど、横に彼が居る状態ではどうしてもさっきの事を意識してしまって、忘れることが出来ない。
―き、嫌われては居ない…よね…?
呆れられたような顔はされたものの、嫌われたわけではない…と思う。思いたい。いや…もしかしたらちょっとあるかもしれない。それを知りたくて口を開こうとしても、その話題に触れる事は中々、出来なかった。勿論、さっきの事を掘り返したくはない気持ちも強いが何より大きいのは、臆病な私の心である。
―もし…嫌いって言われたらどうしよう…。
何度も何度も憎まれ口を叩いてそれを彼に許してもらってきたものの、今回ばかりは流石に度を越えすぎていた。正直、戻ってきてくれただけでも奇跡のようなレベルなのだから、嫌われてもおかしくは無いだろう。寧ろ、そっちの方が可能性は高い様な気もする。嫌いと言われたくないけれど、気になって…でも、嫌いと言われる可能性が高くて……そんな風に私の心は雁字搦めの様になってしまっていた。
―はぁ……ホント…ハンスの言う通り私って面倒な女……。
そんな風に浮かび上がる自嘲を胸に私は小さく溜め息をついた。自分に向けた溜め息は思っていたよりも重く、深い。思わず気分も落ち込んでいきそうなほどだ。
「ん……? どうした? さっきの事でも思い出しているのか?」
「…まぁ…そんなところかな…?」
「気にするなって。俺ももう気にしないし」
そう軽く言いながら、わしわしと彼の手が私の髪を撫でる。乱暴なその撫で方は私の髪型を乱した。それに文句を言おうにも何処か優しい手に言葉を飲み込んでしまう。けれど、その優しさは、まるで父や兄が我が子や妹に向けるようなものだ。それは…一人の人間として嬉しいと思う反面、一人の女としてどうしても胸を痛めてしまう。
―コイツにとって私ってなんなんだろう……。
『恋人』では無い。『友達』では無い。そんな彼を私は『知り合い』とカテゴライズした。勿論、それはもっと親密になりたい相手と言う注意書き込みのものであるけれど、私は今の関係をそう解釈している。けれど、それは私の場合だ。彼は…私をどう思ってくれているのだろうか…?それは私にはどうにも透けて見えてこない。
―こうして…なんだかんだで付き合ってくれているから嫌われてはいないんだろうけれどさ。
さっきの一件で嫌われた可能性は高いにせよ、こうして一緒に買い物に出かけてくれる程度の親密さは持ってくれていると思う。けれど、それを『友人』としてなのか、或いは『相談相手』としてなのかは私には分からない。普段、軽口を叩き合う仲は『友人』のようであるし、働く私を見るのは『相談相手』のようだ。そのどちらも彼の優しさの上に胡坐を掻いている状態なだけに、彼の本心へと近寄ることが中々、出来ない。
―やれやれ…優しすぎるって言うのも考え物よね。
それが彼の魅力であり、その優しさのお陰で私達の縁が今も繋がっていると知ってはいても、八つ当たり気味にそう思ってしまう。これが好きな相手にしか優しくしないような奴であれば、分かりやすいのだ。こっちとしても思いっきりアピール出来る。しかし、誰にでもそこそこ優しいコイツを前にして優しさは何の判断基準にもならない。
―この…鈍感野郎。
「なんだよ?」
「なんでもなーい」
「お、おい」
そんな気持ちを込めた視線に首を傾げる彼の方へと私はそっと首を預けた。既に人化の術を解いた身体は何時もの物でバランスを崩したなんて良い訳は出来ない。けれど、私はもう遠慮するつもりは無かった。何となくこのくらいは許してくれるような気がしたし、何より人をこれだけやきもきさせる色男に少しくらいは復讐しなければ気がすまないのだから。
「あー…コレ良いわ」
「まぁ…そこそこ身長差があるからな」
―…アンタだから良いって言ってるのよ、この鈍感。
そう内心で声を上げるけれど、それを表に出す勇気は私にはまだ無かった。本当はお姉ちゃんとの予定では思い切って今日、告白するつもりだったけれど、既に予定からは大幅に外れている。それよりもまた次の機会を待ったほうが良い、と自分に言い訳をしながら、私は触れた部分から伝わる優しい熱にそっと目を閉じた。
「暖かい…ね」
「…まぁ、な」
触れ合ったから伝わる熱は、私にとって余り馴染みの無いものだ。その性格から友達の一人も作ることが出来なかった私にとって、こういった触れ合いは殆ど経験が無い。お姉ちゃんとはそこそこ仲が良かったと思うけれど、べたべたされるのが苦手だった私の意を汲んで余り抱きしめられたりは無かった。けれど、昔とは違い、今は他人の体温が、いや、彼の体温がとても心地良い。まるで今日一日で疲れた私の身体を解き解すようにじんわりと優しく広がっていく。
―あ…やばい…これ……。
まるでお風呂に浸かったときの様な独特の安心感と共に私の意識がゆっくりと落ちていこうとしていた。昨日から徹夜でさっきは大泣きしていたので、自覚は無くとも身体は疲れていたのだろう。指先も独特の気だるさに包まれて動くのが億劫になってくる。急速に眠りへと引きずり込まれていく私の意識は最後の力を振り絞って小さく口を動かした。
「ごめ…ん。少し、寝る……」
「…おう」
小さく応える彼の言葉に強い安心感を感じながら私は抗えない眠気に敗北し、その意識を閉ざしたのだった。
・
・
・
・
「ん……あれ…?」
「あ、ようやく起きたか」
―次に私が目を覚ました時、世界は一変していた。
とは言っても、別にスパイク着けた肩アーマーのモヒカン男が荒野を闊歩している訳ではなく、完全に日が落ちてネオンの光が辺りを照らしているだけだ。また頭をハンスの方へと預けるだけであった姿勢は何時の間にか彼の膝に頭を預けるようになっている。一言で言えば膝枕状態の私は彼の上着をタオルケットのように被せられていた。勿論、視線を水平へと戻すと私の顔を心配そうに見下ろす彼の顔が目に入る。
「ごめ…私……!」
「良いから。もう少し横になっとけ。疲れてるんだろ?」
起き上がろうとした私の身体をハンスの手がそっと制した。それを否定しようと口を開いたが、否定できる要素なんて何一つとしてない。今の時間こそ分からないが、昼過ぎくらいから日が落ちるまで完全に爆睡していたのだから。どんな言葉も言い訳にしかならないだろう。
「でも……」
「今更、一時間も三十分も変わらねぇよ。落ち着くまでゆっくりしてろ」
―そう言ってハンスは私の額にそっと触れた。
これまでも何度か触れてくれていたのだろう。じんわりと広がる暖かい熱はやけに私の身体に馴染んで行く。それを感じながら私は言われたように再び目を閉じた。流石にかなりの時間を寝ていた所為か眠る事はないものの、彼の体温はやけに落ち着く。
―出来れば…ずっとこのまま撫でていて欲しいな……。
思わずそんな事を考えてしまうくらいだ。とは言え、それを口に出すほど私という生き物は素直ではなく、無言のまま彼に身を任せる。遠くに喧騒が聞こえる公園の中では、時折、さわさわと吹く風が木の葉を刷り合わせていた。何処か心が落ち着く優しいその音色はまるで子守唄のようにも聞こえる。
―こう言うのって何か…良いなぁ……。
二人の間に流れる穏やかな空気に何となくそう思う。恋人でもなく、友人でもなく、強いて言うならば、家族のような感覚は私達の間ではそう味わえるものではない。普段は私か彼がすぐに軽口を叩いてしまうからだ。しかし、お互いにさっきの件で色々と弱っていたのか、或いは私が寝起きの所為か、今はとても穏やかな時間である。少し我慢すればこんな雰囲気も味わえるのだと思って、私の心は少し浮かれた。
「ねぇ…」
「ん…?」
「足…辛くない…?」
「痺れて感覚が無い」
「…ごめん」
「嘘だって。気にするなよ」
―…それこそ嘘じゃないの。
正確な時間こそ分からないが、数時間ほど膝枕し続けて足が痺れない訳が無い。今も少し動けば痺れるような感覚が襲っているはずだ。しかし、彼はソレを億尾にも出さない。何時ものような冗談として誤魔化しながら、私をそっと撫でてくれる。本当は辛いだろうにやせ我慢する姿が何処か微笑ましく…そして、それが私のためだと思うととても嬉しい。
「重い…?」
「重い」
「……そこは嘘でも重くないって言う所じゃないかしら?」
「俺、実はバフォメットの魔法にかかって嘘が吐けないようになってしまったんだよ」
「なによそれ」
クスリと笑いながら、私はそっと目を開けた。自然、こちらを見下ろす彼と目線が交わる。穏やかなその視線は今であれば真正面から受け止められる気がする。特に視線を逸らさず、受け止めることが出来るような、そんな気がした。
「ねぇ…」
「んー……」
「こういうのって…良いわよね」
「あー……まぁ、そうだな」
「…何か言いたそうじゃない」
「いや、珍しく素直で驚いただけ」
悪戯っぽそうな言葉と共に向けられた優しい表情に胸中に暖かいものが宿る。ぎゅっと胸に手を当てて、確認するとそれはトクントクンと強く脈打っていた。何のことは無い本当に短い言葉と優しい表情だけで、私の心は歓喜に震えている。今すぐにでも舞い踊りたくなる感覚はそれだけ私がコイツにベタ惚れしている証なんだろう。しかし、ソレが今は余り悔しくなかった。寧ろ…何時もは言えないような一言が言える様な気さえする。
「ごめんね…その…何時も素直じゃなくて」
「ん……? どうしたよ、いきなり。前も言ったけど…そんなの今更だろ?」
「でも…今日だって私……」
―脳裏に思い浮かぶのは私にとってはつい先ほどの出来事の事。
私だけじゃなく、彼まで巻き込んだ失態は出会ってから最大の物であっただろう。しかも、それが私にとって大儀があるものじゃなく、ただ拗ねてだけだからと理由で。今、思い返しても自己嫌悪が止まらなくなってしまいそうだ。けれど、彼はそれを押しとめるようにそっと私の額を撫でてくれる。
「俺も大人気なかったって言ってるだろ。それに…まぁ、図星だったし」
「図星……? まさか、ロリコンの事…?」
「違ぇよ。そっちじゃなくて……お前の水着姿に興奮したのは事実だって言ってるんだよ」
―う……こ、ここでそれを言うの……!?
そうは思っても予想外の告白に嬉しくなる気持ちを抑えられない。本当はあの店の中で欲しかった感想を、彼が今くれているのだから当然だろう。しかも、それが好きな相手からの好意的な反応だったなら尚更である。恥ずかしくて顔にぼっと熱が灯ったのを感じた瞬間、私の心も熱くなっていった。そして、珍しく素直に本心を言える私の心はさらに彼から感想を引き出そうと棘の無い言葉を紡いで行く。
「魅力的だった…?」
「あぁ」
「勃っちゃった…?」
「…ちょっとだけな」
「襲いたくなった…?」
「お前、俺をなんだと思ってるんだよ…」
流石にそこまで踏み込ませるつもりは無いのか、私を撫でるのとは別の手で彼はそっと自分の目蓋を覆った。呆れられたようなその仕草の下からは赤く染まった頬が見え隠れする。明らかに照れている様子はそれが彼の本心である事を私に教えてくれた。それがまた嬉しくて、私の胸はトクンと脈打つ。そして、その優しくも強い脈動が私をさらに素直な女にしてくれた。
「色男だと思ってるわよ…?」
「おま…っ!」
驚いたように自身の目蓋から手を取り払って、私を見下ろした。その頬はやっぱり羞恥の色に染まっていて、可愛らしい。そこには普段、私と軽口や悪態の応酬をしている色男の姿は無く、私よりも年下の男性の姿があった。
「…何か調子狂うな……」
「ん…やっぱり意地っ張りの方が良かった…?」
「いえいえ、今のチョコラータさんも魅力的ですよ」
冗談っぽく言いながらもそっと目を逸らした動作は、それほど本心とは外れていない証なんだろう。初対面の女の子でも臆する事無く口説こうとするのに、変なところで照れ屋な彼は自分の本心を晒すときには特に顔を赤くする。それこそ普段の私なんかとは比べ物にならないくらい、真っ赤に染まったその顔はさっきの言葉に幾許かの本心が混ざっている事を教えてくれた。
「ふふ……素直じゃないの」
「お前にだけは言われたくない」
何時ものような言葉を返しながらも、彼の手は相変わらず私を撫でてくれている。一回一回、じんわりと熱を塗りこむようなゆっくりとした動作はとても心地良い。起きたばかりの頃は眠気は余り無かったけれど、優しい手と熱に私の中でじわりじわりと鎌首を擡げ始めているのを感じた。
―でも…ここで寝るのは…何か勿体無い気がして…。
普段は恥ずかしくて言えないような言葉も今ならばすらすら出てくる。穏やかな雰囲気と寝起きと言う状況に力を借りた状態だけれど、それでも私は今、本心そのものを口に出す事が出来るのだ。それが私にとってどれだけ貴重かは、同じような体質を持つ人にしか分からないだろう。それに既に何時間も彼の膝を借りているのだ。これ以上の延長は流石に可哀想にも程がある。
―何より…今なら…『好き』も言えそうな気がする…。
本心をそのまま口に出す事が出来る今であれば、告白する事も可能だろう。けれど…それはとてもリスクの高い賭けであった。そもそもお姉ちゃんと作り上げたデートコースを完走して尚、成功する確率は五分五分程度なのだから。普段の私達の様子を考えれば、それでも高く見積もった方だろう。しかし、今の私はそのデートコースから完全にリタイアしている。勿論、そのアクシデントのお陰でこうして穏やかな時間を過ごしているわけだけれど、告白を受け入れてもらえる可能性はかなり低いはずだ。
―どうしよう……。
ここで焦っても自爆する気しかしないものの、ここを逃せば次のチャンスはもう来ない様な気もする。もう来ないかもしれないチャンスを待つか、勢いに任せて言ってしまうか…その二択を胸中で吟味し、私は結局、後者を取った。
「あのね…ハンス」
「ん…?」
「私…さ。本当はアナタの事………本当は…「あぁぁんっ♪」」
―え……?な、何よ今のは……!?
いざ告白と言う時に聞こえてきた嬌声に私の身体はぺトラアイズでも受けたように硬くなってしまった。そんな私の代わりに彼が左右を見渡してくれるが、人影は見当たらないのだろう。焦ったような表情を貼り付けながら辺りを思いっきり警戒している。
「や…ちょ…っ! 今、良い所なんだから邪魔してあげちゃ…♪ ふぁぁ…っ! も、もう…っ♪ そんな…エッチなオイタばっかりしてぇ……っ♪」
「……」
「……」
再び聞こえてきた嬌声は私達の右斜め後ろくらいから聞こえてきた。思わず膝枕の状態からそちらに顔を傾けると、茂みから顔を出した見知らぬサキュバスと目が合った。後ろの方で『悪戯』されているのだろう彼女の顔は既に欲情に蕩け始めている。その顔に一瞬、気まずそうな色が走ったものの、強い欲情に飲み込まれたのが見て取れた。
「ふゅんっ♪ …あ、わ、私たちの事は気にしないでね…! た、ただの通りすがりだか…やんっ♪ そ、そこ弱いのぉ…♪」
―いや…気にするなって言われても……。
嬌声をバックミュージックに告白する度胸がある奴なんて何処にいるんだろうか。…いや、魔物娘ならそんな猛者くらい居そうだけれど、私にそんな趣味は無い。人並みに――お姉ちゃんからは人並み以上だって指摘されるけど――色恋に憧れを持つ私にとって、告白のシチュエーションと言う奴は大事なのだ。二人きりで静かな公園のベンチならまだしも、…なんていうか…一言で言えば青姦するカップルの目の前で、なんて罰ゲームとしか思えない。
―でも…良いなぁ……。
私は出来れば二人きりの部屋の中で誰にも邪魔されず、誰にも見せず、愛しい人との交歓を楽しむのに強い憧れを持っているので、青姦なんて趣味じゃない。けれど、外で…その…えっちな事をするのも辞さない二人の関係には強い信頼関係が見て取れた。そんな二人に邪魔をされたとは言え、強い憧れのような感情を抱くのは否定出来ない。
「……移動しようか」
「…うん」
穏やかな雰囲気がピンク色な嬌声に上書きされ、何処か気まずい雰囲気へと変わってしまう。結局、不発に終わってしまった告白に小さく溜め息をつきながら、私はそっと彼の膝から頭を上げた。首の後ろにずっと感じていた硬い感覚が消え、何処か物足りない。しかし、嬌声の聞こえる中で再び膝枕をしてもらう気にはなれず、私はその感覚を振り切って立ち上がった。
「ん〜〜〜っ!!」
大きく伸びをすると身体中から眠気が抜け出ていくようだ。毎朝、感じる何処か名残惜しい感覚を胸に私はそっと彼の方へと振り返る。しかし、そこには私が予想したような立ち上がった姿は無く、同じ姿勢でベンチへと座り込んだままの彼の姿があった。
―いや…それも当然だよね……。
「……やっぱり…痺れてた?」
「…すまん」
長時間、眠りこける私の膝枕になっていて痺れない訳が無い。その予想はやっぱり外れては居なかったのだろう。両手を前へと出して必死に立ち上がろうとはしているものの、肝心の足が動く気配は無い。完全に感覚が途切れてしまっているのだろう。彼の足は本当に微動だにしない。
―本当はここで待ってあげるのが良いんだろうけれど……。
無理矢理、動かすと過敏になった神経が悲鳴を上げる。それは死ぬようなものではないにせよ、かなり辛いのは確かだ。しかし、後ろで聞こえる嬌声はさらに大きく、そしてどんどんと音を重ね始めている。恐らくえっちな目的でこの公園に居たのはさっきの一組だけではないのだろう。少なくとも五組…下手をすれば十組はいるかもしれない。そんな彼らにずっと見守られていたと思うと恥ずかしい反面、空気を読んで『始めなかった』事に感謝の気持ちさえ沸いた。
―けれど……もう始めちゃっているしね……。
元々、発情して公園にやって来ているのだ。一組でも『始めて』しまえば後は終わりだろう。気付かれた時点で我慢する意味は殆ど無いと言って良いくらいなのだから。後は連鎖的にどんどんと嬌声の重奏が始まるだけだ。そんな中で彼の足が回復するまで待っていると…その、私までおかしな気分になりかねない。
―だ、だから…こ、これは仕方のない事なのよ……!!
「あ、あの…さ。これは仕方の無いからするんであって…勘違いしないでよね…」
「な、何を……? って、ちょ…!!」
何時ものように意地を張った言葉を漏らしつつ、私は上着を押し付けながら彼の身体へと『絡みついた』。下半身が蛇であり、人と比べて長い体を持つラミア属だからこそ出来る芸当である。元々、人一人くらい軽く抱えられる私の蛇身はがっちりと彼へと巻きついて、それを固定した。自然、さっきの膝枕などとは比べ物にならないくらい密着するようになり、彼の体温を全身で感じる。
―あ…これ、かなり素敵かも……。
緊急避難の手段であったとは言え、身体中で彼を感じるような感覚はうっとりするほど心地良い。もっと強く彼を感じたくて、ぎゅうっと抱きしめて頬ずりしたくなるほどだ。けれど、今はそれをやっている暇は無い。それよりも私が変な気分にならないうちに、ここから逃げ出そうと私は彼を抱きしめたまま公園の出口へと向かっていく。
「ちょ…は、恥ずかしいんだけど……!!」
「我慢なさい。わ、私だって恥ずかしいのよ…!」
―その様はまるで恋人同士の物だ。
そもそもこうして愛しい男性を逃がさないように抱きしめるのはラミア属独特の愛情表現だ。親姉妹親友でさえ決してしないその仕草は常に自分の最愛の男性にのみ贈られる。外から見れば今にも蛇に絞め殺されそうな姿ではあろうが、私達の本能にはキツ過ぎず、緩すぎずといった絶妙な加減が刻まれているのだ。今の私もその例外ではなく、しっかりと彼をきっちりと固定する感覚を捉え始めている。その本能に感謝する傍ら、辺りから注がれる好奇の視線がとてつもなく恥ずかしい。
―あぁ…もう…! 恥ずかしいったら……!!
ラミア属のこうした愛情表現は割りと魔物娘の中では有名なものだ。今回は緊急避難であり、ただの誤解であるとは言え、それは見る人には分かるまい。公園から出て未だ人通りの少なくない道へと出た私達に向かって、羨ましそうな視線を送るカップルが居たり、触発されて旦那を抱きしめる魔物娘なんかがいた。それら一つ一つの誤解を解いて回る暇は無く、私は逃げ出すようにその場を立ち去っていく。
―そうして気付いた時には私のまったく知らない場所だった。
人目を避けて人気の無い場所へ場所へと進んでいった私達の周りには何時の間にか人っ子一人いなかった。よっぽど辺鄙な場所なんだろう。辺りには開いている店一つ無く明かりも殆ど無い。本来、夜空を照らしている紅い月が雲に遮られ何時もより弱く、それを受ける空気中の魔力も殆ど光ってはいない。その代わり、空を照らす魔力の光が雲に反射しているので、完全に闇に染まっているわけではないが、どうにも視界が悪いのだ。視界一杯に薄い赤を広げるような暗がりは私の恐怖心を煽るのには十分すぎる代物である。
―な、何よ…こんなの…まるでホラー小説にでも出てきそうな場面じゃない……。
明かりがまるで無い閑散とした通りはまるで人が去ってしまったゴーストタウンか何かのように見える。周りに見える店舗も全てシャッターが下りていて、長い期間、営業しているようには感じられない。しかし、そんな人から忘れられた通りは、ごみ一つ見当たらないくらい綺麗なのだ。人が立ち寄るような場所にも見えないのにゴミ一つ見えないそこは、まるで別次元にさえ感じられた。
―うぅ…なんでこんなところに来ちゃったんだろう……。
魔物娘なんてやってはいるけれど、私はホラー系に耐性がまったく無いのだ。確かにゴーストやゾンビなどアンデッド系の子も闊歩する城の中で生活しているものの、どうしても恐怖感が拭えない。勿論、それらアンデッド系の魔物娘相手に差別するつもりは更々無いけれど、小説の中に出てくるような『ゴースト』や『ゾンビ』と言う奴にどうしても恐怖を感じてしまう。
―は、早く帰ろう……!!
こんな所に長居したくは無い。そんな気持ちを込めて、私はぎゅっと彼の身体を抱き締めた。肌や鱗越しに伝わる感覚が、じんわりと伝わり、こんなホラーな光景の中でも安心させてくれる。
「も、もう良いから! 歩けるって……!」
しかし、ハンスにとってはそうではなかったらしい。ぎゅっと抱き締めた私を引き剥がそうとはしていないが、とても恥ずかしそうにしている。今も軍に所属しているので、幽霊なんか怖くないのだろう。その顔には私とは違い、恐怖の感情がまるで見えない。しかし、そんな彼とは対照的に私はこのゴーストタウンのような光景に身体が竦んでしまいそうなくらい怖いのだ。今でこそ普通にしていられるけれど、それは彼を抱きしめているからで一人にされてしまったら途端に泣き出してしまうかもしれない。
「え…で、でも…い、いきなり歩き出したら身体に悪いわよ?」
「何処の要介護老人だよ俺は。それに…む、胸が当たってるんだよ…!」
彼の言う通り後ろから抱きしめる形になっている私の胸は彼の背中に押し当てられてその形を変えている。お世辞にも大きいとは言えないが、無い訳ではない私の胸はむにゅりと潰れていた。今の彼は上着を羽織ってもいないので殆ど直に感じるのだろう。珍しく狼狽する姿が、それが彼にどれだけ大きな影響を与えているかを教えてくれる。多少なりとも意識してくれている事が嬉しくて、けれど、それをストレートに現せるほど素直ではなくなってしまった私は彼へ向かって口を開いた。
「あ、当ててんのよ!」
「知るか! つーか、もうホント…何の羞恥プレイだよこれ……」
―まぁ…確かに男にとってはプライドの傷つくことなのかも……。
私はする事ばかり意識していたので、今の今までまったく考えなかったが、抱きしめられて移動させられるのはプライドが傷つくことなのかもしれない。ラミア属にとっては愛情表現ではあるにせよ、それを彼が知っているとは限らないのだから。ただ、荷物のように扱われていると思っても仕方が無いのかもしれない。
―って…それってつまり私だけが意識してたって事よね……。
勇気を振り絞って絡みついたのに、まるで意識してもらっていないという事実に私の心は深く落ち込んだ。そりゃ…まぁ、確かに緊急避難だった訳だけれど、正直、告白するのと同じくらいの勇気が必要だったのに……。まったく意識してもらっていない事実はショック以外の何者でもない。何だか気疲れした気持ちを吐き出そうと、私は小さく溜め息を吐いた。
「あのー…チョコラータさん…?」
「知らない。もうちょっとこのまま抱きしめられていなさい」
―まぁ、このくらいは許してもらえるべきよね。
彼の協力によりここで怒ったりするほど子供ではなくなったけれど、それでも悔しい気持ちは否定出来ない。それを発散しようと私は少しだけ強く彼を締め付ける。「ぐぇ」と小さく呻く彼の声を聞きながら、私は元来た道を戻ろうと後ろを向いた。それだけで夜を焼く魔力の光が目に入り、私の心は小さく安堵する。しかし、そこへと戻ろうとしてした瞬間、私は自分の来た道を思い出せない事に気付いた。
―あ…あれ……?
勿論、今、私の前に伸びて行く道が正しいという確信はある。あるが…そこからどう行けば元の場所へ戻れるのかまるで見当もつかない。人の視線から逃げるのに必死だった所為だろうか。普段は決して通らないような道ばかりを通っていたような記憶しかない。目印も何も見当もつかず、私は呆然とその場に立ち尽くした。
「…どうした?」
そんな私の胸元から心配そうな声が掛かる。後ろを向きながらいきなり動かなくなったのだから当然だろう。ぬいぐるみのように抱きしめられる状態であり、自分では歩くことも出来ないのだから尚更、気になるに違いない。しかし、そうは思っても意地っ張りな私の心は中々、彼へ自分の失態を晒す気持ちにはならなかった。
「あ、いや、その…なんでもないんだけど……」
「……??」
不思議そうに首を傾げる彼の顔を見ながら、私の身体はするすると動き出す。完全に人気の無いホラーのような通りを抜けて、魔力の光が照らす通りへ。時間的には夜も更けてきたのだろうか。人通りは余り無く、近くの酒場からはにぎやかそうな話し声が聞こえる。ブティックや小物を売るお店も幾つか店じまいの準備を始めていて、店員同士の会話が耳に届いた。
―って…それはともかく……ここって右から来たっけ…?それとも…左から来たっけ……?
T字路の形で交わる通りの左右を見渡すが、どちらもまったく見覚えが無かった。悲しいかなどっちへ行けばいいのかさえ分からない。どう贔屓目に見ても迷子としか表現しようが無い今の状況に私は内心、頭を抱えた。
「なぁ……お前…もしかして……」
固まった私の様子に大体の様子を察したのだろう。恐る恐ると言った感じで胸の中の彼が口を開いた。怖くてその顔を見る事は出来ないけれど…恐らくはバレてしまっている。ここまで来れば、もう誤魔化しは効かないと観念し、私は素直にそれを口にした。
「…ごめん。迷った」
「…だよなぁ…」
謝罪と共に口に出した言葉は溜め息と共に受け入れられた。私の答えは予想と完全に合致していたのだろう。顔こそ見えないものの、彼の様子には驚いたような色が見えない。それどころか、ある種の達観さえ見て取れた。今日だけで何度か私の自爆に彼を巻き込んでしまっているから…呆れさせているのかもしれない。そう思うと自業自得とは言え、胸の奥がズキリ、と痛んだ。
「アンタは…ここからの道、分かる?」
「俺もさっぱりだわ。この辺りはまるで来た事が無い。記憶の方も…抱き締められてて、それどころじゃなかったしな」
「…ごめん」
「いや、俺も道を覚えてないのが悪い。だから、気にするな」
そうやって軽く言いながら蛇身の間から延ばした手で私の頭をそっと撫でてくれる。優しいその仕草は、彼が怒っていない証なんだろう。しかし、今日だけで何回もそうやって彼に「気にするな」と言わせているのだ。その言葉に甘える気持ちにはあまりなれなかった。
「それより一回、離してくれるか? もう怖いのは大丈夫だろ?」
「き、気付いてたの……?」
「あんな所で縋るようにぎゅっと抱き締められたら誰にだって分かるっての」
「うぅぅぅ……」
悪戯っぽく言う彼の言葉に反論することも出来ないまま、私はそっと身体を解いていく。ずっと身体中で感じていた彼の体温が離れていく事は正直、寂しいという言葉では言い表せないくらいだ。しかし、これ以上、彼に迷惑を掛ける事は出来ず、もっと抱きついていたいという感情を捻じ伏せて解放する。しかし、そんな殊勝な気持ちも彼の次の言葉で吹き込んでしまった。
「ふぅ…さって…それじゃあナンパと行きますか」
「ちょ…! こ、この期に及んでそれな訳!?」
自分の足で立った瞬間、ナンパなんて言葉を口にする彼に向かって思わずそう言ってしまう。だって、そうだろう。今は私との『デート』のはずだ。確かにそう確認したことは一度も無いけれど、彼にはそんなつもりは決して無いんだろうけれど、そのはずである。それなのに、もう私には用済みとばかりに他の女の子へと声を掛けようとする姿には正直、デリカシーの欠片も感じられない。例え恋人同士でなくとも、女の子と二人でいる時に他の子に声を掛けるなんて、信じられない行為だ。
「冗談だっての。ただ、道を聞くだけだよ」
「むぅぅぅぅ……!!」
軽く言う彼の様子から察するに恐らく本当なのだろう。流石にこの軟派な男とは言え、そこまでの頭が軽いとは私も思ってはいない。本当の所は元気の無い私をからかって元に戻すのが目的だったのだろう。しかし、そうと分かっていても、あまりにデリカシーの無さ過ぎる発言に拗ねるのは抑えられない。まぁ…そもそもこんな状況になった私自身が原因なのだが…恋する乙女は時に理不尽なのである。
―コイツに浮気されないようにするには…四六時中、一緒にいるしかないのかしらね…。
それこそさっきまでのように彼の自由を殆ど奪って、移動から何から殆ど私と一緒に過ごすくらいでないとこの軟派な性格は治らないんじゃないだろうか。まだ恋人なんて甘い関係ではないにせよ、そんな事を思わず考えてしまう。
「ん…? どうした…?」
「何でも無い!」
思わず強くそう言って、ついっと目を背けてしまう。余りにも可愛げの無い自分の様子に自己嫌悪が湧き出てくるが、拗ねる気持ちはそう簡単にはなくなってはくれない。多少は成長した今ならば、自己嫌悪を攻撃性へと結びつけて、悪態に変える様な事はないものの、まだまだ拗ねない位、大人ではないのだ。
―しかし、そんな私の手を何か暖かいものが掴んだ。
「ほら、早く行くぞ」
「え…ちょ…!」
私の手をそっと掴んで、ぐいぐいと彼は引っ張って行ってくれる。何時もとはまるで違う強引な姿に、私の胸がトクンと強く打った。何処か暖かい鼓動は一瞬で私の体を駆け巡り、自己嫌悪や嫉妬の気持ちなんかを溶かしてくれる。まるで特効薬でも打たれたみたいに、一瞬で浮かれた私を引っ張る彼もまたその頬を赤く染めていた。やっぱり無意識からの行動ではなく、意識して強引に引っ張ってくれているのだろう。
―ホント…なんでこれだけ私の事を分かっちゃうのかしら……。
落ち込んだと思ったらからかって、拗ねた所を見せたら強引に引っ張ってくれる。そのどれもが私の胸を優しく打つ。ただでさえ、好きなのに、まるで私の心を見透かしているような行動一つ一つがその『好き』をさらに大きなものへと変えていくのだ。それなのに…肝心な私の恋心には決して気付いてくれない。まるでわざとスルーしているようにさえ感じられるくらい、鈍感だ。そんな愛しくも憎い彼の手を私もそっと握り返した。
「えっと…まだやっている店は…っと」
「あるのかしら…?」
時刻はまだ分からないけれど、これだけ人通りが少なくなっているのだからかなり遅い時間にはなっているだろう。見知らぬ飲食店の中には片付けの準備に入っている所も多く見受けられる。やっているのは殆ど酒場くらいで、そこからも出て行く人の数が増えているように感じる。まだ騒ぎ声が聞こえているので閉店する訳ではないのだろうが、多くの魔物娘やその夫は殆ど帰路に着いているのが分かった。
「夜行性の魔物娘向けに出してる店があってもおかしくはないだろ。それに最悪、酒場だってあるしな」
「最悪…? 酒場じゃ駄目なの…?」
「道を聞いて、『はいさようなら』なんて出来ないだろ。幾つか注文するのが普通だけど…空きっ腹に酒は辛い」
「なるほど……」
私にとっては昼食後のアクシデントからすぐの話ではあるものの、彼にとってはそうではない。座っていただけとは言え、長時間、起きていたのだから。そりゃ御腹だって減るだろう。
「それなら酒場で何か御飯でも頼めば良いじゃないの」
「酒飲む所で飯食うのは好きじゃないんだよ。それに…お前はあんまり腹へって無いだろ?」
「まぁ…そりゃそうだけど……」
『デート』にあるまじき事に私はついさっきまでぐーすかと寝こけていたのだ。昼食は高級レストランでのコースで張りきってしまった為、御腹一杯になっている。それから多少、動いたり、泣いたりして消化されているとは言え、殆ど動いていない私にとってはまだまだ美味しく御飯を頂ける様な調子ではない。少しくらいなら食べられるだろうけれど…それも結構、無理しての事だ。
「俺としても二人で居るのに一人だけ飯を食うってのは寂しい。……だから最悪って事だ」
引っ張るのを止めて横に立つ彼の瞳に少しだけ悲しい色が映るのが分かった。何を思い出しているのか、その瞳は凄く遠くの物を映している様な気がする。きっと、それは私の知らないような過去の出来事なのだろう。そうと分かっていても…私はやっぱりまだ踏み込む勇気を持てない。踏み込むのを拒絶するような彼の様子に言葉すら発することが出来ない。ただ、過去を見るような彼の手をぎゅっと握り締め、現在へと引き戻そうとするのが精一杯だった。
―はぁ……ホント……臆病なんだから。
そんな自虐を振り払おうと頭を振るついでに、私はそっと辺りを見渡した。アレから少し歩いてきたものの、やはり景色に見覚えは無い。もしかしたらこっちは来たのとは逆の方向だったのかもしれないと思った瞬間、私の目にまだ店を開ける小物屋が飛び込んできた。
「あ、あそこにまだ開いてるお店があるわよ」
「あ…そうか。良かった。まだ何とかなったか」
さっきのお返しに腕をぐいぐい引っ張ってやると、流石の色男も現実へと戻ってくる。過去の女でも思い出したのだろうか。その瞳にはまだ無理をしているような色が残っているものの、戻ってきてくれた事実に内心、安堵の溜め息を漏らした。しかし、私達が迷子であるという状況は変わっていないことを思い出し、気を引き締める。
「すみませーん。まだ大丈夫ですかー?」
「あ、はぁい。大丈夫よー」
そんなやり取りをしながら、彼はそっと店へと入っていく。店員であるサキュバスの声に迎え入れられるように私もまた看板を潜った。そうして入った店内はファンシーなグッズが山ほど置いてある。恐らくは店主の趣味なのだろう。小物全般を置いているものの、殆ど可愛い系で統一されている。アロマキャンドル一つとっても――魔界製の物だから、媚薬入りのものが殆どだろうけど――デフォルメされた動物の形ばかりが並んでいた。
―…あ、あのぬいぐるみ欲しいな……。
視界の端に入ったライオンのぬいぐるみは私が抱くのに丁度、良いサイズだった。抱き心地は確かめてみないと分からないものの見るからにふわふわとした材質はきっと抱き心地も良いに違いない。思わずそっちに身体を進めたくなるが、ぎゅっと私の手を繋いだ彼の力強さに目的を思い出す。
「ん…? アレが欲しいのか?」
しかし、ふらふらと誘われるように進もうとした仕草から分かってしまったのだろう。彼の指がそっと私の視線の先を指した。まるで全てお見通しにされているような感覚に私の頬はまた血液を集め、真っ赤に染まっていくのが分かる。しかし、子供趣味とは思われたくない私の意地がそれとはまったく違う言葉を紡ぎだした。
「べ、別に…子供じゃないんだからぬいぐるみなんて趣味じゃないわよ!」
「そうかー……お前はあのライオンのぬいぐるみが欲しかったのか」
―ハッ!し…しまった……!?
恐らく当たりはつけていても、何を欲しがっているまでは正確に分からなかったのだろう。いかに人の心の機微に敏いこの色男とは言え、そこまで神がかった敏感さは持ってはいないのだから。しかし、私の今の発言で確信を得られてしまった。そう言えば、視線の先を示していただけでさっきの指先はぬいぐるみとは少しズレていたような気もする。今更ながら、嵌められてしまった事に気付いた私は胸の痛みを誤魔化そうとさらに言葉を吐き出した。
「ち、違うわよ! わ、私はね! あ、あのネックレスの方を見ていたのよ!!」
指差したのはぬいぐるみが置いてある棚から少し外れた区画だ。女性用の装飾具を申し訳程度においているそこは可愛い系で埋まる店の中である意味異質な場所である。店内の雰囲気とはそぐわない装飾具はどれも一目で分かるほどに高級品で、子供ではなく大人の女性が喜びそうなものだ。利益を出すために店をやるのではなく、趣味の一環として店を開く魔物娘の多いこの魔王城の構造から察するに、恐らく、それも店主の趣味なのだろう。
―でも……中々、センスが良いのが揃ってるじゃないの。
明らかに場違いなイメージを拭えないとは言え、そこに並ぶ商品たちは一目で良い代物であることが分かる。磨き上げられた金もそこに嵌る宝石も、間違いなく本物だ。そろそろ新しい装飾具をつけようと思っていた私にとって、棚に並ぶ品々が気になるのは本当の事である。
「へぇ……んじゃ、ちょっと見に行ってみるか」
「あ…ち、ちょっと…!?」
私の抗議の声も気にせず、彼は歩みを進める。しかし、それはさっきまでのように強引なものではなかった。そもそも、さっきまでと違って、解こうと思えばすぐに解けるのだから。けれど、私の身体はついつい彼の後を追ってしまい、離れ離れにならないように彼の手をぎゅっと握り締めてしまう。
「なるほど。確かに良いのが揃ってるじゃないか」
「で、でしょ? 私の目に狂いは無いのよ!」
光がより映えるように黒字の布の上に並ぶ品々は近づいて見ても、やっぱり本物である。独特の光沢を放つ品々を見間違える筈もない。着いている値札も見てみたが、これも安い。殆どの原価と変わらないんじゃないかと思うくらいだ。良心的を通り越して利益が出るのか不安になるくらいだが、ここの店主も利益なんて無視して店を開いているタイプなのだろう。この魔王城にはそう言ったお店が数多く存在する。
「へぇ……確かにこれは凄いわ」
羽を広げる大鷲をモチーフにした純金の台に『幸運・幸福』を意味する濃緑色のエメラルドが大小三つ並んでいる。その本体に垂れ下がるようにして、金色の小さな棒が三つ着いていた。チェーンも勿論、純金で出来ていて見るからに高級感が溢れている。普段から派手な装飾具を身に着ける――これも露出度の高い格好を少しでも誤魔化す為に仕方なくやっているのだけれど――私から見ても、派手なそれは普通ならば庶民である私達には手が出ないような値段だろう。
「しかも…滅茶苦茶、安いんだが」
人間が売っていれば数年は遊んで暮らせそうな程、高価なそれはこの魔王城における私の一ヶ月の食費とほぼ同額だった。勿論、魔王城の中は物価が安く、私が賄い付きの店で働いて居る事を加味しての値段である。何度見ても本物そのものにしか見えないし、何か曰くでもあるのかと思ってしまうくらいだ。
「あぁ、それはね。失敗作なのよ」
「失敗作?」
カウンターの中でごそごそと仕事するサキュバスが、こちらに向けてそう言った。この店も恐らく閉店間際だったのだろう。私にとっても馴染みのある締め作業を始める姿に、何処か申し訳なく感じてしまう。しかし、それでもこの店員は私達を追い出す気配はなく、にこりと私達に向かって微笑んだ。
「それね。家のオーナーの作品なんだけど…ちょこっとだけ右の羽の部分欠けてるでしょ?」
「あ、ホントだ……」
良く見れば確かに大鷲の羽の部分が少しだけ欠けていて、左右非対称となっている。しかし、それは言われて見なければ分からないような小さな傷だ。少なくとも、こうしてかなり接近しても、分からないくらいなのだから。大鷲の部分だけ見ても、見事な彫金の技術なだけにまったく違和感を感じさせなかった。
「それがオーナーには許せないみたいでねー…かと言ってもっかい打ち直す気も無いらしくて。だから、それだけのサービス価格になってるって訳」
小さくウィンクしながら、言った一言に何となく納得できてしまう。魔物娘の中にはサイクロプスやドワーフなんかを始めとする手先の器用な種族と言うのは沢山、存在するのだ。それらは大抵、自分の技術に誇りを持っており、職人気質の性格が多いと聞く。そんな魔物娘にとって、失敗した作品を予定の値段で売るというのは我慢がならないのだろう。それが言われなければ気付かないような傷であっても、彼女たちにとってはプライドの傷つくモノに違いない。
「本当は売り物にする予定も無かったんだけど、こんな小さな傷で廃棄するって勿体無いじゃない? だから、私が無理言って売り場に置いてるのよ。出来れば買ってくれると嬉しいわ」
そんな風に言葉を区切って、サキュバスはまた作業へと戻っていった。そして、後に残された私達はお互いに顔を見合わせてアイコンタクトを送り合う。しかし、私たちは視線でお互いの気持ちを完全に察知するような域には達しておらず、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「どうするよ?」
「どうするって…そりゃあ……」
―勿論、あの話を聞いても欲しいのは変わらない。
確かに傷が付いてはいるものの、その程度でこの作品の価値が下がるとは私には到底、思えないのだ。それは店員の彼女も同じなのだろう。彫金の技術だけ見ても中々、手が出ないような素晴らしい作品だけに、ここで埋もれるには勿体無さ過ぎる。となれば……これを買うしかないだろう。
「私は欲しい…かな。このくらいの傷は目立たないと思うし…」
「そうだな。俺もこれを傷で敬遠するのは勿体無いくらいだと思うわ」
そして、それは彼も同じだったらしい。小さく頷きながら、チェーンを幾つか手の中へと握り締め、私の首に件の首飾りを当てた。いきなり敏感な首筋に彼の手が触れたことにゾクゾクした感覚が身体中に走り、変な声を上げたくなってしまう。しかし、それを何とか堪えながら、直立で立ってされるがままの状態で固まった。勿論、突然過ぎて動けなかったというのもあるが、未だ握られたままの私の手が逃げることさえ許さない。かと言って、真剣な目で私を見る彼の目に抵抗することも出来ず、私はマネキンのように突っ立つしかなかった。
「うん。長さも丁度、良い感じだな。これなら調整して貰わないでも良いだろ」
「そ、そうね…!」
彼の言葉に大きく頷きながら、私はそっと視線を逸らした。勿論、気恥ずかしかったのもその原因だが、離れていく彼の手にもっと触れて欲しいと強く感じてしまったのが主因だ。そりゃ…私だって女の子であり、魔物娘である。好きな相手にはずっと触れて欲しいと思うし、あの……他の子が持つような『そう言う欲求』だって正直無い訳ではない。『そう言う事』は恋人同士になってから…と強く思っているので何とか我慢できているものの、胸にじんわりと宿った感情は気を抜けば彼を今すぐ押し倒してしまいそうになりそうだ。
―お、落ち着きなさい…KOOLになるのよ私……!!
二度三度と自分に言い聞かせながら、私は大きく深呼吸を繰り返した。胸の中一杯へと入り込む新鮮な空気が私の頭を少しだけクリアにしてくれる。胸に宿る熱はそれでも消えてはいないけれど、少なくとも今すぐ燃え上がるようなものじゃない。とりあえず今すぐ押し倒しかねないような状況から脱し、私は安堵した。
「んじゃ、これは俺が払うよ」
「え…い、良いってば!!」
またも人に奢ろうとする彼を言葉で止めようとはするものの、手を放したくない私の心はついつい彼の後に着いていってしまう。何時もは私自身にも制御できないくらい意地っ張りなのに、肝心な時に素直になる自分の身体を忌まわしく感じながも、その進みは決して止まらなかった。
「朝の侘びだよ。確か、まだだっただろ?」
「そ、そりゃ…そうだけれど……」
―脳裏に思い浮かぶのは、朝の言い争いの事。
今から思えば何と下らないことで意地を張り合っていたものだと思うものの、当時は大恥を掻いたものだ。その時、お詫びに欲しいものを奢ってくれるといってくれたが、それはもう昼食でチャラも同然だろう。彼は『頑張っているご褒美』なんて言ってくれていたが、実際は朝の侘びであることくらい私にだって分かっている。他に欲しい物があったら買うつもりであんな言い方をしただけなのだろう。コイツは自称百戦錬磨だけあって、変な所で女の子の扱い方を分かっているのだから。
「良いから。プレゼントされとけ。俺の為にな」
「うぅ〜……」
―だけど、一方的にされるがままなのは私の性に合わない。
元々、今日だって私が沢山、彼に迷惑をかけているのだ。どちらかと言えば私が彼に何かを送らないといけないだろう。当初の予定では、それは夕飯の予定だったものの、脆くも崩れ去った。しかし、下手に何かを贈ろうとしても、コイツは恐らく受け取らないだろう。何だかんだ言って、彼もまた私に巻けず劣らずの意地っ張りなのだから。
―ど、どうしよう……何か…何か無いかな……?
そう思って店内を見渡してみても、目に入るのは男性向けではなく、女性向けの小物ばかりだ。当然だろう。そもそもこういった小物を買い集めるのは殆どが女の子だし、店の中もファンシーな雰囲気で統一されている。どっちにあってもおかしくないような小物を売る店もあるが、この雰囲気ではそれを探すのも無理そうだ。勿論、この後にでも返す余裕があれば良いのだけれど、時間も時間だし、彼はここで道を聞いた後はそのまま直接、帰るつもりだろう。そうなったら有耶無耶のままで終わってしまう。
―な、何か…逆転の一手は……!?
そう思いながら店内を見渡した私の目にさっき見ていたライオンのぬいぐるみが目に入った。つぶらな瞳でじっとこちらを見ているような布地の生き物は、まるで私に向かってアピールしているように感じる。その意図が読めず、数秒ほど睨みあった後、私は彼の言っている事にようやく気付いた。
「あ、あの…さ。じゃあ…私からもプレゼントしたいんだけど……」
「ん……?って言っても、これは詫びの品であって……」
「そ、それは分かってるんだけど…だけど…あの……ぬ、ぬいぐるみをね…その……」
「…あぁ、なるほど」
そこで私の意図に気付いた彼はそっと微笑を浮かべた。まるで微笑ましいものを見るようなその顔は、私の『表側』の意図に気付いたが故のものだろう。その『裏側』までは気付かれていないのはその表情を見れば分かる。敏い彼に真意を隠せた事に内心、安堵の溜め息を吐いた。そんな私に背を向けて引き返した後、彼の手はそっと横のライオンのぬいぐるみに伸びる。
「んじゃ、これにするかな」
「そ、そう?べ、別に良いんじゃないかしら?」
未だ本当に気付かれてないのかビクビクする私の目の前で、彼はそっと微笑んだ。その優しそうな笑顔に悪気は無いとは言え騙す形になっている事を強く意識させられてしまう。意地を張って思っている事とは別の事を言ってしまうのには慣れている筈なのに、意識的に嘘を吐いたのは初めてで良心がじくじくと痛んだ。しかし、今更、ここでネタ晴らしを出来る筈も無く、私は手渡されたぬいぐるみに痛みを押し付けるようにぎゅっと抱き締める。そして、お互いの『プレゼント』を持つ私達はカウンターへとたどり着き、そっと手を解いた。
「それじゃあ、これをお願いします」
「はいはい。少し待ってね」
そう言って彼が出したのは先ほどの首飾りだ。見事な意匠が施された一品を、淀み無く店員は包んでいく。文字通りあっという間に包まれた首飾りを受け取り、ハンスもまた対価を払った。そして、私もまた彼と同じように抱いていたぬいぐるみを手渡す。ソレが首飾りと同じように凄い勢いで包装されるのを見ながら、私も対価を支払った。
「はい。確かに」
「それで…ついでと言ってはなんですが、道を聞きたいんです」
そう言って彼が告げるのは私達が休んでいた公園だ。確かにこの辺りからなら、そこが一番の目印になるだろうし、帰るのも簡単である。そして、閉店間際に駆け込んできた二人組に道を聞かれているにも拘らず、店員は快く応えてくれた。どうやら走り回っている間はパニックになりすぎて右往左往していたらしい。目印になる公園はここからそれほど離れては無かった。
「ありがとうございます」
「いえいえ、気にしないで。このお城、広すぎるもの。迷う気持ちは良く分かるわ。それよりまた迷ったときでも良いから来て頂戴ね」
「はい。では、また」
そんな風に言葉を交わしながら、私たちは今度こそ店を出た。お互いに渡すプレゼントを持っているので手を繋ぐ事は出来ないが、手を繋いでいるときに負けないくらい暖かい。きっと……今から初めてプレゼント交換なんてするからだろう。友達のいない私にとって、初体験であるそれは胸を無性に高鳴らせる。自分の心音が五月蝿くて他の音が聞こえないくらいだ。
―ぷ、プレゼント交換って、どどどどどうすればいいのかしら……!?
恐らくそれほど緊張する必要なんて無いのだろう。それくらいは私にだって分かる。しかし、『初めて』かつ相手は『好きな男性』であるのだ。そりゃ…どうしても緊張するのは止まらない。頭の中には何処でプレゼントを渡した方がいいのか、やっぱりムードのある場所がいいのか、受け取ったときの言葉はどうすれば、そして贈る時の言葉はどうすればいいのか、そんな言葉ばかりが流れて止まらない。
「で…はいよ。折角の首飾りなんだから、大事に使ってくれよ」
「う、うん…あ、ありがとうね……で…これが、私のプレゼント……」
「ん。ありがとうな」
―しかし、そんな緊張も虚しく初めての『プレゼント交換』はあっさりと終わった。
考えても見ればお互いに中身も知っているわけだから、特に何か言う台詞は無い。渡せばそれで終わりである。お互いに渡しあってありがとうの一言で済むのだから。しかし、そう言った出来事に慣れていない私にとって、あっさり終わってしまったプレゼント交換は正直、拍子抜けだった。もう少し言い雰囲気になれると思っていただけに…何となく悲しい。しかし、元々の狙いはこれが本命で無いだけに、落ち込んでなどいられないのだ。
「でも、俺はぬいぐるみってキャラじゃねぇから、やっぱり返すわ」
―来た…!!
これが目的なんだろう?と言わんばかりの目で私の方をそっと見る彼は、やっぱり私の目的には気付いていない。確かにそれも目的の一部ではある。自分でぬいぐるみを買うのが恥ずかしい私が『プレゼント交換』を隠れ蓑に使おうとしたのは事実だ。しかし、それは一部分であって、全てではない。寧ろ今回に限ってはその後ろに並ぶ真意の方が重要であった。
「し、仕方が無いから受け取ってあげるわよ。…で、でも…大変。これじゃあ私がプレゼント二つになっちゃったわ」
「ん…?いや、別に気にしなくても良いんじゃないか」
首飾りを持つ私に遠慮しているのだろう。ぬいぐるみを脇に抱えながら横を歩く彼がそう言った。その声は本当に気にしているようには見えない。部屋まで上がり込んだことは無いので分からないが、ファンシーな趣味を持っているとは思えない彼にとってぬいぐるみを押し付けられる方が気にすることなのだろう。それくらいは分かっている。しかし、本人が気にしていなくともここで引き下がるわけにもいかず、私は口を開いた。
「気にしないわけにはいかないわよ。だって、こんなのフェアじゃないもの。だ、だだから…つ、『次』はアンタのプレゼントを買いに行きましょう」
「しかし、次って言っても、もう時間が無ぇぞ」
「だから、『次』よ『次』! こ、今度の休みにもう一回、何処か行きましょうって言ってるの!!」
―若干、噛みながら言えた一言に私は内心、拍手を送った。
正直、言えるかどうかは五分五分だった。また変に意地を張る可能性があったし、途中で恥ずかしすぎて言葉を出せなくなる可能性もあったのだから。しかし、それでも私ははっきりと『次』の約束を提案できた。それは自分自身で言うのもなんだけれど…かなりの進歩だと思う。恐らく…今日出会ったばかりの頃であれば決して言えていなかっただろう。しかし、今日一日でかなりのアクシデントやトラブルを経て、私だって多少は成長しているのだ。それが今、成果として出ている事に喜びを感じても仕方ないだろう。
「…お前、それが狙いだったのか」
「な、何のことかしら…?」
「アレだけ棒読みしといて分からないとでも思ってるのか」
「うぅぅ……」
―しかし、私の回りくどい作戦も彼にはお見通しだったらしい。
呆れたような視線を私に送るの表情に私は作戦失敗を悟った。結局、私が彼を上回るなんて無理だったのだ、とそんな自虐を胸に、肩を落とす。流石に真意を見透かされた今、『デートのお誘い』に頷いてくれる訳は無い。そもそも、今回だってお姉ちゃんの連絡先を盾にもぎ取った一回だったのだから。それすら無しに次の『デート』を受けてくれる自信なんて私にあるはずも無かった。
「良いぜ」
「……え?」
―しかし、そんな私の予想を裏切る言葉が私の耳に届く。
「だから、良いって言ってるんだよ。そろそろまた召集掛けられるから何時になるか分かんないけれど、付き合ってやるよ」
照れくさそうに顔を背ける顔から漏れ出るような言葉は何度、聞いても肯定の意だった。しかし、それが私には信じられない。だって、私たちはただの『知り合い』の筈だ。私が一方的に思っているだけで『友達』ですらない。そもそも普段から軽口や悪態、果ては憎まれ口を叩くような関係なのだ。今日だって何度も迷惑をかけてしまっている。それなのに…それなのに、彼が頷いてくれるとは私には思わず…その感情はそのまま言葉になった。
「嘘…」
「嘘じゃねぇって。つか、お前、俺をなんだと思ってるんだよ。見返り無しでも暇だったら、付き合ってやるっての」
呆れたように笑みを浮かべながら、そっと彼の手が私の頭を撫でる。優しいその感覚が、彼の言葉が嘘ではないと私に教えてくれているようだ。ようやく沸いてきた実感と嬉しさに涙が漏れでそうになるのを必死で堪える。その視界の端にさっきまで休んでいた公園が映り、過ぎ去っていった。
「ほ…ホント…?」
「流石の俺でもこんな酷い嘘は吐かねぇよ。ま、『暇なら』だけどな。俺もそろそろ恋人出来るかもしれないし」
「あ、アンタを好きになる物好きなんて早々いる訳無いじゃないの…」
―わ、私以外には…さ。
続きはそんな風に胸中に留めつつ、私はそっと彼を見上げた。何処か嬉しそうな表情は…彼もまた喜んでいる証なのだろうか。私よりよっぽど演技上手な彼から早々簡単に本心を読み解くことは出来ない。しかし、それでも…私の胸は高鳴ってしまう。その表情が嘘かもしれないのに、期待しちゃいけないのに、彼もまた私の事を好いてくれていると、そんな幻想に縋って言葉を紡がせるのだ。
「こ、今度こそ水着買いに行きましょう」
「あぁ」
「つ、ついでだから、温水プールも付き合ってね」
「分かった」
「その代わり…晩御飯奢ってあげるから…」
「楽しみにしてる」
「お、お昼だって……そ、その…頑張ってお弁当作るわ」
「寝坊するなよ」
「し、しないわよ…多分……」
―けれど、その幻想の言葉を彼は否定しない。
寧ろ積極的に受け入れて、笑みを深くしてくれる。そんな様子が途方も無く愛しい。あまりに嬉しくて…思わず期待してしまうくらいに。勿論、多分、彼も私の事を好いているだなんてはずはない。無いと分かっている。けれど、私の心はもう止まってはくれない。今、此処で私の心を晒すべきだと強く意識して、彼の顔を見据えた。
「あ、あのね…ハンス…。わ、私…ね」
「ん?」
首を傾げる彼の顔に一瞬、怯みそうになる。別に今の関係を崩す必要は無いんじゃないかとそんな臆病な自分が顔を出す。告白しても受け入れてもらえる筈が無いとへタレな私が言う。しかし、勢いに乗った私の言葉は止まらない。穏やかな雰囲気に後押しされるように、一つ一つ確認するように紡いでいく。
「わ、私…本当は…あ、貴方の事が…」
―しかし、そこまで言った瞬間、私は彼の瞳の中に僅かに混じる脅えるような色に気付いてしまった。
それはただの気のせいであったのかもしれない。私の見間違えだったのかもしれない。しかし、一度、抱いてしまったその印象は、中々、消えてはくれなかった。本当は今すぐにでも消えて欲しいのに、忘れてしまいたいのに、まるでそれが足を引っ張っているように続きの言葉が出てこない。後、たった五文字…それだけ…たったそれだけなのに、私はまるで凍りついたように言葉を紡ぐ事が出来なかった。
「ど、どうしたんだよ、急に止まって」
―あぁ…そうか……。
何でもなさそうに振舞う彼の動きは何処かギクシャクしているものだった。少なくとも…こんな……まるで子供が精一杯、虚勢を張るような様子は見たことが無い。けれど…それは見たことがないというだけで…確かに存在する彼の一面なのだろう。未だ揺れる彼の瞳に…何となくそう思って…私は一つ納得した。
―……結局、私達って似たもの同士だったんだ…。
勿論、お互いに変に意地を張る性格があるのは自覚している。お互いに負けず嫌いでエスカレートしていくと周りが見えなくなっていく性格もとても似ていると言えるだろう。けれど…それ以上に似通っている一つの共通点を私は見つけてしまった。出来れば…ずっと気付きたくなかったそれは、納得してしまった以上、目を背けることが出来ない。
「ううん…何でもない。ただ…アンタって本当、お人好しだなぁって思って」
「なんだよそれ」
そんな風に言うだけで……私と同じ臆病な男は嬉しそうに笑った。普段であれば…このくらいの誤魔化しに気づかないはずはない。いや…恐らくは気付いているんだろう。けれど、それを突っ込むことは無い。まるで…私の本心を聞きたくないと言わんばかりに……逃げていく。普段であれば…私はそれを鈍感だと思っていたのかもしれない。しかし…彼の本質に気付いてしまった以上、わざとそうして振舞っているのだとしか思えなくなっていた。
―…コイツがナンパに成功しない理由も…変に鈍感な理由も…きっと……。
きっと……好意を向けられるのが怖いのだ。いや…もしかしたら、誰かの事を好きになる事さえ怖いのかもしれない。初めて見せる怯えた様子から発想が飛躍しすぎだと笑われるかもしれない。けれど…もし、そうだと仮定すれば色々な事が説明できてしまうのだ。顔も性格もそれほど悪くはないし、自ら進んで積極的に魔物娘にも話しかけるコイツがどうして今まで恋人が出来なかった理由も、私の心の機微をすぐに察してくれるほど聡いのにいざという時には逃げられてしまう事も、全て説明できる。
逆にそんな彼がどうしてナンパをするのかという疑問が沸いて出てくるが…それは分からない。しかし……何処と無く私に似ている彼は本当は『恋愛』に憧れているのかもしれない。憧れて……どうしようもなく欲しいけれど、最初から諦めようとして…でも、出来なくてくるくると近くを回っている…そんな状態なのかもしれない。勿論、これらはただの私の想像であり、妄想であり、空想に過ぎないのだろう。けれど…この二ヶ月間、彼を見つめ続けてきた私はそれがそれほど的外れな考えではないと感じる。
―でも…それって結局…私には何も出来ないって事で……。
もし…今、私が抱いている感想が正しければ、告白してもきっと逃げられてしまうだけだ。どれだけ追い詰めても追い詰めても…彼自身が『成長』しなければ、意味が無い。それは…同じように『友達』を欲していた私には良く分かる。何故なら私もまた彼に出会うまでは…ずっと目を背け続け、逃げ続けていたのだから。嫌な部分まで似通っているハンスもまた今の状態で追い詰めても、きっと逃げるだけで何の成長もしないだろう。
―寸前で気づいて僥倖…と考えるべきなのか…それとも…これは不幸なのかな……?
千載一遇のチャンスを二度も逃し、結局、関係を有耶無耶にしたまま進める。それではただの現状維持だ。そして、それでは彼も成長しない。多少、痛みを伴ったとしても強い刺激が無ければ、その性格を変えることなんて無理だろう。けれど…今の私には、彼を追い詰めるだけの覚悟は無かった。告白して逃げられるのが怖くて、結局、無難な選択を、今の微温湯の様な関係を維持する事を選んでしまったのである。覚悟していたはずなのに、それごとあっさり砕かれてしまい、私の心は自己嫌悪で一杯になってしまっていた。
―あぁ…でも…それを顔に出すわけにはいかない。
だって…変な所で優しいこの男の前であからさまな自己嫌悪を浮かべれば、きっと彼も傷ついてしまう。それは…私にとって本意ではない。勿論…彼の成長の為には痛みが必要だという考えは変わっていないけれど…下手に追い詰める訳にはいかないのだ。じっくりと計画を練りながら、追い詰めて刺激を与えなければ、野生の小動物のように逃げられてしまうに違いない。
―かつての私に対しても……彼はそんな気持ちだったのかな。
何となくそう思うと、とても不思議な感じがした。私を変えてくれた人を、逆に私が変えなければいけないのだから。けれど…それは同時にとても素敵な感じがする。勿論、私の胸は自己嫌悪で一杯で今にもはちきれそうなのは変わってはいない。しかし…なんだかんだで彼に向かって感謝している私が、彼を変えてあげられるならば、それはまるで運命のようだ。それに何より……自分の好きな人を変えるのは出来れば自分でありたいというそんな欲求もあるのだから。
―何はともあれ…相談よね。
問題が大きすぎてきっと私だけの手には負えない。これが彼自身やお姉ちゃんであればまた違うのかもしれないけれど、私には良案一つ思いつかないのだ。まずは今回のデートの線化報告を待つお姉ちゃんに報告してから次にどうするかを決めようと心に刻みつつ、私はそっと彼の手を握った。
―……まぁ、これくらいは……さ。
結局の所、問題の先送りに始終してしまったとは言え、このままで終わるのはあまりにも悔しい。勿論、私自身がへタレたのも大きな原因ではあるので、半分は八つ当たりだ。しかし、そうは分かっていても、折角の告白が台無しになってしまった感は否めない。そして、少しでも八つ当たりで晴らそうと、彼の手を自分から握ったのだ。
「な…なんだよ。いきなり」
「さ、寒いからよ。別に…これくらいは良いでしょ?」
「そりゃ…そうだけどな」
―ふふ…驚いてる驚いてる。
さっきの告白の雰囲気からいきなり手を握る攻勢に出たのだ。その効果は絶大で、臆病な彼としては、今にも告白されるんじゃないかとビクビクしているのだろう。見ているだけでも胸がすくような驚きっぷりとおずおずと確認するようにぎゅっと握り返してくれた手は、少しだけ私の気持ちを楽にしてくれた。
―けれど……これくらいが限界よね。
朝のように彼の腕を胸に押し当てるような掴まり方が出来ればまだマシかもしれないが、流石の私もそこまで羞恥心を捨てる事はできない。それに…朝の一件で少しばかりトラウマでもあるのだ。彼もまたそんな恋人同士でも滅多にしないような――ただし、魔物娘は好んで行う――触れ合いまで発展させると拒絶しかねないので、ここまでに留めておいた方が無難であろう。
―あ……。
そのまま数分ほど手を握り合いながら、無言で歩き、私達は何時もの分かれ道へと着いてしまった。そこは私が勤め始めた日に、分かれた場所である。何か打ち合わせをして決めた訳じゃないけれど、私達が別れる場所は何時の間にかここと決まってしまっていた。その事に私としては特に不満は無かったものの、今回は手を離さなければいけない。繋いだ手をじんわりと暖めてくれる彼の体温や、まるで女性のように細い指をしているのにがっちりと受け入れてくれる大きな手から離れなければいけないのは、流石にちょっと惜しい気がする。
―でも…手放さないわけにはいかなくて……。
特にルールとして決まっているわけではない。ただ、何となく、と惰性でのみ決まっているのだ。勿論、それをひっくり返す事は容易である。理由さえあれば、いや、理由が無くとももうちょっと先まで送ってもらうのは簡単だろう。だけど、二人の間で「何となく」で決められた暗黙のルールをひっくり返すのは、「何となく」気が引けて私はそっと彼の手から指を離した。
「それじゃあ、これ…な」
「…うん」
脇に抱えたぬいぐるみを私に手渡して、彼はそっと視線を逸らした。まるで何か言いたい事があるのに、言えないようなその様子に…半ば諦めているとは言え、私の乙女が反応してしまう。思わず、トクンと高鳴った胸に手を当てて、彼を見上げると、ハンスの顔はまた赤く染まっていた。勿論、見上げる私の顔もそれに負けず劣らず赤く染まっているのだろう。けれど…彼の羞恥の色とは違って、期待と興奮の色で。
「……今日は楽しかった」
「…お世辞はいらないわよ?」
―何せ失敗ばっかりだったのだから。
思い返すのも嫌になるくらい今日は失敗ばっかりだった。出会ってから今までの失敗の数は五指では足らない。予定していたデートコースの半分も回れず、結局の所、彼を振り回していただけだったのだから。私は勿論…彼といるだけでそこそこ楽しく…次へ繋がる発見も出来たので充実した一日だった。自己嫌悪が未だ胸に渦巻いているとは言え、それははっきりと言う事が出来る。しかし、それは私の場合であり、彼にとっては違う。朝から晩まで私の失敗に付き合せ、振り回され続けた彼は私に文句を言う権利さえあるだろう。
「今更、お前相手に世辞なんか言うかよ。本心だっての」
「……でも…巻き込んでばっかりだったし……」
「それこそ今更だろ? お前が俺を巻き込まない時なんてあったのか?」
―う……。
言われて思い返せば、確かに理由をつけて常日頃から彼を引っ張りまわしている。彼への恋心を自覚する以前から、理由をつけて一緒に出かけようとしていたのだから。その回数は両手の指では決して足らず、さらにその中で今回のような失敗を引き起こしたのも少なくは無い。流石に今回ほど大規模な失敗は少ないけれど、それでも出かければ何かしら彼に迷惑をかけているような気がする。
「もう慣れたからあんまり気に病むなよ。それでも気にするって言うのなら、『次』に気をつけてくれるだけで十分だし」
「……うん」
―そっと彼が私の頭に手を載せた。
それは撫でるようなものではなく、ぽんぽんと頭を覆うようなものだ。まるで子供をあやす様な仕草だけれど、今の私には反発する気が起きない。彼の優しい言葉が胸中に渦巻き、自己嫌悪を少しずつ弱めていっているからだ。それと同時に優しい熱が私の暗い感情を溶かしていってくれる。告白を逃げた事に対する自己嫌悪もゆっくりとだが、薄れて始めていた。
「俺も掛け合いは嫌いじゃない。それに…あんまりお前が殊勝過ぎると変なものでも食べたのかと思って心配になる」
「な、何よ…そんな事するはずないじゃない…」
悪戯っぽくそう締めながら、そっと彼の手は私の頭から離れた。思わず声を出して引き止めそうになったものの、これ以上、彼に迷惑をかけるわけにいかない。今日一日、私に振り回された彼は、晩御飯さえ取っていないのだから。一緒にご飯を食べに行ってくれる気も無いみたいだし、ここで下手に引き止めても新しい迷惑になるだけだ。流石に今日はこれ以上、彼の心労を増やしたくはないし、ここは引き下がるべきだろう。
「……私こそありがとう。…『次』は…もうちょっとちゃんとしたコースにするから」
「あぁ、期待してる」
―そんな風に言いながら、嬉しそうに微笑むんだから…本当に罪な男だ。
彼が恋愛ごとに臆病だと思っている今であっても、その笑みにはどうしても惹かれてしまう。告白の言葉が飛び出しそうになってしまう。誤解しそうになってしまう。けれど、それに飲み込まれるわけにもいかず、私はそっと胸に手を当てて堪えた。そして、微笑まれただけで高鳴る心臓に、喝を入れながら私はそっと口を開く。
「それじゃあ…またね」
「あぁ、またな」
―そう言って彼はそっと後ろを向いた。
これが恋人同士であるならば、最後にキスの一つか抱擁一つあるのかもしれない。けれど、私達はそんな関係ではなかった。私はそうなりたいと思っているけれど…その道のりはまだまだ遠く険しい。それを…どんどん遠ざかる彼の背中を見て強く思う。
―…少しくらい振り向きなさいよ、馬鹿……。
八つ当たり気味にそう思ってから私もそっと踵を返した。向かうは私の部屋ではなく…お姉ちゃんの部屋だ。様々な事を覚えているうちに戦果報告を行わなければいけない。それに……あの色男を過去からこちらへと振り向かせる必要もある。その相談もしなければいけないのだ。
―待ってなさいよ…絶対……絶対…! アンタの事を捕まえてやるんだから…!
そう胸中で呟きながら、私もまた夜の中へと進んでいったのだった。
「……ふぅ……」
―思わず漏れ出た溜息は今日だけで何回目の事になるだろうか。
十回から先はまったく数えてはいないが、恐らく五十は軽く超えている。常連さんから何度も心配の言葉を貰ったくらいだ。普段は勤めて明るく振舞っているので、こんな事は今まで無かったのに……今日は『ママ』から何度も早退の勧めを貰ってしまった。それを何度も断って、明るく仕事をしていたつもりだけれど、普段はしないようなミスを連発して迷惑をかけっぱなしになっている。
―…あぁ…ホント…イヤになる……。
それがミスを連発し、心配してもらってばかりの自分に対しての事なのか、それともまるで来る様子を見せない『待ち人』の所為なのか、それさえも今の私には分からない。ただ、胸中に浮かぶ暗い感情のまま、再び溜息を吐いた。
―…なんで来ないのよアイツ……。
脳裏に浮かぶのは私の『待ち人』の事。今まで約束を破った事なんて一度も無いはずなのに、彼は結局、一度も店に顔を出さなかった。今日も店の中は繁盛していたし、緊急の召集があったとは考えづらい。ならば……考えられるのは、逃げられた…と言う事だけだろう。
―やっぱり……焦り過ぎたのかな……。
最後に出会った日の事が唐突に脳裏に浮かび上がる。あの日……久しぶりに顔を出した彼に向かって、私は過去の事を聞いた。今まで何度も機会があったけれど…結局、聞けないままだった場所へと踏み込んだのだ。…けれど、結果は惨敗。彼は今まで見た事が無いくらい暗い感情を露にして、逃げ帰るように出て行ってしまった。その彼に…何とか今日の…バレンタインの約束を取り付けたけれど、こうして来ないと言う事は…恐らく私は嫌われてしまったのだろう。
―…でも…他に方法なんて思いつかなかったんだもの……。
彼を変える上でどうあっても過去の事に踏み込まなければいけない。それがお姉ちゃんと私との共通見解だった。問題はそのタイミングであったけれど……お姉ちゃんがその下地を作って、私が話を切り出せば、勝算はあると少なくとも私達は思っていた。けれど、結果はこうして目に見える拒絶と言う形で終わり、私はこうして同僚相手にも迷惑をかけている。そんな自分がどうしても情けなく…矮小に感じて、涙が浮かびそうになった。そして、反射的に目尻を拭おうとした私の手がテーブルの上のメニュー表を崩し、床へと広げさせる。
「…あ…っ」
急いで拾おうと前屈みになった私の尻尾が今度は椅子を倒して、店内に大きな音を響かせる。既に締め作業に入っていて、私は『ママ』、そしてエリー以外に誰もいないのが不幸中の幸いだろう。けれど…だからといって今の私の暗い気持ちが何とかなるわけでは決してなかった。
―もう……何やってるんだろう……。
唐突に浮かんだその言葉に私の身体はすっと脱力してしまった。ぺたんと床へと座り込み、立ち上がる気力さえ沸いてこない。ずっと堪えていた涙もポロポロと零れ落ちて、私の頬を濡らし始めた。自室以外で泣く私自身の情けない姿は、さらに虚しさと悲しさを加速させる。溢れ出る涙を拭う力さえ失って、私は虚空を見つめ続けていた。
―ハンスぅ………ハンスハンスハンスハンス……ぅ……!!
胸中で何度、彼の名前を呼んでも、彼は決して私の元へはやってきてはくれない。私は彼の部屋の位置も知らないし…恐らくもう二度と会うことはないだろう。この広大な魔王城の中で、逃げようとする人を見つけるというのは大変な作業なのだ。何度かナンパをする彼の姿を買い物の最中に見かけたりしたものの、それは生活域がある程度、被っているからである。意図的にそれをズラせば、出会う事はほぼ不可能になってしまう。そして…私達の唯一の接点でもあったこのお店に彼が顔を出さなくなってしまった今……私と彼の縁は殆ど途切れてしまったと言って良い。
―なんで……なんでこんな酷い事するのよぉ……!
まだ振ってくれれば、諦めもついた。いや…つかなかったかもしれないけれど、それでも今の状況よりはマシである。何せ…何もかもが中途半端な状態で途切れてしまったのだから。今の私は嫌われた事に対する悲しい気持ちと、それでもまだ彼の優しさに期待したい気持ちが渦巻いて本当にどうにかなってしまいそうだ。相反する二つの感情に胸が張り裂けてしまいそうな痛みが走って、止まらない。痛みと共に溢れ出た感情が涙となって頬を伝い、以前の『デート』で買ってもらった首飾りを汚していた。
―馬鹿…! 馬鹿ぁ…! ハンスなんて知らない…! もう……嫌い…! 大っ嫌い……!!
しかし、胸に沸く言葉とは裏腹に、彼への愛しさと恋しさが止まってはくれない。嫌いだと思えば思うほど、馬鹿と罵れば罵るほど、大好きな彼の様子が、優しい彼の仕草が脳裏に再生されてしまう。それらはもう過ぎ去ってしまった思い出のはずだったのに、その時からまるで色褪せない感情を私の心に蘇らせる。もうそんな感情は辛いだけなのに、苦しくなるだけなのに、溢れて止まらないのだ。
―私……こんなに……彼の事、好きだったんだ……。
失って初めて分かる事があるように…私もまた彼の事をどれだけ好いていたのか、今更ながらに気づいた。勿論、好きだという感情は今まで自覚していたけれど…これほどまでに巨大な感情が私の中に眠っていたのかと思うくらい大きい。今まで誰かの事を好きになった事がない分、その全てを彼へと向けていたんじゃないかとさえ思う。けれど…その想いはもう受け止めてくれる人を失い、宙へと浮くだけだ。何処へ行くことも許されず、ただ自然に消えていくことを待つしかない。
―酷いよ…そんなの…そんなの無理じゃないの……。
はちきれそうな胸の痛みはまったく治まる気配がない。それどころか指一本すら動かす気力が沸かないのだ。そんな感情がこれから消えていくだなんて、決して思えない。寧ろ、思えば思うほど、悲しめば悲しむほど大きくなっていくようなその感情は何時か私を押しつぶしてしまいそうだとさえ感じるのだから。
「ひっく……ひぅ……ぐす……っ」
―そして、ついに嗚咽まで漏れ始めて……。
涙を拭う気力さえなく、視界を涙で滲ませる今の私に嗚咽を堪える事など出来るはずも無い。泣き顔を二人に見られたくないと思う気持ちは私にもあるけれど、それでももう収まりがつかない。こじんまりとした店内に私の嗚咽が響き、厨房の方からエリーと『ママ』が顔を出した。
「わわぁ…チョコラータちゃん泣かないで〜」
そんな言葉と共にのそのそとおおなめくじのエリーが近寄ってきてくれる。普段はのんびりとしたその歩みは今は何処か急いでいるようにも見えた。それでも、子供が歩くような速度ではあるものの、これが彼女の全速力である。締め作業の途中で疲れているだろうに、私の為に頑張ってくれているエリーの姿は少しだけ私の胸を温かくしてくれた。しかし、それで押しつぶされそうな感情の波が収まるはずもなく、私の目尻からはさらに大粒の涙が零れる。
「よしよし〜…大丈夫ぅ…大丈夫だよぉ…」
そんな私を慰めようと近寄ったエリーの手がそっと私の頭を撫でた。その手は彼女の性根を表しているかのように穏やかで温かい。けれど…それは今、私が欲しいものではなかった。私が欲しいのはもっと不器用で…けれど優しい手であって…彼女の手では決して無い。勿論、彼女の手は暖かく、安心するようなものではあったけれど…彼の手とはやっぱり段違いなのだ。
「大丈夫……安心して〜。きっと…きっとハンスさんは用事があっただけなんだよぉ」
―言い聞かせるように私を撫でるエリーも大体の事情は知っている。
最後に彼がやってきた日はエリーもシフトに入っていた。私と入れ替わりに休憩していたので表には出てこなかったけれど、奥で大体の話は聞いていたのだろう。仕事がボロボロであっても一向に帰ろうとしない私に何も言わず、数え切れないくらいフォローしてくれた。一つ一つの動作が遅い分、丁寧に仕事をする彼女が何時も以上に必死になって動き回る姿に、何度、感謝したか分からない。そして、今もこうして役立たずだった私を優しく慰めようとしてくれる先輩らしい姿に、私の心は決壊してしまった。
「わ、わた…し……!ハンス……きらわ…れ……っ」
「大丈夫だよぉ。ハンスさんがチョコラータちゃんのことを嫌う筈無いんだから〜」
「で、でも…わ…たし…ぃひく…っ」
「ハンスさんね〜…チョコラータちゃんと一緒にいる時が一番、活き活きしてるんだよぉ。それこそ…今まで見た事が無いくらいなんだからぁ」
―若干、反応がズレているのはエリーがおおなめくじの中でも特別のんびり屋さんだからだ。
しかし、それは彼女は必死になって私を慰めようとしている証だ。精一杯、頭や口を動かして優しい言葉を紡いでくれている反面、彼女はどうしても反応が遅くなる。それは誰にだってあることだろう。エリーはそれが少しだけ顕著と言うだけで、決して頭が悪いわけではない。寧ろ、その性格から誤解されやすいが――というか、私自身誤解していたが――エリーはとても頭の良い人だ。それはここ二ヶ月ちょっとの間、ここで働いてきた経験の中で良く分かる。
「それに他の女の子を見る時と違って、ハンスさんはチョコラータちゃんを見る時が一番、優しい目をしてるし〜…一番、優しいのもチョコラータちゃん相手だよぉ」
「ぐす…っ……で、もぉ……来ない…もん。アイツ…約束…した……ひぅ……のにぃ……」
―そんな彼女に向かって漏れ出る弱音は止まらない。
彼女がそう言うのであれば、そうなのかもしれないと思う気持ちは私の中で少しずつ大きくなっては来ている。けれど、実際の状況はそんな気持ちを吹き飛ばすくらい絶望的だ。これが…まだ過去のことへと踏み込む前であったら、エリーの言葉を素直に受け入れられたのかもしれない。しかし…はっきりと過去へ踏み込む事を拒絶された後にどんな優しい言葉をかけられても、気分が上向くはずが無かった。
「わた……っし…待ってた…の…にぃ……チョコも…作ってぇ……」
「うん……うん……」
―私の鞄の中にはアイツの為に作ってきたチョコレートがある。
最後に出会った時の感触は決して良いモノじゃなかった。殆ど逃亡とも言える様な形で彼はここから去ったのだから。しかし、それでも…それでも、もし、来てくれたら、と思って、手作りのチョコレートを準備していたのだ。切り傷や火傷と共に作られたそれは初めてにしては上出来であると自負している。けれど…それはもう無駄になってしまった。それを受け取る筈の相手は来てくれず、ただ朽ち果てるだけ。告白は出来ずとも私の想いを少しでも伝えてくれるように、と作られたのに、それも出来ないまま腐り落ちるしかない。それが今は無性に悲しく…そして辛かった。
「もう…やだぁ……っ」
―思わず全てを投げ出したくなるくらいに。
辛い気持ちは治まらない。悲しい気持ちは終わらない。惨めな気持ちは変わらない。苦しい気持ちは途切れない。胸の痛みは和らがない。辛くて、悲しくて、惨めで、苦しくて、痛くて、重い。それらは今まで感じたどんなモノよりも強く激しい感情の波だった。生きている事さえ、放り投げてしまいたくなる波は何度も何度も私へと襲い掛かり、その気力を奪っていく。いっそ何も感じられなくなってしまえば楽だろうと思うくらい…それは辛く苦しい。
「……じゃあ、諦める…?」
「…ふぇぇ…?」
「ハンスさんの事を諦めるの?」
「そ…れは……」
―エリーの言葉に反応して、脳裏に浮かぶのはアイツとの思い出。
たった二ヶ月の間で彼は何度も私に笑いかけてくれた。助けてくれた。優しくしてくれた。『デート』だって付き合ってくれたし、プレゼントだって…贈ってくれた。それらは…別に彼にとっては何と言う事は無い代物であったのかもしれない。けれど…私にとっては紛れも無く『特別』で、かけがえの無いものだった。大事で、大切で、思い返すだけでも身を切るように辛いのに…止まらず、私の心を痛ませるのだから。優しい彼も、意地悪な彼も、弱気な彼も、照れ屋な彼も、そして…臆病な彼も好きで好きで…大好きなのだから。
「やだぁ……」
―諦めきれる筈なんて…無い…。
例え会えなくても、明確に拒絶されているんだと分かっていても、それでも私は彼を求めるのを止めることなんてできない。彼を嫌いになる事なんて出来ない。勿論…約束を破ったのは怒ってはいる。けれど……それは私が不用意に彼の過去へと踏み込もうとしたのが大きな原因で…私にだって非が無い訳じゃない。胸は今にも張り裂けそうで一杯で…今も涙が止まらないけど、その痛みが逆に彼の事をどれだけ好きなのかを私に意識させる。膨れ上がる痛みに比例するかのように、胸の底から湧き上がる恋慕の念は止まらないのだから。
「諦めたくない…諦められないよぉ……」
「なら……話は簡単じゃないの〜」
―その言葉と共にぎゅっとエリーは私の身体を抱き締めてくれた。
まるで小さい子供にするような優しくて暖かい抱擁は、唐突なものだった。けれど…それが不思議と嫌じゃない。普段であれば恥ずかしがってすぐに逃げようとするのに、今は素直に受け入れることが出来る。私と対極にあるような優しい彼女の抱擁に振りほどく事さえ考えない。そんな私の背をエリーの手がそっと撫でてくれる。
「皆でハンスさんを探しましょう〜」
「で、でも……」
―探すなんて簡単に言ったって…不可能に近い。
誰も全容を把握していないとさえ言われるくらい広いこの城の中で、誰かを探すというのは砂漠に紛れた砂金を探すの等しい行為だ。勿論、砂金とは違って手がかりはあるものの、それも本気で逃げようとされれば何の役にも立たない。正直、彼を見つけられる可能性なんて0に等しいだろう。
「一人じゃ難しくても、皆で手分けしてやればきっと出来るわぁ」
―そう言って、私を撫でながら、エリーがにへらと微笑んだ。
砕けた笑みを浮かべるその顔は、本当にそれが『出来る』と信じているに見える。…いや、きっと信じているのだろう。一点の曇りも疑いも無いその笑みは、とても強く優しいのだから。『人に頼ることの強さ』を知っているエリーのそんな姿に、私もまた出来ると信じてみたいと…そんな事を思ってしまう。しかし、未だ私の中には『それ』が不毛な行為であり、他人を巻き込んではいけないという感情もあった。それに何より……私にはそんな事を手伝ってくれる『友達』なんていない。そもそも…その『友達』を得る為に、彼との接点が生まれる事になったのだから。
「でも…私…手伝ってくれる人なんて……」
「勿論、私が手伝うよぉ。それに…私だけじゃなくてぇ…『ママ』も常連客の人にもきっと手伝ってもらえるはずだし〜」
―優しいその言葉は…本当に…本当に何処までも優しく…だからこそ、不安になるものだった。
彼女は既にパートナーを見つけて結婚しているのだ。旦那さんには会ってはいないけれど、時折、話すエリーの様子を見るに幸せな家庭を気付いているのが分かる。そんな彼女が…私などを手伝ってくれて良いモノか…どうしても気になるのだ。このお店は勿論、休日も多いけれど、やっぱり魔物娘としては休みの日は一日中、旦那さんと一緒にのんびりしたいに違いない。元々がのんびり屋な彼女や『ママ』はさらに一入だろう。けれど…私の事を手伝おうとしたら、そんな休日が潰れてしまう可能性がある。そして…私は彼女達からそんな時間を奪って良いか…そして奪ってしまった結果、私が嫌われないか…どうしても不安で…怖いのだ。
「どうして…?どうして…私の為にそこまで……?」
「え…?だってぇ…私達、友達じゃないの〜」
―キョトンとした顔で、エリーは何気なくそう言った。
まるで朝の朝食を答えるような軽い返答に私の頭は一瞬、固まってしまった。だって……友達だなんて…私の事を友達だなんて言ってくれる人が居るなんて想像もしなかったのだから。ずっと欲していたその言葉を…本当に聞けるようになるなんて思っても見なかったのだから。その驚きは余りにも大きく、私の涙を止めてしまった。
―『友達』……?
動き出した私の頭がその言葉を反芻する。勿論、それの意味する所は私だって知っていた。けれど…それでもやっぱり信じられない。だって…エリーのような良い子が私なんかの『友達』になってくれるなんて……今まで考えた事も無かったのだから。勿論、彼女の事は嫌いじゃない…と言うか寧ろ好ましいと感じている。しかし…私とは違うモノを幾つも持つ彼女を見て、何処か嫉妬めいた感情を抱いていたのも事実だった。
「…え?も、もしかして違ったのぉ…?」
「え?い、いや、そうじゃなくて…」
「も、もしかして私の事嫌いだったとかぁ……?」
―不安そうに言うエリーの姿にはさっきまでの母性は感じられない。
今の彼女はまるで今にも置いてけぼりを喰らってしまいそうな子供のような表情なのだから。見ている私の方が思わず母性を擽られてしまいそうな姿に少しだけ心が軽くなる。
「いや……嫌いじゃない…けど…」
「じゃあ、好きぃ?」
―い、意外に押しの強いキャラだったのね……。
逃れるような私の言葉にさらに追撃してくるエリーの姿は、今まで同僚として接してきたイメージとは少しばかりズレている。どちらかと言えば受身だと思っていた彼女がめげずにドンドン言葉を詰めてきているのだから。しかし、それも『友達』相手であれば…それほど悪くない気分に思える。寧ろ…この程度で根を挙げていたら彼に告白なんて出来る筈が無いと自分を奮い立たせて、おずおずと口を開いた。
「まぁ、その……うん」
「じゃあ、お友達ね〜」
抱擁を解いてキャッキャと嬉しそうに私の手を取るエリーの姿に何となく毒気を抜かれてしまう。状況は何も好転していないのに、まるで何もかもが解決したようなくらいに喜んでいるのだから。けれど…そんな姿が何処か微笑ましくて…私もまた元気付けられているように感じる。
―…そうよ…逃げられた程度で落ち込んでいるなんて…私のキャラじゃなかったわ。
そもそも…逃げるのであれば追いかければ良いのだ。例え天地の果てまで逃げたとしても、幾らでも追いかける。それがラミア属の執念深さであるし、正義だ。私の事が嫌いなのであれば…私無しで生きてはいけないような身体にしてやればいい。それが魔物娘としての習性であり…正義なのだ。そして…私は一人落ち込んでいるなんて可愛いキャラではない。何処までもしつこく追いすがって憎まれ口の一つでも叩いてやるのが私の性格かつ正義なのだから。
―…寧ろ…今までは大人しすぎたのよね…。
性格の所為で素直になれなかったが…今から考えればもっと強引に迫ってもよかった。…いや、そうすべきだったのだろう。押し倒して、え、えっちな事をして…もっと早く割り切ってしまえばこんな事にはならなかった。
―けれど…まだ…取り返しはつくはず。
逃げられたとは言え、この城のどこかに居るのだ。確かにソレを見つけるのは難しいことなのかもしれない。けれど…別に世界の何処かに居るのに比べればでは大した事ではないのだ。死んでいて二度と会えない訳でもない。そう思えば……こうして手伝ってくれる『友達』を得た今、簡単に見つけられるような気さえする。
「じゃあ…明日から頑張りましょうねぇ」
「…うん」
嬉しそうに私の手を握るエリーに握り返しながら、私もまたそっと笑みを浮かべた。初めての『友達』に向けるそれは涙に濡れたみっともないものだっただろう。けれど、彼女はそれについて何も言わない。寧ろ、ニコニコと人の良い笑みを浮かべている。
そして、私たちは多くの人の手を借りた彼を見つけるための計画を立て始めるのだった。
「…んんっ♪ …ふ…ぁ…♪」
―満足げなその溜め息は『交わり』に満足するメスの本性を丸出しにしているものだ。
ついさっきまでの『交歓』の所為で身体はどこか気だるく重い。まるで重石でも乗せているみたいだ。けれど、その気だるさが今は何処か心地良い。それもまた興奮の残滓であると思えるからだろうか。身体中を包み込むようなその感覚は、私の心に喜悦を呼び込むものでもあった。
―…ふふ…っ♪ …また一杯、射精して…♪
身動ぎすると結合部からはドロリと精液と愛液のカクテルが零れ落ちた。本日十何度目かになるその精液は、まるで薄くならず、最初と変わりが無い濃さを保っている。射精する彼の体力が持たず、意識を落としていてもそこだけはまるで別の生き物のように私の中で強く反り返り続けている。
―インキュバスって…本当、凄い……♪
人間よりも魔物に近いインキュバスは無限とも思える回復力と精力を持っている…という話は聞いたことがある。けれど、体験するのは初めてで、ここまでとは思ってもみなかった。どれだけ激しく求めても、たっぷり射精してもらっても、まだまだ足りないとばかりに反り返るのだから。正直、射精しすぎて彼の健康を害しているんじゃないかと思うくらい、その回復力と精力は凄まじい。
―それこそ…私が夢中になるくらいに。
「ん…ふ…♪ まだまだ硬い……ぃ♪」
―既に十何度かの射精を受けてもまだその声には欲情の色が残っている。
勿論、私だって最初はこうではなかった。彼…ハンスの部屋へと乗り込んで、彼を捕まえるまでは所謂普通の…まぁ、ちょっと自分でする回数は多かったかもしれないけれど、それだけの女の子だったのだから。けれど…彼と交わり、色を知ってしまってからは魔物娘の本能に火が着いて抑えられない。その上、何度も石化させている内にインキュバス化した彼のモノは…硬くて大きくて反り返って……気持ち良い所をゴリゴリと削って何度も何度もイってしまう。そんな気持ちが良くて素敵な交わりに…今まで我慢し続けていた私が耐え切れる筈が無かった。
―とは言え…流石にそろそろ自重しないと…ね。
私達が居るのはハンスの部屋で…もっと言えば彼のベッドの上である。必要最低限の物だけを置いているだけの部屋には、今、私の私物が数多く置かれていた。私と彼が再会した日からずっとこうして巻きついているので、自然、この部屋には私の私物が増える。今では自室に帰る時間と言うのは殆ど無く、こうして彼と一緒に居る時間が24時間を占めていた。けれど、四六時中一緒に居るその関係が特に苦ではなく、寧ろ喜ばしく感じる。それは彼も同じようで、特に不平不満を漏らしたことは無かった。
―まぁ…漏らした所で手放すつもりはないんだけれど。
バレンタインのような痛みや寂しさを味わうのはもう二度とご免だ。勿論、あの出来事のお陰で気付けたことも多いのだけれど…それでもあの苦しさは今でも夢に見るくらいなのだから。思わず飛び起きて彼の存在を確認してしまいたくなるくらい、あの出来事は私の脳裏にこべりついている。そして、それは恐らく一生消えることは無いだろう。
―そもそも…忘れるつもりなんて無いしね。
あの日の事を思い出すからこそ、私はこうして彼の事をぎゅっと抱き締める事が出来る。彼の事を大事に思うことが出来る。かけがえのない存在だと何度も心に刻むことが出来る。そして、だからこそ、私はハンスの事を手放さないのだ。大事に思っているからこそ、逃げられて辛いことを知っているからこそ、誰にも渡さないように、逃がさないように。
「ふふ…っ♪ この色男め…こんなに私をメロメロにするなんて…卑怯よ…♪」
胸板に頭を預けながら言っても、彼の意識はまだ無く、殆ど独り言に近い。しかし、だからこそ、私は素直に自分の今の心境を吐露する事が出来た。勿論…あのバレンタインから多少は素直になったけれども、やっぱりまだまだ甘いやり取りは苦手なのだから。告白も……まぁ、最中の喘ぎ声を除けば結局、まだまだしていない。何だかんだ言って、やっぱりまだまだ私は『素直な女』には程遠いのだ。
―でも…それで良いよね。
そんな『素直な女』には程遠い私を友達と言ってくれる人が居る。好きだといってくれる人が居る。助けてくれる人たちが居る。それだけで、今の私を少しだけ好きになる事が出来る。勿論、向上心を捨てるつもりは無いけれど、昔ほど私は自分の事を悪くは思ってはいない。そんな自虐は私の事を友人と、恋人と言ってくれる人たちに対する侮辱に近いと知っているからだ。
―ねぇ…知ってる…? 私って…自分の事が大嫌いだったんだよ…?
お姉ちゃんは出来が良かった。それこそ…何をやっても完璧で、性格もスタイルも良い素敵な人なのだから。そんな彼女の下に生まれた私は要領が悪く、意地っ張りで友達一人作ることが出来ない。そんな私をお姉ちゃんや家族は愛してくれたけれど、それがまた強い劣等感を生み出すキッカケになった。多感な時期には自分の情けなさに毎日、枕を塗らしていた事さえある。それくらい私は自分の事が大嫌いだった。
―けれど…アナタがそれを変えてくれて……。
そんな大嫌いな私が自分の事を少しだけ好きになれるようにしてくれた。それどころか友達を作るキッカケさえくれた。それがどれだけ凄い事か私の下で眠る彼にだって分からないだろう。私にとって世界が色を変えるような奇跡を彼は成し遂げてくれたのだから。
―だからって訳じゃないけれどね…。
この色男は恋人と言う立場の贔屓目を抜きにしても良い男だ。顔も良いし、性格も悪くない。話題の引き出しの多さは流石としか言い様が無いし、元が貴族だけあって高い教養もある。そんな彼に…今の私が釣り合っているかと言えば正直、自信は無い。もっと素直な女の子の方が彼の好みに合っているのは知っているし、私はお姉ちゃんに比べて話題も顔も平凡だ。
けれど……それでも、私はハンスを諦めるつもりは無い。勿論、他の誰にも渡すつもりも。例え他の面では劣っているとしても、愛情の深さと言う面では誰にも負けていない。その程度の自信と自負は私の中にだってあった。そして…またいずれは彼の好みに合う女性になる自信も。
「ちょっとずつでも…アナタ好みの女になるからね…」
自分の事が嫌いで仕方なかった私を、自分の事を好きになるまでにしてくれたのだ。それに比べれば、彼好みの女性になるくらい朝飯前だろう。勿論…まだまだ私は素直じゃなくて、自分の心情を別の事を言ってしまうことも多い。正直、その道のりはまだまだ遠いだろう。けれど…少しずつでも前進していけば何れは辿り付ける。いや……彼に引っ張ってもらえる。今もこうしてえっちの最中で、彼好みに開発されていっているのだから。性格だって同じの筈だ。
「だから……一杯一杯、愛してね…♪ アナタ♪」
甘えた声で言いながら、私はそっと彼の唇に口付けた。何度も何度も激しいキスを繰り返したそこは既にお互いの唾液塗れで、妖しく光っている。しかし、何処か甘い感覚は決して衰える事無く、柔らかい粘膜同士が擦れあい、ちゅっちゅと言う音を立てた。まるでオネダリの為に鳴いているような音に再び身体が燃え上がりそうになるのを抑えつつ、私は何十回かさえ定かではないキスを繰り返す。
「ちゅぅ…っ♪ んふ……♪ だぁい好き……♪」
最後にそれだけ言ってから、私は再び彼の胸板に頭を預けた。未だ私の中でピクピクと彼のモノが揺れて、私の子宮と擦れ合う。それに反応して子宮がキュンと疼くけれど、時間的にそろそろ寝なければいけない。
―明日はシフト入っているしね…。
彼と四六時中一緒の生活を営んでいても、私はまだ『ミルク・ハーグ』に勤めていた。勿論、彼と何時までも何時までも愛欲に導くままに貪るような生活は魅力的だけれど、それと同じくらい私はあそこで働くのが好きになっている。それは…勿論、『ママ』やエリーと言った私の大事な友達の影響が強い。ハンスの次くらいには大事な人達に少しでも恩を返す為、そして私の友達たちと他愛も無い会話をするのが楽しいのだから。彼の身体に絡みついたまま接客をする私に常連さん達も驚いていたけれど、今では普通に受け入れてくれている。
―それに…ハンスも慣れたみたいだし。
最初は恥ずかしがっていたものの、一ヶ月くらい経った頃には吹っ切れたのか何も言わなくなった。それどころか私の接客を手伝って、料理を運ぶのに文字通り手を貸してくれたりもする。この間は絡みついたままの姿で彼の友人――彼の部屋を教えてくれた人で、確かフェイと言う名前だったような気がする――の相談にも乗っていた。二人きりで過ごせる休日を使って相談に乗る彼にちょっとばかり嫉妬が沸きあがったものの、こればかりはハンスの性分なのでしょうがないと諦めている。それに…変に魔物娘に声を掛けるよりはよっぽどマシだ。
―何より…そんな所に惚れ込んだ訳だしね。
彼が起きていれば絶対に言わない惚気を呟きながら、私は大きく深呼吸した。部屋中に満ちる発情したケダモノの匂いの中に、彼の匂いを見つけるだけで私の胸は興奮とはまた違う意味で、温かくなる。その熱を胸に私はそっと目蓋を閉じた。閉じた視界の変わりに敏感になった感覚が、トクントクンと規則的なハンスの鼓動を私に伝えてくれる。
―愛してるわ…アナタ…♪
安心させるような暖かく強い鼓動に急速に眠気を掻き立てられるのを感じながら、私は愛しさと共に眠りの中へと落ちていった。
11/03/24 19:23更新 / デュラハンの婿
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