連載小説
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臆病な男の場合
 
 「やれやれ…アイツにも困ったものだな」
 
 あたふたと自分よりも二周り以上小さい少女の背中を追う友人の姿を見ているとどうしてもそう呟いてしまう。なにせ、その姿には傭兵団の冷酷な参謀であった頃の面影がまるで無いのだから。誰よりも『あの男』に心酔し、その所為で利き腕さえも失った程の男が今はただの『お兄ちゃん』に見える。
 
 ―無論、そこに至る前は山ほどの苦難があったんだろうが。
 
 利き腕を失った頃のアイツ――カルロは本当に抜け殻のようであった。アイツが心酔し、俺達自身も『最強』であると思っていた男が負けたのだから。その衝撃とショックは奴の『力』に魅入られていた俺にだってある。だから、その気持ちは多少は分からなくもないのだ。しかし、それは所詮、想像の痛みでしかない。実際のところ…まるで神のようにさえ敬っていた男が『人間』であった事を『知ってしまった』カルロの衝撃は、本人にしか分からないのだろう。
 
 ―そして、廃人のようだったカルロが立ち直ったのは、あの人のお陰だ。
 
 グレースと言う名の美人で子持ちの人妻を脳裏に思い浮かべる。男好きのする部位にのみたっぷりと美味しそうな肉を載せた彼女は、廃人のようになってしまったあの男に根気良く接して、その気持ちを現世へと戻してくれた。それは…友人であると思っていた俺達には出来なかった事である。だからこそ、俺達は彼女に山ほどの借りがあり…感謝と申し訳ない気持ちで一杯なのだ。その気持ちと彼女の魅力の前では彼女がデュラハンであると言う事は塵芥に等しい。
 
 ―最初は…まだマシだったんだが…。
 
 恐らくは信仰の対象をあの男からグレースさんへと移したのだろう。カルロの接し方はそれはもう恭しいものであったのを良く覚えている。しかし、それは決して害では無かったのだ。彼女が人妻で子持ちである事を知っても、その旦那と出会っても奴の信仰は変わらないのだから。何だかんだで『神』が『人間』である事を知った奴の心はその程度を許容できる程度には強くなっていたのである。
 
 ―それが変わったのが…今から一年ほど前か。
 
 グレースさんの紹介で訓練を行う先生になってから数ヶ月。急激にカルロの調子が以前とは比べ物にならないくらい可笑しくなった。今まで許容していた筈の事に敏感になり、ついには彼女の旦那を排除しようとさえし始めたのだから。瞳に焦りを浮かべて、変わってしまった友人にとても戸惑ったのを覚えている。それも当然だろう。昨日までは普通であった友人がある日、突然ストーカーのようになってしまったのだから。無論、俺達は何度も止めようとはしたが、結局、今日までそれはまるで変わってはいない。
 
 ―やれやれ…いい加減、気づけばこっちも楽なんだがな。
 
 そんな変化の裏にある少女の姿があるのは分かっているのだ。恐らく…カルロはさっき共に出て行った少女――リーナちゃんに惹かれている。抱きつかれた時の嬉しそうな顔は歳の離れた兄としてではなく、男としてのものなのだから。鈍感な友人は未だそこまで気づいては居ないようだが、境遇上、表情の変化に敏い俺には分かる。
 しかし…それがアイツにとっては認めづらいのだろう。リーナちゃんが別に母親と同じデュラハンだからではなく…彼女の肉体年齢的に。魔物娘がどんなスピードで成長するかまでは知らないが、リーナちゃんの姿はまだまだ幼い少女のものだ。無論、今の状態でも将来を期待させるに十分すぎる程、魅力的であり――付け加えておくと別に俺には幼児性愛の趣味は無い。美しいものは好きだがな――だからこそカルロも惹かれているのだろう。しかし、今まで恐らくマトモな恋愛をしたことが無いアイツにとってはそれは中々、認め辛い感情だ。
 
 ―だからこそ、自分の興味をグレースさんに向けて言い訳している状態なんだろうな。
 
 そんな友人の代替行為に巻き込まれている形の彼女には本当に様々な意味で頭が上がらない。先日も菓子折りを持って、二人で詫びに行ったら快く受け入れ、茶まで出してくれたのだ。それどころか「貴方達みたいな友人を持つあの子は幸せ者ね」とまで言って、喜んでいたのだから。子を持つ母は強いと言うが、迷惑を掛け捲っている友人の事を素直に喜んでくれたグレースさんの強さは正直、羨ましい。
 
 ―そして、だからこそ……
 
 「何とかしてやりたいんだけれどなぁ…」
 
 そう呟いた言葉は俺から出たものではなかった。俺の左側に座りながら、テーブルに突っ伏している男が発したものである。原色に近い青に染められたシャツとズボンと言うラフでセンスの無い――上下青とかマジ信じらんねぇ…――格好から覗く四肢にはしっかりと根付いた筋肉が見えた。しかし、それらは決してゴテゴテしいものではない。実戦で磨き上げられた筋肉は適度な贅肉と同居していて、まるでその四肢一つ一つが引き絞った弓のような印象を与える。無論、衣服で隠れている部位も同じような磨き上げられた身体があるはずだ。そんな身体の上に載っているのがまた男くさく、堀の深い顔である。また顎下に生えた無精ひげがその印象をさらに加速させていた。無論、女性にモテる為には清潔にするのが第一ではあるが、元々、悪そうな雰囲気のこの男――フェイには良く似合っている。
 
 「そうだな……」
 
 そのフェイの言葉に軽く同意しながら、俺は手に持つグラスをそっと揺らした。何で出来ているのか分からない――と言うか恐ろしくて聞けない。この近くに生える植物は全て魔力を強く含み、グロテスクな姿をしているモノも少なくないのだから――乳白色の液体はそれだけでくるくると踊る。果実系のさっぱりとした甘さを口に残すその正体こそ分からないが、すっきりとした味わいのそれはとても美味しいモノだ。そして、それ以外の事…どうやってこれが作られているかとかは、あまり気にしてはいけない。それがここ――魔王城で上手く生きていくコツのようなものだ。
 
 「いっそのことアイツとリーナちゃんを一緒の部屋に入れて、外から媚薬成分のある液体を吹き込むとかどうだろう?」
 「…そんな都合の良いモノあるのか?」
 
 冗談めいた口調とは裏腹にその顔は真剣なものだった。一応、コイツはコイツなりの真剣に考えているのだろう。元々、俺とは違い、友人思いで義理堅い奴だ。口でどれだけ罵ってはいても、何だかんだ言って手を貸すのがフェイのスタンスなのだから。まぁ…真剣な分、こうして荒唐無稽なアイデアを恥ずかしげも無く出すのがコイツなんだが。…それが何処か羨ましいのは俺だけの秘密だ。
 
 「いや、知らないけど、探せばありそうじゃね?」
 「…まぁ、確かに」
 
 突っ伏したままのフェイの言葉を否定する事は俺には出来なかった。そもそも、今の世界自体が余りにも都合が良すぎるのだから。魔王の代変わりにより、人間の天敵であった魔物が、愛らしい魔物娘に変わり、こうして手と手を取り合って生きている。無論、その道はまだまだ平坦なものではない。これだけ美人の多い魔物娘を滅ぼそうとする勢力は未だ健在なのだから。しかし、その道は少しずつではあるが着実に進んでいる。様々な人や思いを繋いで、一つの方向へ。
 
 ―勿論…それが正しいとは限らないわけだが。
 
 しかし、魔物が人間の天敵でなくなった今、人間が命を脅かされる機会はぐっと減った。その代わり、魔物娘と人間の女性がパイの食い合いをしているのだが……それも命の危険があるものではない。つまり…旧時代と比べて、死という耐え難い悲劇の数は減ったのだ。それがどれだけ幸運で都合の良い事か…実感が無ければ分からないだろう。
 
 ―それに…魔物娘は皆、美人だしな。
 
 思わず涎が出そうなくらいの美女や美少女達は男の精液が大好物と来ている。さらに、一度愛した相手に強い執着を示し、初めての相手とゴールインする事が殆どだ。そんな男として理想の女性が今、現実に俺達の隣人として生活している世界ほど都合の良いモノはあるまい。今の世界に比べれば、嗅ぐだけでも身体が火照る液体の方がよっぽど現実的と言えよう。
 
 「つー訳で、ハンス。調べておいてくれ」
 「……はぁ?」
 「だって、調べ物はお前の方が得意だろうよー」
 
 まるでやる気を見せない姿勢のまま呟くその言葉は悔しい事に正確だった。そもそも、フェイは調べ物が出来るような性格ではない。今でさえこうしてテーブルに突っ伏しているコイツが、長い間、集中力を保たせるのは無理に等しいのだから。最初は真面目にやっていても、途中で投げ出すに決まっている。そして、そんなコイツの姿を何度も見ている俺としては、寧ろ、いない方が集中できて助かったりするのだ。
 
 ―まぁ…だからといって押し付けられるのに納得できるわけが無いんだが。
 
 そもそもアイデア自体はコイツのモノなのだ。ならば、その責任を最後まで取るのが大人の対応と言うものではないだろうか。少なくとも、俺が一人でわざわざ調べ物――しかも、誰も全容を把握していないと話さえあるくらい、馬鹿げた広さを持つこの魔王城を巡ってだ!!――をしなければいけない理由は無い筈だ。
 
 「お、あの後姿は……悪い。ハンス。後、頼むわ」
 「はぁ!?ちょ…お前…っ」
 
 しかし、それを口に出すよりも先にフェイは椅子から立ち上がって、食堂の入り口へと駆け出した。引き絞られたその四肢はあっという間に最高速に達して、入り口からチラリと見えた女性の方へと向かっている。無論、御主人様を見つけた大型犬の尻尾のように腕を振って近づくフェイの姿にすぐその女性も気づいた。そして、思いっきり顔を顰めて――あまりに顰めすぎて俺が演技であると一目で分かるくらい――これ見よがしに溜め息を吐いた。しかし、逃げる様子は無く、何処か待ち遠しそうにアイツの姿を見ている。
 
 ―やれやれ……子供かよ…。
 
 その呟きは勿論、両者に向けてだ。気になっている女性を見つけ、全速力でそっちへ駆け出したフェイもそうだし、そんなフェイが気になっているのが一目で分かるのに気の無い素振りを続ける彼女にも当てはまるのだから。まるで学校に入りたての子供同士の恋愛のようなやり取りがここまで聞こえてくるようだ。
 
 ―はぁ…まったく…また後始末か。
 
 子供が図体だけでかくなったようなフェイがあぁなると止まらない。恐らく俺の事なんてもう思考の片隅にさえ無いだろう。その証拠にフェイと彼女は会話しながら何処かへと歩き出した。その嬉しそうな背中を見てると、流石に呼び止める気にはなれない。そもそも…人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬと言う噂もあるのだ。俺はまだまだ素敵な女性と出会いたりないので、こんな所で死にたくは無い。
 
 ―まぁ…慣れてるんだけどな。
 
 胸中で呟くその言葉は何処か哀愁が漂っていた。それも当然だろう。俺の近くにいる男共は皆、思い込んだら一直線な馬鹿ばかりで、何処か熱くなりきれない俺はその後始末ばかりなのだから。今はフェイとカルロと言う二人だけだが、昔は竜巻のような吸引力と破壊力を持つ男までセットだった。その頃に比べれば、この程度の後始末程度はまだマシと言えよう。
 
 ―はぁ…この悲しみは女の子との甘い一時で無いと癒せないな。
 
 まぁ、悲しみなんぞ無くとも女の子と甘い一時は過ごしたいのだけれどそれはさておき。テーブルの上に散乱している皿を纏めながら、辺りを見渡すとやっぱり食堂にはぽつぽつと疎らに人が居る程度だ。ついさっき戦いが終わって、帰ってきたばかりで殆どは部屋に篭ってそれぞれの想い人と幸せな時間を過ごしているに違いない。今、ここにいる魔物娘も、旦那が前線の監視に出ていたりで手持ち無沙汰な者が殆どだろう。
 
 ―そんな中に一人ポツンと人間の男が居ると思うと…すげぇ負け犬臭がするな…。
 
 自惚れ抜きで言っても、俺だって顔は悪くない。寧ろ、かなり整っている方だという自負がある。フェイとはまた違った顔の系統ではあるが、相手に困った事なんてこの魔王城に来るまで一度も無いのだから。娼婦と共に過ごした夜もあれば、人妻との後腐れの無い一夜を過ごした事だって数え切れないくらいある。俺の甘い顔と、甘い言葉があれば、大抵の女性はコロリと行くものだ。
 
 ―の…はずだったんだけどなぁ。
 
 色々あって、この魔王城に暮らすようになってから、どうにも上手くいかない。今までは戦場以外で一人寝なんて殆ど無かったのに、ここに来てからはそればかりだ。どれだけ熱心に口説いても、さらりとかわされたり、相手にされなかったりで、正直に言えば…一度だってナンパが成功していない。今まで築き上げた自信にヒビが入って何度、崩れ落ちたか分からないほどだ。
 
 ―まぁ、その程度で諦める俺じゃないんだが。
 
 モテる秘訣は何より諦めない心とチャレンジ精神、そして洞察力である。どんな美人であっても付け入る隙と言うのは存在するのだ。そして、その隙を見つける為にはどんな高い山に見えても挑戦するチャレンジ精神と、途中で逃げ出さない強靭な心、僅かな変化で相手の心情を見抜く洞察力が必要だ。例え失敗してもそれを糧に次の女性へと進める男こそが、真の勝利を掴む事が出来る。…そのはずだ。うん。そのはず……。
 
 ―まぁ、気を取り直して…っと。今日のお相手は誰にしようかな。
 
 纏めた食器を返却しながら、もう一度、食堂を見渡してみる。食堂の中に居るのはのんびりとサラダを頬張っているホルスタウロス…眠そうな目で船を漕ぐワーシープ…気品溢れる仕草でスプーンを運ぶアラクネ…植物の新芽をぽりぽりと食べるおおなめくじ…そして、物憂げにグラスを傾けるエキドナだ。
 
 ―お…良いねぇ…。
 
 無論、食堂に居る女の子達は皆、魅力的だ。正直に言えば甲乙をつけがたい。しかし、何処か目を伏せて悲しげな表情を見せるエキドナは、思わず目線を惹かれる雰囲気を持っていた。思わず真摯に相談に乗ってあげたくなるその姿に、俺の脚は自然と彼女の方へと向かっていく。…無論、対象を決める際に相談に乗れば、落とすのも簡単だという下心が無かったとは言い切れないが。
 
 ―まぁ、そんな事は些細な問題だ。
 
 相談に乗ったお礼に甘い一夜を過ごさせてもらう事になったとしても、それは何もやましい事は無い。寧ろ、ギブ&テイクを実践するそれは普通よりも公平で平等な関係だろう。まぁ、それこそが俺の目的でもある訳だが。
 そんな風に胸中で呟きながら、俺の脚は彼女の座るテーブルの前でぴたりと止まる。そのままそっと床に膝をつけて、目線を合わすのだ。無論、この時に真剣に相手を気遣うような表情を作るのを忘れない。
 
 「どうしました?素敵なレディ。何かお悩み事でも?」
 
 ―余りにも臭い言葉は、相手のタイプを見極める為のものだ。
 
 一口に女性と言っても、その種類は数多い。しかし、俺の数多い経験の中で大雑把に二種類のタイプに別けられるような気がする。それは恋にロマンスを求めるタイプと、愛を求めるタイプだ。
 前者の場合、こうした臭いくらいの台詞の方が受けが良い。俺の甘い顔もそう言った言葉の方が、似合うというのもあるのだろう。今時、本の中でも見ないような台詞にも悪い反応は返さない。
 後者の場合は大抵、無視か、キツい視線を貰う事になる。しかし、それでめげる必要は無い。相手のタイプさえ分かれば、それに合わせて接し方を変えれば良いだけなのだから。そして、既に話しかけるという取っ掛かりが出来ている今、それは余り難しい作業ではない。寧ろ、臭い台詞で相手をロマンスの世界に酔わせる必要のある前者よりも組しやすい相手であるのだ。
 
 「あら…私の事かしら?」
 
 そして、俺の言葉に彼女は左右を見てから、少しばかり首を傾げて応える。すらりとした長身に大人っぽい肢体を乗せる彼女が行う子供っぽい仕草に思わず胸が跳ねた。顔はきりっとしていてしっかり者っぽい印象を受けるのに、そんな表情をするなんて正直、反則だろう。不意打ちとギャップで思わず俺の胸が跳ねるくらいなのだから。
 しかし、それを表に出す訳にもいかない。何せ話しかけたのに、無視や怪訝そうな視線をこちらへと返さないのだから。このエキドナは恐らくロマンスを求めるタイプだ。そして…そうであれば、今のキャラを崩すわけにもいかない。寧ろ、その子供っぽさを内包するくらいの器量を見せ付けなければいけないのだろう。
 
 「えぇ。そこの物憂げなレディに。花咲くような美しさを悩みで翳らせるような貴女がずっと気になりまして…何か私でも力に慣れることが無いかとこうして馳せ参じました」
 「あらあらまぁまぁ…」
 
 俺の臭すぎる台詞に、エキドナは困ったように手を頬に当てた。しかし、その顔は決して満更ではなさそうだ。無論、まだまだ明確な好意のような色は浮かんでは居ない。しかし、最初から敵意の混じった目線を貰う事も少なくないだけにそれだけでも十二分に僥倖と言えるだろう。後は、この顔をロマンスに酔わせて蕩けさせれば良いだけだ。
 
 「レディ。もし、宜しければ、その悩みの一端でも私に話してはいただけないでしょうか…?美しい貴女が思い悩んでいるだなんて…私には…耐えられません」
 「うーん…そうねぇ…」
 
 ―むぅ…少し焦りすぎたか…?
 
 その顔に浮かんでいる印象がそれほど悪くなかっただけに、考え込む仕草を見せた彼女に危機感が湧き上がってきた。無論、ここで断られても幾らでも話のネタは存在する。しかし、やはりここで無難な選択は、悩みを聞くことだ。どんな女性でも少なからず、自分の事を男にアピールしたい欲求を持っているのだから。それを満たして、真剣そうな顔で頷いてやるだけでも俺への好感度は鰻上りになる。そして、好感度が上がった後は、適当に酔わして好きに料理してやれば良い。
 
 ―くそ……!まずは酒の一杯でも奢るべきだったか…!!
 
 彼女が手に持つグラスの中ではさっき俺が飲んでいたのと同じ乳白色の液体が揺れている。甘い香りの中にアルコールを感じるそれを飲むと言う事は彼女自身も、そこそこ酒を飲めるタイプと言う事だ。それならば、話の種としてグラスを二つ持ってきて乾杯くらいから入った方が良かっただろう。無論、いきなりやってきた男の酒は警戒される可能性も高い諸刃の剣ではあるが、ロマンスを求めるこの手の相手には効果的な一撃であった筈だ。それを忘れて、いきなり乗り込もうとした自分の早漏さに思わず思考の中で舌打ちをしてしまう。
 
 「私だけ悩んでも解決するかは分からないし…聞いてもらおうかしら?」
 
 ―いよぉっしゃあああああああああああ!!!!
 
 青みがかったすべすべの肌に手を当てながら、ぽつりと漏らした彼女の言葉に胸中で思わず握り拳を作ってしまう。一瞬、駄目だと思った所為かその喜びも一入だ。とは言え、ここで油断してそれを表に出す訳にも行かない。こういうタイプは気障なくらいに下心を出さない方が落としやすいのだから。
 
 「有り難うございます。私に貴女の助力になる栄誉を頂けるとは…とても光栄ですよ、美しいレディ」
 「あらあら…本当にお上手なのね」
 
 整ったその顔に笑顔を浮かべながらの一言は決して俺を拒んでは居なかった。やはり、このタイプの女性はロマンスを求めるのだろう。これだけ気障な言葉にも、拒否反応を見せない。寧ろ、その顔からは少しずつ警戒心のようなものが消えていっているようにさえ思えるのだ。それはファーストコンタクトが上々であったことの証左であろう。近年、稀に見る手応えに俺は内心、小躍りするのを抑え切れなかった。
 
 ―とは言え、ここからが本番だ。
 
 当たり前だが、下心を全開にして『相談』をふいにする訳にもいかない。寧ろ、誰よりも真摯に耳を傾けなければ、此処から先の展開に進むのは難しいだろう。そして、俺から行う反応もまた的確なものでなければいけないのだ。目の前のエキドナが「この人なら大丈夫」と思えるくらい信頼を集めなければいけないのだから。
 
 「それでね…相談なんだけれど…」
 
 そんな決意を胸に俺は彼女の前へと座った。本当であればその豊満な胸を存分に楽しめるであろう横が良かったのだが、まだそこまで接近できるほどの関係には至っていない。気まずそうな顔をしている彼女を真正面から捉えられる位置が、今はベストだ。お互いに顔をはっきりと見つめられるこの位置は、それだけ俺の甘いマスクを彼女に晒す事にも繋がる。さらに、俺が取り繕う真剣そうな表情も、また目に入る位置なのだ。そのメリットは出会って数分の二人を近づけるには十分過ぎるものである。
 
 ―しかし…メリットにばかり気を取られるわけにもいかない。
 
 妙齢に見えるこの女性から飛び出してくる悩みの種類といえば、恋愛や仕事の不満が主だ。結婚して子供を産んでいれば育児の悩みの可能性も高い。また少し艶っぽい溜め息を吐く物憂げな様子からはあまり考えられないが、友人との喧嘩も有り得るだろう。しかし、どれが来ようと、こうしたお悩み相談で数多くの女性をモノにしてきた俺には、そこそこのアドバイスが出来る自信がある。そして、どんな相談が来ても対処できるように返事のテンプレートを取り出しながら、俺は小さく頷いて、彼女に続きを促した。
 
 「友達って…どういう風に作るものなのかしら…?」
 「……は?」
 
 しかし、そんな考えが吹き飛んでしまうくらい、彼女が吐露した悩みは余りにも可愛らしすぎるものだった。この俺が思わず口を半開きにして、間抜け面を晒してしまう位だったのだから。物憂げだったその表情はかなり深刻であった筈なのに、どうしてそんな可愛らしい悩みなのか問い詰めたいくらいだ。脳裏で来ると思っていた悩みの種類――例えば妙齢の女性である彼女なら恋愛や育児、仕事の不満などであろうと思っていたのだが――の右斜め上を遥か行く彼女の言葉は、俺にとってそれほど予想外だった。
 
 ―い、いや、落ち着け…!こ、ここはKOOLになるんだ…!!
 
 予想外であったとしても、彼女が本気で悩んでいるのは事実だ。ここで呆れるような表情を見せるのは下策も下策である。ようやくはっきりとした手応えを感じる女性を見つけたのに、ここでふいにする訳にはいかない。そう自分に言い聞かせて、俺はすぐさま顔を引き締めた。そして同時に、この時点で一番、無難そうな返答を脳裏から引き出す。
 
 「…レディには友人が多そうなタイプに見えますが」
 
 それは無難ではあるものの、俺の本心でもあった。当然だろう。彼女は魔物娘らしい人外めいた美しさを放っている上に、ナンパに来た俺を受け入れるくらいには人当たりも良い。一言で彼女を現すならば、誰からも好かれる女性らしい女性となるだろう。そんな彼女が友達作りにこれだけ真剣に悩むくらい友人が居ないとは決して思えない。寧ろ、こうして一人で食堂なんかに来ている事自体が意外なくらいなのだから。
 
 「うーん…そうなんだけどね」
 
 俺の返答に困ったように微笑む彼女の言葉にはどうにも要領を得ない。少なくともその返事から察するに俺の返答は、それほど的外れなものではなかったのだろう。しかし、彼女の様子から察するに、彼女が言いたい事とは何処か外れているようだ。…となると、友達を作りたいのは彼女ではないのだろう。
 
 ―ここで主に考えられるのは二つだ。
 
 一つは友達が少ない事を悩んでいる友人の事を我が事の様に悩んでいるケース。しかし、これは余り考えられない。何故ならば、この前提条件の時点で『彼女』と言う友人が存在する事になるからだ。無論、可能性はゼロではないが、ここまで彼女が深刻に悩むような話とは思えない。
 
 ―そして、もう一つは家族…その中でも恐らく妹が悩んでいるケースだ。
 
 「…もしかして…妹さんのお悩みですか?」
 「あら…どうして分かったの?」
 
 意外そうに俺の顔を見る彼女の言葉は先の推察が正解であった事の証左であろう。その事に俺はまた内心、ガッツポーズを繰り返す。元々、その可能性が高いと踏んではいたが、やはり賭けであったことは否定出来ない。そして、俺はそのギャンブルに勝ち、こうして俺を見る彼女の瞳には信頼の色が灯り始めた。無論、それはまだ小さなものではあるものの、第二歩が無事に成功した手応えは、何時、味わっても悪い物ではない。
 
 「私の目は先ほどからレディに釘付けでしたので、恐らくはその内心まで見抜いてしまったのでしょう」
 
 ―まぁ、実際の所、下調べの恩恵なんだけれど。
 
 家族が悩んでいると言う前提の中で、考えられる対象は姉か妹しかない。魔物娘の子供は全て女性であるし、夫が居る魔物娘は友達など居なくとも充実した毎日を過ごしていると考えられるからだ。そして、彼女の種族はエキドナである。魔物娘は基本的に母親の種族に準じるが、エキドナだけは別だ。彼女達は第一子のみがエキドナであり、後の子供は殆ど別の種族になる。無論、第二子以降にもエキドナが産まれる可能性はあるらしいが、それは例外であろう。そして、以上の事から彼女はほぼ間違いなく、長女であろうと推察出来る。
 
 ―こうした下調べがモテる秘訣なんだよな。
 
 千里の道も一歩から、と言う言葉があるようにコツコツとした小さな作業が後の大成に繋がる事も多い。特にこうした話題などはその典型だろう。小さな事でも、話を広げられる努力や相手への理解を重ねなければ決して成功はしない。特に初対面との女性との会話などはお互いに距離感を図る必要があるのだ。その中で、会話の一つも満足に出来なければ、相手を信頼させる事は難しいだろう。
 
 「あら、怖い。じゃあ、迂闊な事を考えられないわね」
 
 悪戯っぽくそう言って微笑む彼女の姿もまた魅力的だ。元がとても綺麗で整った容姿をしている所為だろうか。何気ないそんな動作だけでも、まるで目が惹き付けられるようにも感じる。しかし、それに身を任せるわけにはいかず、俺は心の中で抵抗しながら口を開いた。
 
 「私としては貴女の悩みを知る以外に下心などありませんよ。まぁ、それはさておき…妹さんに友人を作って差し上げたい…ですか」
 「そうなの。良い子なんだけれど…ちょっと恥ずかしがり屋な上に意地っ張りで…ね」
 
 物憂げに溜め息を吐く彼女の姿もまたとても絵になる。背景が石積み――この石も良く分からない素材で出来ているのだけれど――の壁でさえなければ、まるで女神のようにさえ見えるのだ。無論、俺の視界からは外れる彼女の下半身はエキドナだけあって蛇そのものであるし、肌もまた人とは外れた青白いものである。身体からは二色の蛇が生えていて、彼女の身体に巻きついていた。しかし、それを含めても…いや、だからこそ、人外の美しさをより際立たせていた。さらに、そんな彼女が薄布を胸に巻きつけただけのような露出度の高い格好をしているのだから、百戦錬磨の俺としてもどうしても目を奪われてしまう。
 
 「寂しがり屋の癖にどうにも素直じゃないから、今まで友人らしい友人も出来ていないみたいなのよ」
 「なるほど……」
 
 ―どうにも面倒くさそうなタイプだな。
 
 少なくともこうして話を聞いている限りではあまりお近づきになりたいタイプとは思えない。そう言ったタイプの女性は一部には高い需要があると聞くが、俺は御免だ。元は傭兵であった所為か後腐れなく割り切った付き合いを好む俺としては、前後のどっちにも面倒なその手合いは正直、苦手であった。しかし、俺の好みは置いておいても、彼女の悩みに何かしらのアドバイスをしなければ関係を前に進める事は出来まい。そして、頭の中に幾つかの考えと共にそんな下心を巡らせながら、俺は口を開いた。
 
 「そうですね…。では「あ、チョコちゃーん」」
 
 俺の言葉を遮って、彼女はいきなり椅子から立ち上がり――いや、蛇の部分を延ばしたと言った方が表現としては正しいのかもしれないが――俺の後ろへと向かって手を振った。誰か知り合いでも通ったのかと思って、後ろを振り向くと、真っ赤になった『女性』が凄い勢いでこちらへと近づいて来るのが目に入る。最初は何処に居たのか分からないが、その速度は本当に凄まじい。恐らくは本気で走った俺よりもさらに早いのではないだろうか。そんな事を考えているうちに、その女性は俺の前へと立った。
 
 「お、お姉ちゃん!その名前で呼ばないでって言ってるでしょう!!」
 
 ―なるほど。これが件の妹さんって訳か。
 
 まるで俺なんか眼中に無いと言わんばかりに前に立つ彼女――彼女の姉の呼びかけが正しければチョコちゃんか――もまた、呼んだ女性と同じく露出度の高い格好をしていた。金色の輪を束ねたようなエキゾチックな装飾具を沢山、身に着けているのに、衣服らしいのは鱗を模した様な胸の薄布と、腰に巻く紺碧のストールくらいだ。しかし、エキゾチックな装飾具を着けるだけあって、どちらも触れずとも高級品である事が分かる。薄っすらと魔力さえ感じるそれらはもしかしたら、アラクネが編んだ一品であるのかもしれない。
 
 ―と言うか、すっげぇ近いんだが。
 
 元々、小柄な体系をしているチョコ――暫定的にこう呼ぶ事にする――が前に立つと、座っている俺の目線は丁度、彼女の胸と同じ高さになる。そこは、あれだけ豊満な胸を持つ姉と同じ血を引いているとは思えないくらい慎ましやかだった。絶壁と言うほどではないにせよ、掌で簡単に包み込んでしまえそうなその胸は哀愁さえ感じる。別に巨乳が好きというわけでは無いのだけれど、さっきまで薄布から溢れそうな見事な逸物を見ていただけに酷いギャップを覚えてしまうのだ。
 
 「私の名前はチョコラータ!チョコで区切るとお菓子になっちゃうじゃない!」
 「え…でも、チョコちゃんって言うと、とっても可愛らしいじゃない」
 「いや、だから、可愛らしいとかそういう意味じゃなくって……」
 
 ―しかも、完璧に無視されてるなこれ。
 
 聞こえてくるのは可愛らしい姉妹のやり取りであるとは言え、無視されるのは余り良い気分ではない。しかし、この場では俺は間違いなく部外者である。下手に口を挟んで、相手の機嫌を損ねるわけにはいかない。そう思って口を閉じるが、やっぱり目の前に広がる肌色の野原に目が行ってしまうのだ。
 
 ―胸は慎ましいが…肌は綺麗だなぁ…。
 
 後ろのエキドナとは違い、チョコ改めチョコラータの肌は血色の良い色をしている。興奮の所為か何処か桃色の混じったその肌は、見ているだけでも吸い付いてくるような妖しい魅力を持っていた。さらに細い括れや腰周りは、思わず手を這わせたくなるような程、魅惑的である。また聞こえる声も興奮してはいるものの、決して甲高いと言う程ではなく、強い意志の篭ったはっきりとした声だ。その方向性は多少、姉とは違っても、やはり彼女も魔物娘と言う事なのだろう。その魅力は他と比較しても遜色ないくらいだ。
 
 ―まぁ…性格はやはり好みじゃなさそうだが。
 
 凄まじい勢いで近づいてきた所為で顔はまだはっきりと見る事は出来ていないが、予想とはそれ程、ずれていない性格だ。無論、そう言った性格に需要があるのは分かってはいるものの…こうしてあからさまに無視されるとやはり胸に嫌な感情が湧き上がってくる。それを表に出すほど子供ではないが、何となくコイツとは仲良くなれないと言う予感が胸の中を過ぎった。
 
 「それよりチョコちゃん、ちゃんとご挨拶しなきゃ駄目じゃないの」
 「………誰?」
 
 姉の言葉でその言葉でようやく気づいたような白々しい言葉と共に俺の顔へと怪訝そうな視線が注がれた。姉と知らない男が同じテーブルに向かい合っているのだから、それも仕方のない事なのかもしれない。知れないが……ここまで警戒心を全開にして見下されると、余り広くはない俺の心が怒りでマッハになってしまいそうになる。
 
 ―落ち着け…俺は出来る子だ。
 
 そう自分に言い聞かせながら、俺は意識して爽やかな笑顔を作った。そして、今までの長い様々な経験の中で、最も無難であろうと選択されたその笑顔と共に、無難な言葉を紡ぎ出す。
 
 「これは失礼。申し遅れましたね。私、ハンスと申します。そんなに警戒されずとも、先ほどお姉さんと出会ってお話させていただけですよ」
 「…凄い胡散臭いんだけど」
 
 ―おいこらぁぁぁぁぁ!!!!!!
 
 一刀両断された言葉に思わずこめかみがピクピクと揺れるのを感じる。しかし、笑顔だけは崩すわけにはいかない。ここで崩れてしまえば、ここまで進めたエキドナとの時間が水の泡になってしまう。例え、どれだけチョコラータがどれだけ腹の立つ相手であっても、彼女の前で下手な怒りを露にする訳にはいかない。その一念だけで、俺は怒鳴りだしたくなる気持ちを必死で堪えていた。
 
 「もう…ちゃんとご挨拶なさい」
 「はいはい……。チョコラータよ。姉さんの妹。宜しくしたくないから、覚えなくて良いわ」
 
 ―ははは、それはこっちの台詞だぞ、チョコラータちゃんよぉ!!!!
 
 仕方なしに『してやっている』と全身で表現するように手をぱたぱたさせる姿に、どうしても怒りを禁じえない。ここまではっきりと敵意や警戒を顕にされると清々しい気持ちにさえなるが、だからといって俺の怒りが収まる訳ではないのだ。寧ろ、さっきから湧き上がる怒りが俺の顔を染め上げようと昇ってくる。勿論、それは必死に抑えているが、このままだとそれに飲み込まれてしまうのはそう遠い未来ではないだろう。
 
 「あ、あはは。そんな辛い事、言わないで下さいな」
 「そうよぉ。だって、ハンスさんはチョコちゃんのお友達になってくれる人なんだから」
 「「え?」」
 
 ―その瞬間、俺達の心はきっと一つであったと思う。
 
 だって、彼女が言った一言は今まで接していた俺にとって、とても意外すぎる一言なのだから。そりゃあ…確かにそれは考えないでもなかった。何せ彼女とも分かりやすい接点が出来るそれは簡単で楽な解決方法である。俺とチョコラータの気性が合わないであろう事を除けばそれは最も正解に近いものであったのかもしれない。
 
 ―しかし、それは出会うまでの話だ。
 
 こうして出会った今、コイツと友人になるだなんて正直、考えたくはない。そして、それはチョコラータも同じだろう。俺がチョコラータに合わないと感じたくらい、コイツも同じように俺を警戒しているはずだ。そんな二人が友人関係を築くなんて夢のまた夢だろう。
 
 「うふふ…声も揃って、もう仲良しなのね」
 「いや、あの…話が見えないんですが…」
 「むかつくけど…私もまったく分かんないよお姉ちゃん…」
 
 そう主張する二人の声にまるで声を傾けず、彼女はニコニコと嬉しそうに笑う。まるで悪気の見えないその純粋な笑顔は、場を引っ掻き回したいのではなく、本当に嬉しいのだろう。恐らくは…『素直じゃない妹に友人が出来た』が原因だろうと推察出来る。しかし、幾ら推察出来た所でそれを納得できるかといえば別問題だ。寧ろ、一人で勝手に話をドンドンと進める彼女に置いていかれるのを理解させられるだけなのだから。
 
 「詳しいお話はハンスさんから聞いてね。じゃあ、後は若い二人に任せてお姉さんは退散するわ」
 「え…ちょ…!」
 「ま、待ってよ、お姉ちゃん!意味が分からないっ!!」
 
 しかし、そんな二人の呼び掛けに応える事無く、彼女は右手の人差し指でそっと空中に文字を描いた。描かれた文字の軌跡は、そのまま光となって、彼女の身体を飲み込んで行く。恐らくそれは転移魔術なのだろう。詠唱も無しにこれほど高度な魔術を使いこなせるのは彼女が魔物の中でも高位なエキドナだからと言うだけではあるまい。恐らくは魔術を使いこなす訓練を今まで怠らなかったのだろう。迷いの無いその姿に何処か、他人事のようにそう思った。しかし、それも仕方ないだろう。一度、発動した転移魔術を被害を出さずに止めるのはそれこそ空中に放たれた矢を掴むくらいに至難の業なのだから。魔術が発動した時点で、もう殆ど諦めるしかない。
 
 ―そして、そのまま彼女の姿は光に飲み込まれてうっすらと消えて行く。
 
 俺も傭兵の端くれとしてこの世界に数多くある魔術体系の幾つかを知っているが、その消え方は始めてみるものだ。光に包まれた部分がまるで霞のように霧散して行く姿は少なくとも俺の居た国では考えられない転移の仕方である。やはり場所も違うとそれだけ魔術の練り方も違うのだとそんな的外れな感銘を受けている間に、彼女の姿は見えなくなってしまった。
 
 「………行っちゃった…」
 「…だなぁ……」
 
 呆然としたチョコラータの言葉に思わず返事を返しながら、俺は小さく溜め息を吐いた。正直、怒りさえ感じてもおかしくないくらいの置いていかれっぷりだったが、余りにも見事過ぎて何も見えない。最初はそこまで話が通じない人では無かったのにどうしてこうなったのか…。もしかしたら、ここまで織り込み済みであったのかもしれない。ソレほどまでにいきなり話を纏めていなくなった彼女は見事であった。
 
 「何よぉ…溜め息吐きたいのは私の方よ…」
 
 ―まぁ…そうかもな。
 
 最初からそのつもりで相談に乗っていた俺よりもいきなり押し付けられたチョコラータの方がよっぽど驚きであったに違いない。それには正直、同情しよう。例え、こめかみがひくつくくらい腹が立つ上に決してタイプではないにしても、コイツが俺以上に迷惑を被ったのは確かなのだから。
 
 ―とは言え、何かしてやる義理はないんだが。
 
 狙っていた相手には逃げられ、決して好みではない女性を押し付けられる。しかも、友達になってやれという条件で、だ。チョコラータ程でなくとも、俺だって被害者である。これが姉のような打てば響くタイプなら構う余裕もあるだろうが、今、下手にチョコラータに構って罵詈雑言が飛んでくれば、それこそ本気でキレかねない。幾ら嫌われても痛くも痒くもない相手なので、別にキレても問題は無いのだが、精神の健康の為にもここは抑えるのが一番だろう。
 
 「…ふぅ…まったく…お姉ちゃんったら…」
 
 俺と同じように溜め息を吐きながら、チョコラータは呆れたように漏らした。その実感の伴った言葉から察するにこうして無理矢理押し付けられるのは初めてではないのだろう。変に慣れる哀愁のようなものが感じられる。確かにあぁ言ったタイプの傍に居れば、疲れる事も少なくないだろう。典型的な俺の苦手なタイプではあるが、彼女の苦労を思うと同情の念が強くなる。
 
 ―…まぁ、少しくらいなら別に良いか。
 
 さっきは何かしてやる義理は無いと言ったが、してやらない理由も無いのだ。無論、チョコラータの事は嫌いであるというのは理由になるかもしれないが、別に出会ってすぐの第一印象がかなり悪いだけで心底、憎んでいる訳でもない。少なくとも今、湧き上がっている同情心で打ち消される程度なのだ。それならば、俺の精神の安定を兼ねて何かしら奢ってやるのも良いかも知れない。
 
 「って言うか、ずっと俺の前に立ってないでいい加減、座れよ。ジュースの一杯くらいは奢ってやるから」
 「…何?お姉ちゃんが逃げたら今度は私?思ったとおり随分と節操の無い男なのね」
 
 一応、俺としては下心なんぞ欠片もなく、ただ同じように振り回された人間として善意オンリーで――正直、人間の屑である俺にしては滅多に無い珍しさだ――言い出した事だ。しかし…まぁ、俺は思った以上に嫌われていたらしい。帰ってきたのはそんな手痛い言葉と、敵意を丸出しにした視線だ。しかも、言葉の方は自覚があるだけに下手に言い返せないと来ている。だが、ここで黙り込んでしまうのは明らかに負けだ。そう考えた俺は頭を急速に回転させて、奴の中心へと抉りこむ言葉を捻り出す。
 
 「安心しろ。お前みたいな面倒くさい女、口説く気はねぇよ」
 「なっ!!!」
 
 まだ俺は椅子に座ったままであるので、小柄なチョコラータを少し見上げる形になる。その為、俺にはチョコラータの顔をはっきりと見る事は出来ない。しかし、小柄な身体にちょこんとついている小振りな胸の先には、真っ赤になった肌が見えた。恐らくは自分でも自覚している点であったのだろう。分かりやすいその反応は俺のカウンターが効いている証拠だ。それに内心、小躍りしてしまう。
 しかし、それで終わるほどチョコラータと言う女は甘い女ではない。寧ろ、さらに敵意を燃え上がらせて、キツイ言葉を捜しているのが見て取れた。
 
 「そ、そういうアンタは尻が軽いだけじゃなく、頭まで軽いのね!」
 「善意で言ってやってるってのに、敵意で返すくらい面倒な奴には言われたくないな!」
 
 食堂中に響き渡るほどの大声で罵りあいながら、興奮した俺の脚は自然と立ち上がる。自然、見下す形になったチョコラータはやはり少し小さかった。それほど長身ではない俺と比べても二周りほど小さい。肩なんて思いっきり抱きしめてしまえば壊れてしまいそうだ。しかし、それを知覚してはいても、怒りで胸を染める俺は思考を割く余裕は無く、強くチョコラータを睨み付ける。
 無論、チョコラータも負けては居ない。きっと強い敵意を目に込めて、立ち上がった俺を見上げている。睨み付ける俺の目にも負けず、視線を外さないその姿はとても美しく、何より強い。先のエキドナに比べれば丸みを帯びた子供らしい顔のラインは細く、こうして睨みあっているだけでもコイツが女性であることを意識させられる。思わず撫でてやりたくなるそのラインは、コイツが子供から女性への過渡期にある事を見せ付けているようだ。純金そのものの輝きを放つ金色の瞳は、敵意を丸出しにしている今でさえ光り輝いている。魔力で作り出された照明を反射しているのか、それともチョコラータ自身の意思の強さを表しているのか…恐らく、両方であろう瞳の輝きに何処か吸い込まれるようだ。髪はまるで清浄な湖のように透き通った青をしており、一点の曇りさえ見当たらない。一本一本がアラクネの糸のように細く美しいその髪は悔しいが、しっかりと手入れが行き届いていて文句のつけようが無かった。そしてツインテールに括られたその髪の先ではメドゥーサ特有の蛇たちが、こっちへ向けて威嚇している。紺碧色の鱗に包まれたその蛇の群れと彼女の金色の瞳のセットは、死線を潜って来た俺でさえ怯んでしまいそうだ。しかし、ここでその視線に負けるわけにもいかず、俺は舌を出して威嚇する髪の蛇たちにも強い一瞥を向ける。
 そんな二人には勿論、食堂中から不審そうな目線――と幾らかの好奇心の混じった目線――が送られてくるが、今はそれを気にしている余裕は無い。一瞬でも気を緩めれば、チョコラータの視線に負けてしまいそうだったからだ。
 
 ―まさにその瞬間は一触即発と言えよう。
 
 お互いに敵意を込めて睨みあい、お互いの手の内を探る数分間。お互いに言葉を話さず、威嚇するような唸り声や「シャー!」と漏れ出るような蛇の威嚇音が続く。しかし…お互いそれが八つ当たりである事に気づいていたのだろう。怒りは長い間、持続せず、俺達は自然と気まずそうに目を背け合った。
 
 「…止めましょう。幾らなんでも不毛だわ。これ」
 「だな…」
 
 チョコラータの提案に同意しながら、俺の腰はずっしりと椅子へと沈んだ。ずっと睨みあって、気力と体力を使い果たした所為だろうか。一度、椅子へと降りた腰は重く、中々、持ち上がる気がしない。正直、チョコラータが居なければ、テーブルにでも突っ伏したい気分だ。しかし、コイツの前でそんな弱味を見せるわけにはいかない。それこそ負けを認めることになってしまうだろうから。
 そんな俺とは対象的にチョコラータの姿には疲れの色がまったく見えていなかった。やはり精神的なものでも肉体的なものでも魔物娘であるチョコラータの方が幾らか上であると言う事なのだろう。種族の壁で阻まれてしまう理不尽な現実に打ちひしがれながら、俺は再び小さな溜め息を吐いた。
 
 「いい加減、溜め息は止めてくれないかしら…?私だって気が滅入っているんだから」
 
 こっちに視線を寄越しながら、チョコラータの削りだした石膏のような下半身はするすると器用に動く。右へ左へとうねり、前へと進むその仕草は二本足で歩く事を基本とする種族にとっては結構、不思議なモノだ。蛇の下半身を持つラミア種全般に言える事だが、メドゥーサは岩のような鱗をしている個体が多いので特に不思議に見える。あまりじろじろ見ては失礼だと頭の何処かでは分かっていつつも、テーブルの向こう側へと消えるその蛇身をついつい目で追いかけてしまった。
 
 「あぁ…悪いな」
 
 ―確かに目の前で溜め息ばかり吐かれるのは良い気分じゃないだろう。
 
 別に俺は他人にやられて嫌な事はしないようにしましょう!なんて言うような優等生ではない。しかし、ここで事を荒立ててもまた不毛な言い争いが始まるだけだ。正直、さっきのやりとりでただでさえ少ない気力――俺はつい数時間前に前線から帰ってきたばかりの所をアイツに捕まったのだから――を削られた今となっては、あんなの二度とやりたくはない。
 
 ―それに…まぁ、俺に非が無い訳じゃないしな。
 
 売り言葉に買い言葉であったとは言え、もう少し穏便に話を進める事は出来た筈だ。それがあんな言い争いに発展したのは俺の狭量さにも原因がある。コイツがそう言うタイプであると分かってはいた筈なのに、買い言葉を返してしまったのだから。自他共に人間の屑であると認める俺でも、その程度の状況判断は出来るのだ。
 
 「へぇ……」
 
 そんな俺を意外そうな目で見ながら、チョコラータは彼女の姉が座っていた席に腰掛けた。丁度、俺の向かい側になるその席は、当たり前ではあるが、お互いに真正面から顔を見る事が出来る場所である。姉が座っていた時には利点であったそれが、今ではとても疎ましく感じるのは何故だろうか。…俺の顔を無遠慮にじろじろと見つめる視線をはっきりと感じるのと強い関係があるのだけは確かだ。
 
 ―後は…チョコラータの整った顔が視界に入るのが嫌なのかもしれないが。
 
 睨みあっているときには意識の外にあったが、コイツもまた魔物娘だけあって容姿に優れている。街中を歩けば、それこそ何十人を野朗の視線を釘付けに出来るだろう。正統派美少女とはちょっとズレているとは言え、勝気そうな雰囲気と共に全身から溢れ出させる姿は間違いなく可愛らしいと言えるものなのだから。悔しいが、それにに関してだけは認めざるを得ない。まぁ…だからこそ、苦手なタイプを認める自分が居るのが嫌な訳なんだが。
 
 「何だよ?」
 「いや…アンタ、謝れるんだって思って」
 「ホンット、失礼だなお前」
 
 無遠慮に投げかけられたチョコラータの言葉に怒る気力も沸いて来ない。まだ短い間の付き合いではあるとは言え、恐らくこれがコイツの素なのだろう。少なくとも…今までのように敵意だけの声ではなかった。メドゥーサの本心を移す鏡であると言われる蛇も威嚇せずに、意外そうに見つめている。恐らく、別にからかうつもりなど無く、本当に意外だっただけなのだろう。そう考えれば、言い回しが多少、失礼なくらいは多目に見てやるべきなのかもしれない。
 
 ―とは言え、反撃しないって手も…なんだかな。
 
 大目に見てやるとは言え、打たれっぱなしのサンドバッグになるのは性に合わない。やはりここはジャブ程度の反撃はしてやるべきだろう。無論、再び言い争いへと発展させる気力も無いので、怒り出さない程度の軽いものにしなければいけないが。
 
 「……そっちは謝らないのか?」
 「そ、それは…!…わ、悪かったわよ……」
 
 ―へぇ……こりゃ意外だな…。
 
 正直、何だかんだと理由をつけて先延ばしにすると思いきや意外なまでに素直に謝ったチョコラータに驚きを禁じえない。それはぽつりと呟くような小さな声ではあったものの、はっきりと俺の耳にも届いていた。気まずそうに少しだけ伏せた目も、反省するように垂れ下がる髪の蛇も、彼女が本当に悪いと思っているのを感じさせる。心の機微まではっきりと分かる訳ではないが…落とし所にするには悪い場所ではあるまい。
 
 「俺もちょっと大人気なかったよ。すまなかった」
 「べ、別に良いわよ…」
 
 謝ったその言葉に髪を人差し指でクルクルと巻きながら――そして髪の先にある蛇は巻かれながら――視線を逸らす顔は少しだけ赤く染まっていた。とても気恥ずかしそうなその顔は、矢張りそれだけ人に謝った経験と言う事が無い証左なのだろう。
 
 ―でも、まぁ…謝れない奴じゃないんだよな。
 
 彼女の姉が言っていた通り、多分、根は悪い奴ではないのだろう。こうして気恥ずかしそうにだけれど、謝れるのだから。普段の言動もきっと照れ隠しと意地から出ているに違いない。…まぁ、俺に対しては本当に嫌っている可能性が高いんだろうが。少なくとも嫌われてさえ居なければ、蛇に威嚇される事はあるまい。
 
 「…所で……お姉ちゃん、人妻で子持ちだからね…」
 「ん?」
 「だ、だから!お姉ちゃんを口説いても無駄だって言っているの!!」
 
 顔を真っ赤にしてこちらを睨んでくるチョコラータの言葉を反芻するも俺は意味が分からなかった。いや、無論、言葉の意味は分かる。流石にそれくらい馬鹿ではない。しかし…しかし、それでもだ。口説く事が無駄になるとはどう言う事だろう?
 
 ―だって…そんなもの分からないじゃないか。
 
 どんな貞淑な相手であろうと相手に対する不満と言う奴は存在する。それを突いてやれば、案外、転ぶ時はあっさり転ぶものだ。だからこそ、俺は何人もの人妻を喰って来れたのだし……それに、俺もまたそれを身をもって体感しているのだから。
 
 ―まぁ…魔物娘相手は殆ど空振りなんだけれどな。
 
 人間相手はあれほど上手くいった話術がまったく上手くいかない。一人寝記録を絶賛更新中どころか、まるで見えていないようにスルーされる事も少なくないのだ。悲しいかな、浮気するほど旦那に不満を持つ魔物娘の人妻と言う奴は殆ど居ないと言って良いんだろう。しかし、それでも可能性という奴はゼロではないと俺は思うのだ。
 
 ―だからこそ…無駄という理屈には納得は出来ない。
 
 とは言え、チョコラータのこの様子では未だ恋なんてした事がないんだろう。それがどれだけ移ろいやすく、壊れやすい感情であるか実体験の伴っていない彼女に分かる筈が無い。「恋」やら「愛」なんて言う言葉が理想と憧れを伴っている内はどれだけ説明しても無意味だろう。しかし、そうは分かっていても俺の口は軽口を叩こうとしていた。
 
 「まぁ、お子チャマには分かんないだろうけどな」
 「お、お子チャマって何よ!!」
 「その名の通りだろ。恋愛なんてした事無い奴が偉そうに語ってるんじゃねぇよ」
 
 俺としては軽口のつもりだったその言葉はどうやら逆鱗に触れたらしい。再びその顔に怒りを浮かべて、こっちをきっとにらめ付けてくる。お互いに何処か疲れていたそれはさっきの比ではない。思わず気圧されそうになるくらい強い怒りが灯っていたのだから。
 
 「はん! それはアンタも同じじゃない! アンタに騙されるような馬鹿な女相手に腰振ることは出来ても、アンタみたいなタイプが恋愛なんて出来る筈無いでしょうしね!」
 
 ―その言葉は俺の一番、嫌な部分を掠めた。
 
 偶然ではあろうが、最もトラウマに近い部分を掠めたその言葉に俺の視界が真っ赤に染まっていく。さっきまでとは違う明確なチョコラータへの怒りの感情が湧き上がり、俺の思考を埋め尽くした。その激しい感情の前には疲れさえ吹き飛び、俺の口はさらなる言葉を紡ごうとしている。
 
 「はっ…! 恋愛って意味の言葉も分かって無いようなお子チャマの癖に随分と吼えるじゃねぇか…!」
 「あら? 少なくとも、性欲と恋愛の違いくらいは心得ているわよ?みっともなく性欲丸出しにして女に声を掛けるアンタにはその区別がつかないみたいだけど?」
 「その性欲丸出しの男にも口説いてもらえないような女が何を吼えても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないな」
 「アンタみたいな頭と尻の軽さしか取り得が無いような男に口説かれなくて、寧ろ清々するわよ!」
 「あぁ、そうかい!!なら、とっとと俺の視界から消えてくれねぇかな!」
 「なんで私がアンタの言う事聞かないといけない訳!? 軽さしか取り得の無いアンタこそ消えるべきでしょ!」
 「あら、そうかい! そういうお前は随分と重そうだものな!」
 「なっ…! 女の子に向かって言っちゃいけない一言をぉぉぉぉ!!」
 
 一触即発を超えて、怒りを燃え上がらせる俺たちは一歩も退かない。それこそお互いの瞳から視線を外せば負けだと思い込んでいるようにじっとお互いを睨み続ける。そのまま一分が経ち、五分が経ち、お互いに罵り合う言葉が尽きても、俺たちはまだ睨みあっていた。お互いに大声を出し合い、肩を揺らして息を繰り返していても、お互いから視線を背けない。
 
 「あの……お、お客様…」
 「何よ!?」
 「何だ!?」
 
 そんな俺たちの空気を読まず、話しかけてきた気弱そうな男に俺たちの怒気に溢れた声が突き刺さる。八つ当たりにも近い言葉を向けられて、男は目尻に涙さえ浮かべるが、同情してやる気はまったく起きない。そもそも、こんな空気の中に入り込んできたのが悪いのだ。戦争状態にも近い二人の間に割って入ったのだから、多少の火傷は覚悟するべきだろう。
 
 「え、えとえと…もう少し静かにしていただかないと他のお客様のご迷惑にぃ…!」
 「………ちっ」
 「何よ…その舌打ち。喧嘩売ってるのかしら?」
 「あぁ?それはそっちだろ?」
 「何…?まだやるつもりかしら?」
 「それはこっちの台詞だっての!」
 「あのあのあのあのあのぉぉぉ…!!!」
 
 再び罵り合いを始めようとした俺達の間に再び男が割って入った。その姿は涙を浮かべた情けない姿ではあったが、元々の顔つきの所為か、必死さが際立っている。その姿に燃え上がりそうな怒りに水を掛けられたように感じて、俺はそっと目の前のいけ好かないメドゥーサから目線を逸らした。そして、それに習うように怒りに満ちた視線が俺から背けられたのを感じる辺り、チョコラータもまた多少は冷静になったのだろう。
 
 「…私、帰る」
 「あぁ、そうかい。さっさと帰れよ」
 「えぇ! そうするわよ!!! 何よ…まったく……」
 
 ―ちょっとでも期待した私が馬鹿みたいじゃない………。
 
 届くか届かないかの小さな呟きとと共にチョコラータが椅子から立ち上がり、テーブルから去っていく。入り口に背を向ける形で座る俺の視界に一瞬だけ入ったチョコラータの姿はもう怒ってはいなかった。代わりに…何処か気落ちしたような雰囲気を纏っている。さっきまで俺の目の前で罵り合っていたとは思えないほど弱弱しいその様子に声を掛けようとしたが、結局、それは言葉にならず、俺はそのままチョコラータを見送った。
 
 「……チクショウが………」
 
 思わず浮かんだ悪態は一体、誰に向けられたものだったのか。それすらも俺自身には分からない。ただ、分かるのは今の俺は凄く胸糞悪い気分であるってだけだ。
 
 「で、では、ご、ごゆっくり」
 「なぁ、店員さんよ」
 「は、はひ!」
 
 さっきとは別の意味で不機嫌になった俺から逃げようとする店員の背に向かって、声を掛ける。目に見えるくらい気弱そうであっても、元々は悪い奴なのだろう。顔を強張らせながら、素直にぎりぎりとこっちに向いた。まるで怒られる寸前の子供のような姿に、そんなに怖いならば逃げれば良いのに、とさえ思う。しかし、一度、立ち止まってくれたのであれば、もう逃がすつもりは無い。地獄の底まで付き合ってもらうつもりで、俺は胸糞悪い気分を解消する為に店員へと口を開く。
 
 「――ちょっと『お話』しないか?」
 
 『お話』にアクセントを置いた俺の言葉に店員は泣き笑いの表情を浮かべながら、快く頷いてくれたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そんな店員にとっては受難でしかない日からかなりの日数が経ったある日。
 アレから緊急招集を掛けられてようやく今日、戦場から帰ってこれた俺は日課と食事を兼ねて食堂へと顔を出した。無論、その目当ては女の子である。ただ……今回は少しばかり気色が違うものではあるが。
 
 ―まぁ…そう簡単に…って居たよおい。
 
 見覚えのあり、お目当てでもある相手を見つけて、俺は内心、頭を抱えた。無論、探していた相手が見つかったのは単純に嬉しい。しかし、何だかんだと心の準備をできていなかった俺にとっては一概に喜ばしいこととは言えないのだ。
 
 ―でも…今更逃げるわけにはいかないよな…。
 
 あの日からずっと胸糞悪い気分を抱え続けている俺にとって、これは千載一遇のチャンスである。俺の誠意溢れる『お話』の結果、店員から相手が何日かに一回、ここに顔を出すと聞いてはいても二度目があるとは限らない。そもそも俺は教会が攻め込んでこれば、その戦争に狩り出される身だ。何時、命を落とすかも分からない傭兵にとって『次』があると思い込むのはとても危険な思考である。結局、数秒ほど入り口に立ち尽くした後、俺は諦めて相手の元へと向かった。
 
 「よぉ」
 「………何の用?」
 
 フレンドリーに挨拶したつもりだったが失敗したらしい。相手――メドゥーサのチョコラータは俺に敵意の満ちた視線を寄越した。それも当然だろう。以前のアレはお互いの逆鱗に触れ合い、喧嘩別れにも近い形だったのだから。寧ろ、無言で立ち去られないだけマシである。そんな事を思いながら、俺は無造作にチョコラータの前へと座った。しかし、結局、覚悟を決められないままだった俺の口からは良い言葉が出てこない。もごもごと優柔不断に口を動かして、意味のある言葉が紡ぐ事が出来なかった。
 
 「何…? またからかいにでも来た訳? アンタってホント、暇人なのね。あ、ごめんなさい。ナンパが失敗続きのアンタにこんな事言ったら失礼かしら?」
 
 ―チクショウ…いや…抑えろ俺……!!
 
 口ごもる俺に向かって矢継ぎ早に投げかけられるチョコラータの言葉は確かに突き刺さる。突き刺さるが…ぶっちゃけそれは自業自得であるだけに何も言えない。そもそも、ガキの戯言に俺が熱くなりすぎたのが原因なのだから。それに俺はわざわざ罵り合いをする為にチョコラータを探していたわけではないのだ。
  
 「まぁまぁ…そんな事より…以前、お姉さんから相談を受けた件なんだが…友達が欲しいのか?」
 
 強引に話を知らした俺の言葉にピクリとチョコラータの身体が反応する。思いっきり肩を跳ねさせたその様子から察するに、恐らく図星であったのだろう。無意識にであろうが、彼女の蛇も頷くように上下している。それらの姿は下手な言葉よりも確かに、チョコラータに友達がおらず、それを欲している事を教えてくれた。
 
 「べ、別にっ!わ、私は一人でも生きていけるもの!」
 
 ―うわぁ…なんつぅテンプレな…。
 
 すっと視線を逸らしながら、強がるチョコラータの様子にそんな感想を思わず抱いてしまう。それはツンデレが好きな人間にとっては垂涎の仕草なのかも知れない。しかし、そんなタイプが面倒くさいとしか思えない俺にとっては、頭痛の種でしかなかった。
 
 「だから、アンタも私に構わないでよ!」
 
 ―そう言う割には席を立つ気配がねぇな、おい。
 
 俺としてはここで縁が切れても構わないんだが、何だかんだ言ってチョコラータが俺から逃げる気配は無い。内心、俺が『友達』になってくれるんじゃないかと期待しているのか。流石に蛇の様子を見ても分からない。分からない……が、あの時、聞こえた言葉が真実ならば…と思うとどうしても無碍には出来ないのだ。
 
 ―…まぁ、そうは思っても…すげぇ意地っ張りなコイツは――
 
 「ホント、面倒臭いな」
 「そ、そう思うなら、どっか行けば良いじゃない…!」
 
 思わず呟いた一言に一瞥を寄越しながら、そうチョコラータが返した。しかし、その綺麗な髪の先にある蛇は、第一印象が最悪な俺相手にもまるで行かないでと言わんばかりに俺をじっと見つめている。何処か無機質な爬虫類の瞳に、そんな感情の揺れ動きを感じるなんてナンセンスなんだろう。しかし…一度抱いた縋るような印象は中々、取り消すことが出来ない。そして…数瞬ばかり迷った後、チョコラータの顔を再びじっと見つめた。
 
 ―そこには僅かばかりの…本当に僅かばかりの恐怖が見え隠れしているような気がする。
 
 「な、何よぉ……」
 「いや…お前さ。もしかして、嫌われるのが怖いのか?」
 「っ〜〜〜!!!!!」
 
 ―あぁ、図星か。
 
 逸らした視線を驚いたようにこっちへと向ける仕草は驚きに満ちていた。目を見開いて、口を半開きにしながら呆然と俺を見る姿は何処か滑稽でもあり、何処か悲しそうに見える。恐らくはあの姉にも、マトモに言い当てられたことが無いんだろう。今までも分かりやすかったが、今回のはさらに群を抜いている。まるで全身で図星だと表現しているようなその分かりやすさに、ちょっと可愛らしいと思ったのは俺だけの秘密だ。
 
 ―にしても……まさか『ご同類』とはね。
 
 最初に会ったときから、『コイツとは合わない』と思った理由が今では良く分かる。方向性こそ違えど、チョコラータは俺に良く似ている。余りにも似すぎていて、同族嫌悪を抱いてしまうくらいに。それを俺は初対面から感じ取ったのだろう。そう思うと何となく、納得できる気がするのだ。
 
 ―そして…だからこそ、俺はコイツを放っておけない。
 
 「な、何を馬鹿な事を…!一人で生きていけるんだから、そんなの怖がる訳ないじゃない…!」
 「なら、何で俺から逃げないんだよ。この前の件もあるし、お前、俺の事嫌いだろ?」
 「そ、れは……」
 
 問い詰めるような俺の言葉にチョコラータは俯いてしまった。その肌を惜しげもなく晒す腕も小さく震えていて、テーブルの下でぎゅっと握り拳を作っているのが分かる。流石にそこまで追い詰められるとは思って居なかったので、正直、良心がじくじくと疼くが…ここで止めるわけにはいかない。無論、俺はチョコラータは苦手だ。『ご同類』だと気づいてからは嫌悪していると言っても良い。しかし、これは…別に苛める為にやっている訳じゃなく、ある意味、彼女の為でもあるのだから。
 
 「お前、本当は期待してたんだろ。姉の言葉通り『友達』になってくれるんじゃないかって。でも、一方でとても怖いんだろう?また嫌われてしまうんじゃないだろうかって。だから、自分から逃げ出さず、俺を遠ざけようとしているんじゃないか?」
 「ち、違っ…」
 「違うって言うなら理論的な証拠を見せてくれよ」
 
 ―矢継ぎ早に繰り返す俺の言葉は無茶苦茶も良い所だ。
 
 そもそも俺の言葉に根拠なんてまったく無い。俺がそう思ったというだけなのだから。それなのに、相手にだけ理論的な証拠を求める時点でナンセンスである。さらに、その上、『感情』を『理論的に証明』と言う自己矛盾を孕んでいるのだ。それを証明しようとしても前提条件がそもそもおかしいので出来る筈が無い。しかし、追い詰められていくチョコラータにはそれを理解する余裕は無いだろう。何故なら、コイツは以前のやり取りでも分かる通り、俺に似てとても負けず嫌いで、俺への反論を考えるのに精一杯だろうから。
 
 「し、証拠…?わ…私は……」
 「…………」
 
 黙り込むチョコラータの返答を待ちながら、俺はじっと彼女を見つめた。俯いて、自分の手をじっと見ているようなチョコラータの様子はとても痛々しい。俺はフェミニストと言うわけではないが、別段、苛めて性的な倒錯感を得るタイプでもないのだ。苛めるのはベッドの上だけで良いと思う俺にとって、その姿はまるで子犬のように映る。
 しかし、ここで下手に手助けをする訳にもいかない。勿論…『ご同類』である事に気づいてしまった俺は、彼女が本当に欲している言葉が分かる。しかし、それは甘いが故に猛毒でもあるのだ。使い方を間違えればチョコラータの毒にしかならない言葉を使うタイミングを見極めようと、俺の頭は冷え込み、隙無く彼女を見つめる。
 
 「私…は…私は…だって……一人でも生きていけるもの…。だから…」
 
 ―ようやく漏れ出た言葉は否定にもなっていなかった。
 
 まるで自分に言い聞かすような言葉は、それだけ俺がチョコラータを追い詰めている証拠なのだろう。そう思うと再び、胸が痛む。俺と似ていると気づいてしまっただけに、その姿はまるで自分の鏡のようにも感じるのだ。ここで甘やかしてはいけないと思いつつも、俺は良心の呵責に耐え切れず、『その言葉』を口にしてしまう。
 
 「――別に良いじゃないか」
 「え……?」
 「だから、友達欲しがっても別におかしくないだろうって話だよ」
 
 ―そう。コイツが欲しいのは…多分、『他者からの否定と肯定の言葉』だ。
 
 俺がそれを求めているように、チョコラータもまたきっとそれを求めている。本当は欲しくて溜まらないのに、興味の無い振りをしているのを『否定』して、それが当然だと『肯定』して欲しいのだ。『それ』が欲しい筈なのに、どうしても素直になれない自分の後押しを…ずっと待っているのだろう。
 
 「人生に充実を求めるのは誰にだって当然の事だろう?そして友達って奴が人生にまた違う彩りや刺激を与えるのは確かだ。それを求めて何が悪いんだよ。確かに、お前はちょっと意地っ張りで、口も悪いし、臆病だし、へタレだし」
 「ちょっと!!そこまで言わなくても良いでしょ!!」
 
 真っ赤になった顔をあげて、大声で言い放つチョコラータにはさっきまでの落ち込んだ様子は無い。さっきまでの勝気な様子を取り戻している。さっきまで所在無さ気に落ち込んでいた蛇も、抗議するように威嚇していた。それに内心、安堵しながら、俺は話を強引に纏め始める。
 
 「まぁ、ともかく。そんなお前でも友達を作る権利くらいは良い弁護士さえ雇えば認めてもらえるかもしれないし、なってくれる奴もこの広い世界に一人くらいは居るかもしれないって事だよ」
 
 ―脳裏に浮かぶのはこんな人間の屑でも友達で居てくれる二人の馬鹿の事。
 
 無論…両方とも俺と同じそこそこの屑であり、何より人殺しだ。マトモな余生なんて、これから先も決して送れないであろう人種である。しかし、俺の心が多少なりともマトモであるのはあの馬鹿共が居るからだ。時として俺を諌め、対立し、しかし、何だかんだと縁が続くあの二人が居なければ、俺は今よりもさらに自堕落な人間になっていただろう。いや…燃え上がるような刺激を求めて過剰な火遊びの果てに、脇腹辺りを刺されて、この世に居ない可能性の方が高いかもしれない。その事に何かの言葉を贈った事は一度も無いが…しかし、内心、あいつ等が居てくれた事に感謝しているのは事実だ。
 
 「…なんだか慰められてるんだか、馬鹿にされてるんだか分からなくなってきたわ…」
 
 俺の最大限に優しい言葉にチョコラータは疲れたように額に手を置いた。姉に振り回されていた時にも見せなかったその様子は、ある意味、ポーズであるのだろう。その証拠に彼女の蛇はそんなに疲れた様子を見せていない。寧ろ…何処か期待しているように俺の方を見つめていた。
 
 ―ならば、その期待に応えなければいけないだろう。
 
 「あ、ちなみに俺は嫌だからな?」
 「分かってるわよ!!寧ろこっちから願い下げだわアンタなんて!!!」
 
 期待――という名のネタ振り――に応えてやると、嬉しそうに俺の方へと感謝の言葉を投げかけてくれる。無論、その言葉は怒気が強く篭っている上に、その顔は何の感情か頬がひくついていた。しかし、その顔には同時に、まるで『友人』同士のような掛け合いに、何処か楽しんでいる色が見て取れる。それは俺の誤解なのかもしれないが、少なくとも…俺は打てば響くような反応を返してくれるチョコラータとの掛け合いを楽しみ始めているのは事実だ。
 
 「まったく…で?」
 「ん?」
 「……何か案でもあるの?」
 
 興味無さそうにテーブルに頬杖を突きながら、そっと視線を逸らすチョコラータの顔は若干、赤く染まっていた。そんな彼女とは逆に髪先の蛇は、此方に期待するような視線を送っている。どうやら、まだ『友達が欲しい』と言う欲求を認めるつもりは無くとも、少なくとも案を聞こうと言う姿勢を見せる程度には前進したらしい。
 
 ―まったく…ホント、素直じゃなくて面倒くさいな、コイツ。
 
 内心、そう思ってはいるものの、少しだけでも前進したチョコラータが微笑ましくて俺の顔は自然と笑みを浮かべる。それは普段、浮かべている取り繕うようなものではなく、とても自然で柔らかなものだ。こんな風に笑ったのは何時振りだろうと思い返すが…荒んだ記憶ばかりで良く分からない。少なくとも…幸せだった少年時代までは遡る気がする。しかし、その時代の事は俺にとって、幸せな反面、とても思い返したくは無いものだった。
 
 「――なんだ。アンタも笑えるんじゃない」
 「ん?何か言ったか?」
 
 そんな俺の微笑を見て、ポツリとチョコラータが何かを漏らしたが、生憎、物思いに耽っていて聞こえなかった。思わず聞き返したが、彼女は二度も言うつもりは無いらしい。不機嫌そうにテーブルに頬杖を突きながら、こちらに視線を合わせようともしなかった。
 
 「何でもないわよ。それより…これだけの大口叩いたんだから名案の一つでもあるんでしょうね?」
 「んー……まぁ、あるっちゃあるんだが」
 
 さっきから脳裏に浮かんでは消えていく様々な案。そのどれもがチョコラータの性格を矯正するのがメインなモノだ。まず「お友達になりましょう!」のステップに入る前に、この性格を多少なりとも普通にせねば敬遠される可能性が高い。その為に思いつく方法は数多いが、チョコラータが諦めずに継続できる方法と言えば…そう多くは無いだろう。
 
 「まぁ、任せろ。お前が友達を作れるまでキッチリ、プロデュースしてやるよ」
 
 そんな自信に満ちた俺の言葉にチョコラータはとても不審そうな目をくれたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「……で、何でここな訳?」
 
 不審そうな目をくれるチョコラータを伴い、食堂を出た俺は馴染みの店に顔を出していた。そこそこ美味い料理を安い値段で提供する此処は、石造りのだだ広い食堂とは違い、温かみのあるこじんまりとした木造りである。ホルスタウロスの店主がコツコツ溜めたお金で作り上げたこの店は、かなりの年季が入っており、幾つかの傷が目立っていた。しかし、毎日、丁寧に掃除されている床はその傷をこの店独特の『味』に昇華している。
 そんな店の中には疎らではあるものの客が何人か入っていた。ピーク時はとっくに過ぎているだろうに、疎らではあるものの人が入っているのはそれだけこの店の人気が高い事を伺わせる。実際、安い、早い、美味いを地で行くこの店は、ピーク時にはお客で一杯になるのだ。店主の夫一人で料理を作っているのでこれ以上の拡張は自殺行為だが、週の半分が定休日でありながら、彼らが食べていく分には十分すぎる利益を生み出しているだろう。
 そんな事を思いながら、俺はチョコラータと共に奥の方のテーブルへと座った。基本、この店は客が好き勝手に席に座るので、先客さえ居なければ気にする必要は無い。別にコストを抑えている訳ではなく、最初から備え付けてあるメニューも含めて、『様々な面』で、この店にはそちらの方が都合が良いのだ。
 
 「…ちょっと聞いてるの?」
 「聞いてる。それより何か頼めよ」
 「…いや、私、さっき食べたばっかりなんだけど…」
 
 そうは言いつつも渡したメニューにしっかりと目を通す辺り、やっぱり根は素直だ。普段からそうしていれば友達を作るなんて簡単だろうに、変に言葉を返そうとするから人に逃げられるのだろう。そう思うと、やっぱり問題はその性格よりも、キツイ口調であるような気がする。
 
 ―まぁ、それもここなら簡単に治す事が出来るだろう。
 
 幸いにしてここには『先輩』は山ほど居るのだ。彼女達から学べば、コイツの口の悪さも治っていくだろう。…多分。きっと。
 
 「私、コーヒーにするけど…アンタは?」
 「俺もコーヒーで」
 「そう。じゃあ、呼ぶわよ」
 
 その言葉と同時にチョコラータの手がテーブル脇の呼び鈴に触れる。テーブルから浮き上がるようにして備え付けられている呼び鈴は少し触れるだけで、梃子の原理で大きく揺れるのだ。自然、チリンチリンと言う綺麗な鈴の音が店内に響き渡り、店員がこちらに気づく。そして、一人しか居ないその店員はゆっくりと俺達の方へ足を向け始めた。
 
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 
 しかし、彼女は中々、こちらへと近づいてはこない。種族の特性として動きが遅いおおなめくじだから仕方ないだろう。無論、『此処』にとっては何時もの事なので、常連らしい他の客は特に気にしては居ない。俺自身、最初は驚いたものの、今はもう慣れたものだ。しかし、この店に来るのは初めてのチョコラータは明らかにイラついた様子で彼女――おおなめくじのエリーを見ている。しかし、そんなチョコラータの視線にもめげず、のそのそと這うエリーは一分ほどの時間をかけて俺たちのテーブルまでやって来た。
 
 「遅いわよっ!!」
 「あらら〜♪ハンスさん、お久しぶりです〜。そちらの方は彼女さんですかぁ?」
 「おいおい、冗談はよしてくれよ。俺の心はもう君に奪われてしまっているんだから」
 「相変わらずお上手ですね〜」
 「む、無視するの止めなさいよ…!」
 「あぁ…ごめんなさい〜…。私、どうしてもトロくってぇ…」
 「今更っ!?」
 
 ―そう叫ぶチョコラータの気持ちは分からないでもない。
 
 俺も最初の頃は何をするにしてもワンテンポ遅い彼女とコミュニケーションをとるのに大分、苦労した。しかし、慣れれば意外となんて事は無い。寧ろ、会話の先を読みやすい分、接しやすい女性である。彼女自身、返事にズレが生じるのは、特に悪気があってやっている訳ではないし、慣れればこれが魅力とも思えるのだ。実際、穏やかで不思議な魅力を持つ彼女を目当てに、ここを訪れる客は――無論、男だけでなく、魔物娘も――多いと聞く。
 
 ―まぁ、最初はそんなもんだよなぁ…。
 
 ここまで過剰に反応するのは珍しいとは言え、初めてここにやってきた人間は大抵は彼女の事に驚く。常連客らしい他の客も、何時もの事過ぎて特に気に留めず、歓談に浸っているのだ。大声で突っ込むチョコラータに視線一つ送らないのは、それだけこの店では珍しくもなんとも無いと言う事の証左だろう。
 
 「コイツは放っておいて良いよ、それよりエリー。コーヒーを二つと…ママを呼んでもらえるかな?」
 「はぁい。分かりました〜♪」
 
 注文を受け取って、エリーは上機嫌に厨房へと帰っていく。その歩みはおおなめくじらしく、やっぱり遅い。しかし、チョコラータはもう何かを言う気力も失ったのか、疲れたように額を押さえている。心なしか髪の蛇たちもぐったりしているようだ。
 
 「何なのこの店…飲食店におおなめくじとか絶対に合わないでしょうに…」
 「お前、それは差別発言だぞ」
 「だ、だって、そうでしょ…!おおなめくじって粘液塗れじゃない…!そんなのが料理に入ったら終わりだし、店だって滑りやすくなるでしょ…!」
 
 差別発言と聞いて、声を抑えたチョコラータの指摘は確かに正しい。おおなめくじの粘液は確かに恐ろしいまでの滑りやすさを誇る。その粘液を使って時に男性を絡め取るのだから、当然だろう。そして、身体中がその粘液に塗れている彼女は普通に考えれば、飲食店に勤務出来るはずがない。料理に一滴でも粘液が入れば、例え害は無いと分かっていても客は逃げていってしまうし、這いずる様に移動する関係上、どうしても床が滑りやすくなるだろう。
 
 ―しかし、それはまぁ、『普通』に考えた場合の話だ。
 
 「この店に入ってからここに座るまで滑りそうになったか?」
 「……あれ…?そう言えば…」
 
 不思議そうに首を傾げるチョコラータを見れば分かるとおり、この店の床は決して滑りやすいものではない。寧ろ粘液なんて知ったことではないと言わんばかりに、渇ききっているのだから滑る筈が無いのだ。そして、勿論、それには秘密がある。
 
 「エリーが今、着てるエプロンはな。彼女の粘液をほぼ0に抑える効果があるんだよ。まぁ、完璧ではないみたいだけど…その分、店は粘液がすぐに渇くように特殊な加工がされているらしい」
 「じゃ、じゃあ、料理の方は……?」
 「まぁ…見てれば分かるさ」
 
 そう言った辺りで厨房からエリーが再び顔を出した。その両手は粘液が入らないように真っ直ぐ延ばされ、大事そうに茶色の盆を持っている。盆の上には二つの純白のコーヒーカップが乗っており、白い湯気を昇らせていた。ここまで香るような上質なコーヒー豆の香りは早々、味わえるものではない。厨房で黙々と料理を作るかつての仲間がまた腕を上げた事に内心、驚嘆しながら、俺とチョコラータは彼女がテーブルへと近づくのを待った。
 
 「お待たせしました〜♪コーヒー二つですよぉ。ママは今、裏でイチャイチャしてるのでもう少し待ってくださいね〜♪」
 「あぁ、ありがとう」
 
 その声と共に注意深く、盆がテーブルの上へと置かれる。揺れるカップから再び芳醇な香りが立ち上り、一気に鼻へと突き抜けていった。思わず目を閉じて味わいたくなるくらい強い豆の香りに満足しながらカップを受け取る。それに遅れてチョコラータもおずおずとカップを手に取った。
 
 「ではでは、ごゆっくりぃ♪」
 
 それを確認したエリーは向日葵のような温かい笑顔を浮かべて、再び厨房へと戻っていく。そんな何時も通りの彼女の後姿を見ながら、俺はそっとコーヒーを口に含もうとして――。
 
 「…で、結局、今のは何だった訳?」
 「お前…今からコーヒーを飲もうとしてるってのに…」
 「の、飲めば良いじゃない!べ、別に急かしてないんだから…!」
 
 ―いや、急かしてただろ。
 
 とは思うものの、急かすような言葉は余り意図していないものだったのだろう。こうして顔を赤くして、恥ずかしそうに目を背ける姿は自分の行いを恥じているようにも見える。髪の蛇も申し訳無さそうに目を伏せている辺り、邪魔するつもりは無かったのは本当なのだろう。
 
 ―…コイツってもしかして…考えずに話しているから駄目なんじゃ…。
 
 少なくともチョコラータは決して性格が悪い訳では無い。寧ろ、性根そのものは素直で良い奴なのだろう。それはこの短い付き合いの中でも良く分かる。しかし、自然と口に出てしまう憎まれ口がそれを全て覆い隠しているのだろう。つまり、憎まれ口を自然と出ないようにすれば、問題は解決するのかもしれない。
 
 ―まぁ、それを深く考えるのは後回しで良い。
 
 それよりも気にしている事から応えてやろうと、俺はカップをそっと離した。
 
 「まぁ、早い話。店も彼女も粘液の一滴でも入らないように細心の注意を払ってるって事さ」
 「……は?」
 
 チョコラータが呆れたような顔をするのは無理も無い。俺も…正直、最初に聞いたときは同じ気持ちになったものだ。努力しているから大丈夫…だなんてリスク回避としては下策も下策なのだから。それよりもそんな心配の無い子を雇った方が店としても都合が良いだろう。しかし、これがこの店の基本スタンスなのだから、他に言いようは無い。
 
 「…この店のオーナーは馬鹿なのかしら…?」
 「かもな。努力しても入るときは入るだろうし」
 
 しかし、それでもエリーはここをクビになる事は無い。よっぽどの事が無い限り、これからもずっとこの店で働き続けるだろう。それが俺の知るここのママの性格だ。俺の知るどんなヒトよりも甘く、馬鹿なくらいにお人好しの彼女は…エリーのような子を見捨てられるわけが無いのだから。
 
 「まぁ…詰まる所、この店はそう言う訳アリの子ばかりが集まる店って事だよ」
 
 ―そう。この店、『ミルク・ハーグ』は普通の店では働けない子ばかりを引き取っている。
 
 この城では殆どの稼ぎ手は、戦う事で代価を得ている。世界でも類を見ないほど強力である魔王軍がその典型だろう。そこに所属し、賃金を得ている魔物娘が殆どだ。しかし、その一方で戦うのにどうしても向かない魔物娘というものも存在する。例えばマンドラゴラやコカトリスのようにとても臆病な子がその例として挙げられるだろう。勿論、一般的に言われている性格以外にも個体差と言うものは存在するし、他の種族でも戦いに向かない性格は沢山、居る。そんな子は大抵、こういった飲食店などの別の産業で活躍する事になるが…しかし、粘液を抑える魔法がどうしても効き辛いエリーのようにそこにも合わない子と言うのはどうしても出るのだ。
 
 ―勿論、この魔王城は福祉関係もしっかりしている。
 
 より個体数を増やす為か、働けない魔物娘や男を救済する機関や制度は山ほどある。しかし、人は食べるだけでは決して生きてはいけないのだ。この魔王城では全ての物が、外界よりも安く手に入るとは言え、支援を受ける側には贅沢をするような余裕は決してない。そして、そんな子達が可哀想であると、店を開いたここのママは優先的に雇用を始めたのだ。
 
 「そして、さっきの衣装の例でも判る通り、店を従業員に合わせて行ったんだ」
 
 無論、それは口で言う程、甘い世界ではない。粘液のみを急速に乾燥させるコーティングなど、どれだけのコストが掛かったのか。怖くて聞く事さえ出来ない。さらにその上、魔法が効き辛い体質のエリーの為にルーンを縫いこんだ衣装まで着せているのだ。しかし、それでもここのママは幸せそうにしている。他人の幸せを自分の幸せのように感じ、ここで働く魔物娘の幸せを実の母親のように祈っているのだ。そんな彼女を慕い…多くの客がここを訪れるのは、ある意味、当然なのかもしれない。
 
 「……ホント…馬鹿ね」
 
 そう呟いたチョコラータの言葉には、棘が無い所か、呆れた色さえなかった。その気持ちは…まぁ、判らないでもない。誰だって、ママの話を聞けば、まず馬鹿だと思うだろう。下手をすれば、何もかも吹っ飛んでしまいかねないのだから当然である。しかし、同時にその突き抜けた馬鹿さ加減には誰もが圧倒され…惹かれるものなのだろう。俺自身、そうやってここの常連客になっただけに、今、チョコラータが抱いているであろう気持ちは何となく理解できるような気がする。
 
 「まぁ…そうだな。でも…まぁ…尊敬するよ、正直な」
 
 そこまで言って、俺は手に持つ陶器をそっと口へと運んだ。その中で揺れる漆黒のコーヒーは、少し冷めてしまったのか湯気の量を明らかに減らしている。しかし、それでも、芳醇な豆の香りを感じる事は十二分に可能だ。そして、未だ香り立つような匂いを感じながらゆっくりとそれを口に含んでいく。
 
 ―美味い…な。
 
 そのコーヒーは思ったとおり、美味かった。砂糖もミルクも入れていないからこそ引き立つコーヒー豆の香りも、苦味の中に一瞬だけ走る甘さも文句のつけようがない。普段からブラックコーヒーに砂糖を一杯だけ入れて愛飲している俺だが、これは砂糖無しの方が美味いとはっきり分かる。
 
 「…ブラックコーヒーとか良く飲めるわね」
 
 そんな俺を見ながら、チョコラータはコーヒーに備え付けの砂糖とミルクを混ぜている。無遠慮にどばどばと入れて必死に甘くしようとしている姿は、コーヒーを味わうつもりが無いんじゃないかと思うが、一々、指摘してやる程じゃないだろう。食べ物に対する嗜好や思い入れは人それぞれである。それを一々、指摘なんぞしていたら、無駄な争いが起こるだけだ。
 
 ―まぁ…そこまで甘くするなら最初からコーヒー頼むなよ、と思わないでもないが。
 
 「お前の舌が子供なんだよ」
 「な、何よ。甘い方が好きなんだから、別に良いじゃない」
 「いや、悪いなんて言ってないが…」
 
 拗ねたように唇を尖らせながら、ツンとそっぽを向かれてしまう。そんな姿も元の容姿が整っている所為か、何処か可愛らしい。しかし、流石にそれを口に出してやるような相手ではないし、そんな気分でもない。浮かび上がる言葉をそっと胸の中にしまいつつ、俺は店の中をそっと見渡した。
 
 ―お…。
 
 丁度、『イチャイチャ』が終わったのだろう。厨房の入り口から一人のホルスタウロス――この店のオーナーであり、『ママ』と呼ばれるディーナが出てくる所だった。その身長は、一般的男子の平均身長よりも少しだけ高い俺と同じくらいある。女性としてはかなりの長身であるその姿で左右を見渡して、俺に気づいた瞬間、花の咲いたような笑顔を浮かべた。こちらも思わず、笑顔になってしまいそうな表情に、俺も小さく手を振って応える。そんな俺に向かって、ディーナはゆるゆるとした速度で――しかし、胸だけはふるふると大きく揺らして――歩みを進め始めた。
 しかし、おおなめくじ程ではなくとも、根がのんびりしているホルスタウロスのディーナが近づいてくるのにはやっぱり普通よりも時間がかかる。しかし、嬉しそうに足を進める彼女の姿をそれだけ長く見られていると思うと、それはそんなに悪い気分ではなかった。
 
 「ハンスちゃん〜久しぶりぃ〜♪元気だった〜?」
 「あぁ、元気だよ。ディーナも元気そうで何よりだ」
 
 30秒ほど待った後、ディーナは俺たちのテーブルの前へとたどり着く。その顔は、最後に見たときと何ら変わりが無い。寧ろ、より幸せそうな色を濃くしていた。それも当然なのかもしれない。大好きな旦那と、大好きな従業員達とこの店を変わらず経営出来ているのだから。良い意味でも、悪い意味でも『御馬鹿』な彼女はそれだけでとても幸せに違いない。そして、そんな彼女を見ていると、こっちも幸せな気分になるような気がする。
 
 「あらぁ…初めての子ね〜。ハンスちゃんの彼女〜?」
 「はは。さっきも言われたけど、コイツと付き合うくらいなら、その辺の石ころと付き合うよ」
 「アンタねぇ…!」
 
 俺の本心からの言葉にチョコラータはぎろりと鋭い視線でこちらを見つめてくる。怒りの篭ったその視線を増幅するように、蛇もまたこちらを威嚇していた。しかし、初対面から威嚇され続けた俺はそんなもので今更、怯む事は無い。寧ろ、これから話をするディーナの前で変に猫を被られるよりは色々、早くて助かるのだ。
 
 「それで…今日はどうしたのかしらぁ?」
 「あぁ、ディーナはこの前、人手が欲しいって言ってたろ」
 「そうね〜」
 
 ―週の半分は旦那とイチャイチャする為に閉まっているこの店は慢性的に人手不足だ。
 
 さっきのエリーの他にも従業員は数人しか居ない。無論、週の半分しか営業しないこの店を回すには十分すぎる人員であるが、ホルスタウロスのディーナと言い、おおなめくじのエリーと言い、おっとりな気性をしている娘が多いのだ。それはこの店の数多い魅力の一つでもあるが、しかし、それはその二人がピーク時には殆ど役に立たない事を意味する。勿論、彼女達もがんばってはいるものの、ピークの人員を捌ける程の速度で動くのは不可能に近い。自然、負担は残りに掛かり、この小さな飲食店を数人がかりで回しているのだ。
 
 ―まぁ、代わりに給金は良いみたいだけど。
 
 そもそも利益を出すために店を経営しているわけではないので、短い時間でもそこそこのお金になるらしい。その分、忙しい時間は本当にハードではあるが、ここを辞めた子と言うのを今まで一人も見たことが無い。仕事と言う面では足手纏い感が強いとは言え、やはり、それだけ『ママ』として彼女が頼りにされている証拠なのだろう。
 
 ―だから…ってのはおかしいけど、そんな『ママ』に俺も頼りたくなる訳で。
 
 「だから、コイツをここで雇ってもらえないかと思ってね」
 「はぁ!?」
 
 対面のメドゥーサを指差しながら言った言葉に、チョコラータは大仰に反応する。さっきまでの怒りの表情を打ち消し、驚きに満ちた顔は何処か間抜けで面白い。恐らくはこんな展開になるとは欠片も思っていなかったのだろう。俺自身、黙っていた方が面白いと思ったので言わなかったのだから、当然だ。思い通りの反応をしてくれた事に笑みを浮かべながら、俺はチョコラータの驚きを思いっきり無視する。
 
 「う〜ん…ハンスちゃんには一杯、相談に乗ってもらったから私は構わないんだけど〜」
 「駄目か?」
 
 てっきり二つ返事で頷いてくれると思っていただけに、迷うような様子は意外だった。しかし、思い返せば、人手が足りないと言っていたのは一ヶ月くらい前である。それからすぐに攻め込まれたのを迎撃しに前線でドンパチやり続けていたり、チョコラータを探す為に食堂へ通っていたので、一度も店に顔を出していない。もしかしたら、その間に新しい子でも雇ったのかもしれないと何処か申し訳ない気分になった。
 
 「ううん。勿論、私は嬉しいわぁ。ただぁ……この子はどうなのかなぁ…って〜」
 「あぁ…なるほど」
 
 伺うように視線を送るディーナの先には、自分の関さない部分で話が進んで居る事に頬を膨らませるチョコラータの姿があった。確かに思いっきり本人を置いてけぼりにしている所為で、その姿には歓迎しているようなものは見えない。それがディーナにはどうしても気になってしまうのだろう。「何か訳アリなの?」と言う意思を視線に込めて、俺も見ている。その意思に応えるのはとても簡単だ。ただ、一言二言、口から言葉にすれば良い。しかし、他の客も居る場所で「友達が欲しくて寂しいけれど、コミュニケーション能力が無いので作れないんだ。だから、ここで鍛えてやって」と言って、晒し者にしてやるのも可哀想だ。
 
 ―んじゃ…どうするか…。
 
 そんな風に悩む俺の真正面で、「拗ねていますよ〜」と表現するように両手でカップを持ちながらジト目で睨むチョコラータの様子は、子供っぽくて何処か微笑ましい。しかし、まぁ、それを言ってやるつもりは俺には無く、少しでも晒し者にならなくて済む様、言葉を選びながら口を開いた。
 
 「勿論、良いよな?」
 「良い訳あるかーーーー!!!!」
 
 ―まぁ、そうだろうなぁ。
 
 流石にここで「えぇ、勿論。よろしくお願いします!」と朗らかに言ってくれるとは思っては居ない。と言うか、その時点で俺の助けなんぞ必要無いだろう。寧ろ、今まで話を遮らず、無言で待っていた時点で僥倖と言える。その上、物分りの良さまで求めるのは酷…と言うか流石に俺が悪役過ぎるだろう。そもそも俺が面白がって事前に説明しなかったのが主な原因だ。流石にその尻拭いまで相手に押し付けるのは嫌いな相手とは言え気が引ける。
 
 ―じゃあ…何とか言葉尻をぼかしながら…説明してやるか。
 
 「良いか。お前に足りないのはコミュニケーション能力…特に自分の言いたい事を相手に伝える分野だ」
 「な、何よ…いきなり真面目な顔つきになって…」
 
 ―そりゃ…まぁ、真面目な話をしているわけだしな。
 
 意外そうな言葉と共にチョコラータは明らかに怯んだ様子を見せた。さっきの食堂の時もそうだったし、もしかしたらコイツは意外とこういった雰囲気には慣れて居ないのかもしれない。少なくとも友人が居ない時点で、こういった『家族以外との真面目な雰囲気』を経験する事は少ないだろう。余りにも対人関係の経験値が少なすぎる様子に、どんな人生を送ってきたのか若干の同情を感じながらも、俺はじっとチョコラータの瞳を見つめ続けた。
 
 「わ、分かってるわよそれくらい……」
 
 俺の視線と真面目な雰囲気に耐え切れなくなったのか、チョコラータは視線をテーブルの下に落としながらそう呟いた。その表情には何処か悲痛な色が混じっているような気がする。恐らく…恐らくではあるが、コイツ自身、自分に足りないものを薄々、感じ取っていたのだろう。珍しく殊勝なその様子に、俺は自分に似たものを感じた。
 しかし、胸糞悪い親近感に浸っている余裕は無い。このまま無為に時間を過ごしても、チョコラータが自分を責め続けるだけであろう。何度も言うが俺には女性を苛める趣味など無いし、早く話を進めてやる必要がある。
 
 「ここで接客を学べば、多少なりともその口の悪さは矯正されるはずだ。少なくとも…考える前に突き放すような言葉を言うような余裕は無い」
 「それは…そう…かもしれないけど……」
 
 ぎゅっと握り締めた手が震えているのがテーブル越しでも分かる。しかし、ここで手心を加えるわけにはいかない。寧ろこの素直じゃないメドゥーサが頷くまで追い詰めに追い詰めてやらなければいけないのだから。
 
 「でも……わ、私なんかが接客できる筈が…」
 「う〜ん…私は詳しい理由までは分からないけど〜」
 
 尻込みするチョコラータを追い詰めようと口を開いた瞬間、今までずっと、傍観者に徹していたディーナがそっと口を開いた。むっちりしたその肢体に似合わない細い指先を頬に当てて考え込むような顔は、何時も気楽な彼女にとっては珍しい。しかし、それは真剣に今さっき会ったばかりのチョコラータの事を考えてくれている証左だろう。彼女を連れてきた俺にとっては、その小さな仕草だけでも嬉しく感じるのだ。
 
 「私も〜接客なんか出来る訳無いと思ってたんだよぉ。でも〜…今ではこんな大きなお店で皆に『ママ』って呼ばれてるんだぁ」
 
 にへら、と砕けた笑みは本当に幸せそうだ。見ているだけで暖かい気持ちになれるその笑みに釣られるようにチョコラータがゆっくりと顔を上げる。そこにはさっきまでの落ち込んだ色は無い。寧ろ驚きに近い感情が強く混ざりこんでいた。
 
 「だからね〜出来ないなんて思わず一緒に頑張ってみない?無理だって言うのは一度、挑戦してからでも良いと思うんだぁ」
 「…良いんですか…?だって…私……メドゥーサで…」
 「種族なんて関係無いよぉ。私だってホルスタウロスなんだもん〜。エリーも決して接客に向く子じゃないけど…一緒に頑張ってるんだよ〜」
 
 ―やれやれ…お株を奪われちまったな。
 
 しかし、追い詰めるしか能の無い俺よりも、ディーナの言葉は優しく響いている筈だ。少しずつ明るい色を取り戻していくチョコラータの表情を見ればソレが良く分かる。少なくとも、俺が理詰めで追い詰めていくよりはよっぽど優しいはずだ。無論、それは俺の役目を奪われた形になったものの、悔しい気持ちにはならない。寧ろ、絶妙なタイミングで言葉を挟んでくれたディーナに感謝の念さえ抱いていた。
 
 ―そして…後は…チョコラータ次第だ。
 
 先方は既に受け入れる姿勢を示してくれている。そこに飛び込んでいけるかいけないかは本人次第である。どれだけ後押しする事が出来ても、最後に決定するのはチョコラータ自身だ。それを代わってやる事は俺にもディーナにも出来ない。重要なのはチョコラータ自身が変わりたいと思う気持ちがどれだけ強いかなのだから。
 
 ―まぁ…それは問題無いだろう。
 
 俺は食堂で変わりたいと思うチョコラータの意志の一部を感じている。それが錯覚でさえなければ…彼女は時間がかかっても頷く筈だ。そう信じているからこそ、俺はこれだけの荒治療を選んだのだから。
 
 「わ、私……やりたい…です…。迷惑…かもしれない……けど……でも…」
 
 ぽつりと呟くような言葉だが、ゆっくりとチョコラータは言い始める。それは後の変化へ繋がるのかさえ分からない小さな小さな一歩だ。ようやくはっきりと意思を示しただけに過ぎない小さな言葉なのだから。しかし、その一歩は大事な……本当に大事なモノだろう。どれだけお膳立てをされても、その言葉を口にするのにチョコラータがどれだけの勇気と意志を振り絞ったのか、俺には良く分かる。様々な気持ちが胸中に渦巻き、意地を張ろうとする自分を捻じ伏せたのだろう。自分に勝ったその行為はとても立派なモノだ。
 
 「迷惑なんて〜。寧ろ私達の方が邪魔かもしれないけれど、これから頑張っていきましょうねぇ」
 「あ、あのあのあのあの………は…い…」
 
 嬉しそうにチョコラータの両手を取って飛び跳ねるディーナの下ではどすんどすんと言う素敵な音が聞こえている。俺と同じくらいの長身であり、さらにむちむちした肉を身につける身体を何度も跳ねさせているのだから当然だろう。そして…この店の床の傷は大抵、彼女のこの動作によってつけられたものだ。床が痛むから止めた方が良いと何度も忠告はしているが、彼女は全身で喜びを表現するような微笑ましい様子を止めることは無い。
 
 ―…良かったな、チョコラータ。
 
 そして、そんなディーナと手を繋いで、真っ赤になるメドゥーサにはついさっきまであった棘のような物が幾らか抜けて丸くなったように感じる。恐らくさっきの一言で一皮、向けたのだろう。無論、まだまだ意地っ張りである事は止められそうも無いが、これから幾らでも変わっていけば良い。ようやく歩き出した『ご同類』の一歩は俺にとってとても眩しく…喜ばしい反面……胸にドス黒い感情を抱かせるモノであった。
 
 「んじゃ、俺は帰るわ」
 「え…?」
 「え〜…ハンスちゃんもう帰っちゃうのぉ」
 
 その感情――嫉妬と羨望の入り混じった黒いモノを振り払うように、俺は席を立った。そんな俺に二人が視線を送るが、それに構っている余裕は余り無い。そもそも、ここまでお膳立てした今、俺に出来る事は何も無いのだ。此処から先はチョコラータの問題であり、これからどうするかまで俺の責任の範疇ではないのだから。
 
 ―けれど、そんな俺の手を細い手ががっしりと掴んだ。
 
 さっきまで震えていた筈のその細い腕は、今はぴたりと震えを止めて俺の腕を掴んでいる。思いの外、力の篭ったその手を振りほどく事は俺には出来なかった。無論…本気で振りほどこうとすれば、逃げられるのだろう。しかし、まるで縋るようなその手を振りほどく気にはどうしてもなれなかったのだ。
 
 「こ、ここまでしたんだから、最後まで責任取りなさいよ…!」
 
 そんな腕の主は俺の方を見てきっと睨んでいる。その目尻には小粒ではあるが、若干、涙が浮かんでいた。初めて見る――会うのは二度目とは言え、マトモに会話したのは今日が初めてだから当然と言えば当然だが――チョコラータの泣き顔に俺の思考は鈍っていく。それも当然だろう。男って奴は何時だって女性の泣き顔と言う奴には弱い生き物なのだから。目尻に涙を浮かばせながら、腕を捕まれれば、それだけで出所も分からない強い罪悪感が胸中で暴れだす。
 
 「あらあら…熱々ねぇ」
 
 内心、困っている俺とは裏腹に、ディーナは羨ましそうにそう呟いた。他人事のようなその様子に助けて欲しいとアイコンタクトを送るが、彼女は親指を立てて頑張れと返してくる。どうやらこの状況を楽しむ事にしたらしいその様子に頭痛さえ感じた。しかし、流石に常連客共もこちらに興味をそそられ始めたのか何事かとこちらを見る目線が増えている今、毒にも薬にもならないディーナを構っている余裕は無い。
 
 「と、とりあえず、腕を離そう。な?」
 「やだ…。離したら逃げるつもりでしょ…」
 
 ―いや…流石にそこまで薄情じゃないんだが。
 
 しかし、どうやら俺はチョコラータの中ではそういう薄情な人間らしい。離せと言う言葉に手を緩めるつもりはなく、寧ろぎゅっと力を込めて来る。髪の蛇もじぃぃっとこちらを期待するように見つめていた。無機質な蛇の目にそんな事を感じるのはナンセンスであろうが、その感覚は俺の中にこべりついて離れない。
 
 「に、逃げるんだったらぺトラアイズ使うわよ!」
 
 ―そりゃ…逃げ場がねぇじゃないか…。
 
 メドゥーサ特有の石化能力まで持ち出されたら、人間に成す術は無いのだから。勿論、街で売っているマジックアイテムを含めて、石化を解く手段は少なくない。しかし、それは一人ではない場合だ。石化を解く魔術を使えない俺は、手足を石化させられるだけでそれから逃れる術を全て失ってしまう。
 
 「分かった。分かったから、手を離せって」
 「…ホント…?最後までちゃんと…責任取ってくれる…?」
 「あぁ、取るから!幾らでも取ってやるっての!!」
 
 半ばヤケクソ気味に言い放った一言でようやくチョコラータはその手を離した。そのまま両手で目尻の涙を拭って、きっとこっちを睨めつける。必死で取り繕うとしているのは分かるが、泣いていた所為かその目は赤くて到底、迫力を感じられない。
 
 「ふ、ふふん!始めからそう言えば良かったのよ!」
 「あぁ、はい。そーですね」
 
 ―あぁ、コイツ、マジ面倒臭ぇ……。
 
 今更、必死で強がるチョコラータに脱力感を感じながら、俺は再び椅子へと座り込んだ。指一本動かすのも面倒くさい感覚は、食堂で彼女の姉に逃げられた時以来である。懐かしくも二度と味わいたくなかった感覚を振り払う気力も沸かないまま、俺はカップの中に残っているコーヒーを口へと運んだ。すっきりと咽喉を通り抜ける苦味がその脱力感を少しだけ薄れさせてくれるが、根本的な解決にはならない。
 
 「それで、働くのは何時からにする〜?私は今日からでも構わないんだけど〜」
 「あ、はい。じ、じゃあ……」
 
 ―そこでチラリとチョコラータはこっちを見た。
 
 まるで助けを求めるような視線に思わず溜め息が漏れそうになってしまう。まるで初めて親以外に接する子供のような視線に、「俺はお前のお兄さんじゃない」と言ってやりたくもなるのだ。しかし、最後まで責任取ると言った手前、ここで突き放してやるわけにもいかない。戦場から帰ってきたばかりの身体にまた疲労が蓄積するのを感じながら、俺は口を開いた。
 
 「俺なら問題無いから今日からにしとけ。こう言うのは勢いがついてる内に慣れる方が良いしな」
 「あ、アイツもそう言っているし、今日からで…」
 「ふふっ分かったわぁ。じゃあ、チョコラータちゃんのエプロンのサイズ合わせをするから一緒に来てくれるかしら〜?」
 「あ、はい」
 
 ディーナの言葉に誘われて、チョコラータが席を立つ。その一瞬、こちらをすっと横目で見たが、結局、何も言わず、そのまま行ってしまった。その後ろ姿が厨房へと消えるのを確認した後、俺は大きく深い溜め息を一つ吐く。今までずっと堪えていたそれは一言では言い表せない様々な感情が込められていた。
 
 ―ったく…何をやってるんだろうなぁ俺はよ。
 
 正直、さっきのタイミングが潮時だったはずだ。これ以上、突っ込んだとしても俺には何の旨味は無い。そもそも、当初の目的であったエキドナとの縁は殆ど切れているに等しいのだ。チョコラータが俺に姉を紹介するとは決して思えないし、この広大すぎる魔王城の中で再び彼女と出会える確率と言うのは殆ど無い。チョコラータの場合、あの店員が時折やってくる彼女の事を覚えていたと言う特殊な例であり、俺自身、運が良かったのもある。そして、チョコラータとどれだけ仲良くなってもアイツは俺の『ご同類』であり、一番、嫌いなタイプだ。様々な縁があって、こうして色々してやってはいるものの正直、『友人』にはなれそうにない。
 
 ―だから…無理矢理、振りほどけばよかったんだよチクショウ…。
 
 ぺトラアイズで石化させられたら成す術は無かっただろうが、本当に振りほどこうとすればチョコラータは恐らく素直に手を離しただろう。縋るような弱弱しい視線をずっと俺へと送っていた所為か、何となくそう思う。しかし…どうしても、それは出来なかった。それが正解だと分かっていたのに、あの泣き顔を絶望に染めたくは無くて、結局、俺はまた深みへと脚を進めている。その先が嫌な未来しか待っていないと分かっていても、進む事を選んだ俺の身勝手さに吐き気がした。
 
 「じゃじゃ〜ん〜!」
 「ん?」
 
 そんな風に物思いに耽る俺にディーナの陽気な声が届いた。その声に惹かれるようにそちらへと顔を向けると、嬉しそうにニコニコと笑うディーナと、真っ赤になってエプロンの裾を引っ張るチョコラータが居る。対照的な二人の様子に何処か微笑ましいものを感じながら、俺は正直な感想を放った。
 
 「馬子にも衣装と言うが…中々、似合ってるじゃないか」
 「ひ、一言、余計なのよアンタは…!」
 
 顔を赤く染めながら、俺を睨んでくるチョコラータの服装はさっきまでと違って一枚のエプロンが追加されている。ディーナの趣味か、フリルの沢山着いた純白のエプロンはまるで新妻が身につけるモノの様だ。裾の方に小さく『みるく・はーぐ』と刺繍されているので辛うじて制服である事が分かるが、それが無ければ絶対に分からないであろう。
 
 ―にしても…なんつぅか…エロいな。
 
 元々、布切れを纏う様な露出度の高い格好をしている所為か、エプロンを羽織るチョコラータは正面から見ると、俗に言う『裸エプロン』にしか見えない。恐らく純白で染み一つ無いエプロンがその印象を加速させているのだろう。フェイが男の夢であると強く語るその衣装は…なるほど、確かに心惹かれるものであった。
 
 「ふふ〜♪ハンスちゃんは照れ屋だからねぇ」
 「違うってば」
 
 ―そもそも照れ屋だったら、女性なんて口説けるものか。
 
 そうは思うものの、余りに強く否定しすぎるとそれこそ照れ屋そのものだろう。俺とチョコラータは似ているとは言え、俺はまだ彼女よりは冷静に状況を分析する事が出来る。チョコラータと同じ轍は踏むまいと、俺はその言葉を胸中に収めて、陶器に三度目の口付けを落とした。
 
 「何?アンタ、まさか噂のツンデレって奴なの…?」
 「っ!!!!いや、お前にだけは言われたくねぇよ!!」
 
 思わず噴出しそうになるのを堪えながら、図鑑にさえ「意地っ張り」と書かれるメドゥーサに向けて言い返す。しかし、それが良くなかったらしい。明らかに誤解したチョコラータはにやにやとした笑みを浮かべて、こっちを見てくる。その笑みは明らかに俺の弱味を握ったと言わんばかりの顔だ。誤解であるとは言え、チョコラータにそんな顔をされるのはどうにも居心地が悪い。
 
 「へぇ…そう言えば、最初から私に突っかかってきたし…それに随分と汚い言葉遣いするものね…」
 「だから、お前は最初から対象外だからって言ってるだろうが……」
 
 否定の言葉も、一度、誤解したチョコラータには届かない。寧ろ、ツンデレであると確信を強めたのが分かる。喜悦を抑えきれない表情を顔一杯に浮かべているのだから。
 
 「へぇー…ふーん……良い事、聴いちゃったわね」
 「だから、違うって……あぁ、もう良いよチクショウ…」
 
 再び味わう脱力感の中で、元々、あんまり強くない俺の心はポッキリと折れた。否定する気力も失い、ばったりとテーブルへと身体を預ける。そんな俺の視界の端で、チョコラータの蛇は嬉しそうに揺れていた。恐らく、俺の弱味を握ったと思い込んでいる所為だろう。蛇だけでなく、尻尾の先まで小気味良く揺れる程、上機嫌な姿にどれだけ俺が嫌いなんだと思うが、第一印象がお互い最悪であっただけに何も言えない。
 
 「ふふ…ホント、二人は仲が良いのねぇ」
 「ち、違いますよ!」
 
 そんなチョコラータをからかう様なディーナの言葉だけが、今の俺の慰めである。無論、それは俺自身にも帰ってくる言葉であるが、言い返す気力さえ失った俺にとってはどうでも良い。寧ろ耳を塞ぐので幾らでもチョコラータをからかってやって欲しいとそんな気持ちにさえなるのだ。
 
 「そんな仲の良い二人を引き裂くのは悲しいけれどぉ「だから、違いますってば!!」チョコラータちゃんはお客様のご案内をお願いしていいかなぁ?」
 「違いますよ!?違いますからね!?………って、は、はい…」
 
 必死になって否定していたので、ディーナが仕事モードに入っていたのに気づかなかったチョコラータの顔は耳まで真っ赤に染まる。今日一日で何度、見たか分からないほど、見事な変わり方に店内から幾つか笑い声があがった。チョコラータはそれを目敏く聞きつけ、きっと強く相手睨みつける。しかし、その横からディーナの可愛らしい拳でポコンと小突かれ、再び彼女の方へと向き合った。
 
 「もぅ。お客様を睨んだりしたら駄目でしょ〜」
 「あ…ご、ごめんなさい……」
 「いや、良いよ。俺こそ変に笑ったりしてすまなかった」
 
 隣にエルフかデュラハン――人外らしい要素が、その長耳くらいないから、恐らくそのどちらかなのだろう――を伴うその男は爽やかにそう言った。元々の顔の造形が『好青年』風である所為だろうか。その笑みは、とても嫌味さを感じさせない。俺が同じような笑みを浮かべても何処か作り物っぽい印象を与えてしまうだろう。自分の魅力を引き出す術を熟知しているその笑みに、内心、親近感を感じた。
 
 「…い、痛い!痛いんよ!痛いのを喜ぶ趣味はないから、そういう愛情表現は止して欲しいんよっ!」
 「知るか!馬鹿!!!」
 
 しかし、『爽やかな好青年』と言う印象は、嫉妬した魔物娘が脇腹を抓った事であっさりと砕かれてしまう。一見すると二枚目な顔で、三枚目のような発言をする姿は、先の好青年っぽい姿とどっちが素なのか分からないくらい『彼』に馴染んでいた。
 
 ―まぁ、野朗の事なんてどうでも良いか。
 
 それよりも大事なのは、チョコラータの方である。しかし、大事と言っても別に他意がある訳じゃなく、これから先の前途が多難的な意味で。
 
 ―って…頭の中でまで否定してたらマジでツンデレっぽいじゃねぇか…。
 
 そんな自嘲を胸に、チョコラータの方を見るとディーナから仕事内容を聞いている姿が眼に入る。ふんふんと真剣に聞き入り、時折、相槌を打つ姿は俺の知るチョコラータとは少し違っていた。それは意地っ張りで、寂しがり屋で、照れ屋と言う凄い面倒臭いメドゥーサではなく、一度受けた仕事に真摯に打ち込み、自分を変えようとしているチョコラータと言う魔物娘である。そう思うと唐突にチョコラータが凄い遠い存在になったような気がした。
 
 ―やれやれ…疲れてるんだろうな。
 
 何だかんだとここまでかなりの強行軍であった。戦場から帰ってきてすぐにチョコラータの友達作りである。その肉体的精神的双方の疲労は何時、ピークを迎えてもおかしくは無い。チョコラータが思ったよりも素直に働き始め、安心した影響が出始めたのだろう。指先も何だか暖かい感覚に包まれて、力が抜けていく。
 
 「い、いらっしゃいませぇ!な、何名様でしぅか!」
 
 そんな俺の視界の端で今日から働き始めたメドゥーサは必死で接客を繰り返していくのだ。無論、最初から上手く行く筈もなく、何度か失敗したり、からかった客を睨んだりして、ディーナに小突かれているのが見える。しかし、それでもチョコラータはめげずに仕事をこなすのだ。慣れない敬語で噛みまくったり、料理を運ぶ途中でバランスを崩したりしても涙一つ見せない。
 
 ―頑張れよ…チョコラータ。
 
 俺の前で見せていたのとはまったく違うその気丈な姿に羨望と嫉妬を感じながら、俺の目蓋は抗えない眠気に閉じていく。そして、そのまま全身を包む気だるい感覚に引っ張られるように眠りの中へと落ちていくのだった。
 ・
 ・
 ・
 ・
 「…きて……お……さいよ」
 
 ―ん…ぁ……も、もう少し……と言うか後、五分くらい別に良いだろ……。
 
 「こんな……風邪引く……。おき……」
 
 ―なんだ…そんなに構って欲しいのか…可愛い奴め。分かった。起きるから、その代わり後で熱っぽいキスを――
 
 「起きろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
 「うぉぉぉぉっ!!」
 
 ―耳元でいきなりはじけた大声に俺の意識も一瞬で覚醒する。
 
 突っ伏していたテーブルから顔を上げて、敵襲かと左右を見渡すと、そこは見慣れた俺の部屋ではなく、通い慣れたミルク・ハーグの店内である。どうして、こんな所で寝ているのかと首を捻ったが、顔を真っ赤にするチョコラータの姿を見るとすぐさま思い出す事が出来た。しかし、俺の記憶とは違い、店内には客らしい人間は一人も居ない。身体に随分と溜まっていた疲労がそこそこ消えて居る事から察するに、俺はかなり寝ていたのだろう。
 
 ―拙ったなぁ…。
 
 正直、ピーク前には邪魔であろうと思い、逃げ出す算段していたのだが、その前に俺の身体が眠気に負けてしまったらしい。貴重な稼ぎ時にも関わらず、テーブル一つを潰してしまった事に後でディーナに謝やまらなければならないだろう。と、そこまで考えた瞬間、俺は肩の暖かい感覚に気づいた。
 
 ―これ…タオルケットか…?
 
 魔王城の中はどういう構造になっているのか、どんな季節であっても適度な気温に保たれている。勿論、それは魔王城の中にある小さなこの店も同じだ。多少、居眠りをした風邪を引く心配は無い。しかし、それでも肌寒かろうと誰かが――恐らくディーナかエリー辺りが――掛けてくれたのだろう。その誰かに感謝しつつ、俺はそっとチョコラータへと向き合った。
 
 「お客さ〜ん…もうお店閉めちゃうんですけれどー」
 「分かった…悪かったから、そんな目で睨むなって」
 
 もう既にあがる前であったのか、似合っていたエプロンを外し、露出度の高い格好に戻ったチョコラータの目は良く分からないが怖い。心なしか蛇がぐったりしているので、本気で怒っているわけでは無いだろうが、じとーと睨むような目線はずきずきと良心を痛ませる。最後まで付き合うなどと言いつつ、あっさり眠気に負けてしまったのだから当然だろう。しかし、まぁ、俺としても色々と言い訳がしたくもあり…するのは無粋だと思ったりもするのだ。
 
 「まったく…寝言でも口説いてるなんて信じられない…」
 
 ―しかも…さっきのアレ聞かれているし……。
 
 思わず頭を抱えたくなるくらいの失態だ。正直、近年、稀に見るレベルである。これが一夜を共にした後であれば、まだマシかもしれないが、生憎、俺とチョコラータがそんな艶っぽい関係になる事は決してない。そんな相手に寝顔を見られてしまったばかりか、寝言まで聞かれていたとは…これだけでも悶死するレベルだ。神様とやらにやり直しを要求したいくらいではあるが、残念な事に俺はその神様に中指をおったてて真っ向対立している側の人間である。どれだけ祈っても、それが届く事はまず無いだろう。
 
 「そ、それよりさ。このタオルケット、誰が掛けてくれたのか知らないか?」
 
 話題を逸らす為に肩のタオルケットを手にとって、広げる。薄い乳白色をした布地にオレンジ色の糸で『みるく・はーぐ♪』と刺繍をしてあるタオルケットは恐らく店の備え付けのものだろう。酒もそこそこ美味しいこの店は、酔いつぶれた客用に幾つかこういうタオルケットを用意していた。オーナーであるディーナの趣味を伺わせるそのタオルケットがずっと俺の肩に掛かっていたと思うと流石に少し恥ずかしかったが、文句を言える立場では無い。大人しくそれを飲み込みながら、俺は再びチョコラータの方を見た。
 
 「し、知らないわよ!アンタは知らないだろうけど、私はずっと忙しかったんだから…!」
 
 ―へぇ……。
 
 綺麗な髪から突き出たエルフのような耳まで真っ赤にしながら、チョコラータはそっと後ろを向いた。しかし、気づいて欲しそうに尻尾を揺らす仕草や、こっちを見返している蛇の視線から察するに、これを掛けてくれたのはチョコラータなのだろう。てっきり、ディーナかエリー、もしくはピーク時に入ってきた他の娘であると思っていただけに正直、かなり意外である。
 
 ―そもそも…この狭い店の中で気づかなかったって事自体、無理があるんだよな。
 
 これがスリとかなら話は別かもしれないが、これだけ大きなタオルケット――しかも、店の備え付けのものだ――を被せて、気づかない訳が無い。そもそも、この店はお世辞にも大きいとは言えないし、普通に壁際に立つだけでも店内を見渡せるのだから。そして、チョコラータが無意味に嘘を吐くような子であるとは思えない。つまり、そんな嘘を吐くと言う理由がある時点で、犯人はもう一人しか居ないも同然だ。
 
 「じゃあ、その知らない誰かに有り難う、助かったって伝えておいてくれ」
 「べ、別にアンタの為じゃ…と言うか、わ、私じゃないんだからね!」
 「はいはい」
 
 念を押すように言うチョコラータの声を背に受けながら、俺はゆっくりと立ち上がった。無理な姿勢で長時間、寝ていた所為か、身体中が何処か固まっているような気がする。歩くのも難儀しそうなので、首や間接を軽く回すと少しはマシになった。
 
 「あ、ハンスちゃん、起きたのね〜」
 
 軽くストレッチしている俺に、聞き覚えのある間延びした声が掛かった。釣られてそちらを見ると、厨房の方からディーナが此方を伺っている。それに軽く手を振りながら、俺は口を開いた。
 
 「あぁ、ディーナ、すまなかったな。テーブル一つ潰して」
 「良いのよぉ。今日は皆、帰ってきたばっかりで、お部屋に篭ってるから暇だったもの〜。ハンスちゃんも今日、帰ってきたばかりなんでしょぉ?」
 「まぁ、な」
 
 そう答えると、視界の端でチョコラータが気まずそうな顔をした。目を伏せて、ぎゅっと握り拳を作った様子はまるで反省しているようだ。コイツには戦場帰りであることは言っていなかったので、恐らくは今、知ったのだろう。言えば変に遠慮する事は分かっていたので抑えていたのだが、ここまで落ち込んだ姿を見せるとは思わなかった。しかし、何か言いたそうにチラチラとこっちを見てくる姿は可愛らしい反面、やっぱり何処か面倒臭い。
 
 ―やれやれ……ホント、手間の掛かる奴だ。
 
 「そう言えば、ディーナ。このタオルケットなんだが」
 「あぁ、それはねぇ「わーーー! わーーーーーー!!」」
 
 ディーナの返事をかき消そうと大声を上げて、両手を振るうチョコラータの顔は面白いくらいに焦っている。もう犯人は九割方、確定しているというのに余程、俺に聞かせたくないらしい。恐らく、それだけ俺に惚れたと思われたのが嫌なんだろう。俺も別にこの程度で惚れられたと思うほど自意識過剰ではないが――そもそも、俺たちの第一印象はお互いに最悪に近いのだから――、しかし、チョコラータを弄るのに使えるのであれば、使えるものは使うべきだ。
 
 「いやぁ、寝ている俺にタオルケットを掛けてくれるなんて、どれだけ優しい子なんだろうなぁ。一度、会ってみたいなぁ」
 「ふふ…きっと、とっても可愛くてぇ、とぉっても意地っ張りな子なのかもしれないわね〜」
 「う…うぅぅぅ……」
 
 面白そうに乗ってきたディーナと俺の声に、さらに顔を赤く染めながら、チョコラータはぎゅっと握り拳を作った。そもそも真実を知っているはずのディーナがそこまで言っていれば、ほぼ答えも同じである。このタオルケットを掛けられる人間で意地っ張りな子なんて一人しかいないのだから。しかし、それでもチョコラータは知られるわけにはいかないと必死になっている。それがまた面白く、可愛らしい。
 
 「う、うるさいわね! よ、妖精よ! 妖精!! 眠っている奴が放っておけない妖精さんが居たのよ!」
 「あれ? お前さっき知らないって言ってなかったか?」
 
 ―いや、お前、今時、妖精さんはねぇよ。どれだけ少女趣味なんだ。
 
 それはそれで魅力的な突っ込み方ではあるが、本筋からズレ過ぎてしまう。しかし、それを自重する事が出来ても、顔がにやけるのは我慢できなかった。にやにやと俺の甘い顔には似合わない顔つきになっているのを自覚しながらも、今更、チョコラータを弄るのを止める訳にもいかない。
 
 「よ、妖精なんて言っても信じてもらえないと思ったからよ! それとも私だとでも思った!? ばっかじゃないの!!?」
 「うん」
 「……え?」
 「いや、だから、お前だと思った」
 「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 
 そこでチョコラータの顔はまるで湯気でも見えそうなくらい赤く染まった。程よく熟した林檎に負けないほどのその赤は、間違いなく今日一番のモノだろう。それを堪能する俺の目の前で、チョコラータはあたふたと手を振るいながら、視線を彷徨わせる。口もぱくぱくと開閉を繰り返してはいるものの、そこから言葉らしい言葉が出る事は無い。
 
 「はいはい〜。イチャつくのはそこまでにしてぇ「い、イチャついてなんかいません!!」ハンスちゃんはチョコラータちゃんを送っていってあげてね〜。夜ももう遅いから〜」
 
 少し気の毒になる程の慌てっぷりに流石のディーナも可哀想になってきたのだろう。そっとそんな助け舟を出してくれる。その言葉にチョコラータが反応して一部、遮ったのもお構い無しに言葉を続けるのは流石と言うべきだろう。俺でさえ時折、敵わないと思う百戦錬磨のディーナにチョコラータが勝てるはずがないのだ。彼女に勝てるのはそれこそ寡黙な反面、一言一言が重い、彼女の夫だけだろう。
 
 「あぁ、分かってる」
 「ちょ…あ、アンタも…!!」
 
 別に俺としても異論は無い。そもそも起きたときからそのつもりだったのだ。流石に日も落ちている――魔力の光で輝く魔王城は寧ろこれからが本番かもしれないが――街中を女の子一人で帰すわけにはいかない。それがさっきタオルケットを掛けてくれるくらい優しい女の子ならば尚更だ。無論、この魔王城で魔物娘を逆に襲おうとする愚か者は居ないだろうが――居たとしても、恐らくは嫁に捕まって監禁されているだろうし――用心に越した事は無い。
 
 「わ、私は別に一人でも……!」
 
 しかし、チョコラータはそれが納得できないらしい。そりゃ、まぁ、そうだろう。何だかんだでこんなやり取りが出来るくらいにはなったとは言え、俺たちの第一印象は最悪で、今日出会ったばかりなのだから。そんな相手に部屋まで送らせるのは流石に用心が足りないと俺も言わざるを得ない。しかし、それはまぁ、人間の場合だ。もっと言えば、今回のケースは『俺』と『チョコラータ』である。そんな艶っぽい関係になる要素が一つ足りとて存在しない俺たちが、どうにかなる可能性は0にも等しい。
 
 「良いから送らせろ。ここで一人にすると俺がディーナに怒られる」
 「……」
 
 割と強めに意思を込めた言葉に、少しの間、逡巡を見せた後、コクリとチョコラータは頷く。無論、その顔はまだまだ真っ赤で不服そうではあるものの、反論をするつもりはないようだ。そんなチョコラータの様子を見ながら、俺は空中でさっとタオルケットを四つ折にして、ディーナへと手渡す。勿論、その上にコーヒー二杯分のお金を置いて。
 
 「今日は色々、有り難うな」
 「ううん〜。こっちこそ〜。チョコラータちゃんのお陰でとっても助かったわぁ」
 「あ…わ、私も有り難う…ございまし…た。あ、後…失敗ばかりで…ごめんなさい……」
 
 ペコリと頭を下げる動作はまだ何処かぎこちないし、言葉もたどたどしい。恐らくは今までこうしてお礼を言った事は少ないのだろう。明らかに慣れて居ないその様子を見れば分かる。しかし、それでもチョコラータは一歩ずつ前進しようとしているのだ。それが何処か微笑ましく、羨ましい。
 
 「気にしないでね〜。誰もが最初は失敗するものだものぉ。私だって失敗ばっかりだから、これから一緒に頑張っていきましょうね〜」
 「は、はい…!」
 
 にこにこと笑うディーナの笑顔に釣られて、チョコラータもまた慎ましやかな笑みを浮かべた。初めて見るチョコラータのその顔は、月明かりの下に一輪だけ咲く白燐の花を思わせる。何処か気高く、何より可憐な笑みは見ているだけで、心を惹かれる気がするのだ。
 
 ―まぁ……こんな顔が見れただけでも収穫か。
 
 今日一日だけでも色々な事があり、かなり疲れたものの、チョコラータの微笑みはその報酬としては十分すぎるだろう。少なくとも、俺がそう思えるくらいには、彼女のそれは魅力的である。そして、その微笑を見る俺は、ここを紹介して良かったと心の底から思うのだ。
 
 「さて…それじゃあ帰るぞ」
 「えぇ。『ママ』また」
 「うん〜。またね〜」
 
 ディーナの人徳か一日で『ママ』と呼び、手を振り合う二人を背に、俺はそっと店の扉を押した。キィと言う蝶番の音と共に木製の押し戸は開き、『外』の様子が目に入る。既にその姿を歓楽街らしい歓楽街へと一変させた『外』は、華々しい魔力の光が踊っているようだ。それから逃げるようにそっと上を見ると、夜空ではなく、手が届かないような先に石造りの天井が見える。文字通り『魔王城の下』にあるこの階層の上には、また別の街が広がっている筈だ。さらに、ここはまだ浅い階層ではあるものの、下には数え切れないほどの層が連なっている。
 
 ―ホント……とんでもない場所だよなぁ…。
 
 地下に降りすぎると確実に迷うと言われる街は勿論だが、そこに住んでいるヒトもまたとんでもない。街中を普通に歩いているとドラゴンと擦違ったり、デュラハンとその旦那が睦ましく歩いている所を見かけるのだから。それこそ伝説として聞くレベルの使い手だって数多く居るだろう。そんな街の中で俺が今、普通に生きていると言う事が何か途方も無く現実味を伴わない気がした。
 
 「…どうしたの?」
 「いや、何でも無いさ」
 
 そんな俺を現実感へと引き戻したのはチョコラータの訝しげな声だ。後ろから掛けられたその言葉に振り返ると、心配そうな色を浮かべてこちらを見ていた彼女と目が合う。恐らくさっきまで寝こけていたので何か体調不良なのかと心配しているのだろう。口は悪いものの、性根は優しいチョコラータに俺はそっと微笑んだ。
 
 「それより行こうぜ。俺ももう眠いしな」
 「あ、うん……」
 
 そのまま再び前へと向いて歩き出す。しかし、何処へ行けば良いのかまるで分からない。一歩二歩三歩と立ち止まり、後ろを振り向くと、チョコラータが首を傾げて俺を見返す。髪の蛇たちも不思議そうに見つめている辺り、本当に分かってはいないのだろう。メドゥーサと言う事は頭の回転は悪くない筈だが、慣れてない仕事で疲れたに違いない。それを労ってやろうとも考えたが、どうにも言い出し辛かった。
 
 「あー……お前が前じゃないと俺は場所が分からないんだが」
 「あっ…そ、それを早く言いなさいよ!!」
 
 真っ赤になりながら、俺の前へと身体を進める姿は何となく微笑ましい。元々、大分、小柄な身体を――ただし、蛇の部分は除く――しているからだろうか。まるで子供に先導されているような気がする。しかし、そんな事を言ったらまた怒るであろう事は確実だ。俺はその気持ちを胸にそっと仕舞い込んで、チョコラータの横を着いていった。
 
 「そう言えば…さ。アンタって『ママ』とどうして知り合ったの?」
 「んー…少し長くなるんだが、良いか?」
 「ここから私の部屋まで少し遠いもの。道中の暇潰しになるし、構わないわ」
 
 ―やれやれ…素直じゃないな。
 
 自分から聞いてきて暇つぶしも何も無いだろうに、とは思うものの、チラチラと此方を気にして振り向く蛇を見ると何も言えない。多少、マシになったとは言え、やっぱりまだまだチョコラータは意地っ張りなのだ。それを本人が誰よりも分かっているのだから、俺が今更、何か言う必要は無いだろう。
 
 「まぁ…始まりはお前の姉さんと一緒さ。ナンパした」
 「ホント、アンタって見境無いわね」
 
 呆れたような声が先導するチョコラータから掛かる。それに本能的に言い返そうとして口を開くが、図星であるだけに何も言えない。一応、俺としては見境無しに声を掛けているわけではなく、一定の基準がある訳だが、それをチョコラータに言っても信じてはもらえないだろう。
 
 「ほっとけ。で、逆に店の事で相談を受けてな」
 「やっぱり上手くいっていないって事…?」
 
 ピクリと身体を震わせて、不安そうに俺を見上げるチョコラータの姿が目に入る。今日一日で何だかんだと仲良くなったのだろう。その目には、親しい相手を心配するような色が見て取れた。会って数時間の相手――しかも、相手は意地っ張りで強情と来ている――にこれだけ慕われる彼女達の人徳を羨ましく思いながら、俺は否定する為に頭を振る。
 
 「いや、逆だ逆。利益が出すぎて、どうしようかと迷ってたんだよ」
 
 ―今から思い返してもどんな自慢かと思う。
 
 正直、アレほど困った相談は今までに無かった。聞いた瞬間、「好きにしろよ」と言い放ちたくなったのだから。しかし、それを我慢して話を聞いている内に、彼女がそれを真剣に悩んで居る事を知ってしまったのだ。そして…知ってしまった以上、突き放すことが出来ないのが俺の性分である。
 
 「彼女はアレでも小心者でな。多すぎるお金は不安になるらしい。「もしかして、ぼったくっているんじゃないか?」だとさ」
 
 実際、あの店の値段設定は高い所か、かなり良心的な方だ。それでも利益が出るのは、あの店の雰囲気が良く、常連客が多いからである。しかし、小心者で優しい彼女は、そうは思わない。そもそも、店を始めたのも利益を出すためだけじゃなく、料理が好きな夫――この時点で俺は彼女の相手がかつての戦友とは知らなかった――の料理を多くの人に食べてもらいたいから始めたのだから。無論、他の店の値段を見て、研究なども進めたらしいが、どうしても納得できなかったらしい。
 
 「まぁ、勤めれば分かると思うが、あの店の値段設定は良心的だ。だから、まず値段を下げるのは否定しておいた。値段を下げるといえば聞こえは良いが、アレ以上下げると価格破壊になりかねないしな」
 「まぁ…そうね。あ、ここ右に曲がるわよ」
 
 元々、利益を出すために出している店では無いとは言え、ディーナは散財するような女性ではない。元々、夫と共に食べていければそれだけで幸せを感じるような慎ましい人なのだから。飲食店を経営しているので食費はかなり抑えられるし、さらには散財をしない分、利益が溜まっていくのは必然であったのだろう。そして、そんな彼女が勿論、最初に思いついたのは値段を下げる事だった。
 
 「次に店の拡張をするのもまぁ、まず無理だな。あの店は厨房を一人で回しているんだから。アレ以上の広さにするのは厨房の負担が大きすぎる」
 「今でも結構、大変そうだものね」
 
 次に彼女が思いついたのは店を拡張する事だ。元々の目的が夫の料理を多くの人に味わってもらう事だったのだから、それはある意味、必然の帰結であったのかもしれない。しかし、それも上記の理由により難しいだろう。無論、ここで二号店を出すという選択肢もあるが、ディーナの穏やかな雰囲気が人気の秘訣であるあの店の二号店を出してもすぐに潰れるだけである。それどころか折角、根付いた常連客も幻滅する可能性も高い。故にこれも却下だ。
 
 「だから、俺が言ったのは従業員の雇用数を増やす事と休日を増やす事だよ」
 
 元々、あのお店は週休一日だけであった。それは人間の店としては普通である。しかし、旦那の居る魔物娘が経営する店としては働きすぎも良い所だ。それだけやる気があるのは良い事だが、働きすぎも良くない。旦那と一緒にイチャイチャ出来ない事こそが魔物娘にとっては一番、辛い事なのだから。丁度、その辺りで一人でお店を回していたディーナが疲労を溜め込んで、一度、倒れたのもあって、店の休日は四日になり、従業員を雇う事になった。
 
 「まぁ、そこで、エリーを雇ったのはびっくりしたけどな」
 
 しかし、彼女は募集開始からすぐに応募してきたエリーの事情を聞いて、心を強く痛めたらしい。その状況を変えるために自分でも何かしようと始めた結果が、変わり種ばかりの店である。しかし、そんな店でも需要はあるのか、あの店に客が途絶える事は殆ど無い。寧ろ、普通の店では中々、味わえない感覚に評判を上げているとさえ聞く。まぁ、幾ら評判が上がっても過剰なくらいに従業員を雇い、その馬鹿高い時給に殆どの利益を流している上、従業員に合わせた店の大改造も辞さない彼女の手元に残るのはほんの小さなお金だけだ。しかし、毎月、少しずつ溜まるお金を見て、彼女はとても幸せそうにしている。その姿にかつて予想外に昇りすぎた利益に悩む面影は無い。そんな彼女を見ていると、分相応の幸せと言う言葉がどうしても過ぎるのだ。
 
 「…まぁ、その他にもどう店を改造すれば良いかとか何かある度に色々、相談されてな。それを解決していくうちに自分が携わる店としてはやっぱり気になるじゃないか。それから顔を出し始めて…今でも常連の一人として付き合いが続いているわけだ」
 「へぇ……アンタって相談にはちゃんと応えるのね」
 「いや、そこかよ」
 
 俺としては、ディーナのぶっ飛びっぷりに感嘆して欲しい所である。今だからこそ笑い話にでも出来るが、当時は本当に大変だったのだから。それこそ相談の度にこの城下町を駆けずり回って、何とかしてきたのだ。無論、それは俺の損な性分が大きな理由ではあり、ディーナには何の非も無いが、ぶっ飛びっぷりには悩まされたものだ。
 
 「別に良いじゃない。褒めてるんだから」
 「いや、まるで褒められてる気がしないぞ」
 
 ツンと顔を背けるチョコラータにそう言った瞬間、俺は傍らに酒場があるのに気づいた。何度か足を運んだことのあるその店は、酒だけでなく、料理が美味しい事でも有名である。酒場ではあるものの夜行性の魔物娘を主なターゲットにしているのだろう。中は普通の魔物娘よりも、ナイトメアやヴァンパイアなどが多いのが印象的だった。
 
 ―そう言えば…コイツ、飯は食べたのか…?
 
 俺はついさっきまで寝ていたので、空腹感よりも眠気の方が強いが、チョコラータはそうとは限らない。ディーナが賄いを出さないとは思わないが、変な部分で遠慮しそうなチョコラータはそれを断った可能性もある。無論、それはあくまで可能性と言うだけだ。確証は無い。しかし…まぁ、なんだかんだと帰ってきてから俺は食事をしていないし、チョコラータもまだ食べてないのであれば、今日一日、頑張った御褒美に飯の一つでも奢ってやろうと思うのだ。
 
 「そう言えばお前、晩飯は?」
 「賄いを貰ったわ。あのお店、本当に美味しいわね」
 「そうかー」
 
 しかし、俺のそんな企みはあっさりと玉砕に終わる。まぁ、俺自身、可能性は低いとは思っていただけに落胆はしていない。寧ろ、変に意地を張らなかったチョコラータに安心さえしていた。
 
 ―今日の様子を見る限り…これからも大丈夫そうだな。
 
 チョコラータが上手くやっていけるか心配ではあったが、恐らく大丈夫だろう。無論、ディーナやエリーが彼女を拒むとは決して思えないが、意地っ張りなメドゥーサが拒む可能性は考えていたのだ。しかし、彼女達の人の良さに当てられてか、随分と仲を接近させているようにも思える。それは…まぁ、曲がりナシにも相談を受けた俺にとって喜ばしい事だろう。
 
 「……がとう」
 「ん?」
 
 そんな俺の耳にポツリと呟くような声が聞こえる。不審に思ってチョコラータの方を見るが、俺より小柄な彼女の顔は少し俯いていて見えない。しかし、その顔が真っ赤に染まっているのが髪から突き出た耳を見ればすぐ分かる。そして、気の毒なくらい真っ赤に染まったその耳や、機嫌良さそうに揺れる蛇を見れば、聞こえなくとも彼女が何を言いたかったのか察する事は可能だ。しかし、ここで甘やかすつもりは俺にはさらさら無く、無言のまま歩き続けて先を促し続ける。
 
 「だ、だか…ら…色々、ありが…とう…」
 
 そんな俺の横でぎゅっと握り拳を作りながら、チョコラータが言った。その姿を見るだけで、彼女がどれだけの勇気と意思を振り絞ったのかが良く分かる。そして、それは今日一日で、凄い進歩した証であろう。それを手伝ったものとして微笑ましく思うのと同時に、チョコラータをからかってやりたい気持ちがむくむくと鎌首をもたげるのだ。
 
 「何が色々なのかお兄さん分かんないなー」
 「なっ!!!!」
 
 からかう様な色を強く混ぜながら言った言葉にチョコラータは、真っ赤な顔で俺の顔を見上げてくる。流石にからかわれている事に気づいたのだろう。その視線は強く、きっと睨めつける様なものだ。しかし、最初の最悪であった時期を乗り切った俺にはそんなものは痛くも痒くも無く、飄々と受け流し続ける。
 
 「うぅ……ホント…アンタ最悪…最低よ…!」
 
 そんな俺を罵りながらも視線を彷徨わせる姿は、必死で言おうとしているのだろう。ぎゅっと握っていた拳も所在無さ気に揺れていた。庇護欲を誘うその姿に自分で追い詰めておきながら、助け舟を出したい気持ちが沸きあがるが、俺はそれをそっと抑えつける。
 
 「つ、疲れてるのに…私の事手伝ってくれてありがとう……」
 「あぁ」
 
 「良く出来ました」と言う気持ちを込めて、その髪に手を伸ばす。意外なほど撫でやすい高さにあるその髪は、指の間をすり抜けていくくらい滑らかだ。最高級のシルクでも、ここまで滑らかでは無いだろう。あまりの肌触りの良さにずっと撫でて居たくなるが、俺の手を迎撃するように蛇が伸びてくる。俺の知る図鑑では好意を持った相手は噛まないと書いてあったが、俺たちはそれほど親しい相手ではない。噛まれるのは流石に勘弁してもらいたいので、俺はさっと手を離した。
 
 「う…き、気安く撫でないでよ!!」
 「あぁ、悪い。」
 
 簡単にそう謝りながら、俺は手をぎゅっと握り締めた。まだ掌の中に残るチョコラータの髪の感覚がどうにも艶かしい。魔物娘の髪を触った事など一度も無いが、皆、あんな風に柔らかい髪をしているんだろうか、と何処か冷静な部分がそう思った。
 
 「まぁ、気にするなよ。別にお前の為にやったわけじゃないから」
 
 ―言ってからそれがツンデレそのものな台詞である事に気づく。
 
 しかし、言った言葉は取り消せない。何よりこれは本心だ。俺はチョコラータの為を思ってやった訳でも決して無い。ただ…そう。ただの自己満足だ。オナニーとなんら変わりの無いクソッタレな慰めである。
 
 「べ、別に期待してないけど……じゃあ、お姉ちゃんの為って事…?」
 「それもちょっと違うな。まぁ…掻い摘んでいえば俺の自己満足って訳だよ」
 
 ―結局の所…傷の舐め合いだからな。
 
 チョコラータはどんなつもりかは知らないが、俺はコイツに親近感を抱いている。だからこその嫌悪感を抱いている。そして微かな同族意識を抱いている。そんな彼女の為に動く理由なんて、結局の所、俺が変わりたいからだ。本当は誰かに救ってもらいたい気持ちをチョコラータに投影して、彼女の助けになる事で自分自身を救った気になっているなのだから。それが俺のオナニーと何ら変わりはないのだろう。相手の都合なんてお構い無しの独り善がりだ。
 
 ―それをチョコラータに言うつもりは無い。
 
 気恥ずかしいのもあるが、俺とは違い根が素直で優しいコイツに内心を吐露すれば俺を慰めるだろう。そして、問い詰めるだろう。何となくそんな予感がする。しかし、俺にはそれを拒絶するしか道が無い。どんな慰めも言葉も、コイツから掛けられるというだけで傷の舐め合いにしかならない。そんな非生産的な行為で、ようやく変わり始めたコイツを煩わせる訳にはいかないのだ。俺とは違い、コイツはまだ幾らでも変わっていけるのだから。
 
 「ふぅん……」
 「それより…次はどっちだ?」
 
 納得してない事を全身で表現するチョコラータと俺の前には左右に道が分かれていた。共に別の居住区へと繋がるそれらの道はどっちへ進んでも不思議ではない。しかし、魔力で灯る街灯に照らされた道には人っ子一人いなかった。それも当然だろう。この時間なら、殆どの魔物娘やその旦那は部屋でイチャイチャしている頃だし、夜行性の魔物娘は街へと既に繰り出している。つまり、この時間、街と居住区の間にあるこういった道は不安になるくらい無音で誰も居ないのだ。
 
 「ここで良いわ。もうすぐだし。アンタに住んでる所がバレたら身の危険を感じるしね」
 
 俺の方へと向き直りながら、チョコラータはそう言った。その顔はまだ不満そうな色が残っているものの、今は追求する気は無いらしい。下手に追求されればそれこそ喧嘩別れになりかねなかったので、俺としても有難い。別にチョコラータの事は何とも思っていないが、良く出向く店の従業員と喧嘩中とかは勘弁願いたいのだ。
 
 「そんな台詞はもうちょっと丸くなってから言えよ」
 
 しかし、そうは思っても、軽口を返したくなるのが俺の性と言うべきか何と言うか。しかし、チョコラータを前にするとどうしても苛めたくなってしまう。別に俺が悪い訳ではなく、弄ると面白いチョコラータが悪いのだ。うん。そのはず。だから、俺は悪くない。
 
 「せ、成長期なんだからまだまだ大きくなるわよ馬鹿!!!」
 
 その俺の言葉をチョコラータは別の意味に取ったらしい。ぎゅっと慎ましやかな胸を抱きしめながら、赤くなってこっちを睨んでくる。その意味が分からず、俺の思考は数瞬、停止してしまった。そして、その後、数秒をかけて胸を抱きしめることと良い、まるでセクハラされたような反応と良い、胸の事を言っているのだと理解する。
 
 「いや、胸の話じゃなくて態度の事な」
 「……………」
 「……………」
 
 ―そして二人の間に流れるのは沈黙の時間だ。
 
 お互いの顔を見詰め合って、言葉の流れない時間は恋人同士であればロマンスを感じさせるものなのかもしれない。何より二人は別れ際なのだ。『恋人』であれば、ゆっくりと流れる初々しい雰囲気の中でキスのタイミングでも計っている事だろう。しかし、俺たちはそんな関係では断じてなく、ついこの間、知り合ったばかりの『他人』である。
 そんな俺たちの関係を象徴するように、チョコラータの顔はさらに赤の支配域を広げて行き、耳や額まで赤く染まっていった。彼女の心情を何より如実に表す蛇も気恥ずかしそうに身悶えしている。そんな彼女を見る俺の顔にはからかうような物が強くなっていき、チョコラータはそれを見て、恥ずかしそうに顔を赤くした。
 
 「わ、分かってるわよ! ボ、ボケただけ! ちょっとボケただけなんだからっ! そ、そんな目で見ないでよぉぉぉ!!!」
 
 二人の間に流れる空気に耐え切れなくなったのか、チョコラータは俺に背を向けて逃げ出した。その速度は到底、俺が追いつけるようなものではない。肉体的に人間とは比べ物にならない程、強靭な魔物娘の中でも、メドゥーサは上位に食い込むのだから。あっという間に迷惑になりそうなくらい大声をあげながら、闇の向こうへと消えてしまったチョコラータに掛ける言葉さえ見つからないまま、俺はT字路でぽつんと一人取り残される。
 
 「くっくっく……やばい。アイツ…マジ面白いな」
 
 慌てて俺の前から逃げ出したチョコラータの様子に思わず笑みが漏れ出る。それを抑えようとする気さえ起こらない。本人が目の前に居れば、顔を赤くして拗ねるだろうからまた別だが、もうチョコラータは居ないのだ。今日一日中、付き合った侘びにこれくらいは別に許されるべきだろう。
 
 「じゃ…俺も帰りますか」
 
 そう宣言するように言ってから、俺もまた踵を返して自室へと向かう。其の足取りはこれから一人寝が待っているというのに何処か軽いものだった。何だかんだで俺もチョコラータに励まされていたのだろう。そう思うと自分の身勝手さに吐き気がしたが、久々に足取りが軽いのは変わらない。
 
 ―やれやれ…ホント、救えねぇな……。
 
 そんな自嘲を一つ呟き、俺もまたチョコラータと同じように闇の中へと消えていったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「よぉ」
 「いらっしゃいませー。何名様でしょうかー?」
 「一人で」
 「失礼しました。飲食店に一人で来るような寂しい男がご来店でーす」
 「おいこら。そこはスルーだろ!? もしくは有り難うございますだろ!? お前は今、マジで色々な人に喧嘩を売ったぞ!!!」
 
 ―そんな掛け合いをチョコラータとするのはもう何度目だろうか。
 
 十回以降は数えてはいない。そんな馬鹿らしいことに脳の容量を使うのもどうかと思ったし、数える異議も無いからだ。それよりも可愛い子の事を考えているか見ていた方が幾らかマシである。
 
 ―と言っても…流石にこの時間じゃ殆ど客も居ないか。
 
 何時ものように戦場から帰ってきたついでに『ミルク・ハーグ』へ顔を出した俺の目の前には、三人の男がカウンターに座っている光景が広がっている。口汚く罵りあいながらも、仲の良い様子はまるで学校に入りたてのガキのようだ。今はどうやら一人の客が標的にされているらしい。それに内心、合掌をしながら、俺は制服姿のチョコラータの背を追って、テーブル席へと案内された。
 
 「こちらメニューになっています。ご注文がお決まりになりましたら、私の手を煩わせないタイミングでお呼び下さいー。個人的には今すぐ帰って欲しいですけれどー」
 「泣くぞおい。大の男が割りと本気で泣くぞ」
 
 別にチョコラータが俺にだけマトモな接客をしないのは何時もの事ではない。しかし、帰って欲しいとまで言われると流石の俺も傷つく。そもそも俺のハートは見事なガラスボディなのだ。ガラスの二十代なのである。別にチョコラータの事なんてどうも思ってはいないが、最近のコイツは俺の弄り方を覚えてびしばしと的確に突いて来るのだ。それを慰めてもらおうと魔物娘をナンパし続けているけれど、空振り続きである。
 
 「鬱陶しい…で、何しに来たのよ」
 「お前をからかいに」
 「帰りなさい。今すぐに」
 
 そんな掛け合いをしながら、俺はメニューを開く。そこには特に目新しいものは載っていない。チョコラータがここに勤め始めてから約二ヶ月ほどが経ったが、旬の野菜の変化に併せて、オーナーお勧め料理が変わったくらいである。週限定のメニューを大々的に打ち出して、客を引っ張る独創的な店もあるが、大体、こんなものであろう。寧ろコロコロメニューを変えるのは、客離れの一因になりかねないのだから。
 
 ―さて…と気分は肉料理なんだが……。
 
 戦場帰りの俺の腹は飢えているわけではないが、若干の小腹が寂しい感がある。今すぐ食べなくても特に問題は無いが、どうせ店へと顔を出したのだから何か頼みたい。そんな気持ちでメニューを眺めたが、そこまで空腹ではないが故の優柔不断が足を引っ張り、中々、決められない。結局、俺は選択を先送りしながらメニューを閉じた。
 
 「とりあえず何時ものコーヒーな」
 「はーい。宜しければ、コーヒーを注文されたお客様に、サービスで私用のコーヒーを注文する権利を与えられますが、どうされますか? っていうか、決定ね」
 「うわっ! コイツマジで伝票に2って書いてやがる!」
 
 さらさらと伝票に注文を書き込むチョコラータの姿には迷いが無い。もう流石に二ヶ月もやっていて慣れたのだろう。淀みの無い綺麗な文字はそれだけコイツがこの仕事に慣れていると言う事の証左であろう。それに安心する反面、迷い無く人の伝票に自分の分の注文を加える仕草に悪態が飛び出そうになってしまう。
 
 ―まぁ、どうせ自分の分は自分で払うんだろうが。
 
 これは、所謂、掛け合いを楽しむ為の舞台道具なのだ。別にコイツはかなり頑張っているのだからコーヒー代くらい奢ってやっても構わないのだが、チョコラータは頑なに受け取らない。それならそもそも、書き込まなければ良いと思った時期もあったが、コイツはかなりの寂しがり屋だ。こうやってからかって、構ってもらいたい裏返しなのだと最近、気づいた。
 
 「お前、ホント、嫌な店員だな」
 
 ―まぁ、そんなチョコラータに構う俺も俺なのかもしれないが。
 
 そんなチョコラータの気持ちが、分かっていても悪態を吐くのは俺もまた構ってもらいたいからなのかもしれない。結局の所、嫌な位に俺たちは似た者同士なのだ。しかし…出会った頃は嫌悪さえしていたその事が今ではそれほど嫌ではない。
 
 「安心なさい。こんな接客アンタにしかしないから」
 
 ―そんな風に思えるのはチョコラータが変わった所為だろう。
 
 少なくとも出会ったばかりのコイツはこんな風に花の咲いたような笑顔は滅多に見せなかった。俺に向けるのは大抵、からかわれて居る事に対する羞恥か、怒りくらいなものである。しかし、今は良くこうした笑顔を見せてくれるようになった。まぁ、第一印象が最悪だったので仕方ないといえばそうだが、それは別に俺だけの話ではない。仕事仲間や常連客に対しても同じである。未だ友人と呼べる仲の相手はいないらしいものの、出会った頃と比べて、コイツは着実に前進しているのは確かだ。
 
 「余計、悪いじゃねぇか」
 
 そんな風に悪態を吐きながら俺はこれ見よがしに溜め息を着いた。しかし、本心では別にそこまで嫌っているわけではない。この溜め息は演出だ。『悪態も吐ける相手』と言う関係を示すための、舞台装置に過ぎない。
 
 「まぁ、適当にゆっくりしていきなさい。特に忙しいわけでもないしね」
 
 そんな俺にひらひら手を振りながら、チョコラータは厨房へと消えていく。何処か上機嫌そうにも見える後姿に内心、安堵した。この所、戦場に出っ放しで、顔を出す事は出来なかったが、どうやら変わりは無いらしい。既に勤め始めて二ヶ月になるのだから、既に俺の手を離れたも同然である。とは言え、紹介した人間としては、チョコラータが上手くやっていけているかどうしても気になるのだ。
 
 「ハンスちゃんじゃないのー」
 「あぁ、ディーナ。今日も無事に帰ってこれたお祝いにな」
 
 そんなチョコラータと入れ替わりに、ディーナがこちらへ顔を見せる。さっきの悪態にも似たやり取りを聞いていたのだろう。その顔はニコニコと嬉しそうな表情を浮かべていた。あの悪態を吐き合うやり取りを見て、『仲が良い』と称する彼女は、俺たちが罵りあうととても嬉しそうにする。口ほど嫌い合っている訳ではないのを見抜かれているのだろうか。頭の回転は鈍いとは言え、勘は鋭いディーナならばそれも有り得る気がする。
 
 「お目当ては〜チョコラータちゃん〜?」
 「まぁ…ただ様子を見に来ただけだけどな」
 
 ニコニコと笑みを浮かべながら首を傾げるディーナにそう答えた。それは…まぁ、ツンデレとかではなく本心だ。チョコラータが目当てとは言え、その目的は別に色恋沙汰ではない。ただ、相談を受けた側としてどうしても気になるだけだ。其の他に特に他意は無い。
 
 「しっかり働いてくれてるわよ〜私達ってどうしてものんびり屋だから〜その分、きびきび動いて助かってるわぁ」
 「そうか。紹介した側としては、それは何よりだ」
 
 嬉しそうなディーナの其の台詞を何度、聞いたことか。ここ数ヶ月、今までに無い頻度でここに顔を出す度に飽きずに教えてくれるのだから。それこそ十回では効かないだろう。しかし、どれだけ聞いても、俺の脚は自然とここへと向かってしまうのだ。勿論、料理は美味しいという理由もあるのだが……どうしてもチョコラータの事が不安で仕方が無くなってしまう。
 
 ―やれやれ…まるで妹を見守る兄の心境だな。
 
 俺には妹はいないが、もし居たらこんな気持ちになるのかもしれない。無論、人間なんぞより寿命の長いチョコラータはその姿通りの年齢とはかけ離れている可能性もある。しかし、ここ最近、成長しているとは言え、まだ何処か危なっかしくて、変に甘えん坊な一面を持つ幼い彼女からどうしても妹と言うイメージを拭えない。
 
 「うふふ〜♪ と言いながら、ずぅっとも来てるわよね〜」
 「まぁ…ここの料理は美味しいから」
 
 ―しかし、ただの妹のようだと言ってもディーナは信じてはくれないだろう。
 
 嬉しそうなその顔には我が事のように嬉しそうな笑みが浮かんでいる。しかし、その視線は微笑ましいものを――例えば、とても初々しいカップルを――見るようなモノだ。何時からか送られ始めたその視線は、ディーナが間違いなく俺たちの関係を勘違いしている証左だろう。
 
 「青春ね〜♪ 私もあの人にぎゅうってしてもらってこようかしらぁ」
 「いや、あの…話を聞いて。俺は本当にアイツの事なんて何とも思ってないんだから」
 「じゃあ、ごゆっくりぃ〜」
 
 ―……うぅ…また誤解を解くことが出来なかった……。
 
 しかし、マイペースなディーナの誤解を解く事は、この俺が女性を口説かない程、難しい。また今日も誤解されたままという事実に俺は内心、溜め息を吐く。これで七度目か、六度目か…。少なくとも片手で足りない程度には失敗している。誤解を解く糸口も見えない現実は、今の俺の目下の悩みの種であった。
 
 ―まぁ…別に誤解されたままでも構わないと言えば構わないんだが…。
 
 他の女性であれば、放っておくが、チョコラータ相手はこっちから願い下げである。無論、チョコラータは最近は多少、悪態を吐くようにもなったが、それはあくまで冗談めかした可愛らしいものだ。寧ろ、悪態を吐く分、フォローも忘れないので、隠れていた素直さを良く顔を出す。また、最近は人に甘えることも覚え始めたのだ。この前も、お姉さんへの連絡先を盾に、人の貴重な休日を丸々一つ潰して買い物に付き合わされたのだから。プレゼント交換までさせられたのにも関わらず、結局、連絡先を貰えなかった。
 
 ―しかも、それが部屋に帰ってから気づいたというのがまた悔しい。
 
 そこそこ楽しかった所為で、別れた後にようやく気づいたのだ。正直、俺としては一生にあるかないかの失態である。それに文句を言ってやろうと翌日、店に乗り込んできたものの、嬉しそうに俺のプレゼントした安物のネックレスを着けるチョコラータに何も言う事が出来なかった。
 
 ―それに俺みたいな奴と浮ついた噂が流れるのなんて…チョコラータの為にならんだろう。
 
 「青春ね〜」
 「う、うわ!? お、お姉さん何時の間に…」
 
 何時の間にか俺の前へと座っていた女性の声に思わず、声をあげてしまう。二ヶ月前に出会ったっきりであったそのエキドナは、かつてと違い、嬉しそうな笑みを浮かべていた。まるで他人の事を我が事の様に喜んでいるようなその笑みはこの店のオーナーを彷彿とさせる。
 
 ―しかし、物思いに耽っていたとは言え…どれだけの使い手なんだよこの人…。
 
 転移魔術を使った形跡は感じられないし、普通に入ってきて普通に座ったとしか考えられない。しかし、チョコラータと同じ血が流れているとは思えないくらい豊満で長身な肢体の気配を感じ取ることは出来なかった。それはカウンターの三人組も同じだろう。店員であるチョコラータの案内も受けず、店内へと入り込んだエキドナに気付きさえしていない。この魔王城に居ると言う事はそこそこの使い手であろうに、俺も含め何も感じられなかったという事実に寒気さえした。
 
 「あら…?姉が妹の勤め先に顔を出しちゃいけない訳のかしら?」
 
 しかし、そんな俺の疑問がご立腹であったらしい。チョコラータの姉は不満そうに少し頬を膨らませた。何処か子供っぽいその仕草は到底、人妻には見えない。しかし、大人の女性そのものの容姿とのギャップが、その姿をとても魅力的に感じられる。
 
 「いや、別にそういう訳じゃ…」
 「なら、別に良いじゃないの」
 
 ―なんで俺の周りには微妙に話が通じない人が多いんだろう…。
 
 微妙に言葉が通じないのはチョコラータにもたまにあるが、この女性のそれは圧倒的である。ホルスタウロスであるディーナと良い勝負が出来るのではないだろうか。正直、二人が話している所がどうなるのか見てみたくもあるが、会話にならないような気もする。
 
 「それより…有り難うね」
 「…はい?」
 「あの子、随分と明るくなったわ。貴方って言うお友達が出来たお陰ね」
 
 さっきの嬉しそうな笑みをもう一度、浮かべてエキドナはそっと頭を下げた。しかし、俺はそれを素直に受け取ることが出来ない。だって、俺はアイツの友人でも何でもないのだから。確かに悪態を吐く程度の仲ではあるものの、所詮は『知り合い』の枠組みを出ていない。そもそも、アイツは俺なんかと友人になるべきじゃないのだ。俺は人殺しであり、臆病者であり、類稀な屑野朗なのだから。誰よりも自分の屑さ加減を知っている俺はそれを否定しようと口を開いた。
 
 「いや…別に俺はアイツと友人になったつもりは…」
 「…違うのかしら?」
 
 ―確認するような言葉を否定するのは簡単だ。
 
 ただ、「はい」と言うか、頷くだけで良い。ただ、それだけで否定は終わる。しかし、俺の口からは何一つとして言葉が、首を動かす力さえ湧き上がっては来なかった。心は勿論、それを否定しようとしている。其の方が良いと身をもって知っている。しかし、まるで身体の方がそれを拒否するように思う通りには動いてくれなかった。
 
 −そんな俺の脳裏に浮かぶのはこの前の『取引』の事。
 
 二人だけで遊びに出かけたのは別に一度や二度ではない。彼女の姉の連絡先を餌にされる以外にも、ここに顔を出した後で一緒に買い物に行ったりしているのだから。それは確かに友人らしい…或いはさらにその上の関係らしい行為なのかもしれない。それは俺にも理解できる。けれど……俺は………それをどうしても認めたくは無かった。
 
 「ふふ…貴方もチョコちゃんに似て、意地っ張りなのね」
 「放っておいて下さい」
 
 結局、答えを出せないまま固まってしまった俺に、そうエキドナは微笑んだ。何処か母性を感じさせるその微笑みは、流石は子持ちの人妻であろうと思う。悪態を吐く余裕すら無く、思わず照れたように顔を背けてしまった。
 
 ―くそぅ…どうにも最近、ペースが掴めない。
 
 チョコラータに出会ったからの俺は…正直『らしく』無い。それは勿論、今もそうだ。ずっと狙っていた女性が目の前に出てきたのだから、口説き文句の一つでも言えば良いのにどうしてもそれが出てこない。本当はチョコラータの話題を強引に終わらせ、こっちのペースに持ち込むことも出来た筈だ。しかし、百戦錬磨であるはずの俺の口は、まるで錆付いたように思うような言葉を紡いではくれない。其の割にはチョコラータへの悪態はすぐ出てくるのだから、分からないものだ。
 
 「正直、最初は不安だったけれど…噂に違わぬ解決っぷりでびっくりしたわ」
 
 そんな俺の目の前でそっとチョコラータの姉が目を伏せた。エキドナと言う高位の魔物娘だけあって、そんな何気の無い動作にも、とんでもない色気を感じてしまう。しかし、以前とは違い、それに目を奪われることは無い。最近はチョコラータと良く接している所為で、何処か似ている二人の顔に慣れてしまったのだろう。
 
 「噂…ですか?」
 「そ。悩んでいると声を掛けてくる女顔の男に相談するとどんな悩みでも解決してくれるって」
 「俺は都市伝説か何かですか……」
 
 ―とんでもない噂があったものだ。
 
 三流ゴシップ誌でさえ、今時そんな都市伝説は載せないだろう。俺自身、それが自分を指していると言われなければ、その都合の良い話に腹を抱えて笑っていたと思う。それくらいトンデモで馬鹿げた噂だ。実際は、下心満々で近づいた果てに、思いっきり振られているだけである。さらに、悩み相談を受けたとしても、それっぽいことを言って誤魔化しているだけの場合も少なくは無いのだ。そんな俺がまるで正義の味方のような噂になっていると聞かされるだけで、正直、かなり気後れしてしまう。
 
 「あら…友人でもなんでもない相手の悩みに解決するまで真摯に付き合ってくれる男なんて、それこそ都市伝説か何かだと思うけれど?」
 「まぁ……それがポリシーですからね」
 
 ―見捨てたりなんかするものか。
 
 無論、俺は女性を食い物にして生きて来た人種だ。その毒牙の前には子持ちであろうと人妻であろうと関係無い。俺の数少ない友人曰く「女性の敵」である俺は強引な手段こそ取らないまでも、その弱味に漬け込み一夜の相手となってもらう事が最高の幸せであったのだから。しかし、そんな俺にだってポリシーが…誰にも譲れない物がある。それが…例え死期を目前にした父の呪いの様な言葉から発するものであったとしても、それは俺の中にこべりついて、決して落ちない汚れになっているのだ。
 
 「そう言えば、もう少しでバレンタインねー」
 
 ―唐突に話を変えたのは落ち込む俺の様子を察したからなのか。
 
 天然が入っていて、たまに話が通じない時があるが、やはりこの女性の本質はとても鋭いのかもしれない。少なくとも、唐突に別の話へと持っていくそのタイミングは、一朝一夕では中々、身につかないであろう。殆ど顔見知り程度であるとは言え、まだまだ底を見せない目の前の女性に思わず感嘆めいた気持ちを抱いた。
 
 「あぁ、もうそんな時期でしたか」
 
 ―何時から、どういう由来で始まったのか知らないけれど…相手に普段の感謝を伝える日。
 
 それが高じて女性の方からチョコをプレゼントして、告白する日にもなった。人間側の街では今頃、街をあげてそわそわしたムードに包まれているだろう。意中の女性からチョコを貰えるかどうか、あるいは意中の男性にチョコを受け取ってもらえるかどうかと。まるで街中が初々しいカップルになったような感覚は、正直、苦手であった。まるで街中が自分の醜さを見せ付けられる鏡になったような錯覚を覚えるのだから。
 
 「チョコちゃんは貴方にあげるのかしら……」
 「さぁ、どうでしょうね。口は悪いけれど、感謝はされてる…とは思いますが」
 
 ―脳裏に浮かぶのはこの店を紹介した日の言葉。
 
 アレはおそらく嘘ではないだろう。そもそも、チョコラータが嘘を吐くシチュエーションなんて実はそう多くは無いのだ。意地を張った言葉ならまだしも、勇気を振り絞ったようなか細い声が嘘とは到底、思えない。無論、女性は演技と言う面では、男には追いつけない達人ではあるものの、チョコラータがそこまで器用なタイプには見えないのだ。
 
 「それが感謝じゃなかったら…どうする?」
 「…………」
 
 ―そんな俺を追い詰めるような言葉に、俺は答える言葉を持たない。
 
 今までの何処かほわほわとした雰囲気を消して、目の前の女性は真剣な表情になった。きっと俺の心の置くまで見据えるような強い視線は、まるで剣のようにも感じる。しかし、その剣から逃げる場所は何処にも無く、俺はただ沈黙だけを護り続けた。
 
 「例えば…それが好意であったら…貴方は妹に応えてくれるのかしら?」
 「そ…れは……」
 
 ―それは正直に言えば考えたくは無い事だった。
 
 無論、俺だってそこまで鈍感じゃない。チョコラータが俺に好意めいた物を抱いてくれているのは知っている。前回の『取引』もチョコラータにしてみれば勇気を振り絞って勝ち得た『デート』だったのだろう。それくらいは俺にだって分かる。顔を見る度に上機嫌になり、近づくだけで嬉しそうに擦り寄ってくる蛇を見れば尚更だ。少なくとも…嫌われてはいないとだけは確かに言える。
 
 ―でも…どうして俺なんかに…。
 
 何度も言うが、俺は屑だ。女性を食い物にした回数なんて本当に数え切れない。一夜を共にした相手であろうとも容赦なくヤり捨てるし、割り切った身体だけの関係こそが一番、楽だとさえ考えている。そして自分の性欲を満たす為なら、心にも無い愛の言葉を囁くし、幾らでも嘘を並べるだろう。そんな男がチョコラータのような良い子に好かれる理由なんて無い筈だ。だって、アイツはもう俺とは似ても似つかないくらい立派な女性になっているのだから。
 
 「……御免なさい。意地悪な質問だったわね。でも…家族以外に親しい人なんてあの子に今まで居なかったものだから」
 「いえ……当然だと思います」
 
 ―俺のような軽い男に騙されているんじゃないかと心配になるのも分かる。
 
 気まずそうなその表情の裏にはやはり妹を心配する気持ちがあるのだろう。初対面から妹の事を我が事の様に悩んでいたこの女性はやはり、それだけ妹の事を大事にしているのだ。仲睦ましい二人の絆に心が温かくなるのを感じる反面、チョコラータと俺のような男の縁が切れていない事に申し訳ない気持ちになる。
 
 「…姉としての我侭だけれど…出来れば受け止めてあげて欲しいわ」
 「………確約は…」
 
 ―出来ません。
 
 そう応えようとしている時点で、俺自身、チョコラータに惹かれている部分があるのは間違いないだろう。少なくとも…何ともなければ適当にはぐらかせば良いだけなのだから。しかし、今の俺には答えをはぐらかそうとする気持ちは一切、無い。自分でも驚くくらい真摯な気持ちで、その言葉を発そうとしていた。
 
 「例えばチョコちゃんが全身にチョコを塗りたくって食べて…とか言っても、応えてあげて「いや、流石にそれは無理です」」
 
 場を和まそうとしたのかはたまた何時もの天然なのか。親父ギャグ染みた相手の例えに言葉を途中で遮って思わず突っ込んでしまう。そんな俺の突っ込みに真剣だった顔を落ち込んだ色に染めて、エキドナは肩を落とした。全身で落ち込んでいると表現しているようなその仕草は、さっきまでのやり取りが天然であるというよりは全て計算づくであるような気さえする。
 
 ―しかし…俺の脳裏にチョコを塗りたくったアイツの姿が浮かび上がるのは何の冗談だろうか。
 
 一度、火が点いた男の妄想力は止まらず、茶色の甘い液体を胸に塗りたくって身体を預けるチョコラータの姿が消えないのだ。何度頭を振っても、別の事を考えようとしても、脳裏のチョコラータはより艶やかに俺へと迫り、その肢体を預けてくる。普段とはかけ離れた――そもそも俺の妄想であるので当然だが――色気のあるチョコラータに俺の体勢は人知れず前屈みになった。
 
 「…あら…コーヒーの良い香り。そろそろチョコちゃんが持ってくるかしら。あんまり近くにいると怒られそうだから、私はもう行くわね」
 
 そんな俺の目の前であくまでマイペースにエキドナが言う。正直、引っ掻き回すだけ引っ掻き回してもう帰るのか、と言う気もしたが、二人で向かい合っている姿をチョコラータに見られると面倒臭いのは確実だろう。それに俺としても、反撃したい気持ちよりも、これ以上、引っ掻き回して欲しくない気持ちの方が勝った。
 
 ―あぁ、でも…少しくらいは聞いても許されるよな。
 
 「あぁ、その前に……貴女の名前を聞かせてもらっても宜しいですかレディ?」
 「そうねぇ…義弟であれば教えてあげてもいいかもね」
 
 そんな風に悪戯っぽく微笑んだ彼女の答えに俺は小さく溜め息を漏らす。義弟になれば――つまりチョコラータと結婚すれば教えると言う彼女の完璧な宣言に突っ込む気力も折れてしまった。正直、言い訳も出来ないくらいの完全敗北である。しかし、敗北感を感じないのはどうしてなのだろうか。手玉に取られ、引っ掻き回された手腕が見事だったから…なのかもしれない。
 そんな風に考え込む俺の目の前で、エキドナはそっと指を動かした。見覚えのあるその動きは、俺の記憶が正しければ、食堂で見たものと同じ転移魔術だ。
 
 「じゃあね、色男さん。…あ、そうそう。あんまり女の子をタイプで分けて見ると…痛い目見るわよ? 後…貴方は気取った話し方より普段の方がとっても魅力的に見えるわ」
 
 その言葉を最後に指先で描かれた光の軌跡が光りだす。その暖かな光に包まれてチョコラータの姉は俺の目の前から消えてしまう。それは既視感を覚える程、見事な消えっぷりだった。彼女が座っていた筈の席には髪の毛一つ無く、その痕跡は何一つとして残ってはいないのだから。
 
 「お待たせ……ってどうしたのよ?」
 
 そんなエキドナと入れ替わりにチョコラータがひょっこりと厨房から顔を出してくる。その手に持つ特性の盆の上には注文どおり白亜のコーヒーカップが二つ並んでいた。二ヶ月前と変わらない芳醇な匂いを発するそのコーヒーに、心が落ち着くのを感じながら、俺は自分に向けた苦々しい笑みを浮かべる。
 
 「いや……世の中色々、凄い人が居ると思ってな」
 
 ―何もかもお見通しだったようだったしな。
 
 気取った話し方はともかく、前者は今まで一度だって指摘された事は無かった。俺自身、あんまりタイプ別に対応を変えていると言う事実は決して耳障りの良いモノではないだけに億尾にも出さなかったのだから。しかし、あのエキドナは一言でそれを言い当てた。まるで本当に俺の心を『見通していた』ような物言いには、完敗を通り越して感服さえしてしまう。
 
 「ふぅん…良く分かんないけど、はい」
 「あぁ、有り難う」
 
 俺の言う凄い人が自分の姉であると言う事も知らないまま、チョコラータは盆からコーヒーを手渡して、ちょこんと俺の前へと座った。よくよく見ればその姿には制服でもあるエプロンは無い。何時もの露出度の高い布地だけを纏っている格好だ。ディーナがどれだけ抜けていても――そもそもチョコラータは基本的には真面目なのだから、そんな事をする事は無いのだが――就業中にそんな格好を許すはずが無いだろうから、今は休憩時間中なのだろう。確証こそは無いが、俺が来た途端に休憩時間になるなんて確率としては薄すぎる。つまり、恐らくはこれもディーナの『御節介』なのだろう。
 
 「…なんで普通に座ってるんだ?」
 「今、休憩時間だもの。別に良いじゃない」
 「いや…それは分かるんだが……それで何で俺の前に?」
 
 ―まぁ…何となく分からないでもないんだが……。
 
 何処か艶っぽい視線でこちらを見てくる蛇たちと言い、気の無い素振りを見せながらちらちらとこっちを伺ってくるチョコラータと言い、どんな鈍感でも何かしら感じるような態度なのだから。元々、女性に関してはそこそこ勘の鋭い俺にとって、それは『好意』の証としか取れない。普段は意識的に考えないようにしているので、問題は無いのだが、さっきのエキドナの話で、俺自身どうにも意識してしまうのだ。
 
 「空いてる席が無かったのよ」
 「いや…全然、空きまくってるんだけど…」
 「…あ、アンタと真正面から話せる席が…よ。べ、別に良いでしょ…。これくらい」
 
 ―あーぁ…顔を真っ赤にしやがって……。
 
 ここで働き始めて多少、素直になったとしても、まだまだチョコラータは恥ずかしがり屋なのは変わらない。自分の言った言葉に自分自身で赤くなりながら、コーヒーに砂糖とミルクをどばどばと入れている。何時もより多目に入れている様子はそれだけテンパッている証拠なのだろう。そう思うと、目の前のメドゥーサがどうにも可愛らしい生き物のに見えてくる。
 
 ―やれやれ…そんな分かりやすい反応ばっかするからこっちも困るんだろうが…。
 
 何時からチョコラータがこっちに好意を見せるようになったのか。そして、何時から俺はそんな彼女に惹かれ始めたのか。それさえも今は定かではない。しかし、顔を赤くしながら、精一杯の勇気を振り絞って好意を示そうとする姿で意識させられ始めたのは事実である。アレだけ嫌っていた相手に今、こうして惹かれていると思うのは何処か認めたくない気持ちが強いものの、日に日に大きくなっていく気持ちはそれを中々、許してはくれなかった。
 
 「まぁ…そうだな」
 
 そして、勿論、そんなチョコラータを拒絶する気持ちも起こらない。ずるずると彼女の事を受け入れ続けるだけだ。しかし、俺から告白するなんて気持ちにはならず、状況に流されるままである。そんな自分の優柔不断さに嫌気が差すが、俺の心の中では様々な感情がせめぎあって雁字搦めになっているのだ。
 
 「そうそう。凄い人と言えば…私、この間、街中でナンパして修羅場ってる人を見ちゃったんだけど」
 「何だよ…お前、俺のストーカーか何かか?」
 
 そんな気持ちを吹き飛ばそうと熱いコーヒーカップを手に持った瞬間、チョコラータがそんな風に話しかけてくる。脳裏に思い浮かぶのは、以前の『休日』の事。帰ってきてから三日も経たず、前線へと借り出されたその短い休みの日々に俺は確かに一人の魔物娘に話しかけていた。
 
 「ち、違うわよ! あんな大通りで修羅場を演じてたらそりゃ、騒ぎになるし、近くにいれば気づくに決まってるでしょ!!」
 
 ―顔を真っ赤にして否定するのは、図星なのか、それともただ気恥ずかしかっただけなのか分からないが。
 
 まぁ、前者は無いだろうと根拠もなく結論付けて、俺はカップをソーサーへと戻した。
 
 「まぁ、そうだろうな」
 
 勿論、俺だって普段はそんな気恥ずかしい事はしない。街中で所在無さそうにポツンといる女の子を口説くのはあっても、彼氏がそこにいる状態で彼女を口説くなんて面倒臭いにも程があるのだから。俺のような相手に愛を持たずとも無遠慮に抱ける人間にとって一般的に言う修羅場ほど嫌うものはない。
 しかし、あの時のカップルは思わず『御節介』したくなるほど余所余所しかったのだ。衝動的に魔物娘の方へと話しかけて、修羅場を演じた。勿論、それは俺が道化と言う形で幕を閉じ、二人は仲睦まじく街中へと消えていったのだが。
 
 「まぁ、結果オーライって事で」
 
 喧嘩をしたのか今にも泣き出しそうな顔で男に着いていっていた魔物娘に笑顔を取り戻したのだ。それはかなりの『御節介』であったとは言え、個人的には満足のいく戦果である。
 
 「はぁ…アンタってさ…」
 
 そんな俺を見ながら溜め息一つ吐きながら、チョコラータは言葉を区切った。何を言うつもりかとそちらを見るが、言おうか言うまいか迷っているような表情が見て取れる。時折、決心したように顔を上げたり、そのまま顔をゆがめてそっと俯いたりしているのだから誰が見ても明白だろう。何時もであれば、そんな百面相のようなチョコラータの様子を楽しむことが出来るのだが、どうにも真剣そうな雰囲気がそれを許さない。茶化す事も出来ないまま、数分が経った後、チョコラータは決心したように顔を上げて口を開いた。
 
 「前々から思ってたけど……『絶対に成功しない』相手にしか声を掛けないよね」
 「…………」
 
 ―それは正直、言えば図星であった。
 
 勿論、別に俺は寝取りが趣味と言うわけではない。いや、勿論、人妻や彼氏持ちと背徳的な関係になるのは好きではあるが、修羅場が苦手であるし、そこまで積極的に手を出すわけではなかった。そんな相手を集中的に狙うよりは、フリーの女の子を狙った方が楽だし、早い。しかし、それは人間相手に限った事だ。魔物娘が相手となるとまた違う。勿論、それは相手のいない魔物娘が面倒と言うわけでは決して無い。ただ…俺の心の問題と言うだけだ。
 
 「……やっぱり図星な訳?」
 「…いや…その…」
 
 ―確認するようなチョコラータの言葉を否定するような言葉はどうしても出てこなかった。
 
 思いっきり図星を突かれた所為か目線が及んで仕方が無い。普段は決してしないであろうそんな失態に内心、舌打ちするが、身体は無意味に正直だ。まるでチョコラータにだけは嘘を吐きたくないとばかりにはっきりと態度で示してしまう。流石にそれは言葉にはならなかったものの、若干、鈍い彼女にもソレが図星である事は見抜かれてしまっただろう。それは悲しそうに目を伏せた様子からも良く分かった。
 
 「…やっぱり…私には話せないの……?」
 
 ―自分の屑さ加減を、気になっている相手を誰が話せるんだろうな……。
 
 勿論、嘘を吐くのは簡単だ。適当に理由をでっち上げれば良い。変なところで素直なチョコラータはそれを信じてくれるだろう。今まで変にこっちの事を詮索しようとしてきた女性にはずっとそうして来た。脳裏には事実を半分ほど織り交ぜた同情を引く為のエピソードが浮かび上がっている。しかし、それを口にする事はどうしても躊躇われるのだ。まるでチョコラータに嘘を吐く事を心も拒否しているように、言葉にならない。
 
 ―俺は…どうしたいんだ……?
 
 唐突に湧き上がってきた疑問に俺は人知れず拳を握り締めた。説得力は自分でも薄いと思うが、こんな風にチョコラータを悲しませたいと思うほど外道ではない。今にも涙さえ浮かべそうな様子のチョコラータを見ているだけで、自分の中に初めて灯ったまだ名前の無い感情が、痛むのだから。しかし、チョコラータよりもさらに臆病な俺は結局、自分の弱味を晒すことが出来ないまま、気まずい雰囲気が続く。
 
 「…私…さ」
 
 そんな気まずい雰囲気の中で、ポツリとチョコラータが口を開いた。一言一言、確認するような小さな声は何処かか細く弱弱しい。しかし、風に吹かれれば消えてしまいそうな儚いチョコラータの声が、俺の耳には何故かはっきりと届く。
 
 「ハンスの事が……ね。……知りたいの…」
 
 ―小さくと、だがはっきり告げられた言葉に俺の頭の中は真っ黒に染まった。
 
 それは怒りでも、憎しみでもない。感情の中から純粋に摘出されたような嫌悪感だ。無論、それは俺の内部へと踏み込んできてくれたチョコラータに対してではない。俺自身の不甲斐なさに対する酷い自己嫌悪の感情だ。
 
 「…人殺しの過去が知りたいのか?」
 「ううん。アナタの過去が知りたいのよ」
 
 突き放すような言葉にもチョコラータは怯む様子を見せない。一度、口に出した事で吹っ切れたのだろうか。その顔には強い意志が浮かんでいる。それは…もう曲がりナシにも俺の『ご同類』とは言えないだろう。誰にも分かるくらいはっきりと前を向いているのだから。過去に縛られ続けている俺とも、助けて欲しいと言えない情けない俺とも、臆病で性格をひねくれさせた俺とも違う。
 
 ―そう思うとドス黒い感情が湧き出てきた。
 
 無論、それは八つ当たりだ。そんなもの俺自身にだって分かっている。けれど、ずっと俺の心にこべり着いていた醜い嫉妬の感情がそれを抑える事を許さない。今までは無意識の内に抑えこめていた筈の感情が、今までの仕返しだと言わんばかりに噴出してくる。一瞬、視界が真っ黒に染まったと感じるほどの衝動は、今にも酷い言葉を発そうとしていた。
 
 「…悪い。帰るわ」
 
 一口もつけていないコーヒーカップから手を離し、俺は無造作に金をテーブルに置く。その俺の視界の隅で、チョコラータが目尻に涙を浮かべるのが見えた。まるで置いてけぼりを喰らった子供のような姿に、良心が疼く。しかし、ここに居れば、俺は彼女に本当に八つ当たりしかねない。一瞬、迷ったものの、俺は椅子から立ち上がってチョコラータに背を向けた。
 
 「あ、あのさ…!」
 「………」
 
 そんな俺の背中に明るいチョコラータの声が届く。さっきまで目を潤ませていたとは思えないほど明るいその声は、何処か場違いな気がする。しかし、何故か俺は後ろを振り向けなかった。理由など特に無い。強いて言えばただ予感が…振り向いてしまえば…全てが終わってしまう予感が俺の脚をそこへと縫い付け、振り向く事を許さなかった。
 
 「今度のバレンタインにこのお店もイベントをするのよ。ど、どうせ緊急で呼び出されない限りアンタも暇でしょ? だったら不毛なナンパなんてしてないでここに来なさいよ」
 
 ―その声は後半に行けば行くほど涙交じりのものになっている。
 
 きっとチョコラータは泣いている。しかも…泣かした理由は間違いなく俺にある。そう思うと今すぐ振り向いて慰めてやりたくなった。自分の過去でも何でも曝け出して、その涙を止めてやりたい気持ちは俺にだってあるのだ。しかし、臆病な俺の心は嫌われるのが怖くてその一歩が踏み出せない。そのしわ寄せがチョコラータに寄っていると知っていても、未だ心の中で煮え立つような嫉妬の感情が俺の脚を止めていた。
 
 「その日くらいはちゃんと接客してあげるから…。ね? 約束よ…」
 「…あぁ」
 
 答える俺の声もチョコラータに負けず劣らず、掠れていた。しかし、今更、言い直す余裕は無く、俺はそっと脚を『前』へと進めた。いや…それは正確ではないだろう。正しくは彼女からの逃避だ。そんなものは俺自身にだって分かっている。しかし、その足は何かにおわれているように早くなっていき、何時の間にか駆け出すようなものへと変わる。
 
 ―そして俺はそのまま逃げ帰るようにして、部屋へと閉じこもったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―あーぁ…何やってんだかなぁ……。
 
 そう自嘲を胸中で呟く俺の前には一枚のカレンダーがある。そこに描かれているバレンタインの日から既に五日ほどが経過していた。無論、俺はその間、一度だって『ミルク・ハーグ』に顔を出してはいない。それどころか食事以外は殆どこの石造りの部屋から出ては居なかった。
 
 ―これは…もう終わりかね。
 
 小さく溜め息をつきながら、俺はそっと備え付けのベッドへと身を預けた。魔物娘との激しい交わりにも耐えられるようにかスプリングの効いているその寝台は俺の身体をそっと支えてくれる。しかし、それでも気分だけは支える事は出来ないのか、あの日からずっと落ち込み続けていた。
 
 ―落ち込むくらいなら最初から言っておけっての…。
 
 そんな風に浮かび上がる自嘲はあの日から止まる事は無い。普段は意識してさえいれば止める事が出来る暗い思考は、今では駄々漏れだ。そんな自分に嫌気が差して、せめて何も考えずに済む様に眠ろうと目蓋を閉じた瞬間、父親の死に様が目に浮かんでしまう。そして、それに連鎖するように俺の脳裏に苦々しい過去が再生され始めた。
 
 ―俺は今でこそ傭兵をやっているが、元々は貴族だった。
 
 それも伯爵位を持つそこそこ裕福な一族の生まれであった。そこの長男坊であり一人っ子であった俺は様々な英才教育を施された。しかし、一人っ子だけあって、厳しい教育だけでなく、多くの愛情を注がれたのをとても良く覚えている。お人好しと言う人格が形を持って生まれたような父と、美しくも優しい母に囲まれて俺はとても幸せに育っていた。十歳の頃までは。
 
 ―父は…権力を持つには余りにもお人好し過ぎたのだ。
 
 元々、ジパングにも程よく近い海岸沿いの領地を管理していており、海を使った交易も盛んであった家はとても裕福であった。そして、時折やってくるジパングの客人に俺の教育を一部任せる程度にはお人好しだったのである。そんなお人好しで危機管理のなっていない父には様々な人が助けを求めた。そして、その全てに父は答えようとしていたのである。それが、どれだけ無謀な事であるかも知らず、父は人々の訴えを聞き続けた。そして…何時しか裕福であった家は没落し、貴族の証である爵位さえ奪われたのである。
 
 ―そんな没落した父に誰も手は貸してはくれなかった。
 
 金や権力があるときだけはあれほど頼ってきたのに、いざそれを失うと誰も見向きをしなくなったのだ。それは領民も同じである。父が権力を持っているときはあれだけ褒めていたのに、没落した途端に悪口ばかり。そんな掌返しに俺は怒りを超えて、憎しみさえ覚えた。しかし、それでも父は誰も恨む事は無い。ただ、自分の出来る事をやろうと慣れない仕事を始めたのである。
 
 ―そして、父を母は見捨てた。
 
 元々、父と同じくらい裕福な貴族出身であった母は、そんな暮らしに耐え切れずあっさりと父を見捨てた。貴族には珍しく恋愛結婚であったはずなのに、子供の頃はアレだけ父の事を愛してると惚気を聞かせてくれたはずなのに、没落を機に二人の仲は冷め切っていたのである。そんな母のお陰で俺は今でも愛だの恋だのを信じる事は出来ない。キッカケがあればあっさりと潰えてしまうのを目の前で見せ付けられたからだ。無論、父にまったく非が無いとは言わない。しかし、ついこの間まで愛しているといった男をあっさり捨てる姿は俺には憎むべき領民達と同じようにしか見えなかったのだ。
 
 ―母が消えた後、父は痩せ衰えていった。
 
 母はどうであったか知らないが、父は没落した後でも彼女を愛していた。そんな彼女が消えた後は一目で分かるほど気落ちしていたのを良く覚えている。しかし、彼はそれを俺には決して見せまいと今まで以上に慣れない仕事に精を出し、帰ってきてからは俺に教育を施した。無論、俺もそんな父を助けようと様々なことに手を出したが、成長する俺と対照的に彼はドンドンと弱っていったのである。そして……俺が十三の歳に彼は風邪を悪化させてこの世から息を引き取った。
 
 ―そんな父の最後の遺言は困っている人は助けてやれ、だった。
 
 敬虔な教会の信者でもあった父は、必ずそれは神が見てくれると、そしてその縁がきっとお前の助けになるとそう説いた。しかし、誰よりもお人好しであった父には結局どんな助けも来なかったのである。その苦痛を和らげる薬一つ、薬を買えるだけの銀貨一つ、そして愛した妻も無く、彼の死期を早めた息子に見取られながら死んでいった。それは…俺がこの世に神はいないと悟るには十分過ぎ…そして他者に期待する事を止めるには満ち足りすぎる出来事であろう。
 
 ―だから、俺は誰にも頼らず、剣を取った。
 
 元々、父の教育のお陰で剣術はそこそこのレベルにはなっており、傭兵になるには十分な腕を持っていた。そこで今『ミルク・ハーグ』の厨房で鍋を取っている男と意気投合したり、竜巻のような無茶苦茶な引力を持つ男に誘われ傭兵団へと入った果てにこの魔王城へと辿りついたのだ。
 
 ―その間、相談とヤり捨てと言う矛盾を繰り返したのは歪んだ俺の性格が原因だろう。
 
 父の遺言で俺はどうしても困っている見捨てられない。だって、俺が父の遺言を忘れてしまえば…一体、誰が彼を覚えているのか。稀代の大馬鹿であった父を覚えているのはもうかつての領民でさえ殆どはいないだろう。親交のあったはずの貴族も言わずもがなである。そんな彼の最後の言葉を俺だけは、息子であるこの俺だけは忘れるわけにはいかないのだ。
 そして、女性をぞんざいに扱うのは母の影響だ。愛や恋の強固さを信じられなくなった俺はそうやって愛や恋と言う言葉の虚ろさを確認し続けているのだから。しかし…同時にそれを求めても居るのだろう。俺にとって仲睦ましかった両親と言うのは幸せな時期の象徴でもあった。それを思い出して、「もしかしたら」と言う気持ちがどうしても抜けきらない。その反面、父の惨め過ぎる死に様を思い出して、俺は誰かを好きになるのを、なってもらうの事に臆病になってしまうのだ。
 
 ―魔物娘に手を出し辛いのもそれが理由だ。
 
 相手が居る魔物娘は未だ良い。まだナンパをしても冗談やからかいで済むのだ。そこから恋愛に発展する所か、一夜限りの関係に発展する事は決して無い。しかし、フリーの子は違う。チョコラータの件を見れば分かるとおり、彼女達の大半は男に免疫が無くちょっとしたキッカケで本気になってしまう。そして、その美しさとバイタリティは人間とは比べ物にならない。大抵が思い込んだら一直線で一途な彼女達に本気で惚れられてしまえば、本当は愛だの恋だのを欲しがっている俺もまた応えてしまうだろうから。だからこそ、父の死に様が目に浮かんで、臆病な俺はどうしても二の足を踏んでしまう。
 
 ―まぁ……結局の所…俺は未だに過去に縛られ続けているわけだ。
 
 他人を頼らないと決めた筈の俺がディーナを頼るのは彼女の突き抜けた馬鹿さ加減に父の面影を見ているからだし、チョコラータを拒絶したのも彼女へと抱く感情が『恋』であると認めるのが辛かったからだ。無論、それは過去だけが原因ではない。より正確に言うならば過去に縛られる俺に強い原因があるのだ。しかし、そうは理解していても、十年近く俺の中に根差したそれは中々、消えてくれはしない。どれだけ消そうとしても、まるで逃がさないとばかりに嫌なシーンばかりが目蓋で再生されて、止まらないのだ。
 
 「あぁ…! クソッ!!」
 
 現実逃避も出来ない自分を思いっきり罵りながら、俺はそっとベッドから身体を起こした。しかし、別に何かをしようと思って起きたわけではない。備え付けの家具だけが置いてある石造りの部屋では暇潰しの一つも出来ないのだから。普段であれば、ここでチョコラータでもからかいに『ミルク・ハーグ』へと向かうのだが、そんな気持ちにもなれなかった。
 
 「……クソが…」
 
 顔を覆うように両手を当てるとジョリジョリとした髭の感覚を感じる。甘い顔をしていると自覚する俺がこんな風に髭を剃らないなんて戦場でも滅多に無い。しかし、今の俺には誰とも会う気力も、体力も無く、そのまま放置し続けていた。食事もロクに取っていないので、鏡を見れば恐らく痩せこけた醜い姿が目に入るだろう。しかし、今の俺には食事をするのさえ億劫であった。
 
 ―…チョコラータはどうしているんだろうな…。
 
 自分勝手な理由で拒絶した彼女の事が脳裏に浮かぶ。約束を破ってしまった彼女は今、泣いているのか、それとも悲しんでいるのか、少なくとも怒っているのは確実だろう。そして…出来れば、そのまま俺の事を嫌って欲しいとさえ思うのだ。
 
 ―まぁ…俺から会いに行かなければ、多分、二度と会うことは無いだろう。
 
 何だかんだと付き合いこそ続けてきたが、俺たちはお互いの住所さえ知らないのだ。何度か一緒に遊びに行った事はあるものの別れるのは何時ものT字路であり、部屋まで上がりこんだ事は無い。それは彼女も同じである。そして、この広大な魔王城の中では少し生活域をズラせば、探し人を見つけるのは中々に困難だ。それこそ一生で会わないままでもおかしくない。そう思うと何処か胸が苦しくなる反面、少しだけ気が楽になった。
 
 ―ドンドンッ!!!!
 
 「ん……?」
 
 そんな俺の部屋を唐突に誰かがノックし始めた。乱暴に叩くようなそれは決して穏やかなものではない。カルロかフェイか…それとも緊急招集か。前半の馬鹿二人はともかく、召集であれば有難い。この部屋にいても何をするつもりにはなれないのだ。それならば、戦場で生きるか死ぬかの瀬戸際にいたほうがまだ有意義な気がする。そんな気持ちのまま俺はゆっくりと立ち上がり、栄養不足の所為かふらつく足でそっと扉の鍵を開けた。そして、そのままドアノブに手を掛けて、そっとドアを開いていく。
 
 「…久しぶり」
 
 ―しかし、その扉の先に居たのは俺の友人である馬鹿二人でも緊急招集を告げる伝令でもない。
 
 見覚えるのある美しい瞳の周りを赤く染めているのはかなりの長時間、泣きはらした証拠なのだろう。その目蓋も何処か晴れているような気がする。子供っぽい曲線を描いていた頬も記憶よりは痩せこけているに見えた。特徴的なその下半身には幾つか傷がついており、『彼女』が文字通り駆けずり回った事を俺に教えているようにも感じる。
 
 「な………」
 
 ―チョコラータ…!?どうしてここに…!?
 
 その声は俺の口から言葉になる事は無かった。余りの驚きに硬直した身体が、言葉を発することも忘れてしまったからだ。余りにも意外過ぎる展開に頭が真っ白になった俺は、数秒間ほど、気まずそうなチョコラータと向かい合う。そして、お互いを包む気まずい雰囲気を俺が自覚した瞬間、俺の身体はようやく硬直から立ち直り、その扉を反射的に閉めようとした。
 
 『ぺトラアイズ!』
 
 しかし、それはチョコラータにとってはお見通しであったのだろう。俺の身体が動くよりも早く彼女の口から魔力が放たれる。視線に乗って俺の身体へと送られるその魔力はメドゥーサ特有の石化能力の発現であろう。しかし、そうと分かっていても俺にそれを打ち消す手段は無い。あっという間に広がった石化に四肢を取り込まれ、動くのは首から上と言う有様だった。
 
 「へぇ…意外と片付いてるじゃない…」
 
 そんな俺の横と抜けてするするとチョコラータが俺の部屋へと入り込んでくる。両手両足所か首まで石化している俺にそれを防ぐ手立ては無い。美術館に飾られる石像のようにじっと棒立ちになるだけである。後手にドアを閉めながら、後ろへと回り込んだチョコラータに振り向く事もできず、俺の背中辺りで部屋を見渡す彼女の気配だけを感じ続けた。
 
 「ど、どうしてここが…?」
 「ん…アンタと初めて会った食堂に張り込んでたんだけど…そこでアンタのお友達と出会ってね。その人達に聞いたのよ」
 
 あっけらかんとしている口調とは裏腹に俺の背筋には寒気が走った。確かにそれは俺の部屋を突き止めるには、その方法を使えば可能だろう。それは正直、考えないでもなかった。しかし、フェイやカルロと言った俺の部屋の場所を知る連中へと当たるにはかなりの労力が必要である。三人の部屋に程よく近いのであの食堂を良く利用するが、基本的にはそれぞれ別の店へと顔を出して居る事も多い。そんなフェイとカルロを見つけようとするなら、それこそ一日、二日では不可能であろう。下手をすればバレンタインからの五日間、ずっと張り込んでいてもおかしくはない。
 
 「結構、大変だったのよ?お店の人やエリーにも手伝ってもらってさ」
 
 ―その言葉と共に俺の肩にそっとチョコラータの手が掛かる。
 
 まるで後ろから抱きしめられるような感覚に俺の胸は年甲斐も無く高鳴った。こうして石化してはいるものの、そこから伝わる暖かい感覚は俺へとはっきり伝わっている。石化していても感覚までは死んでいないのだろう。何処かひんやりとした石の感覚と共に、チョコラータの体温が入り込んでくるような感覚は決して嫌ではなかった。
 
 「でも―――――ようやく見つけた」
 
 ―その声は少し涙ぐんでさえいた。
 
 明るい口調とは裏腹に、やはりそれだけの苦労や労力を掛けたのだろう。そう思うと俺の数少ない良心がじくじくと痛んだ。しかし、俺にはもう慰めの言葉を掛ける資格なんて無い。所詮、俺はチョコラータの前から逃げ出した臆病者なのだ。これから先、何をされようとそれは罰であり、正当な報復なのだから。
 
 「どうして逃げたの……?私から、皆から…」
 「それは…」
 「エリーもディーナも…他の店員だって常連客も…皆、アナタの事心配してた。私だって……まぁ…多少は…そうよ」
 
 ―問い詰めるような言葉に俺は何も言えなかった。
 
 それを承知で逃げ出したのは俺の身勝手だ。見なければ辛い事は無いと背を向けて逃げたのは俺である。子供ではないのだから、自分のしでかした事の結果くらいは分かっているつもりだ。しかし、だからこそ、俺は下手に謝ることが出来ない。本当はそれが正しいと分かっていても、逃げた事を『後悔』はしていないだけに今、謝罪をしても誠意の無い言葉にしかならないからだ。
 
 「…またダンマリするつもりなの?」
 「…何か言えた義理じゃないのは俺自身、分かってるからな」
 「そ。随分と殊勝な心がけなのね。……じゃあ…や、約束を…破った…ば、『罰』を受けてもらうわよ」
 
 その言葉と共にチョコラータの身体が『絡みついてくる』。無論、それは比喩ではない。俺の手を足を、身体を、全て丸ごと暖める様に、チョコラータの身体が俺へと巻きついてくる。その様はまるで巨大な蛇に絞め殺されるようにも見えたが、まったく圧迫感と言うものを感じない。しかし、俺を逃がすつもりは欠片も無いのだけは、腕一本動かせないほど密着している事から分かる。
 
 「チョコラータ…?」
 
 正直、そのまま絞め殺されても文句は言えないと思っていただけに優しく包み込むような――無論、優しさとは裏腹にそこから抜け出る術は常人の俺には無いのだが――行為に困惑の声を上げてしまう。しかし、その疑問に答えるはずの相手は、今、俺の首筋に顔を埋めてそこの匂いを嗅いでいた。無論、その髪も俺を逃がさないようにと我先に俺へと絡み付いている。しかし、それは俺の動きを封じるような蛇身とは違い、まるで甘えるような仕草だった。
 
 「ハァ…ハァ……く、くっさいわよ…ちゃんとお風呂入ってるの…?」
 「いや…その…なんていうか…」
 
 ここ数日、食事もろくに取らなかった男が風呂に入る気力なんぞあるはずもなく、首筋からは寝汗なんかの匂いがするはずだ。それは…まぁ、少なくとも良い匂いではあるまい。俺の逆の立場であれば野朗の汗の匂いとか絶対に御免だ。しかし、臭いと言いつつ、チョコラータは離れる気配は無い。寧ろその吐息を荒くして、何度も何度も首筋の匂いを嗅いでいた。後ろから抱きすくめられている形なので、表情は見えないものの、その顔は興奮に赤くなっているに違いない。
 
 ―つーか…なんつぅ羞恥プレイだよ……!
 
 どちらかと言うと攻める方が好きなだけに、こういったプレイは正直、始めてだ。汗の匂いを嗅がれるなんてやった事はあってもやられた事なんて無い。普段とは逆の立場になってみたそれはとんでもなく恥ずかしい行為だった。少なくとも二度とやらないでおこう、と心に決める程度には。
 
 「じゃあ、今、お風呂に…いや…でも……この匂いは正直……」
 「何ていうかもう正直、勘弁してください…」
 
 すーはーすーはーと背筋に感じる吐息は石化していてもこそばゆい。しかも、そこに匂いを嗅がれているという羞恥心まで入ってくるのだ。それが男としてどれだけの恥辱か体験してみなければ分からないだろう。しかし、そこから逃げ出そうとしても指一本動かせない状態では俺に出来る事といったら許しを乞う事くらいしかなかった。
 
 「嫌よ。これはアンタの罰なんだから」
 「いや…わ、分かってるんだが…流石にこれは」
 「アンタに拒否権はありませーん」
 
 その言葉と共にずるずるとチョコラータの身体は俺を引きずってベッドの方へと移動していく。強靭な身体を持つ魔物娘の中でも強い力を持つメドゥーサであれば、人一人を運ぶなんて造作も無い事だ。しかし、動かす側は造作も無くとも、動かされる側はそうとも言えない。初めて味わう『後ろ向きに流れていく風景』に、俺の頭は一瞬、酔いそうになった。
 
 「よい…しょっと」
 
 可愛らしい掛け声と共に、俺の身体がベッドへと横たわる。人間の指先よりも器用に動く蛇身には今までも何度と無く驚かされては来たものの、縦から横へあっさりと俺の体勢を変える手腕には驚きを禁じえない。ついでに言えば、もう少し優しくしてくれると俺の酔いも浅くで済んだのだが、それは我侭と言う奴だろう。
 
 「ふふ…どう…? これでアンタも逃げられないでしょ…?」
 「まぁ…そうだな。でも……これが『罰』…か?」
 「そ、そうよ」
 
 少しばかりどもった言葉から察するにやっぱり恥ずかしいのだろう。そもそも、最近、素直になったとは言え、まだまだ恥ずかしがり屋の気が強いチョコラータがこんな事をするのはかなりの勇気がいるはずだ。誰かに唆されたのか、それともそれだけ『お怒り』であるのか、少なくとも普段、俺が接する彼女からは決して想像もできない行為だろう。
 
 「人の好意に『臆病』なアンタには十分な罰でしょ?」
 「おま…!」
 
 唐突に告げられた言葉が俺の心へと突き刺さる。それは俺の過去を知っていなければ、或いは俺の内心を知っていなければ出てこない言葉だ。あんまり敏いとは言えないチョコラータが後者は中々、考えられない。ならば……俺の『過去』の全てではなくとも片鱗を知るフェイかカルロ辺りが漏らしたと思うほうが妥当だろう。何も知らないガキのような『友情』では無くとも、触れて欲しくない過去を護る程度の『友情』くらいはあると信じていた俺は、八つ当たりのような怒りを二人に向けた。
 
 「あんまり私を馬鹿にしないでよ。アンタの昔話は知らないけれど…ずっと見てればそれくらい私にだって分かるんだから」
 
 ―その言葉の重みは多分、チョコラータ自身にしか分からないだろう。
 
 俺がどれだけ推察しようとしても、それは所詮、他人事でしかない。俺の臆病さに気づいていても、何も言わずに何時も通り接していたチョコラータの痛みは、そんな臆病な俺を勇気を振り絞ってバレンタインに誘ったのに、それを反故にされたチョコラータの悲しみは、俺の想像の範疇を超えるだろう。しかし、それでも良心の痛みだけは雪だるま式に強くなっていき、俺を飲み込もうとしていく。その片隅で誤解した友人どもに謝罪の念を抱きつつ、俺はぎゅっと強く抱きしめたチョコラータの腕を首に感じた。
 
 「逃げないで…なんて言わない。色々考えたけれど……そんなの私っぽくないもの。だから…代わりにこう言うわ。『逃がさない』」
 
 それは今までとは違い、耳元で囁くようなものだ。まるで子供に言い聞かせるように、子守唄のように、大好きな恋人への睦事のように、優しく、暖かく、甘いその言葉は俺の心へとするすると入り込んでくる。あまりに無抵抗すぎて、心の中から染め上げられるようにも感じるほどだ。しかし、今の俺は耳を塞ぐ手も無く、逃げ出す足も無く、ただ、身体をチョコラータへと預ける事しか出来ない。
 
 「アンタが私を受け入れてくれるまで、好意を受け入れてくれるまで…ううん。受け入れてもずっとずっとこうして抱きしめてあげる」
 
 ―その言葉と共に震える手で俺を抱きしめ。
 
 「毎日、愛を囁いて…」
 
 ―その言葉と共にそっと俺の耳に舌を這わせ。
 
 「何時でも愛を交わし続けてあげる」
 
 ―その言葉と共に俺の下腹部で蛇身が蠢く。
 
 それらは甘い――いや、甘すぎる誘惑だった。抵抗しようという意思さえ根こそぎ持っていこうとする甘美なそれに俺の心はじぃんと痺れた。下腹部では、ここ数週間ほどずっと放って置かれたままの俺の大事な部分がむくむくと起き上がり、甘い誘惑と刺激に応えている。そして、現金なムスコと、顔に血液を集まるのを感じる俺を逃がさないとばかりにチョコラータはさらに追撃を掛けてくる。
 
 「そしたら…『臆病』なアンタでも…信じざるを、変わらざるを得ないでしょ?」
 
 ―そう…かもな。
 
 いや、恐らくは今もそうなのだろう。今まで聴いたことが無いくらい暖かく、優しいチョコラータの言葉は今も俺の心の中へと入り込んでくる。そして、入り込んだその言葉がじんわりと優しい熱を広げて、俺の心を離さない。そして、今まで俺の心の中で凝り固まったドス黒い何かをその熱は溶かしていってくれている。無論、父親が死んでから十数年間、抱き続けたそれはまだまだ氷山の一角だ。しかし、チョコラータの優しさが確実にそれを溶かしていってくれているのを感じる。
 
 「私が変えてあげるわ。アンタが…私を変えてくれたみたいに」
 
 その言葉と共にチョコラータの身体がすっと移動する。驚くくらい器用に抱きついた身体を回し、俺の背中にあった顔を俺の前へと持って来た。丁度、見詰め合う形になる俺の視界には、やっぱり赤くなったチョコラータの顔が入る。しかし、恥ずかしそうな顔とは裏腹にその視線はとても真剣で…とても暖かいものだ。
 
 「それが私の『罰』。私がいなければ生きていけないようにアナタを変えるのが、染め上げるのが私の『罰』よ。アンタにとっては…最高の刑でしょ?」
 「あぁ…まったくもって…その通りだよ」
 
 顔を赤くしている癖に必死に強気を装っているチョコラータに向かって、俺はそっと笑みを浮かべた。それはここまでチョコラータにさせた情けない自分への自嘲の笑みではない。勿論、その気持ちは俺の中にはある。しかし、それよりも強く感じるのは、はっきりと名前の着けられ俺の中に分類された一つの感情だ。それは名前が着いただけで、まだまだ俺の臆病な部分を吹き飛ばすほど強いものではない。しかし、このままいけば…何れそうなるような、そんな予感がした。
 
 「でも…勘違いしないでよ。私がアンタを好きになるんじゃないの。アンタが私を好きになって私無しじゃ生きていけない様になってから…仕方なく私も好きになってあげるんだから」
 
 ここまで来て今更だとは思うものの、それはチョコラータの中では重要らしい。顔を真っ赤にしながら、念を押すように言って来る。他の魔物娘だって滅多にできないような大胆な事をしでかしてはいても、何処かにまだ照れが残っているのだろう。その可愛らしい姿に俺の中に暖かいものと抑えきれない笑いの衝動が宿った。
 
 「な、何を笑ってるのよ…! …し、仕方ないから責任とってあげるだけなんだから!」
 「あぁ…その時はよろしく頼む」
 
 からかわれていると思ったのか赤くなって、頬を膨らます様子はさっきの優しい言葉を言っていた相手とは決して思えない。しかし、そのギャップがチョコラータの魅力でもあると思う俺にはそれはとても好意的に映る。思わず心臓が強く脈打つのを隠しながら、俺はそう返した。
 
 「まったく…わ、分かってるわよ。だ、だから…アナタは安心して堕ちなさい。私も……一緒に堕ちてあげるから…」
 
 甘い言葉と共にそっとチョコラータは目を瞑って顔を近づけてくる。一直線に俺の唇へと迫ってくるそれを逃げる術も意志も俺には無い。ただ、チョコラータの暖かい熱を感じながら、彼女の言葉通り身を委ねるだけだ。
 
 ―ちゅ…♪
 
 やけに大きく聞こえるその音の後、今まで我慢していた分を発散するようにチョコラータは俺の唇を貪り始める。時に優しく、時に強引に、そして、時に意地っ張りに。唇の間からそっと割り込んでくる蛇のように細い長い舌が、歯を一枚一枚嘗め回す。それはべったりとした人間の舌とはまったく違い、器用かつ素早く俺の口腔を貪っていくのだ。人間相手では決して味わえ無い舌の感覚に思わず俺の背筋にゾクゾクとした痺れと、チョコラータのような甘い香りが走る。
 
 ―う…ぁ…なん…だ……これ…。
 
 今までキスの経験なんてそれこそ数え切れないほどある。けれど、ここまで劣情をそそられるのは初めてだった。拘束されてなければ思わず押し倒していたかもしれないくらいなのだから。そして、それはチョコラータも同じなのだろう。目の前で目を閉じながら荒い鼻息を漏らし、何度も何度も息継ぎしながら夢中で唇を貪る様子からも良く分かる。その顔は羞恥とは違う感情で真っ赤に染まっていて、彼女が強い興奮を覚えて居る事を俺に教えてくれた。
 
 「ちゅ…♪ じゅるる…っ♪」
 
 ―さらにその上…コイツ…どんどん上手くなってる…。
 
 最初は何処かぎこちなかった舌の動きがどんどんとスムーズになって行っている。今では一所に留まる事無く文字通り俺の口腔内を蹂躙していた。一瞬たりとも止まらず、俺を貪ろうとするその動きは最早、俺が着いていけるものではない。キスなんてこれが初めてだろうに、まるでもう熟練の娼婦のような手管を使い出す魔物娘の本能に薄ら寒い気さえした。しかし、その一方で快楽に対する誘惑と言うのも俺の胸には大きなウェイトを占め始めている。
 
 ―もし…これで舌を突き出したらどうなるんだ……?
 
 チロチロと俺の口腔を這い回る舌と俺の舌が絡み合えば一体、どれだけの快感が生まれるのか。俺も男であり、最近はムスコに構っている余裕や暇が無かったのでどうしても気になってしまう。そしてその誘惑に乗っかろうとするように俺自身の気恥ずかしさもあり、歯の奥へ引っ込めていた舌がゆっくりと前へとと動き出す。まるで身を捧げるような舌の動きは結局、止まらず、チロチロと蛇のように動き回る彼女の舌と絡み合った。
 
 「う…ぁぁ…っ」
 
 ―それは思わず声が漏れ出てしまうほどの快感だった。
 
 人間のソレよりも遥かに長く細い舌は、突き出した俺の舌に絡みつく。まるで今の俺たちの姿のように舌先から根元まできゅと巻きついて離さない。そのまま根元から扱きあげるようにゆっくりと動き出すのだ。それは今まで俺がやってきたキスなんて児戯にも思えるような快感を生み出している。開けっ放しになった口の端からは唾液が零れ落ちるが、それさえも気にならないくらいチョコラータのキスは気持ち良く、情熱的だ。
 
 「ひゅぅ…♪ くひゅぅ…♪」
 
 そんな風に鼻の抜けた甘い声を漏らしながら、チョコラータは俺の舌を離さない。まるでようやく手に入れた宝物を何度も何度も確認するように俺の舌を扱き上げる。その手もベッドに体を預ける俺の背中に回されてガッチリと固定されていた。そして、その腕がぎゅっと俺の事を強く抱き締め、舌が扱きあげられる度に石になっているはずのムスコがピクリと反応して、ズボンの中で疼いていた。まるで早く解放して欲しいと主張するような感覚だが、指一本動かせない今の俺にはどうしようもない。諦めてチョコラータとのキスに没頭するしかないのだ。
 
 ―それに……これだけでも十分…気持ち良いしな…。
 
 さっきまでの口腔を貪るものとは違い、舌へと絡みついて扱き上げられる感覚は何処か疑似的なセックスを思わせる。粘膜同士の接触かつ、蠢くたびに背筋に強い快感が走るのだから。そして、その快感は今すぐではなくとも積み重なれば射精へと至れそうなくらいのはっきりしたものだ。キスだけで射精するなんて童貞でも滅多にねぇよとは思いつつ、積み重なる人外の快楽に俺の心は既に囚われ始めている。
 
 「ひゅ……んっ♪ …ちゅ…ぷぁぁ…っ♪」
 
 そしてそれを後押しするようにチョコラータの舌を伝ってどろどろと唾液が零れ落ちてくる。しかし、それもまた人間とは別の成分で出来ているのかとても熱く、何より甘い。熱湯と温水の境目なじんわりと骨身に染みるような熱は、決して不快ではなく俺の口腔を優しく暖めてくれる。さらに、まるで砂糖菓子のような唾液は甘ったるいくらいにも感じるのだ。しかし、甘いものが苦手な筈の俺の舌はそれを素直に受け止め、もっと欲しいと言わんばかりのその身を蠢かせる。
 
 「ん……っ♪ ふぁ………ぁ♪」
 
 その要請に応えて、チョコラータは熱くて甘い唾液をさらに分泌させ、舌へと垂らしていく。それを受け入れる俺自身の唾液は口の端からこぼれるのが止まらない。まるで彼女の唾液によって排斥されているように、どんどんと零れ落ちて行く。しかし、頬や衣服、果てはベッドまで汚す自分の唾液を厭う心の余裕は俺には無い。チョコラータから与えられる快感と、甘くて熱い唾液だけで頭の中が一杯で他の事なんて差し込む余地は無いのだから。寧ろ口中がチョコラータの唾液によって一杯になる事に歓喜さえ感じていた。
 
 ―しかし、どれだけ歓喜を感じていても唾液で溺れそうになる。
 
 そもそも二人分の唾液――しかもお互いに興奮して通常よりもさらに分泌されている――を俺は今、受け止めている形になるのだから。口の端から漏れ出る分や飲み込む分を差し引いても、それは俺が受け止められるような量ではない。自然、処理しきれない分がゆっくりと俺の口腔の中へと溜まり、俺の咽喉を塞ぐ。しかし、溺れそうになる瞬間、チョコラータの唇が俺の口腔へと吸い付き、一気に唾液を吸い上げた。
 
 「…くゅ…♪ ぢゅるるるるるるるるっ♪」
 
 ―…う……あぁぁぁ…!
 
 一方的に搾取される感覚はさっきまでとまるで違った快感を俺に与える。唾液を思いっきり吸い上げられる感覚は、勿論、舌も唇も同様だ。さらに唇などはそこに彼女の粘液でそっと包まれる感覚が加わる。俺の唇を取り込んでぬるぬるとした唾液を塗りこむように動く彼女の口腔に、腰の辺りにズキリとした疼きが走った。
 
 「ぷ…ぁ…っ♪ …ん…ぁ……♪」
 
 息が切れたのだろうか。一分ほど経った頃にチョコラータは口を離した。その目はもう半眼と言って良い程、蕩けていて、瞳は涙とは違う色で潤んでいる。顔の上気も止まらず、頬も緩ませていた。俺と同じように溢れた唾液で少し汚れた顎は魔力の光を受けてテラテラと妖しく光っている。普段、快活なイメージを強く与えるチョコラータが今はとても魅力溢れる娼婦のようにさえ見えた。思わず押し倒してその肢体を貪りたくなる衝動に駆られるくらい、今の彼女は妖しい色気に溢れている。
 
 「ふふ…っ♪ …アナタと私の唾液のカクテル…とっても美味しいよぉ…♪」
 「恥ずかしい事言うなっての…」
 
 普段は決して言わないような淫らな台詞を言いながらそっとチョコラータは俺の体にもう一度その肢体を寄せてくる。さっきのキスで強く興奮した所為だろうか。跳ね上がった体温に変質したように、さっきとは違う優しくも淫らな熱が俺の身体に広がる。まるで俺に興奮を伝えようとしているようなその熱は、淫らな先の言葉と共に俺の下腹部へと突き刺さった。じくりじくりとした疼きが大きくなり、ムスコがさらに反応し始める。それがバレるのが嫌で俺はそっと眼を背けた。
 
 「つーか……何かチョコラータの香りがしたんだが…」
 「そりゃ、そうよ…♪ だって、扉の前で口に含んでから来たんだもの…♪」
 
 視界の端であっけらかんと言うチョコラータの意図は俺には分からない。しかし、何処か悪戯っぽい色を灯したその色は決して良くないものだろう。聞いていいのか聞かない方が良いのか…一瞬、迷っている間にチョコラータが再び口を開いた。
 
 「バレンタインのチョコレート…手作りなのよ? …美味しかった?」
 「なっ……!?」
 「うふ……♪ もう一回……良いよね…?」
 
 何かを答える暇もなく、チョコラータは再び俺の口へと貪りついた。何度も何度も取り込んだ俺の唇に粘膜から直接唾液を塗りこむようにしながら、舌と舌を絡み合わせている。勿論、俺が下になっている関係上、唾液は無遠慮に俺のほうへと落ちてくるのだ。再び唾液のカクテルを作ろうとするその動きに俺は抵抗する気力も起こらず、只管、受身になり続けるしかない。そんな俺とは対照的に顔一杯に欲情を浮かべたチョコラータは嬉しそうに気持ち良さそうに舌を絡み合わせてくるのだ。そして頃合を見て、再び俺の口腔へと吸い付き、その全てを奪っていく。
 
 「じゅるるるるるるっ♪ ん……っふぁ……♪」
 
 二度目のキスを終えて唇を離したチョコラータは嬉しそうに淫らな笑みを浮かべた。欲情を前面に押し出したその表情は、彼女がキスで強い満足を覚えている事を俺に教えてくれる。それに釣られて俺自身も満足する反面、一方的にされるがままの状態に下らない男の尊厳のようなものが疼いた。
 
 「キスって…こんなに気持ちの良くて…美味しいモノだったのね…♪ …それとも…アナタだからなのかしら…?」
 「さ、さぁな…」
 
 甘く呟くような言葉に思わず目を背けてしまう。だって…コイツはこんなキャラじゃないはずなのだ。さっきから違和感をずっと感じていたが…やけに素直である。二人で酒を飲みに言った事なんて無いから分からないが、あまりの変わりようにもしかすると酒にでも酔っているんじゃないかとさえ思うくらいだ。しかし、入ってきた当初のチョコラータは何時もと同じ意地っ張りの性格をしていたはずである。どうにも酒に酔っているとも思えず、俺は内心、首を傾げた。
 
 「私はね…両方だと思うの…。キスってやっぱり…とっても素敵なものだと思うけど…好きな人とするのって…もっと気持ち良いものになるのよ、きっと♪」
 「な…ななな…っ!!」
 
 そんな俺に追撃を仕掛けるようにさらにチョコラータが甘く囁いてくる。男のツボをこれでもかとばかりに押さえる発言がココまで飛び出すと、もはや性格が違うなんて次元ではない。正直、別人としか思えないくらいだ。しかし、俺がチョコラータの姿を見間違えるとも思えない。入って来たときからコイツはずっと『チョコラータ』であり、それ以外ではないはずだ。
 
 ―じゃあ……何が原因なんだ…?
 
 そう考えようとした俺の下腹部に何かが擦れる感覚が生まれる。首さえ自由にならない状態なので見る事は出来ないが、恐らく彼女の蛇身が動いているのだろう。俺の全身に巻きついたチョコラータの身体は文字通り俺を雁字搦めにしているのだから。そこには一部の隙もありはしない。
 
 ―けれど…問題はだな…。
 
 全身を締め上げるように絡みつかれている事ではなく、さっきのキスから不平不満を訴えるムスコの事だ。石化の中でむくむくと鎌首を擡げようとするそれは窮屈そうにさっきから何度も俺に向かって信号を送っている。さらにその上、ズボン越しとは言え、擦られてしまえばさらに興奮し大きくなろうとしてしまう。窮屈な鉄の棺おけに押し込められているような感覚は強い不快感として俺に認識されていた。
 
 「ねぇ…ハンスも…私とのキス…気持ち良かった…?」
 「いや…そりゃ…お前……」
 
 ―気持ち良かったと聞かれれば、間違いなくそうだとしか応えようが無い。
 
 人間相手では決して味わえない情熱的で淫らなキスは、それだけで俺の心を虜にしかねないものだった。普段は攻める方が好きなはずなのに、受身になっている事に違和感を感じないくらいなのだから。流石にキスを止めれば尊厳が疼くものの、明確に抵抗しようと言う意思には結びつかない。たった二回だけで俺の気力をそこまで奪ったのだから、気持ちが良くない筈が無かった。
 
 ―けれど…それとこれとは話が別な訳でだな。
 
 そりゃ気持ち良かったとは言え、それを口に出すか出さないかは次元が違いすぎる。気恥ずかしさもあるし、やっぱりプライドのようなものはそう簡単には俺の中からは消えてくれない。俺の価値観ではそう言って攻めるのは男側と言うモノもあるのだろうが、どうしても素直にその言葉を口にする事は出来なかった。
 
 「素直に言ってくれたら……『ココ』の石化…解いてあげる…♪」
 「お、おま……っ!」
 
 妖しく微笑みながらチョコラータの手がそっと俺の下腹部を撫でた。さっきから窮屈で仕方の無い場所はそれだけで、また強い疼きを漏らす。石化の中でピクピクと震えるムスコは、まるでその言葉に喜んでいるようだ。しかし、俺の心はそう簡単に首を縦に振ることを良しとせず、口を閉じさせている。
 
 「ふふ…♪ 中でとっても窮屈で…ピクピクしてるのが分かるわ…♪ 我慢しなかったら…もっと気持ち良くなれるのに…どうして我慢するの…?」
 
 そんな俺に向かって不満そうにチョコラータは唇を尖らせる。まるで子供のような仕草ではあるが、その顔一杯に浮かぶ欲情と興奮の色がそれを吹き飛ばしていた。俺の顔に当たる熱い吐息もチョコラータの興奮を伝え、子供っぽいイメージを払拭している。今の彼女にとって、どんな仕草であっても娼婦のような男を誘うモノに見えないだろう。
 
 「それとも…こうやって苛められる方がアナタは好みなのかしら…?」
 「う…ぁぁ…!」
 
 ―その言葉と同時にカリ首の辺りを爪先で穿られる。
 
 小さいままで石化させられた上にズボンと下着の中に納まっているムスコをどうやって見分けたのかは分からないが、彼女の指は正確に俺の弱点を突き刺した。男にとってもっとも敏感な部位の一つであるそこをクリクリと弄ばれて我慢できる筈が無い。すぐに石の中でムスコが大きくなり、はち切れんばかりに感じる。未だ最高とは程遠いとは言え、はっきりと勃起を始めた男根にとって、既に石の中は窮屈過ぎるのだ。
 
 「ほぉらぁ…♪ …早く答えないとしちゃうかもしれないわね…♪」
 「う…くぅ……!」
 
 ―…もう…限界…だ……!!
 
 「き…気持ち良かった…から…!」
 「うん…? 何が気持ち良かったの…?」
 「チョコラータとのキスが……! 気持ち良かった…から……だ…から…早く…っ!」
 「ふふ…♪ 良い子ね…じゃあ…『ココ』だけ解いてあげる…♪」
 
 その言葉と同時に俺の下腹部から冷たい感覚が消えていく。そこを包む鉄の檻が無くなったと感じた瞬間、俺のムスコは強い開放感を味わった。しかし、垂れ下がった状態から一気に勃起へと変わった肉棒は下着とズボンを思いっきり押し上げて、その自己主張を始める。さっきよりはマシとは言え、未だ窮屈な感覚に堪え性の無いムスコは再び不平不満を訴え始めた。
 
 「…わぁ……♪」
 
 そんな俺とは対照的に俺の目の前で嬉しそうにチョコラータが顔を輝かせている。未だ下腹部に置いたままの手からそこがどれだけ大きいか感じているのだろうか。顔に浮かべる欲情をさらに濃くしながら、ゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえた。吐息もさらに熱く、淫らなものへと変わり、今にも襲われてしまいそうにも感じる。
 
 「これが…アナタの…とっても熱くて…硬い……ぃ♪」
 
 何処か陶酔した色を混ぜながらチョコラータはぽつりと呟いた。その甘い音色に俺の胸もまた締め付けられるような興奮を覚える。その一方で、男のツボを的確に刺激するような言葉に違和感とギャップが大きくなった。しかし、今更、チョコラータを止められる程、俺の欲情は下火ではなく、寧ろ燃え上がるような大火へと変化している。結局、大きくなったとは言え、興奮と欲情に飲まれたそれらを表に出す事が出来ないまま、俺は触られる感覚に小さく呻き声を上げた。
 
 「う……っ」
 「あ…ごめんなさい…。い、痛かった…?」
 「いや…それは今更だろ…」
 
 さっきは男の中でも敏感な部位を爪先でグリグリと苛めてくれたのだ。それでさえ快楽になったというのに、撫でられているだけで痛いはずが無い。寧ろもっと触って欲しいとばかりに息子はズボンの中でピクピクと痙攣している。
 
 「じゃあ……気持ち良かったって事…?」
 「だから…恥ずかしい事聞くなっての……」
 
 ストレートにこっちの目を見ながら首を傾げるチョコラータの様子にどうにも調子が狂ってしまう。何時もであれば意地の一つでも張っている頃だろうに、今はやけに静かだ。それが少し不気味でありながらも、胸がぎゅっと掴まれるような感覚を覚えてしまう。元々が素直なタイプが好みな所為か、今のチョコラータの姿はやけに俺の胸に響くのだ。
 
 「ふふ…っ♪ 素直じゃないの…♪」
 「お前が言うなって…」
 
 再び喜色を一杯に浮かべて、俺の身体を弄り始めるチョコラータこそ素直じゃない奴の代名詞のようなものだったはずだ。しかし、今はそれがまるで逆転しているようにしか見えない。俺はこんなキャラじゃなかった筈なのに、どうしてこうなった…と自問自答しても答えは出ないままだ。それどころか再び動き始めたチョコラータの手がムスコを撫でて、淡い快感を走らせ始め、思考が鈍り始めている。
 
 「うわぁ……撫でる度にピクピクしてる…♪ …そんなに気持ち良くなってくれてるのね……」
 
 チョコラータの言葉通り、俺の堪え性の無いムスコはこんな淡い刺激にさえ喜んで身を震わせていた。この魔王城に着てからこうして誰かを交歓するなんて初めてだからだろうか。長い間、放って置かれた肉棒はようやく懐かしい感覚に水を得た魚のように活き活きと喜んでいる。その上では気恥ずかしさと快楽の合間で揺れ動く主人がいるというのにまったくそれを考慮していない動きに、内心、頭を抱えたくなった。
 
 ―にしても…俺は早漏でもなんでもないはずなんだが……。
 
 寧ろ射精のコントロールは得意で快感を逸らす技術もそこそこあるはずだ。しかし、今はそれら培った筈の技術がまるで役に立たない。勿論、久しぶりで敏感になっているというのも大いに関係しているのだろうが、あっという間にズボン越しに撫でられるだけでこれだけ喜んでしまうのはあまりにも予想外だ。このままでは直接触れられただけで射精してしまうかもしれない。
 
 ―流石にそれは…男として…な。
 
 別に遅漏が良いという訳ではないが、早漏過ぎるのも考えすぎだ。相手を満足させずに自分だけ果てる瞬間ほど、男としてみっともない時は無い。勿論、時と場合とシチュエーションによるものの、初めてセックスする相手の拙い技術で射精するのは俺のプライドが許さないのだ。
 
 「じゃあ…そろそろ直接、触っても良いよね…♪」
 
 宣言するような言葉の後にそっと彼女の両手がズボンを掴んだ。そして、そのまま反応する暇も無く、下着ごとズリ下ろしていく。自然、腕に引かれて下りていく彼女の顔を見ながら、俺はズボンの中に冷たい空気が入り込むのを感じた。一瞬、ひんやりとした感覚の後、俺のムスコは締め付けから解放され、ぶるんと大きく震える。
 
 「…わぁ……♪」
 
 まるで面白い玩具を見つけたような声に気恥ずかしさを感じる。そこそこ下半身の強さや大きさには自信があるものの、こうして無防備に見られる状態と言うのはやはり恥ずかしい。これが、身体が自由になって動かせればまた別なのかもしれないが、首さえ動かせずどんな事をされているのかさえ見えない今の状況では楽しむ余裕なんてまるで無かった。
 
 「これが…オチンチンなんだ…♪おっきくて…トクトクしてる…♪」
 
 その声に再び陶酔の色を混じらせながら、チョコラータの手は俺のムスコへと直接、触れる。まるで吸い付くような肌がおずおずと裏筋を撫でるように。確かめるようなその仕草は勿論、弱弱しい刺激であったものの、敏感で貪欲な男根は喜んでその身を震わせる。もっと触って欲しいとオネダリするような仕草に我がムスコながら情けないものの、俺自身もそろそろ余裕と言うものがなくなってきていた。
 
 「…真っ赤に腫れ上がった先から透明な液が漏れてる…これって…カウパーって奴だよね…?」
 「あぁ…もう! 実況なんかすんなって!! 恥ずかしいだろうが!!」
 
 思わずそう叫んでしまうくらいチョコラータの言葉は図星だった。石化と衣服と言う二つの拘束から抜け出たムスコはもう我慢が出来ないとばかりに先端から先走りを漏らしている。それはムスコだけでなく、俺自身余裕がなくなっている証左だろう。何せ…こうして拙く触れられるだけでイきそうになっているのだから。
 
 ―ぜってーおかしいって…!なんだよこれ…!!
 
 最高級の女性の肌をシルクのようだと例える事があるが、チョコラータの肌はそれとは対極の肌触りを俺に与えていた。その肌はまるで吸盤のように吸い付き、じんじんと後に残る感覚を刻み込んでくる。勿論、本当の吸盤のように吸い付いているわけではないのだろうが、触れられた部分が引っ張られ、離れても疼くような感覚はそうとしか思えない。今までセックスの際にムスコを女性の手に触れられたことと言うのは数え切れないほどあるが、こうした感覚を味わうのは初めてでどう堪えて良いかさえ分からなかった。
 
 ―これが…魔物娘って奴か……よ…。
 
 魔王による侵略の尖兵…そう教会の連中に称される理由が分かった気がする。確かにこの感覚を味わってしまえば人間の女性では決して満足できなくなってしまうだろう。こうして触れられているだけでも、この俺が射精してしまいそうになるのだから。人間の女性とは与えられる快楽の総量が文字通り桁違いだ。触れられるだけでもこうなのだから、もし挿入してしまったら…それこそもう魔物娘でしか満足できない身体になってしまうだろう。
 
 「ふふ…♪ カウパーって感じてる時に出るのよね…」
 「あぁ、そうだよ…触られてるだけでも気持ち良いよチクショウ!!」
 
 やけになってそう叫ぶとクスリと小さな笑い声が耳に届いた。今、ムスコの方へと振り向いている彼女の表情はまるで見えないが、恐らく笑われているに違いない。脅えられるのもヤりにくいが、こうして笑われるのも流石にプライドが傷つく。しかし、反撃の手口はまるで無く、俺は相変わらずまな板の上の魚のようにベッドの上に横たわるしかない。
 
 「オチンチン可愛い…♪ まるで…オネダリしてるみたい…♪」
 「あんまり可愛いとか言わないでくれ…自信無くすから…」
 
 そういう意味で言われているのではないと分かっていても、やっぱりムスコを指して「可愛い」と言う形容詞を使って欲しくないのが男の性と言うものだ。半分が下らないプライドや、意地なんかで出来ている男にとって、オスの象徴を笑われたりするのは本当に傷つく事なのだから。
 
 「あ…ごめん…。でも…ピクピクして…オチンチン…ううん…この大きさだともうオチンポ…だよね…♪」
 「おま…っ!」
 
 普段の様子からは決して見えない淫語を漏らしながら、再びチョコラータの手が俺のモノに触れる。しかし、それはさっきまでの撫でるようなものではなく、握るような触れ方だ。太い幹の部分を両手で持ちながら、彼女の手は上下に動く。本格的に扱かれ始めた事に貪欲なムスコは既に快楽の信号を吐き出して、その先からカウパーを漏らし始めた。
 
 「あはぁ…♪ もうカウパー漏らして……そんなに私の手、気持ち良い…?」
 
 ―こ…の…っ!調子に乗りやがって…!!
 
 まるでからかうような音色に思わず反抗心が鎌首を擡げる。しかし、今の俺にはチョコラータに反撃する手段は何も無い。文字通り手も足も出ず、首さえ動かないのだから。顔は反応を見るためか辛うじて石化を免れてはいるので、クンニ位は出来るだろうが、後ろを向いたチョコラータの位置が少し遠くて唇が届かない。結局、八方塞の状態のまま俺は心の中で声を上げることくらいしか出来なかった。
 
 「一往復するたびにカウパーが漏れ出て…もう私の手ぐちょぐちょになっちゃったわ…♪」
 「だ、だから…っくっ……実況しなくて良いっての…!!」
 
 甘い言葉にどうしても妄想を掻きたてられてしまう。悲しいかな俺も男であり、自分の妄想力には中々、勝てない。今も俺の脳裏ではチョコラータの細くて白い指先に包まれた肉棒が擦られてその身を震わせているシーンが再生されている。そして、先端から漏れ出るカウパーがチョコラータの指先を汚し、さらなる潤滑油を提供しているのだ。潤滑油の力を借りて段々と早くなっていく手の動きと肉棒が絡み合い、さらなる快感を……って拙い…!!
 
 「今…びくんっって大きく震えたけど…もしかしてイったの…?」
 「い、いや…イって無い……!!」
 
 ―いや、危なかったけどな。
 
 エスカレートしていく妄想が興奮を掻き立てて、一瞬、絶頂へと登り詰めそうになっていた。何とかそれはギリギリで堪えられたもののムスコがまだ瀬戸際に居るのには変わりが無い。正直、今、追撃されてしまえば射精してもおかしくはないくらいだ。しかし、チョコラータの手は何故か俺のムスコから離れて様子を見ている。それに安心した俺は多少なりとも反撃してやろうと口を開いた。
 
 「そ、そもそも、お前の技術なんかでイくかよ」
 「…へぇ…そうなんだぁ…♪」
 
 ―あ、やべ。もしかして地雷踏んだ?
 
 欲情の中にからかうような色を強く滲ませた彼女の言葉に本能が逃げろと囁いた。しかし、一度吐き出した言葉は飲み込めるはずも無い。さらに言えば、プライドを傷つけられたことで俺自身、少なからず拗ねていたのだろう。素直に謝ることができず、次に出てくるのもまた憎まれ口であった。
 
 「当たり前だろ! 寧ろ気持ち良くなさ過ぎて震えたんだっての!」
 「じゃあ…もし、五分以内に射精したら私の言う事一つ聞いてくれる…?」
 「う…い、いや…それは…その…」
 
 多少、反撃できれば満足だった俺としては思いもよらない条件に怯んでしまう。そもそもこうして撫でられているだけでも射精してしまいそうになる相手にそんな条件を持ち出されて何とかなるはずがない。今は射精の波が過ぎ去って多少は冷静になっているとは言え、また手扱きが始まればすぐに絶頂に至ってもおかしくはないのだから。賭けても良いが100%無理である。正直、勝ち目なんて無いに等しい。
 
 「じゃあ…三分ならどう…?」
 「いや…それも流石に…」
 
 ―…なんつぅ情けない姿だ…。
 
 手扱きで三分持つ自信が無いと言っているようなものなのだから。正直、さっきとは別の意味でプライドが破壊されていく。しかし、それは完全に自業自得であるのでチョコラータにも怒りを向けられない。
 
 「…やっぱりアナタって早漏なのね…」
 
 ―だが、ポツリと呟かれたその言葉を見逃せる筈が無かった。
 
 男に言ってはいけない一言TOP10には確実にランクインするであろう台詞に俺の反骨心が一気に燃え上がった。そこまで言われて引き下がれるほど俺は大人しい男ではない。ここで逃げる選択肢は無いとばかりに俺は声を張り上げた。
 
 「や、やってやるよ…! 三分でも五分でもやってやろうじゃねぇか!!」
 「無理しなくて良いのよ。早漏って努力すれば直る病気みたいだもの。コンプレックスに思うことは無いわ」
 「まだ言うかぁぁっ!! じゃあ、十分でも構わないぜ! 幾らでもやってやろうじゃねぇの!!」
 「じゃあ、十分ね♪」
 
 ―…あれ…?これ…嵌められた?
 
 未だチョコラータが後ろ向きである為にその表情は決して見えない。しかし、今のその顔は獲物が罠にかかった猟師のような顔をしているような気がする。勿論、それは予想であって現実とは乖離している可能性が高いのだが…俺の挑戦をすぐに受けずアドバンテージを手に入れたチョコラータの手管に現実もそれほど俺の予想と離れているとは思えない。
 
 ―や、やっぱり…五分…いや、三分に負けてもらうか……?
 
 思わず心の中で持ち上がる弱気な自分。しかし、それを声に出す暇も無く、チョコラータの手は再び上下に俺のムスコを扱き始めた。
 
 「じゃあ…今から十分…♪ 頑張ってね…♪」
 「う…ぁぁ…っ」
 
 宣言される以前から始まったその動きはさっきまでと同じただ上下に擦るものだ。まるで大事な宝物を抱えるように両手でしっかりと左右から掴まれ、ゆっくりと焦らす様に上下を繰り返している。一回一回、快感を教え込むようなその動作は会話中に大分、クールダウン出来た俺にとって耐えられないものではなかった。
 
 ―とは言っても…このままじゃ十分も持たないのは確実なんだが…。
 
 さっき射精していれば話は別だったかもしれないが、生憎と寸止めの状態で終わっている。精管を昇りかけた精液は未だ煮えたぎって解放の瞬間を待っているのだ。そんな状態でチョコラータの吸い付くような指に勝てるわけが無い。誰がどう考えてもジリ貧だろう。
 
 ―なら…どうにかして気を逸らすしか……。
 
 「な、なぁ…」
 「何かしら…?ちなみに時間の短縮は認めないわよ?」
 「わ、分かってるって。そ、そうじゃなくてだな…」
 
 ―な、何か会話するネタを……。
 
 快感を逸らすのに一番良いのは会話だ。思考の大半を聞く事と考える事、そして話す事に割ける。無論、その分、強すぎる快感の前ではマトモに会話する事が出来ないという弱点があるが、今はまだ耐えられない程ではない。それならば余力が残る今の間に少しでも時間を引き延ばしておきたい、と俺は必死に会話のネタを探していた。
 
 「き、今日の天気は…どどうだった…?」
 「ちょっと曇ってるわね」
 「そう…か」
 「アナタのココは…真っ赤に腫れてるけれど…♪」
 
 その言葉と同時にふぅっと吐息が亀頭へと降りかかった。風と擦れあった男根が一瞬だけ冷えるが、すぐにその吐息の中に込められる興奮の色を感じて燃え上がる。正直、手だけで攻めて来られると思っていただけにそれは余りにも予想外すぎて思わず腰ごと震わせてしまった。
 
 「く、下らない親父ギャグ…だな…」
 「その割にはピクピクって反応してくれてるわよね…♪ それとも…感じてるのかしら…?」
 「馬鹿言え…! こ、これくらいで……」
 
 ―とは言うものの、正直、危ないのは事実だった。
 
 さっきの吐息はまったく予想外の方向から殴られたも同然なのだから。防御なんて考えられず、ごっそりと俺の余力を奪っていった。まだ多少は我慢できるが、正直、二度三度あの攻撃が来ると堪えられる自信が無い。それでも強がるのは俺の根幹に根ざす男のプライドと言う奴が簡単に膝を屈することを認めないだけだ。
 
 「ふぅん…♪ じゃあ…ここからエスカレートさせても良いのよね…♪」
 「くぅぅぅっ!」
 
 嬉しそうな言葉と共にチョコラータの手が両手で幹を包み込むようなものから、片手で幹をもう片方で亀頭を弄るようなものへと変化する。相変わらずゆっくりと幹を上下する片方とは裏腹に、亀頭を弄る方は掌を被せるようにしてグリグリとこねまわしていた。カウパーが無ければ痛みさえ感じていたであろう強い刺激に俺の腰は一瞬、跳ねてしまう。しかし、それでもチョコラータの手は離れず、カウパーを亀頭へと塗りこもうとしているように腕を動かしていた。
 
 「うふふ…♪ すっごい反応…♪ やっぱり…ココ良いのね…♪」
 「ばっか…! い、痛くって反応しただけだっての…!!」
 「その割には…カウパーが止まらないわよ…♪」
 
 渾身の強がりもあっさりと見破られ、チョコラータはさらに亀頭側の手の動きを強くした。それだけで堪え性の無い俺のムスコは先端からカウパーを漏らして、潤滑油を提供している。ニチャニチャと淫らな水音を掻きたてるほどの粘度と量になったカウパーでムスコを弄ぶ下で幹を弄る手も溢れ出るカウパーにさらにその動きを強くしていった。
 
 ―やば…いぃ…っ!!
 
 正直、上下に擦るだけが精一杯だと思っていたのに、的確に俺の弱点を刺激してくるチョコラータの動きに危機感と共に射精感が高まってくる。見える位置に時計が無いから分からないが、体感ではまだ二分も経っていないだろうにもう俺は射精寸前まで追い詰められていた。気を抜けば今すぐにでも絶頂してしまうだろう。腰の震えやカウパーが止まらないくらいの快感を今も注がれているのだから、それに我慢できる時間なんてもう僅かしかない。
 
 「ふふ…ビクビクが大きくなってきた…♪ もうそろそろ出そうなんでしょ…? 我慢しなくて良いんだからね…♪」
 「じ…自意識過剰も程ほどにしろっての…!!」
 
 そう言う俺の口からは唾液が零れ落ちていた。噛み締めた歯の間から零れる唾液を飲み込む余裕がすらない。気を抜けば射精してしまいそうなので、そう言った方向に気を裂く余力は残っていないのだ。自分の心の何処かで負けは見えているのに其処まで必死に我慢する自分に対する自嘲が生まれたが、それも快感の並と意地のぶつかり合いの中で消えていく。
 
 ―でも…これは…もう…っ!!
 
 ただでさえ吸い付くような肌をしているのに敏感な亀頭と触れ合っているのだ。さらにはネチャネチャとセックスを連想させる淫らな音を掻きたてながら、ビンの蓋を開けるように無遠慮に掌で弄ばれている。そして、幹からは慣れ親しんだ、しかし、決定的に人間とは違う感覚が強い快感を産んでいた。マゾヒスティックな色の強い亀頭の快感と比較的オーソドックスな快感が俺の中で交じり合い、音を立てて意地を削っている。
 
 「ん……まだ射精しないんだぁ…♪」
 「あ、当たり前だっての…! こ、これくらいでイける訳…!!」
 「ふふ…っ♪ じゃあ……これでどうかしら…?」
 
 精一杯の強がりを見せた言葉にそう応えながらチョコラータの身体は前倒しになっていく。丁度、俺の脚の方へと向いている関係上、何をしようとしているのかは分からない。しかし、唐突に嫌な予感がして、俺はそれを遮ろうと口を開いた。
 
 「やめ――」
 
 ―そこまで言った瞬間、亀頭は生暖かい『何か』に包まれた。
 
 けれど、それはただ生暖かいだけではない。柔らかくてグチョグチョでヌルヌルだ。しかも、それらの感覚は途方も無く淫らで、俺の背筋をゾクゾクとした興奮を這い上がらせる。例えようも無い感覚に一瞬、困惑した後、襲い掛かってきた快感に俺の脳は限界に達してしまった。
 
 「う…あぁぁぁっ…!」
 「ちゅぷぅっ♪ ひゅ……くちゅ…っ♪」
 
 我慢できない快感の波にガクガクと腰を揺らす俺の上でチョコラータが淫らな水音を掻きたてる。はっきりと耳に届くその淫らな音はまるでわざと聞かせているようだ。お陰様で相変わらず見えないが、何をされているかは分かってきた。恐らくだが…俺は今、フェラチオされているのだろう。淫らな水音、生暖かい感覚、粘液塗れの中。これだけ揃えば快感に鈍った俺の頭でも分かる。
 
 ―けれど…っ!だからって対抗できる筈が…っ!!
 
 亀頭を唇の内側で包むような愛撫は乱暴な快感を注ぎ込まれていたそこをまるで癒してくれるように感じる。淫らさの中に何処か暖かく優しい感覚が混じっているのだ。それはさっきまでの掌の愛撫と大きなギャップを作り、無抵抗にその感覚を受け入れてしまう。勿論、そこから派生する快感もまた俺の脳髄を駆け上がって射精へのカウントダウンを始めようとしていた。
 
 「ん…れろぉぉ…っ♪」
 「っ〜〜〜〜!!!」
 
 そのカウントダウンを止めようとした瞬間、俺のムスコに細長いものが絡み付いてくる。カリ首の敏感な部分から幹までぬるぬると巻きつくような感覚が、最後のトドメとなった。その細長いモノが何なのか認識する間もないまま、その生暖かくぬるぬるとした感覚に俺の我慢は完全に粉砕される。そして、視界が真っ白に染まったと思った瞬間、俺の精管へと一気に精液が送り込まれ、亀頭の先から白濁した液体が噴出し始めた。
 
 「うぁぁぁぁ…っ」
 「んんんっ♪ …ひゅ………ふ…ごく……っ…ごくっ…♪」
 
 自由になる腰を思いっきり震わせて射精する俺とは裏腹に、チョコラータは微動だにせず射精を口腔で受け止め、嚥下している。俺にも届くほど大きな咽喉の蠢きはそれだけ俺が多く射精している証なのだろう。こうして誰かとセックスするなんて久しぶりの上、初めて人外の快感を教え込まれたのだから仕方ない。さらに、チョコラータが必死に亀頭へと吸い付いて今も、俺の精液を嚥下しているのだ。それにオスとしての興奮を感じない奴なんて居ないだろう。
 
 「…ん…っ♪ ごくっ……ふ…ぁぁ…♪」
 
 そして、射精の余韻が終わる頃、チョコラータもまた満足したように口を離した。外気に晒された亀頭が震えたが、その先端からはもう一滴たりとも精液が漏れ出る事は無い。『お掃除フェラ』まではされてはいないとは言え、射精の余韻に震えるたびに漏らしていた精液を全て舐め取られていたのだ。吸い上げられたらまだ精液も出るだろうが、恐らく奥の方にしか残ってはいないだろう。
 
 「…ん…♪ ハンスの…とっても美味し……♪」
 
 ―…いや、ホント、恐ろしいな魔物娘って奴は…。
 
 初めてのフェラだろうに、何の脅えも見せず精液を全部受け止めた上に、美味しいとまで言ってのけるのだから。男に与えられる快感そのものも脅威だが、この性的な方面での適応力が何より恐ろしいものなのかもしれない。正直…今だって美味しいと言われて俺の尊厳が小さく疼いたりしたのだ。特に何か考えているわけではないだろうに、こういう小さな部分でしっかりポイントを取ってくるのだから。男が彼女達に夢中になってしまう理由が良く分かる。実際…今も俺の中でチョコラータに惹かれる気持ちがさらに大きくなり始めていた。
 
 「はぁ…はぁ……あぁ…くっそ……」
 
 荒く息を吐きながら、思わず悪態を吐いてしまうのは自分の情けなさに、だ。大口を叩いた割りに殆ど持たなかったも同然なのだから。久しぶりとは言え、チョコラータも初めてなのだから言い訳は出来ない。早漏ではないと思っていたが、もしかしたらその気があるのかもしれないと内心、少し落ち込んでいたりもした。そんな俺とは裏腹に、俺の方へと振り返るチョコラータは嬉しそうな勝利の笑みを浮かべている。
 
 「四分五十秒…って所かしら? …ともあれ…私の勝ち…ね♪」
 「い、いや…アレは反則だろ!そもそもフェラするなんて聞いてないぞ!?」
 
 しかし、それを認めたところで勝負の決着に納得がいくはずがない。だって、俺としては手だけの勝負であったつもりなのだ。フェラをされるだなんて聞いていないし、認めたつもりが無い。まぁ、フェラがトドメになっただけで、実際、それ以前からジリ貧で、限界も近かった。正直、十分も持たなかっただろう。しかし、それでも納得がいかないものはいかないのだ。
 
 「あら…?条件は確か『射精したら負け』だったと思うけれど?」
 「う……」
 
 言われて思い返すと確かに手だけ、なんて一言も言っていない。売り言葉に買い言葉であったとはいえ、どれだけ不利な条件で始めたのだと我が事ながら情けなくなった。勿論、普段はこんな風に変に熱くなったりはしない。良くも悪くもチョコラータが相手だったからこその失態なのだろう。そう理解していても、俺の中のもやもやとした気持ちはなくならない。
 
 ―けれど…ここで認めないのは余りにも格好が悪すぎる。
 
 既に五分も持たなかったという失態を見せているものの、これ以上、恥を晒したくは無い。好き……かも知れない相手に望んで格好悪い部分を見せるほど俺はプライドが無い訳ではないのだ。嵌められた感がなくならないとは言え、ここは大人しく罰ゲームを受けるべきだろう。
 
 「あぁ、もう!分かったっての!何でも好きなことを命令すれば良いだろ!」
 「ふふ…♪ 勿論、そうさせてもらうわ♪」
 
 俺の上で勝ち誇った笑みを浮かべるチョコラータにヤケクソ気味に言ってやっても、その表情は崩れない。絶対的勝者の余裕と言う奴なのだろうか。そう思うと凄く悔しい気がするものの、文字通り手も足も出ないままヤられてしまったのは事実なので何も言えない。俺に出来ることはただ、彼女の宣告を待つ事だけだ。
 
 「じゃあ……ね…その…………あの…さ」
 「……?」
 
 しかし、その肝心な先刻が中々、来ない。さっきまでの余裕めいた表情も隠して、チョコラータはまるで初心な少女のように羞恥に真っ赤に染まっていた。半ばセックスの領域に足を突っ込んでいるさっきの状態でも羞恥を見せなかったのに、どうして今更、そんな色を見せるのか?と疑問に思ったが敗者が口を挟むべき部分ではないだろう。
 
 「……って言って」
 「…?すまん。聞こえなかった」
 
 ようやくポツリと呟いたチョコラータの声は前半部分が聞き取れなかった。何か言って欲しいのまでは分かったが、肝心の部分が分からなければどうしようもない。そう思って聞き返したのだが、チョコラータの顔はさらに羞恥の色を濃くした。そんなに恥ずかしがるようなことを言わせたいのか、と俺が思った瞬間、チョコラータは再び口を開く。
 
 「だ、だからね…す、好きって…言って欲しいの…」
 「…そ、れは……」
 
 ―それは正直、難しい相談だった。
 
 勿論…ココまで来て今更、自分を誤魔化す事は出来ない。いい加減、認めるべきだろう。…俺は確かにチョコラータに惹かれている。…いや、好きだ。けれど…それを口に出すのはどうしても憚られた。どうしても父の惨めな死に様が目に浮かび、言葉にする事が出来ない。どうでも良い相手ならば、下らない言葉遊びと共に幾らでも言える筈なのにチョコラータ相手だとどうしても躊躇の感情が大きくなってしまう。
 
 「…べ、別に…嘘でも良いの。心が篭って無くても構わない。でも……やっぱり…ね…」
 
 ―顔を伏せてチョコラータがこう言うのは、やっぱり不安なのだろう。
 
 今まで色々あったものの、はっきりとチョコラータ相手に好意を示したことは無かった。そもそもバレンタインの約束から逃げたのだし、嫌われているとチョコラータが思っていてもおかしくはない。そして、今も不器用ながらもはっきりと好意を示しているにも関わらず、その返答が無ければ誰だって不安になるだろう。それくらい俺にだって分かった。
 
 ―俺は…何をしているんだ…?
 
 今、こうして俺の目の前で悩んでいる人が居る。それは本当に俺にとって見れば小さな悩みで、彼女にとっては大きな悩みだ。俺が一言言えばあっさりと解決する事でありながら、彼女にとっては至上命題にも近い重さを伴っている。それなのに、俺は二の足を踏み続けて、チョコラータを、いや、好いた女性を傷つけているのだ。それは…それは俺が最も憎む母親のような…いや、それ以下の行為ではないだろうか?
 
 ―そう思った瞬間…脳裏に父の顔が浮かんだ。
 
 やせ細ったその顔は何時ものように優しい表情を浮かべていた。死に際まで苦しい様子を一切、見せようとしなかった父のその表情は、まるで俺を許してくれているように感じる。勿論…それは幻覚だろう。ゴーストや魂が存在しても、『幽霊』は存在しないのが今の定説なのだから。だから…これは俺自身の心が作り出した虚像に過ぎない。しかし、それでも…俺はその心の中の父に語りかけるのを止められなかった。
 
 ―ごめんね、父さん。貴方の事は忘れない。けど…今、この時だけは…。
 
 「好きだ」
 「…え……?」
 「チョコラータ…好きだ。愛してる」
 
 はっきりと口から出た言葉は思いの外、重かった。けれど……口に出来ない程ではない。寧ろ…その言葉の意味と重みを自覚するには丁度、良い塩梅だ。
 
 「別に罰ゲームだからって訳じゃない。…ずっと前から気になっていた。それを認めるのが嫌で目を背け続けていたけれど…お前の前から逃げたけれど……好きなのは本当だ」
 「……嘘…」
 「信用無いな…いや、仕方が無いんだろうけど…」
 
 信じられないように言葉を漏らすチョコラータは、やはりそれだけ不安だったのだろう。それだけ俺が彼女を追い詰めていたのだ。そう思うと、自分に向かって苦々しい感情が湧き出てくる。しかし、今はそれに身を委ねている場合ではない。少しでもチョコラータの不安を晴らしてやるのが、今の俺に出来る唯一の償いなのだから。
 
 「どうすれば信じてくれる…?」
 「……もっと、もっともっともっと…私が信じられるまで……好きって言って」
 「厳しいな」
 「当然でしょ。…好きな子から逃げるような奴にはこれくらいで丁度、良いくらいなんだから」
 
 悪戯っぽい言葉と共にチョコラータが俺の胸に頭を預けてくる。ポスンと言う衝撃と共にその頭の蛇たちが甘えるようにすり寄って来た。子供のようなその仕草に俺の中の決心が一つ固まる。ココまで来たらもう回数なんて関係ないと、俺は口を開いた。
 
 「…その意地っ張りな所が好きだ。それでいて変なところ素直な所も好きだ。意地っ張りな部分をコンプレックスに思って治そうとしてるひたむきさが好きだ。時折、悪態を吐いて後で自己嫌悪する所が好きだ。泣き虫な所が好きだ。怖がりな所が好きだ。俺の軽口に付き合ってくれるところが好きだ。それで居て純情で恥ずかしがり屋な所が好きだ。その綺麗な瞳が好きだ。可愛らしい唇も好きだ。柔らかい頬も好きだし、スレンダーなスタイルも好きだ。あ、勿論、素直な蛇たちも好きだぞ」
 「……は、恥ずかしい事言わないでよ……っ」
 「言えって言ったのはお前だろうがよ…ていうか、お前より俺の方が恥ずかしいっての…」
 
 顔を真っ赤にして頬を摺り寄せてくる辺り、言う程、嫌がってはいないのだろう。寧ろ様子さえ見ていれば喜んでいるようにさえ見える。ここまでやって無反応だったら死にたくなっていたかもしれない。しかし、結果は上々のようで、内心、安堵の溜め息をついた。そして、そんな俺も今まで気障な台詞は数え切れないほど口に出しては来たものの、別の意味で気障な台詞に真っ赤に染まっている。しかし、今更、逃げられる訳もなく、俺はヤケクソ気味に二の矢を継いだ。
 
 「まぁ……つまり…お前の全部が好きだって事だよ」
 「うぅぅ……」
 
 余りにも恥ずかしすぎる台詞にお互いの顔が真っ赤に染まる。チョコラータなんてまるで石化したように固まってもじもじとしているくらいだ。俺は完全に石化していて身動き一つ取れないが、動けるのであれば同じように目を背けたり指を弄んだりしていたに違いない。まるで初々しい恋人同士のような雰囲気が二人の間に流れていた。そして、その雰囲気に後押しされたのだろう。身動ぎするチョコラータは決心したようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
 
 「わ、私もね…あの……ね……アナタの事…好き…よ?」
 「あぁ…」
 
 初めてはっきりと告げられた好意の言葉に俺の胸が無性に暖かくなった。勿論、チョコラータが俺の事を好きなことなんてかなり以前から気付いている。しかし、それでも言葉として告げられるのはまた違う意味があるのだろう。少なくとも大きく脈打つ俺の心臓はこれまでとはまた違う感情を俺の身体へと流し込み始めていた。未だ名前のつけられないその暖かな感情に身を委ねるようにゆっくりと目を閉じる。
 
 「―だから…ね…もう我慢…出来ないの…♪」
 
 ―え?
 
 唐突に聞こえてくる言葉に驚いて目を開けようとするとチョコラータの手が腰のストールに掛かった。何時かのデートで彼女が着てきたチェック柄のストールはそのまま彼女の手で装飾具から外され、そっち俺の腹部へと落ちる。その下には下着さえつけていなかったのだろう。密着している上に首を動かさないので見えにくいものの彼女の腰には何も見えない。ショーツの紐一つ無く、鮮やかな肌色が露出していた。
 
 「アナタが…好きだって言ってくれたからもう…止まらないの…♪ 止まらなくて…身体が熱くって…アナタが欲しい…♪」
 「ちょ…!?」
 
 再びその声に欲情を塗れさせ、チョコラータの手は再び俺の下腹部へと伸びていく。そこはまだまだその身を硬くするムスコの姿があった。アレだけ射精したのにいまだ萎える気配を見せないのは俺が若いのか、それとも押し当てられてるチョコラータの肢体に興奮しているのか。恐らく両方だと結論づけても、状況は変わらない。相変わらず俺の身体は石化したままであるし、抵抗出来る余地なんてまるで無いのだ。
 
 「さっきからずっとこの熱いのを感じて……私の子宮がね…♪ キュンキュンって唸ってて……もう…我慢出来ないんだからぁ…♪」
 
 甘い囁きと共にチョコラータの手が俺のムスコをそっと撫でる。さっき射精して幾らか満足しているはずなのに、貪欲なムスコはその身を大きく震わせて喜んだ。同時にさっきから衰えない快感の波が俺の脳へと突き刺さってくる。
 
 「アナタもまだこんなに元気だし…良い…よね…?」
 
 その言葉と同時に密着していたチョコラータの身体がふっと起き上がる。やはり彼女も強い興奮を覚えているのだろう。その肢体には汗が浮かび、テラテラと艶やかに光っている。本来であれば健康的なイメージの強い姿だが、それを殆ど感じさせないのはそれ以上にエロスが強いからだろう。上気した頬や漏れ出る熱い吐息。そしてぴっちりと閉じた秘所から透明な粘液が漏れ出る姿が、彼女のイメージをエロスへと変えていた。
 
 「私も…もう…こんなになってるんだよぉ…♪」
 
 甘ったるい声と共にチョコラータはムスコから離した右手をそっと自分の秘所へと添える。そのまま人差し指と中指を皮膚へと沿え、左右へと思いっきり開いた。肌色の幕が開かれた先にはヒクヒクと痙攣している美しいピンク色の粘膜が見える。今まで他の誰にも触られたことの無かったであろうその粘膜は、まるで涎のように愛液を垂れ流し、オスを誘っていた。今まで見た中のどんなモノよりも淫靡で美しいその場所に、自然と俺の咽喉が生唾を飲み込む。
 
 「だからぁ…挿入れる…ねぇ♪」
 
 まったく理論立っていない彼女の台詞に気付き、俺が彼女を制止しようとした時にはもう彼女の手により俺のムスコとチョコラータの膣が触れ合ってしまっていた。その一瞬、快感を望むオスの本能が俺の言葉を止めてしまう。そして、その一瞬の間にチョコラータが一気に腰を進めて、俺のムスコは待ち望んだ粘膜の感覚を味わう事になった。
 
 「う…っああぁぁっ…っ!」
 「ひゅぅぅぅぅぅぅっ♪」
 
 お互いの声が絡み合い、部屋の中に反響する。しかし、それに構っている余裕は無かった。チョコラータの膣は処女なだけあって、かなりキツく俺のムスコを締め付けてくる。しかも、膣壁には細長い突起が山ほど着いているのだ。彼女自身の舌の様な細長い突起が嘗め回してくるような感覚は、今まで味わったどんな膣とも比べることが出来ない。余りにも気持ち良すぎて、こうして挿入れている最中にも、暴発しないのが不思議なくらいなのだから。さっき射精していなければ挿入れている最中に間違いなく暴発していただろう。
 
 ―やばいやばいやばいやばい…な…なんだよこれ…っ!!
 
 しかも、挿入が終わらない。成人男性の掌を一回り大きくしたくらいの長さを持つ俺のムスコは今まで全部、飲み込まれたことが無かった。しかし、小柄なチョコラータの膣は貪欲に俺のムスコを飲み込み続けている。無論、入れば入る分、彼女の名器を味わう事になり、あっという間に射精への欲求が膨れ上がっていくのだ。
 
 ―み、三擦り半所か…挿入までもたない…なんて……!!
 
 しかし、どれだけ我慢しても溢れかえるような快楽には勝てない。なまじ人間の女性を知っている所為か、それとは遥かに違う膣の感覚に耐えられないのだ。背筋を這い上がるゾクゾクした感覚が脳髄へと至り、激しい快楽へと処理されている。石化していなければそれこそ身体中を震わせていたかもしれない。それほどの快感が今、俺の身体中を駆け巡っていた。
 
 「…はぁぁぁ…っ♪」
 
 射精を我慢するのが精一杯の俺とは裏腹にチョコラータは俺の上で気持ち良さそうな吐息を漏らした。甘く熱いその吐息は聞いているだけで、オスの本能を刺激されそうになるくらい淫らである。さらにチョコラータは全身から甘いミルクのような香りを立ち上らせていた。メスのフェロモンなのだろうか。嗅いでいるだけで興奮しそうになってしまう。さらに亀頭の先が何か分厚い肉の壁にぶつかり、チョコラータの膣がぎゅっとムスコへと抱きつくように締まった。
 
 「きゃふぅぅぅっ♪」
 
 甘いメスの叫び声と連動するように入り口から奥までがぎゅうっと絡みつき、自然、膣内の突起も激しく絡み合う。まるで何人ものチョコラータに舐められているような感覚に俺のやせ我慢はあっさりと決壊する。ムスコの下にある二つの玉が一気に収縮し、精管へと精液を送り出した。あまりの快楽に思わず瞑った目蓋の裏が真っ白に染まるのを感じながら、俺の腰は自然と最奥へと亀頭をたたき付けるように跳ね上がる。
 
 「あはぁぁぁぁっ♪」
 
 そのまま一気に噴出す白濁した液は全てチョコラータの膣内へと吐き出される。それに歓喜の声を上げるように、分厚い肉の壁は俺の亀頭へと吸い付いた。ぽってりとした唇に挟み込まれ吸い上げられる感覚はオスとしての強い充実感と快感を伴っている。さらに本能が男の精を強請る術を知っているのか射精の最中も奥へ奥へと精液を搾り取るように膣内が律動していた。ゾクゾクとした感覚が背筋を這い上がるのが止まらず、充実感と快感の震えながら、俺のムスコは何度もチョコラータの子宮目掛けて精液を放ち続ける。
 
 「…う………」
 
 十数秒ほどかけて射精が終わり、脱力した頃には俺の身体には殆ど体力が残っていなかった。一度の射精でここまで疲れるなんて今までは無かったのだが…今はまるで精液と共に体力と精神力が吸われてしまったように感じる。余りにも気だる過ぎる感覚に身を委ねながら、俺は胸を大きく上下させていた。
 
 「熱ぅい…♪」
 
 熱に浮かされたように舌足らずな甘い声を漏らすチョコラータの股間からは一筋の血が流れていた。処女の証であろうその血に胸がズキリと痛む。本来であれば俺がエスコートしてやらなければならなかったのに、完全に任せきりだったからだ。加減も分からないであろうチョコラータが暴走して無理をしているんじゃないかと心配になるのは当然の事だろう。
 
 「あは…♪ …こんなに熱いのを射精してくれるなんて……とっても幸せぇ…♪」
 
 ―まぁ、ある意味、これ以上の無理は無いって言えるかもしれないけれどな。
 
 普段であれば決して言わないような台詞を囁きながら、チョコラータはそっと微笑んだ。彼女の言葉通り本当に幸せそうなその顔には苦痛の色は見えない。最初から痛みを感じていなかったのか、或いは痛みに慣れてしまったのか。それさえも彼女自身ではない俺にとっては定かではないが、少なくとも無理はしていないようで内心、安堵のため息を漏らした。
 
 「ふふ…♪ 挿入れただけで射精するなんて…そんなに気持ち良かったの…?」
 「う……まぁ、その……」
 
 そんな俺に投げかけられる言葉に流石の俺もたじろいでしまう。確かにチョコラータの膣内は今まで味わったどんな女性の物よりも気持ちが良い。と言うか、格が違うと感じるくらいだ。これぞ人外と言わんばかりの快感を今も容赦なく叩き込んでくる。今は射精直後の頭が透き通った感覚があるから多少は冷静とは言え、二度の射精にも萎えずその身を滾らせるムスコがその快楽の何よりの証人だろう。こうして抱きあっているだけでも、ムスコの形に慣れ始めた膣内が脈動し、何れは射精しそうなくらいだ。間違いなく名器と言えるチョコラータのモノが気持ち良くない筈が無い。
 
 ―とは言え…それはそれで言い訳めいて…その…なんだか…なぁ。
 
 男としては女性に早漏と言われるのは小さいと言われるのに次いでショックな出来事であろう。意地や面子で半分が出来ている男にとって、その発言はインポテンツになりかねない。勿論、ここで何も言わないのは論外であるものの、下手に言い訳めいた言葉を放って早漏だなどと思われたくはない。少なくともここでは慎重にならなければいけないと思い、素直にそれを口に出すのは気が引けた。
 
 「ふふ…っ♪ ねぇ…ど・う・な・の…?」
 「し、締めるな馬鹿…っ!」
 
 リズムに乗ってきゅっきゅと締め付ける度にチョコラータの膣が絡み付いてくる。既に愛液塗れになっているそこは潤滑油で一杯でキツいくらいの締め付けでも快楽としてムスコに処理されてしまう。思わず腰を浮き上がらせたくなるくらいの快感はまた一歩、俺に射精への階段を登らせた。
 
 「言ってくれなきゃずっとこうしてきゅっきゅってしちゃう…♪」
 「…そ、そんな事したらまた射精るぞ」
 「構わないわよ?アナタの精液は一滴残らず私の物なんだから…全部子宮で受け止めてあげる…♪」
 
 反撃の言葉はあっさりとチョコラータに受け止められてしまう。妊娠の可能性に多少なりとも怯んでくれると思ったが、そんなつもりは全く無いらしい。寧ろ孕ませられるつもりのようにも見える。魔物娘は人間よりも妊娠の可能性が低いとは言え、あっさりと言ってのける事に内心、驚きを隠せない。ようやくチョコラータの事を好きだと認められた俺にとって、父親になるというのはまだまだハードルが高すぎると思うのだが、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
 
 「それに…私、アナタの子供が欲しいもの…♪」
 
 ―…それは殺し文句過ぎるだろ…。
 
 囁かれたチョコラータの台詞は予想通りだったとは言え、俺の胸を大きく震わせる。やはり男として好きな相手にそう言われて悪い気はしない。寧ろ今は無理でも何れは父親になろう、とそんな気持ちにさえなるのだ。余りに単純すぎる自分に一瞬、溜め息が漏れ出そうになったものの、好きな相手に子供が欲しいと言われた喜びまでは隠せない。
 
 「…気持ち良いよ。今だって…射精してなきゃとっくに射精してるくらい…気持ち良い」
 
 その喜びに応えるように俺はポツリと言葉を漏らした。それを聞いたチョコラータの喜色がさらに濃くなっていくのを視界の端で捕らえるが、気恥ずかしくて彼女の顔を真正面から見る事が出来ない。
 
 「あは…ぁ♪ ……じゃあ…もっと気持ち良くしてあげる…ねぇ♪」
 「くぅぅ…っ!
 
 その言葉と共にチョコラータの腰がゆっくりと上下しだす。蛇の身体を大きくしならせて、ゆっくりと降ろすその抽送はとても不器用なものだ。しかし、彼女の膣の蠢きが、それをただ不器用なだけでは終わらせない。離れようとするたびに名残惜しそうに亀頭に吸い付いて離さない子宮口や、逃げようとするムスコのカリ首を撫で回し、ゾクゾクした感覚を生む突起が爆発的に快感を大きくしている。膣の蠢きも引き抜く動きを阻害しようとしているようにきゅっとカリ首の下辺りを重点的に締め付けていた。
 
 「またぁ…またピクピクってしてる…ぅ♪」
 「そりゃ……っこれだけ気持ち良ければ…な…!」
 
 堪えなければ意識ごと持っていかれそうな快楽のうねりに言葉を紡ぐことで何とか堪えようとする。しかし、動き始めたチョコラータは容赦が無い。無慈悲なほどしっかりと腰を動かして、快感を高めていく。まだゆっくりとした動きである今でさえその快楽は一歩一歩、確実に俺を絶頂へと近づけていた。
 
 「私も…気持ち良い…よぉ♪ 気持ち良い所…全部…擦ってぇ…ビリビリ来るぅ…っ♪」
 
 蕩けた表情で俺の体に抱きつき、チョコラータはそう甘く囁いた。普段であればひっくり返しても言わないであろう甘い言葉に未だ慣れない俺の身体はゾクゾクとした痺れを走らせる。それだけでムスコが反応し、ぴくりと膣内で跳ね上がるくらいだ。そんな俺に向かって、チョコラータはそっと微笑みながら、その細い舌が首筋をそっと舐める。
 
 「うあ…!」
 「ふふ…♪ 可愛い…ハンス…とっても可愛い…っ♪」
 「それは…褒め言葉でもなんでもない…んだが…!?」
 
 首筋から上がってくるじわじわとした感覚に思わず呻くと、チョコラータに可愛いと言われてしまう。それは何か他意があるようなものではないと知ってはいるが、どうしても素直に受け入れられない。俺だって男であるし、可愛いより逞しいだの格好良いだの言われる方が好きなのだから。
 
 「だって…とっても気持ち良さそうで……顔もトロトロになって…涎も出てるわよ…♪」
 「だから…い、言わなくて…も良いって…!」
 
 その言葉に合わせるようにきゅっきゅとリズミカルにムスコを締め付けてくる。その感覚に耐えるようにぎゅっと歯を噛み締めるが、唇から唾液が零れ落ちて行くのが分かった。しかし、下手に気を抜けば射精してしまいそうな今、プライドの為にもそれを止めるわけにもいかず、俺のみっともない顔を全てチョコラータに見られている形になっている。その気恥ずかしさだけでも顔を真っ赤にしたくなるくらいだ。
 
 「あはぁ…♪ 可愛い…可愛いわハンス……♪」
 「おい…馬鹿…やめ…!」
 
 そんな俺の顔をチョコラータの両手がそっと包み込んだ。さらに逃げ場の無くなった俺を見つめながら、欲情を一杯に浮かべた顔が俺へと近づいてくる。勿論、近づいてくるだけで終わる筈も無く、艶やかな唇から伸びた舌が俺の口の中を蹂躙し始めた。歯を食いしばっているのでその奥には到達していないものの、歯茎を思う存分、舌先で弄ばれている感覚にまた俺の身体が燃え上がる。
 
 「ちゅ……ちゅぅぅぅぅ…っ♪」
 
 ―う…あぁ…ぁ…!
 
 チョコラータの腰は止まってはおらず、下腹部から這い上がってくる快感だけでも視界が真っ白に染まりそうになっているのだ。さらにその上、唇まで吸い上げられるようになるのだから溜まったものじゃない。どっちに集中すれば良いのかさえ分からず、俺の身体は完全に翻弄されていた。
 
 「ちゅ…ぱぁ…♪ …んっ……♪ …んんっ♪」
 
 そんな俺の目の前でチョコラータの腰がゆっくりとその速度をあげていく。恐らく慣れ始めたのだろう。その動きにはもう淀みが無く、ぱちゅんぱちゅんと肉の弾ける音さえ聞こえている。無論、それだけ激しい抽送を受ける俺の下腹部からは快楽が溢れて止まらない。
 
 ―やば…また…射精る…!!
 
 それはあっさりと俺の我慢を貫通し、絶頂への階段を一気に駆け上がらせ始めた。必死にそれを堪えようと目蓋を閉じるが、視界を閉じた事により、口腔内の舌をはっきりと感じる事になる。まるでそこだけが別の生き物のように蠢く柔らかい舌の感覚に俺はもう耐え切ることが出来ず、膨れ上がった亀頭の先から本日三度目の射精を開始した。
 
 「う…ひゅぅぅ…♪ …ん……ぷぁ…ぁ♪」
 
 その射精を受け止めるように、一気に腰を下ろしたチョコラータの膣内が激しく蠢く。一滴たりとも外には逃さないと言わんばかりにきゅっと膣内が締まり、細い突起が俺のムスコを撫で上げるのだ。その感覚がさらに射精の勢いを激しくして、俺を追い詰めていく。短い間に三度も精液を放ったムスコからは痛みさえ感じるが、それを意識させないほどの快楽の奔流が俺の全身を包んでいた。そして、その奔流が通り過ぎた後、俺の身体からは完全に力が抜けてしまっていた。
 
 「ん…♪ …ちゅぱぁぁ…♪」
 
 そんな俺の唇から真っ赤な舌を引き出して、チョコラータがそっと微笑んだ。その唇からは二人の唾液が交じり合ったものがそっと垂れ落ち、興奮に火照った俺の身体に生暖かい感覚を残す。べっとりとした粘度の高い液体を受ける感覚は何処か不快であったものの、今はソレを拭う気力も体力も無い。大きく胸を上下させて、必死に空気を取り込もうとするので精一杯だった。
 
 「…や、やりすぎだっての……」
 
 それでも何とか憎まれ口を叩く俺の髪をそっとチョコラータの手が撫でた。彼女もまた興奮しているのだろうか。その手は優しく、暖かい。思わず目を細めたくなる心地良さを感じながら、俺は鈍痛を走らせる下腹部に小さく溜め息を吐いた。未だチョコラータの膣内に入っている俺の分身はもうその力を殆ど失い、ふにゃりと情けない姿を晒している。インキュバスでもないのに三回も射精したのだ。二つの玉ももはや限界と言わんばかりに俺に鈍い痛みを走らせていた。
 
 「…ごめんね」
 「…いや、別に謝らなくても……」
 
 ―と言うか、俺が早すぎるのが主な原因な訳だし。
 
 人外の快感だったとは言え、流石にちょっと男としてのプライドが危なくなるくらいの速度だったのだ。それを謝られると二重の意味でみっともなく感じる。
 
 「いや…そうじゃなくて……その…ね」
 「…ん?」
 「私…まだ足りない…から」
 
 ―……え?
 
 「…もっともっともっともっともっともっともっともっとぉ…射精してくれないと…愛してくれないと足らない…っ♪」
 「ちょ…!馬鹿…!もうむ…り…!?」
 
 ―そこまで言って、俺はきゅうっと締め付けられる膣の感覚を再び味わう事になる。
 
 再び四方八方から押し付けられた細長い突起の群れは半ば萎えかけたムスコを包み、舐め上げていく。さっきまでのものよりさらに激しいその攻勢にもう限界だと主張していたムスコがむくむくと立ち上がった。勿論、最初の頃のようなはっきりとした硬さはもう失っているが、それでも天を向いたその姿に嬉しそうにチョコラータの膣内が絡みついてくる。鈍痛すら走っていたはずなのに、再び生まれる快感がそれをまるで感じさせない。それどころか、一滴残らず絞りとってやろうと再び絶頂へと無理矢理、足を進めさせられてしまう。もう限界だって言うのにまだまだ搾り取ろうとするその動きに恐怖さえ感じた。
 
 「やめ…!!」
 「駄目…言ったでしょ…?これは…罰なんだからぁ♪」
 
 死刑宣告も同然な甘い囁きと共にチョコラータの腰が再び上下を始める。それはすぐに激しいものになり、大きな悦楽を生んだ。それを受ける俺の身体は再び快楽の坩堝に飲み込まれていく。流石にもう御免だと流れに逆らおうとするが、三度射精して尚、その快楽は健在だ。
 
 「もう…無理なんだって…ば…!」
 「こんなに…大きくしてる…のに何を言ってるの…♪」
 
 せめてもの抵抗とばかりに止めようとするが、チョコラータは聞き入れてはくれない。陶酔の色を強く浮かべて、激しく腰を振り続けている。欲情に濁りきったその瞳には俺の顔しか映っては居なかった。それが男として何処か嬉しい反面、命の危機を感じてしまう。
 
 「それは…気持ち良い…から…!」
 「あはぁ…♪ なら良いじゃない…♪ もっともっと…二人とも気持ち良くなりましょう…♪」
 
 気持ち良いのと苦痛なのが別なのはチョコラータには分からないらしい。気持ち良いと言う文面だけ切り取って、その顔に浮かべる喜色をさらに強くした。そして、その感情に惹かれるようにチョコラータの腰はより強く、激しくなっていく。しかも、段々とコツを掴んできたのかただ上下させるだけではなく、回転まで加え始めていた。
 
 「う…くぅぅ……!」
 「ふあぁっ♪ ごりゅってぇぇ♪ ごりゅごりゅってくりゅぅ…っ♪」
 
 それは諸刃の剣でもあるのだろう。嬌声を漏らすチョコラータの声もまた舌足らずなものに変わり始めていた。間違いなく彼女自身も強い興奮と快感を感じてくれている。今までは無理をしていたのか余裕のように見えたチョコラータにようやく快楽の兆しが見え、内心、安堵のため息を漏らす。しかし、事態が好転している訳ではなく、ただ上下させるのとは別の快感に俺の視界がチカチカと点滅し始めた。
 
 「んきゅぅ…っ♪ 素敵ぃ…っ♪ 気持ち良いの止まんない……ぃっ♪」
 
 右へ左へと押し付けられる亀頭がまったく別の快感を生み出しているのだろう。恍惚とした笑みを浮かべながら、チョコラータの口の端からは唾液が零れ落ちた。そして、勿論、それは俺も同じである。ぷりぷりとした子宮口ではなく、突起の群れの中に亀頭を押し付ける感覚はまったく違うのだから。膨れ上がった亀頭からカリ首までじゅるじゅると絡みつかれる感覚はそれだけで呻き声をあげてしまいそうだ。甲乙つけがたいその快楽は慣れさせる暇を与えず、俺の背筋に寒気にも似た快感を走らせ続ける。
 
 「ハンスもぉ…っ♪ ハンスも気持ち良いよねぇ…っ♪ こんなにビクビクしてぇ…硬くしてるんだもの…っ♪」
 「ぐ…っ」
 
 甘えるような声に応える余裕も俺のは残っていない。射精した分、冷静になっているはずがそれ以上にチョコラータが熟練していっているのだ。ただでさえ人外の快楽を与えてくる膣を活かすように、前後左右に動く腰はまるで熟練の娼婦のように滑らかなモノになっている。それはもう俺に我慢出来る領域をあっさり超えて、俺自身経験の無い四度目の射精へと導こうとしていた。
 
 「好きぃ…っ♪ はんしゅぅ…好きぃぃ…♪」
 「あ…っ…ぐぁ…!!」
 
 押し付けられる事で少しずつズレていた布はもう限界だったのだろう。ズリズリと押し付けられるチョコラータの慎ましやかな胸がついにその身を露出させた。勿論、その頂点にある鮮やかな桜色の突起も布から飛び出している。硬くしこった乳首が直接触れ、硬いような柔らかいような独特の感覚を伝えてくるのだ。それはすぐにむずむずするような形容しがたい快感に変わり、俺をさらに追い詰めようとしている。
 
 「あはぁぁ…ぁっ♪ お胸がぁ…お胸も気持ち良い…ぃ♪ オマンコも気持ち良くってぷりぷりでぇ…ぇ♪」
 
 その上、抱きついたまま甘く囁かれる言葉は止まらない。聞いているだけで脳髄が痺れて、男の本能を擽られるようだ。それだけでも腰を動かしたくなる衝動に駆られるのに未だ俺の身体は石化したままで動く様子がまるでない。一方的に蹂躙されるだけの状態に自分のペースを掴めないまま強すぎる悦楽に翻弄される。
 
 「射精してぇぇ♪ 一杯一杯、射精してねぇぇ♪ わら…しぃっ全部…全部、受け止めるからぁぁ…っ♪ 大好きなはんしゅの精液欲しいのぉっ♪」
 
 それはチョコラータも同じなのだろう。俺の上で上気した顔を晒すチョコラータには理性の色はまるで見えなかった。唇から延ばした舌は当てもなく彷徨い、時折、俺の身体を舐める。勿論、唾液は零れ落ち、俺の胸を透明な液体で濡らしていた。真っ赤に染まった頬には汗が浮き出て、何処か妖しい魅力を加えている。八の字に歪む眉の下では欲情に爛々と輝く焦点の定まらない目が俺を見下ろしていた。完全に快楽に飲み込まれ、あられもない姿を晒す恋人に俺の興奮もさらに加速する。
 
 「あはぁぁ…♪ また大きくなったぁぁ…♪ 射精るぅ…♪ ハンス…また射精るのぉ…♪」
 
 チョコラータの甘えるような言葉通り、膣内で俺のムスコは最高の怒張へと変貌していた。さっきまでは鈍痛すら走らせて、限界だと訴えていた姿はそこにはない。より最奥で精液を吐き出そうとする本能だけがそこにはあった。余りにも張り詰めすぎて痛みすら感じる亀頭の先からは先走りが溢れて止まらない。突起の群れに押し当てられるたびに鈴口を穿るように舐めあげられるのだから尚更だ。カリ首も大きく膨れ上がり、射精へのカウントダウンが始まっている。
 
 「わたひも…ぉ…♪ もうイッちゃいそうなんだよぉ…♪ ハンスのオチンポ気持ち良くってぇ…もう身体中熱くって限界でぇ…ぇ♪ 子宮きゅんきゅんしちゃうのぉ…っ♪」
 
 その言葉と同時にチョコラータの腰がラストスパートを開始する。人間よりも遥かに力強く、柔らかなその肢体全てを使うようにして激しく腰を動かすのだ。手で扱かれているような錯覚さえ覚える程、激しい動きに加えて、今までに無い締め付けが俺のムスコを襲っている。入り口、中腹、最奥と三段階で締め付けられる快感はまるで精嚢から精液を搾り出そうとしているようにさえ感じるのだ。
 
 「イこうねぇ…♪ 一緒に気持ち良くなって…ぇ真っ白になって…一緒に一緒に一緒に一緒にぃ…っ♪」
 「う…あぁぁぁぁ…!!」
 
 その蠢きに俺はもう耐えられない。鈍痛を訴える二つの玉がきゅっと這い上がり、一気に精管へと精液を押し流して行く。それを助長するようにチョコラータの膣がぎゅっと締まった瞬間、亀頭の先が子宮口へと辿り着き、チョコラータの身体が大きく跳ねた。
 
 「イっきゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ♪」
 「くぁぁぁあああ…っ!!」
 
 瞬間、ぎゅっとチョコラータの身体に抱き締められる。人間とは比べ物にならない程の力が俺を襲い、石化した身体がバラバラになりそうに感じるのだ。しかし、それ以上に絶頂したチョコラータの膣が激しく絡みつき、そちらへ意識を割く事が出来ない。とぷとぷと漏れ出るような精液に不満を感じているように、突起も激しく絡み付き、子宮口も吸い上げるのを止めないのだ。ぎゅうううっと蛇のように締め付けられるのは窮屈にも感じるのに、ドロドロになった愛液と膣肉がそれを快感へと変換する。
 
 ―これ…死ぬんじゃなかろうか…。
 
 チョコラータも絶頂している所為か、さっきまでとは比べ物にならない快感は俺の知る我慢を超えて、敏感になったムスコを再び絶頂へと持ち上げる。精嚢からはなけなしの精液まで搾られ、その鈍痛が激しくなった。しかし、貪欲はチョコラータの子宮はそれで満足できないと主張するように鈴口から吸い上げるのを止めず、膣もまたそれに応えるように快楽を注ぎ込んでくる。その快楽は余りにも強すぎて、俺の意識を闇に落とす事さえ許さなかった。
 
 「あ…ふ…ぁぁ…♪」
 
 絶頂の中で絶頂でも感じていたのだろうか。やけに長い痙攣の末、ようやく快楽の坩堝と締め付けから解放される。それは実際の時間では数分程度だったのだろうが、俺にとっては一時間にも等しいように感じられた。その間、快感をずっと感じられていた…と言えば聞こえは良いが、実際は快楽地獄も同然である。魂さえ奪い取られてしまいそうな快感に堪えるのが精一杯だった。
 
 「はぁ……はぁ……ぁ♪ …ちゅ……っ♪」
 
 そんな地獄へと誘った俺の恋人はようやく満足げな笑みを浮かべて、俺の唇に吸い付いた。舌を交わさない貪るだけのキス。まるで不器用な愛情を伝えようとしているかのような愛撫に俺も応えようとするが舌先一つ動かなかった。さっきの絶頂で本当に余力一つ残っていないのだろう。口を動かすのも億劫で、息をするのも辛い有様だった。
 
 「ふふ……♪」
 
 そんな俺を見ながらそっとチョコラータの手が俺の手を握った。何時の間にか石化が解けていたのだろう。その指は絡まり、暖かい感覚を俺に伝えてくれた。手先だけではなく身体中の石化が解け、冷たい石の感覚越しではなく、チョコラータの熱い体温を感じる事が出来る。そのまま流れる穏やかな時間に疲れ切った身体に眠気が訪れた。
 
 ―いや…でも……。
 
 ここ数日、チョコラータの事が気になって眠ることが出来なかったとは言え、流石に彼女を置いてけぼりにするのは気が引ける。交歓の最中も大事だが、後戯とも言われるピロートークも重要なのだ。特に今回は俺の勝手でチョコラータを傷つけたのだから、余計にであろう。
 
 「………ゴメン」
 「…ん?」
 
 そんな俺の胸に顔を埋めながら、チョコラータはぽつりとそう漏らした。その顔ははっきりとは見えないが、顔が真っ赤に染まっている。それはさっきまでとは違う興奮ではなく、羞恥の色だ。一回、絶頂したお陰で冷静になったのだろうか。その様子は何時ものチョコラータに見える。
 
 「な、なんていうか…その……ヤ…ヤりすぎちゃってゴメン…」
 「あー…」
 
 謝るチョコラータの言葉は何処か要領は得ないが、限界だと言っているのにさらに続けようとした事を指しているのは分かった。それに何を言えば良いのか分からず、俺たちの間に気まずい雰囲気が流れる。
 
 ―気にするなとでも言うか?俺が早いのが原因だとでも…?シンプルに…大丈夫だ、問題無いって言うのもアリかもしれない。
 
 そんな風に考えだけが流れていくが、中々、決まらない。この期に及んで優柔不断な自分に胸中で溜め息を吐きながら、俺は多少回復した口を必死に動かした。
 
 「…お前があんなに淫乱だとは思わなかったぜ」
 「い、言わないでよ…馬鹿…!!」
 
 からかうような言葉に真っ赤になりながら、チョコラータが悶えるようにその身を揺らす。可愛らしいその様子にピクンとムスコが疼くがもはや大きくなる余力は残されていないのだろう。膣の中から愛液と共にドロリと顔を出した柔らかい肉棒はもう立ち上がる様子を見せなかった。
 
 「もう無理だって言うのに何度も好きだ気持ち良いとかって…聴いてるこっちが恥ずかしかったっての」
 「うーわーーーー!!い、言わないでってばぁぁぁ!!」
 
 さっきの醜態を思い出して、尻尾の先をぽすぽすとベッドへと叩きつけている。よっぽど恥ずかしかったのかぎゅうっと俺の身体を締め付けるが、それを受ける俺は仕返しが成功したことに笑みさえ浮かべていた。しかし、そのまま締め付けられたら流石に骨が折れかねない。ここはフォローでもすべきだろうと俺は再び口を開く。
 
 「まぁ…魔物娘の本能だったんだろ。気にしてないっての」
 
 そもそもメドゥーサは意地っ張りな気質を持つ魔物娘だ。孤独を好む反面、寂しがり屋な彼女達はコカトリスに代表されるような受身のタイプではない。しかし、どうにも意地を張る傾向にあるメドゥーサはセックスの方面にまでその性格を出していたら、何時までも関係が進展しないままだ。そして、それを補う為に一度、スイッチが入ったら素直になるような本能があるのではないだろうか。
 
 ―まぁ、これは俺の推測だけどな。
 
 しかし、最中には普段とまるで違う顔を見せていたチョコラータの様子を思い返すにそれほど的外れな考えではないように思える。それに何より『本能の所為』と言えば、チョコラータとしても受け入れやすいはずだ。この場で必要なのは正解ではなく、それっぽい理屈である。ただ、彼女の自責の念が少しでも軽くなればそれで良い。
 
 「……うん…ありがとう」
 
 そんな俺の気持ちが伝わったのかチョコラータはその顔を羞恥とはまた違う色で紅く染めた。その表情までは分からないものの、自分を責めている様子は見られない。少なくとも目的は達することが出来たようだと俺は内心、安堵の溜め息を吐き、チョコラータの手をそっと握り返した。
 
 「あ……」
 「…これくらい良いだろ?」
 「……うん」
 
 小さく頷くチョコラータを後押しに俺の指はそっとチョコラータの細い指と絡まる。絡まって絡まって…もう二度と離さないと主張するように。彼女もまたそれに応えて、ぎゅっと握ってくれる。それが何処か嬉しく、暖かかった。安心感すら感じる中、俺の目蓋は確実に重くなり始めている。
 
 ―やば…眠気…が。
 
 元々、眠れなかった身体は貪欲に睡眠を求めている。その上、四回も射精して身体は疲れ切っていたのだ。さっきまで我慢できたのは寧ろ俺の精神力の賜物である。しかし、チョコラータの様子に糸が切れてしまったのだろう。どれだけ抗おうとしても落ちる目蓋には逆らえない。
 
 「すまん…眠気が……」
 「…うん。分かってる」
 
 謝る俺の手を握りながら、チョコラータが優しくそう応えた。何処か母性すら感じさせる暖かい響きに、俺の思考はさらに眠りへと落ちて行く。それに抗おうと言う気持ちすら、チョコラータの優しい言葉と熱に飲み込まれてでしまった。
 
 「これからは……ずっと一緒だから安心して眠って…」
 
 そっと俺の髪を何か暖かいものが触れた。恐らくそれはチョコラータの空いている側の手なのだろう。そこまで認識した途端、俺の思考は完全に闇へと落ちて消えていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
11/03/24 19:22更新 / デュラハンの婿
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