period 3
いろはは、下段に構えた剣で相手の攻撃を捌きながら、慎重に距離を取っていた。
しかし、見かけは華奢な少女にしか見えないニファが放つ拳は重く、また早かった。地の構えのままでは俊敏に動けないため、いろはは彼女の攻撃全てを防御することを余儀なくされる。
防戦に追い込まれたいろはを見て、ニファが口元を歪める。
「面白い剣術を操るな、剣士よ!」
「そっちこそ、すげえ馬鹿力だなっ!」
共に決定打を与えられないまま、剣士と竜は数合打ち合う。
いろはは堅牢な甲殻と鋭い爪に覆われた拳を剣でいなし、滑空じみた突撃を迎撃することで防ぐ。だが、次第にそれも難しくなっていく。
今はまだ、隙あらば下段から顎を狙った一撃で相手を牽制して相手に警戒を抱かせているが、所詮は金属棒。決定打にはなり得ない。
何より、いろはには解っていた。このニファという強敵は、明らかに手加減している、と。一撃でカタを付けてしまわないよう、ニファは半ば遊びのような感覚でいろはと戦っているのだ。
防戦の不利を悟って、咄嗟にいろはは叫んでいた。
「ミレニアッ!」
「待ってました!」
その瞬間、いろはの意思を汲んで炎の群れがニファを包み込む。ミレニアの魔術だ。
夏休み、彼女がいろはに放ったものと同じ魔術が、今度は異界から来た竜を焼く。しかし、その威力は夏休みの時とは段違いだった。
魔力によって生み出された炎の群れは、陽炎すら伴って辺り一帯を焦がす。副作用的に生まれた爆風じみた風に、いろはも思わず腕で自らを庇った。
あまりの威力に、やりすぎたか、といろはは思ったが、同時にこれで良い、という思いもまたあった。
どうせ、相手も手の内を隠している。油断しているうちに全力を傾けて、撃破なり撤退なりを掴み取った方が良い。
「やったか!?」
「ドラゴンを甘く見ないで。ニファは強いわよ」
その言葉通り、燃え盛っていたミレニアの炎が二つに割られた。次の瞬間、展望台の天井を焦がす勢いだった炎はかき消されてしまう。
その中から、仁王立ちのニファが現れる。
「マジかよ……」
思わず、いろはは低く呻いた。
見たところ、ニファは完全に無傷のままだ。火傷どころか、煤一つ付いていない。
だが、その炎は確実にニファにとって脅威となる威力を秘めていたようだ。その顔からは、先ほどの余裕の笑みが消えていた。代わりにその顔にあるのは、好敵手を見つけた戦士の表情。
「やってくれるな、ミレニア」
「あなたもね……」
いろはの隣で、女二人が獰猛な表情を交換し合った。あれ、コレやばいんじゃねといろはは思う。
次の瞬間、ミレニアからは細かい氷粒を含む極寒の冷気が、ニファからは先ほどの炎よりもなお熱い灼熱の火炎が迸った。その二つは交錯点で衝突し、まごうことなき本物の爆風を生む。
「バカ野郎!」
爆心地にいるいろはの事などお構いなしに放たれた攻撃に、いろはは悪態を吐きながら身を投げ出す。一拍遅れて、頭の上を凶悪な威力を孕んだ爆風が通り抜けて行った。
もし一瞬でも対応が遅れれば、いろはの体など木端の如く吹き飛ばされていたはずだ。当然、そうなれば放り出される先は地上120メートルの虚空である。
まったく、こうならないためにここに残ったのに、といろははぼやきながら身を起こす。
どうやら彼は少なからず吹き飛ばされてしまったようで、いろはとミレニアはニファを挟んで向き合う形となった。ニファは丁度こちらに背を向けているが、口から火まで吐くとなれば迂闊に近寄れない。ましてや、ここは空中の揺り籠。翼無き人間であるいろはにとってはこの上なく不利なステージであった。
「ミレニア! 逃げるぞ!」
元より、本来の目的であった観客の避難は完了済みだ。時間稼ぎのためにこの場に残ったが、これは分が悪すぎる。
ここは場所が悪すぎる、とミレニアに告げると、氷と炎を応酬していたミレニアがこちらに目配せした。
飛び降りろ、とその目は言っている。必ず助けて見せるから、と。
「どうした、ミレニア。そこの剣士は最早戦うことすらままならないようだぞ?」
逃げる、と言ったいろはの弱腰を弾劾しているのだろう。揶揄するようにニファが言った。彼女が炎を吐くのをやめたのがきっかけで、炎と氷の衝突が一時的に終局を迎える。もしかしたらニファは、意図的にいろはが逃げやすい状況を作って見せたのかもしれない。
しかし、その手には乗らないとばかりに、ミレニアはあくまでも余裕の態度を崩さずにニファの挑発をいなした。
「それはそうよ、ニファ。彼は優しい男なの。あなたが突っ込んで来た時も他の人間を逃がすことを優先したでしょう? それに、彼はこの街にも、この建物にも被害を出すまいとしているわ。だから最初は私を戦いに加えなかったの。もちろん、彼が私を愛しているせいもあるんだけどね」
「成程、ベストコンディションでないという訳か。常在戦場、武士とはかくあるべきだが、それとて限度はあると」
「ええ。場所と日を改めて、どちらも最良のコンディションで決戦と行きましょう。不調の相手を倒したところで、あなたの誇りに傷が付くだけでしょう?」
ミレニアが時間を稼いでいる間に、いろはは息を整えてじりじりと後ずさった。後はタイミングを見計らって飛ぶだけだ。
流石にこの高さになると目が眩むが、いろははミレニアが自分を受け止めてくれることを微塵も疑っていなかった。機を見計らい、再び棒を握る手に力を込める。
「その条件、呑もう。だが、こちらからも条件がある」
「何かしら?」
「私とその剣士、一対一で戦う事だ。戦いの最中に邪魔が入っては折角の決闘も興醒めだろう?」
ええ、そうね、とミレニアは頷いた。同時に、ぱちん、と指を鳴らす。
その瞬間、いろはは全力で目の前のガラスを打ち据えた。続いて、先の打擲によってクモの巣状に亀裂の走ったガラスに体当たりをかます。
「うおおおおおっ!」
ガシャン、というガラスの割れる音。気付いた時には、すでにいろはの身は空中にあった。
「超怖ええええっ!」
ごおお、と耳元で風が鳴る。同時に、ジェットコースター等とは比べ物にならない浮遊感がいろはを襲った。
いくらこのまま地面に激突することは無いと知っていても、抑えきれない原始的な恐怖が湧きおこる。これがスカイダイビング等の超超高度からの効果であれば、まだ幻想的な地上の景色や空中遊泳じみた落下を楽しむ余地もあるのかもしれないが、いろはが落ちたのは地上120メートル。そんな余裕など、あるはずもなかった。
簡単に計算すれば、落下が始まって約5秒でいろはは地面と衝突する。そのときの速度は時速170km強だ。空気抵抗を計算に入れても、余命がコンマ零以下の数値で僅かに伸びるだけ。
――死ぬ。
そう思った瞬間、いろはの体は優しく抱きとめられた。
「クスッ……イロハったら、ひどい顔してるわよ」
「……なんでそんな顔になったのか、一回あそこから落ちてみりゃ解る」
ミレニアの女性らしい柔らかな体に抱きとめられ、いろはは安堵のあまり全身を弛緩させた。激しい動きと連続した緊張の代償か、彼の全身を倦怠感が包む。
「さあ、野次馬が寄ってくる前に退散と行きましょうか」
身体に新たな加速度がかかるのを感じたいろはは最後に、どうやって渚にこの埋め合わせをしよう、と考え、ぷっつりと意識を失った。
◆◇◆◇◆
「東西古今、何の変哲もない少年が国を揺るがす英傑となる――そんな話は腐るほどある。アーサー王物語、巨人殺しのダヴィデ、この国で言えば……そうだな。豊臣秀吉あたりが妥当か。そんな安っぽい話は、今更古典をひっくり返す必要などないほどに溢れかえっている」
心地よい日の差し込む、やや手狭な書斎。その業務机の主は、イスに座ったままいろはに背を向け、明後日の方向を見たままそんな事を言った。
ちんちくりんの背丈に、デフォルメされたくまのパジャマ。その上からぶかぶかの白衣を羽織り、ブロンドの髪にはいつからついているのかわからない寝ぐせが幾つもついている。
そんな小学生じみた容姿の年齢不詳の魔女は、その外見に似合わずひどく落ちついた声で独り言じみた言葉を紡ぐ。
この声の主に、先の戦いで傷ついたいろはは匿われた。それからしばらくの時が経ち、今は既に紅の支配する夕焼け時である。
「鷹崎少年。君もその一人だな。何の力もないただの剣道馬鹿の癖に単騎で異界の王女と戦い、あまつさえこれを撃破してのけた。確かにそれは偉業だ。王たる者の資格だと、私も思う」
だがな、とその人物――倉名は、くるりとこちらに向き直りながら言った。
「これは教員としてではなく、一人の友人として言うのだが。分相応という言葉を知っているか? あるいは時期尚早という言葉でも良いが」
「いや、何度も言った通り、俺はあのドラゴンと戦うつもりなんてこれっぽっちも無くてですね」
いろはの反論を、倉名はハッと笑い飛ばした。
「確かに、リリムほどの猛者と戦い、勝利すれば闘争の魅力に取り憑かれてしまうのも道理。しかもその褒美として美姫を侍らすことが叶うのならば男児として奮い立たぬ訳にはいかないだろう。しかし、功を焦って仕損じれば元も子もないぞ」
「話、聞いてますか? 気絶した俺を介抱してくれたのには感謝してますが、先生は何か大きく誤解されてますよ」
「ああ、私は場所を貸しただけだ。君の介抱は全てミレニア嬢が行った。安心したまえ」
「気絶して動けない俺をあの女悪魔に売り渡しやがったのかこの外道!」
余計なコトされてないよな、と自身の体をチェックするいろは。外見に以前と変わったところは無いが、むしろ問題なのは目に見えない部分だ。
気絶して無抵抗な内に何をされたか……想像するだに恐ろしい。
そんな初心な反応をするいろはを良い感じに据わった目で見据え、口元にへらへらした笑いを浮かべながら倉名は嘯く。
「私も貞淑な乙女だからな。教員という聖職者の身分でありながら教え子に手を出すなどという爛れた事は出来ないのだよ」
「傷つき倒れた教え子を介抱するくらいの甲斐性は欲しかったです」
「そうそう。そのミレニア嬢だが、先ほど妙に上機嫌で何処かへと飛び立って行ったぞ」
「最悪の情報をありがとうございます……」
いろははがっくりとうなだれながら言った。倉名はその様子を満足そうに見つめながら言葉を紡ぐ。
「それでどうするのだ、少年。この前、君がミレニア嬢との決戦に用いた切り札はもう無いのだぞ?」
その言葉に、いろはは一気に現実に引き戻された。
いろははこの二十一世紀の世に、火を吐いたり空を飛んだりするドラゴンと決闘をする羽目に陥っているのである。しかも、あろうことか単騎で。
そんなトンデモ体験は夏休みだけで十分なのだが。しかも、夏休みの勝利はこのちんちくりんの魔女、倉名の協力があってこそ成し得た奇跡なのである。
「あー、それ、もう一個作ってもらう訳にはいきませんか」
少なくとも、あの“切り札”があれば、あのデタラメな戦闘力を持った魔物相手にも一矢報いるくらいは出来る。そんな希望観測にも似た甘い考えは、やはり甘すぎたようだ。
虫が良いとも言えるいろはの依頼を、幼い容姿の魔女はバカ言えと切って捨てた。
「あれは私の一世一代の大魔法、運用さえ正しければ一国すら滅ぼす、言わば禁呪だ。そんなに量産が利く訳無かろう」
あれ? その運用は正しくないんじゃ、と思ったいろはを差し置いて、そもそもな、と魔女は続ける。
「あれを使ったとしても、果たしてドラゴンを討てるかどうか。良くて相討ち、下手をすれば使う前に消し炭にされかねん。
しかも、ミレニア嬢に聞くところによれば決戦は一騎討ちだそうだな。賭けるとしたら、私は迷いなく君が初手で消し炭になる方に賭けるが」
「でも、あれでミレニアには有効打が放てましたよね? まさか、ドラゴンはミレニアよりも強いんですか?」
僅かな恐怖を押し殺し、いろはは訊く。
並みの相手でない事は解っていたが、まさかミレニアより強いという事は無いだろうと高を括っていたのである。何故なら、ミレニアはいろはに敗れるまで戦士として常勝無敗、最強の強者だったからだ。
「いや。ミレニア嬢――リリムより強いとは言えないだろう。しかし、夏休みの一件と今回では状況が違うのだ。かつて君はミレニア嬢の油断と乙女チックな部分を衝いて勝利を手にしたが、今回の敵にそれは無い。まあ、勝てば勝手にあっちの方からデレてくれるから戦う意味はあるかもしれんが、勝機は薄いぞ?」
正直、真正面から戦ってもミレニア嬢といい勝負なくらいには強いだろうが、と倉名は付け足す。
いろははため息を吐きたくなった。つまり、夏休みの時よりも厄介な敵を、あの時のような反則技じみた切り札無しで倒さねばならないという事ではないか。
鷹崎いろはは平凡な男子高校生である。あのニファと名乗るドラゴン少女を真正面から破る力などに持ち合わせは無い。回避も防御も、相手が手加減をしていてやっと凌げる程度である。
しかも、それは一度失敗すれば一発アウトのシビアな綱渡り。失敗の代償は、自らの命で払う事になる。
「……八方塞、か」
「いや。方法が無い訳でもない」
倉名のその言葉に、うつむかせていた頭を上げたいろはは、そこで予想通り倉名の人の悪い笑みを見た。見た目は純粋無垢な小学生にしか見えないその童顔いっぱいに浮かんだ邪悪な笑みは、いつもいろはに危機感を抱かせる。
「だが、まるで未来からダメな男の子を助けに来たとあるオートマトンのようにホイホイ道具を授けても、面白くあるまい」
「相変わらず、腹の底まで真っ暗ですね。先生」
面白い面白くないの尺度で物事を図るのは、数え出したらきりがない倉名の欠点の一つであるといろはは思う。
しかし、いろはの周りで魔物や異世界の事について詳しいのはミレニアを除いて彼女だけ。このような事態には嫌が応にも助力を求めなくてはならない。
自分の周りにはまともな人間性の持ち主が少ないな、といろはは嘆息した。
「そんなに褒められると困ってしまうな」
いろはの言葉に、倉名は照れくさそうに頭をかく。褒めてねぇ、といろはは思ったが、口には出さなかった。代わりに、大きなため息を一つ吐く。
「俺があのドラゴンに負けたら、どうなりますかね」
「どうなるだろうな。クラシカルスタイルで語るなら竜は強者を求めて荒れ狂う怪物となり、君の役柄はさしずめ囚われの姫と言ったところか。あるいはミレニア嬢あたりが竜と一戦交える騎士の役割を演ずるかもしれないな」
「姫って……」
「竜とは古来より強者と財宝を求めるものなのだ。ただの一高校生の分際で竜に挑む勇気は並大抵ではない。十分、彼女のお眼鏡に適うだろう」
まあそれも君が一瞬で消し炭にならなければの話だがね、と倉名は黒い笑みを浮かべたまま言った。
「……。で、俺がどうすれば先生は俺に切り札を恵んでくれるんですか?」
「ふむ、最近の君は飲み込みが早くて助かるな。ついては、今度私とデートに行くという条件でどうだろう」
「デッ、デートって、何を言ってるんですか!?」
慌てるいろはに、黒い革張りのイスから立ち上がった倉名が歩み寄る。その目は相変わらず据わっており、夕日の関係もあってか頬には朱が差しているように見えた。
倉名の年齢不詳の幼い容貌は、いつの間にかいろはを誘惑する妖しげな魅力を放ち始める。
しなだれかかるように寄りかかり上目遣いで見上げてくる倉名を、いろはは振りほどけなかった。
「ふふふ、良いではないか。君と私が並んで歩いていたところで大抵の通行人は歳の離れた兄妹だとしか思うまい」
「………」
「まあ、実際は少し買い物に付き合ってくれという意味だ。私一人では持てないような荷物もあるのでね」
「……それくらいなら、良いですけど……」
不承不承といった体で頷いたいろはを見て、倉名はにっこりと頷いた。その笑顔は百点満点の純真無垢な笑顔なのだが、いろはにはその笑顔の下にあるどす黒い老獪さが見え透いて仕方がない。
(どうしよう……この人といると人の善意が信用できなくなってくる)
渚やミレニア(ミレニアの場合は善意というより一方的な好意だが)が善意を持って自分と接してくれているのは解っていたが、いろはその裏にも何か下心があるのではないかと一瞬疑ってしまいそうになる。倉名脳に汚染されるな、と自分で自分を奮い立たせる。
そんないろはの内心を知ってか知らずか、倉名はにやにやといろはを眺めていた。
「ただいまー。クラナ、イロハは起きた……ってここに居るのね」
がちゃり、と書斎のドアを開けてミレニアが入って来た。黒い光沢を持つ革で出来た、あちこちをベルトで留めた締め付けるような衣装を纏っている。肌を大きく露出する大胆な服装だが、彼女の元居た世界ではそれが普通らしい。そうでなくては羽や尻尾が服につっかえるので当然と言えば当然かもしれない。
現代のドレスコードに照らし合わせれば品格を疑われそうな格好だが、いろはは注意する必要が無い時はそれを窘めないようにしている。
「あら、イロハ。クラナとそんなにべったりくっついて……私はお邪魔かしら?」
そう言って、ミレニアは笑った。口は笑ったが、目が全然笑っていない。底冷えのするような笑みである。
その瞳は、暗に後で話があるからね、と告げていた。
「あ、あの、これはだな……」
「ああ、ミレニア嬢。決戦の日は決まったかな?」
いろはが言い訳をする前に、いろはにしなだれかかったままの倉名そう問うた。いろははその間に倉名を引きはがす。
「我が君と竜の決闘は明後日の日没よ。場所はその時になれば解ると言っていたわ」
「あのドラゴン……ニファと会ったのか?」
「ええ。決闘ですもの。両者の予定を合わせなきゃいけないでしょう?」
まるで道理を知らない子供に物を教えるように言うミレニア。しかし、いろはは現代っ子である。決闘などと急に言われて、そこまで気が回るはずも無かった。
「おやおや、少年。ミレニア嬢にここまでさせて、負ける訳にはいかんな?」
アンタさっき面白半分に状況をかき回しただろうが、という叫びをかろうじて抑えたいろはは、じろりと倉名を睨めつけることでそれに代えた。
倉名はその視線におどけるように両手を上げ、飄々と嘯く。
「少年からデートの確約も取り付けたことだ。私も微力ながら応援させてもらうよ」
ミレニアからの無言の殺気が、先ほどよりも威力を増したように感じた。この後どうやってミレニアに言い訳しようか、今から頭が痛くなる。
「では、私は夕飯の買い物に行ってくるとしよう。君たちも食べて行くと良い」
ではな、と倉名は部屋を出て行った。
――窓から。
「ってオイ! 玄関から出てけ! あとパジャマに白衣で外を出歩くな!」
「イロハ」
思わず突っ込みを入れたイロハは、後ろから声をかけられて振りかえる。
「お話、しましょ?」
そこには、全身か冷気を迸らせたミレニアが手招きをしていた。
あ、死んだなコレ、といろはは漠然と思った。
◆◇◆◇◆
「さあ、イロハ。クラナと何をしていたのかしら?」
倉名の書斎、日は既に山に隠れ、暗闇に沈み始めた部屋でミレニアは言った。彼女は後ろ手に自分が入って来た扉を閉め、いろはの退路を断っている。がちゃり、とご丁寧に鍵まで掛けたようだ。
この書斎には出入り口は一つしかなく、後の逃げ道は倉名の出て行った窓くらいしか残っていない。しかし、先ほど倉名に窓から出るなと叫んだ手前、自分がそこを使うのも躊躇われた。勿論、ミレニアはそれも見越してドアのみを閉めたのだろう。
その表情は笑顔。しかし、ここまで見る者に恐怖を植え付ける笑顔が存在することを、いろはは今日初めて知った。
その顔の横では、鋭く突き出た黒光りする角がギラリと光る。
「落ち付け、ミレニア! 話せば解る!」
静止の意を示すため両手を前に突き出して言ってから、いろははこの台詞を使った犬養首相の最期を思い出した。
いろはの表情の変化をどう捉えたのか、ミレニアは冷たい笑顔を浮かべたままにじり寄ってくる。
「私なんてまだ一度キスをしてもらっただけなのに……クラナとはもうデートに行くの?」
「いや、違うんだ!」
いろはは壁際まで後ずさり、ついには退路を失った。追い詰められたいろはに、ミレニアは悠然とした足取りで迫る。
「さっき……気を失っている内に交わる事も出来たのよ……? でも、私が欲しいのはそんなものじゃないの。イロハの心が、魂が欲しいのよ」
白い繊手が、いろはの首に回される。寄りかかるようにもたれかかって来たミレニアの、その神に愛されているとしか思えない顔が、息吹も感じられるような距離からいろはを覗きこむ。
その様子は、傍から見れば、窓際で若い二人が夜景と共に逢瀬を楽しんでいる――そんな様子にも見えた。
「魂……」
いつもは怜悧とすら呼べるミレニアの美貌が、今はほんのりと薄赤く染まっている。恥じらう初心な乙女のようなその仕草に、いろはの心臓は少しだけ鼓動を速めた。
もし、これすらもミレニアの策の一つであれば、その手練手管は正に魔性。傾国の才を備えた美貌であった。
「イロハが浮気するのを止めはしないわ。偶には遊びたくもなっちゃうでしょう? その程度の甲斐性が無いと私もつまらないもの、色を好むのも王者の度量よね」
でも――と、ミレニアは痺れるような甘さの声で言った。甘さによって全身に周り、痺れによって自由を奪う毒のような声で。
甘酸っぱい愛を囁くような声音で、ミレニアは告げた。
「イロハの魂は誰にも渡さないわ。それだけは忘れないでね?」
耳たぶに唇が当たってしまいそうな位置。いろはは拘束を受けている訳でもないのに、彼女の言霊に縛られたように身動きが取れなかった。
それでも、かろうじて口を動かして彼女の名前を呟く。
「ミレニア……」
「貴方は私に魂を捧げるの……。その代わり、私は貴方に私を捧げるわ……。異界のこの地で、この異界の王者にね」
それだけ言って、ミレニアは目を閉じた。
静かな、何かを待っているような表情で。
(キス……しろってこと、なのか?)
ええい、と一瞬で腹をくくり、いろはは淡い花弁のような彼女の唇に自分の唇を押しつけた。
「ん……」
それを感じた途端、ミレニアは舌を入れてきた。舌と舌を絡め、一度放しては再び貪るように口づけを重ねる。
しばし、我を忘れて事に耽った後。
唐突に、ミレニアが口を放した。名残を惜しむように、二人の間に唾液の橋が架かる。
「うふふっ、イロハったら、一回やりだしたら止まらない癖に。いつもは嫌がる素振りを見せるのね」
続きが欲しい? とミレニアは問いかける。
「いや、その……」
「続きは、そうね。ニファを下した戦勝祝いに、でどうかしら。なんなら、口だけじゃなくてもいいのよ……?」
暗くなった部屋の中で、瞳に妖しい光を湛えたミレニアは言った。その細い指で、彼女はいろはの喉を撫でる。
その声は、決して強くないにも関わらず、しっかりと響く不思議な音色を持っていたのだった。
しかし、見かけは華奢な少女にしか見えないニファが放つ拳は重く、また早かった。地の構えのままでは俊敏に動けないため、いろはは彼女の攻撃全てを防御することを余儀なくされる。
防戦に追い込まれたいろはを見て、ニファが口元を歪める。
「面白い剣術を操るな、剣士よ!」
「そっちこそ、すげえ馬鹿力だなっ!」
共に決定打を与えられないまま、剣士と竜は数合打ち合う。
いろはは堅牢な甲殻と鋭い爪に覆われた拳を剣でいなし、滑空じみた突撃を迎撃することで防ぐ。だが、次第にそれも難しくなっていく。
今はまだ、隙あらば下段から顎を狙った一撃で相手を牽制して相手に警戒を抱かせているが、所詮は金属棒。決定打にはなり得ない。
何より、いろはには解っていた。このニファという強敵は、明らかに手加減している、と。一撃でカタを付けてしまわないよう、ニファは半ば遊びのような感覚でいろはと戦っているのだ。
防戦の不利を悟って、咄嗟にいろはは叫んでいた。
「ミレニアッ!」
「待ってました!」
その瞬間、いろはの意思を汲んで炎の群れがニファを包み込む。ミレニアの魔術だ。
夏休み、彼女がいろはに放ったものと同じ魔術が、今度は異界から来た竜を焼く。しかし、その威力は夏休みの時とは段違いだった。
魔力によって生み出された炎の群れは、陽炎すら伴って辺り一帯を焦がす。副作用的に生まれた爆風じみた風に、いろはも思わず腕で自らを庇った。
あまりの威力に、やりすぎたか、といろはは思ったが、同時にこれで良い、という思いもまたあった。
どうせ、相手も手の内を隠している。油断しているうちに全力を傾けて、撃破なり撤退なりを掴み取った方が良い。
「やったか!?」
「ドラゴンを甘く見ないで。ニファは強いわよ」
その言葉通り、燃え盛っていたミレニアの炎が二つに割られた。次の瞬間、展望台の天井を焦がす勢いだった炎はかき消されてしまう。
その中から、仁王立ちのニファが現れる。
「マジかよ……」
思わず、いろはは低く呻いた。
見たところ、ニファは完全に無傷のままだ。火傷どころか、煤一つ付いていない。
だが、その炎は確実にニファにとって脅威となる威力を秘めていたようだ。その顔からは、先ほどの余裕の笑みが消えていた。代わりにその顔にあるのは、好敵手を見つけた戦士の表情。
「やってくれるな、ミレニア」
「あなたもね……」
いろはの隣で、女二人が獰猛な表情を交換し合った。あれ、コレやばいんじゃねといろはは思う。
次の瞬間、ミレニアからは細かい氷粒を含む極寒の冷気が、ニファからは先ほどの炎よりもなお熱い灼熱の火炎が迸った。その二つは交錯点で衝突し、まごうことなき本物の爆風を生む。
「バカ野郎!」
爆心地にいるいろはの事などお構いなしに放たれた攻撃に、いろはは悪態を吐きながら身を投げ出す。一拍遅れて、頭の上を凶悪な威力を孕んだ爆風が通り抜けて行った。
もし一瞬でも対応が遅れれば、いろはの体など木端の如く吹き飛ばされていたはずだ。当然、そうなれば放り出される先は地上120メートルの虚空である。
まったく、こうならないためにここに残ったのに、といろははぼやきながら身を起こす。
どうやら彼は少なからず吹き飛ばされてしまったようで、いろはとミレニアはニファを挟んで向き合う形となった。ニファは丁度こちらに背を向けているが、口から火まで吐くとなれば迂闊に近寄れない。ましてや、ここは空中の揺り籠。翼無き人間であるいろはにとってはこの上なく不利なステージであった。
「ミレニア! 逃げるぞ!」
元より、本来の目的であった観客の避難は完了済みだ。時間稼ぎのためにこの場に残ったが、これは分が悪すぎる。
ここは場所が悪すぎる、とミレニアに告げると、氷と炎を応酬していたミレニアがこちらに目配せした。
飛び降りろ、とその目は言っている。必ず助けて見せるから、と。
「どうした、ミレニア。そこの剣士は最早戦うことすらままならないようだぞ?」
逃げる、と言ったいろはの弱腰を弾劾しているのだろう。揶揄するようにニファが言った。彼女が炎を吐くのをやめたのがきっかけで、炎と氷の衝突が一時的に終局を迎える。もしかしたらニファは、意図的にいろはが逃げやすい状況を作って見せたのかもしれない。
しかし、その手には乗らないとばかりに、ミレニアはあくまでも余裕の態度を崩さずにニファの挑発をいなした。
「それはそうよ、ニファ。彼は優しい男なの。あなたが突っ込んで来た時も他の人間を逃がすことを優先したでしょう? それに、彼はこの街にも、この建物にも被害を出すまいとしているわ。だから最初は私を戦いに加えなかったの。もちろん、彼が私を愛しているせいもあるんだけどね」
「成程、ベストコンディションでないという訳か。常在戦場、武士とはかくあるべきだが、それとて限度はあると」
「ええ。場所と日を改めて、どちらも最良のコンディションで決戦と行きましょう。不調の相手を倒したところで、あなたの誇りに傷が付くだけでしょう?」
ミレニアが時間を稼いでいる間に、いろはは息を整えてじりじりと後ずさった。後はタイミングを見計らって飛ぶだけだ。
流石にこの高さになると目が眩むが、いろははミレニアが自分を受け止めてくれることを微塵も疑っていなかった。機を見計らい、再び棒を握る手に力を込める。
「その条件、呑もう。だが、こちらからも条件がある」
「何かしら?」
「私とその剣士、一対一で戦う事だ。戦いの最中に邪魔が入っては折角の決闘も興醒めだろう?」
ええ、そうね、とミレニアは頷いた。同時に、ぱちん、と指を鳴らす。
その瞬間、いろはは全力で目の前のガラスを打ち据えた。続いて、先の打擲によってクモの巣状に亀裂の走ったガラスに体当たりをかます。
「うおおおおおっ!」
ガシャン、というガラスの割れる音。気付いた時には、すでにいろはの身は空中にあった。
「超怖ええええっ!」
ごおお、と耳元で風が鳴る。同時に、ジェットコースター等とは比べ物にならない浮遊感がいろはを襲った。
いくらこのまま地面に激突することは無いと知っていても、抑えきれない原始的な恐怖が湧きおこる。これがスカイダイビング等の超超高度からの効果であれば、まだ幻想的な地上の景色や空中遊泳じみた落下を楽しむ余地もあるのかもしれないが、いろはが落ちたのは地上120メートル。そんな余裕など、あるはずもなかった。
簡単に計算すれば、落下が始まって約5秒でいろはは地面と衝突する。そのときの速度は時速170km強だ。空気抵抗を計算に入れても、余命がコンマ零以下の数値で僅かに伸びるだけ。
――死ぬ。
そう思った瞬間、いろはの体は優しく抱きとめられた。
「クスッ……イロハったら、ひどい顔してるわよ」
「……なんでそんな顔になったのか、一回あそこから落ちてみりゃ解る」
ミレニアの女性らしい柔らかな体に抱きとめられ、いろはは安堵のあまり全身を弛緩させた。激しい動きと連続した緊張の代償か、彼の全身を倦怠感が包む。
「さあ、野次馬が寄ってくる前に退散と行きましょうか」
身体に新たな加速度がかかるのを感じたいろはは最後に、どうやって渚にこの埋め合わせをしよう、と考え、ぷっつりと意識を失った。
◆◇◆◇◆
「東西古今、何の変哲もない少年が国を揺るがす英傑となる――そんな話は腐るほどある。アーサー王物語、巨人殺しのダヴィデ、この国で言えば……そうだな。豊臣秀吉あたりが妥当か。そんな安っぽい話は、今更古典をひっくり返す必要などないほどに溢れかえっている」
心地よい日の差し込む、やや手狭な書斎。その業務机の主は、イスに座ったままいろはに背を向け、明後日の方向を見たままそんな事を言った。
ちんちくりんの背丈に、デフォルメされたくまのパジャマ。その上からぶかぶかの白衣を羽織り、ブロンドの髪にはいつからついているのかわからない寝ぐせが幾つもついている。
そんな小学生じみた容姿の年齢不詳の魔女は、その外見に似合わずひどく落ちついた声で独り言じみた言葉を紡ぐ。
この声の主に、先の戦いで傷ついたいろはは匿われた。それからしばらくの時が経ち、今は既に紅の支配する夕焼け時である。
「鷹崎少年。君もその一人だな。何の力もないただの剣道馬鹿の癖に単騎で異界の王女と戦い、あまつさえこれを撃破してのけた。確かにそれは偉業だ。王たる者の資格だと、私も思う」
だがな、とその人物――倉名は、くるりとこちらに向き直りながら言った。
「これは教員としてではなく、一人の友人として言うのだが。分相応という言葉を知っているか? あるいは時期尚早という言葉でも良いが」
「いや、何度も言った通り、俺はあのドラゴンと戦うつもりなんてこれっぽっちも無くてですね」
いろはの反論を、倉名はハッと笑い飛ばした。
「確かに、リリムほどの猛者と戦い、勝利すれば闘争の魅力に取り憑かれてしまうのも道理。しかもその褒美として美姫を侍らすことが叶うのならば男児として奮い立たぬ訳にはいかないだろう。しかし、功を焦って仕損じれば元も子もないぞ」
「話、聞いてますか? 気絶した俺を介抱してくれたのには感謝してますが、先生は何か大きく誤解されてますよ」
「ああ、私は場所を貸しただけだ。君の介抱は全てミレニア嬢が行った。安心したまえ」
「気絶して動けない俺をあの女悪魔に売り渡しやがったのかこの外道!」
余計なコトされてないよな、と自身の体をチェックするいろは。外見に以前と変わったところは無いが、むしろ問題なのは目に見えない部分だ。
気絶して無抵抗な内に何をされたか……想像するだに恐ろしい。
そんな初心な反応をするいろはを良い感じに据わった目で見据え、口元にへらへらした笑いを浮かべながら倉名は嘯く。
「私も貞淑な乙女だからな。教員という聖職者の身分でありながら教え子に手を出すなどという爛れた事は出来ないのだよ」
「傷つき倒れた教え子を介抱するくらいの甲斐性は欲しかったです」
「そうそう。そのミレニア嬢だが、先ほど妙に上機嫌で何処かへと飛び立って行ったぞ」
「最悪の情報をありがとうございます……」
いろははがっくりとうなだれながら言った。倉名はその様子を満足そうに見つめながら言葉を紡ぐ。
「それでどうするのだ、少年。この前、君がミレニア嬢との決戦に用いた切り札はもう無いのだぞ?」
その言葉に、いろはは一気に現実に引き戻された。
いろははこの二十一世紀の世に、火を吐いたり空を飛んだりするドラゴンと決闘をする羽目に陥っているのである。しかも、あろうことか単騎で。
そんなトンデモ体験は夏休みだけで十分なのだが。しかも、夏休みの勝利はこのちんちくりんの魔女、倉名の協力があってこそ成し得た奇跡なのである。
「あー、それ、もう一個作ってもらう訳にはいきませんか」
少なくとも、あの“切り札”があれば、あのデタラメな戦闘力を持った魔物相手にも一矢報いるくらいは出来る。そんな希望観測にも似た甘い考えは、やはり甘すぎたようだ。
虫が良いとも言えるいろはの依頼を、幼い容姿の魔女はバカ言えと切って捨てた。
「あれは私の一世一代の大魔法、運用さえ正しければ一国すら滅ぼす、言わば禁呪だ。そんなに量産が利く訳無かろう」
あれ? その運用は正しくないんじゃ、と思ったいろはを差し置いて、そもそもな、と魔女は続ける。
「あれを使ったとしても、果たしてドラゴンを討てるかどうか。良くて相討ち、下手をすれば使う前に消し炭にされかねん。
しかも、ミレニア嬢に聞くところによれば決戦は一騎討ちだそうだな。賭けるとしたら、私は迷いなく君が初手で消し炭になる方に賭けるが」
「でも、あれでミレニアには有効打が放てましたよね? まさか、ドラゴンはミレニアよりも強いんですか?」
僅かな恐怖を押し殺し、いろはは訊く。
並みの相手でない事は解っていたが、まさかミレニアより強いという事は無いだろうと高を括っていたのである。何故なら、ミレニアはいろはに敗れるまで戦士として常勝無敗、最強の強者だったからだ。
「いや。ミレニア嬢――リリムより強いとは言えないだろう。しかし、夏休みの一件と今回では状況が違うのだ。かつて君はミレニア嬢の油断と乙女チックな部分を衝いて勝利を手にしたが、今回の敵にそれは無い。まあ、勝てば勝手にあっちの方からデレてくれるから戦う意味はあるかもしれんが、勝機は薄いぞ?」
正直、真正面から戦ってもミレニア嬢といい勝負なくらいには強いだろうが、と倉名は付け足す。
いろははため息を吐きたくなった。つまり、夏休みの時よりも厄介な敵を、あの時のような反則技じみた切り札無しで倒さねばならないという事ではないか。
鷹崎いろはは平凡な男子高校生である。あのニファと名乗るドラゴン少女を真正面から破る力などに持ち合わせは無い。回避も防御も、相手が手加減をしていてやっと凌げる程度である。
しかも、それは一度失敗すれば一発アウトのシビアな綱渡り。失敗の代償は、自らの命で払う事になる。
「……八方塞、か」
「いや。方法が無い訳でもない」
倉名のその言葉に、うつむかせていた頭を上げたいろはは、そこで予想通り倉名の人の悪い笑みを見た。見た目は純粋無垢な小学生にしか見えないその童顔いっぱいに浮かんだ邪悪な笑みは、いつもいろはに危機感を抱かせる。
「だが、まるで未来からダメな男の子を助けに来たとあるオートマトンのようにホイホイ道具を授けても、面白くあるまい」
「相変わらず、腹の底まで真っ暗ですね。先生」
面白い面白くないの尺度で物事を図るのは、数え出したらきりがない倉名の欠点の一つであるといろはは思う。
しかし、いろはの周りで魔物や異世界の事について詳しいのはミレニアを除いて彼女だけ。このような事態には嫌が応にも助力を求めなくてはならない。
自分の周りにはまともな人間性の持ち主が少ないな、といろはは嘆息した。
「そんなに褒められると困ってしまうな」
いろはの言葉に、倉名は照れくさそうに頭をかく。褒めてねぇ、といろはは思ったが、口には出さなかった。代わりに、大きなため息を一つ吐く。
「俺があのドラゴンに負けたら、どうなりますかね」
「どうなるだろうな。クラシカルスタイルで語るなら竜は強者を求めて荒れ狂う怪物となり、君の役柄はさしずめ囚われの姫と言ったところか。あるいはミレニア嬢あたりが竜と一戦交える騎士の役割を演ずるかもしれないな」
「姫って……」
「竜とは古来より強者と財宝を求めるものなのだ。ただの一高校生の分際で竜に挑む勇気は並大抵ではない。十分、彼女のお眼鏡に適うだろう」
まあそれも君が一瞬で消し炭にならなければの話だがね、と倉名は黒い笑みを浮かべたまま言った。
「……。で、俺がどうすれば先生は俺に切り札を恵んでくれるんですか?」
「ふむ、最近の君は飲み込みが早くて助かるな。ついては、今度私とデートに行くという条件でどうだろう」
「デッ、デートって、何を言ってるんですか!?」
慌てるいろはに、黒い革張りのイスから立ち上がった倉名が歩み寄る。その目は相変わらず据わっており、夕日の関係もあってか頬には朱が差しているように見えた。
倉名の年齢不詳の幼い容貌は、いつの間にかいろはを誘惑する妖しげな魅力を放ち始める。
しなだれかかるように寄りかかり上目遣いで見上げてくる倉名を、いろはは振りほどけなかった。
「ふふふ、良いではないか。君と私が並んで歩いていたところで大抵の通行人は歳の離れた兄妹だとしか思うまい」
「………」
「まあ、実際は少し買い物に付き合ってくれという意味だ。私一人では持てないような荷物もあるのでね」
「……それくらいなら、良いですけど……」
不承不承といった体で頷いたいろはを見て、倉名はにっこりと頷いた。その笑顔は百点満点の純真無垢な笑顔なのだが、いろはにはその笑顔の下にあるどす黒い老獪さが見え透いて仕方がない。
(どうしよう……この人といると人の善意が信用できなくなってくる)
渚やミレニア(ミレニアの場合は善意というより一方的な好意だが)が善意を持って自分と接してくれているのは解っていたが、いろはその裏にも何か下心があるのではないかと一瞬疑ってしまいそうになる。倉名脳に汚染されるな、と自分で自分を奮い立たせる。
そんないろはの内心を知ってか知らずか、倉名はにやにやといろはを眺めていた。
「ただいまー。クラナ、イロハは起きた……ってここに居るのね」
がちゃり、と書斎のドアを開けてミレニアが入って来た。黒い光沢を持つ革で出来た、あちこちをベルトで留めた締め付けるような衣装を纏っている。肌を大きく露出する大胆な服装だが、彼女の元居た世界ではそれが普通らしい。そうでなくては羽や尻尾が服につっかえるので当然と言えば当然かもしれない。
現代のドレスコードに照らし合わせれば品格を疑われそうな格好だが、いろはは注意する必要が無い時はそれを窘めないようにしている。
「あら、イロハ。クラナとそんなにべったりくっついて……私はお邪魔かしら?」
そう言って、ミレニアは笑った。口は笑ったが、目が全然笑っていない。底冷えのするような笑みである。
その瞳は、暗に後で話があるからね、と告げていた。
「あ、あの、これはだな……」
「ああ、ミレニア嬢。決戦の日は決まったかな?」
いろはが言い訳をする前に、いろはにしなだれかかったままの倉名そう問うた。いろははその間に倉名を引きはがす。
「我が君と竜の決闘は明後日の日没よ。場所はその時になれば解ると言っていたわ」
「あのドラゴン……ニファと会ったのか?」
「ええ。決闘ですもの。両者の予定を合わせなきゃいけないでしょう?」
まるで道理を知らない子供に物を教えるように言うミレニア。しかし、いろはは現代っ子である。決闘などと急に言われて、そこまで気が回るはずも無かった。
「おやおや、少年。ミレニア嬢にここまでさせて、負ける訳にはいかんな?」
アンタさっき面白半分に状況をかき回しただろうが、という叫びをかろうじて抑えたいろはは、じろりと倉名を睨めつけることでそれに代えた。
倉名はその視線におどけるように両手を上げ、飄々と嘯く。
「少年からデートの確約も取り付けたことだ。私も微力ながら応援させてもらうよ」
ミレニアからの無言の殺気が、先ほどよりも威力を増したように感じた。この後どうやってミレニアに言い訳しようか、今から頭が痛くなる。
「では、私は夕飯の買い物に行ってくるとしよう。君たちも食べて行くと良い」
ではな、と倉名は部屋を出て行った。
――窓から。
「ってオイ! 玄関から出てけ! あとパジャマに白衣で外を出歩くな!」
「イロハ」
思わず突っ込みを入れたイロハは、後ろから声をかけられて振りかえる。
「お話、しましょ?」
そこには、全身か冷気を迸らせたミレニアが手招きをしていた。
あ、死んだなコレ、といろはは漠然と思った。
◆◇◆◇◆
「さあ、イロハ。クラナと何をしていたのかしら?」
倉名の書斎、日は既に山に隠れ、暗闇に沈み始めた部屋でミレニアは言った。彼女は後ろ手に自分が入って来た扉を閉め、いろはの退路を断っている。がちゃり、とご丁寧に鍵まで掛けたようだ。
この書斎には出入り口は一つしかなく、後の逃げ道は倉名の出て行った窓くらいしか残っていない。しかし、先ほど倉名に窓から出るなと叫んだ手前、自分がそこを使うのも躊躇われた。勿論、ミレニアはそれも見越してドアのみを閉めたのだろう。
その表情は笑顔。しかし、ここまで見る者に恐怖を植え付ける笑顔が存在することを、いろはは今日初めて知った。
その顔の横では、鋭く突き出た黒光りする角がギラリと光る。
「落ち付け、ミレニア! 話せば解る!」
静止の意を示すため両手を前に突き出して言ってから、いろははこの台詞を使った犬養首相の最期を思い出した。
いろはの表情の変化をどう捉えたのか、ミレニアは冷たい笑顔を浮かべたままにじり寄ってくる。
「私なんてまだ一度キスをしてもらっただけなのに……クラナとはもうデートに行くの?」
「いや、違うんだ!」
いろはは壁際まで後ずさり、ついには退路を失った。追い詰められたいろはに、ミレニアは悠然とした足取りで迫る。
「さっき……気を失っている内に交わる事も出来たのよ……? でも、私が欲しいのはそんなものじゃないの。イロハの心が、魂が欲しいのよ」
白い繊手が、いろはの首に回される。寄りかかるようにもたれかかって来たミレニアの、その神に愛されているとしか思えない顔が、息吹も感じられるような距離からいろはを覗きこむ。
その様子は、傍から見れば、窓際で若い二人が夜景と共に逢瀬を楽しんでいる――そんな様子にも見えた。
「魂……」
いつもは怜悧とすら呼べるミレニアの美貌が、今はほんのりと薄赤く染まっている。恥じらう初心な乙女のようなその仕草に、いろはの心臓は少しだけ鼓動を速めた。
もし、これすらもミレニアの策の一つであれば、その手練手管は正に魔性。傾国の才を備えた美貌であった。
「イロハが浮気するのを止めはしないわ。偶には遊びたくもなっちゃうでしょう? その程度の甲斐性が無いと私もつまらないもの、色を好むのも王者の度量よね」
でも――と、ミレニアは痺れるような甘さの声で言った。甘さによって全身に周り、痺れによって自由を奪う毒のような声で。
甘酸っぱい愛を囁くような声音で、ミレニアは告げた。
「イロハの魂は誰にも渡さないわ。それだけは忘れないでね?」
耳たぶに唇が当たってしまいそうな位置。いろはは拘束を受けている訳でもないのに、彼女の言霊に縛られたように身動きが取れなかった。
それでも、かろうじて口を動かして彼女の名前を呟く。
「ミレニア……」
「貴方は私に魂を捧げるの……。その代わり、私は貴方に私を捧げるわ……。異界のこの地で、この異界の王者にね」
それだけ言って、ミレニアは目を閉じた。
静かな、何かを待っているような表情で。
(キス……しろってこと、なのか?)
ええい、と一瞬で腹をくくり、いろはは淡い花弁のような彼女の唇に自分の唇を押しつけた。
「ん……」
それを感じた途端、ミレニアは舌を入れてきた。舌と舌を絡め、一度放しては再び貪るように口づけを重ねる。
しばし、我を忘れて事に耽った後。
唐突に、ミレニアが口を放した。名残を惜しむように、二人の間に唾液の橋が架かる。
「うふふっ、イロハったら、一回やりだしたら止まらない癖に。いつもは嫌がる素振りを見せるのね」
続きが欲しい? とミレニアは問いかける。
「いや、その……」
「続きは、そうね。ニファを下した戦勝祝いに、でどうかしら。なんなら、口だけじゃなくてもいいのよ……?」
暗くなった部屋の中で、瞳に妖しい光を湛えたミレニアは言った。その細い指で、彼女はいろはの喉を撫でる。
その声は、決して強くないにも関わらず、しっかりと響く不思議な音色を持っていたのだった。
12/01/04 23:21更新 / 湖
戻る
次へ