二人の“シオン” (上)
――神に縋って助かったと思うのは
――結局のところ、自分自身の力だ
ジパングと呼ばれる地方の、山奥の小さな村。かなり奥まったところにあるせいで、周りの村との交流も殆ど無い、小さ村の、古びた社。その中に私は居た。
ほとんど誰も立ち入らないおかげか、内装は見かけほど古さを感じさせない。適当に過ごすにあたっては、それほど不自由は無かった。
「お稲荷さま? 聞いてますか?」
ちゃぶ台を挟んで向こう側、白と朱の巫女装束の少女が、私に問いかける。
私は、ぼーっと外を見たまま答えた。
「ん、何さ? 始音」
そんな私の態度がいかにもやる気なさげだったせいか、始音はぷいっとそっぽを向いてしまう。神が神なら、それに仕える巫女も巫女といったところか。
そう。私はこの社に祀られる神なのだ。とは言っても、所詮ただの稲荷であって、この社が正式に祀っている神は他にいるが。
それでも、私が神であることに偽りはない。少なくとも、この村の人間たちにとっては。
ちなみに、この社に正式に祀っている神については私は何も知らない。興味などみじんも無かったからだ。
「ほらほら、ちゃんと聞いてあげるから話してごらん」
そう言って、私は始音に向き直る。すると、始音は横目で私を見た。その目が、本当かと私に聞いている。
それには答えずに、にやにやと始音を見ていたら、始音はやがて根負けしたかのようにため息を1つ吐き、肩をすくめた。
「おやおや。じゃあ私が、機嫌が直るまで昔話でもしてあげようか」
相手の返事も待たず、私は話し始めた。
私の知る、唯一の昔話を。
あるところに、一匹の妖怪がいました。その妖怪は人を化かし、取って喰らうというので、人々に大変恐れられていました。
あるときは腕に自信のある武士が、またあるときは名のある僧がその妖怪を退治しようとしましたが、それらはすべて失敗に終わり、彼らは命からがら、逃げ帰ってきました。
そして、その妖怪の恐ろしさを人々に説いて回りました。人々はそれを聞いて、一層その妖怪に対する恐怖を募らせました。
その妖怪の噂が、その国の主の耳に入ろうかというとき。ある1人の少年が、妖怪のすみかである森に迷い込みました。
少年の生存は絶望的で、村の人間たちも妖怪を恐れて少年を探せません。探しに行けば、食われるのは自分かもしれないからです。
ですが、少年は生きて帰ってきました。他ならぬ、妖怪の手によって。
一説によれば、妖怪に遭った少年はこう言ったそうです。
「貴女が化け物なら、僕も化け物だ」
お互いに、他者の死を糧に生きる者だと。
その時、妖怪の心にどのような変化が起きたのか知る者はありません。本当に心と呼べるものがあったのかどうかすら、分かりません。
ですが、確かに少年は帰って来たのでした。
そして、それっきり妖怪は人を襲わなくなり、村には平和が訪れようとしました。
しかし、それは適いませんでした。他ならぬ、人間の手によってそれは乱されました。
その村を治める国の主が、その妖怪を討伐するために兵を出したのです。少年は、彼らにすがりついて頼みました。妖怪を殺さないでくれと。手を出さないで欲しいと。
当然ながら、そんな訴えが聞きとどけられるはずもありませんでした。兵たちは妖怪を討つために森に入り、少年も彼らに付いて行って頼み続けました。
兵たちは妖怪に戦いを挑みましたが、そこには死山血河が築かれただけで、妖怪を倒すことはできませんでした。
そして、兵たちの亡骸の前に立つ、その少年を見た時、妖怪は一言だけ言ったそうです。
「あの時の言葉は、私の夢だったのか」
少年はそれきり村には帰りませんでした。
ですが、誰が伝えたのか、少年の最後の言葉が残されています。
「貴女は化け物では無かった。僕が、僕たちが――」
話し終えた私は、ちゃぶ台に乗った湯呑を取って、口の中を潤す。
先ほどまでは盛大に自己主張していた湯気も、今はすっかり勢いを無くしていた。
「………昔話というか……。その話の教訓というか、そういったものは?」
それを聞いた私は、首を振って答える。長い間伸ばしっぱなしの金髪が、私の首の動きにつられてふるふる動く。
「無い」
「確かに、何か考えされられる所はある話でしたけど……」
今の話は、人間と魔物の間にある壁を極端にしたものだ。人は得体が知れず、自分たちよりも強大な力を持つ魔物を忌み嫌うし、魔物は頻繁に差し向けられる刺客に辟易し、人を襲う。
それのきっかけになるのは些細な誤解であったり、一方的な決め付けであったりする。ひどい時には全て計算ずくで、自らの利益のためであったりもする。しかし、大抵の場合どちらか一方に責があるのではなく、互いに責を負っていることが多い。
目の前の少女は、私という魔物が近くに居るにも関わらず、非常に無防備な姿を晒す。それは私を信頼しているからであり、魔物への偏見を持っていないからだ。偏見に濁った眼しか持っていなかった中、ただ一人妖怪を正しく見た昔話の少年のように。
だが、正しい事はいつも正しいとは限らない。私にはそれだけが気がかりだった。
「〜〜〜♪」
そうやって、私が少しばかり物思いに耽っていると、始音は実に嬉しそうにちゃぶ台の上のミカンを剥いていた。
その細い指で厚めの皮を丁寧に剥き、白い繊維も軽く取る。そうやって剥いたミカンを半分にし、私に差し出した。
「食べますか?」
そう言った始音の顔は笑顔で、清楚で思慮深げな漆黒の瞳を細めてこちらを見ていた。その姿は、その身を包む巫女装束の清さと相まって、世俗から一歩踏み出したような表現しがたい美しさを纏う。もしかすると、これが神々しいというやつなのかもしれない。神である私が言うのも何かおかしいけれど。
そんな姿で差し出されれば、あまり好きではないミカンだろうとおいしく見えてくるのだから不思議なものだ。
「あれ? いらないですか?」
「ううん。もらう」
そう言って、差し出された橙色の果肉を受け取る。早速1つ口に入れた。歯に当たって簡単に果汁をにじませたミカンは、口の中を突くような酸っぱさを充満させる。
その酸っぱさは、やはり何度食べても変わらないけれど。それと同じで、酸っぱさの中にある、わずかな甘さも、やはり変わらなかった。
こうして食べると、なかなかミカンも悪くないものだと感じた。それも、今だけなのかもしれないが。
そして、それでも良いと思う。魔法も何も使っていないのに、今までとは違う感想が持てる。それは何か不思議な感じがしたし、同時に少しだけ嬉しくなったから。
「そういえば、始音」
「なんですか?」
「好きな人とか気になる人とか居ないの?」
だからだろうか。突発的にこんな質問をしてみた。
聞いた瞬間、始音の白い面は一瞬で真っ赤に染まり、右手は食べかけのミカンを私に投擲する直前で止まっている。
「なっ、何を聞いてくるんですかいきなり!!」
あまりにも始音が初心な反応を返してきたため、若干逆に面喰っていた私だったが、やがて持ち前の悪戯心がむくりと頭をもたげてきた。
今、私の顔はにやりとした悪そうな笑みを浮かべているに違いない。それは、泣く子が更に泣く類の笑みだ。
「いや、もし始音にそんな相手がいるんだったら私が初めてをもらっちゃうのも悪いかなぁと」
「―――ッ!?」
もちろん嘘なのだが。相手の反応がおもしろいとついつい悪ノリするのが止められないのは私の悪い癖かもしれない。
始音が予想以上の反応をしたため、嘘だと言い出すタイミングを逸して、たたみかけるように言葉を紡ぐ。
「あれ、知らないの? 魔物は好色なのよ? それこそ、同性だろうと構わないくらい」
そういう性癖の魔物も居るのかもしれないが、私は御免被りたい。
「………」
「まぁ、それは冗談として」
そう言ったら、始音に横目で睨まれた。
「……どこからが冗談ですか?」
「“私が初めてを〜”のあたりから」
そう言うと、私を睨んだまま、ぷぅっと頬を膨らませた。結構かわいい。普通ならこんなかわいい娘を放っておくはずがないのだが。
「で、気になる人とか居ないの? 普通始音くらいの年齢だったら男漁りに精出してるはずなんだけど」
私のように幼くして武の道を志した哀れな少女たちは除くが。そんな少女たちは他人の目も気にせず日がな一日剣を振っている。男になど目もくれない。
「どこの常識ですか。私はいやしくも神職です。俗世と必要以上の交流を持つべきではありません」
じゃあさっきまでおいしそうに頬張っていたミカンは何だ、と言いたくなったが、きっとミカンは特別なんだろうと思い留まった。
「へぇ、そうなんだ〜。一緒にお祭りに行ってくれる相手も居ないのね………」
「なっ!?」
「まあ、仕方ないか。だって始音って――」
そう言って私は身を乗り出し、ちゃぶ台の向こうの始音に抱きつく。虚を突かれたように固まった始音の体に、私の一回り小さな体を密着させる。
とくり、とくりと人間特有のよく響く心音がして、巫女装束の後ろからほんのりと始音の体温が沁みてくる。それは私の手を少しだけ温めた。
「――無いもんねぇ」
私の言葉に、驚いた表情で固定されていた始音の顔が面白いほど真っ赤に染まり、次いで私の体を押しのけようとする。
始音には和服がよく似合う。巫女装束も例外ではなく、長い黒髪によく映え、とても似合っているのだが。それはつまり、胸が無いということでもあり。
「無いってなんですか! そんなこと言ったらお稲荷さまだって無いでしょう!」
ばたばたと始音が暴れる。だが私はその程度では振りほどけない。
若干、始音の心臓の鼓動が早まるのを、胸で感じた。
「ふふふ、無いのはこの体の時だけよ。私くらいになると外見なんてほぼ思い通りだからね〜」
今の私の外見は、童女といっても通じるほどの幼さだ。ただ、このあたりには存在しない長く伸ばした金髪だけが目を引く要因となっている。
他の誰かが今の私と始音を見たら、姉妹がじゃれ合っているように見えるのかもしれない。
衣服が乱れるのも気にせず、暴れる始音を押さえつける。もともと大きめの私の着物が着くずれ、始音の巫女装束もあちこち乱れた。すぐそばにある始音の顔から、時折荒い吐息がかかる。
「や、止めてください!」
暴れたせいでやや乱れた髪の始音がそう言うが、私は一向に意に介さない。力任せに始音の細い体を押し倒し、自身もその上に覆いかぶさる。
それだけで先ほどまでの“じゃれていた”という状況は一変する。片や、黒髪を乱して床に散らせ、乱れに乱れた巫女装束にその身を包む上気した頬の少女。片や、こちらも乱れた着物を直しもせず巫女装束の少女に覆いかぶさり、吐息がかかるほどの距離で相手の顔を見つめる少女。
………禁じられた遊びをしている気分になる。
「………何をやっているのですか……」
だから、そんな声がかけられたのは私にとっても幸運なことだったのかもしれない。
声の主は賽銭箱の前に立ち、こちらを見つめている男。身に纏う神官の装束が示す通りこの神社の神主だ。
そして、彼の声音には呆れが多分に含まれていた。まったく可愛げがない。
「ん、ちょっと私の巫女ちゃんを味見しておこうかと思って」
「………。始音、長老が呼んでいますので少し私と来てください」
無視された。
「は、はい」
そう言って、もぞもぞと私の下から始音が脱出し、激しく乱れた巫女装束を出来る範囲で直しながら神社を出ていく。
最後に、始音はこちらをちらりと振り返り、
「………」
頬を朱に染めて境内の階段を下りていった。
ぽつんと独り取り残された私は、
「………寝よう」
眠ることにした。
山の上にある神社から村に戻るには、長い長い石造りの階段を下りなければならない。この階段が一体何段あるのか正確には知らないが、きっと“0”が三つあっても足りないのだろう。
唯一の救いは、その階段が曲がりくねっていたり急すぎる作りになっていないことだが、それにしても長すぎると私は思う。降りても降りても辺りの景色はちっとも変わらなくて、本当に下に向かっているのか分からなくなる。
これが秋ごろだったら綺麗に色づいた木の葉たちがひらひらと舞い降りて、とても幻想的な景色になるのだが。しかしそれも、既に見る事の適わぬ景色。
「始音。あなたの役目、忘れてはいませんね」
それは、確認と言うよりは話し始めるきっかけのようなものだったのだろう。普段から私的な会話を好まないこの神主としては、そのような前振りをすること自体が稀といえるのだが。
「はい。お稲荷様は何もお気づきになられていません」
この神主と言葉を交わすと、いつも心が冷えていくのを感じる。凍えた私の心は、それを気づかせようと必死で痛みを訴えるのだ。
その痛みが、罪悪感に基づくものなのか、それとも別の何かなのかは分からないが。
「そうですか……。……長かった役目も、ようやく終わるのですね」
そう言う神主は、先ほどから前だけを見て私と目を合わせようとしない。そして、それが分かっている私もまた。
「この役目さえ終わらせれば、この村には平和が訪れる。誰一人悲しい思いをすることなく、ね」
この神主が何を言おうと、私の凍てついた心には響かない。そのはずだったのに。
今日、この時ばかりは違った。心の一番柔らかい部分に、小さなとげが刺さったような痛みを感じた。それの処理方法が分からなくて、私は困っているはずなのに、
「……始音、笑っているのですか?」
私は笑っていた。
もしかしたら。それはあの名も無き稲荷が私にくれた温もりなのかもしれない。だとしたら、これは何にも代えがたい痛み。
痛いのに笑うなんて、おかしな話だけど。それでも私には、それが大切だった。
「……あの狐に情を移してはいけませんよ。……別れが辛くなります」
「はい。神主様」
階段の終わりは、すぐそこだ。
――結局のところ、自分自身の力だ
ジパングと呼ばれる地方の、山奥の小さな村。かなり奥まったところにあるせいで、周りの村との交流も殆ど無い、小さ村の、古びた社。その中に私は居た。
ほとんど誰も立ち入らないおかげか、内装は見かけほど古さを感じさせない。適当に過ごすにあたっては、それほど不自由は無かった。
「お稲荷さま? 聞いてますか?」
ちゃぶ台を挟んで向こう側、白と朱の巫女装束の少女が、私に問いかける。
私は、ぼーっと外を見たまま答えた。
「ん、何さ? 始音」
そんな私の態度がいかにもやる気なさげだったせいか、始音はぷいっとそっぽを向いてしまう。神が神なら、それに仕える巫女も巫女といったところか。
そう。私はこの社に祀られる神なのだ。とは言っても、所詮ただの稲荷であって、この社が正式に祀っている神は他にいるが。
それでも、私が神であることに偽りはない。少なくとも、この村の人間たちにとっては。
ちなみに、この社に正式に祀っている神については私は何も知らない。興味などみじんも無かったからだ。
「ほらほら、ちゃんと聞いてあげるから話してごらん」
そう言って、私は始音に向き直る。すると、始音は横目で私を見た。その目が、本当かと私に聞いている。
それには答えずに、にやにやと始音を見ていたら、始音はやがて根負けしたかのようにため息を1つ吐き、肩をすくめた。
「おやおや。じゃあ私が、機嫌が直るまで昔話でもしてあげようか」
相手の返事も待たず、私は話し始めた。
私の知る、唯一の昔話を。
あるところに、一匹の妖怪がいました。その妖怪は人を化かし、取って喰らうというので、人々に大変恐れられていました。
あるときは腕に自信のある武士が、またあるときは名のある僧がその妖怪を退治しようとしましたが、それらはすべて失敗に終わり、彼らは命からがら、逃げ帰ってきました。
そして、その妖怪の恐ろしさを人々に説いて回りました。人々はそれを聞いて、一層その妖怪に対する恐怖を募らせました。
その妖怪の噂が、その国の主の耳に入ろうかというとき。ある1人の少年が、妖怪のすみかである森に迷い込みました。
少年の生存は絶望的で、村の人間たちも妖怪を恐れて少年を探せません。探しに行けば、食われるのは自分かもしれないからです。
ですが、少年は生きて帰ってきました。他ならぬ、妖怪の手によって。
一説によれば、妖怪に遭った少年はこう言ったそうです。
「貴女が化け物なら、僕も化け物だ」
お互いに、他者の死を糧に生きる者だと。
その時、妖怪の心にどのような変化が起きたのか知る者はありません。本当に心と呼べるものがあったのかどうかすら、分かりません。
ですが、確かに少年は帰って来たのでした。
そして、それっきり妖怪は人を襲わなくなり、村には平和が訪れようとしました。
しかし、それは適いませんでした。他ならぬ、人間の手によってそれは乱されました。
その村を治める国の主が、その妖怪を討伐するために兵を出したのです。少年は、彼らにすがりついて頼みました。妖怪を殺さないでくれと。手を出さないで欲しいと。
当然ながら、そんな訴えが聞きとどけられるはずもありませんでした。兵たちは妖怪を討つために森に入り、少年も彼らに付いて行って頼み続けました。
兵たちは妖怪に戦いを挑みましたが、そこには死山血河が築かれただけで、妖怪を倒すことはできませんでした。
そして、兵たちの亡骸の前に立つ、その少年を見た時、妖怪は一言だけ言ったそうです。
「あの時の言葉は、私の夢だったのか」
少年はそれきり村には帰りませんでした。
ですが、誰が伝えたのか、少年の最後の言葉が残されています。
「貴女は化け物では無かった。僕が、僕たちが――」
話し終えた私は、ちゃぶ台に乗った湯呑を取って、口の中を潤す。
先ほどまでは盛大に自己主張していた湯気も、今はすっかり勢いを無くしていた。
「………昔話というか……。その話の教訓というか、そういったものは?」
それを聞いた私は、首を振って答える。長い間伸ばしっぱなしの金髪が、私の首の動きにつられてふるふる動く。
「無い」
「確かに、何か考えされられる所はある話でしたけど……」
今の話は、人間と魔物の間にある壁を極端にしたものだ。人は得体が知れず、自分たちよりも強大な力を持つ魔物を忌み嫌うし、魔物は頻繁に差し向けられる刺客に辟易し、人を襲う。
それのきっかけになるのは些細な誤解であったり、一方的な決め付けであったりする。ひどい時には全て計算ずくで、自らの利益のためであったりもする。しかし、大抵の場合どちらか一方に責があるのではなく、互いに責を負っていることが多い。
目の前の少女は、私という魔物が近くに居るにも関わらず、非常に無防備な姿を晒す。それは私を信頼しているからであり、魔物への偏見を持っていないからだ。偏見に濁った眼しか持っていなかった中、ただ一人妖怪を正しく見た昔話の少年のように。
だが、正しい事はいつも正しいとは限らない。私にはそれだけが気がかりだった。
「〜〜〜♪」
そうやって、私が少しばかり物思いに耽っていると、始音は実に嬉しそうにちゃぶ台の上のミカンを剥いていた。
その細い指で厚めの皮を丁寧に剥き、白い繊維も軽く取る。そうやって剥いたミカンを半分にし、私に差し出した。
「食べますか?」
そう言った始音の顔は笑顔で、清楚で思慮深げな漆黒の瞳を細めてこちらを見ていた。その姿は、その身を包む巫女装束の清さと相まって、世俗から一歩踏み出したような表現しがたい美しさを纏う。もしかすると、これが神々しいというやつなのかもしれない。神である私が言うのも何かおかしいけれど。
そんな姿で差し出されれば、あまり好きではないミカンだろうとおいしく見えてくるのだから不思議なものだ。
「あれ? いらないですか?」
「ううん。もらう」
そう言って、差し出された橙色の果肉を受け取る。早速1つ口に入れた。歯に当たって簡単に果汁をにじませたミカンは、口の中を突くような酸っぱさを充満させる。
その酸っぱさは、やはり何度食べても変わらないけれど。それと同じで、酸っぱさの中にある、わずかな甘さも、やはり変わらなかった。
こうして食べると、なかなかミカンも悪くないものだと感じた。それも、今だけなのかもしれないが。
そして、それでも良いと思う。魔法も何も使っていないのに、今までとは違う感想が持てる。それは何か不思議な感じがしたし、同時に少しだけ嬉しくなったから。
「そういえば、始音」
「なんですか?」
「好きな人とか気になる人とか居ないの?」
だからだろうか。突発的にこんな質問をしてみた。
聞いた瞬間、始音の白い面は一瞬で真っ赤に染まり、右手は食べかけのミカンを私に投擲する直前で止まっている。
「なっ、何を聞いてくるんですかいきなり!!」
あまりにも始音が初心な反応を返してきたため、若干逆に面喰っていた私だったが、やがて持ち前の悪戯心がむくりと頭をもたげてきた。
今、私の顔はにやりとした悪そうな笑みを浮かべているに違いない。それは、泣く子が更に泣く類の笑みだ。
「いや、もし始音にそんな相手がいるんだったら私が初めてをもらっちゃうのも悪いかなぁと」
「―――ッ!?」
もちろん嘘なのだが。相手の反応がおもしろいとついつい悪ノリするのが止められないのは私の悪い癖かもしれない。
始音が予想以上の反応をしたため、嘘だと言い出すタイミングを逸して、たたみかけるように言葉を紡ぐ。
「あれ、知らないの? 魔物は好色なのよ? それこそ、同性だろうと構わないくらい」
そういう性癖の魔物も居るのかもしれないが、私は御免被りたい。
「………」
「まぁ、それは冗談として」
そう言ったら、始音に横目で睨まれた。
「……どこからが冗談ですか?」
「“私が初めてを〜”のあたりから」
そう言うと、私を睨んだまま、ぷぅっと頬を膨らませた。結構かわいい。普通ならこんなかわいい娘を放っておくはずがないのだが。
「で、気になる人とか居ないの? 普通始音くらいの年齢だったら男漁りに精出してるはずなんだけど」
私のように幼くして武の道を志した哀れな少女たちは除くが。そんな少女たちは他人の目も気にせず日がな一日剣を振っている。男になど目もくれない。
「どこの常識ですか。私はいやしくも神職です。俗世と必要以上の交流を持つべきではありません」
じゃあさっきまでおいしそうに頬張っていたミカンは何だ、と言いたくなったが、きっとミカンは特別なんだろうと思い留まった。
「へぇ、そうなんだ〜。一緒にお祭りに行ってくれる相手も居ないのね………」
「なっ!?」
「まあ、仕方ないか。だって始音って――」
そう言って私は身を乗り出し、ちゃぶ台の向こうの始音に抱きつく。虚を突かれたように固まった始音の体に、私の一回り小さな体を密着させる。
とくり、とくりと人間特有のよく響く心音がして、巫女装束の後ろからほんのりと始音の体温が沁みてくる。それは私の手を少しだけ温めた。
「――無いもんねぇ」
私の言葉に、驚いた表情で固定されていた始音の顔が面白いほど真っ赤に染まり、次いで私の体を押しのけようとする。
始音には和服がよく似合う。巫女装束も例外ではなく、長い黒髪によく映え、とても似合っているのだが。それはつまり、胸が無いということでもあり。
「無いってなんですか! そんなこと言ったらお稲荷さまだって無いでしょう!」
ばたばたと始音が暴れる。だが私はその程度では振りほどけない。
若干、始音の心臓の鼓動が早まるのを、胸で感じた。
「ふふふ、無いのはこの体の時だけよ。私くらいになると外見なんてほぼ思い通りだからね〜」
今の私の外見は、童女といっても通じるほどの幼さだ。ただ、このあたりには存在しない長く伸ばした金髪だけが目を引く要因となっている。
他の誰かが今の私と始音を見たら、姉妹がじゃれ合っているように見えるのかもしれない。
衣服が乱れるのも気にせず、暴れる始音を押さえつける。もともと大きめの私の着物が着くずれ、始音の巫女装束もあちこち乱れた。すぐそばにある始音の顔から、時折荒い吐息がかかる。
「や、止めてください!」
暴れたせいでやや乱れた髪の始音がそう言うが、私は一向に意に介さない。力任せに始音の細い体を押し倒し、自身もその上に覆いかぶさる。
それだけで先ほどまでの“じゃれていた”という状況は一変する。片や、黒髪を乱して床に散らせ、乱れに乱れた巫女装束にその身を包む上気した頬の少女。片や、こちらも乱れた着物を直しもせず巫女装束の少女に覆いかぶさり、吐息がかかるほどの距離で相手の顔を見つめる少女。
………禁じられた遊びをしている気分になる。
「………何をやっているのですか……」
だから、そんな声がかけられたのは私にとっても幸運なことだったのかもしれない。
声の主は賽銭箱の前に立ち、こちらを見つめている男。身に纏う神官の装束が示す通りこの神社の神主だ。
そして、彼の声音には呆れが多分に含まれていた。まったく可愛げがない。
「ん、ちょっと私の巫女ちゃんを味見しておこうかと思って」
「………。始音、長老が呼んでいますので少し私と来てください」
無視された。
「は、はい」
そう言って、もぞもぞと私の下から始音が脱出し、激しく乱れた巫女装束を出来る範囲で直しながら神社を出ていく。
最後に、始音はこちらをちらりと振り返り、
「………」
頬を朱に染めて境内の階段を下りていった。
ぽつんと独り取り残された私は、
「………寝よう」
眠ることにした。
山の上にある神社から村に戻るには、長い長い石造りの階段を下りなければならない。この階段が一体何段あるのか正確には知らないが、きっと“0”が三つあっても足りないのだろう。
唯一の救いは、その階段が曲がりくねっていたり急すぎる作りになっていないことだが、それにしても長すぎると私は思う。降りても降りても辺りの景色はちっとも変わらなくて、本当に下に向かっているのか分からなくなる。
これが秋ごろだったら綺麗に色づいた木の葉たちがひらひらと舞い降りて、とても幻想的な景色になるのだが。しかしそれも、既に見る事の適わぬ景色。
「始音。あなたの役目、忘れてはいませんね」
それは、確認と言うよりは話し始めるきっかけのようなものだったのだろう。普段から私的な会話を好まないこの神主としては、そのような前振りをすること自体が稀といえるのだが。
「はい。お稲荷様は何もお気づきになられていません」
この神主と言葉を交わすと、いつも心が冷えていくのを感じる。凍えた私の心は、それを気づかせようと必死で痛みを訴えるのだ。
その痛みが、罪悪感に基づくものなのか、それとも別の何かなのかは分からないが。
「そうですか……。……長かった役目も、ようやく終わるのですね」
そう言う神主は、先ほどから前だけを見て私と目を合わせようとしない。そして、それが分かっている私もまた。
「この役目さえ終わらせれば、この村には平和が訪れる。誰一人悲しい思いをすることなく、ね」
この神主が何を言おうと、私の凍てついた心には響かない。そのはずだったのに。
今日、この時ばかりは違った。心の一番柔らかい部分に、小さなとげが刺さったような痛みを感じた。それの処理方法が分からなくて、私は困っているはずなのに、
「……始音、笑っているのですか?」
私は笑っていた。
もしかしたら。それはあの名も無き稲荷が私にくれた温もりなのかもしれない。だとしたら、これは何にも代えがたい痛み。
痛いのに笑うなんて、おかしな話だけど。それでも私には、それが大切だった。
「……あの狐に情を移してはいけませんよ。……別れが辛くなります」
「はい。神主様」
階段の終わりは、すぐそこだ。
11/03/18 20:58更新 / 湖
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