連載小説
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第一話「 お客、来る 」
――一心に、ただ一心に。

自分の鼓膜を震わす、砥石に刃を滑らせる音。指先に加える力加減、押して引く際の力の抜き具合・速度。その全てに心を傾け、刃にかつての煌めきと鋭さを……出来得るならばその時以上のものへと仕上げていく。砥石が乾燥し切る前に左手を水桶に浸し、その手を砥石の上へかざして適度に水分を保持させ、研ぎを再開させる。ある程度研ぎ終えたら前の砥石よりも目の細かい砥石へと変え、また研ぎ始める。
この地味で単調で精神力が必要な作業だが、俺――麻石(そいし)ケンジは『研ぐ』事が昔から大好きだった。麻石家はジパングの剣術の名家が本家らしいのだが、御先祖様が刀剣を研磨する方向に目覚めたらしく本家から離れ、家を新たに作ったそうだ。
それが『麻石』、縦に並べれば『磨』の字になる我が家の由来。
そんな姓が名前の頭に付いているからだろうか、俺は『剣を取る』という男なら大半は理解出来る筈の夢を抱かず、研ぎ師であった祖父が刃を研いでいる姿をよく見ていた。野菜や肉が切れにくくなっていた包丁が祖父が研げばその切れ味を取り戻す。幼心にはそれこそ魔法の様だと思ったものだ。時が経っても好きな事は変わらず、15の時に祖父へ弟子入りして10年間、俺は研ぎ続けている。
そして3年前、祖父の他界に伴いこの研ぎ屋『アヤメ』を祖父から引き継いだのだった。

「……これで良し、綺麗になったな」

刃を乾いた布巾で拭き取り、しっかりと仕舞い終えてから窓の外を見てみれば陽が真上に差し掛かろうとしていた。朝から複数の刀剣を研ぎ始めていたのだが、もう昼になるとは。相変わらず研いでいると時間の経過を忘れてしまう。
それだけ集中出来ていると喜ぶべきなのだろうが、気付いた時に襲い掛かる空腹感は如何ともしがたい。胃を急激に締め付けられ、内側の粘膜に塩水でも掛けられているかの様なあの感覚は慣れないものなのである。さてそれでは朝食兼昼食を、と立ち上がった瞬間だった。

――チリリン、リリン……。

「お客さんか」

研ぎ屋『アヤメ』の入口扉には風鈴に似たものが設置してあり、入店の際に涼やかな音が鳴る様になっている。だが四季問わずその音色なため、風情があるのは夏期だけであるが。
益体もない事を考えながら作業場とカウンターを遮る暖簾を潜ると――

「失礼する、私の名前はアイリス・トルヴァダウ。君が店主で間違いないか?」

目の前には今まで見た事もない美貌の持ち主が、そこに居た。
双眸は紅味のある琥珀を思わせる色合いで、思わず覗き込んでしまいたいと思ってしまう。鍔広の黒帽子から覗く長髪は収穫期の小麦畑を連想させる黄金色で、その髪を一つに結い、背中へと垂らしている。冒険者なのか実用性と機能性のある黒い服装だが、腹部を隠す布地はなく、そこから覗くしなやかながら鍛えられているであろうラインと臍が眩しい。下肢を覆う布地も少ないために見える太腿も俊敏性のある筋肉に覆われている事が窺えるが、女性らしい丸みも失っておらず健康的な艶を見せていた。何よりも雰囲気が――そう、『研ぎ澄まされていた』。勿論悪い意味ではなく良い意味で。まるでジパングの名刀を見ている様な、もしくは一流の研ぎ師の仕事を間近で見ている様な。
故に美貌とは関係なしに思ったのだ――綺麗だ、と。

「ッ、ああ……悪い、少し惚けてた。いらっしゃい、俺が店主の麻石ケンジだ……と言っても俺以外店員は居ないんだがな」

気を取り直して自己紹介をして、最後の言葉と共に肩を竦めて見せる。
研ぎ師なんて職業に爆発的な人気などある筈がなく、弟子も店員も居ない。かと言ってこの店に閑古鳥が鳴いているのかと言えば否である。人が居れば刃物は扱うもの、それに愛着や拘りがあるのならば専門職に任せる人も居るのである。

「さて、トルヴァダウさんは――」
「アイリスで良い。その呼び方は何だか擽ったい」
「――じゃあアイリスで。俺の方もケンジで構わないから」
「いや、店主は店主だろう?」
「別にケンジでも……ま、良いか。それで、今日はどんな用でココに?」
「剣を三振り、研いで貰いたい」

そう言って彼女がカウンターの机に置いたのは一振りの細剣と二振りの短剣だった。
細剣の方はレイピアに形状が酷似している事から、残りの二振りの短剣はパリーイング・ダガー――マインゴーシュだろうか?レイピアの方は刺突用の剣と誤解されがちだが、ちゃんと切る事が出来る。片刃と両刃の場合があるが、これは両刃のようだ。マインゴーシュはレイピアを持つ手とは逆の方に持つ、相手の攻撃を受け流す為の柄に籠状のガードが付いている両刃の短剣だ。勿論、受け流す為の短剣とはいえ刀剣であるので斬れないという事はない。

「触れて見ても、大丈夫か?」
「……ほう、何故確認を取るんだ?」
「いや、剣は大切な相棒だろう。断りなく勝手に触れる訳にはいかない」

『刃を持って来た相手に必ず確認を取ってから触れること』
如何に家庭用包丁であってもそれはその人の相棒なのだから、不躾に触るのは無礼だという教え。これは師であった祖父から何度も口酸っぱく言われ続けた事だった。今の時代ではもしかしたら古い考えかもしれないが、少なくとも俺は共感出来たので毎回確認を取っている。

「――ふふ、その考えは嫌いじゃない。確認されたのは久し振りだ」
「ッ」

そう言って口元を綻ばせた彼女の顔は先程とは印象が若干異なっていた。意地の悪そうな、けれど何処か楽しげな微笑み。先程は『綺麗』だったのが今度は『可愛い』印象を見せて来たのだ。それに、祖父の考えが認められた事も嬉しかった。他にも同じ考えを持ってくれていると思えて自然と笑みが零れる。

「許可するよ、店主。しっかり見てやってくれ」
「それじゃ、失礼して……」

相手の許可も出たので細剣の方を手に取り、刀身をゆっくりと外気に曝していく。窓から差し込む陽光を受けて光る様子は切れ味を如実に示しているかの様に見えるが、俺は刃の部分を丁寧に注視していく。下から上に、上から下に、今度は中ほどから元の位置に戻って再び剣先へと視線を這わせる。今度は角度を変えて刀身を観察し、更に別の角度から見て何度も確認を繰返す。細剣が終わったら次は短剣をそれぞれ同工程を経て見続け、そして細く深く息を吐いて意識を刀剣から現実へ切り替えた。そしてこの三振りの剣を見た事で分かった事実に嬉しげに微笑が零れた。

「良い剣だな、使い手がどれだけ大事にしてくれているか分かる、実に良い剣だ」
「……え?」
「目立った刃毀れもなし、粗略に扱われた形跡も変な歪みもない。定期的に見て貰ってるな?」
「え、あ、いや、その……!」
「ただある程度摩耗はしてるみたいだから研いだ方が良いのは変わりない。そこの辺りも分かって持って来たんだろうけど」
「〜〜〜〜ッ」

ここまで大切にされているのが分かる剣は久し振りだ、これだから研ぎ師は辞められない。こんなにも手入れの行き届いたものを任されるのはコチラとしても嬉しい事なのだ。勿論プレッシャーもあるが、それだけ身が引き締まるというものだ――と思っていた所で気付いてしまった。
何に、と言われれば目の前の彼女、アイリスの白磁の様な肌が桜色に……いや、林檎色に染まっているのだ。首から顔まで真っ赤に染め上げ、若干顔を俯かせてぷるぷる身体を震わせている様子は何とも可愛らしい……じゃなかった。あれ、もしかして何かマズイ事でも言ったのか、俺?

「あの、何か悪い事でも言ったか?」
「――ッ何でもない。それじゃあ後は頼んだぞ」
「あ、いや待った!このままじゃ俺は何も出来ないぞ!?」
「どういうことだ?」

無理矢理意識を切り替える様にして首を左右に振った後、店を出ようとしたアイリスを慌てて引き留める。そんな俺を怪訝な目で見て来るが、生憎とコッチにも事情がある。しかも彼女にも関わる大事な事情が。

「アイリスの事を、もっと知りたいんだ」
「ええッ!?」
「うん?何をそんなに驚いて……あ、」
「………………」
「口説いてた訳じゃないぞ!研ぐにしても剣の使い手の事をある程度知っておかないとって事だ!」
「あ、ああ……そういう事か」

目を見開いたまま硬直してたから何事かと思ったら、要点だけを言った所為で口説いてるみたいな感じになっていた。これなら確かにいきなり固まるのも無理はない。もっとも、初対面の女性相手に口説く度胸など俺は持ち合わせてないので、彼女が誤解と分かってくれて本当に良かった。こんな事で変な噂を立てられてでもして、祖父の看板に泥を塗ってしまったら冗談抜きに死にたくなってしまう。

「それで、だな。ウチはお客さんの事を知らない内は絶対に研ぐ事はしないんだ。だから数日間から数週間、アイリスに時間がないのなら他を当たった方が良い。自分を知られたくないっていうのも理解出来るからな」

ここまで言うのにも勿論理由はある。剣にはその人の個性が現れるものであり、その人の要望だけを聞いて研いでみても実際に使ってみたらしっくり来ないという事が結構あるのだ。それが家庭用包丁ならまだ良いのだが、冒険者など戦いに臨まねばならない者達にとってはそれが時に命取りになりかねない。
だからこそウチは客とのコミュニケーションを大事にする。その人がどんな人物で、どんな性格で、どんな雰囲気を持っていて、どんな言動をするのかを実感させて貰う。そしてそれらが分かった上で剣を扱う動作を見せて貰って、改めて要望を聞いて……そして研ぐ作業へと移り仕上げる。何もそこまで、と思われるかもしれないがコッチは本気で『命に関わる』と思っているのだ。そう易々と、特に戦いに関わる者からの依頼を受ける訳にはいかない。
アイリスは先程から顎に指を添えて黙考している。考えているという事は時間の方は大丈夫なのだろうが、眉根を僅かに寄せているため他に懸念事項があるのは間違いない。恐らくは今日会ったばかりの男に自分を知って貰う事に抵抗があるのだろう。寧ろそれが正常なのだ。同性なら兎も角異性になどハードルが高いと俺でも思う。それでも俺から妥協するという選択肢はない。ここで『駄目だ』と言われたらそこで終了、この話はなかった事となる。
はてさてどんな返事が来るか――と思った矢先、すっとアイリスが手を挙げていた。

「質問をしても良いか、店主?」
「構わないぞ、どんな些細な事でも聞いてくれ」
「では遠慮なく。店主の言う方法だとどうしても宿泊期間が長引いてしまい、私が予定していた以上に金銭を消費してしまう」
「そうだろうな」

各地を行き来している冒険者(勿論雰囲気からの推測だが)だ、路銀の管理は必要不可欠だろうし、その際に発生する余計な消費は抑えたいだろう。余計な消費はその分自分に跳ね返ってくる。食糧の購入量だって調整せねばならないだろうし、その他消耗品も考慮せねばならない。いつも通りに支度を整えたいならば資金の調達が必要だが、それは戦いに参加する事だったり日雇いの仕事をしたりと大変なのだ。資金を稼ぐ仕事が見付かれば良いが、運が悪い時はそれすらない時だってある。その際はやはり準備不足で次の目的地へ目指す事になる。それがどれだけ危険な事か、俺でも分かるのだ。まして現役で冒険者をやっているであろうアイリスには骨身に沁みているだろう。

「だから格安の宿があるならば教えて欲しい。頼めるか、店主?」
「それは俺に剣を研いで貰う、という解釈で良いのか?」
「そうだ、店主に私の剣を任せたい。だからこそ宿を教えて貰いたいのだ」

そう言って視線をこちらへ向ける彼女の目はとても真っ直ぐなもので、ずっと視線を交わしていたいと思わせるに十分な魅力を持っていた。この相手なら任せられる、その為に必要な事は何でもする――そういう意思が煌めく瞳に胸奥へ言い様もない感動が湧き上がって来る。
こんなにも信頼を寄せられては下手な仕事は出来ないし、したくもない。そしてそれに応える為の準備は既に存在するのだ。

「宿ならウチにするといい。丁度二階が客室になっているからな」
「そうか、では宿代の方は?」
「タダだぞ。ウチの方針に付き合わせるんだ、金を取る訳がないだろ」
「……は?」
「ああ、だが食費は自己負担……というか食材が足りない時は自分で買い足してくれ。一応それなりの備蓄はあるから大丈夫な筈だけどな」
「え、いや、ちょっと」
「食事は料理が得意なら自分で作った方が良いぞ、何せ俺は独り身の男だからな。お世辞にも料理上手とは言えない」
「いやだから、」
「ちなみに得意料理はジパング料理、特に煮物系が得意だ。ま、ただ煮込めば良いだけなんだが――」
「待て!取り敢えず待ってくれ!」
「うお!?」

アイリスに客室の事や宿代その他諸々について説明している最中、突然大声を上げられてビクッと身体が跳ね上がる程驚いた。心臓が耳の奥に移動したのかと勘違いする位にドキドキと動悸は激しいものとなり、両目とも何度も瞬かせて驚愕を表している。
彼女の方も大声を出したからか両頬に朱が差しており、若干乱れる呼吸の音が何処か艶めかしく感じるのはきっと聞いてる側の心が純粋でないからに違いない。

「……生憎宿代・食費共に実質タダと言われて『はいそうですか』で済ませられる図太さを、私は持ち合わせていない。というか一体何を考えているんだ、店主?」
「何を、と言われても……お客の事を、としか答えられないぞ」
「…………」
「待てマテまて、そんな目で俺を見るな!んーあー……、そうだな。情報料の代わりだと思って貰えば良い。アイリスの情報の代価にコッチは宿と食糧を提供する、って感じだ」

本気の返答に無言とジト目で返されて何とも居た堪れなくなり、思考回路をフル回転させて納得がいく様に言葉を紡いでいく。他に何と説明しようにも祖父が経営していた頃もこの方針であったし、それにより店が困窮した事もないのだから間違ってはいない筈だ。常連客や御近所さんからお裾分けに野菜やお肉、保存の利く料理を貰ったりしているので食費だってそこまで掛からない。勿論ウチもお裾分け出来る時にはしているので、持ちつ持たれつの関係である。
だがアイリスはどうにも納得がいかない様子で、さっきから眉間に僅かに皺を寄せ、これで剣が握れるのかと思う程に細い指を顎先へと添えて何かを考えている。そんな姿さえ絵になるのは、単に彼女の美しさから来るものなのか。他にも要素があるのかもしれないが、刃を研ぐ事しか能のない俺には言葉にする事が出来なかった。それでも自分の中から合致する言葉を引っ張り出そうとしている間に、アイリスは結論が出たのか力強い目でコッチを見詰めていた。

「結論が出たみたいだな」
「ああ、しばらく厄介になろうと思う」
「分かった、それじゃ――」
「ただし!」

納得してくれたかと胸を撫で下ろした瞬間、アイリスは鋭く声を上げて俺の注意を今一度引かせた。『ただし!』と来たからには何か言いたい事か交換条件の言葉が飛び出して来るのだろうが、果たして何を……?

「家事全般は私が引き受ける。炊事・洗濯、その他諸々もだ。研ぎ師の仕事は手伝えるとは思えないから店主に任せるが」
「いや、それはお客にさせる事じゃないだろ」
「五月蠅い黙れ店主。私が『やる』と言ってるんだ、返事は『はい』で良い」
「だけどなぁ」
「分かったな、店主?」
「え、あ、う……」
「わ・か・っ・た・な?」
「……はい」
「分かれば宜しい」

そう言って胸を僅かに反らして満足そうな顔をするアイリスは子供っぽい雰囲気を醸し出しており、コッチもクスリと笑ってしまう。会話すればするほど新たな顔を覗かせてくれる彼女から目が離せなくなるのを自覚しつつも、それが嫌ではない自分に内心苦笑をしてしまう。
だって、これでは好きな相手の事を色々と知れて嬉しがっているみたいだ。
確かに彼女は魅力的だが、初対面の相手にそれはない。一目惚れだなんてガラでもない。
そんな事を思いながら御満悦な彼女を二階へと案内すべく、カウンターから出て先導していく。
その足取りは何処か軽く、嬉しげであった。


◆ ◆ ◆


――朝。

陽が少し上って辺りが薄光に包まれている時間に俺は自然と目が覚めた。
何という事はない、いつもこの時間帯に起きているというだけの事だが……今日は五感の一つが違和感を捉えていた。その一つである嗅覚が捉えていたのは胃に直撃する良い香り、即ち食欲を刺激する実に美味しそうな匂いだったのだ。寝惚け眼を何度も開閉させ、視界が安定した所で身体に活を入れるべく、状態を起して背筋をぐっと伸ばしていく。そうして身体も動かせる様になって、ようやく頭が正常に動いてくる。

「……ああ、そう言えば今朝から作るって言ってたな」

そう、昨日から我が家の客室に泊まる事になったアイリスは荷物を部屋へ置いた後、『では早速夕飯から作ろう』と気合を入れていたのだ。
流石に初日からお客に食事を作って貰うなどさせる筈がなく、常連客である料理人が経営している御食事処『たらふく亭』で歓迎会?を開いたのだった。その帰路で彼女から感謝の言葉と共に『明日の朝食から、絶対に作るからな』と念押しを頂いていたのである。正直朝は早い方だから、寝坊助サンならこれ幸いとばかりに俺が朝食を作る予定だったのだが、流石は旅をしているだけの事はあるという事だろうか。

「さて、と。じゃあ起きるとしましょうかねっ!」

いつまでも寝床に居る訳にはいかないと、気合を入れて身体を起こし布団を片付けていく。
ちなみに俺の部屋は作業場の隣、つまり一階にある。十二畳程の和室であり、イグサの香りがジパングの血を引く肌に良く馴染むと毎度ながら思う。
アイリスの部屋は洋室の造りとなっており、こちらも広さで言うなら十二畳は普通にある。ベッドにドレッサー、クローゼット等の家具も一通り揃っている。隙間風が通る個所も存在しない、快適な居住空間となっていると自負している。客室はもう三部屋あり、残りは洋室が一部屋、和室が二部屋という具合だ。そして今現在鼻腔を擽る香りの発生源たる台所及び食堂代わりのリビングも二階にある。トイレは一階と二階に一つずつ、風呂は作業をして直ぐに入れるようにと一階に設置されている。
布団を片付けた後は寝間着から作業着である藍染の甚平へと着替える。季節によって中に肌着を着込んだりするが今の時期は暑くもなく寒くもない心地良い気温なので、肌着を着込む事はない。着替え終わった後の足は匂いに釣られる様に、考えるまでもなく二階へと続く階段を上っていく。一段一段踏みしめていく度に濃くなっていく朝食の香りに自然と胃がきゅう、と音を立てる。誰も聞いてはいないとはいえ、現金な胃の調子にそっと苦笑を浮かべつつリビングへと入れば食卓には既に配膳がなされていた。

「――おはよう、店主。予想通り朝は早いみたいだな?」

そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべるアイリスだが、昨日と服装が異なっていた。
胸にワンポイントで『Areus』と黒字で印刷された白いTシャツに、濃紺のホットパンツを幅広の茶革ベルトで緩く締めているという格好だった。Tシャツを押し上げる豊かな果実の所為でプリントされている文字が歪む様が実に目に毒であり、ホットパンツは留め金を付けていないためにその隙間から下着が見えそうで見えないので扇情的に映ってしまう。逃げ場を求めて視線を下へと向けても健康的な太腿が眩しい位にその瑞々しさを主張し、そこから流れる様に引き締まった脹脛さえ視界に収めただけで心臓が跳ね上がるという始末。動きやすいラフは格好なのは分かるが、何故こうも邪な感情を掻き立てられるのか――そこまで考えて俺は思考を切り替える様に首を左右に振った。幾ら魅力的な女性であっても、向こうはお客。しかも俺を信頼して今ここに滞在しているのだ。それに対して妙な目で見るのは余りに失礼過ぎる。

「おはよう、アイリス。大体いつもこの時間だな……朝食の準備、ありがとう」
「どういたしまして。ほら、席に着いてくれ」

促されて食卓の席に着くと、目の前には見た目も香りも申し分無い美味しそうな朝食が並んでいた。サラダはレタス・ベビーリーフ・プチトマトのもので、その上にカリカリに焼かれたベーコンが小さな短冊型に切られて散りばめられている。ふわりと仄かに甘い香りを漂わせているのはオムレツであるが、何かを包んでいるのか薄く淡い茶色が透けて見えた。その横にはオニオンスープ……いや、コンソメスープだろうか?琥珀色のスープにタマネギ・ニンジン・キャベツ・ジャガイモ・ウィンナーが見てとれ、具沢山な事が少し家庭的な面を覗かせているようで微笑ましい。デザートにすり黒胡麻が散らしてあるヨーグルトまで準備してあり、傍らに蜂蜜がそっと添えられていた。

「……凄いなオイ」
「朝食だから軽めにしたつもりだが、重かったか?」
「いや、そういう事じゃなくて純粋に驚いたんだよ。アイリスが予想以上に料理が出来て」
「乙女の嗜み、というものだ」

ふふん、と鼻高々な様子はやはり子供っぽく、『綺麗』という言葉では足りない容姿とのギャップに可笑しくなってしまう。だが胸を反らすのは止めて欲しい、ラフな格好故に強調される度合いが半端ではなく、妙な気分になってしまう。

「あれ、でもパンじゃなくてご飯なんだな」
「パンが置いてなかったし、何より店主はライスの方が良さそうだと思ってな。それにパンにもライスにも合う料理ばかりだ、気に病む必要はない」
「正直有り難い、パンよりもご飯党なもんで。だからと言ってパンが食べれない訳じゃないぞ」
「ふふ、食べたい時は自分で買ってくるさ。元よりそういう話だっただろう?」
「そ、そうだったな」
「自分で言っておきながら忘れていたかの様な反応だが……ま、良い。それでは」
「ん、いただきます」
「いただきます」

両掌を合わせて『いただきます』とジパング式の食事の感謝を捧げていると、アイリスは昨夜と同じ様に物珍しそうな目で俺を見ていた。『たらふく亭』で夕飯をいただく前にこの『いただきます』をしたら、彼女が妙な表情をして『何だそれは?』と首を傾げたのは記憶に新しい。どうやらジパング式には疎いらしく、簡素な一言だったので感謝が足りていないと思ったようだった。それでもこの『いただきます』に込められた様々な感謝の気持ちを丁寧に教えたら、妙に感じ入るものがあったらしく彼女もジパング式のものへと切り替えていた。
感謝を終えると、まずはオムレツへと箸を伸ばす。先程から薄く透けて見える中身が気になって仕方なかったのだ。中程へと箸を立て左右へすっと開くと、中から細かく刻んだニンジン・タマネギ・ピーマンに牛挽肉が少量混ぜられたものがチーズの香りと共に顔を覗かせた。

「おおっ」
「ふふ、プレーンだと味気ないと思ってな。みじん切りにした野菜に少し牛ミンチを混ぜて、塩コショウと少し粉チーズで味付けしてある。そのまま食べても良いし、トマトケチャップを少し付けて食べても良いぞ」

思わず洩らした感嘆の声に、アイリスは本当に嬉しそうに目を細めて口元を綻ばせて料理の説明をしてくれる。その声に促される様に一口大にオムレツを取り、何も付けずに口へと運ぶとふわりとした卵の食感と共に野菜の甘みと牛肉の旨みが舌の上に広がり、鼻腔へ抜けるチーズの香りが更に食欲をそそらせた。二口目はトマトケチャップを少量付けて食べてみると、先程の味にトマトの酸味と甘さが加わり、唾液腺がきゅっと刺激されたのが分かった。

「美味い、美味いな!」
「そ、そんなに褒めるな。何だか恥ずかしくなって来るっ」

恥ずかしそうな声が返って来るが気にしない。今はこの食卓の上に並ぶ料理に意識は集中していたいのだ。次に手を伸ばしたのは具沢山のコンソメスープだ。椀に入れられたそれを口にすると、沢山の野菜から出た甘みがブイヨンに包まれる様に口腔に広がり、ほっと落ち着いた気分へとさせてくれる。具の大多数である野菜は食べた瞬間に半ば溶けていく程に柔らかく、ウィンナーも煮すぎて脂がスープへ出切っている訳ではない、絶妙な茹で具合だった。

「何も入ってないものより、具をたっぷり入れた方が良いと思ったんだが……ど、どうだ?」
「何も言うことはない、文句なんて言える訳がない、寧ろこれで文句がある奴は表に出ろ」
「ふえ、ええっ!?」

箸が止まらないとはこの事か、ご飯の炊き具合も申し分なく、これぞ銀シャリ!といった具合だった。妙な声がアイリスから聞こえた様な気もするがそんな事に構っている余裕はない、次はサラダを食さねば。適当な量を取り皿へとよそい、ドレッシングを掛けよう……と思った所で気付いた。

「アイリス、このドレッシング……」
「あ、ああっ。お前が置いていたドレッシングを味見してみたが少し合わないと思ってな、自分で作ってみた」
「おお、手作り!」
「言っておくがお前が購入していたものだって手作りだぞ?」
「いや、分かってるけど何て言うか。台所で今し方作った!って感じの方が手作りの雰囲気が強い感じが」
「取り敢えずドレッシングを作った人に失礼だぞ、その言い分は。――それで、そのドレッシングだがタマネギをすりおろして、酢とオリーブオイル、砂糖に塩・すり白ゴマ……後はショウユ、とかいう調味料が思いのほか良かったから、それも加えてよく混ぜたものだ」
「へえ、思ったより簡単にドレッシングって作れるんだな」

初めて聞く話に感心して何度も頷きながら、サラダへとドレッシングを掛けていく。思っていたよりもタマネギの香りがきつくなく、酢の匂いとあいまって食欲を刺激してくる。少し和えさせてから食べてみると、レタスのシャキシャキした食感とベビーリーフの柔らかな食感、プチトマトの弾ける様な食感にベーコンのカリッとした食感という風に、それぞれ違う食感を出していて何とも食べ応えがある。そしてこのドレッシングがまた合う!タマネギの辛みと仄かな甘み、酢のオリーブオイル、白ゴマの香りが鼻を抜け何とも香ばしい。そしてドレッシングが主張し過ぎていないのがいい。素材の味をしっかりと味わわせてくれる引き立て役に回ってくれている。

「ウン、美味い。これなら野菜嫌いの奴でも食べれそうだな」
「それは流石に大袈裟だ」
「いやいや、子供とか喜んで野菜を食べると思うぞ。ただ、タマネギの香りが敬遠されるかもしれないが」
「ああ、それは一日置けば大分薄まる。こうして出来たても良いが、本来はしばらく置いた方がが美味しく仕上がる」
「更に美味しく、だと……このドレッシングのポテンシャルは凄いな!」
「店主は一々大袈裟過ぎる」

呆れた様な、照れているのを隠している様な、そんな声色を聞きながら箸を進めていく。デザート以外は全て食べ終え、ではいざヨーグルトを、と手に取った瞬間にふわりと蜂蜜とは違った甘い香りを感じ取った。

「アイリス、このヨーグルトは砂糖が入れてあるのか?」
「いや、プレーンのままだ。少しバニラエッセンスを加えてはあるが」
「バニラエッセンス?」
「……ああ、その反応でどうして埃を被っていたか充分に分かった。甘い香りがするだろう?それがバニラの香りだ。焼き菓子やアイスクリーム等を作る時に香り付けに使うのが一般的だな」
「アイスクリーム……おお、何処かで嗅いだ事があると思ったらバニラアイスか!」
「一応バニラアイスは食べた事があるみたいだな。だからと言ってバニラエッセンスを舐めない方が良いぞ、店主」
「え、何でだ?こんなに甘くて美味しそうな匂いしてるんだからさぞ甘いんだろ?」
「店主、私はさっき『香り付けに使う』と言った。……後は、分かるな?」
「すまん、さっぱり」
「…………舐めてみろ」

しばらく思案顔の後に席を立ち、台所から小瓶を持ってきて自らの手の甲に一滴垂らし、俺に舐めろとのたまうアイリス。肌理細やかな白肌に乗る甘い香りの一雫はぷるりと震え、原形を何とか保っている。ヨーグルトを置き、何も考えずに顔を寄せていった所ではたと気付いた。

――何かこれ、少しいやらしくないか?

バニラエッセンスを舐める為とはいえ、アイリスの肌に舌先が触れる事は確実。何せ一滴しか垂らされてないのだ、上手に掬い取る事など不可能と言って良い。もしこの雫がなかったら物語の騎士が姫様へと捧げる忠誠の接吻の形にも似ている。いや、忠誠の接吻で舌を使う時点で可笑しい。というかこの思考そのものが可笑しい。これは試食、バニラエッセンスを知らない俺に対して彼女が親切心でしてくれている事で、やましい事など欠片もない。そんな事を考える事すら失礼だ。
何とか思考を正常な方向へ持ち直し、再び手の甲へと顔を寄せていき、肌に出来るだけ触れないように舌先を少しだけ覗かせ、雫と白肌の境界線へと持っていく。そして僅かに舌が肌に触れた瞬間、微かに甘い味を感じた様な気がして、その先にある甘露を求め一気に肌を舐め上げバニラエッセンスを舌の上へと――

「んがっ!?えあ、くおおッ苦ニガにが!うおえああァアかはっ!!」
「と、いう訳だ。分かったか?」

苦いニガイにがい!
直前まで甘い香りと舌先に甘い錯覚を起こしていた所為か、落差が半端じゃなかった。最早『えぐい』と言っても過言じゃない程にその苦さは脳天まで突き抜け、眦からは涙を零し、身体を何度も捩らせる。美味しそうな甘い香りを放っていたのにあの苦み、一体何がどうなって、いやそれよりもこの苦みを直ぐに何処かへやってしまいたい!

「ほら、口を開けろ」
「――〜〜ッ、……ん、むぅ?」

そうやって悶えている内にアイリスがおもむろに何かを差し出したのが涙で視界が潤む視界で認識でき、何も考えるでもなく反射的に口の中へと迎え入れた。
その瞬間、口の中に広がるのは蜂蜜とバニラの香り、そして丁度良い甘さを湛えたヨーグルトの酸味、黒ゴマの香ばしさだった。それは食後のデザートにふさわしくサッパリとした甘さで、今まで口腔を荒らし回っていた暴力的な味を嚥下と共に拭い去っていったのだった。

「あの甘い香りとのギャップで凄まじいだろう?」
「あ、ああ……まだ若干寝てた身体が一気に目が覚めたぞ」
「あれはお菓子作りを、というかバニラエッセンスを知ってる者なら大抵は通る道だ」
「甘い香りとのギャップで、何と言うか衝撃的だった」
「ふふ、私も通った道だ。母の制止を聞かずにペロッとな」
「これは下手したらトラウマ物だと思うんだが……」
「大丈夫だ、その後にバニラエッセンスを使ったお菓子を食べたら気にしなくなる。現に今のお前がそうだろう?」
「確かに、次に気を付ければ良いかって感じだ」
「食べ物系のトラウマは美味い物で誤魔化すに限る……ほら」
「あー――ん、?」

温かで家庭的な笑みを見せる彼女の笑みに促される様に、差し出せれる匙を口へと迎え入れる。誰かに物を食べさせて貰うなんて母に看病された時以来だろうか。その事が酷く懐かしく思え、胸の内が温かくなる。

――いや、待て。お前は今、何をされてるんだ?

だがそこで自問する声が自然と溢れてきた。真向かいに少し屈んだ状態でいるアイリスに俺は今、デザートを食べさせられている。母親などではない、正真正銘の異性に、だ。

――これは所謂『あーん』じゃないか!?

「あ、アイリス……」
「ん、何だ?」
「その、ヨーグルトをだな、」
「そう急かすな、誰も横取りなどしない」
「いやそうじゃ」
「ほら」
「…………」

――いや、これは素でやってるな。何か弟の世話をしてる姉みたいな感じだし。

結局俺はそのまま『あーん』を続行する羽目となり、『ごちそうさま』を告げる頃には精神力がごっそりと削られていたのだった。



「改めて、ごちそうさま。本当に美味かった」
「店主も実に美味しそうに平らげてくれたな。私も作った甲斐があったというものだ」

洗い物を終え(ちなみに一緒に食器を洗おうとしたら『それでは契約と違う』と断固拒否されてしまった)、台所から布巾で手を拭いながら再び席に着いたアイリスへ改めて礼を述べる。それに応える表情には疲労や不満はなく、寧ろ嬉しげであったので案外家事をこなすのが好きなのだろう。後は世話焼きの気があると見た。

「さて、それじゃあ腹ごなしも兼ねてアイリスに色々と聞いていっても良いか?」
「望む所だ。遠慮なく質問してくれ」
「ん、じゃあ始めに職業は何か教えて貰えるか?」
「職業、か。何と言えば良いか……そう、冒険者とハンターを兼業しているというのが一番しっくりくる」
「冒険者とハンターの兼業、か。具体的には?」
「各地を訪ね歩き、その都度様々な問題を解決していっている。そして依頼によっては魔物娘をハントしている、といった具合だ」
「成る程、確かに冒険者とハンターの兼業だな」

初見の印象は半分アタリで半分ハズレだった様だ。それにしても、魔物娘をハント出来る程の腕前とは思ってもいなかった。確かに雰囲気からして腕は立つだろうと予測はしていたが、まさかここまでとは。正直ここまで腕の良いお客の刀剣を研ぐのは随分と久し振りだ。

「じゃあ次は家族構成を教えてくれ」
「父と母、それに妹が二人。祖父母も存命らしいが隠居していてな、全く記憶にない」
「ああ、やっぱり下の子がいるんだな」
「ん、どういう事だ?」
「いや、深い意味はないぞ?ただアイリスが世話しなれてる感じが強かったから、これは親か姉がグータラか、妹か弟が居て可愛がってたんじゃないかって予想してただけだ」
「ああ、そういう事か。グータラどころか私の母は厳格で、父は穏やかだが芯の強い人だった……のだが、いつまでも新婚気分が抜け切れないらしくてな。子供の前でも平気でイチャイチャしてピンク色の空気を周りに振り撒いていた」

苦笑と共に両肩を竦めてる彼女の姿は何処か楽しげで、そして嬉しそうだった。見ている俺にも家族が好きという事が容易に伝わってきて、思わずこちらも微笑してしまう程だ。

「妹達は一見素直ではない様に見えるが、視点を変えれば素直なのは丸分かりで、そこがまた可愛いのだ」
「例えばどんな所が?」
「父がとある地方の恐い民話を私達姉妹に話してくれた事があってな。私はとても興味深く聞いていたのだが、妹達は細かく震えているんだ」
「ああ、民話の方がよっぽど怖いって聞くしなぁ」
「妹達は必死で面に感情を出すまいとしていたが、話が終わってさぁ寝るぞ、といった所でボロが出た。妹達は私の両隣に座っていたんだが、二人とも計った様に席を立とうとした私の服の裾を掴んでいてな……ふふ、あれは本当に可愛らしかった」

そう言って淡く頬を朱に染め、双眸を細めて過去の微笑ましい情景を見詰めるアイリスに羨望を覚えてしまう。俺は一人っ子だったため兄弟は居らず、そういった話は本当に羨ましい。勿論、我が家の家庭事情が劣悪だった、なんて変なエピソードは欠片もない。だが羨ましいものは羨ましいのだから仕方ない。

「何だか妹に甘々な感じだな」
「当たり前だ、妹に甘くない姉など存在しない!」
「そ、そこまで力強く断言出来るのか……そんなんじゃ、いつか彼氏とか連れて来た時どうするんだ?」
「そうだな、取り敢えず我が家の中庭に案内する」
「中庭か、また大層な所があるんだな……それで?」
「そしてのこのこと来た彼氏とやらの心臓目掛けて刺突を繰り出す」
「いや否イヤ、妹の彼氏を殺す気か!?」
「この程度を躱せずに死ぬ程度の男に、我が妹の彼氏など相応しくない!」
「彼氏への要求スペック高過ぎだろ、どう考えても!」

当初はただの妹思いの良い姉なのだと思ったら……どうやら方向を修正せねばならないらしい。どうやら妹達の事を随分と過度に愛しているようだ。今俺が言った当たり前の言葉も『えー』みたいな感じで唇を尖らせて不満げだ。それとも俺が兄弟が居ないから分かってないだけで、実は世間一般のキョウダイ感はこうなのだろうか?――いや、それはない。絶対にないはずだ!

「ま、アレだろ冗談だったんだよな?」
「いやそれはない」
「え?」
「え?」

――何故だろう、こめかみに鈍痛が……。

「ま、まぁアイリスが妹思いなのはよーく分かった」
「正直目に入れても痛くないな」
「はいはい、次の質問いくからな?」
「むぅ、もっと妹達の事を話したかったのだが……」
「それはまたの機会で頼む。次の質問は『何故剣を手に取ったか』、だ」
「生きるため、親を、妹達を守るため。そして、他者と縁を繋ぐため」

先程までの雰囲気を払拭しての真っ直ぐな言葉に、自然、息を呑む。眼差しもその想いを示すかの如く爛々と輝き、意思を示している。虚飾など微塵も感じさせない彼女に対して、眩く輝く聖剣の刀身を見た心持ちになった。

「他者と縁を繋ぐ、か」
「ああ、こうして店主とも縁を繋げているだろう?」
「違いない、な」



こんな感じで質問と返答、そこから繋がる会話を何日も行っていった。それは短時間の時もあったし、昼食後から夕食前までの長い時間話した事もあった。夜の談話の様な形で互いの事を話した時もあったが夜更かしはする事はなかった。お互い早寝早起きの習慣が付き過ぎだと、互いの顔を見て笑い合ったものだ。最初は互いにぎこちない所もあったが、日を重ねるにつれてそのぎこちなさも薄れていった。もっとも、彼女は相変わらずあの口調で『店主』と呼んでいるのだが。
そんな中、アイリスが滞在して一週間経った日に俺は彼女が剣を扱う姿を見せて貰う事にした。無論、真剣で。更には俺を相手にして、だ。

「店主、自殺願望があったのか?」
「容赦のない指摘だなオイ……絶対に大丈夫とは言えないが、一通りの知識と経験はある」

『刀剣を研ぐ者がその性質を理解し、体感してなくてどうする?』
研ぐという事にしか興味を抱いていなかった俺に、祖父が言った言葉である。研ぎ師の中でここまでする者は、正直居ないのではないだろうか。知識として頭に入れている者は居るだろうが、実際に剣を持ち、どの様な刀剣でも人並みに扱えるようになる……など、正気を疑われるかもしれない。それでも研ぐ人間が剣を振った経験は活きるものだと祖父は言い、それを受け継いだ俺もそう思っている。勿論、その道を極めた人に敵う筈もないのだが、防御に絞ればある程度は切り結べる。その時間で間近で相手の剣筋を見て、肌で剣圧を感じ、耳で呼吸音とその間隔を聞き取り、足捌きも確認する。そこまでして初めて相手の要望が真に理解出来るのだ、というのが祖父と俺の信念だ。

「全力で剣を扱うからには皮膚の一・二枚、骨の二・三本は覚悟して貰うぞ、店主」
「祖父の下で学んだ時から覚悟済みだ……場所を、移すか」

アイリスの同意が得た後に、俺が先導して案内した場所は店の裏手にある広い庭だった。何も植えるでも置くでもなく、ただ剣を振るうだけの場所。周りからは見えない様に高い塀がそびえ立っており、俺が切られて死んでしまっても目撃者が出ない様にする為の処置だ。一応ご近所さんには説明してあるとはいえ、それを知らない者が目撃したら要らぬ騒ぎが起きるのは必至と言える。

「充分な広さだな、店主。店よりも広いんじゃないのか?」
「実際店より広いらしいぞ。祖父曰く、だが」

そうやって庭を眺めるアイリスの格好は初めて入店した時の黒い格好であり、陽が昇っている所でその姿を見ると影法師が立体的に現れたのかと錯覚してしまう。そんな彼女は腰に大小合わせて三振りの剣を佩びている。右に短剣二振り、左に細剣一振りがそれぞれ鞘に収められた状態だが、重くないのかと疑問を抱くも口にはしない。
かくいう俺の方は普段の甚平をではなく丈夫な布の白シャツと紺のジーンズという平服だった。そしてこちらは右手に一般的なブロードソード、左手には手甲から肘の辺りまでを楕円型に覆うシールドを装着していた。

「……成る程、確かに幾らか剣を扱えるようだな」
「素人に毛が生えた程度だ、過度に褒めるなよ?」
「安心しろ、褒めてない。現状の確認をしただけだ」

不敵な笑みが似合う言葉だったが、アイリスの表情は研ぎ澄まされた様に鋭く、鞘からレイピアとマインゴーシュを引き抜いていた。右手に細剣を、左手に短剣を持ち、左足を前に、右足を後ろに置かれていた。防御に適したレイピアに適した構えと言えるだろう。

――どうやら基本に忠実に防御を重んじるタイプのようだ。

「頼むぞ店主、私は少々『荒い』からな」

と思った矢先に彼女はこちらへ向け左手に持っていた短剣を心臓目掛け投擲してきた。あまりに予想外の行動に慌て裏拳を放つ様に左手のシールドで弾き飛ばすも、その瞬間にはアイリスの右足は地面を蹴り、前足だった左足を後足にして腰の捻りを加えながら右手のレイピアを突き出して来ていた。
先程シールドで弾いた影響でこちらの身体は開いている、故に俺は咄嗟にブロードソードの柄頭で切先を右へと逸らそうと試みる。それは功を奏し、剣先を逸らす事には成功するも浅く右脇腹を切り裂かれ、白いシャツが紅く染まっていく。

――間合いが近過ぎる、距離を……!

瞬間、視界が衝撃と共にぶれた。

「がっ、くうぅ!」

ふらつく足に必死に意思を通わせ、後方へと遮二無二飛び退る。そして視界の端に捉えた先程の彼女の動きに驚きを隠し切れなかった。

――まさか、肘を入れるなんて。

そう、アイリスは刺突が逸らされた時には前足になっていた右足を支点にし、反時計回りに身体を回転させて肘を鳩尾目掛け入れてきたのである。少し流れた御蔭で完璧には入らなかったため膝を折る結果とはならなかったのだろう。
剣の間合いの時は剣を、間合いが詰まり過ぎた際には肉弾戦を交える。成る程、確かに『荒い』。そして冒険者とハンターを兼業している彼女には最適だろうと思う。この戦い方はまさに『生き抜くため』のものだ。そしてそんな彼女が飛び退る俺を見逃す筈がない。

「ふッ!」

先程からずっと俺を追い掛けてきていたアイリスは鋭い呼気を吐き、今度は下腹部目掛け剣先を走らせてくる。ここで俺は右足に力を入れて急停止しながらそれを軸足に反時計回りに回転、回避を成功させ逆に今度はこちらがブロードソードで勢いのまま肩口へと切り付けた。
しかし左手には既に二振り目の短剣が握られており、それに付いている籠状のガードによって刀身は滑らされるが如く受け流され、同時に両足を刈り取る勢いで足払いを掛けられ、受け身を取ることもままならず背中を地面へと打ち付けた。

――ザシュッ。

「Checkmateだ、店主」

俺の首の左側へ細剣を勢い良く突き立て、淡々と告げられる。首の皮は薄く切れ、血がじくじくと滲み出て来ているのが見ずとも分かった。アイリスの目は油断なくこちらの挙動を見詰めており、変な動きを見せればただでは済まない、と暗に告げているかのようだった。

「……はあぁ。参った、俺の負けだ」

深々と息を吐き出し、肺の空気を入れ替える。呼吸を繰り返す度に身体に活力が戻ってくる感覚は久し振りだ。汗もどっと噴き出してきている。
俺の敗北宣言を聞いたアイリスは細剣を引き抜き、どこからか取り出してきた布で刀身を拭ってから鞘へと納めていた。持っていた短剣も納め、投擲した短剣も拾いに行き、同じように刀身を拭った後に鞘へと納めた後、こちらへと戻ってきた。

「生きてるか、店主?」
「自分でも驚いてるが、生きてる」
「ふふ、正直最初の刺突で死んでしまうかと思ったぞ」

地面に大の字に寝転がる俺を覗き込む様にして声を掛け、先程の淡々とした様子とは違い優しい色を声に乗せるアイリスは汗一つ掻いてない。身体を動かした事でやや頬が上気しているが、それだけだ。つくづく俺との鍛え方が違うのだと思い知らされる。

「もう少し粘れると思ったんだがなぁ」
「それこそ舐めるな、店主。そこは『よくあそこまで粘った』、だ」
「はは、それもそうだな。ウン、よく頑張った俺!」

わざと大袈裟に自分を褒め、それを見てアイリスが苦笑する。そんな何でもない事が楽しい、とても楽しいのだ。出来るならこの時間がずっと続けばいいと本気で思ってしまう程に、アイリスと過ごす時間は自然で、居心地のいいものだった。勿論、無理なのは分かっている。彼女は冒険者兼ハンターで、まだまだ各地を訪ね歩いていくのだから。だからこれは俺の一方的な想い、胸の奥に仕舞っておく、温かい気持ちだ。

「さってと、それじゃあ戻るとするか」
「そうだな。店主の血、を、止めな、いと、いけないし、な」
「……どうしたんだ?」

上体を起こしてぐっと伸ばた後に脇腹に走る痛みに苦笑をしながら立ち上がるも、アイリスの様子が何処かおかしかった。先程までは汗を滲ませてもいなかったのに、今はその限りでは無く、額に珠の汗を浮かべていた。身体は微かにだが震え、顔を真っ赤に紅潮させ、両腕で自らを抱き締めている。何よりも異常に見えるのはその目だ。常の頃より瞳孔は開いて見え、砂漠でオアシスに出会った旅人のように何かを求めて潤んでいるのだ。そしてその視線の先は――俺の首筋。先程浅く切り裂かれ、僅かに血を滲ませている場所だった。

「はぁ、はあっ、て、店主……」
「な、何だ?」
「わ、私は少し部屋に篭もる……ふぅ、ふっ……すまないが、後は頼んだっ」
「おい、アイリス!?」

そう言うが早いか踵を返し、脱兎の如き勢いで店の中へ入って行くアイリスの背中へと声を掛けるが、一度もこちらを振り返る事はなかった。一体彼女の身に何が起こったのかは分からないが、しっかり自分の足で歩け、尚且つ剣を忘れずに持っていった辺りからして深刻な事ではない筈だ。

「ま、夕飯までに出てこなかったら様子を見にいくか」

両肩を竦め、取り敢えずアイリスの奇行は頭の脇へと押しやっておく。庭の後片付けをする前に治療をしておこうと、俺も店の中へと入っていくのだった。
12/07/15 14:27更新 / 通草
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■作者メッセージ
初めまして、通草(あけび)と申します。
この度は処女作『研ぎし剣に真心を――』第一話をお読み下さり有難う御座います。
本作は三話構成(予定)となっており、今回はエロはありませんが次は微エロが入り、三話にて本番に突入します。
これから長い目で見ていただき、ついでに感想や御指摘等を頂くと大変励みになりますので宜しければどうぞ。

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