連載小説
[TOP][目次]
第二話「 血、疼く 」
――バタンッ。

「はぁ、はっ、はあッ」

私は店主と別れた後、店内をふらつく足で駆け、階段を上り、廊下を走り、勢い良く扉を開け、そして閉めた。乱暴に開閉を行っては傷みが来てしまう事も、この客室を提供してくれた店主にも迷惑が掛かってしまう事も頭では分かっている。だが、今は何もかもが空回りしている。思考も、体調も、呼吸も、何もかも。
普段ならばぞんざいに扱う筈のない愛剣達も今は煩わしいものにしか感じられず、剣帯を強引に外し、剣と共に乱雑に壁際へと放り投げる。抗議を上げる様に金属音が響くがそちらへ目をやる余裕はなく、身体を引きずるようにしてベッドへと近付き、自らの重みに耐えかねたかの如くシーツの上へ倒れ込んだ。

「ぐ、ふぅ……んん、はああぁ」

肺腑から吐き出される息は熱く、甘い。恐らく鏡を見れば私の顔は林檎の様に紅く染め上がっている事だろう。店主もそれ故に心配していたのだろうし、世間一般から見て私の状態は所謂『風邪』と言われる病気を発症したのかと思われるだろう。だが、それは全くもって違うのだ。何故なら――

――私は、ダンピールだから、だ。

ダンピール。『魔物』のヴァンパイアと『人間』の間にごく稀に産まれる『半人半魔』の魔物。ヴァンパイアの身体能力と人間の価値観を併せ持つ、ヴァンパイアの天敵。そしてヴァンパイアの血を引いているからこそ、絶対に避けられぬ衝動が私にはある。男性の血を思うがままに啜りたいという『吸血衝動』だ。

「う、ぐうぅぅ、ふぅ、ふうっ」

胸奥で渦巻く衝動を吐き出すように、何度も何度も息を吐く。そう度々起こる事ではないとはいえ、私の身に流れる血による根源的な欲求であるから湧き上がるものは湧き上がる。その都度私は衝動を上手く抑え込み、血を吸う事なくやり過ごしてきた。
だが、今回の吸血衝動はいつになく激しいものだ。そもそも、私は血を見て衝動が掻き立てられた事は幼少期の頃からなかった。突発的に湧き上がる事はあっても、人間が美味しそうなものを見て涎を垂らすか唾を飲み込むといった風に、血を見て『血を吸いたい』など欠片も思わなかったのである。

「なの、にぃ……はぁ、はぁ、何でぇ……」

それなのに、先程の私は店主の血を見ただけで頭の中が沸騰し、目の前が真っ赤になった。剣を交わしている間は何ともなかったが、冷静になって血を見た瞬間、『店主の血を啜りたい』と心の底から思ってしまったのだ。一文字に走る傷口から小さな雫となって溢れ出し、首筋に沿って緩やかに垂れ落ちる光景から一時たりとも目が離せなかった。あの滴る紅い命の雫を舌で受け止め、その紅い軌跡を辿るように肌を舐め上げ、傷口へと接吻し、そして牙を突き立てて更に甘露を溢れさせたい。店主が暴れ抵抗するのならその四肢を押さえ付け、無理矢理にでも私が満足するまで味わいたい。
そこまで考えた所で私は我に返った。そして一刻も早く店主の前から離れなければならぬと、言葉少なにあの場から逃げ出したのだ。そう、逃げ出した。あのまま店主へと襲い掛かってしまうのではないかという危惧の中に僅かでも期待を抱いている私の思考と、私が魔物だと知られてしまう事で店主が嫌悪を露わにして刃を向けてくる恐怖から。

「店主、店主ぅ……っ!」

店主の――ソイシ・ケンジの姿が脳裏に浮かぶ。
ジパング人特有の黒い髪に黒い瞳。髪は目に掛からぬ程度に短く切られ、爽やかな印象を人に与えるものだ。身長は私よりも少し高いくらいで、男としては少し物足りない部類に入るのだろうが、何故だかその高さが一番しっくりくるのは入店当初から思っていた事だ。その身を包む衣服は大抵はインディゴの……店主が言うに『ジンベエ』とかいう衣服を纏っている。肌は適度に焼けていかにも健康的であり、襟口から覗く首筋や胸板、袖口より出る腕は筋骨隆々とまでは言えないが逞しいものだった。しかし、その逞しさに反して顔付きは穏やかで、他者に侮られはしても嫌悪を抱かれる事はまずないと言えるだろう。表情も豊かで見ていて飽きがなく、性質も優しいが厳しい所は厳しい。そして何より『研ぐ』事に関しての想いは並々ならぬものがある。いつか研いでいる時の店主の姿をこっそり覗き見た事があるのだが、その際の眼差しの真剣さは普段の店主とは一線を画すもので、私の目を惹き、心の中へ入り込んできた事を覚えている。

――ドクンッ。

「か、はあぁ……んんぅ、うあ、ァ……」

震える手でシーツへと爪を立て、そのまま鷲掴む。内から溢れ出ようとする衝動を抑える為に、他の物へと代償を求めるかの如く。背中を丸め、身体を捩じり、努めて規則的に息を吐いて沈静を試みる。しかし店主をイメージするだけで心臓は跳ね上がり、より一層の激情を滾々と湧き出させてしまう。どうしても血が、血が欲しいと己が本能が理性に訴え掛けてくる。

「あ、んむぅ、んんううぅぅ!」

眼前にあるシーツを喰い破る勢いで噛み付き、牙を立てる。無様に涎を垂らし、シーツを濡らす行為だが、これは擬似的な吸血行為でこの衝動を逸らすのが目的で、いつもならこれで大体は済んでいた。しかし、身体は『違う、これじゃない』と猛烈に反発していた。飢餓と渇きが一度に訪れた様な感覚が高まり、身体を巡る血が熱く煮え滾っているのかと錯覚する程の反応。

「んんぅ、うううぅぅ、ケン、ジぃ……っ」

その反応に怯え、自然と口から店主の――ケンジの名前を呼んだ。
瞬間、心臓がドクンと一際大きく跳ね上がり、その一回の鼓動で全身へ血を送り込んだのだと思った。そうとしか思えぬ程の感覚が、私の身体を走り抜けた。脳内で巡る想いが収束され、本能的に一つの結論へと導いていく。

――誰の血でも欲しい訳じゃない。ケンジの血が、欲しい。

そうだ、私はケンジの血だから欲しいのだ。他の男の血など欲しくない。ケンジだ。ケンジだからこそ私はここまで欲している。狂おしい程に、あの紅い甘露を欲しているのだ。あの健康的な肌へ牙を突き立て、皮膚を破り、溢れる紅い血を我が物としたい。傷口を塞ぐ最後の一舐めまで、心行くまでケンジの味を堪能したい。ケンジ、お願いだケンジ。私に、その血を。ケンジの生命の源泉を、私に。ケンジだけ、そうケンジだけだ。だから、血に染まった私の唇に接吻を、キスを。嗚呼、ケンジ、ケンジケンジ、ケンジケンジケンジケンジケンジケンジケンジケンジ――ッ!

「〜〜〜〜ッ」

感情が、暴走する。だがしかし、最後の一線だけは……今直ぐに扉を開け放ち、ケンジの元へ行き血を啜るという衝動だけは踏み止まる。それこそ全身全霊をもって、私は吸血衝動に抵抗していた。
衝動に負けて人間の血を吸ってしまうと、ダンピールの『人』の部分が『魔』に侵されてしまう。それは魔物としては何ら問題はない。しかし、私は『人』の部分を愛しているのだ。魔物が愛してやまない人間と同じ部分を、価値観を持てる事が嬉しく、愛おしくて堪らないのだ。だから、愛しい男の……ケンジの血であろうと、絶対に吸わない。

「好き、だ……っ好き、なんだぁ……」

想いを紡ぎ、口に出す事で衝動を押し殺そうとし、更にケンジの姿を夢想して、それに没頭する事で欲求をやり過ごそうとする。それに伴いシーツを掴む手はもどかしげに胸元へと這い寄り、黒い布地越しに乳房を撫で回し始めた。ケンジを想うが故に血を吸いたくないという感情と、愛するが故に吸いたいのだという衝動がぶつかり合い、流れ付いた先は快感を貪る自慰行為だった。

「んんぅ……!」

おずおずと、表面を摩るように。指にはまだ力を加えず、掌底で按摩をするかの如く軽く揉み込む。微弱に走る快感という電流に背筋が強張り、唇の間からは悩ましげな声と共に熱い吐息が洩れた。自慰は初めてではない。慣れたものだとも言えないが、経験は確かにある。その浅い経験に従って、五本の指が徐々に柔肉へと沈んでいき、乳房の形を変貌させる。しかし、足りない。これでは衝動に押し負けてしまう。私は、ケンジを無理矢理犯したくなどないのだから。いつか、恋人になって、あの手で優しくも激しく愛撫して貰いたいのだ――そう思った瞬間だった。

「はぅ、んううぅぅっ♥」

突き抜ける、快感。胸を中心に温かな感覚が広がり、それが下腹部へと降下して、頭へ向け上昇する頃には何倍にも膨れ上がっていた。ただ、ケンジを想うだけで。あの無骨だが優しい手でこの胸を愛撫されたらと想像しただけで私の身体は一気に火が点った。ただ性欲を発散させる為に行っていた自慰の時とは異なる甘い快楽に、頭の中が焼き切れそうになる。それでもケンジの姿だけは、かき消える事は万に一つもないのだと本能的に確信していた。

「ふぅ、ふぅっ、ふうッ……」

吐く息は荒く、熱い。胸を愛撫していた手は活動を一時停止している。先程もたらされた快感があまりに鮮烈で、甘美なものだったが故に。それでも私の身体は再びあの甘い感覚を得ようと理性の手綱を離れて指を動かしていく。

「あ、はあぁ……♥」

衣服越しに乳房を掴む五指の間から、柔肉が零れ落ちんばかりに食み出て来ており、視覚的にも私の理性を揺さぶり、そして快感を走らせる。同時に掌へ感じる、硬い先端の感触。少ししか弄っていないのに、己が存在を誇張するが如く布地を押し上げ、自己を主張していた。無論、快感を欲する身体がそれを見逃す筈がなく。ゆっくりと、だが確実に、指腹が蛇の様に乳房を這い進み、そして――

――キュッ。

「んううぅ〜〜〜〜ッ♥」

その淫らに硬化していた乳首を、軽く摘み上げた。跳ねる身体、洩れる甘声。左足はシーツを爪先で巻き込みながらピンと伸び、小刻みに震える。私は今、さぞ滑稽な姿をしているだろう。しかし、それがどうした。思考が纏まらない。息が、熱い。燃えるように、だが想い人を焦がす事のないサラマンダーの炎のようだ。身体が、熱い。熾火の様に芯から熱を発し、下腹部を、否、子宮を疼かせる。もっと、もっとと欲求は高まり、キュッキュッと何度も摘んでは離し、また摘んでいく。

「やっ……ぁ♥」

足りない、足りない。こんな刺激じゃ足りない。もっと、そうもっと私に触れて欲しい。布地に隔てられるのは嫌だ、直に、直に触れて欲しい。何物にも阻害されていない、素の私に触れて欲しい。

――触れて見ても、大丈夫か?

「ふぁ、はあっ」

ケンジの声が、聞こえる。私に触れても良いか、見ても良いのか聞いてくれている。私を気遣い、しかし意思の篭もった優しい声。この身体を求めてくれているのだと、求められているのだと分かり瞳が期待と欲情に潤み、頬に朱の花が咲く。吐息も欲望に彩られ、甘く熱を放っている。

――アイリスの事を、もっと知りたいんだ。

「そん、なぁっ」

私の指が、否、『ケンジの指』が私の服を捲り上げていく。焦らす様に、大切なものを扱う様に。徐々に露わになる肌に羞恥が湧き上がるも、それ以上にケンジに見て欲しいという想いが強まっていく。父や母、妹達以外の目に曝した事のない私の乳房を見て欲しい。乳房だけではない、目も、鼻も、唇も、髪も、肌も、腕も、指も、脚も、膣も、子宮も、私の身体の全てはケンジのものだと知って欲しい、見て欲しい、触って欲しい。

「あ、あぁ……♥」

衣擦れの音と共に乳房が外気へ曝される。うつ伏せの状態だからか、ベッドに挟まれていやらしく潰れていた。乳首は痛い程に勃起し、桜色だった筈がやや紅くなっている。求められ、衣服を剥かれ、ケンジの視界に肌を曝す……その行為が何とも甘美で、背筋を震わせる程に嬉しい。

「私を……んぅ、見て、くれ……ケンジぃ♥」

自然と、懇願と媚が入り混じった声が洩れる。手が、私の乳房を両掌一杯に掬い上げ、何度か弾ませる。その吟味する様な手付きが私を一から調べ上げていくかの様で嬉しく、興奮してしまう。そのまま薬指と小指で波打つ様に揉みながら、残る三本の指の先で硬く尖る突起をコリコリと弄っていく。まるで搾乳をさえるかの如きその動きに私は下唇を噛み声を抑えようとするが、直ぐに意思の力を離れて歯先は離れ、口唇を開けて淫らな悦びの声を上げてしまう。それも仕方のない事だ、ケンジが触れているのだから。今まで一人自慰して来た時と異なる、私が恋慕っている、大好きな、愛している異性の手で愛撫されているのだ。だから、仕方ない。

「もっと、はあぁ♥もっと触ってぇっ♥」

私の求めに応じてケンジの指が踊る。今までの比ではない程に荒く、乱暴に乳房を揉みしだき、乳首を爪先で引っ掻く。それは白い肌に紅い痕が残る程に強いものだったが、それがケンジの存在を身体に刻み込まれたようでこの上なく嬉しく思えた。更に片方の手は掌で肌理を確認するが如く下方へとゆっくり這い降り始め、そして下腹部の辺りに来た所で身体がビクンッと跳ねた。

「そこ、は……ぁ♥」

ケンジが撫でている、そこ。直接ではないが、確かにその下には私の子宮がある。愛しい男の、雄の子を宿す為の場所を、ケンジは愛おしげに撫で摩ってくれている。その行為にドロドロとした欲望の熱が下腹部を渦巻き、強烈な疼きと多幸感が広がっていく。そしてその事を分かっているのか、それともケンジも求めているのか、手は更に下へと降りていき、ベルトを震える指で解き、我慢出来ないとでも言う様に乱雑に太腿の半ばまでパンツを下着ごとずり降ろした。それにより露わになる臀部は掲げ上げるが如くそのいやらしい肉付きを曝し、更にそこから下へ視線を転じれば物欲しげにヒクつく秘裂が見える事だろう。そして、そこが明らかに濡れて淫靡に涎を垂らしている事も。

「ふうぅーーっ♥ふぅーーっ♥ふーーっ♥」

羞恥・期待・興奮・快感とが入り混じり、衝動に任せるままにシーツを再び噛み締める。口が塞がれた事でみっともなくも鼻腔から荒く呼吸を繰り返す。まるで獣のようだ、と頭のどこかで冷静な声が響くも、もうどうしようもない。身体はこんなにも発情して、雄を、否、ケンジを求めてしまっているのだ。その証左が私の秘めたる場所から溢れ零れる蜜だ。そう思うとケンジを受け入れなければと身体は益々開いていく。まだ一度も触られてはいないというのに。

「あ、ぁ……触って、ねぇ、触って、ぇ♥」

ケンジに触って欲しくて、本能が囁くままにいやらしく臀部を持ち上げ、左右に振る。それに応えてくれたのか、ケンジの手が太腿の内側を撫で、そして上へと這い上がっていく。その手が辿り着く行く先は容易に予想が出来て、私の期待と興奮を否応なしに高めていくが、辿り着く前に既に太腿を伝っていた蜜にも触れられてしまい、羞恥で顔が真っ赤になってしまう。ベッドに半ば顔を埋める形の私にはケンジの表情は見えないが、一体どんな表情をしているのだろうか。冷たい目で黙して嘲笑しているケンジ、嬉しそうな顔で微笑んでくれているケンジ、私と同様に羞恥の紅で顔を染め上げるケンジ、余裕のない様子で息を荒げているケンジ。どれもが有り得そうで、でも私には確認する事は――

――クチュッ。

「ふあ、くううぅぅんッ♥」

思考の途中で走る圧倒的な快感。あまりにそれが甘美過ぎ、腰がガクガクと小刻みに揺れ動く。指が、秘裂に触れたのだ。ただ一撫でした、それだけなのにこんなにも甘く、熱く、脳髄を駆け廻る。私の反応が過敏過ぎたからだろうか、今度は秘裂の周りを揉む様に、撫で摩る様に指腹をじっくり這わせていく。それがまたぞわぞわと背筋を粟立てる感覚を催し、私の口からは途切れる事なく声が洩れてしまっていた。おずおずと、だがしっかりと私に触れてくれるのが嬉しくて濡れてしまう、溢れてしまう。ケンジが気遣いながらも私を求めてくれていると分かるから、私の中の『女』がキュンッと反応する。そして秘裂ではなく、その僅かに上にある蕾へと指先は伸びていき、そっと爪先で引っ掻いた。

「あぁっ、やぁ、やああぁっ♥」

足の爪先がピンと伸びる。身体が嫌がるように捩らせる。シーツはとうの昔に皺くちゃになり、太腿の付け根辺りは卑猥な染みが広がっていた。指は引っ掻くのを止めて、今度は指腹で擽るように愛撫してくる。開く口腔、零れる唾液。視界と思考は白染み、霞掛かって来ており、私はもうただこの快楽に身を任せていく。乳房を揉む手も理性の手綱を離れ乱雑に指を動かし、好き放題に柔らかな肉を変形させ、乳首を掌で、指先で押し潰す様にしながら快楽を貪っていた。

「は、あ、ァ」

喉がヒクつき、声が途切れがちになる。呼吸もおぼつかなくなり、酸欠したかの様に口唇をぱくぱくと開閉させる。だが指の動きは止まらない、容赦なく私を追い詰めていく。最早酸欠で頭が真っ白になっているのか快感で頭が真っ白になっているのか分からなくなったその瞬間、グリッと乳首と淫核を乱暴とも言える程に指腹で押し潰した。

「は、くうぅん――んんうううぅぅぅぅぅっ♥」

弾ける閃光。そして爆発。溢れる快楽の奔流。
最後の最後で理性が欠片だけ復帰して部屋の外へ声を洩らすまいとシーツを噛み締める。身体は馬鹿みたいに何度も跳ね、ベッドを軋ませ、ギシギシと音を鳴らす。後はもう、この快楽の波が吸血衝動を共に連れ去ってくれれば良い。そう霞掛かった思考で思いながら、私はひたすらに絶頂の余韻が過ぎ去るまで快感を貪っていた。



「――私は、何をしていたのだ」

絶頂の波が止み、吸血衝動も共に消え去り、シーツを張り直し部屋着へと着替え終えた後に私へ襲い掛かったのは圧倒的な後悔と羞恥心だった。吸血衝動を和らげる為とはいえ、陽がまだ上がっている最中に、自らの身体を慰めていたのだ。魔物としては何ら問題のない事なのだが、私の中にある人間の価値観が今し方まで行っていた行為が酷く淫猥な事だと告げている。故のこの羞恥、恥ずかしさなのだが他にも恥ずかしさに拍車を掛けるものがあった。それは何かと言えば――

「な、何がけ、けけ『ケンジ』、だっ!それに、あまつさえ自分の指をケンジ――んんっ、店主の指だと妄想してシてしまうなどっ!」

途中から明らかに思考がおかしかった。正確にはあまりに強い吸血衝動に駆られた時に、思わず店主の名前を口にしてしまった辺りから。あの辺りから頭の中が店主で一杯になり、身体も吸血衝動とは別の火照りを覚え、そして自慰に夢中になった。時折やっていたものとは一線を画す快感に流され、溺れた。それ故にあの衝動を押し流す事が出来たのは幸いだった、が……。

「だからと言って、あれではイタい妄想女ではないか!」

何度も何度も額を枕へと叩き付け、恥ずかしさを紛らわせる。あの時、私の妄想は現実のものとして捉えていたのだ。店主が私の身体に触れ、興奮し、時に優しく、時に乱暴に弄ってくれているのだと本気で認識していた。イタい、イタ過ぎる。我ながら救いようがなさ過ぎていっそ喉でも掻っ切ってみようかと思ってしまう程だ。それに私は脳内で勝手に店主の言葉を捏造までして――いや、あれは確か初対面の時に言われた言葉の内にあったな、確か。それなら何の問題もないか。

「いや待て!それはそれで問題だろうっ!?あんなにも真摯な言葉を、快感を助長する為に使用したなど……ッ」

ベッドの上を頭を抱え懊悩しながらゴロゴロと左右に転がる。折角張り直したシーツが皺になろうがお構いなしだ。今はただ、自分が曝した痴態や店主の仕事への想いを淫らな方向へ使用した己への自己嫌悪に忙しいのだから。

「ああ、どんな顔をして店主と会えば良いのか……」

正直、今は顔を合わせたくない。十中八九ぎこちない対応になってしまうだろうし、顔が紅くならないとも限らない。言動も挙動不審になるかもしれず、そんな私を見て店主は体調の心配をするのだろう。常の私ならその心配りは素直に嬉しいものだが、店主を自慰のネタとして使ってしまった後では何ともいたたまれない。ではこのまま部屋で寝込んだフリをするのはどうだろうか。それなら顔を合わせる事もなく――いや、看病を買って出るだろうな。過度な干渉はしないだろうが、必要最小限の看病はしてくる筈だ。そして、私が眠っている時に何度も容体を確認しに来てはその都度細やかな世話をする、店主はそういう男だ。

「そんな男だから、私は好きになったのだったな」

私の料理を食べている時の美味しそうな顔。初めて食べる味に驚いて見せる、子供の様な顔。失敗した時に眉尻を下げた困った顔。朝起きて来た時に見せる少し惚けた様な顔。バニラエッセンスを舐めて涙目になった時の顔。研ぐべき剣を見詰める際の真剣な顔。様々な店主の顔が一気に脳裏に過り、思わず口元が綻ぶ。共に生活をする事で発見していく新たな表情、新たな面を垣間見ていく度に私の心は躍り、店主への想いを育てていった。
だからこそ、恐い。店主に嫌われる事が。店主に軽蔑される事が。店主に距離を置かれる事が。それに、私が魔物と知られてしまった時の反応も恐い。今私が居る領域は丁度反魔物領と親魔物領の境目に位置しているのだ。それ故に、店主がどちら側なのか分からない。ジパングが親魔物国家なのは知識として知っているが、店主の言動から察するにジパングの血は引いているがジパングの生まれではないようなのだ。私が魔物と知った瞬間、あの優しい眼差しから温度が消え失せ、剣先をこちらに向けるかもしれないと思うと心臓が竦み上がり、体温が急激に下がっていくかのようだ。

「う、うぅ……嫌われたく、ない」

視界が潤み、身体が震える。ならばこの地から早々に去れば良いのだろうが、店主と離れるのも嫌だ。では何も言わず、このまま想いを秘して店主と過ごし、そして剣を研ぎ終わったらそのまま部屋を片付け出て行くのか、慕情を伝える事なく。

「そうだ、それなら嫌われる事もない」

ずっと離れるのは嫌だが、年に何回かこの地へ寄り、また客室に数日泊めてさせてもらい、店主と和やかに会話を楽しんでまた旅を続けていくなら大丈夫かもしれない。そうすれば今の関係を壊す事なく、魔物と知られて嫌われる事も可能性もなく、店主と繋がってられる。そうだ、これなら何も問題ない。これなら――

「――いやだぁ、そんなのイヤだぁ」

涙が溢れる。嗚咽が漏れる。魔物の本能が人間の価値観に異議を唱える。
私はダンピール。魔物の本能を持ちながらにして人間の価値観を抱く事が出来る者。故に、好きになった男を前にして簡単に引き下がる事など出来ないのだ。確かに恐い、嫌われたくない。だが嫌われたら何だと言うのだ。その時は魔物らしく、人間の価値観をかなぐり捨てて、私の身体に溺れさせよう。不本意ではあるが、他の女に奪われるよりは余程良い。

「ん、良し。店主が剣を研ぎ終えた時に勝負を仕掛けよう」

涙を拭き、両頬を張り、頤をぐっと上げて拳を握り、決意を口にする。それと同時に、嗅覚を擽る甘い良い香りが漂い、微かに包丁を扱う音も聞こえる。外へと目を向ければもう夕陽が沈み掛かっており、夕飯時なのだなと理解する。

「成る程、体調が悪い私に代わって作っているといった所か」

その気遣いに僅かな苦い気持ちと大きな歓喜が胸へと湧き上がり、頬が仄かに熱くなるのを感じた。本当の所はどうであれ、やはり店主に心配されるのは嬉しい。それだけ私に心を傾けてくれているという事だから。感情に釣られる様にベッドから身体を勢い良く起こし、姿見の前へ立って着衣やその他諸々を整え、最後に笑顔を鏡面へ映し出してから私は軽やかな足取りで部屋を飛び出した。大好きで、愛おしくて堪らない店主の元へ。

――この時、私は気付かなかった。

――しっかりと扉を閉めていた筈なのに、僅かに隙間が出来ていた、という事に。
12/07/15 14:29更新 / 通草
戻る 次へ

■作者メッセージ
第二話をお読み下さり有難う御座います。
二週間掛けて第二話を投稿しましたが……微エロって難しいですね。
あまりに難しくて前話に比べて約半分の文量となってます、不甲斐ない限りです。
このままでは本番が書けるのかと危惧してますが、何とか頑張っていきたいと思います。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33