みんなのシスターサーシャ
「何か、やりたい事とか無いかな?」
事の発端は、ベッドの上で一人の青年が出し抜けに放ったその言葉であった。その青年の妻であり、青年を主としたハーレムに属していたサーシャ・フォルムーンは、自身に向けられたその言葉を耳にして最初大いに戸惑った。
時刻は午前三時。青年と彼の他の妻達と共に大いに愛を交わし合い、そして他の女性と同様に精根尽き果てて寝入っていた所を、当の彼に起こされてからすぐの事であった。
「あ、あの、それは一体どう言う……」
「言葉通りの意味だよ。何かやりたい……と言うか、俺にして欲しい事とか無いかな?」
「は、はい。それはわかりました。私が知りたいのは、なぜそれを私だけに言ったのか、と言う事なのですが」
他に愛する妻がいる中で自分一人が特別扱いされている事に対して大きく戸惑いを見せたサーシャを見て、青年は「ああ、やっぱりこの人は変わってないな」と穏やかな表情を浮かべて昔を思い出した。
自分の幸せよりも他人の幸せを優先し、誰に対しても別け隔てなく愛情を持って接したサーシャ。勇者であることよりも孤児院のシスターとして子供達を支えていく事を決めた心優しい女性。そして自分にとっての姉とも言える存在。
そうして大部分が風化した過去の残滓を手繰り寄せながら、青年が感謝の念を込めてサーシャの頬を優しく撫でる。その最愛の人の手の暖かな感触にうっとりと目を細めていたサーシャに、青年が手と同じくらい暖かな声色で言った。
「俺、昔からサーシャにはお世話になりっぱなしだったからさ。その恩返しって言うか、お返しがしたいんだよ」
「恩返しだなんて、そんな……。私はもう、あなたが私の想いに答えてくれただけで満足なのです。あなたが傍にいてくれる。それ以外に何も望みません」
目を瞑ったまま自身の頬に当てられた青年の手の上に自分の手を重ね、サーシャが柔らかい口調で言った。女性から――それもとびきりの美女から――そこまで想い慕われると言うのは正に男冥利に尽きる事だったが、しかしそれではこちらの気が済まないのも事実。青年はなおもサーシャに詰め寄った。
「それでも、俺はサーシャに何かしてあげたいんだよ。何か願望とか、やりたいんだけど今まで出来なかった事とか、無いのかな?」
「それは……その……」
サーシャが目を開け、頬の手はそのままに恥じらいの表情を浮かべて目を背ける。
「……はい。あります」
だが魔物化――ダークプリーストへの変化の影響は、彼女に大きな変化を齎していた。それまでのように自分を押し殺して欲望を隠そうとする事は無くなり、逆に己の欲望にとことんまで忠実になったのだ。堕落神さまさまである。
ただ、それを肯定するのに躊躇いを感じたり、その心に抱いたはしたない願望を口にする際に恥じらいの感情を持ってしまうのは彼女の『人間の名残』と言うか、ご愛嬌と言うやつである。
だがどれだけ恥じらいを感じようとも、捻った蛇口から水が吹き出し続けるのと同じように、一度心を開いたサーシャの欲望は止まる所を知らなかった。
「あります。私、あなたにやってもらいたい事が一つ、あります」
「それはなに? 言ってみて」
「はい。それは、それはですね――」
希望と欲望に蕩けた顔でサーシャが青年の耳元に顔を寄せ、ぼそぼそと何かを囁き始めた……。
「お姉ちゃーん♪」
「はーい♪」
翌日、レスカティエ王城内では信じられない光景が広がっていた。
「あのねあのね、今日鍛錬の時間にメルセと模擬戦したんだけどね、僕メルセと二分も戦ってられたんだよ!」
「まあ、すごい! この前より二十秒も長くなっているじゃないですか! 少しずつ強くなっていますね♪」
「えへへー。凄いでしょー?」
「はい♪ とても凄い事ですよ♪ なのでとっても努力しているあなたに、お姉ちゃんからご褒美あげちゃいます♪」
心身ともに成長しきった一人の青年が、まるで幼児に戻ったかの如き拙く幼い口調でサーシャに甘えていたのだ。これまで彼がサーシャに甘えてくる事は何度かあったが、今回のこれは常軌を逸していた。そしてそれだけベタベタしておきながらその瞳はなけなしの理性を保ち、サーシャの体を求めてこようとしなかったのが何より一番の驚きであった。
「はーい♪ いい子いい子♪」
「えへへ……お姉ちゃあん……♪」
「ふふっ♪ 本当にもう甘えん坊さんなんですから♪ その可愛いさはもう反則♪ 反則ですっ♪」
サーシャもサーシャで、そんな青年の変わり果てた態度を前に自身もまたデレデレな態度を取ってみせる。だが青年と同様にサーシャの顔は快楽に蕩けてはおらず、純粋な恋慕の情から来る暖かな笑みに満ちていた。
青年の頭を自身の豊満な胸の谷間に埋め両手で抱き締めるその姿は、もはや夫を愛する妻ではなくただの弟ラブなブラコンお姉ちゃんであったのだ。
そんな単なる肉欲から来る物ではない、身から溢れ出さんばかりの愛情と庇護欲によって成り立っていたその甘々な光景を前に、他の妻達はただ呆然唖然としていた。
「おい、なんだあれは」
「うわあ……」
「わたくしは夢を見ているのでしょうか? ……いた、いたたっ……夢ではないようですわね」
「おにいちゃん、あんな事もできちゃうんだ……」
だがその顔には、揃って『羨ましい』と言う感情もまた備わっていた。生身の人間がそれを見れば『気持ち悪い』と一蹴するだろうが、快楽を尊び欲望のままに生きる魔物娘にとって、その光景は決して気色悪い事では無かったのだ。
「……私だって幼馴染だもん。属性的には互角だもん。まだ負けたってわけじゃないもん」
まあ、その内のサキュバス約一名はその光景を前にヤキモチ全開となっていたのだが。
「ちょっと、これはいったいどう言う事なのよ?」
そんなダダ甘な二人の世界をあらかた鑑賞し終えた後、青年の妻の一人であるワーウルフ――プリメーラが意を決して二人に詰め寄った。
「え、どうって?」
その言葉を受け、青年とサーシャがスイッチを切り替えたように真顔になってプリメーラの方を見た。腰に手を当て、どこか不機嫌そうな顔つきで二人を見てプリメーラが返す。
「だから、あれよ。さっきまでの二人のやり取り。いつもより雰囲気が違いすぎよ。見てるこっちが恥ずかしくなって来たんだから」
「ああ……」
「その、これはですね……」
その問いかけを受けて二人が顔を向かい合わせる。そしてサーシャは青年に対して一つ頷いた後にプリメーラの方を向き、恥じらいの残る表情で言った。
「これは、私の方から頼んだんです」
「え、そうなの?」
変態な青年の方から頼み込んだと思っていたのか、プリメーラが意外そうな声を上げる。青年は心外だと叫びたかったが、事態をややこしくしたくないので黙っている事にした。
戸惑うプリメーラの近くに他の妻達も集まってくる。自身も愛情を注いでいる彼女らを前にしてサーシャが言葉を続けた。
「はい。これは前に私の方からお願いした事なのです。私にどこまでも甘えてきて欲しいと――それはもうデレデレに、情け容赦なく縋り付いてきて欲しいと」
「……それ原文ママ?」
「はい。一字一句違わずに」
「あかん。この人清楚系かと思ってたウチが間違っとった」
最初に尋ねたメルセが頬を引き攣らせ、サーシャの解答を聞いた今宵が乾いた笑みをこぼす。そんな彼女達を尻目にサーシャが不意に青年の首に手を回し、勢い良くその体を引き寄せ抱き締める。
「だ・か・ら♪ 今日一日、彼は私の弟君なのです♪ それも普通の弟じゃなくて、とーっても可愛くて、とーっても愛らしい自慢の弟君♪ うふふっ♪ ああもう可愛いっ♪ 本当に可愛いっ♪」
そう言って青年に抱きつく力を強めるサーシャの姿を見て、その場にいた全員はサーシャ・フォルムーンに対するイメージを否が応にも変更せざるを得なくなっていた。
「今までわたくしはサーシャ様の事を、何と言うか、頼れるお姉様のような方として見ていたのですが……このような一面もあったのですわね」
「まあ、人は見かけによらないって言うしな――あ、アタシらは魔物だったか」
「メルセ、それギャグで言ってる?」
「うるさいな。わんこは黙ってろ」
「わふん! アタシはワーウルフなの! わんこ言うな!」
「……それよかウィルちゃん、どしたん? さっきからずっと黙ったままやけど」
「……私だって幼馴染なんだから。お姉さんキャラには負けないんだから。そうよ絶対にそうよ幼馴染と言うキャラクターが姉代わりと言うキャラクターに負ける事は絶対にないいいえ負けてはいけないのよこれはまさに正念場負けては駄目よウィルマリナここが一番の……」
「あかん。こっちもこっちでスイッチ入ってもうた」
そして外野が騒がしくも和気藹々としたやり取りをしている中で、不意にミミルが青年を抱きしめていたサーシャの方へ音もなく近づいていく。
「……」
「……あら?」
そしてすぐ傍に立ったその気配にサーシャが気づくよりも前に。
「……おねえちゃーん!」
青年の上からサーシャに抱きついた。
「え……!?」
「えへへー、おねえちゃーん」
突然の事にサーシャはもとより、他の魔物娘たちも一様に驚きの顔を見せる。だがそんな周りの事には目もくれず、ミミルはひたすらにサーシャの柔肌に顔を埋めてとにかくべったりと甘えてくる。
「おねえちゃん♪ おねえちゃん♪」
「ちょっ、もう……ミミル? ミミルちゃん?」
と、そこでサーシャがそう言いながらミミルの小さな肩を揺すった。動きを止めてこちらを見つめてくるミミルに、サーシャが困ったような口ぶりで尋ねた。
「ミミルちゃん、いったいどうしたの?」
「え? だって、サーシャはミミルのおねえちゃんなんだよ? だからミミルが抱きついたって、全然おかしくないでしょ?」
「いえ、まったく判らないのですが。なにをどうすれば、私がミミルちゃんのお姉ちゃんになるのですか?」
「だってサーシャは、ミミルのおにいちゃんのおねえちゃんなんでしょ? それでおにいちゃんはミミルのおにいちゃんなんだから、おねえちゃんはミミルのおねえちゃんにもなるって事じゃない♪」
満面の笑みで――してやったりと言いたげな表情でミミルが返す。
おにいちゃんの、青年の独り占めはさせない。ミミルが言外にそう告げていたのは誰の目にも明らかだった。そしてそんな彼女の取った策の抜け目なさに、誰も彼も、ぐうの音も出せなかった。
「あ、ああ……」
「ね? おかしくないでしょ? だからおねえちゃん、おにいちゃんだけじゃなくてミミルにも構って♪」
「……もう、しょうがないですね」
そんなミミルの懇願に対して、サーシャはあっさりと折れた。もとより心優しい女性だ。堕落した事によって独占欲も人並み以上に強くなっていたが、それ以前に夫と同じくらいに深く愛し信頼している彼女達に牙を剥く事は、サーシャには到底出来ない相談であったのだ。
「さ、おいで」
「えへへ♪ おねえちゃん、だーいすきっ!」
困ったように笑みを浮かべながら、青年の隣に体を移して再度顔を埋めてきたミミルの頭を優しく撫でる。その姿はまさに慈母。全ての者を慈しむお姉ちゃんの中のお姉ちゃんであった。
だが彼女に対する攻撃はそれで終わりでは無かった。
「サーシャ様」
二人の子供をあやすサーシャの元に、今度はフランツィスカが立ちはだかった。その立ち姿に威圧感は無く、その体は震えていた。
「サーシャ様。一つお願いがあります」
「お願い……?」
そしてそのまま、声まで震わせてフランツィスカが口火を切った。
「サーシャ様の事を……お姉様と呼ばせてください――!」
「……」
それから数時間後。暇つぶしとして城内の様子を見に来たデルエラは、青年たちが一同に集まっていた寝室のベッドの上の光景を前にして固まった。それはもう石のように、目の前の愛する彼女達がいったい何を起しているのか、まったく理解できずに硬直した。
「……これはいったい、何が起きたのかしら?」
「え、えーとですね……」
そして辛うじて声を出したデルエラに、サーシャが困ったように頬を掻く。
彼女の夫である青年と彼女と同じくその青年の妻達に、周囲を取り囲まれるように全裸で体を密着された状態で。
全身の自由を奪われ、首から上だけ自由になった状態のままサーシャが言った。
「その、最初私が彼に優しく接していたら、ミミルちゃんがやきもちを焼いて、そのままみんなしてなし崩し的に……」
「攻撃の矛先があなたに向いたってわけね。それはご愁傷様」
「いえ、別に責められているわけではないのです。ちょっとそれも期待してたのですけど、それはまあ置いておいて……」
「あら、性的に襲われてる訳じゃないってこと?」
そこまで返して、デルエラは何者かの囁き声を聞いた。それはとても熱っぽく、それでいて甘える風にも聞こえた。
デルエラが声のする方へ視線を向ける。その目にはサーシャにひっついていた魔物娘の一人が映っていた。
「えへへ……姉さん……ねえさあん……♪」
「……」
デルエラの目線に気づく事なく、彼女の眼前でウィルマリナがサーシャの腕に抱きついて甘えていたのだ。とても幸せそうな顔で、とても幸せそうな声を出して。
「ああ……姐さん、あったかいですう……」
「姉貴の体、すっごい柔らかい……妬けちまうなあ……」
「サーシャ姉、もっと撫でて? 良い子にするから、わんこの頭、もっと撫でて?」
しかも耳を澄ませば、サーシャを取り巻いている他の者達も一様にサーシャを姉と呼び、全身全霊を傾けて甘えてきている。
「……なるほどね」
その姿を見て、納得したようにデルエラが頷く。そしてそのデルエラの導き出した答えを、サーシャが変わって静かな声で言葉に出した。
「寂しさを思い出したんですよ、きっと」
「……人間だった頃の苦い記憶は全部なくなってると思っていたのだけどね」
「体に――心の奥底に刻み込まれた記憶は、薄れる事はあっても消えてなくなる事はない。私はそう考えています。たとえ魔力や快楽を以ってしても、それは消し去る事は絶対に出来ないと」
「ふうん。そういう事もあるのかしらね」
サーシャの言葉にデルエラが感心したように頷く。だがそこまで言って、サーシャが声の調子を明るい物にして苦笑混じりに言った。
「まあ本当の所は、彼を私が『お姉ちゃんとして』独り占めしていたのが気に食わなかったからかもしれませんが」
「独り占めされるくらいなら、みんなして妹になっちゃえと。面白い事考えるわね」
そう言ってクスクス笑った後、デルエラが気付いたように言った。
「そういえば、あなたは人間だった頃に彼と姉弟みたいな関係だったのだっけ?」
「ええ。とても優しくて、とても明るくて、とても可愛い良い子でした……そしてあの時から、私は彼に恋していたのです」
「……あなたも、昔を思い出した?」
「……はい。今でこそ彼は私の愛する旦那様ですけれど、それでも彼は――私の大切な弟なのです」
そう言いながら、正面から抱きついてきていた青年の頭をそっと撫でる。そして気持ちよさそうに頬を緩ませる青年とそんな彼を柔らかい眼差しで見つめるサーシャを前にして、デルエラがため息混じりに言った。
「……ここは、私は消えた方が良さそうね」
「申し訳ありません。わざわざ来ていただいたと言うのに」
「いいのよ。他人の幸せに横から割り込むつもりは毛ほども無いから」
そう言ってデルエラが音もなく出口まで近づき、外に出てからドアノブを掴んで静かに閉める。
「あ、そうそう」
そして閉める直前、ドアと壁の隙間から顔をのぞかせて悪戯っぽい声でデルエラが言った。
「みんなの事、よろしくね。お姉ちゃん♪」
驚きで顔を赤くするサーシャを見てクスクス笑いながらデルエラがドアを閉める。そんな彼女に対してサーシャは一言言ってやりたい気分になったが、いざ言おうとした所で体に振動が走ってそちらに意識を向けざるを得なくなる。
「ん……お姉ちゃん……」
「いやだよ……おねえちゃんはなれないでよ……」
ほぼ同じタイミングで同じ事を口走った青年とミミルを見て、サーシャが思わず苦笑する。
「……もう」
もはやデルエラに対する不満はどこかに消し飛んでしまっていた。今は目の前の可愛い弟妹達をなだめるのが先だ。
「まったく、いつまでも甘えん坊なんですから。お姉ちゃん困っちゃうじゃないですか❤」
そしてそう思い口を尖らせたサーシャは、だがそれをまったく嫌とは思わずに満面の笑みを浮かべ、彼らと穏やかな一時を過ごしたのだった。
事の発端は、ベッドの上で一人の青年が出し抜けに放ったその言葉であった。その青年の妻であり、青年を主としたハーレムに属していたサーシャ・フォルムーンは、自身に向けられたその言葉を耳にして最初大いに戸惑った。
時刻は午前三時。青年と彼の他の妻達と共に大いに愛を交わし合い、そして他の女性と同様に精根尽き果てて寝入っていた所を、当の彼に起こされてからすぐの事であった。
「あ、あの、それは一体どう言う……」
「言葉通りの意味だよ。何かやりたい……と言うか、俺にして欲しい事とか無いかな?」
「は、はい。それはわかりました。私が知りたいのは、なぜそれを私だけに言ったのか、と言う事なのですが」
他に愛する妻がいる中で自分一人が特別扱いされている事に対して大きく戸惑いを見せたサーシャを見て、青年は「ああ、やっぱりこの人は変わってないな」と穏やかな表情を浮かべて昔を思い出した。
自分の幸せよりも他人の幸せを優先し、誰に対しても別け隔てなく愛情を持って接したサーシャ。勇者であることよりも孤児院のシスターとして子供達を支えていく事を決めた心優しい女性。そして自分にとっての姉とも言える存在。
そうして大部分が風化した過去の残滓を手繰り寄せながら、青年が感謝の念を込めてサーシャの頬を優しく撫でる。その最愛の人の手の暖かな感触にうっとりと目を細めていたサーシャに、青年が手と同じくらい暖かな声色で言った。
「俺、昔からサーシャにはお世話になりっぱなしだったからさ。その恩返しって言うか、お返しがしたいんだよ」
「恩返しだなんて、そんな……。私はもう、あなたが私の想いに答えてくれただけで満足なのです。あなたが傍にいてくれる。それ以外に何も望みません」
目を瞑ったまま自身の頬に当てられた青年の手の上に自分の手を重ね、サーシャが柔らかい口調で言った。女性から――それもとびきりの美女から――そこまで想い慕われると言うのは正に男冥利に尽きる事だったが、しかしそれではこちらの気が済まないのも事実。青年はなおもサーシャに詰め寄った。
「それでも、俺はサーシャに何かしてあげたいんだよ。何か願望とか、やりたいんだけど今まで出来なかった事とか、無いのかな?」
「それは……その……」
サーシャが目を開け、頬の手はそのままに恥じらいの表情を浮かべて目を背ける。
「……はい。あります」
だが魔物化――ダークプリーストへの変化の影響は、彼女に大きな変化を齎していた。それまでのように自分を押し殺して欲望を隠そうとする事は無くなり、逆に己の欲望にとことんまで忠実になったのだ。堕落神さまさまである。
ただ、それを肯定するのに躊躇いを感じたり、その心に抱いたはしたない願望を口にする際に恥じらいの感情を持ってしまうのは彼女の『人間の名残』と言うか、ご愛嬌と言うやつである。
だがどれだけ恥じらいを感じようとも、捻った蛇口から水が吹き出し続けるのと同じように、一度心を開いたサーシャの欲望は止まる所を知らなかった。
「あります。私、あなたにやってもらいたい事が一つ、あります」
「それはなに? 言ってみて」
「はい。それは、それはですね――」
希望と欲望に蕩けた顔でサーシャが青年の耳元に顔を寄せ、ぼそぼそと何かを囁き始めた……。
「お姉ちゃーん♪」
「はーい♪」
翌日、レスカティエ王城内では信じられない光景が広がっていた。
「あのねあのね、今日鍛錬の時間にメルセと模擬戦したんだけどね、僕メルセと二分も戦ってられたんだよ!」
「まあ、すごい! この前より二十秒も長くなっているじゃないですか! 少しずつ強くなっていますね♪」
「えへへー。凄いでしょー?」
「はい♪ とても凄い事ですよ♪ なのでとっても努力しているあなたに、お姉ちゃんからご褒美あげちゃいます♪」
心身ともに成長しきった一人の青年が、まるで幼児に戻ったかの如き拙く幼い口調でサーシャに甘えていたのだ。これまで彼がサーシャに甘えてくる事は何度かあったが、今回のこれは常軌を逸していた。そしてそれだけベタベタしておきながらその瞳はなけなしの理性を保ち、サーシャの体を求めてこようとしなかったのが何より一番の驚きであった。
「はーい♪ いい子いい子♪」
「えへへ……お姉ちゃあん……♪」
「ふふっ♪ 本当にもう甘えん坊さんなんですから♪ その可愛いさはもう反則♪ 反則ですっ♪」
サーシャもサーシャで、そんな青年の変わり果てた態度を前に自身もまたデレデレな態度を取ってみせる。だが青年と同様にサーシャの顔は快楽に蕩けてはおらず、純粋な恋慕の情から来る暖かな笑みに満ちていた。
青年の頭を自身の豊満な胸の谷間に埋め両手で抱き締めるその姿は、もはや夫を愛する妻ではなくただの弟ラブなブラコンお姉ちゃんであったのだ。
そんな単なる肉欲から来る物ではない、身から溢れ出さんばかりの愛情と庇護欲によって成り立っていたその甘々な光景を前に、他の妻達はただ呆然唖然としていた。
「おい、なんだあれは」
「うわあ……」
「わたくしは夢を見ているのでしょうか? ……いた、いたたっ……夢ではないようですわね」
「おにいちゃん、あんな事もできちゃうんだ……」
だがその顔には、揃って『羨ましい』と言う感情もまた備わっていた。生身の人間がそれを見れば『気持ち悪い』と一蹴するだろうが、快楽を尊び欲望のままに生きる魔物娘にとって、その光景は決して気色悪い事では無かったのだ。
「……私だって幼馴染だもん。属性的には互角だもん。まだ負けたってわけじゃないもん」
まあ、その内のサキュバス約一名はその光景を前にヤキモチ全開となっていたのだが。
「ちょっと、これはいったいどう言う事なのよ?」
そんなダダ甘な二人の世界をあらかた鑑賞し終えた後、青年の妻の一人であるワーウルフ――プリメーラが意を決して二人に詰め寄った。
「え、どうって?」
その言葉を受け、青年とサーシャがスイッチを切り替えたように真顔になってプリメーラの方を見た。腰に手を当て、どこか不機嫌そうな顔つきで二人を見てプリメーラが返す。
「だから、あれよ。さっきまでの二人のやり取り。いつもより雰囲気が違いすぎよ。見てるこっちが恥ずかしくなって来たんだから」
「ああ……」
「その、これはですね……」
その問いかけを受けて二人が顔を向かい合わせる。そしてサーシャは青年に対して一つ頷いた後にプリメーラの方を向き、恥じらいの残る表情で言った。
「これは、私の方から頼んだんです」
「え、そうなの?」
変態な青年の方から頼み込んだと思っていたのか、プリメーラが意外そうな声を上げる。青年は心外だと叫びたかったが、事態をややこしくしたくないので黙っている事にした。
戸惑うプリメーラの近くに他の妻達も集まってくる。自身も愛情を注いでいる彼女らを前にしてサーシャが言葉を続けた。
「はい。これは前に私の方からお願いした事なのです。私にどこまでも甘えてきて欲しいと――それはもうデレデレに、情け容赦なく縋り付いてきて欲しいと」
「……それ原文ママ?」
「はい。一字一句違わずに」
「あかん。この人清楚系かと思ってたウチが間違っとった」
最初に尋ねたメルセが頬を引き攣らせ、サーシャの解答を聞いた今宵が乾いた笑みをこぼす。そんな彼女達を尻目にサーシャが不意に青年の首に手を回し、勢い良くその体を引き寄せ抱き締める。
「だ・か・ら♪ 今日一日、彼は私の弟君なのです♪ それも普通の弟じゃなくて、とーっても可愛くて、とーっても愛らしい自慢の弟君♪ うふふっ♪ ああもう可愛いっ♪ 本当に可愛いっ♪」
そう言って青年に抱きつく力を強めるサーシャの姿を見て、その場にいた全員はサーシャ・フォルムーンに対するイメージを否が応にも変更せざるを得なくなっていた。
「今までわたくしはサーシャ様の事を、何と言うか、頼れるお姉様のような方として見ていたのですが……このような一面もあったのですわね」
「まあ、人は見かけによらないって言うしな――あ、アタシらは魔物だったか」
「メルセ、それギャグで言ってる?」
「うるさいな。わんこは黙ってろ」
「わふん! アタシはワーウルフなの! わんこ言うな!」
「……それよかウィルちゃん、どしたん? さっきからずっと黙ったままやけど」
「……私だって幼馴染なんだから。お姉さんキャラには負けないんだから。そうよ絶対にそうよ幼馴染と言うキャラクターが姉代わりと言うキャラクターに負ける事は絶対にないいいえ負けてはいけないのよこれはまさに正念場負けては駄目よウィルマリナここが一番の……」
「あかん。こっちもこっちでスイッチ入ってもうた」
そして外野が騒がしくも和気藹々としたやり取りをしている中で、不意にミミルが青年を抱きしめていたサーシャの方へ音もなく近づいていく。
「……」
「……あら?」
そしてすぐ傍に立ったその気配にサーシャが気づくよりも前に。
「……おねえちゃーん!」
青年の上からサーシャに抱きついた。
「え……!?」
「えへへー、おねえちゃーん」
突然の事にサーシャはもとより、他の魔物娘たちも一様に驚きの顔を見せる。だがそんな周りの事には目もくれず、ミミルはひたすらにサーシャの柔肌に顔を埋めてとにかくべったりと甘えてくる。
「おねえちゃん♪ おねえちゃん♪」
「ちょっ、もう……ミミル? ミミルちゃん?」
と、そこでサーシャがそう言いながらミミルの小さな肩を揺すった。動きを止めてこちらを見つめてくるミミルに、サーシャが困ったような口ぶりで尋ねた。
「ミミルちゃん、いったいどうしたの?」
「え? だって、サーシャはミミルのおねえちゃんなんだよ? だからミミルが抱きついたって、全然おかしくないでしょ?」
「いえ、まったく判らないのですが。なにをどうすれば、私がミミルちゃんのお姉ちゃんになるのですか?」
「だってサーシャは、ミミルのおにいちゃんのおねえちゃんなんでしょ? それでおにいちゃんはミミルのおにいちゃんなんだから、おねえちゃんはミミルのおねえちゃんにもなるって事じゃない♪」
満面の笑みで――してやったりと言いたげな表情でミミルが返す。
おにいちゃんの、青年の独り占めはさせない。ミミルが言外にそう告げていたのは誰の目にも明らかだった。そしてそんな彼女の取った策の抜け目なさに、誰も彼も、ぐうの音も出せなかった。
「あ、ああ……」
「ね? おかしくないでしょ? だからおねえちゃん、おにいちゃんだけじゃなくてミミルにも構って♪」
「……もう、しょうがないですね」
そんなミミルの懇願に対して、サーシャはあっさりと折れた。もとより心優しい女性だ。堕落した事によって独占欲も人並み以上に強くなっていたが、それ以前に夫と同じくらいに深く愛し信頼している彼女達に牙を剥く事は、サーシャには到底出来ない相談であったのだ。
「さ、おいで」
「えへへ♪ おねえちゃん、だーいすきっ!」
困ったように笑みを浮かべながら、青年の隣に体を移して再度顔を埋めてきたミミルの頭を優しく撫でる。その姿はまさに慈母。全ての者を慈しむお姉ちゃんの中のお姉ちゃんであった。
だが彼女に対する攻撃はそれで終わりでは無かった。
「サーシャ様」
二人の子供をあやすサーシャの元に、今度はフランツィスカが立ちはだかった。その立ち姿に威圧感は無く、その体は震えていた。
「サーシャ様。一つお願いがあります」
「お願い……?」
そしてそのまま、声まで震わせてフランツィスカが口火を切った。
「サーシャ様の事を……お姉様と呼ばせてください――!」
「……」
それから数時間後。暇つぶしとして城内の様子を見に来たデルエラは、青年たちが一同に集まっていた寝室のベッドの上の光景を前にして固まった。それはもう石のように、目の前の愛する彼女達がいったい何を起しているのか、まったく理解できずに硬直した。
「……これはいったい、何が起きたのかしら?」
「え、えーとですね……」
そして辛うじて声を出したデルエラに、サーシャが困ったように頬を掻く。
彼女の夫である青年と彼女と同じくその青年の妻達に、周囲を取り囲まれるように全裸で体を密着された状態で。
全身の自由を奪われ、首から上だけ自由になった状態のままサーシャが言った。
「その、最初私が彼に優しく接していたら、ミミルちゃんがやきもちを焼いて、そのままみんなしてなし崩し的に……」
「攻撃の矛先があなたに向いたってわけね。それはご愁傷様」
「いえ、別に責められているわけではないのです。ちょっとそれも期待してたのですけど、それはまあ置いておいて……」
「あら、性的に襲われてる訳じゃないってこと?」
そこまで返して、デルエラは何者かの囁き声を聞いた。それはとても熱っぽく、それでいて甘える風にも聞こえた。
デルエラが声のする方へ視線を向ける。その目にはサーシャにひっついていた魔物娘の一人が映っていた。
「えへへ……姉さん……ねえさあん……♪」
「……」
デルエラの目線に気づく事なく、彼女の眼前でウィルマリナがサーシャの腕に抱きついて甘えていたのだ。とても幸せそうな顔で、とても幸せそうな声を出して。
「ああ……姐さん、あったかいですう……」
「姉貴の体、すっごい柔らかい……妬けちまうなあ……」
「サーシャ姉、もっと撫でて? 良い子にするから、わんこの頭、もっと撫でて?」
しかも耳を澄ませば、サーシャを取り巻いている他の者達も一様にサーシャを姉と呼び、全身全霊を傾けて甘えてきている。
「……なるほどね」
その姿を見て、納得したようにデルエラが頷く。そしてそのデルエラの導き出した答えを、サーシャが変わって静かな声で言葉に出した。
「寂しさを思い出したんですよ、きっと」
「……人間だった頃の苦い記憶は全部なくなってると思っていたのだけどね」
「体に――心の奥底に刻み込まれた記憶は、薄れる事はあっても消えてなくなる事はない。私はそう考えています。たとえ魔力や快楽を以ってしても、それは消し去る事は絶対に出来ないと」
「ふうん。そういう事もあるのかしらね」
サーシャの言葉にデルエラが感心したように頷く。だがそこまで言って、サーシャが声の調子を明るい物にして苦笑混じりに言った。
「まあ本当の所は、彼を私が『お姉ちゃんとして』独り占めしていたのが気に食わなかったからかもしれませんが」
「独り占めされるくらいなら、みんなして妹になっちゃえと。面白い事考えるわね」
そう言ってクスクス笑った後、デルエラが気付いたように言った。
「そういえば、あなたは人間だった頃に彼と姉弟みたいな関係だったのだっけ?」
「ええ。とても優しくて、とても明るくて、とても可愛い良い子でした……そしてあの時から、私は彼に恋していたのです」
「……あなたも、昔を思い出した?」
「……はい。今でこそ彼は私の愛する旦那様ですけれど、それでも彼は――私の大切な弟なのです」
そう言いながら、正面から抱きついてきていた青年の頭をそっと撫でる。そして気持ちよさそうに頬を緩ませる青年とそんな彼を柔らかい眼差しで見つめるサーシャを前にして、デルエラがため息混じりに言った。
「……ここは、私は消えた方が良さそうね」
「申し訳ありません。わざわざ来ていただいたと言うのに」
「いいのよ。他人の幸せに横から割り込むつもりは毛ほども無いから」
そう言ってデルエラが音もなく出口まで近づき、外に出てからドアノブを掴んで静かに閉める。
「あ、そうそう」
そして閉める直前、ドアと壁の隙間から顔をのぞかせて悪戯っぽい声でデルエラが言った。
「みんなの事、よろしくね。お姉ちゃん♪」
驚きで顔を赤くするサーシャを見てクスクス笑いながらデルエラがドアを閉める。そんな彼女に対してサーシャは一言言ってやりたい気分になったが、いざ言おうとした所で体に振動が走ってそちらに意識を向けざるを得なくなる。
「ん……お姉ちゃん……」
「いやだよ……おねえちゃんはなれないでよ……」
ほぼ同じタイミングで同じ事を口走った青年とミミルを見て、サーシャが思わず苦笑する。
「……もう」
もはやデルエラに対する不満はどこかに消し飛んでしまっていた。今は目の前の可愛い弟妹達をなだめるのが先だ。
「まったく、いつまでも甘えん坊なんですから。お姉ちゃん困っちゃうじゃないですか❤」
そしてそう思い口を尖らせたサーシャは、だがそれをまったく嫌とは思わずに満面の笑みを浮かべ、彼らと穏やかな一時を過ごしたのだった。
12/09/03 16:34更新 / 蒲焼