第一話
その時の私は酷く疲れておりました。ええ、勿論先日の家内との破局のことです。
少しでも家族に楽をさせようと、小規模なレストランを経営。はい、君にもよく来てもらいましたね。
店はそこそこ繁盛してこれならいずれ娘を良い学校に行かせることもできるし、このままでいいと思っていたのですが――
今だから言いましょう。妻には他に男が出来ていたのです。
はい。
私も最初はどうにか説得して止めさせようとしたのですが、ええ、日に日に着飾って、化粧が濃くなって行く妻を見ていてですね、妻の笑顔が自分に向いていないことに気づいてしまったのですよ。
はあ、まあそうですね。そこで完全に冷え切ってしまった。そして自分は自分が妻の立場なら浮気をしたのだろうかと考えを巡らせたのです。
嫌ねえ、自分自身で言うのも何なのですが、結構生活が安定しているというのにわざわざ浮気をするのならこれは本気かと思ってしまって。
はい、娘もいるしこのままではいけないと思ってもいたのですが、反面、いっそのこと解放されたいとも思い始めてきていたんです。
はい。娘もその気持ちに感づいていたのか、だんだん態度が余所余所しくなって、離婚が決まったあの日にはとうとう口さえきいてもらえませんでした。
ええ、あの子には可哀想なことをしてしまいましたよ。これから幸せにやっていけていたら良いのですが――はあ、妻は再婚したと?そうですか。まあ、彼女たちに此処へお見舞いに来る気は無いのでしょうな。
はい。既に彼女たちとの縁は切れてしまったのです。後できるのはせめて遠くから幸せになるよう祈ることくらいです。
ああ、すみません。少し話が脱線してしまいましたね。はい。それで私は落ち込んでいました。すべて私のせいなのか、もう少しこうなる前にどうにか出来なかったのかとか後悔をし続けていました。
しまいには人生が嫌になって、自分が人間であることに疲れを感じていました。
そんな時に思い立ったのです。自然と触れ合おうと、はい。ネイチャーセラピーとでも言いますか、しばらく都会を離れて余り人の居ない田舎にでも行って気分を変えようと――そう思いついたのです。
ええ、それからが早かったですよ、店をしばらく閉めることにして娘の進学のために貯金していたお金を使って日本全国を廻る旅でもしようとしたのです。
ええそうです。そのお金の使い道は、無くなってしまいましたからねぇ。
はい、そして私は手始めにとI県の山にハイキングに行きましたよ。
ええ、私がこちらに戻ってきた辺りから、さほど離れていない場所ですね。
そこで自分は勇んで山登りに挑戦したわけですが、なにせこんな激しい運動はこのかた久しぶりで、恥ずかしながら数合を登った辺りでへとへとにばててしまったのですよ。
自分は息を整えながらその辺に会った切り株に座って休むことにしたのです。
はい、そんな時ですよ。ふと―そよ風が吹いたのです。ええ、普段なら涼しくなってきたなくらいにしか思いませんがね、その時の風は、なんといえぬいい香りがしたのです。
はあ、どういう香りかとも言われましても、まあその時の私は甘ったるい蜂蜜のような、スッキリしたミントのような、そんな印象を受けましたね。
そんな不思議な香りを纏った風が何処からか吹いてくるのです。
ええ、自分はこの香は何処から漂ってくるのだろうと気になりましてね。
疲労もある程度回復していたので、その風が吹いてくる方向へ、余り山道を外れないように進んで行ったのです。
そうやって進んでいってしばらくすると、道は無くなって少し急な斜面にたどり着いたのです。
はい、私も流石にこれ以上はいけないと、来た道を引き返そうとしました。
するとですねえ、またあの不思議な香りのする風が吹いてきたのですよ。
私はやめておけばいいのに、思わず崖から身を乗り出しましてね。
ええ、その時私は足を踏み外して斜面を転がることになったのです。
私は転がっている間、これからどうなるのだろうか、死んでしまうのだろうかと考える反面、どうせもうどうでもいいし楽になれるのだろうかとも思いはじめまして、転がって転がって、身体が藪に突っ込んだと感じた辺りで意識が途絶えたのです。
はい、私にとってそれが全ての始まりでした。
目が覚めると私は、山の川のほとりに居ました。
はあ、怪我は大したことはありませんでした。
少なくとも、身体のあちこちが少し痛むくらいで立って歩くのに何の支障もありませんでしたからね。
私はそのままその場に座り込んでいました。
はい、事故にあったばかりで頭がぼうっとしていたこともありますが、山で遭難したときにはその場から動かない方がいいのか、川沿いに上がるか下るかして道を探した方がいいのかと思案していましたからね。
何にせよ道を見失ってしまい救助隊を待つかどうかと悩んでいた時、川の少し下った所から、ばしゃばしゃと言う水音と、女の子の様な声が聞こえてきたのです。
ええ、私もこれ幸いと思い、その旅行者か地元の人なのか分かりませんがそこで川遊びをしているらしい少女の方へ向かっていきましたね。
近づく内に遊んでいるものはどうやら複数人だったらしく、複数の声が聞こえるようになりました。
私は遊んでいる彼女たちを驚かさないように、身を隠して少し様子を見ることにしました。
はい、私も後になっておかしな対応をしたと思ったのですが、もし変質者に間違われて逃げられたらどうしようと思ってしまいましてね、いきなり姿を現す勇気は無かったのです。
そこで――私は川遊びしているもの達の姿を確認したのです。
はい。
そこにいた者は当初思っていたように高校生くらいの少女たちでした。
少し古い型のようでしたが競泳水着の様なものも着ていましたからね。
ええ、でも私は直ぐにその少女たちのおかしな所に気づいたのです。
まず、彼女達の皮膚の色は青緑色だったのです。
はあ、何か塗料を塗ったような、そんなものでは無かったですよ。
なんといいますか、自然な感じの色合いで、逆に違和感を感じないような肌の色でした。
更に、よく見ると彼女達は背に亀の甲羅の様なものを背負っていて頭には、丸いお皿の様な物がついていましたねえ。
はい、最初は混乱していた私も、これはもしかして河童というのものでは無いのかと思いましてね、取りあえずまだ姿を現さず、彼女達を観察することにしたのです。
そうして見ていますと、彼女たちは結構急流になっている川をまるでプールで泳ぐかの様にすいすい泳いでいました。
浅瀬の方では水の掛け合いをしていましたねえ。
はあ、その少女達は美人でしたかって?はい。
それについては自信を持ってyesと言わせていただきましょう。
ええ、どの子もそれはもう可愛らしい顔立ちで、学生時代はおろか、街を歩いていてもすれ違ったことさえ無い様な美少女ばかりでございました。
特に、その中に一人だけ緑の肌に映えるような赤みがかかった髪色の娘がいましてね、その子が特に印象に残りましたよ。
はい、そうしていつの間にか彼女達に見惚れているうちに、彼女達は遊び終わったのでしょう、岸へ上がって登っていってしまいました。
私はふと我に返って、また遭難してはいけないと急いで彼女達が消えた方へ向かったのです。
そうして少し進んで行くと、はい、余り舗装はされていませんでしたが人口の道を発見したのです。
ええ、私もほっとしましたよ。
これで何にせよ人の居る場所へ行けますからね。
そうして私はその道を下りながら、ふと――ある小説のことを思い出したのですよ。
はい、君も知っているでしょう。
あの有名な文豪の書いた、河童の国へ行く話ですよ。
ええ、自分は河童を追って人里へ続く道にたどり着いたのですが、もしかしてその先にあるのはあの小説のような河童の国ではないかと考えたのです。
はあ、そして其処にあったのは河童の国だったと?いえ、その時の私の考えは当たらずとも遠からずといった所でした。
実際は私の想像を超えた世界だったのです――
しばらく山道を下っていくと、山林を抜けて野原へと出ました。
更に道をまっすぐに行くと、少し小高い丘がありましたねえ。
さて、その上から何か見えないかとその丘の頂上まで登っていったのです。
するとそこからは、町が見えたのです。
はい、私は遭難せずに良かったと安心しましたが、同時に遠くから見える町に疑問を抱いたのです。
ええ、遠目なのであまり細かいところは分かりませんでしたが、どうもその町はコンクリートとアスファルトが支配するような、そんな現代のものではなく、まるで歴史の教科書に出てくる江戸時代の町並みのようでした。
私は、言いようともしれぬ不安に包まれましたが、どうやらちゃんと人が住んでいるらしいその町に背に腹は代えられぬと行くことにしました。
そうしてまた道をしばらく歩き、町の入り口にさしかかった辺りでした。
日は傾き、もうすぐ夕焼けになりそうな時間帯でしたね。
「お前は何処から来た。止まれ」と女性の声が聞こえたのです。
更にばさばさと鳥が翼を羽ばたかせるような、音がします。
私はその声と音が聞こえた方へ振り返ると、思わず腰を抜かしてしまいました。
ええ、そこにいたのはまたモデルかと思ってしまう程の美人でした。
はい、君の言うとおり、彼女もまた普通の人間では無かったのです。
その女の四肢には人間の様な手足ではなく、カラスの様な黒い翼が腕の代わりに、鳥の様な鋭いかぎ爪を持った足が生えていたのです。
そうして驚いて腰を抜かした私を見てその女性は
「悪意は感じられぬが…この辺りでお前のような者を見かけた事がない。万が一ということもあるし、町長のもとへ連れていくぞ」と言って。
なにごとか、呪文のようなことを呟くと、なんと驚くべきことに腰を抜かしていた私の身体が私の意思とは関係なく、すっと立ち上がったのです。
はい、それだけでも驚いたのですが、そのまま私の身体は私自身で動かせなくなり、町の方へ向かう彼女の後を追う様に歩いて行ったのです。
はい。
私はそうしてその女性についていく形で町の中に入ったのです。
さっきから驚いてばかりだった私ですが、町の光景に更に驚きました。
ええ、その女性の存在で君も予想は付いていたと思いますが河童どころの話では無かったのですよ。
町の中に入ると、人間にそっくりですが、何か決定的に――人間とは違う特徴のある者。
そういう者が大勢いましたよ。
先ほど見かけたような河童、まるで桃太郎に出てくる鬼の様に赤い体色や青い体色で角を生やした者、蜘蛛の足と胴体の上に人間の上半身が生えた者、蜥蜴の様な尻尾を生やしている者、下半身が蛇の胴体の様になっている者、猫の耳と尻尾を生やした者、ゼリーか何かが人の形になった様な者。
ええ、まるでハロウィンパーティか、コスプレイヤーの集会かと見紛うばかりの光景でしたよ。
しかもその住人の大半は美人な女性ばかりだったのです。
呆れてしまいましたか?
はあ、人間はいなかったかと?いえ、奇天烈な姿をした女性達の陰に隠れるように印象は薄かったのですが、我々と同じ普通の人間も確かにいました。
ですが、そちらも見かけるのは男性が多く、その時点ではまるで人間の女性はその異形の美女たちに成り代わられてしまったかの如く見かけませんでしたね。
そんなこんなで、私と黒い翼の女性は町の中心部にある市役所と思しき建物の前に到着いたしました。
はい、その建物は町の他の建物同様、木造で出来ていて、まるで古い日本の学校の様でしたよ。
黒い翼の女性は
「これからこの町の長(おさ)にお前を合わせる。神通力で縛ってあるが、失礼の無い様にするのだぞ。」と言われ建物の中へ一緒に入りました。
そうして建物の中を進むとここの職員と思われる、身なりの良い服装の男に遭遇しました。
黒い翼の女性はその男に
「ちょうどよい所に会ったな。タマグシは居るか」とおそらく町長の名前を言って尋ねました。
その男は
「妻は、いえ町長はただ今執務室で仕事中です。フウラさん一体何の御用なのです?それに後ろの方は――」といぶかしげに質問を返しました。
ええ、そこで初めて知ったのですがどうやらこの町の町長は女性の様でして、私が出会った職員はその夫だったのですよ。
黒い翼の女性改めフウラと言う名前の女性は
「町の入り口の所でこの男を捕まえたのだ、まさかとは思うが教団の手の者かもしれないし直ぐに仕事を終わらせて我々に会う様連絡を頼む」と言いました。
「分かりました。直ぐに町長に伝えてきますので、この先の応接室でお待ちください」と職員の男は言って廊下の奥へ行ってしまいました。
そういうわけで、テーブルとやけにふかふかした椅子が用意された応接室で待っている間、自分は驚きの余り口もきけなかったのですが漸く落ち着いて隣に座っているフウラさんに質問をしてみることにしました。
「ここは――一体どこなのです。」と。
フウラさんは面倒くさそうに
「ここはこの町の役所だ。見ての通りだがな。」と返しました。
自分は――いえ、違います。そういうことでは無いのです。この町は日本の何処にある場所なのです?と質問しました。
「なにを言っている?日本、だと。確かにこのジパングは古来からまたの名を日の本とも言うが――」とフウラさんが言った辺りで、応接室の扉が開きました。
――其処には、まるでこの世のものと思えないほどの美人が立っておりました。
はい、陳腐な表現でしか語ることはできませんが、先ほどの町にいた美女達よりも数段上に感じる、近寄りがたいような、直視するのも恐れ多いような、それほどの美貌の持ち主でした。
はい。
ここまで聞いてきて分かると思いますがその方もやはり、人間ではありませんでした。
その女性の頭には黒味がかった銀色の毛に覆われた狐の耳の様な物が生えていましたね。
そして腰からは同じ毛色をした尻尾が六、七本生えているのが見えましたよ。
彼女は私達の向かい側に座り
「はじめまして。私はこの町の町長を務めさせて頂いております、稲荷のタマグシと申します。」と丁重に挨拶をしてきました。
ええ、私もまだ奇妙なことに巻き込まれたことへの混乱、更に町長のタマグシさんに気圧されていたことも会ってなんとか名乗りと挨拶を返したのですが、中々しどろもどろな感じになってしまっていたのを記憶していますよ。
「見たところ、身体が疲労しているようですし、怪我もしているみたいですね。余り長い話はしない方が良いでしょう。さて、本題に入りますが――貴方は何処からどうしてこの町に来たのですか?」とタマグシさんは尋ねていらっしゃいました。
その際目を合わせた私は、まるで身体が見えない力に射竦められたようになってしまい、はい。
結局の所、とても緊張していたのですが、不思議とこの町に来た経歴は今君に話しているように――すらすらと話すことができましたねえ。
私が話し終えると聞いていたタマグシさんとフウラさんは何やら神妙な顔をしておりました。
私は何事かと思っているとタマグシさんの表情が和らぎ、
「ふむ。嘘を付いている訳では無いのでしょう。貴方の服装や持っている品の存在も考えれば、ええ、どうやら話せば長い話になってしまいそうですね。今の状態で説明をしてもろくに頭に入らないでしょう。幸いこの建物の医務室は空いています。貴方には一晩休んでもらって、話の続きはその後にしましょう。」と言いました。
はい、いくら疲れているとは言え、ろくな説明も無しに泊まっていけと言われても困惑してしまいます。
町長さんにもう少し話は聞けないのかと言ってみたのですが横からフウラさんに「タマグシが良いと言っているなら泊まっておけ。どうせ行くあても無いのであろう」と言ってきました。
ええ、一体ここが何処だか分からないと言うのは本当でしたからねえ。
結局右も左も分からないと言うのが現状であり、私もしょうがないと思いその事を承諾しました。
タマグシさんは「それでは貴方の今後のことは明日此処の説明と一緒に相談しましょう。医務室へは職員が案内します。フウラさん、この人をわざわざここまで連れてきてくれてありがとうございました。家で家族も待っているでしょう。もうお帰り頂いていいですよ。」と言って部屋を出ていかれました。
フウラさんも
「話も終わったようだし、お前も危険ではないから私もタマグシの言う通り、もうお暇するとしよう。」
と言って部屋を出て行ってしまいました。
はあ、そうですね。彼女が部屋を出て行ったと同時に言うことを聞かなかった私の身体も正常に動くようになっていましたよ。
そして少しすると部屋に、腰から尻尾を生やし、手首から羽毛の様な物が生えた、まるで大正時代の女給の様な服装をした女性が入ってきてこの役所の医務室まで案内してくれました。
医務室には、医者か看護師と思しき白い髪に黒い毛の耳、更に黒い毛に覆われた手というまるでパンダを彷彿とさせる女性がいました。
彼女は初対面だというのに気の抜けた砕けた口調で―あっちの世界からやってきたって本当?―お兄さん普通の人間なんだね。とかいう話をしながら手当をしてくれました。
はい、正直な話、疲れている上によくわからない単語が話の節々に交じっていましたからねえ、私は生返事で返していましたよ。
傷の手当が終わると、「じゃあお休みなさい。」と女性は出ていき、私も用意された寝間着に着替えて医務室のベッドで横になることにしました。
そこのベッドはですねえ、なんと、どんな材質を使っているのか、とても良いさわり心地でした。
はい、失礼なようですが、私が今寝ているこの病院のベッドなど比べ物になりません。
まるで私が今まで寝ていた寝床が寝床は無い様に感じてしまいましたよ。
おかげで疲れもあってか直ぐにうとうとしてきましてね、ふと部屋の窓の外を見ると、もう夜だったので暗くて細部が分かりませんでしたが、中庭の様になっていて、そこを光りの玉が宙を舞っていたのですよ。
ええ、私も最初は蛍かと思ったのですがそれにしては大きすぎましたね。
はい、後に聞いた所によるとそれは蛍では無い様で。
はあ、それがなんなのかは、また後で話しましょう。
そんな美しい光景を見ながら、私はああ、これは夢なのだなと思ってしまいましてね、たぶん起きたら現実に戻るのだなと思いながら私はそのまま眠りについてしまいました。
少しでも家族に楽をさせようと、小規模なレストランを経営。はい、君にもよく来てもらいましたね。
店はそこそこ繁盛してこれならいずれ娘を良い学校に行かせることもできるし、このままでいいと思っていたのですが――
今だから言いましょう。妻には他に男が出来ていたのです。
はい。
私も最初はどうにか説得して止めさせようとしたのですが、ええ、日に日に着飾って、化粧が濃くなって行く妻を見ていてですね、妻の笑顔が自分に向いていないことに気づいてしまったのですよ。
はあ、まあそうですね。そこで完全に冷え切ってしまった。そして自分は自分が妻の立場なら浮気をしたのだろうかと考えを巡らせたのです。
嫌ねえ、自分自身で言うのも何なのですが、結構生活が安定しているというのにわざわざ浮気をするのならこれは本気かと思ってしまって。
はい、娘もいるしこのままではいけないと思ってもいたのですが、反面、いっそのこと解放されたいとも思い始めてきていたんです。
はい。娘もその気持ちに感づいていたのか、だんだん態度が余所余所しくなって、離婚が決まったあの日にはとうとう口さえきいてもらえませんでした。
ええ、あの子には可哀想なことをしてしまいましたよ。これから幸せにやっていけていたら良いのですが――はあ、妻は再婚したと?そうですか。まあ、彼女たちに此処へお見舞いに来る気は無いのでしょうな。
はい。既に彼女たちとの縁は切れてしまったのです。後できるのはせめて遠くから幸せになるよう祈ることくらいです。
ああ、すみません。少し話が脱線してしまいましたね。はい。それで私は落ち込んでいました。すべて私のせいなのか、もう少しこうなる前にどうにか出来なかったのかとか後悔をし続けていました。
しまいには人生が嫌になって、自分が人間であることに疲れを感じていました。
そんな時に思い立ったのです。自然と触れ合おうと、はい。ネイチャーセラピーとでも言いますか、しばらく都会を離れて余り人の居ない田舎にでも行って気分を変えようと――そう思いついたのです。
ええ、それからが早かったですよ、店をしばらく閉めることにして娘の進学のために貯金していたお金を使って日本全国を廻る旅でもしようとしたのです。
ええそうです。そのお金の使い道は、無くなってしまいましたからねぇ。
はい、そして私は手始めにとI県の山にハイキングに行きましたよ。
ええ、私がこちらに戻ってきた辺りから、さほど離れていない場所ですね。
そこで自分は勇んで山登りに挑戦したわけですが、なにせこんな激しい運動はこのかた久しぶりで、恥ずかしながら数合を登った辺りでへとへとにばててしまったのですよ。
自分は息を整えながらその辺に会った切り株に座って休むことにしたのです。
はい、そんな時ですよ。ふと―そよ風が吹いたのです。ええ、普段なら涼しくなってきたなくらいにしか思いませんがね、その時の風は、なんといえぬいい香りがしたのです。
はあ、どういう香りかとも言われましても、まあその時の私は甘ったるい蜂蜜のような、スッキリしたミントのような、そんな印象を受けましたね。
そんな不思議な香りを纏った風が何処からか吹いてくるのです。
ええ、自分はこの香は何処から漂ってくるのだろうと気になりましてね。
疲労もある程度回復していたので、その風が吹いてくる方向へ、余り山道を外れないように進んで行ったのです。
そうやって進んでいってしばらくすると、道は無くなって少し急な斜面にたどり着いたのです。
はい、私も流石にこれ以上はいけないと、来た道を引き返そうとしました。
するとですねえ、またあの不思議な香りのする風が吹いてきたのですよ。
私はやめておけばいいのに、思わず崖から身を乗り出しましてね。
ええ、その時私は足を踏み外して斜面を転がることになったのです。
私は転がっている間、これからどうなるのだろうか、死んでしまうのだろうかと考える反面、どうせもうどうでもいいし楽になれるのだろうかとも思いはじめまして、転がって転がって、身体が藪に突っ込んだと感じた辺りで意識が途絶えたのです。
はい、私にとってそれが全ての始まりでした。
目が覚めると私は、山の川のほとりに居ました。
はあ、怪我は大したことはありませんでした。
少なくとも、身体のあちこちが少し痛むくらいで立って歩くのに何の支障もありませんでしたからね。
私はそのままその場に座り込んでいました。
はい、事故にあったばかりで頭がぼうっとしていたこともありますが、山で遭難したときにはその場から動かない方がいいのか、川沿いに上がるか下るかして道を探した方がいいのかと思案していましたからね。
何にせよ道を見失ってしまい救助隊を待つかどうかと悩んでいた時、川の少し下った所から、ばしゃばしゃと言う水音と、女の子の様な声が聞こえてきたのです。
ええ、私もこれ幸いと思い、その旅行者か地元の人なのか分かりませんがそこで川遊びをしているらしい少女の方へ向かっていきましたね。
近づく内に遊んでいるものはどうやら複数人だったらしく、複数の声が聞こえるようになりました。
私は遊んでいる彼女たちを驚かさないように、身を隠して少し様子を見ることにしました。
はい、私も後になっておかしな対応をしたと思ったのですが、もし変質者に間違われて逃げられたらどうしようと思ってしまいましてね、いきなり姿を現す勇気は無かったのです。
そこで――私は川遊びしているもの達の姿を確認したのです。
はい。
そこにいた者は当初思っていたように高校生くらいの少女たちでした。
少し古い型のようでしたが競泳水着の様なものも着ていましたからね。
ええ、でも私は直ぐにその少女たちのおかしな所に気づいたのです。
まず、彼女達の皮膚の色は青緑色だったのです。
はあ、何か塗料を塗ったような、そんなものでは無かったですよ。
なんといいますか、自然な感じの色合いで、逆に違和感を感じないような肌の色でした。
更に、よく見ると彼女達は背に亀の甲羅の様なものを背負っていて頭には、丸いお皿の様な物がついていましたねえ。
はい、最初は混乱していた私も、これはもしかして河童というのものでは無いのかと思いましてね、取りあえずまだ姿を現さず、彼女達を観察することにしたのです。
そうして見ていますと、彼女たちは結構急流になっている川をまるでプールで泳ぐかの様にすいすい泳いでいました。
浅瀬の方では水の掛け合いをしていましたねえ。
はあ、その少女達は美人でしたかって?はい。
それについては自信を持ってyesと言わせていただきましょう。
ええ、どの子もそれはもう可愛らしい顔立ちで、学生時代はおろか、街を歩いていてもすれ違ったことさえ無い様な美少女ばかりでございました。
特に、その中に一人だけ緑の肌に映えるような赤みがかかった髪色の娘がいましてね、その子が特に印象に残りましたよ。
はい、そうしていつの間にか彼女達に見惚れているうちに、彼女達は遊び終わったのでしょう、岸へ上がって登っていってしまいました。
私はふと我に返って、また遭難してはいけないと急いで彼女達が消えた方へ向かったのです。
そうして少し進んで行くと、はい、余り舗装はされていませんでしたが人口の道を発見したのです。
ええ、私もほっとしましたよ。
これで何にせよ人の居る場所へ行けますからね。
そうして私はその道を下りながら、ふと――ある小説のことを思い出したのですよ。
はい、君も知っているでしょう。
あの有名な文豪の書いた、河童の国へ行く話ですよ。
ええ、自分は河童を追って人里へ続く道にたどり着いたのですが、もしかしてその先にあるのはあの小説のような河童の国ではないかと考えたのです。
はあ、そして其処にあったのは河童の国だったと?いえ、その時の私の考えは当たらずとも遠からずといった所でした。
実際は私の想像を超えた世界だったのです――
しばらく山道を下っていくと、山林を抜けて野原へと出ました。
更に道をまっすぐに行くと、少し小高い丘がありましたねえ。
さて、その上から何か見えないかとその丘の頂上まで登っていったのです。
するとそこからは、町が見えたのです。
はい、私は遭難せずに良かったと安心しましたが、同時に遠くから見える町に疑問を抱いたのです。
ええ、遠目なのであまり細かいところは分かりませんでしたが、どうもその町はコンクリートとアスファルトが支配するような、そんな現代のものではなく、まるで歴史の教科書に出てくる江戸時代の町並みのようでした。
私は、言いようともしれぬ不安に包まれましたが、どうやらちゃんと人が住んでいるらしいその町に背に腹は代えられぬと行くことにしました。
そうしてまた道をしばらく歩き、町の入り口にさしかかった辺りでした。
日は傾き、もうすぐ夕焼けになりそうな時間帯でしたね。
「お前は何処から来た。止まれ」と女性の声が聞こえたのです。
更にばさばさと鳥が翼を羽ばたかせるような、音がします。
私はその声と音が聞こえた方へ振り返ると、思わず腰を抜かしてしまいました。
ええ、そこにいたのはまたモデルかと思ってしまう程の美人でした。
はい、君の言うとおり、彼女もまた普通の人間では無かったのです。
その女の四肢には人間の様な手足ではなく、カラスの様な黒い翼が腕の代わりに、鳥の様な鋭いかぎ爪を持った足が生えていたのです。
そうして驚いて腰を抜かした私を見てその女性は
「悪意は感じられぬが…この辺りでお前のような者を見かけた事がない。万が一ということもあるし、町長のもとへ連れていくぞ」と言って。
なにごとか、呪文のようなことを呟くと、なんと驚くべきことに腰を抜かしていた私の身体が私の意思とは関係なく、すっと立ち上がったのです。
はい、それだけでも驚いたのですが、そのまま私の身体は私自身で動かせなくなり、町の方へ向かう彼女の後を追う様に歩いて行ったのです。
はい。
私はそうしてその女性についていく形で町の中に入ったのです。
さっきから驚いてばかりだった私ですが、町の光景に更に驚きました。
ええ、その女性の存在で君も予想は付いていたと思いますが河童どころの話では無かったのですよ。
町の中に入ると、人間にそっくりですが、何か決定的に――人間とは違う特徴のある者。
そういう者が大勢いましたよ。
先ほど見かけたような河童、まるで桃太郎に出てくる鬼の様に赤い体色や青い体色で角を生やした者、蜘蛛の足と胴体の上に人間の上半身が生えた者、蜥蜴の様な尻尾を生やしている者、下半身が蛇の胴体の様になっている者、猫の耳と尻尾を生やした者、ゼリーか何かが人の形になった様な者。
ええ、まるでハロウィンパーティか、コスプレイヤーの集会かと見紛うばかりの光景でしたよ。
しかもその住人の大半は美人な女性ばかりだったのです。
呆れてしまいましたか?
はあ、人間はいなかったかと?いえ、奇天烈な姿をした女性達の陰に隠れるように印象は薄かったのですが、我々と同じ普通の人間も確かにいました。
ですが、そちらも見かけるのは男性が多く、その時点ではまるで人間の女性はその異形の美女たちに成り代わられてしまったかの如く見かけませんでしたね。
そんなこんなで、私と黒い翼の女性は町の中心部にある市役所と思しき建物の前に到着いたしました。
はい、その建物は町の他の建物同様、木造で出来ていて、まるで古い日本の学校の様でしたよ。
黒い翼の女性は
「これからこの町の長(おさ)にお前を合わせる。神通力で縛ってあるが、失礼の無い様にするのだぞ。」と言われ建物の中へ一緒に入りました。
そうして建物の中を進むとここの職員と思われる、身なりの良い服装の男に遭遇しました。
黒い翼の女性はその男に
「ちょうどよい所に会ったな。タマグシは居るか」とおそらく町長の名前を言って尋ねました。
その男は
「妻は、いえ町長はただ今執務室で仕事中です。フウラさん一体何の御用なのです?それに後ろの方は――」といぶかしげに質問を返しました。
ええ、そこで初めて知ったのですがどうやらこの町の町長は女性の様でして、私が出会った職員はその夫だったのですよ。
黒い翼の女性改めフウラと言う名前の女性は
「町の入り口の所でこの男を捕まえたのだ、まさかとは思うが教団の手の者かもしれないし直ぐに仕事を終わらせて我々に会う様連絡を頼む」と言いました。
「分かりました。直ぐに町長に伝えてきますので、この先の応接室でお待ちください」と職員の男は言って廊下の奥へ行ってしまいました。
そういうわけで、テーブルとやけにふかふかした椅子が用意された応接室で待っている間、自分は驚きの余り口もきけなかったのですが漸く落ち着いて隣に座っているフウラさんに質問をしてみることにしました。
「ここは――一体どこなのです。」と。
フウラさんは面倒くさそうに
「ここはこの町の役所だ。見ての通りだがな。」と返しました。
自分は――いえ、違います。そういうことでは無いのです。この町は日本の何処にある場所なのです?と質問しました。
「なにを言っている?日本、だと。確かにこのジパングは古来からまたの名を日の本とも言うが――」とフウラさんが言った辺りで、応接室の扉が開きました。
――其処には、まるでこの世のものと思えないほどの美人が立っておりました。
はい、陳腐な表現でしか語ることはできませんが、先ほどの町にいた美女達よりも数段上に感じる、近寄りがたいような、直視するのも恐れ多いような、それほどの美貌の持ち主でした。
はい。
ここまで聞いてきて分かると思いますがその方もやはり、人間ではありませんでした。
その女性の頭には黒味がかった銀色の毛に覆われた狐の耳の様な物が生えていましたね。
そして腰からは同じ毛色をした尻尾が六、七本生えているのが見えましたよ。
彼女は私達の向かい側に座り
「はじめまして。私はこの町の町長を務めさせて頂いております、稲荷のタマグシと申します。」と丁重に挨拶をしてきました。
ええ、私もまだ奇妙なことに巻き込まれたことへの混乱、更に町長のタマグシさんに気圧されていたことも会ってなんとか名乗りと挨拶を返したのですが、中々しどろもどろな感じになってしまっていたのを記憶していますよ。
「見たところ、身体が疲労しているようですし、怪我もしているみたいですね。余り長い話はしない方が良いでしょう。さて、本題に入りますが――貴方は何処からどうしてこの町に来たのですか?」とタマグシさんは尋ねていらっしゃいました。
その際目を合わせた私は、まるで身体が見えない力に射竦められたようになってしまい、はい。
結局の所、とても緊張していたのですが、不思議とこの町に来た経歴は今君に話しているように――すらすらと話すことができましたねえ。
私が話し終えると聞いていたタマグシさんとフウラさんは何やら神妙な顔をしておりました。
私は何事かと思っているとタマグシさんの表情が和らぎ、
「ふむ。嘘を付いている訳では無いのでしょう。貴方の服装や持っている品の存在も考えれば、ええ、どうやら話せば長い話になってしまいそうですね。今の状態で説明をしてもろくに頭に入らないでしょう。幸いこの建物の医務室は空いています。貴方には一晩休んでもらって、話の続きはその後にしましょう。」と言いました。
はい、いくら疲れているとは言え、ろくな説明も無しに泊まっていけと言われても困惑してしまいます。
町長さんにもう少し話は聞けないのかと言ってみたのですが横からフウラさんに「タマグシが良いと言っているなら泊まっておけ。どうせ行くあても無いのであろう」と言ってきました。
ええ、一体ここが何処だか分からないと言うのは本当でしたからねえ。
結局右も左も分からないと言うのが現状であり、私もしょうがないと思いその事を承諾しました。
タマグシさんは「それでは貴方の今後のことは明日此処の説明と一緒に相談しましょう。医務室へは職員が案内します。フウラさん、この人をわざわざここまで連れてきてくれてありがとうございました。家で家族も待っているでしょう。もうお帰り頂いていいですよ。」と言って部屋を出ていかれました。
フウラさんも
「話も終わったようだし、お前も危険ではないから私もタマグシの言う通り、もうお暇するとしよう。」
と言って部屋を出て行ってしまいました。
はあ、そうですね。彼女が部屋を出て行ったと同時に言うことを聞かなかった私の身体も正常に動くようになっていましたよ。
そして少しすると部屋に、腰から尻尾を生やし、手首から羽毛の様な物が生えた、まるで大正時代の女給の様な服装をした女性が入ってきてこの役所の医務室まで案内してくれました。
医務室には、医者か看護師と思しき白い髪に黒い毛の耳、更に黒い毛に覆われた手というまるでパンダを彷彿とさせる女性がいました。
彼女は初対面だというのに気の抜けた砕けた口調で―あっちの世界からやってきたって本当?―お兄さん普通の人間なんだね。とかいう話をしながら手当をしてくれました。
はい、正直な話、疲れている上によくわからない単語が話の節々に交じっていましたからねえ、私は生返事で返していましたよ。
傷の手当が終わると、「じゃあお休みなさい。」と女性は出ていき、私も用意された寝間着に着替えて医務室のベッドで横になることにしました。
そこのベッドはですねえ、なんと、どんな材質を使っているのか、とても良いさわり心地でした。
はい、失礼なようですが、私が今寝ているこの病院のベッドなど比べ物になりません。
まるで私が今まで寝ていた寝床が寝床は無い様に感じてしまいましたよ。
おかげで疲れもあってか直ぐにうとうとしてきましてね、ふと部屋の窓の外を見ると、もう夜だったので暗くて細部が分かりませんでしたが、中庭の様になっていて、そこを光りの玉が宙を舞っていたのですよ。
ええ、私も最初は蛍かと思ったのですがそれにしては大きすぎましたね。
はい、後に聞いた所によるとそれは蛍では無い様で。
はあ、それがなんなのかは、また後で話しましょう。
そんな美しい光景を見ながら、私はああ、これは夢なのだなと思ってしまいましてね、たぶん起きたら現実に戻るのだなと思いながら私はそのまま眠りについてしまいました。
16/07/19 21:47更新 / MADNAG
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