お隣さんの白い鳥
幸せを感じるのは白い鳥を見た時だ。青空をバックに白い鳥が飛ぶ様は、俺に平和な時代を実感させた。
それにあえて付け加えるとすれば、冬の日の肌に沁み入るような澄んだ空気とゆっくりと登る煙だろう。
「タバコは身体に悪いよ」
バルコニーに出た俺に、澄んだ声が投げかけられる。見ると、ひょっこりと隣室の住人が顔を壁の向こうから出していた。
「や、おはようございます。なにぶんやっぱり癖でして」
白い髪に白い肌、ふわふわした印象を受ける彼女はオウルメイジの内守さんだ。
「10分」
「はい?」
内守さんは俺の目をじっと見て責めるように言った。「タバコ一本で、少なくとも10分寿命が減る」
あはは、と俺は気まずくなって頭を掻いた。内守さんはたびたびこうして俺の減ってしまった寿命に言及してくるのだ。
「でも、インキュバスになれば戻るらしいですし……」
内守さんはジト目のまま言った。「その相手がいるの?」
無言の俺たちに、冬の冷たい空気がすっと沁み込んだ。
「取らぬ狸の皮算用」
「うっ」
内守さんはクスリと笑った。
「まだ学生だし、多少の無理はきくと思うけど。前にも言ったけど、運動能力の低下。これはサラリーマンになるとヤバいよ」
内守さんは急に語彙力を下げてそのヤバさを表現した。内守さんはOLをしていて、気ままな大学生活を謳歌する俺に定期的に釘を刺してくるのだ。
「でも、前は社会人になっても特に変わらないって言ってたじゃないですか」
内守さんはふうとため息をついた。「それは青春とか、恋愛とか、心の話」
俺はまた頭を掻く羽目になったのだった。
「今日学校は?」
「水曜日なんでないです。バイトだけ」
内守さんがついと目を逸らした。「ふうん、楽でいいね。じゃ、私行くから。タバコ吸い過ぎたらダメだよ」
「はい、行ってらっしゃい」
音もなく飛び立つ内守さん。ちらりとこちらを振り向いて「行ってきます」というと、白いコートの彼女はそのまま飛んでいってしまった。
青い空に、白い鳥。
今日も平和な一日となるだろう。
俺はうんと頷いて伸びをし、バイト先のコンビニに向かうべく部屋に戻ったのだった。
そしてその日の夜。
「そのタバコはやめなさい」
うちのベランダは壁が後付けで柵よりも手前にあるので、軽く身を乗り出すと隣が見えるのだ。そうして頭だけを出した内守さんはいつになく鋭い目つきをしていた。
夜の暗闇に黄色い目がちらりと光る。「誰に貰ったの?」
「えっ。バイト先で、バイト仲間に。ちょっと相談事をしたらこれを吸えって」
俺はたじろいで言った。
「ふうん」内守さんは俺を睨みつけたまま言う。「君、狙われてるよ」
俺は驚いて思わずタバコを取り落としそうになった。
「どういうことですか」
内守さんはつうっと目を逸らすと、再び俺と目を合わせて言った。
「ちょっとややこしい話になるから、そっち上がっていい? うちでもいいけど、ちょっと散らかってるから」
「うえっ!?」俺はちらりとガラス越しの部屋を見た。怪しいものは無いはず。無いはずだ。「いいですけど」
「じゃ、ちょっとごめんね」
ふわっと浮き上がった内守さんが俺の目の前に着地する。俺より少し背の高い内守さんは、何度か鼻をひくひくと動かすと、俺の顔を見下ろして言った。「ほら、火、消して」
「あ、はい」
言われるがままに火を消すと、内守さんは何度か羽ばたいて風を起こして空気を変えた。
「じゃあ、失礼します」
そうして部屋に入って、幸いお茶がまだあったことに感謝して一息。
テーブル越しの内守さんは言った。
「君のタバコから、魔物娘のフェロモン……というか、蜜の匂いがしたんだ」
「蜜? それってあの、花の?」
内守さんは言いにくそうにして、それでも顔を赤くして言った。
「えっと、その。私たちにとって蜜は、あー、ある種の体液というか? うん。ある意味では花の」
その様子で察した俺はとても内守さんの顔を見ていられなくて俯いた。なんちゅうもんを寄越したんだあのバカ。
「それって男性に自分の匂いをつける行為で、まあ、自分のものだとアピールする意味があってね?」
恥ずかしさに俯くばかりの俺。
同じく恥ずかしさに耐えられなかったのか、内守さんは細い黒じまのある翼をわさわさと忙しなく動かした。ふわん、と女性らしい匂いが広がって俺の恥ずかしさが深まった。
「えーっと。そのバイト仲間って女の子?」
「はい、まあ、そうです」
「じゃあやっぱり、そういう意味だったんじゃないかな」
「えっ、いや。そういうわけじゃ」
内守さんは俺と目を合わせると真面目な顔をして、強い口調で言った。
「そういうことなの、私たち魔物娘にとってはね。それが一番大事で、自分のものだって示しておかないとすぐに取られるんだから」
「はい……」
ばふばふと怒ったように白い翼がテーブルを叩く。ふわりと舞った白い羽が俺の鼻をくすぐった。どこか甘い匂いがした。
「まあ、そういうことだから」内守さんは翼で器用にタバコの箱を持ち上げて言った。「これ貰っていい? ちょっと久々にタバコ吸いたい気分なの」
これに驚いたのは俺である。「内守さん、タバコ吸ってたんですか?」
「大学生の時に、ちょっとね」
「あんなに言ってたのに」
「その時に調べたから知ってたの。ま、魔物娘には全然影響ないんだけどね」
タバコを仕舞った内守さんが立ち上がり、ベランダに出る。
「そういうことだから、ちゃんと気をつけないと大変なことになるよ」
俺はコクコクと頷いて言った。「わかりました。気をつけます」
その様子に満足そうに微笑んで「じゃあ、おやすみ」と言った内守さんは隣室へと帰っていった。
「おやすみなさい」
俺は少しの間ぼんやりと星空を眺めて、ベランダへのガラス戸をそっと閉めたのだった。
それにあえて付け加えるとすれば、冬の日の肌に沁み入るような澄んだ空気とゆっくりと登る煙だろう。
「タバコは身体に悪いよ」
バルコニーに出た俺に、澄んだ声が投げかけられる。見ると、ひょっこりと隣室の住人が顔を壁の向こうから出していた。
「や、おはようございます。なにぶんやっぱり癖でして」
白い髪に白い肌、ふわふわした印象を受ける彼女はオウルメイジの内守さんだ。
「10分」
「はい?」
内守さんは俺の目をじっと見て責めるように言った。「タバコ一本で、少なくとも10分寿命が減る」
あはは、と俺は気まずくなって頭を掻いた。内守さんはたびたびこうして俺の減ってしまった寿命に言及してくるのだ。
「でも、インキュバスになれば戻るらしいですし……」
内守さんはジト目のまま言った。「その相手がいるの?」
無言の俺たちに、冬の冷たい空気がすっと沁み込んだ。
「取らぬ狸の皮算用」
「うっ」
内守さんはクスリと笑った。
「まだ学生だし、多少の無理はきくと思うけど。前にも言ったけど、運動能力の低下。これはサラリーマンになるとヤバいよ」
内守さんは急に語彙力を下げてそのヤバさを表現した。内守さんはOLをしていて、気ままな大学生活を謳歌する俺に定期的に釘を刺してくるのだ。
「でも、前は社会人になっても特に変わらないって言ってたじゃないですか」
内守さんはふうとため息をついた。「それは青春とか、恋愛とか、心の話」
俺はまた頭を掻く羽目になったのだった。
「今日学校は?」
「水曜日なんでないです。バイトだけ」
内守さんがついと目を逸らした。「ふうん、楽でいいね。じゃ、私行くから。タバコ吸い過ぎたらダメだよ」
「はい、行ってらっしゃい」
音もなく飛び立つ内守さん。ちらりとこちらを振り向いて「行ってきます」というと、白いコートの彼女はそのまま飛んでいってしまった。
青い空に、白い鳥。
今日も平和な一日となるだろう。
俺はうんと頷いて伸びをし、バイト先のコンビニに向かうべく部屋に戻ったのだった。
そしてその日の夜。
「そのタバコはやめなさい」
うちのベランダは壁が後付けで柵よりも手前にあるので、軽く身を乗り出すと隣が見えるのだ。そうして頭だけを出した内守さんはいつになく鋭い目つきをしていた。
夜の暗闇に黄色い目がちらりと光る。「誰に貰ったの?」
「えっ。バイト先で、バイト仲間に。ちょっと相談事をしたらこれを吸えって」
俺はたじろいで言った。
「ふうん」内守さんは俺を睨みつけたまま言う。「君、狙われてるよ」
俺は驚いて思わずタバコを取り落としそうになった。
「どういうことですか」
内守さんはつうっと目を逸らすと、再び俺と目を合わせて言った。
「ちょっとややこしい話になるから、そっち上がっていい? うちでもいいけど、ちょっと散らかってるから」
「うえっ!?」俺はちらりとガラス越しの部屋を見た。怪しいものは無いはず。無いはずだ。「いいですけど」
「じゃ、ちょっとごめんね」
ふわっと浮き上がった内守さんが俺の目の前に着地する。俺より少し背の高い内守さんは、何度か鼻をひくひくと動かすと、俺の顔を見下ろして言った。「ほら、火、消して」
「あ、はい」
言われるがままに火を消すと、内守さんは何度か羽ばたいて風を起こして空気を変えた。
「じゃあ、失礼します」
そうして部屋に入って、幸いお茶がまだあったことに感謝して一息。
テーブル越しの内守さんは言った。
「君のタバコから、魔物娘のフェロモン……というか、蜜の匂いがしたんだ」
「蜜? それってあの、花の?」
内守さんは言いにくそうにして、それでも顔を赤くして言った。
「えっと、その。私たちにとって蜜は、あー、ある種の体液というか? うん。ある意味では花の」
その様子で察した俺はとても内守さんの顔を見ていられなくて俯いた。なんちゅうもんを寄越したんだあのバカ。
「それって男性に自分の匂いをつける行為で、まあ、自分のものだとアピールする意味があってね?」
恥ずかしさに俯くばかりの俺。
同じく恥ずかしさに耐えられなかったのか、内守さんは細い黒じまのある翼をわさわさと忙しなく動かした。ふわん、と女性らしい匂いが広がって俺の恥ずかしさが深まった。
「えーっと。そのバイト仲間って女の子?」
「はい、まあ、そうです」
「じゃあやっぱり、そういう意味だったんじゃないかな」
「えっ、いや。そういうわけじゃ」
内守さんは俺と目を合わせると真面目な顔をして、強い口調で言った。
「そういうことなの、私たち魔物娘にとってはね。それが一番大事で、自分のものだって示しておかないとすぐに取られるんだから」
「はい……」
ばふばふと怒ったように白い翼がテーブルを叩く。ふわりと舞った白い羽が俺の鼻をくすぐった。どこか甘い匂いがした。
「まあ、そういうことだから」内守さんは翼で器用にタバコの箱を持ち上げて言った。「これ貰っていい? ちょっと久々にタバコ吸いたい気分なの」
これに驚いたのは俺である。「内守さん、タバコ吸ってたんですか?」
「大学生の時に、ちょっとね」
「あんなに言ってたのに」
「その時に調べたから知ってたの。ま、魔物娘には全然影響ないんだけどね」
タバコを仕舞った内守さんが立ち上がり、ベランダに出る。
「そういうことだから、ちゃんと気をつけないと大変なことになるよ」
俺はコクコクと頷いて言った。「わかりました。気をつけます」
その様子に満足そうに微笑んで「じゃあ、おやすみ」と言った内守さんは隣室へと帰っていった。
「おやすみなさい」
俺は少しの間ぼんやりと星空を眺めて、ベランダへのガラス戸をそっと閉めたのだった。
19/07/27 14:27更新 / けむり
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