おうち
言われるがままに部屋に通された礼慈は、広い部屋に圧倒されて落ち着きなくあちこち見回した。
通されたのは応接室のようだった。重厚な構えの机にソファーが並んでいて、なんとも緊張する。
リリはサキュバスだろう娘に連れられてどこかに行ってしまったため今は礼慈一人きりだ。
「わざわざケーキまで持ってきていただいて、ありがとうございます」
「家の店で作ってるものです。お口に合えば幸いです」
「あら、ではお店のことも後で教えてくださいね」
ネハシュは長いソファーに蛇体を横たえて礼慈に正対した。
「“お兄さま”。あの子の遊び相手になってくれてありがとうございます」
「いえ、俺は大したことはしていません。……それと、できればお兄さまはなしの方向でお願いします」
「あらそう? では――礼慈君、謙遜することはありませんよ。お友達とうまくいかなくなってしまっているあの子にとっては遊び相手になってくれる人が居てくれるというだけで助けになるのですから」
「だったら嬉しいです」
「もっと胸を張っていいんですよ? あなたと出会ったおかげであの子の表情が明るくなりました。それはもう劇的に。少し妬けてしまいますけどね。あの子ったらあなたとの秘密を守るために私の探知魔術を弾いたのですから」
「え?」
初耳である。
礼慈の反応が面白かったのか、ネハシュは「うふふ」と笑い、
「末の娘というのもあって少し過保護になっているので、どこに居るのか居場所が常に分かるように魔法をかけているのです。
それが、今日夕方頃にスーパーの近くの公園で姿を感知してからまた公園で姿を捕捉するまでの間、私の探知から消えてしまっていたのです。きっと、礼慈君。あなたとの約束を完璧に守ろうとしたのですね」
「そうだったんですか……リリは魔法を使っているようには見えなかったんですけど」
「きっと無意識の内にそうしていたんですね」
「……そんなことできるんですか?」
魔法も学問として練り上げられている技術だ。そんな簡単にそのようなことが行えるのかと疑問すると、
「私の娘ですから」
コメントに困る答えが返ってきた。
「さて、リリが友人たちとうまくいっていないということですが、それについては教頭ちゃまに教えてもらっただけで、あの子に相談されてはいません。ので、私はそれを知らないことになっています」
「はあ……」
「ふふ、私たちのヒミツですね」
そう言ってネハシュはいたずらっぽく笑う。
その笑みにリリの面影を感じて同時に魔物の魅力を痛感する。
「礼慈君。あなたはリリが友達とうまくいかなくなっている理由についてはご存知ですか?」
「いえ、リリが自然と話すまではこちらからは問い詰めない方がいいと思ってましたので」
「なるほど。聞けば聞くほどあの子は窮地に佳い出会いを得ることができたようですね」
ネハシュは笑みを深くして、それから表情をフラットなものに変えた。
「その理由というのは、実のところ、あの子自身は正確な所は理解できないのです。そして、私はそれを話すことができます。
どうします? 聞きますか?」
リリでは自分が友達とうまくやれなくなってしまった理由を理解できない。なぜそうなるのか、礼慈には分からなかった。
性格的に欠点があり、その点に無自覚なせいで友人とうまくいかなくなっているということならば話は分かるが、あの子にかぎってそんなことは断じて無い。
やはり種族特性――記憶の喪失によるものなのだろうか。
「いろいろと考えてみましたが、そうですね。ここで正確な所が分かるのなら、それが一番あの子のためにもなります」
「そのようにしてくれるのなら、私としても助かりますね」
一息置いて、ネハシュは問う。
「あの子の種族についてはどの程度の知識がありますか?」
「アリスという、魔物の中でも珍しいサキュバスの突然変異で、幼いまま、性的な体験に関する記憶を喪失する。といったところでしょうか」
「ああ、基本は押さえてくれているのですね。話が早くて助かります」
礼慈はこの時珍しく会長に本気で感謝した。
「そう、あの子はアリス種です。
個体差がある所ですが、彼女たちは性に関する体験をまっさらに保とうとするのです。そして……リリは検閲される記憶の範囲が性に関する知識全般にまで及んでいます」
「知識全般……?」
ちょっとイメージが掴めない。礼慈がいまいち飲み込めていないことを悟ったのか、ネハシュは噛み砕いてくれた。
「リリは自身の性的な体験だけではなく、本や会話から得られる性的な知識全般の記憶を喪ってしまうのです」
「それは……」
魔物にしてみれば大変なことだろう。
ただ、それが何故これまで問題がなかった友人との関係がうまくいかなくなることに繋がるのか分からない。
「礼慈君はいつからエッチな本を読んだり、お友達とエッチなお話をするようになりましたか?」
突然の質問に思わず「はい?!」と声が漏れる。が、必要なことなのだろうと受け止め真剣に考えてみる。 転校した頃から人間だけの学校とは明らかに違う雰囲気の魔物たちと過ごす内に気が付けばそういう話をするようになっていた。という程度の記憶があるくらいで、正確なところは思い出せない。
(小等部の高学年になる頃には辞書的な意味で言葉は知り始めて……)
と考えたところではっとした。
「まさか……」
「皆、お年頃になったのでしょう。猥談で記憶が抜けるようになってしまったのです」
頬に手を当てて複雑そうなため息をつくネハシュを前に、礼慈は唸っていた。
性に関する記憶全般が喪失の対象になるのなら、たしかに猥談でも記憶が失われるだろう。だが、これでは――
(普通の人間だけのコミュニティーでも支障が出そうだ)
「リリは自分の記憶の連続性がおかしいということには気付いているようですが、記憶を失うその原因が喪失してしまうので対処方法が分からないのですね。ただ、皆とお話をしている時にそれは起こるとだけを経験から理解する。
それで、皆と距離を置くようになってしまいました。ですけれど皆、突然態度が変わってしまったリリを気にかけてくれていたんですね。お話に積極的にさそったりしてくれて。それも残念ながら逆効果だったようです。そうやって溜め込んでいった記憶喪失の不安や、それに対してなすすべがない恐れから、昨日リリは感情を爆発させてしまったようです」
「今日は友達たちも何事もなかったかのように普通に仲良く過ごしてくれていたようなのですが、リリは前よりも頑なに距離を取るようになってしまったみたいです。教頭ちゃまにはそれとなく注意しておいてくれるようにお願いしているのですけど、このままではそう遠くない内にリリの学園生活は破綻してしまいます」
「猥談をやめさせるというのはだめなのですか?」
「魔物(わたしたち)ですもの。あなた方とのお付き合いに対する興味は尽きません。そこに蓋をしたところで問題が先送りになるだけです」
無理に原因を抑え込んで表面を取り繕ったところで、抑え込んでいるネハシュの力が及ばなくなれば問題は再熱する。彼女はそれを良しとしないのだろう。
「記憶の忘却を防ぐ魔法か何かはないんですか?」
「あの子の体質に効く魔法は、少なくともこの世界には存在しません。どうにかしようとするのならば、魔王様の第三王女――彼の方が創りし異界、不思議の国に招かれるしかないでしょう」
「魔王の娘……どうにかコンタクトはとれないんですか?」
「気まぐれな方です。運に身を委ねるしかないですね。
それでもアリスたちを放っておく方でもありません。いずれ、あの子は招かれることでしょう」
公園でリリが言っていた、いつか行く不思議の国とはその第三王女の国のことだったのだろう。
「その運に恵まれるまでの時を魔界よりもあの子の体質に合っているこちらの世界で過ごすつもりだったのですが……うまくいきませんね。猥談でもだめ、というのは正直なところ予想外でした」
ネハシュが困ったように息をつく。
「大人になっていく周囲に対して子供であり続ける。アリスとはそういう種族なのです。その中でもリリは同族平均で見ても無垢であろうとする傾向が強いのではないかと思います。
魔物の間で特性が悪く出るのならば人の学び舎に転校する。というのも考えてはみたのですが、そちらでも猥談くらいは皆しているでしょうし、魔物に慣れていない環境ではこちらで許容されていた記憶がつながらないがゆえにリリが取る行動はたやすく共同体からの追放を招くでしょう。
守結学園に残っても、転校しても、魔界に戻っても、あの子には悲しい思いをさせてしまいます。学園というコミュニティーに参加していた分、今の状況は魔界に居続けた場合よりも悪いのかもしれません。
なので、あの子の様子がおかしくなって、それがアリスの体質ゆえだと分かった時。私は折を見てその体質についてリリに説明しようと考えていたのです。その上で、あの子にこちらの世界に留まるのか、それとも魔界のダンジョンで“その時”が来るまで他者と関わりを持たないようにして待つのか、選んでもらおうとしていました。
そして昨日。いよいよリリが耐えきれなくなってしまったと連絡があって、私が話をしようと決めたまさにその時なのです。礼慈君、君が現れたのは」
ネハシュは相好を崩し、
「貴方は見守ることしかできなかった私たちが目を瞠るほど鮮やかに、あの子の笑顔を取り戻してくれました」
「そんなに褒められるようなことはしてません。偶然そこに居て、事情を知らないからあの子に無遠慮に踏み込めて、それがたまたまあの子に効いただけです」
「その偶然を女の子は運命と呼ぶのですよ。
礼慈君、君と過ごして記憶の喪失があったはずの今でも、あの子はあんなにも楽しそうです。この意味は、きっと人間にとっても私たちにとっても変わらず尊いことであると信じています」
そう言ってネハシュは笑みを深くする。
彼女の語り口から、リリと性的な接触があったことはバレているのだろうと礼慈は悟っていた。こちらから持ち出す前にその件を告げられると礼慈としてはどんな顔をして話せばいのか分からなくなる。
だが分かりきっていても自分の口から話さないわけにはいかない。さてどう切り出したものかと考え込んでいると、
「これでも私は数ある魔物たちの中でも強い方です。その分感覚も研ぎ澄まされています。君からのお電話で伝えたいことがあると言われてもいましたし、何より娘のことですからね。分かってしまうものですよ」
助け舟を出されてしまった。
心に白旗を上げながら、礼慈は白状する。
「こちらから切り出すべきだと思ったのですが、こういう形で話をさせてもらうことになってしまったことを謝罪します。
俺は、リリと性的な接触を行いました」
礼慈は秘密基地であったことを丁寧に説明した。
「半ば正気ではない状態で体の関係をもったこと、それにリリの年齢と種族としての特性的にそのような形になってしまったことに責任を感じています。リリにも俺の家に居る間にどんなことがあったのかを説明はしたんですが」
「性的な知識になりますから、きっと覚えてはいませんね」
「そうですか……」
思えば、話を聞いていた時のリリはどこか様子がおかしかった。誠意を見せた気になって一人満足していた自分が恥ずかしくなる。
「まあ顔を上げてください。あの子をそれだけ大事に思ってくれているということだけで十分ですよ。それに、こうしてエキドナの構えるダンジョンまで足を運んでくれたということは、まだあの子と関わってくれるということなんでしょう?」
「責任を、あの子の事情に踏み込んだ分は取ろうと思っています」
「あら、じゃあお婿さんになってくださるのかしら?」
「リリが望んでくれるのなら、ですけど」
言うと、ネハシュが笑った。
「うふふふふ――あら、失礼。先程からお話を聞いていて、やっぱり可愛いなあと思ってしまって。そして、真面目な方ですね。そんな礼慈君には一つ教えてさしあげましょう」
身を乗り出したネハシュは耳元で囁いた。
「あの子は正真正銘。君が初めてのお相手です。あの子がそれがいいと思った。正気じゃなかったという状況は関係ありません。だってあの子、私の探知から逃れるためにかかなり魔力を使った様子で、それでも精をもらい続けるよりもあなたとの交流を大事にしたのだもの。――あの子がただ精を求めて動いていたのなら、貴方はきっと今ここには来れていないわ。だって、あの子は私の娘ですもの。それはもう一晩は繋がったまま離れないわ」
「なんと返したらいいものか……」
近い顔に体を強張らせながら応じると、ネハシュは身を離し、
「あの子に好いている誰かがいないことがはっきりしたと喜んで貰えれば幸いですね」
「ああ、そこは安心しました。俺があの子の恋路を捻じ曲げてしまったんじゃないかと思うと気が気じゃなかったので」
「お顔通り、素直でお優しい方ですね」
「こんな凶相に言うもんじゃないですよ」
(しかし、魔力を消費か……)
そう言われてみれば、鏡花もリリが一時的に魔力欠乏状態にあると言っていた。
秘密基地にあった魔力灯や水のフィルター装置。それにおそらくはあの不可思議な動きをした本もだろうか、それらがリリの魔力を燃料にしていたとすると、かなり魔力を発散していたことになる。
あの本。それに魔力の欠乏によってリリは精を求めて本能で礼慈を誘ったのだろう。
いろいろと腑に落ちた。と礼慈が一人で納得していると、ネハシュが問いかけてきた。
「これからもあの子と仲良くしてもらえますか?」
「それは、間違いなく」
(……あの子に俺が必要ではなくなるまでは)
迷い無く告げたのがよかったのか、ネハシュはほっとした顔で頷く。
「ネハシュさん、まだリリには体質のことを説明していないんですよね?」
「そうです。まだ、貴方のことを見極めていたので。それが成った今、あの子に説明する機は熟したと考えます。性的なものという概念を理解することができない子に全てを理解してもらうことは不可能ですが、お話はしてみるつもりです」
ネハシュはいたずらっぽく笑み、
「礼慈君は、記憶がなくなっても確かなものはあるのだと分かるようにリリの体に刻み込んであげてくださいね」
礼慈はむせた。
「了承ということでよろしいですね」
「いや、体でって……」
「んふふ、これで両親公認ですから。遠慮しないでください」
そう言ってネハシュは指を鳴らした。
と、天井と部屋のドアが突然開き、天井からは男が落ちてきて、ドアからは何人かの人影が流れ込んできた。
いきなりのことにソファーから飛び上がった礼慈の目の前に、天井からもう一つ影が下りて来る。
それはぴっちりした黒い装束に身を包んだ少女で、口元を隠した布のせいか、忍者のようにも見えた。
(クノイチか?)
THE・忍者という出で立ちは、新聞部で諜報係をしている生徒と似ている。
身のこなしの軽さからまず間違いないだろうと、驚きの余韻を引きずりながらも当たりをつけていると、推定クノイチが机の上に落下した男に声をかけた。
「父上! 大丈夫でござるか?!」
時代劇に影響受けまくっていそうなこの口調はもはや確定だ。
父上と呼ばれた男がクノイチに助け起こされる。
体をさすっているが動きによどみがない辺り、意外に大丈夫そうだ。
ドアの方では折り重なるようにサキュバス、アラクネ、サンダーバード、それに人間の女性が倒れていた。
唖然としていると、ネハシュが申し訳なさそうに、それでいて、どこか楽しそうに言った。
「まあお座りになって。
紹介しますね。皆、私の旦那様と娘たちです。――許してね? 皆リリのことが大切なんです」
その言に押されるように、サキュバスの手が挙がった。
「はい! アナタお名前はレイジ君でよかったわよね? それで、レイジ君はこれまで何人くらいの女の子とお付き合いしたことがあるのかしら?」
「ンー? それなら一人も居ないんじゃないの? 魔物のニオイもしないし」
サンダーバードが羽をばたつかせて言うとサキュバスが「いえ!」と応じる。
「見なさいこのワイルド系顔立ち。人間女子にも受けがいいに違いないわ! だとしたらお付き合いくらいはしたことあるはず!」
どう? と目を向けられる。レイジは「あ……いや」と掌を立て、
「これまでそういう機会に恵まれたことはありませんでした。それに、この顔は人間にはどちらかと言うと受けが悪いですよ? つい昨日もリリの友達の女の子に怖がられてしまいましたし」
アラクネの女性が脚の一本でサキュバスの肩を小突いた。
「姉さん。もっと慎重にならないといけないじゃない。皆が皆姉さんと同じ趣味をしているわけじゃないのよ」
「ウンウン――でも、ワタシもレイジ君、好みかなぁー」
そう言ってサンダーバードがずいずい近付いてくる。
「ネエネエ! レイジ君はどんなコが好み?」
丈が短く肌の露出が多い服にパチパチと放電が付いてくる。衣服の裾とダメージ加工部分が放電で踊るようにゆらめいて、視線がそっちに誘導されそうになる。が、その前にヒレがサンダーバードの頭をピシャリと打った。
みると、人間だと思っていた女性の肌が青くなっており、脚の片方がヒレになって高く掲げられていた。サンダーバードを打ったのはそのヒレのようだ。
「姉さん落ち着いて。それにその質問の答えなら決まっているのでは?」
肌の色はそのままに、脚を人間のものに戻すと青い肌の彼女は頭を下げた。
「盗み聞きの無礼をお許しください。私はリリの下から二番目の姉でネレイスのレージュ。ようこそ我らの屋敷へ。
――それで、海の中での生活に興味はありますか?」
「まあ待って。まずは一夫多妻について抵抗があるかどうかを確認した方が良いんじゃなくて?」
アラクネが言い、それから「あ」と呟いて自らを示した。
「私はルイ。あの子の衣服は私が作らせてもらってるわ。どう? かわいいでしょ?」
はい、と答える間もなく、サンダーバードのテルジュとサキュバスのジェーンが名乗る。それに礼慈がぎこちなく応え終わるのを待って、ネハシュが手を叩いた。
「はいはいそこまで。礼慈君が驚いてしまいますよ。皆離れて」
言われた通りに魔物たちは引いて、ネハシュの脇に並んだ。
リリのことが大切とは? という視線を向ける礼慈に頷きかけて、ネハシュは手を左右に広げる。
「そちらのクノイチのチヨと今リリの相手をしてもらっているスライムのスイを含めて、こちらの世界に来ている私の娘たちです。
皆旦那様募集中なので、良い人が居たら紹介してくださいね」
そのまま流していくつもりらしいネハシュにどこか会長に近いものを感じて、強い魔物とはつまりこういうものなのだなと理解する。
ネハシュはそして、とチヨに介抱されている男性を示した。
「そちらの元盗賊さんが、私の旦那様のラザロスです」
「ほ、ほら父上! 母上に紹介されているでござるよ」
チヨの言葉にラザロスがゆっくりと息を吸って吐く。
天井から落ちた際に打った部分をさすっていた手を腰にあてがって立ち上がると、彼は口を開いた。
「オウオウオウ! この元盗賊のラザロス様から娘をかっさらおうとはいい度胸してんじゃねえか? アン
?」
アゴを上げて目を剥き、見下ろしてくる彼にネハシュが慈愛の視線で言う。
「あらあら、ダンジョン内至高の宝であった私を手に入れておいて娘たちも手放したくないというのですね。強欲なんですから」
ラザロスの剣幕とネハシュのノロケに圧倒されている礼慈の横へレージュが滑るように、というよりも泳ぐようにやってきて耳打ちした。
「いつもの流れだから、気にしないで」
見ると、他の姉妹たちも呆れた様子で「はいはい」と肩をすくめている。
「そうそう。大姉様が居ればまだお父様を止めてくれるんだけどね。お母様はお父様に甘いから」
「強欲なんじゃねえ。俺はお前たちを大事に思ってるんだZE」
大仰なポーズ付きで妻へと返しているラザロスを眺めながら「チヨ姉様もお父様大好きだからこうなるとあんまり役にたってくれないしねえ」とルイがぼやく。
たしかに、他の娘たちが呆れている中、一人だけチヨが父に向ける視線には陶酔の色があった。
「娘がダンナ連れてくるたんびにこれってのは疲れちゃうヨねー」
テルジュの言葉に他の姉妹が一斉に頷く。
と、話を聞きつつも返答に窮している礼慈にラザロスが詰め寄って来た。
「ちょっと天井で話を聞いてりゃあお前、リリのヴァージン奪ってるっつー話じゃねえか。やってくれるなァおい」
「流石の盗賊さんも娘のヴァージンは逆に盗まれてしまいましたね」
「これで、十二人目」
「つまり十二連敗よお父様」
「くおおおおおおっ!」
奇声を上げながら転がるラザロスにチヨが「わ、私の処女は父上のものですのでっ」とアピールしている。
「ありがとうなぁ……でも、お前らの身体はお前らのものだからな? 使うのはお前ら自身の考えで、だぞ?」
「ああもう。腕はいいのに相変わらず旦那様は賊に向いていない方ですね。素敵です」
むくりと起き上がったラザロスにネハシュとチヨは感極まっている。彼は手を挙げて応え、それから礼慈に肉迫した。
「さて、おめェにはまあ、いろいろと言っておかなきゃなんねえよなぁ!」
「……」
礼慈は眼前で叫ばれた言葉に固まり、近くに迫った目に射すくめられた。それでも視線を逸らさずにいると、不意にラザロスの目元の険が消える。
鼻から長い息を吐いた彼は身を引くと頭をかいて、
「まあ、アレだ。つい、こう脅すみてえなこと言ったけどよ、別にそこまでがっちがちになるくれぇにいじめたかったワケじゃねえのよ」
「えー、お父様その顔でそんなこと言われたらそりゃ緊張シチャウよー。指の一本でも詰める……? みたいな? そんなこと言いそうだモン」
「せっかく来てくれたのに。それにリリを助けてくれたのにこれは私もひどいと思う」
テルジュが翼で指し、レージュがヒレで床を叩いて不満を訴えると、ラザロスは唸った。
(そんな固くなってたか……?)
そう言われてみれば、天井落ちの衝撃であんまり気にしていなかったが、ラザロスの顔はなかなかのスカーフェイスだ。少なくとも、カタギの人間には見えない。
ラザロスが咄嗟に引いて娘たちが非難しだすほどには参っていたということだろう。
「何というか、すみません」
「オゥ気にすんな。俺だってな、いろいろと事情は分かってんだ。だからオメエを邪険にするつもりなんて欠片もねえよ。それに、家にやってきてわざわざお宅の娘さんとヤりました宣言までしてくれちゃうようなバカは俺も嫌いじゃねえ」
「いや、俺はそんなつもりは……」
「ここまできてそうはいかねえなぁ大将。
それと、オメエさん、酒もヤれるクチだな?」
隠しておこうと思ったことを言い当てられて礼慈は息を詰める。
「まあそう焦んなよ。こっちの世界の常識はあんまり知らねえけど、たしかまだオメエは飲んじゃいけねえ歳なんだろ?
それはそれで俺っち好みでいいと思うぜ」
人懐っこく言うラザロスにルイが口を挟む。
「リリを迎えに行くようにお母様から連絡を受けた時に調べたんだけれど、レイジ君のお家はバッカス様の信徒の経営するカフェ・バー。バッカス様の信徒であるレイジ君がお酒を飲むのはこの国の法でも問題ないはずよ」
「何? そうなのか? サバト民じゃねえのか?」
「えーと、はい。まあ、サバト所属ではないです。それと、すみません。俺自身はバッカスの信徒というわけでもないです……」
「なんだぁオメエ、真面目系なのかそうでないのかよっく分かんねえなぁ……まあ、いいや。ヤれるんなら今度一緒に飲もうぜ。最近誰も相手してくれなくてよ」
ラザロスの誘いに何と返したものかと考えていると、バンッ、と大きな音を立てて部屋の扉が開かれ、小柄な影が飛び込んできた。
彼女は部屋に飛び込んできた勢いのままに礼慈の膝に体当たりする。
「――っと、リリ?」
膝に飛び込んで来たリリは首を巡らせてラザロスをきっ、と睨み付けた。
「お父さま、レイジお兄さまにひどいことしないで。そんなお父様はきらいです」
動作一つ一つが可愛らしくてたまらないが、その言葉で場が凍った。
誰かの漏らす「あ」という声を合図にしたようにラザロスがゆっくりとソファーに寝そべる。
「うおおおおおごめんよレイジ君〜」
見事な憐れを誘う声だ。ちょっとかわいそうになるラザロスの詫びに「気にしてませんから」と返してリリの肩を叩く。
「な、リリ、何か勘違いしているみたいだけど、そんなひどいことなんてされてないんだよ」
リリは礼慈に向き直って膝に上り、
「でも、レイジお兄さま、わたし、お父さまがお部屋の外にも聞こえるくらい大きな声でおこっているのを聞いて、それで……しんぱいで……」
(あー聞こえてたか……)
どう理由をでっち上げようかと考えている内に、アスデル家のジトッとした視線がラザロスに集中する。
「れ。レイジ君……」
(助けを求められても……)
うまい言い訳を考えながらリリの頭を撫でる。それだけで初めて顔を合わせる一家に囲まれてざわついていた心が落ち着いてくるから不思議だ。
「大丈夫。本当に何にもないんだ。ただ、ちょっとリリを遅い時間まで連れ回していたことを注意されていただけだよ」
「じ、じゃあわたしもいっしょに注意されます! だって、わたしがいっしょにいたくて、もう夕方なのに遊びたいってお願いしたんです」
「そこは大人の方に責任が重くかかってくるからな」
「でも……っ」
リリは尚もなにやら不満げだったが、頭を撫で続けると、やがて気勢を削がれたように大人しくなった。その代わりにお返しとばかりに礼慈の目元を撫でてくる。
「本当にお父さまにいじめられていませんか?」
「大丈夫。ありがとう」
まだ少し口先が尖っているのがまた愛らしい。
心配をかけてしまったが、これでリリも収まってくれるだろうと思っていると、開け放したままになっていた扉から水色のスライムが滑り込んで来た。
「もう おキャクサマ は ダイジなおハナシしてるって イった でしょ?」
机の上で球体から半ば透き通った人体を形作ったスライム娘の発言に、リリが「だって……」と礼慈にしがみつく。
「お父さまの声が聞こえてきてからずっとしんぱいで……」
「コエが キこえてくるマエから キになってたみたい だけど?」
「それはっ……だって、お姉さま方が集まっていて、みんなきれいだから、レイジお兄さまがとられちゃうかもって思って……」
「リリを放ってなんておかないよ」
「レイジお兄さま……」
リリが頬を赤らめたのを見て、ジェーンが肩をすくめる。
「あ〜、これはかなわないわー」
アスデル家の皆が頷く。それに礼慈が何かしら言う前に、スイがニョローっと腕を伸ばしてきた。
その腕はリリに触れ、「スイお姉さま……?」とリリが首を傾げる。
「もうスコしだけ おネエちゃんに おセワ させて?」
リリが礼慈を見上げ、礼慈が頷きかける。
そんなやりとりの後に腕をたぐってスイの元に行くリリを見送っていると、当のスイと目が合った。その瞳が何か言いたそうにしているように見えて、怪訝な顔をしていると、リヨがさりげない動きで礼慈に茶を出しつつ耳打ちした。
「スイは一番歳の近い姉ということもあってリリのことをかわいがっていたのでござるよ」
(なるほど……)
どこの馬の骨かも分からない男がかわいい妹をたぶらかしているというのが気に入らないのかもしれない。
(妥当な考えだな……)
家族全員に前向きに認めてもらえるなどという考えが甘いのだ。
気を引き締めた礼慈は、それでもリリが家族の中でまで孤立しているわけではないようだということが分かって心底ほっとした。
「あら? 何か嬉しいことでもあったのかしら?」
「いえ」
「そうよね。やっぱり濡れたら透けるくらいはする服にしておいた方が良かったわよね? 今度作っておきましょうか?」
「あ、本当に結構です」
ルイの申し出を謹んで辞退していると、手に何やら触れる感覚がある。スイの分化した体の一部が伸びてきて触れていた。
やがてそれは腕を伝い登ってくると、礼慈の耳にのみ聞こえるような小声が囁いてきた。
「スコし サビしいだけ フタリ オウエン してる リリにアナタ ヒツヨウ おネガイ ね?」
「――」
スイの本体の方を見ると、彼女は体の中に包んでいたリリを解放して近づいて来た。
「リリを ダイジにしてるの ワかる だから ユルしてあげる」
分体を礼慈の顔の大きさにまで広げて握り込んだ。
頭を球状になった手の中に飲んだスイは、そのまま礼慈の頭ごと腕をぶんぶん振って、
「アクシュ」
そんな言葉と共に解放された礼慈は急いで空気を取り込みながら「それは何か違うんじゃ……」とぼやく。
「お姉さまっ」
「うふふ ごめん でもこれでスッキリ でしょ?」
「冷たい湧き水で洗顔したみたいで気持ちいいです。ありがとうございます」
「ン」
リリの頬に手を触れて、スイは球体に戻りネハシュの傍に移動した。
「トウサマ このコ イいコ」
「ンなこたぁ分かってるよスイ。元々俺ぁそのガキを認めてんだ。ネハシュも両親公認つってたろ?」
「じゃあお父様はなんでつっかかったの?」
「あん? そりゃオメエなめられねえためだよ」
「なんか……ごめんね」
「いえ」
本気で責められても仕方のないところをこんなふうに受け入れてくれるというのだから礼慈としては感謝しかない。
「ではこれで満場一致ですね」
近くにリリを呼び寄せて蛇体で巻き上げると、ネハシュは礼慈に娘を差し出した。
「礼慈君、リリのことをよろしくお願いしますね」
「あ、っと、はい。――リリが元の生活に戻れるように力を尽くします」
突然の申し出に半ばうろたえながら答えると、リリの姉たちから「煮えきらなくナーイ?」「もう少しオスとしての強さをアピールしてもいいかも」という声が飛んできた。
それを皮切りに二言三言と叱咤激励が続く。軽く小突かれながら、自分に姉が居たらこんなふうになるんだろうかとなんとも言えない表情でされるがままになっていると、蛇体から抜け出したリリが礼慈の腕に収まってきた。彼女のぬくもりを感じながら、礼慈は小さな変化に気付く。
「あ、髪やってもらったのか」
「はい」
リリの蜂蜜色の髪は、スイの中に居る間に結ってもらったのか丹念に編み込まれていた。
「かわいいな」
思わず漏れた感想にはにかんだ笑みが返ってくる。そして彼女は礼慈の膝の上で身を回して、周りに集まっている姉たちに言った。
「お姉さまたちにはお兄さまはあげないです」
溜めのような一瞬の間があった。
学園でも、誰かが付き合い出したことを報告する時に教室に満ちる空気だ。
「あらあら」「まあまあ」
そんなふうにささやき交わす声がして、姉たちが距離を取る。そこはかとなく振りまかれていた色香ともいうべきオーラが遠のいていき、礼慈は知らずに入っていた肩の力をようやく抜いた。
そんな彼にリリが問いかけてくる。
「レイジお兄さまはわたしみたいなコドモよりお姉さまたちみたいなオトナの女の人の方がやっぱりお好きなんですか?」
「ほうほう」「それは少し気になりますねぇ」
親世代まで乗り気だ。
アスデル家一同に見られるようになった礼慈は嫌な汗をかきながらリリに返す。
「いや、俺はリリの方が好きだよ」
そして、その言葉を待っていたかのように、アスデル家から囃し立てる声が寄せられた。
「あの。もう遅い時間なので、そろそろお暇させてもらおうかと思うんですけど」
圧倒されながらもなんとか帰る流れにしようと言葉をねじ込んだのだが、スイが「フタリとも オナじセッケンのニオい シアワせそう よき……」
と言葉を被せたことで発言は受け取られることなく、ついでに場の収拾がつかなくなった。
「まあまあまあまあ、この通り酒はある。もう少しゆっくりしていってもバチは当たんねえよ、な?」
「明日も学校なんであまり飲んでいるわけにはいきませんので」
「あらあらでもせっかくなのでケーキは皆で一緒にいただきましょうよ。お話も伺いたいですし、ね?」
「あ、ナイス」
「ね、リリもレイジ君と一緒にケーキ食べたいよね?」
「あ、ジェーンお姉様ナイス」
「お兄さま……」
「……う、うん。じゃあ自分がお土産に持ってきておいて恐縮ですが、呼ばれていきます」
すっかり団らんのメンバーに認定されてしまった礼慈の夜はもう少し続きそうだった。
そんな彼の胸にぶつけるように、リリが言葉を零した。
「わたしも、早くお兄さまとお似合いになれるようなオトナになりたいです」
18/11/11 01:23更新 / コン
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