公園の幼精
「暇だ」
やたらと座り心地の良いソファに身を沈めた礼慈は、酒気を帯びた息を吐きながら狭い室内でひとりごちた。
通常教室の半分程の広さの部屋の中には所狭しと棚が並べられている。中に詰まっているのはこの学園がこれまで積み上げてきた人魔共学の歴史だ。
暇つぶしに手に取っていた、過去学園祭で催されてきた企画をまとめた資料を読み終えた礼慈は、これからどうしたものかと考えていた。
この部屋は資料以外に特に見るべきものもない。だが、こうして暇な時に一人で飲酒しながら時間を潰すには都合が良いため礼慈は度々利用していた。
完全に私室のように扱っているが、他の役員たちから文句を言われたことはない。彼女らにしてみればこんな狭苦しい部屋に篭もるよりももっと楽しい遊び場に繰り出してこの世界を満喫したいのだろう。
(おかげで俺はこんなに上等な椅子を独り占めできるんだが)
学園という公共の施設で得られる個室というのはちょっと昏めの優越感を味わえて気分が良い。
普段時間を持て余した際には勉強などして過ごしているのだが、どうにも今はそういう気分でもない。
(早々に退散して図書室にでも行くか……)
昨日魔物らしい感性でハッピーエンドに改変された悲劇の話を聞いたせいか、違う視座をもって昔読んだ物語を読み直してみるのも悪くはないかもしれないという気分になっていた。
そうと決まれば、と席を立った礼慈の耳に隣の生徒会室へと誰かが入ってくる音が聞こえてきた。
手慣れた素早い動作で水筒をカバンにしまう間に、足音は生徒会室を横切って準備室の前までやって来た。
軽いノックの後に返事を待たずに扉が開く。
そこに立っていたのは三名。高等部生徒会長であるルアナと、彼女に似た面立ちをした少女と、その二人に挟まれている男性教員だった。
「高等部の会長に中等部の副会長。それに高等部生徒会顧問と三人そろっているということは、これからデートですね?」
会長はヴァンパイア。そして彼女に似た妹はヴァンパイアの天敵ともいえるダンピール。更に姉妹に両腕を組まれている彼は人間。この三人は一組の恋愛関係を構築していた。
一夫多妻は魔物たちがこちらの世界に来てからというもの、そう珍しくもない。しかし、彼女ら姉妹は向こうの世界でもこちらの世界でも名の知れた貴族の子女だ。更に、ヴァンパイアらしく貴族以外には話しかけることも極端に少なかったというルアナの性格も彼と付き合いだしてから様変わりしたというのだから話は違ってくる。
生徒たちの間では生徒会顧問武彦教諭は、夜の貴族を調教する夜の帝王とも、夜王とも呼ばれて密かに尊敬されていた。
実際に会って話をしてみるとどことなくぼんやりとしていて、人好きのする笑みが似合う、とてもそんな凄まじい名で呼ばれるようには見えない人物だ。本人も噂を弱気に否定しているのだが、姉妹がどちらもその噂を否定しないせいで全校生徒的にはそういう扱いになっている。
ある意味かわいそうな人なのだが、ヴァンパイアとダンピールを実質嫁にしている以上、彼の言い分の方に無理があると言わざるを得ない。
それに、彼自身礼慈たちと同じ齢の頃には世界中を旅して回っていたというし、礼慈としてはむしろ武彦の自己認識の方こそが過小評価なのではないかと思っていた。
「ああ、君のおかげで仕事は片付いてしまったからな。せっかくなのでデートをさせてもらうとも」
「だが、その前に」と彼女は言葉を繋げた。
「昨日君が小等部で見たという少女についてだ。少し気になったので調べてみたのだが、面白いことが分かった。君にも伝えておこうと思ってな」
「いや、別に俺はあの子について知りたいわけじゃないです。わざわざ伝えてもらわなくてもかまいません。というか個人情報をほいほい人に言うもんでもないでしょう」
「まあ、君に不利益はないさ」
礼慈の言葉を流すルアナ。抗議の視線を向けるがどこ吹く風な様子の彼女に、妹が空いた手で手刀(てがたな)を作り、よく見れば両腕を姉妹に拘束されているらしい顧問が諦めたような表情で「ごめん」と頭を下げた。
それらの流れを眺めた上でルアナは頷きを一つ作り、
「いいな? まず、リリという名の少女だが、フルネームはリリ・アスデルという」
昨日本人から聞いた名だった。
礼慈としては特に反応することもなかったが、会長の連れの二人が顔を見合わせた。
「鳴滝君、すごい方とお知り合いになりましたね」
武彦の言葉に礼慈は待て、と手を立てた。
「あの子は有名なのか? 俺は知らないぞ」
あれ程の容姿だ。どこぞでアイドル活動をしていてもおかしくはないが、と思っていると、ルアナが楽しげに頷く。
「それはまあそうだろう。あくまであちらの世界やこちらの学園の外で知られた名だ」
「気になるだろう? 気になるだろう?」と言外に言われているようだ。実際興味はある。つまるところ、完全に彼女にペースを握られてしまったのだ。その事を自覚しながら、礼慈には今更説明を聞かずに立ち去る選択肢はなくなっていた。
礼慈がしぶしぶ話を聞く態勢を整えたのを見ながら、ルアナは続ける。
「まずリリの母。ネハシュ・アスデルについてだが、彼女の種族はエキドナだ。知っているか?」
「向こうの世界からもたらされた資料程度には」
エキドナは人間の上半身に蛇の下半身を持つ魔物だ。種族としてはラミアに近いが、種族全体の傾向として、他の種族と比較した場合に魔力の保持量が多いというものがあったように記憶している。
「魔力量が多いからダンジョンとかを運営していたりすることが多いんですよね?
元勇者の剣道部師範がサシだとまず勝てない連中だと言っていたような気がします」
「その通りだ。彼女らは強く、そしてまたダンジョンのような巨大建造物を管理運営するノウハウを本能として備えているものが多いな。支配者基質で立場もある、こちらの世界のものから見たら最高レベルの賓客だろう。たしかこちらではリアル脱出ゲーム場や婚活パーティー会場(HARDモード)を運営していて、まあ、私としてはあやかりたい才覚だな。
だが、エキドナにはそれ以外にも種族的な特徴があるのだ。そちらの方は知っているか?」
「あー、あまりかかわりのない魔物については詳しく学んでこなかったので」
同学年や生徒会活動などで顔を合わせる種族以外の詳しい生態までは記憶していない。
そう正直に言うと、ルアナは「仕方がない」と呟いた。
「そう数がいる種族でもないからな。
エキドナは初めに産む子以外――第二子以降の子は自分とは異なる種族が生まれてくるんだ。その中には滅多に確認されない種族の子も居たりしてな。そんな特徴から彼女らは魔物の母と呼ばれることもある」
自分と違う種族の子孫を産むというのも、種の保存のための繁殖なのではないのかと考えるとなにやら不可思議な心地がするが、魔物相手に不可思議云々を言っても意味がないということは、この十年あまりの学園生活によって骨身に染みている。こういった自分の常識で測ることができないものはあるがままに受け入れるという心構えがいつの頃からか出来上がっていた。
「それであの子みたいなサキュバスがエキドナの子として生まれたんですね」
いやはや畏れ多いと肩を竦め、とりあえずリリは母娘で種族が違うということと、エキドナという強大な存在が親であることは理解したということは示しておく。
「それでお姉ちゃんがアスデルさんと仲良くできるように口利きしてくれるってことなの?」
「いや、俺は別に――」
妹の言葉に遠慮を表明しようとしていると、姉が「いや」と割り込んだ。
「リリの種族だが、彼女はサキュバスではないのだ」
「そうなんですか?」
羽や尻尾などの特徴からてっきりサキュバスかと思っていたが、違ったらしい。それでは初見で彼女を妖精のようだと感じたというのが実は正鵠を射ていて、実はエルフだったりするのだろうか。
(それにしては人懐っこい……。そういうエルフも居るのかもしれないが)
礼慈があれこれと考えていると、ルアナが微笑み混じりにリリの種族を告げた。
「彼女の種族はアリスだ」
言われた種族名に礼慈は困惑した。記憶の中に該当する種族の名前が存在しなかったのだ。
(種族として聞いたこともない。それにその名じゃあ魔物の種族名というよりも……)
ちょうど昨日彼女が話していた児童書の主人公の名が思い浮かぶ。
彼女が家で読んでいた際に母から同じような世界に行くことになると言われた少女の名が種族名とは、世の中分からないものだ。
「どうやらアリスという種族については知識がないと見える。まあこちらは更に目撃例が少ないのでさもありなんといったところではあるが」
礼慈の表情を読んだルアナは「アリスというのはな……」と続けた。
「簡単に言ってしまえばサキュバスの突然変異だ」
「突然変異ですか……具体的には何がどう変異したんです?」
「うむ。アリスという種族は幼いまま成長することなく、また自身が体験した性的な体験に関する記憶を喪失するという種族なんだ」
言われた内容を理解するまでの間を置いて、礼慈はつまり、と応える。
「あの子はあの姿のままで体は成長しないということですか?」
「その通りだ。常に無垢な少女のままで在り続けるのだな」
「……」
なんとコメントしたらよいのか困ってしまう。
基本的に淫魔である彼女らにとって、性体験の記憶が失われてしまうのは不便なのではないかとふと頭によぎる。とはいえ、そういったことが問題になるのは外見年齢と実際の年齢が一致している今からしてみたらもう少し未来の話になるだろう。
(となると友達との件は関係ないか……?)
リリが友達とうまくいかなくなってしまった理由がもしかしたら分かるかもしれないと思ったが、そうはいかなかった。少し落胆した礼慈はルアナに言う。
「そういったアリスという種族の特徴が問題になるのはもっと先のことでしょうね」
「うむ。普通に友達付き合いをしている分にはアリスの特性も問題ではないはずなのだ」
含み有りげにそう言ってルアナは首をひねった。
「しかし、リリは最近クラスの中で浮いてしまっているようでな。教員たちも心配しているようだ」
リリに起こっているトラブルについても情報を仕入れてきたらしい。教員経由の情報ということは武彦の伝手だろうか。
「珍しい種族ゆえ、種族特性が悪く出てうまく友人付き合いができないのかと思ったのだが、リリ・アスデルは小等部一年からこちらの世界で生活しており、ここ数日までは特に問題もなく過ごしていたらしい。種族特性的に問題ないとなると、彼女個人になんらかの問題があるのではと推測したのだが――」
「昨日話をした感じでは問題のある子には見えませんでしたよ」
話に口を挟んだ礼慈は、思わず口もとに手をあてて気まずく咳払いした。
そんな様子を目を瞬かせて見ていたルアナはにんまりと、実に面白そうな笑みを浮かべたので礼慈は自身の迂闊さを呪った。
「彼女の人となりが分かるほど話をする機会があったのか?」
「買い物帰りに偶然会って少し話をしただけです」
「ふむ、そうかそうか」
「何か?」
「いやなに。これまで女性に見向きもしなかった君が女の子に興味を持ち始めたようで、生徒会一同を代表してほっと胸を撫で下ろす気持ちだ」
「いやだから、あの子とはそんなロマンティックな関係じゃないですよ」
「だが魔物の女友達なのだろう? つがいの居ない魔物の友人など君の交友関係では貴重ではないか?」
「それはまあそうですけど。俺とあの子は友達になりきれていませんよ」
昨日のあれはいうなればカウンセラーとその相談相手のようなものだろう。
「何を言っている。まだまだこれからではないか!」
普段マントにしている羽を広げながらルアナが勢い込んで言う。
なにやら俄然やる気のようだ。
ルアナは武彦と結ばれて性格が丸くなってからというもの、人の世話を焼こうとする姿勢が目立つようになった。
姉が掴んでいる方とは逆の武彦の腕を掴んでいるルアナの妹。中等部生徒会副会長のラリサも姉の手引きで武彦と結ばれたらしい。それをかわきりに、複数の人魔のカップルがルアナの手腕で生み出され、そのたびに彼女の支持率は伸びていた。
「俺はもう貴女を補佐する立場の一人なのだから今更支持を取り付けなくてもいいですよ。こんな個室ももらってますしね。
なので、貴女の婚活大作戦の対象にはなりません」
「まあ待て。相手の家格に尻込みしているのなら心配は無用だ。あちらの旦那様は平民の出、身分を気にする家風ではない。それに私ならばアスデルの家とも渡りをつけることができる。一歩を踏み出したいのなら遠慮なくこの会長を頼ってもいいのだぞ?」
「あれ? 俺の話聞いてました?」
「心の声を、確かに受け取った……っ」
「それはたぶんどこかの電波と混線してますね……」
ため息を吐いて立ち上がると、ラリサがとりなすように言う。
「お姉ちゃんはこんなですけど、もし力を貸してほしいときは言ってください。高等部生徒会のエースのお友達作りなら、私たちの家の力を使う価値があると思うので」
「その通りだとも」
「あーはいはい。じゃあ何かあったらよろしくお願いします」
背に聞こえてくる姉妹の声に適当に返して、礼慈は生徒会室から逃げるように退室した。
●
(あの童話を読み直してみようか……)
下駄箱で昨日のリリとの会話を思い出しながらそんな事を考えた礼慈は、敷地内にある立派な図書館の方へと目を向けたが、やがて首を横に振った。
(いや、会長がやって来たら面倒この上ない)
あの話を聞いた後で例の児童書を読んでいるのを見つかろうものなら、今度は本格的に世話を焼かれかねない。
(どこで見つかっても面倒なのは同じか……なら今日はもう学内には居ない方がいいな)
図書館に向かいかけていた足を返し、礼慈は学園から出ていった。
●
(……ゲーセンにでも行こうかな)
通学路を外れて時間の潰し方を思案しながら、礼慈は昨日買い物に行ったスーパーの前を通りかかった。
意識は向かいにある公園の方を向いており、視線は自然と女の子の姿を探していた。
(――あ)
その姿を見つけた瞬間。礼慈はそれまで考えていた予定を一度白紙に戻した。
リリは昨日礼慈と話をしたベンチに座って公園内をきょろきょろと見回していた。
他に誰か知り合いでも居るのかと足を止めて様子を見てみるが、公園内には他の人影は見当たらない。どうやら彼女一人のようだ。
目当てのものが見つからなかった様子のリリは、しかしその何かを諦めきれないかのように何度も公園を見回し、やがて俯いてしまった。
そんな彼女の姿に、礼慈は公園内へと足を踏み入れていた。
俯いているリリは礼慈が近づいていることに気付いていない。見た目が愛らしい分、リリが沈んでいる様は哀れに思えた。
(クラスの子たちもリリが始終この調子だと心配になるだろうな……)
「リリ」
「――!」
声をかけると、リリは弾かれたように顔を上げた。
「レイジさん!」
礼慈の姿を認めると、ベンチから降りて駆け寄って来た。
近くで見るリリは表情こそは笑顔だが、昨日の帰りに見せてくれたものと比べると翳りがある感は否めなかった。
「俺を待っていてくれたのかな?」
「はい!」
からかうつもりで発した問いに対するためらいのない応答に、礼慈は面食らう。
「……本当に俺を待ってたのか?」
「あの、昨日、レイジさん、もっと早く来ればもっとお話できたのにって言ってらっしゃったので、ここにいたらまた会えるかなって」
「それは……待たせて悪かったな」
「そんなことないです。やくそくしてないのに来てくれましたもの」
だからそれで良いというように彼女は微笑んだ。
ふと、思う。
ルアナが教員を通して今日仕入れてきたであろう情報から、リリが自分の悩みを誰にも相談できていないらしいことは分かっていた。もし知っていたならば、あの会長はおせっかいにも礼慈にその情報を伝えてリリをなんとかするように指示を出していたことだろう。
そして昨日話をする中でリリが友人とうまくいっておらず、たまたま会った礼慈を話し相手にする程に孤独感を得ていることも分かっていた。彼女が孤独を埋めるために頼ることができる最たるものは親だろうが、彼女の親はエキドナ。こちらで事業を展開している――立場がある者だ。
リリがこのような状態になるまで放置されてしまっていたことを思えば、親に心配をかけまいと学園での問題を家族に話していない可能性も高い。で、あるならば、今リリが一番気晴らしが出来る相手は偶々知り合った礼慈なのではないか。
(会長の話なんか聞いてないですぐに来るべきだったか)
後悔を感じはするが、それを表に出してしまってはリリを不安にさせてしまう。
(俺はどうするべきだろう……)
リリは別に話下手であるとか態度に難があるといったような、いわゆるコミュニケーション能力に問題があるというわけではない。実際、彼女の周囲に問題が起き始めたのはルアナが言うにはここ数日らしい。
では、何が彼女と友達付き合いをうまくいかなくさせてしまったのか。それまで大丈夫だった人付き合いが急に駄目になってしまったというのなら、原因として考えられるのは、やはり会長から聞いたアリスという種族の性質になるのだろう。
(性体験の記憶の喪失だったか……)
小等部であろうと魔物である以上、性交渉に及ぶ者が居ても異常ということはない。もう付き合っている相手がいて、その相手との間で記憶喪失によって問題が発生して、それが他のクラスメイトとの関係にも波及したとしたら、強引だが辻褄は合う。
リリは自身の特性を知らないということだろうか。ならば礼慈に提供できる解決策は彼女の特性を伝えることになるのだろうか。
(いや……どう話を切り出す?
いきなりそのまま性交渉するような男友達は居るのかなんて訊くのか?)
魔物化した母親をもっていながら、魔物の倫理感というのは分からない。
無神経に聞いて彼女に嫌われてしまうのは、彼女から気晴らしの機会を奪うことにも繋がるだろうし、単純に礼慈自身としても少し寂しくもある。
(違ってた時が一番悲惨だしなあ……)
性体験の記憶の喪失と友人との間の問題とがいまいち結びつかないこともあってこの推測には自信がない。切り出すにはリスキー過ぎる。
そんなことを考えていると、リリが問いかけてきた。
「あの、今日もお話、できますか?」
「ああ、今日も友達にフラれてしまったからな」
ちょっと困った顔をしてリリが首をかしげたので、「冗談」と笑う。
「今日は君のために時間を空けておいたんだ」
「あ、ありがとうございます!」
「……ん」
どうにも育ちが良すぎるのと純真なのが相まって言葉の意味をそのまま受け取られてしまう傾向にあるようだ。
ネタをスルーされた芸人の気分で、礼慈は昨日のようにリリの隣に腰を下ろした。
そうして一息ついた直後、リリが卒然と顔を向けてくる。
「あ、あの。昨日、わたしたちがどんなお話をしたのかって覚えていますか?」
「ん? ああ……」
頷き、それから礼慈はその質問の意図を考えた。
何か、言葉遊びの類でも求められているのではないかと思う。だが、残念ながらリリが満足するような返答には心当たりがない。ここで考え過ぎて答えが遅れるのも好ましくないだろう。
礼慈はリリが作ったクッキーを食べ、飲み物を飲みながら担任の先生や家族の話をして、それから教科書に載っている物語の話やクラスメイトの話をしたことを素直にそのまま説明した。
それらの話を聞いていくにつれてリリの表情に残っていた憂いが晴れていく。何がそんなに彼女に響いたのかと戸惑っていると、リリがすすっと身を寄せて来た。
手が触れ、リリがくすぐったそうに笑う。
「せいかいですっ。レイジお兄さま」
「昨日言ってた呼び方になったかな」
「――はい!」
とても良い返事と共に甘い香りが鼻に薫ってくる。
先の質問の意図は何なのかは分からないままだが、どうやら自分はリリの試験に無事合格することができたようだった。
(しかし……)
質問してきた際の、リリのあまりにも真剣な様子が気にかかる。
途中で呼び方を変えてきたことからも分かるが、彼女は最初礼慈を信用していなかったようだ。疑心暗鬼の状態になっているのかもしれない。
(他人を信じられなくなるような状態か……一体何故)
これまで考えていたことはあくまで想像にすぎない。予測を元にして徐々に実際の所を探っていこうとしていたのだが、意識的にか無意識的にか、リリが他人をかなり警戒していることが分かった以上、本意ではないが問題解決のためには多少強引にでもリリから話を聞き出すべきなのかもしれない。
(だけど、昨日あの後、教頭ちゃまでも聞き出せなかったことになるんだよな……)
バフォメットでも引き出すことができなかった魔物の悩みを自分如きに話してくれるものだろうか。
そう思い悩んでいると、リリが「何して遊びましょう?」と訊ねてきた。
(遊び……。
おままごと、には成長し過ぎているように見えるし、遊具で……は無難過ぎか?)
考えてみるが、良い案は咄嗟に思いつくものではない。
そもそも礼慈はリリくらいの年の子がするような遊びにはまったく心当たりがなかった。
「リリはどんな遊びをしたいんだ?」
「レイジお兄さまが小等部の時にしていた遊びが気になります」
乞われた内容に、礼慈は大いに悩む羽目になった。
(あの頃は、遊ぶ気にはあまりなれなかったからな)
当時の礼慈は勉強漬けで、図書館の住人になっていた。友人も今以上に少なかったため、同世代の子供たちがどのような遊びをしていたのかもかなりあやふやだった。
(コンピューターゲームの類ならある程度いけるんだが……)
屋外では据え置き機は望むべくもないし、携帯系の機種も持ち合わせがない。携帯端末のゲームならばレトロなアプリケーションがインストールされているのでスコアを競うという形で遊ぶことはできよう。
それでいけるかと思いかけた礼慈は、自分が随分と真剣に考えているなと自覚した。
所詮はただの遊び。そちらに思考を割くよりも、もっと事態の解決のために頭を使うべきなのではないかと思う。だが、リリが喜んでいる顔のために少しでもよいものを考えたいという思いも否定し難かった。こうまで親身になってしまうのは、おそらくは泣き顔を見てしまった彼女に対する同情のためだろう。
(だとしたら……)
ちらと視線を向けると、リリは考え込んでいる礼慈を期待の眼差しで見つめている。
たっぷり悩んで出てくるのが携帯ゲームというのも面白みに欠ける。
どうせならばリリが思いもよらないことを提案して、彼女の気晴らしとなってやりたい。
(そうなると、俺の考えじゃ不足だな)
礼慈は携帯端末を取り出してメッセージアプリを立ち上げた。
「ピコピコですか?」
「いや、遊びに詳しい奴が居るから、そいつと意見を交換しようと思ってな」
そう言いながら礼慈は『小等部の子の遊び相手をすることになった。何かインパクトのありそうな遊びを教えてくれ』と打ち込んだ文面を送信した。相手は相島英だ。
「あいつはガキ大将だったからな。いい返事が来るだろう」
そう言って、昨日のように自販機へ小銭を入れた。
「返事が来るまで話でもしてようか。ミルクティーでいいか?」
「え、はい……あ」
缶を渡すと、何か言いたげにリリは口ごもった。
「どうした?」
促して、自分は水筒の蓋を開ける。リリはそんな礼慈に申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。わたし、今日、おかし作ってなくて。何もお返しできません」
(……となると、この甘い香りは……彼女自身のものか?)
香水の類だったりするのだろうかと思いながら、礼慈はリリの頭に手を置いた。
「俺の都合でレディーを待たせてしまっているのだから、おごらせてもらわなくては俺が困ってしまう」
「……」
礼慈は思わず顔を伏せて内心で呻いた。
(これは……恥ずかしい!)
リリに余計な負担をかけないようにとできるだけひょうきんな調子で言ったが、変なむず痒さを感じる。
慣れない方向の諧謔だけに、余計にクるものがある。クラスメイトに聞かれでもしたら何事かと警戒されること必至だ。
「あー、おかしなことを言った。ただあまり気にしなくていいと伝えたくてだな……」
言い訳じみたことを言う礼慈だが、リリの方では思いの外感銘を受けてくれたようで、呆れではなさそうな眼差しを向けてくれていた。
自分の普段の言動とかけ離れたことにポジティブな印象を持たれても、それはそれでいたたまれない。
(早く返事を寄越してくれ……!)
そう願った時、礼慈は昨日彼らとした会話を思い出した。
全学合同文化祭に向けて、英は部活を途中で抜けて嫁の鏡花が所属しているボランティア部に手伝いに行っている。
(あいつ、嫁といちゃつくのに忙し過ぎて返信寄越さないどころか携帯見てすらいないんじゃないか?)
そうであれば短い時間で返信がある可能性は絶望的だ。もししばらく待って返信がこないようなら、その時はゲームでもやって時間を潰してもらおうかと考えていると、携帯端末が震えた。
「お、早めの返信だ」
助かったと思いながら送られてきた文面を見た礼慈は「ああ……」と呟いた。
(そういえばそういうのもあったな……)
懐かしい。これならば実際にそこに行くことがなくても聞くだけでそれなりに面白くはあるだろう。
期待の眼差しのリリに、礼慈はまず訊ねた。
「学園の裏山にある秘密基地って知ってるか?」
●
守結学園の小等部には先輩から代々伝えられる秘密の遊び場がある。
小等部校舎の裏山にある洞窟で、歴代の児童によって様々な物品が持ち込まれていつの頃からか秘密基地と呼ばれるようになっていた場だ。
「その場所を中等部に上がるお兄さんたちがその時の、たしか三年だか四年だかの子に教えるっていう流れがあったんだよ」
あの頃は学校と家の往復が世界のほとんどだった。そんな児童たちにとって秘密の遊び場というのは魅力的に映ったのだろう。
「魔物の皆はこの頃にはかなり成熟――お姉さんしていてな。そういう遊びよりも花嫁修行に励み始める子が多かったんだが、男子は結構その遊び場に夢中になってた」
少なくとも礼慈の世代では秘密基地は男子専用の遊び場のイメージがあった。
「だけど、冬になるとただの洞窟じゃああまり快適に遊べないって皆気付いたのかだんだん行かなくなった」
そして花嫁修行に夢中になっている間放っておかれたことを察知して焦った魔物たちの巻き返しによって、春を迎えるころには彼女たちともっと快適な場所で遊ぶようになっていた。
「そうして秘密基地には誰も行かなくなるけど、あれはあれでガス抜きにもなるからと下の子に伝えていってたんだな」
成長途中の一時にだけ使われる。そんな儚い遊び場だ。
礼慈も英に連れられて一度だけ行ったことがある。
(結局図書館の住人に戻ってしまったが)
暑かった夏のことが思い出される。あの時は山に登るにも汗だくになったものだが、
(秋口の今ならいくらかましだな)
「どうだ? 行くか?」
「行きたいです!」
思ったよりも勢いよくリリが食いついてきた。
尻尾も羽もせわしなく動いている。
「そんな所があったんですね。お友だちのみんなとはヒミツ基地のお話はでたことないです。男の子たちは行ってるのかな?」
「どうだろう。夏を過ぎたら人気がなくなっていった印象があるけどな」
リリの世代でも秘密基地については魔物に対して秘密にされ続けているようだ。
「男の子たちのヒミツの遊び場。すごいですね」
(これは狙い通りのインパクトかな)
男の子たちの秘密の遊び場という紹介文句がいい感じに刺さっているようだ。魔物だけあって、異性のことに関しては興味が尽きないのだろう。
(いや、このくらいの年の子は男も女も関係なく異性に興味を持ち始めるものか)
当時、男子の中で遅い奴でも女子を意識し始めていたのが今のリリくらいの年頃だったと思い出す。
皆がこぞってあの秘密基地に行っていたのは、もしかしたら自分たちよりも生き物としてより強い魔物というものを理解し始めた少年たちの雄の本能が、魔物たちと距離をとることによってささやかな抵抗を行っていたからなのかもしれない。
(結局は皆して魔物の元に戻ってしまったわけだが)
これは相手が悪いとしか言いようがない。
今現在着々とつがいになりつつあるクラスメイトたちのことを思い、礼慈は空を見上げた。
陽が傾きつつあり、空が茜に染まろうとしている。
(あの山、そんなに登ってはいなかったはずだよな……)
話をして期待させてしまった以上、リリを秘密基地まで連れて行かなければ生殺しだ。
授業以外で運動らしい運動をしていなかった礼慈が暑くて汗をかくだけで済んだはずなので、道も大して険しくも距離があったわけでもないはずだ。
これから秘密基地に行って、歴代の秘密基地使用者たちが持ち込んでいた物品を一通り見てから戻ればいい感じに日も暮れているだろう。
そこで今日は別れて、明日から自分が小等部の頃の話をしていきながら距離感を詰めて少しずつリリの口から自分のことについて話させるのがいいか。
(……明日?)
自然とそんな言葉が浮かんでいる自分がおかしくなって礼慈はつい笑ってしまった。
「? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。ただ、こうして君と話しているのは楽しいなと思ったんだ」
「あ、ありがとう、ございます」
照れたようにりりがちょこんと頭を下げる。
(会長には相談相手として接したなんて言ったけども……)
この子が友達の輪に戻るまでのほんの少しの間、本当に友達でいるのも悪くない。
そんなことをしみじみ思っていると、顔を上げたリリが不意に不安そうに尋ねてきた。
「女の子でもヒミツ基地に行ってもいいんでしょうか?」
男子の遊び場であったことを強調し過ぎたかもしれない。
うまく伝えることはできないものだと思いながら礼慈は「大丈夫」だと請け負った。
「俺たちの時は別に魔物侵入禁止と決まってたわけじゃないしな。それに、リリは俺の友達だろ? 友達を誘って遊び場に遊びに行くことがだめなわけがない」
もし今代では魔物禁制になっていたとしても、こちらは先輩様だ。なんとでも丸め込むことはできるだろう。
ただ、と礼慈は声を潜めて言う。
「せっかくの秘密基地だ。あんまり皆に広まってしまうのも名前負けでつまらない。リリ。君はこれから行く秘密基地の場所を皆に内緒にしていられるか?」
雰囲気作りのための秘密の共有の提案に、リリはひどく真剣な表情で頷いた。
「は、はい……っ。みんなにはないしょにします!」
「よし。じゃあリリも今日から秘密基地の仲間だ」
締めとして厳かに言うと、リリは気合を入れるようにふんっ、と鼻から息を吐いて、缶の中身を勢いよく飲み干した。
素直に聞いてくれる分、こういうノリに乗せやすくて面白い。
こくん、と動いて嚥下する白く華奢な喉を見つめながら苦笑する。
「そんなに焦らなくても基地は逃げはしないよ」
「でも、急がないと夜になっちゃいますから」
「ん、まあそうか。せめて飲み物を蓋付きにしておけばよかったな」
ここまで期待されてしまうと俄然やる気が湧いてくる。
「じゃあ、夜になってしまう前に案内させてもらおう」
「はい、よろしくおねがいします」
やたらと座り心地の良いソファに身を沈めた礼慈は、酒気を帯びた息を吐きながら狭い室内でひとりごちた。
通常教室の半分程の広さの部屋の中には所狭しと棚が並べられている。中に詰まっているのはこの学園がこれまで積み上げてきた人魔共学の歴史だ。
暇つぶしに手に取っていた、過去学園祭で催されてきた企画をまとめた資料を読み終えた礼慈は、これからどうしたものかと考えていた。
この部屋は資料以外に特に見るべきものもない。だが、こうして暇な時に一人で飲酒しながら時間を潰すには都合が良いため礼慈は度々利用していた。
完全に私室のように扱っているが、他の役員たちから文句を言われたことはない。彼女らにしてみればこんな狭苦しい部屋に篭もるよりももっと楽しい遊び場に繰り出してこの世界を満喫したいのだろう。
(おかげで俺はこんなに上等な椅子を独り占めできるんだが)
学園という公共の施設で得られる個室というのはちょっと昏めの優越感を味わえて気分が良い。
普段時間を持て余した際には勉強などして過ごしているのだが、どうにも今はそういう気分でもない。
(早々に退散して図書室にでも行くか……)
昨日魔物らしい感性でハッピーエンドに改変された悲劇の話を聞いたせいか、違う視座をもって昔読んだ物語を読み直してみるのも悪くはないかもしれないという気分になっていた。
そうと決まれば、と席を立った礼慈の耳に隣の生徒会室へと誰かが入ってくる音が聞こえてきた。
手慣れた素早い動作で水筒をカバンにしまう間に、足音は生徒会室を横切って準備室の前までやって来た。
軽いノックの後に返事を待たずに扉が開く。
そこに立っていたのは三名。高等部生徒会長であるルアナと、彼女に似た面立ちをした少女と、その二人に挟まれている男性教員だった。
「高等部の会長に中等部の副会長。それに高等部生徒会顧問と三人そろっているということは、これからデートですね?」
会長はヴァンパイア。そして彼女に似た妹はヴァンパイアの天敵ともいえるダンピール。更に姉妹に両腕を組まれている彼は人間。この三人は一組の恋愛関係を構築していた。
一夫多妻は魔物たちがこちらの世界に来てからというもの、そう珍しくもない。しかし、彼女ら姉妹は向こうの世界でもこちらの世界でも名の知れた貴族の子女だ。更に、ヴァンパイアらしく貴族以外には話しかけることも極端に少なかったというルアナの性格も彼と付き合いだしてから様変わりしたというのだから話は違ってくる。
生徒たちの間では生徒会顧問武彦教諭は、夜の貴族を調教する夜の帝王とも、夜王とも呼ばれて密かに尊敬されていた。
実際に会って話をしてみるとどことなくぼんやりとしていて、人好きのする笑みが似合う、とてもそんな凄まじい名で呼ばれるようには見えない人物だ。本人も噂を弱気に否定しているのだが、姉妹がどちらもその噂を否定しないせいで全校生徒的にはそういう扱いになっている。
ある意味かわいそうな人なのだが、ヴァンパイアとダンピールを実質嫁にしている以上、彼の言い分の方に無理があると言わざるを得ない。
それに、彼自身礼慈たちと同じ齢の頃には世界中を旅して回っていたというし、礼慈としてはむしろ武彦の自己認識の方こそが過小評価なのではないかと思っていた。
「ああ、君のおかげで仕事は片付いてしまったからな。せっかくなのでデートをさせてもらうとも」
「だが、その前に」と彼女は言葉を繋げた。
「昨日君が小等部で見たという少女についてだ。少し気になったので調べてみたのだが、面白いことが分かった。君にも伝えておこうと思ってな」
「いや、別に俺はあの子について知りたいわけじゃないです。わざわざ伝えてもらわなくてもかまいません。というか個人情報をほいほい人に言うもんでもないでしょう」
「まあ、君に不利益はないさ」
礼慈の言葉を流すルアナ。抗議の視線を向けるがどこ吹く風な様子の彼女に、妹が空いた手で手刀(てがたな)を作り、よく見れば両腕を姉妹に拘束されているらしい顧問が諦めたような表情で「ごめん」と頭を下げた。
それらの流れを眺めた上でルアナは頷きを一つ作り、
「いいな? まず、リリという名の少女だが、フルネームはリリ・アスデルという」
昨日本人から聞いた名だった。
礼慈としては特に反応することもなかったが、会長の連れの二人が顔を見合わせた。
「鳴滝君、すごい方とお知り合いになりましたね」
武彦の言葉に礼慈は待て、と手を立てた。
「あの子は有名なのか? 俺は知らないぞ」
あれ程の容姿だ。どこぞでアイドル活動をしていてもおかしくはないが、と思っていると、ルアナが楽しげに頷く。
「それはまあそうだろう。あくまであちらの世界やこちらの学園の外で知られた名だ」
「気になるだろう? 気になるだろう?」と言外に言われているようだ。実際興味はある。つまるところ、完全に彼女にペースを握られてしまったのだ。その事を自覚しながら、礼慈には今更説明を聞かずに立ち去る選択肢はなくなっていた。
礼慈がしぶしぶ話を聞く態勢を整えたのを見ながら、ルアナは続ける。
「まずリリの母。ネハシュ・アスデルについてだが、彼女の種族はエキドナだ。知っているか?」
「向こうの世界からもたらされた資料程度には」
エキドナは人間の上半身に蛇の下半身を持つ魔物だ。種族としてはラミアに近いが、種族全体の傾向として、他の種族と比較した場合に魔力の保持量が多いというものがあったように記憶している。
「魔力量が多いからダンジョンとかを運営していたりすることが多いんですよね?
元勇者の剣道部師範がサシだとまず勝てない連中だと言っていたような気がします」
「その通りだ。彼女らは強く、そしてまたダンジョンのような巨大建造物を管理運営するノウハウを本能として備えているものが多いな。支配者基質で立場もある、こちらの世界のものから見たら最高レベルの賓客だろう。たしかこちらではリアル脱出ゲーム場や婚活パーティー会場(HARDモード)を運営していて、まあ、私としてはあやかりたい才覚だな。
だが、エキドナにはそれ以外にも種族的な特徴があるのだ。そちらの方は知っているか?」
「あー、あまりかかわりのない魔物については詳しく学んでこなかったので」
同学年や生徒会活動などで顔を合わせる種族以外の詳しい生態までは記憶していない。
そう正直に言うと、ルアナは「仕方がない」と呟いた。
「そう数がいる種族でもないからな。
エキドナは初めに産む子以外――第二子以降の子は自分とは異なる種族が生まれてくるんだ。その中には滅多に確認されない種族の子も居たりしてな。そんな特徴から彼女らは魔物の母と呼ばれることもある」
自分と違う種族の子孫を産むというのも、種の保存のための繁殖なのではないのかと考えるとなにやら不可思議な心地がするが、魔物相手に不可思議云々を言っても意味がないということは、この十年あまりの学園生活によって骨身に染みている。こういった自分の常識で測ることができないものはあるがままに受け入れるという心構えがいつの頃からか出来上がっていた。
「それであの子みたいなサキュバスがエキドナの子として生まれたんですね」
いやはや畏れ多いと肩を竦め、とりあえずリリは母娘で種族が違うということと、エキドナという強大な存在が親であることは理解したということは示しておく。
「それでお姉ちゃんがアスデルさんと仲良くできるように口利きしてくれるってことなの?」
「いや、俺は別に――」
妹の言葉に遠慮を表明しようとしていると、姉が「いや」と割り込んだ。
「リリの種族だが、彼女はサキュバスではないのだ」
「そうなんですか?」
羽や尻尾などの特徴からてっきりサキュバスかと思っていたが、違ったらしい。それでは初見で彼女を妖精のようだと感じたというのが実は正鵠を射ていて、実はエルフだったりするのだろうか。
(それにしては人懐っこい……。そういうエルフも居るのかもしれないが)
礼慈があれこれと考えていると、ルアナが微笑み混じりにリリの種族を告げた。
「彼女の種族はアリスだ」
言われた種族名に礼慈は困惑した。記憶の中に該当する種族の名前が存在しなかったのだ。
(種族として聞いたこともない。それにその名じゃあ魔物の種族名というよりも……)
ちょうど昨日彼女が話していた児童書の主人公の名が思い浮かぶ。
彼女が家で読んでいた際に母から同じような世界に行くことになると言われた少女の名が種族名とは、世の中分からないものだ。
「どうやらアリスという種族については知識がないと見える。まあこちらは更に目撃例が少ないのでさもありなんといったところではあるが」
礼慈の表情を読んだルアナは「アリスというのはな……」と続けた。
「簡単に言ってしまえばサキュバスの突然変異だ」
「突然変異ですか……具体的には何がどう変異したんです?」
「うむ。アリスという種族は幼いまま成長することなく、また自身が体験した性的な体験に関する記憶を喪失するという種族なんだ」
言われた内容を理解するまでの間を置いて、礼慈はつまり、と応える。
「あの子はあの姿のままで体は成長しないということですか?」
「その通りだ。常に無垢な少女のままで在り続けるのだな」
「……」
なんとコメントしたらよいのか困ってしまう。
基本的に淫魔である彼女らにとって、性体験の記憶が失われてしまうのは不便なのではないかとふと頭によぎる。とはいえ、そういったことが問題になるのは外見年齢と実際の年齢が一致している今からしてみたらもう少し未来の話になるだろう。
(となると友達との件は関係ないか……?)
リリが友達とうまくいかなくなってしまった理由がもしかしたら分かるかもしれないと思ったが、そうはいかなかった。少し落胆した礼慈はルアナに言う。
「そういったアリスという種族の特徴が問題になるのはもっと先のことでしょうね」
「うむ。普通に友達付き合いをしている分にはアリスの特性も問題ではないはずなのだ」
含み有りげにそう言ってルアナは首をひねった。
「しかし、リリは最近クラスの中で浮いてしまっているようでな。教員たちも心配しているようだ」
リリに起こっているトラブルについても情報を仕入れてきたらしい。教員経由の情報ということは武彦の伝手だろうか。
「珍しい種族ゆえ、種族特性が悪く出てうまく友人付き合いができないのかと思ったのだが、リリ・アスデルは小等部一年からこちらの世界で生活しており、ここ数日までは特に問題もなく過ごしていたらしい。種族特性的に問題ないとなると、彼女個人になんらかの問題があるのではと推測したのだが――」
「昨日話をした感じでは問題のある子には見えませんでしたよ」
話に口を挟んだ礼慈は、思わず口もとに手をあてて気まずく咳払いした。
そんな様子を目を瞬かせて見ていたルアナはにんまりと、実に面白そうな笑みを浮かべたので礼慈は自身の迂闊さを呪った。
「彼女の人となりが分かるほど話をする機会があったのか?」
「買い物帰りに偶然会って少し話をしただけです」
「ふむ、そうかそうか」
「何か?」
「いやなに。これまで女性に見向きもしなかった君が女の子に興味を持ち始めたようで、生徒会一同を代表してほっと胸を撫で下ろす気持ちだ」
「いやだから、あの子とはそんなロマンティックな関係じゃないですよ」
「だが魔物の女友達なのだろう? つがいの居ない魔物の友人など君の交友関係では貴重ではないか?」
「それはまあそうですけど。俺とあの子は友達になりきれていませんよ」
昨日のあれはいうなればカウンセラーとその相談相手のようなものだろう。
「何を言っている。まだまだこれからではないか!」
普段マントにしている羽を広げながらルアナが勢い込んで言う。
なにやら俄然やる気のようだ。
ルアナは武彦と結ばれて性格が丸くなってからというもの、人の世話を焼こうとする姿勢が目立つようになった。
姉が掴んでいる方とは逆の武彦の腕を掴んでいるルアナの妹。中等部生徒会副会長のラリサも姉の手引きで武彦と結ばれたらしい。それをかわきりに、複数の人魔のカップルがルアナの手腕で生み出され、そのたびに彼女の支持率は伸びていた。
「俺はもう貴女を補佐する立場の一人なのだから今更支持を取り付けなくてもいいですよ。こんな個室ももらってますしね。
なので、貴女の婚活大作戦の対象にはなりません」
「まあ待て。相手の家格に尻込みしているのなら心配は無用だ。あちらの旦那様は平民の出、身分を気にする家風ではない。それに私ならばアスデルの家とも渡りをつけることができる。一歩を踏み出したいのなら遠慮なくこの会長を頼ってもいいのだぞ?」
「あれ? 俺の話聞いてました?」
「心の声を、確かに受け取った……っ」
「それはたぶんどこかの電波と混線してますね……」
ため息を吐いて立ち上がると、ラリサがとりなすように言う。
「お姉ちゃんはこんなですけど、もし力を貸してほしいときは言ってください。高等部生徒会のエースのお友達作りなら、私たちの家の力を使う価値があると思うので」
「その通りだとも」
「あーはいはい。じゃあ何かあったらよろしくお願いします」
背に聞こえてくる姉妹の声に適当に返して、礼慈は生徒会室から逃げるように退室した。
●
(あの童話を読み直してみようか……)
下駄箱で昨日のリリとの会話を思い出しながらそんな事を考えた礼慈は、敷地内にある立派な図書館の方へと目を向けたが、やがて首を横に振った。
(いや、会長がやって来たら面倒この上ない)
あの話を聞いた後で例の児童書を読んでいるのを見つかろうものなら、今度は本格的に世話を焼かれかねない。
(どこで見つかっても面倒なのは同じか……なら今日はもう学内には居ない方がいいな)
図書館に向かいかけていた足を返し、礼慈は学園から出ていった。
●
(……ゲーセンにでも行こうかな)
通学路を外れて時間の潰し方を思案しながら、礼慈は昨日買い物に行ったスーパーの前を通りかかった。
意識は向かいにある公園の方を向いており、視線は自然と女の子の姿を探していた。
(――あ)
その姿を見つけた瞬間。礼慈はそれまで考えていた予定を一度白紙に戻した。
リリは昨日礼慈と話をしたベンチに座って公園内をきょろきょろと見回していた。
他に誰か知り合いでも居るのかと足を止めて様子を見てみるが、公園内には他の人影は見当たらない。どうやら彼女一人のようだ。
目当てのものが見つからなかった様子のリリは、しかしその何かを諦めきれないかのように何度も公園を見回し、やがて俯いてしまった。
そんな彼女の姿に、礼慈は公園内へと足を踏み入れていた。
俯いているリリは礼慈が近づいていることに気付いていない。見た目が愛らしい分、リリが沈んでいる様は哀れに思えた。
(クラスの子たちもリリが始終この調子だと心配になるだろうな……)
「リリ」
「――!」
声をかけると、リリは弾かれたように顔を上げた。
「レイジさん!」
礼慈の姿を認めると、ベンチから降りて駆け寄って来た。
近くで見るリリは表情こそは笑顔だが、昨日の帰りに見せてくれたものと比べると翳りがある感は否めなかった。
「俺を待っていてくれたのかな?」
「はい!」
からかうつもりで発した問いに対するためらいのない応答に、礼慈は面食らう。
「……本当に俺を待ってたのか?」
「あの、昨日、レイジさん、もっと早く来ればもっとお話できたのにって言ってらっしゃったので、ここにいたらまた会えるかなって」
「それは……待たせて悪かったな」
「そんなことないです。やくそくしてないのに来てくれましたもの」
だからそれで良いというように彼女は微笑んだ。
ふと、思う。
ルアナが教員を通して今日仕入れてきたであろう情報から、リリが自分の悩みを誰にも相談できていないらしいことは分かっていた。もし知っていたならば、あの会長はおせっかいにも礼慈にその情報を伝えてリリをなんとかするように指示を出していたことだろう。
そして昨日話をする中でリリが友人とうまくいっておらず、たまたま会った礼慈を話し相手にする程に孤独感を得ていることも分かっていた。彼女が孤独を埋めるために頼ることができる最たるものは親だろうが、彼女の親はエキドナ。こちらで事業を展開している――立場がある者だ。
リリがこのような状態になるまで放置されてしまっていたことを思えば、親に心配をかけまいと学園での問題を家族に話していない可能性も高い。で、あるならば、今リリが一番気晴らしが出来る相手は偶々知り合った礼慈なのではないか。
(会長の話なんか聞いてないですぐに来るべきだったか)
後悔を感じはするが、それを表に出してしまってはリリを不安にさせてしまう。
(俺はどうするべきだろう……)
リリは別に話下手であるとか態度に難があるといったような、いわゆるコミュニケーション能力に問題があるというわけではない。実際、彼女の周囲に問題が起き始めたのはルアナが言うにはここ数日らしい。
では、何が彼女と友達付き合いをうまくいかなくさせてしまったのか。それまで大丈夫だった人付き合いが急に駄目になってしまったというのなら、原因として考えられるのは、やはり会長から聞いたアリスという種族の性質になるのだろう。
(性体験の記憶の喪失だったか……)
小等部であろうと魔物である以上、性交渉に及ぶ者が居ても異常ということはない。もう付き合っている相手がいて、その相手との間で記憶喪失によって問題が発生して、それが他のクラスメイトとの関係にも波及したとしたら、強引だが辻褄は合う。
リリは自身の特性を知らないということだろうか。ならば礼慈に提供できる解決策は彼女の特性を伝えることになるのだろうか。
(いや……どう話を切り出す?
いきなりそのまま性交渉するような男友達は居るのかなんて訊くのか?)
魔物化した母親をもっていながら、魔物の倫理感というのは分からない。
無神経に聞いて彼女に嫌われてしまうのは、彼女から気晴らしの機会を奪うことにも繋がるだろうし、単純に礼慈自身としても少し寂しくもある。
(違ってた時が一番悲惨だしなあ……)
性体験の記憶の喪失と友人との間の問題とがいまいち結びつかないこともあってこの推測には自信がない。切り出すにはリスキー過ぎる。
そんなことを考えていると、リリが問いかけてきた。
「あの、今日もお話、できますか?」
「ああ、今日も友達にフラれてしまったからな」
ちょっと困った顔をしてリリが首をかしげたので、「冗談」と笑う。
「今日は君のために時間を空けておいたんだ」
「あ、ありがとうございます!」
「……ん」
どうにも育ちが良すぎるのと純真なのが相まって言葉の意味をそのまま受け取られてしまう傾向にあるようだ。
ネタをスルーされた芸人の気分で、礼慈は昨日のようにリリの隣に腰を下ろした。
そうして一息ついた直後、リリが卒然と顔を向けてくる。
「あ、あの。昨日、わたしたちがどんなお話をしたのかって覚えていますか?」
「ん? ああ……」
頷き、それから礼慈はその質問の意図を考えた。
何か、言葉遊びの類でも求められているのではないかと思う。だが、残念ながらリリが満足するような返答には心当たりがない。ここで考え過ぎて答えが遅れるのも好ましくないだろう。
礼慈はリリが作ったクッキーを食べ、飲み物を飲みながら担任の先生や家族の話をして、それから教科書に載っている物語の話やクラスメイトの話をしたことを素直にそのまま説明した。
それらの話を聞いていくにつれてリリの表情に残っていた憂いが晴れていく。何がそんなに彼女に響いたのかと戸惑っていると、リリがすすっと身を寄せて来た。
手が触れ、リリがくすぐったそうに笑う。
「せいかいですっ。レイジお兄さま」
「昨日言ってた呼び方になったかな」
「――はい!」
とても良い返事と共に甘い香りが鼻に薫ってくる。
先の質問の意図は何なのかは分からないままだが、どうやら自分はリリの試験に無事合格することができたようだった。
(しかし……)
質問してきた際の、リリのあまりにも真剣な様子が気にかかる。
途中で呼び方を変えてきたことからも分かるが、彼女は最初礼慈を信用していなかったようだ。疑心暗鬼の状態になっているのかもしれない。
(他人を信じられなくなるような状態か……一体何故)
これまで考えていたことはあくまで想像にすぎない。予測を元にして徐々に実際の所を探っていこうとしていたのだが、意識的にか無意識的にか、リリが他人をかなり警戒していることが分かった以上、本意ではないが問題解決のためには多少強引にでもリリから話を聞き出すべきなのかもしれない。
(だけど、昨日あの後、教頭ちゃまでも聞き出せなかったことになるんだよな……)
バフォメットでも引き出すことができなかった魔物の悩みを自分如きに話してくれるものだろうか。
そう思い悩んでいると、リリが「何して遊びましょう?」と訊ねてきた。
(遊び……。
おままごと、には成長し過ぎているように見えるし、遊具で……は無難過ぎか?)
考えてみるが、良い案は咄嗟に思いつくものではない。
そもそも礼慈はリリくらいの年の子がするような遊びにはまったく心当たりがなかった。
「リリはどんな遊びをしたいんだ?」
「レイジお兄さまが小等部の時にしていた遊びが気になります」
乞われた内容に、礼慈は大いに悩む羽目になった。
(あの頃は、遊ぶ気にはあまりなれなかったからな)
当時の礼慈は勉強漬けで、図書館の住人になっていた。友人も今以上に少なかったため、同世代の子供たちがどのような遊びをしていたのかもかなりあやふやだった。
(コンピューターゲームの類ならある程度いけるんだが……)
屋外では据え置き機は望むべくもないし、携帯系の機種も持ち合わせがない。携帯端末のゲームならばレトロなアプリケーションがインストールされているのでスコアを競うという形で遊ぶことはできよう。
それでいけるかと思いかけた礼慈は、自分が随分と真剣に考えているなと自覚した。
所詮はただの遊び。そちらに思考を割くよりも、もっと事態の解決のために頭を使うべきなのではないかと思う。だが、リリが喜んでいる顔のために少しでもよいものを考えたいという思いも否定し難かった。こうまで親身になってしまうのは、おそらくは泣き顔を見てしまった彼女に対する同情のためだろう。
(だとしたら……)
ちらと視線を向けると、リリは考え込んでいる礼慈を期待の眼差しで見つめている。
たっぷり悩んで出てくるのが携帯ゲームというのも面白みに欠ける。
どうせならばリリが思いもよらないことを提案して、彼女の気晴らしとなってやりたい。
(そうなると、俺の考えじゃ不足だな)
礼慈は携帯端末を取り出してメッセージアプリを立ち上げた。
「ピコピコですか?」
「いや、遊びに詳しい奴が居るから、そいつと意見を交換しようと思ってな」
そう言いながら礼慈は『小等部の子の遊び相手をすることになった。何かインパクトのありそうな遊びを教えてくれ』と打ち込んだ文面を送信した。相手は相島英だ。
「あいつはガキ大将だったからな。いい返事が来るだろう」
そう言って、昨日のように自販機へ小銭を入れた。
「返事が来るまで話でもしてようか。ミルクティーでいいか?」
「え、はい……あ」
缶を渡すと、何か言いたげにリリは口ごもった。
「どうした?」
促して、自分は水筒の蓋を開ける。リリはそんな礼慈に申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。わたし、今日、おかし作ってなくて。何もお返しできません」
(……となると、この甘い香りは……彼女自身のものか?)
香水の類だったりするのだろうかと思いながら、礼慈はリリの頭に手を置いた。
「俺の都合でレディーを待たせてしまっているのだから、おごらせてもらわなくては俺が困ってしまう」
「……」
礼慈は思わず顔を伏せて内心で呻いた。
(これは……恥ずかしい!)
リリに余計な負担をかけないようにとできるだけひょうきんな調子で言ったが、変なむず痒さを感じる。
慣れない方向の諧謔だけに、余計にクるものがある。クラスメイトに聞かれでもしたら何事かと警戒されること必至だ。
「あー、おかしなことを言った。ただあまり気にしなくていいと伝えたくてだな……」
言い訳じみたことを言う礼慈だが、リリの方では思いの外感銘を受けてくれたようで、呆れではなさそうな眼差しを向けてくれていた。
自分の普段の言動とかけ離れたことにポジティブな印象を持たれても、それはそれでいたたまれない。
(早く返事を寄越してくれ……!)
そう願った時、礼慈は昨日彼らとした会話を思い出した。
全学合同文化祭に向けて、英は部活を途中で抜けて嫁の鏡花が所属しているボランティア部に手伝いに行っている。
(あいつ、嫁といちゃつくのに忙し過ぎて返信寄越さないどころか携帯見てすらいないんじゃないか?)
そうであれば短い時間で返信がある可能性は絶望的だ。もししばらく待って返信がこないようなら、その時はゲームでもやって時間を潰してもらおうかと考えていると、携帯端末が震えた。
「お、早めの返信だ」
助かったと思いながら送られてきた文面を見た礼慈は「ああ……」と呟いた。
(そういえばそういうのもあったな……)
懐かしい。これならば実際にそこに行くことがなくても聞くだけでそれなりに面白くはあるだろう。
期待の眼差しのリリに、礼慈はまず訊ねた。
「学園の裏山にある秘密基地って知ってるか?」
●
守結学園の小等部には先輩から代々伝えられる秘密の遊び場がある。
小等部校舎の裏山にある洞窟で、歴代の児童によって様々な物品が持ち込まれていつの頃からか秘密基地と呼ばれるようになっていた場だ。
「その場所を中等部に上がるお兄さんたちがその時の、たしか三年だか四年だかの子に教えるっていう流れがあったんだよ」
あの頃は学校と家の往復が世界のほとんどだった。そんな児童たちにとって秘密の遊び場というのは魅力的に映ったのだろう。
「魔物の皆はこの頃にはかなり成熟――お姉さんしていてな。そういう遊びよりも花嫁修行に励み始める子が多かったんだが、男子は結構その遊び場に夢中になってた」
少なくとも礼慈の世代では秘密基地は男子専用の遊び場のイメージがあった。
「だけど、冬になるとただの洞窟じゃああまり快適に遊べないって皆気付いたのかだんだん行かなくなった」
そして花嫁修行に夢中になっている間放っておかれたことを察知して焦った魔物たちの巻き返しによって、春を迎えるころには彼女たちともっと快適な場所で遊ぶようになっていた。
「そうして秘密基地には誰も行かなくなるけど、あれはあれでガス抜きにもなるからと下の子に伝えていってたんだな」
成長途中の一時にだけ使われる。そんな儚い遊び場だ。
礼慈も英に連れられて一度だけ行ったことがある。
(結局図書館の住人に戻ってしまったが)
暑かった夏のことが思い出される。あの時は山に登るにも汗だくになったものだが、
(秋口の今ならいくらかましだな)
「どうだ? 行くか?」
「行きたいです!」
思ったよりも勢いよくリリが食いついてきた。
尻尾も羽もせわしなく動いている。
「そんな所があったんですね。お友だちのみんなとはヒミツ基地のお話はでたことないです。男の子たちは行ってるのかな?」
「どうだろう。夏を過ぎたら人気がなくなっていった印象があるけどな」
リリの世代でも秘密基地については魔物に対して秘密にされ続けているようだ。
「男の子たちのヒミツの遊び場。すごいですね」
(これは狙い通りのインパクトかな)
男の子たちの秘密の遊び場という紹介文句がいい感じに刺さっているようだ。魔物だけあって、異性のことに関しては興味が尽きないのだろう。
(いや、このくらいの年の子は男も女も関係なく異性に興味を持ち始めるものか)
当時、男子の中で遅い奴でも女子を意識し始めていたのが今のリリくらいの年頃だったと思い出す。
皆がこぞってあの秘密基地に行っていたのは、もしかしたら自分たちよりも生き物としてより強い魔物というものを理解し始めた少年たちの雄の本能が、魔物たちと距離をとることによってささやかな抵抗を行っていたからなのかもしれない。
(結局は皆して魔物の元に戻ってしまったわけだが)
これは相手が悪いとしか言いようがない。
今現在着々とつがいになりつつあるクラスメイトたちのことを思い、礼慈は空を見上げた。
陽が傾きつつあり、空が茜に染まろうとしている。
(あの山、そんなに登ってはいなかったはずだよな……)
話をして期待させてしまった以上、リリを秘密基地まで連れて行かなければ生殺しだ。
授業以外で運動らしい運動をしていなかった礼慈が暑くて汗をかくだけで済んだはずなので、道も大して険しくも距離があったわけでもないはずだ。
これから秘密基地に行って、歴代の秘密基地使用者たちが持ち込んでいた物品を一通り見てから戻ればいい感じに日も暮れているだろう。
そこで今日は別れて、明日から自分が小等部の頃の話をしていきながら距離感を詰めて少しずつリリの口から自分のことについて話させるのがいいか。
(……明日?)
自然とそんな言葉が浮かんでいる自分がおかしくなって礼慈はつい笑ってしまった。
「? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。ただ、こうして君と話しているのは楽しいなと思ったんだ」
「あ、ありがとう、ございます」
照れたようにりりがちょこんと頭を下げる。
(会長には相談相手として接したなんて言ったけども……)
この子が友達の輪に戻るまでのほんの少しの間、本当に友達でいるのも悪くない。
そんなことをしみじみ思っていると、顔を上げたリリが不意に不安そうに尋ねてきた。
「女の子でもヒミツ基地に行ってもいいんでしょうか?」
男子の遊び場であったことを強調し過ぎたかもしれない。
うまく伝えることはできないものだと思いながら礼慈は「大丈夫」だと請け負った。
「俺たちの時は別に魔物侵入禁止と決まってたわけじゃないしな。それに、リリは俺の友達だろ? 友達を誘って遊び場に遊びに行くことがだめなわけがない」
もし今代では魔物禁制になっていたとしても、こちらは先輩様だ。なんとでも丸め込むことはできるだろう。
ただ、と礼慈は声を潜めて言う。
「せっかくの秘密基地だ。あんまり皆に広まってしまうのも名前負けでつまらない。リリ。君はこれから行く秘密基地の場所を皆に内緒にしていられるか?」
雰囲気作りのための秘密の共有の提案に、リリはひどく真剣な表情で頷いた。
「は、はい……っ。みんなにはないしょにします!」
「よし。じゃあリリも今日から秘密基地の仲間だ」
締めとして厳かに言うと、リリは気合を入れるようにふんっ、と鼻から息を吐いて、缶の中身を勢いよく飲み干した。
素直に聞いてくれる分、こういうノリに乗せやすくて面白い。
こくん、と動いて嚥下する白く華奢な喉を見つめながら苦笑する。
「そんなに焦らなくても基地は逃げはしないよ」
「でも、急がないと夜になっちゃいますから」
「ん、まあそうか。せめて飲み物を蓋付きにしておけばよかったな」
ここまで期待されてしまうと俄然やる気が湧いてくる。
「じゃあ、夜になってしまう前に案内させてもらおう」
「はい、よろしくおねがいします」
18/08/14 22:14更新 / コン
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