進路
ガヤガヤと物音がして、鍵をかけた教室の扉が開けられる。
体育の授業が終わって教室に戻った英たち男子生徒は、着替えの前に飲物を飲んだり汗を拭いたりして汗がひくのを待っていた。
「暑くてかなわん」
「もう夏だな」
汗をタオルで拭いながら、英はまだ運動が足りないと思っていた。
(もっと疲れて夢も見ないくらい深く眠っちまわないと)
昨夜処理したにもかかわらず、今朝の目覚めもまた淫夢によるものだったのだ。
(抜きが足らなかったか?)
かなりアホなことを考えているのは分かっているが、本人としては切実だ。
人魔共学の学校で生活しているせいでいつの間にか魔力にあてられて精力が増加しているのかもしれない。
(これまでは一回で大丈夫だったんだけどな。夢だってよく見るようになってきてるし)
鏡花が相手の淫夢は精通の時から何回も見ていたが、ここまで頻繁には見ていなかった。
(こんなことじゃあ、恐ろしくて授業中に居眠りもできやしない)
授業中にやらかしてしまったとなると、流石に翌日から学校に来る自信はない。
(昨日の朝みたいに名前まで呼んだとなると言い訳もできないしな)
居眠りする気はないが、もしもということもある。保健室の海和尚に相談しに行った方がいいだろうかとも考えるが、直後に内心で首を振る。
あそこは恋愛相談をすると嫁を紹介される竜宮城の出張所の顔があるという噂があった。淫夢の相談をしに行って無事でいられるとは思えない。
鏡花以外の相手が考えられない以上、ここは学園の相談施設を頼るよりも友情を頼るべきではないだろうか。
(つっても適当な奴に相談したらいらないおせっかい焼かれそうだな)
事は個人的な納得の問題なため、外からあれこれと口を挟まれても解決にはならないだろう。その辺り、口が固く理解もある礼慈にでも相談してみようかと考えていると、足もとに冷気が浴びせられた。
「冷たッ?!」
驚いて飛びのくと、冷却スプレーを片手にクラスメイトが笑った。
「どうしたよスグ。眉間に皺なんて寄せちゃってさ」
邪気の無い笑顔に手刀を返し、英は咄嗟に嘘を並べた。
「昨日部活でやらかしたからな、引きずってるんだよ」
「そいつはかわいそうに。ほらもっと冷やしてやるよ」
「あ、くそ、顔に向けんな」
ひとしきりスプレーを相手取って遊んでいると、着替え終わった他の男子が集まってきた。
参戦してくるのかと思ったら、目的は違ったようだ。彼らは声をひそめ、
「なあ、ピリの奴が剣道部の一年と付き合い始めたっていう話はマジか?」
「あー、マジマジ。昨日うちにマネージャー見習いに来てたぞ」
正確には鏡花に興味があるなら来てみるかと声をかけてもらったのだが、けっこう好評だったようで誘った側としては満足だ。
一連の話を聞き、冷却スプレーを持った男子、烏頭(うとう)は真面目くさった顔で「これは由々しき事態である」とのたまった。
「何が?」
「この、夏も始まろうかという時期になって付き合い始める奴らが増えてきているとは思わないか?! なんだ? 恋の季節なのか?!」
「時期的にそんなもんだろ。もう高等部二年だしな」
別の男子がそう応じると、スプレーから冷気を吐き出させながら烏頭は言う。
「ならば! そろそろ俺もこ、告白とか、いってみるか?!」
「グラキエスの子だっけか。片思い期間、けっこう長いよな?」
英は指折り数えた。
「中等部の時に女王の命令で学園の視察に派遣されて来たところに一目惚れだろ? もう四年目か」
「高等部卒業すると進路別れるし、決着つけるなら来年中、だよな?」
「さらっと逃げようとすんな。二年の二学期に入ると将来の方向性もきっちり決まってくるし、行き先が分かってるってわけじゃないなら一学期の内に決めるしかないんじゃないか?」
ヘタレた烏頭に別の男子が喝を入れる。
烏頭は「よし、分かった」と頷き、英を指差した。
「宣言する! 俺は相島が大取に告白したらあの子に告白するぞ!」
「はあ?!」
訳の分からない宣言に愕然とする英に対して、周りはそれはいいと囃し始めた。
「ちょっと待て、なんで俺が鏡花に告白することになるんだよ?」
「え、だってお前大取のこと好きじゃん?」
当たり前のように言うクラスメイトに英は手を上げて制止を促す。
「それとこれとは話が違うだろう」
「頼むよ相島ぁ。俺の希望になってくれ」
すがりついてくる烏頭を振りほどいて冷却スプレーを奪う。
「頭を冷やせ」
「あの子みたいなこと言うなぁぁぁ……」
スプレーを吹きかけられて悶える烏頭を、嫌な顔をしながら別のクラスメイトが引き取る。
「だけどお前、傍から見てるとほんともどかしいぞ?」
「いや、俺が鏡花を好きだなんてまだ一言も」
「ばれてないと思ってるのなんてお前くらいだぞ?」
言葉を失う英に、少し離れたところで見ていた礼慈が慰めるように言う。
「まあ、大取とか、他にも何人か気付いてないのはいるっぽいけどな」
「キキーモラの大取さんが気付いてないってのはある意味凄いよな」
「灯台下暗しと言うしな。身近すぎてかえって気付かないこともあるんだろ」
男子たちの会話に英は戦慄した。
「だ、誰か鏡花にそのこと言ってたりしない……よな?」
「本人が頼んだんならともかく、この学園に通ってる奴でそんな無粋なことするのはそうそういないだろ」
烏頭はでも、と続ける。
「たまに代わりに誰か言ってくれれば相手の反応なんかも分かっていいな、とか思うんだけどな……」
「お前そこでヘタれるなよ……」
英は鏡花に自分の想いが伝わっていないことにほっとすると同時に重圧を感じていた。
鏡花は英が彼女を好きなことを知らない。
英の想いに無知であるからこそ、今日までこうして家に来てくれているのだ。
それはつまり、英の想いが彼女の知る所となれば、なんらかの変化が起きるということでもある。
良い返事をもらうことができれば幸いだが、内面がぼろぼろな今の英に鏡花が良い返事を返してくれるとは思い難かった。
悪い返事ならば、近所付き合いも大きく変化することになるだろう。
鏡花の両親とも、これまで良好な関係を築いてきたが疎遠にならざるを得まい。というか、英の心が彼らと会うのを受け付けない可能性がある。
そういうことを考えるにつけ、迂闊に今の関係を壊すわけにはいかないと思うわけだが、その辺りの葛藤を知らないクラスメイトたちは矛先を英に向けることにしたのか、口々に甘い言葉を囁いてくる。
「毎日家に通ってきてくれてるんだろ? だったら大丈夫だって」
「というかそれでこれまで何もなかったのが凄いと思うんだけど」
「魔物が毎日通ってる家の人間を嫌いなわけないだろ」
「まあ待ってくれ」
英は手を広げて男たちを再度制した。
「彼女らは仕事に熱心な種族のキキーモラだぞ? それこそ小等部の頃から働いてるっていう職業意識とか、なんか見かねるくらい荒れてたらしい俺ん家に対するしっかり保たないとっていう義務感とか、そういうのがあるからこそ通ってくれてるんだと思うんだ。
ほら、猫みたいな感じ。家に居着くタイプなんだよ」
「キキーモラはどっちかというとイヌ科じゃないか? いや、鳥類かもしれんが」
礼慈がぼそっと言うが、家に居着いてくれていると考えなければ、彼女が未だに家事をしてくれている理由が分からなくなる。
一度、英は鏡花の忠勤を無下にして、完全に拒絶したことがあるのだ。それでも彼女は英を見捨てることなく通ってきてくれている。それは彼女の義務感ゆえか、そうでなければ働き者好きな彼女の心に両親の、家庭を維持できるギリギリのラインまで働く姿が心に迫ったからだろう。
鏡花は英の両親を尊敬しているようでもあるし、仮に彼女が人に付き仕えるとしたら、それは両親に対してであり、自分はおまけにすぎない。
「まあ、おいおい告白はするさ」
「あ、なんだその逃げ文句」
「烏頭には言われたくねえよ。こっちにも事情があるんだ」
そう返して、あとはこのまま何を言われようとも完全防御する構えの英に、礼慈がまあ、と取りなすように言った。
「人にはそれぞれ考えがあることだしな。もしかしたら今の生徒会長みたいに突然意見を変えたりすることもあるかもしれん。そうなるように祈って話はおしまいだ。
そろそろ女子が戻ってくる。聞こえたら野暮だろ?」
このあたりは弁えたもので、礼慈の意見に反対する者は居なかった。
詫びのように肩を叩いて席に戻るクラスメイトたちに冷却スプレーを振りかけて応じる英。そんな彼に最後に近付いて来た礼慈が何気ない口調で小さく告げる。
「そういや、大取を好いてて告白したいって奴が居るって生徒会で噂が出てたよ」
「え?」
思わずスプレーを落としそうになった英に、礼慈は尚も小声で告げる。
「まあ、人気があるんだろ。だからいつまでも待っててくれると思ってたら手遅れになるかもしれないぞ」
肩を叩く彼に冷却スプレーを吹きかけるのも忘れて、英はざわめく心に気を取られていた。
●
彼女に告白しようとしている者が居るという。
兄妹、あるいは姉弟のように一緒にいることが当たり前だった幼馴染が永遠に自分の傍から離れてしまうかもしれないという想像は、意外なほどに英に恐ろしさを感じさせていた。
生徒会で出たという噂の真偽が気になって悶々としている内に気が付けばもうHR。一日が終わろうとしていた。
鏡花がモテるというのは分かっていた。とはいえ、
(よりによってこのタイミングでか……)
その人物は、きっと近い内に鏡花に告白するのだろう。では、昔から彼女を好いている自分はこれからどうするべきか。
心がぐちゃぐちゃになっている現状での難問に内心で英は頭を抱えた。
告白すべきなのか、現状を維持すべきなのか。告白するとして、今の自分が彼女を口説くにはどんな言葉がいいのか。そもそも彼女に対して自分はそんなことを考える権利はあるのか。
疑問が頭の中を回っては思考を乱す。
自然と礼慈の言ったことはただの噂ではないだろうかと都合の良い方向に考えが向いてしまいそうになるのを押さえつけて真剣にこれからのことを考えていた英の前に紙が現れた。
「相島君?」
「ごめん、ちょっと他所ごとしてた」
前の席から回されてきたプリントらしい。
ついうっかり自分の世界に沈んでいた英は誤魔化すように笑ってプリントを受け取る。
見てみると、進路希望調査票だった。
●
守結学園の生徒は、進路希望調査票を小等部の頃から書かされている。
人類側の一つ上の世代からは進路について考えるのはまだ早いのではないかいう意見も出るが、魔物娘がこちらの世界にやってきてからというもの、人類は全体として早熟になっており、早めに自分たちの行く末を意識してもらいたいというのが学園側の考えだった。
中等部卒業――下手をすれば小等部卒業と共に進路希望通りに世間に飛び出す者も現れるようになった現在だが、それでも大半は高等部まで学んでいくし、学園も高等部卒業までの在籍を奨めている。
必要最低限の知識を得つつ、二つの世界についてさわりだけでも学び、心身の成長が頃合いに達するにはそのくらいの年月が必要だというのがこちらとあちらの教育者の見解であるためだ。
そういう意味では、高等部二年次に配られる進路希望調査票はこれまでのものとは重みが違った。
文系理系の最終決定の機会でもあるし、高等部を卒業した後の進路の方向性にも繋がるからだ。
高等部を卒業する生徒たちには付属の大学に進む者や学びたいことに強い学校を望む者。就職や開業、育児専念やお嫁さんお婿さん。変わり種では入信や社交界入り、果ては住む世界を変えたり人を辞めたりなど、多種多様な道がある。
大きく進路が別れていく。多くの者にとって今回の進路希望調査はその岐路なのだ。
学園という繋がりで皆と会うことができるこの関係は時間制限付きのもの。
調査票を渡された生徒たちは、改めてその事実を突きつけられる。
迫るタイムリミットを頭の片隅に感じながら部活に勉強に恋愛にと、人も魔物もそわそわしだす。高等部二年の生徒にとって、今はそんな時期だった。
鏡花は恐らく同学年全体の中でも特に、徐々に迫るタイムリミットを意識していた。
怯えていたといってもいい。
英が学びたいと真剣に考えていることのために守結学園とは違う、外部の大学へと進学しようとしていることを彼女は知っていた。
彼が目指している大学は実家からの通いは現実的ではないため、大学の近くに下宿することになるだろう。
彼が相島家から居なくなってしまえば、家事手伝いに行った時に会うこともできなくなってしまう。それは、好きな人の機微を感じ取れない欠陥品の自分が傍に居ていい理由が消え去ってしまうことを意味していた。
時が経てば確実に訪れる別れの瞬間。もう何年も前から頭では理解して、彼の更なる飛躍のために仕方なしと受け入れていたそれに、感情がついてきていなかった。
机の上のプリントに目を落として憂鬱な息を吐く。
ここに書きたい言葉は小学生の頃から変わらない。
――英君の従者。
幼い頃はさらさらと書けたその言葉が、今はどうしても書けなかった。
なんと書いて埋めようかと白紙の用紙を眺めていると、不意に肩を叩かれた。
「キョウちゃん?」
「あ、はい」
顔を上げるとピリが心配そうな顔をしていた。
「さっきから呼んでもぼーっとしてるし、どうしたの? 体の調子でも悪い? 保健室行く?」
「いえ……少し考え事に集中していました。すみません」
「そう?」と言いつつもピリはまだ心配そうな顔のままだ。
思い悩んでいることを話してしまえば、彼女たちは助けてくれようとするだろう。
だが、それではいけない。
この問題はひどく個人的なもので、解決は当人同士の間でしか成り立たない。そういう類のものだ。できれば他者の介入は防ぎたい。だから、鏡花はいつも通りを意識した技巧的な笑みで応じる。
「それよりも、何かご用事があったのではありませんか?」
「あ、そうだ!」
ピリは羽をばたつかせて教室の外を示した。
「キョウちゃんに会いたいって子が来てるんだよ」
●
部活を終えた英は、昨日と同じく生徒会準備室に居た。
今日も今日とて酒を飲みながら雑用をこなしている礼慈に勉強を教えてもらうためだ。
昨日教えてもらった単元と同じ内容を扱う問題を、生徒会の資料室に積んである参考書から礼慈が適当に選んで出題する。
学園付属の図書館から生徒会準備室に場所は移動したものの、何年も繰り返されているいつもの光景だ。
英は問題文をペン先でつついて公式を思い出しながら、HRで配られた進路希望調査票のことをぼんやりと思った。
彼の調査票には志望する大学の名前が既に記入されている。
どの大学も、魔物がこの世界にやってきて人類が転換期を迎えた、その過渡期の研究に強い大学だ。
英は魔物たちがこの世界にやって来て人類の生活に溶け込んでくるまでの間の数世代に及ぶ歴史に強い興味を抱いていた。
もちろん、世界が交流を持った最初期からこの世界において人魔共学を掲げている守結学園も、その手の研究では著名ではある。しかし、設立の過程において土地や建物から経営システムまでを魔王の子女であるリリムが差配した経緯があるためか、教員には魔物の率が高く、大学における研究の視点も魔物側に立ったものが多い。
それ自体が悪いということはないのだが、英は自身がこの方面に興味を抱いた経緯から、人類の側から見た世界の交流の過程を学びたいと思っていた。
人類側から見た歴史となると別の大学に詳しく、英が一番に志望しているのは、そういった保守派の第一線で活躍している研究者が在籍している大学だった。
第二志望以下に滑り止めも記入してあるが、研究者になるという将来の希望を思うのならば、ここでの妥協はしたくない。
それに、ここで決めたことを貫くのは鏡花に胸を張って向き合える自分になるために必要なことでもある。で、あればこそ、鏡花と物理的に離れることになっても構わないと思っていた。
しかしそれは鏡花が誰とも付き合うことなく、いつまでも家に居てくれるものだと当然のように考えていたからだ。
礼慈が言っていた、鏡花を好いているという男。その男の告白を彼女が受け入れれば、彼女は永遠に手が届かない存在になってしまう。
そんな可能性を考えた時に感じた恐怖がまたぶり返してきた。
自分に納得がいくまでは鏡花に告白するつもりはなかったが、その気持ちが揺らぐ。
(俺、意志弱えな)
とはいえ、その男が鏡花に告白する前に動かなければ人生の重大事の一つがそこで潰えてしまうかもしれない。
(いつまでも待ってもらえると思うな、か……)
まったくその通りだと思う。
鏡花は一個の人格を持つ魔物娘なのだ。彼女の自由を束縛することなど、誰にも許されるものではない。
なんの約束もない相手をずっと待っていてくれるなどと、何を甘えているのだろう。
(自分のもの扱いかよ。俺、昔から成長してねえな)
だが、こちらは生まれた時から彼女と一緒なのだ。ぽっと出の男に彼女を渡す気はない。
ならば告白を、と頭が結論を出すのだが、そこに感情が今の自分が告白などしてしまって本当によいのかと待ったをかけて、思考は始めに戻る。
空回りするばかりの思考を振り切るために部活ではがむしゃらに体を動かしていたが、こうして机に座って問題文と公式を相手にしていると堂々巡りがまた始まって英を捕らえた。
(運動してこようか……ああ、そういえば今日は鏡花が来なかったな)
試合も近いし、新規でマネージャー希望者が来たのでしばらくは部活に顔を出し続けると思っていた鏡花が今日は来なかった。
元々当番の日ではないとはいえ、まだ二日目のピリを一人にしておくというのは鏡花らしくない。
ボランティア部が忙しいのだろうか。
そこまで考え、鏡花のことを好きな男はボランティア部の部員ではないかと思い至った。
働く彼女を間近で見ることができる部活だ。それは惚れる奴も出てくるだろう。
(もしそうなら、行かせたくねえな)
いよいよ身勝手なことを考え始めた英は、強引に思考の舵を切ることにした。
(鏡花は卒業したらどこに行く気なんだろう)
将来の主に仕えるためにキキーモラとして万全の技量を身に着けたいと言っていたのを聞いたことがあるが、具体的な今後のことなどは知らない。
家政学校に行くのだろうか。
進路希望調査票も配られたことだし、世間話のノリで今度改めて訊いてみるのもいいかもしれない。
頭の中で様々な話題が湧いて目の前の問題文が頭に入ってこなくなった時、コトン、と物音がした。
見ると、礼慈が水筒を置いて天井を見上げている。
「……酒がなくなった」
さて、と彼は礼慈を見やり、白紙の解答用紙を指差した。
「問題、全く解けてないな。数学の応用なんて数こなして頭の中にパターンを溜め込んでナンボだから初めて取り掛かる問題につまづくのは仕方ないが、これは昨日教えた問題と同じ解き方でいけるやつだぞ。
一度で完璧に解法覚えろとは言わないが、今回のは解法を覚えられなかったとか、そういうのとは違うよな」
そう言って彼は腕を組む。
「部活でもうまいこといってないみたいだし、お前、今の状況どうにかしないとマジでやばいかもしれないぞ」
酒臭い息で指摘されたことは一から十まで全て正しい。
英は観念した。
「なんかここ何日か、鏡花のことが気になってしかたがないんだ」
「気になるのはいつもじゃないのか?」
「……俺が鏡花を好きだっていつから知ってたんだ?」
「お前が俺に勉強を教えろと初めて話しかけて来た時には既に」
ということは小等部の頃だ。
「これでも、うまいこと隠してこれたと思ってたんだけど」
「……マジか」
心底呆れたような彼の発言に、英は何も言い返すことができなかった。
「お前も大取も、別に鈍いってわけじゃないんだけどな」
「鏡花は本当に俺の気持ちに気付いてないんだよな? な?」
「どうもそうらしいんだよなぁ……」
礼慈は椅子の背に体重をかけて首を真上に向け、
「お前、実はキキーモラ相手にだけ効く魔法が使えたりしないか?」
「魔法なんて教わったことがない。
なあ、体育の後に言ってた鏡花を好きな男の話、あれ本当か?」
「ああそうか。アレがとどめになったのか」
悪いな、と悪びれずに言って、礼慈は続ける。
「詳しいことは俺にもよく分からない。ただ、会長がな、舞踏会の場でそんな話が出たのを小耳に挟んだらしい」
「貴族様の社交界か……」
やんごとなき方々が誰かに話した情報ならば、裏の取れた話なのだろうと、社交界というものをよく知らない英はなんとなくそのようなことを思う。
相手ももしかしすると貴族なのかもしれない。
もしそうだとすると、キキーモラという主を求める傾向にある魔物に似つかわしい相手なのだろう。
思い悩んでいる英に礼慈がまずは、と告げる。
「その男に先手を取られてしまう前にさっさと告白するのがいいんじゃないか?」
「だけど、俺、鏡花にふさわしいだけの男にまだなれてないし、今もこんな簡単にぐちゃぐちゃになるような人間でさ……告白してもいいのか?」
「たしかに、そんなうだうだ悩んでるようじゃだめかもな」
にべもない言葉に英はうなだれる。
そんな英を憐れに思ったのか、もり立てるような口調で礼慈はフォローした。
「お前、小等部の時にほとんど会話したことがなかった俺に勉強教えてくれって頼んできた時の勢いを思い出せって。
あの時のお前は今よりよっぽど突き抜けててよかったぞ。それを大取本人に向ければいいだけだ」
「今、それが出来たらと思うよ」
中途半端に賢くなったせいか、様々な考えが巡ってしまって思い切った行動が起こせない。
「あの頃くらい単純に生きられたらなぁ」
「面倒だな」
「好きな人ができれば分かるぞこの気持ち」
「じゃあ俺には分からん」
この学園に居ていつまでそんなことを言っていられるのか、賭けをしてやりたい気分になる。
「昔は単純だったってことは、放課後に剣道場に通うようになったのもやっぱり大取絡みってことだったんだな」
「まあ……そうなるな」
「やっぱりそうか。俺に勉強を教わりに来た時と同じで道場通いも大取と喧嘩したしばらく後のことだったから、まあそうなんだろうとは思ってたよ」
「いや、一応、俺個人としても心身共に鍛えたかったのは本当だぞ。勉強したいこととかも、あの頃はぼんやりしてたけど、今はしっかりと学びたい分野もその理由もある。何も鏡花のためだけってわけじゃない」
「うんうんそうだな。今では行きたい大学も決まってオープンキャンパスにまで行く熱心っぷりだ」
みなまでいうなと言わんばかりに酒由来の適当な返事をする友人に、英はここまで話したのだからもっと話を聞いてもらって心の安定に役立って貰おうと判断した。
音を立てて参考書を閉じると、礼慈が問いかけの視線を寄越してくる。
「やっぱもう勉強にならないからちょっと話を聞いてくれ」
「あー、なら待て。水を買って来ようか。少しは酔いも覚める」
「いや、そのままでいい。というか、むしろそのままがいい」
流石にこれから話すことは素面の友人には言いづらい。
「お前が酒を嗜む不良でよかったよ」
「小馬鹿にしたのを怒ってるな?」
「そんなこと気にしてる余裕がないのが今の俺だ」
力なく笑って、英は咳払いをする。
「昔話をするぞ。むず痒くなる話だからな。か、覚悟しろよ……?」
「そうか、要るのは水じゃなくて追加の酒だったか」
体育の授業が終わって教室に戻った英たち男子生徒は、着替えの前に飲物を飲んだり汗を拭いたりして汗がひくのを待っていた。
「暑くてかなわん」
「もう夏だな」
汗をタオルで拭いながら、英はまだ運動が足りないと思っていた。
(もっと疲れて夢も見ないくらい深く眠っちまわないと)
昨夜処理したにもかかわらず、今朝の目覚めもまた淫夢によるものだったのだ。
(抜きが足らなかったか?)
かなりアホなことを考えているのは分かっているが、本人としては切実だ。
人魔共学の学校で生活しているせいでいつの間にか魔力にあてられて精力が増加しているのかもしれない。
(これまでは一回で大丈夫だったんだけどな。夢だってよく見るようになってきてるし)
鏡花が相手の淫夢は精通の時から何回も見ていたが、ここまで頻繁には見ていなかった。
(こんなことじゃあ、恐ろしくて授業中に居眠りもできやしない)
授業中にやらかしてしまったとなると、流石に翌日から学校に来る自信はない。
(昨日の朝みたいに名前まで呼んだとなると言い訳もできないしな)
居眠りする気はないが、もしもということもある。保健室の海和尚に相談しに行った方がいいだろうかとも考えるが、直後に内心で首を振る。
あそこは恋愛相談をすると嫁を紹介される竜宮城の出張所の顔があるという噂があった。淫夢の相談をしに行って無事でいられるとは思えない。
鏡花以外の相手が考えられない以上、ここは学園の相談施設を頼るよりも友情を頼るべきではないだろうか。
(つっても適当な奴に相談したらいらないおせっかい焼かれそうだな)
事は個人的な納得の問題なため、外からあれこれと口を挟まれても解決にはならないだろう。その辺り、口が固く理解もある礼慈にでも相談してみようかと考えていると、足もとに冷気が浴びせられた。
「冷たッ?!」
驚いて飛びのくと、冷却スプレーを片手にクラスメイトが笑った。
「どうしたよスグ。眉間に皺なんて寄せちゃってさ」
邪気の無い笑顔に手刀を返し、英は咄嗟に嘘を並べた。
「昨日部活でやらかしたからな、引きずってるんだよ」
「そいつはかわいそうに。ほらもっと冷やしてやるよ」
「あ、くそ、顔に向けんな」
ひとしきりスプレーを相手取って遊んでいると、着替え終わった他の男子が集まってきた。
参戦してくるのかと思ったら、目的は違ったようだ。彼らは声をひそめ、
「なあ、ピリの奴が剣道部の一年と付き合い始めたっていう話はマジか?」
「あー、マジマジ。昨日うちにマネージャー見習いに来てたぞ」
正確には鏡花に興味があるなら来てみるかと声をかけてもらったのだが、けっこう好評だったようで誘った側としては満足だ。
一連の話を聞き、冷却スプレーを持った男子、烏頭(うとう)は真面目くさった顔で「これは由々しき事態である」とのたまった。
「何が?」
「この、夏も始まろうかという時期になって付き合い始める奴らが増えてきているとは思わないか?! なんだ? 恋の季節なのか?!」
「時期的にそんなもんだろ。もう高等部二年だしな」
別の男子がそう応じると、スプレーから冷気を吐き出させながら烏頭は言う。
「ならば! そろそろ俺もこ、告白とか、いってみるか?!」
「グラキエスの子だっけか。片思い期間、けっこう長いよな?」
英は指折り数えた。
「中等部の時に女王の命令で学園の視察に派遣されて来たところに一目惚れだろ? もう四年目か」
「高等部卒業すると進路別れるし、決着つけるなら来年中、だよな?」
「さらっと逃げようとすんな。二年の二学期に入ると将来の方向性もきっちり決まってくるし、行き先が分かってるってわけじゃないなら一学期の内に決めるしかないんじゃないか?」
ヘタレた烏頭に別の男子が喝を入れる。
烏頭は「よし、分かった」と頷き、英を指差した。
「宣言する! 俺は相島が大取に告白したらあの子に告白するぞ!」
「はあ?!」
訳の分からない宣言に愕然とする英に対して、周りはそれはいいと囃し始めた。
「ちょっと待て、なんで俺が鏡花に告白することになるんだよ?」
「え、だってお前大取のこと好きじゃん?」
当たり前のように言うクラスメイトに英は手を上げて制止を促す。
「それとこれとは話が違うだろう」
「頼むよ相島ぁ。俺の希望になってくれ」
すがりついてくる烏頭を振りほどいて冷却スプレーを奪う。
「頭を冷やせ」
「あの子みたいなこと言うなぁぁぁ……」
スプレーを吹きかけられて悶える烏頭を、嫌な顔をしながら別のクラスメイトが引き取る。
「だけどお前、傍から見てるとほんともどかしいぞ?」
「いや、俺が鏡花を好きだなんてまだ一言も」
「ばれてないと思ってるのなんてお前くらいだぞ?」
言葉を失う英に、少し離れたところで見ていた礼慈が慰めるように言う。
「まあ、大取とか、他にも何人か気付いてないのはいるっぽいけどな」
「キキーモラの大取さんが気付いてないってのはある意味凄いよな」
「灯台下暗しと言うしな。身近すぎてかえって気付かないこともあるんだろ」
男子たちの会話に英は戦慄した。
「だ、誰か鏡花にそのこと言ってたりしない……よな?」
「本人が頼んだんならともかく、この学園に通ってる奴でそんな無粋なことするのはそうそういないだろ」
烏頭はでも、と続ける。
「たまに代わりに誰か言ってくれれば相手の反応なんかも分かっていいな、とか思うんだけどな……」
「お前そこでヘタれるなよ……」
英は鏡花に自分の想いが伝わっていないことにほっとすると同時に重圧を感じていた。
鏡花は英が彼女を好きなことを知らない。
英の想いに無知であるからこそ、今日までこうして家に来てくれているのだ。
それはつまり、英の想いが彼女の知る所となれば、なんらかの変化が起きるということでもある。
良い返事をもらうことができれば幸いだが、内面がぼろぼろな今の英に鏡花が良い返事を返してくれるとは思い難かった。
悪い返事ならば、近所付き合いも大きく変化することになるだろう。
鏡花の両親とも、これまで良好な関係を築いてきたが疎遠にならざるを得まい。というか、英の心が彼らと会うのを受け付けない可能性がある。
そういうことを考えるにつけ、迂闊に今の関係を壊すわけにはいかないと思うわけだが、その辺りの葛藤を知らないクラスメイトたちは矛先を英に向けることにしたのか、口々に甘い言葉を囁いてくる。
「毎日家に通ってきてくれてるんだろ? だったら大丈夫だって」
「というかそれでこれまで何もなかったのが凄いと思うんだけど」
「魔物が毎日通ってる家の人間を嫌いなわけないだろ」
「まあ待ってくれ」
英は手を広げて男たちを再度制した。
「彼女らは仕事に熱心な種族のキキーモラだぞ? それこそ小等部の頃から働いてるっていう職業意識とか、なんか見かねるくらい荒れてたらしい俺ん家に対するしっかり保たないとっていう義務感とか、そういうのがあるからこそ通ってくれてるんだと思うんだ。
ほら、猫みたいな感じ。家に居着くタイプなんだよ」
「キキーモラはどっちかというとイヌ科じゃないか? いや、鳥類かもしれんが」
礼慈がぼそっと言うが、家に居着いてくれていると考えなければ、彼女が未だに家事をしてくれている理由が分からなくなる。
一度、英は鏡花の忠勤を無下にして、完全に拒絶したことがあるのだ。それでも彼女は英を見捨てることなく通ってきてくれている。それは彼女の義務感ゆえか、そうでなければ働き者好きな彼女の心に両親の、家庭を維持できるギリギリのラインまで働く姿が心に迫ったからだろう。
鏡花は英の両親を尊敬しているようでもあるし、仮に彼女が人に付き仕えるとしたら、それは両親に対してであり、自分はおまけにすぎない。
「まあ、おいおい告白はするさ」
「あ、なんだその逃げ文句」
「烏頭には言われたくねえよ。こっちにも事情があるんだ」
そう返して、あとはこのまま何を言われようとも完全防御する構えの英に、礼慈がまあ、と取りなすように言った。
「人にはそれぞれ考えがあることだしな。もしかしたら今の生徒会長みたいに突然意見を変えたりすることもあるかもしれん。そうなるように祈って話はおしまいだ。
そろそろ女子が戻ってくる。聞こえたら野暮だろ?」
このあたりは弁えたもので、礼慈の意見に反対する者は居なかった。
詫びのように肩を叩いて席に戻るクラスメイトたちに冷却スプレーを振りかけて応じる英。そんな彼に最後に近付いて来た礼慈が何気ない口調で小さく告げる。
「そういや、大取を好いてて告白したいって奴が居るって生徒会で噂が出てたよ」
「え?」
思わずスプレーを落としそうになった英に、礼慈は尚も小声で告げる。
「まあ、人気があるんだろ。だからいつまでも待っててくれると思ってたら手遅れになるかもしれないぞ」
肩を叩く彼に冷却スプレーを吹きかけるのも忘れて、英はざわめく心に気を取られていた。
●
彼女に告白しようとしている者が居るという。
兄妹、あるいは姉弟のように一緒にいることが当たり前だった幼馴染が永遠に自分の傍から離れてしまうかもしれないという想像は、意外なほどに英に恐ろしさを感じさせていた。
生徒会で出たという噂の真偽が気になって悶々としている内に気が付けばもうHR。一日が終わろうとしていた。
鏡花がモテるというのは分かっていた。とはいえ、
(よりによってこのタイミングでか……)
その人物は、きっと近い内に鏡花に告白するのだろう。では、昔から彼女を好いている自分はこれからどうするべきか。
心がぐちゃぐちゃになっている現状での難問に内心で英は頭を抱えた。
告白すべきなのか、現状を維持すべきなのか。告白するとして、今の自分が彼女を口説くにはどんな言葉がいいのか。そもそも彼女に対して自分はそんなことを考える権利はあるのか。
疑問が頭の中を回っては思考を乱す。
自然と礼慈の言ったことはただの噂ではないだろうかと都合の良い方向に考えが向いてしまいそうになるのを押さえつけて真剣にこれからのことを考えていた英の前に紙が現れた。
「相島君?」
「ごめん、ちょっと他所ごとしてた」
前の席から回されてきたプリントらしい。
ついうっかり自分の世界に沈んでいた英は誤魔化すように笑ってプリントを受け取る。
見てみると、進路希望調査票だった。
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守結学園の生徒は、進路希望調査票を小等部の頃から書かされている。
人類側の一つ上の世代からは進路について考えるのはまだ早いのではないかいう意見も出るが、魔物娘がこちらの世界にやってきてからというもの、人類は全体として早熟になっており、早めに自分たちの行く末を意識してもらいたいというのが学園側の考えだった。
中等部卒業――下手をすれば小等部卒業と共に進路希望通りに世間に飛び出す者も現れるようになった現在だが、それでも大半は高等部まで学んでいくし、学園も高等部卒業までの在籍を奨めている。
必要最低限の知識を得つつ、二つの世界についてさわりだけでも学び、心身の成長が頃合いに達するにはそのくらいの年月が必要だというのがこちらとあちらの教育者の見解であるためだ。
そういう意味では、高等部二年次に配られる進路希望調査票はこれまでのものとは重みが違った。
文系理系の最終決定の機会でもあるし、高等部を卒業した後の進路の方向性にも繋がるからだ。
高等部を卒業する生徒たちには付属の大学に進む者や学びたいことに強い学校を望む者。就職や開業、育児専念やお嫁さんお婿さん。変わり種では入信や社交界入り、果ては住む世界を変えたり人を辞めたりなど、多種多様な道がある。
大きく進路が別れていく。多くの者にとって今回の進路希望調査はその岐路なのだ。
学園という繋がりで皆と会うことができるこの関係は時間制限付きのもの。
調査票を渡された生徒たちは、改めてその事実を突きつけられる。
迫るタイムリミットを頭の片隅に感じながら部活に勉強に恋愛にと、人も魔物もそわそわしだす。高等部二年の生徒にとって、今はそんな時期だった。
鏡花は恐らく同学年全体の中でも特に、徐々に迫るタイムリミットを意識していた。
怯えていたといってもいい。
英が学びたいと真剣に考えていることのために守結学園とは違う、外部の大学へと進学しようとしていることを彼女は知っていた。
彼が目指している大学は実家からの通いは現実的ではないため、大学の近くに下宿することになるだろう。
彼が相島家から居なくなってしまえば、家事手伝いに行った時に会うこともできなくなってしまう。それは、好きな人の機微を感じ取れない欠陥品の自分が傍に居ていい理由が消え去ってしまうことを意味していた。
時が経てば確実に訪れる別れの瞬間。もう何年も前から頭では理解して、彼の更なる飛躍のために仕方なしと受け入れていたそれに、感情がついてきていなかった。
机の上のプリントに目を落として憂鬱な息を吐く。
ここに書きたい言葉は小学生の頃から変わらない。
――英君の従者。
幼い頃はさらさらと書けたその言葉が、今はどうしても書けなかった。
なんと書いて埋めようかと白紙の用紙を眺めていると、不意に肩を叩かれた。
「キョウちゃん?」
「あ、はい」
顔を上げるとピリが心配そうな顔をしていた。
「さっきから呼んでもぼーっとしてるし、どうしたの? 体の調子でも悪い? 保健室行く?」
「いえ……少し考え事に集中していました。すみません」
「そう?」と言いつつもピリはまだ心配そうな顔のままだ。
思い悩んでいることを話してしまえば、彼女たちは助けてくれようとするだろう。
だが、それではいけない。
この問題はひどく個人的なもので、解決は当人同士の間でしか成り立たない。そういう類のものだ。できれば他者の介入は防ぎたい。だから、鏡花はいつも通りを意識した技巧的な笑みで応じる。
「それよりも、何かご用事があったのではありませんか?」
「あ、そうだ!」
ピリは羽をばたつかせて教室の外を示した。
「キョウちゃんに会いたいって子が来てるんだよ」
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部活を終えた英は、昨日と同じく生徒会準備室に居た。
今日も今日とて酒を飲みながら雑用をこなしている礼慈に勉強を教えてもらうためだ。
昨日教えてもらった単元と同じ内容を扱う問題を、生徒会の資料室に積んである参考書から礼慈が適当に選んで出題する。
学園付属の図書館から生徒会準備室に場所は移動したものの、何年も繰り返されているいつもの光景だ。
英は問題文をペン先でつついて公式を思い出しながら、HRで配られた進路希望調査票のことをぼんやりと思った。
彼の調査票には志望する大学の名前が既に記入されている。
どの大学も、魔物がこの世界にやってきて人類が転換期を迎えた、その過渡期の研究に強い大学だ。
英は魔物たちがこの世界にやって来て人類の生活に溶け込んでくるまでの間の数世代に及ぶ歴史に強い興味を抱いていた。
もちろん、世界が交流を持った最初期からこの世界において人魔共学を掲げている守結学園も、その手の研究では著名ではある。しかし、設立の過程において土地や建物から経営システムまでを魔王の子女であるリリムが差配した経緯があるためか、教員には魔物の率が高く、大学における研究の視点も魔物側に立ったものが多い。
それ自体が悪いということはないのだが、英は自身がこの方面に興味を抱いた経緯から、人類の側から見た世界の交流の過程を学びたいと思っていた。
人類側から見た歴史となると別の大学に詳しく、英が一番に志望しているのは、そういった保守派の第一線で活躍している研究者が在籍している大学だった。
第二志望以下に滑り止めも記入してあるが、研究者になるという将来の希望を思うのならば、ここでの妥協はしたくない。
それに、ここで決めたことを貫くのは鏡花に胸を張って向き合える自分になるために必要なことでもある。で、あればこそ、鏡花と物理的に離れることになっても構わないと思っていた。
しかしそれは鏡花が誰とも付き合うことなく、いつまでも家に居てくれるものだと当然のように考えていたからだ。
礼慈が言っていた、鏡花を好いているという男。その男の告白を彼女が受け入れれば、彼女は永遠に手が届かない存在になってしまう。
そんな可能性を考えた時に感じた恐怖がまたぶり返してきた。
自分に納得がいくまでは鏡花に告白するつもりはなかったが、その気持ちが揺らぐ。
(俺、意志弱えな)
とはいえ、その男が鏡花に告白する前に動かなければ人生の重大事の一つがそこで潰えてしまうかもしれない。
(いつまでも待ってもらえると思うな、か……)
まったくその通りだと思う。
鏡花は一個の人格を持つ魔物娘なのだ。彼女の自由を束縛することなど、誰にも許されるものではない。
なんの約束もない相手をずっと待っていてくれるなどと、何を甘えているのだろう。
(自分のもの扱いかよ。俺、昔から成長してねえな)
だが、こちらは生まれた時から彼女と一緒なのだ。ぽっと出の男に彼女を渡す気はない。
ならば告白を、と頭が結論を出すのだが、そこに感情が今の自分が告白などしてしまって本当によいのかと待ったをかけて、思考は始めに戻る。
空回りするばかりの思考を振り切るために部活ではがむしゃらに体を動かしていたが、こうして机に座って問題文と公式を相手にしていると堂々巡りがまた始まって英を捕らえた。
(運動してこようか……ああ、そういえば今日は鏡花が来なかったな)
試合も近いし、新規でマネージャー希望者が来たのでしばらくは部活に顔を出し続けると思っていた鏡花が今日は来なかった。
元々当番の日ではないとはいえ、まだ二日目のピリを一人にしておくというのは鏡花らしくない。
ボランティア部が忙しいのだろうか。
そこまで考え、鏡花のことを好きな男はボランティア部の部員ではないかと思い至った。
働く彼女を間近で見ることができる部活だ。それは惚れる奴も出てくるだろう。
(もしそうなら、行かせたくねえな)
いよいよ身勝手なことを考え始めた英は、強引に思考の舵を切ることにした。
(鏡花は卒業したらどこに行く気なんだろう)
将来の主に仕えるためにキキーモラとして万全の技量を身に着けたいと言っていたのを聞いたことがあるが、具体的な今後のことなどは知らない。
家政学校に行くのだろうか。
進路希望調査票も配られたことだし、世間話のノリで今度改めて訊いてみるのもいいかもしれない。
頭の中で様々な話題が湧いて目の前の問題文が頭に入ってこなくなった時、コトン、と物音がした。
見ると、礼慈が水筒を置いて天井を見上げている。
「……酒がなくなった」
さて、と彼は礼慈を見やり、白紙の解答用紙を指差した。
「問題、全く解けてないな。数学の応用なんて数こなして頭の中にパターンを溜め込んでナンボだから初めて取り掛かる問題につまづくのは仕方ないが、これは昨日教えた問題と同じ解き方でいけるやつだぞ。
一度で完璧に解法覚えろとは言わないが、今回のは解法を覚えられなかったとか、そういうのとは違うよな」
そう言って彼は腕を組む。
「部活でもうまいこといってないみたいだし、お前、今の状況どうにかしないとマジでやばいかもしれないぞ」
酒臭い息で指摘されたことは一から十まで全て正しい。
英は観念した。
「なんかここ何日か、鏡花のことが気になってしかたがないんだ」
「気になるのはいつもじゃないのか?」
「……俺が鏡花を好きだっていつから知ってたんだ?」
「お前が俺に勉強を教えろと初めて話しかけて来た時には既に」
ということは小等部の頃だ。
「これでも、うまいこと隠してこれたと思ってたんだけど」
「……マジか」
心底呆れたような彼の発言に、英は何も言い返すことができなかった。
「お前も大取も、別に鈍いってわけじゃないんだけどな」
「鏡花は本当に俺の気持ちに気付いてないんだよな? な?」
「どうもそうらしいんだよなぁ……」
礼慈は椅子の背に体重をかけて首を真上に向け、
「お前、実はキキーモラ相手にだけ効く魔法が使えたりしないか?」
「魔法なんて教わったことがない。
なあ、体育の後に言ってた鏡花を好きな男の話、あれ本当か?」
「ああそうか。アレがとどめになったのか」
悪いな、と悪びれずに言って、礼慈は続ける。
「詳しいことは俺にもよく分からない。ただ、会長がな、舞踏会の場でそんな話が出たのを小耳に挟んだらしい」
「貴族様の社交界か……」
やんごとなき方々が誰かに話した情報ならば、裏の取れた話なのだろうと、社交界というものをよく知らない英はなんとなくそのようなことを思う。
相手ももしかしすると貴族なのかもしれない。
もしそうだとすると、キキーモラという主を求める傾向にある魔物に似つかわしい相手なのだろう。
思い悩んでいる英に礼慈がまずは、と告げる。
「その男に先手を取られてしまう前にさっさと告白するのがいいんじゃないか?」
「だけど、俺、鏡花にふさわしいだけの男にまだなれてないし、今もこんな簡単にぐちゃぐちゃになるような人間でさ……告白してもいいのか?」
「たしかに、そんなうだうだ悩んでるようじゃだめかもな」
にべもない言葉に英はうなだれる。
そんな英を憐れに思ったのか、もり立てるような口調で礼慈はフォローした。
「お前、小等部の時にほとんど会話したことがなかった俺に勉強教えてくれって頼んできた時の勢いを思い出せって。
あの時のお前は今よりよっぽど突き抜けててよかったぞ。それを大取本人に向ければいいだけだ」
「今、それが出来たらと思うよ」
中途半端に賢くなったせいか、様々な考えが巡ってしまって思い切った行動が起こせない。
「あの頃くらい単純に生きられたらなぁ」
「面倒だな」
「好きな人ができれば分かるぞこの気持ち」
「じゃあ俺には分からん」
この学園に居ていつまでそんなことを言っていられるのか、賭けをしてやりたい気分になる。
「昔は単純だったってことは、放課後に剣道場に通うようになったのもやっぱり大取絡みってことだったんだな」
「まあ……そうなるな」
「やっぱりそうか。俺に勉強を教わりに来た時と同じで道場通いも大取と喧嘩したしばらく後のことだったから、まあそうなんだろうとは思ってたよ」
「いや、一応、俺個人としても心身共に鍛えたかったのは本当だぞ。勉強したいこととかも、あの頃はぼんやりしてたけど、今はしっかりと学びたい分野もその理由もある。何も鏡花のためだけってわけじゃない」
「うんうんそうだな。今では行きたい大学も決まってオープンキャンパスにまで行く熱心っぷりだ」
みなまでいうなと言わんばかりに酒由来の適当な返事をする友人に、英はここまで話したのだからもっと話を聞いてもらって心の安定に役立って貰おうと判断した。
音を立てて参考書を閉じると、礼慈が問いかけの視線を寄越してくる。
「やっぱもう勉強にならないからちょっと話を聞いてくれ」
「あー、なら待て。水を買って来ようか。少しは酔いも覚める」
「いや、そのままでいい。というか、むしろそのままがいい」
流石にこれから話すことは素面の友人には言いづらい。
「お前が酒を嗜む不良でよかったよ」
「小馬鹿にしたのを怒ってるな?」
「そんなこと気にしてる余裕がないのが今の俺だ」
力なく笑って、英は咳払いをする。
「昔話をするぞ。むず痒くなる話だからな。か、覚悟しろよ……?」
「そうか、要るのは水じゃなくて追加の酒だったか」
17/01/13 15:56更新 / コン
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