連載小説
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心の交差点

 同じ病院で同じ日に生まれた英と鏡花は、家が隣だったことや、両親たちが子育ての戦友であったこともあり、気が付けばいつでも一緒に居た。

 どこに行くにもついてきて、何をするにも英と一緒であった鏡花は、キキーモラとしての本能なのか、英の細々とした要望を叶えることを遊びとし、英から何らかのお願いをされることを喜んでいた。

 そうして、望むことはなんでも叶えてくれようとする存在が幼い頃から常に傍に居た英は、成長するに従って彼女を酷使するようになった。

“お願い”はいつの頃からか“命令”の形になっていき、鏡花への扱いは、

「あれは、奴隷扱いって言われても仕方ないな」

 思い出す限りでも、日常的に荷物を持たせ、物を取りに行かせ、宿題を写させるわ給食のデザートは奪うわ朝は起こしにこさせては着替えの用意をさせ、部屋の掃除も彼女任せという有様だ。
 今となってはあの頃の自分をひどいと思えるが、当時はそれが当たり前過ぎて、何も感じることができなかった。
 それでも、

「そんなことをしてたけど、でも俺はずっと鏡花が好きだったんだよ」

 正直に愛情を示すには成長し過ぎていたし、迂遠に愛を示すには幼かった。苛虐的に歪んでしか示されなかった親愛の情に、しかし鏡花は嫌な顔ひとつしないで甘んじてくれていた。

 それが故にあの頃の英は余計に異常を自覚できなかったのだろう。これでいいと、心の底から思っていた。実際の彼女の内心はどうだったのか、今となっては怖くて訊くこともできない。

 そんな生活を続けていると、小等部も三年になる頃には鏡花は相島家を正常に保つハウスキーパーになっており、また英の命令も粛々とこなすしっかりとした子分にもなっていた。
 仕事に対する熱心さは大したもので、家事を滞りなくこなすために英が望むものを先回りして用意して英の命令に即応できる態勢を常に整えていた。

 日毎に快適になっていく生活の裏で行われる苦労を知ることもないまま、まるで温かい布団に包まれているかのように心地よく堕落していく日々を英は享受していた。
 そんな生活に転機が訪れたのは初等部三年生の、ちょうど今くらいの時期だった。

   ●

 その日、英は荷物を放り出して友達と秘密基地で遊ぼうとしていた。

 学園近くの山の中には代々の生徒がいろんなものを持ち込んだ洞穴があり、いつの頃からかそこは秘密基地と呼ばれるようになっていた。

 中等部に上がる生徒たちが中学年の生徒にその存在を教えるという遊び場所の受け渡しが伝統になっており、その年の春に、英たちも上級生からその存在を伝え聞いていたのだ。

 秘密の遊び場という、男心をくすぐる場所である。
 とはいえ、基本的には自然むき出しの場所だ。快適な遊び場は他にいくらでもあり、実際にそこで遊ぶのは秘密基地の存在を知らされた年くらいのもので、高学年になると各々別の遊び場を見つけるのが常だった。
 そんな束の間の遊び場だが、低学年を過ぎて学校で教わる科目が増え始めると同時に自我と反抗心が芽生え初めた英たちにとってみれば、大人の監視の目が無い場所という意味で、秘密基地の存在はとても魅力的であった。
 こうして新たな遊び場で遊び倒す子が居る一方で、秘密基地遊びに積極的に参加しない者も居た。英の記憶では女子の姿はほとんど見たことがなく、鏡花も遊びに参加しない内の一人だった。

 当時、自分の母親に師事して家事を本格的に学び始めていた鏡花は、その日も家庭科の時間に習うそれよりも遥かに上等な料理を学ぶことになっていた。
 そんな彼女を残して遊び場に出かけようとしていた英は、玄関を出たところで家に顔を出そうとしていた鏡花とはち合わせた。

「英君、お出かけですよね? お外ではお車やワームさんに注意してくださいね。それと、ひみつきち? の場所は山の中なのですよね。あんまり深入りしてはおケガをなさるかもしれません。お気をつけください。あと――」

 滔々と彼女の口から注意が羅列される。
 口調こそ下からのものだが口うるさい両親を思わせるそれは、学年が上がって男友達同士で遊ぶことが増えてから一段と小うるさくなった。

 注意内容も、仕事で家に居ない両親の代わりを務めているつもりなのか、低学年の子供にするような当然なことばかりだ。そういった細々したものは、ことあるごとに鏡花への態度を注意してくる両親を思い出して英を辟易させていた。

「あ、あの、おじさまやおばさまはお帰りがおそいそうですので、お夕ごはんはうちで食べませんか? えいようの整ったものを用意いたしますよ。できあがるお時間はおそらくですね――」

 だから、この時ではなくてもいつか近い内に、英は鬱憤を爆発させていたのではないかと思う。

「うるせえ」
「え……」

 虚をつかれて表情が空白になった鏡花に、英は言葉を叩きつけた。

「お前は俺のオヤジでもオフクロでもないだろ。オレに口出しするな」

 今思えば、普段の生活であれだけ世話をさせておきながらそんなことを言うことができる精神性が理解できない。だが、この当時、確かに英は自分が感じる身勝手な不快感を正当性のある怒りだと感じていたのだ。

「ですが、私は英君のことが、子分として心配で――」
「じゃあもうお前は子分なんかじゃねえよ、絶交だ!」

 言い放った言葉で、鏡花の顔が見たことのない笑みに引きつった。

「えっと、英君……? あの……」

 相手の心を読むことなどかなわない身であっても、彼女が先程の発言は冗談だと言って欲しがっているのは一目瞭然だった。
 そして、幼馴染のその姿に対して負うべき罪悪感を、この時の英は感じなかった。

「うるせえ、もうかまうなよ!」

 一拍の間を置いて、普段垂れて髪と同化している鏡花の獣耳がひくつき、英の眼前で、辛うじて笑みの体裁を保っていた表情が壊れた。

 瞳が潤んで涙がこぼれる。

 幼馴染の、記憶にある限り初めて見る泣き顔に、英もさすがにたじろいだ。
 言い過ぎたかと思って、とにかく鏡花に手を伸ばそうとした時。口端を震わせながら、それでもそこだけは弓に曲げた彼女の口が絞り出すように言葉を紡いだ。

「もうしわけございません……。 本日は、お暇をいただき、ます……っ」

 危うい足取りで隣家に帰っていく鏡花に、英は言葉をかけることもできなかった。
 その日は遊んでいても、一人きりの味気ない夕食を食べている時でも、頭に去り際の彼女の顔が浮かんできてしまって落ち着かなかった。

   ●

 次の朝、英は校門までの道を全力で走っていた。
 いつも起こしに来てくれる鏡花が来ないため、寝坊したのだ。

 予鈴と共に下駄箱に駆け込んだ英は、息を整えながら靴を履き替える。
 隣家の娘が連絡もなしに来ないことを不審に思った両親から何かしたのかと問い詰められたことと合わせて、朝から気分は最悪だった。

 不貞腐れた気分で教室の扉を開けた英は、教室に一歩入ったところで足を止めた。

 クラス中の視線が英に向いていた。

 予鈴が鳴っても担任が来るまで騒いでいるのが常の男子たちは、教室を満たす不穏な空気に居心地悪そうにしながらちらちらと英の様子を窺っている。
 この空気をなんとかしろと祈るような男子たちの視線と違って、女子の視線は一様に攻撃的だ。

 捕食者たちは元より、普段は温和な娘たちさえも、突き刺すような視線を英に向けていた。

 クラスで孤立してしまったらしい状況に困惑と恐ろしさを感じながらも、ささくれだった心が恐れ以上に怒りを滲ませる。

 それを起爆剤として女子たちに何のつもりだと問い詰めようとした英は、視界に鏡花の姿がないことに気付いた。

 彼女の席は空いている。
 荷物もないということはまだ登校もしていないのだろう。
 普段相島家の誰よりも早起きな彼女が寝坊など考えづらい。
 この教室の空気も、鏡花が昨日の件で何か言ったためだろうと思っていた英は、状況が理解出来ずに再び困惑した。

「聞いたわよ」

 そう口火を切ったのは、人間の女子だった。

「何をだよ?」

 相手の刺々しい言葉に対抗するように不機嫌も露わに応じると、女子は突きつけるように言った。

「鏡花ちゃんをいじめたんですって?」

 やはり、昨日の件が伝わっているのだろう。

「いじめたんじゃねえよ。ただ、あんまりしつこいから絶交してやるって言っただけだ」

 何か文句あるのかという思いで言うと、何かの化学反応でも起きたかのようにクラスの空気が重くなった。
 様子を伺っている男子たちが唾を飲み込む音が、たしかに聞こえる。
 そんな冷たく重い静寂が癪に触って、英は吠えた。

「かんけいない奴らがなんなんだ。言いたいことがあるなら言ってみろよ!」

 正直、今の英が朝教室に入ってあんな空気を直接浴びたら恐ろしくて即行で回れ右して帰る自信がある。だがあの時の英は恐れ知らずにも女子に詰め寄って胸ぐらを掴まんとする勢いだった。
 一触即発のその時、教室の扉が開いた。

「この事態は一体何だ? 穏やかではないな。」

 教室に入って来たのは褐色の肌をし、セパレーツ型の水着のような、露出度の高い服を着た魔物だった。
 尻尾を振り立てて英と女子たちの間に入ると、アヌビス種の担任は双方に視線を巡らせた。

「さて、このようなことになった理由を説明してくれるかな?」

 その言葉にいち早く応じたのは女子の側だ。

「先生。英くんが昨日、鏡花ちゃんをいじめたんです」
「相島君、本当か?」
「あいつがしつこかったから、ちょっと強く言ってやっただけだ。いじめちゃいねえよ」

 そう言うと、担任は腕を組んで女子たちの方に目をやった。

「さて、双方の言い分がずれているようだが、君たちが昨日相島君が大取さんをいじめていると思ったのは何故なんだ?」

 感情を抑えた落ち着いた声音での質問に、女子たちの後ろの方で皆の剣幕におろおろしていたハーピーが恐る恐るといった体で手を挙げた。

「あの、私が昨日……お空を飛んでる時に喧嘩してるのを聞いちゃって……」

 鏡花にイライラをぶつけたのは外でだった。目立ったのだろう。
 勝手に言いふらしやがって。と感情が沸騰しかかるが、それを押しとどめるようなタイミングで担任が声を発した。

「なるほどな」

 そうして彼女はしょうがない、というふうに鼻から息を抜いて、教室の外に声をかけた。

「入ってきなさい」

 開けっ放しの扉の陰から人影が入って来た。
 緊張しきったクラスの状態に心苦しそうに入室してきたのは鏡花だった。

「鏡花ちゃん。昨日相島君にいじめられたんだよね?」

 気遣う言葉に、しかし鏡花はひどく痛めつけられたかのように俯いた。
 言葉をかけた女子が困惑する。
 後ろの方に居たハーピーが鏡花の近くに寄って行った。

「キョウちゃん、あの昨日、わたし、聞いちゃって……大丈夫だった?」

 鏡花は首を横に振った。

「違う……違うんです……」

 鏡花の反応に皆が戸惑い始める。
 英すらも、鏡花の否定に内心で疑問符を浮かべていた。

 英は昨日、確かに鏡花に対してひどいことを言ったのだ。そして今朝、彼女は家に来なかった。
 ということは、彼女も昨日の件をなかったことにする気はないということではないのか。

 女子たちの言い分に乗って英を糾弾すれば有利に立てるだろうに、彼女は違うと言う。
 教室では、戸惑いの末に幾人かがハーピーに問いただすような視線を向けていた。
 ハーピーは発言の責任を問うようなその視線に気圧されたように顔を強張らせる。
 彼女が困っているのを察した鏡花が、顔を上げて取りなした。

「いえ、ピリさんが聞いてらっしゃったのは本当のことなんです。ただ、その、勘違いしておられるようです」
「勘違いというと?」

 担任の促しに、鏡花は英を見やる。その視線にどう応えたらいいのか分からず、英は目を逸らした。

「ぁ……」

 鏡花の悲しそうな声に罪悪感が湧く。
 視線を戻そうかと英が悩んでいる内に、鏡花が言葉を再開した。

「あれは、ですね。私が出過ぎた真似をしてしまいまして、それで、英君のお叱りを受けてしまっただけなのです」

 だから、と彼女は続けた。

「悪いのは私の方なんです。英君を責めるのはどうかやめてくださいませ」

 皆を見渡して頭を下げる鏡花に、「でも……」と女子の一人が口を開き――

「私の――」

 その言葉を遮って鏡花は続ける。

「――私の落ち度で英君が責められてしまう。そのような光景は耐えられないのです。
 後生です。どうか未熟な私を助けると思って、この件は英君との間だけであずからせてはもらえませんか? お願いします」

 普段にこにこしている鏡花の剣幕に、クラスには時間すら停まってしまったかのような沈黙が下りた。
 停まった時間を動かしたのは、担任が手を打つ音だった。
 立派な肉球のせいで緊張感に欠けた音になったが、クラスの注意を集めるには十分だ。

「とのことだが、何か言うことはないか?」

 自分こそが悪いと言い出す鏡花に虚をつかれた英は、担任からの問いかけに答えを返すことができず、その間に鏡花は皆に対して頭を下げていた。

「もうしわけございません。私のせいで、みなさんが混乱してしまいましたね」

 この一言で落としどころが明確になった。

「あの、ごめんね相島くん。私、早とちりしちゃって……」

 ハーピーのその言葉を皮切りに、英に疑惑の目を向けていたクラスメイトたちから謝罪の言葉が発せられる。
 それらの言葉を聞きながらようやく驚きから復帰した英に向かって、いつの間にか鏡花が頭を下げてきていた。

「仕えている身でありながら、出過ぎた真似をしてしまい、もうしわけございませんでした」

 昨日のことを言っているのか、今この場でのことを言っているのか、英にはもう判断がつかなかった。

 鏡花はそれによって自身が受ける屈辱や、英を責めようとしていたクラスメイトたちが感じるだろう気まずさよりも優先して、自ら騒動の咎を被ることで英を守ったのだ。

 当時はそこまで考えが及ばなかったが、その状況下で暴言を返せるほど英の性根は腐りきってはいなかったようで。

「……いいよ。ゆるす」

 されど、彼女が被ってくれた濡れ衣を奪い取れるほどには人間ができてはいなかった。

   ●

 英の一言で、ようやくクラスの空気が普段のものを取り戻し始めた。

「それじゃあ、この話はおしまい。
 これで収まるのならば私も細かくは言うまい」

 担任がそう言うと、本鈴が鳴った。
 誰かの盛大なため息が聞こえる。大して時間は経っていないが、皆一様に気疲れしていた。
 担任はそんな教え子たちに慈悲深い笑みを見せて教壇に立つ。

「さて、皆へ垂れる今回の教訓は、確かだという確証のない話を信じ込んでしまわないように、といったところだろう。
 それと、相島と大取」

 英と鏡花は背筋を伸ばす。

「相手との距離をうまくとる、というのは大人でも難しい。だからというわけではないが、あまり気に病まないように。
 ただ、この経験を今後役立てられれば、それは素晴らしいことだと私は思う」

 そう言って英にウインクして見せた。
 きっと彼女は英の普段の生活から事実がどのようなものなのか、おおよそ把握していたのではないだろうかと今の英は思う。
 そして改めて思うのだ。この時、英は多くの気遣いによってクラスから孤立するのを助けてもらっていたと。

 この段に至って、ようやく英は自分を格好悪いと思うことができたのだった。

 それから数日の間、表向きには何事もなく学校生活は続けられた。
 教室が緊張したあの事態も、厳格なアヌビス立会いのもとで手打ちになったおかげか、後に引きずるようなこともなく――少なくとも、濡れ衣を被った鏡花に何かしらの不利益が発生しているようには見えなかった。
 一方で、女子たちは数日の間、英を気遣うようにしていたが、英は気にせずいつも通りに振る舞っていた。

 正確には、いつも通りに振る舞うことに必死でそれどころではなかったのだ。

 鏡花は事件の翌日からまた家に通って来てくれるようにはなったし、掃除や洗濯、食事の用意などはこれまで通り、常に進化する手際でこなしてくれてはいた。
 しかし、英個人の世話に関することには手を出さなくなったのだ。

   ●

「部屋が散らかったままなのを見た時はついに嫌われたかと思って頭が真っ白になったな。自分で構うな、なんて言っておきながらこれだから始末が悪いわ」

 昔を懐かしんで英は語り続ける。

「で、そっちがその気なら俺だって一人でやってやるよ。鏡花の仕事奪ってやるぜ! とか意地張ったんだよな」

   ●

 最初の一週間は生活スタイルがこれまでと一変してしまったせいで大変だった。

 朝、寝坊せずに一人で起きることすら満足にできやしないのだ。
 それでも目覚まし時計を買うなどして失敗しないように備えることはできなかった。この辺りは、 一人でやってやるという意地よりも一人でもできるはずだという虚栄心が絡んでいたと自己評価している。
 鏡花が面倒を見てくれていた部分の代替品を用意して生活を保つことが、結局は鏡花を頼っているようで格好悪く思えたのだ。
 なにより、本人がすぐ近くに居て家事をしてくれていたから尚のこと、そんな姿を見せるのが悔しく思えた。

 やる気だけは十分だったのだ。しかしこれまで誰かに頼ってばかりいたせいか、一人で何かをやろうとするとつまずくことが続き、そのたびに視線がつい鏡花を探した。

 結局、鏡花の代わりにやろうと思っていた家事関係は親のたっての願いによって手出し無用と相成ってしまい、英はあまりにも情けない自分のあり様に嫌気が差した。

 自分は外面だけではなく、中身まで変わらなければならない。
 みじめさの中でそう考えた英は、どうすればこの脆く弱い自分を変えることができるのか、教えを乞うことにした。

 選択肢として初めに浮かんだのは両親や学校の教師だったが、両親についに自分たちの言うことを聞いてくれるようになったか。≠ニ思われるのは妙に恥ずかしくて嫌で、先生に自分の状態が知られて失望されるのは、成績など気にしていなかった英であっても避けたい事だった。

 そうやって捨てきれない虚栄心と実が伴わないハリボテの自尊心が選択肢を狭めていき、子供の小さな世界で最後まで残っていた候補はお隣の家の夫婦――鏡花の両親だった。

 彼らならば鏡花から事件のことも聞いているだろうし、鏡花の母はキキーモラとしての技量のおかげか、それまでも英の虚勢をことごとく見破っていた。上塗りする恥ももう無いような相手だ。
 後は鏡花に対する仕打ちについて何を言われても仕方ないと覚悟を決めれば、相談するのにこれ以上の相手は思いつかない。

 ここから自分は変わるのだ。

 そんな決意と共に、人生初の勇気をふりしぼって英は隣の家の門を叩いた。

 玄関に出てきたのはいつも通りにメイド服を見事に着こなしたアンナだった。
 英の顔を見ると、彼女は何もかもを悟ったように微笑んだ。

「あら、良いところに来ましたね。今でしたら旦那様もお手隙ですよ」

 促されるままに大取家に上がる。
 通い慣れたはずの家の廊下を鼓動を早くさせながら通されると、居間にいた航が雑誌から顔を上げて居住まいを正した。

 険しい口調で言う。

「ここ数日鏡花の様子がおかしいのだが、さて、理由はなんだと思うね?」

 返す言葉もなかった。
 やはり鏡花から話を聞いているのだろう。普段の、慣れ親しんだものとは全く違う雰囲気の相手に、それでも英は引き下がらなかった。

 航から目を逸らさずに一歩踏み込む。
 意外なものを見るように片眉を上げる航にもう一歩近づこうとした英の横を、影が流れた。

 アンナが音も無く移動して、航の前に立ったのだ。
 彼女は両手で航の顔を挟み、

「旦那様、そのような態度は相応しくありませんよ。
 それに旦那様も彼がここに現れる意味には気付いておられるはずです」
「だからなんだよアーニャ。やはり父親としては娘を渡す相手に――」

 アンナはいきなり航の口を自身の唇で塞いだ。
 数秒唇を重ねた後、彼女は夫の顔を手と口から解放し、

「そのような行いは無粋と言い習わすと聞き及んでおりますが、いけないことを言うのはどのお口でしょうか?」

 航の咳払いが響く。

「うん、無粋だった。なまじ近くで見ているとつい口を出したくなるんだよ。
 さて、英君、失礼したね。君がここに来た理由だけど――アーニャ」

 彼が言うと、アンナは嬉しげに頷いて彼の後方に立ち位置を変えた。

「誰が躾をするのかというお話で、英君は自らを律すると決めて、その方策を探りに来たのではないでしょうか――ね? 英君」

 夫婦が口を重ねた辺りから思考が停止していた英は、確認の言葉に数呼吸遅れて気付いた。

「え、あ……う、うん」
「あらあら、少し刺激が強すぎたかしら」

 ころころ笑うアンナに相変わらず何もかもを見透かされている気分になりながら、英は頭を下げ、

「おじさん、おばさん、ごめんなさい。鏡花にしたことはもうどうしようもないけど、あやまる。
 でもオレ、もうこんなふうにならないように変わりたいんだ。どうしたらいいのか教えて!」

 自分の中で暴れている思いを言葉にした。

 床から跳ね返った声の残響を聞きながら頭を下げ続けていると、穏やかな声がかかる。

「頭を上げなさい」

 言われた通りにした英に航は問うた。

「なるほど。失敗から学び改善を望むというのは感心だ。それで、英君は自分のどこを変えればいいと思うかな?」

 自分を変えたいという漠然とした望みから一歩進んだ考えを求められて、英はよく両親から言われることを思い浮かべた。

「ええと、生活しゅうかん?」

 日々鏡花に正されなければならないような怠けきった生活。なにはともあれ、そこを直さねばならないだろう。

「生活の大本を変えたいというのは素晴らしい意見だ。そこが変われば全てが変わっていくと思う」
「そうですね。手がかかる子もかわいいのですけれど、成長していく姿もまた眩しいですものね。あなたも、そして鏡花も」

 少し寂しそうに言うアンナ。
 航は咳払いして、

「そこが分かっているのにここへ来たということは、頭では分かっていても体が望んだ通りに実践してくれないといったところかな?」

 図星だった。
 情けないことに、英の決意は実践に結びついておらず、半月も保たずに心がくじけそうになっている。
 そのことを正直に話すと、英は改めて頭を下げた。

「だからどうしたらいいのか、おじさんたちなら何か知ってるかと思って来たんだ」

 相談する相手の選択肢を狭めていって最後まで残ったのが彼らではあるが、この人選は消去法で仕方なく決まったというわけではない。
 むしろ、彼らこそが本命だった。

 大取航はこちらの世界とあちらの世界で色んな物を売ったり買ったりしているらしい。
 そんな仕事柄、航はいろんな人と会うという話を聞いたことがあり、実際、大取家に遊びに言った際に彼から聞く魔物や人間の話はレパートリーに富んでいて、飽きることがなかった。
 色んな話を知っている彼ならば何か良い案を出してくれるのではないかと、そう考えていたのだ。

 英が素直に自分の至らなさを肯定したのを、大取夫妻はしばしの沈黙で受け止めた。
 やがて鼻から息を抜くと、航は妻を振り返った。

「うん、俺は英君を好ましいと思ってる」
「私もです、旦那様」
「じゃあ……!」

 逸る英を制して航は付言する。

「まあ、だからこそ、というのがあってね」

 航は目線を英から、その背後にある居間の入り口へと向けた。

「新たな君の門出の前に、これまでを一度精算するべきだと思う」

 言葉に応じてアンナが動き、そっと居間のドアを開けた。

「鏡花、いらっしゃい」

 呼び声に一拍遅れて、鏡花の声で返事がある。

「はい……」

 鏡花はアンナと同じく鳥の鱗の足で足音をほとんど立てない、不思議な歩き方でおずおずと居間に入ってきた。
 相島家で家事をしているはずの彼女がここに居ることに英が驚いていると、アンナが扉を閉めながら言う。
「お二人にとって大事なお話になりそうでしたからね。お仕事中のところでしたが、呼ばせていただきました」

 彼女は娘の肩に手を置き、

「鏡花。あなたもここで一度精算をしておくべきでしょうからね」
「はい、分かっています。お母さん」
「よろしい」

 あの日以来、どこか硬い表情しか見せてくれなくなった鏡花は、アンナに背を押されて英に一歩近付いた。

 鏡花の会釈に釣られて頭を軽く下げると、彼女の目元が少しだけ緩む。
 警戒を解いたように、あるいは解いてもらうためのように、鏡花は残りの距離をしずしずと詰めてきた。

 手を伸ばせば相手に触れられる位置で向き合った二人だが、言葉はしばらく生まれなかった。

 めっきり会話が少なくなったせいか、なんと話しかけたらいいのか分からない。落ち着かなげにアッシュブロンドの尻尾を手元に回して握っている鏡花を見つめながら、英は言葉を探していた。

 言葉が届く距離に向こうが歩み寄って来てくれたのだ。今度はこちらから何かするべきであると、英は理解していた。

 鏡花に生活の一切を頼り切っていたにもかかわらず、ちょっと気に入らないからと彼女を突き放し、あまりにも礼儀のなっていないその態度を責める声からすらも守ってもらった。ここまで器の違いを見せつけられておきながら、日々己を磨き上げてきた鏡花の代わりを一朝一夕で務めることができるなどと思い上がった愚かな自分に別れを告げて更生する。
 これは大取夫妻がそのために用意してくれた機会だった。

 何も言わずに英が何かするのを待ってくれている三人に感謝しつつ、一つ深呼吸をして、英は言った。

「鏡花。あの日はごめん。それと、これまでもさんざんめいわくをかけてた。ごめん」

 言葉を受けた鏡花は、勢い良く首を左右に振った。

「め、迷惑だなんて……っ。私だって好きでやっていることなのです。それは、あの日は驚いてしまいましたけれど、そもそも私が出過ぎた真似をしたのがいけなかったのですから悪いのは私です。
 それに、私は英君の子分です! これからだって英君がそう頼んでくれるのなら私はなんでも――」

 言葉を尽くして英からすら英を擁護しようとしてくれる鏡花にありがたさを感じる。それでもここで彼女に甘えてはいけないと自分に言い聞かせて、英は鏡花の言葉を遮った。

「ごめん。でも、もう子分はいい。俺は自分で自分をどうにかするから、俺の世話はもうしなくていいよ」
「――――」

 言葉を失って見つめてくる鏡花に、英はあの日の光景を思い出しながら続けた。

「それで、よければまた友達になってほしい」

 これまでの身勝手の終着点であり、新たな始まり。そうなって欲しいと祈るような思いで紡がれた言葉に、鏡花の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「はい……! はい! よろしくお願いいたしますっ」

 何度も頷いた後に、尻尾を強く握った鏡花は続ける。

「で、ですが、おじさまやおばさまのためにも、お家のことは、したいのですっ……よろしいですか?」

 家が荒れるから。という理由で鏡花を縛っているのではないかという考えが頭をよぎる。
 また駄目な自分に逆戻りしてしまうのではないか。そんな懸念を抱く英だったが、涙で詰まりながらなんとか言葉になっている鏡花のお願いを断るのも、何かが違う気がした。

「鏡花がいやじゃなければ、お願い、します。俺は手出しすんなって言われたし」

 結局は鏡花に頼らなければならない自分のふがいなさを認めるしかない。せめてもの思いで英は意地の一言を付けたした。

「もうキキーモラとして覚えることがなくなったら、いつでもやめてくれていいから。家はまあ、多少散らかっても大丈夫だし」
「はい、いつまでも勉強をし続けてずっと置いてもらえるようはげみます!」

 涙交じりのどこか食い違った返答だったが、久しぶりに見た鏡花のほっとした顔が嬉しくて、そんな些細なことは気にならなかった。
 何より、鏡花がまだ英に愛想を尽かしていなかったということが救いだった。

(まだ、ここからやり直せる)

 そんな明るい未来が見えたことで心の中で張りつめていた糸が切れたのか、あるいは泣いている鏡花にあてられたのか、いつの間にか英も泣いていた。

 涙で滲む視界で目が合った鏡花が、そっと近づいて和服のたっぷりとした袖で英の頬を伝う涙を拭った。
 幼馴染が纏う、心が落ち着く匂いを久々に身近に感じて、英は急に気恥ずかしくなり、仕返しのように自分の服の袖で鏡花の顔を拭い返した。

 照れ隠しのための行動は思いのほか力強くなってしまったようで、鏡花の顔がのけぞる。
 慌てて逆の手で鏡花の頭を固定すると、応じるように鏡花の腕も英の後頭部に回された。
 頭を押しつけ合うようにして互いの涙を拭く光景は、傍から見て奇妙なものだっただろう。しかし大取夫妻は黙ってそれを見ていてくれた。

 どれくらい経っただろうか。いい加減涙も止まった頃、英はそっと鏡花の頭を抱えていた腕を離した。
 鏡花はそれでもしばらく頭を放そうとしなかったが、最後に少しだけ力を込めて頭を引き寄せた後、ゆったりと腕を離した。

 至近距離で見る鏡花の目から鼻にかけてが赤くなっているのを見て、つい英は噴きだしてしまった。
 それに釣られたように鏡花も笑みを浮かべ、視界いっぱいに咲いた鮮やかな笑顔に、英は自分が恋に落ちていることを自覚した。

   ●

 この時から、二人の関係はこれまでとは一変した。

 英の中では愛する幼馴染の尊敬すべき在り方に釣り合うような人間になるという目標ができ、そうなれるように努力を続けてきた。
 この変化は望ましい変化であったと、それから八年後を生きている英は思っている。

 そして、自分の在りように納得できたその時こそ、彼女に自分の想いを伝えるのだ。今度は愛情の示し方を間違えずに。

 そう心に決めた英に、拍手が聞こえた。
 音が聞こえた後ろを振り返ると、航が満足そうにしており、

「勇気をもって現状を打破しようと行動した君に、俺が知っている勇気ある者を紹介するよ。彼の下で大いに学びなさい」

 そう言って航が紹介してくれたのは勇気ある者も何も、向こうの世界で勇者部隊に所属していたという本物の勇者だった。
 学園を作る際にリリムの護衛としてついてきて、そのまま剣道部の師範としてこちらに居着いたらしい彼に師事し、初めに言われたことは、体や精神を効率よく鍛えるなら頭も鍛えておいて損は無い。だった。
 いぶし銀の魅力溢れる彼が伴侶と共にある姿に一目で憧れた英は、素直に彼の言うことを聞いて熱心に己を鍛え直すようになった。

   ●

「ああ、あのオッサン、変身ヒーローみたいで人気あるよな」
「男の子かくあるべし、って感じでたまらねえのさ」
 礼慈の呟きに深く頷いた英はで、と言葉を継ぐ。

「自分の脳みそだけじゃどうしても勉強が捗らなかったから声をかけたのが、それまでロクに話したこともなかった学年首席様だったってわけだ。
 いやあ、あの頃からお前目つき悪かったよな」
「いきなり話しかけられた俺はまたぞろ痴話喧嘩に巻き込まれるんじゃないかと戦々恐々としていたな。まったく、塾にでも行っておけばよかったんじゃないか?」
「俺、馬鹿すぎて塾に行ったら剣道を続けるのしんどそうだったからなあ。鏡花と居られる時間も減りそうだったし」

 どっちが主たる理由かは言わなくても分かったのか、礼慈は肩をすくめた。
 全ては自分の過ちを認めたあの時から。英は鏡花に向き合えるように、一歩ずつ、たしかに成長していた。

「はずだったんだけどなー……」

 天井を仰いで唸ると、礼慈がしみじみと感想を述べた。

「予想していたのより遥っかにめんどくさいな」
「言わないでくれ」

 半ば自覚があることに投げやり気味に返事をする。礼慈はだけど、と応じて、

「それならやっぱりやることは一つだろ」
「というと?」
「決まってる。お前、とっとと大取に告白しちまえ」
「いや、だけど俺はまだあいつにふさわしくは……」
「ならふさわしい人間になるまで待ってもらえるよう婚約でもなんでもして他の男に掻っ攫われないようにすればいい。そもそもがふさわしい人間になる、とかいうくっそふわふわした目標を掲げてるのが問題だろ。もっと近くで大取本人に判断してもらったらどうだ?」
「あんなことした俺がそんなこと言って、許されるのか?」
「許すもくそもあるか。いいか? 返事をするのは相手の管轄だが、自分の想いを投げつけるだけなら別に誰にも許可を取る必要はないんだぞ。
 過去は過去としても、今のお前は友人のひいき目なしで見ても相当すごい奴だと思う。だから自信もってけ」

 友人からの励ましに、英は口元が緩むのを感じる。

「首席様から言われると自信つくな」
「そうか、それは良かった」
「一日考えさせてくれ。それで、どうするのか決めるから」
「頑張れよ――現状維持以外なら俺はお前の決断を尊重するぞ」
「分かってるよ。鏡花を好きな奴が居ると知っていて鏡花に何も働きかけないのは、俺にとって怠惰だと思うし、先を越される前に行動は起こすさ」

 危うく現状維持に流れそうになっていたのは秘密である。

「よし、堕ちかけから這い上がってきた男の言葉、確かに聞いたからな。何かあったらサポートしてやる」

 機嫌よさげに請け負う礼慈に感謝しつつ、英はふと口にした。

「俺がこっちとあっちの世界が繋がった時の歴史に興味を持ったのも、その這い上がってきた経験があったからだな」
「そうなのか?」

 興味ありげな礼慈に、英はせっかくだからと誰にも話したことがない話をすることにした。

「俺はあの時鏡花の優しさに甘えきって堕落しかかっていた。でも、そこからたぶん、持ち直してきてる。
 同じように、魔物たちに堕落させられそうになって、それでも堕落一色に染まらずになんとか俺たちの世界は回ってる。この状態に落ち着くまでに魔物たちと人間たちとでどんな交流があったのか。すごく興味が湧いて来た時期があって、それが今も続いてる。
 このことを学んで、そしてゆくゆくはそれを専門にする学者になりたいと考えてるんだ」

 たぶん、鏡花に誇れる自分になれるのはそこに辿り着いたらだろう。

(気の長ぇ話だな……)

 あまりに悠長な自分の計画に自嘲の念が溢れる。
 礼慈が珍しく感銘を受けたように息をこぼした。

「それで、目指すのは遠くの大学か。
 この学園付属の大学じゃだめなのか? 大取とつかず離れず居るなら実家通いの方がいいだろ? この学園も質が悪いわけではないと思うぞ」

 英は首を横に振った。

「世界が交流を初めた直後には、魔物たち相手に猜疑心を持った奴が必ず居たはずだ。そういう人から見た歴史を俺は知りたい。きっと放っておくと魔物たちがくれる幸せに風化されてしまう、歴史の影になった部分だから。良好な関係を築くまでのぶつかり合いの記録も残しておきたいんだ。俺自身の参考になるかもしれないしな」
 礼慈が「ほう」と再度感嘆の息を零した。
「それは……」

「まさに青春だな!」

 礼慈の言葉に被せて唐突に準備室に声が届いた。
 英と礼慈が顔を見合わせて生徒会室に続く扉を見ると、金髪の女子生徒が扉の陰から顔を出している。

「会長」

 礼慈の言葉に、高等部生徒会長である女子生徒は頷きを返し、

「鳴滝、それに相島。昨日は済まなかったな」
「いや、構いませんよ。そんなに大した仕事でもありませんでしたから。
 それより、仕事もないはずなのに何故会長がここへ?」
「まあそう邪険にしないでくれ。次の仕事の準備をしにきたんだ。先々にできることはやっておかないと彼との時間が結果的に減ってしまうし、その間に妹が彼との関係を深めていたらと思うと少し悔しい」

 そう言って外套をはためかせつつ準備室に入ってきた彼女の手には、有名菓子店の包みがあった。

「それと、これは昨日の礼だ。受け取ってくれ」
「ありがたくいただきます」

 机に菓子の包みを置いた会長は英の肩を叩く。

「今後のことを考えているのはとてもいいことだと私は思う」
「いつから話を聞いてたので?」

 礼慈の問いに会長は気まずそうに口ごもった。

「それは、言わないでくれ。私としても立ち聞きはいかがなものかと思ったのだ。
 だが、せっかく心中を吐露しているのだし、こういう時は全て吐き出しておいた方がよいのかな、と判断した。のだが……どうだろう、相島」
「いいですよ。水を差されずに昔話を思いっきりできたおかげで心が軽くなった気がします」
「そうだろう? 私も素直にさせられた時は不思議と心がすっきりしたからな」
「ただ、このことは黙っていてくださいよ?」
「秘密の厳守なら信頼しておいてもらってかまわない。私は元よりそういう立場にある」

 請け負う会長の口から牙が覗く。
 ヴァンパイアの彼女は一年前ではありえなかった気さくさで礼慈に水を向けた。

「そんな相島に比べて鳴滝、お前はどうだ? こんな魔物の園に居ながら浮いた話の一つも聞かないではないか」
「一年前のあなたも似たようなもんでしょうが」
「今だから言うが、私は彼がずっと気になっていたのだぞ」
「そうだったんですか」
「教師という立場があったとはいえ、私を真剣に叱ってくれたのだからな。ときめいたのだ。
 このことは秘密だぞ。いいな!」
「あーはいはい。分かりましたよ」
「相島、君も」
「りょーかいです」

 うむ、と頷いて、会長は続ける。

「話が逸れたな。鳴滝、お前には助けられているし、強引に勧誘した手前出来る限り便宜を図ってやりたくもある。望むのなら良い娘を紹介することにやぶさかではないのだということをよく覚えておいてほしい」
「会長。今は人の世話を焼くよりも旦那と、その内生まれてくる子供のことに集中したらどうでしょう?」

 早く話を終わらせたそうな礼慈に対して、会長は何故か我が意を得たりといった顔で身を乗り出した。

「ほう、子供に興味があるのか?
 教頭ちゃまとも伝手があるからサバトを紹介してもいいし、お前になら私か妹の子を託す選択もありえるな」
「俺の性癖が誤解されるので教頭たちに話を拡げるのはやめてください。入信させられます」

 目を細めて礼慈が威嚇する。
 目つきの悪さが悪化して人でも殺していそうな雰囲気を醸し出すが、夜の令嬢は気にしたふうもなく懐からガムを取り出して礼慈の口の中に押し込んだ。

「まあ、心に留めておいてくれ。
 それと、準備室まで教師が入ってくることはないと思うが、一応噛んでおくといい。今日は一段と酒のにおいがするぞ」
「……いただきます」

 この世界には知識のみを求めに来たと豪語していた彼女をダンピールの妹が焚き付け、一般市民の教師に姉妹そろって縁組してからというもの、彼女は変わった。
 一年前は貴族階級にない人間に話しかけるということ事態があり得なかった会長も、変われば変わるものだ。

 この変化は全体的に好意をもって迎えられている。
 向こうの世界にあるという領地を統べる際、この変化はきっと彼女の領主としての生き方に良い影響をもたらすだろう。

「相島にもまた手を借りてしまったな。改めて礼を言わせてもらおう。
 本当なら生徒会内で済ませるべき仕事だったのだが、それぞれの都合が重なってしまってな」
「いえ、少し手伝っただけなので」

 会長は目礼で応じた。

「ところで、部活での調子が悪いという話を聞いているが、どうなのだ?」
「知ってるんですか」
「スーレとは知った仲でな。恋人の……森直人と言ったかな。好敵手の後輩が不調だと彼が不完全燃焼になるので復調して欲しいという話を聞いたのだ」
「すみません。すぐに復帰します」

 反射的に謝りながら、英は昔話をしてある程度静まった自らの心の内を反芻する。

 自分はあの時から進路をおおよそ定めていて、その将来には鏡花が隣に居て欲しいという願望がある。自分はまだ至らない人間だが、鏡花に好意を寄せる者が居るのなら、英としても彼女に待っていてくれと約束を取り付けるなど、いくらか手を講じねばならないだろう。

「まあ、焦らずにな。不調の原因はどうやら分かっているようだ。解決は時間の問題だろう」
「そうだといいんですけどね」

 思わず弱気な笑みが漏れる。

「そんな顔するものではない。お前の想い人は大取家の娘だな。領地で取引があるゆえ知っているぞ。
 剣道部のマネージャーと、ボランティア部も兼部していたな。よい娘だ」

 いきなり飛び出した鏡花の情報に英は面食らった。礼慈に視線をやると、彼は諦めた表情で肩をすくめている。

 会長は世話好きだ。
 礼慈曰く、元々の性格を貴族だからなんだと封じ込めていたのが解放されて、とにかく知り合いの世話を焼きたくて仕方ないのではないかとのことだった。
 礼慈が嫌がって英を盾にしようとするわけだと納得する間にも、鏡花の好みなどの情報が会長から知らされる。たまに交じる知らない情報に前のめりになっていると、会長がそういえば、と呟いた。

「彼女にボランティア部の男子が告白するという話がでていたな。たしか今日だったか」

 英も礼慈も会長を凝視した。

「昨夜舞踏会でちらと話が出ていたらしい。
 話していた者が誰なのかは分からなかったが――」

 会長が視線に気付いて言葉を止める。

「会長、その話は本当ですか?」
「ああ、本当だ。きっと今頃告白しているのではないかと思う」

 礼慈の言葉に是と答える会長。ようやく落ち着きかけていた英の心は一転して大荒れだった。

   ●

 傍で話を聞いていた礼慈は、英の顔が焦りを帯びていく過程を特等席で見ることができた。

「スグ……スグ!」

 声をかけても心ここに在らずといった風情の友人は反応しない。肩に手を置いてようやく正気を取り戻させたところで、礼慈は訊ねた。

「大丈夫か?」
「おお、余裕余裕。いや、まさか今日告白するとは思わなかったな」

 そう応じる英は一瞬前の状態からいつもの状態に復帰しているように見える。

「大取への告白は――まあ、どうなるのか分からないが、結果に関係なく、まだお前にもチャンスはあると思うぞ」
「あるかな……」
「また弱気になってどうする。せっかく初心を思い出したんだ。ここで諦めるのはなしだろ」

 精一杯励ますつもりで言うと、英は唸りながら礼慈の水筒を見つめて、

「酒、残ってるか?」
「すまん。全部飲んだ」
「だよな……言ってたもんな……ごめん。俺、今日もう帰るわ」

 見た目はともかく、内面はかなり乱れているようだ。
 こうなってしまってはしばらく彼がいつも通りに戻ることはないだろう。礼慈は友人が力なく生徒会準備室から出ていくのを言葉もなく見送るしかなかった。

   ●

 礼慈と一緒になって英が生徒会準備室から出ていくのを見守った会長は、額に手を当てた。

「やってしまった……発破をかけるくらいの気持ちだったのだが、思いのほか大ダメージではないか。というか、そもそも!」

 会長は勢いよく礼慈に顔を向ける。

「スーレに聞いた話では相島の想い人はずっと家に通っているキキーモラなのだろう? 過去何があったとしても、その後自分のために生き方を改めた男だ。心が離れているということではないであろうし、スーレから聞くかぎりではその娘も相島を好いているという話だぞ? なのになぜまだその娘は本心を明らかにしないのだ?」
「本心云々については会長にだけは言われたくはないでしょうけど、まあ、二人の友人としての意見を言わせてもらうなら、スグについては昔の件から続く負い目と理想の自分に悩んでいるせいでうまいこと相手が見えていないんでしょう。大取については詳しくは分かりかねますが、こっちも過去の件から予想するとキキーモラとして完璧な従者足り得ていないとか、そういうことで悩んでいるんじゃないんですかね。どうもスグに対してはキキーモラの感性も鈍ってしまっているようで、あいつの好意に気付いていないのも大取の側から踏み出せない一因でしょうか」

 そこで言葉を切って、礼慈は会長に半目を向けた。

「で、最近悩み気味なスグが初心を取り戻して平静になって、これからどうするのかじっくり決めようかという流れになっていたところに会長が爆弾を投げ込んだ、と」
「……すまない」
「ほう、上からですか」
「えっと……こめんなさい」
「よろしいです」

 礼慈を息を一つ吐き、

「やってしまったものはしょうがないです。告白の件自体は遅かれ早かれ耳に入っていたでしょうしね。
 まあそれはそれとして、旦那さんと妹さんにはよく話をしておきますね」
「いや待て……っ」
「はいでは仕事の準備をしてきてください」

 礼慈は会長を生徒会室にまで押し出すと、複雑な表情で呟いた。

「早く告白してればこうまで小難しくならなかったんだろうがなぁ」
「そ、それが分かっていても極力誰が誰を好きなのかを本人の意思によらず広めないのが魔物と人間が近くにあるこの学園でのルールだろう」

 扉の向こうからの言葉に、そうですね、と応じる。

「不文律ですがね。さすがにこれはって問題には嬉々として首突っ込む姿も幾度か見かけてます」
「ああ、過激派などはその辺り積極的だな。が、まあ、今の話を聞くかぎりでは、二人についてはゆっくりと関係を熟成させるのが妥当だったのだろうと思う」
「同意です」

「「二人そろって面倒な性格をしてますからね」いるようだからな」

 意図せず被った言葉に礼慈は苦笑し、

「スグはクソ真面目な上に自罰的ときてる。大取も似たようなものでしょう。しこりを残さないために、あの二人についてはそっとアドバイスするに留めてなるべく二人のペースに任せたいところです」
「発破をかけるべきではなかったな。とはいえ、ゆっくり熟成させるには相島も大取の娘もいささか人気がありすぎる。こうして周囲が放っておかなくなった以上、動くべき時ではある。背を押したと、そういうふうに思っておこう」

 自分で出した結論に満足したのか、会長は自信に満ちた声で付け加えた。

「それはそうと、経験から言わせてもらえば長く熟成された二人がくっついたら……凄いぞ」

 会長がそうだったのだろうか。
 多少気にはなるが、触れれば延々と惚気を聞かされるのが関の山だ。
 はいはいと頷いて、礼慈は会長の旦那と妹に送るメールの文面を考え始めた。
17/01/28 09:16更新 / コン
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■作者メッセージ
彼等にとってのターニングポイントのお話でした。


俺なら堕ちたままどこまでも沈んでいきます
キキーモラさんに飼われるのも……イイ

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