消えゆく泡の価値
……ルージュ・シティへ帰った後、報告を聞いた美術館長は木像の回収を中止すると言い出した。天文局長からの助言があったというが、古代の貴重な遺産が失われていいというのか。
一緒に行った同僚たちは僕の肩を持ってくれたが、何人かは反対派へ回った。あれはあの島に置いておくべき物かもしれない、と言って。どちらにせよ市の支援を得られなくては、あれだけの数の木像を保全することはできない。
八方塞がりになった僕は、珍しく酒に溺れたい気分になった。
「領主に直訴するのは止めとけ。余計な頭痛のタネを作っちゃ駄目だ」
偶然BARに居合わせた知り合いは、ぶっきらぼうにそう言った。仕立てのスーツを着て粋な雰囲気の男だが、元犯罪者だ。時間が早かったため他に客は居らず、静かな店内では僕らがカウンターに座っているだけである。
「今は地底遺跡の調査に力を入れなきゃいけないからな」
「ベルストさん。貴方も自分の目で見ればあの木像の価値が分かるはずです。あのまま失われて良いわけがない」
「島の住民はそう考えてないんだろ。だったら美術館にはレプリカでも作って置いておけばいいんじゃないか?」
「所詮貴方は贋作職人ですか」
思わず罵倒してしまった、ちょうどその時。バーテンダーが彼の注文した酒を差し出した。ブランデーを注いだ小さなグラスに、輪切りにしたレモンで蓋をし、その上に砂糖を持った独特のスタイルだ。どうやって飲むのかと思っていたら、ベルスト氏はレモンを摘み上げると、小皿の上に砂糖を落とし始めた。
「ロッフォ。ショートスタイルのカクテルは冷えてるうちに飲み切るのがマナーだぞ」
そう言われて、僕が頼んだカクテルがグラスに半分残っていることを思い出した。慌てて残りを飲み干すが、すでに一口目の美味しさは無くなっていた。オレンジのフルーティーさはあれど、ぬるくなったせでアルコールの強さが際立っている。
ベルスト氏の方はレモンで砂糖を挟むように包み、口へ入れた。皮を外して果肉と砂糖を噛み締め、そこへブランデーを一気に放り込む。
こういう飲み方をする酒もあるのか。興味はあるが、今うっかりぬるくしてしまったカクテルをもう一杯飲んでからにしよう。
「……マスター、さっきのと同じカクテルをもう一杯」
「かしこまりました」
若いバーテンダーは穏やかに答え、再び酒のボトルを用意した。
「……マフリチェカと結婚してから、本物と偽物について未だにあれこれ考えている」
ブランデーを飲み下したベルスト氏が呟いた。彼の贋作事件は街にセンセーショナルな話題を呼んだ。ただその贋作を売りつけた相手も相当な悪人で、しかもベルスト氏にとっては父親の仇だったというから、彼に同情する人も多い。
僕もそうだ。褒められた人間ではないが、彼が美術界に投げかけた問題は無視できるものではないだろう。
「生前全く売れなかった画家の絵が、後世になって評価されるなんてザラだ。普遍的な本物、偽物なんて無いのかも知れない。見方の問題だ」
ベルスト氏は淡々と語る。その言葉の意味を考えていると、不意にマラカスのような軽快な音が響いた。
バーテンダーがシェイカーを振っている。おそらく僕のカクテルを作っているのだろうが、最初に頼んだときはグラスの中でかき混ぜていた。同じものを頼んだはずだが。
銀色をしたシェイカーの表面が白く曇ってきた。今まであまり見たことはなかったが、振り方は僕が思っていたよりも複雑だった。
やがて彼はシェイカーを置いてキャップを取り、中身をグラスに注いだ。先程と同じくオレンジ色の酒だ。ただ表面には泡が浮いている。
「勝手ながら作り方を変えてみました。ステアとはまた違った味わいを楽しんでいただけるかと」
……作り方を変えたと言っても、スプーンで混ぜるか振って混ぜるかだけの違いじゃないか。
そう思いながら一口飲んで、驚いた。
味がまろやかになっていたばかりか、舌触りまでなめらかになっていたのだ。先程はアルコールの刺激が強い味だったが、今度はフルーティーで格段に飲みやすい。クリーミーな味わいだ。
「これ、材料は同じなんですか?」
「ええ」
バーテンダーは穏やかに笑った。乳製品など一切入れていないのに、このまろやかさは何なのか。
「泡ですよ。シェークするとお酒に気泡が混ざり、舌触りが良くなって味に丸みが出るのです」
「そこがバーマンの技術ってやつだ。このテオ・ベッカーは一流だぜ」
ベルスト氏はタプナードのカナッペを摘んだ。
バーテンダーなんて単に酒場で酒を出すだけの仕事、料理人のような高度な技術は必要ない……僕の根底にあった思い込みが崩れ去った。画家があらゆる絵具を用いて理想の色を作るように、彼らも酒を使って自分の芸術を作り上げる。
グラスの中のカクテルは先ほどに増して美しく見える。この一杯は味を含め、一つの美術品なのだ。
「泡……儚く消えていく物の象徴だな。それでも意味はある……」
ベルスト氏の言葉に、ふとあの木像が脳裏に浮かぶ。あのままでは森の中に消えていくであろう、泡のような存在。
「僕は泡を後世に残そうとしている、と?」
「残る泡があってもいいだろうよ。だがお前な、相手に自分を理解して欲しいなら、相手のことをまず理解しろ。件のエルフの話をじっくり聞いて理解しようとしたか?」
酔っているせいか、彼は少し饒舌だった。
あの少女の話を聞いたか?
ほとんど何も話してくれなかった。僕たちを外敵のように扱った。
だが、僕も聞こうとしなかった。ただ自分の考えを訴えるだけだった。
「目に見えないくらい小さな泡に価値を置く奴もいるんだ。お前の目に見えている価値と、そのエルフが感じている価値は全く違うのかもしれない」
そこまで言って、ベルスト氏は軽食のメニューを手にとった。注文したのは聞いたことのない料理と、街で作られたワインだった。
オレンジ色のカクテルを見つめ、静かに飲む。冷えたカクテルなのに、気泡の滑らかさが温かい。
もう一度、あの島に行ってみよう。木像を守るためではなく、彼女のことを理解するために。
もしかしたらこの一杯のように僕の価値観を、人生を変える何かが待っているかもしれないのだから。
二度目の渡航許可を得るのには少し苦労した。己の責任において行動するということで、僕は再びジュンガレイ島の土を踏んだ。今回は一人である上に帰りがいつになるか分からないので、船は先に帰還させる。
自分が帰るために、町のサバト局で魔法の込められた小瓶を買ってきた。瓶の蓋を開けると片道通行の転送魔法が発動し、ルージュ・シティへ瞬時に帰還できるという代物だ。安価な品なので一回限りの使い捨て、転送できる人間は一人のみ、町から極端に離れた土地では使えないなどの制約はあるが、この島は使用可能圏内のはずだ。
今度は自分一人で密林を歩かなくてはならない。前は息づく生命の美しさに見とれていたが、仲間がいないとなると恐怖感が沸き起こる。ここは先祖の土地なのだと自分に言い聞かせても、不安は拭えなかった。
倒木の下に蛇がいないか確認する、色鮮やかなカエルには触らない……分かっている範囲の知識を頭の中で繰り返し、実行しながら進む。茂みの中をガサゴソと這い回るヤシガニに、時々驚かされた。
それでも、僕はまた辿り着くことができた。あの窪地へ。
「……何の用?」
彼女は立ち並ぶ木像の中にいた。前のように無表情で、顔からは敵意も好意も読み取れない。ただやはり弓を手にし、矢筒からは白い矢羽が覗いていた。
この前のような高台ではなく同じ目線で立っているため、以前とは違った雰囲気を感じる。顔立ちは思っていたより少し幼く、その割に背が高くすらりとした体つきだ。そして何より、木像の神秘的な外観が彼女の存在を引き立てている。
「……教えていただきたいのです。あなたの考えを」
緊張しながらも、言葉は滑らかに出すことができた。エルフの少女はじっと僕を見つめており、あの矢……ヅギ氏が『心の一方』とか言っていた技を使う気配はない。
「何故、この木像が失われて良いと思うのですか? 僕はこんな美しい物が消えてしまうなんて……悲しくて仕方ありません」
幼稚な表現だがこれでいい。尊大になってはならない。感情をそのまま伝えるべきだ。そして相手の話を黙って聞く。
エルフの瞳は高品質のエメラルドのような、透明感と深みのある緑色だった。その眼差しがじっと、瞬きもなく僕を見据える。
数秒経った頃だろうか。彼女は僕の方を顧みつつ、踵を返した。
「……ついてきて」
澄んだ声で告げ、森の中へと歩を進める。僕はすぐに後を追った。
密林の中を彼女は軽い足取りで歩き、倒木を跨いで、草をかき分ける。毒蛇や毒カエルの存在に注意してはいるが、その動きは極めて自然で、慣れたものだった。森が彼女を受け入れているような気がした。僕が森にとって異物であるのとは違い、このエルフの少女はここに居るのが自然なのだ。
彼女はしばらく無言で歩き続け、僕も黙ってそれに従った。樹上では大きな嘴の鳥が笑うように鳴いている。
不意に何かに躓き、転びかける。木の根っこだった。見ると周囲の地面を這うように根が広がり、その周囲を苔が覆っている。木漏れ日が辛うじて届くくらいの薄暗い密林、加えて足元がこれではかなり歩きづらい。上陸してからここへ来るまでには無かった光景だ。
周りの木々も先ほどまでとは違い、針葉樹が増えてきた。土の質が変わってきたのだろうか。
「……二千年前」
突然、エルフの少女は口を開いた。
「魔物の軍団がこの島を襲ったのは知ってる?」
「はい。戦士たちが必死に戦い、多くの犠牲を出しながらも島を守り抜いたと……」
「少し違うわ」
彼女は倒木を跨ぎ、歩き続ける。時折こちらを振り替えるが、僕が遅れがちになってもペースを落とすことはなかった。
「ガーレイ族の戦士たちと私の先祖たち、どちらも勇敢だった。けれど魔物はあまりにも多くて、勝ち目が無いことは分かっていた」
白い指が、木々の合間に鎮座する岩を指し示す。大きな穴の空いた、三メートルほどの苔むした岩だ。
いや、岩ではない。苔に包まれているが、下の方には牙があり、角も片側だけ残っている。思わず戦慄した。それは巨大な生物、恐らくは旧時代のドラゴンの頭蓋骨だったのだ。
苔の中に空いた穴……暗い眼窩から小さな生き物が顔を覗かせた。イタチに近い動物だ。くりくりとした目の愛らしい顔が、恐ろしげな頭骨の中から僕を見ている。何とも不思議な光景だった。
「魔物の瘴気が島の半分を汚し、あらゆる命を殺した。そのままでは島の全てが滅びる……先祖たちは最後の手段を使ったの」
「最後の手段?」
「生贄を以って山の精霊を目覚めさせ、その義憤で全てを浄化した」
山の精霊の義憤。火山噴火のことだとすぐに分かった。つまり今いるこの森も、溶岩や火砕流に飲み込まれたということだ。それから二千年の時を経て、森が蘇った。だから上陸地点から木像があった場所までと比べて、植生が異なっているということか。
「毒に汚された森も、魔物たちも、全て焼き尽くされた。海にいた魔物たちも逃げられなかった。戦士たちが船を出して背後へ回って、逃げ道を塞いだから」
「その戦士たちは……?」
「皆溶岩に飲まれて死んだそうよ。覚悟の上で。このドラゴンも溶岩に飲まれて身動きできなくなった所を、生き残った戦士がとどめを刺したの」
淡々と説明しながら、彼女は歩を進める。頭蓋骨の横を通り過ぎたとき、小さな生き物は眼窩の中に引っ込んだかと思うと、また少しだけ顔を出した。
断片的に聞いていた、先祖の土地の歴史。この島に住み続けていた彼女だからこそ知っている真実。それはあまりにも凄惨で、スケールの大きな物語だった。
このドラゴンの頭蓋だけではない。今踏んでいるこの土の下に、数多くの魔物や人間、そしてエルフが眠っているのだ。
「これを見て」
次に示されたのは、大きな倒木だった。折れ目は腐食が進んでおり、だいぶ前に倒れた物のようである。
エルフの少女はそれに歩み寄り、身を屈めて手招きした。
倒木に生えた苔の中から、緑色の芽が伸びている。飛来した種が発芽したのだろう。丁度木洩れ日に照らされ、その芽は神々しいまでに美しかった。
「寿命を迎えた木にも養分は残っている。それが次の命を育み、支え続ける。……そしてやがて、ああなるわ」
指差したのは近くに立つ、少し変わった形の木だ。幹が二股に分かれ、まるで人間の足のように地面に立っている。何故あのような形になったのか、先に倒木を見ていたからすぐに分かった。この木も倒木から芽吹いたのだ。最初は倒木から養分を吸い、やがて自分の根を地面に張って立つようになった。倒木に跨るような姿勢で。
さらに長い時間をかけて倒木も風化し、後に空洞が残ったということだ。
「あの木だけじゃない。島の半分が冷え固まった溶岩で埋め尽くされた後、その上に少しずつ苔が生えていった。それが枯れて、また新しい苔が生えては枯れて、積み重なって土を作った」
彼女の言葉を聞きながら、改めて足元を見た。木の根が地面に浮き出ているのは土の層が薄く、その下が硬い溶岩だからなのだ。だがその薄い土壌が形成されるまで、どれだけ長い時間がかかったのだろう。
顔を上げると、エメラルドのような瞳がじっと僕を見つめていた。軽蔑や嫌悪の色はなく、ただまっすぐに。
「今生ける命はみんな、幾千万の失われた命によって支えられているの。だから失われたものは例え目に見えなくても、この世に存在し続けている。植物、動物、エルフ、人間、魔物……木像も」
風が通り抜け、森の木々を揺らす。木の葉が動き、斜光が彼女の姿を照らした。まるで彼女自身が光を放っているかのように、玉のような肌が美しく輝いた。
思わず見とれてしまう僕に、彼女は微笑を浮かべた。優しく、自然な笑みを。
「だから私たちは生み出すこと、保つことだけではなく……『失われること』にも価値があると信じている。それだけのことよ」
一緒に行った同僚たちは僕の肩を持ってくれたが、何人かは反対派へ回った。あれはあの島に置いておくべき物かもしれない、と言って。どちらにせよ市の支援を得られなくては、あれだけの数の木像を保全することはできない。
八方塞がりになった僕は、珍しく酒に溺れたい気分になった。
「領主に直訴するのは止めとけ。余計な頭痛のタネを作っちゃ駄目だ」
偶然BARに居合わせた知り合いは、ぶっきらぼうにそう言った。仕立てのスーツを着て粋な雰囲気の男だが、元犯罪者だ。時間が早かったため他に客は居らず、静かな店内では僕らがカウンターに座っているだけである。
「今は地底遺跡の調査に力を入れなきゃいけないからな」
「ベルストさん。貴方も自分の目で見ればあの木像の価値が分かるはずです。あのまま失われて良いわけがない」
「島の住民はそう考えてないんだろ。だったら美術館にはレプリカでも作って置いておけばいいんじゃないか?」
「所詮貴方は贋作職人ですか」
思わず罵倒してしまった、ちょうどその時。バーテンダーが彼の注文した酒を差し出した。ブランデーを注いだ小さなグラスに、輪切りにしたレモンで蓋をし、その上に砂糖を持った独特のスタイルだ。どうやって飲むのかと思っていたら、ベルスト氏はレモンを摘み上げると、小皿の上に砂糖を落とし始めた。
「ロッフォ。ショートスタイルのカクテルは冷えてるうちに飲み切るのがマナーだぞ」
そう言われて、僕が頼んだカクテルがグラスに半分残っていることを思い出した。慌てて残りを飲み干すが、すでに一口目の美味しさは無くなっていた。オレンジのフルーティーさはあれど、ぬるくなったせでアルコールの強さが際立っている。
ベルスト氏の方はレモンで砂糖を挟むように包み、口へ入れた。皮を外して果肉と砂糖を噛み締め、そこへブランデーを一気に放り込む。
こういう飲み方をする酒もあるのか。興味はあるが、今うっかりぬるくしてしまったカクテルをもう一杯飲んでからにしよう。
「……マスター、さっきのと同じカクテルをもう一杯」
「かしこまりました」
若いバーテンダーは穏やかに答え、再び酒のボトルを用意した。
「……マフリチェカと結婚してから、本物と偽物について未だにあれこれ考えている」
ブランデーを飲み下したベルスト氏が呟いた。彼の贋作事件は街にセンセーショナルな話題を呼んだ。ただその贋作を売りつけた相手も相当な悪人で、しかもベルスト氏にとっては父親の仇だったというから、彼に同情する人も多い。
僕もそうだ。褒められた人間ではないが、彼が美術界に投げかけた問題は無視できるものではないだろう。
「生前全く売れなかった画家の絵が、後世になって評価されるなんてザラだ。普遍的な本物、偽物なんて無いのかも知れない。見方の問題だ」
ベルスト氏は淡々と語る。その言葉の意味を考えていると、不意にマラカスのような軽快な音が響いた。
バーテンダーがシェイカーを振っている。おそらく僕のカクテルを作っているのだろうが、最初に頼んだときはグラスの中でかき混ぜていた。同じものを頼んだはずだが。
銀色をしたシェイカーの表面が白く曇ってきた。今まであまり見たことはなかったが、振り方は僕が思っていたよりも複雑だった。
やがて彼はシェイカーを置いてキャップを取り、中身をグラスに注いだ。先程と同じくオレンジ色の酒だ。ただ表面には泡が浮いている。
「勝手ながら作り方を変えてみました。ステアとはまた違った味わいを楽しんでいただけるかと」
……作り方を変えたと言っても、スプーンで混ぜるか振って混ぜるかだけの違いじゃないか。
そう思いながら一口飲んで、驚いた。
味がまろやかになっていたばかりか、舌触りまでなめらかになっていたのだ。先程はアルコールの刺激が強い味だったが、今度はフルーティーで格段に飲みやすい。クリーミーな味わいだ。
「これ、材料は同じなんですか?」
「ええ」
バーテンダーは穏やかに笑った。乳製品など一切入れていないのに、このまろやかさは何なのか。
「泡ですよ。シェークするとお酒に気泡が混ざり、舌触りが良くなって味に丸みが出るのです」
「そこがバーマンの技術ってやつだ。このテオ・ベッカーは一流だぜ」
ベルスト氏はタプナードのカナッペを摘んだ。
バーテンダーなんて単に酒場で酒を出すだけの仕事、料理人のような高度な技術は必要ない……僕の根底にあった思い込みが崩れ去った。画家があらゆる絵具を用いて理想の色を作るように、彼らも酒を使って自分の芸術を作り上げる。
グラスの中のカクテルは先ほどに増して美しく見える。この一杯は味を含め、一つの美術品なのだ。
「泡……儚く消えていく物の象徴だな。それでも意味はある……」
ベルスト氏の言葉に、ふとあの木像が脳裏に浮かぶ。あのままでは森の中に消えていくであろう、泡のような存在。
「僕は泡を後世に残そうとしている、と?」
「残る泡があってもいいだろうよ。だがお前な、相手に自分を理解して欲しいなら、相手のことをまず理解しろ。件のエルフの話をじっくり聞いて理解しようとしたか?」
酔っているせいか、彼は少し饒舌だった。
あの少女の話を聞いたか?
ほとんど何も話してくれなかった。僕たちを外敵のように扱った。
だが、僕も聞こうとしなかった。ただ自分の考えを訴えるだけだった。
「目に見えないくらい小さな泡に価値を置く奴もいるんだ。お前の目に見えている価値と、そのエルフが感じている価値は全く違うのかもしれない」
そこまで言って、ベルスト氏は軽食のメニューを手にとった。注文したのは聞いたことのない料理と、街で作られたワインだった。
オレンジ色のカクテルを見つめ、静かに飲む。冷えたカクテルなのに、気泡の滑らかさが温かい。
もう一度、あの島に行ってみよう。木像を守るためではなく、彼女のことを理解するために。
もしかしたらこの一杯のように僕の価値観を、人生を変える何かが待っているかもしれないのだから。
二度目の渡航許可を得るのには少し苦労した。己の責任において行動するということで、僕は再びジュンガレイ島の土を踏んだ。今回は一人である上に帰りがいつになるか分からないので、船は先に帰還させる。
自分が帰るために、町のサバト局で魔法の込められた小瓶を買ってきた。瓶の蓋を開けると片道通行の転送魔法が発動し、ルージュ・シティへ瞬時に帰還できるという代物だ。安価な品なので一回限りの使い捨て、転送できる人間は一人のみ、町から極端に離れた土地では使えないなどの制約はあるが、この島は使用可能圏内のはずだ。
今度は自分一人で密林を歩かなくてはならない。前は息づく生命の美しさに見とれていたが、仲間がいないとなると恐怖感が沸き起こる。ここは先祖の土地なのだと自分に言い聞かせても、不安は拭えなかった。
倒木の下に蛇がいないか確認する、色鮮やかなカエルには触らない……分かっている範囲の知識を頭の中で繰り返し、実行しながら進む。茂みの中をガサゴソと這い回るヤシガニに、時々驚かされた。
それでも、僕はまた辿り着くことができた。あの窪地へ。
「……何の用?」
彼女は立ち並ぶ木像の中にいた。前のように無表情で、顔からは敵意も好意も読み取れない。ただやはり弓を手にし、矢筒からは白い矢羽が覗いていた。
この前のような高台ではなく同じ目線で立っているため、以前とは違った雰囲気を感じる。顔立ちは思っていたより少し幼く、その割に背が高くすらりとした体つきだ。そして何より、木像の神秘的な外観が彼女の存在を引き立てている。
「……教えていただきたいのです。あなたの考えを」
緊張しながらも、言葉は滑らかに出すことができた。エルフの少女はじっと僕を見つめており、あの矢……ヅギ氏が『心の一方』とか言っていた技を使う気配はない。
「何故、この木像が失われて良いと思うのですか? 僕はこんな美しい物が消えてしまうなんて……悲しくて仕方ありません」
幼稚な表現だがこれでいい。尊大になってはならない。感情をそのまま伝えるべきだ。そして相手の話を黙って聞く。
エルフの瞳は高品質のエメラルドのような、透明感と深みのある緑色だった。その眼差しがじっと、瞬きもなく僕を見据える。
数秒経った頃だろうか。彼女は僕の方を顧みつつ、踵を返した。
「……ついてきて」
澄んだ声で告げ、森の中へと歩を進める。僕はすぐに後を追った。
密林の中を彼女は軽い足取りで歩き、倒木を跨いで、草をかき分ける。毒蛇や毒カエルの存在に注意してはいるが、その動きは極めて自然で、慣れたものだった。森が彼女を受け入れているような気がした。僕が森にとって異物であるのとは違い、このエルフの少女はここに居るのが自然なのだ。
彼女はしばらく無言で歩き続け、僕も黙ってそれに従った。樹上では大きな嘴の鳥が笑うように鳴いている。
不意に何かに躓き、転びかける。木の根っこだった。見ると周囲の地面を這うように根が広がり、その周囲を苔が覆っている。木漏れ日が辛うじて届くくらいの薄暗い密林、加えて足元がこれではかなり歩きづらい。上陸してからここへ来るまでには無かった光景だ。
周りの木々も先ほどまでとは違い、針葉樹が増えてきた。土の質が変わってきたのだろうか。
「……二千年前」
突然、エルフの少女は口を開いた。
「魔物の軍団がこの島を襲ったのは知ってる?」
「はい。戦士たちが必死に戦い、多くの犠牲を出しながらも島を守り抜いたと……」
「少し違うわ」
彼女は倒木を跨ぎ、歩き続ける。時折こちらを振り替えるが、僕が遅れがちになってもペースを落とすことはなかった。
「ガーレイ族の戦士たちと私の先祖たち、どちらも勇敢だった。けれど魔物はあまりにも多くて、勝ち目が無いことは分かっていた」
白い指が、木々の合間に鎮座する岩を指し示す。大きな穴の空いた、三メートルほどの苔むした岩だ。
いや、岩ではない。苔に包まれているが、下の方には牙があり、角も片側だけ残っている。思わず戦慄した。それは巨大な生物、恐らくは旧時代のドラゴンの頭蓋骨だったのだ。
苔の中に空いた穴……暗い眼窩から小さな生き物が顔を覗かせた。イタチに近い動物だ。くりくりとした目の愛らしい顔が、恐ろしげな頭骨の中から僕を見ている。何とも不思議な光景だった。
「魔物の瘴気が島の半分を汚し、あらゆる命を殺した。そのままでは島の全てが滅びる……先祖たちは最後の手段を使ったの」
「最後の手段?」
「生贄を以って山の精霊を目覚めさせ、その義憤で全てを浄化した」
山の精霊の義憤。火山噴火のことだとすぐに分かった。つまり今いるこの森も、溶岩や火砕流に飲み込まれたということだ。それから二千年の時を経て、森が蘇った。だから上陸地点から木像があった場所までと比べて、植生が異なっているということか。
「毒に汚された森も、魔物たちも、全て焼き尽くされた。海にいた魔物たちも逃げられなかった。戦士たちが船を出して背後へ回って、逃げ道を塞いだから」
「その戦士たちは……?」
「皆溶岩に飲まれて死んだそうよ。覚悟の上で。このドラゴンも溶岩に飲まれて身動きできなくなった所を、生き残った戦士がとどめを刺したの」
淡々と説明しながら、彼女は歩を進める。頭蓋骨の横を通り過ぎたとき、小さな生き物は眼窩の中に引っ込んだかと思うと、また少しだけ顔を出した。
断片的に聞いていた、先祖の土地の歴史。この島に住み続けていた彼女だからこそ知っている真実。それはあまりにも凄惨で、スケールの大きな物語だった。
このドラゴンの頭蓋だけではない。今踏んでいるこの土の下に、数多くの魔物や人間、そしてエルフが眠っているのだ。
「これを見て」
次に示されたのは、大きな倒木だった。折れ目は腐食が進んでおり、だいぶ前に倒れた物のようである。
エルフの少女はそれに歩み寄り、身を屈めて手招きした。
倒木に生えた苔の中から、緑色の芽が伸びている。飛来した種が発芽したのだろう。丁度木洩れ日に照らされ、その芽は神々しいまでに美しかった。
「寿命を迎えた木にも養分は残っている。それが次の命を育み、支え続ける。……そしてやがて、ああなるわ」
指差したのは近くに立つ、少し変わった形の木だ。幹が二股に分かれ、まるで人間の足のように地面に立っている。何故あのような形になったのか、先に倒木を見ていたからすぐに分かった。この木も倒木から芽吹いたのだ。最初は倒木から養分を吸い、やがて自分の根を地面に張って立つようになった。倒木に跨るような姿勢で。
さらに長い時間をかけて倒木も風化し、後に空洞が残ったということだ。
「あの木だけじゃない。島の半分が冷え固まった溶岩で埋め尽くされた後、その上に少しずつ苔が生えていった。それが枯れて、また新しい苔が生えては枯れて、積み重なって土を作った」
彼女の言葉を聞きながら、改めて足元を見た。木の根が地面に浮き出ているのは土の層が薄く、その下が硬い溶岩だからなのだ。だがその薄い土壌が形成されるまで、どれだけ長い時間がかかったのだろう。
顔を上げると、エメラルドのような瞳がじっと僕を見つめていた。軽蔑や嫌悪の色はなく、ただまっすぐに。
「今生ける命はみんな、幾千万の失われた命によって支えられているの。だから失われたものは例え目に見えなくても、この世に存在し続けている。植物、動物、エルフ、人間、魔物……木像も」
風が通り抜け、森の木々を揺らす。木の葉が動き、斜光が彼女の姿を照らした。まるで彼女自身が光を放っているかのように、玉のような肌が美しく輝いた。
思わず見とれてしまう僕に、彼女は微笑を浮かべた。優しく、自然な笑みを。
「だから私たちは生み出すこと、保つことだけではなく……『失われること』にも価値があると信じている。それだけのことよ」
19/08/20 20:04更新 / 空き缶号
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