連載小説
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前編
「…うおぁ」
間抜けなうめき声と共に瞼を開くとそこには見慣れた天井があった。
開いたカーテンからさんさんと降り注ぐ日の光を浴びてオレこと黒崎ゆうたは寝起きで気だるい体を起こす。
起こして、手のひらで顔を擦った。
先ほど見ていたことを思い返すように。
夢で出てきたことを思い出すように。
「…」
まったく、オレは何て恥ずかしいことを言ってたんだ。
何がお嫁だ、馬鹿か。
オレがまだ『ボク』と言っていた頃は…かなり前のことになる。
少なくともその頃は師匠に会ってすぐだったし、まだおじいちゃんもおばあちゃんも生きていた頃だろう。
まったく、子供の頃のオレは馬鹿だったな。
それでも。
オレは瞼を閉じて一息つく。
そうして考え出す。
あれは、いったいなんだった?
あれは、いったいどこだった?
オレは誰と話していた?
誰と約束をしていたんだ?
夢の中の景色を思い出す。
あの時見えていたのは水面。
それは湖であり、そこにはいくつもの波紋が生じていた。
それはきっと雨が降っていたから。
確か小雨、優しく降り注ぐそれは慈雨というところだろうか。
そんな中、その雨を見据えてオレは誰かと共にいた。
とある社…というよりも神社というべき建物の屋根の下。
広く畳の敷かれた部屋を後ろに、外側に面した木の廊下にいたはずだ。
座って、背後から抱きしめられて。
温かな体温を感じ、包まれるような安心感を抱いていた。
それは…誰によって与えられたものか?
あの温かさをオレは知っている。
あの安心感をオレは覚えている。
なのに。
それが誰からのものなのか、思い出せない。
それでも、わかる。

―抱きしめてくれたあの人を、約束をしたあの女性を知っている。

それなのに、思い出せない。
思い返しても映らない。
まるで靄が掛かるように、霧が覆うように見えないんだ。
あの女性の顔が、あの女性のことが。
思い出せそうというところで、思い出せない。
見えそうでその顔も見えない。
わかりそうでその姿がわからない。
まるで波紋を生じた水面のように。
向こうへの光が屈折しているだけで、どういったものかはわかってもどんな人なのかが見えない。
可能性としては…師匠だろうか?
…いや、それはない。絶対ない。
オレがまだ『ボク』といっていた頃だ、そのときの師匠はまだまだ凛としていたかっこいい女性だった。
あの頃の師匠にあんなことを言ったところで返ってきたのはせいぜい「そっか。ありがとう」ぐらいだろう。
…逆に今の師匠にあんなことを言ったら泣かれるかもしくは…。



「え!?本当!?」
「ええ、本当ですよ」
「本当に本当!?夢じゃないよね!?」
「ええ、本当ですよ」
「うわー!嬉しいなー!ユウタからそんなこと言ってくれるなんて思ってなかったよ♪あ、でも」
「でも?」
「これが夢かどうか確かめていいかな?すごく不安なんだよ」
「ええ、いいですよ。頬でも抓るんですか?」
「いや、ここでこのままエッチして」
「ストップ、そんなことしても夢かどうかなんて確かめられるでしょうに」
「でも不安なんだよ!だからしよう♪」
「師匠、ここ外だから!」
「場所なんて関係ないよ。大切なのはこれが現実かどうか、ユウタが自分のことを好きでいてくれるか確かめることだよ」
「だからって確かめる方法が…」
「やっぱり言葉だけじゃいけないと思うんだよね。そういうことは行動に示さないとね♪」
「え?あれ?師匠?その手に持っているものは何ですか?」
「すごくなっちゃう飲み薬だよ♪」
「じゃぁ、師匠、そっちの手にあるものは?」
「すごく良くなっちゃう塗り薬だよ♪」
「じゃ、師匠、それは?」
「すごく求めたくなっちゃう果物だよ♪」
「じゃ、師匠、それは?」
「すごく激しくなるお香だよ♪」
「…師匠?」
「んふふ〜♪何人子供できるかな〜♪ユウタとの子供だったら何人でもオッケーだよ♪」
「いや、師匠?」
「サッカーができちゃうくらい?野球とかもできるかもね♪」
「いやいや、師匠?」
「道場どころかスタジアムまで自分達の子供で埋まっちゃうかも♪」
「いやいやいや師匠!」
「んふふ〜♪ということで…今夜からずっと寝かさないよ〜♪」
「だからここ外だからって師匠!!」



…考えないほうが良かったかもしれない。
っていうか久々に思い出したな、すごくなっちゃうシリーズ。
他にもすごくなっちゃうローションがあったっけ。
あれをぶちまけたのは…悪い思い出だな。
あのすごく求めちゃうハート型の果実とかどこ産のものなんだよ。
これじゃあ、あの女性が師匠であった可能性は皆無だな。
それじゃあいったい誰なのか。
わからない。
なんでここまで気になるのか。
わからない。
ここまで思い出せないのが。
わからない。
オレは、彼女を知っている理由が。
それ以前にわからないことがある。

―オレが座って抱きしめられていたあの場所を知っている。

透き通ったあの湖の水を、手入れのされた綺麗な神社を、静かで物音一つしない静寂な空間を、月の光に照らされる幻想的な夜を。
あの光景を知っている。
なぜならそれは、とても身近にごくたまに訪れているのだから。
ここ最近は行っていなくてもそれでも忘れるはずがない。
あそこで何をしていたのかはわからないがそれでも、あの場を忘れるわけがない。
あれは―
「―…行くか」
どうせ身近な場所なんだ。電車と徒歩でしばらく行けばつけるだろうし。
それに今日は土曜日。明日も休みだから向こうに泊まって来たって問題ない。
向こうには…連絡を入れてから行かないといけないな。
あの人たちなら嫌がることはないと思うが逆に引き止められそうな気もする。
でもまぁ、最近は会っていなかったことだし久しぶりに会いに行こう。
ベッドの上で欠伸を一つし、腕を伸ばして窓を開ける。
優しく頬を撫でていく風を感じながら快晴である事を確認してオレはベッドから立ち上がった。

「それじゃあ、準備しないと」



―お父さんの実家へ行くための準備を。



準備といってもそんな大掛かりなものはない。
たかが一日泊まるだけ、それもお父さんの実家となればおじいちゃんがなくなってからあの家に住む男性はいなくなってしまっても着替える服だっていくつか残っているはずだ。
オレも昔はあそこに住んでいたのだから。
それにあそこには住んでいる人だっているんだ。
少しばかり昔のようにお世話になるだけ。
それで、確認するだけ。
ただそれだけなんだから。





電車に揺られてしばらく、そこはオレの住んでいるところよりもずっと田舎な風景が広がっていた。
一面を覆いつくすのは田んぼや畑。それから細い道路が少し。
電信柱もそう見当たらず、建物もそれほどないから空が綺麗に見える。
空気は澄んでいてけたたましい車の音なんてしない。
とても静かで、すごくのどかな所。
ここで数年間暮らしていたからだろうか、今住んでいる場所よりもこちらのほうが住みやすく感じられる。
やっぱりオレは田舎のほうが肌にあっているのかもしれない。
…今住んでいるところも田舎なのだけど。
「で、何でお前まで来てるんだよ?」
そう言ってオレは隣を見た。
そこにはオレよりも低い背丈で一つにまとめた黒髪を揺らす少女がいた。
というか、オレの双子の姉である黒崎あやかがいた。
「別にいいでしょ。あたしの勝手でしょうが」
「それなら荷物くらい持てよ」
そう言ってオレは手に持ったあやかのバッグを差し出す。
それは何をどう詰め込んだのかわからないほど膨らんだバッグがあった。
見かけどおりその重量もまたとんでもない。
持っているだけでオレの腕からみしみしと音が聞こえそうだ。
たかが一日止まるだけだというのにこの荷物の量はなんなのだろう。
「女の子には色々と必要なものがあるんだから」
そう言ってあやかは静かに歩き出す。片手にはいつものように携帯電話でメールでも打ちながら。
いくら田舎とはいえ危険な気もするのだけど…まぁ、あやかなら大丈夫だろう。この状態で、目を画面から離さないあやかにチョップでもしようものなら振り返ることなく地面に倒されることになるのだから。
習っている合気道は伊達ではないということか。
それじゃあ、あやかは今回は先生を訪ねにきたのかもしれない。



―あやかの合気道の先生もここに住んでいるんだし。



田畑に囲まれた道路から湿った土の匂いのする道へと変わり、田園風景はいつの間にか大きく育った木々へと変わっていた。爽やかな風の駆け抜ける森の中、木々の隙間から降り注いだ日差しはもう赤みを帯びている。
朝早くともいえない時間に家を出たのだから向こうにつけるのは夕方なのは仕方ないだろう。駅に着いたときには既に午後三時を回っていたんだ、最悪日が暮れてしまうかもしれない。
そう思いながらぎしぎしと腕がいやな音を立てそうなほどに重い荷物を右手で抱え、背中に負ぶった我が双子の姉を落とさないように歩み続ける。
って。
「…何でお前はオレの背中に乗ってるんだよ」
「別にいいでしょ。もう疲れた。足痛い。乗せてよ」
「もう乗ってる奴が何を言ってるんだよ」
まったく、と小さくため息をついて変わらず足を進める。
本当ならバスを使うというのも手だったのだがこの田舎にはバスが一日一本しか通っていない。それもオレとあやかがここに着いたときには既に出発していていたのだから…歩くのは必然である。
コンクリートで舗装されていない地面に足を滑らせかけながらも何とか進んでいく。
進んで、歩んで、そうしてやっと着いた。



木々が開けた広い場所。
山々に囲まれた静かな所。
人里から切り離された空間。
周りよりも高い丘の上で一軒だけぽつんと存在している日本家屋。
普通の一軒家にしては十分大きく堂々と建っている反面質素な造りの家。
黒い瓦に二階建て、庭というには広すぎる広場の端に洗濯物がぽつんと干されている。
変わらない。
ずっと変わっていない。
オレが住んでいた子供の頃から何も変わっちゃいない。
あやかを負ぶったまま申し訳程度にならされた坂道を登り、そうして目的の場所にたどり着く。
ここがお父さんの実家。
おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた家である。
「ただいまー」
特に気兼ねすることもない、まるで自宅に帰ってきたかのようにオレは横開きになっている玄関のドアを開けて中へと入っていく。
鍵は当然掛かっておらず、ここがいかにのどかで人がいないところかを実感する。
こうするのは…もう一年以上前になるのだろうか。
いや、おじいちゃんとおばあちゃんの命日にも来たからそこまで経ってはいなかっただろうか。
そんなことを考えていると玄関であやかと荷物を置いたところで廊下の先で何かが動いた。
明かりのついていない家の中では何なのか確認できない。
暗がりと同化しているそれは二つの輝く目をぎらつかせてこちらの様子を伺っている。
と思ったらすぐさま駆け出し、オレの体へ向かって飛び込んできた。
それはいつものことであり、彼女にとって歓迎の挨拶でもある。
その突撃を受け止め、そのまま抱き上げ、そうして一言。
「ただいま、夜宵」
「にゃあ」
オレの一言に彼女は嬉しそうに鳴いた。
夜を思わせるほど黒一色の整えられた毛並み、月のように輝く金色の目。
子供の頃から共に育ってきた、おばあちゃんが拾ってきたメスの黒猫である。
こいつがまた人懐っこくて可愛いらしい。
頭を撫でれば気持ちよさそうに首を触ると嬉しそうにごろごろ鳴いてくれる。
おばあちゃんには良くなつき、またオレにも懐いてくれているのだがどうしてかおじいちゃんやお父さんたちには余所余所しい態度をとる。
そしてあやかには…。
「ふしゃーっ!」
「…」
威嚇、している。
全身の毛を逆立てて、オレの腕の中であやかに向かって警戒している。
とことん嫌ってるな、こいつ。
あやかもあやかで夜宵のこと嫌ってるから仕方ないのだろうけど。
中学生あたりからだったか、お祭りで当てたパチンコで夜宵のことを狙い打ってた時期があったくらいだし。
「ほら、そう怒るなよ。可愛い顔が台無しだぞ?」
「んにゃあ♪」
「あはは、まったく可愛いなぁお前は」
「…ふんっ!」
「あだっ!」
なぜだか後ろからあやかに蹴りを入れられた。
広い、といっても足を振り回せるほどではないこの玄関でどうやってか勢いをつけた足を脛にぶつけられた。
地味に…というかとても痛い。
「何するんだよ…」
「べっつにぃー。さっさと上がってよ、ほら」
そう言ってあやかはさっさと靴を脱いで上がりこんでいく。
遠慮なんてしない、気兼ねもしない。まるで自宅というよりも自分のものだといわんばかりの態度である。
そんな態度であやかは一瞬、夜宵を一瞥して―
「―…っち」
舌打ちしていった。
本当に嫌いなんだな。
猫よりもウサギが好きなあやかだけども異常な嫌い方だ。近所の野良猫でさえあんなことしないというのに。
まったく仕方ない、と小さくため息をついてオレも靴を脱いで上がる。
夜宵は抱きかかえたままにして、持って来た荷物はとりあえず玄関先に置かせてもらおう。
「っと」
先に進もうとして止まる。
玄関先に吊るされた昼間だというのに明かりを灯す真っ赤な提灯が目に入った。
それはおばあちゃんが大切にしていたものであり、形見の一つである。
「ただいま」
当然意志なんて持っているわけでもないのだがそっと手で撫でれば中の炎が一瞬揺らめく。
物には魂や心が宿るとおばあちゃんがよく言ってたっけ。
もしそうだったとしたら驚きだ。
そんなことを思いながら歩を進める。
まずは久しぶりに来た挨拶といこうじゃないか。
長く静かな廊下を歩き、一番奥のドアの前に立つ。
先についていたあやかは既に中へと入っていったのだろう、少しだけ開いているドアから光が漏れている。
ふぅっと一息気持ちを整えるつもりで吐き出し、そのドアを開けた。


「ただいまー」


「あら、おかえりなさい、ゆうた」
「んん。おう、よく帰ったのう、ゆうた」


そう言って出迎えてくれたのは二人の美女。
方や、極上の染め糸で織られた一見しただけで高級品とわかる着物に身を包んだ、優しそうで柔和な笑みを浮かべる女性。袖から覗く陶磁器のような綺麗な肌には傷一つ、染み一つさえ見当たらない。
正座でこちらを見ているその姿勢、風貌は誰がどう見ようとも美女。
そして特徴的なのがその髪と瞳。
満月のように輝く金色の瞳、それから同じ色の勾玉型髪留めで結い上げられた紫色の長髪。
この世のものとは思えない天女を思わすような姿である。
方や、ニヤニヤとどこか品のない笑みを浮かべつつもその美しさは損なわれないもう一人の女性。
むしろその笑みから妖艶な雰囲気を漂わせる。
肌蹴た服から覗く大きな胸の谷間に白い肌。胡坐をかいたせいで先ほどからちらちら見え隠れする細い足。部屋の明かりに輝く狐色の髪の毛。そうしておじいちゃんに良く似た口調。
ついでに、酒瓶片手におつまみとして小皿に盛られた油揚げ。
相変わらずの飲兵衛で、油揚げ好き。
まったく変わらない二人の姿がそこにはあった。
「ただいま、先生、玉藻姐」
清廉な先生と凄艶な玉藻姐。
ここお父さんの実家に住んでいるまったく違う美しさを持った二人の女性である。
普通の人が見たらあまりの美しさに畏敬の念を抱くかもしれない。
そう思えるほど二人は綺麗で、場違いなほど輝く麗人なんだから。
そんな二人に抱くべき異常さを抱かないのは小さい頃共に暮らしていたからだろう。
お父さん、お母さんが忙しかった頃代わりに遊んでもらっていたからだろう。
それが当たり前であって、当然であって、それが普通なんだから。
髪の色が違うとか、目の色が黒い色じゃないとか。
それは別に気にすることではなく、それ以上に気にかけることは二人は大切な家族とも言うべき存在だということなのだから。
だからだろう、オレが師匠を初めて目にしてもそんなに違和感を感じなかったのは。
灰色の髪なんて珍しいけどこの二人もまた珍しい。
だからこそいたところでおかしいことは何もない。
ちなみにオレが先生と呼ぶ理由はただ一つ。
彼女はあやかの合気道の先生だから。
もっとも彼女とあやかが合気道なんて口にしているだけでそれが本当に合気道なのか、いったいどう練習しているのか、どんなものなのかなんてわからない。
練習しているところなんて見たこともないんだから。
それでも一応師、敬うべきものは敬わないといけないだろう。
それが双子の姉がお世話になっているのだから、敬うことなんてしない暴君の代わりにオレが敬っているのだけど。
そんなあやかはというと…。
「だるい」
先生の隣で寝転がっていた。
それも大の字で、女の子らしさの欠片もない姿を晒して。
恥じらいなんて、なんのその。
双子の弟として目を覆いたくなるような姿である。
「…はぁ」
ため息に近いものをつき、オレはあやかの隣に座った。抱き上げた夜宵は胡坐をかいた足の上におろしておく。ついでに時計を見れば既に六時。
もうこんな時間だったのか。けっこうかかったな。
そんなことを考えていたら玉藻姐から声がかかる。
「ゆうたもあやかも久しいのう。どれ、もっとこっちに来たらどうじゃ?」
そう言って玉藻姐は酒瓶を持った手で招いた。
酒瓶で揺れる酒は既に半分以上がなく、既に彼女の中に消えたらしい。
先生はめったにお酒を口にしないから全て玉藻姐が飲んでいるのだろう。
それでも酔っている様子を見せず、からから笑う様はとんでもない酒豪っぷりを見せ付けてくれる。
「ほれほれ、来んかい」
そう言ってオレが座るであろう場を空ける。
よりによって先生と玉藻姐の間を。
…美女二人に挟まれるっていうのは嬉しいが歳が歳だ。
なんだかいけない感情を抱きそうになる。
それが昔からお世話になっている二人だというのだから失礼でありながらもどこか背徳的なものもでもある。
仕方ないので夜宵を抱きしめたまま二人の間に胡坐をかいて座らせてもらう。
先生を見ればどこか嬉しそうな顔でオレを眺めていて、玉藻姐はニヤついた笑みを浮かべていた。
「随分と逞しくなったのう、ゆうたは」
そう言ってぐっと体を近づけてくる玉藻姐。
酒瓶は相変わらず離さずにオレに身を委ねるようにしな垂れかかってくる。
お酒独特のにおいと彼女の甘い香りが混ざり合った不思議な香りが鼻腔をくすぐった。
「もう立派な男ではないか」
「そりゃもう十八だからね」
「小さい頃なんて儂らに甘えてきておった子とは思えんぞ、なぁ?」
そう言って反対側の先生に同意を求める玉藻姐。
彼女も頷き、オレの体に身を寄せる。
一瞬オレの体がびくりと震えた。
「全くですね。あれほど小さかった子供がもう大人ですからね…時が経つのは早いものです」
そう言って温かな手が頭を優しく撫でていく。
それがとても落ち着いて、どこか充足感を得られるものである。
思わず目を細めてその感覚を心行くまで味わいたくなるくらいに。
「のう、ゆうた」
そこで玉藻姐の声が掛かった。
彼女の手がオレの肩に置かれ、そちらを向くとどこか妖しい雰囲気をかもし出す瞳に自分の姿が映し出される。
お酒によって頬を朱に染めた玉藻姐はどこか色っぽく、大人の女性というものを感じさせた。
だがそんな彼女は感じさせるものとは反対にとびきりの悪戯を思いついたような子供っぽい笑みを浮かべている。
それはまるで、どこかの師匠のように。
「何?」
「どうじゃ?久々に共に風呂にでも入らんか?」
「…」
歳を考えてほしい。
ぜひとも玉藻姐には歳を考えてから発言して欲しい。
「玉藻姐、オレもう十八だから」
「十八だからなんじゃ?」
「もう入れる歳じゃないって」
「昔から入っておるのじゃ、今更変わらんじゃろうに」
「変わるよ?かなり」
美女と共に風呂に入れるというのはとても嬉しいことだ。
それに玉藻姐はこれで結構スタイルがいい。
胸もお尻も豊かに膨らんでいるしその反対にお腹は引っ込み、女性らしいラインを描いている体つき。
無駄な肉がついていない、モデルでも十分やっていけるような体。
一糸纏わぬその姿を何度か小さい頃に目にしたことがあったが今目にすると確実に変な気持ちを抱く。
「儂らにはゆうたの成長を確認する義務があるからのう」
「…先生」
先生に助け舟を求め視線を移した。
しかし先生にいたっては。
「そうですね。私達にはそれくらいの義務があります」
「…先生まで言いますか」
勘弁して欲しい。
本当に勘弁して欲しい。
美女二人というのはとても魅力的だ、だから勘弁してくれ。
「なんじゃい、夜宵とはいつも入っておるくせに」
どこか不機嫌そうに玉藻姐は言うも顔には相変わらずの笑みだ。
ニヤニヤとした、いやらしい笑み。
「そりゃ、夜宵は猫だから」
そう言って夜宵に視線を移し、頭を撫でる。
そうすると彼女は嬉しそうににゃあと一鳴きした。
「…」
そんな会話をしている最中、我が麗しき暴君、あやかはずっと恨めしそうにオレを見ていた。
射殺すような、鋭い視線をオレ、というか夜宵と玉藻姐に向けて。
「…どうした?」
「べっつにぃー」
そう言って視線を逸らし、そのまま突っ伏す。
わけもわからず首をかしげると玉藻姐がやれやれと呟き、先生は仕方ありませんねと小さく言った。



そのまま他愛ない会話を続けて三十分ほど経った辺りだろうか。
「それじゃあそろそろ夕餉にしましょう」
そう言って先生は立ち上がり、どこから出したのか割烹着を羽織った。
薄紫色の長髪に輝く月のような金色の瞳、そんな人間離れした先生が何の変哲もない割烹着に三角巾を当たり前というように身につける姿は…その、いいですね。
なんかこう筆舌しがたい風貌といいますか、似合わないように見えてギャップを感じるというか…ありですね。
「オレも手伝いますよ」
いくら親のような存在だったとはいえ、このような押しかける形になって食事まで作ってもらうというのはなんだか申し訳ない。
以前はそれが当たり前だった…といってもそれは料理もできなかった頃の話。
今ではできるようになっているし細かなところぐらい手伝わないといけない。
オレだっていつまでも甘えてばかりの子供でいるわけじゃないんだから。
「あら、せっかく来てくれたのだから少しくらい休んでいてもいいのですよ?」
「いえいえ、そういうわけにはいきませんよ」
そう言ってオレも立ち上がり、寝転がっているあやかを足でつついて起こそうとする。二人で世話になるのだからこんなときぐらい働けと意をこめて。
「…」
ごりっと、足の指を肘で押しつぶされた。
どうやら手伝う気はないらしい。
普段から家でもそんな感じだからそうだろうなとは思っていたけどいつものことだし仕方ないか。
足からじんじんと広がってくる鈍い痛みをこらえながらオレは先生の後に続いた。



「〜♪」
上機嫌に鼻歌を歌いながら先生はお鍋の中で煮えるお味噌汁をおたまでかき回している。
何がそんなに嬉しいのかわからないが、その鼻歌は聴き覚えがあった。
それは以前子守唄に聞かせてもらったもの。
この家の真昼時にちょうど日が差し込んでくる部屋で先生の柔らかな膝に頭を乗せて聞いていた。
その明るく華やかなものはどこで歌われていたのか、少なくとも質素で素朴な日本の昔話とは一風変わっている。異国風…とでも言うべきものなのだろうか。
とにかくその歌は昔から聞かされていた思い出深いものでもある。
昔から…。
「…」
やはり引っかかる。
頭の隅で何か大事なことを忘れているんじゃないかと気にかかる。
何か、とても大切なことだったはず。
夢の中とはいえあんな恥ずかしくなるようなことまで言っていたんだ、忘れて言い訳がないだろうに。
その…よ、嫁になるなんて。
「馬鹿だったな、オレは」
「?どうしたのですか、ゆうた」
「え?あ、いや」
いけない、どうやら思ったことが口に出ていたようだ。
注意しないと…。
そう考えてふと思った。
そうだ、先生はどうなのだろう。
先生だけではない、玉藻姐もだ。
「そういえばさ、先生は」
「はい?どうしました?」
「先生は結婚とかしないんですか?」
こんな人里はなれた山奥とはいえ女性であり、美女である先生なら浮ついた話の一つや二つ、またはおめでたい話だってあってもいいのではないか?
出会いがないのはここにいるからであり、都会にでも出ようものなら彼女を放っておく男性はいやしないだろうに。
「さて、ね」
そう言って先生は小さく笑った。
手に持ったおたまは相変わらず円を描いて焦げないように味噌汁をかき回す。
「こんな山奥ですから相手なんて見つかりませんよ」
「…まぁそりゃそうですけどね」
その分動植物が豊かなところである。
時折真夜中には犬か狼かの遠吠えが聞こえる時だってあるくらいだ。
それによくわからない『がしゃがしゃ』と何本もある足をうごめかすような不気味な音さえ聞こえるくらいだし。あれはいったい何の動物なんだろうか。
ぱちりと先生はコンロの火を消しておたまを置いた。
「ここにいるのはお爺様とお婆様とゆうた達ぐらいでしたからね」
「それなら都会にでも出ればいいんじゃないですか?」
「都会の空気は肌に合いません」
確かに車や向上の排気ガスばかりの都会と違ってここは澄んでいる空気だ。
昔からここで育っている人にはあわないだろう。
あ、先生って昔からここにずっと住んでいるんだっけ?
それなら。
「それなら、お父さんとかどうでした?」
昔から住んでいるならお父さんと知り合いでもおかしくない。
おじいちゃんおばあちゃんと親しい仲だったのだから知っているのは当然だろう。
「………そのときにはゆうたのお父様には既にいましたからね」
「?」
「私じゃどうやっても勝てないほどお似合いで、とても美人な女性が…」
遠い目をして、含みのある言い方。
口調からしてもしかして先生はお父さんに恋心でも抱いていたのだろうか?
年齢的にも…いや、先生の年齢は聞いたことがないが外見からはお父さんよりもずっと若い。それでも、年齢的に言ったらお父さんのほうがずっと年上だとしてもお父さんに恋していたのかもしれない。
そして、それは憧れに近い恋心だったのかもしれない。
それにしても先生じゃどうやっても勝てないほどの美人な女性?
オレ達のお母さんのことだろうか?
失礼なことを言うが、確実にお母さんよりも先生のほうが美人だというのに…。
「それに」
そう言って先生はオレの背へとまわった。
そのまま振り返る前にそっと手を回して抱きしめられる。
途端に漂う甘い、優しい香り。
それから服越しでも伝わってくる柔らかで温かな腕の感触。
「ゆうたがいますし、ね」
そう言ってきっと微笑んでいるだろう。
後ろからなのでその表情はうかがうことはできないがそれでも声色からわかった。
だがその発言は。
その言葉の意味は。
遠まわしの告白に聞こえなくもないような…。
「そ、それよりもさ、先生。今オレ包丁使ってるから危ないですよ」
慌てて話題を逸らすことにしよう。
なんだか怪しい雰囲気になってきそうだし、気まずいことにもなりかねない。
しかし先生はオレの言葉を聞いておいてなお腕をまわしたままだ。
それどころかもっと体を寄せてきたようにも思える。
そんなことになれば当然先生の胸についている豊かな膨らみが押し付けられるわけで。
「せ、先生…っ!?」
「背、伸びたのですね…」
慌てるオレを余所に先生はそう呟いた。
身長的にちょうど先生の口がオレの耳の高さに当たる。
熱い吐息、小さな声がくすぐったく、また妖しい雰囲気をかもし出す。
清廉淑女である先生とは思えない大胆な行動。
ただ背丈が伸びたというのにここまで接近する必要はないはずだ。
「昔は私の膝の上に座っていたのに…随分大きくなりましたね」
「あ、いえ…」
…なんだか、気まずい。
どうして先生はオレを抱きしめたまま離してくれないのだろうか。
久しぶりだったとしてもこれはスキンシップが過ぎるんじゃないだろうか。
先生ってこんな人だったっけ?
これはもう…なんというか、師匠の領域だ。
もっとも師匠なら抱きついたままで終わらすはずがないだろうけど。
「ねぇ、ゆうた」
妖しい熱をこめた、甘い声。
「は、はい…?」
「ゆうたも立派な大人ですね」
「は、はぁ…」
「子供の成長というのは早いですね。少し見なかっただけでここまで変わるとは思いませんでした」
「いつまでも子供じゃないんですよ、オレもあやかも」
「そうですね…」
そう言って、先生はオレの肩に顎を乗せた。
別にこれがじゃれ合いだとか、愛する子供にするような行為だったのだろう。
きっとそうだ、そのはずだ。
でもオレも既に大人の領域。
子供ではない、大人の男性である。
先生のことを本当に女性として意識してしまうところだってあるというのに。
先生は今もオレを子ども扱いしていると言うのだろうか。
まったく、困った先生だ。
「子供では…ないのですね」
熱に浮かされたように先生はオレの言葉を返した。
ぞくり、とする。
背筋を冷たい指でなぞられたように、しかし熱い吐息で耳を撫でられて。
いったいどうしたのだというんだ。
こんな先生を前にしたときは…以前にも二度ほどあったな。
それはマッサージのときと、先生に膝枕をしてもらっていたとき。
去年、一昨年あたりだっただろうか。
今のように熱い吐息でオレの背後から語りかけてくる先生の姿はまるで玉藻姐や師匠と同じように見えた。
「ねぇ、ゆうた…」
「は、はい…?」
流石のオレもこんな状況を続けられるような忍耐力はないので逃げようと体を横へとずらすが、ずれない。
否、動けない。
ただ抱きしめられているだけだというのにどこを掴んでいるのか、どう拘束しているのか、どうして動けないのかわからない。
そういえば合気道の先生だったな…。
武術の先生ならば拘束技の一つや二つ知ってて当然か。
そのままどこをどうやったのかわからず先生はオレの体を回転させた。
「おわっ!?」
逆らうことなんてできない。抗うことなんて許されない。
それでも優しく、傷つけないように。
オレは先生と向き合う形で抱きしめられた。
「ふふ、本当に大きくなって…」
それは慈愛溢れる母親のような声色で、満ち溢れた笑みは子供の成長を見守るかのように優しいものである。
抱きしめられたこの状況、このまま目を閉じて寝てしまいたくなるような心地よさを覚えるものである。
ある、のだけれども。
どーしてかな、目がなんかいつもと違う。
なんというか、その金色の瞳の奥に宿る光はどう見ても…その…―


―師匠と、同じような…気が…するんだよなぁ…。


いやまさか、まさか…ね。
違う…よね?
そっと先生の手が体を撫でる。
肩を撫で、腕を伝い、わき腹へと移る。
「…ん」
くすぐったい。その手つきは感触を確かめるためだろうが、思わず小さく声が漏れてしまう。
その声に反応してか一瞬先生の動きが止まった。
止まって、手が上に上がってくる。
首を掬うように下から撫で、両手で頬を挟みこまれた。
じんわりとしたオレよりも高い体温が伝わってくる。
「逞しく、なって…」
うっとりとした表情でそう呟かれるとなぜだか妖しい気持ちになる。
他意はない。ただの成長の確認だ。
ただそれだけ…のはずだ。
「先生…」
「あら、顔が赤いですよ?風邪ですか?」
「い、いえ…」
流石にこんな状態では照れてしまうだろうに。
まるで天女と言っていいほどの美人に目の前で抱きしめられて、見つめあうことになっているのだから。
そう思ったとき、こつんと頭に軽い衝撃が走った。
そして目の前には先ほどよりも格段に近づいた先生の顔。
額に触れているのはきっと先生の額。
「ちょっと、先生…っ」
「熱は…ないようですね」
そう言って微笑む姿はやはり変わらない。
昔と同じ、心から心配して、世話してくれていた大切な人。
まったく変わらない。
額に額を合わせられて、その笑みを見て実感する。
いったいオレは何を勘違いしているんだ。
先生はただ子ども扱いが抜けていないというだけであって特別なことをしようとしているわけではないんだ。
自嘲気味に心の中で笑い、先生の手をオレからも包む。
「大人になったって言ったのに。いつまでも子供扱いしますね、先生は」
「私からしてみればゆうたはまだまだ子供の域をでていませんよ」
「これは手厳しい」
「ふふ、いつまでも大切で可愛らしいものです」
「この歳で可愛いはないですよ」
そんなことを言って先生は相変わらずオレの頬を両手で挟んだまま、オレは先生の手を包んだままで話していたら一瞬目が合った。
目の前にいる先生ではなく、その後ろ。
台所のドアから体を半分だけ見せて恨めしく、穴が開きそうになるほどに鋭い視線を送る。
当然というべきか、やはりというべきか、それは我が麗しき暴君であって…。
「…飯は?」
地獄の底から響いてくるようなとても低く恐ろしい声でそう言った。
「い、今作ってるとこ…」
「へぇ?そんなことしてどうやって作るって言うの?」
そんなこと、それは勿論あやかの目の前で行われていることについてだろう。
傍から見たらこの状態はどうみえるのか。
オレと先生の間を知らない人が見て、仲睦まじい子と親という風に見えるには…無理があるかもしれない。
年頃の先生と年頃のオレ。
その間柄を知っているあやかからして見てもそれは…ただ親しいだけの仲とはみえないかもしれない。
現にあやかの反応は…。
「…へぇ」
ただ片眉吊り上げただけだった。
あれは…いただけないときの反応だな。
それも、相当来ているときだろう。
あやかは特に何も言わず、オレと先生の横を通って料理の完成具合を見ている。
そうして、既に完成している先生お手製の味噌汁の入った鍋を見ると隣にあった木の椀に一口分注ぐ。
「ん、おいし」
そう言って今度は椀一杯分注いでそのまま帰っていった。
…うわ、自分の分だけもって行きやがった。
いつも通りの勝手さだ。
「あ、そうそう」
戻ったと思っていたあやかが顔だけだしてこちらを見た。
いまだに離れていないオレと先生。
あやかの唐突な行動に唖然として離れることを忘れてしまっている。
「何しようと勝手だけどさっさとご飯にしてくれない?ゆうたも先生も」
それだけ言って戻っていった。
…あまりの身勝手さに拍子抜けした。
そのせいか先ほどの先生との和やかな空気は一気に胡散してしまっている。
この状況で先ほどの雰囲気再現するのは…できないだろう。
「…ご飯、作るの再開しましょうか」
「あ、はい。そうですね」
このままというわけにはいかず振り返ってほうっ長を握り料理を再開する。
あやかにまた催促されたらたまったもんじゃない。
渋々とオレは包丁で野菜を切り出した。





食事も終え、風呂にも入り(夜宵と一緒、先生と玉藻姐は当然共に入らせず)気づけば既に真夜中になった。
というのも久しぶりの二人と一匹とで話に花が咲いてしまったのだ。
やれ学校はどうだとか、やれ最近調子はいいのかとか、彼女いるのかとか、まるで親みたいに。
昔は親のような存在だったのだから当然かもしれない。
既に部屋の明かりも消え、寝入る時間である。
元々オレはここに住んでいたこともあり寝る場所だって決まっていた。
二階にある、手前から三番目の部屋。
こじんまりとしているのに部屋の半分以上をベッドが占めているという部屋である。
小さい頃なんて一人で寝るのが怖くて皆で一緒に寝てたっけか。
あやかと姉ちゃんと夜宵と玉藻姐と先生とそれから―

―それから?

あれ?それだけだったはずだよな?
お父さんもお母さんも仕事。おじいちゃんとおばあちゃんは別室。
だからそれで全員だったはずだよな?
それなら何でこう、抜けていると感じるのだろうか。
埋めようのない虚無感、はまるべきピースがないジグソーパズルのような。
物足りない、空しさを覚える。
…何でだろうか。
その理由はまったくわからない。
どうしてなのか理解できない。
それでも、少しは。
これから行くところに行けば少しはわかるかもしれない。
この家から北にある山へと行けば、その山のずっと奥、人気どころか動物の気配さえ感じられない奥まで行けば。

―そこにある湖の神社に行けば。

何かわかるかもしれない。
そこは神を奉った場所。
神聖な雰囲気で、幻想的な情緒ある、厳粛な空間。
訪れることを躊躇うほど何もおらず。
呼吸さえ忘れるほど静かであり。
手を伸ばしたくなくなるほど透き通った水に囲まれている。
それはまるで御伽噺の一端に出てくる光景である。
そして、そこにオレはいた。
誰かに抱きしめられて、いたんだ。
だから、行けばわかるかもしれない。
たどり着けば何か思い出すかもしれない。
あの時も夜、そして今もまた夜。
町明かりのない、月明かりのみに照らされたここならそう迷うこともないだろう。
現に何度もあの場所へは訪れているんだから。
だから―


「―行くか」


靴紐を縛り、シャツを直し、あやかの持ってきたバッグに入れてきたビニール袋に包まれた瓶を取り出す。
神様に捧げるためのお神酒。
昔おばあちゃんと共にここら周辺の神社や社、祠にお酒などを供えに行ったことがある。
建てたからには奉られている神様にちゃんと感謝をしろと、いつも優しく教えられた。
それが見たことのない存在でも、既に忘れ去られた存在でも。
皆守ってくれているのだから。
そう言っておばあちゃんはよく連れて行ってくれたっけか。
それもまた、懐かしい思い出だ。
そっと音を立てずに玄関のドアを開ける。
夜宵ももう寝ているのだろうか、そのまま止まっても物音一つしない。
これなら誰にも気づかれないだろう。
そのまま同じようにドアを閉めて足音を立てずに歩き出す。
冷たい風が頬を撫でていくが、いつも以上にひんやりとしている。
まるでこれから雨が降り出すように。
快晴であることは間違いないはずだったのに。
それは今朝確認したし、夕方にだって空は晴れていた。
空を見上げると夕方にはなかったはずの黒い雲がうっすらと出てきている。
…大雨が降るということはないだろうけど、もしかしたら小雨くらい来るかもしれない。
ここら辺って雨がよく降るし。
六月ごろなんていったら何日も雨が続くぐらいだしな。
そんなことを考えつつ歩いていると急にその足を止めることとなった。
それはまるで立ちはだかるように―否、待ち受けるようにしてそこに立っている人がいたのだから。




「―…先生?」












「…ゆうたの奴行きおったぞ、あやか」
「…」
「追わんでいいのか?」
「…」
「儂らのときは容赦なく邪魔しにきおったくせに」
「…あんたらが無理やりしてるから邪魔するんだよ。それに先生ならいいと思ってるし」
「かー!甘いのう!いつもなら怒鳴り散らして投げ飛ばすというのに!」
「そもそもあたしがここに来たのはあの化け蜘蛛共がゆうたを襲いに来ないようにするためだし」
「それは儂らも入っておるのじゃろう?」
「あやかはひどいにゃー」
「ゆうたの服着て発情してた獣共が何を言うのさ」
「ぐ、ぅ…」
「…にゃー」
「じゃが、先刻やきもち焼いておったろうが」
「…」
「姉弟だからといって躊躇いおって。儂が手をかしてやらんでもなかったというのに」
「却下。あたし狐になりたいなんて思ってないから」
「残念じゃのう」
「ウサギのほうが好きだし」
「そういう問題かにゃー?」
「それに先生だし、あんたらみたいにゆうたに襲い掛からないし」
「以前襲い掛かってのを皆で止めたの忘れたのかにゃ?」
「料理だって上手いし」
「料理で決めるのだったら儂だって上手いんじゃぞ?」
「油揚げ料理しかない食卓なんてあたしは認めないよ」
「本当にあやかはわがままだにゃー」
「猫飯は論外」
「うにゃぁあ!?」
12/03/01 21:19更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということでお久しぶりです!
始めましての方はよろしくお願いします!
ノワールただいま戻ってまいりました!!
いやぁ、長かった
以前のヴァンパイアルートを最後に随分と離れていましたがこれからは何とか落ち着いて作品を書かせていただきます!

そして始まりました、クロクロ龍ルート
別名先生ルート
昔から世話をしてくれていた親のような女性である先生とのお話でございます
狐色に紫色の長髪、そして人の言葉を理解する猫に触れると明かりが揺れる提灯
ここまでおかしいのに気づかないのは幼い頃から育ててきてもらい、ともに住んでいるからであるとはいえ…もう気づけって感じですね
ちなみに今回出てきた方々は先生を除き現代編で出てきます!

次は山の神社が舞台です
夢の中に出てきた神社で主人公と先生は…!

それでは次回もよろしくお願いします!!

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