連載小説
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中編
「驚きましたよ。部屋を覗いてみてもゆうたがいなかったのですから」
「いや、オレの部屋を覗くっていったいどうしたんですか?」
「昔のように添い寝して子守唄でも歌ってあげようかなと思いまして」
「そこまで子ども扱いしちゃいますか」
「私にとってゆうたはいつまでも子供ですからね」
「少なくとも子守唄はもういいぐらいの歳ですけど」
「それでも、この前は膝枕してあげたじゃありませんか」
「膝枕ぐらいならまぁ、いいんですよ」
「添い寝だってしてましたし」
「添い寝はもう色々とまずいと思うんですよね」
「お風呂だって一緒に入っていましたし」
「すいません、もう入れませんからね」
そんなことを話しながらオレは先生と月明かりの差し込む山の道を歩いていた。
木々の隙間からわずかに差し込んだ光が足元を照らすだけなので非常に危ない。
だがそんな場所をオレも先生もすいすいと進む。
ここら一帯は昔何度も駆けずり回ったし、互いに夜目は利くほうだしそれにここへは来るのに慣れている。
だから目を瞑ったって転ぶことはない、そう、それくらいの余裕はあるんだ。
だけどどうして先生はオレの手を握っているのだろう。
「ここら辺は危ないのですよ」
「いや、平気ですから」
「ただでさえ夜の山は危険なのですから」
「…特に危険だと思ったことはないですけどね」
「そんな風に思っていると怪我しますよ。だからこうして手を握っているのではありませんか」
ここまで子ども扱いされるとは思わなかった。
流石のオレも苦笑しかできない。
昔から変わらない先生だがこういう対応は変えて欲しかったな。
それに、と先生は続ける。
「昔もこうやって手を繋いで歩きましたしね」
そう言ってぎゅっと握る手に力をこめる。
「懐かしいですね」
「…まったくです」
そう言われては仕方ない。
確かにこうやって手を繋いで並んで歩くのは久しぶりのことだ。
久しぶりだからこそしていたいのだろう。
それなら、仕方ない。
もう片手に持った袋に入った酒瓶を木にぶつけないように注意しながらオレと先生はそのまま進んでいった。





歩き続けてもう二十分ほどは経っただろうか。
山の急な傾斜に足をすくわれないように歩き、時折雲に隠れる月を見て方向を確認し、先生に手を引かれてようやくそこへとたどり着いた。
夢で見たあの場所に。
オレが昔から訪れている一つの神社に。
そこは山の中にある湖だった。
木々の覆われていない、絶景の空を仰ぐことのできる場所。
ここ一面に広がる水は底が見えるほどに透き通っていて月明かりをきらきらと反射する。
その湖の中央にある島。
手すりは赤く塗られ、曲線を描いて島とを繋ぐ橋。
長年風雨に晒されているはずなのに色落ちすることもなくその役目を全うしている。
そして、その先にある大きな神社。
一軒家よりもずっと大きく頑丈に建てられているもの。
鳥居はないが外壁、屋根などには細かに装飾が施されている。
賽銭箱なんてものはない。
というのもここには人気がいないからだ。
こんな山奥にある神社に参拝しに来る人なんてまずいないだろう。
「変わってませんね、ここも」
「ええ、変わりませんね」
そう言ってオレと先生は橋の目の前に立った。
明るい夜、やや冷たい風が肌を撫で木々をざわめかせる。
そういえばこんな風にあの神社を見ていたことがあったな。
昔、オレが小さい頃おばあちゃん達とここに来たのを思い出す。
それはおばあちゃんに片手を引かれてちょうどここに立っている場面だった。





「いいかい、ゆうた。ここは偉い神様が奉られているんだよ」
「えらいかみさま?」
「そう。とても偉い水の神様だよ」
「あっちにある神社も神様がいるのに?」
「ここはねぇ、いろんな神様が住んでいるんだよ。だから皆がゆうた達を守ってくれる」
「そうなの?」
「ここの水の神様はね、どこにでもある水を通してゆうたのことを守ってくれてるんだよ」
「まもってくれてるの?」
「いつも水を使って見ているんだからね」
「…流石にそこまではしたことはないんですけどね」
そう言って誰かが笑った。
誰かはおばあちゃんの皺だらけで骨ばった、それでも優しい手とは反対にゴツゴツとした骨ではない何かに包まれた大きな手でオレの手を握っている。
昼時だったからだろう、日の光を煌びやかに反射する緑色の宝石のようなものが目立つ。
だがその外見とは裏腹に小さな手を握る感触は柔らかく、温かである。
「それでも近いことはしてるんじゃないかい?」
「えっと…それは…」
「図星かい?」
「…」
「ねーねー、なんのお話してるの?」
「神様がね、ゆうたを大切に想ってるっていうお話だよ」
「お婆様っ!」
そう言って顔を真っ赤にしている彼女は―


―人ではない。


それがわかるのはその握った手から、頭から生える二つのものから、本来あるべき二本の足ではないまるで蛇のように長い下半身から。
彼女は人間ではない―


―水の神様。


おばあちゃんがそう言っていた。
「水の神様なんて呼ばれているけどね、本当はちゃんとした呼び方があるんだよ」
「べつのよびかたってなに?」
「神様の本当の名前だよ」
「かみさまにもなまえがあるんだね」
「ええ、ちゃんとありますよ」
「どんななまえなの?」
「そういえばゆうたには教えてなかったね」
「ええ、お父様が既に知っているからいいと思ってたんですが…」
「うちの息子も気が利かないねぇ」
「彼は…仕方ありませんよ。」
「ねーねー、なまえはなんていうの?」
「そうでしたね。いいですか、ゆうた。よく覚えておいてくださいね。私の名前は―」





「―…き」
「…?どうかしましたか?」
「あ、いえ。何でもありませんよ」
オレは慌てて先生にそう言った。
そうだ、それだ。
あの時おばあちゃんと一緒にいてくれた彼女がそうだ。
この現代では考えられない、人間ではない姿。
緑色の宝石に見えたあれは―鱗か?
頭から生えた二つのものは―角か?
蛇のように長い下半身、鱗に包まれた両腕。
彼女は―


―龍神。


水の神様。
オレの夢の中に出てきた、幼いころのオレを抱きしめていた女性。
オレの名を慈愛に溢れた声で呼んでくれた神様。
何で今まで思い出せなかったのだろう。
どうして今まで違和感を抱かなかったのだろう。
水の神と過ごしていたあの日々を。
龍神様と過ごしていた事実を。
ありえるような過去ではない。
こんな世界で信じられないことだ。
それを今までどうして忘れていたのだろうか。
と、そんなことを考えているとぽつんと頬に水滴が当たった。
「うん?」
「あら?」
先生も気づいたらしい。
湖の水面に次々と波紋が生じている。
それに伴い肌に当たる水滴の量もだんだんと増してくる。
こんなときに雨?
空を見ると先ほどの薄い雨雲がちょうど真上に佇んでいた。
とうとう降り出したか。
そんな感じはしてたんだよな。
それでもまだ小降りである。
手にあるお神酒を神社に置いて帰ればそう濡れずにすむことだろう。
神社には…また明日来ればいい。
どうせ泊まるつもりだったことだし。
「先生、急いで帰りましょうか」
先生の手を抜けお神酒を供えてこようとして、止まる。
「…先生?」
どうやら先生が手を離してくれないようだ。
強い力ではない、それなのに離れることができない。
「この雨では山の傾斜面では足を滑らせてしまいますよ」
「いや、まだ小雨ですから急いで帰れば―」


―ポツリと、手に雨水が降ってきた。


それだけでは止まらず次々と肩に、足に、体に、頭に。
雨粒は数を増して水面で跳ねる。
そして当然、オレも先生も濡れるわけで…。
「これは流石に帰れないでしょう?」
「…ですね」
土砂降りまではいかないが本降りになっている雨。
この中を急いで帰れば整備されていない土の道では転んでしまうことだろう。
それに山であることから傾斜。
先生の言うとおり滑らせてそのまま転がって大怪我しては洒落にならない。
「それなら神社の中で雨宿りでもしていきましょう?」
そう言って先生はオレの手を引いた。
いやでも、いくら人が住んでいないからといっても神様を奉っている建物である。
そんなところで勝手に雨宿りさせてもらうのは失礼ではないだろうか?
ただでさえこっちは昔からおばあちゃんに言われてきているんだし。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。雨宿りするだけですから」
「いやでも神社ですよ?神様にも失礼じゃないかなーと思うんですが」
「それなら私が許可しますよ」
「いや、そういう問題じゃないでしょうに…」
なんて話している今も雨は容赦なく降り注ぐ。
木々がなく、夜空が綺麗に見えるこの場所は当然雨水を遮ってくれるものなんてない。
あって島にある神社ぐらいだろう。
ここでただ話しているだけではただ濡れるだけ。
…それなら。
「…仕方ないですね」
濡れ続けたら風邪を引くだろうし、明日には家に戻らなければいけないんだし。
ほんの少し雨宿りさせてもらおうか。
オレの言葉に先生は嬉しそうに頷く。
雨に濡れたことによって頬へ紫色の髪の毛が張り付いたその様子はどこか色っぽい。
これ以上雨に当たれば服だって張り付いてくるだろうし、そうとなったら和服のような先生の服だって張り付いて直視しづらくなることだろう。
さっさと行くことにしようか。
「では行きましょうか」
先生はそのまま滑るように進み手を引いて橋を渡った。
見た目以上に頑丈に作られた感触を靴裏に感じ、整備された硬い石畳の感触へと変わる。
足を踏み入れると同時に感じるこの厳粛な雰囲気。
それでも拒むようではない、まるで包み込まれるような不思議な感覚。
その感覚が、その雰囲気が。
何も変わっていない。
あの時とまったく同じ。
そんな風に感じながらオレは先生に引かれるままに神社へと入っていった。






そもそもここは神社よりも住居というべきなのかもしれない。
部屋は大きく分けて四つも存在している。
その仲で一番大きいのはこの部屋。
十数枚の畳が敷かれたここの奥にあるのはお供え物を置くべき台。
その目前には細かに施された彫刻がある。
頭から生える二本の角。
長い蛇のような体に、一枚一枚丁寧に刻まれている鱗。
口から伸びる髭に、鋭い牙、尖った爪に掴まれた金色の宝珠。
睨みつけるような鋭い目には小さい頃何度泣かされたことだろうか。
人なんて住んでいないはずなのにそれは埃一つ付いてない状態でオレの前に佇立していた。
先生は今ここにはいない。
というのもここのある部屋に置かれているタオルを取りに行っているからだ。
ある部屋というのは…これは神社にあるべく物なのかはわからないが…風呂だ。
他にも台所だってある。
神社とは神を奉るべき場所なのだがこれでは誰か人が住まうためのものではいのだろうか。
…いや、それでいいんだろう。
実際神様であるあの女性が住んでいたのだから。
彼女の姿はここにはない。だから今はもういないのだろう。
あの蛇のように長い体ならいくら広いこの神社でも隠れきれるわけではないのだから。
「ほら、ゆうた」
そこで先生に声を掛けられる。
声のしたほうを見るとそこにはタオルと着替え用の服だろう、先生の着ている服に良く似ているものを持って現れた。
「濡れた服を着ていたら風邪をひきますよ」
にこやかにそう言って先生は着替えを手渡してきた。
「どうも」
オレはそれを受け取り…あれ?服だけ?
タオルは?
「ほら、こっちを向いてください」
そう言って先生はタオルを広げてオレの頭を包み込んだ。
「え、ちょっと先生!」
「ああ、そんなに動かないでください。拭きにくいじゃありませんか」
え?いや、え?
先生はどこまでオレを子ども扱いすれば気がすむのだろうか。
こんなことまでしてもらうほどオレは子供じゃないというのに。
それでも先生はそんなこと気にせず手を動かしてオレの髪の毛から水気を拭い取っていく。
「はい、できました」
「…ありがとうございます」
「いえいえ」
…なんというか複雑だ。
あれだろうか、先生はオレを一人の男として意識してないのだろう。
というかオレが思っていた以上に子供だと思っているのだろう。
…流石に今度のは苦笑いもできそうにない。
「どうしたのですか?服着替えないのですか?」
「あ、いえ着替えます」
「なんなら着替えも手伝いましょうか?」
「一人でできます!」
流石にここまで人にされてはたまったもんじゃない。
そこまで濡れておらず下着まで脱ぐ必要はないだろう、それでも女性に着替えを手伝わされるなんていうのはいただけない。
人の服を引っぺがしにかかる師匠や着せろと命令してくるあやかと同じくらいにいただけない。
ため息に近いものを吐き出してオレは服を脱いで―気づいた。
いけない、何同じ部屋で脱いでいるんだ。
先ほど着替えを拒んだというのにこれではまったく意味がないじゃないか。
危ないところだった。中途半端に脱いだ服をそのままに先生の前から隠れようとそちらを見た。
見て、固まった。
「よいしょっと」
きっとオレへの着替えの服を取りに行ったときに一緒に持ってきていたのだろう先生の横には畳まれた、今先生が着ている服と同じものがあった。
上品な糸で紡がれた高級さを漂わせる服。
気づけば先生いつも着ている服はここのものだよなとか、先生の服って前面大きく肌蹴てるけど色々危ないんじゃないかとか、先生胸大きいからできた谷間が強調されて困っちゃうんだよなとか。
そんなものは置いといて。
どうしてなのだろうか。
先生はオレの目の前だというのにも関わらず自分の服に手を掛けていた。
掛けて既に両肩まで露出している。
部屋の明かりに照らされて輝くような白い肌が見えている。
そのまま気にすることもなくするすると服を下げて大きな胸の―
「―待った待った!先生ストップ!!」
「あら、どうしたのですか?」
「どうしたもないでしょうに!!」
男の目の前で着替えだす女性がどこにいるって言うんだ!
いや、今目の前にいるけどそれでもそれは、ないだろう!
それはあっちゃいけないだろう!
「先生!男!」
「私は女ですが?」
「そうじゃなくて!オレ男ですから!」
叫ぶようにそう言ってオレはすぐさま顔を逸らした。
そんなオレを前に先生はきょとんとしている。
顔を見ればきっとわけがわからないという表情を浮かべていることだろう。
「男の前で着替えるのはまずいでしょうに!」
「あら、今更何を言うのですか。お風呂にだって一緒に入ったというのに」
「それは昔ですって言ったでしょう!」
「小さい頃なんて私の胸に顔を埋めては『おっぱいふかふか〜♪』なんて言っていたじゃありませんか」
「そんなことあったんですか!?」
そりゃもう、勘弁願いたい過去の話だ。
いや、そうじゃない!
「とにかくまずいでしょ!年齢的に!もうそういうことを言っていられる年頃じゃないんですからね!」
まったく困った先生だ。
小さい頃と違うって何度も言ったというのにどうしてこうもわかってくれないのだろうか。
性質が悪いったらありゃしない。
しかし先生はそんなオレの態度なんてどこ吹く風、しかもどこか嬉しそうな、悪戯でも思いついた子供のような声色だ。
「別にいいじゃないですか。それに私にはゆうたの成長を確かめる義務というものがあるんですから」
先ほど、玉藻姐と言っていた言葉。
次いでかすかな物音。
布の音ではない、きっと足を進めているだろう音。
え?と思う前にオレの体は先生の二本の腕に絡め取られていた。
両肩から覆いかぶさるように、その身を押し付け抱きしめる。
服を脱いでしまったことにより先ほど抱きしめられていたときよりもずっと感触がよく、濡れた布の冷たさにぞくりと体を震わせる。
だがそれ以上に温かく、ふわりと背中に押し付けられる膨らみがオレの何かにヒビを入れた。
服を半脱ぎにしているからだろう、オレよりも高い体温を伴った柔らかさにどきりとさせられる。
家にいたときと同じ状況。
しかし今はオレと先生の二人。
そしてオレは上半身裸。先生は半脱ぎ状態。
聞こえるのは雨粒の跳ねる音と先生の吐息、それから小さく伝わる鼓動のみ。
「逞しくなりましたね」
まるで囁くように耳元で先生の声がする。
慈愛に溢れるその言葉、それでも何か妖しいものを孕んでいる気がした。
その何かはわからない。
オレはそこまでわかるほど経験豊富じゃないというわけだ。
ただわかるのはこの状況が普段とは違うということ。
先ほどの抱擁とはまた違うということ。
先ほどの確認とはまったく違うということ。
「あの…先生?」
引き剥がそうと手を動かして、止められる。
肩を伝い、肘を撫でそのまま腕へ手を這わせる。
「筋肉も付いて…男の人みたいです」
「…オレは男ですからね」
「ふふ、そういう意味で言ったのではないんですけどね」
そういいつつも手は動くのをやめない。
もう片方の手は喉元をさすり、鎖骨をなぞり、するりと肋骨を撫で回す。
「ちょっと、せんっせい…っ」
「…っ」
一瞬先生の手が止まり、熱い息が吹きかけられる。
それは意図してしたものではなかったかもしれない。
ただの呼吸、ほぅっと一息ついただけかもしれない。
それがまたぞわりと背筋を撫でるようなものを感じさせ、心臓の鼓動を激しくさせる。
それでも先生は手を動かすのをやめてくれない。
そのまま徐々に下へ下へとゆっくり焦らすように、それでいて確かめるように下がっていく。
肋骨を一本一本丁寧になぞり、そのまま腹筋をくすぐる様に蠢く。
そうして腰を抱きしめた。
「……ぁ、…ふぅ…」
耳元で先生の呼吸がやけに大きく聞こえた。
地面を水滴が滴る音も水面を叩く音も葉を揺らし伝う音さえも遠く耳に届かない。
先ほどから熱くなっている先生の体温、それと同じように熱くなっている吐息。
彼女はオレの肩に顎を乗せてこれ以上抱き寄せられないほどに密着する。
こんなことをして先生の顔はどうなっているだろう、先生はどんな表情をしてるのだろう。
そう思えてもこんな状況では見ることも出来やしない。
そこで先生はさらに行為を進める。
「んっ」
「ぅあっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
それも仕方がないだろう。
今まで感じたことのない感触を耳に感じた。
湿り気を帯びた柔らかなもの、それが耳に押し付けられたのだから。
未曾有の感覚に逃げ出そうとしても腰まで抱きしめられているので逃げられない。
そのまま先生は柔らかなそれを動かしていく。
「ん、ちゅ♪」
「ふぅっ!?」
最早確かめるという様子ではなかった。
おそらくだが先生はきっと親が幼子の頬にキスするような、愛情溢れる行為をしているのだと思う。
温かみ溢れるその行為は親しいもの、それもかなり密な関係を持ったものにするものだろう。
例えば、親子。
例えば、親友。
例えば―


―恋人。


そのうち先生は親子でやるようなものとしているんだ。
育ての親といっても過言じゃない関係だからこそ愛情を表す好意をしているんだ。
だからこんなことをしているんだ。
でも、これは。
こんなことまでされたら。
オレは―
「―…ああもうっ!」
半場無理やりというか完全に無理やり力ずくという形でオレは先生の拘束から体をすり抜けさせて何とか逃れる。
そのまま横に置いてあった着替えを引っつかみ、一言。
「オレは外で着替えてきますからね!先生はここで着替えてくださいよ!!」
そう言って部屋から出て横開きの戸を閉めた。
途端に感じる水の冷気。
雨が降ることによって冷えた空気が纏わりつき火照った体を冷ましていく。
冬ほどではないにしろ上半身裸だ。それは思った以上に熱を素早く奪っていった。
「…はぁ」
そうしてため息をついた。
からかわれてるのかな、オレは。
いくら先生といえここまで意識されないというのは悲しいものがある。
昔から親の代わりだったとは言え女性。
それもとんでもない美女があそこまで何も意識せずにするというのはある意味魅力的で陶酔的なものがある。
だが、それでもあそこまで男を意識せずにするというのは真正面から眼中にないといわれているようなもの。
それもあやふやで遠回りに。
やんわりと、柔らかに。
ハッキリせずに、傷つけずに。
だからこそ、それは…。
「…悲しいよなぁ」
オレも男だし、先生は美女。
それなら期待する事だってあるし、望むこともある。
だが先生の行為はその期待を膨らませるようなもの、望みを見せてくれるもの。
それでもそれはわずかであり、届かない。
いったところでせいぜい親と子の関係。
それだから男として悲しいんだよなぁ。
師匠のように警戒しなくてすむというのは助かるのだけど。
はぁ、とため息をついてオレは手に持った着替えの袖に手を通す。
黒地に白の刺繍が入った、先生のと同じ種類だろう和服。
和服といっても上下に別れていて下は黒い袴だ。
サイズは少し大きめだが着れないということはない。
むしろ成長してほどよくなったというところか。
まるで空手の道着を身に着けるかのようにそれを着込み、ズボンを脱いで袴を履く。
脱いだ服は隣に畳んでオレはそこに腰を下ろした。
外に面している木でできた長い廊下。
表面はつるつるしていてべたつくこともなく誰かが雑巾がけでもして手入れをしていることがわかる。
すぐそこの湖では雨が降っているというのに水面が跳ねるのが見える。
夜でも雨でもここは薄く明るい。
だから幻想的であり、神様を奉るにはもってこいの場所なのだろう。
オレは廊下に腰を下ろして湖を見た。
しとしとと降り注ぐ雨の音。
水面が弾けることによって響く不規則な音色。
土が濡れることによって香る独特なにおい。
草木が湿って醸し出すかぐわしさ。
ついた手から感じる冷えた木の温度。
座ったことでわかる床の固さ。
「…」
どれもが同じ。
この状況、この状態。
雨降る夜で、座っていた。
オレは神様と一緒に、神様の膝の上にいた。
宝石のように輝く鱗の生えた腕に抱きしめられ、温かく大きな手で撫でられて。
そうしていったあの言葉。


―やくそくだよ!


「…約束、か」
小さく呟いたその言葉は雨音に掻き消え闇夜に呑まれた。
子供のころのオレは…随分と大胆だったもんだ。
今はあそこまでできそうにない。
あんなことができるのは子供だけだな。
「まったく…」
苦笑してそのまま後ろに倒れこんだ。
後ろは先生がいる部屋の戸があるがそれでも人一人寝転がるほどの十分な幅がある。
そのまま大の字に寝転がろうとしたオレの体は柔らかなものに抱きとめられる。
床の固く冷たい感触ではない、まったく逆の温かで柔らかな感触。
それから雨のにおいを打ち消さない、それでいて控えめだけどハッキリと主張してくる甘い香り。
次いで回される腕。
「…着替え終わりましたか?」
「はい、終わりましたよ」
オレの言葉にそう言って先生は微笑んだ。
先ほどのとんでもない行為の後だというのに彼女は落ち着いている。
それはオレも同じ。
どうしてだろうか、この状態は安心する。
先ほどのことをされたらまた一気に心臓が高鳴るだろうけどそれでも静かだ。
それでいて、満たされるような。
何度も感じていたこの感覚。
ずっと昔で、ずっと前で、色あせたはずでも鮮明に蘇ってくる。
温かく、柔らかく、蕩けるように、溶けるように。
全てを委ねてもいいと思うほどの安心感。
全てを預けたいと思えるほどの安堵感。
それでいて離れたくなくなるこの落ち着き、手放したくないこの安らぎ。


―ああ、そうだ。


―これなんだ。



―オレが夢で感じていたものは。



「さっきの話の続きなんですけど…」
オレは体勢を立て直して、それでも先生に後ろから抱きしめられたままそう言った。
先生の手が先ほどとは違う、幼子を寝かしつけるように頭を撫でる。
それに心地よさそうに目を細めつつも聞いた。
「先生は結婚はしないんですか?」
「…またその話ですか」
少しばかり呆れたような声色が混じるも苦笑を浮かべる先生。
それでも手は止めない。
しかし力をこめてオレをさらに抱き寄せる。
「ここには相手がいませんからね。したくてもできませんよ」
「そうですか」
変わらない答え。
しかしそれだけでは終わらない。
「ゆうたはどうですか?」
先生はそう言った。
「ゆうたには結婚をしてくれる相手がいないのですか?」
「オレは…ですね」
そこで一息つき、話を始める。
あの夢の話を。
あの昔の約束を。
「以前約束をした女性がいるんですよ」
「結婚を…ですか?」
「はい」
ただ、とオレは続ける。
「その以前って言うのがとんでもないほど昔なんですよ」
オレがまだまだ小さい頃の話。
ずっと幼い頃の約束。
子供の他愛ない日々の一つ。
「今からずっと昔で、今にしたらもうずっと時間が掛かっちゃったんですよ」
「…」
「その相手が待っているのか、もう愛想を尽かしてどっかいっちゃったのかわかりません」
むしろそちらの方が可能性としては高いだろう。
約束したのはずっと前。
そして思い出したのが今日の朝。
ここへ来て姿を見せてくれないことからオレなんてもうどうでもよくなったと思える。
愛想どころか嫌われたっておかしくない。
今更そんな大事なものを思い出すなんて最低なんだから。
「それにあの時は子供だったし…子供の戯言だなんていわれても仕方ありません。」
「…」
「約束は…守らないといけなかったんですけどね」
それはおじいちゃんからの言葉。
何があっても約束は守れ。
守れるようになって一人前。
守れないならするんじゃないと厳しく何度も言われたっけ。
優しくても厳しいところは厳しい人だった。
そしてどこか悲しげにオレと共にいた『神様』を見ていたっけ。
そんなおじいちゃんから言わせれば今のオレは最低だろう。
「もう目も当てられないほどです、オレは」
「…」
そんな言葉に先生は何も言わない。
黙ってオレの言葉の先を促す。
オレもそのまま話続ける。
「彼女はもうここにはいません」
「…」
「きっとどこかに行ってしまいました」
「…」
「…オレは―


―約束を守れなかった…」


「…」
「ダメだなぁ、オレは」
そう言って自嘲気味に笑う。
笑って手で顔を覆った。
「最低だなぁ、オレは」
そう言うと覆った手の甲にそっと指が這わされた。
誰か確認するまでもなく、先生のもの。
白魚のような細くて長い人間の指。
「そんなことはありませんよ」
そう言って先生の手はオレの手を撫で、顔から下げた。
顔だけ振り向けばとても優しそうな目をして、そしてどこか嬉しそうで、でもどこか寂しそうな表情を浮かべている。
「ゆうたは最低ではありません」
「…」
「だってゆうたは約束を思い出したではありませんか」
「…思い出しても、もう遅いですよ」
「遅くても、約束を果たそうとしている姿は最低ではありません」
「…」
「男らしくて、かっこいいですよ」
惚れそうなくらいに。
そう付け加えて先生はオレの頬に自分の頬を摺り寄せた。
「それなら…今更だったとしても彼女は待っていてくれるでしょうか?」
「待っていますよ」
即答だった。
間を置かず、迷いもしない、気持ちがいいほど真っ直ぐな答え。
「彼女はきっと待っています。ずっと待っています。思い出すその日まで、来てくれるその日までずっと…」
それはまるであの日のような寂しげで悲しげな表情をした彼女の顔。
神であることが孤独と、奉られることが虚しいと言っていたときと同じ。
オレと約束をしたときと同じ。
「…まるで先生がオレと約束したような口ぶりですね」
「ふふ、そうですね」
「だけどオレは先生とは約束したわけじゃありませんから」
「…そう、ですね」
この距離だからこそ伝わる感情。
先生のそれは明らかな落胆。
オレの言い方も悪かっただろうがそれは事実なのだから。
先生とはそんな約束微塵もしていない。
「でも、先生」
そっと、今度はオレから手を動かす。
先生の頬に手を伸ばし、撫でる。
もう片方は先生の手に重ねて。
「先生だったらどうします?」
「え?」
「今更約束を果たしに来た、なんて言ってきたら先生はその約束を…結婚をしてくれますか?」
そこで先生は小さく笑う。
それが何の笑みかはわからない。それでも小さく笑って囁いた。


「勿論ですよ」


その言葉に、その発言に。
オレは決めた。

「それなら―」

ここから先は敬語なんて堅苦しいものは必要ないだろう。
先生なんて言い方もすべきではない。

「―貴方は―」

それはかつての呼び名。
それは神様の名前。
この神社で奉られている龍神の名前であり。
教えられた大切な名前。



「―龍姫姉は、オレと結婚してくれる?」



その言葉に光が溢れる。
紫色、それでぼんやりとしている様さながら蛍のともす光。
オレのすぐ後ろから発せられ降ってくる雨水を照らし出す。
光が収まったときにはそこには先生の姿はなかった。
抱き寄せるために回された腕はいいくらか太くなり、指先に感じる手は硬く艶やかなものに包まれていた。
薄暗くも何とか見える、オレの足先に伸ばされているものは大蛇のような長い尾だった。
人のものではない。
人間の姿ではない。
でも、それこそが昔オレを抱きしめていてくれた彼女の姿。
それが神様の姿で、オレと約束をした姿。
その姿になって彼女は―龍姫姉は先ほどと同じように、それでもどこか嬉しそうに囁いた。



「勿論です…っ♪」
12/03/07 20:33更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
二人っきりになったので先生大胆になっちゃってますねw
そしてとうとう正体を出しました!
ここまできてやっと正体に気づくなんて主人公も鈍いものですw
実はそれや思い出せなかったのにはちょっと理由があったりするんです
それはまた次の話でということで

そしてとうとう次回はエロです!
逆鱗触れて先生が乱れちゃいますよ!
クロクロ龍ルート最後の話、よろしくお願いします!


ちなみに先生の名前は龍姫(たつき)と読みます

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