中編
「エリヴィラ…っ!?」
オレの体を覆うように現れたエリヴィラ。
どこから?
わからない。
もしかしたらエリヴィラは最初からここにいたのかもしれない。
待ち伏せていたはずなんだ。
オレがここに来た時点でエリヴィラがいないはずなかった。
当然だ。
オレを水流で押し流したのはエリヴィラなのだから。
「やっと会えましたね、ユウタ君。逃亡劇は楽しかったですか?」
すぐそばで、オレの目の前でにっこりと微笑むエリヴィラ。
先ほど見た笑顔よりもずっと恐ろしい。
怒ってる。
さっきよりもずっと。
それはきっとオレが逃げたからだろう。
…逃げるんじゃなかった。
そう思っても後の祭り。
というか、逃げなければ逃げなかったで大変なことになっていただろう…。
それじゃあ、どっちの選択をすべきだったのかわからないな。
「ユウタ君。」
「…はい。」
重々しい返事。
返事できただけでも褒めてもらいたい。
今のエリヴィラの前にいたら返事はおろか、呼吸さえ困難だ。
蛇に睨まれた蛙。
正しくオレは蛙。
動くこともエリヴィラのひと睨み出来なくなる。
そんな睨みをきかせる愛しの女性は。
エリヴィラは。
柔らかな草の上に身を横たえるオレに向かって一言、言った。
「話して…くれますよね?」
背筋が凍るような一言。
体内に液体窒素を流し込まれたような、絶対零度まで引き下げられたような感覚。
怖いなんてもんじゃない。
ただ睨まれているだけなのになんでこんなに怖いんだ…。
エリヴィラはオレを拘束しようと動き出した。
先ほど、床を叩いていたあの尻尾が動き出す。
ゆらゆらと。
あの尻尾はオレに巻きつくのだろう。
普段からしているように…いや、違う。
普段している慈愛溢れたものじゃない。
オレを締め上げようと動いているんだ。
オレが隠し事をしていることに腹を立てて、動いてるんだ…!
そう思うとエリヴィラの尻尾が刃物よりもずっと恐ろしいものに思えた。
だから、だろう。
オレの体は反射的に動いた。
エリヴィラの尻尾から逃げるように。
エリヴィラと距離をとるように。
弾けたように飛び出した。
「おや…ユウタ君。」
飛び出して何とか体勢を整えたオレをエリヴィラは見据える。
心外という顔で。
でも、笑顔で…。
「逃げては……だめですよ…。」
恐ろしい。
上辺だけの優しさを孕むその声が。
慈愛の溢れぬその笑みが。
そろりとした蛇のようなその動作が。
「…。」
今の彼女にオレがなんと言えばいいのだろう。
なんといえば止まってくれるのだろう。
…いや。
言ってはいけない。一言でも話してはいけない。
話したらオレは全てを話してしまいそうだから。
それに賢いエリヴィラのことだ。
もしかしたら悟ってしまうかもしれない。
だから、わずかな可能性でも潰しておかなければいけない。
…それに。
オレは空を見上げた。
小さな雲がいくつかあるが、星や月の光が届く明るい夜。
冷たい夜風が濡れた体を冷やしていく。
天気は悪化するということはないだろう。
夜空に浮かぶ満月。
それはまだ真上にきたとはいえない。
もう少し、だ。
もう少し時間を稼ぎたい。
なんとしても。
何があっても。
「ユウタ君…。」
エリヴィラがオレの名を呼ぶ。
「ん…何?」
オレは静かに答えた。
しかし、体を動かせるように体勢を変えて。
エリヴィラの行動に反応できるように集中して。
「何で…答えてくれないのですか…?」
「…少しだけ、少しだけでいいから待ってくれる?」
「少し…ですか?」
「そ、せめて…月が真上に上るくらい。それくらいなら…いいかな?」
オレの言葉にエリヴィラが発した言葉は。
返答は。
「―だめです。」
断りの言葉だった。
「もう待てません。そこまでして何を隠しているのですか?そこまでして隠しておかなければいけないことなのですか?」
するすると寄ってくるエリヴィラ。
彼女に対してオレは寄ってきた分だけ後ろに下がる。
嬉しいことにここは野外。
避けるも逃げるも自由にできる。
「ユウタ君。」
エリヴィラは止まった。
オレもそれを見て止まる。
開いた距離。
転移魔法でも使われば一瞬で近づけるだろうがエリヴィラは魔法を使おうとする素振りを見せない。
「いい加減にしないと私も…タダでは済ませませんよ?」
そんなこと、こっちだって重々承知だ。
温厚で優しいエリヴィラがここまで怒っているのだからタダで済むとは思っていない。
骨の二、三本が覚悟している。
いや、それ以上も覚悟している。
「言ってくれないのですか…?」
その言葉にオレは―
「言えない、かな…。」
拒否を示した。
もう少しだから。
あと少しだから。
だから、我慢して欲しい。
いくら暴力ふるってもかまわないから。
怪我しようと傷つこうと、『これ』ばかりは譲れない…!
「だから…タダで済まなくても、いいよ。」
その言葉にエリヴィラは頷く。
「そうですか…それは、仕方ないですね。」
そう言って手をオレに向けた。
その手にはなにもない。
武器なんてものは勿論ない。
別にエリヴィラに武器なんて必要ないのだから。
エリヴィラはオレとは違って、魔法を使えるのだから。
「―実力行使です。言いたくなったら言ってくださいね。」
一瞬。
ぞくりと悪寒が背筋に走る。
それを感じた瞬間にオレの体は動き出していた。
意識的にではなく、反射的に。
弾けたようにその場を飛びのく。
刹那。
オレの立っていたところが弾けた。
といっても爆発したとかそういうのではない。
水で出来た球体がオレのいたところにぶつかっただけ。
ドッジボールで使われそうなボールくらいの大きさの水の玉が。
とんでもない速度で。
当たった地面が凹むほどの勢いだった。
…え?マジで?
いくら液体といえ、勢いと質量がそれなりにあれば力が生じてくるらしい。
そういえば向こうの世界にいたときにテレビで見たな。
二tの水を一気にかけて車が潰れるってところ。
窓のガラスは砕けとび、車内から水が流れ出す有様を。
二tの水をただ上から流してあれだ。
水でもそれなりの勢いと量があれば破壊力だって増す。
…って事はあんな水だけど当たれば大怪我するかもしれないって…こと?
…マジで!?
エリヴィラはそれをわかってやっているのだろうか?
水なら大して怪我にならないと思っているのだろうか?
そんなことを考えていたその時。
右肩で水玉が弾けた。
飛び散る水滴。
跳ねる飛沫。
そして、伝わる衝撃。
「っぁ!!」
後ろに体勢を崩されながらも何とか踏ん張りこらえる。
何だ今の…。
肩に鉄球でもぶつけられたかのように感じたぞ…。
打ち抜かれたとか、骨を持っていかれたとか、そう感じるくらいに。
肩を触っても傷らしい傷はない。
そりゃそうだ。
あんな球体状の水で切り傷や擦り傷は出来るはずないだろう。
できるとすれば…打撲とか。内出血。
学ランを羽織ってるから直撃はないだろうけど…あの勢い。
それぐらいの傷を負ってもおかしくない。
でも、これくらい。
これくらいなら…。
「どうしましたユウタ君。言いたくなってきましたか?」
「…まだまだ。」
エリヴィラを見た。
エリヴィラは笑みを浮かべている。
黒い笑みだ。
どんなことをしても許さないという、笑み。
「そうですか。それでは…。」
続いて放たれたのは、二つの水玉。
どちらもオレを狙って。
それに対してオレは。
弾けたようにその場を飛びのく。
姿勢を低くして、水玉に当たらないように。
―しかし、それを読んでいたのだろう。
エリヴィラはオレの体が移動する先に水を放ってきた。
「っ!?」
姿勢が崩れかけるも迎撃体勢になってしまう。
エリヴィラの攻撃に対処しようとしてしまう。
迎え撃とうと右の拳を構えてしまう。
出した拳は引きようがない。
ゆえにオレはそのまま向かってくる水の球体に拳をぶつけてしまった。
一瞬の気の迷い。
判断ミス。
それは怪我へと繋がることなんて十分わかっているのに。
今まで師匠を体張って止めてきた経験から理解しているのに。
「ぎっ!?」
拳に走る鈍い痛み。
水を殴ったとは到底思えない感触が伝わった。
殴った水はそのまま弾け、飛び散る。
草の上に。
オレの服に。
濡れた服にさらに水が染み込んだ。
でも今はそんなこと気にしてるわけにいかない。
すぐさまエリヴィラを見た。
エリヴィラは変わらず笑顔。
この攻撃をやめるつもりは毛頭もないらしい。
それで、いい。
それならまだまだ時間が稼げる。
もう少しばかりこうしていなければいけないのだから。
笑みを浮かべつつもエリヴィラは手を躍らせる。
空中に、舞うように。
思わず見とれてしまうような動きで。
あれは…魔法を発動させるときの動作。
そして現れるのはいくつもの水の球体。
数を数えられるほど少なくない。
というか…多すぎる。
「…マジかよ。」
あれを避けきることなんてそうできないぞ…。
文字通り骨が折れそうだ。
しかしエリヴィラはそんなオレの心配なんて関係ない。
「ふふふ、行きますよ?」
優しそうでも優しくない言葉を発して。
容赦することなく笑みを浮かべて放ってきた。
「チっ!!」
舌打ちしながら体を動かす。
前から雨のように放たれる水に対して。
見切って、避ける!
体重を左へ移動させて体をそらして避け。
潜るように体勢を低くして避け。
弾けたようにその場を飛びのいて避け。
首を動かして紙一重、髪を掠って何とか避ける。
そのたびに水は弾け、地面に、服に、しみこんでいく。
まったく、よくもまぁあんな量の水を放てるよな。
いったいどこから持ってきてんだ。
魔法って言ってもないところから生み出すことなんて出来るのかよ。
大気中の水分がどうのこうのとでもいうのかよ。
向こうの世界では絶対に見られないもの。
せめて弱点でも見つかればいいけど…そう簡単にわかるわけない。
向こうの世界じゃ理解できない現象を魔法なんて言っていたけど…。
「本当…理解できないだろこれ…。」
そんなことを呟きながらも体を捻って避ける。
避けるも、右足に直撃。
「っ!」
右足を払われたような、そんな感覚。
一瞬、バランスが崩れる。
そこへ畳み掛けるように次々と水の球体が直撃してきた。
左肩に。
右腕に。
腹に。
左膝に。
溜まらず腕を交差して水を防御しようとするが―意味はない。
水は液体。
そんなもの、腕を交差させたくらいで受け止めきれるわけがない。
次々と直撃していく魔法。
学生服に染み込んでいく水。
服越しだというのにこの痛み。
水だというのにこの衝撃。
これは…正直きついな。
何度も受けているからか腕の感覚が消かかる。
このままいけば顔面に直撃なんてこともあるだろう…。
あの水をあの勢いで直接顔面に食らえば脳震盪ぐらい起こすだろうな…。
そんなことを考えていたそのときだった。
「―…っぁ…?」
ぐらりと、視界が揺れた。
体が、ぐわんと傾いた。
…しまったっ!!
よりによってこんなときにか!
本当ならもっと休むべきだったのに。
エリヴィラを前にして忘れていた。
体を襲う倦怠感。
荒くなる呼吸。
揺らぎ、暗くなっていく目の前。
これほどまでに激しい運動をしていたのによりに、よってこんな最悪なタイミングで…!
よりによって…こんなときに貧血を起こすかよ…!?
腕が下がって地面に手をつこうとした、そのときだった。
そんなチャンスを見逃すエリヴィラではなかった。
容赦してくれるほど今のエリヴィラは優しくなかった。
「そこですっ!」
一瞬。
ほんの一瞬体勢を立て直そうと手をついたそこにエリヴィラは放ってきた。
水の球体。それも、かなりの勢いのあるものを。
本当なら防御体勢だって取れたはず。
いや、防御するくらいなら避けることだって出来た。
なのに、今のオレは。
そんなことも出来ない状態。
体の血が足りずに十分な行動もとれない状況。
ゆえに、オレは。
エリヴィラの攻撃を正面から、顔面から受け止めた。
「ぐぁっ!!」
顔面に叩きつけられた水の球体。
弾けて飛んで、飛び散った。
そして、顔面に直撃したその衝撃はどこへも逃げることなく脳へと達する。
脳を、揺らす。
「―っぁ…。」
意識が遠のいた。
こうやって意識が消えるのも久しぶりのこと。
確か師匠に上段回し蹴りを食らったときだったっけ。
こめかみに吸い込まれるように綺麗な軌跡を描いて打ち込まれた一撃。
一瞬で意識を奪われ、気づいたときにはオレは師匠のひざの上にいた。
師匠がしてくれた膝枕。
温かく柔らかくとても落ち着けるものだったけど…。
目の前に師匠の顔があって驚いた。
唇を突き出して何をしようとしていたんだ。
オレの顔を覗き込むようにして、何をする気だったんだ…。
師匠、オレが目を覚まさなかったらどうしてたんだろ。
…いけないな、これは考えちゃいけない。
って、こんな状況で何を思い出してるんだか。
ゆっくりと体から抜けていく力。
オレは抗えるわけもなくそのまま身を任せるしかない。
力が抜けて、地面に倒れる。
肌に触れる濡れた草の感触さえ感じない。
遠のく意識の中じゃ無理もない。
そのままオレは暗闇の中に意識を沈めた。
そして、気づけばオレは―
「―やっと起きましたか、ユウタ君。心配したのですよ?」
エリヴィラに抱きつかれていた。
否。
エリヴィラに巻きつかれていた。
蛇の部分を使ってオレの体を拘束していた。
これでもう逃げられない。
足は巻かれ、腕も巻かれ、巻かれていないところといえば肩から上。
それはオレと話すためであって、オレの口から聞くためだろう。
隠していたことを。
エリヴィラにはまだ知られていけないことを。
「さて、ユウタ君。これでもう逃げられませんね。」
逃げられない。
捕まったのだから。
エリヴィラの体で拘束されたのだから。
「それでは…話してくれますか?」
「…えっと。」
この状況どういうことかわかる。
嫌でもわかってしまう。
オレが言わなければこの状況は変わらない。
というか、変えさせないためにオレは逃げていた。
それはエリヴィラと向き合っていたら白状してしまいそうだから。
オレが言わなければ良いだろうけど…そうもいかない。
なぜなら、オレはこの状況を最も懸念していたから。
警戒して、逃げていた。
巻きつかれるこの体勢。
普段から寝るときよくしているけど…今は別。
温かな体温に包まれて、柔らかな体を抱きしめて。
安らかに眠るときとは全然違うこの状況。
徐々に強くなる力。
オレの体を締め上げていくエリヴィラの体。
苦痛にものを言わせる。
痛みにものを吐かせる。
拷問に似たこの状況。
痛いのは慣れているけどこれはまた新鮮だ。
今までは骨折、打撲ぐらいだったがこれはまた違う。
全方向からの締め上げはどんなに屈強な体だって悲鳴を上げさせる。
「ぃ…っ!!」
「話してくれますよね…?」
みしみしと音をたてるのはオレの骨か。
ぎりぎりと音がするのはエリヴィラの体か。
そんなものもわからないほど激痛が体中を駆け巡る。
これは感じたことのない痛みだ。
いや、痛いとかいえるレベルじゃない。
今にもあばら骨が砕けて、内臓が押し潰されそうだ。
痛みで口を利けなければどれほど良かったのだろうか。
それを許さないようにエリヴィラは絶妙な力加減で締め上げる。
口が利けて。
痛みを感じさせられるのに最適な力で。
オレを白状させようとする。
そして。
その力に耐えられるほどオレの体は頑丈ではなかった。
何かが折れる音が体からした。
「っ!!」
懐かしき音。
久しき痛み。
忘れようもないこの感覚。
肋骨が…折れた。
師匠相手なら骨折なんて日常茶飯事。
しかしエリヴィラと共に過ごす日々で忘れていたこの激痛。
「ぁあ…っ!!」
思わずうめき声が出た。
その声を聞いてエリヴィラは一瞬止まる。
力が、抜ける。
「…言ってくれませんか…?」
その顔はとてもつらそうな表情を浮かべていた。
見ているこっちがつらくなるような、そんな顔。
オレを苦しめることに耐えている。
自分自身も辛いのに耐えている。
それならやらなければ良いのに何て思えるわけがない。
この状況はオレのせいで起きたこと。
オレが原因でエリヴィラをこうさせていることだから。
まったく…オレって奴は最悪だな。
好きな相手に苦しい思いをさせてまで貫きたい想いは持ち合わせていない。
もう少し黙っておきたかった。
もう少しだから、秘密にしておきたかった。
でも。
やっぱり、エリヴィラに悲しまれたらそれは本末転倒。
オレのやってきたことが水の泡になってもエリヴィラが悲しまないほうが断然いい。
だから、オレは。
「……実は…。」
エリヴィラに事の真相を話そうとしたそのときだった。
「あの…黒崎ユウタさん…ですか…?」
おずおずとしたオレを呼ぶ声。
その声がする方向をエリヴィラと共に見てみればそこにいたのは翼を羽ばたかせて飛んでいるハーピーが一人。
何かを入れた袋を首から提げて、そこにいた。
そこで、気づく。
夜空に浮かぶ丸い月。
既に真上に昇りきっていることに。
……こんなタイミングでかよ…っ!
…………この状況で来てほしくはなかった!!
「ユウタさん…ですよね?」
もう一度遠慮がちに名が呼ばれる。
その声に。
その仕草に。
「…ユウタ君。」
「…はい。」
エリヴィラの顔が一気に笑みに変わった。
さっきよりもずっとどす黒い笑みに…。
どうやらもうしばらく、この苦痛を味わうことになりそうだ…。
オレの体を覆うように現れたエリヴィラ。
どこから?
わからない。
もしかしたらエリヴィラは最初からここにいたのかもしれない。
待ち伏せていたはずなんだ。
オレがここに来た時点でエリヴィラがいないはずなかった。
当然だ。
オレを水流で押し流したのはエリヴィラなのだから。
「やっと会えましたね、ユウタ君。逃亡劇は楽しかったですか?」
すぐそばで、オレの目の前でにっこりと微笑むエリヴィラ。
先ほど見た笑顔よりもずっと恐ろしい。
怒ってる。
さっきよりもずっと。
それはきっとオレが逃げたからだろう。
…逃げるんじゃなかった。
そう思っても後の祭り。
というか、逃げなければ逃げなかったで大変なことになっていただろう…。
それじゃあ、どっちの選択をすべきだったのかわからないな。
「ユウタ君。」
「…はい。」
重々しい返事。
返事できただけでも褒めてもらいたい。
今のエリヴィラの前にいたら返事はおろか、呼吸さえ困難だ。
蛇に睨まれた蛙。
正しくオレは蛙。
動くこともエリヴィラのひと睨み出来なくなる。
そんな睨みをきかせる愛しの女性は。
エリヴィラは。
柔らかな草の上に身を横たえるオレに向かって一言、言った。
「話して…くれますよね?」
背筋が凍るような一言。
体内に液体窒素を流し込まれたような、絶対零度まで引き下げられたような感覚。
怖いなんてもんじゃない。
ただ睨まれているだけなのになんでこんなに怖いんだ…。
エリヴィラはオレを拘束しようと動き出した。
先ほど、床を叩いていたあの尻尾が動き出す。
ゆらゆらと。
あの尻尾はオレに巻きつくのだろう。
普段からしているように…いや、違う。
普段している慈愛溢れたものじゃない。
オレを締め上げようと動いているんだ。
オレが隠し事をしていることに腹を立てて、動いてるんだ…!
そう思うとエリヴィラの尻尾が刃物よりもずっと恐ろしいものに思えた。
だから、だろう。
オレの体は反射的に動いた。
エリヴィラの尻尾から逃げるように。
エリヴィラと距離をとるように。
弾けたように飛び出した。
「おや…ユウタ君。」
飛び出して何とか体勢を整えたオレをエリヴィラは見据える。
心外という顔で。
でも、笑顔で…。
「逃げては……だめですよ…。」
恐ろしい。
上辺だけの優しさを孕むその声が。
慈愛の溢れぬその笑みが。
そろりとした蛇のようなその動作が。
「…。」
今の彼女にオレがなんと言えばいいのだろう。
なんといえば止まってくれるのだろう。
…いや。
言ってはいけない。一言でも話してはいけない。
話したらオレは全てを話してしまいそうだから。
それに賢いエリヴィラのことだ。
もしかしたら悟ってしまうかもしれない。
だから、わずかな可能性でも潰しておかなければいけない。
…それに。
オレは空を見上げた。
小さな雲がいくつかあるが、星や月の光が届く明るい夜。
冷たい夜風が濡れた体を冷やしていく。
天気は悪化するということはないだろう。
夜空に浮かぶ満月。
それはまだ真上にきたとはいえない。
もう少し、だ。
もう少し時間を稼ぎたい。
なんとしても。
何があっても。
「ユウタ君…。」
エリヴィラがオレの名を呼ぶ。
「ん…何?」
オレは静かに答えた。
しかし、体を動かせるように体勢を変えて。
エリヴィラの行動に反応できるように集中して。
「何で…答えてくれないのですか…?」
「…少しだけ、少しだけでいいから待ってくれる?」
「少し…ですか?」
「そ、せめて…月が真上に上るくらい。それくらいなら…いいかな?」
オレの言葉にエリヴィラが発した言葉は。
返答は。
「―だめです。」
断りの言葉だった。
「もう待てません。そこまでして何を隠しているのですか?そこまでして隠しておかなければいけないことなのですか?」
するすると寄ってくるエリヴィラ。
彼女に対してオレは寄ってきた分だけ後ろに下がる。
嬉しいことにここは野外。
避けるも逃げるも自由にできる。
「ユウタ君。」
エリヴィラは止まった。
オレもそれを見て止まる。
開いた距離。
転移魔法でも使われば一瞬で近づけるだろうがエリヴィラは魔法を使おうとする素振りを見せない。
「いい加減にしないと私も…タダでは済ませませんよ?」
そんなこと、こっちだって重々承知だ。
温厚で優しいエリヴィラがここまで怒っているのだからタダで済むとは思っていない。
骨の二、三本が覚悟している。
いや、それ以上も覚悟している。
「言ってくれないのですか…?」
その言葉にオレは―
「言えない、かな…。」
拒否を示した。
もう少しだから。
あと少しだから。
だから、我慢して欲しい。
いくら暴力ふるってもかまわないから。
怪我しようと傷つこうと、『これ』ばかりは譲れない…!
「だから…タダで済まなくても、いいよ。」
その言葉にエリヴィラは頷く。
「そうですか…それは、仕方ないですね。」
そう言って手をオレに向けた。
その手にはなにもない。
武器なんてものは勿論ない。
別にエリヴィラに武器なんて必要ないのだから。
エリヴィラはオレとは違って、魔法を使えるのだから。
「―実力行使です。言いたくなったら言ってくださいね。」
一瞬。
ぞくりと悪寒が背筋に走る。
それを感じた瞬間にオレの体は動き出していた。
意識的にではなく、反射的に。
弾けたようにその場を飛びのく。
刹那。
オレの立っていたところが弾けた。
といっても爆発したとかそういうのではない。
水で出来た球体がオレのいたところにぶつかっただけ。
ドッジボールで使われそうなボールくらいの大きさの水の玉が。
とんでもない速度で。
当たった地面が凹むほどの勢いだった。
…え?マジで?
いくら液体といえ、勢いと質量がそれなりにあれば力が生じてくるらしい。
そういえば向こうの世界にいたときにテレビで見たな。
二tの水を一気にかけて車が潰れるってところ。
窓のガラスは砕けとび、車内から水が流れ出す有様を。
二tの水をただ上から流してあれだ。
水でもそれなりの勢いと量があれば破壊力だって増す。
…って事はあんな水だけど当たれば大怪我するかもしれないって…こと?
…マジで!?
エリヴィラはそれをわかってやっているのだろうか?
水なら大して怪我にならないと思っているのだろうか?
そんなことを考えていたその時。
右肩で水玉が弾けた。
飛び散る水滴。
跳ねる飛沫。
そして、伝わる衝撃。
「っぁ!!」
後ろに体勢を崩されながらも何とか踏ん張りこらえる。
何だ今の…。
肩に鉄球でもぶつけられたかのように感じたぞ…。
打ち抜かれたとか、骨を持っていかれたとか、そう感じるくらいに。
肩を触っても傷らしい傷はない。
そりゃそうだ。
あんな球体状の水で切り傷や擦り傷は出来るはずないだろう。
できるとすれば…打撲とか。内出血。
学ランを羽織ってるから直撃はないだろうけど…あの勢い。
それぐらいの傷を負ってもおかしくない。
でも、これくらい。
これくらいなら…。
「どうしましたユウタ君。言いたくなってきましたか?」
「…まだまだ。」
エリヴィラを見た。
エリヴィラは笑みを浮かべている。
黒い笑みだ。
どんなことをしても許さないという、笑み。
「そうですか。それでは…。」
続いて放たれたのは、二つの水玉。
どちらもオレを狙って。
それに対してオレは。
弾けたようにその場を飛びのく。
姿勢を低くして、水玉に当たらないように。
―しかし、それを読んでいたのだろう。
エリヴィラはオレの体が移動する先に水を放ってきた。
「っ!?」
姿勢が崩れかけるも迎撃体勢になってしまう。
エリヴィラの攻撃に対処しようとしてしまう。
迎え撃とうと右の拳を構えてしまう。
出した拳は引きようがない。
ゆえにオレはそのまま向かってくる水の球体に拳をぶつけてしまった。
一瞬の気の迷い。
判断ミス。
それは怪我へと繋がることなんて十分わかっているのに。
今まで師匠を体張って止めてきた経験から理解しているのに。
「ぎっ!?」
拳に走る鈍い痛み。
水を殴ったとは到底思えない感触が伝わった。
殴った水はそのまま弾け、飛び散る。
草の上に。
オレの服に。
濡れた服にさらに水が染み込んだ。
でも今はそんなこと気にしてるわけにいかない。
すぐさまエリヴィラを見た。
エリヴィラは変わらず笑顔。
この攻撃をやめるつもりは毛頭もないらしい。
それで、いい。
それならまだまだ時間が稼げる。
もう少しばかりこうしていなければいけないのだから。
笑みを浮かべつつもエリヴィラは手を躍らせる。
空中に、舞うように。
思わず見とれてしまうような動きで。
あれは…魔法を発動させるときの動作。
そして現れるのはいくつもの水の球体。
数を数えられるほど少なくない。
というか…多すぎる。
「…マジかよ。」
あれを避けきることなんてそうできないぞ…。
文字通り骨が折れそうだ。
しかしエリヴィラはそんなオレの心配なんて関係ない。
「ふふふ、行きますよ?」
優しそうでも優しくない言葉を発して。
容赦することなく笑みを浮かべて放ってきた。
「チっ!!」
舌打ちしながら体を動かす。
前から雨のように放たれる水に対して。
見切って、避ける!
体重を左へ移動させて体をそらして避け。
潜るように体勢を低くして避け。
弾けたようにその場を飛びのいて避け。
首を動かして紙一重、髪を掠って何とか避ける。
そのたびに水は弾け、地面に、服に、しみこんでいく。
まったく、よくもまぁあんな量の水を放てるよな。
いったいどこから持ってきてんだ。
魔法って言ってもないところから生み出すことなんて出来るのかよ。
大気中の水分がどうのこうのとでもいうのかよ。
向こうの世界では絶対に見られないもの。
せめて弱点でも見つかればいいけど…そう簡単にわかるわけない。
向こうの世界じゃ理解できない現象を魔法なんて言っていたけど…。
「本当…理解できないだろこれ…。」
そんなことを呟きながらも体を捻って避ける。
避けるも、右足に直撃。
「っ!」
右足を払われたような、そんな感覚。
一瞬、バランスが崩れる。
そこへ畳み掛けるように次々と水の球体が直撃してきた。
左肩に。
右腕に。
腹に。
左膝に。
溜まらず腕を交差して水を防御しようとするが―意味はない。
水は液体。
そんなもの、腕を交差させたくらいで受け止めきれるわけがない。
次々と直撃していく魔法。
学生服に染み込んでいく水。
服越しだというのにこの痛み。
水だというのにこの衝撃。
これは…正直きついな。
何度も受けているからか腕の感覚が消かかる。
このままいけば顔面に直撃なんてこともあるだろう…。
あの水をあの勢いで直接顔面に食らえば脳震盪ぐらい起こすだろうな…。
そんなことを考えていたそのときだった。
「―…っぁ…?」
ぐらりと、視界が揺れた。
体が、ぐわんと傾いた。
…しまったっ!!
よりによってこんなときにか!
本当ならもっと休むべきだったのに。
エリヴィラを前にして忘れていた。
体を襲う倦怠感。
荒くなる呼吸。
揺らぎ、暗くなっていく目の前。
これほどまでに激しい運動をしていたのによりに、よってこんな最悪なタイミングで…!
よりによって…こんなときに貧血を起こすかよ…!?
腕が下がって地面に手をつこうとした、そのときだった。
そんなチャンスを見逃すエリヴィラではなかった。
容赦してくれるほど今のエリヴィラは優しくなかった。
「そこですっ!」
一瞬。
ほんの一瞬体勢を立て直そうと手をついたそこにエリヴィラは放ってきた。
水の球体。それも、かなりの勢いのあるものを。
本当なら防御体勢だって取れたはず。
いや、防御するくらいなら避けることだって出来た。
なのに、今のオレは。
そんなことも出来ない状態。
体の血が足りずに十分な行動もとれない状況。
ゆえに、オレは。
エリヴィラの攻撃を正面から、顔面から受け止めた。
「ぐぁっ!!」
顔面に叩きつけられた水の球体。
弾けて飛んで、飛び散った。
そして、顔面に直撃したその衝撃はどこへも逃げることなく脳へと達する。
脳を、揺らす。
「―っぁ…。」
意識が遠のいた。
こうやって意識が消えるのも久しぶりのこと。
確か師匠に上段回し蹴りを食らったときだったっけ。
こめかみに吸い込まれるように綺麗な軌跡を描いて打ち込まれた一撃。
一瞬で意識を奪われ、気づいたときにはオレは師匠のひざの上にいた。
師匠がしてくれた膝枕。
温かく柔らかくとても落ち着けるものだったけど…。
目の前に師匠の顔があって驚いた。
唇を突き出して何をしようとしていたんだ。
オレの顔を覗き込むようにして、何をする気だったんだ…。
師匠、オレが目を覚まさなかったらどうしてたんだろ。
…いけないな、これは考えちゃいけない。
って、こんな状況で何を思い出してるんだか。
ゆっくりと体から抜けていく力。
オレは抗えるわけもなくそのまま身を任せるしかない。
力が抜けて、地面に倒れる。
肌に触れる濡れた草の感触さえ感じない。
遠のく意識の中じゃ無理もない。
そのままオレは暗闇の中に意識を沈めた。
そして、気づけばオレは―
「―やっと起きましたか、ユウタ君。心配したのですよ?」
エリヴィラに抱きつかれていた。
否。
エリヴィラに巻きつかれていた。
蛇の部分を使ってオレの体を拘束していた。
これでもう逃げられない。
足は巻かれ、腕も巻かれ、巻かれていないところといえば肩から上。
それはオレと話すためであって、オレの口から聞くためだろう。
隠していたことを。
エリヴィラにはまだ知られていけないことを。
「さて、ユウタ君。これでもう逃げられませんね。」
逃げられない。
捕まったのだから。
エリヴィラの体で拘束されたのだから。
「それでは…話してくれますか?」
「…えっと。」
この状況どういうことかわかる。
嫌でもわかってしまう。
オレが言わなければこの状況は変わらない。
というか、変えさせないためにオレは逃げていた。
それはエリヴィラと向き合っていたら白状してしまいそうだから。
オレが言わなければ良いだろうけど…そうもいかない。
なぜなら、オレはこの状況を最も懸念していたから。
警戒して、逃げていた。
巻きつかれるこの体勢。
普段から寝るときよくしているけど…今は別。
温かな体温に包まれて、柔らかな体を抱きしめて。
安らかに眠るときとは全然違うこの状況。
徐々に強くなる力。
オレの体を締め上げていくエリヴィラの体。
苦痛にものを言わせる。
痛みにものを吐かせる。
拷問に似たこの状況。
痛いのは慣れているけどこれはまた新鮮だ。
今までは骨折、打撲ぐらいだったがこれはまた違う。
全方向からの締め上げはどんなに屈強な体だって悲鳴を上げさせる。
「ぃ…っ!!」
「話してくれますよね…?」
みしみしと音をたてるのはオレの骨か。
ぎりぎりと音がするのはエリヴィラの体か。
そんなものもわからないほど激痛が体中を駆け巡る。
これは感じたことのない痛みだ。
いや、痛いとかいえるレベルじゃない。
今にもあばら骨が砕けて、内臓が押し潰されそうだ。
痛みで口を利けなければどれほど良かったのだろうか。
それを許さないようにエリヴィラは絶妙な力加減で締め上げる。
口が利けて。
痛みを感じさせられるのに最適な力で。
オレを白状させようとする。
そして。
その力に耐えられるほどオレの体は頑丈ではなかった。
何かが折れる音が体からした。
「っ!!」
懐かしき音。
久しき痛み。
忘れようもないこの感覚。
肋骨が…折れた。
師匠相手なら骨折なんて日常茶飯事。
しかしエリヴィラと共に過ごす日々で忘れていたこの激痛。
「ぁあ…っ!!」
思わずうめき声が出た。
その声を聞いてエリヴィラは一瞬止まる。
力が、抜ける。
「…言ってくれませんか…?」
その顔はとてもつらそうな表情を浮かべていた。
見ているこっちがつらくなるような、そんな顔。
オレを苦しめることに耐えている。
自分自身も辛いのに耐えている。
それならやらなければ良いのに何て思えるわけがない。
この状況はオレのせいで起きたこと。
オレが原因でエリヴィラをこうさせていることだから。
まったく…オレって奴は最悪だな。
好きな相手に苦しい思いをさせてまで貫きたい想いは持ち合わせていない。
もう少し黙っておきたかった。
もう少しだから、秘密にしておきたかった。
でも。
やっぱり、エリヴィラに悲しまれたらそれは本末転倒。
オレのやってきたことが水の泡になってもエリヴィラが悲しまないほうが断然いい。
だから、オレは。
「……実は…。」
エリヴィラに事の真相を話そうとしたそのときだった。
「あの…黒崎ユウタさん…ですか…?」
おずおずとしたオレを呼ぶ声。
その声がする方向をエリヴィラと共に見てみればそこにいたのは翼を羽ばたかせて飛んでいるハーピーが一人。
何かを入れた袋を首から提げて、そこにいた。
そこで、気づく。
夜空に浮かぶ丸い月。
既に真上に昇りきっていることに。
……こんなタイミングでかよ…っ!
…………この状況で来てほしくはなかった!!
「ユウタさん…ですよね?」
もう一度遠慮がちに名が呼ばれる。
その声に。
その仕草に。
「…ユウタ君。」
「…はい。」
エリヴィラの顔が一気に笑みに変わった。
さっきよりもずっとどす黒い笑みに…。
どうやらもうしばらく、この苦痛を味わうことになりそうだ…。
11/07/10 20:52更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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