連載小説
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前編
「よろしいですか、ユウタ君。」
「…はい。」
この世界に来てもうすぐ一年。
それは目の前にいるエキドナのエリヴィラ・アデレイトと出会ってから経った時間でもある。
オレこと黒崎ゆうたがこの世界のこの洞窟になぜか迷い込んでしまい、そして出会ったエキドナ。
心優しくちょっぴりお茶目。
この洞窟で旦那様となる男を一人待っていた、孤独な存在。
そして、現在オレの恋人である女性だ。
そのエリヴィラがにこやかな顔でオレに言った。
「よろしいですか?」
さっきと同じ言葉。
笑顔に見えるその表情。
でも、わかる。
その表情が何を表しているのか。
嫌でもわかってしまう。
もう一年という間、ずっと一緒にいたんだ。
傍で見てきて、時に抱き合い、愛し合った女性なんだ。
そんな相手の表情から最近では抱いている感情だって読み取れる。
今の表情。
笑顔。
ただし、目が笑ってない。
つまるところ―

―怒ってる…んだよな…。

いつも心優しい人が怒ると怖いという。
普段から温厚な人物が憤ると恐ろしいという。
それは人間だけはないらしい。
彼女もまた、それに当てはまる。
口の端を上げていながら。
目じりを下げていながら。
誰が動見ても浮かべている表情は笑みだとしかいえないだろうけど、わかる。
なぜか怒っていることを。
髪の毛から生えてる蛇がオレを睨み続けている。
時折ちろちろと動く赤い舌が妙に恐ろしい。
捕食、されそう…。
そんなエリヴィラを前にオレは正座をしていた。
礼儀を重んじ、相手を敬い。
相手が目上の者、師などといった者を前にしたときにする座り方。
時に、説教を受けるときもするだろう。
「…。」
うん、今のオレみたいな時とか…。
「よろしいですか、ユウタ君。」
再びエリヴィラがオレの名を呼んだ。
声も優しそうだ。
でも、怒ってることに変わりない。
「…はい。」
そんな声に答えるためにオレは返事をした。
二人でいるこの洞窟の奥の部屋。
エリヴィラがこのダンジョンで待ち構えていた最深部。
広く二人いても十分な広さのあるここ。
おそらく、というか初めから子供が増えても部屋が狭くならないようにとつくったのだろう。
そんな広い部屋でオレは中央に座っている。
なぜかエリヴィラは椅子に座って。
オレを見下して。
エキドナ特有の蛇の下半身。
その先端、尻尾がぺしんぺしんと床を叩く。
まるで鞭のように。
これからその尻尾でオレを叩こうとするように。
オレのいるところは柔らかで高級感溢れる絨毯の上だというのにその音を聞いただけで足が痛む。
というか、背筋を直接撃たれてるかのようにも感じた。
なにこれ…。
めちゃくちゃ怖いんだけど…。
あの師匠暴走時なんかよりもずっと怖い。
いっそのこと殴りかかってきてくれたほうが何倍マシなことか。
…あ、でもエリヴィラに殴りかかられたらそれはそれでへこむだろうけど。
主に精神面が。
「ユウタ君。」
そこでエリヴィラが静かにオレの名を呼ぶ。
「…はい。」
オレも静かに返事をした。
「聞きたいことがあります。」
と、エリヴィラ。
聞きたいこと…?
どうしたのだろう?
エリヴィラが聞きたくなるようなことなんてあっただろうか?
料理の好みなら随分前に話した。
お肉と甘いのが好き。
ちなみにエリヴィラは薄味が好みだというのも聞いた。
…これを今更になって聞きたくなるわけないよな。
二人で料理してるときにいつも気にかけてることだし。
それなら…誕生日とか?
それも随分前に話した。
お互いの誕生日の日には心行くまで愛し合いましょうねと、エリヴィラが言ってたな。
誕生日の日は祝って、ケーキ食べて、そして夜は愛し合って。
普段からもしてるけど誕生日とかそんな大事な日にするのもいいな。
なんていうか、祝ってくれる存在がいるというだけでとても嬉しいし。
…じゃ、これも違うよな。
いったい何を聞きたいって言うんだ?
「ユウタ君。」
そこでまた名を呼ばれた。
思わず背筋が伸びる。
先ほどから伸ばしっぱなしでこれ以上伸びるわけもないけど。
そしてエリヴィラの言葉を待つ。
エリヴィラは言った。
「この前、街に行きましたね。」
「あ、うん。」
街というのはこの洞窟からそう離れていないところだろう。
人が多く、また魔物娘たちも沢山住んでいて平和で活気のあるところ。
向こうの世界で言うならば中世ヨーロッパあたりの街並みによく似ている。
いや、ファンタジーらしくていいね。
「街に着いたとき…ユウタ君、少しばかり一人にしてくれと、おっしゃっていましたよね?」
「っ!!」
げっ!それか!
エリヴィラの発言が妙な雰囲気を漂わせる。
殺気なんてもんじゃない。
これは…狂気か!?
怒ってる原因はそれかっ!
「あの時、ユウタ君はどこにいました?」
「えっと…。」
「いったい、どこで何をしていましたか?」
「…えっと…。」
「もしかして…誰かと会っていたのですか?」
「っ!!」
「誰と会っていたのですか?」
「…。」
言えない。
言ってはいけない。
会っていたことは事実。
だが、それは浮気ではない。
もしかしたらエリヴィラはオレが浮気をしていると勘違いしているのかもしれない…。
そんなことないのに。
命を懸けて、誓えるのに。
この世界に来て初めて出会った女性を。
オレの不安を埋めてくれた存在を。
蔑ろにすることなんてできやしない。
…ただ。
会っていたことは事実だけど。
でもそれはエリヴィラには知られていけないこと。
エリヴィラには『まだ』秘密にしておきたいことだから。
だからこそ心苦しいけど、嘘をつかせてもらおう。
罪悪感が募ってしまうが、仕方ない。
「…散歩だよ。」
「嘘ですね。」
見抜かれた。
清清しいほどの即答だった。
「それくらいでユウタ君は私と離れたりしませんよね。」
はいそうです。
散歩くらいならむしとエリヴィラと一緒に行くし。
それに…実は一人にしてくれって言ったのは初めてではない。
ここ最近よく一人で行動しているときがある。
その理由は…エリヴィラには話せない。
まだ、話してはいけない。
何て言ったら誤魔化せるだろうか?
「隠し事はいけませんよね、ユウタ君。」
ずいっと。
エリヴィラが体を近づけてきた。
オレの目の前にエリヴィラの顔がある。
あと少しでキスをしてしまいそうなほどに近い。
反面、目を逸らすことなんて出来そうにないくらいに近い。
目を逸らしたいのに、できない。
下心や隠し事があるとどうしてこうも相手の目を見れなくなってしまうのだろう。
これが罪悪感によるものか、良心の呵責というものか。
よくわからないけど何とかエリヴィラと目をあわす。
「隠し事、してません?」
しております。
「いや、特にこれといったことはしてないよ?」
「大丈夫ですよ、ユウタ君。」
にこりと笑ったエリヴィラの顔。
先ほどと何か変わったところがあるとすると影が差して迫力が増したというところだろう。
そして、そんな表情で彼女は言った。

「決して怒りませんから♪」

うわぁ…。
やべぇ…怖ぇ…。
エリヴィラって怒るとこうも怖かったんだ…。
そんなことを今さら知ってもオレは隠し事を吐くようなことはしない。
まだ、だめだから。
せめて今日の夜まで待って欲しかった。
でも、これじゃあ。
それは無理そうだ。
おそらくこのまま行けばあと三十分も持たずとも自白してしまいそう。
それに、今のエリヴィラなら実力行使してきそうだし。
蛇の部分で締め上げられそう。
あ、でも痛いのには慣れてるから平気だな。
だからといってこのままでいいわけじゃない。
この状況を打破しない限りオレは自白する。
だったら…どうする?
この部屋にいる以上状況は好転するわけない。
時間が経つほど悪化するに決まっている。
これ以上エリヴィラが迫ってきたら…隠し通せる自信はない。
だったら…。
ここにいなければいい。
エリヴィラに迫られなければいい。
エリヴィラが迫れないようにすればいい。
そのためには…汚い手だけど使わせてもらおう。
オレは向かい合ったエリヴィラから横に逃げるように体を倒した。
エリヴィラの背後を見るように。
そこにあるのはキッチン。
オレとエリヴィラが共に料理をするところ。
そこを見て、オレは気づいたように一言。
「っ!!エリヴィラっ!お鍋吹き零れてるっ!!」
「えっ!?」
その一言にエリヴィラは反応してくれた。
予想通りの動きを見せてくれた。
エリヴィラは振り向き見る。
オレではなく、キッチンを。
彼女の視線からオレは消えた。

―好機っ!

そのわずかな隙をオレは見逃さない。
どんなわずかな隙だろうとわずかなチャンスだろうと見逃さない!
師匠の稽古で身に着けた技術がこんなところで役立った。
オレはすぐさま正座から足を踏み出し、走り出す。
エリヴィラとは逆の方向へ。
この部屋の唯一の出口。
外へと繋がる洞窟へ通じるドアへ。
「っ!ユウタ君っ!!」
やべっ!気づかれた!
そもそもここの部屋のドアの鍵はエリヴィラだ。
エリヴィラの意志で開け閉めが出来る。
魔法、という奴らしい。
さすがこの洞窟の主というか。
なんとも便利というか。
だからこそ、オレはこのわずかなチャンスを見逃してはいけなかった。
エリヴィラが鍵をかける魔法を使う前に、脱出しなければっ!
振り向いている暇はない。
エリヴィラを見ている隙もない。
オレはただ真っ直ぐこの部屋の唯一の出口であるドアのノブに手を掛けて―思い切り引いた!
がちゃりと音を立てて開くドア。
よしっ!今の内にっ!!
わずかに開いたドアの隙間に体を滑り込ませるようにして脱出する。
勿論、ドアを閉めるのも忘れずに。
こんなときでも礼儀を欠かさないということもあるが、それ以外もある。
ドアを開けるために少しでも時間をかけてもらうように。
オレを追ってくる際、小さなことでも障害として時間を稼げるように。
時間稼ぎ。
今日の夜まで。
今日、確か満月の日だった。
だったら、その満月が真上に昇るそのときまで。
オレはエリヴィラに隠し事を続けてなければならない。
そのためにも。
オレはエリヴィラから逃げなければならない。
われながら馬鹿だと思う。
とんでもなく愚か者だと思う。
何が好きで想い人から逃げてるんだ。
何でもっと上手い言い訳が思いつかないんだ。
もっと別のやり方もあったはずなのに。
エリヴィラを傷つけないような方法だってあっただろうに。
なんだったら少しばかりその理由を言ってしまえば…それはだめか。
隠していることを少しでも話して感づかれたら今までの頑張りは水の泡だ。
今日、この日まで頑張っていたんだから。
それに、逃げ出してしまったのは仕方ない。
愚行を呪いながらもオレは走り出す。
洞窟を抜けるために。
エリヴィラから逃げるために。
動かすたびに鋭い痛みの走る左手首を押さえて。
包帯の巻かれた腕を庇って。
全力で走り出した。


実はエリヴィラの住んでいるダンジョンであるこの洞窟はとんでもないほどに難易度が高い。
さらに言うとここに住み着いた魔物娘達の数が異常に多い。
この洞窟を攻略しようとした冒険者達は謎解き、罠などといったものよりも住み込んでしまった彼女達に捕まったのだろう。
エリヴィラもオレと初対面のときにそう愚痴っていたほどだし。
だが、この洞窟。
入って奥に進むことは困難でもその逆は、それほどでもない。
奥から出て行くのはそう難しいことじゃない。
そりゃ、途中で彼女達が待ち受けていたりもするけどほとんどは顔なじみになってしまっている。
エリヴィラと共に住み始めて顔を覚えられていた。
それなら彼女達もむやみに襲い掛かることはしない。
流石にエキドナという魔物の中でも高位にいる種族の恋人を盗む勇気はないらしい。
盗んだら盗んだでエリヴィラ、この洞窟潰しかねないし。
だから彼女達がいても平気でオレは洞窟を抜け出せる。
いつもはエリヴィラの使う転移魔法で街まで行っているのだが今そんなことができるわけない。
目的は時間稼ぎ。
なら、このダンジョンはまさしくうってつけの場ではないか。
逃げる場は沢山あるし、広い部屋も沢山ある。
トラップだってあるし、いざとなったら誰かに頼らせてもらえばいい。
そしてこの洞窟を抜ける。
真夜中には外へ行く。
それが出来ればいい。
エリヴィラに捕まらずに。
「はぁ…はぁ…はぁ…。」
オレは荒い息を整えるために洞窟内の壁に寄りかかった。
表面は荒くて冷たく湿った壁。
学生服越しであまり冷たさを感じないがそれでもだいぶ楽になる。
寄りかかっているだけで、休んでいるだけで。
十分回復できる。
「…くそっ。」
オレは小さく呟いた。
本当ならこれくらいで息は上がらないはずなんだ。
あの師匠から逃げ切れる脚力をつけているんだ。
今までほとんど室内でエリヴィラと一緒にいたから体力が衰えているということでもない。
食生活だってちゃんとしてる。
体力が落ちるようなことはしていない。
それに、毎日その………エリヴィラと励んでるし…。
そういうわけで体力の低下はまずないだろう。
だけど、現にオレは寄りかかって休んでいる。
こうでもしないと倒れそうだから。
最悪、貧血を起こしてしまいそうだ。
目の前が揺れて、平衡感覚さえ失いそう。
そうならないためにも十分な休憩を取らなければいけない。
オレはふと左手首を見た。
包帯の巻かれた腕。
…どうやら血を抜き過ぎたらしい。
たかだかコップに三杯、それも一昨日だから別に体に平気だろうと思っていたが…そうでもないらしい。
血なんて数日で元通りになると思っていたが…そう早く戻ってくれはしないか。
失った分が戻るまでもう少し休養と栄養が必要らしい。
まったく。
今までなら別に怪我しても平気だったのに。
骨折程度なら全然動けるぐらいだったというのに。
やっぱり骨を折るのと血を失うのじゃ全然違うか。
「ふぅ…。」
ようやく息も整った。
体の調子もだいぶ楽になった。
これなら走れるだろう。
そういえば逃げるのなってどれくらい久しかっただろう。
逃げる相手なんて師匠ぐらいだったから…かなり久しいな。
ふと、思い出す。
こんな状況、前にもあったような。
師匠から全力で逃げたことがあったような。
そんなことを、思い出す。



毎度の事ながら…そこは道場。
いるのは勿論オレと師匠の二人だけ。
オレは正座で、師匠も正座で。
そしてなぜだか師匠は嬉しそうに何かを持っていた。
いつもニコニコしている師匠が目に見てわかるほど上機嫌。
…いや、違う。
あの笑みは期待の笑みだ。
何かに対して期待している笑みだ。
「んふふ〜今日の稽古はこんなものを使ってやってみようか♪」
そう言って師匠が取り出してきたもの。
それは黒く光る革で出来た―
「……師匠、鞭なんて何に使うんですか…?」
鞭だった。
それも武術で使うようなものじゃない。
黒く光る革製のもの…ってこれまさしく『そういう事』に使う鞭じゃ…?
「師匠がそれを使うんですか?」
そうだとしたらどんな稽古になるんだよ。
できれば勘弁していただきたい。
「違うよ〜自分が使うんじゃなくて…。」
あ、予想ついた。
この後の展開が読めた。
「ユウタが―」
「―お断りさせていただきます。」
土下座して断った。
それくらいして断りたいことだった。
「…何で?」
「健全なる高校男児が何でそんなもん使わなきゃいけないんですか?」
「それは…将来のため?」
「はぁ…将来?」
何の将来だ。
何で将来オレが鞭を使わなきゃいけないんだ。
「将来…夫婦円満に暮らしたいから…かな♪」
こっち見てなぜ頬を赤らめる?
鞭を出してきておいてそこでなんで赤くなれる?
まったく、この女性は。
そういうことはちゃんと将来を誓い合った相手としてもらいたいもんだ。
「とにかくオレはそんなもん使って稽古しませんからね。」
びしっと指を突き出して言おうと師匠ははっとした表情になった。
どうしたんだこの人は。
「そっか、そうだよね。ユウタ、スパンキングは素手だもんね♪」
「ぶっ!!」
こんの人はぁ!!
よりによってそれを出すか!?
「この前のユウタのスパンキング…はぁん♪激しかったなぁ♪」
「…あれは師匠が悪いんですからね。」
我ながら何で師匠にスパンキングをかましたんだか理由を思い出せない。
確か…あまりにも師匠のふざけが過ぎたからだったよな。
そりゃもうひどいなんてもんじゃないほどに。
ゆえに実力行使をさせてもらったんだけど…何でよりによってスパンキングをしてしまったのだろう…。
……………………オレの馬鹿。
「んもう♪あんなことをしちゃうなんて…ユウタってそういう事する時、結構激しいのが好きでしょ?蝋燭とか使っちゃうんでしょ?」
「いえ、どちらかといえばそんな激しいのよりもラブラブしてるのが好きで…って何言わせるんですか!」
「ラブラブっ!?」
食いついてきた!
この女性、食いついちゃった!
っていうかそれ以前にオレは何て話をしてるんだ!!
「ラブラブっていうと…どんなっ!?」
「師匠、食いつきすぎです。」
「いいじゃん!自分だって愛弟子の性癖ぐらい把握したいよ!」
「師匠、性癖とか言わないでください。」
「じゃあ、どんな感じにラブラブしたいの?」
「そりゃ抱き合ったり手を繋いだり、指を絡めたりしたりして…。」
あれ?…今…何を言った?
オレ…今何を言っちゃった?
「そっかそっか♪ユウタはラブラブしたのが好きなんだね♪」
師匠、嬉しそうに笑わないでください。
っていうか、ここまで嬉しそうに笑った師匠、久しぶりに見たな。
「ふっふっふ〜♪それじゃ…ラブラブしてみる?」
「遠慮しておきます。」
「そんなこと言わずに、ねぇ♪」
「師匠、四つん這いになって寄ってこないでくださいよ。」
そろりと寄ってくる師匠。
その分後ろに下がるオレ。
「んもう、逃げないでよ。そんなに逃げるとこっちを使うよ?」
「こっち?」
そう言ってどこからか出してきたそれは…。
おそらく服のどこかに隠していたそれは…。
「えへ♪手錠だよ♪」
その一言と共にオレは逃げ出した。
そりゃもう脱兎の如く。
死に物狂いで家に飛び込んだな。
流石にあれには恐怖したもんな。
死とは別の恐怖を感じたもんな。
だって師匠の持っていた手錠…。
警察とかが持ってるのだったらまだマシだったかもしれないけど…そういうものに使うタイプだったもんな。
明らかに鞭とセットで購入してきたようなものだったもんな…。
よくもまぁあんな師匠から逃げ切れたもんだ、オレ。



って…何を思い出してんだよ、オレ。
軽く自己嫌悪。
十分体力も戻ってきたことだしオレは壁から離れ、洞窟の奥を見る。
エリヴィラの姿は見えない。
まだ来てないのだろうか?
追ってくる途中だろうか。
でも、これなら。
エリヴィラから逃げられ、時間を存分に稼げる。
それなら好都合。
だが、エリヴィラはそんなことを許してくれなかった。
「―…?」
何だろう?
洞窟の壁に反響して何か音が聞こえた。
なんていうのだろう…あの音は…。
なんていうか…こんなところじゃ聞こえるわけがない音。
激しくて、荒々しくて。
まるで押し流す濁流のような…。
濁流…?
「…っ!!」
気づいた。
といってもその音の正体が肉眼で確認できたから。
洞窟の奥の奥。
オレがさっきまで走りぬいて来たところを呑み込むように。
洞窟内を満たしていくように。
邪魔なものを押し流すように。
洞窟の奥から壮絶な量の水が流れてきた!
「マジかよっ!?」
この洞窟内にあんな量の水なんてあるわけない。
最深部にあるエリヴィラの部屋にもあんな量の水があるわけない。
洞窟内の罠にもあんなタイプの罠はないと教えられたんだから。
だから、あれはきっと魔法という奴だろう。
エリヴィラが時折見せてくれる、向こうの世界では見られないもの。
水の、魔法。
それは賢い考えだと思う。
エリヴィラが直接追ってきたとしてオレを捕まえられるかはわからない。
逃走に関してなら師匠を上回ってるオレを捕まえられるかわからない。
なら。
捕まえなければいい。
捕まえずに、押し流してしまえばいい。
そうすればオレはこの洞窟内のどこにいようと水流に呑まれて押し流される。
そうやってたどり着く先はこの洞窟の入り口。
転移魔法を使える彼女ならそんなところへ行くのは容易い。
つまり。
エリヴィラはオレをこの水魔法で入り口まで押し流すつもりだ。
途中に住み着いている魔物娘達ももしかしたら流れてくるかもしれない。
だが、この方法なら手間もかからずにオレを捕らえられる。
無駄な労力を使うことなく。
無駄に時間をかけることなく。
そして、オレに。
無駄な傷を負わすこともなく。
冷静で賢い策。
なんともエリヴィラらしい。
流石のオレもこんな水量から逃げ切れるほどの足はない。
逃げたところで追いつかれるのは目に見えてる。
だったら。
あきらめたようにオレは立ち止まる。
流れ込んでくる水流を見据えて。
これから呑み込もうと荒れ狂う水に耐えるように。
息を命いっぱい吸って、止めた。

―瞬間。

「っ!!」
衝撃。
息が出来なくなる。
足が地面から離れ、体が浮いたように感じる。
水流に体は呑み込まれ、押し流されているんだ。
このまま行けば洞窟を抜けることになる。
そして、その洞窟を抜けた先にはきっと、エリヴィラがいる。
だから、オレは今息を止めて耐えている。
洞窟を抜けたとき、すぐに逃げ出せるように…!

「…ぶはぁっ!!…はぁ…ぜぇ…。」
長い時間、といってもそう感じていただけで実際はそう長くないだろう。
とにかく水流に流されたオレは洞窟の出口まで押し流された。
若草の生い茂る平原まで。
四つん這いになって荒い息を整える。
濡れた服が肌に張り付いてちょっと気持ち悪いけど体は無傷。
それにエリヴィラはいない。
水で流して、待ち伏せが出来るという状況だというのに。
エリヴィラはここにはいないようだ。
これならまだ息を整えていられる。
体力を回復できる。
まだ、時間を稼げる。
「…よし。」
いける。
体を起こそうとして左手を草の上についた。

―鋭い痛みが走る。

「痛っ!」
左手首の傷の痛み。
思わず体制が崩れて体が仰向けになる。
傷はもう塞がったがったと思ったのにそうじゃなかったのだろうか。
それとも先ほどの水流に揉まれているうちに開いたのだろうか?
まったく、これだから切り傷はわかんないんだよな。
骨折なら応急処置だって楽に出来るっているのに。
「痛ってーや…。」
草の上に寝転がって見上げた空は暗い。
どうやらもう既に夜のようだ。
ただ、月はまだ真上に昇っていない。
「もう少し…か…。」
そう呟いたそのときだった。
月明かりに照らされていた体が影に覆われた。
見えていた夜空が見えなくなった。
どうして?
それは―

「―何が、もう少しなのですか?」

―オレの上に覆いかぶさるようにエリヴィラが現れたから。
11/07/06 20:29更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで始まりました!
主人公とエリヴィラの後日談!
いきなり喧嘩でしたけどw

そして久々に回想登場しました
師匠w
いや、とんでもないお方ですねw

そして主人公がエリヴィラを怒らせることになってまで隠し通したい秘密…
なぜ血を流しているのか?
それはいったい何なのか?
お楽しみに!

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