貴方と気持ち
「いったい何をさせればこうなるのですか!!」
それは怒鳴り声。
私の部屋から響く大音量の声。
その声の主はエキドナのエリヴィラ。
長い付き合いだけどここまで怒る彼女を前にしたことは初めてだった。
「体中を傷だらけにして!大量出血をして!ここまでしているのに生きていることが不思議というほどの怪我じゃないですか!!」
その怒りの対象は私。
その怒りの原因はユウタ。
ユウタをこれほどまでに怪我させてしまったことについて、だ。
「ユウタ君にいったい何をさせたのですか!!?」
その剣幕は普段のエリヴィラからは予想できないほど恐ろしい。
あの優しく温厚なエリヴィラがここまで怒っている。
それは当然かもしれない。
想い人をここまで傷つけられれば誰だって同じような反応をする。
私だって、本当ならこのような反応をしていたはずなのだから…。
私は怒る彼女を前に俯くことしか出来ない。
私の部屋のベッドに寝かせているユウタをまともに見ることさえ出来ない。
エリヴィラと顔を合わせることも、出来そうになかった。
ユウタ。
今は意識を失ってしまっている青年。
私を助けに来てくれた男の人。
あの勇者を、教団にとって最高戦力を打ち破った者。
私の召喚した…人間。
服は傷だらけでボロボロになってしまい、今は着ていない。
見える体には傷らしい傷はない。
それはほとんどエリヴィラが治してくれたからだ。
それでも。
エリヴィラでも一度にここまでの量の傷を直すことは出来ないらしい。
一見傷のないように見えるユウタの体もまだ傷は残っている。
風魔法で出来た鋭い切り傷だったということが幸いか傷跡は残らないらしい。
それでも、完治できているというわけではない。
激しい運動なんかすれば傷が開いてしまうくらいらしい。
ユニコーンがいてくれればユウタの傷をすぐに治してくれるだろうけど…それは無理だろう。
彼女たちがこの魔界にいるとは考えにくい。
だからといってこの城で治癒魔法を使える者なんてそう多くない。
怪我を負ってきた騎士たちのためにそういった者達がいるはいるのだがそれでも、エリヴィラのほうが技量はずっと上だ。
だけど、私も。
私だって治癒魔法が使えないわけではない。
エリヴィラほどでもなくてもそれなりには出来る。
出来る…けど。
今の私には魔力がない。
治癒魔法を使えるだけの魔力は既に残っていない。
そもそもこの城へ戻って来られたのは他の者に手を貸してもらったからだ。
私とユウタを運んでもらったからだ。
ベッドの上に寝ているユウタ。
その顔は普段に比べて…いくらか白い。
血が足りていないからだろう。
あまりにも傷を負いすぎて、血を流しすぎたからだろう。
ここまで血を失って、ここまで傷を負っているというのにユウタはまだ生きている。
エリヴィラの言ったように生きているのが不思議なくらい傷を負っているのに。
私のせいで…傷を負わせてしまって…。
「…。」
何も言えなかった。
エリヴィラに対する謝罪をしようとしても口が開かなかった。
私が悪いことはわかっている。
そんなこと百も承知だ。
私が一人で出て行ったからユウタは傷ついた。
私が教団にあんな規格外な存在がいると思ってなかったから。
だから、ユウタはそれから私を守るために傷を負った。
それ以前に。
私はユウタにひどいことをしてしまった。
ユウタの人生を横取りしてしまった。
理不尽に理不尽を重ねてしまった。
こんなの…最悪だ。
ユウタに甘えて、ユウタにねだって、ユウタに守られて。
ずっとユウタに迷惑をかけて…。
こんなの…こんなのって…最悪だ。
私はただ俯くことしかできなかった。
気を抜けば今にも目から雫が零れてしまいそうだったから。
そんな私を見ているエリヴィラはため息をつく。
クレマンティーヌのように呆れたようなものではない。
仕方ないというようなため息。
「本当なら…何をさせたのか問い詰めたいところですが…貴方は謝罪の気持ちを感じているのですね…。」
そう言って静かに椅子から立ち上がった。
「血を、とってきます。」
エリヴィラは言った。
私を見てじゃなく、ユウタを見て。
「これ以上は私の治癒魔法でも出来ません。流石に失った血を復元できるほどの魔法は私も知りませんからね。」
そう言って今度は私を見る。
「クレマンティーヌさんに言えばユウタ君の血と似たものを用意してくれるかもしれません。ですから私がクレマンティーヌさんに言ってくる間、ユウタ君のことを頼みましたよ。」
そう告げてエリヴィラは出て行った。
静かにドアを開け、同じようにドアを閉めて。
そうして私の部屋にいるのはユウタと私だけになった。
「…。」
何も言えない。
意識のないものに何を話せばいいのかわからないからじゃない。
ユウタを前に言いたいことがあったはずなのに。
言えなくなってしまった。
あの平原で私はユウタにそばにいて欲しいと言った。
それはあまりにも勝手。
ユウタの気持ちを考えていない発言。
ユウタにはとんでもない理不尽な行為をしているのに、さらに理不尽を重ねてしまった。
今回のこともそう。
私の勝手な判断がユウタを傷つけることになった。
何だろう、これは。
これじゃあ結局私がしているのは…ユウタにとって迷惑な行為じゃないの。
最悪、じゃないの…。
また、目に涙が溜まってくる。
だめだ。
泣いちゃ、いけない。
泣いたらユウタを困らせる。
だからせめて、少しでもユウタの迷惑にならないように、困らせないようにしないと…。
そう思って服で溜まった涙を拭ったとき、音がした。
この部屋のドアが開く音が。
静かに音のしたほうを向けばそこには…。
「…様子はどうじゃ、フィオナ殿。」
バフォメットのヘレナがいた。
「何の用なのよ…。」
突然の訪問客に私は睨むような目で彼女を見てしまう。
それは、仕方のないこと。
ヘレナがユウタを送ってくれなければ私今ここにはいない。
でも、そのせいでユウタがここまでの傷を負った。
感謝すべきなのだろうけど、素直に感謝できない。
エリヴィラの感情がよくわかる。
大切な人を傷つけられて怒らないわけがない。
本来この感情はあの勇者に向けるべきだ。
彼女に向けるのは筋違いだ。
それでも、向けてしまう。
だって…。
ヘレナは…。
「いやのう、ユウタの様子を見に来た、ということじゃろうな。あれほどの激闘をして見せた男の姿を、な。」
あれほどの激闘を見せた…。
そう、『見せた』…だ。
ヘレナはあのユウタの戦いを見ていた。
どこでかはわからない。
それでもあの戦いの始終を見守っていた。
だから私もユウタもこうしてここにいられる。
戦いを終えた後、ユウタが倒れた後。
傷だらけのユウタと私を連れてきてくれた。
だからこそ、私はヘレナに怒りを向けてしまう。
「…どうしてユウタを助けてくれなかったの?」
「うむ?」
私は呟くように言った。
小さくてもへレナに聞こえるように。
「貴方は…ユウタが戦ってるところを見てたのでしょ?ユウタが傷ついていくのを…見てたのでしょ…?」
それも、黙ってみていた。
ユウタに加勢をすることも、助けることも出来たはずなのに…だ。
ユウタを助けてくれればここまで傷つくこともなかったはずなのに…。
「…それは一人で十分だと言っておったフィオナ殿が言えたものかのう?」
「っ。」
そんなことを言われて…何も言えなくなる。
それは正しい。正論だ。
悪いのは全部私なのだから。
もともと私が驕っていたのが原因なのだから。
私が一人で十分だと言わなければ、私一人で済むと言わなければ…。
私がたった一人で終わらせると驕っていたから…。
全て、私のせいなだから…。
「…それにのう。」
フィオナは言う。
私の隣の椅子に、さっきまでエリヴィラが座っていたところに座って。
ユウタの顔を覗き込んだ。
「あそこでわしが出て行けばユウタは確かにここまで怪我をすることもなかったじゃろうな。でものう、あそこでわしが出て行ってもよかったのかのう?」
「…?」
それはどういうことだろう。
いったいどんな意味だろう。
「それでわしがユウタを助けたとして、ユウタが怪我をしなかったとして、それで…どうなるのじゃよ?」
「…?」
「ユウタの『守ったもの』は、どうなるのじゃよ?」
「っ。」
それを聞いて何も言えなくなった。
ユウタの『守ったもの』…。
それはなんだかわからないわけじゃない。
だってそれは…私のことだから。
「それでユウタは満足かのう?怪我をしなくて本当に良かったのかのう?それで満足していたのかのう?」
「それは…。」
「…なんて、のう。」
フィオナは笑った。
いつものように輝くような笑顔ではない。
どことなく悲しみを感じさせる表情だ。
「本当はユウタに言われておったのじゃよ。」
「…ユウタに?」
「ああ、ユウタにじゃよ。『オレよりもフィオナを助けてくれよ。女の子が怪我したら大変だからさ。』と言っておったのじゃ。」
そこでヘレナは私を見た。
やはり悲しそうな笑みで。
それでいてどことなく望ましいというような瞳で。
「ここまで想われておるなんて、本当に羨ましい限りじゃよ、フィオナ殿。」
そう、言った。
「それからのう。」
彼女は話を変えるように、さっきまでしていた表情を打ち消すように話題を変える。
「教団の連中じゃが…。」
「…。」
教団の騎士団。
私の魅了で戦力喪失したあの者達。
今はこの城の地下牢に収容されているはずだ。
それと…そのほかにも。
「勇者のことでなのじゃが…。」
勇者。
私の魅了が効かなかった二人目の人間。
私を殺そうとした者。
ユウタを傷つけた男。
人間を殺したいなんて思わない私が。
愛すべき存在だと思っている私が。
殺意というものを初めて抱いた人間だ。
「勇者が…いったいどうしたの…。」
「その処遇をと思ってのう。」
ヘレナの声も冷めたものだった。
それはそうだ。
この城にいる、ユウタに想いを寄せている皆なら誰でも同じ反応を示すだろう。
それほどまでに皆ユウタに想いを寄せているのだから…。
「今はまだ意識も戻らんからセスタに見張らせておるが…とりあえず記憶を消してどこか遠くの地にでも捨て置くことにした。あのような人間は記憶があってはどこでも同じことを繰り返しそうじゃからのう。」
それはそうだろう。
あの勇者は私たちを魔物としか見ていない典型的な教団の人間。
ただ、ユウタとの会話が気になったが…それでいいと思う。
記憶を消せば同じ過ちを犯せないだろうし。
…それに。
私たちのそばにいれば…きっと誰かは行動に移ってしまう。
ユウタを傷つけたことに対する怒りをぶつけにいってしまうから。
そんなことを出来ないようにどこか私たちの知らないところへ…。
「ほれ。」
そこでヘレナからあるものを渡された。
黒い布と白い布。
それを私は知っている。
それはユウタがいつも身に纏っていたものだから。
ユウタがいつも着ていたがくらんという服だから。
ユウタが私の傷に破って巻いてくれた服だから。
「直しておいたぞ…と言っても完全には直せんかったがのう。」
その言葉に見てみれば確かにがくらんはあのボロボロの状態からいつものような綺麗な状態だ。
ただ、触ってみるとわかる。
触れた感触が少しばかり変わっていた。
「材質が違うのじゃと城のアラクネが言っておったぞ。糸ではない、この世界にあると思えない布じゃったと。」
じゃから完全に復元はできんかった。
そういったヘレナの言葉なんて耳に入らない。
この…世界に…。
その言葉が胸に深く突き刺さったから。
私の心に罪悪感を募らせる。
「ユウタが起きたら渡してやってくれフィオナ殿。」
そう言って彼女は椅子から立ち上がる。
そのまま何も言うことなく。
私もユウタも見ることなく。
静かに出て行った。
「…。」
私はユウタの服を見た。
そして、ユウタを見る。
ユウタは…いったい今まで何をしていたのだろう。
私に召喚される前はいったいどこで何をしていたのだろう。
この服を着て、日々を過ごしていて…。
勉強…していたと言ったけど。
それはいったいどこで?
いったい誰と?
どんな日々を送っていた?
それは…知らない。
家族は?友達は?
それから…恋人は…?
私は知らない。
ユウタの微笑みの内に抱えるものを。
闇のような底のない優しさの中にあるものを…。
ユウタの、本当の気持ちを…。
ユウタは怒っている?
ユウタは悲しんでいる?
ユウタは喜んでいる?
それは…わからない。
ユウタは自分の気持ちを言ってくれないから。
今までだって私が一方的に甘えてただけだから。
あの時。
ユウタが助けに来てくれた時だって…そうだった。
来てくれたことが嬉しくて。
助けに来てくれたことが喜ばしくて。
やっと会えて…胸が踊ってしまって。
そして私の気持ちを一方的に押し付けてしまった。
ただいて欲しかったことを。
そばにいて欲しかったことを。
あまりにも勝手なほどに。
一方的で押し付けるように。
…もしも…もしもユウタが帰りたいといったら…?
私はユウタを返すだろうか?
いや、それはない。
するしないの問題ではなくて、『出来ない』から。
向こう側から召喚するのは難しいことじゃない。
魔法陣を作り上げて向こう側から人を引っ張ればいいようなものだから。
誰など特定せずに。
誰でもいいと適当に。
ただ召喚すればいい。
…でも。
逆に送り返すことは出来ない。
ユウタのいた世界を私は知らない。
この世界、魔界と魔界の外の世界しか知らない。
ヘレナは言っていた。
この城にいるアラクネが言っていたことを。
『この世界にあると思えない布』
この世界…それは外と魔界のことをさしているのだろう。
ここにあるとは思えない…。
それは薄々感じていた。
触れたことのない服を着て。
見たことのない数式を教えてくれて。
どこにも被らない、誰とも重ならない存在だった。
それに…。
時折見せたあの悲しげな笑み。
故郷を想っていたのかもしれない。
故郷に帰りたいと思っていたのかもしれない。
それでも、私はユウタを返せない。
空間転移の魔法なら出来ないこともないだろうけど…でも。
私はユウタのいた世界を知らない。
ユウタのいた世界をイメージできなければ送ることなんて出来そうにないから。
こことは別の、ユウタのいた世界とはまた別のところへと送ってしまうことになりそうだから。
…でも。
それ以前に私はユウタを返そうとは思えない。
それほどまでに私はユウタに引き込まれた。
ユウタという闇に沈んだ。
もう抜け出すことなんて出来ないくらいに。
抜け出してもその先にある光を厭ってしまうくらいに。
そして闇、ユウタという存在を求めてしまうくらいに…。
「…。」
勝手だと、思う。
本当に自分勝手だと思う。
ユウタを呼び出したのは私の夫にするためだった。
夫になる素質があるのならそうしようと思っていた。
それは私の我侭。
それは結果的にユウタの人生を奪った。
「……っ。」
救いようがない。
呆れてものも言えない。
私は…ただの馬鹿だ。
「…ぅっ…ぁ…っ。」
だめだ。
どうしても目に涙が溜まってしまう。
泣きたくないのに、涙が出てしまう。
こんな…こんなの…。
「やぁ、フィオナ。」
「っ!?」
そう言って私の隣に音もなく立ったのは点ヴァンパイアのクレマンティーヌ。
何も聞こえず、気配も感じず。
泣き出した私を隣で見られた。
「な、何よっ!」
慌てて涙を拭い彼女を見る。
目に映ったクレマンティーヌはくすりと笑う。
「いやぁ、君もよくユウタのことを考えられるようになったじゃないか。まったくいいことだよ。」
その発言。その言葉からするに。
もしかしたらクレマンティーヌはずっと私の隣にいたのかもしれない。
隣で私が泣いているところを見続けていたのかもしれない。
そう思うといきなり恥ずかしさがこみ上げてきた。
「な、何の用なのよ!?」
「エリヴィラに頼まれた『血』をと思ってね…。」
するりと、クレマンティーヌは流れるように自然な動きで椅子に座った。
私の隣の、さっきまでエリヴィラ、ヘレナが座っていた椅子に。
「ただ、ユウタの体質に合いそうな血はなかったよ。」
静かに言った。
「どうもね、ユウタのは何もかもが違いすぎる。」
目を閉じて。
背もたれによりかかかって言う。
「今まで何度も血なんてものは味わってきたよ。ヴァンパイアだからね。」
それはそうだろう。
ヴァンパイアにとって血は食料。
私が男性の精を必要とするように。
彼女も生きるためには必要なものなのだから。
「でも、ユウタのはそのどれとも合わないんだ。何から何までが規格外すぎる。彼は、ユウタは…私達の住んでいるところとは次元が違うと思ってしまうくらいにね。」
「…。」
それは…わかっていることだ。
既に理解していることだ。
「チェスの話、覚えているかい?」
「え?え、ええ。」
チェスの話?
この前屋上で話したあのことだろうか?
「あのときユウタが教えてくれた陣形…『囲い』の形をまだ覚えているかい?」
「…うん。」
「それは良かった。それならチェス盤の上にひとつ…『囲い』を外れていた駒は覚えているかい?」
その言葉に私は思い出す。
あのときに見たものを。
キングを囲むようにして並ぶ黒い駒。
その中で唯一その並びから外れていた駒は―
「―ナイト…?」
「そうだ。」
クレマンティーヌは言った。
「あのときの話の続きをしようか。ユウタの、性格の話だ。」
クレマンティーヌは私を見ない。
その視線はユウタを見ている。
優しそうに柔らかな表情で。
「ユウタは一つの駒で私に戦いを挑んできたよ。君の言った、ナイト一つでね。」
ナイト一つで相手を攻める。
それはチェスにおいて無謀なこと。
チェスにおいてじゃない。
戦法として最悪なことだろう。
一人で敵の軍勢を攻めるようなものなのだから。
そう考えているとクレマンティーヌはくすりと笑った。
「正しく彼らしいとでも言おうか。」
その言葉はなぜだか妙に納得できる。
ナイト一つで攻めるその行為。
それがユウタの性格を現しているというのなら無謀極まりないこと。
「無謀で、策もなく、たいした知略も持ち合わせていない。策士に向いたとしても…司令官には向かない性格だろう。…でも。」
クレマンティーヌは言葉を紡ぐ。
「人間としては立派だろう。」
そう言った。
「何事も向かっていく姿勢、やり遂げようとするその姿は立派だ。それにユウタはどこまでも優しい。」
ただ、と続く。
「一人で何でも背負い込もうとする姿勢は良くないだろうに。ここまで自分一人傷つくことを厭わない性格は最悪だ。」
「最悪…。」
「ユウタは自分を軽んじすぎている。」
軽んじすぎる…。
それはなんともユウタらしい。
今回のことでよくわかったことだ。
私のために身を挺してまでかばってくれたことが。
いくら傷つこうとも引かないその姿が。
私の瞳に焼き付いているのだから。
そして彼女は言った。
そこでようやく私を見て。
静かに一言。
「もしかしたら…自分を軽んじられるほど君を大切だと思っているのかもしれないね。」
そういった。
悲しげに。
ヘレナと似ている表情で。
「うらやましい限りだよ。」
そう言って視線をユウタへと戻す。
ユウタの顔に。
じっと見つめる。
「ふふふ。こうして見ているだけでユウタの血、もう一度味わいたくなってしまうな。」
そういった彼女は笑っていて、妖艶に舌を出して唇を舐める。
同じ魔物としてもぞくりとさせられる妖艶な姿だった。
「…。」
思わずクレマンティーヌを睨んでしまう。
その舐めた行為が原因ではない。
彼女がユウタの血を味わいたいといったことに対してだ。
「冗談だよ。流石の私も怪我人相手に血を吸うわけないだろう?」
最も、ユウタなら怪我していようとも血を分けてくれそうだけどね。
そう言って彼女は笑った。
その言葉は否定できそうにもない。
ユウタはそれぐらい平気でやってのける。
自分が傷つくことを厭わない。
それなのに私が傷ついたときは激怒していた。
勇者に対して普段なら絶対に見せない怒りを見せた。
思わず恐怖を感じてしまうほどに。
あれほどまで恐怖を感じたことなんてないくらいに。
「さて。」
そんな言葉と共にクレマンティーヌは椅子から立ち上がる。
「私はここらでお暇させてもらおうか。」
どうやらもう出て行くらしい。
長居するつもりは最初からなかったようだ。
「そもそもエリヴィラから頼まれていた血もないからね。いや、あったとしても今のユウタに渡すべきではないな。」
…?
それはいったいどういうことなのだろうか?
「…どうして?」
「今のユウタなら自由に動くことはできないだろう?どこにも逃げようがないわけだ。」
つまり。
彼女は楽しげに続ける。
ニヤニヤとした意地の悪い笑みで。
「今なら君のなすがままじゃないか?」
「…そんなの。」
その言葉はとても魅力的だ。
その事実はとても魅惑的だ。
だけど。
「ユウタのことを考えていないだけじゃないの…。」
もう自分勝手にはなりたくない。
ユウタに迷惑はかけたくない。
だからこそ、私だって抑えるべきところでは抑える。
だが、その言葉にクレマンティーヌは目を丸くした。
珍しいものをみたというように。
「成長しているな、君は。」
そして、くすりと笑った。
「変わったよ。とてもいい方向に成長している。前の君ならそんなそぶりを見せることなく襲っていたのにね。」
「…。」
確かに前の私なら襲っていたと思う。
ユウタが怪我しているというところでもかまわず。
むしろ動けないことをいいことに好き勝手に。
でも今は。
「今は…違うんだから。」
そう言った。
クレマンティーヌは何も言わない。
微笑を浮かべるだけで。
慈愛に溢れたような笑みで私を見た。
「ふふふ、そうかい。」
小さく言った。
「それならユウタにその気持ちを伝えてみてはどうかい?」
椅子から立ち上がったのにまた座るクレマンティーヌ。
金色の長髪を揺らしてベッドへと。
ユウタが寝ているベッドに座った。
「行為に及ばなくても、気持ちを伝えることならいいだろう?君は自分の気持ちを全部伝えきれてないじゃないか。」
そのまま彼女はユウタに手を伸ばす。
その血の抜けて白くなった肌を。
そっと撫でてるようにして…。
手を止めた。
ユウタの頬に触れる直前で。
「ふふふ。」
笑った。
「…どうしたの?」
「いやね。こんな気持ちになるものなんだと思ってね。」
そう言ってクレマンティーヌは立ち上がる。
今度は椅子に座るわけじゃなく。
この部屋を出るつもりで。
「いやはや、私もまだまだわからないことばかりだな。勉強になるよ。」
「…何が?」
勉強になる?
いったい何のことだろうか。
そのまま歩いていく彼女はドアの前で止まった。
ドアノブに手を掛けた、後姿を見せたままで。
クレマンティーヌはしゃべる。
「好きな者には意地悪をしたくなるというだろう?」
そんなことを言った。
「?どういうこと?」
「そのままの意味さ。」
そういったクレマンティーヌの顔は見えない。
表情はわからない。
どんな気持ちなのかも。
どんな感情で言っているのかも。
「今そんな気持ちになってしまってね。」
そう言ってドアを開けた。
そのまま体をわずかに開いたドアの隙間へ滑り込ませる。
するりと。
私の部屋から出て行く。
それでもクレマンティーヌはドアを閉める前に言った。
私に向かってではないだろう。
そのの言葉は明らかにユウタに向けれられたものだった。
「寝たふりは得意でないのなら今度私が教えてあげよう、ユウタ♪」
見えた顔には笑みが浮かび。
そういった声には嬉しそうな響きがあり。
ドアを閉めるクレマンティーヌは楽しげだった。
がちゃりと無機質な音を立ててしまるドア。
これで私の部屋にいるのは私とユウタの二人だけになった。
なった…けど…。
クレマンティーヌは何て言った?
ユウタに向かって…なんと言った?
『寝たふり』と…言わなかった?
え…?
それは…ユウタに向かって言っていた…んだよね?
それじゃあ…。
私はユウタを見た。
ベッドで寝ているはずの、意識を失っているはずのユウタを、見た。
そこには…。
「…ったく。とんでもないこと言ってくれるぜ、クレマンティーヌめ。」
けだるけに身を起こすユウタが。
重そうに頭を振るユウタが。
めんどくさそうに顔を上げるユウタが、いた。
そして、私を見た。
「ユウタ…?」
そう呼んだ私の声に応えるかのようにユウタは微笑む。
いつも向けてくれていた笑みを。
私に向かって。
それで言った。
「おう、フィオナ。おはよう。」
そう言った。
でも…待って。
ユウタは…寝たふりをしていた?
それなら…それはいったいいつから?
いつからユウタは寝たふりをしていた?
いつからユウタは私達の会話を聞いていた?
「ねぇ…ユウタ…。」
「うん?何?」
「いつから…起きてたの…?」
「えっと…エリヴィラが怒鳴ってるところだけど?」
それって…最初からじゃないの?
え…それじゃあ…ユウタは今までの会話を全て聞いていて…。
今までの私のことを…見ていて…?
「っ!?」
急に恥ずかしくなった。
ユウタに泣きついていたはずなのに。
ユウタにみっともない姿を見せてしまったはずなのに。
恥じらいというものを感じた。
「まったく。」
そう言ったユウタはベッドから出ようとした。
だが、ふらつく。
血がだいぶ抜けているんだ、人間が大量に血を失えば満足に動けなくなることは当然だろう。
そして当然ユウタは倒れこんだ。
「っ!ユウタ!」
思わず私は抱きとめる。
ベッドの上で倒れても平気だろうけど。
倒れこんだユウタの体を抱きしめる。
「っ。」
「おっと、悪い。」
近づいた距離。
縮まった隙間。
それは私が求めていたもの。
私が望んでいたもの。
なのに…。
ずっと話したかったはずなのに。
ずっと求めていたはずなのに。
いざ話せる状況になって。
いざすぐ近くまで来て。
言いたいことが言い出せない。
伝えたいことがわからない。
謝りたい。
でも、言葉が見つからない。
償いたい。
でも、その方法がない。
本当のことを伝えたい。
でも、それはあまりにも残酷すぎて伝えられない。
「…フィオナ?」
「え?」
あまりにも考えすぎて不振に思ったのだろう。
ユウタが声を掛けてきた。
「どうしたんだよ。」
「あ、いえ…何でもないわ。それよりユウタ、動いちゃだめでしょ。」
私はユウタの体をベッドに寝かす。
動いてはだめ。
いくら傷を塞いだといっても重症であることに変わりないのだから。
安静にしていなければいけないのだから。
「いや、これくらい平気だって。」
渋るユウタ。
どうしてこうも傷に無頓着なのだろう。
「ユウタ、今貴方がどんな状態だかわかってるの?」
「怪我してるってだけじゃないの?」
それはそうだけど。
治療したけど…それでも傷はひどい。
それなのにユウタは平然としている。
怪我したことが、重傷の傷をおったことが嘘だと言うかのように。
「貴方、どれだけの傷を負ったのか覚えてないの!?」
「平気だって。」
ユウタは笑った。
私の心配する言葉に平気だと言って。
「傷つくことなんていつものことだからさ。怪我なんて慣れてる。」
その言葉に嘘は見られなかった。
そういう仕草をしなかった。
「痛いのは嫌だけど…でも、慣れてるしさ。」
そう言った。
「それよりもフィオナはどうなんだよ?」
「…私?」
「ああ、肩の傷、大丈夫かよ?」
そう言ってくれるユウタ。
それを聞いて、思う。
何でこうも私のことを心配してくれるのだろう。
何でこうも自分のことを蔑ろにするのだろう。
あまりにも優しく。
あまりにも無頓着。
私はその言葉に俯いてしまう。
ユウタと顔を合わせられなくなってしまう。
「…フィオナ?」
「どうして…。」
私は言う。
掠れた声でユウタに聞く。
「どうして…なの…?」
「ん?」
「どうしてユウタは…そこまで優しく出来るの…?」
うつむいた私の顔からは雫が零れた。
どうしてこうも泣いてばかりいるのだろう…。
私自身、ここまで泣き虫じゃなかったはずなのに。
どうしてこうも泣きたくなってしまうのだろう。
きっとユウタに会ったからだ。
ユウタを召喚して、ユウタを知って。
それで、ユウタに迷惑を掛けてしまって…。
先ほど泣いたというのにまた涙があふれてくる。
「フィオナ…?」
「ユウタは…っ!」
私は顔を上げた。
その顔を見たユウタは困惑した表情を浮かべる。
私が泣いていることに困っている。
ユウタからしたら私が泣いている理由なんてわからないから。
ユウタは困ってしまう。
「ユウタは…何でそこまで優しく出来るの…っ!?」
私はそれを言った。
クレマンティーヌに諭されて気づかされたそのことを。
ユウタの異常なまでの優しさを。
闇のような底のない温かさを。
「私は…ユウタにとっての理不尽なのよっ!?ユウタの人生を…勝手に奪ったのよっ!?」
「え?ちょとフィオナ?」
「私はっ!」
一方的な発言。
ユウタの言葉を聞かない、押し付けるような言葉で言ってしまう。
それほどまでに私の中の罪悪感は募っていて。
私の中にある後ろめたさがそうさせる。
「私は…ユウタを勝手に召喚したのよ…?ユウタが生きていたところから…勝手に召喚しちゃったのよ…?」
「…。」
「もう…ユウタをもといた世界に返せないのよ…っ!?」
「…。」
ユウタは何も言わなかった。
何も言わずに私の言葉を受け止めてくれた。
懺悔に似たこの気持ちを。
償いに似たこの言葉を。
「ユウタが怒ってるところ…勇者との戦いで見た…それなのに…何で……?」
「…。」
「何で…私には優しくできるの…?」
拳を握り締めたユウタは恐ろしかった。
勇者に向かっていくユウタは怖かった。
それでも。
私を守ろうとしたユウタはとてもかっこよかった。
でも。
それでも、だ。
「ユウタは…何で怒らないの…っ!?」
ユウタの怒りを目の前で見たのに。
その感情を知ったのに。
どうしてユウタは私にその怒りを向けないのだろう?
ずっと疑問に思っていたこと。
ずっと不思議に思っていたこと。
私は知らない。
ユウタのいた世界を。
ユウタの家族を。
ユウタの友達を。
ユウタにとっての―
―大切な人を…。
「私はっ!!」
懺悔というよりもはや悲鳴に近かった。
声を荒げる私は普段の姿と比べるととても見れたものではなかった。
涙を流し、髪を振り乱したその姿。
女性として男性の前で見せる姿ではなかった。
そんな姿で私は続ける。
「私は…私は…っ!」
すがりつけたらどれほど良かっただろう。
このままユウタの胸に抱きつければどれほどと良かっただろう。
でも今の私に。
この私に、その資格はないのだから。
「ユウタに…理不尽なことばかりしてるのよ……っ!!」
「…。」
「どうしてそうやって笑ってられるの…?どうしてそう優しくしてくれるの…?どうして―
―どうして怒らないでいられるの…?」
その言葉を最後に私は口を閉じた。
もう何も言えなかった。
もっと言いたかったのに。
別のことも言いたかったのに。
―私の気持ちも、言いたかったのに…
「それじゃあ…。」
そこでユウタはようやく口を開いた。
重々しく、苦々しく。
私に向かって言った。
「フィオナはそんなにオレに理不尽をしてると思ってるのか?」
「…。」
何も言えなかった。
だって、そのとおりだったらから。
私はユウタに理不尽ばかりしていたから。
ユウタから言われたその言葉はとても重く深く響いた。
「それなら。」
そこから先の言葉はとても重かった。
とても冷たく、とても鋭い。
残酷なんてまだ軽い、冷徹なんてまだぬるい。
そんな声で。
「―オレに…怒ってほしいのかよ…?」
ぞくりとした。
背筋が凍るなんて表現が生易しく感じられるほどに。
この言葉は私に向けられたものでも今まで向けられたものではなかった。
それは勇者に向けていたあの言葉と同じ。
声色も、私に向ける瞳も。
温かな微笑を浮かべるユウタから想像できないほどに恐ろしい。
「っ…。」
何も言えなかった。
ユウタが怖くて言えなかった。
情けない。
こんな私、本当にだめだ。
悪いことはわかってるのに。
怒られなきゃいけないのに。
それなのに涙を流して、俯いて。
ユウタを困らせてばかりいて…。
私は…最悪だ。
そう考えていると急に体が動いた。
体、いや。
腕を引かれた。
予想外な力によって引かれ、私はその力のままに力の方向へと動いてしまう。
そして、私の体は。
「…まったく。」
困ったような声が私の上からした。
背中に腕が回されて。
後頭部にも手が回されて。
私はユウタに抱きしめられていた。
「…え?」
そのまま後頭部に回った手は頭を撫でる。
柔らかな、温かな手がそっと撫でる。
「こんな状況で、怒れるかよ…。」
「…ユウタ…?」
「確かにさ。」
ユウタは言う。
私を抱きしめたまま。
温かな手を動かして。
「オレのいた世界からここへ呼び出されたことに何も感じてないわけじゃない。オレのいた世界とはまったく違うこんなところに来て困ったこともあったし、もう戻れないんだろうなってことに悲しみぐらい感じたさ。」
でも、と。
ユウタは続ける。
「たかだかそれくらいで怒れるかよ。」
「たかだかって…。」
それくらいといえるほどのことだろうか?
それほどに小さく事を収められることだろうか?
そんなことは絶対ないのにユウタは軽く言う。
「オレもいつかは独り立ちしなきゃいけなかったしさ。むしろちょうど良かったくだいだし。」
「で、でもっ!私はユウタの人生を奪ったのよ!?大切な人にあえなくなっちゃったのよ!?」
「―オレは。」
体を離したユウタ。
私と顔を合わせるように。
私の目を見て言った。
「人生を奪われたなんて思っちゃいない。」
「…。」
「大切な人っていうのも…家族と師匠くらいしかいなかったし…。」
「…。」
「それに―
―男って言うのは女の過失くらい、笑って許せるくらいじゃないといけないんだよ。
それなのに泣かしてたら意味ないだろ?」
そう言って微笑んだ。
その顔を見て。
その言葉を聞いて。
ああ、と思う。
やっぱりユウタだと。
これがユウタなんだと。
どこまでも優しくて。
どこまでも温かい。
だから、ユウタなんだって。
―私はユウタに抱きついた。
体中にひどい怪我を負っているユウタの体に。
塞がっていても重症に変わりないその体に。
服なんて着ておらず、包帯がいくらか巻かれているその体に。
抱きついて、腕を背中へとまわした。
離さないように。
離れていかないように。
顔を胸板に押し付けるようにして私は涙を流した。
「ユ、ユウタ…っ!!」
しゃくりあげる私の背中を包み込んで。
震わせる肩を抱き寄せて。
そっと頭を撫でて。
ユウタは私に言ってくれる。
「もう…いいんだよ。」
エリヴィラのように怒った口調ではなく。
フィオナのように悲しげな口調ではなく。
クレマンティーヌのように諭すような口調でもない。
ただ優しく。
ただ柔らかく。
言い聞かせるように。
「フィオナは十分過ぎるほど懺悔して、後悔してくれただろ…もう、十分だって。」
私を落ち着けるように言う。
「こんなオレなんかのためにそれだけ泣いてくれりゃ…もう十分だよ。」
「…ぅっぁあ…っ。」
「もう、そんな泣かなくて、良いんだよ…。」
そう言って抱きしめてくれる。
それでどれほど救われたことか。
私の中の罪悪感が消えていったことか。
ユウタがただそう言ってくれるだけなのに。
胸の中に募った後ろめたさは消えていく。
涙と共に流れていく。
「ユウタぁあああっ!!」
泣きじゃくった私を。
涙で濡れた私を。
罪悪によって震えた私を。
ユウタは―。
「ああ。」
―そんな短い飾らない言葉と共に抱きしめてくれた。
ユウタは考えるよりも行動するほうなのかもしれない。
言葉にするよりも行動でしめしてくれるのかもしれない。
だからユウタは私の体を抱きしめ続けた。
私もそれに抗うことなく、抱きしめ返した。
だって私はユウタを求めていたから。
この温もりを。
この優しさを。
黒崎ユウタというこの一人の存在を、ずっと求めていたから。
私はユウタの背にまわした腕に力を入れて、ずっと抱きしめていた。
―それだけならば良かった。
これ以上、何もいらなかった。
言葉も、何も。
それなのに私の体は満足しない。
心は満たされても。
気持ちは満足しても。
それは満足してくれなかった。
今まで満たされずにいたそれは、今頃になって燃え上がる。
ユウタという男を求めて蠢きだしたそれ。
―本能。
そして私は。
ユウタに抱きしめられていたはずの私は。
気づけば。
ユウタを押し倒していた。
それは怒鳴り声。
私の部屋から響く大音量の声。
その声の主はエキドナのエリヴィラ。
長い付き合いだけどここまで怒る彼女を前にしたことは初めてだった。
「体中を傷だらけにして!大量出血をして!ここまでしているのに生きていることが不思議というほどの怪我じゃないですか!!」
その怒りの対象は私。
その怒りの原因はユウタ。
ユウタをこれほどまでに怪我させてしまったことについて、だ。
「ユウタ君にいったい何をさせたのですか!!?」
その剣幕は普段のエリヴィラからは予想できないほど恐ろしい。
あの優しく温厚なエリヴィラがここまで怒っている。
それは当然かもしれない。
想い人をここまで傷つけられれば誰だって同じような反応をする。
私だって、本当ならこのような反応をしていたはずなのだから…。
私は怒る彼女を前に俯くことしか出来ない。
私の部屋のベッドに寝かせているユウタをまともに見ることさえ出来ない。
エリヴィラと顔を合わせることも、出来そうになかった。
ユウタ。
今は意識を失ってしまっている青年。
私を助けに来てくれた男の人。
あの勇者を、教団にとって最高戦力を打ち破った者。
私の召喚した…人間。
服は傷だらけでボロボロになってしまい、今は着ていない。
見える体には傷らしい傷はない。
それはほとんどエリヴィラが治してくれたからだ。
それでも。
エリヴィラでも一度にここまでの量の傷を直すことは出来ないらしい。
一見傷のないように見えるユウタの体もまだ傷は残っている。
風魔法で出来た鋭い切り傷だったということが幸いか傷跡は残らないらしい。
それでも、完治できているというわけではない。
激しい運動なんかすれば傷が開いてしまうくらいらしい。
ユニコーンがいてくれればユウタの傷をすぐに治してくれるだろうけど…それは無理だろう。
彼女たちがこの魔界にいるとは考えにくい。
だからといってこの城で治癒魔法を使える者なんてそう多くない。
怪我を負ってきた騎士たちのためにそういった者達がいるはいるのだがそれでも、エリヴィラのほうが技量はずっと上だ。
だけど、私も。
私だって治癒魔法が使えないわけではない。
エリヴィラほどでもなくてもそれなりには出来る。
出来る…けど。
今の私には魔力がない。
治癒魔法を使えるだけの魔力は既に残っていない。
そもそもこの城へ戻って来られたのは他の者に手を貸してもらったからだ。
私とユウタを運んでもらったからだ。
ベッドの上に寝ているユウタ。
その顔は普段に比べて…いくらか白い。
血が足りていないからだろう。
あまりにも傷を負いすぎて、血を流しすぎたからだろう。
ここまで血を失って、ここまで傷を負っているというのにユウタはまだ生きている。
エリヴィラの言ったように生きているのが不思議なくらい傷を負っているのに。
私のせいで…傷を負わせてしまって…。
「…。」
何も言えなかった。
エリヴィラに対する謝罪をしようとしても口が開かなかった。
私が悪いことはわかっている。
そんなこと百も承知だ。
私が一人で出て行ったからユウタは傷ついた。
私が教団にあんな規格外な存在がいると思ってなかったから。
だから、ユウタはそれから私を守るために傷を負った。
それ以前に。
私はユウタにひどいことをしてしまった。
ユウタの人生を横取りしてしまった。
理不尽に理不尽を重ねてしまった。
こんなの…最悪だ。
ユウタに甘えて、ユウタにねだって、ユウタに守られて。
ずっとユウタに迷惑をかけて…。
こんなの…こんなのって…最悪だ。
私はただ俯くことしかできなかった。
気を抜けば今にも目から雫が零れてしまいそうだったから。
そんな私を見ているエリヴィラはため息をつく。
クレマンティーヌのように呆れたようなものではない。
仕方ないというようなため息。
「本当なら…何をさせたのか問い詰めたいところですが…貴方は謝罪の気持ちを感じているのですね…。」
そう言って静かに椅子から立ち上がった。
「血を、とってきます。」
エリヴィラは言った。
私を見てじゃなく、ユウタを見て。
「これ以上は私の治癒魔法でも出来ません。流石に失った血を復元できるほどの魔法は私も知りませんからね。」
そう言って今度は私を見る。
「クレマンティーヌさんに言えばユウタ君の血と似たものを用意してくれるかもしれません。ですから私がクレマンティーヌさんに言ってくる間、ユウタ君のことを頼みましたよ。」
そう告げてエリヴィラは出て行った。
静かにドアを開け、同じようにドアを閉めて。
そうして私の部屋にいるのはユウタと私だけになった。
「…。」
何も言えない。
意識のないものに何を話せばいいのかわからないからじゃない。
ユウタを前に言いたいことがあったはずなのに。
言えなくなってしまった。
あの平原で私はユウタにそばにいて欲しいと言った。
それはあまりにも勝手。
ユウタの気持ちを考えていない発言。
ユウタにはとんでもない理不尽な行為をしているのに、さらに理不尽を重ねてしまった。
今回のこともそう。
私の勝手な判断がユウタを傷つけることになった。
何だろう、これは。
これじゃあ結局私がしているのは…ユウタにとって迷惑な行為じゃないの。
最悪、じゃないの…。
また、目に涙が溜まってくる。
だめだ。
泣いちゃ、いけない。
泣いたらユウタを困らせる。
だからせめて、少しでもユウタの迷惑にならないように、困らせないようにしないと…。
そう思って服で溜まった涙を拭ったとき、音がした。
この部屋のドアが開く音が。
静かに音のしたほうを向けばそこには…。
「…様子はどうじゃ、フィオナ殿。」
バフォメットのヘレナがいた。
「何の用なのよ…。」
突然の訪問客に私は睨むような目で彼女を見てしまう。
それは、仕方のないこと。
ヘレナがユウタを送ってくれなければ私今ここにはいない。
でも、そのせいでユウタがここまでの傷を負った。
感謝すべきなのだろうけど、素直に感謝できない。
エリヴィラの感情がよくわかる。
大切な人を傷つけられて怒らないわけがない。
本来この感情はあの勇者に向けるべきだ。
彼女に向けるのは筋違いだ。
それでも、向けてしまう。
だって…。
ヘレナは…。
「いやのう、ユウタの様子を見に来た、ということじゃろうな。あれほどの激闘をして見せた男の姿を、な。」
あれほどの激闘を見せた…。
そう、『見せた』…だ。
ヘレナはあのユウタの戦いを見ていた。
どこでかはわからない。
それでもあの戦いの始終を見守っていた。
だから私もユウタもこうしてここにいられる。
戦いを終えた後、ユウタが倒れた後。
傷だらけのユウタと私を連れてきてくれた。
だからこそ、私はヘレナに怒りを向けてしまう。
「…どうしてユウタを助けてくれなかったの?」
「うむ?」
私は呟くように言った。
小さくてもへレナに聞こえるように。
「貴方は…ユウタが戦ってるところを見てたのでしょ?ユウタが傷ついていくのを…見てたのでしょ…?」
それも、黙ってみていた。
ユウタに加勢をすることも、助けることも出来たはずなのに…だ。
ユウタを助けてくれればここまで傷つくこともなかったはずなのに…。
「…それは一人で十分だと言っておったフィオナ殿が言えたものかのう?」
「っ。」
そんなことを言われて…何も言えなくなる。
それは正しい。正論だ。
悪いのは全部私なのだから。
もともと私が驕っていたのが原因なのだから。
私が一人で十分だと言わなければ、私一人で済むと言わなければ…。
私がたった一人で終わらせると驕っていたから…。
全て、私のせいなだから…。
「…それにのう。」
フィオナは言う。
私の隣の椅子に、さっきまでエリヴィラが座っていたところに座って。
ユウタの顔を覗き込んだ。
「あそこでわしが出て行けばユウタは確かにここまで怪我をすることもなかったじゃろうな。でものう、あそこでわしが出て行ってもよかったのかのう?」
「…?」
それはどういうことだろう。
いったいどんな意味だろう。
「それでわしがユウタを助けたとして、ユウタが怪我をしなかったとして、それで…どうなるのじゃよ?」
「…?」
「ユウタの『守ったもの』は、どうなるのじゃよ?」
「っ。」
それを聞いて何も言えなくなった。
ユウタの『守ったもの』…。
それはなんだかわからないわけじゃない。
だってそれは…私のことだから。
「それでユウタは満足かのう?怪我をしなくて本当に良かったのかのう?それで満足していたのかのう?」
「それは…。」
「…なんて、のう。」
フィオナは笑った。
いつものように輝くような笑顔ではない。
どことなく悲しみを感じさせる表情だ。
「本当はユウタに言われておったのじゃよ。」
「…ユウタに?」
「ああ、ユウタにじゃよ。『オレよりもフィオナを助けてくれよ。女の子が怪我したら大変だからさ。』と言っておったのじゃ。」
そこでヘレナは私を見た。
やはり悲しそうな笑みで。
それでいてどことなく望ましいというような瞳で。
「ここまで想われておるなんて、本当に羨ましい限りじゃよ、フィオナ殿。」
そう、言った。
「それからのう。」
彼女は話を変えるように、さっきまでしていた表情を打ち消すように話題を変える。
「教団の連中じゃが…。」
「…。」
教団の騎士団。
私の魅了で戦力喪失したあの者達。
今はこの城の地下牢に収容されているはずだ。
それと…そのほかにも。
「勇者のことでなのじゃが…。」
勇者。
私の魅了が効かなかった二人目の人間。
私を殺そうとした者。
ユウタを傷つけた男。
人間を殺したいなんて思わない私が。
愛すべき存在だと思っている私が。
殺意というものを初めて抱いた人間だ。
「勇者が…いったいどうしたの…。」
「その処遇をと思ってのう。」
ヘレナの声も冷めたものだった。
それはそうだ。
この城にいる、ユウタに想いを寄せている皆なら誰でも同じ反応を示すだろう。
それほどまでに皆ユウタに想いを寄せているのだから…。
「今はまだ意識も戻らんからセスタに見張らせておるが…とりあえず記憶を消してどこか遠くの地にでも捨て置くことにした。あのような人間は記憶があってはどこでも同じことを繰り返しそうじゃからのう。」
それはそうだろう。
あの勇者は私たちを魔物としか見ていない典型的な教団の人間。
ただ、ユウタとの会話が気になったが…それでいいと思う。
記憶を消せば同じ過ちを犯せないだろうし。
…それに。
私たちのそばにいれば…きっと誰かは行動に移ってしまう。
ユウタを傷つけたことに対する怒りをぶつけにいってしまうから。
そんなことを出来ないようにどこか私たちの知らないところへ…。
「ほれ。」
そこでヘレナからあるものを渡された。
黒い布と白い布。
それを私は知っている。
それはユウタがいつも身に纏っていたものだから。
ユウタがいつも着ていたがくらんという服だから。
ユウタが私の傷に破って巻いてくれた服だから。
「直しておいたぞ…と言っても完全には直せんかったがのう。」
その言葉に見てみれば確かにがくらんはあのボロボロの状態からいつものような綺麗な状態だ。
ただ、触ってみるとわかる。
触れた感触が少しばかり変わっていた。
「材質が違うのじゃと城のアラクネが言っておったぞ。糸ではない、この世界にあると思えない布じゃったと。」
じゃから完全に復元はできんかった。
そういったヘレナの言葉なんて耳に入らない。
この…世界に…。
その言葉が胸に深く突き刺さったから。
私の心に罪悪感を募らせる。
「ユウタが起きたら渡してやってくれフィオナ殿。」
そう言って彼女は椅子から立ち上がる。
そのまま何も言うことなく。
私もユウタも見ることなく。
静かに出て行った。
「…。」
私はユウタの服を見た。
そして、ユウタを見る。
ユウタは…いったい今まで何をしていたのだろう。
私に召喚される前はいったいどこで何をしていたのだろう。
この服を着て、日々を過ごしていて…。
勉強…していたと言ったけど。
それはいったいどこで?
いったい誰と?
どんな日々を送っていた?
それは…知らない。
家族は?友達は?
それから…恋人は…?
私は知らない。
ユウタの微笑みの内に抱えるものを。
闇のような底のない優しさの中にあるものを…。
ユウタの、本当の気持ちを…。
ユウタは怒っている?
ユウタは悲しんでいる?
ユウタは喜んでいる?
それは…わからない。
ユウタは自分の気持ちを言ってくれないから。
今までだって私が一方的に甘えてただけだから。
あの時。
ユウタが助けに来てくれた時だって…そうだった。
来てくれたことが嬉しくて。
助けに来てくれたことが喜ばしくて。
やっと会えて…胸が踊ってしまって。
そして私の気持ちを一方的に押し付けてしまった。
ただいて欲しかったことを。
そばにいて欲しかったことを。
あまりにも勝手なほどに。
一方的で押し付けるように。
…もしも…もしもユウタが帰りたいといったら…?
私はユウタを返すだろうか?
いや、それはない。
するしないの問題ではなくて、『出来ない』から。
向こう側から召喚するのは難しいことじゃない。
魔法陣を作り上げて向こう側から人を引っ張ればいいようなものだから。
誰など特定せずに。
誰でもいいと適当に。
ただ召喚すればいい。
…でも。
逆に送り返すことは出来ない。
ユウタのいた世界を私は知らない。
この世界、魔界と魔界の外の世界しか知らない。
ヘレナは言っていた。
この城にいるアラクネが言っていたことを。
『この世界にあると思えない布』
この世界…それは外と魔界のことをさしているのだろう。
ここにあるとは思えない…。
それは薄々感じていた。
触れたことのない服を着て。
見たことのない数式を教えてくれて。
どこにも被らない、誰とも重ならない存在だった。
それに…。
時折見せたあの悲しげな笑み。
故郷を想っていたのかもしれない。
故郷に帰りたいと思っていたのかもしれない。
それでも、私はユウタを返せない。
空間転移の魔法なら出来ないこともないだろうけど…でも。
私はユウタのいた世界を知らない。
ユウタのいた世界をイメージできなければ送ることなんて出来そうにないから。
こことは別の、ユウタのいた世界とはまた別のところへと送ってしまうことになりそうだから。
…でも。
それ以前に私はユウタを返そうとは思えない。
それほどまでに私はユウタに引き込まれた。
ユウタという闇に沈んだ。
もう抜け出すことなんて出来ないくらいに。
抜け出してもその先にある光を厭ってしまうくらいに。
そして闇、ユウタという存在を求めてしまうくらいに…。
「…。」
勝手だと、思う。
本当に自分勝手だと思う。
ユウタを呼び出したのは私の夫にするためだった。
夫になる素質があるのならそうしようと思っていた。
それは私の我侭。
それは結果的にユウタの人生を奪った。
「……っ。」
救いようがない。
呆れてものも言えない。
私は…ただの馬鹿だ。
「…ぅっ…ぁ…っ。」
だめだ。
どうしても目に涙が溜まってしまう。
泣きたくないのに、涙が出てしまう。
こんな…こんなの…。
「やぁ、フィオナ。」
「っ!?」
そう言って私の隣に音もなく立ったのは点ヴァンパイアのクレマンティーヌ。
何も聞こえず、気配も感じず。
泣き出した私を隣で見られた。
「な、何よっ!」
慌てて涙を拭い彼女を見る。
目に映ったクレマンティーヌはくすりと笑う。
「いやぁ、君もよくユウタのことを考えられるようになったじゃないか。まったくいいことだよ。」
その発言。その言葉からするに。
もしかしたらクレマンティーヌはずっと私の隣にいたのかもしれない。
隣で私が泣いているところを見続けていたのかもしれない。
そう思うといきなり恥ずかしさがこみ上げてきた。
「な、何の用なのよ!?」
「エリヴィラに頼まれた『血』をと思ってね…。」
するりと、クレマンティーヌは流れるように自然な動きで椅子に座った。
私の隣の、さっきまでエリヴィラ、ヘレナが座っていた椅子に。
「ただ、ユウタの体質に合いそうな血はなかったよ。」
静かに言った。
「どうもね、ユウタのは何もかもが違いすぎる。」
目を閉じて。
背もたれによりかかかって言う。
「今まで何度も血なんてものは味わってきたよ。ヴァンパイアだからね。」
それはそうだろう。
ヴァンパイアにとって血は食料。
私が男性の精を必要とするように。
彼女も生きるためには必要なものなのだから。
「でも、ユウタのはそのどれとも合わないんだ。何から何までが規格外すぎる。彼は、ユウタは…私達の住んでいるところとは次元が違うと思ってしまうくらいにね。」
「…。」
それは…わかっていることだ。
既に理解していることだ。
「チェスの話、覚えているかい?」
「え?え、ええ。」
チェスの話?
この前屋上で話したあのことだろうか?
「あのときユウタが教えてくれた陣形…『囲い』の形をまだ覚えているかい?」
「…うん。」
「それは良かった。それならチェス盤の上にひとつ…『囲い』を外れていた駒は覚えているかい?」
その言葉に私は思い出す。
あのときに見たものを。
キングを囲むようにして並ぶ黒い駒。
その中で唯一その並びから外れていた駒は―
「―ナイト…?」
「そうだ。」
クレマンティーヌは言った。
「あのときの話の続きをしようか。ユウタの、性格の話だ。」
クレマンティーヌは私を見ない。
その視線はユウタを見ている。
優しそうに柔らかな表情で。
「ユウタは一つの駒で私に戦いを挑んできたよ。君の言った、ナイト一つでね。」
ナイト一つで相手を攻める。
それはチェスにおいて無謀なこと。
チェスにおいてじゃない。
戦法として最悪なことだろう。
一人で敵の軍勢を攻めるようなものなのだから。
そう考えているとクレマンティーヌはくすりと笑った。
「正しく彼らしいとでも言おうか。」
その言葉はなぜだか妙に納得できる。
ナイト一つで攻めるその行為。
それがユウタの性格を現しているというのなら無謀極まりないこと。
「無謀で、策もなく、たいした知略も持ち合わせていない。策士に向いたとしても…司令官には向かない性格だろう。…でも。」
クレマンティーヌは言葉を紡ぐ。
「人間としては立派だろう。」
そう言った。
「何事も向かっていく姿勢、やり遂げようとするその姿は立派だ。それにユウタはどこまでも優しい。」
ただ、と続く。
「一人で何でも背負い込もうとする姿勢は良くないだろうに。ここまで自分一人傷つくことを厭わない性格は最悪だ。」
「最悪…。」
「ユウタは自分を軽んじすぎている。」
軽んじすぎる…。
それはなんともユウタらしい。
今回のことでよくわかったことだ。
私のために身を挺してまでかばってくれたことが。
いくら傷つこうとも引かないその姿が。
私の瞳に焼き付いているのだから。
そして彼女は言った。
そこでようやく私を見て。
静かに一言。
「もしかしたら…自分を軽んじられるほど君を大切だと思っているのかもしれないね。」
そういった。
悲しげに。
ヘレナと似ている表情で。
「うらやましい限りだよ。」
そう言って視線をユウタへと戻す。
ユウタの顔に。
じっと見つめる。
「ふふふ。こうして見ているだけでユウタの血、もう一度味わいたくなってしまうな。」
そういった彼女は笑っていて、妖艶に舌を出して唇を舐める。
同じ魔物としてもぞくりとさせられる妖艶な姿だった。
「…。」
思わずクレマンティーヌを睨んでしまう。
その舐めた行為が原因ではない。
彼女がユウタの血を味わいたいといったことに対してだ。
「冗談だよ。流石の私も怪我人相手に血を吸うわけないだろう?」
最も、ユウタなら怪我していようとも血を分けてくれそうだけどね。
そう言って彼女は笑った。
その言葉は否定できそうにもない。
ユウタはそれぐらい平気でやってのける。
自分が傷つくことを厭わない。
それなのに私が傷ついたときは激怒していた。
勇者に対して普段なら絶対に見せない怒りを見せた。
思わず恐怖を感じてしまうほどに。
あれほどまで恐怖を感じたことなんてないくらいに。
「さて。」
そんな言葉と共にクレマンティーヌは椅子から立ち上がる。
「私はここらでお暇させてもらおうか。」
どうやらもう出て行くらしい。
長居するつもりは最初からなかったようだ。
「そもそもエリヴィラから頼まれていた血もないからね。いや、あったとしても今のユウタに渡すべきではないな。」
…?
それはいったいどういうことなのだろうか?
「…どうして?」
「今のユウタなら自由に動くことはできないだろう?どこにも逃げようがないわけだ。」
つまり。
彼女は楽しげに続ける。
ニヤニヤとした意地の悪い笑みで。
「今なら君のなすがままじゃないか?」
「…そんなの。」
その言葉はとても魅力的だ。
その事実はとても魅惑的だ。
だけど。
「ユウタのことを考えていないだけじゃないの…。」
もう自分勝手にはなりたくない。
ユウタに迷惑はかけたくない。
だからこそ、私だって抑えるべきところでは抑える。
だが、その言葉にクレマンティーヌは目を丸くした。
珍しいものをみたというように。
「成長しているな、君は。」
そして、くすりと笑った。
「変わったよ。とてもいい方向に成長している。前の君ならそんなそぶりを見せることなく襲っていたのにね。」
「…。」
確かに前の私なら襲っていたと思う。
ユウタが怪我しているというところでもかまわず。
むしろ動けないことをいいことに好き勝手に。
でも今は。
「今は…違うんだから。」
そう言った。
クレマンティーヌは何も言わない。
微笑を浮かべるだけで。
慈愛に溢れたような笑みで私を見た。
「ふふふ、そうかい。」
小さく言った。
「それならユウタにその気持ちを伝えてみてはどうかい?」
椅子から立ち上がったのにまた座るクレマンティーヌ。
金色の長髪を揺らしてベッドへと。
ユウタが寝ているベッドに座った。
「行為に及ばなくても、気持ちを伝えることならいいだろう?君は自分の気持ちを全部伝えきれてないじゃないか。」
そのまま彼女はユウタに手を伸ばす。
その血の抜けて白くなった肌を。
そっと撫でてるようにして…。
手を止めた。
ユウタの頬に触れる直前で。
「ふふふ。」
笑った。
「…どうしたの?」
「いやね。こんな気持ちになるものなんだと思ってね。」
そう言ってクレマンティーヌは立ち上がる。
今度は椅子に座るわけじゃなく。
この部屋を出るつもりで。
「いやはや、私もまだまだわからないことばかりだな。勉強になるよ。」
「…何が?」
勉強になる?
いったい何のことだろうか。
そのまま歩いていく彼女はドアの前で止まった。
ドアノブに手を掛けた、後姿を見せたままで。
クレマンティーヌはしゃべる。
「好きな者には意地悪をしたくなるというだろう?」
そんなことを言った。
「?どういうこと?」
「そのままの意味さ。」
そういったクレマンティーヌの顔は見えない。
表情はわからない。
どんな気持ちなのかも。
どんな感情で言っているのかも。
「今そんな気持ちになってしまってね。」
そう言ってドアを開けた。
そのまま体をわずかに開いたドアの隙間へ滑り込ませる。
するりと。
私の部屋から出て行く。
それでもクレマンティーヌはドアを閉める前に言った。
私に向かってではないだろう。
そのの言葉は明らかにユウタに向けれられたものだった。
「寝たふりは得意でないのなら今度私が教えてあげよう、ユウタ♪」
見えた顔には笑みが浮かび。
そういった声には嬉しそうな響きがあり。
ドアを閉めるクレマンティーヌは楽しげだった。
がちゃりと無機質な音を立ててしまるドア。
これで私の部屋にいるのは私とユウタの二人だけになった。
なった…けど…。
クレマンティーヌは何て言った?
ユウタに向かって…なんと言った?
『寝たふり』と…言わなかった?
え…?
それは…ユウタに向かって言っていた…んだよね?
それじゃあ…。
私はユウタを見た。
ベッドで寝ているはずの、意識を失っているはずのユウタを、見た。
そこには…。
「…ったく。とんでもないこと言ってくれるぜ、クレマンティーヌめ。」
けだるけに身を起こすユウタが。
重そうに頭を振るユウタが。
めんどくさそうに顔を上げるユウタが、いた。
そして、私を見た。
「ユウタ…?」
そう呼んだ私の声に応えるかのようにユウタは微笑む。
いつも向けてくれていた笑みを。
私に向かって。
それで言った。
「おう、フィオナ。おはよう。」
そう言った。
でも…待って。
ユウタは…寝たふりをしていた?
それなら…それはいったいいつから?
いつからユウタは寝たふりをしていた?
いつからユウタは私達の会話を聞いていた?
「ねぇ…ユウタ…。」
「うん?何?」
「いつから…起きてたの…?」
「えっと…エリヴィラが怒鳴ってるところだけど?」
それって…最初からじゃないの?
え…それじゃあ…ユウタは今までの会話を全て聞いていて…。
今までの私のことを…見ていて…?
「っ!?」
急に恥ずかしくなった。
ユウタに泣きついていたはずなのに。
ユウタにみっともない姿を見せてしまったはずなのに。
恥じらいというものを感じた。
「まったく。」
そう言ったユウタはベッドから出ようとした。
だが、ふらつく。
血がだいぶ抜けているんだ、人間が大量に血を失えば満足に動けなくなることは当然だろう。
そして当然ユウタは倒れこんだ。
「っ!ユウタ!」
思わず私は抱きとめる。
ベッドの上で倒れても平気だろうけど。
倒れこんだユウタの体を抱きしめる。
「っ。」
「おっと、悪い。」
近づいた距離。
縮まった隙間。
それは私が求めていたもの。
私が望んでいたもの。
なのに…。
ずっと話したかったはずなのに。
ずっと求めていたはずなのに。
いざ話せる状況になって。
いざすぐ近くまで来て。
言いたいことが言い出せない。
伝えたいことがわからない。
謝りたい。
でも、言葉が見つからない。
償いたい。
でも、その方法がない。
本当のことを伝えたい。
でも、それはあまりにも残酷すぎて伝えられない。
「…フィオナ?」
「え?」
あまりにも考えすぎて不振に思ったのだろう。
ユウタが声を掛けてきた。
「どうしたんだよ。」
「あ、いえ…何でもないわ。それよりユウタ、動いちゃだめでしょ。」
私はユウタの体をベッドに寝かす。
動いてはだめ。
いくら傷を塞いだといっても重症であることに変わりないのだから。
安静にしていなければいけないのだから。
「いや、これくらい平気だって。」
渋るユウタ。
どうしてこうも傷に無頓着なのだろう。
「ユウタ、今貴方がどんな状態だかわかってるの?」
「怪我してるってだけじゃないの?」
それはそうだけど。
治療したけど…それでも傷はひどい。
それなのにユウタは平然としている。
怪我したことが、重傷の傷をおったことが嘘だと言うかのように。
「貴方、どれだけの傷を負ったのか覚えてないの!?」
「平気だって。」
ユウタは笑った。
私の心配する言葉に平気だと言って。
「傷つくことなんていつものことだからさ。怪我なんて慣れてる。」
その言葉に嘘は見られなかった。
そういう仕草をしなかった。
「痛いのは嫌だけど…でも、慣れてるしさ。」
そう言った。
「それよりもフィオナはどうなんだよ?」
「…私?」
「ああ、肩の傷、大丈夫かよ?」
そう言ってくれるユウタ。
それを聞いて、思う。
何でこうも私のことを心配してくれるのだろう。
何でこうも自分のことを蔑ろにするのだろう。
あまりにも優しく。
あまりにも無頓着。
私はその言葉に俯いてしまう。
ユウタと顔を合わせられなくなってしまう。
「…フィオナ?」
「どうして…。」
私は言う。
掠れた声でユウタに聞く。
「どうして…なの…?」
「ん?」
「どうしてユウタは…そこまで優しく出来るの…?」
うつむいた私の顔からは雫が零れた。
どうしてこうも泣いてばかりいるのだろう…。
私自身、ここまで泣き虫じゃなかったはずなのに。
どうしてこうも泣きたくなってしまうのだろう。
きっとユウタに会ったからだ。
ユウタを召喚して、ユウタを知って。
それで、ユウタに迷惑を掛けてしまって…。
先ほど泣いたというのにまた涙があふれてくる。
「フィオナ…?」
「ユウタは…っ!」
私は顔を上げた。
その顔を見たユウタは困惑した表情を浮かべる。
私が泣いていることに困っている。
ユウタからしたら私が泣いている理由なんてわからないから。
ユウタは困ってしまう。
「ユウタは…何でそこまで優しく出来るの…っ!?」
私はそれを言った。
クレマンティーヌに諭されて気づかされたそのことを。
ユウタの異常なまでの優しさを。
闇のような底のない温かさを。
「私は…ユウタにとっての理不尽なのよっ!?ユウタの人生を…勝手に奪ったのよっ!?」
「え?ちょとフィオナ?」
「私はっ!」
一方的な発言。
ユウタの言葉を聞かない、押し付けるような言葉で言ってしまう。
それほどまでに私の中の罪悪感は募っていて。
私の中にある後ろめたさがそうさせる。
「私は…ユウタを勝手に召喚したのよ…?ユウタが生きていたところから…勝手に召喚しちゃったのよ…?」
「…。」
「もう…ユウタをもといた世界に返せないのよ…っ!?」
「…。」
ユウタは何も言わなかった。
何も言わずに私の言葉を受け止めてくれた。
懺悔に似たこの気持ちを。
償いに似たこの言葉を。
「ユウタが怒ってるところ…勇者との戦いで見た…それなのに…何で……?」
「…。」
「何で…私には優しくできるの…?」
拳を握り締めたユウタは恐ろしかった。
勇者に向かっていくユウタは怖かった。
それでも。
私を守ろうとしたユウタはとてもかっこよかった。
でも。
それでも、だ。
「ユウタは…何で怒らないの…っ!?」
ユウタの怒りを目の前で見たのに。
その感情を知ったのに。
どうしてユウタは私にその怒りを向けないのだろう?
ずっと疑問に思っていたこと。
ずっと不思議に思っていたこと。
私は知らない。
ユウタのいた世界を。
ユウタの家族を。
ユウタの友達を。
ユウタにとっての―
―大切な人を…。
「私はっ!!」
懺悔というよりもはや悲鳴に近かった。
声を荒げる私は普段の姿と比べるととても見れたものではなかった。
涙を流し、髪を振り乱したその姿。
女性として男性の前で見せる姿ではなかった。
そんな姿で私は続ける。
「私は…私は…っ!」
すがりつけたらどれほど良かっただろう。
このままユウタの胸に抱きつければどれほどと良かっただろう。
でも今の私に。
この私に、その資格はないのだから。
「ユウタに…理不尽なことばかりしてるのよ……っ!!」
「…。」
「どうしてそうやって笑ってられるの…?どうしてそう優しくしてくれるの…?どうして―
―どうして怒らないでいられるの…?」
その言葉を最後に私は口を閉じた。
もう何も言えなかった。
もっと言いたかったのに。
別のことも言いたかったのに。
―私の気持ちも、言いたかったのに…
「それじゃあ…。」
そこでユウタはようやく口を開いた。
重々しく、苦々しく。
私に向かって言った。
「フィオナはそんなにオレに理不尽をしてると思ってるのか?」
「…。」
何も言えなかった。
だって、そのとおりだったらから。
私はユウタに理不尽ばかりしていたから。
ユウタから言われたその言葉はとても重く深く響いた。
「それなら。」
そこから先の言葉はとても重かった。
とても冷たく、とても鋭い。
残酷なんてまだ軽い、冷徹なんてまだぬるい。
そんな声で。
「―オレに…怒ってほしいのかよ…?」
ぞくりとした。
背筋が凍るなんて表現が生易しく感じられるほどに。
この言葉は私に向けられたものでも今まで向けられたものではなかった。
それは勇者に向けていたあの言葉と同じ。
声色も、私に向ける瞳も。
温かな微笑を浮かべるユウタから想像できないほどに恐ろしい。
「っ…。」
何も言えなかった。
ユウタが怖くて言えなかった。
情けない。
こんな私、本当にだめだ。
悪いことはわかってるのに。
怒られなきゃいけないのに。
それなのに涙を流して、俯いて。
ユウタを困らせてばかりいて…。
私は…最悪だ。
そう考えていると急に体が動いた。
体、いや。
腕を引かれた。
予想外な力によって引かれ、私はその力のままに力の方向へと動いてしまう。
そして、私の体は。
「…まったく。」
困ったような声が私の上からした。
背中に腕が回されて。
後頭部にも手が回されて。
私はユウタに抱きしめられていた。
「…え?」
そのまま後頭部に回った手は頭を撫でる。
柔らかな、温かな手がそっと撫でる。
「こんな状況で、怒れるかよ…。」
「…ユウタ…?」
「確かにさ。」
ユウタは言う。
私を抱きしめたまま。
温かな手を動かして。
「オレのいた世界からここへ呼び出されたことに何も感じてないわけじゃない。オレのいた世界とはまったく違うこんなところに来て困ったこともあったし、もう戻れないんだろうなってことに悲しみぐらい感じたさ。」
でも、と。
ユウタは続ける。
「たかだかそれくらいで怒れるかよ。」
「たかだかって…。」
それくらいといえるほどのことだろうか?
それほどに小さく事を収められることだろうか?
そんなことは絶対ないのにユウタは軽く言う。
「オレもいつかは独り立ちしなきゃいけなかったしさ。むしろちょうど良かったくだいだし。」
「で、でもっ!私はユウタの人生を奪ったのよ!?大切な人にあえなくなっちゃったのよ!?」
「―オレは。」
体を離したユウタ。
私と顔を合わせるように。
私の目を見て言った。
「人生を奪われたなんて思っちゃいない。」
「…。」
「大切な人っていうのも…家族と師匠くらいしかいなかったし…。」
「…。」
「それに―
―男って言うのは女の過失くらい、笑って許せるくらいじゃないといけないんだよ。
それなのに泣かしてたら意味ないだろ?」
そう言って微笑んだ。
その顔を見て。
その言葉を聞いて。
ああ、と思う。
やっぱりユウタだと。
これがユウタなんだと。
どこまでも優しくて。
どこまでも温かい。
だから、ユウタなんだって。
―私はユウタに抱きついた。
体中にひどい怪我を負っているユウタの体に。
塞がっていても重症に変わりないその体に。
服なんて着ておらず、包帯がいくらか巻かれているその体に。
抱きついて、腕を背中へとまわした。
離さないように。
離れていかないように。
顔を胸板に押し付けるようにして私は涙を流した。
「ユ、ユウタ…っ!!」
しゃくりあげる私の背中を包み込んで。
震わせる肩を抱き寄せて。
そっと頭を撫でて。
ユウタは私に言ってくれる。
「もう…いいんだよ。」
エリヴィラのように怒った口調ではなく。
フィオナのように悲しげな口調ではなく。
クレマンティーヌのように諭すような口調でもない。
ただ優しく。
ただ柔らかく。
言い聞かせるように。
「フィオナは十分過ぎるほど懺悔して、後悔してくれただろ…もう、十分だって。」
私を落ち着けるように言う。
「こんなオレなんかのためにそれだけ泣いてくれりゃ…もう十分だよ。」
「…ぅっぁあ…っ。」
「もう、そんな泣かなくて、良いんだよ…。」
そう言って抱きしめてくれる。
それでどれほど救われたことか。
私の中の罪悪感が消えていったことか。
ユウタがただそう言ってくれるだけなのに。
胸の中に募った後ろめたさは消えていく。
涙と共に流れていく。
「ユウタぁあああっ!!」
泣きじゃくった私を。
涙で濡れた私を。
罪悪によって震えた私を。
ユウタは―。
「ああ。」
―そんな短い飾らない言葉と共に抱きしめてくれた。
ユウタは考えるよりも行動するほうなのかもしれない。
言葉にするよりも行動でしめしてくれるのかもしれない。
だからユウタは私の体を抱きしめ続けた。
私もそれに抗うことなく、抱きしめ返した。
だって私はユウタを求めていたから。
この温もりを。
この優しさを。
黒崎ユウタというこの一人の存在を、ずっと求めていたから。
私はユウタの背にまわした腕に力を入れて、ずっと抱きしめていた。
―それだけならば良かった。
これ以上、何もいらなかった。
言葉も、何も。
それなのに私の体は満足しない。
心は満たされても。
気持ちは満足しても。
それは満足してくれなかった。
今まで満たされずにいたそれは、今頃になって燃え上がる。
ユウタという男を求めて蠢きだしたそれ。
―本能。
そして私は。
ユウタに抱きしめられていたはずの私は。
気づけば。
ユウタを押し倒していた。
11/06/22 20:30更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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