涙とアンタとオレと意地 中編
オレは何度か殺されかけたことがある。
冗談じゃなく、本当に。
その一番最初はあの日。
忘れもしないあの夜。
師匠からようやく黒帯をもらい、初段へとなったあの日の夜。
オレはもらった黒帯を腰に締め意気揚々として帰り道を歩いていた。
だが、初段になれたことによる嬉しさから今まで締めていた帯のほうを道場に忘れてしまっていた。
それに気づきすぐさま道を引き返す。
そして道場に着いた。
師匠の下には数十人の門下生がいる。
その門下生は全員がすでに帰宅しているようだったが道場にはまだ明かりが灯っていた。
師匠がまだいる。
そう思い道場の扉を開けたオレの目に飛び込んできたのは師匠の姿。
オレに背を向けて正座する師匠の後姿だった。
どことなく体を震わせて。
「師匠…?」そう呼ぼうとしたがその姿に躊躇い、声が出なかった。
だが物音を立ててしまい、師匠はオレのほうを振り向いた。
体を捻って、こちらを見た。
師匠の顔がオレの瞳に映る。
それは一生かけても忘れられそうにない。
普段ニコニコしている師匠からは想像できそうもないほどのものを感じさせられる表情。
それは恐怖。
今に思えば初めて心の底からの恐怖を、死の予感を感じたときだった。
そこからはよく覚えていない。
師匠の拳がオレの体にめり込む感覚と、何かが折れるような小気味良い音が体内に響いたのは覚えている。
異常なほど重かった自分の体。
異質なほどに感じられた死の気配。
それと師匠の顔。
恐怖を感じさせられてたあの顔からは雫が垂れていたのをよく覚えている。
師匠は泣いていた。
泣いてオレを殺そうとした。
それを今でも昨日のように思い出せる。
そこからはオレは必死に動いた。
激痛の走る体で近くにあった花瓶を引っつかんで師匠の頭にぶつけて。
そうして師匠をなんとか気絶させて。
オレは何とか事なきを得た。
「…はっ。」
嫌なものを思い出した。
あの何度も死の淵に立たされる感覚を。
十八歳になるまでに体験するようなことじゃないことを。
あの時の怪我はひどかった。
全治三ヶ月なんてドラマとかだけの話だと思っていたがまさか自分が経験するとは…。
あれは嫌な体験だったな。
入院生活面白くもないし。
専属ナースは…その…………だったし。
そして何より師匠のあの表情。
二度と思い出したくもないな。
それを…今目の前で彼女がしている。
その表情を浮かべている。
本当に嫌なもんだ。
見ているだけで悲しくなるその表情が。
本当に嫌だ。
だから…。
「来いよ…!」
師匠と同じように。
そのとてつもない殺戮衝動を受け止める!
一瞬の気の迷いが大惨事へ。
一瞬の判断が大怪我へ繋がる。
最悪、死。
それでも…やってやる。
死と隣り合わせの感覚はいまだに怖いが、もう何度も経験してきた…!
「……ぁあっ!!」
先に動いたのは彼女のほうだった。
大きな翼を広げてオレへと飛んで向かってくる。
とてつもない速度でオレへ突っ込んでくる。
例えるなら高速道路で対向車が向かってくるようなとてつもないスピードを感じるあの感覚。
一直線にオレへ飛んでくる死の予感。
一瞬でオレと彼女の距離は埋められた。
振るわれる鱗の生えた腕。
命を刈り取ろうとする爪。
だがその動きはあまりにも直線。
本能に任せたままの動きはあまりにも単調。
故によく見ていれば避けられる動きだった。
オレはすぐさましゃがみ込み、その脅威を回避。
そしてすぐさま攻撃へと移る!
「らぁ!!」
足に力を込めて弾けたように飛び出す。
拳を引き、勢いを活かして彼女の腹へと打ち込んだ!
鳩尾へ一撃。
一瞬彼女の動きが止まる。
「そこだぁ!」
止まった体、止まる腕。
彼女の鱗の生えた右腕を引っつかみ、肘の部分へとさらに一撃打ち込む。
関節破壊の攻撃。
人ではない部位に、人には生えない鱗の上から肘の関節を砕く!が!
「っ!!?」
砕けなかった。
拳から伝わるのはまるで鋼を殴ったかのような感覚。
鈍い痛みが拳を伝わった。
拳が砕けたと錯覚してしまうほどの痛み。
硬いなんてもんじゃない、異常なほどに硬すぎる…!
こんなに硬いんじゃ拳による殴撃は大してダメージにはならないか。
それじゃあオレの大半の技が通用しないじゃん…。
…マジかよ。
すぐさまその場を飛び退き彼女と距離をとる。
距離をとって、彼女を見据える。
これは本当にまずいな…。
あの症状を止めるには戦闘不能にするか、はたまたその殺戮衝動が尽きるまで付き合い続けるか、それとも意識を絶つか。
一種のストレスからなる症状なんだ。長く運動していればそのストレスだって解消できる。
ただ…殺戮までいくストレスなのだから一時間や二時間じゃ収まるものじゃない。
半日以上。3日以内とでもいうほどの長さだ。
そこまで付き合った経験はさすがにないし、そんなに長時間戦い続けられるわけがない。
だったら気絶させればいい、なんて考えもあるがあれはあれで危険だ。
起きたときに殺戮衝動が尽きてなければまた暴れだす可能性は否定できない。
そしてもうひとつ、止める方法がある。
目には目を、歯には歯を。
殺戮には殺戮を持って対処せよ。
その症状持ちである者を、殺す。
最悪な方法だ。
そんなこと、する気はない。オレは彼女を殺すためにここに留まっているんじゃない。
とすればやはり…戦闘不能にするか…。
あの鋼のような鱗に包まれた体をどうにか動けないほどまで破壊する…!
思い立ったらすぐさま行動。
今度はこちらから走り出す!
「ああああ!!」
獣のような叫び声とともに振るわれる大きな右手。
普通に当たれば容赦なく体を粉砕するような一撃だろう。
すぐさま体を捻り、上体を逸らして避けた。
一瞬、風がすり抜ける。
数本、黒い髪が散った。
既に切れている頬から赤い雫が散った。
「オラァ!!」
今度は拳ではなく肘。
空手における『燕飛』という技。
使いようによっては大の男でも小柄な女性にノックアウトされるぐらいの威力を持つ技。
それを彼女の鱗が生えていない右肩の部分へと打ち込んだ!
あくまで関節破壊を目的とした攻撃。
彼女の機動力を徹底的にそぎ落とす!
肩の骨を砕いてやる!
鱗のない鳩尾はそれなりに効いていたんだ、同じ鱗の生えていない部分なら効くはず!
両腕か両足さえ押さえられればこっちのもんだ!
だがその考えはすぐさま否定される。
肘から伝わってくる感覚によって。
「ぎっ!?」
今度はさっきよりかは硬度はなかったがそれでも伝わってくる硬いものへ打ち込んだ感覚。
まるでコンクリートの壁にでも燕飛を食らわせたかのような鈍い痛み。
嘘だろ…っ!?
さっきの鳩尾とはえらい違いだぞ!?
同じ鱗がない部分なのに…まさか骨がこんなに硬いとか言うのかよ!?
これじゃあ本当に手の打ちようがない!
そんなことを考えていたからであろう。
一瞬の気の迷い。
それがいけなかった。
振るわれるそれに気づくのが遅れた。
「!!」
オレの首を狙って横薙ぎに腕が振るわれる。
それに意識が行く前に体は動いていた。
長年培ってきた死の影から逃げるための防衛本能。
見るよりも逃げる。
受けるよりも避ける!
すぐさま後ろへ飛びのき、その脅威をかわす!が!
「っぐ!?」
左肩から赤い液体が噴き出した。
避け切ることはできなかった。
遅れて鋭い痛みが肩から全身へと広がる。
赤色が白いYシャツを染めていく。
「痛つ…。」
傷は浅くない。
だが深くもないようだ。
腕を動かしたら少しだけ痛みが走る程度。
これくらいならまだまだ余裕だ。
師匠のときと比べれば全然だ。
彼女に目を向ければこちらを見ていた。
否、睨んでいた。
その切れ長なつり目で。
獰猛な獣のように今にも刈り取らんとするその瞳で。
…涙を流しながらオレを睨んでいた。
自然に拳に力が入る。
死なないようにと力が入る。
彼女の殺戮衝動を受け止めようと力が漲る。
小さく息を吐き、彼女に向けた拳を強く握った。
彼女の体。
鱗は鋼のように硬くて拳撃は通用しないだろう。
鱗のない部分は骨のあるところ、つまり関節も同じ。強度は鱗ほどはないと思うが…それでも通用しない。
それならば…師匠から教わった『鎧通し』を…。
…ダメだ。あれはオレのようなまだまだ未熟な者が使っていい技じゃない。
使っても反動をもろに受けて再起不能になるのがオチだろう。
『鎧通し』ならあの鱗をも貫くと思っていたんだけどなぁ…。
だからといって万事休すというわけでもない。
打つ手は…まだある!
オレは彼女へ向かって駆け出そうと―
「…?」
足を止めた。
涙を流しながらオレをにらんでいる彼女の表情が変わったから。
表情というか…顔。
頬を膨らませていた。
駄々っ子がするような顔だが…そんな感じじゃない。
わずかに開いている唇の間から光が漏れていた。
…光?え?頬を膨らませて…光が漏れて…?
嫌な予感がした。
そしてその嫌な予感というのは大抵当たってしまうものだから…!
その予感はとてつもない熱とともに肯定された。
「ああああああああああああ!!」
野獣のような叫び声とともに放たれる灼熱の炎。
ゲーム内で何度か見たことがある火炎放射器なんか遠く及ばないであろう量の炎がオレへ向かって放たれた!
マジでか!?火吐いたぞ!!
ファンタジーゲームや物語の中では定番のブレス。
転がるようにしてその場を飛び退く。
無様に受身も取れずに転がって何とか炎から離れる。
体のすぐ横を今までに感じたことがない熱が過ぎ去った。
一瞬にして炎が消える。
オレがさっきまでいた位置を見ればそこは黒々と焦げていた。
焦げた臭いが辺りに充満する。
マジかよ…!?これはいくらなんでも反則だろ!
そう思っていても彼女は容赦してくれないだろう。
あの状態で手加減や容赦なんてものはできるはずがない。
だからこそ止まれない。
すぐさま立ち上がり、彼女を見た。
再び膨らむ頬。
さっきの炎がまた充填されているようだ…!
「くそっ!!」
オレは走り出す。
彼女に向かって全力で。
彼女との距離は10mもないがそれでもオレの攻撃は届かない。
だが逆に彼女の炎にとって射程範囲内。
だからこそ距離を詰め、オレの攻撃が有効になるまで近づく。
まだ手はあるんだから…!
「あああああああああああああああああ!!」
再び叫び声。
心の底から震わされるような嘆きの叫び。
それと同時に放たれた炎。
迫り来るは地獄の業火にも劣らないだろう死の焔。
一直線にオレへと向かってきたそれをオレは横へと走り出して避ける。
避けてもなお容赦なく熱気がオレの肌を撫でていく。
「熱っ!」
触れてもないのに焼かれるような感覚。
そんな炎を連発されたら洞窟内ごと焼けるんじゃないかと錯覚してしまうほど。
「ああああああああああああ!!」
彼女はさっきとは違い炎を吐き続ける!
その行動にオレは走り続ける。
彼女を中心に円を描くような形で。
彼女の周りを走り続け、徐々に距離を狭められるように。
後ろから迫る炎。
追ってくる死。
足を止めればオレはすぐさま丸焦げになる…!
だからこそ走り続けた。
これでも足のほうには自信がある。
あの師匠から逃げるために鍛えた足だ。
インターハイ出場の陸上選手には遠く及ばなくてもそれなりにはいける!
走りながらもオレは考えた。
彼女を止める方法を。
打破するためにはどうするかを。
今まで師匠を止めてきたんだ。
それなりの手はあるし、経験もある。
師匠から、師匠自身を止めるために叩き込まれた技もある。
『鎧通し』は…あれはただの興味から教えてもらった技だから…中途半端な技にしかならない。
反動も受ける分、一撃で仕留められないとダメだろう。
今の状況、使えはしない。
なら『死拳』は…。
…ダメだな。あれはあれでタメが少々長い。
それに何より彼女の体。
思った以上に硬いから体内まで打撃が届くかどうか…。
ダメだ、これも使えない。
だったら一度、防御技で受け止め―止めたところでオレの体が持たないのは明白だ。
一撃でも受け止めれば骨身が粉々になるのは火を見るよりも明らかなこと。
ならば柔道のような投げ技に絞め技は………オレ、空手しか知らないからなぁ…。
使い方がわからない。ダメじゃん、オレ…。
…とすると自然と手は限られる。
師匠から一番最初に叩き込まれた技。
奥義とも呼べる技。
徹底破壊を目的とした技だ。
あれなら彼女を止められるかもしれない。
止められるかもしれないが…彼女無事ですまないだろう。
でも―
「つっ!!」
炎がYシャツを焦がした。
一瞬だけとてつもない熱がオレの右肩を焼く。
炎は燃え移ってはこなかったが容赦なくオレの体に傷を残していった。
このまま迷っていれば先にオレが死ぬ。
それは明白だ。
それなら…!
腹を括ってオレは走りながらも体から余計な力を抜きにかかった。
彼女の周りを三週くらいしたところで。
炎は止まった。
「!よし!!」
どうやら一度に出せる炎の量には限界があるみたいだな!
これなら…!
すぐさま足を止め体から力を抜き、息を吐く。
筋肉を弛緩させ、緊張を一度だけ解く。
拳を握った両腕を前へ突き出すように構えた。
彼女との距離は直線で3mもない。
彼女へ向かって走り出せばすぐさまこの技を叩き込める。
彼女が動き、オレが迎え撃つか。
オレが動き、彼女を撃つか。
形容しがたい雰囲気がオレの体を包む。
死と隣り合わせの感覚が肌を刺激する。
頬から、左肩から雫が垂れた。
それが合図だったかのように、動き出す。
動いたのは彼女。
炎を吐くことはせずに、オレへと向かって飛び掛ってきた。
炎では避けられると踏んだのか、獰猛な爪がオレの命を刈りに来る!
だが、オレもただ刈られはしない。
彼女を止めるために、オレも動く。
飛び掛ってくるのに対して、姿勢を低くし、懐へ潜り込むように!
振るわれる爪。
裂かれるYシャツ。
飛び散る鮮血。
伝わる痛み。
弾ける汗。
駆け抜ける風。
彼女の爪はオレの脇腹を掠めた。
掠めただけであまりひどいダメージにはなっていない。
刀で切られたような傷から赤い液体が噴き出した。
それと同時に彼女へと触れる二つの拳。
右は胸から少し上へ。
左は胸から少し下へ。
一ミリの隙間もなく彼女に触れた。
一瞬。
オレの脱力した全身の筋肉が躍動する。
その躍動はたった一瞬だけだけど、とてつもない力を生んだ。
短距離走のスタートダッシュの一瞬はとてつもない力でスタートする。
野球でもサッカーでも一瞬だけとてつもない力でボールを打ち、蹴る。
それと同じように。
オレは拳にとてつもない力を生じさせる。
ゼロ距離からの殴撃。
それは相手に外傷を与えることを目的とした攻撃。
相手の体外からの破壊を目的とした打撃。
体中の筋肉を脱力し、リラックスさせて一瞬だけとてつもない力を生み出し、叩きつける。
昔より受け継がれてきた伝統ある奥義 『鎧通し』
それはどんな防御も意味をなさない衝撃を生み出す技。
剛になき、柔の技。
それに対して。
この技は柔なき、剛の技。
師匠が自分自身を止めて欲しくて作り上げた、師匠オリジナルの技。
相手の体を外から加えた力によって破壊するという極意。
徹底的なまでに力任せな暴力の拳。
硬い防御だろうが硬い肉体だろうが容赦なく破壊する奥義。
『砕』
―轟音とともに力が爆発した―
「!!!?」
吹き飛ぶ彼女の体。
遅れて体に伝わってくる反動。
しっかりと両足を踏ん張って耐え抜く。
決まった…。
師匠から叩き込まれた奥義。
食らえば体内の骨を容赦なく砕いていく技。
いくら彼女が人外といえ無事じゃすまないだろう。
常人ならばとてつもない痛みであばら骨が何本折れることか…。
オレ自身師匠にこの技を教えるために撃たれたときにはあばら骨を5本ほど折られた。
…容赦してくれないんだもんな、あの人。
それでも習っておいてよかった。
完璧に習得しておいて幸いした。
これで彼女も動けないはず。
それなら殺戮衝動もどうしようもないはず。
師匠を止めたときと同じように、彼女もまた動けない体ではオレを殺すことはできない。
つまり―
「…終わった。」
小さく呟いた。
体中から力が抜ける。
緊張が解かれ、気が抜けた。
その場にしゃがみこむオレ。
どうにかなったな…。
最初は双子の姉を守りたいなんて気持ちから始めたこの空手が。
いつの間にか師匠の殺戮衝動を抑えるために頑張っていて。
そして、こんなところで見ず知らずの人ではない女性のために戦って。
まったく…人生何があるかわかったもんじゃないな。
心の中で苦笑した。
そういや、彼女はどうなった?
あの技をくらった後は気絶するか、とんでもない痛みに悶絶するかのどちらかだ。
それじゃあ…?
オレは彼女を吹っ飛ばした方へ視線を向けた。
―彼女はいなかった。
「…は?」
吹き飛ばし、地面を転がって倒れたであろう場所には何もない。
地面を擦ったような跡しか残っていない。
え?何で?それじゃ…彼女はいったいどこへ?
そう考えたそのとき、感じた。
あの嫌な感覚を。
体温が自然と絶対零度まで下げられるような感覚を。
死の感覚を…!
「!!?」
反応が遅れる。
全身から気を抜いてリラックスしていたところだったから、体が反応できなかった。
遅れて、衝撃。
あばら骨あたりに強い打撃。
まるで丸太を振るわれたかのように脇に何かがめり込んだ。
そして、吹っ飛ばされる体。
体にワイヤーで吊られているんじゃないかと思うほどオレの体は宙を舞った。
地面に引き寄せられる感覚が一瞬にして消え失せた。
消え失せそして、遅れて重力が働く。
オレの体を引き寄せる。
体は強く地面に打ち付けられ、肺の中の空気が全て吐き出される。
「ぐっあ、っっっ!!」
体中を駆け巡る激痛。
懐かしき熱を帯びた、骨折の痛み。
久しきあばら骨を折られる感覚。
それに体内。
臓器がすべて吹き飛ばされたんじゃないかというほどの痛み。
嘔吐感はしない。ただ、苦しい。
そのどれもがあの時の感覚に似ていた。
師匠に殺されかけたあの時の感覚に。
初めて死を感じたあのときと。
「ぁ…あぁ…っ!」
声が上手く出ない。
あばら骨は確実に折られた。
最悪、臓器まで傷ついているかもしれない。
呼吸も乱された。
動けないし、体に自由が利かない。
首を動かしさっきまでオレがいたところを見れば―いた。
彼女の姿。
人外の姿がそこで立っていた。
ゆらゆらと揺れる尻尾が目立つ。
そうか…丸太みたいだと感じたのはあれか…。
尻尾の一撃であばら骨を折られ、さらにこんなに吹っ飛ばされた。
本当に…とんでもないな。
あの様子を見るからにオレが放った『砕』はたいしたダメージを与えてはくれなかったようだ。
くそ…手ごたえはあったんだけどな。
師匠でさえ当てられれば止められる技だから…自信はあったのにな…。
さすがに人外相手は考えてないか…。
当たったところも鱗の上からだったし。
まったく…これじゃあ本当に万事休すだ。
終わったのはオレの方だし…。
打つ手は、なくなった。
抗う術も消えうせた。
もう、終わりだ…。
体から力を抜き、力なく倒れ伏す。
まったく何やってんだよオレは…。
あんな奴の殺戮衝動を止めようと頑張っちゃって。
師匠とは違う、人外の存在なのに。
できないことだってどこかで理解してたのに。
本当に、馬鹿だな。
心の中で苦笑した。
動けない。
いや、動こうと思えば少し走ったりすることとか、一撃くらいなら見舞いできるぐらいには動ける。
だが、その意味ももうない。
彼女の症状。
勝てないし、受け止め切れない。
オレはこのまま、死ぬ。
あの爪で切り刻まれるか、それとも炎で焼かれるか。
どちらにしろ、死ぬ。
あの症状はそういうものなんだから。
誰かを傷つけて、殺してしまう症状なんだから。
あーあ…死ぬわな…。
どこかの漫画みたいに仲間が駆けつけてくれたりしないかなー。
こんな人外が存在している世界に来た時点でその期待はできないけど。
それならオレがパワーアップして…なんてのも無理か。
オレはただの人間。
姉の尻に敷かれる便利な弟。
日々師匠にぼこぼこにされて強くなった門下生。
退屈な授業を受けるただの高校生なんだから…。
さっきよりも強く感じられる死の感覚。
不思議と抵抗しようとは思えなかった。
それどころか静かに受け入れる準備ができていた。
命乞いする気も、抵抗する気も、逃げようとする気も、恐怖に震える気も、ない。
彼女は動き出した。
頬を膨らませ、口内に炎を充填させる。
そして吐き出す。
オレへ向かってではない。
上へ、天井へ向かって。
吐かれた炎は形を形成していく。
徐々に大きく、少しずつ丸くなる。
1分もかからずに形成されたそれ。
炎の球体であり、光を放つそれ。
狭い洞窟内で神々しく燃え盛るそれ。
―それはまるで太陽に思えた。
どうやら彼女はオレを焼死させる気らしい。
塵も残さず一撃で消すほうがお好みのタイプか。
それはそれでいいか。
日本人として火葬で死ぬのならそれはそれで日本人らしいし。
あんな太陽みたいなものに包まれるならどこかで野たれ死ぬよりかはよっぽど自慢できる。
そんじゃ、オサラバだ、愛しの家族。
あばよ、親しき友人達。
それと、じーちゃん、ばーちゃん。貴方達の孫がすぐに行くから…。
オレはそっと目を閉じる。
あの燃え盛る炎で焼き尽くされる覚悟を決め―
―燃え盛る?え?
目を開けた。
彼女はいまだに炎を放たずにオレを見ている。
上にあの太陽のような炎を作り上げたままで。
ちょっと待て。
こんな洞窟内であんな炎の塊。
こんな密封された空間であんな燃え盛るものがあったら…!!
嫌な予感。
そしてそれはやはり的中した。
だが今回は少々良いほうへ傾いて。
密封、炎、空気。
高校生までの知識ならこれらの言葉で何が起こるか、いったいどうなるかすぐに思いつく。
口から吐くなんて現実離れしたその行為でも炎の性質は変わらないはず。
それなら、炎によって空気中の酸素は激減。
換気するにもここは密封された洞窟内。
つまり、ここは今とても酸欠を起こしやすくなっている!
やばい!だが、それはオレだけではない。
彼女にとっても同じ。
いくら人外であれ生物。
生きている以上酸素を必要とするのは当然。
そして、彼女はそれを起こす。
「…ぁ…ぁあ…!?」
彼女の上に存在していた炎の塊が砕けた。
四散する炎。飛び散る火の粉。
炎は散ってもなお燃え続ける。
熱を放出し、酸素を減らしていく…!
その炎の中心で彼女は右膝を付いた。
体に酸素が回りにくくなっているこの状況。
息は荒くなり、脈も増える。そして起こるは頭痛。
そんな症状が起きている中で平然と立っていられるわけもなく彼女は膝を付いた。
オレを一瞬で焼き殺そうとして作り上げたあの炎の塊が仇となった。
だがそれは。
逆に言えば、オレにとってはチャンスである。
おそらくこれが最後のチャンス。
外せば死は確実。
当たれば彼女を止められて、なおかつオレも生き抜けるかもしれない。
いまだに激痛の走る体に鞭打って立ち上がり、走り出す。
そんなに早くはないけども、それでも彼女との距離を詰めていく。
最後の攻撃を。
最後の一撃を叩き込むために。
彼女は反応しない。
いや、体が反応できない。
酸欠で意識が朦朧としてきているようだ。
彼女の意識がこちらに向く前に、撃つ!
片膝付いた彼女の前までたどり着いたオレは弱弱しくもそれを放った。
最後の一撃を放った。
下から上へ。
アッパーカットのように、一直線に。
拳ではない、手のひらを使った攻撃。
『掌底』
奥義でもなんでもない基礎の技。
拳で殴るよりもリーチは短く使い辛い技。
外傷や過度の傷を与えられない空手の技。
それを彼女の顎へ向けて放った。
力が弾ける。
弱弱しくても、確実に。
遅くても、より深く。
その力は彼女の脳を揺らした。
脳だ。生物的に見て心臓と同じくらいに大事な部位。
その脳へと力は及んだ。
顎へ向かって掌底を放つという行為はかなり危険なこと。
掌底は単純に拳で殴るよりも威力は大きし、何より。
脳を揺らして脳震盪を起こさせやすい…!
相手の意識を絶ちやすい攻撃だ。
だが、これは結構撃つのが難しい。
上手く撃てないとただの張り手と変わらない。
だが、上手く撃てれば。
相手の動きが止まるなどしてくれれば―
―彼女は静かに倒れた。
意識を絶てたみたいだ。
今度こそ…やった。
いくら人外といえど脳を揺らされちゃどうしようもならないだろう。
その読みは当たってくれていた。
ボロボロの体で。
ギリギリの力で。
オレはようやく彼女を止められた。
やった…。
そう思って倒れこもうとしたが踏みとどまる。
こんないまだに炎が燃える洞窟内で倒れれば酸欠で死ぬのは確実。
早いとこ逃げ出さないと。
すぐさま脱ぎ捨てた学ランを拾ってオレが入ってきたこの空間唯一の出口へと向かった。
向かう途中、彼女の姿が目に入る。
オレを殺しにかかってきたその存在を確認する。
「……ちっ。」
頬を切られて。
左肩を切られて。
右肩を焼かれて。
脇腹を掠められて。
あばら骨を何本か折られたというのに。
オレはひんやりとした空気が漂う洞窟内を歩いていた。
いまだに激痛は引きそうにもない。
そんな体でゆっくり歩く。
背中には勿論人外の存在を乗せて。
オレを殺そうとした女性を乗せて。
まったく…何やってるんだか。
本当なら自分を殺そうとした相手なんか放っておきたいところなのに。
…でも。
助けてやるって決めたしな。
最後まで受け止めてやるって決めたしな。
オレはゆっくりと歩き続ける。
一歩一歩がふらつく。
どうやらオレも少しばかり酸欠になっているようだ。
あーやべ、意識が朦朧とするわ…。
気を抜いたら今にも倒れるなこれは。
背中には彼女。
穏やかな顔で小さく呼吸をしていた。
さっきの空間とは違い今いるここでは酸素が十分にある。
彼女にとってもオレにとっても酸欠で死ぬ危険性は消え失せたということだ。
まったく…気持ちよさそうにしやがって。
激痛の走る体を震える足で何とか支えて進む。
とりあえずこの洞窟から出よう。
洞窟から出て、できれば川を見つけて、傷を冷やしたい。
そこからここがいったいどんなところなのかを確認して…
気がついたらオレは草原のようなところにいた。
月明かりが優しく照らし、冷たい夜風が頬を撫でる。
どうにか出られたな…。
背中に居る彼女を草の上に降ろして寝かせる。
寝かせた彼女を見てみると…やっぱり美人なんだよな。
戦ってたからあんまり気がつかなかったけどスタイルも良いし。
身長はオレよりも高いし、足もすらりとして長いし、胸なんか西瓜みたいに大きいし…。
艶やかで長いアジサイのような色の髪。その間から生える角。
一つ一つが輝いていて宝石のような鱗。
人ではない部分があるにもかかわらず美しい。
いや、むしろそのアンバランスさが美しさを引き立ててる。
人外といえここまでの美貌を持っているなんて驚きだ。
まさしく絶世の美女。
悲しそうに泣いていなけりゃもっと綺麗に映ったのに。
オレは彼女の頬をそっと撫でた。
柔らかい頬。人のように温かな肌。
骨も鱗も無茶苦茶硬いのにこの柔らかさは不思議だな。
涙の跡が目立つ美しい顔。
ずっと泣き続けていたんだろう…。
指でその跡をなぞり、手を離した。
苦しかったんだろうな…。
師匠もこんな感じで泣いてたし。
理不尽に怒ったかと思えば涙したし。
本当に辛そうな顔で泣いていたし。
小さくため息をつき、立ち上がった。
とりあえず水だ。
近くに水がないか見てこよう。
傷を洗いたいし、Yシャツが血で染まってなんか気持ち悪い。
それに彼女が目を覚ましたときにもしも症状が治まっていなければ再び戦闘になるのは確実。
できる限りの体力回復もしたい。
でも、次に来られればオレは確実に死ぬだろうけど。
とにかく水だ。
オレは歩き出そうとして足を止めた。
…一人残していくのも危ないな。
人外といえ女性。女性に対してぞんざいな対応はいただけないし…。
とにかく夜風で体を冷やすのはダメだな。
そう思い学ランを彼女の体に掛けようとして―
―彼女が目を開けた。
「っ!」
手が止まる。
血よりも赤く炎よりも鮮やかな瞳がオレを捉えた。
その瞳からはオレを刈ろうとしている気配を読めない。
殺しに来るかわからない。
オレは何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
夜風が吹きつける中で静寂がオレと彼女を包む。
月明かりの下。
その静寂を破ったのは彼女のほうだった。
「貴様は、何なんだ…。」
オレを見据えて、静かに言った。
静かに聴くととても美しく思えるその声で。
体は動かさず、オレを殺しにかかる様子もなく。
ただ赤く綺麗な瞳がオレを射抜くように捉えながら。
「逃げろと言ったはずだ…来るなと言ったはずだ…。なのに、何で貴様は近づいてきた…?」
オレは何も言わない。
どうやら彼女の症状は止めきれたようだ。
「私は…貴様を殺しにかかったのに…何で逃げなかった…?あの状況なら、貴様のような者なら…逃げ切ろうと思えば逃げ切れたのではないか…?」
何も、答えない。
指ひとつも動かさず。
「貴様は…いったい何なのだ…?」
どこまで言われてオレはようやく口を開いた。
静かに、言った。
「知らねーよ、そんなこと。」
平坦な口調で何もないように言う。
「何だそれは…。答えになってないぞ。」
「仕方ないだろ。これ以外に答えようがないんだから。」
以前にも似た問答をした。
師匠に殺されかけた後に。
傷が治って、道場へ行ったときに。
師匠にも聞かれた。
「やりたい様にやっただけ。ただそれだけなんだから。」
「やりたいだけに…殺されに来るのか。貴様は自殺志願者か?」
「違うって。」
まんま師匠に言われたことだった。
『自殺志願者』か…なんて、そんなもの志願したくもないって言うのに。
「目の前で泣いてる女性を放っておけるかよ。」
今まで散々姉の尻に敷かれてきてるんだ。
女性に対してぞんざいな扱いなんてできやしない。
フェミニストなんだよ、オレは。
「…何なのだ、貴様は…。」
「………黒崎ゆうた。」
オレは自分の名前を言った。
「何なんだ、なんて聞かれていえること言えばこれくらいだ。だからそれくらいで勘弁してくれよ。」
「黒崎…ユウタ…。」
彼女は呟く。
オレの顔を見て。
そっと、静かに。
「ユウタ…か。そうか…。なら、ユウタ。ひとつ頼みごとを聞いてはくれないか?この私の、崇高で誇り高きドラゴンからの、頼みを。」
ドラゴン。
彼女はそう言った。
やっぱりドラゴンだったのか。
オレはそんな常識外れを止めようと頑張ったのか。
頑張ったな、オレ!
伝説に劣らない凛々しさと強さを兼ね備えた女性はオレに向かって言う。
「私から離れてくれ。ずっと遠くに行ってくれ。」
「…。」
「私が貴様を傷つけぬように。私の爪が届かぬところまで。私の炎が貴様を焼かずにすむまでずっと遠くに…。」
静かな声。だが悲しみに溢れていた。
それと同時に、オレの身を案じる彼女の優しさも溢れていた。
「私を止めようとしてくれた貴様を…私は傷つけたくない…。」
「…。」
「これから先私は同じように繰り返す。また、誰かを傷つけたくてたまらなくなる。本能的に、体が勝手にな…。」
「…。」
「だから…離れてくれ。私はただ、人気がないところで朽ち果てたい。」
「…。」
「もう、誰も傷つけないように、死にたいんだ。」
「…馬鹿が。」
オレは彼女の頭を拳で小突く。
弱い力だけど少し痛みを感じる程度に。
彼女はドラゴンだからこれくらいで痛みなんて感じないだろうけど。
だけど、彼女は驚いた表情をした。
目を見開いてオレを見た。
「何言ってるんだよ。そんなことしたらアンタはずっと一人だろーが。」
赤い瞳を黒い瞳で見つめて。
彼女のその驚いた表情を見据えて言う。
「そんな姿、見てられない。その症状を知っておきながらオレだけ安全なところでのうのうとしてられるかよ。まったく。」
立ち上がり、彼女を見た。
彼女もオレに釣られてゆっくりと立ち上がる。
どうやら体のどこも傷めた様子はなさそうだ。
やはりあの鱗はオレの『砕』をものともしなかった。
オレの最大威力の技が…凹むな…。
月明かりに照らされる向かい合った二つの影。
片方は誇り高きドラゴン。
もう片方は何の変哲もない人間。
夜風にたなびく薄紫の長髪。
滴る赤い液体。
それは切り取れば絵になるような情景だった。
「…だから。」
オレは両手を広げた。
彼女の症状を最後まで受けきるために。
彼女の全てを抱きとめるように。
勝手に彼女の症状を受け止めようと決めたけど。
一度決めた以上、オレは最後までやりきる。
彼女のその悲しい表情を見ないためにも。
師匠みたく深い孤独の中に置き去りにしないためにも。
彼女に向かって言った。
「来いよ。全部、受け止めてやる…。」
黒崎ゆうた VS ドラゴン
第二戦 開始
冗談じゃなく、本当に。
その一番最初はあの日。
忘れもしないあの夜。
師匠からようやく黒帯をもらい、初段へとなったあの日の夜。
オレはもらった黒帯を腰に締め意気揚々として帰り道を歩いていた。
だが、初段になれたことによる嬉しさから今まで締めていた帯のほうを道場に忘れてしまっていた。
それに気づきすぐさま道を引き返す。
そして道場に着いた。
師匠の下には数十人の門下生がいる。
その門下生は全員がすでに帰宅しているようだったが道場にはまだ明かりが灯っていた。
師匠がまだいる。
そう思い道場の扉を開けたオレの目に飛び込んできたのは師匠の姿。
オレに背を向けて正座する師匠の後姿だった。
どことなく体を震わせて。
「師匠…?」そう呼ぼうとしたがその姿に躊躇い、声が出なかった。
だが物音を立ててしまい、師匠はオレのほうを振り向いた。
体を捻って、こちらを見た。
師匠の顔がオレの瞳に映る。
それは一生かけても忘れられそうにない。
普段ニコニコしている師匠からは想像できそうもないほどのものを感じさせられる表情。
それは恐怖。
今に思えば初めて心の底からの恐怖を、死の予感を感じたときだった。
そこからはよく覚えていない。
師匠の拳がオレの体にめり込む感覚と、何かが折れるような小気味良い音が体内に響いたのは覚えている。
異常なほど重かった自分の体。
異質なほどに感じられた死の気配。
それと師匠の顔。
恐怖を感じさせられてたあの顔からは雫が垂れていたのをよく覚えている。
師匠は泣いていた。
泣いてオレを殺そうとした。
それを今でも昨日のように思い出せる。
そこからはオレは必死に動いた。
激痛の走る体で近くにあった花瓶を引っつかんで師匠の頭にぶつけて。
そうして師匠をなんとか気絶させて。
オレは何とか事なきを得た。
「…はっ。」
嫌なものを思い出した。
あの何度も死の淵に立たされる感覚を。
十八歳になるまでに体験するようなことじゃないことを。
あの時の怪我はひどかった。
全治三ヶ月なんてドラマとかだけの話だと思っていたがまさか自分が経験するとは…。
あれは嫌な体験だったな。
入院生活面白くもないし。
専属ナースは…その…………だったし。
そして何より師匠のあの表情。
二度と思い出したくもないな。
それを…今目の前で彼女がしている。
その表情を浮かべている。
本当に嫌なもんだ。
見ているだけで悲しくなるその表情が。
本当に嫌だ。
だから…。
「来いよ…!」
師匠と同じように。
そのとてつもない殺戮衝動を受け止める!
一瞬の気の迷いが大惨事へ。
一瞬の判断が大怪我へ繋がる。
最悪、死。
それでも…やってやる。
死と隣り合わせの感覚はいまだに怖いが、もう何度も経験してきた…!
「……ぁあっ!!」
先に動いたのは彼女のほうだった。
大きな翼を広げてオレへと飛んで向かってくる。
とてつもない速度でオレへ突っ込んでくる。
例えるなら高速道路で対向車が向かってくるようなとてつもないスピードを感じるあの感覚。
一直線にオレへ飛んでくる死の予感。
一瞬でオレと彼女の距離は埋められた。
振るわれる鱗の生えた腕。
命を刈り取ろうとする爪。
だがその動きはあまりにも直線。
本能に任せたままの動きはあまりにも単調。
故によく見ていれば避けられる動きだった。
オレはすぐさましゃがみ込み、その脅威を回避。
そしてすぐさま攻撃へと移る!
「らぁ!!」
足に力を込めて弾けたように飛び出す。
拳を引き、勢いを活かして彼女の腹へと打ち込んだ!
鳩尾へ一撃。
一瞬彼女の動きが止まる。
「そこだぁ!」
止まった体、止まる腕。
彼女の鱗の生えた右腕を引っつかみ、肘の部分へとさらに一撃打ち込む。
関節破壊の攻撃。
人ではない部位に、人には生えない鱗の上から肘の関節を砕く!が!
「っ!!?」
砕けなかった。
拳から伝わるのはまるで鋼を殴ったかのような感覚。
鈍い痛みが拳を伝わった。
拳が砕けたと錯覚してしまうほどの痛み。
硬いなんてもんじゃない、異常なほどに硬すぎる…!
こんなに硬いんじゃ拳による殴撃は大してダメージにはならないか。
それじゃあオレの大半の技が通用しないじゃん…。
…マジかよ。
すぐさまその場を飛び退き彼女と距離をとる。
距離をとって、彼女を見据える。
これは本当にまずいな…。
あの症状を止めるには戦闘不能にするか、はたまたその殺戮衝動が尽きるまで付き合い続けるか、それとも意識を絶つか。
一種のストレスからなる症状なんだ。長く運動していればそのストレスだって解消できる。
ただ…殺戮までいくストレスなのだから一時間や二時間じゃ収まるものじゃない。
半日以上。3日以内とでもいうほどの長さだ。
そこまで付き合った経験はさすがにないし、そんなに長時間戦い続けられるわけがない。
だったら気絶させればいい、なんて考えもあるがあれはあれで危険だ。
起きたときに殺戮衝動が尽きてなければまた暴れだす可能性は否定できない。
そしてもうひとつ、止める方法がある。
目には目を、歯には歯を。
殺戮には殺戮を持って対処せよ。
その症状持ちである者を、殺す。
最悪な方法だ。
そんなこと、する気はない。オレは彼女を殺すためにここに留まっているんじゃない。
とすればやはり…戦闘不能にするか…。
あの鋼のような鱗に包まれた体をどうにか動けないほどまで破壊する…!
思い立ったらすぐさま行動。
今度はこちらから走り出す!
「ああああ!!」
獣のような叫び声とともに振るわれる大きな右手。
普通に当たれば容赦なく体を粉砕するような一撃だろう。
すぐさま体を捻り、上体を逸らして避けた。
一瞬、風がすり抜ける。
数本、黒い髪が散った。
既に切れている頬から赤い雫が散った。
「オラァ!!」
今度は拳ではなく肘。
空手における『燕飛』という技。
使いようによっては大の男でも小柄な女性にノックアウトされるぐらいの威力を持つ技。
それを彼女の鱗が生えていない右肩の部分へと打ち込んだ!
あくまで関節破壊を目的とした攻撃。
彼女の機動力を徹底的にそぎ落とす!
肩の骨を砕いてやる!
鱗のない鳩尾はそれなりに効いていたんだ、同じ鱗の生えていない部分なら効くはず!
両腕か両足さえ押さえられればこっちのもんだ!
だがその考えはすぐさま否定される。
肘から伝わってくる感覚によって。
「ぎっ!?」
今度はさっきよりかは硬度はなかったがそれでも伝わってくる硬いものへ打ち込んだ感覚。
まるでコンクリートの壁にでも燕飛を食らわせたかのような鈍い痛み。
嘘だろ…っ!?
さっきの鳩尾とはえらい違いだぞ!?
同じ鱗がない部分なのに…まさか骨がこんなに硬いとか言うのかよ!?
これじゃあ本当に手の打ちようがない!
そんなことを考えていたからであろう。
一瞬の気の迷い。
それがいけなかった。
振るわれるそれに気づくのが遅れた。
「!!」
オレの首を狙って横薙ぎに腕が振るわれる。
それに意識が行く前に体は動いていた。
長年培ってきた死の影から逃げるための防衛本能。
見るよりも逃げる。
受けるよりも避ける!
すぐさま後ろへ飛びのき、その脅威をかわす!が!
「っぐ!?」
左肩から赤い液体が噴き出した。
避け切ることはできなかった。
遅れて鋭い痛みが肩から全身へと広がる。
赤色が白いYシャツを染めていく。
「痛つ…。」
傷は浅くない。
だが深くもないようだ。
腕を動かしたら少しだけ痛みが走る程度。
これくらいならまだまだ余裕だ。
師匠のときと比べれば全然だ。
彼女に目を向ければこちらを見ていた。
否、睨んでいた。
その切れ長なつり目で。
獰猛な獣のように今にも刈り取らんとするその瞳で。
…涙を流しながらオレを睨んでいた。
自然に拳に力が入る。
死なないようにと力が入る。
彼女の殺戮衝動を受け止めようと力が漲る。
小さく息を吐き、彼女に向けた拳を強く握った。
彼女の体。
鱗は鋼のように硬くて拳撃は通用しないだろう。
鱗のない部分は骨のあるところ、つまり関節も同じ。強度は鱗ほどはないと思うが…それでも通用しない。
それならば…師匠から教わった『鎧通し』を…。
…ダメだ。あれはオレのようなまだまだ未熟な者が使っていい技じゃない。
使っても反動をもろに受けて再起不能になるのがオチだろう。
『鎧通し』ならあの鱗をも貫くと思っていたんだけどなぁ…。
だからといって万事休すというわけでもない。
打つ手は…まだある!
オレは彼女へ向かって駆け出そうと―
「…?」
足を止めた。
涙を流しながらオレをにらんでいる彼女の表情が変わったから。
表情というか…顔。
頬を膨らませていた。
駄々っ子がするような顔だが…そんな感じじゃない。
わずかに開いている唇の間から光が漏れていた。
…光?え?頬を膨らませて…光が漏れて…?
嫌な予感がした。
そしてその嫌な予感というのは大抵当たってしまうものだから…!
その予感はとてつもない熱とともに肯定された。
「ああああああああああああ!!」
野獣のような叫び声とともに放たれる灼熱の炎。
ゲーム内で何度か見たことがある火炎放射器なんか遠く及ばないであろう量の炎がオレへ向かって放たれた!
マジでか!?火吐いたぞ!!
ファンタジーゲームや物語の中では定番のブレス。
転がるようにしてその場を飛び退く。
無様に受身も取れずに転がって何とか炎から離れる。
体のすぐ横を今までに感じたことがない熱が過ぎ去った。
一瞬にして炎が消える。
オレがさっきまでいた位置を見ればそこは黒々と焦げていた。
焦げた臭いが辺りに充満する。
マジかよ…!?これはいくらなんでも反則だろ!
そう思っていても彼女は容赦してくれないだろう。
あの状態で手加減や容赦なんてものはできるはずがない。
だからこそ止まれない。
すぐさま立ち上がり、彼女を見た。
再び膨らむ頬。
さっきの炎がまた充填されているようだ…!
「くそっ!!」
オレは走り出す。
彼女に向かって全力で。
彼女との距離は10mもないがそれでもオレの攻撃は届かない。
だが逆に彼女の炎にとって射程範囲内。
だからこそ距離を詰め、オレの攻撃が有効になるまで近づく。
まだ手はあるんだから…!
「あああああああああああああああああ!!」
再び叫び声。
心の底から震わされるような嘆きの叫び。
それと同時に放たれた炎。
迫り来るは地獄の業火にも劣らないだろう死の焔。
一直線にオレへと向かってきたそれをオレは横へと走り出して避ける。
避けてもなお容赦なく熱気がオレの肌を撫でていく。
「熱っ!」
触れてもないのに焼かれるような感覚。
そんな炎を連発されたら洞窟内ごと焼けるんじゃないかと錯覚してしまうほど。
「ああああああああああああ!!」
彼女はさっきとは違い炎を吐き続ける!
その行動にオレは走り続ける。
彼女を中心に円を描くような形で。
彼女の周りを走り続け、徐々に距離を狭められるように。
後ろから迫る炎。
追ってくる死。
足を止めればオレはすぐさま丸焦げになる…!
だからこそ走り続けた。
これでも足のほうには自信がある。
あの師匠から逃げるために鍛えた足だ。
インターハイ出場の陸上選手には遠く及ばなくてもそれなりにはいける!
走りながらもオレは考えた。
彼女を止める方法を。
打破するためにはどうするかを。
今まで師匠を止めてきたんだ。
それなりの手はあるし、経験もある。
師匠から、師匠自身を止めるために叩き込まれた技もある。
『鎧通し』は…あれはただの興味から教えてもらった技だから…中途半端な技にしかならない。
反動も受ける分、一撃で仕留められないとダメだろう。
今の状況、使えはしない。
なら『死拳』は…。
…ダメだな。あれはあれでタメが少々長い。
それに何より彼女の体。
思った以上に硬いから体内まで打撃が届くかどうか…。
ダメだ、これも使えない。
だったら一度、防御技で受け止め―止めたところでオレの体が持たないのは明白だ。
一撃でも受け止めれば骨身が粉々になるのは火を見るよりも明らかなこと。
ならば柔道のような投げ技に絞め技は………オレ、空手しか知らないからなぁ…。
使い方がわからない。ダメじゃん、オレ…。
…とすると自然と手は限られる。
師匠から一番最初に叩き込まれた技。
奥義とも呼べる技。
徹底破壊を目的とした技だ。
あれなら彼女を止められるかもしれない。
止められるかもしれないが…彼女無事ですまないだろう。
でも―
「つっ!!」
炎がYシャツを焦がした。
一瞬だけとてつもない熱がオレの右肩を焼く。
炎は燃え移ってはこなかったが容赦なくオレの体に傷を残していった。
このまま迷っていれば先にオレが死ぬ。
それは明白だ。
それなら…!
腹を括ってオレは走りながらも体から余計な力を抜きにかかった。
彼女の周りを三週くらいしたところで。
炎は止まった。
「!よし!!」
どうやら一度に出せる炎の量には限界があるみたいだな!
これなら…!
すぐさま足を止め体から力を抜き、息を吐く。
筋肉を弛緩させ、緊張を一度だけ解く。
拳を握った両腕を前へ突き出すように構えた。
彼女との距離は直線で3mもない。
彼女へ向かって走り出せばすぐさまこの技を叩き込める。
彼女が動き、オレが迎え撃つか。
オレが動き、彼女を撃つか。
形容しがたい雰囲気がオレの体を包む。
死と隣り合わせの感覚が肌を刺激する。
頬から、左肩から雫が垂れた。
それが合図だったかのように、動き出す。
動いたのは彼女。
炎を吐くことはせずに、オレへと向かって飛び掛ってきた。
炎では避けられると踏んだのか、獰猛な爪がオレの命を刈りに来る!
だが、オレもただ刈られはしない。
彼女を止めるために、オレも動く。
飛び掛ってくるのに対して、姿勢を低くし、懐へ潜り込むように!
振るわれる爪。
裂かれるYシャツ。
飛び散る鮮血。
伝わる痛み。
弾ける汗。
駆け抜ける風。
彼女の爪はオレの脇腹を掠めた。
掠めただけであまりひどいダメージにはなっていない。
刀で切られたような傷から赤い液体が噴き出した。
それと同時に彼女へと触れる二つの拳。
右は胸から少し上へ。
左は胸から少し下へ。
一ミリの隙間もなく彼女に触れた。
一瞬。
オレの脱力した全身の筋肉が躍動する。
その躍動はたった一瞬だけだけど、とてつもない力を生んだ。
短距離走のスタートダッシュの一瞬はとてつもない力でスタートする。
野球でもサッカーでも一瞬だけとてつもない力でボールを打ち、蹴る。
それと同じように。
オレは拳にとてつもない力を生じさせる。
ゼロ距離からの殴撃。
それは相手に外傷を与えることを目的とした攻撃。
相手の体外からの破壊を目的とした打撃。
体中の筋肉を脱力し、リラックスさせて一瞬だけとてつもない力を生み出し、叩きつける。
昔より受け継がれてきた伝統ある奥義 『鎧通し』
それはどんな防御も意味をなさない衝撃を生み出す技。
剛になき、柔の技。
それに対して。
この技は柔なき、剛の技。
師匠が自分自身を止めて欲しくて作り上げた、師匠オリジナルの技。
相手の体を外から加えた力によって破壊するという極意。
徹底的なまでに力任せな暴力の拳。
硬い防御だろうが硬い肉体だろうが容赦なく破壊する奥義。
『砕』
―轟音とともに力が爆発した―
「!!!?」
吹き飛ぶ彼女の体。
遅れて体に伝わってくる反動。
しっかりと両足を踏ん張って耐え抜く。
決まった…。
師匠から叩き込まれた奥義。
食らえば体内の骨を容赦なく砕いていく技。
いくら彼女が人外といえ無事じゃすまないだろう。
常人ならばとてつもない痛みであばら骨が何本折れることか…。
オレ自身師匠にこの技を教えるために撃たれたときにはあばら骨を5本ほど折られた。
…容赦してくれないんだもんな、あの人。
それでも習っておいてよかった。
完璧に習得しておいて幸いした。
これで彼女も動けないはず。
それなら殺戮衝動もどうしようもないはず。
師匠を止めたときと同じように、彼女もまた動けない体ではオレを殺すことはできない。
つまり―
「…終わった。」
小さく呟いた。
体中から力が抜ける。
緊張が解かれ、気が抜けた。
その場にしゃがみこむオレ。
どうにかなったな…。
最初は双子の姉を守りたいなんて気持ちから始めたこの空手が。
いつの間にか師匠の殺戮衝動を抑えるために頑張っていて。
そして、こんなところで見ず知らずの人ではない女性のために戦って。
まったく…人生何があるかわかったもんじゃないな。
心の中で苦笑した。
そういや、彼女はどうなった?
あの技をくらった後は気絶するか、とんでもない痛みに悶絶するかのどちらかだ。
それじゃあ…?
オレは彼女を吹っ飛ばした方へ視線を向けた。
―彼女はいなかった。
「…は?」
吹き飛ばし、地面を転がって倒れたであろう場所には何もない。
地面を擦ったような跡しか残っていない。
え?何で?それじゃ…彼女はいったいどこへ?
そう考えたそのとき、感じた。
あの嫌な感覚を。
体温が自然と絶対零度まで下げられるような感覚を。
死の感覚を…!
「!!?」
反応が遅れる。
全身から気を抜いてリラックスしていたところだったから、体が反応できなかった。
遅れて、衝撃。
あばら骨あたりに強い打撃。
まるで丸太を振るわれたかのように脇に何かがめり込んだ。
そして、吹っ飛ばされる体。
体にワイヤーで吊られているんじゃないかと思うほどオレの体は宙を舞った。
地面に引き寄せられる感覚が一瞬にして消え失せた。
消え失せそして、遅れて重力が働く。
オレの体を引き寄せる。
体は強く地面に打ち付けられ、肺の中の空気が全て吐き出される。
「ぐっあ、っっっ!!」
体中を駆け巡る激痛。
懐かしき熱を帯びた、骨折の痛み。
久しきあばら骨を折られる感覚。
それに体内。
臓器がすべて吹き飛ばされたんじゃないかというほどの痛み。
嘔吐感はしない。ただ、苦しい。
そのどれもがあの時の感覚に似ていた。
師匠に殺されかけたあの時の感覚に。
初めて死を感じたあのときと。
「ぁ…あぁ…っ!」
声が上手く出ない。
あばら骨は確実に折られた。
最悪、臓器まで傷ついているかもしれない。
呼吸も乱された。
動けないし、体に自由が利かない。
首を動かしさっきまでオレがいたところを見れば―いた。
彼女の姿。
人外の姿がそこで立っていた。
ゆらゆらと揺れる尻尾が目立つ。
そうか…丸太みたいだと感じたのはあれか…。
尻尾の一撃であばら骨を折られ、さらにこんなに吹っ飛ばされた。
本当に…とんでもないな。
あの様子を見るからにオレが放った『砕』はたいしたダメージを与えてはくれなかったようだ。
くそ…手ごたえはあったんだけどな。
師匠でさえ当てられれば止められる技だから…自信はあったのにな…。
さすがに人外相手は考えてないか…。
当たったところも鱗の上からだったし。
まったく…これじゃあ本当に万事休すだ。
終わったのはオレの方だし…。
打つ手は、なくなった。
抗う術も消えうせた。
もう、終わりだ…。
体から力を抜き、力なく倒れ伏す。
まったく何やってんだよオレは…。
あんな奴の殺戮衝動を止めようと頑張っちゃって。
師匠とは違う、人外の存在なのに。
できないことだってどこかで理解してたのに。
本当に、馬鹿だな。
心の中で苦笑した。
動けない。
いや、動こうと思えば少し走ったりすることとか、一撃くらいなら見舞いできるぐらいには動ける。
だが、その意味ももうない。
彼女の症状。
勝てないし、受け止め切れない。
オレはこのまま、死ぬ。
あの爪で切り刻まれるか、それとも炎で焼かれるか。
どちらにしろ、死ぬ。
あの症状はそういうものなんだから。
誰かを傷つけて、殺してしまう症状なんだから。
あーあ…死ぬわな…。
どこかの漫画みたいに仲間が駆けつけてくれたりしないかなー。
こんな人外が存在している世界に来た時点でその期待はできないけど。
それならオレがパワーアップして…なんてのも無理か。
オレはただの人間。
姉の尻に敷かれる便利な弟。
日々師匠にぼこぼこにされて強くなった門下生。
退屈な授業を受けるただの高校生なんだから…。
さっきよりも強く感じられる死の感覚。
不思議と抵抗しようとは思えなかった。
それどころか静かに受け入れる準備ができていた。
命乞いする気も、抵抗する気も、逃げようとする気も、恐怖に震える気も、ない。
彼女は動き出した。
頬を膨らませ、口内に炎を充填させる。
そして吐き出す。
オレへ向かってではない。
上へ、天井へ向かって。
吐かれた炎は形を形成していく。
徐々に大きく、少しずつ丸くなる。
1分もかからずに形成されたそれ。
炎の球体であり、光を放つそれ。
狭い洞窟内で神々しく燃え盛るそれ。
―それはまるで太陽に思えた。
どうやら彼女はオレを焼死させる気らしい。
塵も残さず一撃で消すほうがお好みのタイプか。
それはそれでいいか。
日本人として火葬で死ぬのならそれはそれで日本人らしいし。
あんな太陽みたいなものに包まれるならどこかで野たれ死ぬよりかはよっぽど自慢できる。
そんじゃ、オサラバだ、愛しの家族。
あばよ、親しき友人達。
それと、じーちゃん、ばーちゃん。貴方達の孫がすぐに行くから…。
オレはそっと目を閉じる。
あの燃え盛る炎で焼き尽くされる覚悟を決め―
―燃え盛る?え?
目を開けた。
彼女はいまだに炎を放たずにオレを見ている。
上にあの太陽のような炎を作り上げたままで。
ちょっと待て。
こんな洞窟内であんな炎の塊。
こんな密封された空間であんな燃え盛るものがあったら…!!
嫌な予感。
そしてそれはやはり的中した。
だが今回は少々良いほうへ傾いて。
密封、炎、空気。
高校生までの知識ならこれらの言葉で何が起こるか、いったいどうなるかすぐに思いつく。
口から吐くなんて現実離れしたその行為でも炎の性質は変わらないはず。
それなら、炎によって空気中の酸素は激減。
換気するにもここは密封された洞窟内。
つまり、ここは今とても酸欠を起こしやすくなっている!
やばい!だが、それはオレだけではない。
彼女にとっても同じ。
いくら人外であれ生物。
生きている以上酸素を必要とするのは当然。
そして、彼女はそれを起こす。
「…ぁ…ぁあ…!?」
彼女の上に存在していた炎の塊が砕けた。
四散する炎。飛び散る火の粉。
炎は散ってもなお燃え続ける。
熱を放出し、酸素を減らしていく…!
その炎の中心で彼女は右膝を付いた。
体に酸素が回りにくくなっているこの状況。
息は荒くなり、脈も増える。そして起こるは頭痛。
そんな症状が起きている中で平然と立っていられるわけもなく彼女は膝を付いた。
オレを一瞬で焼き殺そうとして作り上げたあの炎の塊が仇となった。
だがそれは。
逆に言えば、オレにとってはチャンスである。
おそらくこれが最後のチャンス。
外せば死は確実。
当たれば彼女を止められて、なおかつオレも生き抜けるかもしれない。
いまだに激痛の走る体に鞭打って立ち上がり、走り出す。
そんなに早くはないけども、それでも彼女との距離を詰めていく。
最後の攻撃を。
最後の一撃を叩き込むために。
彼女は反応しない。
いや、体が反応できない。
酸欠で意識が朦朧としてきているようだ。
彼女の意識がこちらに向く前に、撃つ!
片膝付いた彼女の前までたどり着いたオレは弱弱しくもそれを放った。
最後の一撃を放った。
下から上へ。
アッパーカットのように、一直線に。
拳ではない、手のひらを使った攻撃。
『掌底』
奥義でもなんでもない基礎の技。
拳で殴るよりもリーチは短く使い辛い技。
外傷や過度の傷を与えられない空手の技。
それを彼女の顎へ向けて放った。
力が弾ける。
弱弱しくても、確実に。
遅くても、より深く。
その力は彼女の脳を揺らした。
脳だ。生物的に見て心臓と同じくらいに大事な部位。
その脳へと力は及んだ。
顎へ向かって掌底を放つという行為はかなり危険なこと。
掌底は単純に拳で殴るよりも威力は大きし、何より。
脳を揺らして脳震盪を起こさせやすい…!
相手の意識を絶ちやすい攻撃だ。
だが、これは結構撃つのが難しい。
上手く撃てないとただの張り手と変わらない。
だが、上手く撃てれば。
相手の動きが止まるなどしてくれれば―
―彼女は静かに倒れた。
意識を絶てたみたいだ。
今度こそ…やった。
いくら人外といえど脳を揺らされちゃどうしようもならないだろう。
その読みは当たってくれていた。
ボロボロの体で。
ギリギリの力で。
オレはようやく彼女を止められた。
やった…。
そう思って倒れこもうとしたが踏みとどまる。
こんないまだに炎が燃える洞窟内で倒れれば酸欠で死ぬのは確実。
早いとこ逃げ出さないと。
すぐさま脱ぎ捨てた学ランを拾ってオレが入ってきたこの空間唯一の出口へと向かった。
向かう途中、彼女の姿が目に入る。
オレを殺しにかかってきたその存在を確認する。
「……ちっ。」
頬を切られて。
左肩を切られて。
右肩を焼かれて。
脇腹を掠められて。
あばら骨を何本か折られたというのに。
オレはひんやりとした空気が漂う洞窟内を歩いていた。
いまだに激痛は引きそうにもない。
そんな体でゆっくり歩く。
背中には勿論人外の存在を乗せて。
オレを殺そうとした女性を乗せて。
まったく…何やってるんだか。
本当なら自分を殺そうとした相手なんか放っておきたいところなのに。
…でも。
助けてやるって決めたしな。
最後まで受け止めてやるって決めたしな。
オレはゆっくりと歩き続ける。
一歩一歩がふらつく。
どうやらオレも少しばかり酸欠になっているようだ。
あーやべ、意識が朦朧とするわ…。
気を抜いたら今にも倒れるなこれは。
背中には彼女。
穏やかな顔で小さく呼吸をしていた。
さっきの空間とは違い今いるここでは酸素が十分にある。
彼女にとってもオレにとっても酸欠で死ぬ危険性は消え失せたということだ。
まったく…気持ちよさそうにしやがって。
激痛の走る体を震える足で何とか支えて進む。
とりあえずこの洞窟から出よう。
洞窟から出て、できれば川を見つけて、傷を冷やしたい。
そこからここがいったいどんなところなのかを確認して…
気がついたらオレは草原のようなところにいた。
月明かりが優しく照らし、冷たい夜風が頬を撫でる。
どうにか出られたな…。
背中に居る彼女を草の上に降ろして寝かせる。
寝かせた彼女を見てみると…やっぱり美人なんだよな。
戦ってたからあんまり気がつかなかったけどスタイルも良いし。
身長はオレよりも高いし、足もすらりとして長いし、胸なんか西瓜みたいに大きいし…。
艶やかで長いアジサイのような色の髪。その間から生える角。
一つ一つが輝いていて宝石のような鱗。
人ではない部分があるにもかかわらず美しい。
いや、むしろそのアンバランスさが美しさを引き立ててる。
人外といえここまでの美貌を持っているなんて驚きだ。
まさしく絶世の美女。
悲しそうに泣いていなけりゃもっと綺麗に映ったのに。
オレは彼女の頬をそっと撫でた。
柔らかい頬。人のように温かな肌。
骨も鱗も無茶苦茶硬いのにこの柔らかさは不思議だな。
涙の跡が目立つ美しい顔。
ずっと泣き続けていたんだろう…。
指でその跡をなぞり、手を離した。
苦しかったんだろうな…。
師匠もこんな感じで泣いてたし。
理不尽に怒ったかと思えば涙したし。
本当に辛そうな顔で泣いていたし。
小さくため息をつき、立ち上がった。
とりあえず水だ。
近くに水がないか見てこよう。
傷を洗いたいし、Yシャツが血で染まってなんか気持ち悪い。
それに彼女が目を覚ましたときにもしも症状が治まっていなければ再び戦闘になるのは確実。
できる限りの体力回復もしたい。
でも、次に来られればオレは確実に死ぬだろうけど。
とにかく水だ。
オレは歩き出そうとして足を止めた。
…一人残していくのも危ないな。
人外といえ女性。女性に対してぞんざいな対応はいただけないし…。
とにかく夜風で体を冷やすのはダメだな。
そう思い学ランを彼女の体に掛けようとして―
―彼女が目を開けた。
「っ!」
手が止まる。
血よりも赤く炎よりも鮮やかな瞳がオレを捉えた。
その瞳からはオレを刈ろうとしている気配を読めない。
殺しに来るかわからない。
オレは何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
夜風が吹きつける中で静寂がオレと彼女を包む。
月明かりの下。
その静寂を破ったのは彼女のほうだった。
「貴様は、何なんだ…。」
オレを見据えて、静かに言った。
静かに聴くととても美しく思えるその声で。
体は動かさず、オレを殺しにかかる様子もなく。
ただ赤く綺麗な瞳がオレを射抜くように捉えながら。
「逃げろと言ったはずだ…来るなと言ったはずだ…。なのに、何で貴様は近づいてきた…?」
オレは何も言わない。
どうやら彼女の症状は止めきれたようだ。
「私は…貴様を殺しにかかったのに…何で逃げなかった…?あの状況なら、貴様のような者なら…逃げ切ろうと思えば逃げ切れたのではないか…?」
何も、答えない。
指ひとつも動かさず。
「貴様は…いったい何なのだ…?」
どこまで言われてオレはようやく口を開いた。
静かに、言った。
「知らねーよ、そんなこと。」
平坦な口調で何もないように言う。
「何だそれは…。答えになってないぞ。」
「仕方ないだろ。これ以外に答えようがないんだから。」
以前にも似た問答をした。
師匠に殺されかけた後に。
傷が治って、道場へ行ったときに。
師匠にも聞かれた。
「やりたい様にやっただけ。ただそれだけなんだから。」
「やりたいだけに…殺されに来るのか。貴様は自殺志願者か?」
「違うって。」
まんま師匠に言われたことだった。
『自殺志願者』か…なんて、そんなもの志願したくもないって言うのに。
「目の前で泣いてる女性を放っておけるかよ。」
今まで散々姉の尻に敷かれてきてるんだ。
女性に対してぞんざいな扱いなんてできやしない。
フェミニストなんだよ、オレは。
「…何なのだ、貴様は…。」
「………黒崎ゆうた。」
オレは自分の名前を言った。
「何なんだ、なんて聞かれていえること言えばこれくらいだ。だからそれくらいで勘弁してくれよ。」
「黒崎…ユウタ…。」
彼女は呟く。
オレの顔を見て。
そっと、静かに。
「ユウタ…か。そうか…。なら、ユウタ。ひとつ頼みごとを聞いてはくれないか?この私の、崇高で誇り高きドラゴンからの、頼みを。」
ドラゴン。
彼女はそう言った。
やっぱりドラゴンだったのか。
オレはそんな常識外れを止めようと頑張ったのか。
頑張ったな、オレ!
伝説に劣らない凛々しさと強さを兼ね備えた女性はオレに向かって言う。
「私から離れてくれ。ずっと遠くに行ってくれ。」
「…。」
「私が貴様を傷つけぬように。私の爪が届かぬところまで。私の炎が貴様を焼かずにすむまでずっと遠くに…。」
静かな声。だが悲しみに溢れていた。
それと同時に、オレの身を案じる彼女の優しさも溢れていた。
「私を止めようとしてくれた貴様を…私は傷つけたくない…。」
「…。」
「これから先私は同じように繰り返す。また、誰かを傷つけたくてたまらなくなる。本能的に、体が勝手にな…。」
「…。」
「だから…離れてくれ。私はただ、人気がないところで朽ち果てたい。」
「…。」
「もう、誰も傷つけないように、死にたいんだ。」
「…馬鹿が。」
オレは彼女の頭を拳で小突く。
弱い力だけど少し痛みを感じる程度に。
彼女はドラゴンだからこれくらいで痛みなんて感じないだろうけど。
だけど、彼女は驚いた表情をした。
目を見開いてオレを見た。
「何言ってるんだよ。そんなことしたらアンタはずっと一人だろーが。」
赤い瞳を黒い瞳で見つめて。
彼女のその驚いた表情を見据えて言う。
「そんな姿、見てられない。その症状を知っておきながらオレだけ安全なところでのうのうとしてられるかよ。まったく。」
立ち上がり、彼女を見た。
彼女もオレに釣られてゆっくりと立ち上がる。
どうやら体のどこも傷めた様子はなさそうだ。
やはりあの鱗はオレの『砕』をものともしなかった。
オレの最大威力の技が…凹むな…。
月明かりに照らされる向かい合った二つの影。
片方は誇り高きドラゴン。
もう片方は何の変哲もない人間。
夜風にたなびく薄紫の長髪。
滴る赤い液体。
それは切り取れば絵になるような情景だった。
「…だから。」
オレは両手を広げた。
彼女の症状を最後まで受けきるために。
彼女の全てを抱きとめるように。
勝手に彼女の症状を受け止めようと決めたけど。
一度決めた以上、オレは最後までやりきる。
彼女のその悲しい表情を見ないためにも。
師匠みたく深い孤独の中に置き去りにしないためにも。
彼女に向かって言った。
「来いよ。全部、受け止めてやる…。」
黒崎ゆうた VS ドラゴン
第二戦 開始
11/03/16 21:18更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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