【サンドイッチ】 薄く切ったパンの間に肉・卵・ハム・野菜を挟んだ食べ物
変わらぬ日々を過ごすことに思うことなどありはしない。
同じ毎日を繰り返すことに苦痛を抱くことはない。
それが私の役目であって一冊としての役割である。
だから今日も今日とて膨大な情報を頭の中へと記録する。片手に栄養補給を済ませながらいつものようにこなしていく、はずだった。
一時の気の迷いだろうか。
私の手には黒いハンカチが握られている。場所も王宮内の庭園ではなく人気のない廊下に立っていた。
目の前には漆黒のドア。細かな装飾。特徴的でありまず一騎士の部屋を飾るようなものではない。それだけの地位と実力が示されているようなもの。最も、王宮内で人気のない部屋を与えられている時点で厄介者でもあるのだろうが。
そのドアをノックする。
「…はい」
返ってきたのは男性にしては高めの声。否、男性には出せない声域のもの。ドアをゆっくり開けて現れたのはどう見ても男性とは思えない細い骨格と丸みを帯びた体だった。
「…?」
胡桃色の短い髪の毛と黒色の服。首元につけた十字架は王宮内に務める者の証。つまるところ現れたのはメイドだった。
別段メイドなど珍しくもない。王宮内にメイドとして勤める者もいるし、皆頭の中に記録している。名前も年齢も家族構成までも私の中にある。
だが―このメイドは違う。
どこを担当しているか知らない。
私の記録に存在しない―つい最近になって働き始めたメイドだろうか。それにしては情報が一切私に記されていない。
「…何か御用ですか?」
とても静かな声色だった。水のようにさっぱりと冷たくて、感情の抑揚のない初めて耳にする声だった。
やはり私は彼女を知らない。
「こ、れ」
目の前の人物が不審であっても私の目的は変わらない。持ってきたハンカチを突き出すと彼女はわずかに片眉を吊り上げた。
「…ユウタ様のハンカチですね。何故あなたがこれを?」
「ユウ、タ様?」
「…質問に答えていただけますか?」
抑揚のない声色だがわずかに強張っている。私が疑問を抱くことを許さないとでも言いたげなものだった。
『ユウタ様』
騎士団の部隊長ともなれば付き人の一人くらいは許される。だが、王族に仕えるものとして多少の地位は約束されるがまさかメイド付きまでとは思わなかった。
「こ、の前ユウタが王宮な、いの庭園に来た、時に忘れ、ていった」
「…そうでしたか。これは疑ってしまって申し訳ありません。では私が渡しておきますのでこちらへ」
受け取ろうとメイドが手を伸ばしてくる。
異常なほどに白くて滑らかな肌の表面。傷も染みもなく、爪は形よく揃っていた。そんな手を見て―違和感。
「…」
メイドとして働くのなら肌は荒れているものだ。手入れが行き届いているのなら別だが私の目にはあまりにも異常に映る。
それだけではない。髪の毛、肉付き、骨格、立ち姿。まるで誰かが手を加えたかのような整い方。生まれ持った完璧な美貌とはまた違う、努力で成し得た美しさともまた異なるもの。
私の記憶の中から引きずり出された感覚。当然見間違いも記憶違いもありはしない。こういう異常さは決まって一つの事実へたどり着く。
すなわち―
「―あなた、は魔、物…」
「…何を仰いますか」
荒唐無稽な発言だっただろう。メイドは気にすることもなく短く返すだけ。焦りも戸惑いもなく私の手からハンカチを受け取った。
だが、わかる。
声色が変化した。右手の指が一瞬反応した。移る視線がぎこちなく泳ぐ。肌にうっすら汗をかく。
人間が嘘をつくときの挙動は全て記録している。しかし、このメイドは嘘をついている挙動はなかった。事実を肯定しているだけ、そう見せつけてくる。
だから、わかってしまう。
いくら完璧な人間だろうと自分に嘘はつけない。だからどこかに、確実に変化が現れる。人間がほかの人間を騙すため、自分自身を偽るため。
だが、彼女は違う。
偽っているのではなく―見せつけている。自分が自分であることを堂々と、嘘を肯定するように。そうあることが当たり前と言わんばかりに。
それは人間が人間に見せつける偽りの姿ではなく―人間のように振る舞う態度。
何度も記憶してきた魔物が人間へと溶け込むときの仕草と同じ物。
「貴方はキ、キーモラ」
メイドの魔物であって人の感情に鋭いという特徴がある。元は怠け者を食い殺す存在だったが今は見目麗しく瀟洒な佇まいの女性の姿。しかし根本は他の魔物と変わらぬ人間を堕落させる存在。耳や尻尾といった魔物らしいものは見当たらないが、その程度隠す術はいくらでもある。
彼女はこの王国にとって許されぬものであり―浄化されるべき対象だった。
「…」
メイドの目が細められた。ちらりと見えた光は剣呑で掌がゆっくりとスカートへ向かう。
体の動き、骨格からの見立て、予備動作を当てはめれば次に起こす行動を予測することは容易い。避けるだけの反射神経は持ち合わせていないが。
「…もし、私がキキーモラだとしたら…貴方様はいかがいたしますか?」
声色こそ変わりないもののその瞳が殺意を向けていることは明らかだった。
攻撃態勢に入っている。今はまだ警戒程度だが私が行動に出れば容赦なく首を狙ってくるだろう。
だからと言って私にどうこうできるはずもない。
私は『本』。戦う術はない、ただ記録するだけの媒体には刃も魔法も使えない。抵抗する力だって一人の女性程度しかない。
私が何もしないでいるとメイドは悟ったのかスカートから手を離した。
「…別に正体がばれたからと言ってどうにもしませんよ。私はメイド。ご主人様のお顔に泥を塗るような真似は致しません」
「それもう、そ」
先ほどの殺意は本物だった。何よりも今目に映っているメイド服のスカート。その揺れ方は布のそれではない。似てはいるが、内側に何かが隠れている。そう、例えば小さくて軽くとも致命傷を与えられる猛毒の塗られたナイフとか―
「…えぇ、嘘です。ご主人様の迷惑になるくらいならその障害を取り除く。時に危険な存在を前にしたとき、メイドというものは騎士よりも気高く強くなるものですので」
嘘のない声だった。偽りのない言葉だった。
このメイドは本気で私を殺せるだろう。否、誰だろうと容赦はしない。その意思が私であっても理解できる。
「…?」
理解できるからこそ分からない。
メイドらしくない。
魔物とも思えない。
人間と呼べる存在では既にない。
メイドというのはただの炊事や洗濯をこなす使用人のこと。
魔物は人間を堕落させる存在のこと。
私の記憶のメイドと目の前のメイドが異なっているのか。
はたまた魔物という情報とこのキキーモラが別の存在なのか。
私らしくない疑問を抱き首をかしげていると彼女の背後から声がかけられた。
「エミリー、どうかした?」
「…ユウタ様」
メイドの声色がかすかに変化した。感情のないはずが先ほどよりわずかに高くなっていた。何よりも向ける視線がねっとりと粘つくようなものだった。髪の毛一本一本、爪の先や浮き出す血管等を頭に記憶するかのように。
…そして涎が垂れていた。
「…いえ、このお方がユウタ様のハンカチを届けにきたとのことでしたので」
「あ、えっと名前は…」
「メモーリ、ア」
教えていなかった名前を伝える。最も、伝えたところで呼ぶ人間などほぼいないが。
「メモーリア、ね。わざわざ届けてくれてありがと、メモーリア」
にっこり笑ってメイドからハンカチを受け取るとそのままポケットへと仕舞い込む。同じ色をしたエプロンのポケットへ。
…エプロン?
「ん?あ、今ちょうど料理してたんだよ。これからピクニックにでも行こうと思って多めに作ってるんだ。メモーリアもお礼を兼ねて一緒にどう?」
「ピク、ニック?」
「そ。たまの休日だしね」
その手を見れば銀色に光る小さなナイフが握られていた。刀剣には及ばぬ切れ味だが料理には適している家庭用のものだろう。付着した黄色と白のものは…卵に違いない。だが、塗れている薄黄色のクリーム状のものは…記憶にない。
「わ、たしは、長い間、王宮を、で、てるわけにはい、かない」
「ならさっさと帰ってくることにしよっか」
「…移動もまた一つの楽しみ。ですが、ユウタ様がそう仰るのならば今回は転移魔法で行くことにしましょう」
「それじゃあ、どうする?」
「…」
黒い瞳が私の顔を映し出す。声色も口調もメイドと異なり穏やかなものだった。
そんなユウタを前に私は考え込む。
私に与えられている時間はいくらでもある。やるべきことも一度目を通せばすぐに終わる。空いた時間はいくらでもあるが、外への持ち出しはあまり良いことではない。私の頭にあるのはこの王国の最重要情報なのだから。
最も―それを読み取れる人物は一人しかいないが。
「い、く」
気づけばそんな言葉が口から零れ落ちた。
たまには良いだろう。そんな風に思うなど私らしくない。変化を望むなど本のすることではないというのに。
だが私の零した言葉にユウタは柔らかく笑みを浮かべた。
「それじゃあ今作り終えるからちょっと待っててね」
そう言って部屋の奥へと戻っていく。ナイフを指でくるりと回し聞いたことのない鼻歌を歌いながら。
そんな姿に粘りつくような視線を向けていたメイドがこちらに向き直る。だが、その瞳は打って変わって物静か。なんの関係もない他者を見る無感情の瞳だった。
「…申し上げておきます。貴方様はどうやら対人能力が著しく欠けているご様子ですが、世の中には言ってはいけないこともあるものですよ」
「あな、たが魔物だとい、うこと?」
「…私が魔物であることなど最早変えられぬ事実。問題なのはそれを聞いた方です」
ちらりと視線を向けるエミリー。その先にいるのはエプロンに身を包み軽やかに料理を続けるユウタの姿。
「…私に対する侮蔑など気にも留めませんが、『私を侮蔑する』ことに怒りを覚える方もいます」
「そ、れはユウタが、貴方が魔物だ、という、ことを否定しているとい、うこと?」
「…ユウタ様は私が魔物であることは既に知っております」
「…」
知っている。
知ってこの王国にいる。
この王国で魔物を傍に置いている。
その事実が―どれほどのことかをわかっていないのだろうか。
「…それでも、私が魔物であるなど軽々しく口にしないようにお願いします。余計な被害を出さぬように気を配るのもメイドの勤めなので」
人間でいう感情的な部分ということだろう。
私にとって記録できないあやふやな事実であって―不確定な感情。
程度はわからず、理由は定まらず。定義のないものなど理解できない。
彼女は私を迎え入れるためにドアから離れて頭を下げて―
「…改めまして、ユウタ様にお仕えする『キキーモラ』のエミリーです。どうぞよろしくお願いします。メモーリア様」
「よろし、く」
とても静かで単調で、私に興味を抱かぬ自己紹介に私も頭を下げたのだった。
部屋へと招かれリビングへと通される。一人で暮らすには十分すぎる程の広さを有する空間内にあるのは王宮内でも多く用いられる家具ばかり。だが、最低限しかなく、そのせいか部屋が無駄に広く感じられる。
「お待たせ」
完成間近だったらしくユウタはできあがった料理を箱に詰めて持ってきた。メイドが受け取ろうとするがにっこり笑ってそれを制する。
「…それではこちらへどうぞ」
手を引かれユウタの隣へと歩みでる。二人並ぶとエミリーは背後へ手を回し、どこからか大きく白い布地を取り出した。
テーブルクロス。テーブルにかける布地だ。彼女はそれを大きく広げた。
視界を阻む白一色。はためく音と反射する光に瞼を閉じる。
「…あ」
それは一瞬の出来事だった。
目の前から全てが消えていた。白い壁紙も、絨毯も、数少ない家具のいくつも。
そして代わりに飛び込んできたのは緑。青。肌を撫でる感触は王宮内より冷たく、香るのは室内にはない植物と水の匂い。
そこは湖の畔だった。
「…やはり良い日和でしたね」
「だね。やっぱりこういう場所は晴れてるほうがいいや」
「…ですが、湖面の側は風が冷たくもあります。お体を冷やさぬようにお気をつけて」
「そだね」
「…古来より冷えた体を温めるために用いるのは女体。僭越ながら私の体でユウタ様をふへへへ」
「涎垂れてるよ」
王宮内に降り注いでいたものとは異なる柔らかな日差し。
吹き抜ける風は緑の匂いを強く運び私の肌を撫でていく。
足の裏から感じるのは石畳や土とは違う草原の感触。
吸い込む空気も同様に緑と草の香りにまみれている。
そこにあったのは整えられた花壇ばかりの庭園とは違うただあるがままの自然の姿。時には絵画として、記録として残された光景とは異なる本来のものだった。
「…」
だが、言ってしまえば王宮内より草が多くて湖があって建物がないというだけの光景。
だというのに何も思い浮かばない。表現する言葉などいくらでも頭の中に入っているというのに。
そんな私を他所に草の上に大きなシートを広げ、先にユウタが靴を脱いで上がり込む。エミリーへと手を差し出してあがらせて―私の方へと向き直った。
「ほら、メモーリアも」
「う、ん」
その手を取って靴を脱ぎ、シートの上に上がる。足の裏に感じる草の柔らかさと覆い隠した布地の感触が王宮内と違うことわからせる。
足踏みしその感触を確かめているとユウタは持ってきた箱を広げ蓋を開ける。そこにあったのは真っ白なパンに挟まれた数々の具。パンを用いた一般的な料理であるサンドイッチだった。
「いろいろ作ってきたよ。卵にハムときゅうり、ベーコンとかフルーツサンドとか」
「…紅茶の用意は既に整っております」
「ありがと。デザートも別で作るべきだったかな?」
「…むしろデザートはユウタ様と…いえ、むしろメインディッシュが……」
「何を言いたいのかわからないなー」
ぼたぼたと零れ落ちるエミリーの涎をユウタが拭っていく。空いてる方の手で一つ掴むと私の方へと差し出してきた。
「え…」
「はい、どうぞ」
手にすればユウタは頷くだけ。促されるままに口につけ、噛り付いた。
「…っ」
いつも食べていた支給される食物とは違う、パンを噛み込む食感。香ってくるのは小麦の香り。パンを終えれば具材へと到達する。挟み込まれたゆで卵がつぶれる食感は柔らかく、にちゃりと舌に届いた味覚は独特なもの。酸味があって、濃厚で、ちょっとしつこくて、だけどこれは―
―表現のしようがない。
「…?」
初めて感じる味覚だった。卵に絡められたものがなんなのかわからない。だが、決して吐き出したいものではない。
「マヨネーズはお気に召したかな?」
「まよ…?」
「卵黄とか塩とか油とかを混ぜて作ったクリーム状のソースのことだよ。こっちじゃまだできてないのかな?」
「…?」
ユウタの知っている料理だということ。それならつまり、彼の世界のものだということだろう。ならば私の記憶にないのも納得だ。
サンドイッチを飲み込んで箱の中を覗いてみる。緑、白、赤に黄色。色とりどりの具材の中から私は先ほどと同じものを手に取った。
「あ、気に入ってくれた?」
「…わ、からない」
それでも次が欲しくなる。そんな癖のある味だった。いくつもの情報や文字を持ってもその程度しか表せないものだった。
そんな私のことを見ていたエミリーがカップへ紅茶を注ぎながら言葉を紡ぐ。
「…本当に美味しいものとは誰が食べても美味しく感じられるものです。」
「おい、しい…?」
言葉の意味は知っている。
飲食物の味が良いということ。それから物事において自分に都合の良い場合を指す言葉。
だが、『おいしい』といったところでそれがどのようなものかはわからない。
好みなんてありはしない。食事はただの栄養補給。
嫌いなんて存在しない。ただ生きれればそれでよい。
味を気にしたことはない。好みなんてわかりもしない。知識として、記録としてあったところで理解はできない。
「…理解できない、というお顔ですね。当然です。理解などするような事ではありません。頭で考えなくとも体はわかっているものですから。こちらもどうぞ」
エミリーから一つを受け取った。
わずかにはみ出した紫色のジャム。ともに挟まれたクリームチーズ。酸味のきいた甘い香りがするものやふんわりとした生クリームと赤い果物は…イチゴだろう。
それを、食べる。
とたんに広がる『甘い』という味覚。もったりとした生クリームの甘みとさっぱりした酸味が染み出し、決してくどさを滲ませない。一噛みすれば濃淡の違いを感じさせ、二噛みすれば甘みに包まれ、三噛みもすれば顎が止まらず動き出す。
「…食べることをやめられないのではありませんか?だとすればそれが好きというものです」
「ひゅ、き?」
「…嫌なものなら避ける。消す。潰す…とにかく目にしないようにとするものですが、好いたものならばその逆です。手を伸ばしたくなる。側に居たくなる。もっともっと欲しくなる……貴方の行いはまさしくそれです」
「……?」
「…ならばユウタ様のサンドイッチをお気に召したということ。それ以上に好きになったと言っても過言ではありません」
言っている言葉の意味は理解できる。
だが、やはりわからない。私自身のことだというのに私自身が説明すらできない。
「…理屈で考えるものではありません。体が自然と動くだけで十分です。貴方の好きは貴方の体が一番よく知っていることなのですから」
「そうな、の?」
「…ええ、そういうものです。だから貴方の手が伸びることもまた自然なこと」
「…ぁ」
言われて気づく。
いつの間にか伸びていた手が今度は別のサンドイッチをつかんでいた。
挟まれているのはハムとレタス。
わずかに感じる香りは…マスタードの酸味だろう。強すぎず、さりとて弱くもなく。私の嗅覚に新しい刺激を与えてくれる。
エミリーの言葉を横で聞いていたユウタは小さく拍手していた。
「流石、エミリー。オレにはそんな上手く説明できないや」
「…恐縮です。メイドですので人の感情や好みについては十分に勉強していますから。だからユウタ様の好みも理解しておりますので今もこのような下着を―」
「スカート捲るのやめようね」
スカートを捲り上げ見せつけようとすればユウタが止めに入る。柔らかに手を握っておろさせる。些細な行為でもエミリーは頬を染め、口角から涎が一筋零れ落ちた。
「あ、む…」
二人をやりとりを目の前にしながらも私の手は止まらない。次のサンドイッチを手にとっては咀嚼し流動物にしてから飲み込む。口内に甘みが広がり喉を擦って食道を通り胃へと落ち行く感覚がとても―良い。
これがおいしいというものだろうか。
これが好きというものだろうか。
今度はただ甘いだけ。その甘みは数種類あって、様々な変化が私の中へと染み込んでいく。
白く膨れた見た目。
かぐわしい香り。
とろける甘い味。
柔らかな感触。
顎から伝う咀嚼音。
記憶へ焼き付き、記録へ刻まれ私の頭へ蓄えられていく。
「い、つもの、と違う」
「…そりゃあんなバランス栄養食バーみたいなもんと同じわけないって」
粉っぽくはない。堅くもない。味気ないものでもない。無香でもない。栄養を固めただけの食物を摂取をしてきたが不満はなかった、はずなのに。
だが、これはなんなのか。
二度目三度目と手が伸びる。はみ出したクリームに舌を延ばしたくなる。酸味のある果物を口内で転がして、歯で噛み潰す感触が堪らなく、喉を流れていく感覚が素晴らしい。
「あ…」
先ほど掴んだときについたのか指先に紫色のジャムが付着していた。それを数秒眺めた私は躊躇うことなく嘗める。
途端に伝わる芳醇な甘み。わずかな酸味を染み込ませながらもそれ以上の甘さが広がっていく。
これが彼女の言うようにー
「―お、いひ、ぃ」
「…えぇ、それがおいしいという感覚です。」
エミリーもまたサンドイッチに手を伸ばし齧り付く。歯を見せず柔らかに、上品という言葉ををありありと見せつけるように。数度噛み締め瞼を閉じる。喉をわずかに上下させると満足げに息を吐いた。
「…ぁあ、とても美味です。ユウタ様」
「口にあったのならよかったよ」
その様子を隣で見つめていたユウタはにっこりと笑った。対するエミリーもわずかに口角を上げる。表情の変化が乏しいかと思いきやそれは照れたような笑みだった。
そんな二人の姿は―どう見ても魔物と人間とは思えない。
どう見ても普通の人間らしからぬ行為だが魔物と人間のあり方とはこういうものなのだろうか。
はたから見れば魔物のエミリーにユウタが騙されていると見えるだろう。だが、ユウタはエミリーがキキーモラであることを知っているし、彼女もそれを隠す気はないらしい。
何故、なのだろうか。
堕落していないユウタを見て、魔物であることを肯定するエミリーを見て、私の中の記録との相違が浮かび上がってくる。
異常なことを疑問に思うことはある。
記録と異なる事態を不思議に思うことはある。
人間と魔物のありかた。
魔物が人間を誑かし、快楽に堕落させ欲望へと身を沈めていく。その様はとても醜く見るに堪えない愚かな姿。故に剣を振り上げ首を落とす。他の者まで堕落させないように。
だが、これはなんだろう。
人間であるユウタと魔物であるエミリー。そのやり取りは人間同士のそれとなんら変わらない。最も、私自身他人のやり取りを詳しく知っているわけではないが。
だが、それでも。少なくとも。
この二人の姿は私の記憶しているものと異なっていた。
「な、んで」
間違いはいけないこと。記録するうえでそれは最もやってはいけない行為。
果たして私が違うのか、それともユウタが間違っているのか。
修正すべきはどちらかなのかはわからないが、それでも正さねばいけないこと。だから私は進言する。それが本らしからぬことであっても。
「ユウ、タは」
「ん?何?どうしたの?」
「ユウ、タはなんで魔物と、一緒にい、るの?」
「…ぁ?」
一瞬、先ほどまで聞いていたものとは明らかに違う声色が耳に届く。突然の変化はまるで別人のようなものだった。低く、明らかに普通とは違う声に隣のエミリーも目を見開いていた。
「…何?どうかした?」
「それ、は魔物。魔物をか、くまった者は極刑。ディユシエ、ロ王国の法律」
魔物を敵対し、主神を崇めるディユシエロ王国内では存在すること自体罪。匿うことは死罪であり、関わることすら罰を受ける。
王国内で暮らすものなら皆が知る常識であり絶対的な法。一歩はみ出せばそれだけで首を飛ばすこともありうる行為。
だというのに―どうして彼はその危険を冒してまで魔物を隣に置いているのか。
「許さ、れ、る行為ではな、い。ユウタが、やってい、る行為はおかしい。魔物はディユシエ、ロ王国内では存在自体ゆ、るされない」
「…それはエミリーに向かって、遠回しに死ねって言いたいの?」
薄紅色の唇が弧を描く。柔らかな笑みを浮かべ続けているのだが、その瞳はどこか冷たい。
「違う。貴方は、死罪にあ、たいする行為をしている。た、だそれだけの、事実を言、ってるだけ」
罪を記録したところで私に人を裁く力はない。むしろこの場では圧倒的に私の方が不利である。一般的な女性の力にすら敵わない私が二人相手に何かできるわけがない。
事実を突きつけるだけの私にユウタは小さく息を吐いた。
「そっか。それじゃあ忠告として受け取っておくよ。ありがと」
ありがとう。感謝の言葉。それとともに送られる微笑だが―なぜだろう。
私の頭が記録する。かつてない何かを。
見たくないと思ってしまった。
知るべきではないと悔いてしまった。
私らしくない感情が胸の奥から湧き出してくる。言葉にできるものではないが、ずっと抱き続けたいとは思えない。先ほど知った『好き』とは全く違う、むしろ離れたくなる感情が湧き出してきた。
「…ユウタ様」
エミリーが袖を引く。真っ直ぐに見つめながら。
だが、その瞳は揺れていた。ほんのわずかな差異しかないが、先ほどとは異なっていた。
それは動揺か。困惑か。なんの感情を示しているかはわからない。
「…いけません。私は大丈夫ですからその手を下げてください」
「……………………別に何もしないよ」
にっこりと笑ってエミリーの手を押し返す。隠せない程に不安げだが、それでもユウタは優しく語り掛けると―私へと向き直った。
「確かに死ぬ危険性もあるよ。実際レジーナには目をつけられてるわけだし、何かやらかせばエミリーもオレも殺されかねないよ。だけど、それでもオレはエミリーを突き放すつもりも見捨てることもしないよ」
「?それ、だけの価値があ、るから?」
「価値の問題とかそんなんじゃないよ。もっと大切で、言葉なんかじゃ表せないこと」
「……?」
わからない。
何が言いたいのかと、何をわからせたいのかとまったく理解できない。
私の頭の中にはいくらでも情報が詰まっている。なんでも記録し、蓄えてきた。言葉も、出来事も何もかも。
それでもなおわからないのはユウタの言うことが言葉で表せぬことだからだろうか。
私が知らぬのではない。私が理解できないだけなのだろうか。
わからない。
死ぬことすらありうるのに魔物を傍に置く理由が。
存在することすら許されぬ王国で傍に付き添う意味が。
事実を突きつけただけなのに変わってしまった雰囲気が。
心に湧き出した形容しがたい感情が。
何も、わからない。
―ただ。
身を寄せるエミリーの姿と何も言わずに受け入れるユウタの姿を見て―
―全て覚えている私が
―有り得るはずのない
―朧げな懐かしさを、抱いていた。
同じ毎日を繰り返すことに苦痛を抱くことはない。
それが私の役目であって一冊としての役割である。
だから今日も今日とて膨大な情報を頭の中へと記録する。片手に栄養補給を済ませながらいつものようにこなしていく、はずだった。
一時の気の迷いだろうか。
私の手には黒いハンカチが握られている。場所も王宮内の庭園ではなく人気のない廊下に立っていた。
目の前には漆黒のドア。細かな装飾。特徴的でありまず一騎士の部屋を飾るようなものではない。それだけの地位と実力が示されているようなもの。最も、王宮内で人気のない部屋を与えられている時点で厄介者でもあるのだろうが。
そのドアをノックする。
「…はい」
返ってきたのは男性にしては高めの声。否、男性には出せない声域のもの。ドアをゆっくり開けて現れたのはどう見ても男性とは思えない細い骨格と丸みを帯びた体だった。
「…?」
胡桃色の短い髪の毛と黒色の服。首元につけた十字架は王宮内に務める者の証。つまるところ現れたのはメイドだった。
別段メイドなど珍しくもない。王宮内にメイドとして勤める者もいるし、皆頭の中に記録している。名前も年齢も家族構成までも私の中にある。
だが―このメイドは違う。
どこを担当しているか知らない。
私の記録に存在しない―つい最近になって働き始めたメイドだろうか。それにしては情報が一切私に記されていない。
「…何か御用ですか?」
とても静かな声色だった。水のようにさっぱりと冷たくて、感情の抑揚のない初めて耳にする声だった。
やはり私は彼女を知らない。
「こ、れ」
目の前の人物が不審であっても私の目的は変わらない。持ってきたハンカチを突き出すと彼女はわずかに片眉を吊り上げた。
「…ユウタ様のハンカチですね。何故あなたがこれを?」
「ユウ、タ様?」
「…質問に答えていただけますか?」
抑揚のない声色だがわずかに強張っている。私が疑問を抱くことを許さないとでも言いたげなものだった。
『ユウタ様』
騎士団の部隊長ともなれば付き人の一人くらいは許される。だが、王族に仕えるものとして多少の地位は約束されるがまさかメイド付きまでとは思わなかった。
「こ、の前ユウタが王宮な、いの庭園に来た、時に忘れ、ていった」
「…そうでしたか。これは疑ってしまって申し訳ありません。では私が渡しておきますのでこちらへ」
受け取ろうとメイドが手を伸ばしてくる。
異常なほどに白くて滑らかな肌の表面。傷も染みもなく、爪は形よく揃っていた。そんな手を見て―違和感。
「…」
メイドとして働くのなら肌は荒れているものだ。手入れが行き届いているのなら別だが私の目にはあまりにも異常に映る。
それだけではない。髪の毛、肉付き、骨格、立ち姿。まるで誰かが手を加えたかのような整い方。生まれ持った完璧な美貌とはまた違う、努力で成し得た美しさともまた異なるもの。
私の記憶の中から引きずり出された感覚。当然見間違いも記憶違いもありはしない。こういう異常さは決まって一つの事実へたどり着く。
すなわち―
「―あなた、は魔、物…」
「…何を仰いますか」
荒唐無稽な発言だっただろう。メイドは気にすることもなく短く返すだけ。焦りも戸惑いもなく私の手からハンカチを受け取った。
だが、わかる。
声色が変化した。右手の指が一瞬反応した。移る視線がぎこちなく泳ぐ。肌にうっすら汗をかく。
人間が嘘をつくときの挙動は全て記録している。しかし、このメイドは嘘をついている挙動はなかった。事実を肯定しているだけ、そう見せつけてくる。
だから、わかってしまう。
いくら完璧な人間だろうと自分に嘘はつけない。だからどこかに、確実に変化が現れる。人間がほかの人間を騙すため、自分自身を偽るため。
だが、彼女は違う。
偽っているのではなく―見せつけている。自分が自分であることを堂々と、嘘を肯定するように。そうあることが当たり前と言わんばかりに。
それは人間が人間に見せつける偽りの姿ではなく―人間のように振る舞う態度。
何度も記憶してきた魔物が人間へと溶け込むときの仕草と同じ物。
「貴方はキ、キーモラ」
メイドの魔物であって人の感情に鋭いという特徴がある。元は怠け者を食い殺す存在だったが今は見目麗しく瀟洒な佇まいの女性の姿。しかし根本は他の魔物と変わらぬ人間を堕落させる存在。耳や尻尾といった魔物らしいものは見当たらないが、その程度隠す術はいくらでもある。
彼女はこの王国にとって許されぬものであり―浄化されるべき対象だった。
「…」
メイドの目が細められた。ちらりと見えた光は剣呑で掌がゆっくりとスカートへ向かう。
体の動き、骨格からの見立て、予備動作を当てはめれば次に起こす行動を予測することは容易い。避けるだけの反射神経は持ち合わせていないが。
「…もし、私がキキーモラだとしたら…貴方様はいかがいたしますか?」
声色こそ変わりないもののその瞳が殺意を向けていることは明らかだった。
攻撃態勢に入っている。今はまだ警戒程度だが私が行動に出れば容赦なく首を狙ってくるだろう。
だからと言って私にどうこうできるはずもない。
私は『本』。戦う術はない、ただ記録するだけの媒体には刃も魔法も使えない。抵抗する力だって一人の女性程度しかない。
私が何もしないでいるとメイドは悟ったのかスカートから手を離した。
「…別に正体がばれたからと言ってどうにもしませんよ。私はメイド。ご主人様のお顔に泥を塗るような真似は致しません」
「それもう、そ」
先ほどの殺意は本物だった。何よりも今目に映っているメイド服のスカート。その揺れ方は布のそれではない。似てはいるが、内側に何かが隠れている。そう、例えば小さくて軽くとも致命傷を与えられる猛毒の塗られたナイフとか―
「…えぇ、嘘です。ご主人様の迷惑になるくらいならその障害を取り除く。時に危険な存在を前にしたとき、メイドというものは騎士よりも気高く強くなるものですので」
嘘のない声だった。偽りのない言葉だった。
このメイドは本気で私を殺せるだろう。否、誰だろうと容赦はしない。その意思が私であっても理解できる。
「…?」
理解できるからこそ分からない。
メイドらしくない。
魔物とも思えない。
人間と呼べる存在では既にない。
メイドというのはただの炊事や洗濯をこなす使用人のこと。
魔物は人間を堕落させる存在のこと。
私の記憶のメイドと目の前のメイドが異なっているのか。
はたまた魔物という情報とこのキキーモラが別の存在なのか。
私らしくない疑問を抱き首をかしげていると彼女の背後から声がかけられた。
「エミリー、どうかした?」
「…ユウタ様」
メイドの声色がかすかに変化した。感情のないはずが先ほどよりわずかに高くなっていた。何よりも向ける視線がねっとりと粘つくようなものだった。髪の毛一本一本、爪の先や浮き出す血管等を頭に記憶するかのように。
…そして涎が垂れていた。
「…いえ、このお方がユウタ様のハンカチを届けにきたとのことでしたので」
「あ、えっと名前は…」
「メモーリ、ア」
教えていなかった名前を伝える。最も、伝えたところで呼ぶ人間などほぼいないが。
「メモーリア、ね。わざわざ届けてくれてありがと、メモーリア」
にっこり笑ってメイドからハンカチを受け取るとそのままポケットへと仕舞い込む。同じ色をしたエプロンのポケットへ。
…エプロン?
「ん?あ、今ちょうど料理してたんだよ。これからピクニックにでも行こうと思って多めに作ってるんだ。メモーリアもお礼を兼ねて一緒にどう?」
「ピク、ニック?」
「そ。たまの休日だしね」
その手を見れば銀色に光る小さなナイフが握られていた。刀剣には及ばぬ切れ味だが料理には適している家庭用のものだろう。付着した黄色と白のものは…卵に違いない。だが、塗れている薄黄色のクリーム状のものは…記憶にない。
「わ、たしは、長い間、王宮を、で、てるわけにはい、かない」
「ならさっさと帰ってくることにしよっか」
「…移動もまた一つの楽しみ。ですが、ユウタ様がそう仰るのならば今回は転移魔法で行くことにしましょう」
「それじゃあ、どうする?」
「…」
黒い瞳が私の顔を映し出す。声色も口調もメイドと異なり穏やかなものだった。
そんなユウタを前に私は考え込む。
私に与えられている時間はいくらでもある。やるべきことも一度目を通せばすぐに終わる。空いた時間はいくらでもあるが、外への持ち出しはあまり良いことではない。私の頭にあるのはこの王国の最重要情報なのだから。
最も―それを読み取れる人物は一人しかいないが。
「い、く」
気づけばそんな言葉が口から零れ落ちた。
たまには良いだろう。そんな風に思うなど私らしくない。変化を望むなど本のすることではないというのに。
だが私の零した言葉にユウタは柔らかく笑みを浮かべた。
「それじゃあ今作り終えるからちょっと待っててね」
そう言って部屋の奥へと戻っていく。ナイフを指でくるりと回し聞いたことのない鼻歌を歌いながら。
そんな姿に粘りつくような視線を向けていたメイドがこちらに向き直る。だが、その瞳は打って変わって物静か。なんの関係もない他者を見る無感情の瞳だった。
「…申し上げておきます。貴方様はどうやら対人能力が著しく欠けているご様子ですが、世の中には言ってはいけないこともあるものですよ」
「あな、たが魔物だとい、うこと?」
「…私が魔物であることなど最早変えられぬ事実。問題なのはそれを聞いた方です」
ちらりと視線を向けるエミリー。その先にいるのはエプロンに身を包み軽やかに料理を続けるユウタの姿。
「…私に対する侮蔑など気にも留めませんが、『私を侮蔑する』ことに怒りを覚える方もいます」
「そ、れはユウタが、貴方が魔物だ、という、ことを否定しているとい、うこと?」
「…ユウタ様は私が魔物であることは既に知っております」
「…」
知っている。
知ってこの王国にいる。
この王国で魔物を傍に置いている。
その事実が―どれほどのことかをわかっていないのだろうか。
「…それでも、私が魔物であるなど軽々しく口にしないようにお願いします。余計な被害を出さぬように気を配るのもメイドの勤めなので」
人間でいう感情的な部分ということだろう。
私にとって記録できないあやふやな事実であって―不確定な感情。
程度はわからず、理由は定まらず。定義のないものなど理解できない。
彼女は私を迎え入れるためにドアから離れて頭を下げて―
「…改めまして、ユウタ様にお仕えする『キキーモラ』のエミリーです。どうぞよろしくお願いします。メモーリア様」
「よろし、く」
とても静かで単調で、私に興味を抱かぬ自己紹介に私も頭を下げたのだった。
部屋へと招かれリビングへと通される。一人で暮らすには十分すぎる程の広さを有する空間内にあるのは王宮内でも多く用いられる家具ばかり。だが、最低限しかなく、そのせいか部屋が無駄に広く感じられる。
「お待たせ」
完成間近だったらしくユウタはできあがった料理を箱に詰めて持ってきた。メイドが受け取ろうとするがにっこり笑ってそれを制する。
「…それではこちらへどうぞ」
手を引かれユウタの隣へと歩みでる。二人並ぶとエミリーは背後へ手を回し、どこからか大きく白い布地を取り出した。
テーブルクロス。テーブルにかける布地だ。彼女はそれを大きく広げた。
視界を阻む白一色。はためく音と反射する光に瞼を閉じる。
「…あ」
それは一瞬の出来事だった。
目の前から全てが消えていた。白い壁紙も、絨毯も、数少ない家具のいくつも。
そして代わりに飛び込んできたのは緑。青。肌を撫でる感触は王宮内より冷たく、香るのは室内にはない植物と水の匂い。
そこは湖の畔だった。
「…やはり良い日和でしたね」
「だね。やっぱりこういう場所は晴れてるほうがいいや」
「…ですが、湖面の側は風が冷たくもあります。お体を冷やさぬようにお気をつけて」
「そだね」
「…古来より冷えた体を温めるために用いるのは女体。僭越ながら私の体でユウタ様をふへへへ」
「涎垂れてるよ」
王宮内に降り注いでいたものとは異なる柔らかな日差し。
吹き抜ける風は緑の匂いを強く運び私の肌を撫でていく。
足の裏から感じるのは石畳や土とは違う草原の感触。
吸い込む空気も同様に緑と草の香りにまみれている。
そこにあったのは整えられた花壇ばかりの庭園とは違うただあるがままの自然の姿。時には絵画として、記録として残された光景とは異なる本来のものだった。
「…」
だが、言ってしまえば王宮内より草が多くて湖があって建物がないというだけの光景。
だというのに何も思い浮かばない。表現する言葉などいくらでも頭の中に入っているというのに。
そんな私を他所に草の上に大きなシートを広げ、先にユウタが靴を脱いで上がり込む。エミリーへと手を差し出してあがらせて―私の方へと向き直った。
「ほら、メモーリアも」
「う、ん」
その手を取って靴を脱ぎ、シートの上に上がる。足の裏に感じる草の柔らかさと覆い隠した布地の感触が王宮内と違うことわからせる。
足踏みしその感触を確かめているとユウタは持ってきた箱を広げ蓋を開ける。そこにあったのは真っ白なパンに挟まれた数々の具。パンを用いた一般的な料理であるサンドイッチだった。
「いろいろ作ってきたよ。卵にハムときゅうり、ベーコンとかフルーツサンドとか」
「…紅茶の用意は既に整っております」
「ありがと。デザートも別で作るべきだったかな?」
「…むしろデザートはユウタ様と…いえ、むしろメインディッシュが……」
「何を言いたいのかわからないなー」
ぼたぼたと零れ落ちるエミリーの涎をユウタが拭っていく。空いてる方の手で一つ掴むと私の方へと差し出してきた。
「え…」
「はい、どうぞ」
手にすればユウタは頷くだけ。促されるままに口につけ、噛り付いた。
「…っ」
いつも食べていた支給される食物とは違う、パンを噛み込む食感。香ってくるのは小麦の香り。パンを終えれば具材へと到達する。挟み込まれたゆで卵がつぶれる食感は柔らかく、にちゃりと舌に届いた味覚は独特なもの。酸味があって、濃厚で、ちょっとしつこくて、だけどこれは―
―表現のしようがない。
「…?」
初めて感じる味覚だった。卵に絡められたものがなんなのかわからない。だが、決して吐き出したいものではない。
「マヨネーズはお気に召したかな?」
「まよ…?」
「卵黄とか塩とか油とかを混ぜて作ったクリーム状のソースのことだよ。こっちじゃまだできてないのかな?」
「…?」
ユウタの知っている料理だということ。それならつまり、彼の世界のものだということだろう。ならば私の記憶にないのも納得だ。
サンドイッチを飲み込んで箱の中を覗いてみる。緑、白、赤に黄色。色とりどりの具材の中から私は先ほどと同じものを手に取った。
「あ、気に入ってくれた?」
「…わ、からない」
それでも次が欲しくなる。そんな癖のある味だった。いくつもの情報や文字を持ってもその程度しか表せないものだった。
そんな私のことを見ていたエミリーがカップへ紅茶を注ぎながら言葉を紡ぐ。
「…本当に美味しいものとは誰が食べても美味しく感じられるものです。」
「おい、しい…?」
言葉の意味は知っている。
飲食物の味が良いということ。それから物事において自分に都合の良い場合を指す言葉。
だが、『おいしい』といったところでそれがどのようなものかはわからない。
好みなんてありはしない。食事はただの栄養補給。
嫌いなんて存在しない。ただ生きれればそれでよい。
味を気にしたことはない。好みなんてわかりもしない。知識として、記録としてあったところで理解はできない。
「…理解できない、というお顔ですね。当然です。理解などするような事ではありません。頭で考えなくとも体はわかっているものですから。こちらもどうぞ」
エミリーから一つを受け取った。
わずかにはみ出した紫色のジャム。ともに挟まれたクリームチーズ。酸味のきいた甘い香りがするものやふんわりとした生クリームと赤い果物は…イチゴだろう。
それを、食べる。
とたんに広がる『甘い』という味覚。もったりとした生クリームの甘みとさっぱりした酸味が染み出し、決してくどさを滲ませない。一噛みすれば濃淡の違いを感じさせ、二噛みすれば甘みに包まれ、三噛みもすれば顎が止まらず動き出す。
「…食べることをやめられないのではありませんか?だとすればそれが好きというものです」
「ひゅ、き?」
「…嫌なものなら避ける。消す。潰す…とにかく目にしないようにとするものですが、好いたものならばその逆です。手を伸ばしたくなる。側に居たくなる。もっともっと欲しくなる……貴方の行いはまさしくそれです」
「……?」
「…ならばユウタ様のサンドイッチをお気に召したということ。それ以上に好きになったと言っても過言ではありません」
言っている言葉の意味は理解できる。
だが、やはりわからない。私自身のことだというのに私自身が説明すらできない。
「…理屈で考えるものではありません。体が自然と動くだけで十分です。貴方の好きは貴方の体が一番よく知っていることなのですから」
「そうな、の?」
「…ええ、そういうものです。だから貴方の手が伸びることもまた自然なこと」
「…ぁ」
言われて気づく。
いつの間にか伸びていた手が今度は別のサンドイッチをつかんでいた。
挟まれているのはハムとレタス。
わずかに感じる香りは…マスタードの酸味だろう。強すぎず、さりとて弱くもなく。私の嗅覚に新しい刺激を与えてくれる。
エミリーの言葉を横で聞いていたユウタは小さく拍手していた。
「流石、エミリー。オレにはそんな上手く説明できないや」
「…恐縮です。メイドですので人の感情や好みについては十分に勉強していますから。だからユウタ様の好みも理解しておりますので今もこのような下着を―」
「スカート捲るのやめようね」
スカートを捲り上げ見せつけようとすればユウタが止めに入る。柔らかに手を握っておろさせる。些細な行為でもエミリーは頬を染め、口角から涎が一筋零れ落ちた。
「あ、む…」
二人をやりとりを目の前にしながらも私の手は止まらない。次のサンドイッチを手にとっては咀嚼し流動物にしてから飲み込む。口内に甘みが広がり喉を擦って食道を通り胃へと落ち行く感覚がとても―良い。
これがおいしいというものだろうか。
これが好きというものだろうか。
今度はただ甘いだけ。その甘みは数種類あって、様々な変化が私の中へと染み込んでいく。
白く膨れた見た目。
かぐわしい香り。
とろける甘い味。
柔らかな感触。
顎から伝う咀嚼音。
記憶へ焼き付き、記録へ刻まれ私の頭へ蓄えられていく。
「い、つもの、と違う」
「…そりゃあんなバランス栄養食バーみたいなもんと同じわけないって」
粉っぽくはない。堅くもない。味気ないものでもない。無香でもない。栄養を固めただけの食物を摂取をしてきたが不満はなかった、はずなのに。
だが、これはなんなのか。
二度目三度目と手が伸びる。はみ出したクリームに舌を延ばしたくなる。酸味のある果物を口内で転がして、歯で噛み潰す感触が堪らなく、喉を流れていく感覚が素晴らしい。
「あ…」
先ほど掴んだときについたのか指先に紫色のジャムが付着していた。それを数秒眺めた私は躊躇うことなく嘗める。
途端に伝わる芳醇な甘み。わずかな酸味を染み込ませながらもそれ以上の甘さが広がっていく。
これが彼女の言うようにー
「―お、いひ、ぃ」
「…えぇ、それがおいしいという感覚です。」
エミリーもまたサンドイッチに手を伸ばし齧り付く。歯を見せず柔らかに、上品という言葉ををありありと見せつけるように。数度噛み締め瞼を閉じる。喉をわずかに上下させると満足げに息を吐いた。
「…ぁあ、とても美味です。ユウタ様」
「口にあったのならよかったよ」
その様子を隣で見つめていたユウタはにっこりと笑った。対するエミリーもわずかに口角を上げる。表情の変化が乏しいかと思いきやそれは照れたような笑みだった。
そんな二人の姿は―どう見ても魔物と人間とは思えない。
どう見ても普通の人間らしからぬ行為だが魔物と人間のあり方とはこういうものなのだろうか。
はたから見れば魔物のエミリーにユウタが騙されていると見えるだろう。だが、ユウタはエミリーがキキーモラであることを知っているし、彼女もそれを隠す気はないらしい。
何故、なのだろうか。
堕落していないユウタを見て、魔物であることを肯定するエミリーを見て、私の中の記録との相違が浮かび上がってくる。
異常なことを疑問に思うことはある。
記録と異なる事態を不思議に思うことはある。
人間と魔物のありかた。
魔物が人間を誑かし、快楽に堕落させ欲望へと身を沈めていく。その様はとても醜く見るに堪えない愚かな姿。故に剣を振り上げ首を落とす。他の者まで堕落させないように。
だが、これはなんだろう。
人間であるユウタと魔物であるエミリー。そのやり取りは人間同士のそれとなんら変わらない。最も、私自身他人のやり取りを詳しく知っているわけではないが。
だが、それでも。少なくとも。
この二人の姿は私の記憶しているものと異なっていた。
「な、んで」
間違いはいけないこと。記録するうえでそれは最もやってはいけない行為。
果たして私が違うのか、それともユウタが間違っているのか。
修正すべきはどちらかなのかはわからないが、それでも正さねばいけないこと。だから私は進言する。それが本らしからぬことであっても。
「ユウ、タは」
「ん?何?どうしたの?」
「ユウ、タはなんで魔物と、一緒にい、るの?」
「…ぁ?」
一瞬、先ほどまで聞いていたものとは明らかに違う声色が耳に届く。突然の変化はまるで別人のようなものだった。低く、明らかに普通とは違う声に隣のエミリーも目を見開いていた。
「…何?どうかした?」
「それ、は魔物。魔物をか、くまった者は極刑。ディユシエ、ロ王国の法律」
魔物を敵対し、主神を崇めるディユシエロ王国内では存在すること自体罪。匿うことは死罪であり、関わることすら罰を受ける。
王国内で暮らすものなら皆が知る常識であり絶対的な法。一歩はみ出せばそれだけで首を飛ばすこともありうる行為。
だというのに―どうして彼はその危険を冒してまで魔物を隣に置いているのか。
「許さ、れ、る行為ではな、い。ユウタが、やってい、る行為はおかしい。魔物はディユシエ、ロ王国内では存在自体ゆ、るされない」
「…それはエミリーに向かって、遠回しに死ねって言いたいの?」
薄紅色の唇が弧を描く。柔らかな笑みを浮かべ続けているのだが、その瞳はどこか冷たい。
「違う。貴方は、死罪にあ、たいする行為をしている。た、だそれだけの、事実を言、ってるだけ」
罪を記録したところで私に人を裁く力はない。むしろこの場では圧倒的に私の方が不利である。一般的な女性の力にすら敵わない私が二人相手に何かできるわけがない。
事実を突きつけるだけの私にユウタは小さく息を吐いた。
「そっか。それじゃあ忠告として受け取っておくよ。ありがと」
ありがとう。感謝の言葉。それとともに送られる微笑だが―なぜだろう。
私の頭が記録する。かつてない何かを。
見たくないと思ってしまった。
知るべきではないと悔いてしまった。
私らしくない感情が胸の奥から湧き出してくる。言葉にできるものではないが、ずっと抱き続けたいとは思えない。先ほど知った『好き』とは全く違う、むしろ離れたくなる感情が湧き出してきた。
「…ユウタ様」
エミリーが袖を引く。真っ直ぐに見つめながら。
だが、その瞳は揺れていた。ほんのわずかな差異しかないが、先ほどとは異なっていた。
それは動揺か。困惑か。なんの感情を示しているかはわからない。
「…いけません。私は大丈夫ですからその手を下げてください」
「……………………別に何もしないよ」
にっこりと笑ってエミリーの手を押し返す。隠せない程に不安げだが、それでもユウタは優しく語り掛けると―私へと向き直った。
「確かに死ぬ危険性もあるよ。実際レジーナには目をつけられてるわけだし、何かやらかせばエミリーもオレも殺されかねないよ。だけど、それでもオレはエミリーを突き放すつもりも見捨てることもしないよ」
「?それ、だけの価値があ、るから?」
「価値の問題とかそんなんじゃないよ。もっと大切で、言葉なんかじゃ表せないこと」
「……?」
わからない。
何が言いたいのかと、何をわからせたいのかとまったく理解できない。
私の頭の中にはいくらでも情報が詰まっている。なんでも記録し、蓄えてきた。言葉も、出来事も何もかも。
それでもなおわからないのはユウタの言うことが言葉で表せぬことだからだろうか。
私が知らぬのではない。私が理解できないだけなのだろうか。
わからない。
死ぬことすらありうるのに魔物を傍に置く理由が。
存在することすら許されぬ王国で傍に付き添う意味が。
事実を突きつけただけなのに変わってしまった雰囲気が。
心に湧き出した形容しがたい感情が。
何も、わからない。
―ただ。
身を寄せるエミリーの姿と何も言わずに受け入れるユウタの姿を見て―
―全て覚えている私が
―有り得るはずのない
―朧げな懐かしさを、抱いていた。
16/07/24 23:44更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
戻る
次へ