占いと相談
残り三日。
見回りをしていても、そのことばかりが頭にちらついた。
そこの曲がり角にはお気に入りのパン屋がある。通りを挟んだ向かい側には激烈にまずい酒場。それ以外にも、ルークの知っている場所は何一つ変わっていない。そもそも、町がそう簡単に変わることはない。そんな町を見回るルークの仕事だって同じだ。ただ、日常は変わらなくとも、ルークを取り巻く状況は変わっていた。
その原因とも言えるミラはといえば、いつも通りの表情でルークとともに見回りをしている。その様子はこれまでと少しも変わらない。そんなミラの様子を見ていると、昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思う。だが、ミーネの時と同様に好きだという言葉が耳に焼きついている。
横目でミラを盗み見ると、やはり普段と変わらぬ表情で辺りに目を向けている。挨拶をされればしっかり応じているし、軽く談笑を交わしてもいた。貴族であるという事実も含まれてはいるだろうが、それでもその様子は誰からも慕われる、人望溢れる一人の女騎士だった。そんなミラから好意を寄せられているという事実がどうしても理解できない。
改めてミラをそういう目で見てみると、目はぱっちりとしているし、肌はなめらかで触るとすべすべしていると一目でわかる。唇だってつやつやとしていて、触ったら間違いなくやわらかいだろう。今までほとんど気にしていなかったが、改めて見れば美人である。
容姿に恵まれているという点ではミーネも同じだ。狐の耳と尻尾というおまけはついているが、それを差し引いてもあの娘が男にとって好ましい容姿をしていることは、同僚達の反応を見ても明らかだ。
そんな二人から告白されている今の状況は、見方によっては恵まれているのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ミラを再び横目で見る。その整った顔を見ていると、今更ながら隣りを並んで歩いているのが気恥ずかしくなってきた。
「ルーク」
いきなり名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「……なんだよ」
盗み見ていたことがばれないように低めの声を出すルークだったが、ミラはきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、近くの路地裏に入っていく。そこでルークに来るように手招きする。
「なんだ……?」
大人しくついていくと、ミラは小さく笑って言った。
「さっきから私の顔ばかり見ているようだが、なにか言いたいことはあるか?」
「それは……」
ばれているとは思わなかっただけに、ルークは言い訳が思いつかず、視線だけが逃げる。ルークのそんな反応にミラは確信を得たらしく、少しだけ身を近づけてきた。
「その……したいのか?」
「いや、したいって、なにをだ……?」
ここで下手な誤解をするととんでもないことになるのはわかったので、とりあえずミラに確認すると、その顔が少しだけ赤くなった。
「その……口づけ……だ……」
「なっ。そういうわけじゃっ」
「したいなら、してもいい」
ミラらしからぬ大胆な発言に、ルークは思わず見返していた。
「私と一緒に来てくれたら、好きなだけしていい」
今度こそルークは絶句するしかなかった。次いで、目の前にいるのは本物のミラなのかとじっと見つめる。アンバーの瞳と目が合うと、ミラの頬が更に赤くなった。
「な、なんだ。私が素直に言っているのだから、なんとか言ったらどうだ……?」
「いや……。その、積極的すぎないか……? 恥ずかしくないのかよ……?」
「恥ずかしいとは思ってる。ただ、もう言ってしまったから開き直っているだけだ」
照れているのが丸わかりの表情で、ミラは少し不貞腐れるようにそう言った。
対するルークは内心で非常に焦っていた。自分の発言に照れているミラが新鮮で、どうも隊長としてではなく一人の女性として見えてしまったのだ。それ自体は別におかしいことではないのだが、ルークのミラに対するイメージは面倒見のいい隊長というもので、失礼かもしれないがそこに性別は含まれていなかった。その性別を認識した途端に、相手は美しい女なのだとはっきり意識してしまう。
ミーネの時もそうだったが、女だと意識させられるともう駄目だ。
ろくに返事を返さないルークにどう思ったのか、ミラは小さくため息をつくと、追及するようなことはせずに話題を変えてくれた。
「ああ、そうだ。昨日言うのを忘れていた。ミーネに今度会ったら、時間があったらこの三日間のうちに私の所に来てほしいと伝えてくれ」
「あ? あいつになにか用でもあるのか?」
「まあ、そうなるな。女同士の話というやつだ」
ミラは意味深な笑みを見せる。
それを見て、一瞬、ミーネにも告白されていることを知っているのかと思った。だが、それについて悩んではいても、誰かに話したことはない。
なんにしても、これ以上ミラに責められるときつかったルークは茶化さずに同意しておいた。
「わかった。伝えておく」
どうせ今日は半日で仕事は終わりなので、昼飯ついでに言えばいいだろう。
「頼んだぞ」
どこか哀愁を感じさせる空気を纏いながら、ミラは小さく笑った。
昼になって仕事が終わると、もはや習慣になっているミーネの家に向かう。冬が近づきつつある森は落ち葉で地面を別の色に染め上げており、秋ももうすぐ終わりだと実感する。
季節の移り変わりに合わせて景色を変えている森を抜けると、目的地のミーネの家だ。さっさと寒い空気とおさらばしようと扉をノックすれば、五秒と待たずにミーネが顔を覗かせた。
「あ、お帰り。そろそろかなって、待ってたんだ。入って入って♪」
にこにこと笑みを浮かべているあたり、今日はご機嫌らしい。まあ、意識されてぎこちない空気を出されるよりははるかにいいので、ルークも気にせずに家に入る。
「ん? なんか、妙に暖かくないか?」
寒い外から来たことを除いても、今日の家の中は普段よりも暖かく感じる。
リビングに移動してそれに気づいたルークがどういうことだとミーネに目を向けると、ミーネは少しだけ得意げに言った。
「えへへー。実は今日から暖炉を解禁したの♪ 薪もたくさん用意したし、今日からはぽかぽか生活だよ♪」
そう言うミーネの尻尾はご機嫌だとばかりにわさわさ揺れている。ここまで暖炉にはしゃげる理由がわからないが、本人が楽しいならいいだろう。
「ま、冬は必須だしな。しかし、お前が火や薪の管理とかできんのか?」
最近はなりを潜めるようになってきてはいるが、ルークの予想を平気で裏切る行動ができる娘なのだ。お昼寝していて火事になりましたなんてことになっても、なんら不思議ではない。
ところが、そんなルークの考えはお気に召さなかったらしい。聞いた瞬間にミーネはむーっとむくれてみせた。
「ルーク、わたしのこと子供扱いしてるでしょ?」
「そこまでは思ってないが、大人ではないと思ってる」
その返答に、ミーネはいたく憤慨したらしい。ますます頬を膨らませると、じとっとした目で見つめてきた。
「わたしだって、今まで一人で暮らしてきたんだからね。火の管理くらいできるもん」
そう言って意地を張っている時点で大人ではないのだが、ミーネなのでこれくらいがちょうどいいだろう。告白のことを思い出すと瞬時にため息をつきたくなるのだが、こうして見ている分には意外と悪くないと思えるから不思議だ。
「そうか。だったら、ついでに俺に恥ずかしい思いをさせないでくれるともっといいんだがな」
「あう……。そ、そんなつもりじゃないんだよ………? わたしなりに考えてみて、それがたまたまダメだっただけで……」
言い訳を始めるミーネの耳がぺたんと伏せる。尻尾はしゅんと垂れ下り、一目で感情がわかるから面白い。それを見て、ここ最近振り回されっぱなしの心に小さな復讐心が芽生え、ちょっとした悪戯を思いつく。
「まあ、俺も怒るほど恥ずかしかったわけじゃないけどな。そういう思いをさせられた事実はあるわけだし、そこのところ、お前はどう思ってるんですかね」
意地悪を言ってやると、ミーネは更に「うう……」と呻き、困り顔で見つめてきた。
「その……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない」
「えっ……。じゃ、じゃあ、どうすればいいの……?」
謝罪を突っぱねられるとは思ってなかったのか、ミーネがますます困り顔になる。かなり適当な考えだったが、ミーネは簡単に釣れた。本当に単純というか、お人好しなヤツだと思いながら、ルークはさらりと言ってやった。
「そうだな。じゃあ、なにか恥ずかしいことでもしてくれ」
「は、恥ずかしいこと……?」
「そうだ。俺が恥ずかしい思いをさせられたんだから、お前も同じ思いをすればそれでお互い様ってことになるだろ」
これがルークの復讐だ。もっとも、実際にやらせるつもりはない。少しだけ困らせるだけの悪戯だ。だから、しばらくしたら適当にもういいと言ってやるつもりだった。
そんなルークの考えなどわからないミーネは「えと……恥ずかしいこと……」と呟きながら、ルークを見つめる。その顔は大好きな主人に意地悪をされた子犬のようだ。
そろそろいいかと判断し、ルークが口を開きかけた時だ。
「ルーク」
ほんのりと頬を赤くしたミーネが呼んできた。
「あ?」
本当になにかするつもりなのだろうか。
ルークがどうする気だと様子を眺めていると、ミーネは顔を赤くしながらそっと自分の口元に手を当てて、そのままちゅっと払うような仕草をした。
いかにこの手のことに疎いルークでもこれはわかる。俗にいう投げキッスというやつだ。ルーク目がけ、ピンクのハートがふわふわと飛んできている。もちろん実際にはなにも見えず、あくまで脳内の映像でしかないのだが、飛んでくるハートに対してルークは、
「うおっ!?」
思いきり身を逸らし、全力で避けていた。
「よ、避けられたっ!?」
ルークの中ではぎりぎりでセーフだったが、ミーネの方でも避けられたという判定らしい。なんとも恨めしそうな目で睨んできた。
「せ、せっかく頑張ったのに、避けるなんて酷いよっ!」
「あ、わ、わりぃ……わりぃ、のか……?」
思わず謝ってしまったが、よく考えるとそこまで悪いことなのか、少し判断に迷う。しかし、ミーネはいたくご立腹のようだった。
「うぅ〜、恥ずかしかったのに……」
ミーネの目尻に僅かに涙が浮かぶ。こうなってくると、悪いのは全面的にルークという空気だ。しかし、最初の話の流れなら、これでおあいこのはず。
「いや、だってお前、あれは、その……無理だろ」
避けないということは投げキッスを受け取るという選択しかない。そんなことは絶対に無理だ。しかし、ミーネはそうしてほしかったらしい。
「じゃあ、ルークも恥ずかしいことしてっ。そうしたら、許してあげる」
「なっ……」
どうやら思っている以上に機嫌を損ねてしまったらしい。ルークが恥ずかしいことをするまで許す気はないという雰囲気だった。ミラといい、ミーネといい、告白するとなにか心境に変化があるのだろうか。
それはともかく、ミーネのご機嫌を回復するには要求に応えるしかない。だが、恥ずかしいことと言われても思いつかない。そんなルークをミーネがむくれ顔でじっと見つめ、無言の催促をしてくる。それを見て、ふと閃いた。
ルークはミーネをしっかり見つめ返すと、そっと口元に手を当てる。ミーネの顔に困惑の色が浮かぶ。その顔目がけ、ルークはミーネと同じようにちゅっとやってやった。見る者が見たら鳥肌ものの男投げキッスである。やってみたら、顔が燃えてるんじゃないかと思うくらいに熱くなった。少々納得いかないが、これであおいこだ。
ミーネもこれには驚いたのか、ルークが投げキッスの動作をすると驚愕の表情を浮かべた。だが、すぐにぐっとなにかを堪えるかのような顔になると、頬をほんのりと赤く染めながら目を閉じて、口を突き出すような体勢になった。
「っ……!」
ルークが唖然とするしかないなか、ミーネはきっかり一分はそうしていただろうか。やがてうっすらと目を開けると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「えへへ……。投げキッス、されちゃった。これも間接キスになるのかな……?」
自分の唇に手を当てるミーネの背後で尻尾がゆらゆらと揺れている。それを見たルークはソファにどかっと座り、すぐに顔を手で隠した。右手に感じる顔の温度は過去最高と言っていいくらいに熱い。おかしい。恥ずかしい思いをさせた罰として恥ずかしいことをしたら、倍にして返された。
なによりも腹立たしいのは、こんなやり取りを少しだけ、ほんの少しだけ楽しいと感じている自分がいることだった。
「っ〜〜! 隊長がお前に話があるから、明日か、明後日のどちらかに会いに来てほしいって伝言だっ」
「ミラさんが? なんだろう? ルーク、なにか聞いてる?」
「知るか!」
吐き捨てるように言っても、ミーネはにこにこと嬉しそうなままだった。初めてミーネに敗北した気分のルークはこの日、まともにミーネを見ることができなかった。
残り二日。
昨日、ルークからミラの伝言を聞いたミーネは朝からさっそく騎士団の本部に顔を出していた。本当ならミラはルークと一緒に見回りらしいのだが、ミーネが来るとミラはルークだけに見回りを言い渡し、自分の部屋へと通してくれた。
「呼びつけてしまって悪かったな。本当なら私が訪れるべきなのだろうが、生憎とまとまって空く時間が取れそうもなくてな」
そう言いながら、ミラが用意した茶菓子と紅茶とをミーネの前に置いてくれる。紅茶のいい香りに思わず顔が綻ぶが、危うく今日来た目的を忘れそうになったミーネは慌てて手を振った。
「あ、いえ、わたしはそこまで忙しくないですから、ぜんぜん大丈夫です」
最近していることといえば、薪を作っておくか、森でキノコを始めとする山菜の採取か、ルークのための料理勉強かのいずれかしかない。そのどれもが空いている時間にのんびりやればいいものなので、時間を持て余しているのはどう考えてもミーネだ。だから昨日ルークから伝言を聞いた時は、予定ができて少し嬉しかった。
「えと、それで、わたしにお話があるんですよね?」
「ああ。では、この前と同じように単刀直入に言おうか」
ミラは楽しそうに笑うと、紅茶を一口含んでから続けた。
「ルークに告白した」
思わず目を見開き、ミラを見つめた。人化の術を使っていなかったら、狐の耳はぴんと立ったことだろう。
意外な言葉にミーネはどういうべきか悩んだが、きゅっと唇を結ぶと、ミラを見据えた。
「わたしも、告白しましたっ」
今度はミラが意外そうな表情を浮かべた。だが、やがて納得したように口元に笑みが浮かぶ。
「ああ……最近のルークの様子はそういうことか……。返事はもえらたか?」
「えと、それはまだ……。あの、ミラさんは……」
「私もまだだ。だが、ルークが悩んでいるところを見ると、お互いに脈がないわけではないらしい」
思わぬ情報にどう返事を返していいかわからない。だが、可能性があるということに、胸の奥の不安が少しだけ和らいだ。
「あの、お話したいことって、そのことですか?」
「いや、実はもう一つある。どちらかというと、こっちが本命だな」
ミラの笑みが少し物憂げなものに変わった。
「明後日、私はこの国を出ていく」
「え……」
思ってもみない言葉だった。頭の理解が追い付かず、しばらく無言でミラを見つめるミーネだったが、なにか言わなければと言葉を必死に探す。
「あ、あのっ、それ、どういう、ことですか……? 国を出るって……」
「そのままの意味だ。私はこの国を出ていく。そして、もう二度と戻ることはないだろう」
あまりにもきっぱりとした宣言だった。ミラのことはあまり知らないミーネだが、それでもそれが冗談ではないことは嫌でもわかった。
「えと、それ、どうしてですかっ? 出ていかなくちゃいけないことでもあったんですかっ?」
「いや、そういう事態は起こっていない。これはあくまで私の意思だ。これをお前に教えたのは、もしかしたらルークも一緒に行くかもしれないからだ」
「ルークも……」
仮にそうなったら、ミーネがルークに会う機会は二度とないだろう。それを想像すると胸の奥が痛くなる。
「まあ、あいつが私を選んでくれればの話だがな。だが、あいつが私とお前、どちらを選ぶにしても、私はこの国を出て行く。つまり、この三角関係がどのような結末になっても、私はお前の前からはいなくなる。だからな、最後に挨拶をしておきたかった」
どこか終わりを感じさせるような笑顔が、最後の挨拶だという言葉を強調する。
「そんな……、最後って……」
もう会えない。それがルークではなくとも、長い間孤独だったミーネにとって誰かとの繋がりが切れてしまうことは、とても心が痛むものだった。
「あの、勝手かもしれないですけど、わたし、ミラさんとは初めて会ったあの日から友達になれたんじゃないかって思ってました」
「お前……」
目元が少し熱い。だからか、ミラは少し驚いたように見つめてくる。
「だから……わたしもミラさんに言わなくちゃいけないことがあります。わたし、ずっと隠してたことがあるんです」
この国で生きていくためには、決して言えない秘密。でも、ミラには知っておいてほしいと思った。だからこそ、自分が人ではないという事実を告げようと身体を乗り出す。だが、ミーネが口を開くより先に、ミラの手が待てと顔の前に突き出された。
「それ以上は言わなくていい」
笑みを浮かべながらのミラの言葉に、ミーネは拒絶されたような寂しさを感じ、なんとか聞いてもらえないかと食い下がる。
「でも……」
「ああ、誤解しないように言っておくが、聞きたくないわけじゃない。お前がなにか大事なことを打ち明けようとしてくれたことは、素直に嬉しい。だが、それを聞いてしまったら、私達は今までのような関係ではいられなくなってしまう気がするからな。だから、言わなくていい。最後まで、このままの関係でいさせてくれ」
「でも……わたしは……」
やりようのない気持ちになり、顔を俯ける。
「私も、きっとお前のことは友達だと思っているのだろうな。この国を出ると決めた時、お前には言っておかなくてはならないと思った。だからこそ、こうして呼び出してまで挨拶をしておきたかった。ルークのことがなければ、また違った形の友人になれたかもしれないな……」
「それは、今からでは駄目なんですか……?」
ミラは力なく首を振る。
「全てが遅すぎた。もし私があの家に生まれていなければ或いは……いや、最初からその可能性はなかったのかもしれないな。騎士にならなければ、お前に会うこともなかったか。あちらを選べばこちらは成り立たない。ままならないものだ……」
諦めたように微笑むと、ミラは紅茶をそっと口に含む。
「わたしは、どうすればいいですか……? 本当にこれでお別れなんですかっ?」
「月並みな台詞だが、ルークがどちらを選んでも、友達でいてくれたらそれでいい。例え、もう二度と会えないとしてもな」
言葉の端々から、これで最後なのだという意思が込められていた。それが苦しくて、ミーネは逃げるように紅茶に手をつける。ただ、湧き上がってきた苦い感情は飲み込めそうになかった。
陽が沈み始めてあちこちに影がさし、夜へと変わっていく頃、ルークはぼんやりと見回りを継続していた。だが、目に映る景色に意識は向かず、頭はミラとミーネのことでいっぱいだった。
午前中から来たミーネがミラとどういうやり取りをするかはわからない。だが、そこには恐らく自分の話題が上がることだろう。その内容はもちろん……。
「はあ……」
何度目かわからないため息が勝手に口から洩れる。ミラとミーネ、どちらかを選べばいい。たったそれだけのことなのに、決断できないでいる。
こんな時に頼りになるのはキースだが、今は隣り町に出張中だ。馬を使えば会いに行ける距離ではあるが、今はもうその時間が惜しい。
残された時間は一日強。その間にどうにか決断しなければならない。だが、それができない。
「国を出るか、あいつを選ぶか……」
ミーネを選ぶなら、あのいつもの少しバカっぽいやり取りを延々と続けることになるのだろう。刺激は少ないが、なにせミーネだ。ルークの想像もつかない言動をする可能性は多いにある。それがなんだかんだで嫌ではないから、疲れはするかもしれないが、それなりに楽しい日々になるだろう。
ミラを選ぶなら、逆に波乱万丈の日々になるに違いない。国を出て外の国に行けば、あちこちに新しい刺激があるはずだ。ルークも男なので、そういった冒険に近いことには強く惹かれるものがある。そして、それはミラと共有することになる。時には野宿だってすることにもなるだろう。そうなったらミラはどういう反応をするのだろう。普段は凛々しいが、時に女の顔も見せるのでどういうやり取りになるのか想像もできない。決して楽ではない旅路になるはずだが、不思議と苦労よりもその過程にある楽しみを考えてしまう。
少し先の未来から意識が現実に戻ると、ルークはようやく現状を理解できた気がした。どちらを選んでも、自分には二人のうちのどちらかが傍にいてくれる。それは、思っている以上に幸運なことだ。だからこそ、選ばれなかったもう一人について考えてしまう。
「三角関係は大変、か……」
昔、キースがそんなことを言っていた気がする。その時のルークは「俺には縁のない話だな」なんて自虐的なことを言って、キースと共に笑っていた覚えがある。もし時間を渡れるなら、あの時の自分を殴りに行きたいところだ。
「そこの難しい顔したお兄さん、ちょっといいかしら」
横からそんな女性の声がした。なんだと思ってそちらを向けば、壁を背にして置いた椅子に座る、ローブ姿の人物がいた。そこには白いテーブルクロスを敷いた小さな四角のテーブルが置かれ、その上には小さな水晶玉が鎮座している。一目で占い師だとわかるセットだったが、あまりにも捻りがなさすぎてどうにも胡散臭い。
ルークは辺りに目を向けるが自分以外に人の姿はない。どうやらルークが話しかけられているらしい。
「なんだよ、あんたは」
「そうね、怪しい占い師といったところかしら」
自分で怪しいという人間を、ルークは初めて見た。
「そこは普通の占い師って言うとこじゃないのか」
「普通じゃ占いが当たらなそうじゃない。だから怪しい占い師でいいわ」
自信があるのか、自称怪しい占い師はそんなことを言う。フードを深く被っているので顔は分からないが、ミステリアスな容姿に反して意外と軽い性格らしい。
「あーそうかよ。それじゃ、お疲れさん。俺、占い信じてないんで」
こんなどうでもいい相手に構っている時間は一切ないので、ルークはさっさとこの場から立ち去ろうとする。
「ふふ、そういう人だと思ったから声をかけたのよ。どう? 料金は一切いらないから、騙されたと思って少しおしゃべりをしていかないかしら?」
どう言えば人の感情を動かせるか把握しているような言い方だった。これでなおルークが占いを拒めば、単に意地を張っているだけの男になってしまう。
ルークは軽く舌打ちすると引き返し、乱暴に占い師の前の席に座った。
「無料で占いとは大したもんだな。ボランティアでもしてんのか? だったらその辺のゴミでも拾ってろよ」
「ご心配なく。基本的には有料だけど、私が個人的に占いたいと思って声をかけた人は無料にしているだけよ」
ルークの軽口をすんなり流し、彼女は水晶へと右手をかざす。ローブの袖から出てきたのは真っ白な素肌の手だった。
「さて、さっそく始めていいかしら」
「言ったように俺は占いなんて信じちゃいないからな。さっさと始めて、とっとと終わりにしてくれ」
「ふふ、じゃあ始めましょうか」
不満を垂れ流すルークには構わず、占い師は水晶にかざした手をゆっくりと円を描くように動かす。
「なにか悩んでいることがあるみたいね」
「そりゃ、誰にだって悩みくらいあるだろ」
そんなことは占いをしなくたってわかる。これはさっさと切り上げた方がよさそうだという考えが早くも頭をよぎる。
「あら、女関係ね。それも二人」
「なっ……」
どうせわかりっこないと思っていたら見事なまでに言い当てられ、思わず呻くような声が出ていた。
「その顔は図星みたいね。モテるの?」
顔に出ていたからか、占い師は少し楽しげだ。
「……なんでわかった」
「さあ、なんでかしらね。そんなことよりこれが、あなたが難しい顔をしていた理由かしら?」
見られたくなかった失敗を見られた気分で、ルークは盛大にため息をついた。こうなったら開き直るしかない。
「そうだよ。信じられないことに二人に言い寄られてる」
「それでどちらか選べず悩んでいる、でいいかしら」
「ああ、そうだよ。そんなわけで、どうするか考えるしかない。こうしている時間が惜しいんだ。あんたは占いが当たって満足しただろ? だったら俺はもう行くぞ」
「じゃあ、少しだけあなたの悩みを和らげてあげるわ」
腰を浮かしかけたところでそんな言葉が飛んできた。
「あ? なんだよ、占いだけじゃなくてそういう相談もしてくれるってのか?」
「ええ。もっとも、最後に決断するのはあなただから、そういう意味では無責任に煽るだけかもしれないけれど、それでもよければね」
どうするべきか、少し悩む。相談するなら、やはりキースがベストな選択だ。それは間違いない。だが、時間がそれを許さない。そうなると、次の候補を探すしかないのだが、生憎と、この手の話で頼れる知り合いは他にいない。強いて上げるならミラだが、そのミラから告白されているのだから、そもそも相談対象にならない。
ルークは苦い気分で椅子に座り直した。
「……わかった、参考までにあんたの意見を聞こう」
「じゃあ三つ、あなたに選択肢を提案するわ。まずは一つ」
白い指が一つ立てられる。
「あなたが今悩んでいるように、どちらか一人を選ぶ」
「それができないから困ってるんだろ」
「そうでしょうね。だから二つ目。どちらも選ばない。良くも悪くも平等ね。お互いに何も得られず、痛み分けにする。お勧めはできないけれど、選択の一つとしては存在するわ」
確かに選ばないという手もある。だが、それをした場合、ルーク達三人の関係は完全に途切れてしまう気がした。なにより、ミラは国を出て行くと宣言しているのだ。そうなったらミーネとも会う気にはなれないだろう。
「……三つめは?」
占い師は、そっと手を閉じた。
「最後の三つめ。どちらかを選ぶのではなく、両方とも選んでしまう」
「なっ!」
思いもしなかった提案がきた。しかも、それを言った占い師にふざけている気配はない。だからこそ、ルークの中で、一気に怒りが込み上げてきた。
「そんな馬鹿げたこと、できるわけないだろっ!」
「そう? お互いに納得の上なら、方法としては悪くないと思うけど。誰も傷つかず、最良の結末になるんじゃないかしら?」
「やっぱ、時間の無駄だったな。もう行く」
少しでも期待した自分が馬鹿だった。そもそも、どれだけ意見を聞こうと、最後に決断するのはルークなのだ。最初から、一人で考えるべきだった。
「ねぇ、あなたはなぜ悩んでいるの?」
なぜかその問いは、まるで水のように熱をもったルークの頭に入り込んできた。
「その理由は言っただろ」
「そうね。でも、私が言いたいのはそんなことじゃない。あなたが悩んでいる本当の理由よ」
どういう意味だと睨むが、占い師は一切気にせずに続ける。
「だから、それは」
「二人とも好きだから」
この短い時間にルークはどれだけ意表をつかれればいいのだろう。たった二文字の言葉が、これ以上ないくらい正確に胸を貫いた。
「……違う。俺は、俺が悩んでいるのは、最初に言った理由が全てだ。二人を同時に好きになるわけないだろ」
「もしかして、二人を同時に好きになるのは悪いことだとでもと思っているのかしら。だとしたら、それは間違いよ」
「どこがだ。言っちまえば、目移りしてるってことだろ」
「悪い言い方をするならね。だから、良い言い方を言っておくわ。それくらい、あなたに想いを寄せる二人がいい女だということよ。だからあなたは二人を好きになり、どちらを選ぶべきか悩んでる」
「っ……!」
胸がゆっくりと締め付けられていく。それに合わせて、重いため息がもれる。
「……どちらかを選んじまったら、選ばれなかった方は最悪だろ」
「いいえ、最悪なのはそんな理由でどちらも選ばないことよ。あなたの心の中の天秤は完全に拮抗している。そこにあなたがより好きだという想いを載せれば傾くのに、あなたはもう一人のことを考えてしまってそれをしようとしない。待たされている今がどれほど不安か、あなたにわかるかしら」
ぐうの音も出ないくらいに正論だ。それなのに、不思議と非難されている感じはしない。むしろ―。
「あんたは俺に、どうしろって言いたいんだよ……?」
「二人のどちらがより好きなのか、二人のどちらと共に歩いていきたいのか、はっきりと選びなさい。例え、そのせいで誰かを傷つけることになってもね」
「どちらかを選べば、選ばれなかった方は絶対に傷つく。それが、正しいって言うのかよ」
その問いに、占い師フードの奥で笑った気配がした。
「あなた、優しいのね」
言われてみて妙な気分だった。自分に対する評価は色々と聞いたが、優しいと言われたのははじめてな気がする。そのせいで、ルークは思うように言葉が出てこない。
「自分の選択で誰かが傷つくかもしれない、それは嫌だ。思いやりがあって、素敵だと思うわ。でもね、個人的な意見を言わせてもらうと、自分を好きだと言ってくれる女には誰にでも優しいのは、本当に優しいとは言わないんじゃないかしら?」
「それは……」
言い繕おうにも、頭が働かない。話してはいけないのだと、身体が勝手に反応しているようだった。
「さて、色々言ったけど、大事なことは一つだけ。しっかりとあなたの想いを伝えてあげなさい。あなたを好きだと言ってくれる人のためにもね」
これで話は終わりらしい。水晶へとかざしていた手がすっとローブの中へ戻される。それを見送ると、ルークは財布を取り出した。
「いくらだ?」
「あら、代金はいいと言ったはずよ」
「確かに言っていたが、それなりに参考にはなったからな。代金はきちんと払う」
「けっこうよ。その代わりに見せてもらうわ。あなたがどんな選択をするのかをね」
彼女に、占いの代金を受け取る気はないらしい。仕方なくルークは財布をしまった。
「そうかよ。ま、結果は期待しないでくれ。とりあえず、少しは気が楽になった。信じちゃいなかったが、占いの腕はよかったと言っておく」
「それはよかった。じゃあね、悩める騎士さん。それなりに楽しい時間だったわ」
ひらひらと手を振って見せる占い師に背を向け、ルークは歩きだす。
陽が落ち始めたからか、辺りは少し薄暗くなってきており、ところどころに明かりがつき始めた家が目につく。そんな道を歩いていると、広場に続く通りから、金髪の女性がやってきた。一瞬ミラかと思ったが、背格好の違いから、すぐに別人だとわかる。だが、その顔には見覚えがあった。
やがて女性とすれ違うという距離になった時、ルークはようやく思い出すことができた。ハッとするような整った顔立ちに、服の上からでもわかる豊かな胸。いつかミーネとミラの三人で昼に立ち見した劇で精霊役を演じていた人物だ。今日の公演は終わりなのか、仕事を終えてすっきりした表情をしている。改めて見ても、やはりずば抜けた美人だ。カリムが高嶺の花だと言ったのも理解できる。だが、今のルークにとって彼女は道行く人の一人にすぎなかった。
明後日には、必ずどちらかを選ぼう。そう決心しながら、静かな通りを歩いて行った。
彼女は軽い足取りで一人道を歩いていた。待ち合わせ場所はこのこの先のはずだった。やがて、人気のない通りにいかにも胡散臭い占いセットを広げるローブ姿の人物と、その傍に控える黒髪の青年を見つけた。
彼女はそこに足早に向かうと、占い師の傍で優雅に一礼してみせる。
「やあ親愛なるミリア姫、ご機嫌麗しゅう」
「相変わらず意地悪ね、フリーレ。その言い方はやめてと、何度も言ってるのに」
「意地悪なのはお互い様だよ。類友というやつだ」
フリーレはにっと笑うと、傍に立つ青年へと目を向けた。
「婿殿もご機嫌はいかがかな? 今日も男前だね」
彼女の言葉に青年は表情こそ変えなかったが、少しだけ眉が困ったように動いた。それを見て、ミリアがくすくすと笑う。
「社交辞令とはいえ、褒めてくれてるんだから、少しは嬉しそうにしたら?」
「いやいや、社交辞令ではなく、私は真面目に褒めてるよ」
彼の顔に少しだけ困惑の色が浮かぶ。最終的には目礼で応えることにしたようだ。
「はあ、いいなーミリア。私もこういう夫が欲しい」
「グレンは私のものだから駄目ね。他の人を頑張って見つけてとしか言えないわ」
「ああ、なんて酷い。見知らぬ妖狐は応援するのに、昔馴染みのダンピールは応援してくれないのかな?」
「そう言うのなら、まずは想い人を見つけてほしいわ。そうじゃないと、手の貸しようがないもの」
フリーレは肩をすくめて近くの壁に寄りかかった。
「それがなかなか見つからなくて困ってるんだよ。そのためにわざわざ旅する劇団に入ったのに、胸をときめかせる出会いがなくてね」
「ああ、夢が詰まってるからそんなに大きくなったのね」
フードの下のミリアの目がフリーレの立派な胸に向かう。対するフリーレは言われた瞬間にさっと両腕で胸を隠した。
「言わないでくれ。この胸がちょっとコンプレックスなのは知ってるだろうに」
「さっき、私のことをあまり呼んでほしくない呼び方で呼んだ人がいたわね」
楽しげな声で追撃を放ってくるミリアに、フリーレは悔しそうに唇を噛んだ。
「姫様がイジメなんて格好悪い」
「あら、酷いわ。友達の心ない言葉に傷ついたから、今回、劇団への出資はやめようかしら」
明らかに冗談だとわかる口調だったが、それを聞いたフリーレは弾かれたように動き、ミリアの傍で深く頭を下げた。
「是非払って下さいお願いします!」
フリーレのあまりの豹変ぶりが看過できなかったのか、グレンが控えめにミリアに尋ねた。
「どういうことだ?」
「難しい話じゃないわ。フリーレの所属している劇団、基本的にお客さんから代金は取らないのよ」
「それでは劇団の運営が難しいように思うが」
「ええ。だから運営のための資金は寄付金がほとんどね。私もそうだけど、劇団には何人も出資者がついているから」
ミリアの解説が終わると、フリーレは頭を上げた。
「まあ、そんなわけだね。お客さんから代金を貰うようにすればいいんだけど、団長が断固として容認しないからね」
「自分が子供の頃貧しかったから、そういった人達にも楽しんでもらいたいというのが理由だったわね。ふふ、そんな信念を持っているからこそ応援してあげたくて、出資者になったのだけど」
フードの下でくすくすと笑うミリアに、フリーレは少し表情を真面目なものに変えた。
「さてミリア、私達は本格的に君を手伝った方がいいのかな?」
「いいえ。必要ならそうしてもらおうと思ったけど、覚悟ができたみたいだから大丈夫だと思うわ。後は彼がどちらを選ぶか、ね」
「いいのかい? 妖狐の方へ誘導しなくても」
「そうね。私の立場を考えるとそうするべきなのだろうけど、彼の恋心を私が望む方へ仕向けるわけにはいかないもの」
ゆっくりとした動作でミリアが椅子から立ち上がる。それに合わせて、椅子やテーブルといった占い道具一式が煙のように消えていく。
「だから見届けるとしましょうか。彼らの物語を」
ミリアの言葉に、フリーレとグレンは静かに頷いた。
見回りをしていても、そのことばかりが頭にちらついた。
そこの曲がり角にはお気に入りのパン屋がある。通りを挟んだ向かい側には激烈にまずい酒場。それ以外にも、ルークの知っている場所は何一つ変わっていない。そもそも、町がそう簡単に変わることはない。そんな町を見回るルークの仕事だって同じだ。ただ、日常は変わらなくとも、ルークを取り巻く状況は変わっていた。
その原因とも言えるミラはといえば、いつも通りの表情でルークとともに見回りをしている。その様子はこれまでと少しも変わらない。そんなミラの様子を見ていると、昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思う。だが、ミーネの時と同様に好きだという言葉が耳に焼きついている。
横目でミラを盗み見ると、やはり普段と変わらぬ表情で辺りに目を向けている。挨拶をされればしっかり応じているし、軽く談笑を交わしてもいた。貴族であるという事実も含まれてはいるだろうが、それでもその様子は誰からも慕われる、人望溢れる一人の女騎士だった。そんなミラから好意を寄せられているという事実がどうしても理解できない。
改めてミラをそういう目で見てみると、目はぱっちりとしているし、肌はなめらかで触るとすべすべしていると一目でわかる。唇だってつやつやとしていて、触ったら間違いなくやわらかいだろう。今までほとんど気にしていなかったが、改めて見れば美人である。
容姿に恵まれているという点ではミーネも同じだ。狐の耳と尻尾というおまけはついているが、それを差し引いてもあの娘が男にとって好ましい容姿をしていることは、同僚達の反応を見ても明らかだ。
そんな二人から告白されている今の状況は、見方によっては恵まれているのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ミラを再び横目で見る。その整った顔を見ていると、今更ながら隣りを並んで歩いているのが気恥ずかしくなってきた。
「ルーク」
いきなり名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「……なんだよ」
盗み見ていたことがばれないように低めの声を出すルークだったが、ミラはきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、近くの路地裏に入っていく。そこでルークに来るように手招きする。
「なんだ……?」
大人しくついていくと、ミラは小さく笑って言った。
「さっきから私の顔ばかり見ているようだが、なにか言いたいことはあるか?」
「それは……」
ばれているとは思わなかっただけに、ルークは言い訳が思いつかず、視線だけが逃げる。ルークのそんな反応にミラは確信を得たらしく、少しだけ身を近づけてきた。
「その……したいのか?」
「いや、したいって、なにをだ……?」
ここで下手な誤解をするととんでもないことになるのはわかったので、とりあえずミラに確認すると、その顔が少しだけ赤くなった。
「その……口づけ……だ……」
「なっ。そういうわけじゃっ」
「したいなら、してもいい」
ミラらしからぬ大胆な発言に、ルークは思わず見返していた。
「私と一緒に来てくれたら、好きなだけしていい」
今度こそルークは絶句するしかなかった。次いで、目の前にいるのは本物のミラなのかとじっと見つめる。アンバーの瞳と目が合うと、ミラの頬が更に赤くなった。
「な、なんだ。私が素直に言っているのだから、なんとか言ったらどうだ……?」
「いや……。その、積極的すぎないか……? 恥ずかしくないのかよ……?」
「恥ずかしいとは思ってる。ただ、もう言ってしまったから開き直っているだけだ」
照れているのが丸わかりの表情で、ミラは少し不貞腐れるようにそう言った。
対するルークは内心で非常に焦っていた。自分の発言に照れているミラが新鮮で、どうも隊長としてではなく一人の女性として見えてしまったのだ。それ自体は別におかしいことではないのだが、ルークのミラに対するイメージは面倒見のいい隊長というもので、失礼かもしれないがそこに性別は含まれていなかった。その性別を認識した途端に、相手は美しい女なのだとはっきり意識してしまう。
ミーネの時もそうだったが、女だと意識させられるともう駄目だ。
ろくに返事を返さないルークにどう思ったのか、ミラは小さくため息をつくと、追及するようなことはせずに話題を変えてくれた。
「ああ、そうだ。昨日言うのを忘れていた。ミーネに今度会ったら、時間があったらこの三日間のうちに私の所に来てほしいと伝えてくれ」
「あ? あいつになにか用でもあるのか?」
「まあ、そうなるな。女同士の話というやつだ」
ミラは意味深な笑みを見せる。
それを見て、一瞬、ミーネにも告白されていることを知っているのかと思った。だが、それについて悩んではいても、誰かに話したことはない。
なんにしても、これ以上ミラに責められるときつかったルークは茶化さずに同意しておいた。
「わかった。伝えておく」
どうせ今日は半日で仕事は終わりなので、昼飯ついでに言えばいいだろう。
「頼んだぞ」
どこか哀愁を感じさせる空気を纏いながら、ミラは小さく笑った。
昼になって仕事が終わると、もはや習慣になっているミーネの家に向かう。冬が近づきつつある森は落ち葉で地面を別の色に染め上げており、秋ももうすぐ終わりだと実感する。
季節の移り変わりに合わせて景色を変えている森を抜けると、目的地のミーネの家だ。さっさと寒い空気とおさらばしようと扉をノックすれば、五秒と待たずにミーネが顔を覗かせた。
「あ、お帰り。そろそろかなって、待ってたんだ。入って入って♪」
にこにこと笑みを浮かべているあたり、今日はご機嫌らしい。まあ、意識されてぎこちない空気を出されるよりははるかにいいので、ルークも気にせずに家に入る。
「ん? なんか、妙に暖かくないか?」
寒い外から来たことを除いても、今日の家の中は普段よりも暖かく感じる。
リビングに移動してそれに気づいたルークがどういうことだとミーネに目を向けると、ミーネは少しだけ得意げに言った。
「えへへー。実は今日から暖炉を解禁したの♪ 薪もたくさん用意したし、今日からはぽかぽか生活だよ♪」
そう言うミーネの尻尾はご機嫌だとばかりにわさわさ揺れている。ここまで暖炉にはしゃげる理由がわからないが、本人が楽しいならいいだろう。
「ま、冬は必須だしな。しかし、お前が火や薪の管理とかできんのか?」
最近はなりを潜めるようになってきてはいるが、ルークの予想を平気で裏切る行動ができる娘なのだ。お昼寝していて火事になりましたなんてことになっても、なんら不思議ではない。
ところが、そんなルークの考えはお気に召さなかったらしい。聞いた瞬間にミーネはむーっとむくれてみせた。
「ルーク、わたしのこと子供扱いしてるでしょ?」
「そこまでは思ってないが、大人ではないと思ってる」
その返答に、ミーネはいたく憤慨したらしい。ますます頬を膨らませると、じとっとした目で見つめてきた。
「わたしだって、今まで一人で暮らしてきたんだからね。火の管理くらいできるもん」
そう言って意地を張っている時点で大人ではないのだが、ミーネなのでこれくらいがちょうどいいだろう。告白のことを思い出すと瞬時にため息をつきたくなるのだが、こうして見ている分には意外と悪くないと思えるから不思議だ。
「そうか。だったら、ついでに俺に恥ずかしい思いをさせないでくれるともっといいんだがな」
「あう……。そ、そんなつもりじゃないんだよ………? わたしなりに考えてみて、それがたまたまダメだっただけで……」
言い訳を始めるミーネの耳がぺたんと伏せる。尻尾はしゅんと垂れ下り、一目で感情がわかるから面白い。それを見て、ここ最近振り回されっぱなしの心に小さな復讐心が芽生え、ちょっとした悪戯を思いつく。
「まあ、俺も怒るほど恥ずかしかったわけじゃないけどな。そういう思いをさせられた事実はあるわけだし、そこのところ、お前はどう思ってるんですかね」
意地悪を言ってやると、ミーネは更に「うう……」と呻き、困り顔で見つめてきた。
「その……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない」
「えっ……。じゃ、じゃあ、どうすればいいの……?」
謝罪を突っぱねられるとは思ってなかったのか、ミーネがますます困り顔になる。かなり適当な考えだったが、ミーネは簡単に釣れた。本当に単純というか、お人好しなヤツだと思いながら、ルークはさらりと言ってやった。
「そうだな。じゃあ、なにか恥ずかしいことでもしてくれ」
「は、恥ずかしいこと……?」
「そうだ。俺が恥ずかしい思いをさせられたんだから、お前も同じ思いをすればそれでお互い様ってことになるだろ」
これがルークの復讐だ。もっとも、実際にやらせるつもりはない。少しだけ困らせるだけの悪戯だ。だから、しばらくしたら適当にもういいと言ってやるつもりだった。
そんなルークの考えなどわからないミーネは「えと……恥ずかしいこと……」と呟きながら、ルークを見つめる。その顔は大好きな主人に意地悪をされた子犬のようだ。
そろそろいいかと判断し、ルークが口を開きかけた時だ。
「ルーク」
ほんのりと頬を赤くしたミーネが呼んできた。
「あ?」
本当になにかするつもりなのだろうか。
ルークがどうする気だと様子を眺めていると、ミーネは顔を赤くしながらそっと自分の口元に手を当てて、そのままちゅっと払うような仕草をした。
いかにこの手のことに疎いルークでもこれはわかる。俗にいう投げキッスというやつだ。ルーク目がけ、ピンクのハートがふわふわと飛んできている。もちろん実際にはなにも見えず、あくまで脳内の映像でしかないのだが、飛んでくるハートに対してルークは、
「うおっ!?」
思いきり身を逸らし、全力で避けていた。
「よ、避けられたっ!?」
ルークの中ではぎりぎりでセーフだったが、ミーネの方でも避けられたという判定らしい。なんとも恨めしそうな目で睨んできた。
「せ、せっかく頑張ったのに、避けるなんて酷いよっ!」
「あ、わ、わりぃ……わりぃ、のか……?」
思わず謝ってしまったが、よく考えるとそこまで悪いことなのか、少し判断に迷う。しかし、ミーネはいたくご立腹のようだった。
「うぅ〜、恥ずかしかったのに……」
ミーネの目尻に僅かに涙が浮かぶ。こうなってくると、悪いのは全面的にルークという空気だ。しかし、最初の話の流れなら、これでおあいこのはず。
「いや、だってお前、あれは、その……無理だろ」
避けないということは投げキッスを受け取るという選択しかない。そんなことは絶対に無理だ。しかし、ミーネはそうしてほしかったらしい。
「じゃあ、ルークも恥ずかしいことしてっ。そうしたら、許してあげる」
「なっ……」
どうやら思っている以上に機嫌を損ねてしまったらしい。ルークが恥ずかしいことをするまで許す気はないという雰囲気だった。ミラといい、ミーネといい、告白するとなにか心境に変化があるのだろうか。
それはともかく、ミーネのご機嫌を回復するには要求に応えるしかない。だが、恥ずかしいことと言われても思いつかない。そんなルークをミーネがむくれ顔でじっと見つめ、無言の催促をしてくる。それを見て、ふと閃いた。
ルークはミーネをしっかり見つめ返すと、そっと口元に手を当てる。ミーネの顔に困惑の色が浮かぶ。その顔目がけ、ルークはミーネと同じようにちゅっとやってやった。見る者が見たら鳥肌ものの男投げキッスである。やってみたら、顔が燃えてるんじゃないかと思うくらいに熱くなった。少々納得いかないが、これであおいこだ。
ミーネもこれには驚いたのか、ルークが投げキッスの動作をすると驚愕の表情を浮かべた。だが、すぐにぐっとなにかを堪えるかのような顔になると、頬をほんのりと赤く染めながら目を閉じて、口を突き出すような体勢になった。
「っ……!」
ルークが唖然とするしかないなか、ミーネはきっかり一分はそうしていただろうか。やがてうっすらと目を開けると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「えへへ……。投げキッス、されちゃった。これも間接キスになるのかな……?」
自分の唇に手を当てるミーネの背後で尻尾がゆらゆらと揺れている。それを見たルークはソファにどかっと座り、すぐに顔を手で隠した。右手に感じる顔の温度は過去最高と言っていいくらいに熱い。おかしい。恥ずかしい思いをさせた罰として恥ずかしいことをしたら、倍にして返された。
なによりも腹立たしいのは、こんなやり取りを少しだけ、ほんの少しだけ楽しいと感じている自分がいることだった。
「っ〜〜! 隊長がお前に話があるから、明日か、明後日のどちらかに会いに来てほしいって伝言だっ」
「ミラさんが? なんだろう? ルーク、なにか聞いてる?」
「知るか!」
吐き捨てるように言っても、ミーネはにこにこと嬉しそうなままだった。初めてミーネに敗北した気分のルークはこの日、まともにミーネを見ることができなかった。
残り二日。
昨日、ルークからミラの伝言を聞いたミーネは朝からさっそく騎士団の本部に顔を出していた。本当ならミラはルークと一緒に見回りらしいのだが、ミーネが来るとミラはルークだけに見回りを言い渡し、自分の部屋へと通してくれた。
「呼びつけてしまって悪かったな。本当なら私が訪れるべきなのだろうが、生憎とまとまって空く時間が取れそうもなくてな」
そう言いながら、ミラが用意した茶菓子と紅茶とをミーネの前に置いてくれる。紅茶のいい香りに思わず顔が綻ぶが、危うく今日来た目的を忘れそうになったミーネは慌てて手を振った。
「あ、いえ、わたしはそこまで忙しくないですから、ぜんぜん大丈夫です」
最近していることといえば、薪を作っておくか、森でキノコを始めとする山菜の採取か、ルークのための料理勉強かのいずれかしかない。そのどれもが空いている時間にのんびりやればいいものなので、時間を持て余しているのはどう考えてもミーネだ。だから昨日ルークから伝言を聞いた時は、予定ができて少し嬉しかった。
「えと、それで、わたしにお話があるんですよね?」
「ああ。では、この前と同じように単刀直入に言おうか」
ミラは楽しそうに笑うと、紅茶を一口含んでから続けた。
「ルークに告白した」
思わず目を見開き、ミラを見つめた。人化の術を使っていなかったら、狐の耳はぴんと立ったことだろう。
意外な言葉にミーネはどういうべきか悩んだが、きゅっと唇を結ぶと、ミラを見据えた。
「わたしも、告白しましたっ」
今度はミラが意外そうな表情を浮かべた。だが、やがて納得したように口元に笑みが浮かぶ。
「ああ……最近のルークの様子はそういうことか……。返事はもえらたか?」
「えと、それはまだ……。あの、ミラさんは……」
「私もまだだ。だが、ルークが悩んでいるところを見ると、お互いに脈がないわけではないらしい」
思わぬ情報にどう返事を返していいかわからない。だが、可能性があるということに、胸の奥の不安が少しだけ和らいだ。
「あの、お話したいことって、そのことですか?」
「いや、実はもう一つある。どちらかというと、こっちが本命だな」
ミラの笑みが少し物憂げなものに変わった。
「明後日、私はこの国を出ていく」
「え……」
思ってもみない言葉だった。頭の理解が追い付かず、しばらく無言でミラを見つめるミーネだったが、なにか言わなければと言葉を必死に探す。
「あ、あのっ、それ、どういう、ことですか……? 国を出るって……」
「そのままの意味だ。私はこの国を出ていく。そして、もう二度と戻ることはないだろう」
あまりにもきっぱりとした宣言だった。ミラのことはあまり知らないミーネだが、それでもそれが冗談ではないことは嫌でもわかった。
「えと、それ、どうしてですかっ? 出ていかなくちゃいけないことでもあったんですかっ?」
「いや、そういう事態は起こっていない。これはあくまで私の意思だ。これをお前に教えたのは、もしかしたらルークも一緒に行くかもしれないからだ」
「ルークも……」
仮にそうなったら、ミーネがルークに会う機会は二度とないだろう。それを想像すると胸の奥が痛くなる。
「まあ、あいつが私を選んでくれればの話だがな。だが、あいつが私とお前、どちらを選ぶにしても、私はこの国を出て行く。つまり、この三角関係がどのような結末になっても、私はお前の前からはいなくなる。だからな、最後に挨拶をしておきたかった」
どこか終わりを感じさせるような笑顔が、最後の挨拶だという言葉を強調する。
「そんな……、最後って……」
もう会えない。それがルークではなくとも、長い間孤独だったミーネにとって誰かとの繋がりが切れてしまうことは、とても心が痛むものだった。
「あの、勝手かもしれないですけど、わたし、ミラさんとは初めて会ったあの日から友達になれたんじゃないかって思ってました」
「お前……」
目元が少し熱い。だからか、ミラは少し驚いたように見つめてくる。
「だから……わたしもミラさんに言わなくちゃいけないことがあります。わたし、ずっと隠してたことがあるんです」
この国で生きていくためには、決して言えない秘密。でも、ミラには知っておいてほしいと思った。だからこそ、自分が人ではないという事実を告げようと身体を乗り出す。だが、ミーネが口を開くより先に、ミラの手が待てと顔の前に突き出された。
「それ以上は言わなくていい」
笑みを浮かべながらのミラの言葉に、ミーネは拒絶されたような寂しさを感じ、なんとか聞いてもらえないかと食い下がる。
「でも……」
「ああ、誤解しないように言っておくが、聞きたくないわけじゃない。お前がなにか大事なことを打ち明けようとしてくれたことは、素直に嬉しい。だが、それを聞いてしまったら、私達は今までのような関係ではいられなくなってしまう気がするからな。だから、言わなくていい。最後まで、このままの関係でいさせてくれ」
「でも……わたしは……」
やりようのない気持ちになり、顔を俯ける。
「私も、きっとお前のことは友達だと思っているのだろうな。この国を出ると決めた時、お前には言っておかなくてはならないと思った。だからこそ、こうして呼び出してまで挨拶をしておきたかった。ルークのことがなければ、また違った形の友人になれたかもしれないな……」
「それは、今からでは駄目なんですか……?」
ミラは力なく首を振る。
「全てが遅すぎた。もし私があの家に生まれていなければ或いは……いや、最初からその可能性はなかったのかもしれないな。騎士にならなければ、お前に会うこともなかったか。あちらを選べばこちらは成り立たない。ままならないものだ……」
諦めたように微笑むと、ミラは紅茶をそっと口に含む。
「わたしは、どうすればいいですか……? 本当にこれでお別れなんですかっ?」
「月並みな台詞だが、ルークがどちらを選んでも、友達でいてくれたらそれでいい。例え、もう二度と会えないとしてもな」
言葉の端々から、これで最後なのだという意思が込められていた。それが苦しくて、ミーネは逃げるように紅茶に手をつける。ただ、湧き上がってきた苦い感情は飲み込めそうになかった。
陽が沈み始めてあちこちに影がさし、夜へと変わっていく頃、ルークはぼんやりと見回りを継続していた。だが、目に映る景色に意識は向かず、頭はミラとミーネのことでいっぱいだった。
午前中から来たミーネがミラとどういうやり取りをするかはわからない。だが、そこには恐らく自分の話題が上がることだろう。その内容はもちろん……。
「はあ……」
何度目かわからないため息が勝手に口から洩れる。ミラとミーネ、どちらかを選べばいい。たったそれだけのことなのに、決断できないでいる。
こんな時に頼りになるのはキースだが、今は隣り町に出張中だ。馬を使えば会いに行ける距離ではあるが、今はもうその時間が惜しい。
残された時間は一日強。その間にどうにか決断しなければならない。だが、それができない。
「国を出るか、あいつを選ぶか……」
ミーネを選ぶなら、あのいつもの少しバカっぽいやり取りを延々と続けることになるのだろう。刺激は少ないが、なにせミーネだ。ルークの想像もつかない言動をする可能性は多いにある。それがなんだかんだで嫌ではないから、疲れはするかもしれないが、それなりに楽しい日々になるだろう。
ミラを選ぶなら、逆に波乱万丈の日々になるに違いない。国を出て外の国に行けば、あちこちに新しい刺激があるはずだ。ルークも男なので、そういった冒険に近いことには強く惹かれるものがある。そして、それはミラと共有することになる。時には野宿だってすることにもなるだろう。そうなったらミラはどういう反応をするのだろう。普段は凛々しいが、時に女の顔も見せるのでどういうやり取りになるのか想像もできない。決して楽ではない旅路になるはずだが、不思議と苦労よりもその過程にある楽しみを考えてしまう。
少し先の未来から意識が現実に戻ると、ルークはようやく現状を理解できた気がした。どちらを選んでも、自分には二人のうちのどちらかが傍にいてくれる。それは、思っている以上に幸運なことだ。だからこそ、選ばれなかったもう一人について考えてしまう。
「三角関係は大変、か……」
昔、キースがそんなことを言っていた気がする。その時のルークは「俺には縁のない話だな」なんて自虐的なことを言って、キースと共に笑っていた覚えがある。もし時間を渡れるなら、あの時の自分を殴りに行きたいところだ。
「そこの難しい顔したお兄さん、ちょっといいかしら」
横からそんな女性の声がした。なんだと思ってそちらを向けば、壁を背にして置いた椅子に座る、ローブ姿の人物がいた。そこには白いテーブルクロスを敷いた小さな四角のテーブルが置かれ、その上には小さな水晶玉が鎮座している。一目で占い師だとわかるセットだったが、あまりにも捻りがなさすぎてどうにも胡散臭い。
ルークは辺りに目を向けるが自分以外に人の姿はない。どうやらルークが話しかけられているらしい。
「なんだよ、あんたは」
「そうね、怪しい占い師といったところかしら」
自分で怪しいという人間を、ルークは初めて見た。
「そこは普通の占い師って言うとこじゃないのか」
「普通じゃ占いが当たらなそうじゃない。だから怪しい占い師でいいわ」
自信があるのか、自称怪しい占い師はそんなことを言う。フードを深く被っているので顔は分からないが、ミステリアスな容姿に反して意外と軽い性格らしい。
「あーそうかよ。それじゃ、お疲れさん。俺、占い信じてないんで」
こんなどうでもいい相手に構っている時間は一切ないので、ルークはさっさとこの場から立ち去ろうとする。
「ふふ、そういう人だと思ったから声をかけたのよ。どう? 料金は一切いらないから、騙されたと思って少しおしゃべりをしていかないかしら?」
どう言えば人の感情を動かせるか把握しているような言い方だった。これでなおルークが占いを拒めば、単に意地を張っているだけの男になってしまう。
ルークは軽く舌打ちすると引き返し、乱暴に占い師の前の席に座った。
「無料で占いとは大したもんだな。ボランティアでもしてんのか? だったらその辺のゴミでも拾ってろよ」
「ご心配なく。基本的には有料だけど、私が個人的に占いたいと思って声をかけた人は無料にしているだけよ」
ルークの軽口をすんなり流し、彼女は水晶へと右手をかざす。ローブの袖から出てきたのは真っ白な素肌の手だった。
「さて、さっそく始めていいかしら」
「言ったように俺は占いなんて信じちゃいないからな。さっさと始めて、とっとと終わりにしてくれ」
「ふふ、じゃあ始めましょうか」
不満を垂れ流すルークには構わず、占い師は水晶にかざした手をゆっくりと円を描くように動かす。
「なにか悩んでいることがあるみたいね」
「そりゃ、誰にだって悩みくらいあるだろ」
そんなことは占いをしなくたってわかる。これはさっさと切り上げた方がよさそうだという考えが早くも頭をよぎる。
「あら、女関係ね。それも二人」
「なっ……」
どうせわかりっこないと思っていたら見事なまでに言い当てられ、思わず呻くような声が出ていた。
「その顔は図星みたいね。モテるの?」
顔に出ていたからか、占い師は少し楽しげだ。
「……なんでわかった」
「さあ、なんでかしらね。そんなことよりこれが、あなたが難しい顔をしていた理由かしら?」
見られたくなかった失敗を見られた気分で、ルークは盛大にため息をついた。こうなったら開き直るしかない。
「そうだよ。信じられないことに二人に言い寄られてる」
「それでどちらか選べず悩んでいる、でいいかしら」
「ああ、そうだよ。そんなわけで、どうするか考えるしかない。こうしている時間が惜しいんだ。あんたは占いが当たって満足しただろ? だったら俺はもう行くぞ」
「じゃあ、少しだけあなたの悩みを和らげてあげるわ」
腰を浮かしかけたところでそんな言葉が飛んできた。
「あ? なんだよ、占いだけじゃなくてそういう相談もしてくれるってのか?」
「ええ。もっとも、最後に決断するのはあなただから、そういう意味では無責任に煽るだけかもしれないけれど、それでもよければね」
どうするべきか、少し悩む。相談するなら、やはりキースがベストな選択だ。それは間違いない。だが、時間がそれを許さない。そうなると、次の候補を探すしかないのだが、生憎と、この手の話で頼れる知り合いは他にいない。強いて上げるならミラだが、そのミラから告白されているのだから、そもそも相談対象にならない。
ルークは苦い気分で椅子に座り直した。
「……わかった、参考までにあんたの意見を聞こう」
「じゃあ三つ、あなたに選択肢を提案するわ。まずは一つ」
白い指が一つ立てられる。
「あなたが今悩んでいるように、どちらか一人を選ぶ」
「それができないから困ってるんだろ」
「そうでしょうね。だから二つ目。どちらも選ばない。良くも悪くも平等ね。お互いに何も得られず、痛み分けにする。お勧めはできないけれど、選択の一つとしては存在するわ」
確かに選ばないという手もある。だが、それをした場合、ルーク達三人の関係は完全に途切れてしまう気がした。なにより、ミラは国を出て行くと宣言しているのだ。そうなったらミーネとも会う気にはなれないだろう。
「……三つめは?」
占い師は、そっと手を閉じた。
「最後の三つめ。どちらかを選ぶのではなく、両方とも選んでしまう」
「なっ!」
思いもしなかった提案がきた。しかも、それを言った占い師にふざけている気配はない。だからこそ、ルークの中で、一気に怒りが込み上げてきた。
「そんな馬鹿げたこと、できるわけないだろっ!」
「そう? お互いに納得の上なら、方法としては悪くないと思うけど。誰も傷つかず、最良の結末になるんじゃないかしら?」
「やっぱ、時間の無駄だったな。もう行く」
少しでも期待した自分が馬鹿だった。そもそも、どれだけ意見を聞こうと、最後に決断するのはルークなのだ。最初から、一人で考えるべきだった。
「ねぇ、あなたはなぜ悩んでいるの?」
なぜかその問いは、まるで水のように熱をもったルークの頭に入り込んできた。
「その理由は言っただろ」
「そうね。でも、私が言いたいのはそんなことじゃない。あなたが悩んでいる本当の理由よ」
どういう意味だと睨むが、占い師は一切気にせずに続ける。
「だから、それは」
「二人とも好きだから」
この短い時間にルークはどれだけ意表をつかれればいいのだろう。たった二文字の言葉が、これ以上ないくらい正確に胸を貫いた。
「……違う。俺は、俺が悩んでいるのは、最初に言った理由が全てだ。二人を同時に好きになるわけないだろ」
「もしかして、二人を同時に好きになるのは悪いことだとでもと思っているのかしら。だとしたら、それは間違いよ」
「どこがだ。言っちまえば、目移りしてるってことだろ」
「悪い言い方をするならね。だから、良い言い方を言っておくわ。それくらい、あなたに想いを寄せる二人がいい女だということよ。だからあなたは二人を好きになり、どちらを選ぶべきか悩んでる」
「っ……!」
胸がゆっくりと締め付けられていく。それに合わせて、重いため息がもれる。
「……どちらかを選んじまったら、選ばれなかった方は最悪だろ」
「いいえ、最悪なのはそんな理由でどちらも選ばないことよ。あなたの心の中の天秤は完全に拮抗している。そこにあなたがより好きだという想いを載せれば傾くのに、あなたはもう一人のことを考えてしまってそれをしようとしない。待たされている今がどれほど不安か、あなたにわかるかしら」
ぐうの音も出ないくらいに正論だ。それなのに、不思議と非難されている感じはしない。むしろ―。
「あんたは俺に、どうしろって言いたいんだよ……?」
「二人のどちらがより好きなのか、二人のどちらと共に歩いていきたいのか、はっきりと選びなさい。例え、そのせいで誰かを傷つけることになってもね」
「どちらかを選べば、選ばれなかった方は絶対に傷つく。それが、正しいって言うのかよ」
その問いに、占い師フードの奥で笑った気配がした。
「あなた、優しいのね」
言われてみて妙な気分だった。自分に対する評価は色々と聞いたが、優しいと言われたのははじめてな気がする。そのせいで、ルークは思うように言葉が出てこない。
「自分の選択で誰かが傷つくかもしれない、それは嫌だ。思いやりがあって、素敵だと思うわ。でもね、個人的な意見を言わせてもらうと、自分を好きだと言ってくれる女には誰にでも優しいのは、本当に優しいとは言わないんじゃないかしら?」
「それは……」
言い繕おうにも、頭が働かない。話してはいけないのだと、身体が勝手に反応しているようだった。
「さて、色々言ったけど、大事なことは一つだけ。しっかりとあなたの想いを伝えてあげなさい。あなたを好きだと言ってくれる人のためにもね」
これで話は終わりらしい。水晶へとかざしていた手がすっとローブの中へ戻される。それを見送ると、ルークは財布を取り出した。
「いくらだ?」
「あら、代金はいいと言ったはずよ」
「確かに言っていたが、それなりに参考にはなったからな。代金はきちんと払う」
「けっこうよ。その代わりに見せてもらうわ。あなたがどんな選択をするのかをね」
彼女に、占いの代金を受け取る気はないらしい。仕方なくルークは財布をしまった。
「そうかよ。ま、結果は期待しないでくれ。とりあえず、少しは気が楽になった。信じちゃいなかったが、占いの腕はよかったと言っておく」
「それはよかった。じゃあね、悩める騎士さん。それなりに楽しい時間だったわ」
ひらひらと手を振って見せる占い師に背を向け、ルークは歩きだす。
陽が落ち始めたからか、辺りは少し薄暗くなってきており、ところどころに明かりがつき始めた家が目につく。そんな道を歩いていると、広場に続く通りから、金髪の女性がやってきた。一瞬ミラかと思ったが、背格好の違いから、すぐに別人だとわかる。だが、その顔には見覚えがあった。
やがて女性とすれ違うという距離になった時、ルークはようやく思い出すことができた。ハッとするような整った顔立ちに、服の上からでもわかる豊かな胸。いつかミーネとミラの三人で昼に立ち見した劇で精霊役を演じていた人物だ。今日の公演は終わりなのか、仕事を終えてすっきりした表情をしている。改めて見ても、やはりずば抜けた美人だ。カリムが高嶺の花だと言ったのも理解できる。だが、今のルークにとって彼女は道行く人の一人にすぎなかった。
明後日には、必ずどちらかを選ぼう。そう決心しながら、静かな通りを歩いて行った。
彼女は軽い足取りで一人道を歩いていた。待ち合わせ場所はこのこの先のはずだった。やがて、人気のない通りにいかにも胡散臭い占いセットを広げるローブ姿の人物と、その傍に控える黒髪の青年を見つけた。
彼女はそこに足早に向かうと、占い師の傍で優雅に一礼してみせる。
「やあ親愛なるミリア姫、ご機嫌麗しゅう」
「相変わらず意地悪ね、フリーレ。その言い方はやめてと、何度も言ってるのに」
「意地悪なのはお互い様だよ。類友というやつだ」
フリーレはにっと笑うと、傍に立つ青年へと目を向けた。
「婿殿もご機嫌はいかがかな? 今日も男前だね」
彼女の言葉に青年は表情こそ変えなかったが、少しだけ眉が困ったように動いた。それを見て、ミリアがくすくすと笑う。
「社交辞令とはいえ、褒めてくれてるんだから、少しは嬉しそうにしたら?」
「いやいや、社交辞令ではなく、私は真面目に褒めてるよ」
彼の顔に少しだけ困惑の色が浮かぶ。最終的には目礼で応えることにしたようだ。
「はあ、いいなーミリア。私もこういう夫が欲しい」
「グレンは私のものだから駄目ね。他の人を頑張って見つけてとしか言えないわ」
「ああ、なんて酷い。見知らぬ妖狐は応援するのに、昔馴染みのダンピールは応援してくれないのかな?」
「そう言うのなら、まずは想い人を見つけてほしいわ。そうじゃないと、手の貸しようがないもの」
フリーレは肩をすくめて近くの壁に寄りかかった。
「それがなかなか見つからなくて困ってるんだよ。そのためにわざわざ旅する劇団に入ったのに、胸をときめかせる出会いがなくてね」
「ああ、夢が詰まってるからそんなに大きくなったのね」
フードの下のミリアの目がフリーレの立派な胸に向かう。対するフリーレは言われた瞬間にさっと両腕で胸を隠した。
「言わないでくれ。この胸がちょっとコンプレックスなのは知ってるだろうに」
「さっき、私のことをあまり呼んでほしくない呼び方で呼んだ人がいたわね」
楽しげな声で追撃を放ってくるミリアに、フリーレは悔しそうに唇を噛んだ。
「姫様がイジメなんて格好悪い」
「あら、酷いわ。友達の心ない言葉に傷ついたから、今回、劇団への出資はやめようかしら」
明らかに冗談だとわかる口調だったが、それを聞いたフリーレは弾かれたように動き、ミリアの傍で深く頭を下げた。
「是非払って下さいお願いします!」
フリーレのあまりの豹変ぶりが看過できなかったのか、グレンが控えめにミリアに尋ねた。
「どういうことだ?」
「難しい話じゃないわ。フリーレの所属している劇団、基本的にお客さんから代金は取らないのよ」
「それでは劇団の運営が難しいように思うが」
「ええ。だから運営のための資金は寄付金がほとんどね。私もそうだけど、劇団には何人も出資者がついているから」
ミリアの解説が終わると、フリーレは頭を上げた。
「まあ、そんなわけだね。お客さんから代金を貰うようにすればいいんだけど、団長が断固として容認しないからね」
「自分が子供の頃貧しかったから、そういった人達にも楽しんでもらいたいというのが理由だったわね。ふふ、そんな信念を持っているからこそ応援してあげたくて、出資者になったのだけど」
フードの下でくすくすと笑うミリアに、フリーレは少し表情を真面目なものに変えた。
「さてミリア、私達は本格的に君を手伝った方がいいのかな?」
「いいえ。必要ならそうしてもらおうと思ったけど、覚悟ができたみたいだから大丈夫だと思うわ。後は彼がどちらを選ぶか、ね」
「いいのかい? 妖狐の方へ誘導しなくても」
「そうね。私の立場を考えるとそうするべきなのだろうけど、彼の恋心を私が望む方へ仕向けるわけにはいかないもの」
ゆっくりとした動作でミリアが椅子から立ち上がる。それに合わせて、椅子やテーブルといった占い道具一式が煙のように消えていく。
「だから見届けるとしましょうか。彼らの物語を」
ミリアの言葉に、フリーレとグレンは静かに頷いた。
15/02/03 21:29更新 / エンプティ
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