動き出した恋心
大事な話がある。
ミーネがそう言い出したのは数日前のことだ。やけに真剣な表情だったので、ルークとしても相応のことなんだろうかと少し真面目に考えもした。しかしだ。こちらがそんな心構えをしてきたというのに、肝心のミーネは鼻歌交じりに絶賛料理中である。
そんなご機嫌なミーネを椅子に座って眺めているのが、今のルークの状況だった。
「おいミーネ」
声をかけてみると、ミーネはすぐに振り向いた。そしてにこりと笑い―。
「にゃあにゃあ♪」
なぜか猫の鳴き真似をした。
「……」
反応に困ったルークは絶句するしかない。そしてすぐに、なんで猫の鳴き真似? という疑問が浮かぶ。するなら狐ではないだろうか。だが、狐はそもそも鳴くのか。聞いたことのないルークにはわからない。とりあえず、これだけは確信した。こいつのことだから、大事な話は絶対に大事なことじゃないと。
ルークが無言で視線を向けていると、ミーネの頬が赤く染まった。
「あ、あはは……。な、なんちゃってー……」
そう言ってぎこちない動きで顔を逸らし、料理に戻るミーネ。おかしなことを言った自覚はあるらしい。
これ以上話しかけるとろくなことにならなそうだと判断したルークは、大人しく昼食が出来上がるのを待った。
「お待たせー♪」
その後、待つこと数十分。ようやく出来上がった昼食をミーネが嬉しそうに運んでくる。
まず置かれたのは、鮭とキノコの蒸し焼き。続いて定番となっているハンバーグがキノコソースたっぷりで登場する。サラダなどの前菜を無視していきなり主役が二品も登場したことに、ルークは早くも顔が引きつる。しかし、ご機嫌なミーネは更なる料理を追加してきた。
火にかけてあった鍋を持ってきたので、それをどうするつもりだと眺めていたら、テーブルの真ん中にどんと鎮座させてしまった。その中身は肉や魚の切り身を始め、野菜とキノコが盛り沢山である。まあ、最近は冷えるようになってきたので、鍋自体は別にいい。だが、この一食の量にはさすがのルークも看過できなくなった。
「おい、お前はあれか。冬眠でもするつもりなのか?」
元人間とはいえ、今は狐娘と化しているので、冬は本物の狐のように長いお休みに入っているのかもしれない。そうだと思いたい。
「え? ああ、これはちょっと張り切りすぎちゃってね……」
「えへへ……」と苦笑気味に笑うミーネを見るに、いつもの間抜け行動の結果らしい。
「そうか。で、冬眠はしないのか?」
「し、しないよ。 寒くなってきたから、毛布出さなくちゃとかは思ってるけど、冬眠はしないっ」
「狐なのにか?」
「狐だけど、しないものはしないのっ!」
むくれ顔になりつつも、ルークの隣りにきてそのまま座る。最初はたまにはいいかなんて理由だったはずだが、いつの間にかここが定位置になってきている。ここまでなら、ルークとしても別にどうということはないのだが、最近のミーネは隣りに座るだけでなく、更に別のことまでするようになった。
「えっと、ルークはとりあえずお肉でいいよね。それに鮭もとって……あ、シイタケもいれとこっと。後はお野菜でいい?」
「お、おう……」
あーんなんて死ぬほど恥ずかしい真似はしなくなった代わりに、こうして甲斐甲斐しく料理を取り分けるようになったのだ。便利ではあるのだが、ちょっと鬱陶しい。しかし、邪見にできないのはそうしているミーネがやたらと嬉しそうだからだ。
ルークとしても、飯はなるべく気分よく食べたいので、つまらないことを言って空気をぶち壊すつもりはない。その結果がこれである。
「これは一体なんなんだろうな……」
ルークのぼやきに、ミーネが不思議そうに首を傾げた。
腹が満たされると、さほど重要ではないことはどうでもよくなるらしい。文字通り食べすぎたルークは、ソファに座って欠伸をしていた。外は肌寒いが家の中は快適な温度であり、そこに満腹状態という条件が加わると、睡魔がやたらと強敵になる。
油断するとすぐに意識が旅立ちそうなので、今回はなかなかに劣勢である。まあ、寝てしまっても特に問題はないのだが、ミーネの前で寝顔を晒すのがなぜか癪で、ルークは睡魔と激闘を繰り広げていた。
「お待たせ」
もう少しで睡魔に敗北というところで洗い物を終えたミーネが戻ってきたことで、なんとか意識が繋がる。閉じそうな目を向けると、ミーネが隣りに座った。
「お疲れさん。まあ、そこそこには食えたぞ」
「そっか。よかった。無理して食べてたらどうしようって思ってたから」
少しほっとしたようにミーネが笑う。ルークとしては、そう思うなら量くらい考えてくれと思ったが、口にはしなかった。
「それでねルーク、大事な話があるって言ったでしょ?」
「ああ、言ってたな。なんだ、また買い物でも行きたいのか? だったら今度連れてってやるよ」
「えっと、確かに買い物も行きたいけど、そうじゃなくてね……」
横目でミーネを見ると、ミーネは頬を僅かに赤らめ、顔を少し俯かせていた。それを確認すると、ルークは再び目を閉じた。多分、そこまで大した用事じゃないのだろう。勝手に頭が判断し、睡魔との闘いに戻ろうとする。
「あのね、ルーク」
「聞いてるよ。なんだ?」
再び意識がぐらついてくるなか、その言葉はやけにはっきりと聞こえた。
「好きです」
一瞬、まったく知らない言葉を言われたのだと思った。それなのに、その一言は睡魔を瞬殺し、ルークの頭にはっきりと響いた。
パッと目を見開き、空耳だろうとばかりに隣りのミーネに顔を向ける。
ミーネの真剣な、それでいて少しだけ潤んだ青い目がしっかりとこちらを見ていた。それに気圧され、言葉が出てこない。だから、次に口を開いたのはやはりミーネだった。
「あなたのことが、大好きです」
冗談だと思える空気ではなかった。それを理解したからこそ、頭の中が恐ろしい勢いでかき乱されていく。
「大好きって、お前、いきなりなに言って……どう、したいんだよ?」
想像すらしなかった事態に、ルークは呻くように言うのが精いっぱいだった。
「えっと、その、ルークの恋人になりたいなって……」
頬を赤くしながら顔を俯かせ、上目遣いに見つめてくる。顔立ちが少し幼さを残しているだけに、そんな仕草が異常なほどの魅力を放っていた。
ルークはもうどうすればいいのかわからなかった。初めての告白に頭は真っ白になり、ただミーネを見つめるだけ。頭が動かなくなったからだろう、口だけが勝手に反応した。
「恋人って、お前は魔物で、お前の女らしいところなんて胸くらいだろ」
右手がゆっくりとした速度でミーネの胸元に伸びる。もちろん、本当に触るつもりなんてなかったし、触る勇気もなかった。だが―。
「やっ……」
びくりと反応したミーネは顔を真っ赤にしてきゅっと目を瞑り、自分の身体を抱きしめるようにして固まった。それだけでなく、狐の耳はぺたりと下がり、身体はぷるぷると震えている。
明確なまでの拒絶反応に、今度はルークが固まる。同時に、混乱する頭が俺のこと好きなんじゃないのかよという疑問を浮かべる。
やがて、ミーネがゆっくりと目を開ける。そしてすぐに、変な格好で固まっているルークを見て、小さく「あ……」と漏らした。
「えと、その、嫌じゃ、ないんだよ……? ルークならいいんだけど……、そういうことするのはルークとじゃないと嫌なんだけどねっ……」
言っているうちに恥ずかしくなってきたらしく、ミーネの顔がどんどん赤くなっていく。だが、それを正面で聞かされるルークは倍は恥ずかしかったといっていい。
「えと、あのっ、そう! こ、心の準備! そういうことするのは、心の準備ができるまで待ってっ! じゃないと、恥ずかしくて変になっちゃうから……」
「お、おう……」
すごい勢いでまくしたてられ、ついそんな返事をしてしまった。だが、すぐにそういう問題ではないことに気づく。
「あ、いや、そうじゃなくてだな……。その……告白、の返事、だけどな……」
「あ、うん……」
ルークがぎこちなくそう切り出すと、ミーネはさっきまでの様子が嘘のようにしゅんとし、少しだけ期待するような目を向けてくる。それだけで、少し落ち着いた胸の内が再び鼓動を早める。
「あの、あれだ。その、少し考える時間をくれないか」
普段のミーネみたいにしどろもどろな言い方だ。仮にこの場に同僚がいたなら、きっと大笑いしていたに違いない。顔がなにかの病気なんかじゃないかと思うくらいに熱い。
「……うん、わかった。それはいいんだけど……」
そこで口を閉じ、窺うように見つめてくる。
「な、なんだ?」
普段はまったくそんなことはないのに、今日はミーネがなにかを言いかけるだけで動揺してしまう。
「その、返事をするまでの間も、ここに来てくれないかなって思っちゃったりしてね……」
「いや、それは、あれだ。来るのはいいけどな、お前は、その、いいのか……? 気まずくはないのかよ?」
「だって……その、少しでも一緒にいたいもん……」
消え入りそうな声がやけにはっきりと聞こえた。それが純粋に好意を伝えるものだったから、ルークは息がつまりそうになる。
「そ、そうか……。じゃあ、あれだ、その、努力はする」
その日、ルークの記憶に残っているのはその時見せたホッとするようなミーネの笑顔が最後だ。それ以降のやり取りはもちろん、どうやって帰ってきたかも覚えていなかった。
翌日。
朝礼でミラが本日の伝達事項を説明していたが、ルークはまるで耳に入ってこなかった。なにかをしゃべっていることはもちろん理解しているのだが、聞いたことは耳から耳へと通過していくだけで、頭にはまったく残らない。人生初の告白という事態に、頭の中はミーネでいっぱいいっぱいだったのだ。
だから、気が付けば朝礼は終わり、いつの間にかミラと並んで見回りの仕事を始めていた。
なんとか意識を仕事に向けることでミーネの告白は一旦忘れられるのだが、気を抜けばすぐに頭の中で「大好きです」というミーネの言葉が再生される。その度に息がつまりそうになり、眉間に盛大に皺を寄せ、重いため息をつく。
「ルーク、聞いているのか?」
何度目かもわからないため息をついた時、そんな声が聞こえた。ちらりと目を向ければ、少し咎めるような目で見ているミラの顔が視界に入る。
「あ? なんか言ってたのか?」
「その発言は聞いていなかったということだな」
ミラは笑ってない笑顔を浮かべ、ぐっと握り拳を作る。そして、ルークが弁解するよりも先に鉄拳が炸裂した。頭に信じられない痛みが瞬く間に走る。
「っ〜! おい隊長! せめて言い訳くらい聞けよ!」
「言い訳なら聞く必要などないだろう。どうせ聞いていなかったのだからな。それよりなんだ、今日は鬱陶しいため息を何度もついて。私と見回りなどしたくないという遠回しな抗議か?」
「んなわけあるか。あれだ、ちょっとした悩み事について考えていただけだ」
ちょっとどころか、かなり頭を悩ませている問題なのだが、もちろんそれは言わない。いや、言えない。
「お前に悩みなどあるのか?」
「なんだよ、俺にだって悩みくらいあるぞ。馬鹿なりに悩むことがあるんだよ」
やや投げやりに言うと、ミラは表情を曇らせ、顔を背けた。
「……そうか。まあ、なんだ。お前が困っているなら、その、相談にくらいはのるが」
意外なことに、ミラが優しさを見せてきた。しかしだ。現在ルークを悩ませていることは誰かに相談できることではない。普通の恋愛話ならできても、相手が魔物となってくると、この国にそれを話せる相手は皆無だ。当然、ミラも例外ではない。だから、ルークはさっさと話を切り上げた。
「生憎と、誰かに相談する類のことじゃねーから大丈夫だ。ほら、飯に行こうぜ」
幸い、今日は何を食べるかを考えることで、ミーネのことは一旦頭から忘れることができた。そのことに、少しだけ安堵する。
そんな状態だったから、後ろでミラが少し寂しそうに目を伏せていることには気がつかなかった。
そして翌日。今日は仕事が半日で終わりなので、ミーネの家に行く日である。だからこそ、いつものように馬に乗って向かっているのだが、どんな顔をして行けばいいのかさっぱりわからない。それどころか、なにを話せばいいのかもだ。ミーネに好意を寄せられているとなった途端、いつもはできていたことが急にわからなくなる。
その事実に、ルークは顔をしかめた。信じられないことに、妙な不安を感じているのだ。おかげで、胸の内側に不快な感覚が広がっている。
「くそっ、なんなんだよ……」
ミーネに振り回されるのはもう慣れているはずだった。だが、今回の振り回され方はルークにとっても初体験で、どうしていいのか見当もつかない。
馬に揺られながらあれこれと考えているうちに、いつの間にかミーネの家に到着していた。既に見慣れた家だが、今日は扉をノックすることを躊躇った。
「……」
一瞬、このまま引き返すかという情けない考えが頭に浮かび、ルークは首を振った。それではミーネから逃げることになる。普段はのほほんとしていて、間抜けとかおバカといった表現がぴったりの狐娘から逃げるというのは、ものすごく癪だ。
ルークはでかいため息をつくと、苛立ちをぶつけるように強めにノックした。さほど時間を置かずに扉が開き、ミーネが顔をのぞかせる。
「あ……来てくれたんだ……」
最初にホッとした表情が浮かび、次いで少し嬉しそうなものに変わる。
「まあ……来ない理由がないしな。タダ飯も食えるし」
捻くれた返事を返すと、ミーネははっきりと笑顔を浮かべた。
「それでも、会いにきてくれるのは嬉しいよ。その……おかえり」
「お、おう。いや、なんだ、それは」
いつもは言われない言葉に、つい突っ込んでいた。そういえばこんな感覚だった気がする。
だが、ルークが内心で安心していられたのはほんの僅かだった。
「えと、その、わたしって、ここに一人で住んでるでしょ。だから、こうやって誰かを迎える言葉を、一度言ってみたかったの」
「お、おう……。そうか……」
「じゃあ、上がって。もうすぐお昼ご飯できるから」
割と普段通りの振る舞いを見せるミーネに対し、ルークはこの体たらくである。それがなんとも複雑な気分になる。
ダイニングで昼食を待つ間も、ルークはなんとも気まずい思いをしながら椅子に座っていた。原因はわかっている。さっきの、おかえりという言葉だ。
一人身のルークにとっても、それは縁のない言葉だった。だからこそ、変な想像をしてしまう。仮に、ミーネと同棲でもすることになったら、仕事から帰る度に、ああして迎えてくれるのかと。
そんな想像をして、思わずため息だ。自分でも驚くくらいにミーネを意識している。相手は魔物なのにだ。
ほとんど睨むようにミーネの後ろ姿に目を向ける。
頭に獣耳、腰には尻尾と、普通の人にはないものは今日も健在だ。しかし、そんな人外の証も、見ようによっては単純にちょっとしたおまけでしかない。 ミーネがもっと魔物らしかったら、ルークもここまで意識はしなかっただろう。だが、目の前にいるそいつは、恐ろしいほどに人間らしかった。
「お待たせ」
ぼんやりと考えているうちに出来上がったらしく、目の前に唐揚げがてんこ盛りの皿が置かれる。それを見て、知らずにため息が出た。この間のやり取りはミーネの頭に残らなかったらしい。
どう説教してやろうかと頭を巡らせているうちに、ミーネが隣りにすとんと座る。
「なあ、もしかしてお前が俺の隣りに座るようになった理由は、その、あれか?」
「え……」
ミーネの頬がほんのり赤く染まる。
「えと、その、少しでも近くがいいなって……」
聞くんじゃなかったと後悔した。
ルークが返答に困って黙っていると、それをどう受け取ったのか、ミーネは少しむくれつつ、ぽつりと囁いた。
「だって、その……好きなんだもん……」
「っ……!」
拗ねるように言われた好きという言葉が、ルークの心を盛大に抉った。
頭を悩ませる問題があると、日が経つのは早いらしい。ここ最近でルークはそれを嫌というほど実感していた。
今日は久しぶりにカリムとの見回りだった。ミラは今日は仕事量が多いらしく、机につきっきりで作業をするとのことだった。
ミラにまで気を遣わせるほど最近は思いつめているらしいので、遠慮も気遣いも必要ないカリムとの見回りは気が楽だった。
いつものようにカリムの愚痴に付き合っているうちに昼になり、二人揃って馴染みの食堂に入る。昼時の食堂はいつも通り賑わっているようで、店に入った途端にがやがやとしたうるさい空気がルーク達を出迎えた。
「よしっ! パーシィちゃんはいるな!」
忙しそうに働くパーシィとやらを見つけ、カリムは一人ガッツポーズ。普段は呆れるところだが、今のルークには少し羨ましく思えた。少し前まではあんな感じでルークも気楽に昼飯を満喫していたものだが、今は時間が空けばミーネのことを考えてしまう。
「おいカリム、向こうは忙しそうなんだから、あまりがっつくなよ」
「うるせぇ! お前みたいな幸運野郎には、持たざる者の気持ちがわかるはずがねぇ!」
「はいはい。で、どこ座んだ。カウンターか? うっさそうなおっさん二人がいるが」
ちらりと一瞥したカウンター席には、大声であれこれと口論している二人の中年男の姿。二人とも顔が赤いので、昼間から飲んだくれているらしい。いい御身分だなと、ルークは内心呆れる。
「もちろんパーシィちゃんに声をかけやすいとこだ。あ、お前は来んなよ? その山賊面でパーシィちゃん怖がらせたらまずいからな」
無精髭を生やして自分もなかなかに山賊面のくせに、そんな事実は棚上げしてくるカリムに、ルークは肩をすくめた。
「へいへい。んじゃ、食い終わったら店の外で待ち合わせな」
言うだけ言うと、適当な席についてさっさとビーフカレーを注文し、頬杖をつく。
カリムがいれば馬鹿なことを言ってられるので、一時的にとはいえミーネのことを忘れていられるのだが、かといって、いればいたであれこれうるさい男なので、なんとも微妙である。
「いや、いたらあいつのことでなんか言ってくるだろうから、いない方がいいか」
さり気なく酷いことを言っていると注文したビーフカレーが運ばれてきて、嗅ぎ慣れた匂いに食欲を刺激されたルークはいつもより控えめな速度で食べ始めた。
そういえば、こうして一人で食べるのは久しぶりな気がする。最近は、誰かしらと一緒の食事ばかりだったので、懐かしい感じすらした。
そこまではよかったのだが、懐かしく思っても、それが楽しいわけではなかった。少なくとも、キノコのフルコースだったり、食べきれない量を目の前に置かれ、それにあれこれ言いながら食べる食事と比べて、この味気なさはなんだと思ってしまう。
「はぁ……」
なんともいえないため息をついた時だ。
「ルークだな?」
店内はさわがしいはずなのに、淡々とした男の声がやけにはっきりと聞こえた。反射的に背筋が伸び、目が辺りを探る。しかし、それらしい姿はなかった。
「探さずとも、お前の後ろの席にいる。だが、わざわざこちらは向かなくていい」
「どういう意味だよ」
「そのまま他人のふりをしながら話を聞けということだ」
「はいそうですかって言うと思うか? 話があるならしっかり面を見せろよ。そうでなきゃ、どこの誰とも知らない野郎の話に付き合う義理なんかねぇ」
冷たく突っぱねたつもりだったが、背後の男に動じた気配はなかった。
「彼女についての話だ、と言ってもか?」
「誰のことだよ」
「森の奥で、ひっそりと暮らしている彼女のことだ」
不意に、心臓を掴まれた気分だった。
誰のことを言っているのか、嫌でもわかってしまう。そして、この男が出まかせを言っているわけではないことも同時に感じ取る。だが、不思議と敵意や悪意は感じなかった。
「なんなんだよ、あんたは。どうしてあいつのことを知ってる?」
「俺が何者かについては、さほど重要ではない。彼女のことを知っているのかという問いについては、教えられたからとだけ答えておこう」
ルークは軽く舌打ちした。淡々と語る男の口ぶりからは、およそ感情の起伏というものが感じられない。ルークにとって相性がよろしくないタイプだ。
「つまり、答える気はないってことか?」
「話を聞く気にはなったか?」
「っ……」
腹立たしいが、主導権を握るには状況が厳しい。頭がそう判断し、一つ深呼吸する。
「……わかった。聞くだけ聞いてやる」
「では本題に入る。お前はいつまで彼女に関わっているつもりだ」
「質問の意味がわからねぇよ。いつまで関わるかなんか関係ないだろ」
「大いにあるから聞いている。お前は知らないだろうが、彼女達は一度愛する者を見つけたら、ずっと想い続ける性質を持っている。お前が彼女にこのまま関わっていれば、いずれ恋慕の感情を向けられる可能性が出てくるだろう。仮にそうなった時、お前はその想いに応えるだけの覚悟があるのか?」
背中越しに語られた言葉が、胸に深く突き刺さる。それは、まさしくルークが直面している事態だ。
「それは……」
「今なら、まだ傷が浅いままでお前達の関係を終わらせることもできるだろう。覚悟がないのなら、もう関わらないことだ。お互いに不幸にならないためにもな」
どこまでも淡々と告げられる言葉が、水のようにルークの頭に入ってくる。
「あんたは俺に、なにを望んでる? 俺にどうしろってんだよ」
「決断することだ。悩むなとは言わないが、時間はそう残されてはいない。もう彼女とは関わらずに今まで通り生きていくか、最後まで関わり抜くか。よく考えて選ぶことだ」
なんで見知らぬ男に説教めいたことを言われなければならないのだろう。
不快な感じが胸から湧き上がってくるが、すぐにそれは八つ当たりだと気づく。誰かに指摘されずとも、いずれはルークに降りかかって来る問題だ。それを忠告されたにすぎない。
「仮に……最後まで関わり抜くことを選んだらどうなる?」
「夫婦になる。行きつく先はそれしかない」
「夫婦って、だってあいつは」
「その事実を口にしたところで無意味だ。彼女に関わってきたのなら、お前も理解しているだろう。彼女達は、教団や教会が語るような存在ではないと」
遮るように言われ、ルークは歯を噛みしめた。
「……ありえるのか? 夫婦になるなんてことが」
「この島ではありえないことだろうが、他の大陸にいけば、それは珍しいことでもない」
「まさか、あんた―」
続く言葉を言いかけた時だった。
「なんだてめぇ! やんのか!?」
「ふざけんな! そっちが言い出したんだろうが!」
派手に食器がぶつかる音とともに、そんな怒声が店内に響いた。目を向ければ、カウンター席に座っていた例の男二人が互いの胸倉を掴み、赤ら顔で睨み合っていた。
他の客は何事かと手を止めてその光景を眺め、パーシィとやらはどうすればいいのかとおろおろしている。
騒ぎを聞きつけた店長らしき男が出てきて仲介に入ったが、酒が入っている男二人が聞く様子はない。
それを眺め、ルークは目を別のところに向ける。その先で、一部始終を眺めていたカリムと目が合い、お互いに小さく肩をすくめると立ち上がった。
「おい、こういう場でそういうことをするのは止めてもらおうか。他のお客さんに迷惑だ」
「そういうこった。余計な騒ぎを起こすな」
「うるせぇ! てめぇらには関係ね―」
ルークとカリムがそれぞれ男二人の肩に手をかけると、酔っ払い二人が喚きながらこちらを向き、そして固まった。まあ、それも無理はない。彼らを諌めたのは、山賊顔の騎士二人なのだから。
ルークは言うに及ばず、カリムも真面目な顔をすると迫力がある。容姿からくる威圧と、身に纏っている公権力の証である騎士団の制服とに、男達の顔色が赤から青に変わった。
「関係はないけどな。こちとら、これが仕事なんだよ」
「そういうことだ。ほら行くぞ。話は本部で聞いてやる」
なかば強引に男の腕を掴み、店の外へ連れていく。
騎士二人の登場に、店長はホッとし、他の客は食事を再開したようだ。
ルークは酔っ払いの一人の腕を押さえながら、ふと自分の座っていた席へと目を向けた。しかし、自分の座っていた席の後ろに人の姿はなく、テーブルには空になった皿だけが残されていた。
ミーネがそう言い出したのは数日前のことだ。やけに真剣な表情だったので、ルークとしても相応のことなんだろうかと少し真面目に考えもした。しかしだ。こちらがそんな心構えをしてきたというのに、肝心のミーネは鼻歌交じりに絶賛料理中である。
そんなご機嫌なミーネを椅子に座って眺めているのが、今のルークの状況だった。
「おいミーネ」
声をかけてみると、ミーネはすぐに振り向いた。そしてにこりと笑い―。
「にゃあにゃあ♪」
なぜか猫の鳴き真似をした。
「……」
反応に困ったルークは絶句するしかない。そしてすぐに、なんで猫の鳴き真似? という疑問が浮かぶ。するなら狐ではないだろうか。だが、狐はそもそも鳴くのか。聞いたことのないルークにはわからない。とりあえず、これだけは確信した。こいつのことだから、大事な話は絶対に大事なことじゃないと。
ルークが無言で視線を向けていると、ミーネの頬が赤く染まった。
「あ、あはは……。な、なんちゃってー……」
そう言ってぎこちない動きで顔を逸らし、料理に戻るミーネ。おかしなことを言った自覚はあるらしい。
これ以上話しかけるとろくなことにならなそうだと判断したルークは、大人しく昼食が出来上がるのを待った。
「お待たせー♪」
その後、待つこと数十分。ようやく出来上がった昼食をミーネが嬉しそうに運んでくる。
まず置かれたのは、鮭とキノコの蒸し焼き。続いて定番となっているハンバーグがキノコソースたっぷりで登場する。サラダなどの前菜を無視していきなり主役が二品も登場したことに、ルークは早くも顔が引きつる。しかし、ご機嫌なミーネは更なる料理を追加してきた。
火にかけてあった鍋を持ってきたので、それをどうするつもりだと眺めていたら、テーブルの真ん中にどんと鎮座させてしまった。その中身は肉や魚の切り身を始め、野菜とキノコが盛り沢山である。まあ、最近は冷えるようになってきたので、鍋自体は別にいい。だが、この一食の量にはさすがのルークも看過できなくなった。
「おい、お前はあれか。冬眠でもするつもりなのか?」
元人間とはいえ、今は狐娘と化しているので、冬は本物の狐のように長いお休みに入っているのかもしれない。そうだと思いたい。
「え? ああ、これはちょっと張り切りすぎちゃってね……」
「えへへ……」と苦笑気味に笑うミーネを見るに、いつもの間抜け行動の結果らしい。
「そうか。で、冬眠はしないのか?」
「し、しないよ。 寒くなってきたから、毛布出さなくちゃとかは思ってるけど、冬眠はしないっ」
「狐なのにか?」
「狐だけど、しないものはしないのっ!」
むくれ顔になりつつも、ルークの隣りにきてそのまま座る。最初はたまにはいいかなんて理由だったはずだが、いつの間にかここが定位置になってきている。ここまでなら、ルークとしても別にどうということはないのだが、最近のミーネは隣りに座るだけでなく、更に別のことまでするようになった。
「えっと、ルークはとりあえずお肉でいいよね。それに鮭もとって……あ、シイタケもいれとこっと。後はお野菜でいい?」
「お、おう……」
あーんなんて死ぬほど恥ずかしい真似はしなくなった代わりに、こうして甲斐甲斐しく料理を取り分けるようになったのだ。便利ではあるのだが、ちょっと鬱陶しい。しかし、邪見にできないのはそうしているミーネがやたらと嬉しそうだからだ。
ルークとしても、飯はなるべく気分よく食べたいので、つまらないことを言って空気をぶち壊すつもりはない。その結果がこれである。
「これは一体なんなんだろうな……」
ルークのぼやきに、ミーネが不思議そうに首を傾げた。
腹が満たされると、さほど重要ではないことはどうでもよくなるらしい。文字通り食べすぎたルークは、ソファに座って欠伸をしていた。外は肌寒いが家の中は快適な温度であり、そこに満腹状態という条件が加わると、睡魔がやたらと強敵になる。
油断するとすぐに意識が旅立ちそうなので、今回はなかなかに劣勢である。まあ、寝てしまっても特に問題はないのだが、ミーネの前で寝顔を晒すのがなぜか癪で、ルークは睡魔と激闘を繰り広げていた。
「お待たせ」
もう少しで睡魔に敗北というところで洗い物を終えたミーネが戻ってきたことで、なんとか意識が繋がる。閉じそうな目を向けると、ミーネが隣りに座った。
「お疲れさん。まあ、そこそこには食えたぞ」
「そっか。よかった。無理して食べてたらどうしようって思ってたから」
少しほっとしたようにミーネが笑う。ルークとしては、そう思うなら量くらい考えてくれと思ったが、口にはしなかった。
「それでねルーク、大事な話があるって言ったでしょ?」
「ああ、言ってたな。なんだ、また買い物でも行きたいのか? だったら今度連れてってやるよ」
「えっと、確かに買い物も行きたいけど、そうじゃなくてね……」
横目でミーネを見ると、ミーネは頬を僅かに赤らめ、顔を少し俯かせていた。それを確認すると、ルークは再び目を閉じた。多分、そこまで大した用事じゃないのだろう。勝手に頭が判断し、睡魔との闘いに戻ろうとする。
「あのね、ルーク」
「聞いてるよ。なんだ?」
再び意識がぐらついてくるなか、その言葉はやけにはっきりと聞こえた。
「好きです」
一瞬、まったく知らない言葉を言われたのだと思った。それなのに、その一言は睡魔を瞬殺し、ルークの頭にはっきりと響いた。
パッと目を見開き、空耳だろうとばかりに隣りのミーネに顔を向ける。
ミーネの真剣な、それでいて少しだけ潤んだ青い目がしっかりとこちらを見ていた。それに気圧され、言葉が出てこない。だから、次に口を開いたのはやはりミーネだった。
「あなたのことが、大好きです」
冗談だと思える空気ではなかった。それを理解したからこそ、頭の中が恐ろしい勢いでかき乱されていく。
「大好きって、お前、いきなりなに言って……どう、したいんだよ?」
想像すらしなかった事態に、ルークは呻くように言うのが精いっぱいだった。
「えっと、その、ルークの恋人になりたいなって……」
頬を赤くしながら顔を俯かせ、上目遣いに見つめてくる。顔立ちが少し幼さを残しているだけに、そんな仕草が異常なほどの魅力を放っていた。
ルークはもうどうすればいいのかわからなかった。初めての告白に頭は真っ白になり、ただミーネを見つめるだけ。頭が動かなくなったからだろう、口だけが勝手に反応した。
「恋人って、お前は魔物で、お前の女らしいところなんて胸くらいだろ」
右手がゆっくりとした速度でミーネの胸元に伸びる。もちろん、本当に触るつもりなんてなかったし、触る勇気もなかった。だが―。
「やっ……」
びくりと反応したミーネは顔を真っ赤にしてきゅっと目を瞑り、自分の身体を抱きしめるようにして固まった。それだけでなく、狐の耳はぺたりと下がり、身体はぷるぷると震えている。
明確なまでの拒絶反応に、今度はルークが固まる。同時に、混乱する頭が俺のこと好きなんじゃないのかよという疑問を浮かべる。
やがて、ミーネがゆっくりと目を開ける。そしてすぐに、変な格好で固まっているルークを見て、小さく「あ……」と漏らした。
「えと、その、嫌じゃ、ないんだよ……? ルークならいいんだけど……、そういうことするのはルークとじゃないと嫌なんだけどねっ……」
言っているうちに恥ずかしくなってきたらしく、ミーネの顔がどんどん赤くなっていく。だが、それを正面で聞かされるルークは倍は恥ずかしかったといっていい。
「えと、あのっ、そう! こ、心の準備! そういうことするのは、心の準備ができるまで待ってっ! じゃないと、恥ずかしくて変になっちゃうから……」
「お、おう……」
すごい勢いでまくしたてられ、ついそんな返事をしてしまった。だが、すぐにそういう問題ではないことに気づく。
「あ、いや、そうじゃなくてだな……。その……告白、の返事、だけどな……」
「あ、うん……」
ルークがぎこちなくそう切り出すと、ミーネはさっきまでの様子が嘘のようにしゅんとし、少しだけ期待するような目を向けてくる。それだけで、少し落ち着いた胸の内が再び鼓動を早める。
「あの、あれだ。その、少し考える時間をくれないか」
普段のミーネみたいにしどろもどろな言い方だ。仮にこの場に同僚がいたなら、きっと大笑いしていたに違いない。顔がなにかの病気なんかじゃないかと思うくらいに熱い。
「……うん、わかった。それはいいんだけど……」
そこで口を閉じ、窺うように見つめてくる。
「な、なんだ?」
普段はまったくそんなことはないのに、今日はミーネがなにかを言いかけるだけで動揺してしまう。
「その、返事をするまでの間も、ここに来てくれないかなって思っちゃったりしてね……」
「いや、それは、あれだ。来るのはいいけどな、お前は、その、いいのか……? 気まずくはないのかよ?」
「だって……その、少しでも一緒にいたいもん……」
消え入りそうな声がやけにはっきりと聞こえた。それが純粋に好意を伝えるものだったから、ルークは息がつまりそうになる。
「そ、そうか……。じゃあ、あれだ、その、努力はする」
その日、ルークの記憶に残っているのはその時見せたホッとするようなミーネの笑顔が最後だ。それ以降のやり取りはもちろん、どうやって帰ってきたかも覚えていなかった。
翌日。
朝礼でミラが本日の伝達事項を説明していたが、ルークはまるで耳に入ってこなかった。なにかをしゃべっていることはもちろん理解しているのだが、聞いたことは耳から耳へと通過していくだけで、頭にはまったく残らない。人生初の告白という事態に、頭の中はミーネでいっぱいいっぱいだったのだ。
だから、気が付けば朝礼は終わり、いつの間にかミラと並んで見回りの仕事を始めていた。
なんとか意識を仕事に向けることでミーネの告白は一旦忘れられるのだが、気を抜けばすぐに頭の中で「大好きです」というミーネの言葉が再生される。その度に息がつまりそうになり、眉間に盛大に皺を寄せ、重いため息をつく。
「ルーク、聞いているのか?」
何度目かもわからないため息をついた時、そんな声が聞こえた。ちらりと目を向ければ、少し咎めるような目で見ているミラの顔が視界に入る。
「あ? なんか言ってたのか?」
「その発言は聞いていなかったということだな」
ミラは笑ってない笑顔を浮かべ、ぐっと握り拳を作る。そして、ルークが弁解するよりも先に鉄拳が炸裂した。頭に信じられない痛みが瞬く間に走る。
「っ〜! おい隊長! せめて言い訳くらい聞けよ!」
「言い訳なら聞く必要などないだろう。どうせ聞いていなかったのだからな。それよりなんだ、今日は鬱陶しいため息を何度もついて。私と見回りなどしたくないという遠回しな抗議か?」
「んなわけあるか。あれだ、ちょっとした悩み事について考えていただけだ」
ちょっとどころか、かなり頭を悩ませている問題なのだが、もちろんそれは言わない。いや、言えない。
「お前に悩みなどあるのか?」
「なんだよ、俺にだって悩みくらいあるぞ。馬鹿なりに悩むことがあるんだよ」
やや投げやりに言うと、ミラは表情を曇らせ、顔を背けた。
「……そうか。まあ、なんだ。お前が困っているなら、その、相談にくらいはのるが」
意外なことに、ミラが優しさを見せてきた。しかしだ。現在ルークを悩ませていることは誰かに相談できることではない。普通の恋愛話ならできても、相手が魔物となってくると、この国にそれを話せる相手は皆無だ。当然、ミラも例外ではない。だから、ルークはさっさと話を切り上げた。
「生憎と、誰かに相談する類のことじゃねーから大丈夫だ。ほら、飯に行こうぜ」
幸い、今日は何を食べるかを考えることで、ミーネのことは一旦頭から忘れることができた。そのことに、少しだけ安堵する。
そんな状態だったから、後ろでミラが少し寂しそうに目を伏せていることには気がつかなかった。
そして翌日。今日は仕事が半日で終わりなので、ミーネの家に行く日である。だからこそ、いつものように馬に乗って向かっているのだが、どんな顔をして行けばいいのかさっぱりわからない。それどころか、なにを話せばいいのかもだ。ミーネに好意を寄せられているとなった途端、いつもはできていたことが急にわからなくなる。
その事実に、ルークは顔をしかめた。信じられないことに、妙な不安を感じているのだ。おかげで、胸の内側に不快な感覚が広がっている。
「くそっ、なんなんだよ……」
ミーネに振り回されるのはもう慣れているはずだった。だが、今回の振り回され方はルークにとっても初体験で、どうしていいのか見当もつかない。
馬に揺られながらあれこれと考えているうちに、いつの間にかミーネの家に到着していた。既に見慣れた家だが、今日は扉をノックすることを躊躇った。
「……」
一瞬、このまま引き返すかという情けない考えが頭に浮かび、ルークは首を振った。それではミーネから逃げることになる。普段はのほほんとしていて、間抜けとかおバカといった表現がぴったりの狐娘から逃げるというのは、ものすごく癪だ。
ルークはでかいため息をつくと、苛立ちをぶつけるように強めにノックした。さほど時間を置かずに扉が開き、ミーネが顔をのぞかせる。
「あ……来てくれたんだ……」
最初にホッとした表情が浮かび、次いで少し嬉しそうなものに変わる。
「まあ……来ない理由がないしな。タダ飯も食えるし」
捻くれた返事を返すと、ミーネははっきりと笑顔を浮かべた。
「それでも、会いにきてくれるのは嬉しいよ。その……おかえり」
「お、おう。いや、なんだ、それは」
いつもは言われない言葉に、つい突っ込んでいた。そういえばこんな感覚だった気がする。
だが、ルークが内心で安心していられたのはほんの僅かだった。
「えと、その、わたしって、ここに一人で住んでるでしょ。だから、こうやって誰かを迎える言葉を、一度言ってみたかったの」
「お、おう……。そうか……」
「じゃあ、上がって。もうすぐお昼ご飯できるから」
割と普段通りの振る舞いを見せるミーネに対し、ルークはこの体たらくである。それがなんとも複雑な気分になる。
ダイニングで昼食を待つ間も、ルークはなんとも気まずい思いをしながら椅子に座っていた。原因はわかっている。さっきの、おかえりという言葉だ。
一人身のルークにとっても、それは縁のない言葉だった。だからこそ、変な想像をしてしまう。仮に、ミーネと同棲でもすることになったら、仕事から帰る度に、ああして迎えてくれるのかと。
そんな想像をして、思わずため息だ。自分でも驚くくらいにミーネを意識している。相手は魔物なのにだ。
ほとんど睨むようにミーネの後ろ姿に目を向ける。
頭に獣耳、腰には尻尾と、普通の人にはないものは今日も健在だ。しかし、そんな人外の証も、見ようによっては単純にちょっとしたおまけでしかない。 ミーネがもっと魔物らしかったら、ルークもここまで意識はしなかっただろう。だが、目の前にいるそいつは、恐ろしいほどに人間らしかった。
「お待たせ」
ぼんやりと考えているうちに出来上がったらしく、目の前に唐揚げがてんこ盛りの皿が置かれる。それを見て、知らずにため息が出た。この間のやり取りはミーネの頭に残らなかったらしい。
どう説教してやろうかと頭を巡らせているうちに、ミーネが隣りにすとんと座る。
「なあ、もしかしてお前が俺の隣りに座るようになった理由は、その、あれか?」
「え……」
ミーネの頬がほんのり赤く染まる。
「えと、その、少しでも近くがいいなって……」
聞くんじゃなかったと後悔した。
ルークが返答に困って黙っていると、それをどう受け取ったのか、ミーネは少しむくれつつ、ぽつりと囁いた。
「だって、その……好きなんだもん……」
「っ……!」
拗ねるように言われた好きという言葉が、ルークの心を盛大に抉った。
頭を悩ませる問題があると、日が経つのは早いらしい。ここ最近でルークはそれを嫌というほど実感していた。
今日は久しぶりにカリムとの見回りだった。ミラは今日は仕事量が多いらしく、机につきっきりで作業をするとのことだった。
ミラにまで気を遣わせるほど最近は思いつめているらしいので、遠慮も気遣いも必要ないカリムとの見回りは気が楽だった。
いつものようにカリムの愚痴に付き合っているうちに昼になり、二人揃って馴染みの食堂に入る。昼時の食堂はいつも通り賑わっているようで、店に入った途端にがやがやとしたうるさい空気がルーク達を出迎えた。
「よしっ! パーシィちゃんはいるな!」
忙しそうに働くパーシィとやらを見つけ、カリムは一人ガッツポーズ。普段は呆れるところだが、今のルークには少し羨ましく思えた。少し前まではあんな感じでルークも気楽に昼飯を満喫していたものだが、今は時間が空けばミーネのことを考えてしまう。
「おいカリム、向こうは忙しそうなんだから、あまりがっつくなよ」
「うるせぇ! お前みたいな幸運野郎には、持たざる者の気持ちがわかるはずがねぇ!」
「はいはい。で、どこ座んだ。カウンターか? うっさそうなおっさん二人がいるが」
ちらりと一瞥したカウンター席には、大声であれこれと口論している二人の中年男の姿。二人とも顔が赤いので、昼間から飲んだくれているらしい。いい御身分だなと、ルークは内心呆れる。
「もちろんパーシィちゃんに声をかけやすいとこだ。あ、お前は来んなよ? その山賊面でパーシィちゃん怖がらせたらまずいからな」
無精髭を生やして自分もなかなかに山賊面のくせに、そんな事実は棚上げしてくるカリムに、ルークは肩をすくめた。
「へいへい。んじゃ、食い終わったら店の外で待ち合わせな」
言うだけ言うと、適当な席についてさっさとビーフカレーを注文し、頬杖をつく。
カリムがいれば馬鹿なことを言ってられるので、一時的にとはいえミーネのことを忘れていられるのだが、かといって、いればいたであれこれうるさい男なので、なんとも微妙である。
「いや、いたらあいつのことでなんか言ってくるだろうから、いない方がいいか」
さり気なく酷いことを言っていると注文したビーフカレーが運ばれてきて、嗅ぎ慣れた匂いに食欲を刺激されたルークはいつもより控えめな速度で食べ始めた。
そういえば、こうして一人で食べるのは久しぶりな気がする。最近は、誰かしらと一緒の食事ばかりだったので、懐かしい感じすらした。
そこまではよかったのだが、懐かしく思っても、それが楽しいわけではなかった。少なくとも、キノコのフルコースだったり、食べきれない量を目の前に置かれ、それにあれこれ言いながら食べる食事と比べて、この味気なさはなんだと思ってしまう。
「はぁ……」
なんともいえないため息をついた時だ。
「ルークだな?」
店内はさわがしいはずなのに、淡々とした男の声がやけにはっきりと聞こえた。反射的に背筋が伸び、目が辺りを探る。しかし、それらしい姿はなかった。
「探さずとも、お前の後ろの席にいる。だが、わざわざこちらは向かなくていい」
「どういう意味だよ」
「そのまま他人のふりをしながら話を聞けということだ」
「はいそうですかって言うと思うか? 話があるならしっかり面を見せろよ。そうでなきゃ、どこの誰とも知らない野郎の話に付き合う義理なんかねぇ」
冷たく突っぱねたつもりだったが、背後の男に動じた気配はなかった。
「彼女についての話だ、と言ってもか?」
「誰のことだよ」
「森の奥で、ひっそりと暮らしている彼女のことだ」
不意に、心臓を掴まれた気分だった。
誰のことを言っているのか、嫌でもわかってしまう。そして、この男が出まかせを言っているわけではないことも同時に感じ取る。だが、不思議と敵意や悪意は感じなかった。
「なんなんだよ、あんたは。どうしてあいつのことを知ってる?」
「俺が何者かについては、さほど重要ではない。彼女のことを知っているのかという問いについては、教えられたからとだけ答えておこう」
ルークは軽く舌打ちした。淡々と語る男の口ぶりからは、およそ感情の起伏というものが感じられない。ルークにとって相性がよろしくないタイプだ。
「つまり、答える気はないってことか?」
「話を聞く気にはなったか?」
「っ……」
腹立たしいが、主導権を握るには状況が厳しい。頭がそう判断し、一つ深呼吸する。
「……わかった。聞くだけ聞いてやる」
「では本題に入る。お前はいつまで彼女に関わっているつもりだ」
「質問の意味がわからねぇよ。いつまで関わるかなんか関係ないだろ」
「大いにあるから聞いている。お前は知らないだろうが、彼女達は一度愛する者を見つけたら、ずっと想い続ける性質を持っている。お前が彼女にこのまま関わっていれば、いずれ恋慕の感情を向けられる可能性が出てくるだろう。仮にそうなった時、お前はその想いに応えるだけの覚悟があるのか?」
背中越しに語られた言葉が、胸に深く突き刺さる。それは、まさしくルークが直面している事態だ。
「それは……」
「今なら、まだ傷が浅いままでお前達の関係を終わらせることもできるだろう。覚悟がないのなら、もう関わらないことだ。お互いに不幸にならないためにもな」
どこまでも淡々と告げられる言葉が、水のようにルークの頭に入ってくる。
「あんたは俺に、なにを望んでる? 俺にどうしろってんだよ」
「決断することだ。悩むなとは言わないが、時間はそう残されてはいない。もう彼女とは関わらずに今まで通り生きていくか、最後まで関わり抜くか。よく考えて選ぶことだ」
なんで見知らぬ男に説教めいたことを言われなければならないのだろう。
不快な感じが胸から湧き上がってくるが、すぐにそれは八つ当たりだと気づく。誰かに指摘されずとも、いずれはルークに降りかかって来る問題だ。それを忠告されたにすぎない。
「仮に……最後まで関わり抜くことを選んだらどうなる?」
「夫婦になる。行きつく先はそれしかない」
「夫婦って、だってあいつは」
「その事実を口にしたところで無意味だ。彼女に関わってきたのなら、お前も理解しているだろう。彼女達は、教団や教会が語るような存在ではないと」
遮るように言われ、ルークは歯を噛みしめた。
「……ありえるのか? 夫婦になるなんてことが」
「この島ではありえないことだろうが、他の大陸にいけば、それは珍しいことでもない」
「まさか、あんた―」
続く言葉を言いかけた時だった。
「なんだてめぇ! やんのか!?」
「ふざけんな! そっちが言い出したんだろうが!」
派手に食器がぶつかる音とともに、そんな怒声が店内に響いた。目を向ければ、カウンター席に座っていた例の男二人が互いの胸倉を掴み、赤ら顔で睨み合っていた。
他の客は何事かと手を止めてその光景を眺め、パーシィとやらはどうすればいいのかとおろおろしている。
騒ぎを聞きつけた店長らしき男が出てきて仲介に入ったが、酒が入っている男二人が聞く様子はない。
それを眺め、ルークは目を別のところに向ける。その先で、一部始終を眺めていたカリムと目が合い、お互いに小さく肩をすくめると立ち上がった。
「おい、こういう場でそういうことをするのは止めてもらおうか。他のお客さんに迷惑だ」
「そういうこった。余計な騒ぎを起こすな」
「うるせぇ! てめぇらには関係ね―」
ルークとカリムがそれぞれ男二人の肩に手をかけると、酔っ払い二人が喚きながらこちらを向き、そして固まった。まあ、それも無理はない。彼らを諌めたのは、山賊顔の騎士二人なのだから。
ルークは言うに及ばず、カリムも真面目な顔をすると迫力がある。容姿からくる威圧と、身に纏っている公権力の証である騎士団の制服とに、男達の顔色が赤から青に変わった。
「関係はないけどな。こちとら、これが仕事なんだよ」
「そういうことだ。ほら行くぞ。話は本部で聞いてやる」
なかば強引に男の腕を掴み、店の外へ連れていく。
騎士二人の登場に、店長はホッとし、他の客は食事を再開したようだ。
ルークは酔っ払いの一人の腕を押さえながら、ふと自分の座っていた席へと目を向けた。しかし、自分の座っていた席の後ろに人の姿はなく、テーブルには空になった皿だけが残されていた。
14/11/09 15:42更新 / エンプティ
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