第九章
「バート、リージオさんが呼んでるぞ」
バートが倉庫の片隅で小麦の在庫チェックをしていると、マルコにそう声をかけられた。
「ボスが?」
「ああ。久しぶりに本来の仕事ができるんじゃないか?」
マルコは梳かすように髪を撫でた。頭頂部は既に禿げあがっているので、残っている両脇の髪を撫でるのが彼の癖だった。
「でしょうね。まあ、ない方がいいんですけど」
「違いない。だが、必要な仕事だ。ほれ、後は引き受けるから行って来いよ」
「すいません。お願いします」
書き途中のリストをマルコに預けると、バートは倉庫を出た。暗い倉庫にいたからか、扉の外の明るさが目に痛い。
たっぷりと時間をかけて上司の部屋に向かうと、ノックせずに扉を開けた。
「失礼します、ボス」
「来たか」
「そりゃ、呼ばれましたからね。やっぱりお仕事ですか」
「ああ。それも、久しぶりに厄介そうだ」
「そうなると、レナードと分担作業ですね」
「残念だが、今回はお前一人で頼む」
リージオが事もなげに言い、バートは軽く目を見開いていた。
「一人って、レナードはどうしたんです? 何か別件で動いてるんですか?」
「いや、あいつは今、休暇を取って旅行中だ。あと一月は戻らん」
「旅行って、これまた珍しいことを……」
仕事仲間なのでレナードのことはよく知っているが、旅行が趣味だという話は聞いたことがなかった。
「私も同意見だ。だが、あいつは土砂の撤去をきちんとやり終えたからな。実直な仕事には、きちんと報酬を出さねばならない」
「やり終えたって、あれをですか。僕も一度見に行きましたけど、一人でどうこうできるものじゃなかったですよ」
「だが、あいつはやった。どういう手段を用いたのかまでは知らないが、見事なものだったからな。その対価にと言われれば、頷くしかない」
「わかりました。とりあえず、今回はレナードなしってわけですね。それで、肝心の仕事は?」
本題を切り出すと、リージオは机に書類の束を置いた。
「今回、お前に調べてもらうのは『S&K』という商会だ。これが資料になる」
「薄いですね」
手渡された資料はいつもと比べて格段に薄かった。これでは内容もたかが知れている。
「薄いのは仕方ない。なにしろ、この商会は今月にオープンしたばかりでな。過去の資料なんてものは存在していない」
バートは資料にざっと目を通した。確かにオープンの日付は今月になっていた。
「今月オープンね。ボスは具体的にこいつのどこが怪しいと思ってるんです?」
資料から目を向けると、リージオと視線がぶつかった。
「勢いがありすぎるところだ」
リージオは椅子から立ち上がると、近くの窓へと歩み寄った。
「詳しい数字は私にも分からないが、商人に聞いたところだと一日の売り上げはこの町でも五指に入っているそうだ。開店して一月でな」
「まあ、それは確かにすごいっちゃすごいですね。しかし、新興勢力ってのはいつも勢いがあったでしょう。単に、上手く駆け出しているってだけでは?」
過去の経験を元にした発言だった。当然、リージオもそれは分かっているはずだ。
「カーネスト」
「なぜそこで港町の名が出てくるんです?」
カーネストとはカーリ川を下った先にある港町だ。この国の玄関とも言える町で、その名はカーリ川の名をもじってつけられた。そんなカーネストがなんの脈絡もなく出てきたことがわからなかった。
「関係あるからに決まっている。そこに『S&K』の二号店が開店予定だそうだ」
「二号店? いやいや、本店が今月オープンしたばかりでしょう。なのに、もう二号店だっていうんですか?」
どうも怪しくなってきた。本来なら店一つを開店するのにも多大な資金がいるはずだ。まして『S&K』はオープンしたばかりで、資金は限りなく減っているはずだった。
「ようやく真面目な顔になったな。その通りだ。この短期間に二店目を出すほど稼ぐなど不可能だ。だが、実際に『S&K』は二号店の開店準備を進めている。なら、その資金はどこから出ている?」
「不正の可能性有りってことですか」
リージオは頷いた。
「ああ。これで今回の仕事は分かっただろう。まずは『S&K』の資産から探ってくれ」
「了解。じゃ、まずは代表の人間からですね」
これだけ堂々と動いているとなると可能性は低いが、まずは妥当な手順からだろう。
そこでリージオは机の引き出しを開けて書類を取り出した。
「いや、それについては少し調べた。代表の名前はシオス。『ソロニール』という店で果物と野菜を扱う町商人だな」
「それが今はこの町でも有数の実力を持つ商会の主ってわけですか。過去に商人を調べることはありましたけど、野菜と果物を扱ってる人ははじめてですね。そんなに儲かるんですか?」
「それについては少々気になることがある。お前、トリコフルーツは知っているか?」
「ええ、それはまあ。そこそこ有名じゃないですか。町で流行中の果物でしょう? 人気すぎて、実物を目にしたことはありませんが」
「それを独占販売しているのが『ソロニール』だ。『S&K』を開店した今でもその状況は変わっていない」
独占販売となると、バートにはもはや儲けの想像ができなかった。
「表向きには相応の資金を得る術があるってわけですか。しかし、いくら独占販売をしようと、店を買うほどの金を稼げるのは当分先でしょう」
「その通りだ。しかし、シオスは現に金を用意して店を購入し『S&K』を開いている。借りるという手段もあるが、二号店の分もとなれば、それこそ莫大な金になる。そう簡単に貸せる額ではないし、一個人で用意できるとも思えん。そうとなれば、どこかで不正な金を調達した可能性が出てくる」
バートはため息をついた。不正な金となると、いつも面倒事なことが多いのだ。
「ま、やるだけやりますよ」
「気をつけろよ。勘にすぎないが、今回の件はいつも以上に厄介な気がしてならん」
「尻尾を掴むだけです。深追いはしませんよ」
「任せたぞ。報告はいつも通りに頼む」
比較的長い列だった。バートは小さく鼻唄を歌いながら自分の番を待っていた。やがて、前の老夫婦二人が税を払い終わって町へ入っていくと、バートの番になった。
「はい、次の方」
促され、バートは前に出た。
「へいどーぞ」
口調を変えて、面倒そうにこの辺りでは使われていない貨幣を差し出した。特定の者にだけ通じる、特別な合図だった。それを受け取った相手は、こちらの顔を見て疲れた表情から笑顔に変わった。
「バートさんじゃないですか。またお仕事で?」
「まーな。それより後ろがつかえてる。さっさと確認してくれや」
本来の仕事をする時は旅人を装うのがバートのやり方だった。それを知っているラッドは受け取った貨幣を小さな箱に入れた。
「はい、確かに。どうぞお通り下さい」
「幸運を」と小さく声をかけられながら、バートは門を通った。普段は倉庫での作業なため、人で賑わう町に来るといかにも自分が外からやってきた気がした。何度も体験しているが、この感覚が彼は好きだった。
「うし。じゃあ、始めっかね」
仮宿を取ると、バートはまず『ソロニール』に向かった。
目的の店はすぐに見つかった。肩の力を抜いて店に入ると、野菜の青臭さが鼻についた。店内には女性客が四人いた。それらから目をカウンターに向ける。そこにいたのは若い女性の店員だった。シオスはいないようだ。
それを確認すると、果物コーナーへ向かった。リンゴ、イチゴ、バナナ、桃、メロンと、ありふれた品が並んでいた。それらに混じって一列だけ空の棚があった。「トリコフルーツ、トースイ、ネブリは売り切れです」と書かれた札が置かれている。
「何かお求めですか?」
不意に声をかけられた。振り向くと、カウンターにいた女性が立っていた。他の買い物客の姿はいつの間にか消えていた。どうやら買い物を終えて出て行ったらしい。
「ああ。ちょいと小腹の足しになる果物を買いにね。お姉さん、お勧めはあるか?」
粗野な旅人を演じるため、言葉遣いを雑にして言った。
「お勧めですと、今はイチゴがいいですよ。ああ、梨もいいのが入りましたね。お一ついかがですか?」
女性が一歩前に出た。接近されたことによって、バートはこの女性が平均以上の美人だと気付いた。
「梨か。悪くないな」
彼女から顔を逸らして棚に向けた。そこでバートは今気付いたように言った。
「ん? このトリコフルーツってのはなんだ? ここだけ売り切れてるみたいだが」
「ああ、そこの棚の商品は人気商品でして。この時間には売り切れてしまうのですよ」
「へえ。トリコフルーツなんて聞いたことないから興味深いんだけどな。無いならしゃーねぇ。イチゴをもらうかね」
「ありがとうございます」
とりあえず適当な数のイチゴを買い、女性がそれを袋に詰めている隙にバートは店内を観察した。カウンター、棚、扉、窓と順に目を向ける。だが、どれも金がかかっている感じではなかった。
「お待たせしました」
女性が袋を持って戻ってきた。
「ありがとさん。ところでお姉さんがここの店主か?」
「いいえ。私はお手伝いですよ。ここの店主の人は今日は別のところに行ってます」
「なんだ、店主じゃないのか。てっきりそうかと思ったんだけどな。じゃあ、店主の奥さん?」
「ふふ。店主の人にはすごい奥さんがいますよ。私はその人の部下になりますね」
「ってことは、奥さんも商人ってわけか」
「ええ、そうなります」
夫婦揃って商人らしい。そうなると『S&K』の資金については知っている可能性がある。どうやら妻も調べる必要がりそうだ。
「ほー、夫婦揃って商人ねぇ。しかし、店主の見る目はなさそうだ。こんないい女を放って他の女と結婚するなんてな。それとも、店主の奥さんはお姉さんより美人なのか?」
女性は笑みを浮かべたままだった。
「綺麗な人、とだけ言っておきましょう。女の美しさを評価するのはいつだって男なのですから」
女性が一歩前に出た。
「そういうわけですから、今夜お食事でもいかがですか」
笑みを浮かべてそう言う女性は、先程とは全くといっていいほど違う雰囲気を纏っていた。いきなりの変貌に内心気圧されるバートだったが、それを表に出すことはしなかった。
「へえ、お姉さんみたいな美人から誘ってもらえるとは嬉しいね。しかし、俺は金なんてろくに持ってない根なし草だぜ? なんで俺なのか、理由が聞きたいところだ」
「私に対するあなたの評価が聞きたいからですよ」
これ以上、この女と話しているのは危険な気がした。娼館の女は媚びるような目で男を見るが、この女のバートを見る目には誘うような色香があった。このまま釣られると、面倒なことになりそうだ。
「そういうことなら喜んで、と言いたいところだが、悪い。今夜は古い友人との約束があってね」
そう言って肩をすくめると、彼女はあっさりと引き下がった。
「それは残念です」
「悪いね。ま、食事のお誘いはまたの機会にしてくれや」
イチゴの代金を渡すと、バートは少し足早に店を出た。通りを少し進んだところまで来ると、そこで『ソロニール』を振り返った。シオスには会えなかったが、相応の収穫はあった。リージオが集めた情報ではシオスは独身となっていたが、いつの間にか結婚したようだ。そしてその相手が商人ときた。あの店員の話では、結婚相手はなかなかの美人らしい。
「色香に騙された可能性も有りか……?」
その可能性もなくはない。だが、それを確かめるにはもっと調べる必要がある。やれやれと肩をすくめ、彼は歩きだした。
時計が八時を示したと同時に朝の礼拝が始まった。修道長がお決まりの台詞を終えると教会に集まった人々が黙祷を捧げる。バートも最後尾の長椅子に座り、同じように黙祷した。
決まった時間が経過すると、始まりと同じように修道長が終わりの言葉を告げ、朝の礼拝が終わる。多くの人が教会を出ていくなか、バートは座って黙祷の姿勢を保っていた。
「礼拝の時間は終わりましたよ」
聞きなれた声だと、彼は思った。
「すいません、旅の幸運を祈ってたものですから」
「ふふ、教会の定めた決まりを守っていれば、主神様は必ず加護を授けてくれることでしょう」
そう言って、シスターサリサは小さく微笑んだ。バートも笑みを返した。ただ、それはいつここに来てもサリサがバートのことを覚えていないことからくる笑みだった。やはり歳なのだ。退職するにはまだ早いが、それでも頭はそろそろ記憶という仕事を止めたがっているのだろう。
「そうであることを願っています」
その時、聞きなれない声がサリサを呼んだ。
「シスターサリサ、少しいいですか」
そう言って近寄ってきたのはまだ若いシスターだった。バートはそれに少し驚いた。少し前までこの教会には後任者がいないはずだったが、いつの間にか確保したらしかった。だが、驚きの大部分はその若いシスターが思った以上に整った顔をしていたからだ。一目で美しいとわかる女性だった。
「シスターマリー、どうかしましたか」
「はい。夕方の礼拝について少々お話が」
シスターマリーはそこで初めてバートに気付いたようだった。彼に顔を向けると、優しく微笑んだ。
「あら、お話中でしたか。これは失礼いたしました」
「いや、こっちは済んだからな。気にしないでくれ」
バートはそう言いながら席を立った。
「それでは俺も失礼します」
「旅の幸運を祈っています」
サリサの言葉に小さく会釈をして足を逆方向に向けた時だった。
「旅人さん」
マリーに呼び止められ、バートは足を止めた。
「なにか?」
「夕方の礼拝は私が担当することになっています。よかったら、ご参加下さい」
穏やかな笑みを向けられ、思わずどきりとした。人の行為の裏側を調べるバートにとって、こういう裏表のない笑顔はどうにも慣れなかった。
「ああ。時間があったらな」
ぶっきらぼうに言うと返事を待たずに教会を出た。今度はマリーから声はかけられなかった。
『S&K』は今日も賑わっているようだった。普段から人の多い通りだが、その個所だけは倍の人数がいるように見えた。
バートはその景色を一瞥すると『S&K』とは通りを挟んで向かい側にある小さな雑貨商に入った。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは中年の小太りな男だった。店内に客の姿はなかった。
「頑丈なブーツを探してるんだが、置いてるか? 旅に使うんでね。あるなら見せてもらいたいんだが」
「ええ、ええ、もちろんですとも。お待ち下さい。今、お持ちしますよ」
作り笑いを浮かべ、男は以外な早さで奥に引っ込んでいった。彼としては、客になんとか買ってもらおうという魂胆なのだろう。だが、バートがこの店に入ったのは単純に情報集めのためだった。
程なくして三足のブーツを持って男が戻ってきた。
「いや、お待たせしました。いかがです? どれも腕のある職人が作ったもので、品の良さは保障しますよ」
「触ってみてもいいか?」
「ええ、もちろん」
大して興味もないのだが、いかにも買い物に来た旅人を演じるべく、バートはブーツを手に取って眺めた。そして適当な頃合いを見て言い出した。
「しかし、ここは静かでいいな。ついさっき向かいの店にも行ってきたんだが、あっちはうるさくてろくに見ることもできなかった。一体、なんであれはあんなに繁盛してんだ?」
「向かいと言いますと『S&K』でしょうか」
「ああ。確かそんな名前だったな」
目はブーツに向けたままだったが、バートは男の表情になんとも言えない感情が現れるのを見逃さなかった。
「なんでも、珍しい品を多く扱っているそうですよ。あの賑わいはそのためです」
「へえ、珍しい品ね。しかし、ここはカーリ川の隣りに位置する流通に恵まれた町だ。水路を使えば、それこそいくらでもできそうなもんだと思うが」
「ええ、その通りです。現に、この町の有力な商会はそうしています。しかし、それでも『S&K』の品は他では見ないものばかりなのですよ。しかも、その値段が軒並み安いときている」
「その結果があの混み具合ってわけか。やれやれ、どんなヤツが店をやってんだよ。珍しい品を扱ってるってことは、ジパングから来た胡散臭そうなおっさんか?」
単なる雑談を装って水を向けると、男はすぐに食い付いた。声をひそめ、しかし、意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「それが、あの店を運営しているのはとんでもない美人なんですよ」
「おい、それほんとか? 美人ってどれくらいだ? 娼館の女に例えるならいくらになりそうだよ?」
ブーツから顔を向けて真剣に問うと、女好きの旅人だと思ってくれたらしい。男の口元が歪んだ笑みの形になった。
「あれが娼館にいたら、一度買ったらもう他の女では満足できないくらいの、と言っておきましょうか」
「おいおいそんなにすごいのかよ。盛ってるんじゃないだろうな」
「まさか。とんでもない上玉だってことは事実ですよ。ただねぇ……」
そこで男はわざとらしく口を閉じた。
「なんだよ。まさか、実は子持ちとか言うのか?」
興味津々だということを態度で示すと、男はすぐに口を割った。睨んだ通り『S&K』に対してはいい感情を持っていないのだ。
「いえ、子供はいないはずですよ。結婚はしてますがね」
「おいおい、そりゃねーだろ。夫がいる時点で話にならねーぞ。それ以外になんかあるのかよ」
「ええ。あの店の店長はカトレアという女なんですがね。どうも、彼女の来歴については不透明な点が多いんですよ」
興味深い話だった。
「不透明っていうとなんだ。この町の人間じゃないってことか?」
「その通りなのですが、問題はそこではないのです」
「じゃあなんだよ」
身体を完全に男の方に向けると腕を組んだ。男はバートから視線を店の外に向けた。その先にあるのは『S&K』だ。
「町の人間ではないと言いましたね。彼女は元々行商人でした。そこまではいい。しかし、誰もこの周辺で彼女を見かけたことがないというのです。いいですか。この町に訪れる行商人が皆揃ってそういうのですよ? しかも、ここだけではなく他の町や村、街道でさえその姿を見たことがない」
彼の話に、バートは背中にぞくりと鳥肌が立つのを感じた。久しぶりの感覚だ。これはただの裏金の調査ではすまない。そんな気配がゆらゆらと立ち昇ってきている気がした。
「じゃあ、あんた達商人の見解はどうなんだ?」
「あの容姿といい、行商人の身で妙なツテがあることといい、普通の生まれではないでしょうな。憶測でしかありませんがね、元貴族あたりかと」
ふっと息を吐き出し、バートはブーツを男に渡した。
「そう言われると興味が沸いてくるね。あの混み具合はごめんだが、怖いもの見たさで見にいってくるわ」
これ以上の詮索は怪しまれそうだったので、バートは一着服を買うとそう言って店を出た。
通りに出ると、バートは『S&K』に目を向けた。ほんの一月前に開業したというその店はひっきりなしに人が出入りしていて、盛況なのは一目でわかる。
「元行商人ねぇ……」
男の話では元は貴族なのではないかという話だったが、バートにとってはさほど重要ではなかった。それ以上にカトレアという存在そのものが気になった。調査対象であるシオスの妻にして、元は行商人。その経歴は不透明ときている。『S&K』の開業についてどこまで関わっているかはまだ不明だが、現時点でも恐らく黒だとバートは思っている。その考えを確実にするために、一度カトレアと会ってみる必要がありそうだ。
「さて、一体どんな女なのかね」
一言ぼやくと、バートは歩きだした。
一旦宿に戻り、昼をすませたバートは『S&K』にやってきた。扉を開けて中に入ると、ロビーは人であふれていた。人の多い場所特有の熱気に顔をしかめる。だが、そこで声をかけられたので愚痴を吐く暇はなかった。
「ようこそ『S&K』へ。本日はどのようなものをお求めでしょうか」
声をかけてきたのは明るいブラウンの髪の若い女性だった。この辺りでは見かけないデザインの服を着ている。恐らく店の商品だろう。こんな服もあるというアピールらしい。ただ、服よりもそれを着ている女性がハッとするような美人だったことにバートはどきっとした。
「ああ、ちょいと旅用の服を見にね。扱ってるか?」
「はい。旅人用の服でしたら二階に専用のコーナーを設けていますので、そちらをご覧になっていただければ」
「二階だな。サンキュ。ところでお姉さん、やたらと美人だが、男はいるのか? いないんだったら今夜一杯奢ろうか真剣に考慮するんだが」
笑顔でそう言うと、女性はくすくすと笑った。
「有難い申し出ですが、恋人がいますのでお誘いは慎んで遠慮させていただきます」
「おいおい、誘う前から振られるとショックなんだが。仕方ねぇ、ここはやっぱりカトレアさんとやらを誘うしかねぇか」
さり気なくカトレアの名前を出すと、女性が僅かに目を見開いた。
「あら、失礼ですが、その名前はどちらで?」
「ん? ああ、この町にいる知り合いからだ。すげー美人の女がいるってんで、こうして買い物ついでにお目にかかれないかと来たんだが」
「なるほど、そうでしたか。しかし、それは残念でしたねと言わせていただきます」
「それはどういう意味でだ?」
「二つの意味で。まず店長であるカトレアですが、多忙なため、一般の方とお会いになる時間は滅多にありません。そしてもう一つ。こちらの方があなたにとっては残念かもしれません」
女性は少し困ったように苦笑を浮かべた。
「なんだよ、まさかカトレアさんも恋人がいるのか?」
「いえ、既に結婚されてます」
それを聞いた瞬間、バートはがっくりと肩を落としてみせた。
「おい、冗談だろ……。銀貨一枚で聞いたってのに、よりによって人妻? あの野郎、絶対許さねぇ!」
ぐっと握り拳を作り、真剣な表情を浮かべると、女性は申し訳なさそうに言った。
「そういうわけですので、カトレアを口説くのは諦めた方がよろしいかと。ただ、多忙ではあっても会話時間がまったくないというわけではないはずですので、よかったらお伝えしておきましょうか?」
願ってもない話だった。
「お、いいのかよ? いやでも人妻だろ……。美人、人妻、美人、人妻……」
悩む素振りを見せつつ、少し間を置いてバートは返事をした。
「よし、この際人妻でも関係ねぇ。美人を一目見れればよしとするぜ。そういうわけなんで、人妻好きの旅人が会いたがってたって伝えてもらえるか?」
女性は笑顔で頭を下げた。
「かしこまりました。では、失礼ですがお名前を窺ってもよろしいですか」
「ああ。俺はギルバートだ」
いつも使っている偽名を名乗った。
「ギルバート様ですね。では、カトレアの方にそうお伝えしておきます」
「よろしく頼むぜ。じゃ、俺はこれで」
女性に軽く手を上げると、バートは二階の旅人用の品が置かれている箇所に移動した。何人かの客が、店員に説明を受けていた。
置かれている品はどれも丁寧に作られた物のようで、素人目にも出来がいいとわかるものばかりだった。こんな商品がお手頃な値段で売られているのだから、繁盛しているわけだ。ここに来る前に立ち寄ったあの男の店が客を取られるのも仕方のないことだとバートは思った。
旅用の丈夫な服を眺めていた時だった。ふと隣りに誰かが立つ気配があり、次いで声をかけられた。
「失礼します。ギルバート様でよろしいでしょうか」
バートの偽名を呼んだのは淡い紫色の髪の若い女性だった。唇には笑みが浮かび、赤い瞳には優しい光が宿っていた。下で案内をしてくれた女性も美人だったが、こちらも負けていない。
「ああ、そうだが。どちら様かな?」
「まずはいらっしゃいませと言っておきましょう。当商会の店長を務めております、カトレアです」
彼女は軽く会釈しながらそう言った。その拍子に長く艶やかな髪がこぼれた。カトレアはそれをそっと人差し指でそれを上げた。何気ない動作だったが、あまりにも優雅で、商人ではなく貴族令嬢のようだとバートは思った。あの男商人は元貴族と言っていたが、あながち間違いではないかもしれない。
「案内役の者から、私に用があるというお客様がいるというので、こうして窺わせていただきました。間違いありませんでしょうか?」
「あ、ああ。用ってほどの用でもないんだが……」
ばつが悪そうに頭をかきながら、バートはカトレアを見た。
「悪い。美人の商人がいるって聞いたもんでな。一目見てみたかっただけなんだ」
予想外だったのか、カトレアは目を何度か瞬かせた。しかし、すぐにその顔に笑みが戻った。
「それはなんとも対応に困ってしまう用ですね。私のことは他になにか聞きませんでしたか?」
「既に結婚してるってことなら聞いた。いや、まったく残念だぜ。これで独身だったなら惚れてた自信があるんだが」
半分は冗談、もう半分は本当だった。それくらい、カトレアは美しかった。
「社交辞令でもありがとうございますと言っておきます。それで、本日は旅の準備でしょうか」
カトレアがすぐ傍の棚を見て言った。
「ああ。そんなところだ。長旅で少々くたびれてきてね。そろそろ買い替え時かと思ってな」
「そうおっしゃるわりには、現在お召しになっている物は綺麗ですが」
鋭い指摘にバートはどきりとした。それを顔に出すヘマはしなかったはずだが、身体に緊張が走る。
「ははっ、これは比較的まともなやつでね。美人に会えるかもしれないんで、精一杯見栄を張った結果だ。みすぼらしい格好で門前払いを喰らうのもあれだったしな」
「さようでしたか。それでは、こちらなどいかがでしょう。特別な油を塗り込んでありますので、雨に降られても簡単には濡れませんよ」
カトレアは棚から商品を取って勧めてきた。その様子はなんら変わりはなかったが、顔に浮かんでいる笑みの種類が変わっている気がした。一瞬、バートは自分のことがばれたのかと思った。だが、今回はカトレアという人物を見に来ただけで、彼女に警戒心を抱かせるようなことはなにもしていないはずだ。ばれるはずがなかった。
「へえ、そりゃいいな。んじゃ、それを買わせてもらおうかね」
「ありがとうございます。他にはなにかご入用の物はありますか。まとめ買いをしていただくのでしたら、値段の方もサービスさせていただきますが」
「いや、とりあえずそれだけでいい。サービスは魅力的だが、美人の色香に惑わされて色々買っちまいそうだしな」
「ふふ、わかりました。ではこちらへ」
服を持ったカトレアに連れられ、支払い用のカウンターへ向かった。服を購入し、品を受け取ったバートは銅貨を一枚カウンターに置いた。
「んじゃ、ありがとさん。ひょっとしたらまた来るかもしれないから、そん時は頼むわ」
「お買い上げありがとうございます。ところで、この銅貨は?」
カトレアは笑顔のまま、首を傾げた。
「なに、ちょっとしたお礼だ。なんだか忙しいところを付き合わせちまったみたいだしな」
「ふふ、そういうことでしたら遠慮なくいただいておきましょう」
小さく笑い、カトレアは銅貨をしまった。
「それでは、またのご来店を心よりお待ちしております」
「ああ、機会があったらな」
軽く手を上げ、バートはそう答えた。
店を出ると、肩の力を抜いた。同時に、強張っていた神経が緩むのを感じた。緊張していたのだ。だがそれは、美人と言葉を交わしたことからくるものではなかった。
「機会があったら、ね……」
『S&K』を振り返り、バートはそう呟いた。もうその機会はないと彼は考えていた。今日の目的は『S&K』の様子見とカトレアを見にいったにすぎない。それに、今後あの店に近づくのは危険だと思っていた。
元行商人であり、シオスの妻として『S&K』の店長を務めているカトレア。あの女は想像以上に油断ならない相手かもしれない。まだ証拠は何も掴めていないが、長年の経験がカトレアは間違いなく黒だと判断していた。
日が暮れると、バートは教会に向かった。木製の扉を開ければ、夕方の礼拝に訪れた人々で長椅子のほとんどが埋まっている。朝は仕事の準備で来れない人が夕方に訪れるからだろう。逆にバートは夕方の礼拝には参加したことがなかった。少し新鮮だと思いながら、空いてる席に着いて礼拝の始まりを待った。
やがて修道服に身を包んだ者が五人やってきた。その先頭にいたのはマリーだった。彼女は祭壇に立つと、お決まりの言葉を告げて黙祷が始まった。
静かな時間が過ぎ、礼拝が終わった後の流れは朝と同じようで、祈りを捧げ終わった人々が席を立っていく。バートは座った位置が悪く、思うように出られそうになかったので、人の流れが落ち着くのを待った。
「来てくださったんですね」
どこか嬉しそうな声がした。顔を向けると、マリーがすぐ傍に立っていた。
「ああ。時間ができたもんでね。しかし、覚えてくれてるとは光栄だな。今朝は大して会話をしたわけでもなかったはずだが」
「ふふっ、ちょっと格好いいなって思ったので頭に残ってたんです」
「そいつはますます光栄だね。んじゃ、お近づきのしるしにデートに誘いたいところだが、シスターだとなぁ……」
教会の内部事情については詳しく知らないが、色々と規則が厳しいと耳にしたことがある。マリーをデートに連れ出して、後で大目玉という事態にするのは忍びなかった。もっとも、本気でデートに誘うつもりもないので無用の心配ではあった。
「ああ、その点は心配なく。それで、どこに連れてって下さるんですか?」
さすがのバートもこれには驚いた。
「おいおい、本気で行くつもりか? ばれたらまずいだろ」
「ふふっ、ばれなければいいんですよ。それに、あなたはいかにもこの町に詳しそうですから、色々と面白そうな場所に案内してくれそうですし」
「俺は見ての通り、根なし草の身だぜ? この町に詳しいとは口が裂けても言えそうにないな」
「でも、初めてというわけでもないでしょう? 軽く案内して下さるということではいけませんか?」
少し顎を引き、上目遣いでマリーが見つめてきた。
バートは頭をかいた。どうも、マリーはデートの話を本気にしているらしい。こうなってくると、バートとしてもむげにはできなかった。
「あー、じゃあ、軽く食事に出かけるってことでどうだ。それならそちらとしても安心だろ?」
「さあ、それはどうでしょう。男の方はいきなり狼に変身しますからね。食事のデザートに食べられてしまわないよう気をつけないと」
口元に手を当てて、マリーは楽しそうに笑った。普通、こんなことをシスターは言わないだろう。なんとも型破りなシスターだとバートは思った。だが、決して不快なわけではなく、むしろそれが彼女の魅力に感じられた。
「じゃあ、狼に変身しないように、今夜は酒を控えるとしますかね」
「では、八時半にこの教会の裏手で待ち合わせでいいですか」
「ああ、わかった。きちんと八時には待ってるぜ」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
くすりと笑うと、マリーは踵を返して廊下へと消えていった。
指定された時間にバートが教会の裏で待っていると、塀に取り付けられた金属製の扉が開き、ローブ姿のマリーが静かに出てきた。
「お待たせしました」
「いいや、俺も今し方来たところだ。しかし、本当にいいのか? シスターが教会を抜け出したりして」
「言ったじゃないですか。ばれなければ問題ないんですよ。それに、仮にばれたとしても私には魔法の言葉がありますから」
悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、マリーはそう言った。
「へえ、それは気になるな。一体、どうしたら堂々と外出できるんだ?」
「エステルさんのところへ行ってきました。これだけで、お咎めはなしです」
「エステルさん? 誰だそれ。教会のお偉いさんか何かか?」
聞いたことのない名前だった。
「いいえ。彼女は私の……友ですよ」
「なんで間が空くのか気になるな」
「女の秘密というやつです」
そう言って、マリーは妖艶に笑った。これはどう聞いても答えてはもらえない雰囲気だった。
「じゃあ仕方ないな。それよりそろそろ行かないか。さすがに腹が減ったんだが」
「その前にお名前を教えていただけますか。まだ窺っていなかったものですから」
言われてみれば名乗った記憶はなかった。バートは頭をかきながら、いつもの偽名を名乗った。
「ギルバートだ」
「ギルバートさんですね。では行くとしましょう。エスコートはお願いしますね」
道すがら、バートはどういう経緯でマリーがこの町の教会に来たのかを尋ねた。なんでも、友に呼ばれてきたらしい。その友がエステルとのことだった。彼女がサリサにマリーを紹介する形で教会に来たと説明された。その恩義があるから、エステルの名前を出せば、多少の事には目を瞑ってもらえるのだと、マリーは悪戯っぽい笑みで言った。
「ここですか?」
「ああ。静かに飲める場所で気に入っていてね。だが、マリーさんが嫌だって言うなら他の候補もいくつかあるから、遠慮なく言ってくれ」
「ふふ、お店に文句はありませんわ。ただ」
笑みを消したマリーがじっと見つめてきた。
「マリーさんはやめていただけますか。気軽に呼び捨てて下さって結構ですので」
「わかった。じゃあマリー、行くとしようぜ」
にやりと笑い、『ニルン』という名前の酒場に入った。この店はリージオに教えてもらった場所であり、店内には常にクラシックな音楽が流れているのが特徴だった。騒がしい酒場とは違う落ち着いた雰囲気を彼は気に入っていた。
「ふふ、意外なお店を知ってるんですね」
「酒場は旅人の癒やしだからな。町に行くと、自分の気に入る酒場は必ず見つけるようにしてるんだ。ここもその一つでね」
店内の客の入りは六割といったところだった。入り口近くのテーブルでは商人と思われる四人組がグラスを片手に静かにカード遊びに興じていた。
バートは奥まった位置のテーブル席についた。マリーのことが他の客にばれないようにとの配慮だった。
飲み物もマリーに配慮してぶどう酒にした。すぐに運ばれてきたそれで意味もなく乾杯すると、適当に料理を注文した。
「それにしても、お忍びとはいえ、シスターがこうして酒場にいるのはなんとも不思議な光景だな」
「私、悪い子ですから」
ぶどう酒を口に運びながら、マリーは微笑んだ。
「おいおい、そんなこと言ったら、シスターだと分かっていながら一緒に酒を飲んでる俺は極悪人になるじゃねーか」
「でも、楽しんでるでしょう?」
少し意表をつかれた気分だった。確かに、こうしてマリーと酒を飲みながら会話をしていることに、楽しいと思っている自分がいる。それを言い当てられ、バートは素直に降参した。
「参ったね。さすがシスターだ。いや、さすが女だといったところか?」
「ふふっ、勘のいい女は嫌いですか?」
「いーや、そんなことはない。ただ、浮気が出来ないと思うだけだ」
笑顔のまま、マリーの目がすっと細くなった。
「あら、浮気するほど欲を持て余しているんですか?」
「そりゃ、寂しい一人旅だからな。おかげで、美人にはほいほい食い付く自信があるぜ」
「ふふ、愉快な人。でも気をつけて下さいね。浮気を許す女はいませんから」
少し含みを持った言い方だった。
「それはマリーもか?」
この変わり者のシスターでもそれは同じなのだろうかとバートは思った。その彼女の唇に笑みが浮かんだ。
「それは私とお付き合いした方だけが分かることです」
にこりと笑った顔からは考えが読み取れなかった。だからバートはおどけてみせた。
「へえ。じゃ、怖いもの見たさにマリーの恋人に立候補しておくとするかね」
「お酒の入った人の言うことは信用しません。よって、その申し込みは却下します。明日、素面の時に言って下されば考慮しないこともないですけど」
悪戯っぽく笑いながらそう言うマリーの方がよほど信用できない。だが、こんな会話ができるなら、それも悪くないかと若干酒の回った頭で思った。
他愛のない話はいつまでも続きそうだったが、マリーが寄る場所があるからと言い出したので十時でお開きとなった。
「本当に送ってかなくていいのか?」
「ええ。知り合いのところに行くだけですから。それより、今夜はご馳走さまでした」
「いや、それはいいけどよ……」
治安がいいとはいえ、夜の町に若い娘が一人で出歩くのはやはり不安だった。そう思って送ることを申し出たのだが、あっさりと断られたのだ。
「ここから大した距離でもありませんから、ご心配なく。それとも、ついてきて狼に変身するんですか? 私の行く先は女友達の家ですからね、私はその方が心配です」
「わかったわかった。それじゃ、ここでお別れということで。それでいいだろ?」
降参だと両手を肩の高さに上げると、マリーはくすりと笑った。
「ええ、これから女同士の秘密のお話ですから。それでは、また明日の礼拝でお会いしましょう」
「ああ。それじゃ、気をつけて行けよ」
「はい。あっ、そうそう。大事なことを言い忘れていました」
別れかけたところで、マリーが戻ってきた。
「なんだ?」
「今夜のお礼に、いずれ私が知っているいい場所に案内してさしあげますので、楽しみにしてて下さい。それではごきげんよう」
綺麗な会釈をすると、マリーは軽い足取りで去って行った。
それを見送ったバートは頭をかきながら歩き出した。どうも調子が狂わされている気がする。だが、一時のことだろう。報告書を書けば、嫌でも気分は元に戻る。そう思い、宿へと歩き出した。
「失礼します」
そう言ってマリーが扉を開けると、一人の女性が笑顔で彼女を迎えた。
「あらマリー、どうしたの?」
「少々、報告に」
マリーがそう切り出すと、エステルの笑みが変わった。
「どうぞかけて。話はゆっくりしましょ」
テーブルを挟んで向かい合っている椅子にマリーは座った。彼女の前にコーヒーとチーズケーキが置かれた。それらを置いたエステルは彼女の前の席に座った。
「それで、どうかしたのかしら? 問題でも?」
「いいえ、今日デートに行ってきたくらいですから、私は順調です。むしろ、早くパンデモニウムにお連れしたくて困っています。まだ駄目ですか?」
「こちらにも都合があってね。あなたには悪いけど、もう少し待って」
「それは残念。ああ、そうそう、旦那さまをもらえるってことですっかり忘れていました。預かり物です」
のんびりしていた雰囲気を一変させたマリーが懐から小さな手のひらサイズの白い箱を取り出してテーブルに置いた。それを見て、エステルの目が細くなった。
「なにか伝言は?」
「特になにも」
マリーが首を振ると、エステルは小さく笑って箱を引き寄せ、その中身を確認した。
「お見通しというわけね……」
「確かにお渡ししました。では、私はこれで」
「ええ、御苦労さま。時期が来たら合図を送るから、それまではいいシスターを演じていてね」
「こんな時間に出歩いている時点で、いいシスターではありませんけどね」
「ダークプリーストには関係のない話でしょ」
マリーはにやりと笑った。
「では、私は戻ります。何か指示があればいつでもどうぞ。教会の扉は常に開いていますので」
綺麗にケーキとコーヒーを完食したマリーは席を立ち、出ていった。
それを見送ったエステルは手元の箱の中身を見つめ、薄い笑みを浮かべた。
「これでこちらの必要な物は揃った。後は皆に頑張ってもらうだけね」
バートが倉庫の片隅で小麦の在庫チェックをしていると、マルコにそう声をかけられた。
「ボスが?」
「ああ。久しぶりに本来の仕事ができるんじゃないか?」
マルコは梳かすように髪を撫でた。頭頂部は既に禿げあがっているので、残っている両脇の髪を撫でるのが彼の癖だった。
「でしょうね。まあ、ない方がいいんですけど」
「違いない。だが、必要な仕事だ。ほれ、後は引き受けるから行って来いよ」
「すいません。お願いします」
書き途中のリストをマルコに預けると、バートは倉庫を出た。暗い倉庫にいたからか、扉の外の明るさが目に痛い。
たっぷりと時間をかけて上司の部屋に向かうと、ノックせずに扉を開けた。
「失礼します、ボス」
「来たか」
「そりゃ、呼ばれましたからね。やっぱりお仕事ですか」
「ああ。それも、久しぶりに厄介そうだ」
「そうなると、レナードと分担作業ですね」
「残念だが、今回はお前一人で頼む」
リージオが事もなげに言い、バートは軽く目を見開いていた。
「一人って、レナードはどうしたんです? 何か別件で動いてるんですか?」
「いや、あいつは今、休暇を取って旅行中だ。あと一月は戻らん」
「旅行って、これまた珍しいことを……」
仕事仲間なのでレナードのことはよく知っているが、旅行が趣味だという話は聞いたことがなかった。
「私も同意見だ。だが、あいつは土砂の撤去をきちんとやり終えたからな。実直な仕事には、きちんと報酬を出さねばならない」
「やり終えたって、あれをですか。僕も一度見に行きましたけど、一人でどうこうできるものじゃなかったですよ」
「だが、あいつはやった。どういう手段を用いたのかまでは知らないが、見事なものだったからな。その対価にと言われれば、頷くしかない」
「わかりました。とりあえず、今回はレナードなしってわけですね。それで、肝心の仕事は?」
本題を切り出すと、リージオは机に書類の束を置いた。
「今回、お前に調べてもらうのは『S&K』という商会だ。これが資料になる」
「薄いですね」
手渡された資料はいつもと比べて格段に薄かった。これでは内容もたかが知れている。
「薄いのは仕方ない。なにしろ、この商会は今月にオープンしたばかりでな。過去の資料なんてものは存在していない」
バートは資料にざっと目を通した。確かにオープンの日付は今月になっていた。
「今月オープンね。ボスは具体的にこいつのどこが怪しいと思ってるんです?」
資料から目を向けると、リージオと視線がぶつかった。
「勢いがありすぎるところだ」
リージオは椅子から立ち上がると、近くの窓へと歩み寄った。
「詳しい数字は私にも分からないが、商人に聞いたところだと一日の売り上げはこの町でも五指に入っているそうだ。開店して一月でな」
「まあ、それは確かにすごいっちゃすごいですね。しかし、新興勢力ってのはいつも勢いがあったでしょう。単に、上手く駆け出しているってだけでは?」
過去の経験を元にした発言だった。当然、リージオもそれは分かっているはずだ。
「カーネスト」
「なぜそこで港町の名が出てくるんです?」
カーネストとはカーリ川を下った先にある港町だ。この国の玄関とも言える町で、その名はカーリ川の名をもじってつけられた。そんなカーネストがなんの脈絡もなく出てきたことがわからなかった。
「関係あるからに決まっている。そこに『S&K』の二号店が開店予定だそうだ」
「二号店? いやいや、本店が今月オープンしたばかりでしょう。なのに、もう二号店だっていうんですか?」
どうも怪しくなってきた。本来なら店一つを開店するのにも多大な資金がいるはずだ。まして『S&K』はオープンしたばかりで、資金は限りなく減っているはずだった。
「ようやく真面目な顔になったな。その通りだ。この短期間に二店目を出すほど稼ぐなど不可能だ。だが、実際に『S&K』は二号店の開店準備を進めている。なら、その資金はどこから出ている?」
「不正の可能性有りってことですか」
リージオは頷いた。
「ああ。これで今回の仕事は分かっただろう。まずは『S&K』の資産から探ってくれ」
「了解。じゃ、まずは代表の人間からですね」
これだけ堂々と動いているとなると可能性は低いが、まずは妥当な手順からだろう。
そこでリージオは机の引き出しを開けて書類を取り出した。
「いや、それについては少し調べた。代表の名前はシオス。『ソロニール』という店で果物と野菜を扱う町商人だな」
「それが今はこの町でも有数の実力を持つ商会の主ってわけですか。過去に商人を調べることはありましたけど、野菜と果物を扱ってる人ははじめてですね。そんなに儲かるんですか?」
「それについては少々気になることがある。お前、トリコフルーツは知っているか?」
「ええ、それはまあ。そこそこ有名じゃないですか。町で流行中の果物でしょう? 人気すぎて、実物を目にしたことはありませんが」
「それを独占販売しているのが『ソロニール』だ。『S&K』を開店した今でもその状況は変わっていない」
独占販売となると、バートにはもはや儲けの想像ができなかった。
「表向きには相応の資金を得る術があるってわけですか。しかし、いくら独占販売をしようと、店を買うほどの金を稼げるのは当分先でしょう」
「その通りだ。しかし、シオスは現に金を用意して店を購入し『S&K』を開いている。借りるという手段もあるが、二号店の分もとなれば、それこそ莫大な金になる。そう簡単に貸せる額ではないし、一個人で用意できるとも思えん。そうとなれば、どこかで不正な金を調達した可能性が出てくる」
バートはため息をついた。不正な金となると、いつも面倒事なことが多いのだ。
「ま、やるだけやりますよ」
「気をつけろよ。勘にすぎないが、今回の件はいつも以上に厄介な気がしてならん」
「尻尾を掴むだけです。深追いはしませんよ」
「任せたぞ。報告はいつも通りに頼む」
比較的長い列だった。バートは小さく鼻唄を歌いながら自分の番を待っていた。やがて、前の老夫婦二人が税を払い終わって町へ入っていくと、バートの番になった。
「はい、次の方」
促され、バートは前に出た。
「へいどーぞ」
口調を変えて、面倒そうにこの辺りでは使われていない貨幣を差し出した。特定の者にだけ通じる、特別な合図だった。それを受け取った相手は、こちらの顔を見て疲れた表情から笑顔に変わった。
「バートさんじゃないですか。またお仕事で?」
「まーな。それより後ろがつかえてる。さっさと確認してくれや」
本来の仕事をする時は旅人を装うのがバートのやり方だった。それを知っているラッドは受け取った貨幣を小さな箱に入れた。
「はい、確かに。どうぞお通り下さい」
「幸運を」と小さく声をかけられながら、バートは門を通った。普段は倉庫での作業なため、人で賑わう町に来るといかにも自分が外からやってきた気がした。何度も体験しているが、この感覚が彼は好きだった。
「うし。じゃあ、始めっかね」
仮宿を取ると、バートはまず『ソロニール』に向かった。
目的の店はすぐに見つかった。肩の力を抜いて店に入ると、野菜の青臭さが鼻についた。店内には女性客が四人いた。それらから目をカウンターに向ける。そこにいたのは若い女性の店員だった。シオスはいないようだ。
それを確認すると、果物コーナーへ向かった。リンゴ、イチゴ、バナナ、桃、メロンと、ありふれた品が並んでいた。それらに混じって一列だけ空の棚があった。「トリコフルーツ、トースイ、ネブリは売り切れです」と書かれた札が置かれている。
「何かお求めですか?」
不意に声をかけられた。振り向くと、カウンターにいた女性が立っていた。他の買い物客の姿はいつの間にか消えていた。どうやら買い物を終えて出て行ったらしい。
「ああ。ちょいと小腹の足しになる果物を買いにね。お姉さん、お勧めはあるか?」
粗野な旅人を演じるため、言葉遣いを雑にして言った。
「お勧めですと、今はイチゴがいいですよ。ああ、梨もいいのが入りましたね。お一ついかがですか?」
女性が一歩前に出た。接近されたことによって、バートはこの女性が平均以上の美人だと気付いた。
「梨か。悪くないな」
彼女から顔を逸らして棚に向けた。そこでバートは今気付いたように言った。
「ん? このトリコフルーツってのはなんだ? ここだけ売り切れてるみたいだが」
「ああ、そこの棚の商品は人気商品でして。この時間には売り切れてしまうのですよ」
「へえ。トリコフルーツなんて聞いたことないから興味深いんだけどな。無いならしゃーねぇ。イチゴをもらうかね」
「ありがとうございます」
とりあえず適当な数のイチゴを買い、女性がそれを袋に詰めている隙にバートは店内を観察した。カウンター、棚、扉、窓と順に目を向ける。だが、どれも金がかかっている感じではなかった。
「お待たせしました」
女性が袋を持って戻ってきた。
「ありがとさん。ところでお姉さんがここの店主か?」
「いいえ。私はお手伝いですよ。ここの店主の人は今日は別のところに行ってます」
「なんだ、店主じゃないのか。てっきりそうかと思ったんだけどな。じゃあ、店主の奥さん?」
「ふふ。店主の人にはすごい奥さんがいますよ。私はその人の部下になりますね」
「ってことは、奥さんも商人ってわけか」
「ええ、そうなります」
夫婦揃って商人らしい。そうなると『S&K』の資金については知っている可能性がある。どうやら妻も調べる必要がりそうだ。
「ほー、夫婦揃って商人ねぇ。しかし、店主の見る目はなさそうだ。こんないい女を放って他の女と結婚するなんてな。それとも、店主の奥さんはお姉さんより美人なのか?」
女性は笑みを浮かべたままだった。
「綺麗な人、とだけ言っておきましょう。女の美しさを評価するのはいつだって男なのですから」
女性が一歩前に出た。
「そういうわけですから、今夜お食事でもいかがですか」
笑みを浮かべてそう言う女性は、先程とは全くといっていいほど違う雰囲気を纏っていた。いきなりの変貌に内心気圧されるバートだったが、それを表に出すことはしなかった。
「へえ、お姉さんみたいな美人から誘ってもらえるとは嬉しいね。しかし、俺は金なんてろくに持ってない根なし草だぜ? なんで俺なのか、理由が聞きたいところだ」
「私に対するあなたの評価が聞きたいからですよ」
これ以上、この女と話しているのは危険な気がした。娼館の女は媚びるような目で男を見るが、この女のバートを見る目には誘うような色香があった。このまま釣られると、面倒なことになりそうだ。
「そういうことなら喜んで、と言いたいところだが、悪い。今夜は古い友人との約束があってね」
そう言って肩をすくめると、彼女はあっさりと引き下がった。
「それは残念です」
「悪いね。ま、食事のお誘いはまたの機会にしてくれや」
イチゴの代金を渡すと、バートは少し足早に店を出た。通りを少し進んだところまで来ると、そこで『ソロニール』を振り返った。シオスには会えなかったが、相応の収穫はあった。リージオが集めた情報ではシオスは独身となっていたが、いつの間にか結婚したようだ。そしてその相手が商人ときた。あの店員の話では、結婚相手はなかなかの美人らしい。
「色香に騙された可能性も有りか……?」
その可能性もなくはない。だが、それを確かめるにはもっと調べる必要がある。やれやれと肩をすくめ、彼は歩きだした。
時計が八時を示したと同時に朝の礼拝が始まった。修道長がお決まりの台詞を終えると教会に集まった人々が黙祷を捧げる。バートも最後尾の長椅子に座り、同じように黙祷した。
決まった時間が経過すると、始まりと同じように修道長が終わりの言葉を告げ、朝の礼拝が終わる。多くの人が教会を出ていくなか、バートは座って黙祷の姿勢を保っていた。
「礼拝の時間は終わりましたよ」
聞きなれた声だと、彼は思った。
「すいません、旅の幸運を祈ってたものですから」
「ふふ、教会の定めた決まりを守っていれば、主神様は必ず加護を授けてくれることでしょう」
そう言って、シスターサリサは小さく微笑んだ。バートも笑みを返した。ただ、それはいつここに来てもサリサがバートのことを覚えていないことからくる笑みだった。やはり歳なのだ。退職するにはまだ早いが、それでも頭はそろそろ記憶という仕事を止めたがっているのだろう。
「そうであることを願っています」
その時、聞きなれない声がサリサを呼んだ。
「シスターサリサ、少しいいですか」
そう言って近寄ってきたのはまだ若いシスターだった。バートはそれに少し驚いた。少し前までこの教会には後任者がいないはずだったが、いつの間にか確保したらしかった。だが、驚きの大部分はその若いシスターが思った以上に整った顔をしていたからだ。一目で美しいとわかる女性だった。
「シスターマリー、どうかしましたか」
「はい。夕方の礼拝について少々お話が」
シスターマリーはそこで初めてバートに気付いたようだった。彼に顔を向けると、優しく微笑んだ。
「あら、お話中でしたか。これは失礼いたしました」
「いや、こっちは済んだからな。気にしないでくれ」
バートはそう言いながら席を立った。
「それでは俺も失礼します」
「旅の幸運を祈っています」
サリサの言葉に小さく会釈をして足を逆方向に向けた時だった。
「旅人さん」
マリーに呼び止められ、バートは足を止めた。
「なにか?」
「夕方の礼拝は私が担当することになっています。よかったら、ご参加下さい」
穏やかな笑みを向けられ、思わずどきりとした。人の行為の裏側を調べるバートにとって、こういう裏表のない笑顔はどうにも慣れなかった。
「ああ。時間があったらな」
ぶっきらぼうに言うと返事を待たずに教会を出た。今度はマリーから声はかけられなかった。
『S&K』は今日も賑わっているようだった。普段から人の多い通りだが、その個所だけは倍の人数がいるように見えた。
バートはその景色を一瞥すると『S&K』とは通りを挟んで向かい側にある小さな雑貨商に入った。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは中年の小太りな男だった。店内に客の姿はなかった。
「頑丈なブーツを探してるんだが、置いてるか? 旅に使うんでね。あるなら見せてもらいたいんだが」
「ええ、ええ、もちろんですとも。お待ち下さい。今、お持ちしますよ」
作り笑いを浮かべ、男は以外な早さで奥に引っ込んでいった。彼としては、客になんとか買ってもらおうという魂胆なのだろう。だが、バートがこの店に入ったのは単純に情報集めのためだった。
程なくして三足のブーツを持って男が戻ってきた。
「いや、お待たせしました。いかがです? どれも腕のある職人が作ったもので、品の良さは保障しますよ」
「触ってみてもいいか?」
「ええ、もちろん」
大して興味もないのだが、いかにも買い物に来た旅人を演じるべく、バートはブーツを手に取って眺めた。そして適当な頃合いを見て言い出した。
「しかし、ここは静かでいいな。ついさっき向かいの店にも行ってきたんだが、あっちはうるさくてろくに見ることもできなかった。一体、なんであれはあんなに繁盛してんだ?」
「向かいと言いますと『S&K』でしょうか」
「ああ。確かそんな名前だったな」
目はブーツに向けたままだったが、バートは男の表情になんとも言えない感情が現れるのを見逃さなかった。
「なんでも、珍しい品を多く扱っているそうですよ。あの賑わいはそのためです」
「へえ、珍しい品ね。しかし、ここはカーリ川の隣りに位置する流通に恵まれた町だ。水路を使えば、それこそいくらでもできそうなもんだと思うが」
「ええ、その通りです。現に、この町の有力な商会はそうしています。しかし、それでも『S&K』の品は他では見ないものばかりなのですよ。しかも、その値段が軒並み安いときている」
「その結果があの混み具合ってわけか。やれやれ、どんなヤツが店をやってんだよ。珍しい品を扱ってるってことは、ジパングから来た胡散臭そうなおっさんか?」
単なる雑談を装って水を向けると、男はすぐに食い付いた。声をひそめ、しかし、意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「それが、あの店を運営しているのはとんでもない美人なんですよ」
「おい、それほんとか? 美人ってどれくらいだ? 娼館の女に例えるならいくらになりそうだよ?」
ブーツから顔を向けて真剣に問うと、女好きの旅人だと思ってくれたらしい。男の口元が歪んだ笑みの形になった。
「あれが娼館にいたら、一度買ったらもう他の女では満足できないくらいの、と言っておきましょうか」
「おいおいそんなにすごいのかよ。盛ってるんじゃないだろうな」
「まさか。とんでもない上玉だってことは事実ですよ。ただねぇ……」
そこで男はわざとらしく口を閉じた。
「なんだよ。まさか、実は子持ちとか言うのか?」
興味津々だということを態度で示すと、男はすぐに口を割った。睨んだ通り『S&K』に対してはいい感情を持っていないのだ。
「いえ、子供はいないはずですよ。結婚はしてますがね」
「おいおい、そりゃねーだろ。夫がいる時点で話にならねーぞ。それ以外になんかあるのかよ」
「ええ。あの店の店長はカトレアという女なんですがね。どうも、彼女の来歴については不透明な点が多いんですよ」
興味深い話だった。
「不透明っていうとなんだ。この町の人間じゃないってことか?」
「その通りなのですが、問題はそこではないのです」
「じゃあなんだよ」
身体を完全に男の方に向けると腕を組んだ。男はバートから視線を店の外に向けた。その先にあるのは『S&K』だ。
「町の人間ではないと言いましたね。彼女は元々行商人でした。そこまではいい。しかし、誰もこの周辺で彼女を見かけたことがないというのです。いいですか。この町に訪れる行商人が皆揃ってそういうのですよ? しかも、ここだけではなく他の町や村、街道でさえその姿を見たことがない」
彼の話に、バートは背中にぞくりと鳥肌が立つのを感じた。久しぶりの感覚だ。これはただの裏金の調査ではすまない。そんな気配がゆらゆらと立ち昇ってきている気がした。
「じゃあ、あんた達商人の見解はどうなんだ?」
「あの容姿といい、行商人の身で妙なツテがあることといい、普通の生まれではないでしょうな。憶測でしかありませんがね、元貴族あたりかと」
ふっと息を吐き出し、バートはブーツを男に渡した。
「そう言われると興味が沸いてくるね。あの混み具合はごめんだが、怖いもの見たさで見にいってくるわ」
これ以上の詮索は怪しまれそうだったので、バートは一着服を買うとそう言って店を出た。
通りに出ると、バートは『S&K』に目を向けた。ほんの一月前に開業したというその店はひっきりなしに人が出入りしていて、盛況なのは一目でわかる。
「元行商人ねぇ……」
男の話では元は貴族なのではないかという話だったが、バートにとってはさほど重要ではなかった。それ以上にカトレアという存在そのものが気になった。調査対象であるシオスの妻にして、元は行商人。その経歴は不透明ときている。『S&K』の開業についてどこまで関わっているかはまだ不明だが、現時点でも恐らく黒だとバートは思っている。その考えを確実にするために、一度カトレアと会ってみる必要がありそうだ。
「さて、一体どんな女なのかね」
一言ぼやくと、バートは歩きだした。
一旦宿に戻り、昼をすませたバートは『S&K』にやってきた。扉を開けて中に入ると、ロビーは人であふれていた。人の多い場所特有の熱気に顔をしかめる。だが、そこで声をかけられたので愚痴を吐く暇はなかった。
「ようこそ『S&K』へ。本日はどのようなものをお求めでしょうか」
声をかけてきたのは明るいブラウンの髪の若い女性だった。この辺りでは見かけないデザインの服を着ている。恐らく店の商品だろう。こんな服もあるというアピールらしい。ただ、服よりもそれを着ている女性がハッとするような美人だったことにバートはどきっとした。
「ああ、ちょいと旅用の服を見にね。扱ってるか?」
「はい。旅人用の服でしたら二階に専用のコーナーを設けていますので、そちらをご覧になっていただければ」
「二階だな。サンキュ。ところでお姉さん、やたらと美人だが、男はいるのか? いないんだったら今夜一杯奢ろうか真剣に考慮するんだが」
笑顔でそう言うと、女性はくすくすと笑った。
「有難い申し出ですが、恋人がいますのでお誘いは慎んで遠慮させていただきます」
「おいおい、誘う前から振られるとショックなんだが。仕方ねぇ、ここはやっぱりカトレアさんとやらを誘うしかねぇか」
さり気なくカトレアの名前を出すと、女性が僅かに目を見開いた。
「あら、失礼ですが、その名前はどちらで?」
「ん? ああ、この町にいる知り合いからだ。すげー美人の女がいるってんで、こうして買い物ついでにお目にかかれないかと来たんだが」
「なるほど、そうでしたか。しかし、それは残念でしたねと言わせていただきます」
「それはどういう意味でだ?」
「二つの意味で。まず店長であるカトレアですが、多忙なため、一般の方とお会いになる時間は滅多にありません。そしてもう一つ。こちらの方があなたにとっては残念かもしれません」
女性は少し困ったように苦笑を浮かべた。
「なんだよ、まさかカトレアさんも恋人がいるのか?」
「いえ、既に結婚されてます」
それを聞いた瞬間、バートはがっくりと肩を落としてみせた。
「おい、冗談だろ……。銀貨一枚で聞いたってのに、よりによって人妻? あの野郎、絶対許さねぇ!」
ぐっと握り拳を作り、真剣な表情を浮かべると、女性は申し訳なさそうに言った。
「そういうわけですので、カトレアを口説くのは諦めた方がよろしいかと。ただ、多忙ではあっても会話時間がまったくないというわけではないはずですので、よかったらお伝えしておきましょうか?」
願ってもない話だった。
「お、いいのかよ? いやでも人妻だろ……。美人、人妻、美人、人妻……」
悩む素振りを見せつつ、少し間を置いてバートは返事をした。
「よし、この際人妻でも関係ねぇ。美人を一目見れればよしとするぜ。そういうわけなんで、人妻好きの旅人が会いたがってたって伝えてもらえるか?」
女性は笑顔で頭を下げた。
「かしこまりました。では、失礼ですがお名前を窺ってもよろしいですか」
「ああ。俺はギルバートだ」
いつも使っている偽名を名乗った。
「ギルバート様ですね。では、カトレアの方にそうお伝えしておきます」
「よろしく頼むぜ。じゃ、俺はこれで」
女性に軽く手を上げると、バートは二階の旅人用の品が置かれている箇所に移動した。何人かの客が、店員に説明を受けていた。
置かれている品はどれも丁寧に作られた物のようで、素人目にも出来がいいとわかるものばかりだった。こんな商品がお手頃な値段で売られているのだから、繁盛しているわけだ。ここに来る前に立ち寄ったあの男の店が客を取られるのも仕方のないことだとバートは思った。
旅用の丈夫な服を眺めていた時だった。ふと隣りに誰かが立つ気配があり、次いで声をかけられた。
「失礼します。ギルバート様でよろしいでしょうか」
バートの偽名を呼んだのは淡い紫色の髪の若い女性だった。唇には笑みが浮かび、赤い瞳には優しい光が宿っていた。下で案内をしてくれた女性も美人だったが、こちらも負けていない。
「ああ、そうだが。どちら様かな?」
「まずはいらっしゃいませと言っておきましょう。当商会の店長を務めております、カトレアです」
彼女は軽く会釈しながらそう言った。その拍子に長く艶やかな髪がこぼれた。カトレアはそれをそっと人差し指でそれを上げた。何気ない動作だったが、あまりにも優雅で、商人ではなく貴族令嬢のようだとバートは思った。あの男商人は元貴族と言っていたが、あながち間違いではないかもしれない。
「案内役の者から、私に用があるというお客様がいるというので、こうして窺わせていただきました。間違いありませんでしょうか?」
「あ、ああ。用ってほどの用でもないんだが……」
ばつが悪そうに頭をかきながら、バートはカトレアを見た。
「悪い。美人の商人がいるって聞いたもんでな。一目見てみたかっただけなんだ」
予想外だったのか、カトレアは目を何度か瞬かせた。しかし、すぐにその顔に笑みが戻った。
「それはなんとも対応に困ってしまう用ですね。私のことは他になにか聞きませんでしたか?」
「既に結婚してるってことなら聞いた。いや、まったく残念だぜ。これで独身だったなら惚れてた自信があるんだが」
半分は冗談、もう半分は本当だった。それくらい、カトレアは美しかった。
「社交辞令でもありがとうございますと言っておきます。それで、本日は旅の準備でしょうか」
カトレアがすぐ傍の棚を見て言った。
「ああ。そんなところだ。長旅で少々くたびれてきてね。そろそろ買い替え時かと思ってな」
「そうおっしゃるわりには、現在お召しになっている物は綺麗ですが」
鋭い指摘にバートはどきりとした。それを顔に出すヘマはしなかったはずだが、身体に緊張が走る。
「ははっ、これは比較的まともなやつでね。美人に会えるかもしれないんで、精一杯見栄を張った結果だ。みすぼらしい格好で門前払いを喰らうのもあれだったしな」
「さようでしたか。それでは、こちらなどいかがでしょう。特別な油を塗り込んでありますので、雨に降られても簡単には濡れませんよ」
カトレアは棚から商品を取って勧めてきた。その様子はなんら変わりはなかったが、顔に浮かんでいる笑みの種類が変わっている気がした。一瞬、バートは自分のことがばれたのかと思った。だが、今回はカトレアという人物を見に来ただけで、彼女に警戒心を抱かせるようなことはなにもしていないはずだ。ばれるはずがなかった。
「へえ、そりゃいいな。んじゃ、それを買わせてもらおうかね」
「ありがとうございます。他にはなにかご入用の物はありますか。まとめ買いをしていただくのでしたら、値段の方もサービスさせていただきますが」
「いや、とりあえずそれだけでいい。サービスは魅力的だが、美人の色香に惑わされて色々買っちまいそうだしな」
「ふふ、わかりました。ではこちらへ」
服を持ったカトレアに連れられ、支払い用のカウンターへ向かった。服を購入し、品を受け取ったバートは銅貨を一枚カウンターに置いた。
「んじゃ、ありがとさん。ひょっとしたらまた来るかもしれないから、そん時は頼むわ」
「お買い上げありがとうございます。ところで、この銅貨は?」
カトレアは笑顔のまま、首を傾げた。
「なに、ちょっとしたお礼だ。なんだか忙しいところを付き合わせちまったみたいだしな」
「ふふ、そういうことでしたら遠慮なくいただいておきましょう」
小さく笑い、カトレアは銅貨をしまった。
「それでは、またのご来店を心よりお待ちしております」
「ああ、機会があったらな」
軽く手を上げ、バートはそう答えた。
店を出ると、肩の力を抜いた。同時に、強張っていた神経が緩むのを感じた。緊張していたのだ。だがそれは、美人と言葉を交わしたことからくるものではなかった。
「機会があったら、ね……」
『S&K』を振り返り、バートはそう呟いた。もうその機会はないと彼は考えていた。今日の目的は『S&K』の様子見とカトレアを見にいったにすぎない。それに、今後あの店に近づくのは危険だと思っていた。
元行商人であり、シオスの妻として『S&K』の店長を務めているカトレア。あの女は想像以上に油断ならない相手かもしれない。まだ証拠は何も掴めていないが、長年の経験がカトレアは間違いなく黒だと判断していた。
日が暮れると、バートは教会に向かった。木製の扉を開ければ、夕方の礼拝に訪れた人々で長椅子のほとんどが埋まっている。朝は仕事の準備で来れない人が夕方に訪れるからだろう。逆にバートは夕方の礼拝には参加したことがなかった。少し新鮮だと思いながら、空いてる席に着いて礼拝の始まりを待った。
やがて修道服に身を包んだ者が五人やってきた。その先頭にいたのはマリーだった。彼女は祭壇に立つと、お決まりの言葉を告げて黙祷が始まった。
静かな時間が過ぎ、礼拝が終わった後の流れは朝と同じようで、祈りを捧げ終わった人々が席を立っていく。バートは座った位置が悪く、思うように出られそうになかったので、人の流れが落ち着くのを待った。
「来てくださったんですね」
どこか嬉しそうな声がした。顔を向けると、マリーがすぐ傍に立っていた。
「ああ。時間ができたもんでね。しかし、覚えてくれてるとは光栄だな。今朝は大して会話をしたわけでもなかったはずだが」
「ふふっ、ちょっと格好いいなって思ったので頭に残ってたんです」
「そいつはますます光栄だね。んじゃ、お近づきのしるしにデートに誘いたいところだが、シスターだとなぁ……」
教会の内部事情については詳しく知らないが、色々と規則が厳しいと耳にしたことがある。マリーをデートに連れ出して、後で大目玉という事態にするのは忍びなかった。もっとも、本気でデートに誘うつもりもないので無用の心配ではあった。
「ああ、その点は心配なく。それで、どこに連れてって下さるんですか?」
さすがのバートもこれには驚いた。
「おいおい、本気で行くつもりか? ばれたらまずいだろ」
「ふふっ、ばれなければいいんですよ。それに、あなたはいかにもこの町に詳しそうですから、色々と面白そうな場所に案内してくれそうですし」
「俺は見ての通り、根なし草の身だぜ? この町に詳しいとは口が裂けても言えそうにないな」
「でも、初めてというわけでもないでしょう? 軽く案内して下さるということではいけませんか?」
少し顎を引き、上目遣いでマリーが見つめてきた。
バートは頭をかいた。どうも、マリーはデートの話を本気にしているらしい。こうなってくると、バートとしてもむげにはできなかった。
「あー、じゃあ、軽く食事に出かけるってことでどうだ。それならそちらとしても安心だろ?」
「さあ、それはどうでしょう。男の方はいきなり狼に変身しますからね。食事のデザートに食べられてしまわないよう気をつけないと」
口元に手を当てて、マリーは楽しそうに笑った。普通、こんなことをシスターは言わないだろう。なんとも型破りなシスターだとバートは思った。だが、決して不快なわけではなく、むしろそれが彼女の魅力に感じられた。
「じゃあ、狼に変身しないように、今夜は酒を控えるとしますかね」
「では、八時半にこの教会の裏手で待ち合わせでいいですか」
「ああ、わかった。きちんと八時には待ってるぜ」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
くすりと笑うと、マリーは踵を返して廊下へと消えていった。
指定された時間にバートが教会の裏で待っていると、塀に取り付けられた金属製の扉が開き、ローブ姿のマリーが静かに出てきた。
「お待たせしました」
「いいや、俺も今し方来たところだ。しかし、本当にいいのか? シスターが教会を抜け出したりして」
「言ったじゃないですか。ばれなければ問題ないんですよ。それに、仮にばれたとしても私には魔法の言葉がありますから」
悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、マリーはそう言った。
「へえ、それは気になるな。一体、どうしたら堂々と外出できるんだ?」
「エステルさんのところへ行ってきました。これだけで、お咎めはなしです」
「エステルさん? 誰だそれ。教会のお偉いさんか何かか?」
聞いたことのない名前だった。
「いいえ。彼女は私の……友ですよ」
「なんで間が空くのか気になるな」
「女の秘密というやつです」
そう言って、マリーは妖艶に笑った。これはどう聞いても答えてはもらえない雰囲気だった。
「じゃあ仕方ないな。それよりそろそろ行かないか。さすがに腹が減ったんだが」
「その前にお名前を教えていただけますか。まだ窺っていなかったものですから」
言われてみれば名乗った記憶はなかった。バートは頭をかきながら、いつもの偽名を名乗った。
「ギルバートだ」
「ギルバートさんですね。では行くとしましょう。エスコートはお願いしますね」
道すがら、バートはどういう経緯でマリーがこの町の教会に来たのかを尋ねた。なんでも、友に呼ばれてきたらしい。その友がエステルとのことだった。彼女がサリサにマリーを紹介する形で教会に来たと説明された。その恩義があるから、エステルの名前を出せば、多少の事には目を瞑ってもらえるのだと、マリーは悪戯っぽい笑みで言った。
「ここですか?」
「ああ。静かに飲める場所で気に入っていてね。だが、マリーさんが嫌だって言うなら他の候補もいくつかあるから、遠慮なく言ってくれ」
「ふふ、お店に文句はありませんわ。ただ」
笑みを消したマリーがじっと見つめてきた。
「マリーさんはやめていただけますか。気軽に呼び捨てて下さって結構ですので」
「わかった。じゃあマリー、行くとしようぜ」
にやりと笑い、『ニルン』という名前の酒場に入った。この店はリージオに教えてもらった場所であり、店内には常にクラシックな音楽が流れているのが特徴だった。騒がしい酒場とは違う落ち着いた雰囲気を彼は気に入っていた。
「ふふ、意外なお店を知ってるんですね」
「酒場は旅人の癒やしだからな。町に行くと、自分の気に入る酒場は必ず見つけるようにしてるんだ。ここもその一つでね」
店内の客の入りは六割といったところだった。入り口近くのテーブルでは商人と思われる四人組がグラスを片手に静かにカード遊びに興じていた。
バートは奥まった位置のテーブル席についた。マリーのことが他の客にばれないようにとの配慮だった。
飲み物もマリーに配慮してぶどう酒にした。すぐに運ばれてきたそれで意味もなく乾杯すると、適当に料理を注文した。
「それにしても、お忍びとはいえ、シスターがこうして酒場にいるのはなんとも不思議な光景だな」
「私、悪い子ですから」
ぶどう酒を口に運びながら、マリーは微笑んだ。
「おいおい、そんなこと言ったら、シスターだと分かっていながら一緒に酒を飲んでる俺は極悪人になるじゃねーか」
「でも、楽しんでるでしょう?」
少し意表をつかれた気分だった。確かに、こうしてマリーと酒を飲みながら会話をしていることに、楽しいと思っている自分がいる。それを言い当てられ、バートは素直に降参した。
「参ったね。さすがシスターだ。いや、さすが女だといったところか?」
「ふふっ、勘のいい女は嫌いですか?」
「いーや、そんなことはない。ただ、浮気が出来ないと思うだけだ」
笑顔のまま、マリーの目がすっと細くなった。
「あら、浮気するほど欲を持て余しているんですか?」
「そりゃ、寂しい一人旅だからな。おかげで、美人にはほいほい食い付く自信があるぜ」
「ふふ、愉快な人。でも気をつけて下さいね。浮気を許す女はいませんから」
少し含みを持った言い方だった。
「それはマリーもか?」
この変わり者のシスターでもそれは同じなのだろうかとバートは思った。その彼女の唇に笑みが浮かんだ。
「それは私とお付き合いした方だけが分かることです」
にこりと笑った顔からは考えが読み取れなかった。だからバートはおどけてみせた。
「へえ。じゃ、怖いもの見たさにマリーの恋人に立候補しておくとするかね」
「お酒の入った人の言うことは信用しません。よって、その申し込みは却下します。明日、素面の時に言って下されば考慮しないこともないですけど」
悪戯っぽく笑いながらそう言うマリーの方がよほど信用できない。だが、こんな会話ができるなら、それも悪くないかと若干酒の回った頭で思った。
他愛のない話はいつまでも続きそうだったが、マリーが寄る場所があるからと言い出したので十時でお開きとなった。
「本当に送ってかなくていいのか?」
「ええ。知り合いのところに行くだけですから。それより、今夜はご馳走さまでした」
「いや、それはいいけどよ……」
治安がいいとはいえ、夜の町に若い娘が一人で出歩くのはやはり不安だった。そう思って送ることを申し出たのだが、あっさりと断られたのだ。
「ここから大した距離でもありませんから、ご心配なく。それとも、ついてきて狼に変身するんですか? 私の行く先は女友達の家ですからね、私はその方が心配です」
「わかったわかった。それじゃ、ここでお別れということで。それでいいだろ?」
降参だと両手を肩の高さに上げると、マリーはくすりと笑った。
「ええ、これから女同士の秘密のお話ですから。それでは、また明日の礼拝でお会いしましょう」
「ああ。それじゃ、気をつけて行けよ」
「はい。あっ、そうそう。大事なことを言い忘れていました」
別れかけたところで、マリーが戻ってきた。
「なんだ?」
「今夜のお礼に、いずれ私が知っているいい場所に案内してさしあげますので、楽しみにしてて下さい。それではごきげんよう」
綺麗な会釈をすると、マリーは軽い足取りで去って行った。
それを見送ったバートは頭をかきながら歩き出した。どうも調子が狂わされている気がする。だが、一時のことだろう。報告書を書けば、嫌でも気分は元に戻る。そう思い、宿へと歩き出した。
「失礼します」
そう言ってマリーが扉を開けると、一人の女性が笑顔で彼女を迎えた。
「あらマリー、どうしたの?」
「少々、報告に」
マリーがそう切り出すと、エステルの笑みが変わった。
「どうぞかけて。話はゆっくりしましょ」
テーブルを挟んで向かい合っている椅子にマリーは座った。彼女の前にコーヒーとチーズケーキが置かれた。それらを置いたエステルは彼女の前の席に座った。
「それで、どうかしたのかしら? 問題でも?」
「いいえ、今日デートに行ってきたくらいですから、私は順調です。むしろ、早くパンデモニウムにお連れしたくて困っています。まだ駄目ですか?」
「こちらにも都合があってね。あなたには悪いけど、もう少し待って」
「それは残念。ああ、そうそう、旦那さまをもらえるってことですっかり忘れていました。預かり物です」
のんびりしていた雰囲気を一変させたマリーが懐から小さな手のひらサイズの白い箱を取り出してテーブルに置いた。それを見て、エステルの目が細くなった。
「なにか伝言は?」
「特になにも」
マリーが首を振ると、エステルは小さく笑って箱を引き寄せ、その中身を確認した。
「お見通しというわけね……」
「確かにお渡ししました。では、私はこれで」
「ええ、御苦労さま。時期が来たら合図を送るから、それまではいいシスターを演じていてね」
「こんな時間に出歩いている時点で、いいシスターではありませんけどね」
「ダークプリーストには関係のない話でしょ」
マリーはにやりと笑った。
「では、私は戻ります。何か指示があればいつでもどうぞ。教会の扉は常に開いていますので」
綺麗にケーキとコーヒーを完食したマリーは席を立ち、出ていった。
それを見送ったエステルは手元の箱の中身を見つめ、薄い笑みを浮かべた。
「これでこちらの必要な物は揃った。後は皆に頑張ってもらうだけね」
14/03/18 22:30更新 / エンプティ
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