女の戦い ルーク戦線異常有り!
ようやく空が明るくなり始めた早朝。鳥もまださえずらない時間に、ミーネは慌ただしく自分の部屋を動き回っていた。
「えーと、お財布は……」
引き出しを開け、目的の物を見つけるとテーブルに置く。そこには他にローブや手提げバッグが並べられていた。
それらを見て一つ頷くと、ミーネはタンスの中から服を取り出す。ルークに選んでもらったものだ。
着替えをすませ、ローブを身に付け、バッグを持つ。その状態で鏡を見るといかにも旅人といった装いの自分がいた。
「うん、これでよし」
ばっちり準備を整えたミーネは足早に玄関へと向かう。お出かけ先はもちろんルークのいるあの町である。
この前会った謎の人? にもっと頑張るように言われ、ミーネなりにやる気にはなった。そこまではいいのだが、肝心のルークがいなければ頑張りようがなかった。そのルークも最近は忙しいのか、家に来るのが遅いのだ。結果、行き先のないやる気は不完全燃焼を起こし、胸がもやもやする日々が続いていた。
そんなある日、ふと思いついたのだ。ルークが来ないなら、自分が会いに行ってしまえばいいと。これならルークが来るのを待つ必要はないし、ミーネも長い時間ルークといられて言うことなしである。
そして今日、思いついた名案を実行に移したのだった。
家を出ると早朝の森の中を歩いていく。まだ辺りは薄暗かったが、既に何年もここに住んでいるミーネには自分の庭のようなもので、迷う素振りすらなく順調に進んで行った。
秋も深まっていることもあって朝の空気は少し冷たかったのだが、気分が絶賛高揚中のミーネはそんなことはお構いなしだった。もう頭の中は今日の予定でいっぱいだったのだ。
「えーと、町が近くなったら人化の術を使って、それから騎士団のとこに行って……」
行程を口にしているうちにミーネの顔がどんどん嬉しそうなものになっていく。ローブの下では、狐の尻尾がぶんぶんと振られていたのだった。
朝礼が終わり、騎士団員達がぞろぞろと担当の地域の見回りに出かけて行く。本来ならルークもそこに混じって町へと出て行くのだが、今日はなぜかミラに隊長室に来るように言われ、一人静かな廊下を歩いていた。
「なんかしたっけか……」
朝から呼び出しという時点でろくなことにならなそうだったが、だからといって無視すればもれなく鉄拳がプレゼントされるに違いない。まあ、無視しなくても呼び出された時点でプレゼントされる可能性は濃厚なのだが。
しかし、ここ最近で特に何かをやらかした記憶はなかった。もしかしたらミラに殴られた拍子に記憶がすっぽ抜けたのかもしれない。
そんなことを考えて首を捻っているうちにミラの部屋に到着し、ノックするとすぐに「入れ」という返事があった。
「あ? 普通だな……」
ミラの声は普段通りのもので、どうも怒っている感じではなかった。
てっきり説教と体罰のフルコースだと思っていたルークは余計に不思議に思いながらも扉を開け、手入れの行き届いた部屋に入った。
「俺にお話があるみたいだが、なんだ?」
「来たか。まあ座れ。長くなる話ではないが、立たせておくのは悪いからな」
そういうことならと、ルークは一人用のソファにふんぞり返った。
「で、朝っぱらから呼び出された理由は?」
「なんだと思う?」
手を止めて書類から顔を上げたミラが当ててみろとばかりにそんなことを言う。
「仕事をさぼってのデートのお誘いとかだったら喜んで受けるぞ」
言ってみてから、我ながら酷い冗談だと思った。今日はいまいち調子がよくないらしい。
だが、なぜかミラは「なっ……」と呻き、続けて口元に手を当てて真剣に考え込むような顔になったではないか。
「おい、冗談だぞ? まさかこれくらいで説教とかないよな?」
あの顔はどんな罰を与えるか考えている顔だ。
そう判断したルークは慌てて弁解するが、ミラからの返事はない。
「お、おい隊長。なんとか言えって。俺が呼ばれた本当の理由はなんなんだよ」
「……ん? ああ、それか。実は急な雑務が入ってしまってな。すまないが、今日の見回りは同行できそうにない」
そう言ったミラは少し申し訳なさそうだった。
「へえ。ま、それについては了解だ。しかし、隊長に雑務を回せるようなやつがいたか?」
ルークが知る限り、そんなことをできるような人物はいない。しかし、現実的にこうしてミラに仕事が回ってきていることだし、実はすごい人がいるらしい。
「正確には回ってきたのではなく、ぶんどってきたが正しいな」
やはりミラはミラだった。ルークの予想を完全にぶち壊す発言をさらっと言ってきたではないか。
「なんだよ隊長。よその仕事を取ってくるなんて、実は仕事熱心なのか?」
「我が隊と無関係なら私もこんなことはしないさ。だが、間接的に関わってくるとなると話は別だ。回ってくるまで待っていたら間違いなく遅れるだろうからな。だったら最初から私が片付けたほうが早いと思い、こうして処分しているわけだ。そういうわけだから、今日はカリムと一緒に見回りをしろ。あいつには既に言ってある」
「なるほど。それが話ってわけか。了解だ。じゃ、俺はこれで」
「待て」
ミラの邪魔をしては悪いと思い、腰を浮かせかけたルークだったが、そのミラから呼び止められた。
「なんだよ隊長。まだなんかあんのか?」
「もちろん。むしろ、こちらがお前を呼んだ理由といってもいい」
真面目な雰囲気だったので、ルークも茶化すような真似はせずにミラの言葉の続きを待つ。そして―。
「ルーク、私がいないからといってサボるなよ?」
何を言われるのかと思って身構えていたら、ただの念押しだった。肩すかしを喰らい、思わずため息が漏れる。
「心外だな。俺、仕事は真面目にやってるぞ」
「そういうことにしておいてやろう。では行け。カリムも待っているはずだ」
ミラは軽く笑って行っていいと手を払ってみせる。
そこで見計らったように扉がノックされた。
「すいません隊長、少しよろしいですか?」
カリムの声だった。
ミラがすぐに「入れ」と返すと、そっと扉を開けてカリムが顔を覗かせた。顎に若干無精髭のある顔はいつ見ても同年代とは思えない。
「失礼します。隊長、ルークはいますかって……なんだ、やっぱりここにいたか」
ルークの姿を見るなりカリムはふぅと息を吐いた。どうやら、ルークを探していたらしい。
「悪い、今から行くとこだった」
「いや、それはいいんだけどな」
軽く手を上げて挨拶すると、カリムはそれに応えつつにやりと笑みを浮かべる。そして、続けてこう言った。
「ルーク、嫁さんが会いに来てるぞ。朝からお熱いことだな」
意味不明な言葉だった。その言葉にミラがぴくりと反応し、目がすっと細くなる。しかし、間抜けな男二人は気付かなかった。
「は? 俺、誰かと結婚した覚えはないぞ」
「なに言ってんだ。ご主人様だろう?」
勝ち誇ったようなカリムとは逆にルークの顔は険しくなる。ご主人様という言葉にはいい思い出がない。それどころか、つい最近酷い体験をしたばかりだ。あの悪夢めいた日のことを思い出しつつ、カリムに確認する。
「……おい、まさかあいつが来てるのか?」
「だからそう言ってるじゃないか」
にやにやと笑うカリム。
そこで、妙に冷めた声が彼の名を呼んだ。
「カリム」
二人揃って声の方を向けば、ミラが剣呑な様子でこちらを見ていた。ルークの中で緊急鉄拳警報が鳴り響く。あれはやばい。なぜかは分からないがミラの機嫌が急下降している。
そう思ったのはカリムも同じらしく、表情を凍りつかせてその場に直立している。
「は、はっ。なんでしょうか」
「見回りにも行かずに私の前でおしゃべりとはいい度胸だな。そんなにも時間を持て余しているようなら、その客人を私の部屋に連れて来い。ルークはこれから仕事だからな。その者は私が責任を持って相手をしよう」
「え、いや、しかし……」
「私の言ったことが聞こえなかったのか? ふむ、どうやらまだ頭が起きていないと見える。どれ、私が起こすのを手伝ってやろう」
笑ってない笑顔を浮かべ、ミラが右手で握り拳を作ってみせる。
「す、すぐに連れてきます!」
それを見たカリムはびしっと敬礼し、逃げるように部屋を出て行った。
取り残されたルークはものすごい居心地の悪さを感じながらミラに顔を向ける。
綺麗なアンバーの瞳と目が合った。その目がなんだ? と無言で聞いてくる。
「……あー、隊長。そんな顔してるとせっかくの美貌が台無しだぞ?」
一応、嘘ではないことを言っておく。すると、ミラはルークをじっと見つめた後、深いため息を吐いた。
「お前には分からないだろうな……。私の気持ちなど……」
なぜかは分からないが呆れられた気がする。
ルークが首を捻っているうちに再び扉がノックされ、カリムが戻ってきた。その後ろにはミーネの姿。今度はルークがため息をつく。
「失礼します、隊長。お客様をお連れしました」
「し、失礼しますっ」
やや緊張した面持ちのミーネだったが、ルークを見るなり顔を輝かせた。
「あ、ルーク。おはよー」
「おう。で、なんでいるんだ?」
「え? それは、ほら、あれだよ……。ちょっと買い物したいかなー、なんて……」
そう言いつつ、ミーネは露骨に視線を逸らす。嘘が下手なくせに、それで誤魔化せているつもりなのだろうか。
ルークは小さくため息をつき、説教の一つでも言ってやろうと口を開きかける。だが、ミラが先に口火を切っていた。
「すまないが、ルークはこれから仕事でな。話は後にしてもらいたい。客人は昼までここでくつろいでいてくれ。飲み物はすぐに用意しよう。ルーク、それにカリム。お前達はそろそろ仕事に行け」
「りょーかい」
「はっ」
「え……あ、あれ?」
ミラがその場にいる人間にてきぱきと指示を出す。ミーネは状況が呑み込めずに戸惑っているようだったが、ルークとカリムは逆らうわけもなく、そそくさと部屋を後にする。
「おいルーク。お前、また何かやったのか? 急に隊長の機嫌が悪くなったじゃないか」
「俺のせいにすんな。今日は絶対に俺じゃない」
いつもは九割方ルークのせいだが、今日は何もしていない……はずだ。
「じゃあなんでだよ」
「俺が知るかよ。気になるなら本人に聞け」
「そんなことしたら、鉄拳で黙らされるだろ!」
男二人はそんなことを言いつつ、見回りへと出かけて行った。
一方、部屋に取り残されたミーネはおどおどしていた。ルークに会いに来たはずなのになぜか騎士団の本部に案内され、しかも肝心のルークは仕事に行ってしまった。そこに止めとばかりに見知らぬ女性と二人きりだ。もし尻尾が出ていたら、間違いなくしおれていたに違いない。
「さてと。邪魔者はいなくなったことだし、女同士で秘密の会話といこうか」
ふっと笑うと彼女は扉の前に立った。
「で、飲み物は何がいい?」
「え、あ、お、お気遣いなくっ」
「遠慮しなくていい。私も飲みたいからな。コーヒーと紅茶、どちらが好きだ?」
穏やかに微笑まれ、少しだけ緊張がほぐれたミーネは恐る恐る返事を返す。
「えっと……じゃあ、紅茶で……」
「わかった、すぐに持ってこよう。座って待っていてくれ」
そう言って彼女は部屋を出て行った。仕方なく言われた通りにソファに座っていると、彼女は宣言通りすぐに紅茶を用意して戻ってきた。それをテーブルに置くと、ミーネの向かいのソファに座る。
「まずは自己紹介といこうか。王国騎士団2番隊隊長を務めさせてもらっているミラだ。以後、見知りおき願おう」
「あ、えっと、はじめまして。ミーネです」
「うん、ミーネだな。よろしく」
手を差し出され、ミーネは少し緊張しながらその手を握り返した。
「さてと。私は回りくどいことが嫌いなので、単刀直入に言わせてもらおう。目的はルークか?」
ものすごい直球だった。いきなり図星を突かれ、ミーネはどうしていいか分からず、ものすごく挙動不審になる。
「え……。えっと、その、わたしは……」
ミラの顔をまともに見ることなどできず、ミーネは視線をあちこちにさ迷わせた。
そのあまりにも分かりやすい態度に、ミラはくつくつと笑う。
「いや、もういい。その様子だけで答えは分かった。好きなんだな。ルークのことが」
その通りなので、ミーネは顔を俯かせて小さく頷くしかなかった。顔がとても熱いので、恐らく真っ赤になっているに違いない。
「そうか。では、私と同じだな」
ぽつりと言われた言葉に、ミーネは顔を上げてミラを見た。彼女は穏やかな笑みを浮かべてミーネを見つめている。そのアンバーの瞳と目が合った。
「え……同じって、じゃあ、ミラさんも……?」
「そうだ。だからミーネ、はっきりと聞かせてくれ」
そう言うとミラの顔から笑みが消え、真剣な表情が浮かぶ。そして。
「私はルークが好きだ。部下としてではなく、一人の男として」
「っ!」
ミラの宣言にミーネは息が詰まる。ミーネは言葉にするどころか、日記にさえ書けなかった好きという言葉を、ミラははっきりと宣言した。恋のライバルだと、宣告してきたのだ。
これでなにも言わなかったらルークを取られる気がしたミーネはきゅっと目を瞑り、なけなしの勇気を振り絞った。
「わ、わたしもっ! ルークのこと大好きです!」
ものすごく身体が熱い。特に顔は燃えてるんじゃないかと思うほどで、あまりの熱さに人化の術が解けてしまいそうだった。
「大好き、ときたか……」
ミーネの気持ちの吐露に、ミラは苦笑しながら紅茶を口に運ぶ。
「ふふ、これで私達はライバルだな。しかし、ルークの知り合いにこんなに見目好い女がいるとは……」
「あ、あの、なんですか……?」
じっと見られると落ち着かない気持ちになり、ミーネは少し身体を引いた。
「いや、私もうかうかしていられないと思っただけだ。そういうわけだから、どちらが勝っても恨みっこなしだぞ?」
「あ、はいっ」
つい流れに任せて返事をしてしまったミーネだが、そこであることに気付いた。
「あ……」
「なんだ。どうかしたか?」
不思議そうに首を傾げるミラに、ミーネはふと思いついてしまったことをおずおずと告げる。
「あの……もしもなんですけど、わたし達が二人ともルークに振られちゃった場合は……」
「…………」
今日はじめてミラの顔が険しいものになる。そして。
「……その場合の話は止めよう。なんというか、ものすごく惨めな気分になる」
そう言ってミラは顔を逸らした。
ミーネもミラの言わんとすることを理解し、「確かに……」と呟く。
なにしろ、どちらかがルークを必ず手に入れられるわけではないのだ。ミーネが想像したように、二人とも振られる可能性はもちろんある。それを考えずに、どちらが勝っても恨みっこなしなどと言った挙句、二人とも振られましたなんてことになった日には恥ずかしくて一日中悶絶することになりそうだ。
そんな後ろ向きな想像のせいでどんよりしつつあった空気を変えようと、ミーネは明るい声を出した。
「と、とにかく! ルークに振り向いてもらえるように努力すればいいんですよねっ!」
「まあ、そうなんだが、言うほど簡単じゃないぞ。あいつの鈍感ぶりはかなりものだ」
ミラが疲れたようにため息を漏らす。どうやら、ルークには上手く想いが伝わらずに苦労しているらしい。
「えっと、でも、ちゃんと好きって言えば……」
「言えるか? 本人に向かってはっきりと」
「う……」
言えない。それどころか、一緒にいられるだけで満足に思ってしまっている。自分の気持ちに気付いてからでさえそうなのだ。ルークと過ごしているうちに、このままでいいと思ってしまう。
それが逃げているだけだというのはミーネにも分かっているのだが、もし想いを伝えて一緒にいることさえできなくなったらと思うと、とても好きだと言う気にはなれなかった。また一人ぼっちの生活はきっと、前よりもずっと寂しい。それに耐えられるとは思えなかった。
「どうやら私だけが臆病というわけではないみたいだな。まったく、家を飛び出して騎士団に入った時点で大抵のことはできる気になっていたが、現実はままならないものだ。好きな男に好きだと言うことができないのだからな……」
ミラの顔に呆れるような笑みが浮かぶ。
「でも、諦めるつもりはないんですよね……?」
「もちろん。苦労した分、手に入れた時の喜びも大きいからな。それが生涯の伴侶ともなれば尚更だろう。そういうわけだからな」
そこでミラは一旦言葉を区切り、ミーネを見つめる。
「なんですか?」
「午後はルークを振り回そうと思うんだが、一緒に来るか?」
そう言って、ミラは獰猛な笑みを見せる。振り回すということがどういう意味なのかは分からなかったが、ルークと一緒にいられるならと、ミーネはすぐにこくこくと頷いたのだった。
「ひっきしっ!」
本日何度目か分からないくしゃみをかまし、ルークは鼻を啜った。その一部始終を隣りで眺めていたカリムが怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「なんだよルーク、風邪か? やけにくしゃみをしてるじゃないか」
「別に体調は悪くないんだけどな」
「だよなぁ。そもそも、お前が風邪なんかひくわけがない」
「どういう意味だよ」
なんとなく言いたいことはわかるが、それでも敢えて聞くと、カリムは誤魔化さずにほざいてくれた。
「バカって風邪はひかないらしいぞ。だからルークは風邪をひかないはずだ」
「へっくしっ!」
遠回しにバカと言ってきたカリムの方を向くと、鼻が再びむずむずしてきたルークは盛大にくしゃみをしてやった。
「うわ! バカ、きたねーだろ! なにしてくれてんだ!」
「いや、風邪って誰かにうつすと治るらしいぞ。だからさっさと治そうと思ってな」
「俺にうつそうとすんじゃねぇ!」
そんな馬鹿なやり取りをしているうちに昼を報せる鐘が町に鳴り響いた。
「おっと、もう昼か」
「だな。俺はこれで終わりか」
そう言って伸びをすると、ごきごきと骨が鳴った。
「はぁ、いいよなぁお前は。これで仕事は終わりな挙句、午後からはミーネちゃんとデートだろ? あんな可愛い子と。なんでルークなんだよ。俺と代われ、俺と」
伸びをして身体が気持ち良くなったところでそんなことを言われ、ルークは途端にうんざりした気分になった。
「デートなんかするかよ。大体、お前はさっき見かけた踊り子の女に鼻の穴膨らましてただろうが」
ルークは見てないのだが、先程広場を通りかかった時にカリムは見たらしい。興奮した様子で「おいルーク、すげぇいい女がいた!」と言っていた。広場には即席の舞台が作られていたので、昼か、もしくは午後から見せ物でもやるのだろう。
「馬鹿! あれは遠くから見て満足するしかない高嶺の花だ! 手に入らないんだよ!」
腹が減ってきたルークはそろそろ喚くカリムに付き合うのも面倒になってきて、手をひらひらさせる。
「そうか。んじゃ、手に入る素朴な花で我慢するんだな。俺は上がるわ、お疲れ」
「くぅぅ〜! 余裕ぶりやがって! 見てろよ! 俺もミーネちゃんみたいな美人で可愛い子を手に入れてやるんだからな!」
くるりと踵を返したところで、背中にカリムの恨みをぶつけられた。ルークは振り返って肩をすくめ、騎士団本部に向かって歩き出す。
カリムはああ言っていたが、その性格やら正体を知っている身としては、手放しで喜べる気にならない。その狐娘様がどういうわけか、本日は町にいらっしゃっているのだ。これで今日も無事に一日が終わると思えるほど、ルークも楽天家ではない。
気が向かないと思いながらも騎士団本部に戻り、隊長室の扉をノックする。
「隊長、ルークだ。いるか?」
「入っていいぞ」
許可が出たので扉を開けると、ソファに向かい合って座っていたミラとミーネが揃ってこちらに顔を向けてきた。
「お疲れさん。とりあえず、午前の見回りは終わったぞ」
「御苦労。さてルーク、早速だが、今日は特別に午後の仕事を許可する。そういうわけだから、まずは昼食に行くぞ」
部屋に入った途端にそう言われ、少しの間ミラの言葉を理解するのに時間がかかった。
「あ、ああ。それはいいけどな」
そこで、黙ってこちらを見ているでかい狐に目を向ける。
「お前はどうすんだ? 一緒に来るのか?」
「うん。ミラさんもいいって言ってくれたから」
予想できた返事だ。ミラが許可したのなら、ルークがどうこう言ったところで意味はない。
「さて、では行こうか」
ミラ、ミーネ、ルークの順に部屋を出て町に向かう。騎士団本部を出たところでルークはミラに水を向けた。
「で、どこに行くんだ?」
「普通、こういう時は男のお前がエスコートするものだと思うんだが」
そう言って、ミラが微笑みつつも挑戦的な目を向けてきた。
「俺を誰だと思ってんだよ。エスコートなんてものは紳士がすることだろ」
紳士の要素なんて欠片も持ち合わせているとは思ってないので、そんなものは期待するなと肩をすくめてみせる。しかし、ミラも黙っていなかった。
「安心しろ。お前が完璧に紳士らしく振る舞うことなどこちらも期待していない。だが、まがりなりにも他の隊長には敬語を使うお前だ。その要領でそれらしく振る舞うことくらいはできるだろう?」
ルークは頬をかいた。ミラは正真正銘の貴族だ。今でこそ騎士団にいるが、それこそ本物の紳士とやり取りをしたことはいくらでもあるだろう。そのミラ相手にルークがそれっぽく振る舞ったところで、大根役者の三文芝居にしかならない。
「俺がやると似非紳士にしかならないんだが」
「ふふっ、それでいい。その方がお前らしくていいだろう。なあ?」
そう言って、ミラがミーネに顔を向ける。
急に話を振られたミーネは「え」と一瞬困り顔になったが、すぐに笑みが浮かんだ。
「ルーク、ふぁいとっ」
なんだかものすごくやる気の抜ける応援だった。
「……じゃ、とりあえず広場に行きますかね」
面倒くせぇと内心ぼやきつつ、くるりと踵を返す。異存はないのか、ミラとミーネも大人しくついてくる。
そして向かった広場だが、昼という一日の中で最も活気のある時間帯だからか、非常に混雑していた。普段から混み合ってはいるが、今日は一段と酷い。その理由はやはり広場に設けられた即席の舞台だろう。見回りの時にはまだ何もやっていなかったが、今は舞台の上で衣装を着こんだ役者達がなにやらやり取りを交わしていた。
「あ、ルーク。あそこでなにかやってるよ」
「見りゃわかる。しかし、見回りの時には準備中だったが、始まったみたいだな」
「ふむ、最近はあまり見かけなくなったが、またやってきたのか」
ミーネは興味津々、ミラも満更でもなさそうに眺めている。腹が減っているルークはさっさと食事に行きたかったのだが、仕方なく声をかけた。
「あー、せっかくだから見てくか?」
「うん!」
「そうだな。せっかくの機会だ。楽しませてもらおうか」
満場一致で見せ物を見物することが決定し、ルークは小さくため息をつきながら二人と一緒に舞台を眺めることになった。
役者の台詞から、舞台の内容は青年と美しい精霊の禁断の恋を扱ったものらしく、青年と精霊の秘密の逢瀬を中心に物語が展開していくようだ。
なんとなく自分達に似てる気がしないでもないと、ルークは隣りの狐娘にこっそり目をやるが、ミーネは舞台に夢中で気付く気配はない。それを見て、ルークは鼻で笑った。
舞台の精霊がそうであるように、人外の存在はそのほとんどが人里離れた場所でこっそりと暮らすようだが、隣りの狐はわざわざ人に化けて町に来ているのだから、想像と現実は違うものだと笑わざるをえない。
そうして立ち見を続けているうちに場面が変わり、舞台には精霊役の女性が一人で出てきた。そこまではいいのだが、その服装はかなり露出の多い踊り子の衣装だったから驚きだ。特に胸は立派としか言いようがなく、遠目でも大きいと分かる。それが惜し気もなく晒され、くっきりと谷間を公開しているのだから嫌でも目を奪われる。
精霊役の女性が美人なこともあり、いかにも人外の存在らしい魔性の魅力を放っていた。実際、彼女があの姿で登場した途端にあちこちから口笛だの拍手だのが巻き起こった。そしてそれは精霊役の女性が軽やかに踊りだしたことで一層数を増す。
「すげぇな……」
思わずルークは小声でそう呟いていた。
踊りがなかなかに激しいおかげで、役者の豊かな胸がはっきりと揺れている。この場にいる男の九割は踊りではなく彼女の揺れる胸を見ていると断言したっていいくらいだ。
普段の生活で女性の胸を眺めようものなら大概は平手が飛んでくるが、これはれっきとした見せ物だ。つまり、どれだけ見ても非難されることはない。
そんなわけで、ルークも堂々と彼女の踊る胸を見ていたのだが、急に脇腹をつねられた。
「いてぇ」
なんだと思ってそちらを見ると、ミーネがむーとむくれ顔だった。ミーネにしては珍しい暴力抗議だが、ついに精神攻撃だけでなく肉体攻撃までするようになったのかと、ルークは軽く戦慄を覚える。
「いてぇ」
ほとんど同時に足を踏まれていた。今度はミラだ。何が気に入らないのか、ルークの足をがんがん踏みつけている。こちらも珍しく鉄拳ではなく足による暴力だったが、容赦なく踏みつけているらしく、なかなかに痛い。
「なんだよ二人とも」
「……なんか、やな感じがした」
「いくらああいう衣装だろうと、凝視するのは紳士らしくないぞ」
ルークが役者さんの胸を見ていたと確信している言い方だった。
「言いがかりはよせ。俺は純粋に舞台を見てただけだぞ」
「ふんっ、どうだか。そういえば、昼はまだだったな。舞台はもういいから、昼食に行くぞ」
ルークを鋭く一瞥すると、ミラはさっさと歩き出してしまう。ミーネもミーネで「ルークのバカ」と捨て台詞を残し、ミラと並んで行ってしまった。
「なんなんだ、あの二人は。意味がわかんねぇ……」
ルークは頭をかきながら、仕方なく二人の後を追う。
それにしても、いきなり機嫌が悪くなったのはなぜだろう。自分より大きな胸が気に入らなかったのだろうか。
そこまで考え、ルークはそういえば二人の胸はどんな感じだったかと首を捻った。
ミーネは見かけは華奢だが実はそれなりの大きさだった。不可抗力とはいえ、何度か接触したことがあるのでそれは間違いない。
次いでミラだが、実はかなりあるそうだ。ミーネ以上に見かけでは分からないが、なんでも着痩せするタイプで、脱いだらすごいと同僚の誰かが言っていた気がする。ただ、こちらはいまいち信憑性がない。ミラの裸ないし、着替えを覗いて生きている男がいるとは思えないからだ。それ以前に、覗きに行こうとする命知らずは騎士団にはいないだろう。ルークでさえ、それをする勇気はない。
一方、ルークの前方ではミラとミーネが小声でやり取りをしていた。
「くっ、ルークのやつ、私達の前で堂々と他の女の胸を見るとは……!」
「うぅっ、ルーク、大きい胸が好きなのかなぁ……」
「恐らくそうなんだろう。まあ、それはあいつに限ったことでもないだろうが。まったく、どうせ見るなら……私のを……」
「えぇっ!? ミラさん、見られて恥ずかしくないんですかっ!?」
「恥ずかしいに決まってる! だが、他の女は見られて私は見られないのも癪だ……。だから、その、谷間くらいなら……」
「えっ、谷間って……ミラさんも、その、胸大きいんですか……?」
もしそうだったらどうしようと、ミーネはミラの胸元に目を向ける。それに気付いたミラはすぐに腕を組むようにして胸を隠した。
「う……まあ、その、なんだ。平均より大きい自覚はある……。だからあまり見るな……。ミーネにだって見られるのは恥ずかしい……」
顔を赤くしながら背けたので、ミラの胸が大きいのは事実らしい。ミーネはそんなミラを見て、ライバルがルーク好みの巨乳? だと判明し、茫然となる。
「あう……どうしよう……。わたし、けっこう大きいと思ってたけど、さっきの人と比べたらぜんぜんだし……」
「あれは特別だと思うぞ。私だって、あそこまで大きくはない。仮にルークの好みがあの大きさくらいないと駄目だったらお手上げだ」
そこで二人は示し合わせたように振り返り、想い人を見つめる。鈍感朴念仁のルークはなにか考えてるらしく、真剣な表情だ。当然、二人が見ていることに気付く気配はない。
「人の気も知らないで飄々として……! そろそろ一発殴っておくか。そうでもしないと、私の気が晴れん」
ミラはぐっと拳を固める。
「うぅ……胸が駄目だったら、他のことでルークの気を引くしかないんですよね……」
「そうなるな。まあ、それはお互いに考えていけばいいだろう。とりあえず……」
そこでミラはくるりと踵を返した。
「ん? なんだよ隊長、怖い顔して―いっ!?」
ごちんと、いい音が響いた。
「黙れ! エスコートしろと言っただろう! いつまで私達の後ろを歩いているつもりだ!」
「おい隊長! 殴る時は言えって言っただろ! 目ん玉飛び出そうになったぞ!?」
「安心しろ! 出たら私が入れ直してやる!」
「いや待て、さらっと怖いこと言うなでっ!」
再びミラの鉄拳が炸裂し、ルークは頭を押さえてうずくまる。
ミーネはその様子を見て、いつもなら可愛そうだと思ったはずだが、今回ばかりは自業自得という感想しか出てこなかった。
今日は厄日だ。馬に乗っているルークは痛む頭を押さえながらそう思った。機嫌の悪くなったミラとの午後からの見回りは散々で、事あるごとにミラから鉄拳を頂戴し、一日に鉄拳をもらった回数が過去最高という、まったく嬉しくない記録を打ち立てる羽目になった。
しかも、機嫌が悪いのはミーネも同じらしく、珍しいくらいの我がままぶりだった。それにルークが口を挟もうものなら、ミラから「口応えするな!」という叱責とともに鉄拳が飛んでくるのだ。もうルークにはどうすればいいのか分からず、完全にお手上げだった。
そんなろくでもない見回りを終えて、今はミーネを家へと送っている最中なのだが、機嫌は直っていないのか、まったく口を聞いてこない。
女は意味がわからんと思いながらミーネの家に着くと、後ろに乗っていたミーネはやはり無言で馬から降りた。そして、不満であると大書した顔でルークを見上げてくる。それについて言及してもいいのだが、今日は散々に振り回されて疲労困憊だったので、敢えて無視した。
「んじゃ、またな……」
片手を上げて挨拶してやると、さっさと帰ろうと手綱を操る。そこでミーネがようやく声を発した。
「ルークっ」
妙に力の入った声だったので、ルークは手を止めてミーネを見た。
「なんだよ」
「あなたが帰る前に、大事なお話があります」
やけに真面目くさった言い方だ。
何を言い出すつもりだとルークが目を向けると、ミーネは真剣な表情で見つめ返してきた。雰囲気から、本当に大事な話らしい。
「なんだ?」
仕方ないから聞いてやるかと、ルークは馬から降りた。そんなルークに向かって、ミーネは言い放った。
「どうして、小さいよりは大きい方がいいんでしょうかっ」
意味不明な言葉だった。
「あ? なんのことだよ?」
しかし、説明を求めるルークの言葉は無視された。
「えと、その……わたし、まだ成長中だから! だから、今の時点で判断されるのは困るんですっ!」
「は?」
ミーネはなにやら必死な感じでそんなことを訴え出した。ただ、言いたいことがいまいち分からない。
「だから、その……お、お話終わり! またね!」
ルークが首を捻っているうちにミーネはそうまくし立てて家に入っていってしまった。
一人取り残されたルークはミーネの言葉をなんとか理解しようと試みるが、これだという答えは思い浮かばなかった。
「なにが言いたかったんだよ、あいつは……」
話があると言ったと思ったら、訳のわからないことを言うだけ言ってさっさと引っ込んでしまう。まったく変な狐である。まあ、ミーネが変なのは今に始まったことでもないので、特に気にしなくてもいいだろう。
「やれやれ、ほんと厄日だな……」
ルークのぼやきに、馬が自業自得だとばかりに鼻を鳴らしたのだった。
「えーと、お財布は……」
引き出しを開け、目的の物を見つけるとテーブルに置く。そこには他にローブや手提げバッグが並べられていた。
それらを見て一つ頷くと、ミーネはタンスの中から服を取り出す。ルークに選んでもらったものだ。
着替えをすませ、ローブを身に付け、バッグを持つ。その状態で鏡を見るといかにも旅人といった装いの自分がいた。
「うん、これでよし」
ばっちり準備を整えたミーネは足早に玄関へと向かう。お出かけ先はもちろんルークのいるあの町である。
この前会った謎の人? にもっと頑張るように言われ、ミーネなりにやる気にはなった。そこまではいいのだが、肝心のルークがいなければ頑張りようがなかった。そのルークも最近は忙しいのか、家に来るのが遅いのだ。結果、行き先のないやる気は不完全燃焼を起こし、胸がもやもやする日々が続いていた。
そんなある日、ふと思いついたのだ。ルークが来ないなら、自分が会いに行ってしまえばいいと。これならルークが来るのを待つ必要はないし、ミーネも長い時間ルークといられて言うことなしである。
そして今日、思いついた名案を実行に移したのだった。
家を出ると早朝の森の中を歩いていく。まだ辺りは薄暗かったが、既に何年もここに住んでいるミーネには自分の庭のようなもので、迷う素振りすらなく順調に進んで行った。
秋も深まっていることもあって朝の空気は少し冷たかったのだが、気分が絶賛高揚中のミーネはそんなことはお構いなしだった。もう頭の中は今日の予定でいっぱいだったのだ。
「えーと、町が近くなったら人化の術を使って、それから騎士団のとこに行って……」
行程を口にしているうちにミーネの顔がどんどん嬉しそうなものになっていく。ローブの下では、狐の尻尾がぶんぶんと振られていたのだった。
朝礼が終わり、騎士団員達がぞろぞろと担当の地域の見回りに出かけて行く。本来ならルークもそこに混じって町へと出て行くのだが、今日はなぜかミラに隊長室に来るように言われ、一人静かな廊下を歩いていた。
「なんかしたっけか……」
朝から呼び出しという時点でろくなことにならなそうだったが、だからといって無視すればもれなく鉄拳がプレゼントされるに違いない。まあ、無視しなくても呼び出された時点でプレゼントされる可能性は濃厚なのだが。
しかし、ここ最近で特に何かをやらかした記憶はなかった。もしかしたらミラに殴られた拍子に記憶がすっぽ抜けたのかもしれない。
そんなことを考えて首を捻っているうちにミラの部屋に到着し、ノックするとすぐに「入れ」という返事があった。
「あ? 普通だな……」
ミラの声は普段通りのもので、どうも怒っている感じではなかった。
てっきり説教と体罰のフルコースだと思っていたルークは余計に不思議に思いながらも扉を開け、手入れの行き届いた部屋に入った。
「俺にお話があるみたいだが、なんだ?」
「来たか。まあ座れ。長くなる話ではないが、立たせておくのは悪いからな」
そういうことならと、ルークは一人用のソファにふんぞり返った。
「で、朝っぱらから呼び出された理由は?」
「なんだと思う?」
手を止めて書類から顔を上げたミラが当ててみろとばかりにそんなことを言う。
「仕事をさぼってのデートのお誘いとかだったら喜んで受けるぞ」
言ってみてから、我ながら酷い冗談だと思った。今日はいまいち調子がよくないらしい。
だが、なぜかミラは「なっ……」と呻き、続けて口元に手を当てて真剣に考え込むような顔になったではないか。
「おい、冗談だぞ? まさかこれくらいで説教とかないよな?」
あの顔はどんな罰を与えるか考えている顔だ。
そう判断したルークは慌てて弁解するが、ミラからの返事はない。
「お、おい隊長。なんとか言えって。俺が呼ばれた本当の理由はなんなんだよ」
「……ん? ああ、それか。実は急な雑務が入ってしまってな。すまないが、今日の見回りは同行できそうにない」
そう言ったミラは少し申し訳なさそうだった。
「へえ。ま、それについては了解だ。しかし、隊長に雑務を回せるようなやつがいたか?」
ルークが知る限り、そんなことをできるような人物はいない。しかし、現実的にこうしてミラに仕事が回ってきていることだし、実はすごい人がいるらしい。
「正確には回ってきたのではなく、ぶんどってきたが正しいな」
やはりミラはミラだった。ルークの予想を完全にぶち壊す発言をさらっと言ってきたではないか。
「なんだよ隊長。よその仕事を取ってくるなんて、実は仕事熱心なのか?」
「我が隊と無関係なら私もこんなことはしないさ。だが、間接的に関わってくるとなると話は別だ。回ってくるまで待っていたら間違いなく遅れるだろうからな。だったら最初から私が片付けたほうが早いと思い、こうして処分しているわけだ。そういうわけだから、今日はカリムと一緒に見回りをしろ。あいつには既に言ってある」
「なるほど。それが話ってわけか。了解だ。じゃ、俺はこれで」
「待て」
ミラの邪魔をしては悪いと思い、腰を浮かせかけたルークだったが、そのミラから呼び止められた。
「なんだよ隊長。まだなんかあんのか?」
「もちろん。むしろ、こちらがお前を呼んだ理由といってもいい」
真面目な雰囲気だったので、ルークも茶化すような真似はせずにミラの言葉の続きを待つ。そして―。
「ルーク、私がいないからといってサボるなよ?」
何を言われるのかと思って身構えていたら、ただの念押しだった。肩すかしを喰らい、思わずため息が漏れる。
「心外だな。俺、仕事は真面目にやってるぞ」
「そういうことにしておいてやろう。では行け。カリムも待っているはずだ」
ミラは軽く笑って行っていいと手を払ってみせる。
そこで見計らったように扉がノックされた。
「すいません隊長、少しよろしいですか?」
カリムの声だった。
ミラがすぐに「入れ」と返すと、そっと扉を開けてカリムが顔を覗かせた。顎に若干無精髭のある顔はいつ見ても同年代とは思えない。
「失礼します。隊長、ルークはいますかって……なんだ、やっぱりここにいたか」
ルークの姿を見るなりカリムはふぅと息を吐いた。どうやら、ルークを探していたらしい。
「悪い、今から行くとこだった」
「いや、それはいいんだけどな」
軽く手を上げて挨拶すると、カリムはそれに応えつつにやりと笑みを浮かべる。そして、続けてこう言った。
「ルーク、嫁さんが会いに来てるぞ。朝からお熱いことだな」
意味不明な言葉だった。その言葉にミラがぴくりと反応し、目がすっと細くなる。しかし、間抜けな男二人は気付かなかった。
「は? 俺、誰かと結婚した覚えはないぞ」
「なに言ってんだ。ご主人様だろう?」
勝ち誇ったようなカリムとは逆にルークの顔は険しくなる。ご主人様という言葉にはいい思い出がない。それどころか、つい最近酷い体験をしたばかりだ。あの悪夢めいた日のことを思い出しつつ、カリムに確認する。
「……おい、まさかあいつが来てるのか?」
「だからそう言ってるじゃないか」
にやにやと笑うカリム。
そこで、妙に冷めた声が彼の名を呼んだ。
「カリム」
二人揃って声の方を向けば、ミラが剣呑な様子でこちらを見ていた。ルークの中で緊急鉄拳警報が鳴り響く。あれはやばい。なぜかは分からないがミラの機嫌が急下降している。
そう思ったのはカリムも同じらしく、表情を凍りつかせてその場に直立している。
「は、はっ。なんでしょうか」
「見回りにも行かずに私の前でおしゃべりとはいい度胸だな。そんなにも時間を持て余しているようなら、その客人を私の部屋に連れて来い。ルークはこれから仕事だからな。その者は私が責任を持って相手をしよう」
「え、いや、しかし……」
「私の言ったことが聞こえなかったのか? ふむ、どうやらまだ頭が起きていないと見える。どれ、私が起こすのを手伝ってやろう」
笑ってない笑顔を浮かべ、ミラが右手で握り拳を作ってみせる。
「す、すぐに連れてきます!」
それを見たカリムはびしっと敬礼し、逃げるように部屋を出て行った。
取り残されたルークはものすごい居心地の悪さを感じながらミラに顔を向ける。
綺麗なアンバーの瞳と目が合った。その目がなんだ? と無言で聞いてくる。
「……あー、隊長。そんな顔してるとせっかくの美貌が台無しだぞ?」
一応、嘘ではないことを言っておく。すると、ミラはルークをじっと見つめた後、深いため息を吐いた。
「お前には分からないだろうな……。私の気持ちなど……」
なぜかは分からないが呆れられた気がする。
ルークが首を捻っているうちに再び扉がノックされ、カリムが戻ってきた。その後ろにはミーネの姿。今度はルークがため息をつく。
「失礼します、隊長。お客様をお連れしました」
「し、失礼しますっ」
やや緊張した面持ちのミーネだったが、ルークを見るなり顔を輝かせた。
「あ、ルーク。おはよー」
「おう。で、なんでいるんだ?」
「え? それは、ほら、あれだよ……。ちょっと買い物したいかなー、なんて……」
そう言いつつ、ミーネは露骨に視線を逸らす。嘘が下手なくせに、それで誤魔化せているつもりなのだろうか。
ルークは小さくため息をつき、説教の一つでも言ってやろうと口を開きかける。だが、ミラが先に口火を切っていた。
「すまないが、ルークはこれから仕事でな。話は後にしてもらいたい。客人は昼までここでくつろいでいてくれ。飲み物はすぐに用意しよう。ルーク、それにカリム。お前達はそろそろ仕事に行け」
「りょーかい」
「はっ」
「え……あ、あれ?」
ミラがその場にいる人間にてきぱきと指示を出す。ミーネは状況が呑み込めずに戸惑っているようだったが、ルークとカリムは逆らうわけもなく、そそくさと部屋を後にする。
「おいルーク。お前、また何かやったのか? 急に隊長の機嫌が悪くなったじゃないか」
「俺のせいにすんな。今日は絶対に俺じゃない」
いつもは九割方ルークのせいだが、今日は何もしていない……はずだ。
「じゃあなんでだよ」
「俺が知るかよ。気になるなら本人に聞け」
「そんなことしたら、鉄拳で黙らされるだろ!」
男二人はそんなことを言いつつ、見回りへと出かけて行った。
一方、部屋に取り残されたミーネはおどおどしていた。ルークに会いに来たはずなのになぜか騎士団の本部に案内され、しかも肝心のルークは仕事に行ってしまった。そこに止めとばかりに見知らぬ女性と二人きりだ。もし尻尾が出ていたら、間違いなくしおれていたに違いない。
「さてと。邪魔者はいなくなったことだし、女同士で秘密の会話といこうか」
ふっと笑うと彼女は扉の前に立った。
「で、飲み物は何がいい?」
「え、あ、お、お気遣いなくっ」
「遠慮しなくていい。私も飲みたいからな。コーヒーと紅茶、どちらが好きだ?」
穏やかに微笑まれ、少しだけ緊張がほぐれたミーネは恐る恐る返事を返す。
「えっと……じゃあ、紅茶で……」
「わかった、すぐに持ってこよう。座って待っていてくれ」
そう言って彼女は部屋を出て行った。仕方なく言われた通りにソファに座っていると、彼女は宣言通りすぐに紅茶を用意して戻ってきた。それをテーブルに置くと、ミーネの向かいのソファに座る。
「まずは自己紹介といこうか。王国騎士団2番隊隊長を務めさせてもらっているミラだ。以後、見知りおき願おう」
「あ、えっと、はじめまして。ミーネです」
「うん、ミーネだな。よろしく」
手を差し出され、ミーネは少し緊張しながらその手を握り返した。
「さてと。私は回りくどいことが嫌いなので、単刀直入に言わせてもらおう。目的はルークか?」
ものすごい直球だった。いきなり図星を突かれ、ミーネはどうしていいか分からず、ものすごく挙動不審になる。
「え……。えっと、その、わたしは……」
ミラの顔をまともに見ることなどできず、ミーネは視線をあちこちにさ迷わせた。
そのあまりにも分かりやすい態度に、ミラはくつくつと笑う。
「いや、もういい。その様子だけで答えは分かった。好きなんだな。ルークのことが」
その通りなので、ミーネは顔を俯かせて小さく頷くしかなかった。顔がとても熱いので、恐らく真っ赤になっているに違いない。
「そうか。では、私と同じだな」
ぽつりと言われた言葉に、ミーネは顔を上げてミラを見た。彼女は穏やかな笑みを浮かべてミーネを見つめている。そのアンバーの瞳と目が合った。
「え……同じって、じゃあ、ミラさんも……?」
「そうだ。だからミーネ、はっきりと聞かせてくれ」
そう言うとミラの顔から笑みが消え、真剣な表情が浮かぶ。そして。
「私はルークが好きだ。部下としてではなく、一人の男として」
「っ!」
ミラの宣言にミーネは息が詰まる。ミーネは言葉にするどころか、日記にさえ書けなかった好きという言葉を、ミラははっきりと宣言した。恋のライバルだと、宣告してきたのだ。
これでなにも言わなかったらルークを取られる気がしたミーネはきゅっと目を瞑り、なけなしの勇気を振り絞った。
「わ、わたしもっ! ルークのこと大好きです!」
ものすごく身体が熱い。特に顔は燃えてるんじゃないかと思うほどで、あまりの熱さに人化の術が解けてしまいそうだった。
「大好き、ときたか……」
ミーネの気持ちの吐露に、ミラは苦笑しながら紅茶を口に運ぶ。
「ふふ、これで私達はライバルだな。しかし、ルークの知り合いにこんなに見目好い女がいるとは……」
「あ、あの、なんですか……?」
じっと見られると落ち着かない気持ちになり、ミーネは少し身体を引いた。
「いや、私もうかうかしていられないと思っただけだ。そういうわけだから、どちらが勝っても恨みっこなしだぞ?」
「あ、はいっ」
つい流れに任せて返事をしてしまったミーネだが、そこであることに気付いた。
「あ……」
「なんだ。どうかしたか?」
不思議そうに首を傾げるミラに、ミーネはふと思いついてしまったことをおずおずと告げる。
「あの……もしもなんですけど、わたし達が二人ともルークに振られちゃった場合は……」
「…………」
今日はじめてミラの顔が険しいものになる。そして。
「……その場合の話は止めよう。なんというか、ものすごく惨めな気分になる」
そう言ってミラは顔を逸らした。
ミーネもミラの言わんとすることを理解し、「確かに……」と呟く。
なにしろ、どちらかがルークを必ず手に入れられるわけではないのだ。ミーネが想像したように、二人とも振られる可能性はもちろんある。それを考えずに、どちらが勝っても恨みっこなしなどと言った挙句、二人とも振られましたなんてことになった日には恥ずかしくて一日中悶絶することになりそうだ。
そんな後ろ向きな想像のせいでどんよりしつつあった空気を変えようと、ミーネは明るい声を出した。
「と、とにかく! ルークに振り向いてもらえるように努力すればいいんですよねっ!」
「まあ、そうなんだが、言うほど簡単じゃないぞ。あいつの鈍感ぶりはかなりものだ」
ミラが疲れたようにため息を漏らす。どうやら、ルークには上手く想いが伝わらずに苦労しているらしい。
「えっと、でも、ちゃんと好きって言えば……」
「言えるか? 本人に向かってはっきりと」
「う……」
言えない。それどころか、一緒にいられるだけで満足に思ってしまっている。自分の気持ちに気付いてからでさえそうなのだ。ルークと過ごしているうちに、このままでいいと思ってしまう。
それが逃げているだけだというのはミーネにも分かっているのだが、もし想いを伝えて一緒にいることさえできなくなったらと思うと、とても好きだと言う気にはなれなかった。また一人ぼっちの生活はきっと、前よりもずっと寂しい。それに耐えられるとは思えなかった。
「どうやら私だけが臆病というわけではないみたいだな。まったく、家を飛び出して騎士団に入った時点で大抵のことはできる気になっていたが、現実はままならないものだ。好きな男に好きだと言うことができないのだからな……」
ミラの顔に呆れるような笑みが浮かぶ。
「でも、諦めるつもりはないんですよね……?」
「もちろん。苦労した分、手に入れた時の喜びも大きいからな。それが生涯の伴侶ともなれば尚更だろう。そういうわけだからな」
そこでミラは一旦言葉を区切り、ミーネを見つめる。
「なんですか?」
「午後はルークを振り回そうと思うんだが、一緒に来るか?」
そう言って、ミラは獰猛な笑みを見せる。振り回すということがどういう意味なのかは分からなかったが、ルークと一緒にいられるならと、ミーネはすぐにこくこくと頷いたのだった。
「ひっきしっ!」
本日何度目か分からないくしゃみをかまし、ルークは鼻を啜った。その一部始終を隣りで眺めていたカリムが怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「なんだよルーク、風邪か? やけにくしゃみをしてるじゃないか」
「別に体調は悪くないんだけどな」
「だよなぁ。そもそも、お前が風邪なんかひくわけがない」
「どういう意味だよ」
なんとなく言いたいことはわかるが、それでも敢えて聞くと、カリムは誤魔化さずにほざいてくれた。
「バカって風邪はひかないらしいぞ。だからルークは風邪をひかないはずだ」
「へっくしっ!」
遠回しにバカと言ってきたカリムの方を向くと、鼻が再びむずむずしてきたルークは盛大にくしゃみをしてやった。
「うわ! バカ、きたねーだろ! なにしてくれてんだ!」
「いや、風邪って誰かにうつすと治るらしいぞ。だからさっさと治そうと思ってな」
「俺にうつそうとすんじゃねぇ!」
そんな馬鹿なやり取りをしているうちに昼を報せる鐘が町に鳴り響いた。
「おっと、もう昼か」
「だな。俺はこれで終わりか」
そう言って伸びをすると、ごきごきと骨が鳴った。
「はぁ、いいよなぁお前は。これで仕事は終わりな挙句、午後からはミーネちゃんとデートだろ? あんな可愛い子と。なんでルークなんだよ。俺と代われ、俺と」
伸びをして身体が気持ち良くなったところでそんなことを言われ、ルークは途端にうんざりした気分になった。
「デートなんかするかよ。大体、お前はさっき見かけた踊り子の女に鼻の穴膨らましてただろうが」
ルークは見てないのだが、先程広場を通りかかった時にカリムは見たらしい。興奮した様子で「おいルーク、すげぇいい女がいた!」と言っていた。広場には即席の舞台が作られていたので、昼か、もしくは午後から見せ物でもやるのだろう。
「馬鹿! あれは遠くから見て満足するしかない高嶺の花だ! 手に入らないんだよ!」
腹が減ってきたルークはそろそろ喚くカリムに付き合うのも面倒になってきて、手をひらひらさせる。
「そうか。んじゃ、手に入る素朴な花で我慢するんだな。俺は上がるわ、お疲れ」
「くぅぅ〜! 余裕ぶりやがって! 見てろよ! 俺もミーネちゃんみたいな美人で可愛い子を手に入れてやるんだからな!」
くるりと踵を返したところで、背中にカリムの恨みをぶつけられた。ルークは振り返って肩をすくめ、騎士団本部に向かって歩き出す。
カリムはああ言っていたが、その性格やら正体を知っている身としては、手放しで喜べる気にならない。その狐娘様がどういうわけか、本日は町にいらっしゃっているのだ。これで今日も無事に一日が終わると思えるほど、ルークも楽天家ではない。
気が向かないと思いながらも騎士団本部に戻り、隊長室の扉をノックする。
「隊長、ルークだ。いるか?」
「入っていいぞ」
許可が出たので扉を開けると、ソファに向かい合って座っていたミラとミーネが揃ってこちらに顔を向けてきた。
「お疲れさん。とりあえず、午前の見回りは終わったぞ」
「御苦労。さてルーク、早速だが、今日は特別に午後の仕事を許可する。そういうわけだから、まずは昼食に行くぞ」
部屋に入った途端にそう言われ、少しの間ミラの言葉を理解するのに時間がかかった。
「あ、ああ。それはいいけどな」
そこで、黙ってこちらを見ているでかい狐に目を向ける。
「お前はどうすんだ? 一緒に来るのか?」
「うん。ミラさんもいいって言ってくれたから」
予想できた返事だ。ミラが許可したのなら、ルークがどうこう言ったところで意味はない。
「さて、では行こうか」
ミラ、ミーネ、ルークの順に部屋を出て町に向かう。騎士団本部を出たところでルークはミラに水を向けた。
「で、どこに行くんだ?」
「普通、こういう時は男のお前がエスコートするものだと思うんだが」
そう言って、ミラが微笑みつつも挑戦的な目を向けてきた。
「俺を誰だと思ってんだよ。エスコートなんてものは紳士がすることだろ」
紳士の要素なんて欠片も持ち合わせているとは思ってないので、そんなものは期待するなと肩をすくめてみせる。しかし、ミラも黙っていなかった。
「安心しろ。お前が完璧に紳士らしく振る舞うことなどこちらも期待していない。だが、まがりなりにも他の隊長には敬語を使うお前だ。その要領でそれらしく振る舞うことくらいはできるだろう?」
ルークは頬をかいた。ミラは正真正銘の貴族だ。今でこそ騎士団にいるが、それこそ本物の紳士とやり取りをしたことはいくらでもあるだろう。そのミラ相手にルークがそれっぽく振る舞ったところで、大根役者の三文芝居にしかならない。
「俺がやると似非紳士にしかならないんだが」
「ふふっ、それでいい。その方がお前らしくていいだろう。なあ?」
そう言って、ミラがミーネに顔を向ける。
急に話を振られたミーネは「え」と一瞬困り顔になったが、すぐに笑みが浮かんだ。
「ルーク、ふぁいとっ」
なんだかものすごくやる気の抜ける応援だった。
「……じゃ、とりあえず広場に行きますかね」
面倒くせぇと内心ぼやきつつ、くるりと踵を返す。異存はないのか、ミラとミーネも大人しくついてくる。
そして向かった広場だが、昼という一日の中で最も活気のある時間帯だからか、非常に混雑していた。普段から混み合ってはいるが、今日は一段と酷い。その理由はやはり広場に設けられた即席の舞台だろう。見回りの時にはまだ何もやっていなかったが、今は舞台の上で衣装を着こんだ役者達がなにやらやり取りを交わしていた。
「あ、ルーク。あそこでなにかやってるよ」
「見りゃわかる。しかし、見回りの時には準備中だったが、始まったみたいだな」
「ふむ、最近はあまり見かけなくなったが、またやってきたのか」
ミーネは興味津々、ミラも満更でもなさそうに眺めている。腹が減っているルークはさっさと食事に行きたかったのだが、仕方なく声をかけた。
「あー、せっかくだから見てくか?」
「うん!」
「そうだな。せっかくの機会だ。楽しませてもらおうか」
満場一致で見せ物を見物することが決定し、ルークは小さくため息をつきながら二人と一緒に舞台を眺めることになった。
役者の台詞から、舞台の内容は青年と美しい精霊の禁断の恋を扱ったものらしく、青年と精霊の秘密の逢瀬を中心に物語が展開していくようだ。
なんとなく自分達に似てる気がしないでもないと、ルークは隣りの狐娘にこっそり目をやるが、ミーネは舞台に夢中で気付く気配はない。それを見て、ルークは鼻で笑った。
舞台の精霊がそうであるように、人外の存在はそのほとんどが人里離れた場所でこっそりと暮らすようだが、隣りの狐はわざわざ人に化けて町に来ているのだから、想像と現実は違うものだと笑わざるをえない。
そうして立ち見を続けているうちに場面が変わり、舞台には精霊役の女性が一人で出てきた。そこまではいいのだが、その服装はかなり露出の多い踊り子の衣装だったから驚きだ。特に胸は立派としか言いようがなく、遠目でも大きいと分かる。それが惜し気もなく晒され、くっきりと谷間を公開しているのだから嫌でも目を奪われる。
精霊役の女性が美人なこともあり、いかにも人外の存在らしい魔性の魅力を放っていた。実際、彼女があの姿で登場した途端にあちこちから口笛だの拍手だのが巻き起こった。そしてそれは精霊役の女性が軽やかに踊りだしたことで一層数を増す。
「すげぇな……」
思わずルークは小声でそう呟いていた。
踊りがなかなかに激しいおかげで、役者の豊かな胸がはっきりと揺れている。この場にいる男の九割は踊りではなく彼女の揺れる胸を見ていると断言したっていいくらいだ。
普段の生活で女性の胸を眺めようものなら大概は平手が飛んでくるが、これはれっきとした見せ物だ。つまり、どれだけ見ても非難されることはない。
そんなわけで、ルークも堂々と彼女の踊る胸を見ていたのだが、急に脇腹をつねられた。
「いてぇ」
なんだと思ってそちらを見ると、ミーネがむーとむくれ顔だった。ミーネにしては珍しい暴力抗議だが、ついに精神攻撃だけでなく肉体攻撃までするようになったのかと、ルークは軽く戦慄を覚える。
「いてぇ」
ほとんど同時に足を踏まれていた。今度はミラだ。何が気に入らないのか、ルークの足をがんがん踏みつけている。こちらも珍しく鉄拳ではなく足による暴力だったが、容赦なく踏みつけているらしく、なかなかに痛い。
「なんだよ二人とも」
「……なんか、やな感じがした」
「いくらああいう衣装だろうと、凝視するのは紳士らしくないぞ」
ルークが役者さんの胸を見ていたと確信している言い方だった。
「言いがかりはよせ。俺は純粋に舞台を見てただけだぞ」
「ふんっ、どうだか。そういえば、昼はまだだったな。舞台はもういいから、昼食に行くぞ」
ルークを鋭く一瞥すると、ミラはさっさと歩き出してしまう。ミーネもミーネで「ルークのバカ」と捨て台詞を残し、ミラと並んで行ってしまった。
「なんなんだ、あの二人は。意味がわかんねぇ……」
ルークは頭をかきながら、仕方なく二人の後を追う。
それにしても、いきなり機嫌が悪くなったのはなぜだろう。自分より大きな胸が気に入らなかったのだろうか。
そこまで考え、ルークはそういえば二人の胸はどんな感じだったかと首を捻った。
ミーネは見かけは華奢だが実はそれなりの大きさだった。不可抗力とはいえ、何度か接触したことがあるのでそれは間違いない。
次いでミラだが、実はかなりあるそうだ。ミーネ以上に見かけでは分からないが、なんでも着痩せするタイプで、脱いだらすごいと同僚の誰かが言っていた気がする。ただ、こちらはいまいち信憑性がない。ミラの裸ないし、着替えを覗いて生きている男がいるとは思えないからだ。それ以前に、覗きに行こうとする命知らずは騎士団にはいないだろう。ルークでさえ、それをする勇気はない。
一方、ルークの前方ではミラとミーネが小声でやり取りをしていた。
「くっ、ルークのやつ、私達の前で堂々と他の女の胸を見るとは……!」
「うぅっ、ルーク、大きい胸が好きなのかなぁ……」
「恐らくそうなんだろう。まあ、それはあいつに限ったことでもないだろうが。まったく、どうせ見るなら……私のを……」
「えぇっ!? ミラさん、見られて恥ずかしくないんですかっ!?」
「恥ずかしいに決まってる! だが、他の女は見られて私は見られないのも癪だ……。だから、その、谷間くらいなら……」
「えっ、谷間って……ミラさんも、その、胸大きいんですか……?」
もしそうだったらどうしようと、ミーネはミラの胸元に目を向ける。それに気付いたミラはすぐに腕を組むようにして胸を隠した。
「う……まあ、その、なんだ。平均より大きい自覚はある……。だからあまり見るな……。ミーネにだって見られるのは恥ずかしい……」
顔を赤くしながら背けたので、ミラの胸が大きいのは事実らしい。ミーネはそんなミラを見て、ライバルがルーク好みの巨乳? だと判明し、茫然となる。
「あう……どうしよう……。わたし、けっこう大きいと思ってたけど、さっきの人と比べたらぜんぜんだし……」
「あれは特別だと思うぞ。私だって、あそこまで大きくはない。仮にルークの好みがあの大きさくらいないと駄目だったらお手上げだ」
そこで二人は示し合わせたように振り返り、想い人を見つめる。鈍感朴念仁のルークはなにか考えてるらしく、真剣な表情だ。当然、二人が見ていることに気付く気配はない。
「人の気も知らないで飄々として……! そろそろ一発殴っておくか。そうでもしないと、私の気が晴れん」
ミラはぐっと拳を固める。
「うぅ……胸が駄目だったら、他のことでルークの気を引くしかないんですよね……」
「そうなるな。まあ、それはお互いに考えていけばいいだろう。とりあえず……」
そこでミラはくるりと踵を返した。
「ん? なんだよ隊長、怖い顔して―いっ!?」
ごちんと、いい音が響いた。
「黙れ! エスコートしろと言っただろう! いつまで私達の後ろを歩いているつもりだ!」
「おい隊長! 殴る時は言えって言っただろ! 目ん玉飛び出そうになったぞ!?」
「安心しろ! 出たら私が入れ直してやる!」
「いや待て、さらっと怖いこと言うなでっ!」
再びミラの鉄拳が炸裂し、ルークは頭を押さえてうずくまる。
ミーネはその様子を見て、いつもなら可愛そうだと思ったはずだが、今回ばかりは自業自得という感想しか出てこなかった。
今日は厄日だ。馬に乗っているルークは痛む頭を押さえながらそう思った。機嫌の悪くなったミラとの午後からの見回りは散々で、事あるごとにミラから鉄拳を頂戴し、一日に鉄拳をもらった回数が過去最高という、まったく嬉しくない記録を打ち立てる羽目になった。
しかも、機嫌が悪いのはミーネも同じらしく、珍しいくらいの我がままぶりだった。それにルークが口を挟もうものなら、ミラから「口応えするな!」という叱責とともに鉄拳が飛んでくるのだ。もうルークにはどうすればいいのか分からず、完全にお手上げだった。
そんなろくでもない見回りを終えて、今はミーネを家へと送っている最中なのだが、機嫌は直っていないのか、まったく口を聞いてこない。
女は意味がわからんと思いながらミーネの家に着くと、後ろに乗っていたミーネはやはり無言で馬から降りた。そして、不満であると大書した顔でルークを見上げてくる。それについて言及してもいいのだが、今日は散々に振り回されて疲労困憊だったので、敢えて無視した。
「んじゃ、またな……」
片手を上げて挨拶してやると、さっさと帰ろうと手綱を操る。そこでミーネがようやく声を発した。
「ルークっ」
妙に力の入った声だったので、ルークは手を止めてミーネを見た。
「なんだよ」
「あなたが帰る前に、大事なお話があります」
やけに真面目くさった言い方だ。
何を言い出すつもりだとルークが目を向けると、ミーネは真剣な表情で見つめ返してきた。雰囲気から、本当に大事な話らしい。
「なんだ?」
仕方ないから聞いてやるかと、ルークは馬から降りた。そんなルークに向かって、ミーネは言い放った。
「どうして、小さいよりは大きい方がいいんでしょうかっ」
意味不明な言葉だった。
「あ? なんのことだよ?」
しかし、説明を求めるルークの言葉は無視された。
「えと、その……わたし、まだ成長中だから! だから、今の時点で判断されるのは困るんですっ!」
「は?」
ミーネはなにやら必死な感じでそんなことを訴え出した。ただ、言いたいことがいまいち分からない。
「だから、その……お、お話終わり! またね!」
ルークが首を捻っているうちにミーネはそうまくし立てて家に入っていってしまった。
一人取り残されたルークはミーネの言葉をなんとか理解しようと試みるが、これだという答えは思い浮かばなかった。
「なにが言いたかったんだよ、あいつは……」
話があると言ったと思ったら、訳のわからないことを言うだけ言ってさっさと引っ込んでしまう。まったく変な狐である。まあ、ミーネが変なのは今に始まったことでもないので、特に気にしなくてもいいだろう。
「やれやれ、ほんと厄日だな……」
ルークのぼやきに、馬が自業自得だとばかりに鼻を鳴らしたのだった。
14/03/02 09:48更新 / エンプティ
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