連載小説
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第七章
 自分の家に女ものの服があることが、シオスは不思議で仕方なかった。それ以外にも装飾品や化粧道具といった女性ならではの物が部屋の一角に置かれている。それらは全てカトレアのものだ。所帯持ちとなるシオスは今日までいまいち実感が湧かなかったが、こうして彼女の私物を見ると緊張してくる。
「どうしたのシオスさん。手が止まっているわよ?」
 マームに注意され、シオスは慌てて掃除の手を再開した。
「ああ、すいません。彼女の物を見てたら、本当に結婚するんだなと思って」
「ふふ、まあ惚けるのも分かるわ。あんな美人のお嫁さんをもらうんだものねぇ」
「ええ、まあ……」
 嫁と聞くと照れくさくて、シオスは頬をかいた。マームはその手をはたくように叩く。
「ほら、きちんと掃除する。この部屋で終わりなんだから、早く済ませてしまいましょ」
 マームに急かされ、まとめたゴミを回収して袋に入れる。それを何度か繰り返して綺麗にすると、ようやくマームから及第点が出た。
「お疲れ様。これで後は花嫁の到着を待つばかりね」
「すいません、マームさん。こんなに手伝ってもらって」
「私が好きでやっているんだからいいのよ。この歳になると、世間話とあなたの世話くらいしかすることがないし」
 結婚こそしていたマームだが、子供には恵まれず、夫も病でこの世を去っている。そのせいか、シオスを我が子のように見ていることはシオスも知っていた。
「いいえ、おかげで助かりましたよ。僕一人では今日までに終わらなかったでしょうから」
「まったく、シオスさんはそういうところが駄目ねぇ。今日からは気持ちを入れ替えないと、奥さんに逃げられるわよ?」
 本当にその通りなので、シオスは苦笑するしかない。普段の生活でだらしないところを見せて、彼女を幻滅させるような真似だけはするまいと心に誓う。
「愛想を尽かされないように努力します。そんなことになったら、マームさんにも怒られるでしょうし」
「当然よ。私は結婚式を挙げてないことだって、まだ許してないんですからね」
 シオスは再び苦笑し、両手を上げて降参を示した。
 結婚式を挙げなかったのはカトレアの希望だったからだ。代わりに宿を一日借り切って、親しい人だけでの小さな宴会をした。その際にカトレアも町にいるという知り合いを呼んだのだが、それがエステルだったことはシオスも少なからず驚いた。黒いドレスに身を包んだエステルは妖しい魅力を放っていて、彼女を呼んだのはシオスだと思った知人の何人かが紹介してくれるように頼んできたくらいだ。マームも驚いていて「浮気しちゃ駄目よ?」と変な釘を刺されたことは、昨日のことのように覚えている。
「その分、きちんと彼女を幸せにしてみせますよ」
「ええ、そうしてちょうだい。間違っても妻を残して先に天国に行っては駄目よ」
 マームの自虐的な冗談にどう返事をしたものか考えるシオスだが、マームは言いたいことを言ってすっきりしたのか、自分の荷物をまとめて手に持った。
「さてと。じゃあ後は若い二人に任せるとして、私はこれで帰ることにするわ」
「随分急ですね。何か用事でも? 手伝ってもらったお礼に、お昼をご馳走しようと思っていたのですが」
「あら、そんな気遣いは無用よ。その気持ちはお嫁さんに向けてあげなさい。じゃあね、シオスさん。次はおめでたの報告を楽しみに待っているわ」
 おせっかいなマームらしく、あまりにも気の早い言葉を残して玄関に向かって行く。その後ろ姿を見て、シオスはふと違和感を感じた。
「なんだ……?」
 何かおかしいと思ったが、すぐに答えは出た。マームの背中がやけに小さいのだ。以前は恰幅のよい体型だったはずだが、今は大分肉が落ちた気がする。しかし、それがいつからかは思い出せなかった。トリコフルーツを売るようになって、購入したマームから肌のつやが良くなったという話は耳にタコができるほど聞いたが、痩せたという話は覚えがない。
「幸せすぎてボケたかな……」
 頭をかくと、シオスはカトレアの荷物を抱えた。しみついているのか、僅かに彼女のいい匂いがした。それが鼻をくすぐった時、マームの体型のことはシオスの頭から消えていた。


 寝室の扉を開けると、新品のセミダブルのベッドが目に入った。結婚するにあたり、今までの質素なベッドから買い替えたものだ。これによって、部屋が少し狭く見えた。
 シオスはベッドに腰かけると、落ち着かない様子で部屋の扉とベッドに目を行き来させた。夕食をすませ、今後の商売について語り合い、カトレアは現在入浴中だ。シオスは先に風呂をすませて、寝室で彼女が来るのを待っていた。
 そっと頬に触れると、そこはまだ熱を持っているようだった。風呂に入る直前にカトレアから「私が来るまで寝ちゃ駄目よ?」とキスをされたのだ。それが意味することを悟り、シオスはどうしても緊張してしまう。せっかく風呂に入ったのに、背中からは嫌な汗をかきそうだった。
 そこで足音がした。続けて部屋の扉がそっと開き、カトレアが入ってきた。それだけでもシオスが体を強張らせるのに十分だったが、彼女の姿を見た瞬間、思考も呼吸も何もかもが止まった。カトレアは裸身にバスタオルを巻き付けただけの格好だった。入浴後だからか、白い肌はほんのりと朱に染まっていて、嫌でも目が引きつけられてしまう。
「お待たせ」
 シオスの反応を楽しむような笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと近づいてきた。むき出しの脚を艶めかしく動かし、シオスの前にやってくると彼女は立ち止った。
「きちんと寝ないで待っていてくれたみたいね」
「もちろんだよ」
 カトレアは声なく笑うと身を屈め、顔を近づけてきた。
「キスして」
 目を閉じたカトレアの唇へと、シオスは恐る恐る唇を重ねた。今まで何度か体験した時は触れた瞬間に体に電気でも流されたような感じだったが、今回はそんなことはなかった。愛情を確認しあっているという快感とうっすら甘い味がシオスに流れこんできた。
「君は素敵だよ……」
 唇を離し、至近距離で彼女の赤い瞳を見つめながらシオスはなんとも捻りのない言葉を呟いた。
「ありがとう。できれば、もう一度同じ言葉を言ってくれると嬉しいわ」
 そこでカトレアは立ち上がると、一歩、二歩と後ろに下がった。
「どういう―」
 シオスの口は最後まで動かなかった。目の前にいる最愛の妻の姿が音もなく変化していたからだ。頭からは獣の耳が現れ、背後では髪の毛と同じ色をした淡い紫の尾が四本、妖しく揺らめいていた。
 魔物ということはシオスにもわかった。だが、それを声にすることもできず、口をぽかんと開けてカトレアを見つめるだけだった。
「こういうことよ」
「魔物……」
 ぽつりと言ったシオスの呟きに、カトレアは少しだけ顔を曇らせた。
「結婚を破棄する?」
 結婚と聞いて、シオスの頭が動き出した。そうだ、自分は結婚したのだ。目の前の女性と。しかし、彼女は魔物だった。
「夢じゃないんだな……」
「ええ……。私は人ではなく、魔物よ」
 そこでシオスははっきりとカトレアの顔を見つめた。
「違う。僕が言いたいのはそんなことじゃない」
「―え?」
 カトレアがきょとんとした顔になった。
「僕が言いたいのは、僕はカトレアという美しい女性と結婚したということだ。これは夢じゃなかった」
「そうね。でも、私が魔物であることも夢ではないわ」
「そんなことは構わないよ。むしろ、不思議と納得してしまっている。人であろうと、魔物であろうと、君は君だ。僕が愛した女性であることに変わりはない。だから……君は素敵だよ」
 彼女は魔物だった。だが、それがなんだというのだろう。シオスは彼女が人だから好きになったわけではないのだ。カトレアが人外の存在であったことには驚いたが、それで彼女への想いが冷めることはなかった。 
 カトレアは「やっぱり私の目に狂いはなかったわね……」と呟き、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、その想いにはきちんと応えないとね。さあ、これも夢じゃないわ」
 カトレアがバスタオルの前を開いた。完璧なプロポーションの裸身が目の前にさらされ、シオスは息を飲んだ。
 カトレアはバスタオルを脱ぐと、シオスに正面から抱きついてきた。彼女の腰に手を回して抱きしめたところで、二人の唇が重なった。
 さっきまではきちんと動いていた思考が止まりつつある。いや、カトレアに吸い取られているようにさえ感じた。
 唇を離すと、カトレアと目が合った。間近で見た赤い瞳は心を引きこむような魔力を放っていて、シオスは目が離せなくなった。その隙に、ぐっとカトレアが体重をかけてきて、シオスはベッドに押し倒された。
「な、何を……」
「食べてあげるわ。これをね」
 足を広げてシオスに馬乗りになったカトレアの手がシオスの下半身へ向かう。そこは完全に勃起していて、ズボンを盛り上げていた。カトレアがそれを優しく撫で上げると痺れるような快感が全身に走り、シオスは顔をしかめた。
「カトレア……」
 自分に跨ったカトレアを見上げると、彼女はどこか捕食者のような目でシオスを見ていた。その目を見て、自分はここで食べられてしまうことを悟った。
「ああ、誤解しないで? 食べるといっても、性的に食べるというだけだから」
 言ったと同時にズボンが引きずりおろされた。限界まで反り立ったペニスがまろび出るのを見て、カトレアが口元に笑みを浮かべる。
「いい香り……もう我慢できないわ」
 カトレアの手がシオスの上着にかけられた。脱がしやすいように万歳をすると、瞬時に上着が脱がされ、ベッドの外に放られていた。
 それには目もくれず、カトレアはシオスの両肩を押さえつけると、嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、いただくわ」
 そんな言葉が聞こえたと同時にペニスが呑み込まれていた。ずぶずぶと、ぬめり、窮屈な肉壺に沈んでいく感覚。
「っぁ―!」
 カトレアの膣内の感触に我慢することができず、挿入の途中でシオスは呻くような声とともに精を迸らせた。
「ん……もう出してしまうなんて、可愛い人ね……」
「う……その、すまない……」
 どこか慈しむような笑みを浮かべながら、カトレアは射精中のペニスを奥へと呑み込む。柔らかな肉に包まれながら圧迫され、精を吐き出しながらペニスがより深い位置へと招かれていく。
「ここが私の一番奥よ」
 射精が終わる頃になって、ようやく最奥へと辿り着いたようだ。だが、彼女の中はペニスが萎えることを許さないかのように蠢き、絡みついてくる。
「っ……カトレア、よすぎるよ……」
 あまりに早い射精を申し訳なく思いつつも素直な感想を伝えると、カトレアは更に腕に力を込めてシオスを押さえつけてきた。体重をかけたらしく、結合部がより密着する感覚とともに、ペニスの先端がコリコリとしたものにぶつかった。
「ふふ、ありがとう。でも、まだ入れただけよ? お楽しみはこれから。あなた専用になった私の身体、たっぷり堪能して」
 亀頭を子宮口に押し付けたまま、カトレアはぐりぐりと腰を動かし始めた。動き自体はゆっくりだったが、膣内はそうではなく、今までは優しく包むだけだった柔壁にペニスが万遍なくシェイクされ、快感が絶え間なくシオスを襲う。加えて、亀頭が触れている子宮口も不思議な感触で、密着しているだけで腰が震えそうになるくらい気持ちがいい。
 暴虐的ともいえる快楽に、二度目の射精が訪れるのはあっという間だった。
「カトレア、出むっ!?」
 最後まで言い切るよりに先に、カトレアによって唇が塞がれた。しかし、口を塞がれたところで限界寸前の射精感が止まることはなく、キスをしたままシオスは二度目の精を噴出させた。
「……! ……!」
「ん……」
 精だけでなく、つい漏れ出てしまう嬌声さえもカトレアに吸い取られていくような感覚に、頭がぼんやりとしてくる。
 最後の一滴まで搾り取ろうと膣内が収縮し、それに屈服したペニスが精を吐き出す度に四本の尻尾が嬉しそうに揺らめく。
 やがて射精が終わり、注がれた大量の精液を余さず子宮に吸い上げたところでようやくカトレアが口を離した。
「ぷはっ! カ、カトレア……、少し待って……!」
 たった今精を搾り取ったばかりだというのに、止まることなくゆっさゆっさと腰を揺すってくるカトレアに、たまらずシオスはそう訴える。
「待たないわ。私はまだまだ満足していないもの。妖狐の性欲はすごいんだから」
 カトレアからいつの間にか理知的な気配が消え、全てを貪る肉食獣のような雰囲気を漂わせていた。膣内の動きもそれに合わせて急激に変化し、今まで以上にうねり、締めつけ、奥へ引き込むように絡みついてくる。ペニス全体を包む柔壁も熱を帯びて、まるで溶かそうとしているかのようだ。
 あまりの快感に、シオスは喜びの悲鳴を上げた。
「カトレア、待ってくれ! おかしくなるっ……!」
「待たないわ♪」
 嗜虐的な笑みとともに、カトレアが腰を打ち付ける。擦れ合う膣内とぶつかる子宮口とがシオスの頭を快楽一色に染め上げていく。
「待っ……んーーーー!」
 抗議の声は再びキスで封じられた。口内に広がる甘い味が思考を止めていく。何も考えられなくなり、頭の中が真っ白になっていくことさえ快感へと変わる。そしてシオスは三度目の精を迸らせた。


 優しく頬を撫でられる感じがした。そっと目を開けると、優しく微笑むカトレアの顔がすぐ近くにあった。一瞬で眠気が吹き飛び、胸がドキリとする。だが、彼女の頭に獣の耳があることに気づくと、幾分か気持ちは落ち着いた。
「おはよう。よく眠れたかしら」
「まだ、少し眠いかな……」
 カトレアが楽しそうに笑った。
「無理もないわ。遅くまでしていたわけだしね」
 結局、あの後何度カトレアの中に射精したかは記憶にない。だが、彼女の口ぶりから察するに、二桁を超えているかもしれない。昨日の行為を思い出して軽く赤面させつつ、シオスはカトレアの美しい顔を見つめた。
「ねえ、君は僕をどうしたいんだい?」
「妻として、幸せにしてあげたいと思っているわ」
「幸せに……」
 シオスとしては、カトレアを妻にできただけで十分すぎるほど幸せだ。魔物は危険な存在だと頭の片隅で思っていたが、昨日の交わりですっかりそんな考えは消えてしまった。もしかしたら、精と一緒にカトレアに吸い取られてしまったのかもしれない。
「そう、幸せにしてあげる。公私両方においてね」
「公私両方?」
「ええ。私の夫がただの町商人では困るもの。だから、あなたを立派な商人にしてあげる」
「何をするつもりだい?」
 目を細めて妖艶に笑うカトレアを見ると、そう訊かずにはいられなかった。
「そうね。まずはある程度大きい建物を買いましょ。そこを改装して、あらゆる商品を扱う商館にするの」
「あらゆるって、商品を仕入れる当てはあるのかい?」
「その点は心配しないで。私の親友が国お抱えの大商人だから、どんな品でも格安で手に入るわ」
 とんでもないツテを持っているらしい。だからこそ、彼女の頭の中では今後の展開についての青写真ができているのだ。
「なるほどね。しかし、できるかな? 僕は冴えない町商人だし、君も優れているとはいえ行商人だ。二人では、この町で商館を経営している連中相手に上手く立ち回れる気がしないよ」
「大丈夫、私に任せて。そういう経験がないわけじゃないもの」
 言い終わると同時に、カトレアが身体をずらしてシオスの上に乗ってきた。
「カトレア? なんの真似だい?」
「おはようのセックス」
「セックスって、二時間もしないうちに開店だよ?」
「まだ一時間以上もあるじゃない。何かまずい?」
 まずい、と言わなければならないところなのだが、カトレアに乗られた時点でペニスが既に勃起してしまったシオスは何も言い返すことができなかった。
 カトレアは勝ち誇ったような笑みとともにペニスを自らの秘部へと当てがう。
 この後、シオスは一時間で五回の射精をさせられた。


 少し遅めの朝食を済ませてディーノがそれらを片付けていると、扉をノックする音が聞こえた。洗い物から手を離し、タオルで手から水を拭き取ると、玄関に向かった。少し動きが悪くなったノブを回して扉を開けると、目の前に見知らぬ女性が一人で立っていた。ハッとするような美人だった。淡い紫の髪と赤い瞳がただでさえ美しい彼女の顔をより引き立たせている。
「どちら様かな」
「はじめまして、私はカトレア。夫から聞いてやってきたのだけど、あなたが物件を賃貸しているディーノさんでいいかしら?」
「ああ。それで、俺にどんな用かな。夫婦用の家を貸してほしいというのなら、いくつか候補があるが」
 そう言いつつ、頭の中にある物件をいくつか思い浮かべる。見たところまだ若いので、洒落たデザインの家がいいかもしれない。
 ところがカトレアは首を振ってきた。
「残念だけど、目的は家ではないの」
「家ではない? となると他には……」
 首を傾げ、自分の扱っている物件を思い出す。家以外の物件があったかと眉を寄せるディーノだが、やがて一つの物件が思い浮かんだ。
「まさか、商館を?」
 カトレアの唇が笑みの形になった。
「ええ。こう見えて、商人なの」
 ディーノが扱っている物件は基本的に家だが、一つだけ例外があった。それが町の中央にある商館だ。破産に陥った商館の持ち主が買わないかと持ちかけてきて、当時は賃貸している家がほとんど埋まっていて金に困っていなかったディーノは二つ返事で買い取った。立地条件は悪くなかったので、すぐに借り手がつくと思ったのだ。しかし、予想に反して借り手はまったくつかず、ディーノとしても維持する手間がかかって扱いに困っている物件だった。
 そんな商館を借りたいというカトレアの申し出は渡りに船で、ディーノはこの機会を逃すかと扉を完全に開け放った。
「詳しい話をしよう。中に入ってくれ。飲み物を用意する」
「気遣いはありがたいけど、けっこうよ。それより、肝心の建物を見せてもらいたいのだけど、今からいいかしら?」
「あ、ああ。わかった。すぐに準備する。少しだけ待ってくれ」
 ディーノはくるりと踵を返すと、大急ぎで商館の鍵と契約書を用意する。それらを愛用のバッグに詰め込むと玄関へと戻った。
「待たせたな。では案内しよう。こっちだ」
 目的の商館は中央の通りから東に伸びる道にあった。通りに人は何人もいるのに、そこだけ人気がなく、おかげでやけに寂れている雰囲気を醸し出している。
「あら、意外と外見は綺麗ね」
「気に入ってもらえたならなによりだ。だが、俺一人で手入れをするには大きすぎてね。中がほこりまみれなのは勘弁してもらいたい」
 色褪せていない扉に鍵を差し込んで回した。少しくぐもった音とともに鍵が回り、ディーノは扉を開けた。予想通り、一歩中に入った瞬間、不快なほこり臭さに顔をしかめる。それはカトレアも同じだったが、それよりも内装に気を取られているようだった。
「ロビーは悪くないわね。他の場所も見せてもらっていいかしら」
「もちろん」
 とりあえず一階は後回しにして、正面の階段を上っていく。全部で四階建てのこの商館は階ごとに作りが若干異なっているので、全ての階を案内しないといけない。
 最上階から下に向かっていき、各階の部屋がどのように使われていたかを説明すると時間はすっかり昼となった。
「こんなところだが、満足してもらえたかな」
「ええ。思っていたより状態も良かったから嬉しい誤算だわ。だから、ビジネスの話にしましょうか」
 どうやらカトレアのお気に召したらしい。契約してもらえる可能性が高そうだったので、ディーノは契約書を取り出そうとバッグに手を突っ込む。それを見て、カトレアは苦笑を浮かべた。
「まあ、そう焦らずに。こんなほこりまみれの場所でビジネスの話をするつもりはないわ。ついてきて」
 カトレアが向かった先は中央通りにあるシューリエという喫茶店だった。こういった店に行く機会がなかったディーノは少し新鮮な感覚だったが、メニューの値段を見て表情を曇らせることになった。笑えないことに、コーヒー一杯の値段がディーノが普段飲んでいるぶどう酒と同じだったのだ。
「ここは私が持つから遠慮なく頼んで」
「はあ……」
 カトレアはご馳走してくれるつもりらしいが、そこまでしてもらうわけにもいかないのでディーノはコーヒーだけを頼んだ。カトレアはロイヤルミルクティーを注文していた。それらが運ばれてくると、ディーノはコーヒーには手を付けずに話を切り出した。
「さっそくだが、契約の話に入ってもいいかな」
「ええ、もちろん」
「では、これが契約内容だが……」
 ディーノはバッグから契約書を取り出そうとした。しかし、それを遮るようにカトレアがこう続けた。
「ああ、あなたの用意した契約書は必要ないわ。こちらで用意してあるから」
「用意してある?」
「ええ。これよ」
 テーブルの上に彼女が用意したという契約書が置かれた。それを訝しむように見やるディーノだったが、すぐに「なっ……」と呻くことになった。それは賃貸契約書ではなく、売買契約書だった。
「買う、つもりですか?」
 あまりに予想外で、つい声が震えた。カトレアは至って当然といった様子でミルクティーを一口啜る。
「ええ。実物を見せてもらって、あれなら購入する価値があると判断したわ。だから買い取らせてもらいたいのだけど」
 借りたいというだけでもディーノにはありがたいというのに、購入したいなどもはや冗談のような話だ。
「いくらで?」
 足元を見られないように落ち着いて尋ね返すと、カトレアはペンを取り出し、契約書と一緒にディーノの前に滑らせてきた。
「好きな値段をそこに書いて」
「なっ……」
 思わず呻いていた。
 契約書の金額を書く欄は確かに空欄となっていた。それが目に入った瞬間、心臓が跳ねた。同時に、ディーノは完全にペースを掌握されてしまっていることを実感した。油断したつもりはないのに、カトレアのいいように操られている。そんな気がした。
 責めて一矢報いたいと想い、ディーノはペンを手にすると、購入金額の四割増しという強気な値段を書き込んでカトレアに返した。
「これでどうですか」
 契約書を返されると、カトレアの目がすぐに金額欄に向かう。それを一瞥すると、すぐにペンを取って手早く何かを書き込んだ。
「はい、どうぞ」
 再び契約書が返された。
 値段の訂正でもしたのかと目を光らせるディーノだったが、金額欄には何も書き足されたことはなかった。ではどこだと目をさまよわせるが、すぐにその箇所を見つけた。購入者の欄に、流麗な文字でカトレアの名前が記されていたのだ。これで空欄となっている譲渡者の欄にディーノが名前を書けば、契約は締結することになる。だから手が止まった。
「いいんですか?」
 ディーノが目を向けると、カトレアは首を傾げて苦笑を浮かべた。「書いたのはあなたよね?」と。
「そうですが……こんな金額を即決とは……」
「こう見えて人生経験は豊富なの。これ以上の金額を扱ったことだって何度もあるわ。だから、この程度で悩んだりはしない。私にとって、これは投資よ。損をして得を取るだけ」
 ディーノとは根本的に考え方が違う。これを投資だと言い切れてしまうカトレアは、ディーノとは金銭に対する感覚がまったく違うのだと実感させられる言葉だった。
「……そうですか。あなたの商売、上手くいくといいですね」
 正面にいる彼女が急に得体のしれない存在であるような気がして見ていられず、ディーノは契約書に目を落とすと手早く名前を書き込んだ。
「ああ、予備のこっちにもお願い」
 まったく同じ内容の契約書をカトレアが取り出し、そちらにもサインをすると、カトレアが金額と自分の名前を素早く書き込んだ。そうして出来上がった契約書をディーノに差し出してくる。
「はい。これで完成よ。こっちがあなたの分。代金は後日届けるわ」
「わかりました。では、俺はこれで……」
 これ以上カトレアと話していたくなかったディーノは挨拶もそこそこに席を立った。美人だから緊張するということ以上に、彼女には得体のしれない怖さがある。その内面には、ディーノなど想像もできないようなことが渦巻いている気がするのだ。
「そう。今日はありがとう。いい取引だったわ」
 そんな言葉がかけられたが、それに返事を返す気はなかった。軽く頭を下げるとディーノは足早に喫茶店を出た。大きな取引を終え、大金を手に入れたというのに、気分はまったく晴れなかった。
 店から離れていくディーノが見えなくなるまで目で追っていたカトレアは、彼の姿が視界から消えるとそっと呟いた。
「狐好みの子ね」
 一瞬、怪しい笑みを浮かべると、それをかき消すようにミルクティーを口に運んだ。
13/08/21 10:07更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
どうも、エンプティです。
予定通り、今回はカトレアメインの話でした。
次回はようやくディーノに春が来る予定ですので、お楽しみに。
では、また次回でお会いしましょう。

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