連載小説
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第六章
「終えた? 土砂の撤去をか?」
 ユニとクロノとほとんど不眠不休で交わり、すっかり日が昇った頃に町に戻ったレナードは町役場に直行し、上司に作業が終了したことを告げた。
 彼の上司であり、町長秘書であるリージオは書類作業の手を止めてレナードを見つめた。今年で三十になったばかりのリージオの顔には、驚きと怪訝の色がはっきりと浮かんでいる。明らかに信じられないといった様子だ。
「ええ。それはもう綺麗さっぱり終えました」
「しかし、国からの増員はまだ来ていないはずだ。一体どうやって」
「俺にも、色々とツテはありますから」
 実際はツテではなく妻のおかげだが、それはもちろん言わなかった。
「……分かった。お前がそう言うのなら、本当に終えたのだろう。後で確認しておく」
「お願いします。それと、もう一つ」
「なんだ」
 リージオの目を真っ直ぐに見つめ、レナードは言った。
「旅行に行きたいので、二ヵ月ほど休みを下さい」
 リージオの表情が曇った。
「二ヵ月もか?」
「今回の仕事の報酬として一ヵ月、後は溜まっている休暇を使わせてもらいます」
「確かに今回の働きに対して一ヵ月の休みは与えてもいい。しかし、二ヵ月となるとお前の本来の仕事が入る可能性もある」
「バートがいるでしょう。大概の仕事はあいつ一人で十分のはずだ。今までそうだったようにね」
 レナードの皮肉に、リージオは返す言葉がないようだった。顔を曇らせ、諦めたように頷いた。
「だからといって、お前が不要というわけではない。それだけは覚えておいてくれ。休暇については承認する。他には何かあるか?」
 矢継ぎ早に言われた言葉はほとんど聞き流し、レナードは最後の問いに首を振ってみせた。
「では行っていい。帰ってきたら顔を出してくれ」
「了解。その時には土産を持ってきますよ」
 軽口に、リージオはようやくふと笑った。
「期待しないで待っている」
 軽く頭を下げてインクの匂いしかしない秘書室を後にすると、レナードはすぐにある場所へと向かった。
 町役場を出ると、そっと二人の妻に語りかける。
「待たせたな。それで、方角はどっちだ?」
『ここから西』
 即座にクロノが答えてきたので、レナードはとりあえずいつも行っているイコールの方角に向かって歩き出した。
 向かう先はエステルの家だ。ユニとクロノを実体化させたのは彼女の仕業らしく、一段落したら家に来てほしいと言われたそうだ。
 二人の話から、エステルもまた魔物であることが分かったのだが、レナードは不思議と驚かなかった。むしろ、納得してしまったくらいだ。
 やがてイコールが見えてきたが、そこで今度はユニから『そこを左に』と言われ、指示された方向へ歩いていく。この先は確か貸出しされている家がある区域だ。エステルはそこに家を借りているらしい。
「しかし、よく方角まで分かるな」
『非常に僅かですが、魔力を感じられます。恐らく、私達に分かるように配慮してくれているようですね』
「なるほど」
 小声で話しつつ、五分ほど歩き続けると、クロノから止まるように声がかかった。
「ここか?」
『そう』
 目の前にあるのは奇麗な家だ。けっこうな大きさを誇っていることから、ここを借りるとしたらそれなりの値段になるだろう。
 自分の家など比べ物にならないと思いながら、レナードは扉をノックする。
 女性の家を訪問するということでやや緊張するレナードだったが、扉を開けて顔を覗かせたのが見知らぬ女性で、思わず面食らった。
 淡い紫の髪が特徴的なその女性は、赤い瞳でじっとレナードを見つめてきた。
「どちら様?」
「あ、すいません。自分はレナードといいますが、エステルさんは……」
 レナードが名乗ると、それで納得したらしい。女性は小さく笑うと「どうぞ」と言って、入るように扉を開けた。
「失礼します」
 家に入ると、謎の女性にリビングへと案内され、そこにあったソファへと座らされた。この女性は一体誰だろうと内心首を傾げるレナードだったが、エステルがやってきたことで、とりあえず疑問は保留する。
「我が家へようこそ。待っていたわ、レナードさん」
 にこやかに笑うエステルがレナードの前にコーヒーを置く。次いで向かいのソファに座った謎の女性の前にもコーヒーカップを置いた。
「それで、あなたのお嫁さん達は何がいいかしら?」
 エステルがそう声をかけてくると、ユニとクロノが具現化した。
「その前にまずはお礼を。一昨日はありがとうございました。おかげで、こうして体と夫を手に入れることができました」
 ユニの言葉にクロノがこくこくと頷いた。
「お礼なんていいわ。それより、ちょうど虜の果実のケーキが出来あがったところなの。あなた達も食べるでしょう? 飲み物は何がいいかしら?」
「マスターと同じでいい」
「コーヒーね。ちょっと待ってて」
 エステルがいってしまうと、レナードは改めて向かいのソファに座る女性を見た。毅然とした雰囲気だが、その顔にはどこか悪戯っぽい感じがある。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「私のことでしょう? いいわ、自己紹介してあげる」
 謎の女性はすっと立ち上がると、軽く首を傾げて微笑んだ。
「妖狐のカトレアよ。流通を担当させてもらっているわ」
 ふぁさっと音がした時にはカトレアの姿が変わっていた。頭には凛々しい獣の耳が、背後には四本の尻尾が揺らめいている。
 ユニやクロノとはまた違った存在にレナードは目を奪われるが、両足を二人に踏まれてハッとした。
「レナードです。この二人は」
「はいストップ。精霊二人はエステルが来たらにしましょ」
 くすりと笑うとカトレアはソファに座り、長い足を組んでコーヒーを啜った。
「お待たせ。さあどうぞ」
 戻ってきたエステルがユニとクロノの前にコーヒーを置くと、順にショートケーキを配っていく。それが終わると、エステルはレナードの正面に座った。
「さて、では自己紹介しましょうか。私は最後にするとして、まず隣りのこの子だけど」
「私はもう済ませたわ。だから、精霊二人にしてもらえばそれで終わり」
「あら、そうなの? では、お願いしていいかしら」
 カトレアの言葉を受けて、エステルの視線がユニとクロノに向かい、二人は頷いた。
「私はユニです」
「クロノ」
「エステルよ。今後ともよろしく」
 自己紹介がすんだところで、レナードは口を挟んだ。
「さっそくですがエステルさん、今回呼んだ理由を聞かせてもらいたい。それとも、顔見せだけですか?」
「まさか。今回呼んだのは、あなた達に今後の予定を話しておくためよ」
「予定とは?」
 思わず勢い込んで聞いていた。エステルは笑みを浮かべ、謳うように言った。
「人と魔物がずっと愛し合っていける世界は素敵だと思わない?」
「それは、確かに……」
 妻二人との交わりを思い出し、レナードは無意識のうちに頷いた。それを見て、エステルは目を細めた。
「だから、この国を魔界に変えるわ」
「魔界……」
 その単語自体はレナードも知っている。しかし、そこがどういうものなのかはさっぱり分からなかった。
「魔界とは、人と魔物がずっと愛し合っていける場所よ。まあ、説明するより見てもらった方が早いわね。カトレア」
 エステルが目を向けると、カトレアが言葉を引き継いだ。
「私の方で、簡易ポータルを用意させてもらったわ。これは離れた場所へ一瞬で移動できる道具よ。行き先はもちろん魔界」
「あなた達はしばらく魔界へ行って、そこがどれだけ素晴らしいかを体験してきて。新婚旅行も兼ねてね」
 微笑んで告げるエステルに、ユニとクロノが即答した。
「喜んで!」
「楽しみ」
「いや、待って下さい。言いたいことは分かりましたが、それなら俺達も手伝った方がいいでしょう。いずれ魔界に変えるというのなら、わざわざ見に行かなくても、魔界に変わったこの国を見ればいいだけのことでは?」
「ところが、まだそこまで計画が進んでいないのよ。手伝ってくれるのは嬉しいけど、今のところあなた達の出番はないの。だから、それまで旅行に行ってきて。私達がどういう存在なのか、魔界がどんな場所なのかを知ってもらう意味でもね」
 微笑を浮かべ、エステルはコーヒーを一口飲んだ。
「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせてもらいます。で、どれくらい旅行に行っていればいいですか? 休みは二ヵ月ほどもらいましたが」
「二ヵ月ね……。どう、カトレア?」
 少し考えるような素振りをしつつ、エステルは隣りのカトレアに顔を向ける。
「問題ないわ。一月とかからないうちに、彼とは夫婦になる予定だから。そうなったら、後はどこかに店を出して市場を掌握するだけ。二ヶ月後には、計画を次の段階に進められるはずよ」
「それは頼もしいわね。じゃあ、二ヵ月間まるまる旅行を楽しんでもらっていいわ」
 二ヵ月全てと聞いて、ユニとクロノが嬉しそうに腕を絡めてきた。
「マスター、二ヵ月エッチし放題ですよ!」
「毎日気持ちよくしてもらう」
 毎日するのかと、やや気後れするレナードだったが、ふと思い出したことがあった。
「エステルさんにカトレアさん、一つだけいいですか」
「なにかしら」
 二人の目がこちらに向いたところで、レナードは続けた。
「俺の本当の仕事は、裏がありそうだったり、不正を行っている人間の調査です。あなた達がこれからどんなことをするのかは分かりませんが、活動内容によっては調査されるかもしれない。その時は気を付けて下さい。同僚だから分かりますが、一度目を付けられたら、白だと分かるまで調べられます」
 同僚のバート、上司のリージオ、両者の顔を思い浮かべながら、レナードはそう告げた。身内を売る行為だが、彼の良心が咎めるようなことはなかった。ユニとクロノ、二人と交わった時点で自分の立ち位置はすっかり変わっていた。
 レナードの言葉を聞くと、エステルの目が光った。
「あら、あなた、猟犬だったのね」
「猟犬?」
「そう。あなたのように、裏側の調査をする人のことよ。それを猟犬と呼んでいるの。仕事柄、あなた達は鼻がきくから」
「では、その猟犬のついて話しておきます。基本的に動くのは俺か、同僚のバートという男です。調査対象を選び、指示を出すのが上司のリージオ。どちらも勘の鋭さは一級品なので、厄介な存在かと」
 同僚のバートもそうだが、リージオはそれ以上に優れた存在だと聞いたことがある。今でこそ町長秘書だが、以前は町長の懐刀として、裏の調査を一手に引き受けていたらしい。
「鼻がきいて、勘もいい存在ならここにもいるわ。狐だけどね」
 エステルが顔を向けたので、レナードもつられてそちらを見た。二人の視線を受けたカトレアは、軽く肩をすくめてケーキを一匙口に運ぶ。
「どう思う、カトレア。彼がいない間に、猟犬は動くかしら?」
「私が行動を開始したら動くと思うわ」
 カトレアの言葉を聞くと、エステルは満足そうに頷いてレナードの方に向き直った。
「動くのはバートという人だったわね。どういう人か聞いていいかしら」
「普段は役場の倉庫整理をしていて、滅多に町には出てこない男です。調査の際は、頭にバンダナを巻いて旅人を装うのが基本ですね。話上手なので、調査対象のことをさり気なく聞き出すことに長けています」
「旅人ね……。他には何かあるかしら。例えば、癖や好みの店は?」
「行きつけの店については聞いたことがありませんね。ただ、調査の際には毎日教会にお祈りに行くと言っていました。悪事を調べるわけだから、神の加護があるんだとか」
「教会……」
 エステルの顔から笑みが消え、右手を口に当てつつ僅かに俯いた。彼女の頭の中では様々な計算がされているのだろう。
「まあ、動いたらの話ですし、今は深く考えなくてもいいかもしれません」
「いえ、後手に回る気はないわ。対策は考えておかないと」
「それが妥当ね。でも、どうするの?」
 カトレアの問いに、エステルは微笑む。
「その猟犬は私の方でどうにかするわ。あなたは計画の準備を進めて」
「あの、エステルさん。どうにかするというのは、殺すということも手段に入っているのですか?」
 そう聞かずにはいられなかった。いくら情報を教えたとはいえ、レナードにとっては同じ仕事仲間だ。それが自分のせいで命を落とすようなことになるのは耐えられない。
 しかしエステルはレナードの不安をあっさりと断ち切った。
「いいえ。例えそれが一番実行しやすい方法であろうと、そうするつもりはないわ。選択肢にないと言ってもいいわね。理想としては、あなたと同じようにこちら側になってもらうことだけど、どうなるかは分からない。まあ、最悪でも、この町からいなくなってもらうくらいだから、安心して」
「いなくなるというのは、いい意味でですよね?」
「もちろん。妻になった魔物の家に引っ越しするとでも思ってくれればいいわ」
 「他に聞きたいことはある?」と言われたが、レナードは首を振ってみせた。
「では、今日はお開きにしましょうか。カトレア、後はよろしくね」
 声をかけられたカトレアは頷き、すっと立ち上がる。その姿が人に変化しているのを見ていると、隣りに座っていた妻二人もいつの間にかケーキを食べ終えていて、その姿を消していく。レナードの中に戻ったらしい。
「じゃ、行きましょ。エステル、また来るわね」
 にこやかに手を振るエステルに見送られ、レナードはカトレアに続いて家を出た。
 通りは来た時と比べて賑わってきているようで、人の数が大分増えていた。太陽も本格的に活動を始めたらしく、不眠で妻二人の相手をしていたレナードは足元が軽くふらついた。
「大丈夫?」
「すいません。ちょっとふらついただけです」
「疲れてるの? 私の時間はあるから、休んでからでも構わないわよ?」
「いえ、本当に大丈夫です。昨夜、妻の相手をしていただけなので……」
 こんなことをさらりと言えたことにレナードは驚いたが、不思議と恥ずかしさはなかった。人外の存在と長時間愛し合っていたせいか、感覚がすっかり狂ったようだ。
「ふふ、それは羨ましいわね。私も早く彼と愛し合いたいものだわ」
「そう言うということは、カトレアさんにも意中の人はいるわけですね」
「ええ。なんとも曖昧な関係だけどね。それを夫婦にするべく、尽力中というわけ。だから、今夜もデートなの」
 出会ってからずっと毅然とした様子で、何事にも動じそうにない雰囲気だったカトレアだが、今は乙女の表情になっていた。
 ユニとクロノ、二人と夫婦になったばかりで、魔物についてはろくに知らないレナードだが、こんな様子を見せられたら、彼女達が教会が語るような邪悪な存在ではないことくらいはすぐに分かった。それと同時に理解もした。自分は、いや、反魔物派を掲げる人々は、肝心の魔物について、ろくに理解していないのだと。
「……カトレアさん、魔界に行くに当たって、何か必要な物はありますか?」
「お金があればいいわ。着替えは向こうでも買えるし、物価も人の世とは大分違うから、わざわざ持っていく必要はないわね」
「分かりました。では、お金を準備したらすぐにお願いしていいですか?」
「急に元気になったわね。妻二人に急かされてるの?」
 その言葉には苦笑せざるを得なかった。確かにユニとクロノは頭の中で早く行こうと、子供のように急かしている。
「それもあります。しかし、それ以上に魔界という場所に興味が湧きました。なにより」
 そこで言葉を区切り、カトレアを見つめた。
「なあに?」
 小首を傾げるカトレアに、レナードは笑って告げた。
「女性はデートの準備に色々と時間がかかるでしょうから。その時間を減らしたくありません」
 カトレアは一瞬じっとレナードを見た後、すぐに笑顔を見せた。
「じゃあ、気を遣ってもらった分お洒落をしないとね。それこそ、今日で堕とすくらいに」
「そうして下さい。俺も帰ってきた時には、魔物を妻に持つ男として語り合いたいですから」
「それは大丈夫よ。私達、一度目を付けた男は絶対に逃がさないから」
 カトレアは楽しそうに微笑んだ。


 普段よりも早い時間に店を閉めると、シオスは途端に落ち着かなくなった。
 今日はカトレアが来るといっていた日だ。ご丁寧に何時頃に着くかまで教えてくれたので、彼女が来る前に準備をしてしまわなければならない。
 ここ最近、カトレアがやってくる間隔が狭まってきていた。時間は大概夕暮れ時で、シオスは彼女が店に来る度に夕食に誘われている。そして毎回ご馳走してもらっていた。半分出すといつも言うのだが「稼がせてもらっているから」と笑顔で断られ、未だにシオスが夕食の料金を支払ったことはない。だから、今夜はシオスからカトレアを誘うつもりだった。そのつもりで、高級レストランの予約もしてある。
 やがて予定時間より少し早目に店を訪れたカトレアからいつもの品を購入すると、シオスは緊張から言葉が出なくなる前に言った。
「カトレアさん、今夜、予定は空いてるかな?」
「ええ、空いてるわ」
 優しい笑みを浮かべながら、カトレアが目でそれがどうかしたのと尋ねてくる。それだけで胸が早鐘のように鳴り始めるなか、シオスはなんとか声を出した。
「よければ、一緒に食事に行かないか。いつもご馳走になっているし、今日は僕がご馳走するよ」
 なんとか噛まずにそう言うと、カトレアは珍しく目をぱちくりさせた。だが、すぐにうっすらと柔らかい笑みが浮かぶ。
「デートに誘ってくれている、と思っていいかしら?」
 はっきりと言葉にされると、心が盛大に揺さぶられる。今何かしゃべったら間違いなく声に出ると思ったシオスは勢いよく頷いてみせた。
「喜んで」
 カトレアは考える素振りも見せずに即答してくれた。それだけで舞い上がりそうになりつつも、シオスは事前に決めていた予定を告げる。
「じゃ、じゃあ、一時間後にまたここで会うということで」
「わかったわ。じゃ、また一時間後」
 嬉しそうな笑みを浮かべ、カトレアは小さく手を振った。


「まあ、素敵ね」
 一時間後、待ち合わせに現れたカトレアはシオスを見て開口一番にそう言って笑った。
「君もだ。その……よく似合っているよ」
 細いグレーのシャツに明るいブラウンのショール、黒のロングスカートという姿のカトレアを見て、シオスは反射的にそんなことを口走った。
「ありがとう。それで、どこに行くの?」
「実は、店を予約してあるんだ」
「そうなの? じゃ、行きましょ。エスコート、よろしくね」
 するりとカトレアの腕が絡んでくる。それだけでシオスの鼓動がワンテンポ早くなったが、それを気づかれないようになんとか努力し、カトレアと腕を組んだまま店に向かった。
 シオスが予約した店は、この町でも一位二位を争う高級レストランだ。そんなレストランのいかにも金のかかっていそうな扉をくぐり、さっそく迎えてくれた店員に名前を告げると、奥の席へ案内してくれた。店内は席の一つ一つに誰がいるのか分からないよう、個室のような感じになっている。どこに置いてあるのか分からないが、ピアノの優しいメロディが流れていた。
 席に着くと、コース料理を頼み、すぐに運ばれてきた赤ワインのグラスを軽く打ち合わせた。
「乾杯」
 全く慣れない店の空気に押され、シオスは一気にグラスを傾けた。途端に胸が熱くなり、顔がかっとしてきた。
「弱いんだから、飲み過ぎないでね」
「これくらい平気だよ」
 過去数回のデートで、シオスが酒に強くないことはすっかり知られてしまっている。間違っても自慢できる内容ではないが、カトレアが自分のことを把握してくれていることに、シオスは喜びを感じてしまう。
「それにしても、随分と立派なところね。いいの? ご馳走してもらって」
「それくらいは稼がせてもらっているからね」
 一月分の儲けが今夜だけで消えるわけだが、シオスは少しも惜しいと思ってはいなかった。こうしてカトレアと食事をするだけのことに、それだけの価値がある。恋をしているのだとはっきりと分かる。
 愛しい人を独占している事実はシオスを十分に満足させたが、同時に皮肉な考えも浮かんできてしまう。カトレアは誰が見たって美しいと思うだろう。だが、自分は冴えない町商人の男だ。釣り合っているわけがない。取引相手だから、お情けでこうして構ってくれているのだと思えてしまう。
 食欲をそそる香りが立ち上る分厚いステーキにナイフを入れつつ、シオスはそっと正面に座るカトレアを見た。
 誰もが振り向く美貌は今日も輝いている。だからこそ思ってしまう。こんな美人が、自分に惚れるわけがないと。
「お肉、柔らかくて美味しいわね」
「ねえ、ちょっと聞いていいかな」
「なあに?」
 手を止めたカトレアの赤い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「君は僕のことをどう思ってる? 一時の遊び相手? それとも、単なる取引相手かな?」
 カトレアの顔が驚いたものに変わった。
「急にどうしたの?」
「ちょっと現実に返ったってところかな。僕はどう見たって君と釣り合う男じゃない。だから教えてほしいんだ」
「……仮にそうだったとして、私がそれを言うと思うの?」
 カトレアの表情がすっと、商人のものになった。
「思わないな。君は腹の中を見せない人だから。でも確かめておきたいんだ。もしそうなら、これ以上思い上がった言動はしない。出会った頃のように、良き取引相手として振る舞うよ。君に余計な気遣いをさせないように、配慮もする。だから教えてくれないか」
「違うと言ったら?」
 窺うような目がシオスを見つめてくる。
 それはつまり、シオスに好意があるということだろうか。その可能性はあまりにも低いが、もしそうなら、そんな奇跡のようなことがあるのなら―。
「結婚してほしい」
 カトレアの顔から表情が消えた。
「……もう一度言ってもらえる?」
「結婚してほしいと思ってる」
 もう一度言うと、カトレアは俯いた。そのまま手が動き出し、ステーキを切っていく。しかし、それを口に運ぼうとはしなかった。
「一つ聞きたいのだけど」
「なんだい」
 背筋を伸ばし、続くカトレアの言葉を待つ。
「こういうお店には、よく来るの?」
「なぜそんなことを、と聞いていいかな」
「夫に浪費癖があるなら、財布は私が管理しなくちゃいけないと思ったから」
 目を見開いていた。その言葉はつまり。
 カトレアを凝視すると、彼女は顔を上げて嬉しそうに笑っていた。
「それとも、管理させるつもりなのかしら?」
 微笑んで付け足したカトレアの言葉に、喜びのあまり、叫ばなかったのは奇跡だった。
13/07/23 00:04更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
どうも、エンプティです。
書き溜めしておいたものがなくなったので、これから更新は少し遅くなります(別作の連載も同様です)。
次回は再びカトレアメインの予定。お楽しみに。

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