連載小説
[TOP][目次]
リリムと三つの指輪
「はあ、はあ、はあ…」
グレイは走っていた。見知らぬ森の中を。
見たこともない木々と植物が生い茂る森は不気味以外の感想が出てこない。
そんな森を、夜に走っていた。
不幸中の幸いなのは、今夜は満月ということだろう。
そのおかげでこんな不気味な森でもなんとか先が見える。
ただ、グレイが走っている理由はなにもこの森をさっさと抜けたいからではない。
もちろんそれも理由の一つだが、最大の理由は『アレ』から少しでも遠ざかるため。
こんなわけのわからない場所を走っているのも、全て『アレ』のせいだ。
それでも、グレイの心を支配しているのは怒りではなく、恐怖。
それくらい、グレイは『アレ』が恐ろしかった。
どれだけ走っても夜では逃げ切れる気がしないが、それでも走るしかない。
そう思って走っていると、開けた場所に出た。そしてその先にあるのは一軒の家。
助かった、これで一息つける。
もしかしたら、助けになってくれるかもしれない。
そんな期待とともにグレイは家に走り寄り、扉を開けた。
「助けて下さい!!」
勢いよく扉を開け、そう叫んだ。
「どちらさま?」
少しの間を開けて奥から出てきたのは一人の女性だった。
「俺は―!」
全て説明できなかった。
なぜなら、その女性には尻尾があったから。
魔物だ。
なんてことだ。
期待を込めて入った家が『アレ』と同種の存在の家だったとは、とんでもない不幸だ。
背中に冷たい汗が流れる。
せっかくここまで逃げてきたのに、こんな終わり方はあんまりだ。
「とりあえず、あなた誰?なにか用かしら?」
目の前の魔物は不思議そうに首をかしげる。
そこで初めて、グレイは魔物の容姿に気がつく。
顔は信じられないほどの美人。
肌は真っ白で、銀に近い白の髪がよく似合っていた。
赤い瞳はルビーのようで、見る者を引きつける。
見にまとっている衣服こそ庶民のそれと大差ないが、全体的に体のラインがわかるような服を着ているせいか、非常に色っぽい。恐らくサキュバスというヤツだろう。男を誘惑し、喰らう魔物。
そのせいか、魔物だとわかっていてもグレイは見惚れてしまった。
「…人が尋ねているのに、返事を返さないのは失礼だと思うのだけど」
そう言われて我にかえった。
「あ、俺は…、その…走ってた」
たしなめるように言われ、ついグレイは返事を返してしまった。
しかも、ものすごく間抜けな答えを。
「……」
魔物もそう思ったのか、すごく微妙そうな顔をしている。
これはまずい。なにか弁解しなくては!
「あ、いや、その、俺は決して怪しい者ではなくて…」
慌てて、身振り手振りを交えながら説明しようとした時だった。
何も食べてなかった腹が情けない音を出した。
「「………」」
二人の間に沈黙が訪れる。
グレイはあまりにも恥ずかしくて、顔を逸らしてしまう。
「…顔の口と違って、お腹の口はちゃんと説明できるみたいね。とりあえず入りなさい。話は後で訊くから」
そんなことを言われ、余計に恥ずかしくなってしまう。
「ほら、こっちよ」
グレイが動かないからか、魔物は歩み寄ってくるとグレイの腕を掴んだ。
「な、は、離せ!」
「いいから来なさい」
なんとか腕を振り払おうとするグレイだったがそれは叶わず、家の奥へと引きずられていく。
細い腕して、なんて力だ。
さすがは魔物といったところか。
そしてずるずると引きずられていった先は、台所だった。
何か作っているらしく、いい匂いが漂っている。
これで作っているのが人だったなら、なんとか自分も食事にあやかりたいところだ。
だが、目の前にいるのは魔物。
魔物は人を喰らうのだ。
自分が台所に連れてこられたのも食事のためだろう。
さすがに丸かじりということはないだろうが、目の前の魔物が自分をどう食べるのか想像もつかない。
料理しているところを見ると、バラバラに切り裂かれて調理され、おいしくいただかれるのかもしれない。
そんなことを考え、息を飲んだ時だった。
魔物は近くの椅子を引くと、グレイの手を離した。
「じゃあ、ここに座ってね」
「…は?」
なにを言われたのかわからなかった。
「お腹減ってるんでしょ?待っててね、ちょうど今作ってたところだから」
そんなことを言うと、魔物は調理を再開してしまう。
なんだ、この状況は。
「そうそう、私はミリア。少しの間だけど、よろしくね。それで、あなたの名前は?」
魔物は気がついたようにそう言葉を続けた。
「…魔物なんかに名乗るつもりはない」
こちらを見たミリアに、グレイはそう告げる。
「初対面なのに、私は嫌われてるのね。悲しいわ」
そんなことを言うわりに、顔は全く悲しそうではない。それどころか、うっすらと笑ってるくらいだ。
さすが魔物。平気で嘘をつく。
「ああ、嫌いだね。魔物なんか大嫌いだ」
「その毛嫌いぶりをみると、反魔物派の人間かしら?」
その通りだ。
グレイが住んでいた故郷は反魔物派の人々が住む地域にあった。
だから、グレイも魔物は邪悪な存在だと教えられて育った。
それくらいは話してもいいかと思ったが、返事はしてやらなかった。
「沈黙は肯定とみなすわ。で、いつまで立っているつもり?もうすぐ料理ができるのだけど」
「魔物が作った料理なんか、誰が食べるか」
そう言ってミリアを睨む。
それに対してミリアはため息をつくと、体をこちらへ向けた。
「そう」
短くそう呟くと、その目がすうっと細くなる。
次の瞬間、体に異変を感じた。
「!?」
首から下の感覚がない。
かろうじて手首から先がなんとか動くくらいで、それ以外は全く動かせないのだ。
「変ね。首から下は完全に動かせないように麻痺させたはずなのだけど。まあ、ほとんど動けないからよしとしましょう」
「く、なにするつもりだよ!?」
「いじめてあげるわ」
ミリアはそう言い放った。
「いじめる?」
「ええ。名乗られているのに名乗らない。人の好意を受け取らない。あまりにも礼儀がなっていないから、少しいじめてあげる」
嗜虐欲に満ちた笑みを浮かべると、ミリアは手を突き出してきた。
その手の平に青い炎が出現する。
「おい、まさか…」
まさかあの炎で体を焼かれるというのか。
これでは拷問ではないか。
グレイがなにをされるか気づいたからか、ミリアは笑みを強める。
「ええ、その通りよ。これからあなたの体を焼いてあげる。ああ、心配しなくていいわ。死なない程度にあぶるだけだから」
恐ろしいことをさらっと言い、ミリアはにっこりと微笑む。
そしてゆっくりと近づいてきた。
「な!おい止めろ!それ以上近づくな!!」
グレイは力一杯叫ぶも、ミリアは笑顔で近づいてくる。
このままでは、焼かれてしまう。
本人はあぶるだけなどと言っているが、それが本当かどうかもわからない。
下手をすれば、焼き殺されるかもしれない。
そんな恐怖心が頭を支配し、無意識のうちに叫んでいた。
「わかった、食べる!食べるから!名前も言うし、今までの態度も謝る!だから、やめてくれ!!」
死への恐怖心から、魔物に屈してしまった。
それを情けなく思うグレイだったが、ミリアはなぜか急に優しい笑顔になる。
「そう。じゃあ、許してあげる」
そう言って、炎を持っていない左手でぱちりと音を鳴らした。
その直後、体の感覚が戻ってきて、グレイはその場に崩れ落ちる。
「はあ、助かった…」
「さてと。じゃあ、名前を聞かせて?」
顔を上げると、ミリアが穏やかな顔でこちらを見ていた。
さっきとは別人だなと思いつつ、名前を名乗る。
「グレイだ」
「グレイ君ね。じゃあ、手を出してくれる?」
そんなことを言われ、しぶしぶグレイが左手を出すと、ミリアは炎を持った右手を近づけてきた。
「おい、危ないだろ!さっさと消せよ!」
「大丈夫。手を入れてみて」
何を言っているんだ、こいつは。
手を入れたら燃えるだろう。
そう思ったグレイだが、ミリアはその隙に炎を近づけてグレイの手に接触させた。
「バカ!お前、なにして…って、あれ?」
いきなりのことに焦ったグレイだが、すぐにおかしいと気づいた。
この青い炎、全く熱くないのだ。
「熱くないでしょ。まあ、当然ね。これは幻なのだから」
「幻?」
「そう。あなたがあまりにも酷い態度をとるから、ちょっとからかおうと思って。だから、最初から焼く気なんてないのよ」
ミリアはそう言って炎を握りつぶすように手を閉じる。
再び開いた時、炎は消えていた。
つまり、最初から酷いことをするつもりはなかったということか。
それがわかり、グレイは安堵のため息をつく。
「まあ、そういうわけだから安心していいわ。ほら、席について」
ミリアに言われて、今度はちゃんと席につく。
それを見届けるとミリアは微笑み、調理を再開しようと歩き出す。
だが、不意にその足が止まった。
「ああ、言い忘れてたわ」
「なんだよ?」
こちらを見たミリアにグレイは怪訝そうな目を向ける。
「今度から女性の家に入る時はノックするようにね。じゃないと女の子からひんしゅくを買うわよ?」
笑顔でたしなめるように言われ、グレイの眉間に皺が寄る。
余計なお世話だ。
「ふふ。おもしろくないって顔してるわね。今はいいけど、食事の時はそんな顔しちゃダメよ?」
「誰のせいだよ。それより、なんで魔物が料理なんかしてるんだ?」
苦情は言わず、思ったことを口にする。
魔物が料理をするなんて聞いたことがなかったからだ。
それに対してミリアは、
「あら、魔物が料理しちゃダメなの?」
と、楽しそうに訊き返してきた。
そう言われてグレイは言葉に詰まる。
ダメかどうかと言われたら、料理自体は誰かに迷惑をかけるものでもないので別にダメじゃない。ダメじゃないが。
「…魔物は人を食うんだろ?お前だってそうじゃないのか?」
「そうね。食べてほしい?」
笑顔でそんなことを言われ、それが冗談だとわかっていてもグレイは再び言葉を詰まらせる。
「できれば勘弁してくれ」
「あら、残念。それと誤解しているから言っておくけど、私達は人を食べたりしないわ。まあ、別の意味ではおいしく食べてしまうけどね」
「どういう意味だよ?」
別の意味ってなんだ?
そっち方面に疎いグレイは意味がわからず、訊き返していた。
その問いにミリアはきょとんとする。
「あなた、ひょっとして初心?」
「…悪かったな、初心で」
不貞腐れるように言うと、ミリアは微笑んだ。
まるでおもちゃを見つけた子供のように。
「知らないなら、教えてあげる」
クスクスと笑いながらグレイの傍までやってくると、ミリアはそっと耳打ちした。
「エッチなことよ♪」
耳元でそう囁かれ、グレイの全身が総毛立つ。
同時に顔が熱くなるのがわかった。
「なっ、なにバカなこと言ってんだ!」
「あら、本当のことよ。それが私達の食事。だから、あなたが言うように人を殺して食べるなんてことをする魔物はいないわ」
信じられないことを聞いた気がする。
それが本当なら、教団や教会が言っていることは全くのデタラメではないか。
「…わかった。仮にそれが真実だとしよう。だが、それが本当ならなんでお前は料理なんかしてるんだ?」
ミリアの言葉が事実なら、こいつはなんでグレイを襲わずに料理なんかしてるのだ?
それが理解できなかった。
「今夜は料理の気分だったからよ」
ミリアはこともなげにそう答えた。
「は?」
思わず変な声を出してしまう。
「最近、料理を練習してるの。だから今夜は料理。それだけよ」
随分と気まぐれな理由だ。
「それだけって、なんで料理の練習なんかしてるんだよ?」
「結婚した時のためよ。愛する人には真心込めた料理を食べてほしいもの。あなただって、結婚するなら料理ができる人のほうがいいでしょ?」
あまりにも現実的な理由を言われ、グレイはつい納得してしまった。
ああ、確かに、と…。
「だから料理を練習してるの。そういうわけだから、あなたには味見をしてもらいたいのよ」
つまり、グレイに料理の出来を見てもらいたいらしい。
魔物のくせに変なヤツだ。
「まあ、食べると言った以上はきちんと食べる」
「それは頼もしい発言ね。待っててね、もうすぐだから」
本当に変な魔物だ。
料理している後ろ姿を見ながら、グレイはそう思う。
なんにせよ、命は助かりそうだ。
そう思って椅子の背もたれに力なくよりかかった時だった。
尻の辺りに違和感を感じた。
ああ、そういえばズボンのポケットにはアレが入っているんだった。
それは父が亡くなる直前に渡されたもの。
なんでも、特別な力を秘めているとのことだった。
ミリアの気取られないように気をつけながら、手でその感触を確かめる。
間違いない。きちんとポケットに入っている。
森を走っている時に落とさなくてよかった。
そんなことを思い、ホッと胸を撫で下ろした時だった。
ミリアがこちらを見ていた。
それも真剣な目で。
さっきまでとはまるで違う目に、グレイは心臓が高鳴るのを感じた。
なんでこっちを見ている?
まさかポケットのこれがバレたのだろうか。
しかし、すぐにそれは違うと気づいた。
ミリアの目はグレイではなく、その背後、もっと遠くを見ていた。
「ど、どうしたんだ?」
おずおずと尋ねると、ミリアはこちらを見ずに返事を返す。
「ねぇ、グレイ君。あなた、知り合いにヴァンパイアがいたりするかしら?」
その言葉にグレイの鼓動が急激に早くなる。
ヴァンパイアだと?
まさか。
そう思った時だった。
「おい、ガキ!!そこにいるのはわかっている!!大人しく出てこい!!」
家の外から怒鳴り声がした。
その声に、グレイは背筋が寒くなるのを感じた。
この声は間違いなく『アレ』の声。
信じられないことに、ここまで追ってきたのだ。
「…どうやら、あなたをご指名みたい。構図的には囚われの王子さまを助けに来たお姫さまといったところね。だとすると、リリムである私は倒されるべきかしら?」
なんだかわけのわからないことをミリアはぶつぶつ言っている。
「なにのん気なこと言ってんだ!裏口かなんかあるだろ!?そこから逃げるぞ!」
「無駄よ。私一人ならどうとでもなるけど、あなたは絶対に逃げ切れない」
「じゃあ、どうするんだよ!?」
「お帰りいただくわ。食事の邪魔されたくないもの」
まるで近所に散歩にでも行くかのようにミリアは玄関に向かう。
「おい!相手はヴァンパイアだぞ!?」
ヴァンパイアは高位の魔物だ。サキュバス如きでは勝ち目などない。
だが。
「だから?」
ミリアはそれがどうしたとでも言わんばかりに首をかしげる。
やっぱりこいつは変だ。
ヴァンパイア相手に一体どうするつもりなのだろう。
「ほら、とりあえず外に出ましょ。これ以上機嫌を損ねて家を壊されてはたまらないわ」
「あ、おい!!」
グレイの腕を引っ張り、ミリアは外へと出ていく。
ほとんど強引に外に連れ出されて見たものは、もう二度と見たくないと思った『アレ』の姿。
黒いマントで身を覆い、まるで虫でも見るかのような目でこちらを見ている。
「ほう、女連れで出てくるとは意外だったな。サキュバスか」
濃い赤の瞳が、ミリアを捉える。
「おい、小娘。そのガキをこちらへ渡せ。そいつは私の所有物だ」
そんなヴァンパイアの言葉に、ミリアはちらりとこちらを見た。
そして顔をすぐに戻す。
「今から彼と一緒に食事をする予定だから、慎んでお断りするわ」
ヴァンパイアの要求をミリアはあっさり拒否する。
「はっ、一緒に食事?貴様が一方的に食事をする、の間違いだろう」
ミリアの言葉にヴァンパイアは嘲るような笑みを浮かべる。
「どう思おうとあなたの勝手だけど、私はあなたとお話しする気はないの。お引き取り願えるかしら」
「ああ、帰ってやるさ。貴様がそのガキを大人しく渡せばな」
「渡す気はないわ。この子は私が拾ったのだから」
ミリアがそう言って軽く笑うと、ヴァンパイアの眉が寄る。
「目上の者に対する礼儀がなってないな。さっさとガキを渡せ。私が大人しくしているうちにな」
ひねりのない脅し文句に、ミリアは笑顔で返事を返す。
「お断りするわ」
「貴様…!」
「さっさと帰ってもらえるかしら。そうでないと、あしらいが乱暴になる」
その言葉に、ヴァンパイアは我慢の限界を超えたらしい。
鋭い目で睨んできた。
「…どうやら、痛い目に遭いたいようだな。私をあしらうだと?調子に乗るな、サキュバス風情が!!」
ものすごい剣幕に、グレイは腰が抜けそうになる。
あんな化け物を相手に、ミリアは一体どうするつもりなのだ。
「おい!あんなヤツ相手にどうするつもりだよ!?」
「あなたはここにいなさい。巻き込まれたらひとたまりもないわ」
グレイの問いには答えず、ミリアはそう言うとヴァンパイアと対峙するように前へ進む。
それと同時にミリアの首から下を黒い霧が覆っていく。
そのままミリアはヴァンパイアの正面まで移動すると足を止めた。
バサッという音がしてその背に黒い翼が現れ、同時に体を覆っていた霧が消えていく。
そして露わになった体は、目のやり場に困る衣装を身に纏っていた。
「生意気なサキュバスめ。この私に刃向かったことを後悔させてやる」
ヴァンパイアはそう言うと、どこからともなく巨大な鎌を取り出した。
それを見たミリアはクスリと笑う。
「出来るものならどうぞ」
右手が左腰の辺りで、ものを掴む動作をする。
そしてゆっくりと引き上げると、まるで見えない鞘から抜いたかのように細い片刃の剣が出現した。
黒い柄で、少しだけ装飾が施されている点以外は鍔さえない奇妙な剣だ。
「身の程を教えてやる」
言葉と同時に、ヴァンパイアの体から赤い魔力が立ち上る。
「そう。じゃあ、私は絶望を教えてあげる」
同じようにミリアの体からは藍色の魔力が溢れ出す。
そしてお互いに武器を構えた。





私は目の前にいる生意気なサキュバスを睨んだ。
サキュバス如きが、ヴァンパイアのこの私に挑むなど愚かなことだ。
剣を取り出したということは、私と戦う気なのだろう。
男を誘惑すること以外に取り柄などないくせに、全く生意気だ。
だが、いくつか気になる点もある。
このサキュバス、他の種と大分容姿が違う。
角はないし、翼の形状も異なっている。
稀に生まれる変異種というヤツだろうか。
話には聞いたことがあるが、実際に見るのは初めてだ。
もっとも、いくら毛並みが違おうともその力までは大して変わらないだろう。
理解できないのはその魔力だ。
目視できるほど体から溢れているというのに、感じられるのはほんの僅か。
これは一体どういうことなのだろう。
そこまで考え、私は思考を中断する。
いや、余計な詮索はいい。
ただ、戦うだけだ。
「行くぞ」
素早く距離を詰め、左から右へと水平に鎌を一閃する。
まずは小手調べだ。
とはいっても、サキュバスでは反応できるかできないか、ぎりぎりの速度だが。
これで死んでしまっても興醒めだが、サキュバスは跳躍してそれを避けた。
少しはできるらしい。
だが、これでこちらの攻撃が終わったわけではない。
空中にいるサキュバス目がけて、今度は右から払うように鎌を振る。
しかし、サキュバスは翼を羽ばたかせてこれも避け、私の後ろに着地した。
意外といい動きをする。
だが、そう動くことは想定内だ。
私はその場で半回転し、こちらを振り向いたサキュバス目がけて鎌を払う。
さっきよりも早く威力のある一撃だ。
これを避けることはできないはず。
だが、鎌がサキュバスの体を切り裂く手応えはなく、代わりに金属同士がぶつかる音がした。
防がれていた。
さっきよりも早く振ったはずの鎌を。
しかも、剣を持つ片手だけで。
「馬鹿な…」
目の前の光景が信じられず、私は思わず声を出していた。
その一瞬の隙を突いてサキュバスは鎌を弾き、距離を詰めてきた。
「くっ!」
この距離では鎌は振れない。
だから私は魔法で氷の槍を作り出し、目の前まで迫ってきているサキュバスに放った。
この距離では反応できないはず。
しかし、驚いたことにサキュバスはこの攻撃さえも体を反らして避けたではないか!
「なっ!」
今の一撃を避けるなど信じられない。
どうなっているんだ、こいつは!
驚く私をよそに、サキュバスは体を反らした勢いに任せて、その場で回れ右をするような動作で半回転し、遠心力たっぷりの一撃を放ってきた。
殺られる。
頭がそう判断した次の瞬間、脇腹をすごい衝撃が襲い、私の体は吹き飛んでいた。
「ぐ!」
地面を転がるように滑ったあと、なんとか私は体勢を立て直す。
右の脇腹が痛い。
思わず手を当てようとして気がついた。
さっきの一撃は、こちらの胴体を真っ二つにできるくらいの威力があったはず。
しかし、私の体はちゃんとくっついている。
脇腹は何本か骨が折れているようだが斬られてはいない。
これが指し示すことはつまり。
サキュバスの剣は片刃だ。
私は刃の方ではなく、その背で攻撃されたのだ。
なんのつもりか知らないが、随分と舐めた真似をしてくれる。
痛みよりも、そんなことをされた方に腹が立つ。
「よくもこの私にふざけた攻撃を…!!」
私は立ち上がると、鎌へと魔力を集中させる。
そして、サキュバス目がけて鎌を払う。
「死ね!」
刃に溜まった魔力が解放され、何本もの真空の刃となって地面を切り裂きながらサキュバスを襲う。
「真空波…?」
サキュバスが怪訝そうな顔をするが、もう遅い。
何本もの真空の刃がその体を切り裂き、血が吹き出る……はずだった。
だが、真空の刃が当たる直前にサキュバスは剣を一閃させる。
たったそれだけで真空の刃は全て相殺されてしまったのだ。
「なんだと…」
ほとんど茫然としてしまう。
こんなこと有り得ない。
「今のが奥の手?」
穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見るサキュバスには余裕さえ感じられる。
理解できない。
こんなことあるはずがない。
ただのサキュバスがヴァンパイアと互角の戦いをするなど。
「くそ!」
再び魔力を鎌に溜めると、今度はすぐに放たず、刃に溜めたままにしておく。これでいつでも真空波を使うことができる。
準備が整うと、私はサキュバスに詰め寄る。
遠距離では相殺されるなら、近距離で当てるだけだ。
鎌を振り、空気を切り裂く音とともに刃が閃く。
しかし、やはり剣によって防がれ、辺りには金属音が響きわたる。
「まだだ!」
私はそれだけでは終わらせず、鎌を何度も振って連撃を放つ。
上下左右、斜め、あらゆる角度から攻撃する。
人はもちろん、ほとんどの魔物でさえ避けるのは困難なはずの攻撃。
だが、サキュバスはその全てを剣一つで受け流していく。
何度目かわからない攻撃を弾かれ、頭に血が昇っていた私は思わず力一杯振り払ってしまった。
それは大振りで、当たればいいが外せば隙だらけの攻撃。
サキュバスはあっさりとそれを避け、恐ろしい早さで剣を振った。
目の前で何かが煌めいたと思った瞬間、右肩に痛みを感じた。
「くう!!」
今度はしっかりと斬られたらしく、肩の辺りから血が出てくるのがわかる。
このまま追撃されるとまずい。
そう判断した私はたまらず後ろに飛び退いて距離を取る。
「どうしたの?息、あがってるわよ?」
そんなことを言われ、初めて気づいた。
いつの間にか、私は荒い呼吸を繰り返していた。
それに対してサキュバスは全く息が乱れていない。
なんだ、この差は。
これではどちらが上位魔族かわからないではないか。
こんなことがあっていいはずがない。
「調子に乗るな!!」
氷の槍を空中に無数に配置する。
「はあ、はあ…。これだけの槍だ。いくら貴様でも避けられんぞ…!」
「そうね」
まるで気にしていないかのように、サキュバスはゆっくりと歩いてくる。
「くっ、来るな!!」
それを合図に、槍が雨の如く降り注ぐ。
しかし、槍はまるでそこだけを避けるようにサキュバスの回りへと降り注ぐ。
「な、なぜだ!?なぜ当たらない!?」
こうなったら別の魔法を使うしかない。
ヤツがあと五歩近づいてきたら、魔法を使おう。
こちらの意図など気にしていないようで、サキュバスは氷の槍が降るなかを平然と歩いてくる。
一歩、二歩、三歩、四歩…。
そして五歩を踏み出した時、私は左手を突き出し魔法を使う。
サキュバスの目の前の地面が瞬時に尖った何本もの槍となって、襲いかかった。
「これなら………ッ!!!」
目を疑った。
大地の槍はサキュバスを貫いてはいなかった。
その背にある黒い翼が体を包むように覆い、槍は全て翼に阻まれていた。
「そんな…!!」
バサリという音がして翼が開き、それと同時に大地の槍を一つ残らず砕く。
理解できない。
一体なんなんだ、こいつは!!
「どうやら、身の程を教えるのは私だったみたいね」
嫌味ったらしくそんなことを言った瞬間、不意にサキュバスの姿が消えて、すぐ目の前に現れた。
「なっ…」
これは転移魔法?
困惑する私に、サキュバスは穏やかに告げた。
「終わりにしましょう」
その瞬間、体中に痛みを感じた。






「終わりにしましょう」
ミリアがそう呟いた瞬間、何重にも光が閃き、あいつは崩れ落ちた。
片膝をつき、体中傷だらけになって荒い息を吐くヴァンパイア。
どう見てもミリアの勝利だった。
「一体、…なんなのだ、お前は…」
苦しそうに顔を歪めながらも、ヴァンパイアは顔を上げる。
「リリム、と言えばわかるかしら」
リリム?
そんな魔物がいるのだろうか?
グレイはそんな魔物は知らないが、ヴァンパイアは違ったらしい。
顔を驚愕のそれへと変えた。
「リリムだと?馬鹿な…。なぜ、リリムがこんなところに…」
「あら、どこにいようと私の勝手でしょ?」
ミリアは無表情でヴァンパイアを見下ろすと、言葉を続ける。
「さて、あなたの問いには答えたわ。今度はあなたが私の問いに答える番よ」
そう言って、剣を顔に突き付ける。
「なぜあの子に執着するの?あの子の正体はなに?」
ヴァンパイアは忌々しそうにミリアを睨むが、やがて話しだした。
「…あのガキは『トライリング』を持っている」
その言葉にグレイは体をびくつかせる。
やはりばれていた。
「トライリング…、世界に三セットしかないアレのことかしら?」
「そうだ。しかも、それだけではなくもう一つ理由がある」
「もう一つ?」
ヴァンパイアはこちらを見た。
その視線にグレイは一瞬で体が冷えるのを感じる。
「あのガキは…、忌み血を引いている」
忌み血?
なんのことだか、グレイにはさっぱりわからない。
だが、ミリアは違ったようだ。
「忌み血を…、なるほど。だから、あなたは…」
「そうだ。上位魔族として、危険の芽は摘まなくてはならん。トライリングを持っているならなおさらだ。だからこそ、あのガキは確実に堕とさなくてはならんのだ」
「…あなたの言い分はわかった。それでも、私から見れば愚かね」
「なんだと?」
愚かと言われ、ヴァンパイアはミリアを睨む。
「いつか脅威になるかもしれないから、今のうちに潰しておく。確かに正論だわ。けど、それはあくまで仮定の話。今はなんの脅威でもないのだから、放っておけばいいのよ」
「それはお前のような力に恵まれた者だけが言える言葉だ!手が付けられなくなってからでは遅いのだ!だから私は―」
全て言いきる前に、ミリアは言葉を被せる。
「少し黙ってくれる?」
「く…」
言葉の圧力にヴァンパイアは口を閉じる。
その様子を見たミリアは言葉を続けた。
「あなたの言ったように、彼はいつか脅威になるかもしれない。でも、それはいくつもある未来のうちの一つにすぎない。もしかしたら、平凡な人生を歩むかもしれない。そういう可能性だってあるのに、いつか脅威になるかもしれないというだけで彼の人生を変えるつもり?それこそ力ある者の傲慢な考えよ」
そう言って、ミリアは剣を一閃させる。
その結果、ミリアとヴァンパイアとの間に線が引かれる。
「なんだ、この線は?」
「境界線よ。だから超えないことを勧めるわ。もしこの線を越えてきたら、今度は容赦しない。心も体も屈服させてあげるわ」
その言葉にヴァンパイアは顔を歪める。
「私の話はこれで終わり。じゃあね、ヴァンパイアさん」
くるりと踵を返すと、ミリアはこちらに歩いてきた。
そしてグレイの前に来ると微笑む。
「待たせたわね。さ、食事にしましょ」
そう言ってグレイを家の中へと押しやる。
「おい!あいつをほっといていいのかよ!?」
「大丈夫よ。力の差は本人が一番痛感してるだろうから。勝てもしない相手に挑むほど、ヴァンパイアは馬鹿な種族じゃないわ」
ミリアがそう言うのなら、恐らく大丈夫なのだろう。
グレイはそう納得して家に入る。
家に入り際、ヴァンパイアへと視線をやる。
あいつはまだ膝をついて、辛そうに顔を歪めていた。
グレイにとっては圧倒的な力の持ち主で、恐怖でしかなかったあいつ。
恐怖とともに憎くも思っていたのに、ミリアに敗れ去ったところを見るとなんだか複雑な気分になる。
お前の力はそんなものだったのか、と。
そんな考えが頭をよぎり、グレイは顔を振る。
だめだ、これ以上見てると変な考えばかりが浮かんでくる。
ヴァンパイアから視線を外すと、グレイはさっさと家に入った。
続けてミリアが家に入り、扉が閉められる。
「なあ、ミリア。色々訊きたいんだが」
「まあ、そう焦らずに。話は食事の時にしてあげるから」
グレイの横を通って、ミリアは台所へ行ってしまう。
その様子はヴァンパイアが来る前となんら変わりなく、さっきまで戦っていた人物なのかと疑いたくなるほどだ。
遅れてグレイが台所に入ると、いつの間にかミリアは最初に会った時の服装に戻っており、翼も消えていた。
「さ、座って」
言われた通りにグレイが座ると、目の前にシチューがよそられた皿が置かれた。続けてパンがテーブルの中央に置かれ、グレイの向かいにミリアが座る。
「今後の参考にするから、正直な感想を言ってね」
そう言ってニコリ。
緊張が解けたからか、空腹だったグレイはシチューをすくって口に含む。
率直に言ってしまえば、普通の味。
食べられなくはない。
ただ、本人が練習中だと言っていただけあって、まだまだ改善の余地がある。
「味はどう?」
「そうだな。悪くないんだが、うまいと言うには少し足りない。それと、味が少し薄い気がするな」
素直な感想を言うと、ミリアはそれを反復する。
「味が薄い、ね。私が濃い味ってあまり好きじゃないから、薄めにしたのだけど、薄すぎたみたいね。今度からはもう少し調味料の量を増やすわ」
感想を聞いたミリアは自分でもシチューを食べ始める。
「さて、感想も聞いたことだし、質問をどうぞ」
「じゃあ、訊かせてもらう。忌み血を引いているってなんだ?」
ミリアが話を振ってくれたので、グレイは先程のヴァンパイアが言っていた言葉を尋ねる。
「忌み血を引いているというのは、文字通り特別な血を引いているということよ」
「特別?一体どんな血だよ?」
「勇者の血」
グレイの問いにミリアはそう答えた。
予想外の答えに、グレイは食べる手を止めてしまう。
「勇者の血?俺が勇者の血を引いているっていうのか?」
「彼女がそう言ってたから、間違いないんじゃない?」
「いや、待てよ。俺の両親は揃って平凡だったぞ?」
今はどちらもいないが、普通の人だったはずだ。
「なら、あなたの祖先がその血縁だということね。人にとっては英雄であり、私達にとっては忌むべき存在である勇者。だから忌み血って呼ばれるのよ。まあ、そう言う魔物はほとんどいないけどね」
ミリアは説明し終えると、シチューを口に運ぶ。
「俺が勇者の血を…?」
いまいち実感が湧かない。
「ところで、あのヴァンパイアとはどういう関係なの?」
ミリアが何気なくそんな質問をしてきて、グレイは一瞬どうするか悩む。
だが、ミリアはあいつを追い払ってくれたのだ。話すべきだろう。
「…あいつが俺の故郷に来たのは何日か前だ。どうやって知ったかはわからないが、トライリングがあると知って来たそうだ。で、村人は全員あいつの城に連れてかれた。ただ、お前の話を聞いた後じゃ、どちらかというと忌み血を滅ぼしに来たっぽいな」
「恐らくそうでしょうね。で、どうやってあなたは逃げ出したの?ヴァンパイア相手じゃ難しいと思うのだけど」
「…友達に魔法が使えるヤツがいたんだ。だから、あいつが寝ている昼に風の魔法で俺だけ飛ばして逃がしてくれた」
「あ、ごめんなさい…」
グレイが説明すると、ミリアはバツが悪そうに顔を逸らした。
聞いてはいけないことだと思ったのだろう。
その顔が複雑そうなものになっていた。
ミリアは変だが、それでもいいヤツだと思う。
だから言ってやった。
「俺が勝手に言ったことだから気にしなくていい。それに魔物は人を殺して喰うわけじゃないんだろ?」
それはつまり、みんな生きているということ。
それがわかっただけでも朗報だ。
「そうだけど…、私の言葉を信じていいの?」
「ああ」
グレイはポケットから指輪を取り出す。
それは見事なデザインで、小さなルビーが三つ付いていた。
「それは…、魔除けのトライリング?」
「やっぱりお前も知ってるのか」
「ええ。三つで一つ。世界に三セットしか存在せず、秘宝の一つだと聞いているわ」
その通りだ。
グレイも父にそう教えられた。
「そうらしいな。三つ揃えるとすごい力を得られる。俺が知ってるのはそれくらいだ」
「教えてあげましょうか?三つ揃えるとどうなるのか」
そんな言葉がして、顔を向けるとミリアが楽しそうにこちらを見ていた。
「知ってるのか?」
「ええ。それは昔、あるドワーフが作った物。三つで一つのそれを彼女は三セット作った。一つは夫のために。一つは生まれてくる子供のために。最後の一つは贈り物としてね。それで肝心の三つ揃えるとどうなるかだけど、自分に向けられた魔法を全て無効化できるのよ」
「魔法を無効化…?」
「そう。自分に向けられたあらゆる魔法を完全に無効化する。それがトライリングを三つ揃えた者に与えられる恩恵よ」
道理であのヴァンパイアが危険視するわけだ。
ミリアの説明でグレイはようやく納得する。
「それだけすごい指輪だから有名だし贋作も多いのだけど、あなたのそれは本物みたいね」
ミリアの視線が指輪に向けられる。
「わかるのか?」
「ええ。本来は三つ揃えて効果を発揮するものだけど、単品でもそれなりに効果はあるから。だから私の麻痺魔法もあなたには完全に効果を発揮しなかったのよ」
あの時もこれを持っていたから、僅かながら動くことができたのか。
グレイは手のひらにある指輪を隠すように握ると、ミリアを見た。
「…お前はこれを奪おうとは思わないのか?」
世界に三セットしかない指輪。
そのうちの一つが目の前にある。
効果を知っているなら、無理矢理手に入れようとしてもおかしくない代物。
そんな指輪を前にして、ミリアがどうするか興味があった。
だから敢えて奪わないのかと訊いてみたのだ。
その言葉に対してミリアはそっと手を伸ばしてきた。
その動作にグレイは体がぴくりと反応する。
やはりこいつも奪おうとするのか。
ミリアの挙動にそう思ったグレイだったが、当のミリアはテーブルの上のパンを取っただけだった。
「思わないわね。そもそも、トライリング自体に興味ないし」
本当に興味ないらしく、ミリアは取ったパンをシチューにつけて食べ始める。
腹の足しにもならない指輪より、目の前の食事。
ミリアの行動がそれを雄弁に語っていた。
そんなミリアにグレイは苦笑してしまう。
「お前は本当に変なヤツだな」
「そうかしら?自分では普通だと思うのだけど」
そう言って小首をかしげる様子が妙に可愛らしい。
こんな魔物もいるんだなと、自分の中の魔物に対する認識を改める。
「なあ、話が少し戻るが、俺と一緒に連れてこられた人達はどうなるんだ?」
「そうね。あのヴァンパイアの目的は忌み血を滅ぼすことだろうから、魔物にされるんじゃないかしら」
ミリアはなんでもないことのようにそう答えた。
「魔物に?―っ!!」
頭がそれを理解するのに時間がかかった。
「なんで魔物にされるんだよ!?」
ほとんど非難めいた声でミリアに問いただす。
「こちら側に引き込めば、勇者にはなれないからよ」
「だからって、勝手に魔物にするなんておかしいだろ!?」
「そうね。でも、魔界にいる以上、魔物化は避けられない事態よ。それが遅いか早いかの違い。そしてそれはあなたも例外じゃない」
大したことでもないかのようにミリアは語る。
「俺も…?」
「そうよ。勇者の血縁だろうとあなたは勇者じゃない。加護を受けているわけでもない以上、魔物化は避けられないわ」
いずれ自分も魔物になる?
それは死の宣告にも等しい言葉だった。
グレイは何も言えず、ただミリアを見つめる。
「信じられない?でも、それは真実。あなたには抗うことのできない事実よ。でも安心していいわ。あなたは元の世界に帰してあげるから」
「元の、世界に…?」
グレイはその部分を復唱する。
「ええ。食事が終わったら帰してあげる」
その言葉が真実ならグレイは魔物化せずに帰ることができる。
だが、それは一つの裏切りを意味する。
「俺に同じ故郷の人達を見捨てろって言うのか…?」
グレイの言葉にミリアはこちらを見ると、無表情で告げた。
「悪い言い方をすればそうなるわね」
「できるわけないだろ…!」
そんなことできるわけがない。
みんな良い人ばかりだ。
見捨てることなど。
「じゃあどうするの?みんなを助けるためにヴァンパイアの城を襲撃でもする?なんの力もないあなたが?」
矢継ぎ早に放たれる質問がグレイの胸に突き刺さる。
「現実を見なさい。あなたは無力よ。助けに行ったところで返り討ちにされるだけ。あなたは魔物になって、みんなは助けられない。簡単に想像できる結末ね」
助けに行けばそうなるだろう。
それがわかるからこそ、ミリアの言葉に反論できない。
「でも、俺は―」
「友達の行為を無駄にするの?」
ミリアの言葉にハッとなる。
『お前だけでも逃げろ』と言ってくれたあの場面が思い浮かび、グレイはミリアを見た。
そこにあったのは諭すような顔。
「彼らとは別の道を行く。そうは思えない?」
「別の…」
「まあ、それは選択肢の一つね。それでも同じ故郷の人達を助けたいのなら、助けに行くといいわ。魔物化したって死ぬわけじゃないしね。あなたの人生なのだから、好きにするといいわ」
これで話は終わりだとでも言わんばかりに、ミリアは食事を再開する。
好きにしろと言われたところで、簡単に決められるものではない。
助けにいくか、それともあきらめるか。
選択肢の二つが秤にかけられ、グレイの中で揺れ動く。
「…ミリア、一つ訊きたい」
「なに?」
「魔物になっても、幸せにはなれるのか?」
顔を上げてミリアの赤い瞳を見つめる。
その瞳はこちらを真っ直ぐに捉えたのちに、穏やかなものになった。
「ええ、なれるわ」
その一言で、秤が片方へと完全に傾いた。
「そうか」
グレイはそう言って、まだ残っていたシチューを平らげる。
「答えは決まったみたいね」
「ああ。元の世界に帰る」
迷うことなく言いきったからか、ミリアは笑顔で見つめてきた。
「…なぜ、そっちの選択をしたのか、訊いていい?」
「魔物になるって、不幸なことだと思ってた。だから助けたかった。でも、お前はそれでも幸せになれると言った。なら、みんなは幸せになってくれると信じる。…そう思えば、俺はみんなを裏切って逃げたなんて気持ちにはならないだろうから」
言ってはみたものの、それは自分に都合のいい言い訳をしてるにすぎない。
だが、友は自分を逃がし、ミリアはヴァンパイアを追い払ってくれた。
ここでグレイがみんなを助けに戻れば、二人の好意を台無しにしてしまう。
それは嫌だった。
だからグレイは元の世界へ帰る選択をしたのだ。
「そう。じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
グレイが力強く頷くと、ミリアは優しく微笑んだ。





「本当にここでいいの?」
街の入り口でミリアはそう尋ねてきた。
「ああ」
故郷に戻っても誰もいない上に、またあのヴァンパイアが来るかもしれないという考えから別の場所へと送ってもらうことにしたのだ。
だが、ミリアがわざわざ訊いてきているのはそれが理由ではない。
「ここは親魔物派の街よ?当然、魔物がいる。あなたは反魔物派でしょう?なのに、なぜこの街を選んだの?」
「わからなくなったんだ。魔物がどういう存在なのか。だから人と魔物が一緒に暮らすこの街でなら、その答えが見つかる気がしてな」
教団の言うように魔物は邪悪な存在なのか、ミリアのように人と大して変わらない存在なのか、確かめたくなったのだ。
誰かに教えられるのではなく、自分自身で見極めたい。それがわかれば、あのヴァンパイアとも分かり合えるかもしれない。
だからこの街へ連れてきてもらったのだ。
「そう。あなたがいいと言うのなら、私はかまわないけどね」
ミリアはこちらを見ると微笑む。
「じゃあ、グレイ君。手を出して?」
「手?」
言われた通りに手を出すと、ミリアはグレイの手にポンと何かを置いた。
置かれた物を見て、グレイは目を見開く。
「おい、これ!?」
それは二つの指輪だった。
「幸運のトライリングと健全のトライリング。一応言っておくけど、本物よ?」
「なんで持ってるんだよ!?」
「昔、勇者を返り討ちにした時にね、戦利品として貰ったのよ」
勇者を返り討ち。
ああ、確かにミリアならできるだろう。
グレイは変なところで納得してしまう。
「で、その貰ったものをなんで俺に渡すんだ?」
「あげるわ」
「は?」
聞き間違いか?
今あげると言ったような気がした。
「だから、あなたにあげるわ。私には必要ないものだから。ふふ、それにしてもあなたと私が持っているトライリングでちょうど全て揃うなんて、すごい偶然ね」
「問題はそこじゃない!あげるって、トライリングだぞ!?価値わかってて言ってんのか!?」
捨て値で売ったとしても当分は遊んで暮らせるほどの価値があるそれを、二つもくれるなど信じられない。
やっぱりミリアは変だ。
「私から見れば、トライリングなんかより結婚指輪の方がよほど価値があるわ」
そんなことを言うミリアに、グレイは二つのトライリングをつき返す。
「いくらなんでもこれは受け取れない。そもそも、なんで俺に渡すんだ?」
「お礼よ」
グレイに問いに、ミリアは笑顔でそう答えた。
「お礼?」
何か礼をされるようなことをしただろうか。
思い返してもそんな記憶はない。
「私の料理、ちゃんと食べてくれたでしょ?だからそのお礼」
お礼の理由を聞いて、グレイは茫然とする。
「そういうわけだから、あげるわ。売るも取っておくも好きにしなさい」
そう言って、ミリアは翼を羽ばたかせて飛び立とうとする。
「ま、待て!」
行ってほしくない。
なぜかそう思ったグレイはミリアを呼びとめていた。
「なに?」
ミリアが穏やかな顔でこちらを見る。
「そ、その、また会えるか?」
こちらの言葉にミリアはきょとんとしたが、すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。
「なに、その寂しそうな顔は?魔物は嫌いではなかったの?」
意地悪な問いだ。
それでもグレイはすぐに答えた。
「今はもう嫌いじゃない。それに、ミリアを嫌いだとは一言も言ってない」
嫌いどころか、むしろ。
「そう。じゃあいつかまた会えるかもね」
「…本当か?」
ミリアは苦笑する。
「もう、そんな可愛い顔してもダメよ。私達はここでお別れ。また会う日までね」
そう言って、ミリアは目の前まで来るとグレイの頬にそっと口づけをした。
「えっ…」
「じゃあね、勇者の末裔さん。あなたに良き日々が多くありますように」
悪戯っぽい笑みとともにそう言い残し、ミリアは飛び去った。
その姿を茫然と見送りながら、グレイはキスをされた頬に手を当てる。
完全にやられたと思う。
嫌いどころか、むしろ好き。
今のキスでそれに気づいてしまった。
一目惚れ…とは少し違う。
なにしろ、会った時はなんとも思わなかったのだから。
それでも一緒に過ごした数時間で心奪われてしまった。
夜の空に消えていった彼女を探そうとグレイは空を見上げる。
すると、風に揺られて一つの羽が舞い降りてきた。
ひらひらと舞うソレを、グレイはそっと手で掴む。
きっと彼女が落としていったのだろう。
鴉のものによく似ているが、絹のような手触りで艶やかな光沢を放つ羽はさすが魔物の羽といったところ。
グレイはそれを優しく包むと、片手に残された二つの指輪を見る。
「好きにしろ、か」
これはいつか彼女に返そう。
いつか再開した時に、この想いともに。
トライリングより結婚指輪の方がいいと言っていた彼女だが、結婚指輪としてトライリングを渡すなら、きっと受け取ってくれるはず。
本来、これは愛する人のために作られたのだから。
「いつか、また…」
グレイの呟きは静かな夜に消えていったのだった。
11/07/03 00:21更新 / エンプティ
戻る 次へ

■作者メッセージ
最後まで読んでいただきありがとうございます。
「リリムと三つの指輪」、楽しんでいただけたでしょうか?
今回はバトル、二人の視点と、色々と挑戦してみました。
ちなみに前編と後編に別れていないのは、うまく区切れる部分がなかったから。そんなわけで一話完結でお届けします。
そしてお詫び。
ヴァンパイアスキーの皆様、ごめんなさい。敵としてぴったりだったんです…。

ではまた次回でお会いしましょう。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33