第二章
「いつもありがとうございます」
野菜や果物をまとめて入れた袋を渡しつつ、シオスは軽く頭を下げた。
相手は近所の奥さん、マームだ。昔といっては失礼だが、シオスが親からこの店を引き継ぐ以前から買いにきてくれている常連であり、顔馴染みともいえる相手の一人である。
中年太りしているせいか、体つきがいいマームは袋を受け取りつつ、快活に笑った。
「いやねぇ。あなたのお父様からの付き合いなんだから、ここに買いに来るのは当然でしょ」
「ええ、それには感謝しています。中央に行けば、それこそもっと大きな店もあるというのに」
「あら、向こうで買っても対して値段は変わらないんだもの。だったら、近所のこの店の方がいいわ。それよりシオスさん。あなたもいつまで一人では大変でしょう? 早くいい人を見つけなさいよ」
中年ならではのお節介に、シオスは苦笑を浮かべた。
「生憎と、自分の世話だけで精一杯ですよ。とても妻なんか養えるほど稼いでいません」
中央ならそれくらいの稼ぎも可能だろうが、こんな町の端に近い場所ではそうもいかない。
「そう? 欲しくなったらあたしに言ってね。良い人なんていくらでも見つけてきてあげるから」
「ありがとうございます」
からからと笑って去っていくマームに、シオスは再び頭を下げた。
今年で二十九になるシオスは妻をもらってもおかしくはない歳だ。そうしないのは、自分で言ったようにとても養えるほどの稼ぎがないからに他ならない。
だったら中央に店を出せばいいじゃないかと思われそうだが、そこはそれ。
この店はシオスの父親が一世代で作り上げたもので、その苦労を子供の頃から聞かされていた身としては、安易に場所を変えるなどできなかった。
その父は病でこの世を去り、母親は店を開店した頃に離婚していた。それが理由というわけではないだろうが、父親の遺言は「立派な商人になれ」だった。
シオスはその遺言を忠実に守ったわけだが、店を引き継ぎ、商人としての人生を送ってみて、商才とは遺伝しないものだと痛感したものだ。
「どうでもいいとこだけは似てるんだがな……」
ひょろりと背が高く、それなのにそこに乗っている顔は童顔。温和そうなとこまで父親譲りで、実際に父はそれらを最大限に利用する一筋縄ではいかない商人だった。
そんな父の特徴を色濃く継いだというのに、肝心の商才は母の腹に置き忘れてきたというのがシオスだ。昔からの付き合いがあるご近所さんからは贔屓にしてもらっているおかげでなんとかやっていけているが、儲けているとは口が裂けたって言えそうもない。
一日の売り上げは悪くないし、月の合計だって赤字にはならない。しかし、自分以外の誰かを養えるほど儲けてはおらず、質素倹約でなんとかやっていけているのが現状だ。そんな男の下に妻としてやってくる女性などいるわけがない。
結婚なんてものは自分とは縁のないことだと切り捨てて、残りが少なくなってきている野菜の補充をしようと備蓄庫に足を向ける。そんなタイミングで声がかかった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
お客だと瞬時に理解した頭が応対の声を出し、次いで声の方を向く。そこでシオスは固まった。
そこにいたのは見慣れない女性だ。それも、ものすごい美人である。おかげで、反射的に背筋が伸びていた。おばさんといってもいいマームのような奥さま方なら問題なく相手にすることができるシオスだが、相手が若い美女となると話は変わってくる。なんというか、あがってしまうのだ。それでも無言でいるのは相手に悪いと思い、ぎこちなく声をかける。
「見ない顔ですね」
「数日前にこの町に来たの。ほら、この辺りは貸し家があるでしょ?」
「ああ、ディーノ君の」
貸し家と聞いて、シオスはすぐに納得する。
「ええ、そうよ。私はエステル。ご近所だから、これからはよく利用させてもらうわね」
そう言いつつ、彼女は人参とジャガイモ、苺を選んで持ってきた。
「このお店、あなた一人でやっているの?」
「ええ、そうです」
「大変ではないの? お手伝いもなし?」
「手伝いを雇えるほど、儲けていないんですよ」
自嘲的に笑うと、返事をした拍子にエステルの青い目と合った。海のような青に、一瞬心が引き込まれそうになる。思考が止まりそうになり、意味もなくエステルに視線を向けていると、彼女は可笑しそうに笑った。
「でも、恋人くらいはいるでしょう? あなたは人が良さそうだし」
「貧乏人と付き合ってくれるような女性はいませんよ」
これはほとんど本心だ。いくら相手がいい男であっても、お金を持っていなければ女は相手にしない。遊ぶにしても着飾るにしても結局のところお金は必要になってくるからだ。
もちろん、世の中の全ての女性がこの限りではないが、大多数を占めているのも事実だ。お金で愛は買えないが、金がなければ愛も得られない。難しいものである。
それを分かっているのかいなのか、エステルはクスクスと笑った。
「あら、なにもお金だけが全てではないでしょう。だからいずれ、あなたにも良い人が現れると思うわ」
「だといいんですけどね。まあ、現れたとしても養っていけないのでは意味がないでしょう」
「じゃあ、もしあなたが養う必要のない人が現れたら?」
「え?」
それは遠回しにエステル自身のことを言っているのだろうか。
確かにエステルならこちらが養う必要などないような雰囲気があるが、これほどの美人がシオスを相手にするはずもないだろう。実際、そう言ったエステルにはからかうような笑みが浮かんでいる。
「じゃあね。また来るわ」
支払いが済んだ野菜と果物を手にしていたバッグに納めると、エステルはシオスの返事を待たずに軽く手を振って店を出ていった。
それを呆然と見送りつつ、シオスはふと思った。
不思議な雰囲気の女性だ。意味深な言葉を残していったこともそれを強調している。
「養う必要のない人……」
彼女の言葉を繰り返してみるが、それがどんな人か想像もできない上に、そんな人物が自分と関わるとはとても思えない。
「からかわれただけかな……」
口にしてみると、その可能性が一番高い気がする。
自分なりに出した結論に苦笑しつつ、作業を再開する。
この日は他に変わったこともなく一日が終わった。
五日後。
客の訪れる時間のピークが過ぎて商品を補充し、シオスが少し時間を持て余していたところで、店の前に一台の荷馬車が止まった。
栗毛色の馬もそうだが、それに引かれた荷馬車も見事なもので、一目で高級なものだと分かった。少なくとも、自分の店に商品を降ろしに来てくれる行商人が乗っているものとは大違いだ。
ただ、そんな荷馬車でさえ、手綱を操っていた人物を見た途端に視界に入らなくなった。
御者台に乗っていたのは若い女性だった。歳の頃は二十代の前半から半ばといったところだろうか。
彼女は機敏な動作で御者台から下りてくると、シオスの前に立って軽く首を傾げた。その拍子に、淡い紫色の長い髪が揺れる。
「こんにちは」
「ああ、はい。どうも……」
先日会ったエステルに勝るとも劣らない美女を前にして、シオスの口からはつまらない挨拶しか出ない。
「はじめまして。私はカトレア。見ての通り、行商人よ」
本人が言うように、確かに見かけは行商人である。だが、彼女の容姿には疑問が残る。
綺麗な淡い紫の髪はふわりと柔らかそうだし、赤い瞳は磨き上げられた宝石のようだ。白い肌は滑らかで、若者特有の瑞々しさがある。それでいて、毅然とした佇まいからは品の良さが感じられた。正直、貴族の娘と名乗られた方がしっくりくるくらいだ。
そんなカトレアを前にして、シオスは緊張よりも先に気持ちが冷え込んでいく。エステルのように客として相手するならまだしも、同じ商人となると話は変わってくる。美人の色香に騙されて酷い目に遭った商人の話はそれこそ数えきれないほどあるのだ。油断していてとんでもない契約を交わしてしまっては、泣くに泣けない。
「シオスです。僕の店にどんな御用でしょうか」
「ちょっと売り込みをね」
売り込みと聞いて、シオスは咄嗟に返事をしていた。
「申し訳ありませんが、うちは仕入れる先が決まっていますし、変更する気もありません」
行商人が売り込みに来るのは何も今回が初めてではない。だからこそ、シオスもその対応の仕方は嫌というほど身についている。こういった連中は優しく断るとしつこく交渉してくるので、最初にぴしゃりと言ってやるのだ。
こういう時に限り、父親譲りの童顔は役に立つ。温和そうに見えるだけに、冷たく言われると取りつく島もないように感じられるとは同業者の談だ。
しかし、今回の相手は一味違うようだった。
「それはもちろんそうでしょう。ただ、結論を出すのは話を聞いてからでも遅くないと思うわ。あなたにとって、これは悪くない話なのだから」
これも聞き慣れた言葉だ。悪くない話といって、結局のところはこちらにうま味などない場合がほとんどなのだから。
「そこまで言うのなら、売り込みたい商品を見せて下さい」
シオスの店は野菜と果物を扱うので、売り込みに来るのもその類の商品となる。珍しいだけで美味しくないもの、美味しいが値段が高くて売れる気がしないものと、悪い例を上げれば切りがない。
だから、カトレアが見せてくるものが自分の知っている商品であったなら、シオスは躊躇うことなく断るつもりでいた。だが、カトレアはその言葉を待っていたとばかりに笑みを浮かべ、そして言った。
「どうぞ。遠慮なく見てちょうだい」
自信があるらしく、カトレアは荷台に綺麗に積まれた箱の一つをシオスの前に置くと、そこから覆いを取り払った。
箱の中身はハートの形をした桃色の果実だ。今が旬なのか、果肉を覆っている皮は艶があって瑞々しく、実に食欲をそそる。シオスも商人になって様々な野菜や果物を見てきたが、これは初めてだ。
「桃のように見えますが、少し違うみたいですね」
「トリコフルーツと呼ばれるものよ。この辺りでは採れないものだから、珍しいでしょう」
「確かに見かけない種類ですね。しかし、珍しいだけでは―」
買うつもりはない、と言うのをカトレアは手で制した。
「はいストップ。言いたいことは分かるけど、これは見かけ倒しの商品ではないの。ほら、食べてみて」
カトレアは箱に詰め込まれた果実の一つを取ると、シオスに手渡した。
実際に触れてみた感想は、思った以上に皮が薄いようだ。その分果肉はたっぷりあるらしく、見かけの通り瑞々しい手触りで、果汁もたっぷりと含んでいるに違いない。
しかし、そこまで思いつつもシオスはトリコフルーツを食べようとはしなかった。それだけでなく、渡された果実には目もくれずにカトレアを見つめる。
「疑い深いのね。でも大丈夫よ。私は大事な商品を食べたと言って、無理に売りつけるようなせこい商人ではないもの」
思っていたことを見事に言い当てられ、さすがにシオスも驚いた。この手の売りつけはよくあるのだ。勧められるがままに食べたのに、いざそうしたら食べた以上は買えと言ってくる強引な商人はそれこそいくらでもいる。
シオスはそれを警戒していたのだが、カトレアにはお見通しだったらしく、笑ってそれを否定した。
「僕としては、そう思いたいところですね。では、少し味見をさせてもらいます」
騙し騙されるのが日常の商人だ。女の商人というだけで油断ならないというのに、美人となるとどれだけ警戒してもし足りないということはない。
そう思いつつ果実を控えめに食べたシオスだが、その味が口に広がった瞬間、余計なことは頭から追い払われた。
見かけ通り、トリコフルーツは甘かった。しかし口内に広がったとろけるような甘さはくどくなく、いくらでも食べられそうだ。
ついもう一口食べようとして、ハッと手を止める。今が商談の真っ最中であることを思い出したのだ。
「いかがかしら」
勝利を確信したような笑みとともに尋ねてくるカトレアに、シオスは苦笑を返した。
「悔しいですが、見事な味です」
つい夢中になって二口目を食べようとしたのだから、反論のしようもない。
「それはよかった。じゃあ、買ってもらえるとみていいかしら」
「値段次第です」
そう言ってみたものの、シオスはよほどの高額でなければ買ってもいいと思っていた。今まで他の商人が売り込みにきた品はどれもぴんとこなかったが、これは違う。大して商才のない自分でも売れるとはっきり確信できる品だ。これをみすみす逃す手はない。
問題は、そこにつけ込まれて高値で買い取ることにならないかだった。いくら売れるといっても、そこに自分の利益が発生しなければ何も意味はない。仕入れ値が高ければ、売値は更に高くしないとこちらの利益にならない。しかし、利益を追求して売値を高くした結果、まったく売れないのでは本末転倒だ。
「そうね。この町の相場を考えると……」
カトレアは少し考えるようにした後、「銀貨で」と言いつつ指を二本立てて見せる。それを見て、シオスは感情が顔に出てしまったことを自覚した。
「安すぎますよ」
「あら、もっと吊り上げてほしいのかしら?」
そう言われては困ってしまう。しかし、本当に安すぎるのだ。果物なら大概は一箱で銀貨三枚から三枚半である。そんな相場において、この値段は破格だ。
「そういうわけではないんですけどね。あまりにも安いので、少し疑ってしまいます。まさか、実一つで銀貨二枚とは言わないでしょう?」
もしそうだったらシオスには完全にお手上げだ。この商談はなかったことにしてもらうしかない。
「もちろん一箱の値段よ。まあ、疑いたくなる気持ちも分かるけど、今回は初回サービスね」
悪戯っぽく笑うカトレアだが、シオスはつられて笑うようなことはしなかった。
「有難い申し出ですが、ついでに別の商品を買うような余裕はありませんよ」
後から言われても困るので、先に言っていく。これもよくある話で、どうです、これだけでなく他の商品も。こう言いつつ、別の商品もさり気なく買わせていくのだ。カトレアの荷台には他にも箱があるので、ついでとばかりに他の商品まで買わされてはたまらない。
しかし彼女は笑って首を振った。
「構わないわ。これだけに限って買いつけてくれてもね。あなたにも、本来の仕入れ先との都合があるだろうから」
意外に理解のある発言だ。売り込みに来る商人というのは、大概が得意先の地位を奪い取ろうとするのに、これは珍しい。もっとも、今はそういう態度を見せて、後々奪うつもりなのかもしれないが。
そんな可能性も十分にあるのだが、カトレアの表情からは何も読みとれなかった。
「買うのは一箱からでも?」
最低四箱からでないと受け付けないとでも言われれば、シオスはこの話をなかったことにするつもりだった。買い付ける余裕がないわけではないが、無理に買うと本来の仕入れに支障が生じる。
「もちろん。まとめ買いも受け付けるけど、そうでないと売らないとは言わないから、安心してくれていいわ」
購入単位について特に指定はないらしい。
最低限のことを聞き終えて、シオスはこの取引に問題点がないことを頭の中で確認する。そして最後に了承する頷きを見せた。
「では、二箱買うということで。支払いは現金でいいですか」
「ええ。商品はこちらよ。確認して」
カトレアは二つ目の箱を降ろすと覆いを取り、中身を見せてくる。そこにはきちんと熟したトリコフルーツが丁寧に納まっている。ざっと見ただけだが、痛んでいる品はなさそうだ。
「ああ、そうそう。ついでというわけではないんだけど、ちょっといいかしら?」
銀貨四枚を渡し、受け取った箱二つを備蓄庫に運ぼうとしてシオスは動きを止める。
「なにか?」
商談が成立し、支払いを済ませたところに本題を持ち込む作戦だったのだろうか。
懸念が顔に出ていたらしく、シオスを見てカトレアは苦笑を浮かべた。
「ああ、商売関係ではないから安心して。実はこの町に知り合いがいるのよ。だから、ちょっと挨拶に行きたいのだけど、少しの間馬と荷馬車を預かってもらうわけにはいかないかしら」
「ああ、そういうことでしたら裏に行って下さい。荷揚げ場がありますから」
「ありがとう。じゃあ、少しの間お願いするわ」
ひらりと御者台に上がると、カトレアは手綱を取って馬を歩かせ、荷馬車は角を曲がって消えていく。それを見送りつつ、シオスは首を捻っていた。
「不思議な人だな……」
商人である以上、腹の中を見せないのは当たり前だ。だから、そんな感想を抱くのもおかしくはない。だが、それを差し置いても対面したカトレアからは商人とはまた違った雰囲気が感じられた気がした。上手くは言えないが、先が見えそうで見えない白いカーテンを前にしたような感覚だ。真意が見えないとでも言えばいいのかもしれない。
「雰囲気に呑まれているだけかな……」
真意が見えないといえば、先日店に来たエステルからもそんな雰囲気を感じた。だが、シオスがそれを思い出すことはなかった。
大小様々な家が並ぶ通りは行き交う人々で賑わっていた。市民もいれば旅人もいて、そこを行く人は実に様々だ。
カトレアもそんな通りを歩いていた。彼女の容姿はすれ違う人のほとんどを振り返らせていたが、人の多い通りのせいか、その並外れた美貌に気づく人は少なかった。
カトレアはまるで体に油でも塗っているかのように人と人との間をするすると通り抜けて行くと、やがてある家の前で止まり、そっと扉をノックする。
「どちらさま?」
やや間を空けて扉が開き、顔を覗かせた彼女に、カトレアは微笑んだ。
「訪問販売よ」
売る物など一切持ち合わせていない手ぶらのカトレアだったが、それを見たエステルはうっすらと笑みを浮かべ、扉を完全に開け放った。
「どうぞ」
家へ入ると、カトレアは振り向き、エステルの目を見つめた。
「あなたがエステルでいいかしら?」
「ええそうよ。それにしても、よくここが分かったわね。私から会いに行くつもりだったのだけど」
「鼻と勘には自信があるの」
少し挑むような目つきになるカトレアに、エステルはくつくつと笑った。
「その説明で納得できてしまうから怖いわ。さすがは妖狐といったところかしら」
エステルが言ったと同時にカトレアの人化の術が解けていき、その頭には凛々しい狐の耳が、その腰からは四本の尻尾が音もなく現れた。いずれもカトレアの髪と同様、淡い紫の毛色だ。
「まさに妖孤と呼ぶに相応しい姿ね。どうぞ座って。飲み物は何がいいかしら」
「そうね。じゃあ、紅茶を」
注文を受け、エエステルはキッチンでてきぱきと用意を始める。その背に向かって、カトレアは言った。
「この香りはダージリンね」
エステルの手が止まり、顔だけが振り向いた。その顔は少し驚いたような表情だ。
「まだお湯を入れてないのに気づくとはね。自信があると言うのもあながち嘘ではないということかしら」
その表情に笑みが戻ると、エステルはティーポットにお湯を入れ、そこからカップに移していく。その過程でいい香りが漂い始める。香りはカトレアが言い当てたダージリンだ。
「疑ってるの? 私、嘘は言わないのに」
目の前に置かれたカップからさっそく紅茶を啜りつつ、カトレアはにこやかに笑う。それにつられるように、エステルも紅茶に口をつけた。
「ちょっと確認してみただけよ。あなただって、それに気づいていたから紅茶を選んだのでしょう。コーヒーではほとんど香りは変わらないものね」
カトレアの顔に悪戯っぽい表情が浮かんだ。
「ただの町娘にしておくのは惜しいわね。あなたも商人になったらどう?」
「目的を達成できるのなら、それでもいいのだけどね」
香りを楽しむようにゆっくりと紅茶を飲むエステルに、カトレアは肩をすくめた。
「あまり気が向かなさそうね。残念だわ。まあ、そっちは私が担当すればいいとして、そろそろビジネスのお話をしてもいいかしら?」
「ええ、もちろん」
本題に入ったからか、エステルはカップを置き、カトレアを見つめた。
「とりあえず、私の今の役目は流通ということでいいかしら?」
「ええ。詳しく言うと、必要な物資の用意を含めて、商売関係は全てお任せするつもりよ」
エステルの言葉に、カトレアはくつくつと笑う。それに合わせて四本の尻尾がわさわさと揺れた。
「人だけの町に魔界産の食べ物を流通させる、か。大胆なことを考えるものね」
「それほど大胆でもないでしょう。それとも、難しいかしら?」
「まさか。実をいうと、既に売ってきた後よ。あなたが目を付けたお店にね」
「さすがね。行動が早くて助かるわ」
「商人にとって、時間は貴重だもの。無駄にするつもりはないの」
カトレアは頬杖をついてエステルを見つめ、言葉を続けた。
「それで、どの程度まで流通させるつもり? とりあえず今日は虜の果実だけにしておいたけど、あなたが望むなら他の物も用意できるわ」
「そうね。あの店ならどれを置いても問題はないだろうけど、とりあえずは果物かしら。ただ、陶酔の果実は」
「全部言わなくても分かるわ。上の方の実だけ、でしょう? さすがに反魔物領の町で下の実を流通させたら、どこで魔物化の騒ぎが発生するか分からないものね」
「理解があって助かるわ。そういうわけだから、陶酔の実はまだ上の方だけにして。下側は時期を見て販売してもらうから」
「わかったわ。で、野菜ときのこ類はどうする?」
「その辺りはなしでお願いするわ。私達にとっては見慣れた物だけど、さすがに形が怪しまれないとも限らないから」
予想できた言葉だったので、カトレアはすんなりと頷く。
「じゃあ、当分は果物類だけね。で、それとは別に聞いておきたいのだけど」
「なに?」
「あなたはどうするの? 私が果物を流通させている間、何もしないというわけではないのでしょう?」
納得がいったらしく、エステルの口元が笑みの形になった。
「ああ、私のこと。そうね、考えているのは二つ。一つは情報屋。もう一つは酒場ね」
「その真意は情報を集めるため、かしら」
カトレアが指摘すると、エステルは敏感なところをくすぐられたように笑った。
「ええ。何をするにしても、分からないことだらけでは対処のしようがないもの。私の考えはこんなところだけど、商人さんの意見は?」
「その二つ以外に考えていないのなら、後者をお勧めするわ」
「それはなぜ、と聞いてもいいかしら」
「情報屋は才能と人脈が必要になるからよ。加えて、提供される情報の真偽を確かめないといけない。まあ、あなたならそれもできそうではあるけど。酒場で話される会話も胡散臭いものだけど、酔った人は意外と本音を漏らすものだから。あなたならそれを引き出すくらい簡単でしょう?」
エステルの笑みが妖艶なものに変わった。
「さすが商人さんね。意見を求めてよかったわ」
「参考になったのならよかったわ。じゃあ、私はそろそろ行くわね」
「あら、もう行くの? もう少しで苺のケーキが出来あがるのに」
意外そうに目を見開くエステルに、カトレアはふと微笑を見せた。
「商人は時間を惜しむ生き物なのよ。ケーキはまたの機会にさせてもらうわ」
人化の術で再び人の姿になったカトレアは名残りを惜しむ素振りもなく玄関に向かう。しかし、ふと何かに気づいたように振り向いた。
「そうそう。聞き忘れていたけど、彼にはもうつばを付けてあったりするかしら?」
カトレアの言わんとすることはすぐに分かったらしい。エステルの口元に楽しそうな笑みが浮かんだ。
「いいえ。そういうわけだから、気に入ったのならどうぞ」
「それはよかった。じゃあ、遠慮なくそうさせてもらおうかしら」
「お好きにどうぞ。ただ……」
エステルはそこで言葉を区切り、カトレアを見つめた。
「ただ?」
「いえ、少し意外に思ったの。あなたは、もっと違うタイプの男を好みそうだったから」
「そうね、自分でも意外に思っているわ。まあ、まだなんとなくいいなって感じているだけだけど」
「ふふ、気に入ったのならそのうち愛情に変わるかもしれないわね。とにかく、商売と彼についてはよろしくお願いするわ、カトレア」
エステルの言葉に、カトレアは片目を閉じてぺろりと舌を出し、悪戯っぽく微笑んだ。
野菜や果物をまとめて入れた袋を渡しつつ、シオスは軽く頭を下げた。
相手は近所の奥さん、マームだ。昔といっては失礼だが、シオスが親からこの店を引き継ぐ以前から買いにきてくれている常連であり、顔馴染みともいえる相手の一人である。
中年太りしているせいか、体つきがいいマームは袋を受け取りつつ、快活に笑った。
「いやねぇ。あなたのお父様からの付き合いなんだから、ここに買いに来るのは当然でしょ」
「ええ、それには感謝しています。中央に行けば、それこそもっと大きな店もあるというのに」
「あら、向こうで買っても対して値段は変わらないんだもの。だったら、近所のこの店の方がいいわ。それよりシオスさん。あなたもいつまで一人では大変でしょう? 早くいい人を見つけなさいよ」
中年ならではのお節介に、シオスは苦笑を浮かべた。
「生憎と、自分の世話だけで精一杯ですよ。とても妻なんか養えるほど稼いでいません」
中央ならそれくらいの稼ぎも可能だろうが、こんな町の端に近い場所ではそうもいかない。
「そう? 欲しくなったらあたしに言ってね。良い人なんていくらでも見つけてきてあげるから」
「ありがとうございます」
からからと笑って去っていくマームに、シオスは再び頭を下げた。
今年で二十九になるシオスは妻をもらってもおかしくはない歳だ。そうしないのは、自分で言ったようにとても養えるほどの稼ぎがないからに他ならない。
だったら中央に店を出せばいいじゃないかと思われそうだが、そこはそれ。
この店はシオスの父親が一世代で作り上げたもので、その苦労を子供の頃から聞かされていた身としては、安易に場所を変えるなどできなかった。
その父は病でこの世を去り、母親は店を開店した頃に離婚していた。それが理由というわけではないだろうが、父親の遺言は「立派な商人になれ」だった。
シオスはその遺言を忠実に守ったわけだが、店を引き継ぎ、商人としての人生を送ってみて、商才とは遺伝しないものだと痛感したものだ。
「どうでもいいとこだけは似てるんだがな……」
ひょろりと背が高く、それなのにそこに乗っている顔は童顔。温和そうなとこまで父親譲りで、実際に父はそれらを最大限に利用する一筋縄ではいかない商人だった。
そんな父の特徴を色濃く継いだというのに、肝心の商才は母の腹に置き忘れてきたというのがシオスだ。昔からの付き合いがあるご近所さんからは贔屓にしてもらっているおかげでなんとかやっていけているが、儲けているとは口が裂けたって言えそうもない。
一日の売り上げは悪くないし、月の合計だって赤字にはならない。しかし、自分以外の誰かを養えるほど儲けてはおらず、質素倹約でなんとかやっていけているのが現状だ。そんな男の下に妻としてやってくる女性などいるわけがない。
結婚なんてものは自分とは縁のないことだと切り捨てて、残りが少なくなってきている野菜の補充をしようと備蓄庫に足を向ける。そんなタイミングで声がかかった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
お客だと瞬時に理解した頭が応対の声を出し、次いで声の方を向く。そこでシオスは固まった。
そこにいたのは見慣れない女性だ。それも、ものすごい美人である。おかげで、反射的に背筋が伸びていた。おばさんといってもいいマームのような奥さま方なら問題なく相手にすることができるシオスだが、相手が若い美女となると話は変わってくる。なんというか、あがってしまうのだ。それでも無言でいるのは相手に悪いと思い、ぎこちなく声をかける。
「見ない顔ですね」
「数日前にこの町に来たの。ほら、この辺りは貸し家があるでしょ?」
「ああ、ディーノ君の」
貸し家と聞いて、シオスはすぐに納得する。
「ええ、そうよ。私はエステル。ご近所だから、これからはよく利用させてもらうわね」
そう言いつつ、彼女は人参とジャガイモ、苺を選んで持ってきた。
「このお店、あなた一人でやっているの?」
「ええ、そうです」
「大変ではないの? お手伝いもなし?」
「手伝いを雇えるほど、儲けていないんですよ」
自嘲的に笑うと、返事をした拍子にエステルの青い目と合った。海のような青に、一瞬心が引き込まれそうになる。思考が止まりそうになり、意味もなくエステルに視線を向けていると、彼女は可笑しそうに笑った。
「でも、恋人くらいはいるでしょう? あなたは人が良さそうだし」
「貧乏人と付き合ってくれるような女性はいませんよ」
これはほとんど本心だ。いくら相手がいい男であっても、お金を持っていなければ女は相手にしない。遊ぶにしても着飾るにしても結局のところお金は必要になってくるからだ。
もちろん、世の中の全ての女性がこの限りではないが、大多数を占めているのも事実だ。お金で愛は買えないが、金がなければ愛も得られない。難しいものである。
それを分かっているのかいなのか、エステルはクスクスと笑った。
「あら、なにもお金だけが全てではないでしょう。だからいずれ、あなたにも良い人が現れると思うわ」
「だといいんですけどね。まあ、現れたとしても養っていけないのでは意味がないでしょう」
「じゃあ、もしあなたが養う必要のない人が現れたら?」
「え?」
それは遠回しにエステル自身のことを言っているのだろうか。
確かにエステルならこちらが養う必要などないような雰囲気があるが、これほどの美人がシオスを相手にするはずもないだろう。実際、そう言ったエステルにはからかうような笑みが浮かんでいる。
「じゃあね。また来るわ」
支払いが済んだ野菜と果物を手にしていたバッグに納めると、エステルはシオスの返事を待たずに軽く手を振って店を出ていった。
それを呆然と見送りつつ、シオスはふと思った。
不思議な雰囲気の女性だ。意味深な言葉を残していったこともそれを強調している。
「養う必要のない人……」
彼女の言葉を繰り返してみるが、それがどんな人か想像もできない上に、そんな人物が自分と関わるとはとても思えない。
「からかわれただけかな……」
口にしてみると、その可能性が一番高い気がする。
自分なりに出した結論に苦笑しつつ、作業を再開する。
この日は他に変わったこともなく一日が終わった。
五日後。
客の訪れる時間のピークが過ぎて商品を補充し、シオスが少し時間を持て余していたところで、店の前に一台の荷馬車が止まった。
栗毛色の馬もそうだが、それに引かれた荷馬車も見事なもので、一目で高級なものだと分かった。少なくとも、自分の店に商品を降ろしに来てくれる行商人が乗っているものとは大違いだ。
ただ、そんな荷馬車でさえ、手綱を操っていた人物を見た途端に視界に入らなくなった。
御者台に乗っていたのは若い女性だった。歳の頃は二十代の前半から半ばといったところだろうか。
彼女は機敏な動作で御者台から下りてくると、シオスの前に立って軽く首を傾げた。その拍子に、淡い紫色の長い髪が揺れる。
「こんにちは」
「ああ、はい。どうも……」
先日会ったエステルに勝るとも劣らない美女を前にして、シオスの口からはつまらない挨拶しか出ない。
「はじめまして。私はカトレア。見ての通り、行商人よ」
本人が言うように、確かに見かけは行商人である。だが、彼女の容姿には疑問が残る。
綺麗な淡い紫の髪はふわりと柔らかそうだし、赤い瞳は磨き上げられた宝石のようだ。白い肌は滑らかで、若者特有の瑞々しさがある。それでいて、毅然とした佇まいからは品の良さが感じられた。正直、貴族の娘と名乗られた方がしっくりくるくらいだ。
そんなカトレアを前にして、シオスは緊張よりも先に気持ちが冷え込んでいく。エステルのように客として相手するならまだしも、同じ商人となると話は変わってくる。美人の色香に騙されて酷い目に遭った商人の話はそれこそ数えきれないほどあるのだ。油断していてとんでもない契約を交わしてしまっては、泣くに泣けない。
「シオスです。僕の店にどんな御用でしょうか」
「ちょっと売り込みをね」
売り込みと聞いて、シオスは咄嗟に返事をしていた。
「申し訳ありませんが、うちは仕入れる先が決まっていますし、変更する気もありません」
行商人が売り込みに来るのは何も今回が初めてではない。だからこそ、シオスもその対応の仕方は嫌というほど身についている。こういった連中は優しく断るとしつこく交渉してくるので、最初にぴしゃりと言ってやるのだ。
こういう時に限り、父親譲りの童顔は役に立つ。温和そうに見えるだけに、冷たく言われると取りつく島もないように感じられるとは同業者の談だ。
しかし、今回の相手は一味違うようだった。
「それはもちろんそうでしょう。ただ、結論を出すのは話を聞いてからでも遅くないと思うわ。あなたにとって、これは悪くない話なのだから」
これも聞き慣れた言葉だ。悪くない話といって、結局のところはこちらにうま味などない場合がほとんどなのだから。
「そこまで言うのなら、売り込みたい商品を見せて下さい」
シオスの店は野菜と果物を扱うので、売り込みに来るのもその類の商品となる。珍しいだけで美味しくないもの、美味しいが値段が高くて売れる気がしないものと、悪い例を上げれば切りがない。
だから、カトレアが見せてくるものが自分の知っている商品であったなら、シオスは躊躇うことなく断るつもりでいた。だが、カトレアはその言葉を待っていたとばかりに笑みを浮かべ、そして言った。
「どうぞ。遠慮なく見てちょうだい」
自信があるらしく、カトレアは荷台に綺麗に積まれた箱の一つをシオスの前に置くと、そこから覆いを取り払った。
箱の中身はハートの形をした桃色の果実だ。今が旬なのか、果肉を覆っている皮は艶があって瑞々しく、実に食欲をそそる。シオスも商人になって様々な野菜や果物を見てきたが、これは初めてだ。
「桃のように見えますが、少し違うみたいですね」
「トリコフルーツと呼ばれるものよ。この辺りでは採れないものだから、珍しいでしょう」
「確かに見かけない種類ですね。しかし、珍しいだけでは―」
買うつもりはない、と言うのをカトレアは手で制した。
「はいストップ。言いたいことは分かるけど、これは見かけ倒しの商品ではないの。ほら、食べてみて」
カトレアは箱に詰め込まれた果実の一つを取ると、シオスに手渡した。
実際に触れてみた感想は、思った以上に皮が薄いようだ。その分果肉はたっぷりあるらしく、見かけの通り瑞々しい手触りで、果汁もたっぷりと含んでいるに違いない。
しかし、そこまで思いつつもシオスはトリコフルーツを食べようとはしなかった。それだけでなく、渡された果実には目もくれずにカトレアを見つめる。
「疑い深いのね。でも大丈夫よ。私は大事な商品を食べたと言って、無理に売りつけるようなせこい商人ではないもの」
思っていたことを見事に言い当てられ、さすがにシオスも驚いた。この手の売りつけはよくあるのだ。勧められるがままに食べたのに、いざそうしたら食べた以上は買えと言ってくる強引な商人はそれこそいくらでもいる。
シオスはそれを警戒していたのだが、カトレアにはお見通しだったらしく、笑ってそれを否定した。
「僕としては、そう思いたいところですね。では、少し味見をさせてもらいます」
騙し騙されるのが日常の商人だ。女の商人というだけで油断ならないというのに、美人となるとどれだけ警戒してもし足りないということはない。
そう思いつつ果実を控えめに食べたシオスだが、その味が口に広がった瞬間、余計なことは頭から追い払われた。
見かけ通り、トリコフルーツは甘かった。しかし口内に広がったとろけるような甘さはくどくなく、いくらでも食べられそうだ。
ついもう一口食べようとして、ハッと手を止める。今が商談の真っ最中であることを思い出したのだ。
「いかがかしら」
勝利を確信したような笑みとともに尋ねてくるカトレアに、シオスは苦笑を返した。
「悔しいですが、見事な味です」
つい夢中になって二口目を食べようとしたのだから、反論のしようもない。
「それはよかった。じゃあ、買ってもらえるとみていいかしら」
「値段次第です」
そう言ってみたものの、シオスはよほどの高額でなければ買ってもいいと思っていた。今まで他の商人が売り込みにきた品はどれもぴんとこなかったが、これは違う。大して商才のない自分でも売れるとはっきり確信できる品だ。これをみすみす逃す手はない。
問題は、そこにつけ込まれて高値で買い取ることにならないかだった。いくら売れるといっても、そこに自分の利益が発生しなければ何も意味はない。仕入れ値が高ければ、売値は更に高くしないとこちらの利益にならない。しかし、利益を追求して売値を高くした結果、まったく売れないのでは本末転倒だ。
「そうね。この町の相場を考えると……」
カトレアは少し考えるようにした後、「銀貨で」と言いつつ指を二本立てて見せる。それを見て、シオスは感情が顔に出てしまったことを自覚した。
「安すぎますよ」
「あら、もっと吊り上げてほしいのかしら?」
そう言われては困ってしまう。しかし、本当に安すぎるのだ。果物なら大概は一箱で銀貨三枚から三枚半である。そんな相場において、この値段は破格だ。
「そういうわけではないんですけどね。あまりにも安いので、少し疑ってしまいます。まさか、実一つで銀貨二枚とは言わないでしょう?」
もしそうだったらシオスには完全にお手上げだ。この商談はなかったことにしてもらうしかない。
「もちろん一箱の値段よ。まあ、疑いたくなる気持ちも分かるけど、今回は初回サービスね」
悪戯っぽく笑うカトレアだが、シオスはつられて笑うようなことはしなかった。
「有難い申し出ですが、ついでに別の商品を買うような余裕はありませんよ」
後から言われても困るので、先に言っていく。これもよくある話で、どうです、これだけでなく他の商品も。こう言いつつ、別の商品もさり気なく買わせていくのだ。カトレアの荷台には他にも箱があるので、ついでとばかりに他の商品まで買わされてはたまらない。
しかし彼女は笑って首を振った。
「構わないわ。これだけに限って買いつけてくれてもね。あなたにも、本来の仕入れ先との都合があるだろうから」
意外に理解のある発言だ。売り込みに来る商人というのは、大概が得意先の地位を奪い取ろうとするのに、これは珍しい。もっとも、今はそういう態度を見せて、後々奪うつもりなのかもしれないが。
そんな可能性も十分にあるのだが、カトレアの表情からは何も読みとれなかった。
「買うのは一箱からでも?」
最低四箱からでないと受け付けないとでも言われれば、シオスはこの話をなかったことにするつもりだった。買い付ける余裕がないわけではないが、無理に買うと本来の仕入れに支障が生じる。
「もちろん。まとめ買いも受け付けるけど、そうでないと売らないとは言わないから、安心してくれていいわ」
購入単位について特に指定はないらしい。
最低限のことを聞き終えて、シオスはこの取引に問題点がないことを頭の中で確認する。そして最後に了承する頷きを見せた。
「では、二箱買うということで。支払いは現金でいいですか」
「ええ。商品はこちらよ。確認して」
カトレアは二つ目の箱を降ろすと覆いを取り、中身を見せてくる。そこにはきちんと熟したトリコフルーツが丁寧に納まっている。ざっと見ただけだが、痛んでいる品はなさそうだ。
「ああ、そうそう。ついでというわけではないんだけど、ちょっといいかしら?」
銀貨四枚を渡し、受け取った箱二つを備蓄庫に運ぼうとしてシオスは動きを止める。
「なにか?」
商談が成立し、支払いを済ませたところに本題を持ち込む作戦だったのだろうか。
懸念が顔に出ていたらしく、シオスを見てカトレアは苦笑を浮かべた。
「ああ、商売関係ではないから安心して。実はこの町に知り合いがいるのよ。だから、ちょっと挨拶に行きたいのだけど、少しの間馬と荷馬車を預かってもらうわけにはいかないかしら」
「ああ、そういうことでしたら裏に行って下さい。荷揚げ場がありますから」
「ありがとう。じゃあ、少しの間お願いするわ」
ひらりと御者台に上がると、カトレアは手綱を取って馬を歩かせ、荷馬車は角を曲がって消えていく。それを見送りつつ、シオスは首を捻っていた。
「不思議な人だな……」
商人である以上、腹の中を見せないのは当たり前だ。だから、そんな感想を抱くのもおかしくはない。だが、それを差し置いても対面したカトレアからは商人とはまた違った雰囲気が感じられた気がした。上手くは言えないが、先が見えそうで見えない白いカーテンを前にしたような感覚だ。真意が見えないとでも言えばいいのかもしれない。
「雰囲気に呑まれているだけかな……」
真意が見えないといえば、先日店に来たエステルからもそんな雰囲気を感じた。だが、シオスがそれを思い出すことはなかった。
大小様々な家が並ぶ通りは行き交う人々で賑わっていた。市民もいれば旅人もいて、そこを行く人は実に様々だ。
カトレアもそんな通りを歩いていた。彼女の容姿はすれ違う人のほとんどを振り返らせていたが、人の多い通りのせいか、その並外れた美貌に気づく人は少なかった。
カトレアはまるで体に油でも塗っているかのように人と人との間をするすると通り抜けて行くと、やがてある家の前で止まり、そっと扉をノックする。
「どちらさま?」
やや間を空けて扉が開き、顔を覗かせた彼女に、カトレアは微笑んだ。
「訪問販売よ」
売る物など一切持ち合わせていない手ぶらのカトレアだったが、それを見たエステルはうっすらと笑みを浮かべ、扉を完全に開け放った。
「どうぞ」
家へ入ると、カトレアは振り向き、エステルの目を見つめた。
「あなたがエステルでいいかしら?」
「ええそうよ。それにしても、よくここが分かったわね。私から会いに行くつもりだったのだけど」
「鼻と勘には自信があるの」
少し挑むような目つきになるカトレアに、エステルはくつくつと笑った。
「その説明で納得できてしまうから怖いわ。さすがは妖狐といったところかしら」
エステルが言ったと同時にカトレアの人化の術が解けていき、その頭には凛々しい狐の耳が、その腰からは四本の尻尾が音もなく現れた。いずれもカトレアの髪と同様、淡い紫の毛色だ。
「まさに妖孤と呼ぶに相応しい姿ね。どうぞ座って。飲み物は何がいいかしら」
「そうね。じゃあ、紅茶を」
注文を受け、エエステルはキッチンでてきぱきと用意を始める。その背に向かって、カトレアは言った。
「この香りはダージリンね」
エステルの手が止まり、顔だけが振り向いた。その顔は少し驚いたような表情だ。
「まだお湯を入れてないのに気づくとはね。自信があると言うのもあながち嘘ではないということかしら」
その表情に笑みが戻ると、エステルはティーポットにお湯を入れ、そこからカップに移していく。その過程でいい香りが漂い始める。香りはカトレアが言い当てたダージリンだ。
「疑ってるの? 私、嘘は言わないのに」
目の前に置かれたカップからさっそく紅茶を啜りつつ、カトレアはにこやかに笑う。それにつられるように、エステルも紅茶に口をつけた。
「ちょっと確認してみただけよ。あなただって、それに気づいていたから紅茶を選んだのでしょう。コーヒーではほとんど香りは変わらないものね」
カトレアの顔に悪戯っぽい表情が浮かんだ。
「ただの町娘にしておくのは惜しいわね。あなたも商人になったらどう?」
「目的を達成できるのなら、それでもいいのだけどね」
香りを楽しむようにゆっくりと紅茶を飲むエステルに、カトレアは肩をすくめた。
「あまり気が向かなさそうね。残念だわ。まあ、そっちは私が担当すればいいとして、そろそろビジネスのお話をしてもいいかしら?」
「ええ、もちろん」
本題に入ったからか、エステルはカップを置き、カトレアを見つめた。
「とりあえず、私の今の役目は流通ということでいいかしら?」
「ええ。詳しく言うと、必要な物資の用意を含めて、商売関係は全てお任せするつもりよ」
エステルの言葉に、カトレアはくつくつと笑う。それに合わせて四本の尻尾がわさわさと揺れた。
「人だけの町に魔界産の食べ物を流通させる、か。大胆なことを考えるものね」
「それほど大胆でもないでしょう。それとも、難しいかしら?」
「まさか。実をいうと、既に売ってきた後よ。あなたが目を付けたお店にね」
「さすがね。行動が早くて助かるわ」
「商人にとって、時間は貴重だもの。無駄にするつもりはないの」
カトレアは頬杖をついてエステルを見つめ、言葉を続けた。
「それで、どの程度まで流通させるつもり? とりあえず今日は虜の果実だけにしておいたけど、あなたが望むなら他の物も用意できるわ」
「そうね。あの店ならどれを置いても問題はないだろうけど、とりあえずは果物かしら。ただ、陶酔の果実は」
「全部言わなくても分かるわ。上の方の実だけ、でしょう? さすがに反魔物領の町で下の実を流通させたら、どこで魔物化の騒ぎが発生するか分からないものね」
「理解があって助かるわ。そういうわけだから、陶酔の実はまだ上の方だけにして。下側は時期を見て販売してもらうから」
「わかったわ。で、野菜ときのこ類はどうする?」
「その辺りはなしでお願いするわ。私達にとっては見慣れた物だけど、さすがに形が怪しまれないとも限らないから」
予想できた言葉だったので、カトレアはすんなりと頷く。
「じゃあ、当分は果物類だけね。で、それとは別に聞いておきたいのだけど」
「なに?」
「あなたはどうするの? 私が果物を流通させている間、何もしないというわけではないのでしょう?」
納得がいったらしく、エステルの口元が笑みの形になった。
「ああ、私のこと。そうね、考えているのは二つ。一つは情報屋。もう一つは酒場ね」
「その真意は情報を集めるため、かしら」
カトレアが指摘すると、エステルは敏感なところをくすぐられたように笑った。
「ええ。何をするにしても、分からないことだらけでは対処のしようがないもの。私の考えはこんなところだけど、商人さんの意見は?」
「その二つ以外に考えていないのなら、後者をお勧めするわ」
「それはなぜ、と聞いてもいいかしら」
「情報屋は才能と人脈が必要になるからよ。加えて、提供される情報の真偽を確かめないといけない。まあ、あなたならそれもできそうではあるけど。酒場で話される会話も胡散臭いものだけど、酔った人は意外と本音を漏らすものだから。あなたならそれを引き出すくらい簡単でしょう?」
エステルの笑みが妖艶なものに変わった。
「さすが商人さんね。意見を求めてよかったわ」
「参考になったのならよかったわ。じゃあ、私はそろそろ行くわね」
「あら、もう行くの? もう少しで苺のケーキが出来あがるのに」
意外そうに目を見開くエステルに、カトレアはふと微笑を見せた。
「商人は時間を惜しむ生き物なのよ。ケーキはまたの機会にさせてもらうわ」
人化の術で再び人の姿になったカトレアは名残りを惜しむ素振りもなく玄関に向かう。しかし、ふと何かに気づいたように振り向いた。
「そうそう。聞き忘れていたけど、彼にはもうつばを付けてあったりするかしら?」
カトレアの言わんとすることはすぐに分かったらしい。エステルの口元に楽しそうな笑みが浮かんだ。
「いいえ。そういうわけだから、気に入ったのならどうぞ」
「それはよかった。じゃあ、遠慮なくそうさせてもらおうかしら」
「お好きにどうぞ。ただ……」
エステルはそこで言葉を区切り、カトレアを見つめた。
「ただ?」
「いえ、少し意外に思ったの。あなたは、もっと違うタイプの男を好みそうだったから」
「そうね、自分でも意外に思っているわ。まあ、まだなんとなくいいなって感じているだけだけど」
「ふふ、気に入ったのならそのうち愛情に変わるかもしれないわね。とにかく、商売と彼についてはよろしくお願いするわ、カトレア」
エステルの言葉に、カトレアは片目を閉じてぺろりと舌を出し、悪戯っぽく微笑んだ。
14/06/07 16:40更新 / エンプティ
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