連載小説
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リリムと終わらない物語 〜君想う声〜
どこまでも続く暗闇だった。
ミリアと出会うまではほとんど毎日のように見ていた夢。
彼女と別れてからはろくに眠れないせいか、こうして少しも休めない眠りに落ちると当然のように再来する。
後ろを見ても、前を見ても夜のような闇が広がっているだけ。
俺の歩んできた人生そのもの。
どれだけ進んでも、その先に光はない。
永遠に続く夜の道だ。
いつからこうなったのかはわからないが、これでいいと思っている。
俺には、太陽の光の下を歩く資格などないのだから。
それでも、思い出したように後ろを見た。
どれほどの距離が続いているかもわからない闇の向こうで、ミリアと過ごしていたあの頃だけは、俺の上にも太陽があったのではないか。
もう戻ることはできないが、それでも暗闇の向こうで確かにそれは存在するはずだ。
だから、もうそれが見えずとも十分だった。
笑って前を向く。
一度でも光の下にいられたというだけで、この先に進むことができる。
そして一歩を踏み出した。


「っ」
眩しさを感じて目を開けると、日の光が当たったステンドグラスが色鮮やかに輝いている。
それを見上げたところで首に痛みを感じ、小さく呻いた。
思わず首に手を当てようとするが、自分の今の状況を思い出して嘆息する。
両手両足が十字架に拘束されているのだ。
足元には今まで使っていた剣が供物の如く置かれている。
一昨日の昼にこの支部に到着し、昨日からこの状態だった。
どのような刑に処すか話し合うようだが、結論は決まっているのだから無駄なやり取りというものだろう。
目覚めた頭がつらつらとそんなことを考えていると、俺から見て正面に位置する扉が音を立てて開き、一人の男がするりと入ってきた。
男はこちらを見ると、そのまま真っ直ぐにやってくる。
見事な金髪を僅かに揺らし、翡翠のような目は強い意思を宿している。
それらを有する整った顔は誰が見ても平民ではないと一目でわかる。
実際、貴族の三男坊とのことだ。
変わらないな……。
久しぶりに見た親友に、そんな感想を抱いた。
「十字架に磔にされるのはどんな気分だ、グレン」
「首が痛いとだけ言っておこう」
目の前まで来た親友は笑ってやれやれとため息をついた。
「思ったより元気そうだな。急いで帰還した甲斐はあったようだ。こうしてお前と会話をする時間が取れたわけだしな」
「急いで帰還か……。ああ、そうか。俺を裁くのはやはりお前か、ライナス」
「わかっていたのか。私が執行者では不満か?」
そんなわけはないと首を振ってみせる。
「そんな気がしていた。俺に対する裁きは、お前が行うだろうとな……」
ライナスの顔から笑みが消え、真剣な面持ちになった。
「答えてくれ、グレン。なぜ裏切った?お前のことだ。魔物に魅了されたというわけではないだろう?」
そうではないとわかっている顔だった。
親友の妙な信頼に、口元が緩む。
ミリアという太陽にこれ以上ないくらいに魅了されているのだから、どう答えたものか。
「俺は、人形ではいたくないからだ」
「……どういう意味だ」
俺がはぐらかそうとしていると判断したのか、ライナスの声が険しくなる。
「指示を受け、その場に出向いて魔物を殺す。そこに俺達の意思はない。ただ、言われたことをこなすだけ。魔物を殺すという目的を果たすだけの存在。まるで操り人形だ。それが俺達勇者なのだと。それに気づいたから、俺は教団に背いた」
「確かに勇者の行動だけを見ればそれは事実だが、意思がないわけではないだろう。皆、人のために戦っている。それは私達個人の意思に違いないはずだ」
「なぜ戦う必要がある」
「わかっているだろう。魔物は邪悪な存在だと」
「それが、教団の欺瞞であるのにか?」
ライナスが驚いたように俺を見た。
疑問が確信に変わる。
「……その様子では、お前は知っていたようだな」
隠しようがないと悟ったのだろう。
ライナスは苦しそうに目を閉じた。
「ああ……。魔物の本質は教団に入った直後に教えられた」
「やはりそうか。では、教団側が勇者それぞれに魔物の本質を教えるか否かを判断しているわけか」
「そうなる。魔物の本質を知っても、勇者として行動できるかどうかで判断するのだろう。そして、お前は知るべきではないと判断された。私も、それが妥当な判断だと思う」
「よって俺はなにも知らないまま、魔物を殺し続ける人形になったというわけか。そしてお前は真実を知りながら、黙っていた」
ライナスの顔が辛そうに歪んだ。
「……隠していたことはすまないと思っている。私の判断は間違っていた。結果として、お前がこんなことになるのだからな」
「お前の判断を責めるつもりはない。真実を知ったら、俺は間違いなく勇者を辞めていただろうからな」
「やはりそうしたか」
苦しい判断だったことはわかる。
だから、親友を責める気にはならなかった。
「……お前は優しすぎるんだ。知らなければ問題なく敵を討つことができる。しかし、真実を知ればそれはできなくなるだろうとわかっていた。だから言えなかった」
「もういい。過ぎたことだ」
そう、全ては過ぎたこと。
今更どうこう言ったところで過去が変わることはない。
「……ここへ戻ってきたのは罪に対する罰を求めるため、か?」
さすがに長い付き合いなだけあって、俺の考えはお見通しらしい。
「ああ……。彼女達を殺めてしまったこと、お前達を裏切ったこと。全ての罪を償うためにな……」
「魔物を殺すことは罪ではない。向こうは、存在そのものが罪なんだ。お前は勇者として当然のことをしたにすぎない」
「それは違う。彼女達の存在は罪ではない。存在が罪だと言うのなら、それはきっと俺達だ。勇者などという肩書きを免罪符に彼女達を殺す。そんな俺達の存在こそ、罪そのものだ」
「違う!」
我慢ならないように、ライナスが声を張り上げた。
「私達勇者は全ての人々を守る存在だ。お前もかつてはそうだったはずだ。守るべきものが国から人へ、戦う相手が人から魔物へ変わった。それだけのことだ」
「彼女達は誰一人として争いなど望んでいない。俺達勇者が必要とされた時代は遥か昔に終わっているんだ。魔王が変わったその瞬間に」
「終わってなどいない。今の魔王は魔物の性質を変化させただけにすぎない。昔のように魔物による殺害こそなくなったが、代わりに繁殖のために人を必要とするようになった。しかし、魔物から人は生まれん。よって、このまま魔物が増え続ければ、人はやがて滅びてしまう。枝葉が変わろうと、木の本質は変わっていない。だから私達勇者が必要なんだ。全ての人を守るために」
ライナスは本当に変わらない。
いつまでも真っ直ぐなままだ。
それが少し嬉しく、そして悲しい。
「どこまでも平行線というわけか……。なら、これ以上の会話は無駄だな。早くその腰の剣で斬ってくれ。いつまでも俺を苦しめるな」
ライナスの顔が険しくなった。
「お前は、まだ生きていたいとは思わないのか?」
「長生きだけが幸せではないだろう?どこまでも続く夜の道で、俺は太陽に出会うことができた。だから、もう十分だ」
そう言うと、ライナスは顔を俯けた。
俺の意思は変わらない。
それを悟ったのだろう。
再び顔を上げた時、そこには悲しそうな笑顔があった。
「お前は変わったな……。いや、変わってしまった。もし、お前が今回のことを後悔し、反省しているようなら、私は処刑だけは取り止めるよう申し開きをするつもりだった。だが、その必要はなさそうだな……」
言い終わると同時に、ライナスは表情を改める。
能面のように無表情になり、感情を感じさせない声で静かに告げた。
「刑の執行は午後の四時だ。約束の時間にまた会おう。そして、その時は永遠にお別れだ……グレン」
そっと踵を返し、ライナスが離れていく。
親友がここから出て行こうと扉に手をかけた時、その名を呼んだ。
「ライナス」
振り向いた友は変わらず無表情のままだ。
しかし、それでも構わない。
「俺の命を背負うのが、お前でよかった」
他人の命というのはとても重い。
背負っているからこそ、それがわかる。
だから、俺の命を引き受けてくれる相手が親友なのはきっと幸運なことだ。
ライナスはそこで小さく笑った。
まるで、雑談を楽しむように。
「親友だからな。お前の命は私が背負う。ずっと背負っていく」
目礼すると、ライナスは出ていった。
それを見届けると、満足のため息が漏れ出た。
やっと終わる。
暗闇を進むだけの人生が。
これで赦してほしい。
そう思ったが、すぐに思い直した。
いや、赦さなくていい。
それくらい、俺は多くの魔物を殺した。
だから、赦してほしいのはたった一人だけだ。
「ミリア……」
ほとんど無意識に呟いてしまう。
傍にいないことで、その名を口にすることで、よりはっきりと愛しい人なのだと気づかされる。
それに対してどうにもできない自分にため息が出てしまう。
「俺が勇者でなかったら、君は俺を見てくれたか……?」
ここに来る前に彼女の親友へと尋ねた問い。
まったく無意味なことをしたと思う。
その答えは他人に聞かずとも、俺自身が誰よりもわかっていたのだから。
きっと見向きもされなかった。
皮肉な話だ。
勇者だったからこそ見てもらえたのに、勇者だったが故に傍にいられない。
本当にままならないものだ。
諦めたように笑ってステンドグラスを見上げた。
それは変わらず光り輝いていることから、今日も晴れているのだろう。
幸せになってほしい。
太陽の下にいる彼女のために、そう願った。


今日も晴れのようだ。
今日も変わらない一日がやってきた。
私一人の一日が。
グレンはもういないのに、一日は律儀にやってくる。
今日が終われば明日、次は明後日。
ぼんやりとそんなことを考えていると、胸に空いた穴から切なさが零れ出てくる。
その穴はルカがなんとか埋めようとしてくれていたが、応急処置にしかならなかった。
そのせいか、ここ最近ルカは家に来ない。
ただ、それはルカが悪いわけじゃない。
誰が悪いわけでもない。
ソファに横になると、幾分かそれが紛れた気がした。
体が石のように重い。
石像へと戻る時のガーゴイルもこんな気分なのだろうか。
静かに時間が過ぎるのを感じながら、自分の身体に意識を向ける。
魔力をほとんど失い、枯渇間近な私の身体は動かすのにも多大な労力を要求してくる。
このままだったら、私はどうなるのだろう。
魔物にとって魔力は必要不可欠だから、それを失えば行き着く先は一つしかない。
いくらリリムであっても、それは変わらないはずだ。
ただ、色褪せた日々が続くなら、それでもいいかと思えてしまう。
「我ながら馬鹿ね……」
まったく馬鹿な考えだ。
自嘲気味に笑うと目を閉じる。
少し寝よう。
寝不足だから、そんな馬鹿なことを考えるのだ。
時間はちょうど正午になるところだし、今日は昼寝日和だ。
眠気はまったくないが、それでも目を閉じていればいずれは眠れるはず。
意識を闇に沈めようと目を強くつぶる。
しかし、それを遮る出来事が起こった。
乱暴に玄関の扉が開き、誰かが家に入ってきたのだ。
「ミリア、いる!?」
慌てた様子のルカが姿を現した。
「ルカ……。どうしたの?」
「あんたに大事な話をしに来たのよ」
「大事な話?」
ルカが慌てていた気配を嘘のようにすっと引っ込めたので、興味を惹かれ、体を起こした。
「あんた、いつまでそうしているつもり?」
「最近、なまけ心がついているだけよ。いつもと変わらないわ」
「どこがよ!」
唐突に叫ばれ、思わず背中を丸めた。
「普段はアタシなんか比べ物にならない魔力を持っているあんたが、今はアタシの半分もない!それのどこがいつも通りだって言うのよ!」
ルカは目の前まで来ると、逃がさないとばかりに私の両肩を掴んで続けた。
「あいつのことが忘れられないんでしょ!?あんたが助けて、あんたにはなにも与えなかったあいつが!あいつを忘れられないせいで、満足に精も得られない!いつまで誤魔化すつもりよ!」
「誤魔化してなんかないわ。それに、なにも与えてくれなかったわけじゃない。彼は思い出をくれたもの」
「違う!思い出は思い出よ!そこには懐古の悦しか存在しない!あんたが欲しかったのは、そんなものじゃないでしょ!?」
私の肩を掴む手に、力がこもった。
真剣な眼差しが少しもずれずに見つめてくる。
「あいつのこと、好きなんでしょ!?だったら手に入れなさいよ!変な理由をつけて諦めようとするんじゃない!あんたは、もっとわがままを言っていいのよ!」
「わがままを言うほど子供じゃないわ。それに、理由をつけて諦めたわけじゃない。彼のことを考えた結果、別れることが最善だっただけ」
「それを諦めてるって言ってんのよ!」
ルカの顔が辛そうに歪み、俯いた。
「あんたは、優しすぎるのよ……」
今までの勢いが嘘のように小さな声だった。
だからこそ、余計によく聞こえた。
「優しすぎる……?」
ルカは力なくうなずく。
そして再び顔を上げた。
その目には、今まで見たこともないくらいに強い光が宿っていた。
「相手の事情を考えて、自分の望まない選択をする。それはきっと、最上位の優しさよ。それを悪いことだとは言わない。けど、今はその優しさが、あんたの本当の想いを封じ込める楔になってる!だから……外してあげるわ……!」
そこで一呼吸置くようにルカは私から手を離した。
そして続けた言葉は、まるで知らない言語のように聞こえた。
「今日、ネルエド教団支部でグレンが処刑されるわ」
「え……?」
ルカがなにを言っているのか、全くわからなかった。
しかし、時間を置いて頭にゆっくりと言葉が染み込んでいく。
それがなにを意味するのかようやくわかった時、口からぽつりと言葉がもれた。
「なんで……」
「あいつは自分の意思で教団に戻ったのよ。最後にあんたに出会えたから幸せだったって言ってね」
つまり、私が理由を与えてしまった……?
最後に満たされたから。
残るのは自身の償いだけ。
でも、私はそんなつもりじゃなかった。
「なんで……どうして……」
「知らないわよ!男なんてみんな馬鹿!馬鹿の考えることなんて、アタシにはわからない!けど、これだけはわかる!これは、あんたの望む結末じゃない!そうでしょ!?」
顔が勝手にうなずく。
それを見届けると、ルカはすっと表情を真剣なものに変えた。
「選びなさいミリア。このままあいつを死なせてやるか、あんたが自分の想いを優先するか。心が感じるままに動いて。それがあんたの答えなんだから」
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
それは、空いてしまった穴から溢れ出た彼への想い。
ずっと一緒にいたいと願い、伝えられなかった気持ち。
それが身体中に行き渡った時、自然と立ち上がっていた。
「やっと素直になれたわね。それが、あんたの答えなんでしょ?」
「……わがままを言うのって難しいのね。でも、これだけは譲れそうにないわ」
ルカはふと顔を綻ばせ、声なく笑った。
つられて私も笑う。
「あんたが笑うところ、久しぶりに見たわ。ほら、これ」
差し出されたのは、見覚えがある濃い青の液体が入った試験管。
たしか、ルカが作った魔力を回復させる薬だ。
しかし、それは受け取らなかった。
「せっかくだけど、それはいいわ。今の私は自業自得だから」
「なに言ってんのよ!これから教団支部に行くんでしょ!?そんなぎりぎりの魔力じゃ、せいぜい転移魔法二回が限度じゃない!」
恐ろしいほど正確な見立てに、苦笑するしかない。
確かにそれくらいしか私に魔力は残っていない。
「往復の分があれば十分よ。ネルエド教団支部だったわね。ちょっと行ってくるわ」
魔力を使って普段着をいつもの装束へと変化させると、受け取る気はないとわかってくれたらしい。
ルカはものすごく嫌そうな顔で試験管をしまった。
「まったく、あんた達、似てるわ。他人の好意を大人しく受け取らないところが特にね」
嫌みっぽく言うルカだが、すぐに呆れるような笑みを浮かべた。
「じゃあ、もういいわ。ほら、行きましょ」
さも当然のように言われた言葉は、理解するまで少し時間がかかった。
「ルカ……一緒に来てくれるの?」
「はあ?」
そう言った途端、ルカは胡乱な目になった。
そしてすぐに「これだからこの子は……」とぶつぶつ呟く。
私が訳もわからず見つめていると、ルカは仕方なさそうに続けた。
「あんた、アタシ達が初めて会った頃のこと、覚えてる?」
「ええ」
忘れるわけがない。
ルカが出した求人から生じた出会い。
それが今は親友と呼べる仲になっているのだから。
「アタシの記憶を勝手に覗いたあんたに言ったわ。アタシになにを望むのかって。あの時あんたが言った言葉、覚えてる?」
「ええ。幸せになってほしい。私はそう言ったわ。今もその気持ちは変わらない」
「アタシが一緒に行く理由も同じよ」
「同じ?」
復唱すると、ルカは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
「幸せになってほしい。そう願っていいのは、あんただけじゃないでしょ?」
「え……」
少し戸惑う私に、ルカははっきりと告げた。
「アタシがあんたの幸せを願っちゃいけないの?」
本当に驚いた。
それくらいルカの言葉は胸に響き、心が震えた。
「ルカ……」
どんな返事を返していいかもわからず、私は目を見開くだけ。
ルカはそんな私の手を取った。
「アタシはいつだってあんたの味方よ。だから、あんたが今するべきことは、あの馬鹿を助けること。準備はいいわね?行くわよ」
そう言った直後、私達の足元でいつの間にか展開されていた魔法陣が光を放った。


荘厳な、という表現がぴったりだった。
神聖な場所であることを強調するように、どの建物も白い壁で覆われている。
ネルエド教団支部を正面から眺め、そんな感想を抱いた。
「ここにグレンが……」
「のん気に見てる場合じゃないわ。調べさせたところじゃ、処刑の時間は午後ってことしかわからなかったの。そのことさえ今日になってわかったくらいだから、時間に余裕はないわ。手遅れになる前に急ぐわよ」
「っ!」
時刻は既に午後になっている。
つまり、いつグレンが処刑されてもおかしくないのだ。
「そうね。急ぎましょう。まずは彼がどこにいるかを調べないと」
「その点は手を打ってあるわ。とりあえず正面突破よ。あんたはアタシについて来て」
言ったと同時にルカは走り出した。
正面突破というお世辞にも作戦とは言えないような行動だが、ルカの考えに任せようと判断し、その後ろに続く。
教団への門では見張りの兵二人がこちらを認めて武器を構えようとしていたが、ルカが素早く右手を払うと青白い風が二人を直撃し、彼らは悲鳴とともに崩れ落ちた。
しかし、その声が他の者の耳に聞こえたのだろう。
何人かが門の近くに集まってくるのを目が捉えた。
それは向こうも同じで、厄介なことに一人が警笛を鳴らした。
教団内の空気がざわつき、あちこちから慌ただしい足音が聞こえ出す。
「さっそくばれたみたいだけど、どうするつもり?」
「ばれた方が好都合よ。全部計画通りだから、心配ないわ」
走りながら、ルカは左手に小さな水晶を取り出した。
「聞こえる?急いで合流地点に向かいなさい!アタシ達もすぐに行くから!」
「ルカ、誰と連絡してるの?」
「すぐにわかるわ!ッ邪魔よ!」
ルカは行く先に現れた数人の兵を先程と同じように容赦なく薙ぎ払う。
しかし、敵は前方だけではない。
背後から聞こえる足音に振り向けば、何人もの兵が後を追って来ている。
「まずは陽動ということ?」
「半分正解」
くるりと振り向いたルカは魔力を込めた右手を殴るように地面に叩きつけた。
ノーム程ではないが、地形を操作する魔法だ。
地面がみるみるうちに変化していく。
ある所は陥没し、またある所は隆起して追手の進行が不可能な地形へと変わった。
つい数瞬前まで整備されていた敷地が変わり果てた光景になり、その向こう側では怒声や罵声が聞こえるが、ルカは素知らぬ顔で走り出した。
最も大きな建物を迂回するように走り、裏側に回る。
地形を変えられて回り道をしているせいか、建物の裏側にまだ兵の姿はない。
そこを突っ切り、裏庭と思われる場所に出たところで一人の兵が立っていた。
ここで再び警笛を鳴らされたら稼いだ時間が台無しになると思い、私も催眠魔法を使おうとする。
しかし、ルカが一瞬早く叫んだ。
「待ってミリア!」
手で合図すると同時にルカは兵の傍へと走っていく。
どういうことだろうと思いながら同じように近づき、そして納得した。
「時間通りですね。さすがルカさんだ」
兜を脱ぎ去ったことで現れた顔は、情報屋の彼だった。
「当然よ。それより、きちんと調べたんでしょうね?」
「もちろんです。これがこの支部の見取り図です。現在地がここで、彼が捕らえられているのはこの建物ですね」
取り出した見取り図を広げ、ルカに手早く説明していく。
「アタシ達がここか。つまり、ここから少し先の右の建物ね」
「はい。ここを真っ直ぐに行けば、本堂から伸びる渡り廊下が右手に見えてきます。その廊下の先にある建物の二階に彼はいます。ただ、気を付けて下さい。彼のいる建物は入り口が一つしかない。追い込まれると厄介です」
「ふん、それはアタシにとって好都合よ。とりあえず、あんたはローハスに送るわ」
「あ、待って下さい」
そこで彼は私を見た。
「ミリアさんでしたね。必ず彼を助けて下さい。彼は、こんな所で死んでいい存在じゃない」
「グレンを知っているの?」
彼は曖昧に笑った。
「知っていると言えるほどではありません。一度会ったことがあるだけです。その時、彼は言っていました。教団は硝子の檻なのだと。あの時は意味がわかりませんでしたが、今ならわかる。彼はずっと、勇者という見えない鎖で囚われていたんですね……」
「そうでしょうね……。けど、それは今日で終わりよ。彼を檻の中で死なせてあげるつもりはないもの」
「そろそろ話は終わりにして。時間がないわ」
焦れたルカが口を挟み、情報屋の青年はうなずいた。
ルカが右手を払い、彼の足元に魔法陣を展開させる。
光とともに彼を送ると、ルカは見取り図をしまった。
「あいつの所までもう少しよ。急ぎましょ」
うなずくと同時に再び走り出し、少し進むと話にあった渡り廊下が見えてきた。
その先には屋根に十字架を取り付けた教会のような建物がある。
「あれね……!」
ルカがそう言った時だ。
渡り廊下を挟んで反対側から、続々と教団兵が現れた。
「いたぞ!」
大声と警笛の音が耳に響く。
ここに来て邪魔されるわけにはいかない。
「駄目よ!あんたは魔力を温存しときなさい!アタシがなんとかする!」
重力魔法で一網打尽にしようとしたところで、ルカから鋭い声が飛んできた。
「でも、あれだけの人数だとさすがに面倒だわ」
「わかってる!あーもう!ザコのくせにわらわらと!ミリア、構わず建物に走るわよ!」
どんどん増えていく兵を見るに、そうした方がよさそうだ。
兵士達には目もくれずに走る隣りで、ルカはぶつぶつと詠唱を始める。
そしてすぐにそれは放たれた。
「鬱陶しい!」
気合いの入った掛け声とともに、続々と姿を見せる兵士達に向けられた右手から閃光が走る。
なにも起こらないのように見えたのは一瞬のこと。
すぐにそれは現れた。
両手で抱えなければ持てそうにない程の大きさの岩が、炎を纏って次々に飛来し始めた。
私の記憶が正しければ、これは旧時代の殲滅魔法だったはずだ。
「ルカ、そんな危ない魔法を……!」
「威嚇するだけよ!当てる気はないわ!」
ほとんど無作為に見えて、意外と落下地点をコントロールできるらしい。
兵士達から離れた位置に落下しては、派手な轟音とともに爆発して粉塵を巻き上げている。
しかし、当たれば重傷は確実だ。
現に、いくつか直撃した渡り廊下は無残な瓦礫の山になり果てている。
人に当ったら大変なことになるという不安は残るが、威嚇という意味では最適かもしれない。
「今のうちよ!」
辺りが土煙で覆われたのと同時に私達は建物の中へと飛び込んだ。
内部の構造はそこまで複雑ではないようで、すぐに螺旋階段を見つけ、それを上る。
階段を上りきった先は広い回廊が一直線に伸びていた。
そこを走り抜け、曲がり角が見えてきたところで、いつの間にか取り出した見取り図を眺めていたルカは急に足を止めた。
「どうしたの、ルカ?」
「アタシが一緒についていくのはここまでよ。この先に部屋は一つしかない。つまり、そこにあの馬鹿がいるわ。で、あいつを助けるのはあんた一人の仕事。そうでしょ?」
突然のことに思考が遅れた。
「ルカ……」
それはつまり、ここに残るということだろうか。
情報屋の彼の話では、入り口は一つしかない。
なら、教団兵は確実にここに来ることになる。
心配が顔に出ていたのだろう。
ルカは呆れ顔で笑った。
「なんて顔してんのよ。心配しなくても、背後はアタシに任せなさい。あんたはただあいつの所に行けばいいの」
「違うわ。私が心配しているのは」
「いいからさっさと行く。アタシがここまでしたんだから、これで助けられなかったなんて言ったら怒るわよ?」
それでもと思ってしまう。
これではルカを使い捨てにするようなものだ。
そんな私の内心を見抜いたらしい。
ルカはため息をついた。
「アタシがそんなに信用できない?」
「違うわ。私は」
「じゃあ、行動で示して。次にあんたが取る行動が答えよ」
遮るように言ったルカは真剣な表情で見つめてくる。
それは不思議な魔力でも有しているかのように、私の足を前方へと向けさせた。
「それでいいのよ」
「ごめんなさい、ルカ……」
「そこは謝るとこじゃないでしょ?」
わかりきっていることを言わせるなとその顔が語っていた。
「そうね……。ありがとう……」
「礼はあいつを助けてからにして。ほら、行きなさい」
留まりたい気持ちがしぶとく残っている。
ルカなら大丈夫だとは思う。
しかし、親友を一人置いていくという行為が胸を痛める。
それでも、ここで行かなければ、ルカに対する裏切りだ。
後ろ髪を引かれる思いだが、それでも走り出した。
この先に彼がいる。
後ろは振り返らなかった。


ミリアの背中が遠ざかっていく。
そしてその姿が角を曲がって見えなくなると、くるりと後ろを向いた。
がちゃがちゃとうるさい複数の金属音が階段から聞こえる。
それに顔をしかめつつ、服の内側から青い液体が入った試験管を取り出す。
栓を抜いてその中身を飲むと、消費した魔力が湧き上がってくる。
同時に、向こうも到着したようだ。
「いたぞ!こっちだ!」
野太い声が階下に向かって叫び、さらに下では警笛が鳴り響いた。
すぐにぞろぞろと増援が回廊に姿を現す。
その数が三十を超えたあたりで、アタシは数えるのをやめた。
揃いも揃ってご苦労なことだ。
冷めた目で見ていると、数が揃ったことでどうにかなると踏んだのだろう。
威勢のいい声で怒鳴ってきた。
「もう一匹はどこにいった!?」
答えてもらえると思っているのだろうか。
馬鹿らしくて無視していると、怒鳴った年長の男の顔が険しくなった。
「答えないところを見ると奥か。では、貴様はここで消えるがいい!」
そいつが合図をすると、他の兵が武器を構えた。
仕方ないから、アタシも準備はしてやる。
「あんた達を行かせるわけにはいかないわ」
空になった試験管を投げ捨て、溢れ出す魔力を両手に集中させる。
それは円盤のように回転を始め、不自然な放電音を放ちながら大きさを増していく。
やがてその大きさはアタシの身長ほどになり、ばちばちと雷が爆ぜる音は回廊によく響いた。
ここにきて、ようやくアタシが普通ではないと気づいたらしい。
何人かが恐れたように後ずさった。
「ひ、怯むな!相手は一匹だ!」
そう言った隊長らしい男も半ば気後れしているようだったが、自分の言葉に鼓舞されたらしく、きっと目に力が宿った。
他の兵にも気力が伝わったのか、それぞれが武器を構え直す。
味方の士気が回復したのを見て、隊長らしい男が高らかに宣言した。
「かかれ!」
鬨の声とともに、何人もの兵が我先にと向かってくる。
「あの子の邪魔はさせない」
ミリアが幸せを掴むように。
そう祈りながら右手を払った。
解放された魔力が雷を纏った暴風となって回廊を走る。
そして白い閃光が兵士達を残さず飲み込んだ。


回廊に響く音に轟音が混じった。
思わず引き返したくなるが、それをこらえて前方に見えた扉に走る。
ルカなら大丈夫。
そう言い聞かせ、一際見事な装飾を施された扉に手をかけた。
重厚な音とともに扉が開いていく。
そこから先は、なにを目的に作られたのかよくわからない部屋だった。
奥行きは私が今通ってきた回廊の半分といったところだが、天井は見上げるほどに高い。
左右に立ち並ぶ柱の上にはステンドグラスが組み込まれ、神殿と聖堂を複合させたような趣きとなっている。
しかし、礼拝のための長椅子などは一切ない。
あるのは、部屋の奥でそこだけ高くしたと思われる祭壇に十字架があるだけだ。
その十字架に磔にされた格好で彼はいた。
顔を俯けている上に、ステンドグラスを通過して射し込む光のせいではっきりとは見えないが、それでも見間違うはずがない。
扉の音が耳に届いたのだろう。
彼がゆっくりと顔を上げ、その青い目がこちらに向く。
続けてその顔に驚きが走り、目が見開かれた。
「ミリア……?」
既に懐かしいとさえ感じる声に、体の奥で魂が震えた。
その振動はすぐに体へと広がり、たまらない愛しさが込み上げてくる。
それを声に出さないようにするのは、今の私にはとても難しかった。
「久しぶりね……グレン」
彼はまだ私がここにいることが信じられないのか、驚いた表情で固まったまま、ぽつりと言った。
「なぜ……ここに……」
「わがままを言いに」
直後、グレンの顔が歪んだ。
「それは……」
もうしゃべらないで。
そう言って、彼の胸に飛び込みたかった。
その腕で抱きしめてもらいたかった。
だが―。
「話は後にしましょ。怖い人が見ているから」
そこでようやく視線を横に向ける。
今まで事の次第を黙って眺めていた男は組んでいた腕を解いた。
歳はグレンとそう変わらないようで、まだ若い。
整った顔と綺麗な金髪から、育ちの良さが感じられた。
唯一、その翠の目だけが冷たい光を放っていた。
「そうだな。その辺りにしてもらおうか」
「ライナス……」
ライナスと呼ばれた青年はゆっくりと私とグレンの間に移動を始めた。
「この場にいるということは、あなたが彼の処刑者かしら?」
「騒がしいから何事かと思っていたが、まさか魔物が乗り込んできていたとはな。目的はグレンか?」
私の問いに答える気はないらしく、淡々と尋ねてくる。
しかし、この場で答えないということは肯定したも同然だ。
「あなたには関係ないことよ」
「関係ないか。それはこちらのセリフだな。グレンは私の親友だ。堕落へ導くのはやめてもらおうか」
「親友……」
改めて目の前の男を見つめる。
ではこのライナスこそがグレンの言っていた親友であり、また同じ勇者ということになる。
それだけに理解できない。
この場にいるということは、彼はその手で親友に死刑を執行するということだから。
「なら、あなたは親友をその手で殺すというの?」
「そうさせたのはお前達だろう」
「責任転嫁ね。そうすると決めたのはあなた達でしょう」
ライナスは冷ややかに笑った。
「所詮は魔物だな。自分達の都合の悪いことには目を向けようとしない。私がこの手で友を殺すことになった原因はグレンが教団を裏切ったからだ。では、グレンが裏切った大元の原因はなんだ?お前達だろう。お前達魔物が存在したから、今の状況がある。自分達に責任はないと言うのなら、一体どこにあると言うのだ」
弁解の余地はないし、聞くつもりもない。
彼の身に纏う空気がそう語っていた。
「なにを言っても聞いてはくれなそうね……」
「ああ、これ以上話すつもりはない。グレンの魂を浄化しなくてはならないからな。その邪魔となるお前には消えてもらおう」
ライナスが腰へと手を回し、鞘から剣を抜き放った。
できることならグレンの親友である彼とは戦いたくないと思っていたが、そう都合よくはいかないらしい。
「ごめんなさい、グレン。あなたの親友、倒させてもらうわ」
愛剣を取り出しつつそう言うと、グレンは辛そうに顔をしかめた。
状況が許すならその顔を笑顔にしてあげたいが、そんな時間はなかった。
「倒されるのはお前だ、リリム!」
気合いの声とともに床を蹴り、ライナスが動いた。
緊迫した空気を断ち切るように剣が閃く。
それを愛剣で受け止めた瞬間、予想以上の衝撃が私の手を襲い、体勢を崩された。
「っ!?」
予期せぬ事態に驚く私へ再びライナスの剣が襲ってくる。
最初の一撃は素早く払われた割に、ほとんど全力で振り抜いたかのような威力だった。
見たところ、ライナスは身体を強化する類の魔法は使っていない。
だとしたら、あれは剣によるものだろうか。
仮にそうだとしたら、受けるのはまずい。
咄嗟にそう判断し、その場から飛び退いて彼の剣を避ける。
十分な距離を取ると、様子を見るためか、ライナスは追撃はしようとせずに動きを止めた。
「その剣、特別なものみたいね」
ライナスの表情が僅かに不快そうなものになる。
「一撃で見抜くとは、さすがリリムといったところか。そうだ。この剣は威力を上げる効果が付与されている。おかげで、勇者でなくては扱えないがな」
ひゅんと音を立てて剣を構え直し、再びライナスが動いた。
対抗策を考える暇は与えまいと、一気に距離を詰めてくる。
彼の腕が煙り、剣が払われる。
正直、あの剣は厄介だ。
先程の一撃を受けた時にわかったが、魔力が底を尽きつつあるせいで体に本来の活力がない。
万全の状態なら、あの剣が相手でも遅れを取るようなことはなかった。
しかし、今の私にはあの剣を受け止めるだけの力が発揮できない。
よって、相手の剣の軌道を読み、それを受け流すしかなかった。
剣と剣がぶつかり、すごい衝撃が手に走るが、どうにかその軌道を逸らすことに成功する。
ライナスとしてはそれが予想外だったのか、今度は彼が距離を取った。
「そんな技術も持ち合わせているとはな。少し過小評価していたようだ」
「何事も経験よ。覚えておくといいわ」
言いつつ、セリエルに徹底指導してもらってよかったと内心ほっとする。
「魔物に師事されるつもりはない」
体勢を沈め、地面を滑空するようにライナスが走った。
私の目前で体を捻り、鋭い突きが繰り出される。
戦い慣れている。
彼の動きを見てそう思った。
普通に斬りかかったのでは受け流されると判断し、すぐに攻め方を変えてきたのだ。
斬るのであればまだしも、突きはその範囲が狭く、剣で受け流すことは難しい。
鎧さえ貫きそうな突きを紙一重で避けるが、直後に横薙ぎへと攻撃が移行するのを見て私は顔をしかめた。
受け流されるのなら、それをできない、もしくは受け流しきれないようにすればいい。
ライナスはそう判断したのだろう。
迫る剣をなんとか受け流すが、ライナスの攻撃は終わらない。
突きと払いを織り交ぜた猛攻が開始され、私は防御に徹するしかなかった。
反撃に出ようにも、彼の攻撃の一つ一つが必殺の威力を持っているのだ。
あの剣を使っている本人は当然それをわかっているから、隙のない攻撃を続けるだけでいい。
それだけで、私が攻めに転じる機会はないに等しかった。
局面は確実にライナスへと動いていた。
かろうじて捌けてはいるが、この調子ではいつ決定的な一撃が私を襲うかわからない。
状況を打開するために、残り僅かな魔力で魔法を使おうかという考えが頭をよぎる。
そして、そう思ったのは私だけではなかった。
「聖なる剣よ。悪しき者に裁きを」
剣を振る手を休めることなく、ライナスが魔法を唱えていた。
彼の背後に光り輝く十本の剣が出現する。
その剣先が私に向くと、光剣は動き出した。
私を取り囲むように縦横無尽に位置し、絶妙な時間差で矢の如く飛来する。
エアリスも使っていた魔法だから、初見ではない。
敵を貫く、至って単純な魔法だ。
しかし、彼女はここまで器用な使い方はしなかった。
それをこうも上手く操れるライナスは、間違いなく勇者としての実力が高いのだろう。
そのライナスの猛攻に加えて、飛来する光剣にまで意識を向けるのは、今の私には不可能だった。
飛び交う光剣の間を縫うように動き、続く彼の突きを避けたところへ、間髪入れずに最後の光剣が絶妙なタイミングで向かってきたのだ。
ライナスの連撃に気を取られていた私は、それに気づくのが遅れた。
頭が判断するのと体が反射的に動いたのは同時だった。
直撃は避けようと後ろに倒れるように体を傾かせたところで、光剣が私の左肩を捉えた。
光の剣は予想以上の威力で、私の肩をいとも簡単に貫通して床に突き刺さる。
「っぅ!!」
貫かれた左肩に激痛が走り、声にならない。
体中の血液が逆流するように傷口へと集まり、どんどん流れ出る不快感に襲われる。
「ミリア!!」
遠くでグレンの叫ぶ声が聞こえたが、そちらを見る余裕はなかった。
ライナスだけが冷めた表情でこちらを見ていた。
「外したか」
「当ってるわよ……」
左腕が力なく垂れた。
傷口から溢れた血が左手を伝ってぽたぽたと床に落ちる。
肩が熱いのに、そこから先の左腕はどんどん冷たくなっていく。
急な失血によって目眩が引き起こされ、体がぐらりとふらついたが倒れるのだけはなんとか耐えた。
どう甘く見ても軽い怪我ではすまない。
治癒魔法を使えば完治させることは可能だが、残り少ない魔力を使うことはためらわれた。
左腕はもう駄目だが、幸いなことに体はまだ動く。
これ以上の重傷を負った時のことを考え、止血するだけに留めて魔力は温存するしかない。
「胸を貫くつもりだった。肩では当ったと判断しないな」
有効な一撃を与えたというのに、ライナスの顔にはなんの感情も窺えない。
しかし、続けて響いた声にその表情が変わった。
「ライナス!もうやめろ!」
初めて聞いたグレンの怒声。
それに対して、ライナスは辛そうな笑顔を見せた。
「普段はろくに感情を出さないお前が、そこまで怒るとはな……。そんなにこのリリムが大事か?」
「ミリアは俺の命の恩人だ!それ以上手を出すな……!」
ライナスの表情に影が差した。
「そうもいかないだろう。私は勇者で、向こうは魔物。しかも、魔王の娘だ。災いの芽は摘まなくてはならない」
言ったと同時に床を蹴り、ライナスが肉薄する。
このまま押し切るつもりらしく、容赦のない剣撃が連続で放たれる。
「くぅっ……!」
状況は最悪だった。
今の体の状態ではライナスの剣を捌くのに限界がある。
加えて、剣を撃ち合せる度に伝わる衝撃が傷を刺激し、その都度激痛が左肩を中心に発生する。
その痛みが集中力を確実に削いでいく。
この分だと、長くは戦えない。
自分の体である以上、その限界はある程度わかっている。
左腕はすっかりその感覚が麻痺したようで、変わらず血が垂れているのに、その感触が少しも伝わってこない。
そうなって、この状況を打開できるかもしれない可能性にようやく気づいた。
今の私の状態では分の悪い賭けだが、もうそれしかないように思えた。
痛む傷口のことは頭から閉め出し、なけなしの魔力を右腕に集中させると、ライナスの剣の軌道目がけて愛剣を振り下ろした。
うるさいほどの金属音が響き、強烈な衝撃が剣を伝って体に走る。
「っ……!」
腕が痺れるような衝撃と生じた激痛に襲われ、剣を落としそうになる。
これほどの代償を払ったのだから、結果にも期待したいところだが―。
ライナスの方へ視線を戻せば、今まさに剣が振られるところだった。
それをぎりぎりのところで回避し、距離を取る。
剣を振れるということは、失敗だったのか。
そう思った直後だ。
初めてライナスの顔が歪んだ。
続けて彼の右腕がだらりと垂れる。
「リリム、貴様、なにをした……!」
「衝撃を与えて腕の神経を麻痺させたのよ……。しばらくすれば治るわ……」
「ッ!小賢しい真似を……!」
忌々しそうに睨み、ライナスは右腕から左腕へと剣を持ち換えた。
どうやら目論見は上手くいったようだ。
しかし、まだ決着がついたわけではない。
彼が剣を持ち換えて構えたように、私も息を整えると剣を構えた。
「片腕同士、そろそろ決着をつけましょう……。勇者と、魔王の娘の……。次の一撃で最後よ」
「……いいだろう」
私と彼の間の緊張間が異常なまでに高まり、その圧力から空気が震えているように感じる。
この土壇場で頼るのは、セリエル直伝の剣技。
一撃で相手を麻痺させ、戦闘不能にできるあの技だ。
ライナスを殺さずに戦闘不能にするにはそれしかない。
問題はきちんと撃てるかだ。
絶妙な力加減に加えて、胴体の一点に寸分違わず撃ち込まなくてはならない高度な技なのだ。
万全の状態なら余裕でも、今の私ではそれができるか怪しい。
頭はくらくらするし、体は熱と痛みで尋常ではない気だるさを訴えている。
それでも撃たなくてはならない。
しかし、意思に反して剣を持つ手には力がほとんど入らない。
意識が集中できない。
これが最後なのに。
これさえ終われば、グレンと一緒にいられるのに。
淡い期待を込めて、縋るように視線をライナスから彼へと向ける。
目が合った。
青い目は微動だにせずに、私を見ていた。
心配そうな顔で、その唇が動いた。
声はなかった。
それでも、彼がなにを言ったのか伝わってきた。
ミリア―。
心にはっきりと私を呼ぶ彼の声が聞こえた。
それだけで、不思議なくらいに気持ちが落ち着いていく。
視界が鮮明になっていき、剣を持つ手に力が蘇ってくる。
これなら。
視線を目の前の勇者へと向ける。
不気味なくらいに静かな部屋で緊張感だけが高まっていく。
そして、どこかでかちりと音がした時、荘厳な音色で鐘が鳴り響いた。
それを合図に、私とライナスは揃って飛び出した。
互いに最後の一撃を見舞うべく剣を振りかぶり、終わらせるという思いを込めて振り抜く。
その瞬間、姉からの贈り物である愛剣が体の一部になった気がした。
不思議な感覚に導かれるように腕を動かす。
そっと、払うように。
意識だけが加速し、体がついてきていないのだと理解した時、剣に手応えを感じた。
「ぐっ……!」
呻くような声が聞こえたと同時に、目の前のライナスが崩れ落ちた。
その左手から剣が滑り落ちて床に転がる。
それを見て、ようやく決着がついたのだと理解した。
長い息を吐き、背筋を伸ばす。
「ごめんなさい。彼だけは譲れないのよ……」
体を痙攣させながら睨んでくるライナスにそう告げると、彼の下へ向かう。
久しぶりに向き合ったグレンは少しやつれているように見えた。
「グレン、無事ね……?」
「俺はなんともない。それより君の方が……」
その目が私の肩に向けられる。
確かに私の方が満身創痍かもしれない。
だが、もう痛みはなかった。
痛いという感覚すら麻痺してしまったらしい。
「あなたを失うことに比べたら、こんな傷は大したことないわ」
右手だけでなんとか十字架の拘束具を外すと、グレンはすぐに私の左肩に手を当てた。
「グレン?」
「じっとしていてくれ。すぐにとはいかないが、傷を治す」
彼の手から温かいものが流れ込んでくる。
目をつぶってそれを受け入れていると、やがて左腕の感覚が戻ってきた。
冷えていた芯が温まるように内側から熱が生じ、凍ったように動かなくなっていた指に行き渡る。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
動くようになった左手を肩に置かれた彼の手に重ねる。
久しぶりに感じる彼の手の温もりがとても温かく、顔が綻ぶ。
しかし、グレンの表情は固いままだ。
「教えてくれミリア。なぜここに来た。これは俺が望んだことだ。君も、それを理解してくれたのではないのか?」
「そうね。確かに私はあなたが一緒にいられないと言った理由を理解している。だから言ったでしょう。わがままを言いにきたと。ここに来た理由は一つだけ」
重ねた手に力を込める。
「私にはあなたが必要だからよ」
グレンが目を見張った。
そのまま辛そうに顔が逸らされる。
「だが、俺は……」
小さな声に動揺が混じっていた。
もう苦しまないでほしい。
そんな思いを込めて、彼の手を強く握る。
「私のために生きて、グレン」
グレンの目が全てを拒絶するように閉じられた。
「……ずっと夜の道を歩いてきた。永遠に夜のまま、どこまでも続く闇の道だ。俺は多くの魔物の命を奪ってしまった。だから、このまま夜の闇に消え去っても構わないと思っていた」
そこで、グレンの目が見開かれた。
さっきまでの辛そうな色はなく、優しさを帯びた青い目が真っ直ぐに私を見る。
「だが、今は消えたくない。君が必要としてくれるなら、俺はまだ生きていたい。それが、変わらぬ夜の道であったとしても」
「一緒に歩いて行きましょ。二人なら、きっとどこまでも行けるわ」
直後、金属が擦れる音がした。
グレンと揃ってそちらを見れば、剣を杖代わりに立とうとするライナスの姿があった。
「グレン……!それが、お前の選んだ道なのか……!」
「ライナス……」
グレンは少し寂しげな表情を見せた後、足元に置いてあった剣を拾い上げた。
「……ああ、そうだ。例え、お前に剣を向ける日がくることになってもな。だから……」
青い目が親友を見つめ、静かに告げた。
「これでお別れだ……」
「グレン……!」
体重のかけ方が悪くなったのか、剣が滑り、ライナスが再び崩れ落ちる。
しかし、グレンはもうそちらを見なかった。
「行こう」
「もういいの?」
「ああ……。あいつが、いつか自分の間違いに気づいてくれることを願っている。今はそれでいい」
彼がいいのなら、もうここに用はない。
なんとか温存できた魔力で転移魔法を発動しようとした時、ふと目がそこにいった。
開け放たれた扉の先には、回廊へと続く通路が見える。
その通路の壁に腕を組んで寄りかかり、こちらを見ている親友がいた。
遠目だが、怪我をしている様子はない。
私のために、足止めをきちんとこなしてくれたのだ。
こうしてグレンを助け出せたのも、全てはルカのおかげだ。
大切な親友にはいくら感謝してもし足りない。
「ありがとう、ルカ……」
私の言葉は恐らく聞こえなかっただろう。
それでもルカは呆れたように肩をすくめて笑った。
今まで見たなかでもとびきりのと言っていいくらいに優しい笑顔だ。
ありがとう。
心の中で再び礼を言うと、今度こそ転移魔法を使ったのだった。
13/08/28 23:42更新 / エンプティ
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